『1日でめぐる僕らの人生』5
『Our Life in a Day』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2020年09月07日~)
チャプター 13
午前0時~午前1時
ハッピー・ニューイヤー!なんて気分じゃない!
2015年1月 ― カビーザ、サフォーク
「ハッピーニューイヤー!」ニールはそう叫ぶと、景気よくコルク栓を開けて、細長いクリスタルカットの7個のグラスにシャンパンを注いでいった。
全員が立ち上がった。キスやハグや握手があちこちで取り交わされている。その間に、ニールは中庭とリビングを隔(へだ)てている大きなガラス窓を引き開けて、外の空気とともに新年を迎え入れた。スポットライトに照らされた真夜中の芝生は、うっすらと霜が降り、白く光っている。友人たちも続々と窓辺に近づいてきて、新年の空気をみんなで仰(あお)いだ。彼の妻のカリンが再生ボタンを押すと、ワイヤレススピーカーから『蛍の光』が流れ出す。
トムだけは大きな灰色のソファに座ったまま、暖炉の中で燃える薪(まき)を見つめていた。誰かが異変に気づいて、声をかけてこなければいい、と願っていた。まあ、みんな相当酔っ払っているから、周りのことなど眼中にないだろうが。
1時間ほど前から発作の兆候を感じていた。すぐに例の症状だとわかった。こうして地元の友人たちとつるむのはかなり久しぶりだったから、そもそも一人だけ、赤の他人が交じったように、浮いていた。
まず、そわそわと落ち着きがなくなり、居心地が悪くなり、数分間でさえ何かに集中することができなくなった。そして、ニールの家のキッチンの壁が自分に迫ってくるような閉塞感(へいそくかん)にとらわれた。酒など一滴も飲んでいないのに、どこか酔っ払ったような、めまいのような感覚に完全に包囲され、
胸の中では心臓がバクバクと高鳴り、
最悪の事態が迫っていることを告げている。
一刻も早く逃げなくては...
彼は、オークの木材でできた大きなコーヒーテーブルに視線を移した。ワインや、スピリッツや、ミキサーなどが置かれている。手を伸ばし、ノンアルコールのビールを一口すすったが、口の中が酸っぱくなっただけだった。もっと違う何かを、全身がしきりに求めていた。
奇妙なことに、そんな必死な自分を、ああ、このパターンね、と、一歩引いて眺めている自分もいた。いったん遠くへ離れた惑星が軌道に乗って戻ってくるような感覚。だんだんと夜寝付けなくなり、気分が落ち込んできて、絶望からの救いを求める声が大きくなる感覚。風邪や頭痛のように周期的にそいつはやって来るが、風邪や頭痛のように簡単に消え去ってはくれない。昔聴いていた懐かしい歌のように、体内に根付いてしまったかのようだ。日ごとに、どんどん僕を下げるエレベーター。どこまでも下がり続け、一向に地上には到達しない。
周りの世界で、手を伸ばせば自分の支えになってくれるはずの、形ある物が次々と消えていく。急に落とし穴が目の前で開き、そこに落ちないように立ち止まりたいが、意志とは無関係に足が一歩を踏み出し、僕は落ちていく。恐怖、吐き気、動悸。穴を落ちながらドミノ倒しの駒になったように、不快なパレードを見せられ、理性的な思考や論理は徐々に失われていく。
問題は、まだしらふの状態で、まだ自分を一応客観視できている状態で、どうやってここから抜け出せるかだ。そんなことが可能なのか?
今回は周りに大勢の人がいるところで、やって来やがったか。地元の友人たちに自分の失態をさらすかもしれないと思うと、恥ずかしい。自分の体なのに、自分でコントロールが利かなくなった状態をみんなに目撃されてしまうのか。
『蛍の光』が2番に入り、意識を音楽に向けた。あいまいな2番の歌詞をもごもごと口ずさんでいると、エズミーが、一人だけみんなに合流していないトムに気づいた。
「大丈夫?」と、エズミーがトムの横に腰掛け、顔を覗き込むように、そっと声をかけた。
年が明けてまだ10分も経っていなかった。新たな年がこんな風に幕を開けたことが、不本意でならない。
「あんまり」
「そっか。気分が悪いの? 何か食べたせいかな」と言って、彼女は手の甲を彼の額に押し当てた。外気に触れていた彼女の手は、ひんやりと冷たかった。「ああいうのは食べない方がいいって言ったでしょ―」
「違うよ」とトムは言った。「ひたひたと感じるんだ...」不完全な言葉が口をついて、着地点を失った。
「何を感じるの?」
「もう帰った方がいいって」と彼は、泣きそうになるのを堪(こら)えながら言った。
「でも、今新年になったばかりだし―」
「帰らなきゃまずいんだよ」とトムは声を荒げた。
すかさず、エズミーは彼の手をつかむと、彼をソファから引きはがすように引っ張った。
「わかったわ」と彼女は言い、彼の手を引いたまま、すたすたと玄関へ向かった。そして、パーティーに参加している誰にも説明することなく、外に出た。「もう大丈夫よ」
二人は手をつないだまま、ニールの家を後にした。―彼の家は昔納屋(なや)だった建物を住宅用に改築したもので、彼は気取って「ヴァンハータロ」と名付けていた。フィンランド語で「古い家」を意味するらしいが、彼はフィンランドに縁もゆかりもなかった。―二人が乗ってきた赤の日産マイクラが、砂利の敷き詰められた私道に止まっている。
トムが運転席に乗り込むと、エズミーが玄関に駆け戻るのが見えた。僕らが家を出るのを追ってきたらしいアナベルが玄関前に立っていて、彼女たちは二言三言(ふたことみこと)言葉を交わしてから、エズミーは車に戻ってきた。
「彼女はなんて?」とトムは切羽詰まった声で聞いた。
「何も」とエズミーは答えた。「そういえば、あなたのコートを置いてきちゃったわね。取ってこようか―」
「いや、戻らなくていいよ」とトムは言って、車のエンジンをかけた。バックで砂利をタイヤに絡(から)ませながら公道に出ると、彼は両親が住んでいる実家のあるローストフト方面へ向かった。とはいえ、息もきれぎれ1マイルも運転すると、パニックに陥(おちい)りそうになり、彼は震える腕でハンドルを切り、路肩に停車した。大きく深呼吸しながらしばし休憩を取る、ということを1マイルごとに繰り返しながらの走行になった。
「トム、どうしたの? 言ってみて」とエズミーは、冷静になろうと声を抑えながら言った。
「なんでもないよ」
「なんでもないわけないじゃない、トム。お願いだから言って。何かあったの?」
彼女はトムの腕に手を当てようとしたが、トムはそれを払いのけた。
「オーケーオーケー。じゃあ、私が運転を代わろうか?」
トムはそれにも答えずに、ただ大きく深呼吸を繰り返していた。
「家に帰りたい」
「そうね、ダーリン。もうすぐそこでしょ―」
「実家じゃなくて、ホームに帰りたいんだ」
「ロンドン?」
トムは荒く呼吸を続けながら、うなずいた。
「そっか。でも、今は真夜中よ―」
「わかってるよ」彼は目尻に涙を浮かべ、息を荒げ肩を震わせながら、苦しそうに声をしぼり出した。
「じゃあ、今からでも帰りましょ、トム。あなたがその方がいいのなら、真夜中だってロンドンまで帰れるわ」とエズミーは、彼のパニックを中和するように冷静さを保ちつつ、穏やかな声で言った。「それとも、今夜はご両親の家に戻って、明日、今度は私が運転するから、一緒にホームに帰りましょ。あなたが望むならね」
「たぶん」と彼は言った。「それがいいかも」
10分後、ようやく呼吸が落ち着いたトムは、車のキーを回しエンジンをかけると、あと20分もすれば着くはずの両親の家へ向けて走り出した。
くすぶっていたものがパチパチとかすかな痛みに転じたのは、あと1週間もすればクリスマスという頃だった。それから2週間ばかりずっと気分が晴れなかった。外に出たくなかった。ロンドンの家にこもっていたかったのに、こうして実家のある地元に帰ってきてしまった。周りに人がいると落ち着かない。ずっとそわそわしていた。クリスマス当日の午前中、恒例の〈寒中水泳イベント〉でビーチに行っても、26日の〈ボクシング・デー〉にパブで家族と食事をしていても、ずっと気分は落ちたままだった。
でも今日までそのことについて、一言も言わずにきた。黙っていれば、見て見ぬふりをするように、この憂鬱な気分は消え去ってくれるかもしれない、と淡い期待を抱いていた。僕を巻き込む激しい嵐ではなく、気まぐれな通り雨のように、パッと視界が開(ひら)けて、気分も晴れるのではないか。そう、今回のこれも、頭上を通過するだけの雨雲なのだ、と。
これまでトムは、ロンドンの家を離れることに不安を感じても、「ちょっと気分が悪いだけ」と自分に言い聞かせ、やり過ごしてきた。―今回は「ちょっと」ではないかもしれない。なぜこのような怖いくらいの強烈なうつ状態にとらわれているのか、自分でもその理由がわからないまま、トムは、子供の頃の寝室に閉じこもるように、かろうじて体を動かせるほどの小さなベッドでうずくまっていた。エズミーと彼の両親は、彼が部屋にこもって仕事をしているのだろうと思い、わざわざ邪魔をしに入ってきたりはしなかった。
この2週間ばかり、トムは自分が感じていることを隠し通してきた。気持ちを偽(いつわ)って人と接することは、びっくりするほど簡単だった。―自分でも怖くなるほど簡単だった。
そんな中でも、すべてが間違っている、という感覚から逃(のが)れられずにいた。
こんなことが起こるはずはないのだ。
だって、僕は今幸せなのだから。
もう何年も、この感覚から遠ざかっていた。エズミーのおかげだ。彼女の存在が壁となり、そんなものは寄せ付けなかったのだ。それが孤独感であれ、不安感であれ、自己嫌悪であれ、彼女がそばにいてくれさえすれば、どんな負の感情も声を上げられないほどに、僕らはハッピーだったはずなのに。
それがなぜ、すっかり変わってしまったのか?
大晦日から新年に替わる夜、ニールの家のソファにじっと座ったまま、自分の周りで世界がザーッと閉ざされていくような感覚に襲われた。なぜこんなことが起こるんだ? と僕は、その理由ばかりを探し求めていた。僕は馬鹿だった。理由などありはしないのに。
理由なんて求めたって、何の役にも立たないのに。
車を20分ほど走らせたところで、トムの両親の家に到着した。真夜中だったがリビングでは、両親の他に、彼の叔母や叔父も集まって、なごやかに談笑していた。トムとエズミーを迎え入れた彼らは、新年のキスや握手を求めてきたが、彼女が彼をかばうように、彼の寝室へそそくさと連れていった。今のトムにとって、人との触れ合いは一番避けたいことだったのだ。
トムが服を脱いで布団に潜り込むのを見届けてから、エズミーは電気を消し、何も聞かずに廊下に出ると、後ろ手でカチャとドアを閉めた。
一人になった彼は、しばらく真っ暗な天井をぼんやりと見つめていた。数分後、部屋から離れるエズミーの静かな足音が聞こえ、廊下を少し進んだところで彼女に声がかかった。母親だ。彼女は何かがおかしいと気づいたのだろうか? 気づいていたはずだ。トムがみんなを無視するなんて普段なら考えられない。普通なら、真っ先にダイニングルームに入り、テーブルに残されたチーズやクラッカーをパクパクとつまみ食いするはずなのに、さっさと寝室に引っ込むなんてトムらしくない。クリスマスから新年まで、どこかよそよそしい感じだったのもトムらしくなかった。そのことを一番よく知っているのは母親だ。
「どうしたの?」と彼女がエズミーに聞いた。
「わかりません。急に彼の様子が...おかしくなったんです。ニールの家にいたんですけど、突然ふさぎ込んでしまって」
「ちょっと様子を見てこようかしら―」
「やめておいた方が。明日になったらたぶん。今は彼を休ませてあげましょう」
「何も起きてないんでしょ? お酒も飲んでないのよね」
「飲んでいません。なぜなのか、私にもさっぱり。パニック発作か何かのようでした」
「ああ、なんてこと」母親の涙声が廊下をつたって聞こえてきた。母親がすすり泣くように声をしぼり出している。「またこんな状態に逆戻りなんて...」それを聞いて、トムはパニックに陥(おちい)りかける。今のこの状態がそうなのか、と、彼は思う。この状態を、母親はエズミーに何と説明するのだろう?
「なにか」とエズミーが言った。「なにか私が見逃してることはありませんか?」
「そうね...」母親は憤(いきどお)ったように言った。「彼の悲しみね」
悲しみ。トムはその言葉について考えた。母親は昔からそう呼んでいた。うつ病と言い切ってしまった方が正しいのだろうが、母親はその言葉を使うのを避けてきた。彼が大学を中退し、症状が最悪だった頃の記憶が蘇る。忘れることなんてできるわけがない。何度でも蘇ってくるのだ。僕はダイニングルームで、家族団らんの場で仁王立ちし、母が泣いている横で、姉がやめて!と懇願する中で、何度も繰り返し、その言葉を叫んでいた。うつ病、うつ病、僕はうつ病なんだろ! 母親のベッドサイドのテーブルの下に、うつ病や不安障害に関する、大量にプリントアウトされたオンライン記事を見つけた時には、ひどくみじめな思いがした。他にも、NHS(国民保健サービス)のカウンセリングのパンフレットや、図書館から借りてきた精神疾患に関する本が何冊も積み重ねてあった。トムは同時に、父親の苦しみや善意も忘れられなかった。父親は気まずい思いをしながらも、なんとかトムに話して聞かせた。何を話せばいいのか父親自身よくわかっていないようで、それがいっそう痛々しかった。
「悲しみ、ですか?」とエズミーが言った。
「実はね、今回は違うかもしれないって、私は思っていたのよ。あなたは彼に、とても良くしてくれたわ。あなたと一緒なら、うまく行くんじゃないかって...」アンは失望したように声を落とした。「彼はずっと良い状態だった。もう...10年近くも、なんともなかったんだけどね―」
「アン、ごめんなさい」とエズミーが言った。「あなたの仰っていることが私にはよくわかりません。もっとはっきりと―」
「うつ病なのよ」とアンはやや声を荒げて言った。「これでわかった? もうこんなこと私に言わせないでちょうだい、エズミー」
それから、しばしの間、沈黙が続いた。トムはエズミーがどんな顔をしているのか想像していた。すべてを納得するように、うなずく彼女の顔が目に浮かぶようだった。恋人が、一緒に暮らしている男が、やっかいなものを、こんな病気を抱え込んでいたことを、彼女はとうとう知ってしまった。
今までずっと、そのことを知らされてこなかったことにも、彼女は気づいてしまったのだ。
トムは布団の中で丸まって目を閉じた。耳だけはドアの向こう側へそばだてていた。母親はどこまで彼女に打ち明けるのだろうか。翌朝、僕が自分で彼女に伝えなければならないことは、どれだけ残っているのだろうか。ベッドサイドのテーブルの上から、1980年代に買った分厚い目覚まし時計の赤い数字が、彼の顔をほのかに照らしていた。00:47。
「トムはうつ病なんですか?」とエズミーが静かに言った。
再び沈黙が訪れる。今度はさっきより長く感じた。
「ああ、エズミー」とアンが言った。「私はてっきり...」
「初めて聞きました。彼はそんなこと一度も」
「一度も?」と母親が言った。驚きがこもっていた。目を見開く母親の顔が見えるようだ。
「10年経ったってどういうことですか?」とエズミーが問い詰めるように言った。
「私の口から言ってもいいものかどうか―」
「アン。私には知る権利があるわ」
「トムはしようとしたの...」彼女は話そうとした。しかし、その言葉は簡単には出てこなかった。以前、母親がその病気を理解し治療法を探すために、彼に理由を聞いたことがあった。その時も、母親が直接的な言葉を避けていたのをトムは思い出す。
「彼は自分を...傷つけようとしたの」
「自傷行為? リストカットとか?」
「いいえ」
「自殺?」
「エズミー、言い方を考えてちょうだい」と彼女はおろおろしたように、声を震わせた。
「いつのことですか?」
「彼があなたに会う前よ。あの春は2回目だった。それで―」
「2回目? いつ...」
聞き耳を立てていたトムは、エズミーの頭の中でピンッと、ひらめく音が聞こえた気がした。彼女の中で瞬く間にすべてがつながったのだ。それは太陽を覆う雨雲のように、エズミーの視界を暗く覆ってしまうものだった。二人でオックスフォードに行った時、学生寮で彼は挙動(きょどう)がおかしかった。彼女の30歳の誕生日パーティーの時、パブの外で会ったジョン。彼がずっとお酒を避けて生活していたこと。すべてのピースがカチッとはまって、新たなトムの人物像を浮き彫りにした。
「大学で」と彼女は言った。「それは大学で起こったことなんですね」
「ごめんなさい、エズミー」と、母親は今では大粒の涙を流しながら言っていた。「私は本当に、彼があなたにもう話したと思っていたから。あなたにちゃんと話すって、彼は約束してくれたのに」
それが母親の最後の言葉だった。その後は、二人が抱き合っているような、洋服同士がこすれ合う音がして、鼻をすする音が聞こえた。誰かが階段をのぼってくる足音が後に続き、「どうしたんだ?」という父親の声がかすかに聞こえてきた。それから、ドアの取っ手を回す音がして、カチャッと開いたドアからエズミーが中に入ってきた。
「トム」と彼女が言った。彼は頭を枕に押しつけるようにして、眠り込んでしまいたい、と願った。嫌なことだけすっぽりと忘れてしまいたい。
「ごめん」と彼は諦めて言った。
彼女は彼の寝ているベッドの上に腰を下ろした。そのまま彼女が何らかの愛情表現をしてくれることを必死で望んだ。肩に手を置いてほしい。頭にキスしてほしい。しかし、何も来なかった。
「ほんとにごめん、エズ」
「トム」とエズミーは言った。目覚まし時計の赤い表示が大きく変わり、1年の最初の1時間が終わったことを告げた。「何も隠さず、すべてを話して」
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〔チャプター 13の感想〕
最近(というか前から)、トムやダッシュが経験したことなのか(つまり、異次元の記憶なのか)、藍が現実(らしき)世界で経験した記憶なのか、あいまい...笑
トムの感情とぴったりシンクロして訳せるのは、やっぱり藍しかいない!←ダッシュの時もそんなこと書いてなかった?笑笑
うつ病ってバレたから、これはもう別れることになっちゃうかな?←10年間は別れないんでしょ?笑←それが理由ってことにしたくないから、別れる時期をずらすのかも、なんてね!笑(それにしても、小説の良いところは、顔がはっきりとは見えないことだよね。いくら藍が想像力豊かでも、鮮明には見えない。よって、「顔でしょ?」って結論にはならない。現実はその一言で説明ついちゃうから...泣)←お前もうつ病だろ!爆笑
あるいは、エズミーによるカウンセリングが終わった時、彼女は去っていくのかな?
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チャプター 14
午前1時~2時
一人で物思いにふける
2015年2月 ― スタンステッド空港、ロンドン
場内アナウンスが、さらなる遅延を告げた。彼女が乗っている飛行機の到着予定時刻がまた変わり、今度は午前1時10分に到着予定だという。彼は硬い金属製の椅子に腰掛け、スマホを取り出した。彼の周りには3、4人の人がいて、みんな同じように表情を曇らせている。深夜にもかかわらず、愛する人を迎えに来た心優しき待ち人たち。この分だとろくに睡眠時間も取れないまま、明日仕事に行かなければならないと、内心嘆いているのだろう。彼らは一様に、悪い知らせを表示する電光掲示板を見上げている。
RY074 グラスゴー発 到着予定 00:46 遅延 01:10
トムは部屋で待っているのではなく、空港まで迎えに来るべきだったかどうか考えた。エズミーはそこまで期待していないだろう。でも今夜は(というか、もう日付が変わったから今朝は)、どうしてもサプライズで、彼女に僕の回復っぷりを見せたかったのだ。大晦日の夜あんなことがあってから、その後の1ヶ月を経て、ようやくこれほどまでに元気を取り戻したことを示したくて、空港まで足を運んだ。元日の午後には実家からロンドンの部屋に戻ったのだが、母親がエズミーに打ち明けてしまったことにショックを受け、怒りが湧き上がり、打ちひしがれ、という状態を繰り返しながら、ずっと部屋に閉じこもっていた。―今回の不安やうつ状態は、6週間余りも外に出られないほど、重く長引いた。
それは彼にとって初めてのことで、症状に名前をつけることもままならない状態だった。漠然とした恐怖感に包まれて、街を歩くことさえできないほど気分が落ち込んだのは初めての経験だった。しかも、それほど深刻な精神状態にもかかわらず、アルコールなしで対処しなければならなかったから、より一層きつかった。アルコールを飲みさえすれば、少なくとも数時間は、人に会いたくないとか、そんな対人関係の不安など消し去ってくれるのに。1月1日の午後、二人の共同住宅の敷居をまたいだ瞬間に、もう外には出られないかもしれない、と感じたほど、彼は底に落ちていた。
外出することを考えなかったわけではない。寒さが厳しくなるにつれ、コートやマフラー、毛糸の帽子で寒さをしのぐ通行人を、キッチンの窓辺から一人で眺めていた。1月の終わりに雪が降った時には、雪でぬかるんだ歩道を神経質そうに歩く通勤の人たちや、毎年恒例のスキー休暇のために、1年間しまってあったスノーブーツを引っ張り出し、それを履いて雪道を闊歩(かっぽ)する、北ロンドンには少ない裕福な人たちを見ていた。彼自身はそのような経験を一度もしなかった。せっかくのシーズン到来をぼんやりと無為(むい)に過ごすのは、もったいないことだった。
外に出るとどうなるか、彼は何度も何度も繰り返し考えていた。
一歩。
二歩。
進むと、部屋の壁にたどり着いた。
窓の外、小さな庭の向こうに、どこかへ連れていってくれる道が見える。
彼は窓辺に立ち、北ロンドンに特徴的な音について考えていた。バス、ゆっくりと走る車の走行音、レーシングバイクのエンジン音がとどろき、派手な色合いのレーシング服に全身を包んだ40歳くらいのがっしりした男が、それにまたがって走り去っていった。近くの店から店主の怒鳴り散らす声が聞こえてきて、配達人が、周りの音がうるさいのか、携帯電話を耳に当てながら大声で話している声などが、ひっきりなしに耳に届く。頭の中で、彼はハウンズロー駅から〈アイラ・ガーデン〉の前を歩いて行く。〈ウエスト・エンド・レーン〉に近づくにつれ、街のざわめきはどんどんうるさくなってきた。それから匂いについても考えた。春や夏には生き生きと草花が息づいていた42番町の〈アイラ・ガーデン〉だったが、今では落ち葉や枯れ草が、苔(こけ)を生やしたような臭いを発している。かすかに揚げ物の匂いが漂ってきた。そういえば、あそこの角を曲がるとケバブ屋があったな、と思い出した。あの店の前を通るのは避けた方がいいだろうと、角を曲がらずにまっすぐ進んで行く。冬の終わりの空気が、頬や、手袋の先に突き出た指先にひんやりと伝わってきて、自分が寒さを嫌っていたことを思い出す。何週間もスリッパしか履いていなかったので、靴の革が硬くなったように感じる。ずっとカーペットや絨毯の上をふんわりと歩いていたので、舗装された道路の固さがやけに鮮明だ。
結局、実際に部屋を出て外の道を歩き出すことはなかったが、実際歩いていた時よりも、細々(こまごま)としたことに気づけたかもしれない。それにしても不安感は消えない。
トムは待合室の座席に座ったまま体を横に動かし、隣の太った、頭の禿げた男をちらっと見た。
「いつもながら嫌になるよな?」と、その男が言った。彼は到着する相手の名前が書かれているのだろう画用紙を膝の上に伏せて置いている。トムは、自分もプラカードを作ってくるべきだったかなと思った。今どきはそれが普通なのだろうか? それとも、彼はタクシー運転手か、雇われ運転手で、相手の顔をよく知らないだけなのだろうか?
トムは彼に微笑み返した。
その日の昼間、彼は自分の小さな仕事部屋で、座りすぎて背もたれがくたびれてきた肘掛け椅子に座っていた。特にこの1ヶ月はその椅子に座りっぱなしだった。前みたいに、自分の作った音楽をイヤホンで聴きながら北ロンドンの街を歩くことはなくなった。代わりに、彼は肘掛け椅子にふんぞり返って、向かい側の壁に貼られたブルース・スプリングスティーンのポスターをぼんやりと見つめながら、自分の作った音楽をスピーカーで聴いていた。このリスニングタイムは、ローストフトでの大晦日のパーティーからエズミーと一緒に戻ってきて以来、部屋に閉じこもるようになった彼の、新しい日常ともいうべき習慣の一つだった。
飼い猫のマグナスが、トムの前の床の上に座り、時折彼の顔を見上げては、いったいこの男は何をしているのだ? と問いかけてくるかのようだった。環境に配慮したドッグフードのCMのために作曲したウクレレ調の曲が部屋中に鳴り響く中、猫が小首をかしげている。
しかしトムは、その曲に意識を集中できずにいた。「良い犬には良いものを」とか、「バオバブと高麗人参から作られた史上初の地球にも優しいドッグフード」と歌う、いらいらするほど陽気な声がスピーカーから垂れ流されている中で、彼はさっきまで会っていたクリスティーンとのセラピーの時間を思い出していた。彼女は彼のセラピストだった。
彼女は週に一度、トムとエズミーの家に来て、彼と対話することで心理療法を施(ほどこ)していた。訪問心療のため追加料金はかかったが、薬物療法を断固拒否した彼に、エズミーがセラピーを受けるように勧めたのだ。
彼とクリスティーンは、不安が引き起こす広場恐怖症について、時間の許す限り話し合ったが、外に出ることを考えただけで自分が無防備になる気がして、外に出ればすぐに傷つけられる気がして、足がすくむ、といった症状が和(やわ)らぐことはなかった。その名付けられない恐怖について、彼女にどう説明すればよかったのだろう? 痛みを伴う心の病? 内面の痛みはリアルなのだが、その発信源はどこにも見当たらないような恐怖に関して、彼は15年ほど前から自分自身に説明しようとしてきたのだが、自分に説明することさえ、うまくいかなかったのだ。
「そのことについて考えるたびに気分が悪くなるんです。そして、その気持ち悪さからパニックになってしまうんです」と言うのが、彼の精一杯の説明だった。「そうこうしているうちに、どんどん悪い状態になっていく感じです」
クリスティーンはうなずきながら、ノートにペンを走らせていた。
「その悪い状態っていうのをもっと詳しく説明して」と彼女は言った。
二人のセッションは、彼が憂鬱や不安にまみれた人生を不完全に語り、彼女がそれを聞くというものに過ぎなかった。あやうく大惨事になりかけた過去の出来事を要約的に語り、様々な人に支えられつつ築き上げてきたものを、また発作的に壊す、という繰り返しの人生を聞かせ続けるだけの、毎回似たり寄ったりの時間に成り果てていた。近頃ではエズミーも、気分がイライラしている時などは、クリスティーンが彼に「良い影響」を与えているのか疑問を口にしていた。
「今さらセラピストを変えることはできないよ、エズ」とトムは言った。「彼女とはだいぶ話し込んじゃったからね」
それは半分真実だった。彼とクリスティーンは二人きりでだいぶ話し込んでいた。ただ、それが必ずしも正しい方向へ進んでいたわけではなかった。問題の根源について話し合うべきなのに、近頃はもっぱら、エズミーのことばかりを話していたのだ。エズミーに隠したり嘘をついてきたことがばれて、今まで一緒に積み重ねてきたものをこれからも維持できるかどうか不安だと悩みを打ち明けていた。
エズミーの優しさ、彼を支えようとする性格、許し、無私の心。彼女の良い面について話すことに、多くの時間が費やされた。かつてアナベルに言われた二人の違いを、クリスティーンにもそのまま話すことになった。彼女のナースのような気遣いと、自分はアーティストだという彼の陳腐な自己陶酔には、やはり大きな隔(へだ)たりがあるのだ。(企業のPR動画のBGMばかりを作曲している自分がアーティストだなんて、ほとほと自分にあきれてしまう。)
彼は、自分がいかに彼女とはつり合わない男であるかを延々と語った。彼女の理解や共感を得るにはふさわしくない人物なのだ、と。その一方で僕は、彼女の理解や共感を今後もずっと失いたくないと祈っているような奴なのだ。本当はたまらなくお酒を飲みたい、だけど、破壊的に自分を支えてくれるアルコールに頼らなくてもいられるのは、彼女の存在が、心の支えになってくれているからなんだ。
その日の午後、クリスティーンは堂々巡りのような彼の話に耳を傾け、熱心にうなずきながら、日が暮れかけるまでペンを動かし続けていた。彼女はトムに、あなたは運がいいのよ、と言った。あなたの心を修復するのに必要なものが、あなたの周りには全部揃ってるんだから。
「でも、修復は自分でやるのよ、トム。彼女はあなたの支えにはなってくれる。だけど、彼女があなたの心の問題を全部解決してくれるわけじゃないんだからね」
「わかってます」と彼は言った。「たぶん僕は、今手にしているものを手放したくなくて、それにしがみついているからこそ、このぐるぐると同じところを回っているような感覚を断ち切りたくなるんだと思います」
「代償は必要よ。断ち切りたいなら、手放さなくちゃね」とクリスティンが言った。彼女が話をまとめようとしているのが伝わってきた。そろそろセラピーを終わりにしたいと思っているようだ。たぶん彼女の心は半分、帰りの電車の時間を気にしているのだろう。「トム、あなたのためになることなら何でもする、なんて人が、必ずしもあなたの答えになるとは限らないわ」
トムは古びた椅子に座りながら、頭の中では彼女の言葉がぐるぐると渦を巻いていた。
断ち切りたいなら、手放さなくちゃね。
あなたのためになることなら何でもする、なんて人が。
エズミーは彼のためになることをしてくれる唯一の存在だった。出会った日から今日まで、彼女一色だった。起こってしまったあらゆることの後で、彼女に「もううんざり」と愛想をつかされたとしても、彼女を責めはしないだろう。彼が押しても押しても、彼女はそれをするりと受け流すように、身を引くことなく目の前にとどまってくれた。元日、彼女に運転してもらってサフォークから帰ってきたドライブが、もしかしたら我慢の限界だったのかもしれない。彼のそんな心配とは裏腹に、彼女は彼がなぜ、自殺未遂のことを教えてくれなかったのか、私はそんなに信頼できない存在なのかしら、と自問し、もし私が共感する能力に欠けていて、心を開けるような相手ではないと思っているのなら、そう言ってほしいと彼に懇願した。もちろん、それは全くの見当外れだった。トムの頭の中では、彼が問題であり、彼女が常に解決策だったのだ。
エズミーは知らなかったが、トムはこの数週間、1日に10回も15回も閉まった玄関の前に立っていた。ソファや仕事部屋を離れ、玄関まで行き、また戻ってくるのだ。散らかった廊下から、エズミーがヘッドホンや靴を探している騒がしい音がすると、彼女の後を追おうと思い立ち、彼女が玄関の壊れたドアハンドルをガチャガチャと回して家を出ようとする音を聞くたびに、彼女を呼び止めて、「僕も一緒に行くから待って」と言いたかった。
しかし、そのたびに彼は声を発することなく、家の中に留まった。外に出たいという衝動は、いつもそれ以上に大きな力に阻(はば)まれ、慣れ親しんだ部屋に戻った方がはるかに居心地がいいと、くるりと踵(きびす)を返すのだった。
彼女を追いかけ、一緒に出かけていれば、確実にもっと早くエズミーと和解できていただろう。最近では別々のベッドで過ごす夜もあった。二人の間に距離感を生じさせたのはトムだが、それを現実の距離にすべく、ベッドを出て行くのはエズミーだった。時々彼は、彼女がすべてを受け入れてくれる日が来ることを願った。少なくとも、昨年の大晦日前までのように、二人の関係が再びほどよい均衡を取り戻すくらいには、彼を許してくれはしないかと期待した。そんな折にも、どこからともなく耳に届く、テレビ番組のさりげない台詞や、ラジオから流れてくる歌が、彼女に大事なことを思い出させるかのようだった。つまり、トム・マーレイと付き合っていても、将来に保証はない、と。
彼は彼女の欲求不満や憤りを感じ取っていた。彼女に何かを与えなければならないと思っていた。
クリスティーンが去ってから4時間後、トムは耳ざわりでさえあるウクレレ調の曲を聴きながら、もし物事が修復へ向かうとすれば、自分の中のしつこくものを言ってくる部分は無視しなければならないと思った。不安を払拭できないことはわかっていた。うつ病も治りはしないだろう。しかし、それと同じくらい、自分が幸せになる最良の方法は、エズミーへの愛と束になっていることも知っていた。彼女には思いやりや優しさがある一方で、彼女にも限度というものはあり、それを超えてしまったら、彼の人生の困難まで引き受けることが、彼女の人生にとっての厄介事だと思い始めるだろう。
無視することなんてできやしない、と思いながらも、彼はそれらを抑圧すべく、心の奥底に押し込めて、眠ったまま、黙ったまま起きないでくれ、と必死に願っていた。そうすれば、子供時代の寝室の外で母親が彼女に話してしまったことに対し、自分の中で濃く線を引くように、目をつぶることができるかもしれない。
トムは椅子から体を起こし、マグナスを見下ろして言った。「迎えに行くべき、だよな?」
トムは窓の外に目をやった。煌々(こうこう)とライトで照らされた滑走路に、一機の飛行機が斜め上方から近づいている。飛行機の電灯が夜の闇を切り裂くように、光の道を描いていた。これにエズミーが乗っているに違いない、と彼は思った。今夜その後に到着予定の飛行機は、あと2機だけだった。
彼女が同じ地に着陸したかと思うと、心臓が少しだけ高鳴った。彼の背後で、一つだけ開いていたラウンジ・ショップが、ガラガラと勢い良くシャッターを下ろす音が響き渡り、ビクッと彼の体が跳ねた。横の太った男が、ペットボトルのコーラをごくごくと飲み干して、席を立った。
久しぶりの外出について、エズミーに何と言おう。共同住宅の前のまだらに枯れた芝生に、薄く氷が張っていて、足の裏でパリパリ鳴ったことを言おうか。あるいは、毎日窓から見つめていた道を、実際に歩き出してみたらすぐに、自分はそれをやってのけたんだ! という充実感がこみ上げてきたことを言おうか。この1ヶ月半の間、唯一の安全地帯だと思っていた世界から自分は飛び出したのだ、という歓喜を一刻も早く彼女に伝えたかった。
その時、背後から聞き覚えのある声がして、トムは振り返った。
エズミー。
彼女が、あの太った男に話しかけていた。彼女は、地方の会議に出席する時にはいつも持っていく小さなスーツケースを手に持ち、彼が掲げるプラカードを見上げながら彼に近寄っていく。さっきまでは伏せられていて見えなかったカードには、「ESME SIMON」という名前が書かれていて、その下にはミニキャブ会社〈North West Cars〉のロゴがあった。そういえば、うちの冷蔵庫には、その会社の名刺が常に貼り付けてあった。
「エズ」不意を突かれ、思わず声が出た。しかし、その声は彼女の耳に届いていないようで、二人は出口に向かって歩いていく。「エズミー!」彼はもう一度彼女を大声で呼んだ。
彼女が立ち止まり、こちらを振り返った。
「トム?」と彼女は大きく目を見開き、心底驚いた表情で彼に駆け寄った。「いったいどうしたのよ、トム!」
二人は何ヶ月も会えなかった恋人のように、お互いを強く抱き締め合った。二人の間の距離が急激に縮まったような、それは単なる彼の気のせいかもしれないが、最近の暗闇に希望の光が差したような、確かな変化を彼は体で感じ取っていた。
「待ってたよ」とトムは言った。「君の飛行機が着陸するのを今見たと思ったんだけど」
「たぶんその前に到着した飛行機ね。前って言っても、予定時間よりは後だったけど」
「会えて嬉しいよ、エズ」トムはそう言いながら、彼女の頬にキスをした。飛行機からターミナルまで外を歩いてきた彼女の頬は、まだひんやりと冷たかった。
「あやうく心臓発作を起こしそうになったわ」
「ごめん。ただ、その―」
「あなた外に出てるじゃない!」
「そうなんだよ!」
「あなたが外にいるわ」と彼女は言って、再び彼の体に腕を回した。
「僕は外にいる」
「どんな気分?」
「いい気分だよ。うん、今のところ、すこぶるいい気分だ。思い立ったのは今日で、そんなに考える時間はなかったんだけど、何となく椅子から立ち上がって、家を出てみたんだ」
「すごいじゃない、トム」と、彼女はほとんど泣き出しそうな声で言った。「トム、あなたを誇りに思うわ」
彼は何も言い返さなかった。こみ上げてくる感情で溢れ、何も言葉が出てこなかった。あまりにも大きなことを、同時にあまりにも平凡なことを、成し遂げたんだという達成感で満ち溢れていた。
「それで、気分は大丈夫なの?」
「今のところ、なんともないよ」
「落ち着かないとか、不安とか、そういうことはないの? 私が運転するから」と、彼女は早口で言った。「帰ったらゆっくりしましょ」
「大丈夫だよ、エズ」と彼は彼女の発言を遮るように言った。しかし実際には、空港に着いてからずっと、彼の中には落ち着かない要素がくすぶってはいた。幸いにも、空港は混雑していなかった。そして今では、室内にいることの快適さよりも、自分が正しいことをしているという確信の方が、彼にとって重要なことだった。エズミーのために、二人のために、正しいことをしているんだ。
もしそれで自分が精神的に追い込まれることになったとしても、むしろ喜んで追い込まれたいと思った。
「ならいいけど」と彼女は言って、手袋をはめた手で彼の手を取った。「でも、ちゃんと私に言わないとダメよ、トム。もし気分が悪くなったら、すぐに言ってね。いい?」
トムはうなずいたが、それだけではエズミーは満足しなかった。
「ちゃんと約束して、トム。大きな飛躍は必要ないのよ。赤ちゃんみたいに少しずつ、着実に。わかった?」
「約束する」
「オッケー」
「あのー」と、不機嫌な声が二人の間に割って入ってきた。「それじゃあ、あなたを家まで送り届けるのは、ここにいる彼ってことですかね?」
「ああ、そうだったわ」と言って、エズミーがミニキャブの運転手の方を向いた。「本当にすみませんでした。彼のサプライズだったの」
「まったく、はた迷惑なこった」と彼は言って、あきれたように首を振った。「もうすぐ夜中の2時ですよ」
「本当にすみません」
「料金は払ってもらいますよ」と彼が言った。「わかってますよね?」
「それはもちろん」とエズミーは言って、バッグを開けて財布を取り出した。「90ポンド(13,500円)でしたね?」
運転手はうなずき、お金を受け取ると、「ESME SIMON」と書かれた紙を丸めてゴミ箱に捨て、すたすたと出口の方へ歩き去っていった。
「その分は僕が払うよ」とトムが言った。
「そうね、そうしてちょうだい」とエズミーは返し、トムの手を引くようにして、自動ドアの向こうで待ち構えていた冷たい夜気の中へと導いた。
彼女のやや後ろを歩きながら、トムは自分の周りにあるものに意識を集中することで、必死で自分を抑制しようとしていた。五感をフル活用して、聞こえるもの、見えるもの、匂うものを意識的に言語化するのだ。それはクリスティーンに勧められた対処法で、久しぶりに外出する際、周りの世界は安全なんだという意識を自分の中に根付かせるためのものだった。
今回の場合、意識を向けた対象は、ターミナルの外にあったシャッターの降りたファストフード店であり、ジェット機の燃料とバスの排気ガスが混ざったような夜の空気の匂い。それから、凹凸のある灰色の舗道(ほどう)と、それが足の裏に触れる感触だった。これらはすべて確かなものであり、予測不可能な事象ではないし、何も不安を感じる要素はない。周りの世界の信頼できる部分だった。
数歩進んだところで、トムは立ち止まった。
「大丈夫?」と彼女が聞いた。
答えはノーだったが、トムはそれを飲み込んだ。
「大丈夫だと思う。ただ、ちょっとだけ待って」
「必要なだけ時間をかけていいのよ」と彼女は言った。彼は彼女が無条件で、何でもしていいと言ってくれているのかどうか、考えていた。空港に来る途中、彼はかっかと顔が熱くなるくらい、いきり立っていたので、内面の不安は部分的に隠されていた。だが今、エズミーと一緒にいることで、だんだんと落ち着いてきた分、隠されていた部分があらわになりつつあったのだ。
「戻りたかったら、建物の中に戻ってもいいのよ」とエズミーが言った。「何時に帰っても問題ないから」と彼女は言いつつ、時計を確認した。もうすぐ2時になろうとしているのが見えた。エズミーは何時まででも付き合うと言うだろうが、内心ではほとんど寝ずに明日仕事に行くことになるのではないか、と心配し出すだろう。
トムはその場で深呼吸をした。これまでの経験から、気持ちが完全に落ち着くことはないだろうとわかっていた。適切な解決策もないまま、時が過ぎるのを待つしかないのだ。朝起きて胸の高鳴りを感じない保証はないし、手のひらがじっとりと汗ばんでいるくらいならまだいいが、説明のできない、あの恐怖感が朝方やって来ないとも限らない。
しかし、それは自分で乗り越えなければならないんだ、と彼はつないでいた手を離し、手のひらに力を込めた。
「僕は大丈夫」と、彼は自分自身に言い聞かせながら、彼女に向かって微笑んだ。
「本当に大丈夫?」
「きっとね」と彼は言い、意を決して前に一歩を踏み出した。生命力がみなぎっていた頃の自分を取り戻さなくてはならない。一つ一つ、失くしたピースを取り戻していくんだ。
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〔チャプター 14の感想〕
誰かを待ってる時って、色々考えるよね。もちろん、その人が来なかったらどうしよう? とかも考えるけど、全然関係ない昨日のこととか...そういえば昨日、司祭が教会で儀式に使うパンの固さが変わったってぼやいていたな~とか...←はあ?爆笑
実際に歩くのと、歩いているのを想像するのは、歩いた経験があれば、たやすい。←なんか名言っぽくかっこつけて(こめかみに指を当てて)言ってるけど、でしょうね~(だから何?)笑
藍の場合は、訳すことが自己セラピーへのささやかな試み?←そういえば、村上春樹ライブラリーが完成したってニュースでやってたよ。ナボコフの『ロリータ』とか、村上春樹の愛読書も飾られてるってさ。村上春樹が所有していた実物の本らしいよ!(笑)
女医とのセラピーってエロいよね!笑←夢診断で有名なユングも、セラピー相手と恋仲になっちゃったらしいよ!笑
藍も(女医に限るけど、笑)セラピーを受けてみたいと思っている。ただ、お金がないから無理。お金を払ってまで、おっさんにセラピーを受ける意味がわからない。(むしろ、藍が精神分析してやるよって気になっちゃう...爆笑)
外に出るということは、言葉を交わさなくても人間(動物)同士の相互作用が発生するわけで、闘争本能も活発になるし、角も立つし、腹も立つ。キッとむきになった時、自分の感情に抗うのはなかなか難しい。むしゃくしゃしたら、帰って絵を描きませう!←今度は夏目漱石のパクリ?笑
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チャプター 15
午前9時~10時
死にゆく男の願い
2015年11月 ― ナイトン、レスター
エズミーは、二人で使っている旅行かばんを車のトランクに入れると、一旦玄関に戻った。玄関では、彼女の母親が二人を見送りに出ていた。彼女が昔から着ている赤っぽい茶色のカーディガンを、前ボタンは開けたまま羽織り、灰色のスリッパを履いて、敷居の上に立っている。外ではまだ小雨がぱらついていた。普段は完璧に手入れされているサイモン家の前庭がやや乱れており、昨夜の嵐の激しさを物語っている。
「ロンドンまで何時間くらいかかるのかしら?」とレナが言った。
「2、3時間ですかね」とトムが答えた。彼は運転席のドア付近に立ち、携帯電話のホルダーをフロントガラスに取り付けようと、車内に手を伸ばしている。
「長くいられなくてごめんなさい」とエズミーが言った。「でも、また来るから」
「いいのよ、エズミーちゃん」
「もっと近くに住んだ方がいいかなって時々思うけど」
「そんなこと思わなくていいのよ。あなたにはあなたの人生があるんだから。私たちはここで平気」
「来週また来るから」
「私は元気よ」
「わかってるわ、ママは大丈夫。ただ―」と、エズミーは言ったが、続く言葉は道ばたの落ち葉のように枯れてしまった。
「言わなくてもわかってる」と、レナが彼女を抱きしめた。「お父さんにさよならを言って来なさい」
エズミーが家の中に入っていく。その背中を見てからトムは、これからロンドンへ向けて〈M1高速〉を突っ走る車の点検を開始した。数ヶ月前にタマスが前立腺がんと診断されてから、この車はすでに6回の長距離走行に耐えてきた。これからも持ちこたえてくれよ、という気持ちでボディーをさすった。
彼がそう診断されたのは、今回で2度目だった。数年前の定期検診で異常が見つかり、1度手術を受けた。その後は化学療法を施しつつ、彼は新たな人生を手に入れ、再び生への情熱が燃え盛るかに思えたのだが、がんの方が再発してしまったのだ。
タマスは運が悪かった。がんは腎臓と肺に転移し、徐々に全身が病(やまい)に屈していった。当初、余命は4ヶ月、運が良ければ8ヶ月と言われていた。
しかし、彼の容体は急速に悪化していった。まるで終わりが近づいているのを知ってしまったことで、体が闘うことをあきらめたかのように、急速に衰えていった。今では、クリスマスまで生き延びることが目標だった。2月まで持ちこたえられたら奇跡といった具合だ。周りの人たちも、そしてタマス自身も、今日が最後の日になるかもしれない、と朝が来るたびに痛感していた。
毎回、エズミーとトムは、彼女の母親をサポートするという名目でやって来た。食事を作ったり、買い物をしたり、家の中を片付けたりして、レナの負担を軽くするのが表面上の目的ではあったが、レナは今まで通り一人でも十分うまくやれていた。本当の目的は、エズミー自身認めたくはないだろうが、父親との長いお別れを交(か)わすために来ているようなものだと、トムはわかっていた。
「エズミーはどんな感じ?」とレナがトムに聞いた。
「元気ですよ」と彼はほとんど無意識に答えていた。「いや、元気ではないけど、なんていうか、彼女は大丈夫です」
「あの二人、ちゃんと言葉を交わしてるかしら? 彼女は彼のことで、いろんな思いを抱え込んでるのよね。彼女は彼を決して許さなかった。私だってそうだけど」
「きっと彼女は許しますよ」と、トムは期待を込めて言った。だが、その考えが現実的なものではなく、単なる希望的観測に過ぎないことを、彼もレナも知っていた。エズミーは、20年前の父親失踪事件の傷跡をいまだに引きずっているのだ。大学を卒業したばかりの女学生と父親が、半年間こっそり浮気を続けた上、2年間の逃避行を決行したという事実が、妻と娘に絶え間なく暗い影を落としてきた。永遠に若い女学生の姿をしたノエルの亡霊となってつきまとってくるのだ。
「僕もさよならを言ってきます」とトムは言った。
彼が階段を上までのぼり切った時、エズミーが片手でマグカップを2つ持ってタマスの寝室から出てきた。彼女は羊の毛を素材にした紺色のフリースを着ていたのだが、その袖口(そでぐち)を目に当てて、こすっていた。彼女が手を下ろすと、マスカラが目尻に滲(にじ)んでいた。
「大丈夫?」
「うん」と彼女は言いながら、彼の横を素通りして、階下の母親のところへ戻っていった。代わりにトムが寝室に入る番だ。
寝室は窓も締め切っていて風通しが悪く、暖かすぎるくらいだったが、週を追うごとに寒さを身に染みて感じるようになってきた患者の体には、これくらいがちょうど良いのかもしれない。ベッドの向かい側にある木製の化粧台の上には、紫のスウィート・ウィリアムズが花瓶に挿してあり、薄いマグノリア色とベージュに囲まれた地味な部屋に彩りを添えていた。
タマスは半身を起こして、4つの枕に寄りかかるようにベッドの上で座っていた。その横には朝食用のトレイが置かれている。かなり古いトレイで、タマスとレナが若かった頃、毎週日曜日には、二人してベッドの上でそのトレイを挟んで朝食を取っていた、まさにそのトレイだった。紅茶と、マーマレードを塗ったトースト、それから新聞の日曜版も置かれている。ベッドサイドのテーブルには、エズミーとトムが病床の彼のために買ってきた雑誌〈エコノミスト〉のバックナンバーが積み重なっていた(が、トムの予想通り、一度も読んでいないようだ)。その隣には、薬の瓶がいくつも並べられていた。
「今から帰るので、挨拶に来ました」とトムは言って、彼の注意を引こうとした。彼は部屋の隅にある小さなテレビで、昨夜の『マッチ・オブ・ザ・デイ』の録画を見ている。画面では昨夜のサッカーの試合が続行中で、それを見てトムは、タマスがまた、1993年にダブリンでフェレンツ・プスカシュとばったり遭遇した話をしだすのではないか、と不安になった。プスカシュは往年の名プレーヤーで、アイルランドがプスカシュ率いるハンガリーと対戦した1950年代のワールドカップにまで話を広げられると厄介だな、と思った。
「ドアを閉めろ」とタマスがサッカーを見たままつぶやいた。
「え?」
「ドアだよ」と彼はトムを一瞥して、促した。「それから、このヘボ試合を消しちまってくれ」
トムは言われた通りにした。
「何か必要なものはありますか?」
「5分欲しい」と彼は、ゴホゴホと咳払いをしつつ言った。
トムは、タマスの真剣な「おしゃべり」に付き合うことと、そこまで親しくなりたいとは思っていない男に寄り添うようにして、しばし病を忘れさせることの、どちらがまだましか、と考えながら身構えた。
「君が帰る前に、エズミーのことで話したいことがあるんだ」彼はそう言うと、弱々しく枕から頭を引き離し、体をこちらへ向けた。「よければ、ここに座ってくれ」
トムは立ったままでいることにした。タマスのベッドの15センチほどの隙間にちょこんと座って、彼の話を聞くこと以上に気まずいことなどないからだ。
「彼女の話って何ですか?」
「君が彼女を幸せにするんだよ、トム」と彼は言って、コホッと軽く咳をした。「私にはわかってる。君の日常は変わった。彼女はああいう性格だから、いつもいつも簡単ってわけじゃないだろう。でも、彼女は君の世話をするのが好きなんだよ。そして、君も彼女を大切にしたいと言った」
「それは...そうですね」とトムは言ったが、何と続けていいのかわからないまま、『君の日常は変わった』とか断定的に要約されたことに少しイラッとした。
「私はダメな父親だ。彼女を幸せにしてやれなかった。わかるだろ、間違いを犯さずに長い人生を送るのは難しい。時には、取り返しのつかない間違いも犯してしまう」彼はまた咳をしたが、今回の咳は先ほどみたいに喉にたんが詰まったわけではなく、話したくない話を切り出すか、やっぱりやめておくか逡巡しているようにトムは感じた。「とにかく、私にはもう時間がない。彼女とレナと一緒に過ごす時間はもうあとわずかだ。しかし、君の人生はそうじゃない。どう生きるか、選択の余地がある。君次第でなんとでもなるってことだ」
タマスはグラスに手を伸ばし、水を少し口に含んだ。
「私は30年間、娘の人生を少しでも良くしようと努力してきたつもりだ。そうそう思い通りにはいかなかったが、努力はした。そこに君がやってきて、私の出番はなくなった。私はエズミーのことを知っている。彼女は前より幸せになったよ。君との共同生活も充実しているようだ。前はよく言ってたんだ。どこどこの国に引っ越したいとか、新しい仕事を探すとか、そういう大それたことを言わなくなった」トムは目を丸くした。エズミーがイギリス以外の場所に住みたい、なんて聞いたことがなかったからだ。「一つだけ学んだことがあるとすれば」とタマスは続けた。「いつもいつも他の何かを探し求めていては、いつまで経っても幸せにはなれない」
「それはもちろん、そうですね」とトムは相槌を打ったが、まだ彼が何が言いたいのか掴めてはいなかった。
「彼女と結婚してほしいんだよ、トム」と彼は口調をやや速めて言った。「君もそれを願ってることはわかってる。だから、君が帰る前に言っておくが、私は祝福するつもりだ」
「ああ...そうですか。というか、彼女がそれを望んでいるかどうか、正直わかりません。エズはずっと結婚するつもりはないって言ってきたんです。僕たちが出会ってからずっと―」
「君は彼女を変えた。私にはそれがわかる。レナにもわかる。時々二人でそのことを話すんだ。エズミーは自分の信念をしっかり持っている。馬鹿みたいに盛大な結婚式は望んでいないかもしれん。ただ、彼女は君を望んでいるよ、トム。私たち親にはそれがわかる。その時、私はその場にはいないが、それが実現することを確信しながら死にたい」
トムは驚きを隠せなかった。まず第一に、エズミーがあれほど忌(い)み嫌うように反対していたことなのに、彼女の考えが変わったとでもいうのか。―仮に彼女と末永く共に暮らしていくことになったとしても、結婚はせずに同棲生活を続けていくのだろうと思っていた。そして第二に、それがタマスの願いだということに驚いた。まるで彼が誤ってそのことを遺言状に書き忘れたかのような、突然の告白だった。
「本当に...わかりません」トムは適切な言葉を探したが、見つからなかった。年老いた男に対し、感謝の言葉を述べるべきか、それとも、それは違うんじゃないか、と自分の意見を述べるべきか。
トムが再び口を開きかけた時、階段から声が聞こえてきた。エズミーとレナが再びこの部屋に向かって来ている。タマスが、もう行け、という素振りを見せたので、彼はそそくさと部屋を抜け出した。レナはトレイを抱えていて、その上にはトマトスープと、バターを塗ったこんがり焼けたロールパンが載っている。彼はその横をすり抜けるように階段を下り、外に出て、秋の朝の冷たい空気の中を歩きながら、今起こったことを振り返った。そして、そこに妥当性があるのかどうか自問するように、結婚について考えてみた。
あるいは、死にゆく男が自らの過ちを正そうとしただけの、世迷言(よまいごと)に過ぎないのか。
エズミーが泣き出したのは、ナイトンの町を抜けてすぐの頃だった。この2、3日、彼女は気丈(きじょう)に振る舞っていた。しかし、ロンドンへの帰路の車中で、彼女の強いイメージは脆(もろ)くも崩れ去ってしまった。彼女の中で何かが、がらりと一変したかのようだった。トムは、ひょっとしたら彼自身が苦しんできた症状以上にコントロールの利かない何かと、彼女は闘っているのではないか、と想像した。
トムは体を彼女の方へ寄せて、ギアレバーから手を離し、彼女の手を取った。そのまま20秒ほど彼女の手を握っていたが、前の車が減速し、ギアチェンジを余儀なくされたので、彼女の手を離し、再びギアを掴んだ。車内は、雨水に湿っているような臭いが充満していた。窓枠のシールがもう古くなっていて、雨が降るたびに雨水がその隙間から入り込み、それが座席の素材に染み込み続けた結果の臭いだった。
タマスのがんが再発したという知らせを受けて以来、彼は彼女がもらす不平や憤りを、もっともだと頷きながら聞いていた。1度手術をしたんだから、その時に、医者がもっとちゃんと治療していれば、今になって、手遅れの状況にはならなかったのではないか、というのだ。エズミーは、NHSで働く医療従事者をねぎらう言葉と、彼女らしくない辛辣(しんらつ)な非難の言葉を、交互に繰り返さざるを得ない、といった様子だった。
「くそむかつく医者たちのせいよ」と彼女は言った。「看護師たちは悪くないわ。みんなよくやってる。医者たちよ。彼らは一人一人の患者のことなんか気にも留めてない。みんな同じに見えてるんでしょうね。彼らにとっては実績を積み重ねていくことが全てなのよ。数字が全てなの」
トムは彼女が本気でそう言っているわけではないとわかっていた。エズミーは彼女自身がNHSのシステムの中で働いているから、彼女の父親を看病している人たちに、どれだけの負担や重荷がのしかかっているかを十分に理解しているのだ。それにしても、彼女の気分の浮き沈みに合わせて、並走するように付き合っていくことは、なかなか大変だった。気分の浮き沈みに関して、僕が文句を言える筋合いは全くないのだが。
「大丈夫?」と彼は言った。巨大なショッピングモールを通り過ぎ、高速道路の入口が見えてきた時だった。
「少し経てば大丈夫だと思う」
「もし話したいことがあれば」とトムは言って、反応をうかがうように、そのまま続きを保留した。
「さっき、パパと何を話してたの? 私たちが二階に上がっていったとき」
「ああ」トムはどこまで話していいのかわからずに、戸惑いぎみに言った。「大したことは話してないよ、ほんとに。彼がプスカシュに会ったときのことを話してたな」
「また?」
「そうなんだよ」と、トムはそれに苛立った風に顔をしかめて見せた。
高速道路に入るカーブ路でゆっくり走っているトラックを追い越し、二人を乗せた車は高速道路に乗った。雨はますます強くなり、それにつれて視界が狭くなっていった。トムはラジオをつけた。一般人の恋模様を撮った風のリアリティーショーで、一躍有名人になったスターが、自叙伝を出すとかでインタビューを受けていた。2、3分耳を傾けてみたが、その後も聞きどころがなさそうなので、ラジオを消した。
「それと、君のお父さんは僕たちのことも話してたな」
「私たちのこと?」窓の外に広がる灰色の空、裸の木、高速道路の路肩を見るともなく見ていたエズミーが、ふいにトムの方に向き直った。
「君と僕のことだよ。彼は僕に聞いてきたんだ。僕らが将来、どうするつもりかって」
「どうするって何を?」
「まあ、彼からのアドバイスのようなものだと僕は思ったけど」
「はぁ」と、エズミーが苦々しく、ため息混じりに言った。
「エズ。べつにいいじゃないか」
「よりにもよって、彼がアドバイスだなんて」と彼女は言った。「どの口が言ってるのよ。全然行動がともなってないじゃない」
「もう昔のことじゃないか、エズ」
「まだ続いてるのよ、トム」と彼女が言った。「彼が死にそうだからって、家族の歴史からあのことを抹消なんてできないわ」
これは、タマスが抱えているもう一つの病だった。彼がやったことは、消えてなくなったかに思えても、然(しか)る後に再び彼女たちの胸中に幾度となく去来し、そのたびに暗い影を落とすのだった。彼自身がそのことを暗黙の裡(うち)に葬(ほうむ)り去ろうとしたことが、いまだに消えない原因でもあった。彼女たちがどんなに無視しようとしても、彼の不倫はちらちらと視界の片隅にちらつき、彼が完璧ではないことはもとより、彼が根本において善良な人間ですらないことを知らしめていた。彼の葬儀で、彼が家庭的な男だったと誉めそやされたとしても、それは全くの噓っぱちだということになる。タマスは娘の記憶に永遠に消えることのない過ちを植え付け、娘がかつて感じていたはずの愛情を苦(にが)く、壊滅的にへこませてしまったのだ。
「提案があるんだけど、いいかな?」とトムは言った。〈ロンドンへ南〉と書かれた巨大な道路標識を通り過ぎた時だった。
「ネットで見つけた、悲しみの対処法とかじゃなければね。〈ママ・ネット〉とかでよく見る、アドバイスだか、追い込んでるんだかわからないような提案じゃないでしょうね?」
トムはその発言を無視して、「彼を許してやれよ」と言った。エズミーの鋭い視線が刺さったのを感じ、次の瞬間、彼女が泣き崩れるのか、それとも水の入ったペットボトルを顔に投げつけられるのかわからず、一瞬身構えた。「彼はいい人だったよ、エズ。彼がとんでもないへまをしでかしたのは知ってるけどさ―」
「2年間もへまをし続けたのよ」
「たしかに長くて、どうしようもないへまだな。だけど、彼は君のことを気にかけてたよ。すごくね。あの人にとって、君はすべてなんだ。それに彼は、僕たちにいろいろしてくれた。僕らが今住んでる部屋を買ったとき、彼は頭金を出してくれたじゃないか」とトムは言った。彼女の父親は、数年前にがんだと告知された後、年金と貯金、それに所有していた株も現金化して、エズミーに贈った。そのお金を頭金にすることで、彼らはウェスト・ハムステッドに、二人で住む最初の共同住宅を買えたのだ。
「もうすぐ自分は死ぬって思ったからでしょ」
「たとえそうだとしても、いつまでもそれにこだわっていても仕方ないだろ。もういいかって時期が来るものなんじゃないかな。誰だって良い人だし、なおかつ、誰だって悪いこともするよ。人生は良いか悪いか、どちらかに分けられるようなものじゃないし、一度でも失敗すれば永遠にろくでなし扱いとか、そういうんじゃないだろ。―たとえそれがどんなに大きな失敗であってもね。それに、君は彼と一緒にいるのが好きなんだろ、エズ。前からわかってたよ。彼と話したり、遊んだりするのが大好きだったんだろ。君が母親も父親も両方好きじゃなかったら、いったいなんだってこんなに何度も何度も、僕はレスターまで車を走らせているんだろう?」
「そうね」と彼女は、大して驚いた風でもなく淡々と言った。「その通りね、あなたは正しいわ。ただ、一つの出来事が完璧な結婚を不完全なものにしてしまった、というのも事実よ。今後もずっと、あのことが頭をよぎるでしょうね、ノエルのことが」
「完璧な結婚? そんなものどこにもないだろ、エズ」
「なんだか、私って堅物(かたぶつ)で、不寛容って感じに聞こえるわね。申し訳ないけど、これが私なの。それに、今年は最悪の1年だったわ。父のことと―」エズミーはそこで言葉を止めたけれど、無音の声が完璧な形で僕の耳に届いた。
あなたのことで。
車内は再び静寂に包まれた。それからトムは再びラジオをつけた。リアリティショーのスターが、自叙伝の中から、一番幸福だった時期を紹介していた。(1歳にも満たない生まれて間もない頃が一番幸せだったんですけどね、とかほざいている。)
「あなたの言う通りね」彼女はようやく声を発した。その声はさっきより寛容で、優しさをまとっていた。「あなたの言ってることは正しいけど、ただ、彼らはあのことが起きる前からずっと一緒にいたのよ。そのことを考えるたびに、ママがあの時、どんな気持ちだったんだろうって想像するの。そして、わからなくなる。どうして彼女はそれでも彼を愛し続け、彼との結婚生活を続けてこられたんだろうって」
「死が二人を分かつまでって、そりゃ長い年月だよな、エズミー」とトムは言いながら、その長い年月、自分の進みたい道を進んでいけるものかどうか、考えていた。「30年、40年。誰しも悪い時期はめぐって来る。そういう時は、許した方がいいよ。そこで手放してしまったら、―だから君のお母さんは許したんだよ。せっかく二人で積み上げてきた長い年月だから」
エズミーは何も言わなかった。
トムは彼女に、大好きな男の過ちくらい愛で受け入れてやれ、と言いたかった。彼の人生の一つ一つの出来事を、「これは良い」「これは悪い」ときっちり分類するのではなく、彼の人生を丸ごと包み込んでやれ、と促したかった。そうすれば、かつての彼女が多少なりとも戻ってくるかもしれない、と思った。
「どのくらいかかるかな?」と彼女が聞いてきたのは、〈ジャンクション20〉を過ぎて、雨がさらに強くなってきた時だった。
「何のこと?」
「そういうことを許せるようになるまでに、どれだけの時間を費やす必要があるのかな?」
「さあ、10年くらい?」
「15年はかかるわね」と彼女は言った。「もっとかかるかも。10年で起きる出来事なんて高(たか)が知れてるじゃない。私たちを見てごらんなさいよ。私たちは、もう7年?」
「8年! それはちゃんと数えてると思ってたよ」とトムは言って、チラッとエズミーの顔を見た。彼女はニヤニヤと、ゲームを仕掛けてくる時みたいに、いたずらっぽく頬を緩(ゆる)めていた。試されたのだ、と気づいた。彼は彼女に難問を吹っ掛けられ悩んでいる時のように、顔をしかめた。
「ごめんなさい。こういうことは重要よね。あなたが心配するのももっともね」
「べつにいいけどさ。いろいろあってそれどころじゃなかったんだろ。僕は君の立場に立てないから」
「今のあなたは、私のことも考えてくれてるみたいね。そうすると、私の父は、あなたの義理の父ってことになるのかな? ならない?」
「そうなるかな。そこまで考えたことなかったけど」と彼は言った。
「あなたは家族よ、トム。家族同然ってこと。足りないのは、あのぺらぺらの紙切れだけね」
トムはふふっと笑った素振りをして見せた。さっきのタマスの話は真を突いていたのだろうか? 彼女は結婚についての考えを変えようとしているのか?
トムはそっと、助手席に座っている彼女を見た。と言うと、出会ったばかりでキスもままならない若いカップルがドライブデートをしているみたいで、いかにも陳腐な表現だが、今の彼にとって、エズミーはそれ以上の存在だった。ストックウェルの仮装パーティーで出会った二人からは、遥か彼方(かなた)100万マイルも遠く離れてしまった。あの時、彼女の友人がタバコを吸いに行って、彼女が一人になったタイミングを見計らって、ようやく声をかけた女性とは、別人のように見えた。
トムは、タマスが言ったことを思い出していた。彼女はたしかに変わった。だけど、僕が彼女を変えたのだろうか? アナベルも以前、似たようなことを言っていた。それも一理ある。だけど多くのことに関して、彼女と僕では考え方、感じ方が異なっている。芸術、政治、毎晩テレビの前で何時間過ごすべきか、といったことでは意見が分かれる。でも、それくらい何だっていうんだ?
もしかしたら、結婚してしまったら、二人の関係はもっと良くなるかもしれない。この1年いろいろあって二人の間にできた傷を、きれいに修復するベストな方法になるのではないか。そして、二人で共有しているものを守る方法にもなる。僕が生活していくには毎日なくてはならないものを、今後も持ち続けるためにも、とトムは自分本位に考えた。
今年は2月にトムがようやく外に出られるようになり、彼の状態が良くなってきたと思ったら、彼女の父親の病状が悪化するという激動の1年になった。二人は限界まで追い詰められた状態で、その間ずっと、エズミーは彼のそばにいて、彼を支えてきた。しかし、彼女がいつまでもそうしているとは限らない。次に何かが起こった時、彼女と僕を結びつけておく確たるものは何もない。―そして、次のパニックはいつやって来てもおかしくない。―結婚届なんてただの紙切れよ、と彼女はかつて言っていた。でも、もしそれが二人にとって最も必要なものだとしたら?
「大丈夫?」という彼女の声が聞こえ、トムはハッと我に返った。
「大丈夫だよ、君は?」
「うん、平気」と彼女は言った。「あとどれくらい一緒にいられるのかなって考えてたの」
え? 一瞬焦って彼女を見やる。ああ、父親のことか、とほっとする。
「できるだけ長く、一緒にいられるといいね」と彼は言った。ラジオから流れていたセンチメンタルな曲が余韻を残しつつ、ニュースに切り替わった時、トムの心は決まった。
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〔チャプター 15の感想〕
「タマスとレナが若かった頃、毎週日曜日には、二人してベッドの上でそのトレイを挟んで朝食を取っていた」
この箇所で思い出すのは、出会った当初のトムとエズミーですね! ベッドで朝食を食べるのが若いカップルの特権らしく、男が紅茶を入れるのが決まりらしいです。
思えば、マックのトレイとか、ケンタッキーのトレイを挟んでお店で一緒に食べた経験はあるんだけど、一緒のベッドで朝目覚めたという経験がないことに思い至った...😢(絶望の号泣)
出会った当初、エズミーが結婚するつもりはないって言ったのは、本心だろうけど、心の奥底には、それを覆(くつがえ)してほしい、という期待のような気持ちもあったのかもしれない。藍は覆せなかった...(T_T)
「記憶」という、日常と並行して流れる時間の流れの中では、「時系列」とか「順番」はあまり意味を成さないですね。それも主題の一つでしょうね。
藍も1年前のことよりも先に、10年前のことが思い出されたりするし、2年前のことよりも、むしろ20年前のことの方が、鮮明な色を湛(たた)えていたりするから。
藍は泣きながら訳しているし、笑いながら訳しているんです。その「泣き笑い」が伝わっていればいいな💙チュッ
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チャプター 16
午後7時~8時
君に聞くべきじゃなかったこと
2016年9月 ― ローラの家、セントアグネス、コーンウォール
浜辺にはほとんど人がいなかった。彼らの他には、手をつないで固い砂浜を裸足で散歩している老夫婦だけが見える。夜が近付き潮が満ちてきた砂浜には、ところどころに水たまりができていて、吹き出した冷たい風が、むき出しのふくらはぎに絡みつくようだった。彼は紺色のちゃちなパーカーのフードを頭にかぶると、ジッパーを首元まで上げた。冷たい海水がビーチサンダルを履いた足のつま先にかかる。
「きれいじゃない?」とエズミーが言った。
「そうだね」
「こういうところに住んでみたいな、とかって思わない?」
「思うのと、実際に行動するのは全然違うよ。考えるだけなら簡単だけど、実際に引っ越すとなったら大変だ。君がロンドンの外で暮らしたら、すぐ気が狂うよ」
「あはは、そんなことないわ」
「君はこの前、地下鉄を3分も待たされてイライラしてたじゃないか。ここではバスを3時間も待たなきゃならないんだぞ」
「適応できるわ。だってここでは、生活のペース自体がゆっくりなんだから」
「まあ、それはいえてる」
トムは周囲を見渡した。もうすぐ目的地に着きそうだった。2日前の夕方、彼はこの入り江をランニングしていて、そのスポットを見つけた。7時10分頃、2つの岩に挟まれた海岸線がくぼんだ場所に、夕陽がすっぽりと入り込み、陽だまりができるのだ。砂の上には海水が少し入り込んでいるだろうけど、それくらいは大丈夫だろう。
先ほど、彼女を連れ出すのにひと苦労した。彼女はローラの家の庭に突き出たテラス席で、ジントニックを飲みながら本を読んでいた。トムはそわそわと落ち着かないふりをして、散歩しながらおしゃべりしたい、と切り出した。二人だけの時間が欲しいんだ、と。
「明日じゃだめなの?」とエズミーはスリラー小説を閉じながら、少しイライラした口調で言った。彼女はトムに発言を遮られたり、読書を邪魔されたりすると、いつもこんな口調になる。
「僕は今すぐに行きたいんだ。外でっていうか、外に出たらきっと気分いいよ」と彼は言った。「なんだか息が詰まりそうなんだ」
「ここだって外でしょ。コーンウォールの静かな地区の素敵な庭にいて、聞こえるのは波の音だけ。いったいどうしたら『息が詰まりそう』になるの?」
「わからないけど、もう詰まりそうなんだ」と彼はしつこく言った。
最終的に、彼は彼女をどうにか説得し、彼女はお酒と本を手放し、立ち上がった。実際は、ローラの子供たちがパジャマ姿で庭に飛び出してきて、急に騒がしくなったことが彼女の腰を上げた、と言った方が正しいかもしれない。
そして今、トムはエズミーを引き連れ、小さな岩を乗り越えたところで、立ち止まった。
「ここだよ」と彼は言った。
「ここって、どういうこと?」
「この小さなスポットだよ。素敵じゃない? こないだ見つけたんだ。君に見せようと思ってね」
「そうね。ちょっと砂浜が濡れてるけど」と彼女は言って、水に浸かった〈ビルケンシュトック〉のサンダルを見下ろした。「潮が満ちてきてるのよ。もうすぐ膝(ひざ)まで浸かるわ」
「まあ、それはそうだけど...」彼は言葉を失い、自分が何を言おうとしているのか半分わからなくなった。心臓の鼓動が速くなり、声にはパニックの色が乗っかった。「そこに座ってくれないか? あの岩の上に」
「なんで岩の上に座らなきゃいけないの?」
「君に見せたいものがあるんだ」
「トム、大丈夫? かまってちゃんみたいになってるわよ」と彼女が言った。ローラの娘を引き合いに出しているのだとわかった。あの子は人目を引きたくて仕方がない年頃らしく、事あるごとに「見て!見て!」と言ってエズミーを目の前に座らせ、歌ったり踊ったり、時にはクラスメイトに関する長くて入り組んだ話を聞かせるのだった。
「僕は大丈夫だよ」
「十分変な行動してると思うけど」
「大丈夫だって言ってるじゃないか」と彼は言い張った。「君にプレゼントを用意したんだ。さあ、そこに座ったら目を閉じて」
警戒しつつも、エズミーは言われた通りに目を閉じた。それを見て、トムは半ズボンのサイドポケットに手を突っ込んだ。
彼の足が砂浜に溜まってきた水を弾(はじ)くピシャッという音がして、エズミーは思わず目を開けた。
「トム」
「エズミー、もうすぐだから。水かさが増してきてるのはわかってる―」
「トム、いったい何がしたいの?」
「エズ、頼むよ」と彼は言って、彼女を見上げた。海岸が若干斜めになっていて、トムに向かって傾斜(けいしゃ)している分、彼女は普段より背が高く見えた。
「ダメ! もうあなたが何をしようとしてるのかわかったから、それはやめてって言ってるの」
「でも―」
「それは言わないで、そのまま胸に秘めておいて、トム。その箱は開けちゃダメ」
「エズミー」と懇願するような声を上げるトムをよそに、エズミーは、今やすっかり水に浸(つ)かってしまった岩から降りて、セントアグネスの町の方へ、傾斜のあるビーチを足早にのぼっていった。彼は指輪の箱をパーカーのポケットに押し込むと、彼女の名前を叫びながら、彼女を必死で追いかけた。数分歩いたのち、彼女は立ち止まり、彼の方を振り返った。
「何?」と彼女は言った。海の家や売店などが建ち並ぶビーチの天辺(てっぺん)まで、もう少しでたどり着きそうなところだった。ポテトを揚げる匂いが風に乗って漂ってきて、パブから騒がしいしゃべり声が耳に届く。
「僕はただ―」
「何、トム? ただ何? ためしにプロポーズでもしてみようかって? 私がどう思うか聞いてみようと思ったの? 指輪なんか買っちゃって、こんな散歩がてらの計画なんか立てて、私の気が変わるとでも期待したわけ?」
「いや、そういうわけじゃ―」
「何度も何度も言わせないでよ、トム。今までだって気まぐれで言ってたわけじゃないし、素敵なジュエリーを見せられたからって、あら、じゃあって、そっちになびくような軽い意志じゃないの。他の人は誤解しても、あなたなら理解してくれると思ったのに」と彼女は言って、後ろを向き立ち去ろうとしたが、再び彼に向き直った。「ローラはこのことを知ってるの?」
「いや」
「私は絶対に誓って―」
「エズミー、誰も知らないよ」
「私の母は?」と彼女が聞いてきて、トムは返答に困ってしまう。「ママは、あなたがこういうことをしようとしてたのを知ってたの?」
「いや...なんていうか、これは知らないよ。気持ち的なことはともかく」
「ちゃんと教えて、トム」
彼は彼女を見た。彼女の髪が、コーンウォールの崖を下りてくる風にさらさらとなびいていた。風はハリエニシダの茂みをも揺らし、その黄色い花の香りが荒野にふわっと舞い広がっていく。彼女の頬は暗がりの中で夕陽に染まり、目は大きく開かれ、しっかりと彼を見据えていた。彼女が怒っていることが目から目へと伝わってきた。
「もしあなたとママが共謀(きょうぼう)して、これを計画していたことがわかったら、私はあの車に乗ってすぐにロンドンへ帰るわ」と言いながら、彼女はウェールズの方角を指差した。「一人でね」
トムは喉まで出かかった言葉をのみ込み、一瞬ためらった。自分が言おうとしていることが事態を悪化させるのか、それとも好転させるのかわからなかった。しかし自分は今ここにいて、目の前に彼女がいる。今、彼女に真実以外のことを話しても意味がないことだけはわかった。
「君のお父さんだよ」
エズミーは一瞬黙り込んだが、それを受け止めたようだった。「私のパパ?」と彼女は言った。「どういうこと?」
「ほら、あの時だよ。彼が僕に話しかけたじゃないか、彼が死ぬ前日、覚えてる?」
彼女はトムから視線を外し、今にも沈もうとしている夕陽を眺めた。あの日のことを思い出しているようだった。昨年の11月、二人でレスターの彼女の実家を訪れた。そしてロンドンのアパートに帰宅した翌日の朝だった。まだ外は暗かった5時頃、エズミーは母親から、タマスが階段の上で倒れていた、という電話を受けたのだ。おそらく化学療法の影響で発作が起きたのだろうということだった。すぐに車で病院に向かい、7時過ぎには着いたが、その時にはすでに彼は亡くなっていた。エズミーが父親に最後のお別れを言うには30分ほど遅かった。
「彼に結婚を認めてくださいとか言ったわけ?」彼女はまだ半信半疑の様子だった。「ってことは、あの時車の中で言ってた、彼を許してやれよ、とか、長く続く結婚生活はきっと素晴らしいよ、とか、あのくだらない話は全部、私を振り向かせるためだったってこと?」
「いや―」
「いつになったらそういうのやめてくれるの、トム? 周りの人たちからも、ずっとそのことを聞かれ続けてきたけど、私の中では、とっくに解決済みの問題なのよ。今さら埃(ほこり)のかぶった本を引っ張り出してこないで」
「エズミー、君は誤解してるよ」
「一つだけ答えて」と彼女は彼を無視して言った。「それは去年からのこと?」
「いや、なんていうか」
「私は呆(あき)れてるの。あなたはあなたの問題について、何年もずっと私に嘘をついてきたのよ。そのことへの謝罪の方法がこれ?...だとしたら」彼女はそこで言葉を探すように間を空けてから、続けた。「あなたは状況をだいぶ悪くしちゃったわね」
「エズミー、聞いてくれ!」トムは毅然(きぜん)とした態度で彼女の両手を握り、彼女が手厳しい言葉を吐き続けるのを止めた。彼は深呼吸をしてから、言った。「君のお父さんが僕に、君と結婚しろって言ったんだ。君が結婚という制度に反対してるのは、単なるポーズっていうか、本気ではないって彼は思ってたんだよ」
エズミーは何も言わなかった。だんだんと怒りが鎮まり、代わりに心が痛み始めたようだった。彼女の目は涙ぐんでいるようにも見えた。風のせいで涙の膜に覆われていただけかもしれないけど。
「もしそれが実現しても、その時には自分はいないだろうって彼は言ってたよ。でも、それが実現することを確信して死にたいって。だから...」
「私のパパのことで」と、彼女は悲しそうに言った。今まで心の奥に押し込んでいたあらゆる感情が、とめどなく浮き上がってきたかのような表情だった。父の死後、胸中に生じた未練やわだかまりが、一気に噴き出したかのような。「じゃあ、これって、彼のためにやってるのね?」
「いや、僕は―」
「それとも、あなた自身のためにやってるの? トム」と彼女は聞いたが、彼は何も言わなかった。「なぜあなたが私をこういうスポットに連れてきたのか、その理由を知りたいのよ。これはあなたが本当に望んでやったことなの? それとも、私の父の霊を慰めようとか、そういうこと?」
「両方、だと思う」と、彼は下を向いて、足元近くまで迫ってきた波打ち際に視線をやった。潮が少しずつ陸地を侵食してくるのが見て取れた。
「じゃあ、私だけだったってこと? 今までずっと? くだらない制度にしがみつくなんて馬鹿みたいって思ってたのは私だけ? そんなものに頼らなくても、二人で幸せに生きていけるって思ってたのは私だけ? 周りの人たちからそのことを聞かれるたびに、私とあなたは違うことを思ってたの? あなたは『ああ、もうすぐ彼女の気が変わるだろうから、それまでの辛抱だ』って?」
「そんなこと思ってないよ!」
「じゃあ、何? 9年間、そんなの必要ないって言ってきたじゃん。今のままでいいって。あなたは全部を納得の上、一緒に過ごしてきたんじゃないの? 私は今、こんな海の前に突っ立って、気付かされたのね、あなたの全ての言葉が嘘だったって」
「エズミー」と彼は切羽詰まったような声を上げた。「それは違う」
「どう違うの?」と彼女は叫んだ。「どう説明すれば、嘘じゃなかったってなるわけ、ねえ...教えて。嘘なんかついてないのなら、ちゃんと説明して。私たちはチームだって思ってた。あなたと私。エズミーとトム。私たち二人のやり方でやってきたじゃない」
「これからもそうしよう」
エズミーは再び彼に背を向け、海水に侵食されていない乾いた地面に向かって歩き出した。トムも彼女の後に続いた。
「彼がそういうことを言ったのはね、私やあなたのためじゃなくて、彼自身のためなのよ。それがわからないの? 私が結婚を拒絶するようになったのは、自分のせいだって彼は思ってたの。だから、あっちの世界に行っちゃう前に自分で解決しておこうって。そんなことが可能だって思うほど彼は傲慢だったのよ」彼女は袖(そで)で鼻を拭った。「あなたはすぐ人に影響を受けるお人好しだから、それに乗っかったんでしょうけど、本音を言えば、トム、あなたも内心ではそれを望んでるのよ」
「そうだとしたら? もし僕たちにはそれが必要だって僕が思ってるとしたら? 僕がそれを望んでるなら何?」
「そうだとしたら、あなたは失望することになるでしょうね。私は何度も言ったように―」
「で、僕の気持ちはどうなるんだ?」トムは波の音に負けじと叫んだ。そして無意識で自分の口から飛び出した言葉に驚いた。「今までずっと、すべては君を中心に回っていたけど、それはすべて」
「すべて何?」
「結婚だよ、エズミー。君は一度も、文字通り一度だって、僕がどう思っているかを聞いたことがないじゃないか。君がノーと言って、それっきり、この話は終わってしまった」
「私は結婚したくないのよ、トム。どうしてそんなにわからずやっていうか、理解してくれないの?」
トムはすぐには答えなかった。彼は自分の言いたいことはわかっていたが、それを言うことが賢明かどうか判断がつかなかった。
「それで?」と彼女が言った。
「僕たちにとって、そうすることが、いいことだと思うんだよ、エズ」と彼は一つ一つ事実を確認するように言った。「今まで...順調に来れた面もある。でもちょっと、ぎくしゃくしたこともあったよね。僕の...問題もそうだけど、君のお父さんのこととか。それで僕たちに必要なのは、これかもしれないって思ったんだ」
「私はそうは思わないわ」
「君が考えてさえくれれば」
「私だって考えてるわよ。結婚については、それこそ100万回も考えたわ。友達が結婚するってことで、女性だけの婚前パーティーに参加するたびに、そこで、あなたは?って聞かれるたびに考えさせられたわ。あなたのお母さんにも考えさせられた。彼女は私が気づかないと思って、会話の中にちょいちょい結婚の話を入れるじゃない。何なのあれ? サブリミナル効果でも狙ってるの?」
「ならいいよ」
「『ならいいよ』じゃないわよ、トム。全然よくなんかないわ。私の気持ちは前からわかってたはずでしょ」
「そして今、君は僕の気持ちがわかったはずだよね」
エズミーとトムはお互いに少し離れて立ったまま、それぞれ相手の目をじっと見つめていた。トムはその時、自分が見ているこの人は、何年も前にあのパーティーで出会った同じ女性なのだ、と、しっくり来るものがあった。彼女は今まで一貫して、自分自身にプライドを持ち、ぶれずに自分の人生を歩んできたのだ。一方、僕はどうだろうか? 僕は自分があの時と同じ人間であるという確証がなかった。そして、もし違う人間なら、彼女が今見ている人物は、いったい誰なのだろう?
「私はもう行くわ」とエズミーが言った。「追って来ないで」
「謝らないよ。僕は今日のことを後悔してない」彼女の背中に向かって、トムは言い放った。
「私は後悔してるわ」と彼女は歩きながら呼び返した。「私はあなたを拒否したくなかったのよ、トム。なのに、プロポーズしようとするなんて、そんな馬鹿な男だとは思わなかった」
15分後、トムはまだ海水に沈んでいない数少ない岩の上に一人で座っていた。今夜はどこで寝るべきかと考えていた。エズミーは僕がベッドに入ってきたら確実に嫌がるだろうし。その前に、僕がローラとアマンの海辺の家に戻ったら、どういう雰囲気になるだろう? 気まずくて無言? それとも、4人でトランプをしたり、おしゃべりしたりしながら、今日1日をぶち壊す出来事なんて起こらなかったかのようなふりをして、何食わぬ顔で夜を過ごすのだろうか?―1日どころか、この1週間を僕はぶち壊してしまったというのに。
もしかしたら、パブに空きがあるかもしれない。しかしトムは知っていた。今日という日だけは、そんなところに行ってはいけない、と。ビールサーバーや、並んだボトルや、色とりどりの電球に囲まれて、一晩を過ごすわけにはいかない。
パーカーのポケットに手を入れて、彼は小さな黒い指輪の箱をつかんだ。ベルベット素材の粗い感触が指に伝わってくる。彼は一瞬、それを海に投げ込み、ケルト海の穏やかな波間に漂わせて、遠い船出を見送りたい気持ちになった。しかし、一方でそれができないこともわかっていた。見えない何かが、未知なる力が、彼をこの小さな箱に固く結びつけているのだ。売ることも、返すことも、捨てることもできずに、彼はこれを家に持ち帰るだろう。そして、机の引き出しの一番奥に入れて、ほこりをかぶるまで放置しておくのだ。金の輪は時とともにくすんだ色に変色し、平板なエメラルドは誰にも見られることなく、輝きを失っていくのだろう。
「なんてことしてくれたの!」背後から声がして、振り向くと、ローラが砂地を歩いて近づいてくる。この海辺の町に引っ越してから、彼女は中流階級のイギリス人女性然とした身のこなしになっていた。青と白の〈ブルトン〉のトップスを着て、カーキ色のタイトなズボンを足首までまくり上げ、〈ソルトウォーター〉のサンダルを履いている。ウェーブのかかったブロンドの髪は肩のところで外側に跳ねている。彼女は昨年のクリスマス前に『デイリー・テレグラフ』紙の記者を辞め、ここに引っ越してきてからは、子供向けの本の執筆に専念している。前みたいな生き急いでいる感がなくなったのは、彼女がロンドンを離れたことと関連しているんだろうな、とトムは思った。
「座ってもいい?」とローラは言って、彼が答える前に彼の隣に立ち、岩に腰を下ろした。「こうして一晩中、ここにいるつもりなの?」
「いずれ海に流されるかもしれないと思ってね。波が僕をさらって、向こう岸まで運んでくれるんじゃないかって。そしたら、新しい人生を始められるかもしれない」
「海の向こうはアイルランドね」
「たぶんそんなに遠くないよ」
「たぶんここもそんなに悪くないわ、トム」
「まあね」とトムは言って、足を前に伸ばし、足の裏を海水に浸(ひた)った砂浜につけた。粒が大きめの砂の感触が肌に気持ちいい。「今は、これ以上悪くなることはないって感じで、どん底を味わってるよ」
「トム」ローラは自分の子供に、言うことを聞きなさい、とたしなめるような言い方で名前を呼んだ。
「彼女は今どんな感じですか?」
「彼女は大丈夫よ。まだちょっと動揺してたかな。今はモーに読み聞かせをしてるわ。ドクター・スースの物語を、ジントニックで喉を潤しながら朗読してる」
「モーくんはドクター・スースをもう理解できる年齢でしたっけ?」
「まだ自分では読めないけど、アニメは好きだから、エズミーが声をあてて、絵を見せながらお話を聞かせてるのよ」
トムは、ローラの家の広いリビングのソファに座って、読み聞かせをする彼女の姿を思い浮かべた。高価な木製の家具や、装飾用の流木や、カラフルなプラスチック製のおもちゃに囲まれ、2歳の男の子を膝の上に乗せ、彼を包み込むように腕を回し、彼の肩越しに朗読している彼女の姿が目に浮かんだ。彼女の声まで、頭の中に流れ出す。それぞれの登場人物をはっきり区別しようと、口調やアクセントをわかりやすく変えながら、子供を喜ばせるために、1ページ1ページゆっくりめくっていく彼女の指まで見えた気がした。
「子供は好きだけど、自信がないの」というのが、子供を持つことについて話した時のエズミーの常套句だった。彼もまた、同じように自信はなかった。自分自身の人生でさえ、こんなにめちゃくちゃな有り様なのだから、もう一つの命の人生をちゃんと監督できるとは、到底思えなかった。ただ、子供がいないまま、二人だけで一緒に年を取っていくことを思い描けるのと同じくらい簡単に、将来子供ができることも想像はできた。とはいえ、それについて二人できちんと話し合うこともなく、生活の忙しさにかまけて、年々大きな決断から遠のいていっているのも確かだった。他の人々が新しいキッチンを設置することについての議論を避け、後回しにするのと同じように、この問題を回避してきたのだ。
「ちょっとやっちゃった感じですよね?」とトムは言った。
「そんなことないわ!」ローラはそう言って、長めの間を空けてから続けた。「なんていうか、よくやったわ、とは言えないけど...そうね、トム。あなたの気持ちはわかるわ」
「わかってくれる人がいて良かったです」
「いつから気が変わったの? 結婚を迫るほど、あなたがこだわりのある人だとは思えなかったけど」
「彼女の父親に言われたんです。亡くなる直前に」
「そうみたいね、それはさっき聞いたから知ってる。けど、実際、エズミーがお父さんと何回結婚について話し合ったと思う?」と、彼女が意表を突く質問をしてきた。さすが元ジャーナリストだと思った。長年にわたって彼女に鋭く詰問(きつもん)されていた政治家たちに、一瞬同情した。
「それは、一度もないでしょうね」
「その通り」
「でも、彼と話したことで、僕自身もそうしたいんだって気がついたんです。それが大きな問題になってしまって」
「あなたはきっと乗り越えられるわ」
「そうかもしれないけど、いつまで経っても、わだかまりは消えないんだろうなって。消えませんよね? 僕は乗り越えたいけど、彼女は引きずるでしょうし」
トムは海水に足を突っ込んだまま、足の指の間に砂が絡(から)まっては、海水に流される感触を楽しんでいた。
「愚かな考えだった。こんなことやる前に気づくべきだった」と彼は言った。
「元気出しなさい、トム。実は私もね、あなたと同じように、エズミーの気持ちが変わるかもしれないって思ったことがあるのよ。あなたのおかげでね。だけど、あなたも知っての通り」
「はい」
「こういうことに関しては、彼女の意志は固い」
トムはうなずいて、足を組み直した。
「彼女はいつも、結婚なんてただの紙切れだって言ってるでしょ。でもね、紙切れの中には他の紙切れよりも価値のあるものだってあるのよ」とローラは言って、結婚推進派の旗(はた)を掲げるように、カラフルなネイルを施した指を突き上げた。「エズミーが何と言おうとね」
「大学の学位記」
「は?」
「彼女が最も大切にしてる紙切れだよ。それは大学の学位記」
ローラが微笑んだ。
「あなたたちはやっぱり相性抜群みたいね」と彼女は言った。「あなたもそれに気づいてるんでしょ?」
「そう思いたかったんですけど」
「トム」と彼女が言った。またあのたしなめる口調だ。
「なんだかもうめちゃくちゃですよ」
「そういう時もあるわ。あなたたちなら、きっと乗り越えられる。いろんなカップルがいるけど、あなたたちは相性がいいカップルなんだから、カチッとはまる。あなたに足りないものはすべて、彼女が持ってるんだし。その逆も然り。二人はあれね、うちにいっぱいあるレゴブロック。あなた子供の頃、得意だった? あの要領で二人の関係を組み立てていけばいいのよ」
「それは僕たちより、あなたとアマンに当てはまることですよね」
「よしてよ、トム。私はアマンを愛してるけど、でもね、時々私たちの関係は、もう最悪。ドタバタ喜劇よりひどい有り様よ。私の父は相変わらず人種に偏見があるから、私がアジア人と結婚したことをいまだに快く思ってないし。アマンはアマンで、私がたまに仕事で出張するのが気に入らないのよ。ずっと家にいろって。そのくせ自分は、講演してくれって呼ばれれば、二つ返事でほいほいとどこへでも飛んでいくのよ。こないだも、サンフランシスコでIT系のオタクたちが集まる会議があったんだけど、彼は勝負スーツを持って出かけていったわ。絶対にあれね、若い女性記者たちを口説きまくってるのよ。彼へのインタビューが終わったら、今晩食事でもどう? とか言ってね。私も昔は言われたこともあったけど、私たちは今ではもう、ほとんどセックスしないわ。その代わりみたいに、少なくとも月に一回は、口げんか。それっきり結婚生活が終わってしまうんじゃないかってくらい、毎回激しく言い合ってる」
「そうなんですね。僕の立ち位置からは、すべてが順調に見ていたけど」
「順調なわけないじゃない。でもね、私たちはこのレールから降りないわ。私たちはお互いを愛してるから。降りたい理由なんてたくさんあるのに、降りない」と彼女は笑いを交えて言った。「あなたとエズミーは全然違う道を歩んでるけどね」
「僕たちも以前はそんな感じだったんですけどね」
「どういう意味?」
「あなたは彼女から聞いて、何でも知ってるんでしょ? 去年の、あの...エピソードも」
ローラはうなずいた。
「あれ以来、ほんとに大変なんですよ。彼女にいろいろバレちゃって...よりによって僕の母親から」
「知ってるわ。彼女が言ってた」
「それで今度は、彼女の父親が」
「トム、あなたは―」
「問題は、僕がまだちゃんとしてないってことなんですよ、ですよね? なんていうか、まだ具合が良くなってないっていうか、今でもたまに、やばいなって時があるんです」
「エズミーは知ってるの?」
二人は座ったまま、しばらく暗がりの中で波がゆったりと打ち寄せる様を眺めていた。
「トム」と彼女は言って、彼に何か言うように促した。
「だからですよ。だから僕はプロポーズしたんです。そうすれば彼女は、これからも離れない。もし次の機会があれば、もう一度」
「エズミーは、それは知ってるの?」
彼は答える前に、少しためらった。「いえ、気づいてもいないでしょうね。彼女は僕を買いかぶってるんです。僕は彼女が思ってるような男じゃないのに」
ローラは立ち上がり、お尻についた砂を払うと、海の空気を長く深く吸い込み、ふーっと吐き出した。
「それは私に相談することじゃないわ。私はあなたのことが大好きよ。それはあなたもわかってるでしょ。でも、そういう相談には乗れない」
「ローラ...」
「私は戻るわ」と彼女はきっぱりと言った。「モーの寝る時間だから」
「お願いします」
「彼女と話して」ローラは彼を振り返って言った。「いい加減にして。それは彼女と話して」
トムはそれから1分ほど、海が少しずつ迫ってくる様を眺めていた。今夜のパブは大盛況らしく、騒がしい声が漏れ聞こえてくる。パブの中ではバンドが演奏しているようだ。それを聞きながら彼は、最後に観客の前でライブをした時のことを思い出していた。そろそろ復帰してもいい頃合いかな、と思った。―ただ、ライブをするにはお金が必要だった。
遠くで、教会の鐘が鳴り始めた。彼はポケットから指輪を取り出した。
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〔チャプター 16の感想〕
コーンウォールという地名にピンときた方、あなたはもう通(つう)です!笑←イギリス通?←いや、藍通!笑
藍はプロポーズする状況にすら至ったことも(そういう状況をサプライズ的に作ったことも)ないから、何も語れないんだけど、独り身には世間の風当たりが手厳しいっていうのは、ある! スーパーマーケットとかで周りからの視線が辛辣というか、まるで「独り身はずるい」みたいな...いやいや、藍は好き好んで独身貴族を気取ってるわけじゃなくて、たくさんの女性にふられまくって、つまり不本意ながら、独り身のままでいるわけで...それをふまえて、風当たりは「弱風」か「微風」でお願いします🙇笑
藍にとって、付き合う付き合わない、というピュアな恋の指針はダッシュとリリーで、←お前、体だけピュアって、一番キモいパターンじゃねーかよ!爆笑
ちょっと大人な、結婚するしない、という色恋の指針はトムとエズミーかな☕←トムとジェリーじゃなくて?笑←は?←だって、追いかけっこでしょ?爆笑
(これはトムとエズミーの話ではなくて、藍とまゆちゃんの話なんだけど、笑)藍を引っ張れるだけ引っ張って捨てれば、藍が途方に暮れるだろう、藍が空っぽになるだろうと思って、藍を捨てたんだろうけど、でもね、空っぽにはならなかったんだよ。藍の中には一緒に過ごした濃密な時間が、(尾ひれまでつけて、笑)ちゃんと息づいているんです!←まゆちゃんって誰?←それはもちろん、空想上のキャラクター。笑
一つアドバイスをすると、本当に相手にダメージを与えたいと思ったら、最初から拒絶しないとね!笑←でも、そしたら君はそんな女性のことはすぐに忘れて、他の女性にアプローチをかけるでしょ!←当たり前だろ!!←だからだよ。だから彼女はいったん受け入れてから、引っ張れるだけ引っ張って、捨てたんだよ。←なるほど。←その証拠に、彼女の術中にはまって、今でも彼女のことを毎晩考えてるじゃん!!←毎晩ではない、たぶん...
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チャプター 17
午前10時~11時
病院内の一番哀しい場所
2017年1月 ― ロイヤル・フリー病院、ロンドン
エズミーは足を床に叩きつけていた。まるでどこかで音楽が流れていて、そのビートに合わせてリズムを踏んでいるかのように、彼女は数秒おきに、コン、コン、コン、と靴音を踏み鳴らすのだった。彼女の靴の硬くて平べったいかかとが、病院の淡いブルーの冷たいリノリウムに当たって、残響が遠くまで流れていく。むき出しの冷えた廊下は、実際の音よりもはるかに大きな音を響かせるらしく、コンッという音一つ一つにエコーがかかったように、産科病棟の妊娠初期ユニットを通り過ぎていった。
妊婦や、その後ろを心配そうに歩く父親たちが前を通り過ぎても、彼女はほとんど顔を上げなかった。家の近くの町医者から「問題がある」と言われて以来、彼女は幼い子供や赤ん坊を目にするだけで、涙ぐむようになっていた。それで、あえて見ないようにしているのだろうとトムは思った。
先日、その町医者は「この段階では決して良い兆候ではありませんね」と言っていた。彼はかなりの老医で、とっくの昔に医学の限界を知り、今では情熱も失せ、毎日惰性で診察をしているのではないか、と二人は訝(いぶか)しんだ。「紹介状を書きますから、大きい病院で血液検査を受けて来てください。その結果を見てみましょう」
検査結果がウェスト・ハムステッドの個人病院に送り戻され、hCGの値が低いことが確認されたことで、エズミーは総合病院の妊娠初期ユニットで診察を受けることになり、予約を取った。
「どのくらい低いんですか?」とエズミーはその町医者に聞いていた。
「正常な値ではないってことです、残念ですが。妊婦初期の段階では通常、数日ごとに倍になって、どんどん増えていくはずなんですが、どうもそうはなっていないようですね」
この日の予定をすべてキャンセルしたエズミーは、朝からインターネットで、妊娠初期に出血し、hCGの値が低いと診断された女性の朗報を探し回った。彼女は、人生の悲運をみんなで書き綴るフォーラムに救いを求めたが、彼女が得られた反応は、医学用語の頭字語と、同情だけだった。
一方、トムは再び、やばい状態に陥りそうな予感を、昨年の後半からじわじわと感じていた。自分の中に何かがあるような、肺か胃か、その辺りに何かがあるような感覚。実際、肋骨の内側に手を入れれば、それを掴んで引っ張り出せそうなリアルな感覚に、彼はマントラを唱えるように、必死で自分に言い聞かせた。エズミーに気づかれちゃダメだ。
彼は季節が変わるとともに、その嫌な予感も過ぎ去ってくれることを願った。年末が近づき、冬の到来とともに、胸のつかえも真っ白に消えてくれるのではないか、と。彼は落ち込んだ時には、すべてを肯定する言葉を内心で繰り返し呟いていた。自分は無価値なんかじゃない、人生に希望がないなんてことはない、と。しかしそれでもなお、嫌な感覚はくすぶっていた。自分がいつ壊れてもおかしくはない、という感覚が。
そんな時、エズミーから陽性反応を見せられた。トムはそれを見て、自分のことよりももっと重要な、考えるべきことができたと思った。自分は病気だと言い訳して、嘆いたり苦しんだりしている場合ではない、と。誰かを守れる、踏ん張れる男になる時が来たのだ。
「でもこれって、『妊娠』ってことでしょ?」と、エズミーがベッドに潜り込んできて言った。彼はベッドの上で気を紛らわせようと、やみくもにスマホの画面をスクロールしていた。彼女は、生理は予定通り来てるのに変ね、と首をかしげていた。
「そうみたいだね」
「ということは?」とエズミーは言って、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「ということは...」
「あなたがパパになるってことよ」と彼女が言った。
トムは微笑み、次第に声を上げて笑い出し、そして嬉し泣きした。けれど、その裏には再びあの深い恐怖がひそんでいた。自分の面倒を見るだけでもこんなに必死な男が、どうして子供の面倒なんて見ることができるだろうか? トムはネットで、うつ病や不安神経症が遺伝するかどうかを検索し、いくつかの記事を前のめりになって読み込んだ。
同時に、こんな時に赤ちゃんができることに不安も感じていた。エズミーの父親の死、コーンウォールでのプロポーズの失敗、などをまだ引きずっていて、二人の関係は最近ぎくしゃくしていた。大晦日に二人でお祝いをし、新たなスタートを誓ったものの、2017年が始まるというよりは、2016年がようやく終わった感がまだ強いこの時期に、新たな命を受け入れられるかどうか不安だった。
それでも、もしかしたら、そんなすべてを消し去るように生まれてきた赤ちゃんが、二人が必要としている希望をもたらしてくれるかもしれない。くしくも、トムがプロポーズを通してもたらそうとした希望を。
彼は認めようとしないだろうが、二人の間に生まれた子供が彼の心を癒し、症状を回復させる存在になるかもしれなかった。彼を泥沼から救い出してくれる存在、二人の絆をしっかりとつなぎとめてくれる存在に。
「エズミー・サイモンさん?」と、ぽっちゃりとした赤い頬の看護師が、老朽化して所々ペンキの剥がれた灰色のドアから顔を突き出した。二人は彼女を見上げた。「もうすぐ診察しますよ。今、別の女性の診察が終わるところなので」
まだ待つのかよ。今回の件では、全体において時間が元凶だった。数日で簡単に解決できたはずの問題が、何人かの一般開業医が口先だけで曖昧な回答をし、責任を回避するように他の病院に回されるということを繰り返し、3週間もかかってしまったのだ。
最初の町医者は、出血に対するエズミーの心配をほとんど無視し、「着床の問題ですね」と軽く扱い、まだ8週目だというのに、いきなり助産師を紹介する始末だった。
「お昼時だったから、彼はランチのことで頭がいっぱいだったんじゃないかしら」と、後になって彼女は言った。
それでもエズミーは自分の体を心配し続け、もう一度診察を受けようと決意し、予約を入れ、それから、何度かその町医者の診療所を訪れ、そのたびに検査し、首をかしげる老医の顔を覗き込むはめになった。
ようやく、緊急性を帯びてきて、そして今に至る。
トムは手を伸ばし、軽く震えているエズミーの手を取った。
「大丈夫?」
「怖いわ、トム」と彼女は静かに言った。「本当に怖い」
「わかってる。僕はここにいるよ。一緒に乗り越えよう。すべてをね。僕が言ったように」
彼女は彼の片手を両手で挟むようにして握り締めた。
「この廊下は冷たいけど、君は一人じゃないよ、エズ」
エズミーは足元を見下ろした。彼女が深呼吸をすると、再びドアが開いた。先ほどと同じ看護師がドアを手で押さえている横から、ショックを受けた様子のアジア系の若いカップルが出てきた。男性はパートナーの背中に手を添えている。彼女の手には、他の病院の診断書らしき紙が何枚か握られていた。
「エズミーさん」と看護師が言った。
彼女が立ち上がって先に入っていった。トムは後に続き、看護師に「こんにちは」と言ったが、無視された。エズミーはカーテンの後ろに通され、スキャンを担当する超音波検査士が「スーです」と名乗るのが聞こえてきた。その間、彼は診察室の隅に椅子を見つけ、二人のコートと彼女のバッグを膝の上に載せたまま、そこに座っていた。
「さあ、こっちよ」と看護師が言った。それまでトムは気づかなかったが、彼女は北部なまりの心地よい声をしていた。「あなたは、いわゆる生存不能な妊娠をしています。というのはつまり―」
「その意味はわかってます」とエズミーは淡白な声で言った。「ごめんなさい。本を読んできたので」
「そうですか。それじゃ、現段階での治療法も知ってますか?」
「いいえ」と彼女は言った。彼女の声は、今度は少し震えていた。
「まあ、この初期段階では、卵子が自然に溶解するかどうかを見ることになるでしょう。もしそうならなければ、医師があなたと相談して、選択肢を検討することになります」
その看護師はエズミーに優しい声で、気をつけるべきことや、様々な場合の対処法などを説明し、これまでに何が起きたのか、次に何をすべきかが書かれているリーフレットを手渡した。そして、二人は別のカップルが待つドアの外へと案内された。
トムはエズミーの背中に手を添えるようにして廊下を歩き、冷たく哀しい妊娠初期ユニットから離れていった。病院内を歩きながら彼は、可能な限り彼女の視界をさえぎり、幸せそうな妊婦が見えないように配慮した。しばらくすると、二人は病院の外に出て、1月の冷たい日差しの中にいた。
「大丈夫?」
「何か飲みたい気分だわ、お願い」
トムは時計を確認した。11時15分前だった。この辺りのパブは、まだどこも営業していないだろう。
「エズ、まだ11時にもなってないよ―」
「いいじゃない、トム。どこか開いてるお店を探してよ」と彼女はピシャリと言った。「あなたは飲むことに関してはエキスパートなんだから、見つけられるでしょ」
ガツンと一発くらったような衝撃を受け、彼は何も言い返せなくなった。今はその時ではない。今回は、飲みたくて仕方ない自分のために飲み屋を探すわけじゃない、と自分に言い聞かせた。たしかに考えてみれば、人生において成し遂げたことがあるすれば、開いてる飲み屋を見つけることくらいだった。
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