『帰り道にて』2
『The Way Back』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2021年07月09日~)
チャプター 3
ホーブ・キャラバンパーク
パトリック
キャラバンパークは、まるでキャンピングカーの墓地のようだった。見渡す限りずらっと、白い抜け殻のような車が区画(くかく)ごとに止まっている。その多くは何ヶ月も放置された状態で、風雨(ふうう)にさらされ、埃(ほこり)に埋もれていた。タイヤがパンクしているものもあるし、苔(こけ)が生え始めているものさえあった。―どの車もこのパークに放って置かれたまま、少なくともひと夏は独りぼっちで、所有者が乗りに来るのを待ちわびていたことが見て取れた。当の所有者は、キャンピングカーの存在など忘れ、他の手段で休暇を満喫していたのだろう。
「親父のはどこだっけ―」
「6列目の12番よ」カースティは、いつになったら覚えるの? と言外に込めて言った。今日の彼女はなんだか素気(すげ)ない。(学校が1週間の中間休みに入り、)おそらく今年最後くらいのさわやかな気候だというのに、ビーチにも行かず、こんなことをして土曜日を過ごさなければならないことに苛立っているようだ。
今日はキャンピングカーを引き取って洗車した後、ホーブの火葬場に行って父親の遺灰を回収することになっていた。そして来週の水曜日、彼の遺灰を彼の車に乗せて、いよいよスコットランドへの旅に出発する。
彼らは、法外とも思える大金を支払って、前もって金と黒の立派な骨つぼを購入した。母親が亡くなった時、何も用意せずに行ったら、安物のビニール袋に入った遺灰を渡されたからだ。パトリックは、数年前の、その時に感じたことを思い出していた。人の死も、物流同様、事務的で簡易的なものになってしまったんだな、と思った。葬儀屋が悲しみに暮れる家族に対し、故人のためにも、と、より高額な商品を売りつける機会に成り下がってしまったようだった。
「いまだに信じられないよ、こんなことするなんて」とパトリックは言った。
「正しいことをするのよ」
「わかってるけど、まったく、無茶な頼みごとするよな」
「よしな、パトリック」
「ていうか、二人でほんとにするつもりか? 彼の最後の願いは三人で、ってことだろ。彼女なしじゃダメだろ」と彼は言った。
二人ともジェシカとは連絡を取っていなかった。8日前の火曜日、葬儀の後の夜にジェシカが実家をこっそり抜け出して以来、彼女から連絡はない。彼女がキッチンに戻ってこないので、彼らは「ジェシカ」、「ジェシ」、そして何度か「ジェシー」とも呼びながら家中を探し回った。「ジェシー」と呼ばれることを彼女は嫌がっていて、それを聞いたら怒るかもしれないとはわかっていた。5回ほど電話もかけたが、返ってきたメッセージは1通だけだった。
ジェシカ:ホテルに戻ってる。電話はやめて。そんな馬鹿げたこと私はしない。
実家に残されたパトリックとカースティは、二人で簡単に話をした。二人の間には明確な意見の一致があった。パトリックは、これをやり遂げなければ、自分の内なる良心が許さないことを自覚していた。ジェリーの最後の頼みまで断ってしまったら、罪悪感でがんじがらめになって生きていけない。父が病床に伏していた時、そばにいてあげられなかったことへの罪悪感がすでにあった。マギーが彼を、赤の他人のように感じていること。祖父として、それはつらかっただろうと思う。ジェシカがいないと、半分しか達成したことにならないかもしれない。たとえそうだとしても、やってやる、と彼は意気込んでいた。
その上、クラウチ・エンドに居続けることが耐えられなくなっていた。スチュと彼の妻は親切だし、いろいろ気にかけてくれて、マギーを温かく受け入れてくれた。しかし、招かれざる片親の客は、彼らのロンドン流のライフスタイルにはそぐわないことをひしひしと痛感していた。ソファに座って娘と一緒に『モアナと伝説の海』を見ていると、彼らは彼をディナーパーティーに誘ってくるといったことが重なった。彼らは夜にヨガのレッスンを受けたり、ジムでがっつり体を鍛えたりしていたが、彼はごくたまに公園の周りを5キロほどジョギングする程度だったから、その差が恥ずかしくて、いたたまれなくなっていたのだ。
最近、彼はお昼時にぶらぶらと街を歩き、建ち並ぶ共同住宅を見上げながら、自分が初めてこの街に来た時のことを懐かしく思い出していた。―2006年から2011年まで、彼とスチュはチョーク・ファームの辺りでルームシェアをしていて、夜になると〈ザ・ロック・タバーン〉に飲みに繰り出したり、スポーツなら何でもいいから、テレビでその日やっている試合を見ながら二人で楽しく過ごしていた。数年後、スチュはサラと出会い、彼はスーズと出会い、人生が好転しだした。あの頃からマギーが生まれた直後までが、彼の人生で最も幸せな時期だったと言えるだろう。娘の誕生をピークに、後は下がる一方だった。
「ここよ」と、カースティが立ち止まった。彼女が指さす先には、芝生から小さな石碑(せきひ)のような平らな杭(くい)が突き出ていて、「12」とペンキで手書きされていた。
父の車は周りに停まっている他の車よりも明らかに古く、かなり汚れていた。車種はフォードの〈トランジット〉で、後部にこじんまりとした荷物入れが付いていて、運転席の上にはキャビンが乗っかっている(この部分を見るとパトリックはいつも、額の上でがっつり固めた「リーゼントヘアー」を思い出す)。フロントガラスは蓄積された砂ぼこりで濁(にご)っているし、片方のドアミラーはガムテープで固定されているし、助手席の下のタイヤはぺしゃんこにパンクしていて、全体的に沈みゆく船のようだった。
車体の横にでかでかと貼られた〈THE ADVENTURER(冒険家)〉という鮮やかなブルーのステッカーとは裏腹に、その佇(たたず)まいは、めそめそとしょぼくれているみたいだった。
「最後にいつ―」
「3年くらい前」とカースティが、パトリックの質問を先回りして答えた。「ママが亡くなってから1年後に、パパはノーフォークまで釣りに行ったのよ。キングス・リンの近くの川に行ったみたいね」
「それ以来、ここに置きっぱなし?」
「まあね」
「しょうがねえな。俺たちできれいにするか?」彼は鍵を手の中で転がしながら、キャンピングカーに向かって歩いていった。ドアを開けると中から何が出てくるのか、と内心ドキドキしていた。ネズミ? 人間の死体? 家をなくした家族が秋雨(あきさめ)を避けるように暮らしてたりして?
パトリックは薄っぺらいドアに鍵を差し込み、ひねった(というか鍵がなくても、こんなぺらいドアなら、簡単に突き破れそうだと前から思っていた)。ドアを開けたとたん、むわっとカビ臭い湿った空気が二人の顔を襲い、二人とも顔をしかめる。天井の電灯のスイッチを入れてみたが、バッテリー切れらしく、つかなかった。スマホの明かりを頼りに、二人は3段の小さな階段を登り、松の木をビニール加工した床をおそるおそる覗き込んだ。
「マジか」と彼は言った。「快適な空間ってこういうことか」
〈冒険家〉は子供の頃に乗った記憶よりも狭かった。最後尾に2段ベッドが2つと、バスルームがあり、そこから細い通路を3歩も歩くと前方の運転席に着いてしまう。真ん中の小さなテーブルは4人も集まればキツキツで、食事も同時には取れないのではないか。―この車は6人用をうたっているが、広告とはそういうものだと割り切った方がいいらしい。通路の片側には一応ベンチがあるが、窮屈だし、背もたれが垂直すぎて腰が痛くなりそうだ。このベンチがダブルベッドになるのだが、実際どこをどうやって変形させればいいのか見当もつかなかった。通路の反対側にはキッチンがあり、小型の冷蔵庫、2口のクッキングヒーター、ガス式のオーブングリルが設置されていた。
「思ってたよりきれいじゃない」とカースティが努めて明るい声で言った。彼女は鍵のついた食器棚を開けると、中の食器を手に取って眺めている。どの食器も昔家で使っていたもので、ある時この車に移されたものばかりだった。大昔のチョコレートバーのロゴが入ったマグカップや、親父が昔からひいきにしているサッカーチームの紋章が記(しる)されたマグカップが並んでいる。そのワトフォードFCのロゴマークは、現在の鹿(しか)をモチーフにしたものではなく、数十年前の蜂(はち)の紋章だったが、パトリックは一目でそれとわかった。その横に重ねられたプラスチック製のお皿は、90年代の前半に家族で行ったキャンプで使ったものだと彼は思い出す。
「まだ走るかな?」と聞きながら、彼は運転席に体を滑り込ませた。一方、彼女は小さなバスルームを見に行って、バスルームのドアにぶら下がっていた「ユーザーズガイド」に目を落とした。
彼は鍵穴にキーを差し込むと、勢い良くひねった。ダッシュボードが点灯し、ディーゼルエンジンの燃料タンクが4分の1であることを示した。もう一度キーを思いっきりひねると、エンジンが何度かゴホゴホと咳払いをした後、息を吹き返した。テーブルの真上の照明がすぐに点灯し、と思ったらすぐに消えた。キッチンに設置された時計が、雄鶏(おんどり)のように2回鳴いた。
「なんてこった」
「動くの?」と、彼の真後ろまで来ていたカースティが聞いた。
「動いちゃった」と彼は言った。
二人とも少しがっかりした口調だった。もしも、このキャンピングカーが故障していて使い物にならなかったり、あるいは大きな修理が必要だったりしたら、父親の指令とはいえ仕方ないな、と諦めるつもりだったのだ。代わりに飛行機で行くことを二人は考えていたのだが、その逃げ道は父親が予め塞(ふさ)いでいた。彼らの父親は、車のメンテナンスに関しては凝り性で、たとえ実際に運転してどこかへ行くことはなかったとしても、年に一度はちゃんと整備していたようだ。
あらゆる予想を覆して、〈冒険家〉は生きていた。
バーカムステッド、ハートフォードシャー
ジェシカ
彼女はスマホをチェックした。
カースティ:私たちのことを無視してるのはわかってるけど、キャンピングカーが動いたって一応知らせておこうと思って。水曜日の午前中、パットと私は出発する。あなたも気が変わったら来てね😘
それから再びスマホにロックをかけ、そのメッセージのことは忘れることにした。
ジェシカはガスコンロの前に戻ると、ぐつぐつと煮立っているミートソースの鍋をコンロからいったん外した。彼女はミートソースにもっとワインを加えようかと思案している。友人を家に招いたり、子供たちが出かけていて、いない時にはワインを追加するのだけれど、今日は馴染みのない声が頭の中でチクチクと嫌味っぽく、子供が食べる料理にお酒を加えるなんてもっての外(ほか)だと鳴り響いている。〈ママネット〉に寄せられた道徳的な正しさを押し付ける投稿みたいだ。
代わりに、彼女は大きな球状のグラスに赤ワインをなみなみと注(つ)いだ。このグラスは、ダンが買ったワイングラスセットの一つだ。元々は結婚式の記念品で似たようなものがあったのだけど、ダンが事あるごとにグラスを一つずつ割ってしまい、彼はその埋め合わせとしてこれを買ったのだ。
彼女はさっきのメッセージから気をそらそうと、キッチンを見渡した。去年、キッチンを改装したばかりだった。新しく石造りの床にしたアイルランド風のキッチンには、フライパンが芸術的に吊り下がり、すべてがシルバー系かダークブルーで統一されている。改装工事の後、ダンが「そのうちやる」と言って、そのままになっているものもある。茶色がかった灰色のブラインドを木目調のものに変えるはずがそのままだし、換気扇のところの黄色い電球を白いものに変えると言っていたのに、まだ黄色いままだ。しかし彼らは、少なくとも彼は、今ではその不完全さと共に生活していくことを選んだようだった。
ジェシカが降参したようにスマホを手に取り、再びカースティのメッセージを読むまでに、5分もかからなかった。
「誰からだ?」と、キッチンのドアを開けて入ってきたダンが聞いた。彼はまだ仕事用のズボンを履いたままだったが、シャツは脱ぎかけでズボンの外に出ていて、グレーのスリッパを履いていた。
「べつに、誰ってこともないけど」
「そうか」
「なぜ聞いたの? どうでもいいくせに」
「ただ聞いただけだよ...なぜって聞かれても」
「誰ってこともないけど...」と彼女は繰り返し、再び鍋の前に戻って、付け足した。「カースティからよ」
「そうか、わかった」とダンは明るい口調で言った。「彼女からなんて?」
「なんでもないわ」とジェシカは答えた直後、「降りなさい! ブーツィー、ダウン!」と猫に向かって怒鳴った。ブーツィーは、息子のマックスがまだ3歳だった頃に飼い始めた猫で、マックスが名前を付けたいと言ったからそうさせたのだけど、こうして「ブーツィー!」と呼ぶたびに、名前は私が付けるべきだったと後悔している。
「そうか」とダンが言って、キッチンから出て行こうとしたから、ジェシカはしびれを切らして言った。「なんか、馬鹿げた旅に出るみたいよ」
彼は怪訝(けげん)な顔で振り向き、一瞬間を開けてから、「旅ってどんな?」と聞いた。
「二人で行くみたいね。パパの遺灰を撒く旅だって」
「おお」と、彼が驚いたように声を上げた。彼に話すのは初めてだったから、驚くのも無理ないわね。「ごめん。それって俺に言ってたか?」
「いいえ...言う必要がないと思ってたから」
「君は行くのか?」
「いいえ」と彼女は言って、ワインをぐいっと喉に流し込んだ。
「どうして? 彼らは君を誘わなかったのか? 俺は誓って言えるけど、もしあの二人が―」
「誘われたわ。それに、三人でっていうのが彼の望みでもあるし。彼ってパパのことね」と彼女は言って、彼と目を合わせないように鍋の中のミートソースをかき混ぜた。「私は行かないって言ったの」
ダンがドア付近から戻ってきて、キッチンテーブルの席に座った。
「すまない、ジェシ。俺には全然話が見えない。ちゃんと説明してくれないか?」
彼女は一(いち)から説明した。カースティがジェリーの手紙を写真に撮って送り付けてきたので、それを読み上げさえした。―カースティのこういうやり口はずるい、とジェシカは思った。私は行きたくないって言ってるのに、感情に訴える脅迫めいたメールをバンバン送ってくるなんて。
話し終わるまで、ダンはあまり表情を変えなかった。その話から彼が何を感じ取ったのか、いまいち伝わってこない。とはいえ、彼は話の途中で2度笑った。パトリックがバーメイドを口説こうと必死になってたくだりと、ジェシカがその夜、二人に黙ってこっそり実家を抜け出した場面で、ふっと息を吹き出すように笑った。しかし、彼女の父親がこのような旅を提案したことには、彼も驚いている様子だった。ここ数年、ジェリーは家族のために外食を提案したことさえ一度もなかったからだ。
「どう思う?」と彼女は聞いた。
「君は行くべきだと思うよ。明らかにね」
「本当に?」
「ジェシ。5年後の自分を想像してみろ。行かなかったことを後悔してないって言い切れるか?」
「さあね」と、彼女はワインを口に含み、しばらく飲み込まずにワインの舌触りを味わいながら言った。「でも、かなりかかるでしょうね。行きに2日。帰りに2日」
「かなりって4日だろ?」
「それに現地で1日。島で過ごすことになるわ。たぶんね」
「それでも5日じゃないか」
「私たちは休暇を利用して家族旅行に行く予定だったじゃない」と彼女は言った。子供たちが中間休みに入ったら家族4人で行こうと、マヨルカ島への旅行を計画していたのだ。
「俺も今そのことを言おうと思ったんだ。もしかして、君が急にマヨルカ島に行こうとか言い出したのは、パトリックとカースティと一緒にその旅行に行くのが嫌で、その口実作りだったのか?」
「それは...」
「それは口実にはならないよ。マヨルカ島へは俺と子供たちだけでも行けるし。ママにも来てもらえるかもしれないし」
「ダン」と彼女は、今はママの話はやめて、と半分頼み込むように言った。
「行った方がいいって」
「お店が」
「マヨルカ島に行こうとしてたんだろ!」
ジェシカは空になったワイングラスに再びワインを注ぐと、冷蔵庫からビールを取り出し、ダンのグラスに注いだ。二人はしばらく見つめ合っていた。マックスとエルスペスを厳しく𠮟(しか)ろうと決めたどちらかを、もう一方が今回は大目に見てやろう、と説き伏せている時のようだった。それから彼女はおもむろに立ち上がり、流し台の横のディスペンサーを2、3回押し、手のひらにハンドクリームを出すと、指全体をマッサージするように塗り込んだ。
「それは何の香り?」
「カルダモンとベルガモットよ」
「カレーっぽい匂いがするな」と彼は言った。彼女はそれを無視して、電気ケトルでお湯を沸かした。沸騰中、ボコボコと大きな音を立てるので、少しの間会話ができなくなった。ダンはケトルがカチッと音を立て、お湯が沸き上がるのを待ってから、コンロの前に立つ彼女に忍び寄り、大きな鍋でスパゲッティを茹でている彼女を後ろから抱きしめた。
「あなたの家族とは違うのよ」とジェシカが言った。「あなたは家族と仲がいいじゃない」
「君も昔は彼らと仲良くやってたじゃないか」
「はるか昔のことでしょ、ダン。最後に普通の会話をしたのがいつかも覚えてないわ」
「カースティとは仲良くしてたんだろ? 実家の片付けも一緒にしたんだろ?」
「義務感からよ。友達というより、一緒に仕事をしてる同僚って感じだった」
「まあ、そんなもんだろ。むしろ仲いい方なんじゃないか」
「そうかもしれないけど、 昔からそうだし、この先もずっとこんな感じが続きそうじゃない? 私たち夫婦がパパをあの家から追い出そうとしてたって、彼女はこれからも思い続けるでしょうね。逆に私は、彼女がすべてのことに対して世間知らずだってこれからも思い続けるわ」
「パトリックは?」
「彼は何も言わないわ。彼も昔からそう。いつだって手遅れになるまで、何も言わない」
「黙ってるのが一番だよ。そう思わないか? 結局黙っていれば、いろんないざこざを避けられる」
「でも、そもそも私たちは仲良くやっていくつもりなんてないのよ、そうでしょ? そうじゃない人もいるでしょうけど、私たちがいがみ合ってるのは、理由があって」
「ジェシ」とダンが真剣な口調で言った。「みんな知ってるよ、そのことが原因で君たち姉弟の仲が悪くなったわけじゃない。君は―」
「やめて」と彼女は言って、ダンを振り払うように押しのけた。「今はだめ、ダン。その話はしないで。ほら、食事もできたし―」
「しないけど、君はちゃんと認めないといけない。思い出したくもないほどショックだったんだろうけど」と彼は続けたが、ジェシカは彼から離れて廊下に向かって歩いていった。
「ご飯よ」と彼女は階段の上に向かって声を上げた。「今すぐ下りてらっしゃい」
「ジェシ」と彼は、キッチンに戻ってきた彼女に向かって優しく言った。
「黙って」と彼女は言うと、ガチャガチャと音を立ててフォークやナイフをキッチンテーブルに置いた。それから、すでに焼き上がっていたガーリック・パイをオーブンから取り出した。
「その旅に行ってこいよ」と彼は言った。
ギャントン通りの邸宅 ― ホーブ、サセックス
カースティ
カースティは一輪のマリーゴールドをポキッと折ると、流し台に放り込んだ。当然のことのように、このひどい有り様のキャンピングカーを掃除するのは彼女の役目になった。彼女は娘のリヴィを連れてきて、運転席に散らばっている〈テスコ・グレイシャーミント・ガム〉の包み紙を拾うといった比較的軽い仕事をやらせつつ、彼女は床掃除、食器洗い、キッチンやバスルームやベッドの掃除を続けた。
パトリックの名誉のためにも言っておくと、車の外側の掃除は彼が引き受けてくれた。外見はそれほど重要視していないんだけど、彼も私も、一応外側もきれいにしておく必要があると感じていた(帰ってきたらほぼ間違いなく、この車を売りに出すことを見据えての伏線でもあった)。彼は骨つぼをプチプチのビニールで厳重に包んでいた。きっとそれは子供の頃、キャンピングカーで湖水地方に行った時、急なカーブを曲がった衝撃で、ビール瓶が3本も割れてしまったことを思い出してのことでしょう。
「ママ、37個も拾ったよ」とリヴィが言って、お菓子の包み紙でいっぱいの両手を開いてみせた。
「すごいじゃない、よくやったわ。さあ、それをそのゴミ袋に捨てて」と彼女は言って、助手席に置いてあるビニールのゴミ袋を指差した。
「どれがママのベッドになるの?」
「どこにしようかしらね。パトリックおじさんがどこで寝るかを見てから決めようかな」
「私はここがいい」と彼女は言いながら梯子(はしご)を登り、運転席の上に付いているリーゼント・ヘアーみたいな寝台に入っていく。カースティはそこが寝心地良さそうだと思った。
娘を見ていたら、罪悪感の波がどっと押し寄せてきた。学期と学期の間の1週間の休みくらいは、たっぷりと娘と過ごす、という暗黙の取り決めが二人の間にはあったのだけど、明日からは一緒に過ごせなくなる。残りの休暇は、水族館や動物園に行ったり、お家で一緒にお絵かきや工作をしたり、お友達を家に招待したりして過ごすはずだった。
しかし、リヴィを置いて旅に出ることになり、その計画はなくなった。リヴィは残りの休暇を、2人のお友達の家でお泊まりすることになった(どちらかに偏って負担をかけたくない、というカースティの配慮で、2人のお友達の家に預けることにした)。
「なかなかいい感じでしょ? あなたも一緒に来ればいいのに」と彼女は言って、言わなきゃよかった、とすぐに後悔した。
リヴィは悲しそうな顔で「私も行く」と言うと、慎重に後ろ向きで梯子を下りてきた。
「あの人たち、おじいちゃんの家から出て来たよ」とリヴィが窓の外を見て、指差した。スーツを着ているが、まだ学生感が漂う若い不動産仲介人が、同じような年頃の若いカップルを連れて、玄関先の踏み段を下りてくる。家の中の案内が終わったようだ。3日前から、この家は売りに出されていて、これまでに5件の内見希望があったが、まだ購入希望は1件もない。
カースティが窓の外を見ると、不動産仲介人と目が合った。彼は彼女に親指を立てて、「今回はいい感触でした!」と伝えようとしたが、横の夫婦は彼女たちを見て、怪訝そうに顔をしかめた。私の姿は彼らの目にどのように映っているのだろう、と思った。亡くなった父親の家の前に止めたキャンピングカーの中で生活している、気の狂った老婆にでも見えたのかしら? 彼女は、今すぐ車から出て、彼らにつかつかと大股で歩み寄り、「私はここには住んでいません。ブライトンにちゃんと部屋を持っています」と宣言したかったが、余計に頭がおかしい人だと思われそうでやめておいた。
「さあ、リヴィちゃん、こっち」とカースティは言って、リヴィに窓から離れるように促(うなが)した。「もう大体終わったから。それを持って」と彼女は、ゴミでいっぱいになったスーパーマーケット〈セインズベリー〉のビニール袋を指差しながら言った。「今夜はピザにしようかしらね。お掃除したからご褒美よ」
リヴィが歓声を上げると、カースティの携帯がヴー、ヴーと震え、メッセージの受信を知らせた。
ジェシカ:明日は何時に出発するの?😘
彼女はそのメッセージを一度読むと、その画面をスクショして、「まったくもう!」という意味を込めて、怒った絵文字と肩をすくめた絵文字をその写真に添えて、パトリックに送信し、携帯をバッグに戻した。姉の気まぐれに振り回されるのはいつものことだけど、今回ばかりは怒っても仕方ないわね。
ノース・レーヌ、ブライトン
パトリック
彼はカースティからのメッセージを見て、スマホの画面を伏せてテーブルに置いた。
「大事なメッセージなら、返信するなり電話するなりしたら?」とクロエが言った。「さっきあなたが言ってた旅のことじゃない?」
「いや、いいんだ」とパトリックは言って、「もっと聞かせて」と、彼女に続きを促した。クロエは大学時代の友人たちの『その後』をよく知っていた。まるでゴシップ誌をめくるように次々と、二人と同じ大学に通っていた連中の、スキャンダラスな顛末(てんまつ)を聞かせてくれた。誰々は刑務所に入ったとか、誰々は離婚したとか、他言無用のやばい話や、本人は誰にも知られたくないはずの笑っちゃう話に特化した情報網を、彼女は持っているらしい。
二人は30分ほど前から、カースティが立ち寄りそうもない地区のお店で落ち合い、手羽先の唐揚げを食べながらクラフトビールを飲んでいた。葬儀の2日後、クロエからメールが来て、元気? と聞かれた。それから頻繫にメッセージのやり取りをするようになり、ついに彼女を飲みに誘ったのだ。女の子を口説くには、飲みに誘うのが一番手っ取り早いことを、彼は経験から知っていた。結婚して、子供ができて、別居まで経験した今となっては、飲みに行こう、というメッセージを送るくらい、どうってことないのだ。昔はそんなメールを送るだけで、指が震えるほどパニックになったり、相手の心理を過剰に分析したりとドキドキものだったが、ハードルはいつの間にかだいぶ下がっていた。
それでも彼の心の大部分を占めているのは、まだスザンヌだった。彼女と離れて数ヶ月が経った。彼女とはもう終わったのか? と彼は自問した。彼女はすでに過去の人なのか?
いや、明らかに違う。乗り越えるにはもっと長い月日が必要になるだろう。しかし、彼の心の中の何かが、前に進んでもいい、と言っていた。もし自分が不倫をした側だったら、妻と子供を置いて出て行った側だったら、違う感じ方をしていただろう。自分は捨てられた側だから、と彼は自分を正当化して、久しぶりに幸せを感じていた。
「今度はあなたが話す番よ」とクロエが言った。「ドナ・カーターがどんな人生を歩んできたかよりも、もっと面白い話があるんじゃないの?」
「いや、ないと思うけど。だって彼女は、いろんなお店がある中で、よりによって賭け事のノミ屋から、お金を盗んだんだろ?」
「パトリック」と彼女が、からかうような口調で彼をたしなめた。
先日のお別れ会の時と同様に、クロエは常ににこやかな笑みを浮かべながら、冗談を言ったり、彼をからかったり、声を上げて笑ったりと、もてなし上手で、ずっとこうして一緒にいたいと思える相手だった。彼女は濃紺のタイトなジーンズに、赤いハイヒールを履き、胸元を覗き込めそうなくらいゆったりとした黒いシャツを着ていた。彼よりオシャレに気を遣ってきたのは明らかで、彼は軽い罪悪感を覚えた。彼女の髪はストレートで、可愛らしい顔の両脇をまっすぐに滑り降りている。ハッピーオーラに包まれたような彼女に対して、彼はレザーブーツにジーンズ、そして襟元に毛皮の裏地が付いた、厚手のフランネル生地のチェックシャツという地味な格好だった。さすがに彼女が来る前に、ニット帽は脱ぎ、トイレの鏡で一応髪を整えたけれど。
「さっきの旅についてもっと知りたいわ。そういうのってなんか...」
「狂ってる?」と彼が先に言った。彼女が適切な言葉を探しているようだったので、助け舟を出したつもりだった。
「そういうことじゃないんだけど、私が聞いた話だと、そういう風に亡き人の遺灰を撒く場合、ゴルフ場とか、ビーチとか、そういう場所で」
「俺たちもビーチに撒くんだよ。ただ、地元のビーチではないけど」
「なんで地元じゃないの? ホーブにも海はあるじゃない」
「どうやら思い出の地らしいね。何年か前にウイスキー・フェスティバルがそこであって、父は母と一緒に車でそこに行ったんだ」
「なんだかスリリングな旅ね」
「父にとってはそうだったんだろうけど、母にとってはそうでもなかったんだ。というか、彼が目的地としてヘブリディーズ諸島を選んだ本当の理由は、俺たち三人を一台のキャンピングカーに、何日もぶっ通しで閉じ込めることなんだよ。そんな狭いところで体を押し付け合うようにして一緒に過ごせば、何かしらの修復が生まれるんじゃないかって。家族の絆とかさ、そういうのを取り戻せってことだろ。ただ、ジェシカのおかげで、この計画は今のところ白紙状態なんだけど」と彼は言って、再びスマホの画面を見た。
「お姉さんと妹さんが同じ車で過ごせば、関係は修復すると思う?」
「まあ、どっちに転ぶかは微妙だな。仲直りするか、逆に首を絞め合っちゃったりして」と彼は言った。「彼女たちも昔は仲良かったんだよ。最近はピリピリした関係が続いてるけど。母親が死んだことで、二人の間で何かが一気に弾けちゃったんだろうな」
「あなたは? あなたは彼女たちと仲良くやってるの?」
パトリックは、そのことについて話すのをためらった。カドガン家の三人兄妹の仲が険悪だということは、周りから見ても明らかだったが、彼の立ち位置に関しては、単なる傍観者だと見なす人もいれば、共犯者というか、二人の姉妹よりも、むしろ彼が諸悪の根源だと見なす人もいた。
「上辺はね」と彼は言った。「腹を割って話すことはもうないな。一応礼儀として、話は合わせるけどさ。姉は俺が妹の味方だと思ってるし、逆に妹は俺が姉の味方だと思ってる。ということで俺は、間に立って双方から攻撃をくらってる感じだよ。まあ、俺自身がはっきりした態度を取らないせいなんだけど。俺はいつも手遅れになるまで、何も言わないから」
「あなたはどっちの味方なの? どっちかというと、どっちに肩入れしてる?」
「さあ、どうなんだろ。ジェシの言い分もわかることはわかる。あんな大きな家に親父一人で、どうせゴロゴロしてるだけなんだから、さっさと売っちゃった方が銀行にお金も返せるしって。親父は銀行からかなり借金してたんだよ。けど、それについてカースティが怒った時、俺はもっともだと思った。なにせ俺たちが育った実家だしね。俺も親父が生きてるうちは売るべきじゃないって思ったよ」
クロエはしばらく考え込むように黙っていた。気まずい空気になってしまった、と思った。彼女は俺との関係を始めることを考え直しているのかもしれない。しょっぱなから、やっちまった感がいなめない。もう少し良識や正直さがあれば、このような事態は避けることができたのではないか、と考えていた。
「その時が来たのよ、パトリック」と彼女がついに口を開いた。「私の父が亡くなった時、私たちは自分たちが育った家を売らなければならなかったわ。母はもう、一人で庭の手入れをすることができなかったし」
「わかるよ」と彼は言った。「俺たちも今、家を売りに出してて、今週すでに内見者がいたみたいだね」
「でも、お姉さんの方だっけ? 行かないって言ってるんでしょ? それは悲しいことね。たとえ車の中で首を絞め合うことになったとしても、お父さんの最後の願いなんだし」
「ちょっと悪巧みが過ぎると思わないか? そんなこと誰もやりたがらないだろ。けど、亡き父に対して、ノーとも言えない。ずるいよな?」
「そうね。でも、彼はそれに値する人なんでしょ? あなたが自分で言ってたじゃない。あんなことがあった後でも彼は偉かったって―」
「それはそうだ」とパトリックはきっぱりと言った。今夜はあの箱を開けないでおこう、と心に決めた。せっかくの夜が台無しになりかねない。間違いなく、数日以内にはカースティとそのことについて話し合うことになるだろう。けどそれまでは、そっと蓋(ふた)をしておこうと決めた。「おかわりは?」と彼は言って、空になった彼女のグラスに視線を送った。
「いただくわ」と彼女は笑顔で答えた。
「同じもの?」
「うん、お願い」
パトリックは二人のグラスを手に取ると、テーブル席から立ち上がった。
「綺麗だね」と彼は言った。「おかわりを持って戻ってきたら、もう家族の話はよそう。いい?」
「そうね、よしましょ」とクロエが言った。
パトリックはカウンターに向かいながら、あのことを話さずに済んでよかった、と、ほっとしていた。カドガン家といえば、あんなことがあった家として有名で、近隣の人たちにはそういう家として認識されていた。彼がブライトンやホーブで暮らしたくない理由でもあり、今までここを離れて過ごせていたことに満足していた。一方で、今回の旅が終わり、この町に戻ってくることになったら、と不安が胸中(きょうちゅう)に湧き起こりつつあった。
~~~
〔チャプター 3の感想〕
これは本当の話なんだけど、藍の最長ドライブは、長崎県から埼玉県までで、丸2日くらいかかった。たしか名古屋辺りのパーキングエリアで、運転席の椅子を倒して3、4時間は寝たけれど、最後の方はハンドルを握っている腕が震えてくるほど、心身ともに疲労困憊でした...💦当時乗っていた車はホンダのHR-Vというシルバーの車でした🚙まあ、若かったので成せたことですね!←何を書いたって、もう噓にしか思えない!笑
藍が懐かしく思い出すのは札幌の街で、オリンピックのマラソンに合わせて札幌に行きたかったんだけど、それは叶わなかったから、そのうち(?)、行きたいな~と思っている。ただ、おっさんがぶらぶらと建物を見上げていたら、あやしさ満点だけど...💦笑←ホリー・ゴライトリーを探しに来たとか?(伝われ~~!笑)
家族に何かあったっぽい!←キーワードはドイツ?
あと、ジェリーは年に1度、キャンピングカーのメンテナンスをしながら、運転してどこへも動かしてやれない自分がふがいないというか、車が不憫(ふびん)に思えて、俺の車に乗って行け、と言ったのかもしれませんね。←いや、3人を強制的にくっつけるためだろ!←いや、車が可哀想だと思ったからだよ!←どっちでもいい。というか、どうでもいい!⇐っていうか、お前誰だよ!!爆笑
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チャプター 4
ブライトン、サセックス
パトリック
朝の6時前、ドアがバンバン叩かれる音で目が覚めた。まるで誰かが火事を住人たちに知らせようと各部屋のドアを叩いて回っているかのような、切迫した激しい叩き方だった。彼はスマホをチェックしながら、それが誰であっても、すぐにカースティがドアを開けて対応してくれるだろうと思った。
あと1、2時間は寝たいところだった。今日の午前中に出発することになっていて、最初の運転者はパトリックだった。計画通りにいけば、3時間ほどでノッティンガムに着き、そこのサービスエリアで昼食を取ってから、運転を交代するという手はずだった。
昨夜は1時過ぎまでなかなか寝付けなかった。カースティの部屋のソファは寝心地が悪かったというのもあるが、スチュとサラの家に預けてきたマギーのことが気掛かりで仕方がなかったのである。マギーが家でぐっすり眠れるようになったのはごく最近のことで、いくら「ママ」と呼んでも、パパしか来てくれないという事実を受け入れたばかりだったのだ。パトリックは、また元に戻って、マギーが夜中にぐずり出さないか心配だった。
その上、夜中の12時頃までクロエとバーで飲んでいたので、少しとはいえないほど、二日酔い気味だった。
まだドアはバンバン叩かれているが、カースティが受け答えをする気配はない。
「ふざけんなよ」と、彼はもうろうとした意識の中でつぶやいた。マギーが赤ん坊だった頃、夜泣きで30分ごとに起こされていた時を思い出す。
彼は重い頭を起こし、体を引きずるようにして、冷たいフローリングの床に平たい素足(すあし)をペタペタと打ち付けながら、玄関へ向かった。ボクサーパンツの前が閉まっていることを確認し、彼のお気に入りのバンド〈ガスライト・アンセム〉のTシャツを下まで引っ張り、お腹を隠した。
ドアを開けようと手を伸ばすと、再びドアがバンバンと叩かれた。
「今開けるよ」と彼は言った。
「なら早くしてよ」と、ドアの向こう側から声がした。
「ジェシ?」
「そうよ」と彼女は、さも当たり前のように言った。「早くこのいまいましいドアを開けてちょうだい」
パトリックはチェーンロックを外し、さらに、かんぬき錠も横に引き抜いた。1階のロビーで侵入騒ぎがあった後、カースティがドアの内側に取り付けたものだ。そしてようやくドアを開けると、姉が姿を現した。彼女は、大きな旅行カバンとハンドバッグを両手に持ち、立っていた。ニット帽を被り、ダウンコートを着て、ブルーのスキニージーンズを穿き、靴はいつものコンバースの〈オールスター〉を履いている。まだそこまで寒い季節じゃないだろ、と思った。
「とうとう来ちゃった」
ジェシカは急いで中に入ると、さっきまで彼が寝ていたソファに荷物をドサッと置いた。
「何しに来たんだ?」
「あなたを見送りに来たのよ、パトリック。って言ったらどう思う?」
「知らねえよ。あの夜からまだトイレに入ってるのかと思ってたよ。『ちょっとトイレに行ってくる』じゃなかったか?」
「婉曲(えんきょく)表現のつもりだったんだけど、わかりにくかったかしら?」と彼女は言った。「気が変わったのよ」
パトリックは、レジがバーコードに反応するようには、瞬時に理解できなかった。「お前も行くってことか?」
「不本意だけどね」
「は?」
「ダンに行ってこいって言われたのよ。そうしないと後悔するって。それから、その考えが頭から離れなくなっちゃって、それで」と彼女は言って、コートを脱ぎ、カースティがリサイクルショップで買った、使い込まれた木製のキッチンチェアの一つにそれを投げかけた。「来ちゃった」
「そうか」
「言っときますけど、このために家族旅行をキャンセルしたんだからね。エルスペスはもうカンカン。だから、余計なことはせずにさっさと済ませるわよ」
その時、ベッドルームのドアが開き、顔を出したリヴィが、「ジェシおばさん!」と叫びながら、だだっ広いリビングを駆け抜けてきた。
パトリックは、ジェシカの高慢ちきな表情が柔和(にゅうわ)にほころぶ瞬間を目撃した。両手を開いて姪っ子を待ち受ける彼女の眼中に、パトリックはもういない。二人の間で勃発しそうだった口論の火種を、リヴィが踏み消した形だ。
「そうすると、あなた、気が変わったってこと?」カースティがそう言いながら、大きなふわふわのバスローブに身を包んでリビングに入ってきた。
「今パトリックに話したばかりだけど―」
「私たちはね、この日のために頑張ったのよ。あのひどい状態のキャンピングカーをきれいにして、この馬鹿げた旅行のためにいろいろ準備したんだから。あなたはなに、出発の30分前になって登場って、ロックスター気取りもいい加減にしてよね」
「聞いて。私は―」
「私は何?」カースティが嚙みつくように言った。「リヴ、ちょっと自分の部屋に戻ってて。5分だけでいいから」
娘が言われた通り寝室に入っていくのを見届けて、彼女の母親はジェシカに詰め寄った。
「ほんとあなたっていっつもそうね、ジェシカ。ほんとに呆れるわ」
「どういうこと? 私に来て欲しかったんでしょ? 言わせてもらいますけど、あのキャンピングカーを『ひどい状態』とか言ったって無駄よ。どうせ大したことしてないんでしょ」
「したわよ」とカースティは言った。キャンピングカーが本当にひどい状態だったかどうかについては言及しないことにしたらしい。「前も言ったけど」
「今の話をして」
「今は...」と彼女は言った。パトリックは、次に彼女の口から何が飛び出すのか瞬時に予想した。あなたはとっとと家に帰って、あなたはこのことは忘れてちょうだい、あるいは、あなたにはずっと運転してもらうから、かな?
「今はそうね、あなたはそうするしかないでしょうね」
「カースティ、申し訳ないんだけど、あなたが何を言いたいのか、私にはさっぱり」
「あなたはいつもそんな感じじゃない?」カースティはそう言うと、マグツリーから陶磁器のティーカップを手に取り、ティーバッグを勢い良くカップに放り込んだ。「ちょっとは変わろうっていう気にはならないの? 少しは自分の芯みたいなものを持ちなさいよ」
「だから行くことにしたんでしょ」
「最後の最後でね。それに、どうせあなたが行きたいって思ったわけじゃないんでしょ。私にはお見通しよ。罪悪感を感じたくないからでしょ?」
「さっきも言ったけど、ダンが行けって言ったのよ。っていうか、もしそうだとしたら、なんなの?」
「まさにそれ! あなたはいっつもその言い草。それがあなたの生き方なんでしょうね」
「そうよ」ジェシカがバッグを手に取った。「あなたはそんなことばかり言って、私をどうしたいのかわかったわ。これから3日間、こんな口論がずうっと続くのなら、私はさっさと家に帰るわ」
「お好きにどうぞ」とカースティは言った。
ジェシカが玄関に向かって歩き始めるのを見て、パトリックが「待て!」と叫んだ。「頼むよ。べつに理由はなんだっていいじゃないか。彼女が今、ここにいることの方が重要なんだよ」
数秒間、沈黙が続いた。ハムスターが車輪を回すカラカラという音だけが不気味に鳴っていた。
「パトリック、なんだかあなたらしくないじゃない―」
「その先は言うな」と、パトリックがカースティを制した。「それからジェシ、バカにするな。君も行くんだ」
三人はお互いに顔を見合わせた。パトリックは、そろそろ母親の死後に起こったことについて話し合わなければならないな、と思った。いや、話し合う、では生ぬるい。言い争わなければならない。俺たちはそういう段階に近づいていることを感じていた。そして、旅はまだ始まってもいなかった。葬儀の前後は、親戚たちへの手前もあって、三人はそれなりに仲睦まじい姿を見せていたが、そのメッキもだいぶ剥がれ落ちてきて、ここ数年の間についた傷やへこみが、再び透けて見えるようになっていた。
しかし、そのことを正面から語り合う必要があるのは確かだが、今はまだその時ではなかった。そしてパトリックは、それが重層的に絡み合った長い議論になるだろう、と予見できた。
父親が未亡人となって一人取り残された時、実家をどうすべきかという問題が湧き上がった。そこには一筋縄ではいかない、家族の中での役割分担の問題があったのだ。それは一般的に広く知られていることではあるが、当事者にならないと見えてこない問題も内在している。
そして、その下には、もう一つ大きな問題があった。カドガン家の三人姉弟ならではの関係性が、その底流を成していた。
「聞いてくれ。そのうちみんなで話し合うことになる。でも、今はやめておいた方がいい。でないと、いつまで経っても旅に出られない」と彼は、これ以上波風を立てないよう慎重に言葉を選びつつ、意識的に温和な声を発した。「抱き合って仲直りしろなんて言うつもりはないよ。そうだな、少なくともこれからの3時間は、穏やかに過ごすか、まったく話さないかのどちらかにしよう」
ジェシカとカースティが同時にうなずいた。すかさずカースティはその場を離れ、お湯を沸かしに行った。
カースティの準備が整うまでに、そこから2時間かかった。旅行に必要な荷物は大方すでにまとめてあったが、いくつかまだ入れていなかった物をカバンに詰めなければならなかったし、泣きじゃくるリヴィに何度も連れては行けないと言い聞かせなければならなかった。彼女は、一緒に行きたい、と繰り返し訴え続けていたのだ。
そんな中、パトリックはキャンピングカーをチェックして来る、と言ってその場を抜け出し、階下に降りて行ったが、本当の目的はマギーとFaceTimeでビデオ通話をするためだった。スマホの画面を通してマギーの顔を見るのは、不思議な感覚だった。スチュのiPadから、娘がこちらに手を振っている。子供のいない夫婦ならではの、完璧なまでに清潔感溢れるデザイナーズキッチンが背後に映り込み、サラがせわしなく動き回っていた。旅の途中、娘とビデオ通話をしている時に、姉妹のうちのどちらかが、背景に映り込むピカピカのキッチンに気づいてしまったら、スザンヌの要望でキッチンを改装した、と言わなければならないな、と心にメモ書きしておいた。
それから、彼はクロエにメッセージを送った。
パトリック:昨夜はありがとう。最高に楽しかったよ😘
上の階に上がり、カースティの部屋に戻ると、二人の姉妹が一つの小さなソファに座って、それぞれにスマホをいじっていた。それを見て、彼はほっと胸を撫で下ろした。見えない火花は散っているのかもしれないが、少なくとも表面上は、口論は巻き起こっていない。
「そう、それでいいんだよ」とパトリックは明るく言って、バッグを手に取り、二人をソファから立つように促した。まるで離婚したシングルファーザーが、せっかくの週末なんだからスマホばかりいじってないで外へ行こう、と二人の子供から熱意を引き出そうとしているような気分だった。そして、それは気が滅入るほど、現実の状況に近かった。
最初に立ち上がったのはカースティだった。彼女はキャスター付きのスーツケースのハンドルを引き上げると、リヴィに最後にもう一度ハグをして、チュッと頭の天辺にキスをした。ジェシカも、何やらスマホに入力中だったものが終わったようで、同じように立ち上がると、コートを羽織りながら、「仕事よ」と言った。まるで、あなたたちとは違うのよ、と言い捨てるような言い方だった。私は小さいながらも、れっきとした企業経営者であり、あなたたち二人みたいに仕事を同僚に任せとけばいい、という気軽な身分じゃないのよ、とマウントを取りたいらしい。
彼は、二人の姉妹も自分と同じように、これから始まる旅に関して不安を抱いているのだろうか、と考えた。これから何日も一緒に過ごすんだと思うと少しうんざりして、いったい道中、どんな過去がほじくり返されるのだろうか、と心配にはならないのだろうか。
しかし、それは自分の胸にしまっておくことにして、三人でカースティの部屋を後にした。直前になってやって来たトリーナという彼女の友人がリヴィの相手をしている隙に、部屋を抜け出した形だ。三人はブライトンの、郊外ながらも交通量の多い通りに出て、〈冒険家〉が停まっているところまで道を渡った。
「彼女はここに停めておいたんだ」と彼は言って、バッグを地面に落とし、ドアを開けた。
「彼女?」とジェシカが聞いた。
「そう。頑丈な船はいつだって女性名詞だ。だろ? ボートとかさ」
「キャンピングカーは例外じゃないかしら、パトリック。だってこれはもう、見た目からして男性でしょ。ママがこんな...ものにときめくとは思えないわ」
「彼らはこれを一緒に買ったんだよ」
「本当にそう思ってるの?」ジェシカはそう言うと、彼を押しのけるようにして車内へ入り、後方の二段ベッドの下の段にバッグを投げ込んだ。カースティは上の段を取り、パトリックはエルヴィス・プレスリーのリーゼントのごときロフトに、自分の荷物を持ち上げつつ押し入れると、運転席に座った。
「道案内の手助けは誰が―?」
「私がするわ」とカースティが助手席に座りながら言った。「それじゃ、私たち、本当に旅に出るんだね」と彼女は続けた。
「みたいだな」とパトリックが言った。後ろにいるジェシカに目をやると、少し涙ぐんでいるように見える。
鍵を差し込み、エンジンをかけようとした時、パトリックの携帯が鳴った。彼は慌てて胸ポケットからそれを取り出した。
クロエ:私もよ。安全運転でね。着いたら電話してくれる? どこに着いたとしてもよ😘
「スザンヌ?」とカースティが、彼の顔がほころんでいるのを見て聞いた。
「いや」と彼は答えてしまってから、うなずいとけばよかった、と悔やんだ。「スチュ」と彼は嘘をつきながら、キーを回してエンジンをブルンと吹かした。三人を乗せた性別不明の〈冒険家〉が、巨体を揺らし動き出した。
クローリー
カースティ
2時間後、彼らはようやくクローリーに差し掛かった。パトリックはブライトンを出るまでの道順ですでに手こずってしまった。道に迷いながらも、自分の生まれ育った街で迷っていることを頑として認めようとはしなかった。
カースティが助手席から「そっちじゃない」と言うと、「こっちの道の方が早いんだよ」と、彼はやけになって怒鳴った。
「近道なんてないのよ。ディッチリング通りを真っ直ぐ進むと、中央分離帯のある幹線道路に入るから、左側を走ってればいいの。忘れないで、私は今もここに住んでるんだからね」と、彼女はぼやくように言った。二人がめったに親に会いに来ないことを、あるいは、自分だけが故郷に残っていることを愚痴る時と同じ口調だ。しかし、パトリックは彼女を無視して、狭い通りをよくわからないまま、車輪の付いた重い車体をごろごろと引っ張るように進んだ。狭い通りの両脇には、キャンドルや、インテリア用品や、コーヒーを売る魅惑的な小売店が、肩を寄せ合うようにして並んでいる。
「しっかり方向は定めてよね」とジェシカが後ろから声をかけてきた。「乗り物酔いしたくないのよ。キャンピングカー酔いっていうのか、なんていうのか知らないけど」
カースティが振り返ると、彼女は携帯の画面を見つめながら、特大サイズのカップを片手に、ミルクたっぷりのコーヒーをすすっていた。出発して5分もしないうちに、彼女がどうしても飲みたくなって買ったコーヒーだ。そういう飲み方が車酔いの引き金になるんじゃないかしら、と思いながらも、それは胸に秘めたまま、あえて助言しないことにした。
それから30分ほどして、ブライトンからここまで渋滞に巻き込まれずに進んできたのだが、ついに高速道路上で車の流れは止まってしまった。
道路の両側には、秋色に染まった木々が生い茂っていた。しかし、この灰色の気が滅入るような舗装道路から眺めている限り、気休めにもならなかった。なかなか進んでくれない道路から抜け出せるわけでもないし、境界線を織り成す紅葉の向こうには、気持ちの良い草原が広がっていることを、紅葉の隙間から、ほんのわずかに感じ入るだけだ。
「しょっぱなから縁起のいいこと」と、後ろからジェシカが皮肉った。「この調子だと、ちょうど夕食時に私の家の近くを通ることになりそうね。私んちに立ち寄って夕食を食べていってもいいわよ」
カースティはパトリックの反応をうかがったが、彼は乗り気ではないようだった。1分ほどして、〈冒険家〉は再び動き出した。
「パパはこういう感じをイメージして、この旅を用意したのかな? 自分の三人の子供が、クローリーの郊外で渋滞につかまることを想定して。食器棚の一番下には自分の遺灰が置いてある状況で」
「彼はたぶん、もっと楽しい旅になると思ったんだろうな」とパトリックが言った。「あの釣り具箱の中を調べてみてくれ。〈カー・ビンゴ〉か何か入ってないか?」
「ああ、そういえば」とカースティが言った。「フランスに車で行った時も、コーンウォールに行った時も、いつだって車の中でゲームをしてたじゃない、覚えてる? 渋滞に巻き込まれると、ママが私たちにゲームを振ってくるの」
「〈エディ・ストバート〉のトラックを見つけて」とパトリックが母を真似て言った。
「それ!」と言って、ジェシカが声を上げて笑った。「もう一つは何だったかしら?」
「カー・クイズね」とカースティは言いながら、子供の頃の夏休みを思い出していた。どこへ行く時も、父親が運転する車の中で、私たちは抜き打ち的なトリビア・クイズをやっていた。
「後部座席にテレビが付いてる車が、窓から見えたのを覚えてるわ」とジェシカが言った。
「それは夢だったな」とパトリックが言った。「あと、夏休みに飛行機でどこかへ行くやつ。親父はそういうのを邪道(じゃどう)だと考えていたんだと思う。道中、苦労は必要だってことだよ。途中の苦しみがあってこそ、どこかへたどり着いた時の達成感は格別なんだ」
「カー・ゲームの問題点はね」と、カースティが言った。「あの頃は、みんな15歳とかだったでしょ。だから、私たちが探すべきものは、もう今は道路上には走ってないってこと」
「毎年クリスマスになると戸棚から引っ張り出してきて、みんなでやったじゃない。ほら、〈トリビアル・パスート〉。あれもそんな感じだったわ。ユーゴスラビアについての記述が古くて今とは違うし、アメリカの州の数も今とは違ってたり」
「彼は答えを全部暗記してたんだよ」とパトリックが言うと、三人は、ふふっと満足そうに笑った。懐かしさだけがもたらすことのできる満ち足りた笑いだった。
カースティは、子供の頃、長期休みに入るとみんなで行った家族旅行を思い出して微笑んだ。夕方になると、これからがお楽しみと言わんばかりに、ジェリーはバッグからトランプやドミノを取り出すのだった。(彼のバッグには、それらと数枚のCDが入っているだけで、あとの荷物は妻に任せていた。)山小屋や、テントや、キャンピングカーの中で、小さなテーブルを囲んだ家族は、心ゆくまで七並べやババ抜きに興じていた。それから〈ナンセンス〉というゲームもよくやった。母親がそう呼んでいたからその名前で記憶しているが、一般的には〈シットヘッド〉と呼ばれるゲームだとのちに知った。下品な名前を母親がオブラートに包んでくれたんでしょう。
「昔みたいにカードゲームをやろうよ」と彼女は提案した。「家族旅行の時によくやったじゃない。私もパパみたいに、トランプを一式持ってきたのよ」
「もうルールを覚えてないわ」とジェシカが言った。「ダンは休日にトランプなんてしないし、子供たちはいつもiPadに夢中だし。あれがあると他のことを一切しなくなるから、考えものよね」
「私はしてたわ」と彼女は言った。「たまにだけど、パパの家で七並べとか、クリベッジもやってた。でも父は上手すぎて、私が相手では物足りない感じだった。それで彼は毎週のように、『ブルドッグ・ビル』っていうよくわからない男を呼んで、二人でカードの腕前を競い合ってたわ」
「ブルドッグ・ビル?」とジェシカが聞き返した。
「パブで知り合った飲み仲間の一人みたいね。彼はブルドッグを飼っていて、何年も前にブルドッグは死んじゃったらしいけど、今でも彼はそう呼ばれてるのよ。葬式にも来てたわ。ほら、NHSから支給されたみたいな黒縁メガネの太った男よ」
「さあ、そんな人いたかしら? 前から思ってたんだけど、パパには...まともなっていうか...わかるでしょ? 友達がいなかったのかしらね」
「親しかったのは一人か二人ね。パブに行って、その人がいれば話すくらいの知り合いなら結構いたみたいだけど、大体みんな、妻に先立たれたか、妻に逃げられた男たちで、その中の一人はたしか、『マリード(結婚してる)・ピート』って呼ばれてたわ。彼だけはまだ結婚してたから、特別な存在だったんじゃない?」
「どれも、あだ名のセンスが抜群だな」
パトリックが割り込むようにそう言って、笑った。三人の中では、彼が一番パブの文化に詳しかったんだ、とカースティは思った。ジェリーがよく言っていたジョークや、あだ名や、カードゲームは、どれもパブで慣れ親しんだものなんでしょう。
「私はそれを聞いて嬉しいけどね、って、一応言っておく」とジェシカが言った。
「何が嬉しいの? ブルドッグ・ビルのこと?」とカースティが言った。「でも、そんなに、まともな友達でもなかったけど―」
「そうじゃなくて、あなたがまだパパとカードゲームをしてたことよ。感謝してる、って言った方がいいかしら?」
その言葉に苛立ちを覚えた。私と父の関係が、幸せなものではなく、情けや慈善からくる行為だと思ってるんだわ。とげのある言い方しちゃって。
「べつに感謝しなくてもいいのよ」と彼女は言いつつ、口論が勃発するのはなんとか避けようと、トーンを抑えた。「実際に私は楽しんでやってたんだから」
「ああ、わかってるわ。ごめんなさい。でも、私が何を言いたかったかわかるでしょ?」
実際はわからなかったが、カースティはうなずいた。今はまだ、言い争いは避けた方がいい、そう思った。車は渋滞の中をゆっくりと少しずつ進んでいた。長い旅路はまだ始まったばかりなのだ。
カースティは早く渋滞が解消され、もっと先までぐんぐん進んでほしいと強く願った。たとえそれが見当違いで絶望的な旅であっても、私たちはちゃんと前へ進んでいるという実感がほしかった。まだここは、私の家にも彼女の家にも、近いのだ。ささいな言い合いが、ののしり合いに変わり、やっぱりこんな旅行くのやめる、なんてことになりかねない。彼女は、二人の間をつなぎとめている、なかば強制的な友好関係と、キャンピングカーのどちらが先に壊れるか心配だった。
そういえばこの辺りにあいつが住んでたよな、と、パトリックがジェシカの元カレの一人を思い出した。私たちが渋滞で立ち往生しているクローリーという地名が、彼のあだ名には含まれていたからだ。
「あいつはオカルトにはまってたんだよな? それを聞いた親父が、あいつのことを『クリーピー(不気味な)・クローリー』って呼び出したんだ」
「ああ、そんな時期もあったわね!」とジェシカが言った。「マットっていうんだけど、なぜかクリーピー・クローリーで定着しちゃったのよ! 〈ザ・キュアー〉のギタリスト、ロバート・スミスにちょっと似てて、いいかなって思ったんだけど、今思えば、ロバート・スミスを10キロ太らせて、顔に湿疹ができれば、似てないこともないわね」
三人は声を合わせたように、笑った。カースティはほっと安堵した。今のところ、この雰囲気が無難よね、と思った。
さらに30分ほど、〈冒険家〉はえっちらおっちら車体を左右にゆさぶりながら、時折20メートルほどグンッと進んでは、ほとんど停止するということを繰り返し、ついに渋滞の原因となった場所を通過した。私たちの車と似たようなキャンピングカーが高速道路の真ん中に停まっていて、フロントバンパーのところが黒ずんでいた。おそらくエンジンに負荷がかかり過ぎて、悲鳴を上げるように火を噴いたんでしょう。
ウォーリック・パーキングエリア
パトリック
「よし、ピットインだ」とパトリックが運転席から声を発した。ループ状にぐるりと円を描くようなスリップロードに入ると、遠心力を体に感じながら、車体が横転しないかと心配になった。開(ひら)けた駐車場に入り、一番奥の方に車を停めたが、〈冒険家〉はほとんど3台分の駐車スペースを陣取ってしまった。
パトリックは4時間ほど運転席でハンドルを握っていたが、そのほとんどの時間、助手席でカースティが案内役を務めていて、うんざりさせられた。彼は忘れていたのだが、カースティには潜在的なリスクを気にしすぎる、という厄介な癖があったのだ。「そこ気をつけて」、「彼を気遣って」、「彼がどうなるかは神のみぞ知るね」いちいちうるせえな、と思いながら、『彼』とは誰のことを言っているのか、よくわからなかった。運転してる俺か、それとも、この車を『彼』と呼び出したのか?
そんな横やりを右から左に受け流しながら、彼はこの45分間ほど、サービスエリアで何を食べようかと悩んでいた。どういうわけか長旅になると、きっちり食事をとるという意識が窓の外へすっ飛んでしまい、間食用のスナック菓子をお腹いっぱいになるまで食べてしまうのだ。今回もすでに、〈フラッスル・チップス〉を2袋、〈パーシーピッグ・チョコ〉を半袋、カースティが作ってきた〈フラップジャック・クッキー〉を1つ食べてしまった。というか、〈フラップジャック・クッキー〉は普通ゴールデンシロップで甘くするだろ! なんで代わりに蜂蜜なんだよ!
「休憩はどれくらい取る? 15分でいい?」と彼は聞いた。こわばった脚を伸ばすように車を降りると、ガラス張りのサービスステーションに向かって歩いていった。屋外にはピクニック用のベンチが4つ置かれているが、誰も座っていない。一息つこうとサービスステーションに立ち寄って、屋外のテラス席でがっつりキャンプを始める人などいないだろ、と彼は思った。喫煙者が使うくらいか。
「コーヒーを飲んで、トイレに行くだけだからそれくらいで十分じゃない」とカースティが答えた。
「そうね。私はダンに電話してみるわ。みんなが無事か確認しなくちゃ」
「君抜きでどこへ行ったんだっけ?」
「スペインのマヨルカ島よ」
「いいね」とパトリックは言った。
「やめて」と彼女は言いながら立ち止まると、ストレッチをするように脚を伸ばした。「私も今頃、プールサイドで寝そべっていただろうな。まったく、いまだに私はここにいることが信じられないわ。ここがどこだか知らないけど」
「ウォーリックだよ」
「どこだっていいけど」と彼女は興味なさそうに言って、三人は中に入っていった。
ブライトン付近の渋滞を抜けてからは、順調な旅路が続いていた。パトリックは、子供の頃を思い出して、高速道路から見えるはずのサッカースタジアムを見つけようとしていた。カースティは、父親が車に導入していた最新のブルートゥース・ラジオを使って、彼女だけが興味のあるジャンルのポッドキャストを流していた。ジェシカは、寝たり、文句を言ったり、ハンドクリームを塗ったり、花屋の従業員にメールを送ったり、そしてまた寝たり、と一連の行動を繰り返していた。
彼はここまでの道中、明るいムードを保とうとしてきた。〈M6高速〉の通行料は「俺がおごってやるよ」と冗談めかして言ったり、午前中のラジオでやっているクイズ番組を聞いて点数を競い合おうと提案したりと、血は争えないのか、いつしか昔の親父の役割を担(にな)っている自分に気づいた。子供の頃の家族旅行でもそうだった。数百キロも走るとみんなドライブに飽きてしまい、しょんぼりムードの家族から旅への熱狂を引き出そうと、ジェリー・カドガンが必死になっていたのを思い出す。
ここまでの旅路で、2回休憩を取った。1回目はロンドンの南西に位置するサリー州で、最初の中継地点としては残念なほど実家に近く、全然進んでいないことを実感する休憩となった。2回目の今回はコヴェントリーという都市の近郊で、予定ではこの時間には、もっと先まで進んでいるはずだった。
「今日はあとどれくらい走る?」と彼が聞いた。三人はそれぞれコーヒーや、バカ高いお菓子の袋を持って車に戻った。パトリックは好物の海老入りサンドイッチを買ったのだが、駐車場の隣に〈グレッグス〉の売店が設置されているのが目に入り、ソーセージロールも追加で買いたくなった。が、それはぐっとこらえる。
「ボウランドの森で高速道路を降りれば、近くにキャンプ場があるわ」とカースティが言った。「たぶん、あと3時間も走れば着くんじゃない」
「ボウランドの森なんて、記憶をたどっても聞いたことないわね」とジェシカが言った。
「素敵なところよ。デイヴィッドと一緒にハイキングに行ったのよ」とカースティが答えた。リヴィが生まれてから今までで、最も真剣に付き合ったボーイフレンドだったが、その真剣さは彼女の心の中だけのものだったのかもしれない。彼女が同棲を提案したとたん、彼は南米を旅行すると言い残し、彼女の元を去っていったのだから。
「どこかのサービスステーションに車を停めて、車内で寝ればよくないか?」と、パトリックが提案すると、ジェシカが顔面を平手打ちされたように顔をしかめた。「何だよ?」と彼は言った。
「もう車内で十分に寝たわ、パトリック。夜もサービスステーションで寝るなんてごめんよ。あなたがホテル代をおごってくれるなら、ホテルの部屋で寝るっていうのもありね」
「ちょっとした思い付きで言っただけだよ」と言って、彼は助手席に乗り込み、カースティに運転を代わってもらった。
「最悪の思い付きね」とジェシカが言った。
「じゃあ、出発するよ。準備はいい?」とカースティは言って、この旅で初めて握ったハンドルを回し、〈冒険家〉を発進させた。
ストーク近郊を走行中
カースティ
〈M6高速〉を1時間ほど走っただけで、やっぱり高速道路は嫌いだとカースティは改めて思い知った。何もかもが殺風景で退屈なのだ。両脇に広がる低木や草原さえ、奇妙な灰色を帯びているように見え、気分がどんよりしてくる。
夕方になると、澄んだ水にポタッと落とした黒いインクが広がるみたいに、白い曇り空がじんわりと暗くなってきた。高速道路の頭上にはいくつもの電光掲示板が掛かっていて、閉鎖中のジャンクションや、距離と交通量を考慮した目的地までの所要推定時間が表示されている。車の中、後ろの席では、眠くなくなったらしいジェシカが、自分の仕事、家族、生活について延々と語っている。話題が変わっても、中心にはいつでも彼女がいて、彼女の経験や意見に周りが引っ張られ、振り回されている感じだ。
「ニューヨークに住むことの大きな問題点はね...」と、彼女がパトリックに話し出した。彼は助手席で体をやや斜めにして、実際は知らないが、熱心に耳を傾けている姿勢だ。さっきまで二人は、パトリックのダブリンでの生活について話していたはずだが、彼女の友人のサンドラが最近ニューヨークに引っ越したとかで、いつの間にか話題がニューヨークでの生活に移っていた。「やっぱりスペースの問題よね。要するに、1人目の子供までならなんとかなるけど、2人目となると、もう無理ね。あそこで子育てなんて不可能よ。アンドレアっていう友達も、1年前からニューヨークに住んでるんだけど、あ、彼女は広告業界で働いていて、海外に出向中なのよ。それで、彼女は2人目を妊娠した時、もううんざりってニューヨークを去ったわ。また1年、乳母車を共同住宅のエレベーターに乗せて、昇り降りする生活なんて耐えられないって」
パトリックは、彼女の話にうなずいて見せはするが、自分の意見は一切言わないようにしていた。一方通行の会話はすぐに失速すると思いきや、なぜか会話はひとりでに踊り出したかのように、ぴょんぴょんとあちこちを飛び跳ね、むしろ活発になるばかりだ。まるで美容師やタクシー運転手に向かって、やっかいなお客さんがとりとめもなく話しているかのようで、二人の間には、親しみも相互理解も感じられない。今日初めて会った二人みたいに、彼らを結びつけてきた長い歴史があることなど、最近になって仲たがいするまでは、仲たがいできるほどの絆がかつてあったことなど、微塵も感じられない。
車の流れがゆっくりになり、高速道路にかかる電光掲示板に、40という数字が赤い丸で囲まれた表示が点灯した。制限速度40マイル(65キロ)を示す標識を見て、カースティはブレーキに足をかけつつ、上っ面だけ装った見せかけの態度を崩そう、と決心した。
「そろそろ、なぜ私たちがここに集まっているのか、話し合った方がいいと思わない?」と彼女は後部座席まで届くように呼びかけた。
「ん?」と、パトリックはスマホの画面に目をやりつつ、上の空で聞き返す。
「私が言ったのは、話をした方がいいんじゃないかってことよ。なぜ私たちがこんなことをしているのか」と、今度はエンジン音に負けじと、さらに声を張って言った。「パパが何を望んでいたのかについて」
車内が一瞬静まり返った。その沈黙は、なぜ私たちがここに集まっているのかということよりも、そもそも子供たちを置き去りにしてまで、こんな路上の旅に出ようと提案したのはあなたでしょ? というカースティへの非難のように感じた。
「どうなの?」と彼女は反応を求めた。「いつかはしなくちゃいけないでしょ。ずっと先延ばしにはできないわ」
「どうして?」とジェシカが返した。「そんなの話し合わなくても、明らかじゃない? 彼はあの手紙の中で、私たちにもう一度仲良くなってほしいって言ってたじゃない。そして、私の立場から見ると、私たちは仲良くやってるわ。みんな礼儀正しくしてるし」
「それはそうだけど、それだけでしょ。礼儀正しいだけで、実際には何も話してないわ。雑談ばっかり。彼が死んでからずーっと雑談」
「じゃあ、どうして欲しいの? 正直になったらいいのね、なら正直になってあげる」
「ジェシ」と彼女は言ったが、手遅れだった。
「父の家で一緒に後片付けをしているとき、あなたはいろいろ私に指図してきたけど、余計なお世話でうっとうしかったわ。それから、あなた」と、彼女はパトリックを指さして、続けた。「実家の後片付けにも来なかったくせに、父のお別れ会でバーメイドといちゃついてるなんて、父は笑って許すかもしれないけど、私からすると、あなたって最低ね。あなたの奥さんが、なんだか知らないけど、来れなかったからって―」
「ジェシ!」と、カースティが叫んだ。「この一週間半くらいのことを、そんなに馬鹿正直に振り返ったって仕方ないでしょ。もっと前のことよ、私たちに起こったことをちゃんと話し合いたいの」
「もっと前がどうしたっていうの? ママが死んだ時からのことを逐一(ちくいち)全部振り返らないといけないわけ?」ジェシカがそう言うのを聞きつつ、カースティはブレーキをぐっと踏み込み、キャンピングカーを渋滞の最後尾に停止させた。視界の先には赤いブレーキランプが、蛇のようにどこまでも伸びている。「今さらそんなことを話し合っても、なんにもならないと思うんだよね。あの時だって意見が合わなかったんだから、今もそうでしょ」
「今も、あれは正しいことだったって思ってるの? パパの家を売ろうとしたのは」と、カースティが言った。「ママが亡くなってからも、パパはあの家でとても幸せに過ごしていたのよ」
「あの時は正しいことだと思ったし、ええ、今もそう思ってるわ。いずれにしても、彼が幸せだったっていうのは、ちょっと言い過ぎね」
「言い過ぎじゃないわ。私は彼のことをずっと見てきたのよ、忘れちゃった?」
「そうね、カースティ。そんなこと言わなくても、あなたがパパを一番よく見てきたことはみんな知ってる。ただ、私は実家から2時間離れたところに住んでいて、パトリックなんて別の国に住んでるんだから、そんなの当たり前でしょ。って、そこまで言わないとわからない?」
「ジェシ!」と、カースティが毅然(きぜん)とした口調で言った。
「何? ところで、前の車が動き出したわよ」
カースティは体勢を元に戻し正面を向くと、100メートルほど車を前に進めてから、再び停車した。
「さすがに前の車は追い越せないけど、家族の問題はちゃんと乗り越えたいの。それがパパの望んだことだから」
「どうぞ、私は止めないわよ」とジェシカが言った。「ただ、昔みたいな関係に戻れる、なんて考えがどこから来るのかわからないわね。人生って変わっていくものでしょ?」彼女は反応をうかがうように少し間を開けてから、続けた。「べつにまったくの疎遠になったわけじゃないんだし、何がそんなに不満なのかわからないわ。昔は仲が良かったけど、今はそうでもない、ただそれだけのことでしょ? 人生にはそういうことだって起こるわよ。今ではもう、ほとんど会わなくなった友達だっているし」
カースティはこれに対しては何も言えなかった。彼女自身も、一部の友人を除けば、同じことを感じていた。自分が生まれ育った町に住み続けるということは、通りを歩けば、かなりの頻度で知り合いに出くわすということだ。―もちろん、会いたくない人にも。
それでも彼女は、ジェリーのリクエストには応えるべきだと思っていた。少なくとも、応えようとしてみるのは当然のことだと思っていた。失くした絆を取り戻し、再び結(むす)んでみる。やってみなくちゃわからないじゃない!
「私はただ、私たちがこんな感じになってしまって残念なのよ。何よりも、パパに申し訳ない。彼には私たちのこの状態が理解できなかったでしょうね」
「彼は認めようとしなかったのよ。私たちがああいう経験をしたことで、もう前みたいな関係でいるのが難しくなったってことを、彼は受け入れなかったの。昔みたいに、小さく一つにまとまった家族なんて」
「あなたもごめんなさいって言えばいいのよ」
ジェシカはしばしの間、黙っていた。彼女に非があったことは周知の事実だけど、自分の非を認めるのは誰だってつらい。カースティもそれくらい心得ていた。けれども、ようやくジェシカは静かに「いいわ、そうね」とつぶやいた。「わかってる。あなたたちもわかってるように、私が悪かったわ」
「ありがとう」
「でも、だからといって、すべてが元に戻るわけでもないでしょ? いろんなことが昔とは違う。あなたにはあなたの人生がある。さっきも言ったように、私だって実家から離れた場所で自分の人生を築いてきたわけだし、パトリックは―」
「俺は違うよ」と彼が言った。車の列がまた少し進んだが、カースティは最後尾に距離を詰めようとはせずに、彼の方を見たままだった。彼はこれまでほとんど口を開かず、窓の外を見つめたり、ジェシカの話にうなずいたりしていた。昔からそうだ。彼は家族のもめ事から一歩距離を置くことに徹し、干渉しないことで気楽な人生を歩んできた。「俺はもうそこには住んでないんだ」
パトリック
彼はなぜそれを言ってしまったのか自分でもわからなかった。魔が差したというか、二人の会話の方向性が見えてしまったからだろう。母の死とその後のこと。逃げ場のないキャンピングカーの中で、予想通りの口論を聞き続けることに嫌気が差したのだ。本当のことを言えば、自分の私生活の話はするつもりじゃなかった。何食わぬ顔で、スコットランドの島まで行って帰って来るつもりだった。
「どういうこと? あなた引っ越したの?」とジェシカがすかさず言った。「ってことは、今まで黙ってたってことね? パトリック、どうして言わなかったの?」
「今言ったじゃないか、俺はもうそこには住んでないんだって」
彼は姉の顔に影が差すを見た。「まったく、パトリックって人は。あなた家を出て来たのね? どうせそんなことだろうと思ってたのよ。やっぱりって感じ。あなたはやっぱり最低―」
「俺が家を出たんじゃないよ、ジェシ。そうじゃなくて、彼女が俺を置いて出て行ったんだ」
ジェシカの表情が変わった。かすかに、だが確かに、彼女の顔に光が差したのを彼は見逃さなかった。家族を捨てた弟に感じていた失望感がすっと消え、怒る必要がなくなった代わりに、芸能人のゴシップ記事の詳細を求めるような、にやけた探求心が芽生えたらしい。これほどまでに、他の誰かの残念な人生の成り行きを知りたがっている人を、これまで間近で見たことがないかもしれない。
「いつ私たちに話すつもりだったの?」
「さあね。そろそろ話そうとは思ってたよ」
「それでどうなったの? 別居? もう離婚しちゃった?」
「ジェシ」と、カースティが仲裁に入った。「そんなにせかさないであげて」
「いや、俺は大丈夫だよ」とパトリックは言ってみたが、内心は大丈夫ではなかった。結婚生活が破綻(はたん)したいきさつを説明するのは、スチュとサラに話した後で、これが2回目だったが、1分ほどでうまくまとめて話せるか自信がなかった。
「その前にちょっと...」と彼は言って、シートベルトを外すと、後ろの小さな冷蔵庫へ向かい、ビールを取り出した。「他に誰かいる人?」
ジェシカは首を横に振った。カースティは返事すらしなかった。
「俺たち夫婦は終わったんだ。スザンヌと俺はもう」と彼は言い、〈フラーズ〉の瓶(びん)の栓を抜き、泡立つビールをごくごくと喉に流し込んだ。「親父が亡くなる1ヶ月くらい前だったかな、彼女は家を出て行った。もちろん言おうと思ったさ。でも、すぐに戻ってくるかもしれなかったし、わかるだろ? なんて言えばいいのかわからなかったんだ」
「なんなのよ」とジェシカが憤慨して言った。
「ジェシ」とカースティがそれを制するように声を上げた。
「俺は大丈夫だよ」
「全然大丈夫じゃないでしょ」
「ジェシカ!」
パトリックはもう一口ビールをぐっと飲んで、前方に目を向けた。ゆっくりと前の車が動き出す。外はだいぶ暗くなってきて、フロントガラスに小雨がぽたぽたと落ちてきた。その水滴に、前方のテールランプの光が赤くにじむようだった。
「彼女は新しい男と出会ったんだよ。出会ったというか、なんというか」
「あなたも知ってる人?」
「あまり知らないけど、彼女が働いてた会社に、奴(やつ)がデジタル部門のコンサルタントとして入ってきたらしい。インターネットとかウェブサイトとか、そういう関係の族(やから)だよ」と彼は、スザンヌが言っていた『デジタル・アーキテクチャー』という、それっぽい言葉を使わずに説明した。「奴は自分のことをデジタルをさまよう流浪人(るろうにん)とか呼んでるらしいな。本名はジョンだけど、ネット上ではパークと名乗ってるとか、わけのわからない野郎だよ」
「ちょっと待って、冗談でしょ?」と、ジェシカが小ばかにするように嘲笑した。予想通りの反応だった。彼女は自分ではリベラルを気取って、どんなライフスタイルでも受け入れる器の広い女性を自任しているが、自分が未経験のことを提示されたり、彼女が住む場所ではめったに起こらない出来事を目の当たりにすると、往々にして拒絶反応を示すのだ。「っていうか、彼はどうやってお金を稼いでるわけ?」
「その点ではそいつはかなり優秀みたいだな。彼女によると、そいつは億万長者だそうだ。なんだか知らないが、何かのアプリを開発したとかで、彼女はクラウドなんちゃらとか言ってたな。それを誰かが買い取って、彼は一生安泰(あんたい)なんだとよ」
「現実にそんな仕事あるの? っていうかそれって仕事なのかしら」
「私は聞いたことがあるわ」とカースティが言った。妹の方は、姉に比べるとずっと温和で、喧嘩を吹っ掛けてくる感じがない。「友達のメイベルが付き合ってた恋人が、そんな感じだったわ。現代の流浪人ね」
「じゃあ何? 彼は世界中をさまよい歩いてるとか言うわけ?」
「メイベルの恋人は彼じゃなくて、彼女よ。彼女はリバプール辺りに引っ越したとか言ってたわね」
「で、それだけ?」と、ジェシカはカースティを無視して、彼に聞いた。「あなたの奥さんも現代の流浪人になるってこと?」
パトリックはうなずいたが、いまだにスザンヌが家族を捨てて、そんな生活を選んだことが腑に落ちなかった。短期契約の賃貸住宅を転々として、アメリカ中を、あるいは世界中を住み歩く生活がそんなに魅力的か? 彼は歯がゆい思いだった。それを可能にする資金は、パトリックには理解できない方法で、奴が生み出しているのだ。
「マギーちゃんが可哀想。なんて人生なの。あなたは彼女の親権を争って戦うつもりなんでしょ?」
「まあ、それは別問題だけど」と、彼はビールを一口飲んで言った。「マギーは彼女のところには行かないよ。これからも俺のところにいる。俺が世話をする」そう言うと、彼はジェシカから視線を横にずらし、キャンピングカーの前方、蛇のように連なるテールランプを見つめた。「これからもずっと、四六時中俺が世話する」
一瞬、ジェシカが車内で飛び上がって、「よく言ったわ!」と彼に抱きついてくる気配を感じた。妻が娘の親権を放棄したことを祝福するかのような姉の表情に、彼は水をかけることにした。そんなに良いニュースじゃない、と。
「俺は無職のシングルファーザーになったんだよ。友人のスチュの家のソファで寝てる浮浪者だな。俺は不要と見なされて、ごみの山に捨てられちまったのさ」と彼は言った。「これから残処理(ざんしょり)が大変だ」
「あまり褒められたものじゃないわね」とカースティが言った。
「まあな」
パトリックは再びビールを口にした。ジェシカも今では、彼の窮状(きゅうじょう)を心配しているような表情だった。彼女は身を乗り出すようにして、冷蔵庫へ向かうと、ビールを1本取り出した。あるいは彼に同情して、1杯付き合おうということかもしれない。
「いつまでもソファで寝起きなんてできないでしょ、パトリック。毎朝背中が痛くてたまらないんじゃない? 寝ている間にグサッて刺されたみたいに」
「そこまで寝心地は悪くないよ」と彼は言いながら、なぜジェシカが真っ先に背中の心配をしたのか不思議だった。もっと他に気に掛けるべきことはあるだろうに。そして気づいた。きっと彼女自身の人生で今起きている何かに関連しているんだ。だから最重要事項として、真っ先にそれが浮かんだんだ。「大きなソファなんだよ。スチュの家は結構広くて、リビングの角にゆったりと寝れる長いソファがあるんだ」
「ああ、そうなの。それはいいわね。うちもそういうのを買おうと思ってたのよ」と彼女は言った。「それはともかく、マギーちゃんを連れてうちに来なさいよ。一緒に住みましょ。ロフトの部屋が空いてるから。うちの子供たちも喜ぶわ」
パトリックは思わずビールを吹き出しそうになった。
「何よ?」
「ジェシカ、まさか本気じゃないだろうな? お前の家に住む?」
「ほんの少しの間だけよ。あなたが前みたいにちゃんとするまで」
「あり得ないよ、ジェシカ。悪気はないけど、それは無理な相談だ。今回の旅だってギリギリのところで我慢して一緒にいる感じだし、1週間が限度だろ。それ以上一緒にいたら、3人のうちの誰かが、誰かを殺しかねない」
「まあ、考えといて」
「ちょっといい?」と、カースティが運転席から後ろの二人に言った。「マギーはどうしてるの? お母さんには会えるの? スザンヌはどこだか知らないけど...どこか遠いところにいるんでしょ。あなたはここにいるし」
「彼女は母親に会えるよ」とパトリックは言った。
彼は、スザンヌが提案したことをここで明け透けにするのをためらった。それを口にした途端(とたん)、二人の姉妹が笑い出したり、スザンヌの頭がおかしくなったと思われたりするのではないか、と心配だったのだ。彼女は不倫をしたし、人生を全面的に見直したい、と言って出て行った。にもかかわらず、自分は彼女に捨てられた分際(ぶんざい)でありながら、なおも彼女を守りたい、という気持ちがどこかに残っていた。樽(たる)の底に溜まった愛の残りかすが、微々たるものだけど、まだそこにあったのだ。
関係が終わっても、愛は残ることを身に染みて実感していた。もしも愛が、関係が終了した時点ですぐさま消え去るものならば、と彼は考えた。彼女が同棲しているその天才技術者は、なぜ愛の代わりになるものをテクノロジーで発明できないのか?
「でもどうやって? マギーを一人で飛行機に乗せたって、無事にスザンヌのいるところにたどり着けるなんて思わないでよ」
「彼女には考えがあるんだよ」と彼は静かに言った。「彼女はビデオリンクで連絡を取り合おうとしてるんだ。そうすれば今後も娘に会うことができるって考えてる」
「勘弁してちょうだい」とジェシカは、高音域のつまみをひねったみたいに、信じられなさのレベルをちょっと上げて言った。
「パークだかジョンだか、名前はどうでもいいけど、そいつが言うには、ビデオリンクでの子育てが次の流行になるんだとよ。そのテクノロジーはとても優れていて、対話相手が実際に部屋にいるみたいな感覚を味わえるらしいな」
「ちょっといい?」とカースティが言った。「ということは、彼女は週に1回とか、娘とビデオ通話して、それだけで済まそうとしてるわけ?」
パトリックは一瞬ためらった。再び、元妻の名誉を守ろうとする気持ちが瞬時に胸のうちに湧き出たのだ。彼女にも母性はちゃんとある、と言いたかった。そして、スザンヌが言っていた売り文句を、そのまま彼女たちに言いたくなった。つまり、立体的な3次元映像、いわゆるホログラムの凄さをアピールしたい気持ちになっていた。―パークが研究しているのはまさにその技術で、それを使えば、スザンヌは娘と同じ空間にいる感覚で対話できるし、シリコンバレーの連中は、そのうち子供を託児所に預けるのをやめ、オフィスで働きながら子育てするようになるのだ、と。
しかし実際のところ、それは現実からは程遠いものだった。ボールズブリッジの自宅で、キッチンテーブル越しに彼がスザンヌに言い放ったことが、まさに真実だったのだ。「君は娘を捨てて、渡り鳥だかなんだか知らないが、そいつとあちこちの宿泊施設でセックスするんだ。直接面と向かってな! 綺麗事を並べたってごまかせないぞ、スザンヌ。今だってそうだろ、こうして面と向かわなきゃだめなんだよ」
「それだけで済まそうとしてるな」と彼は、カースティの言葉を繰り返しながら、スザンヌが家を出たいと言い出したあの日を思い出していた。それを聞いて、彼は珍しく怒りをあらわにした。それは彼の人生で、まだ3、4回しか経験したことのない、自制の利かない瞬間だった。彼は常日頃から対立の芽を摘みつつ生きてきたつもりだったが、その日は自分が思っていることを洗いざらいぶちまけてしまったのだ。
最初、彼は彼女に「ゆっくりして来い」と言って、彼女を送り出そうとした。一時の気の迷いだろうと、帰ってきたら彼女の浮気を許すつもりだった。また、パトリックは彼自身にも非がなかったか、自らの行いを省(かえり)みた。彼の父親の病気、仕事、サッカー観戦など、気を取られることが多くて、彼女とマギーに十分な気配りができていなかったのではないか。あるいは、まだマギーが生まれる前、彼女と二人でロンドンからアイルランドのダブリンに引っ越したのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。スザンヌがダブリンのIT企業からオファーを受け、彼女はとても張り切っていた。「今のうちにアイルランドのパスポートを取得しておきましょ」とさえ言っていた。イギリスだけEUを離脱したら、EU圏内ならどこでも使えるパスポートを求めて、イギリスのあちこちで長蛇(ちょうだ)の列ができるから、なんて会話さえ思い出される。
「俺が何かしたか?」と彼は彼女に聞いた。彼の顔は怒りで赤みを帯び、伸ばしっぱなしの髭(ひげ)は汗と涙で湿っていた。「もし俺が何かしたのなら、はっきり言ってくれ」
「あなたが何かしたとかじゃないの」とスザンヌは繰り返し彼に言い聞かせた。彼が彼女の浮気の全容を知った時から、悲嘆(ひたん)に暮れている彼に対し、彼女は半分理解したような、半分苛立ったような口調で接していた。「パトリック、落ち度なんて探す必要ないのよ。私たちの旅が終わったってだけなんだから」
彼女が言おうとしていたのは、疑似哲学とか、聞こえがいい流行り文句の類(たぐい)だった。パークが彼女に見るように言った動画やブログで、IT長者の波に乗り、調子に乗ってる連中が喚(わめ)き散らしているような与太話だ。彼らは中世の福音(ふくいん)伝道師やキリストの使徒に自分たちをなぞらえて、デジタル世界で生き抜く術を啓蒙(けいもう)していた。パトリック自身も、飲み会や食事会で何度かパークに会ったことがある。彼は彼女の会社にコンサルタントとして雇われていて、月に2、3回、ランチタイムに顔を出しては、デジタル関係の講演を行っていた。彼自身は、未来を見通し、経営の指針を示す先導者だとかほざいていたが、パトリックからすると、蛇の皮から取った万能のエキスだと言って怪しげな薬を売る、いんちきセールスマンと何ら変わらなかった。彼は他にも3、4社を回って同じ講演をしているらしく、彼がダブリンで巻き起こったITブームにうまく乗っかって、新興市場をフル活用しているのは確かだった。
「ふざけんなよ」とパトリックは、これまでの「旅」がいかにくだらないものだったかに呆(あき)れつつ言った。「っていうか、バレてほっとしたみたいな言い方だな」
「そうかもね」と言ってスザンヌは、謝っているというよりは恩を着せているといった風に、彼の手の上に彼女の手を乗せた。「これでよかったのよ。これで二人とも、それぞれの人生を歩んで行けるんだし」
「もし俺が気づかなかったら、どうしてたんだ? あのうすのろとこっそり、やり続けてたのか?」
「どの道あと1ヶ月くらいしたら、あなたに話すつもりだったの。私たちには計画があるからね」
「計画?」
「私たちはカリフォルニアに行くの。その後はニューメキシコに行って、その後はまだわからないわ。あまり先のことまで予定を立てたくないのよ。それに、パークは世界中から引っ張りだこなんだから、どこからお呼びがかかるかわからないわ」
「くそったれ」と彼はまだ信じられない様子で吐き捨てた。
「パトリック」と彼女が、彼の顔を覗き込むように目を合わせた。彼の瞳に映る女性は、もう彼の知っている彼女ではなかった。「私は私だけじゃなくて、あなたにも幸せになってほしいのよ」
「俺は十分幸せだよ、スザンヌ」
「そうね」と彼女は言って目を逸らした。「それは残念ね」
いたたまれなくなったパトリックは、キッチンテーブルの席を立ち、家を出ると、最初に見つけたパブに入った。〈リアリーズ〉という、これまで一度も行ったことのない店だったが、その名前からティモシー・リアリーを思い浮かべ、スザンヌもまたサイバー空間の魔力に囚われたんだな、とやけ酒した。2日後、パークがタクシーで迎えに来て、スザンヌを乗せて空港へ向かった。
「呆れてものも言えないわ、パトリック」とジェシカが言った。「いったいどうなってるのよ。彼女は母親でしょ、娘への愛情とかないわけ?」
「ないことはないんじゃないかな」とカースティがなだめるように言った。彼女は明らかに、母親バッシングが加熱して罵詈雑言(ばりぞうごん)に変わる前に鎮(しず)めようとしていた。
「そこが問題なのよ。彼女は本気でそんな絵空事を信じてるわけ? その手の話を一度聞いてみるといいわ。本気にする人なんているわけないって思うから」
パトリックはビールをもう1本開けた。彼は元々こんなに早くにこのことを打ち明けるつもりではなかった。まず、どうやって話せばいいのかわからなかったし、同情されるのが嫌だったからだ。
スチュとサラの家に居候し始めてからというもの、特にサラからたっぷりと同情をかけられ、ふがいない自分に嫌気が差していたのだ。結婚生活の破綻、それに追い打ちをかけるような父親の死、いわばダブルパンチをくらってノックアウト寸前の彼の姿が、サラの琴線に触れたようで、ソースのたっぷりかかった料理で手厚くもてなしてくれるのだ。夕食の席では、セラピーやカウンセリングを受けるようにしつこく言われ、せっかくのご馳走がなかなか喉を通らなかった。人生に関するコーチングを頼めば、悲しみを受け入れる、あるいは逆に吐き出すのか知らないが、何かしらの助けになるとサラは言うのだ。しかし実際のところ、パトリックが圧倒的に感じていたのは、悲しみではなく、「虚無感」であることを言い出せずに、ただ頷きながら、口をもごもごと咀嚼(そしゃく)するのみだった。スザンヌがタクシーで去った後も泣いたし、父親の訃報を聞いた時も泣いた。だけど今は、自分の人生を襲った災害が去った跡地で、涙も出ず、ただ呆然と虚無感に包まれ、突っ立っている状態だったのだ。これからどうやって前へ進めばいいのか、来年、自分の人生がどんな形になっているのか、周りには何の手がかりもなかった。
「それであなたは全く気づかなかったの?」とカースティが言った。「彼女から言い出すまで、彼女が浮気してる気配とか感じなかったわけ?」
嫌な質問が飛んできた。変に聞こえるかもしれないが、この部分に触(ふ)れられることを、彼は最も恐れていたのだ。その話をすると、登場人物全員が馬鹿か阿呆だと思われそうだったから。
「まあね」
「手がかりを見つけられなかったのね?」ジェシカは、彼が言い出すかもしれない何かに興味をそそられつつ、反面、怖くて聞きたくないといった二律背反の気持ちを抱えているようだった。「私からしたら、気づかないなんてあり得ないんだけど」
「そういうことじゃないんだ。奇妙なことがあって、本当に。あんな風にバレるなんて。あり得ないくらい愚かというか」
「べつに話さなくてもいいのよ」とカースティが、戦略的にへりくだった態度を取る外交官のように言った。
「私たちじゃ相談相手として頼りない?」とジェシカが言った。
「話すよ」とパトリックは言った。「でも...絶対笑わないって約束してくれ」
「約束する」とジェシカが言った。
「よし」とパトリックは言って、2ヶ月ほど前のことに思いをめぐらす。あの時、イングランドのクライアントにメールを送ろうと思って、スザンヌのノートパソコンを借りたんだ。「前から俺は彼女のノートパソコンを使って、メールを送ったりしていた。彼女もそれは知っていた。その時彼女はいなくて―」
「メール?」とジェシカが口を挟んだ。「大体そういう話ってメール絡(がら)みなのよね。私の友達のメアリーも―」
「ジェシカ」とカースティが言って、シーッと口を慎むように促した。車の流れが再びゆっくりになり、前の車が止まってしまったので、彼女は振り返って二人の顔を見た。
「いや、メールじゃない」とパトリックは言った。そして、まるで絆創膏(ばんそうこう)を傷口から剥がす直前の耐え難い瞬間のように、苦痛に耐(た)えつつ言った。「彼女の〈フィットビット〉だよ」
二人は一瞬、ん? という顔をして、ああ! と万能の腕時計を思い浮かべ、ジェシカは常にゴム製のリストバンドをしている自分の手首に目を落とした。
「噓でしょ」と彼女は言い、ゴシップ的洗礼を受けたように、にんまりした。まるで気に食わない友人の夫が、妻に隠れてデリヘルを呼んでいたのがバレたみたいに、嬉しそうだ。
パトリックはうなずいた。「彼女は〈フィットビット〉のすべてのデータを開いた状態にしていたんだ。それを見て不思議というか、不自然だったのは、毎週火曜と木曜の夜6時頃になると、彼女の心拍数が激しく上昇していることだった。彼女がジョギングしたり、ジムに行ったりしていないことは知っていた。それで―」
「何? これはどういうことだって、彼女に説明を迫ったの?」
「いや」と彼は首を振った。ここからが、彼の結婚生活を破綻させた不条理極まりない部分だと言わんばかりに、もったいぶって少し間を開けた。「彼女の話によると、火木は遅い時間に会議があるんだそうだ。アメリカの会社との合同会議で、時差の関係で夜にやってるとかね。それで、俺は5時半に彼女のオフィスに行ったんだよ。そしたら彼女が出てきて、彼の車に乗り込むところを目撃した」
「それで彼らの後をつけたの?」
「その必要はなかった。彼女と目が合ったんだ」と彼は、その瞬間の彼女の表情を思い浮かべながら言った。俺も間抜けな顔をしてたんだろうな、と、彼女のオフィスの向かいのビルの、中庭の植え込みの陰に隠れて、ひょっこり顔を出していた自分の姿を思い浮かべた。「彼女はすぐに浮気を認めたよ」
「全く言い訳とかしなかったの?」
パトリックは首を横に振った。「正直言って、彼女はちょっとほっとしたような顔をしてたよ。早くバレることを望んでたんだろうな。彼女の口から俺に言い出すのが嫌だったんだろう。それで終わったんだよ、俺たちの旅は」
彼は細かな状況説明を割愛(かつあい)した。例えば、ロビーの外で彼女と激しく口論していると、会社から出てきた彼女の同僚が挨拶してきた場面は省(はぶ)いた。その同僚はパトリックのことを知っているようで、そういえばパトリックにも見覚えがあった。スザンヌに対して熱(いき)り立っていた表情を取り繕うように、引きつった笑顔を浮かべつつ挨拶を返していると、パークが「その辺のカフェにでも入りませんか? みんなにとって一番良い解決法を探しましょう」と言ってきて、パトリックはその余裕ぶった顔を、拳で思いっきり殴りつけたくなった。
しかし、そこまでする必要はないだろうと、ぐっとこらえた。その気になれば、新聞社にパークのスキャンダルを売ることだってできる、と思った。一番の愚か者はパトリック自身だったのだ。まさか健康的な人生を送るためのスマートウォッチが、結婚生活を終わらせる最終兵器になろうとは。幸いなことに、自身の不名誉を新聞社に売るほどは、まだお金に困っていなかった。
「あらあら、パトリック」とジェシカが言った時、後ろから長いクラクションが鳴り響いた。カースティが慌てて前を向き、ハンドルに手をかける。前の車はとっくに発進していて、かなりの車間距離が開いていた。「大変な目に遭(あ)ったのね」
彼はジェシカの表情に葛藤を見て取った。同情と笑いが混在し、どちらが優勢を占めるか、接戦を繰り広げている。
「笑いたければ笑えよ」と彼は言った。「つまり、本当にバカバカしいことなんだから」
それなら、と言わんばかりに、彼女がクスクスと笑い出した。最初は遠慮がちに笑っていたが、パトリック自身も笑い出すと、二人はそれから数分間、お互いに顔を見合わせて、爆笑の渦に包まれていた。まるで10年前と何も変わっていないような、仲の良い姉と弟の姿だった。
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〔チャプター 4(の前半)の感想〕
最近の藍が目覚めて真っ先に思うことは、「あそこの表現はこうした方がもっと良くなる」というような翻訳に関することで、顔を洗うより先にパソコンを立ち上げ、部分的に直すのです。そして朝日の中で、メンタルがすこぶるヘルシーになったなーと、翻訳はささやかどころか、大いなる自己セラピーだなーと、しみじみ感じ入るのです。←この欄って近況報告の場だっけ? っていうか、それが感想だとしたら、朝方恐怖感に襲われるかもしれないって怯えてるのは、パトリック(俺)じゃなくて、トム(僕)の方だよ! ごっちゃになって来ただろ?笑
名言来た! 「途中の苦しみがあってこそ、どこかへたどり着いた時の達成感は格別なんだ。」
まあ、翻訳は、渋滞ほど苦しくないので、喩えには使えないんだけど、(←渋滞も助手席に誰かいれば、苦しくないどころか、むしろ楽しいよ!笑)
そうだな、恋愛に喩えると、簡単に手に入る相手は、付き合ってもあんまり嬉しくないんですよ!←それは君には想像でしょ!!爆笑
恋愛は苦しい。IはAさんが好き。AさんはBくんが好き。BくんはCさんが好き。CさんはDくんが好き。という風に全員が「上」を見てしまうから、誰にとっても恋愛は苦しい。←やっぱり君は底辺なんだね!笑
イギリスの小説でも、好きな人が去ってゆく場所は、やっぱり「南米」なんだね! ホリー・ゴライトリーも南米に行っちゃったんだよね...😢(思い出し泣き)
静かな生活と、言い争いのある騒がしい生活、どちらがいいかってたまに考える。ベストは両方なんだろうな。年がら年中にぎやかなのも、うんざりしそうだし、静かすぎるのも、寂しくなる...😢(現状泣き)
衝撃の告白って、一旦秘密にしておくから「衝撃」が生まれるわけで、藍の場合、どうにも「かたわらいたし」ですぐ言っちゃうから(笑)、「衝撃」の総量がちっともたまらない...f^_^;💦←君ってすぐいっちゃうよね!笑
*藍の愛読書『徒然草』によると、「傍ら痛し」は「きまりが悪い、落ち着かない」という意味らしいです。
藍も娘を持った気になって、泣いてしまった。←きもっ!笑
最近の藍は平安時代を想っている。
エジソンだかオスカー・ワイルドだか、名前はいちいち挙げないけど、蓄音機とか、レコードとか、カセットテープとか、レーザーディスクとか、コンパクトディスクとか、ビデオとか、DVDとか、ブルーレイとか、バーチャル・リアリティーとか、ホログラムとかが一切無かった時代、月明かりの下で、恋文や短歌を交わし合い、逢引きをしていた雅(みやび)の人たちと、現代人の幸福の度合いや質は違ったのだろうか? (きっと同じだね💙チュッ)
いよいよ衆議院選挙です!←えーーーーーーー!!!! それ書く~~~~~~??????? (場が暖まってきた頃合いで水をかけるのが大好き💙ブチュー)
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日本でいうと、長野と新潟の県境辺りかな?←日本でいう必要ある?笑←じゃあ、生きる必要ある?←ある!!!(笑)
ボウランドの森
ジェシカ
3時間半後、彼らはボウランドの森にあるキャンプ場に近づいていた。高速道路を降りると、1車線の道路が続いた。コンクリートを使っていない石垣と、緑の生け垣が両脇に散見された。その向こうには野原が広がっていて、たくさんの羊が風雨を避けるように身を寄せ合っている。カースティは何度もブレーキを踏んだ。ウサギやキジ、シカなどが車輪の下に飛び出してくるのではないかと思ったからだ。この3人の中で唯一のベジタリアンが、キャンピングカーで動物を轢(ひ)き殺したなんて、シャレにならない、というか、いかにも起こりそうなオチに思えたからだ。
ジェシカは遠くに、ヨークシャーの方へ向かってなだらかに伸びる丘のシルエットをぼんやりと眺めていた。その向こうには濃い紫と群青色が混じった空が広がっていて、夜が丘を越えてこちら側へやって来ようとしていた。ここは、彼女が住んでいる家の近くの〈ナショナル・トラスト・パークランド〉よりも、さらに田舎の田園地帯だった。ここには道案内板が随所(ずいしょ)にあるような散歩道はない。〈ナショナル・トラスト・パークランド〉のように、散歩を楽しむ人たちに美味しいホットチョコレートやケーキを売るカフェもない。それでも、ちらほらと農家はあって、大体どの家も、丸くて大きな衛星放送受信用アンテナを壁に取り付け、家の前にはプラスチック製の大きなゴミ箱を置いている。
カースティがまた急ブレーキをかけ、ジェシカは前のめりにつんのめった。
「一体どうしたっていうのよ?」と彼女は言った。
「そこを曲がるんだったわ」とカースティが言った。「ちょっと通り過ぎちゃった」
「この場所はなんていう名前だっけ? ティーアンドビスケットの森だっけ?」
「今ケーキっていう看板があったでしょ、ボウランドのケーキよ!」とカースティは、今日はもうこれ以上車には乗りたくないと思いながらも、ジェシカのボケに乗ってあげた。
彼女はギアをリバースに入れ、バックで狭い上り坂を登って行った。道の真ん中に苔(こけ)が生えているところを見ると、めったに車は通らないようだ。カースティはアクセルを踏み込み、苔で滑るタイヤをやや空回りさせながらも、細道が水平になるまで登り切った。ジェシカは窓の外に目をやって、わきを流れる小川を眺めていた。岩間を流れ落ちる透明な水が、夕闇の中でキラキラと光っていた。
「やっと休めるな」とパトリックが言って、車が大きな木製の門の前で停まった。風化してさびれた看板には「ケーキとお酒:ファミリーキャンプ場」と、まるで何かの教訓のように書かれている。ケーキとお酒があれば人生は楽しいと言ったのは、シェイクスピアだったか、サマセット・モームだったか。カースティは車の窓から身を乗り出すようにして、門のブザーを押した。〈バブアー〉の黒ジャケットを着て、〈ウェリントン〉のゴム長靴を履いた老人が、牧羊犬を連れて現れた。その犬も、彼とほぼ同年代に見える老犬だった。
それで羊を追い立てているのか、彼は木の棒を手に持っていて、なぜかそれで車のボンネットをコンコンと叩いた。傷やへこみができるかもしれないというのに、全く意に介していない様子だ。ジェシカは、これまでに何台の車が同じようにその棒で叩かれてきたのかしら、と思った。運転手の困惑した表情を窓越しに見て、毎回楽しんでいるのかとも思ったが、そうも見えない。続いて彼は、その棒で指し示すようにして、生け垣に囲まれた野原まで車を誘導した。
カースティがキャンピングカーを駐車したところで、彼は運転席の窓越しに「この時期に来る人はあんまりいないんだがね」と言った。
「そうでしょうね」
「君らと、あの人たちだけだよ」と彼は言って、棒を振り上げ、野原の真ん中にある3つの大きなテントを指差した。「田舎をめぐってるんだろうな、散策者たちだ」
キャンプ場といっても、ほぼ原っぱのままだった。一応数本、木製の電柱は立っていて、そこからキャンピングカーに電気を取り込めるらしい。あとは、その老人が住んでいる庭付きのコテージがあるだけだった。そのコテージとキャンプ場は、高さ50センチほどの緑の生け垣(モクセイ科イボタノキ属の落葉低木)で仕切られていて、その隣には小さな売店と、薄気味悪いシャワー室があった。
「とてもいいところですね」
「それはともかく、電気はここだ」と彼は言って、電柱の一つを木の棒で叩いた。「無料だが、ここに小便はするなよ。そこに売店もあるが、大したものは売ってない。温かい食事は出ますか? なんて野暮なことは聞くんじゃないぞ」
カースティは丁寧にお礼を言ったが、その男は彼女を無視するように、ぷいっと振り向くと、行ってしまった。噛まれてボロボロになったテニスボールを前方に投げて、それを犬に追いかけさせながら、歩き去って行く。ジェシカは、自分と全く共通点のない男と会話する羽目に陥ることを避け、彼と犬がだいぶ遠くまて行ったことを確認してから、キャンピングカーの踏み段を降りて外に出た。
「素敵なところでしょ?」とカースティが言った。
「さあ、どうなんだろ。暗くてよくわからないわ」
「匂いのことよ。ほら、田舎の空気って感じじゃない?」
「べつに珍しくもないけど」とジェシカは言った。「私の家の辺りも、とても緑が多いし」
カースティはキャンピングカーの後ろのドアから再び車内に入って、中にいるパトリックに合流した。彼女がシンクの上の戸棚から片手鍋を出す音や、やかんでお湯を沸かす音が、外にいるジェシカの耳に届いてくる。さっき高速道路のサービスエリアで買っていた、チキンやニンニクやバジルをパスタで包(くる)んだ詰め物に火を通すのだろう。ジェシカは、今日は水曜日か、と思った。ラクラン家では水曜日は炭水化物を摂(と)らない日と決めていて、パスタなどは食卓に出さないようにしているのだが、今日は例外でしょ、この状況だし、と思い、話としてもそのことには触(ふ)れないことにした。
ジェシカは草原の真ん中を歩きながら、スマホの画面を見た。左上の表示が「圏外」になっていないことを期待したのだが、不運にも「圏外」だった。彼女が契約している携帯電話会社は、イギリス全土の99%をカバーしていると謳(うた)っていたのだが、ちょうどこの場所は、残りの1パーセントの範囲に入っているらしい。彼女はそれを後ろのポケットにしまうと、夜空を見上げた。ボードゲームでもしているのだろう、テントの中から、散策者たちの陽気なおしゃべりが、夜風に乗って流れてきた。
今日はまずまずね、と声に出して言ってみると、自然と顔が綻(ほころ)んだ。
ここまでの道のり、懐かしさや思い出に浸っていた時間もあった。それから、パトリックの大きな告白があって、それ以来、彼はまた物静かでよそよそしい態度に戻ってしまった。―ほんのひと時、素の自分をさらけ出したかと思ったら、また昔の「何もしない、何も言わない、大騒ぎしない」少年の姿に舞い戻ってしまったのだ。
ジェシカは内心、この旅に付いて来て良かった、と喜びを感じていた。ダンは正しかった。この旅のどこかの時点で、私たち三人は、ここ数年の間に生まれたわだかまりをすべて吐き出すことになる、と彼女は思った。結局のところ、私たちは和解し、関係を修復するためにここにいるのだから。しかし、ジェシカはその時、どのような態度を取るべきか決めかねていた。母親の死が家族にもたらした傷の大きさを考えれば、修復も一筋縄ではいきそうもない。ただ、今振り返ってみても、自分が何か別の行動に出ていたとも思えない。
ジェシカは、カースティから送られてきたメールをまだ保存していた。ダンと私が実家を売ろうとしていることが彼女に知れて、送られてきたメールだった。彼女の怒りが文字を通して、スマホの画面から溢れ出ていた。
ダンと私は、これは良いことなのよ、とジェリーを説得し、彼が入居するための素敵なアパートまで見つけてあげた。ギャントン通りの邸宅は年寄りが1人で住むには大きすぎるし、あんなに嫌な思い出ばかりが詰まっている家で、余生を過ごすのは気の毒に思えたというのもある。それに、銀行が彼のビジネスを救済した2009年以来、あの家は抵当に入っていたから、借金を返済しなければ、どの道銀行のものになってしまうのだ。
あの時の言い争いは、彼女の頭の中で鮮明に繰り返し再現されてきた。家族会議が開かれたのは3年前のことだが、まるで先週起こったことのように、台詞の一つ一つを思い出せる。何年経っても色褪(あ)せない記憶というのは、良い思い出だけとは限らない。
カースティから召集令状のようなメールを受け取った私とダンは、ギャントン通りの邸宅まで赴(おもむ)いた。普段から家族会議なんて開いたことがなかった私たちは、ぎこちなさに包まれつつ、キッチンテーブルを挟んで向き合っていた。緊急事態が発生してからすでに5日が経っていたというのに、ようやく集まったのだ。
「よくもまぁ、ジェシカ、なんてことをしてくれたの!」とカースティが叫んだ。「心理的に彼を操ろうなんて。彼はまだ悲しんでるっていうのに」
「ここには思いっきり抵当権が設定されてるのよ!」
「そんなことはわかってるけど、あなたの目的はそうじゃないでしょ、ジェシカ。その話を持ち出して、ごまかさないで」
「私たちは保証人なのよ」と彼女は言った。〈カドガン・ファミリー・建築士事務所〉が破産寸前まで行った時、彼女とダンが保証人になることで、実家の2度目の抵当権設定を銀行が認めたのだ。銀行曰(いわ)く、今後少なくとも20年は仕事をする見込みがある人の後ろ盾がなければ、彼女の両親のような高齢夫婦に多額の融資をすることはできない、ということだった。「私たちには、この家を今後どうすべきかについて、ある程度の発言権があるってことでしょ」
「私よりも発言権があるっていうの? パトリックよりも?」とカースティが、ほとんどヒステリーを起こしそうになりながら言った。「パパよりもあるっていうわけ?」
ジェシカは一瞬黙り込み、ダンの顔を見てから、言い放った。「あるわ。はっきり言わないとわからないみたいね」
その瞬間が決定的な決別の瞬間だったのかもしれない。カースティの腕が動き、一瞬、彼女が熱い紅茶の入ったマグカップを投げつけてくるのではないかと思った。
そこからは非難の応酬となった。彼女とダンが家の売却を強行して、そのお金の一部を自分たちの住宅ローンの返済に充てようとしている、とカースティは言うのだ。厳密にはそういう気持ちもなかったとは言えないが、私たちの真の意図がねじ曲げられ、取り違えられていた。
緊急会議にスカイプで海の向こうから参加していたパトリックは、いつものようにほとんど口出ししなかった。しかし、彼がジェシカの計画をすでに知っていて、それを「まあ、売ってもいいんじゃない?」と暗に認めていたことがカースティの知るところとなり、彼女の怒りの矛先を向けられてしまった。(彼はその後、ジェシカとも仲違いし、「どうせ俺は二人の間のスケープゴートだよ」と、ぼやくようになっていた。)
「なぜそんなに計算高いとか思うの?」とジェシカは言った。「常識的に考えて言ってるだけよ。この古くて広い家にポツンとひとりで暮らすなんて、彼だって望んでないでしょ」
「この古くて広い、お金になる家でしょ?」とカースティが口を挟んだ。
「重要なのはそこじゃないわ」
「ジェシカ、ここは私たち家族の家なのよ。それをどうするかは家族みんなで決めなきゃね」
「だから、なぜ彼はまだここに住みたいのか、その理由を聞いてるのよ」
「ここは俺の家だからだ」とジェリーが口を開いた。それまで隅の席で、ほとんど上の空といった様子で座っていたのだが、ここぞとばかりに目を見開いた。「この家は半分俺が建てたようなものだ。母さんと俺がここに来た時は、ボロボロで到底住めるような家じゃなかった」と彼は言った。「俺はお前たちを、そんな風に財産や金のことばかり考えるように育てたつもりはないぞ。勤勉さを重んじるように、一生懸命働くように育てたんだ」
彼は立ち上がったが、先月の大半をテレビの前でダラダラと過ごしていたせいで、足元がふらついた。
「今のところ、自分でもどうしたいのか決めかねてる。ただ、もしこんな風に嘆かわしい言い争いの種になってるのならば、もうこのことは忘れてくれ。お前たち全員に言ってるんだぞ」
そう言って、ジェリーはパブに向かった。パトリックは、赤ん坊の世話を手伝うように妻に言われたとか言い訳をしながら通話を切った。ジェシカとダンは、別れの挨拶もそこそこに実家を出て行った。カースティは一人でそこに残って、キッチンの片付けを始めた。
その口論の後、少なくとも1週間は、カドガン家の面々はお互いに口をきかなかった。それぞれがそれぞれの形で裏切られたと感じていたのだ。カースティは、大きな決断から自分だけ除け者にされたことに。パトリックは、ジェシカがカースティよりも優位に立とうと彼を利用していたのだと気づいたために。ジェシカは、外のみんなが現実的な理由ではなく、感傷的な理由であの家に固執(こしゅう)していることがわかったために。彼女にとって、無用な感傷ほど嫌いなものはなかったから。
その夜が、今日ここに三人が集まることになったそもそもの原因だった。あの夜から今日まで、ぎくしゃくした関係が修復されることはなかった。しかし元はと言えば、それは何の説明もなく、忽然(こつぜん)と姿を消した一人の家族がもたらしたものに他ならなかった。長年に渡って、それぞれの心に深く積もった痛切な想いのゆえだったのだ。
ちょうどその時、ジェシカはお尻のポケットで携帯が震えるのを感じた。電波が届いたらしい。携帯を引き抜き、ダンか子供たちからのメッセージを期待しつつ画面を見ると、それは単に、花屋のインスタグラムに新たなフォロワーが増えたという通知だった。
キャンピングカーに戻ると、カースティがテーブルに座って、プラスチックのコップで赤ワインを飲んでいた。フリースの上着を着て、脚には毛布をかけている。パトリックはさっき見かけたシャワー室に行っているとのことだった。明日は凍(こご)えるような寒い朝になることが目に見えているから、今のうちに体を温めているんでしょう。
「私にも1杯ちょうだい」とジェシカが言った。
しばらくの間、二人は黙ってワインを飲み、窓の外の夜空を眺めていた。家で見るよりもずっとたくさんの星がまたたいていた。自分の家では、近くの都市の光がぼんやりと届き、完全な田舎ではないことを常に思い知らせていた。美味しいレストランやカフェ、〈ウェイトローズ〉の支店などが立ち並ぶ、快適なマーケットタウンがすぐそこにあることが常に意識のうちにあった。しかし、ここではそれが全く違っていた。夜空はあまりにも多くの白いビーズで覆われていて、彼女が家でたまにマックスとエルスペスに説明して見せるように、星座を解読し指でなぞることは、ここでは不可能だった。
「かわいそうなパトリック」とカースティがついに口を開いた。
「そうね。私も同じことを考えてたわ」とジェシカは言ったが、それは嘘だった。彼女が考えていたのは、家のこと、子供のこと、仕事のこと、夫のこと、キャンセルした休暇旅行のこと、電波の状態が不安定で彼らに電話をかけられなかったことだった。「パトリックったら、今までずっと黙ってたなんて、私たちが彼を裁く裁判官みたいじゃない? ようやく白状したけど」
「裁けるの?」とカースティが、驚いたような表情で言った。「ジェシ、だからこそ私たちはここに集まってるのよ。10年前だったら、彼は真っ先に私たちにそのことを話していたでしょうね。でも今は違う。私たちがこうやって狭い場所に閉じ込められるまで、彼は文字通り何も言う気にはなれなかった。その事実がすべてを物語ってるわ」
ジェシカは納得がいかないような表情をして、ため息をついた。
「何?」
「10年前はああだったこうだったって言うのは勝手だけど、ただ、何か変ね。彼は昔から物事を溜め込んでしまう質(たち)なのよ」
「だから言ってるじゃない。パパがこの旅をリクエストしたのは、そういうことなのよ。私たちに昔みたいに戻れって言ってるの...何もかもを」
「待って。わかってて言ってる? つまり、彼のメモにははっきりとそういう風には書かれてなかったでしょ」
「そうね。私はただ推測してるだけよ」とカースティが、むっとして言った。「でも、そう考えるのが妥当じゃない?」
ジェシカは言い返す前に、自分の言いたいことがもっと鮮明になるのではないかと、少し間を開けた。
「それで、それは実際に可能だと思う?」
カースティがそれに答える前にドアが開き、パトリックがキャンピングカーに戻ってきた。下はジョギング用のジャージにアディダスのサンダル、上は〈ワトフォード・フットボール・クラブ〉の黄色いシャツを着ていた。髪は濡れて乱れ、顔は青ざめている。
「あのシャワー室、クッソ寒みぃぞ」彼は犬が体を乾かそうとするように、ぶるぶると全身を揺さぶった。そして、二人が自分を見つめていることに気づき、「何だよ?」と言った。
「なんでもない」とカースティが言った。「飲む?」
「飲むけど、腹減ったな。俺が料理すっか?」と言って、彼は冷蔵庫からパスタの詰め物を2パックと、瓶入りのペスト・ジェノヴェーゼを取り出した。
「ごめん。今やろうと思ってたんだけど」
「いいよ、俺に任せろ」と彼は言った。
「考えてたんだけど」とカースティがワインを手渡しながら言った。「夕食を食べたら、あの箱を開けてみようよ。最初のアルバムをめくってみるの。パパの指図通りの順番で」
「ウイスキーもね」とパトリックが付け加えた。
「もちろん」とジェシカは静かに言った。彼女はさっきカースティが言っていたことを思い返していた。すべてを昔みたいに戻す。昔の三人の関係が自然に出来上がった秩序だとしたら、今は無理にゆがめた異常な状態で、それが長く続きすぎている。いびつなまま固まってしまう前に、ほぐさないといけないのかもしれない。
「何か問題でも?」とカースティが、ぼんやりした様子の彼女を見て聞いた。
「子供たちのことが心配なだけ。電波がほとんど届かないから、電話もメールもできないし。もし彼らが私に何かメッセージを送ってたとしても」
「きっと送ってるわね」とカースティが、なだめるような口調で言った。
ジェシカは立ち上がると、キャンピングカーの中をそわそわと歩き回った。
「ねえ、この車ってちゃんと暖房はあるの?」と彼女が焦ったように聞いた。
「一応はね」とパトリックが言った。
「一応って何? ちゃんと暖かくならないの?」
「まあ、ラジエーターがないからな。あそこから一応熱風は出るよ」と彼は言って、ドアのそばにある小さな円形の通気口を指差した。「ただ、それで一酸化炭素中毒にならないとは保証できないけどな」
「リスクを冒して眠るわけね」と彼女は言った。
パトリックは温めたパスタの詰め物を大きなボウルに移し、それをテーブルの上に置いた。それから、お皿を3枚、フォークを3本、ワインのボトルをもう1本並べ、テーブルの下から赤い金属製の釣り具箱を取り出した。
「これは食後だな」と言って、2人の間に腰を下ろす。
カースティ
カースティは、今回もまた自分が司会役を務めなければならないのか、と感じた。何でもいっつも私にばっかり押しつけて、と言ってやりたい気持ちになったが、私は分別のある大人よ、と自分に言い聞かせ、ぐっと言葉を押し込めた。
赤ワインを2本飲み干し、昔の家族旅行のこととかを思い出すままに話したりしながら、食事が終わり、誰も言い出さないので仕方なくカースティは、パトリックがさっき横に置いた赤い箱を手に取って、テーブルの上に載せた。小さな南京錠に鍵を差し込み、父の葬儀の日の夜以来ずっと鍵をかけたままだった釣り具箱の蓋を開けた。
そこにはすべてがそろっていた。2週間誰の手にも触られないまま、手紙、ウイスキー、アルバムが入っていた。
「どうぞ」彼女は、ジェリー・カドガンの古い釣り具箱の中から、イエス・キリストの聖杯を取り出すかのような厳(おごそ)かな表情で、ウイスキーのボトルを両手で取り出すと、それをパトリックに手渡した。彼はそれを開封すると、一人で笑い出した。
「何?」とカースティが言った。「何も問題ないでしょ?」
「いや、まったくないよ。ただ、親父のやつ、ちょっと飲んだな」コルク栓を引っこ抜きながら、彼は言った。「シールが破れてる」
「飲んではいけないって言われてたのよ」と、カースティは信じられないといった表情で言った。
「どっちにしろ余命宣告を受けてたんだから、少しくらい飲んだってどうってことないだろ」と彼は言って、大きめのグラスにウイスキーを等分に注いでいった。
「それにしたって―」
「ほんのちょっとしか飲んでないよ」彼はジェシカの反論を遮って、3つのグラスにウイスキーを注ぎ終えると、親父がよく言っていた美味しいウイスキーの飲み方を思い出し、それぞれのグラスに1滴か2滴の水を加えた。
「じゃあ」とカースティが言った。「きっとこれが最初の1冊ね」
彼女は箱からアルバムを取り出した。それは縦横が昔のレコード盤くらいの大きさで、青い革製のアルバムだった。四方には金色のふち飾りが施されているが、ところどころはがれている。彼女はそれをテーブルの真ん中に置いた。―パトリックとジェシカが向かい合って座り、カースティの向かいにはプラスチックの窓があった。そこに映った自分の顔は、思いのほか緊張気味だった。
「さあ、始めましょう」彼女はそう言うと、表紙に指をかけ、時の扉を開くように最初のページをめくった。
そこには、左上に日付と場所が、母の筆跡とわかる丸みを帯びた文字で書かれていた。
1990年7月、コベラック、コーンウォール。
その下には写真が3枚収まっている。
1枚目には、ピンクのウインドブレーカーを着たジェシカが、紫の〈ラレー〉のマウンテンバイクにまたがっている。ハンドルから葉っぱが伸びるように、紫にきらめくミラーがついた子供用の自転車だ。
2枚目には、パブの外のベンチテーブルに座った両親が、ビールとワインのグラスをカメラに向かって掲(かか)げ、酔った赤い目をして、にっこりと微笑んでいる。
そして最後の写真は、カドガン家の4人の子供たちが並んで海辺の防波堤に座っているものだった。
ジェシカ、パトリック、カースティ、そして最後に隙っ歯を見せて笑っているのが、アンドリューだ。
カースティは息を吸って、まだ自分が1歳を過ぎたばかりの頃に家族で出かけた旅行に飛び込んだ。彼女は何も覚えていなかった。しかし他の二人は覚えているかもしれない、と思って周りを見た。そして、三人は一緒に記憶の中に潜っていった。
フィッシュ・アンド・チップス
1990年7月 ― コベラック、コーンウォール
「3、2、1」スーがそう叫ぶと、4人はカメラに向かって笑顔を見せた。「ハイ、チーズ」
全員が彼女に向かって叫び返す。甲高い二人の声が響き、赤ちゃんのキャキャッという興奮した声が弾(はじ)け、パトリックはいつものように「ソーセージー!」と叫んだ。
彼らはコーンウォールの小さな漁村にいた。フィッシュ・アンド・チップス専門店の向かいの壁に子供たちが腰掛け写真を撮っている間、ジェリーは6人の家族が食べきれないほどの料理を注文していた。カウンターの男性店員は、今年もやって来たこの家族を覚えていた。観光地であるコベラックでは、町全体の収益アップにつなげる取り組みとして、観光客には親切に対応するという合意が、ほとんどの店で取り交わされていた。ただ、一軒の釣具店だけは例外で、そこの店主は7月と8月の間、子供向けの網(あみ)やバケツ、鋤(すき)などを売ってはいたが、お客がそれらを買おうと手を伸ばすと、そんなものを使うなんて図々しいとでもいうように、ギロッと睨(にら)み付けるのだった。
コベラックはカドガン家にとっての別荘地といえる場所だった。スペインの特定のリゾート地で毎年夏を過ごす人がいるように、東海岸に居心地の良い夏用の別荘を持っている人がいるように、フランスのキャンプ場に毎年行く人がいるように、カドガン家は毎年ここにやって来るのだった。毎年7月の第2週は、海岸沿いの道路からすぐのところにあるコテージで過ごすことにしていた。後方にはどこまでも続くような草原が広がり、前方には岩だらけの小さな砂浜が広がっていた。毎晩、潮が満ちるとともに、その砂浜は海面に沈み、朝になると濡れた岩場が再び姿を現すのだった。岩にはり付いた海藻が朝の光に照らされ、鮮やかな緑色にキラキラと輝いていた。
このコテージは、〈カドガン・ファミリー・建築士事務所〉の顧客であるジェインという老婦人が所有しているものだった。―彼女はイギリスをぐるっと巡れるようにと、あちこちの海岸沿いに6つの土地を所有していた。1979年に初めてこのコテージを訪れた時には、まだジェリー、スー、ジェシカの3人だけだった。酔っ払いが運転する車がコテージ前のレンガ壁に突っ込んできて、新しい壁を作る必要があったジェインが、ジェリーにそれを頼んだのがきっかけだった。ジェリーには幼い娘がいて、お金もないことを知っていた彼女は、その工事を引き受ける代わりに、コテージを貸してくれたのだ。それ以来、毎年夏にはここに訪れるようになった。―最初の数回は補修や雑用を行うことで賃貸料の代わりとし、その後、ジェリー・カドガンが独立し、少しずつ収入が増えていったことで、現金で支払うようになった。
1990年、彼らが滞在した1週間は雨の日が多かった。カドガン一家は、黄色いポンチョのようなレインコートをかぶって、農地や起伏(きふく)の激しい海岸沿いの道を歩き回っていた。
その日、彼らはティンタジェル城に出向いた。そこでジェシカはアーサー王伝説に夢中になって、休日に使っていいことになっている20ポンドをすべて、アーサー王のグッズに使ってしまった。黒い紐で首にかけることができるルーン文字が刻まれた青い石碑や、この地方の作家兼詐欺師が「真実の歴史」という文字を石に刻んだ剣(つるぎ)などを買い込んだのだ。
「よし」とジェリーが5つの箱を抱えて、フィッシュ・アンド・チップス専門店から出てきた。「あそこのベンチにしよう」
「カモメはどうするの?」とジェシカが、思春期に近づくにつれ、少しすねてきた声で言った。
「カモメなんかほっとけ」
「ジェリー、やめて」と彼の妻が言った。
「下品な意味じゃないよ、スーザン」と彼は、しわがれ声を含み笑いで和らげつつ言った。「オカマを掘るという意味で使うやつもいるかもしれんが、れっきとしたアングロサクソン語だ」
子供たちはベンチに座り、スーが一人一人に食べ物の入った箱と木製のフォークを手渡した。パトリックはすかさずアンドリューの腕にフォークを突き刺し、お返しに熱々のフライドポテトを顔面にくらった。
「やめなさい」とジェシカが言った。
「お前はママじゃないだろ」
「ママはここにいるわ」とスーが割って入った。「弟を刺すんじゃありません。あなたも食べ物を投げたりしないの」
ジェリーとスーはベンチの両端に腰掛け、フライドポテトをつまんだり、なかなか切れない木製のナイフで魚を切り分けたりしていた。
「あと二日だな」とジェリーは言って、家族で飼っているラブラドール・レトリーバーにフライドポテトを一つ投げ与えた。犬の名前はグレイで、彼のひいきのサッカーチーム、ワトフォードFCの監督グレアム・テイラーから取った名前だ。「明日は何をしようか?」
「ビーチがいい」とアンドリューが、ポテトで口をいっぱいにしながら言った。
「今日みたいな名所は他にもある?」とジェシカが聞いた。
「お城はもういいでしょ」とスーが言った。また一日中、4人の子供を統率しながらお城を巡るのはうんざりだった。どうせ15分後にはジェシカ以外の3人は飽きてしまうんだから。「晴れてたらビーチに行きましょ。晴れてなければ、ボードゲームをして、その辺を散歩しましょ」
この提案は家族全員を満足させるものだった。少なくとも、誰からも不満は出なかった。
食事が終わると、スーとジェリーはリュックサックに予備の服や食べきれなかったお菓子、カメラなどを詰め込んだ。スーは最後に、ティンタジェル城で男の子たちに買ってあげた木製の剣(つるぎ)をリュックサックの一番上に突き刺した。手で握る柄(つか)の部分がリュックから飛び出ている。そして、濡れた犬の匂いが常に充満している家族用のワンボックスカーへ歩いて戻った。
翌朝はコテージの窓から太陽が顔を出し、ぽかぽかと暖かかった。まるで夏が満を持して登場することを決意したかのような青空が、窓の外に広がっていた。アンドリューはこれで今日はビーチに行くことが決定したと勢い勇んで、すぐにスーパーマンの水泳用トランクスを穿き、先月イタリアで行われたばかりのワールドカップの記念Tシャツを着た。イングランドが勝ち進むにつれ、ジェリーが興奮のあまり購入していったグッズの一つだ。(ジェリー自身はイングランドが準決勝で負けた時、イングランドのTシャツをクローゼットの一番奥に突っ込んでしまい、それからそのTシャツは何年も日の目を見ることはなかった。)
アンドリューは、キッチンの配膳カウンターに置いてあったカメラを手に取った。それはコダックの〈ホビー〉という黒くて分厚いカメラで、カセットテープとほぼ同じ大きさと形状だった。ボタンを押して起動すると、上部からフラッシュの点灯部分がポンと飛び出す仕組みだ。
彼は一人で庭に出て、写真を撮り始めた。羊が点在する草原の風景、コテージの向かいの小さなビーチ、それから、2匹のミツバチが花弁の間でそわそわと舞っている様子をクローズアップで撮った。
「1枚。2枚。3枚」と彼は口ずさみながら、シャッターを押していった。無駄な写真をたくさん撮ったことで、追加でフィルムを買い足さなければならなくなったパパの憤(いきどお)る顔が、今から目に浮かぶようだ。「4枚。5枚」
コテージの中に戻り、子供用の寝室に入ると、まだ眠っているパトリックの写真を撮った。彼は寝相が悪く、まるで6メートル上空からマットレスの上に落とされたかのような体勢でだらしなく寝ていて、前の晩、両親が丁寧に布団を掛けてあげた形跡(けいせき)は微塵も残っていない。彼はジェシカの寝姿も写真に収めると、カメラの巻き上げ可能数が昨夜よりも大幅に少なくなっていることにママが気付かないことを願いながら、カメラを元々置かれていた場所に戻した。
1時間半後、彼らはみんなで持ち物をかき集めて、海水浴客でごった返しているだろうビーチへ向かった。
「ママ」とアンドリューは、スーの少し後ろを歩きながら言った。「今日はいっぱい写真をしてもいい?」
「あら、『写真をしてもいい?』ってどういうこと?」
「撮ってもいい?」
「1枚か2枚ならね。ママがお手本を見せて、カメラの使い方を教えてあげるわ」
「うん」とアンドリューは言った。あやうく彼は、使い方ならすでに、かなり詳しく知っていることを言ってしまうところだった。
ビーチに到着すると、他の家族からなるべく距離を取って自分たちの荷物を設置した。ただ、あまり距離を広げすぎると、別の家族が間に割り込んでくる可能性があるので、そのギリギリのラインを見極めつつ自分たちの場所を確保した。カースティは母親の腕に抱かれ波打ち際までやって来ると、砂浜の上にそっと下ろされた。娘がよちよちと海水に手足を沈め、その冷たさに泣きそうになって後ずさるのを、母親はいつでも抱き上げられるように両手を伸ばしつつ間近で見守っていた。ホーブの海岸でも毎週末のように娘を海水で遊ばせているので、息の合ったダンスのように手慣れたものだった。一方、ジェシカは砂浜で、学園ものの恋愛小説『スイート・ヴァレー・ハイ』を読んでいた。仲のいい友達同士で回し読みしているものだ。彼女はコテージから持ってきたガーデンチェアーの1つに腰を下ろし、優雅にくつろいでいたが、その椅子の白いペンキは剝げかけていて、金属の部分は錆びつき、花模様も色あせていた。その近くで、パトリックとジェリーは、ゴム製の軽いサッカーボールを互いに蹴り合い、父親が息子のヘディングとボレーシュートの能力をテストしていた。いまだに自分の息子から将来のスター選手が出ることを夢見ているようだ。
「お前の頭を狙うぞ、アンディ」とパトリックは叫び、弟の頭を目がけてボールを蹴った。しかし、彼の思い描いていた軌道を大きく外れたボールは、眠っているのか死んでいるのかわからない老夫婦の方へ一直線に飛んでいった。彼は決してサッカーの才能があるわけではなく、時々弟と庭でボールを蹴って遊ぶくらいがちょうどよかった。だから、父親が入るように勧めた地元のサンデーリーグのチームにも参加しなかった。
学校では、ほとんどの男子は人生でただ一つの目標を持っていた。それはサッカー選手になることだった。けれどアンドリューは違った。彼はゆくゆくは軍隊に入隊したいと思っていて、祖父がたまにしてくれるイギリス空軍にいた頃の話に、熱心に耳を傾けていた。その道への最初の一歩は、8歳になったらカブ・スカウトに入ることだった。そして11歳からはボーイ・スカウトへ移行するのだ。そこで待ち受けている冒険や友情を思い描くだけで、彼の心はわくわくと高鳴り、武者震いがするのだった。パパがその計画にどれほど賛成してくれるのか、それだけが不安の種だった。
アンドリューは老夫婦の近くまでボールを取りに行くと、パトリックに蹴り返し、「ママ! カメラ!」と叫んだ。
「バッグの中」とジェリーが叫び返した。「サンドイッチの横。おい、フィルムがもったいないから、ガシガシ撮って無駄使いするなよ」
パトリックはひざでボールを2回空中に浮き上げ、そのままボレーシュートを決める要領で、海に向かって蹴り上げた。ボールは風の壁にぶつかったように、波打ち際で宙返りすると、砂浜に落下した。ジェリーがボールを取りに、のっそのっそと走っていく。黄色いポロシャツの下で、たるんだお腹がぷるぷると揺れる。薄くなった細い髪が、そよ風に捕らえられ、なびく。
その時、アンドリューは再び写真を撮り始めた。―海辺でボールと戯(たわむ)れる兄と父を撮り、小さな妹と母の仲睦まじい姿を撮り、読書に耽(ふけ)るジェシカを撮った。彼は誰に対しても公平でありたかった。誰かが除け者になったり、誰かが一人だけ損をするのではないかと、いつも周りを気遣っていた。年齢的に真ん中の存在として、自分より年上の姉と兄が持っているものが見えたし、年下の妹がまだ持っていないものも見えた。
カースティは彼がカメラを構えて、自分に向けているのに気づいたのか、にっこりと微笑んだ。
「よく見えない」とアンドリューは叫んだ。
「ズームを使えばいいんだよ」とジェリーはジョギングをするような足取りで、アンドリューの元へ向かった。一人残されたパトリックは片足でボールを踏んだまま、サッカー漫画『ロイ・オブ・ザ・ローヴァーズ』の表紙みたいに、ニヒルに佇んでいた。
「ズームってどれ?」
「ここ。この小さなボタンを押すと、自分が近寄らなくてもグッと距離が縮まる。逆に押すと、また視界が広がる。これで、遠くから妹の写真を撮ることができるぞ」
アンドリューは言われた通りにズームボタンを押し、母親の腕の中でもじもじと動くカースティにズームインした。
「お前はまさに、小さなデイヴィッド・ベイリーだ」とジェリーが言った。
「サッカー選手?」
「いや、そうじゃない。著名な写真家だ」
「あと何枚撮れる?」とスーが、カースティを海辺から連れ戻し、タオルの上に座るように指示しながら聞いた。
「4枚」と、アンドリューは小さな数字盤に視線を落として言った。
「じゃあ、あと1枚にしなさい」と彼女は言って、ジェリーの顔を一瞥した。彼は、もうそんなに撮ったのか、フィルム代がいくらかかると思ってるんだ、と今にもグチグチ言い出しそうな雲行きだ。「家族全員の写真を1枚撮りましょ。アンディ、撮ってくれる?」
スーは子供たちを集合させて、ピクニック用のシートの上に並ばせた。そして彼女とジェリーはその後ろに立った。
「まだ撮るのか?」とジェリーが耳元で囁いた。
「彼は趣味が必要なのよ。せっかく写真が好きになりそうなんだから、余計なことは言わないで」と彼女は小声で言ってから、声を張った。「アンディ、私たちがどこに立ったらいいか教えて。全員がフレームに入ってることを確認して」
アンドリューは、家族から距離を置いてカメラを構え、ズームインとズームアウトを繰り返した。構図を決めるためでもあるが、世界が伸縮するさまが新鮮だったから、というのも大きかった。
「パパとママはもっと低くかがんで」と彼が言い、両親は少ししゃがみ込んだ。「パトリックとジェシはもう少し近くに寄って」
彼の指示通りに彼らは立ち位置を調整した。
「私たちは準備いいわよ」とスーが言った。
「オッケー! 3、2、1」
みんながにっこりと笑顔になったところで、アンドリューはシャッターを押した。目の前に存在しているものが記憶に定着するような心地よい音が、カシャッと鳴った。
パトリック
彼はまだそれらの写真を見下ろしていた。そのアルバムはまるでボードゲームのように、3人の真ん中で開かれたまま、一身に視線を集めている。彼はそれぞれのカップに特別なウイスキーを、一晩で空にするわけにはいかないと注意しつつ、注(つ)ぎ足していった。
「あの夏休みを覚えてる?」とジェシカが言った。
「なんとなくな。コベラックは覚えてるよ。いつからあそこに行かなくなったんだ?」
「90年代の半ばね。パパがポルトガルに別荘を買ってからはそっちに行くようになったから」と彼女は言った。
パトリックはポルトガル最南端の海岸沿いにあった、アルガルヴェの別荘を思い出した。〈カドガン・ファミリー・建築士事務所〉の商売が繫盛していた時期が数年あり、その頃にジェリーが、ろくに物件を見もしないで即決して購入した別荘だった。普通、彼のような労働者階級で育った少年が立身出世した場合、派手なスポーツカーを真っ先に購入するのが相場だったが、ジェリーはそれよりも海外の別荘や、サッカースタジアムのVIPだけが入れるボックス席でサッカー観戦することに興味をそそられていた。地元のサッカーチーム〈ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC〉のスポンサーになり、ホームスタジアムのピッチサイドに〈カドガン・ファミリー・建築士事務所〉の広告を年間を通して掲(かか)げた時が絶頂期で、これでボックス席の夢も叶うかと期待したが、サッカーチームのオーナーとの会食止(ど)まりだった。家族で唯一、彼の趣向を受け継ぎ、サッカー観戦に興味を持ったのはパトリックで、彼は9月の冷えた夜に父と一緒に行ったその試合を覚えていた。1-0でワトフォードがブライトンを降(くだ)した一戦だった。
「私はほとんど覚えてないわ」とカースティが言った。「その時、私は何歳だった? 5歳? たしか、あなたなしでポルトガルの別荘に行った年があったわ」と彼女はジェシカに向かって言った。「あなたは学校の友達とどこかへ旅行に行っちゃったのよ。それから、あなたも」と今度はパトリックを指差して言った。「スティーブだったかしら? いつもつるんでた友達と、女の子をナンパしたり、たばこや発泡酒を買おうとしたりで忙しかったのよね。それで一週間、私とアンドリューの二人だけだったのよ」
とうとう彼の名前が発話された瞬間だった。この旅が始まって以来、彼の名前が誰かの口をついて出たのは初めてだった。父親が亡くなり、実家の片付けの時も、葬儀の計画を立てている時も、3人は彼の名前を口にしないようにと心掛けていた。彼の記憶を寄せ集めようとしても、めったにうまく思い描けなかった。失われた兄弟は、3人の中に答えよりも多くの疑問符を浮かべる存在だったのだ。アンドリューが火葬場や葬式に姿を現さないことを3人はほぼ確信していた。―彼は母親の葬儀の時も帰って来なかったのだから。
パトリックはアルバムのそれらの写真にもう一度視線を落とした。砂浜のカースティ。パトリック自身と父親が、90年代に持っていたゴム製のサッカーボールを蹴り合っている。最終日の雨の中、家族全員で写っている1枚。そして、太陽が降り注ぐビーチで家族並んで写っている1枚。そこには、アンドリューだけが写っていない。
「この中に彼がいないのは、なんか不思議だな」
「彼はこれを撮ってたのよ」とジェシカがすぐさま言った。当時の夏休みの思い出を、カラー映像のように一番鮮明に覚えているのは間違いなく彼女だった。「ママが彼に古くて四角いカメラを手渡して。ビデオテープみたいな形のカメラだったわ」
「俺もそれは覚えてるよ。フィルムを使い切ると、親父がもったいないって腹を立てるんだ」
3人は再び静かになった。パトリックは、あの頃のアンドリューのことを考えていた。彼がどれだけ、サッカーやクリケット、テニスなどの、その季節に合ったスポーツをやらせようとしても、なかなか良い返事は返って来なかった。彼の弟はそれよりも、写真や読書、ボードゲームなどに興味を持っていた。バカ騒ぎが好きな兄とは異なり、内省的で物静かな子供だったのだ。アンドリューは、祖父のイギリス空軍での体験話に特に魅了されていたようだったが、実際に彼が軍隊に入って、そこでの生活に溶け込み、やっていけるとは誰も思っていなかった。
17歳のアンドリューが空挺(くうてい)部隊の訓練生として入隊することを決めた時、あまり衝撃は走らなかった。それからパトリックが、海外遠征を2回ばかり経験し、4年余り経った頃、逆境に屈した形で早々(はやばや)と退役したことを知った時も、大して驚きはなかった。
必然的な思考の流れで、パトリックはあの日を思い出した。アンドリューがそこにいるものだと思っていた場所にいないことを知った日のことだ。―アフガニスタンの山奥に建てられた兵舎(へいしゃ)で暮らしていると思っていたのだが、ケヴという名の男からメールを受け取り、アンドリューの不在を知ったのだ。ケヴは、兵役中にできた数少ない友人の一人なのだろう。
彼はネットでパトリックの連絡先を見つけたらしい。腕のいい職人の一人としてリストに載っていたということだが、当時のサイトはもうないし、彼からのメールも保存していない。それでも彼は、そのメールをほとんど一字一句正確に記憶していた。
パトリック様
突然のメッセージに驚かれたらすみません。連絡を取ろうと思ってからしばらく放置していて、時間が経ってしまいました。
あなたの弟のアンディのことですが、彼は6ヶ月前に連隊を辞めました。それ以来、何の連絡もありません。あなたには連絡ありましたか? あるいはご家族には? 仲間が少し心配しています。ロンドンに行くとか、そんなことを言っていましたが、実際にはわかりません。あなたにも知らせておくべきだと思い、こうしてメールしました。彼が去った理由は誰も知りません。もし彼から連絡があったら教えてください。
ケヴ
その時、パトリックはそのメールのことを誰にも言わず、自分の胸にしまっておいた。
混乱したまま彼はすぐさまロンドンへ向かい、カムデンに直行した。カムデンは、ロンドンの中でも地図や観光案内なしで歩き回れる数少ない地区の一つだったからだが、ほどなくして、よく知っている地区だからといって、行方不明の退役軍人をあてもなく探し回ったところで、徒労(とろう)にもほどがあると気づいたのだった。
彼はロンドン市内のシェルターや避難施設に電話をかけ、弟の特徴を説明し、そういう人がいないかと聞いて回ることにした。ソーシャルワーカーやボランティア、看護師たちが、毎晩寝床を求めてやって来る何千人ものさまよい人や、あらゆる熱にうなされた人たちの中から、黒髪でシュッと細長い顔をした魅力的な青年を見つけ出してくれるかもしれないという漠然とした期待を胸に、彼の特徴を熱く説明した。といっても、アンドリューの唯一の特徴は、彼の鼻の真ん中辺りにへこみがあることくらいだったのだが。―彼が嫌々ながらも参加せざるを得なかった学校の体育のラグビーで、タイミング悪く顔面にタックルをくらった時にできたくぼみだった。
アンドリューを見つけられないまま、もどかしい日々が続いた。それでも彼は予約が入っていた仕事をキャンセルしてまで、捜索を続けることにした。リビングの壁紙を張り替えに、あるいはペンキを塗りに彼がやって来るのを待っていた顧客たちは困惑の色を隠さなかったが、一旦地元に戻った彼は、シェルターや避難所で奉仕活動をする人たちに見せる写真を携(たずさ)えて、ロンドンに戻った。
ある日、〈カドガン・ファミリー・建築士事務所〉経由で受けた仕事を延期したところ、父親から電話が来た。「何やってんだ?」と父は受話器越しに憤っていた。「今朝、シムキンスの婆さんがやって来て、お前が来ないって文句をたらたら垂れ流していったよ」
「彼女には電話したんだけどな。具合が悪くて、ベッドから出られないんだよ。一晩中吐いたりなんだりで眠れなかったんだ」
「いいかげんにしろ。明日は必ず行けよ。こっちは『ホーブで最も信頼されている建築士事務所』を謳(うた)ってるんだ。忘れたか? 俺がそろそろ引退しようかと考えてる時に、お前がそれをぶち壊すなんて承知しないぞ」
実際はベッドの中ではなく、再びロンドンへ向かう途中の高速道路のサービスステーションにいた。彼は車の中で地図を開き、一人で捜索するにはとてつもなく広いロンドンの街を、いくつかのエリアに区切り、重点的に捜索していく順番を考えていた。
カースティやジェシカ、あるいは父か母のどちらか一人にでも手伝ってもらえば、もっと手際よく探せるだろうと思った。しかし、先が見えない不確実性と不安の中に、彼らを巻き込みたくはなかった。軍隊にいると思っていた弟、あるいは息子が、ATMの近くに座って、お金を下ろしに来た人たちに小銭をめぐんでもらっているところを発見する可能性もあった。あるいは、ドラッグとか、その種の依存症に陥っている可能性の方が高そうだとパトリックは思った。軍隊での生活に憧れ、キャッタリックのキャンプ場へ向けて家を出た10代の青年が、今では汚い地下道で、腕に針を刺しているかもしれないのだ。
突破口が開かれたのは、5回目の上京の時だった。
パトリックが写真を見せると、ランベス区にある避難所の職員が、「彼なら知ってるよ」と言ったのだ。30分かけてこの施設に電話がつながり、さらに15分間、受話器の向こうの相手を説得し、直接会う段取りを取り付けた結果だった。「ポールじゃないかな?」
「彼の名前はアンドリューだよ。本名はそうなんだ」
「なるほど。彼はここに来る時はポールと名乗ってますよ」
「どのくらいの頻度で? つまり、彼はいつここに来るんですか?」
「ほぼ毎日来てますよ。いつも泊まっていくわけじゃないけど、雨が降ってたり、寒かったりすると泊まっていきますね。そういう人が多いんですよ。泊まるにはお金がかかるので、節約のためにも外で寝るんです。最近は季節がら外のことが多いですよ」
「彼がどこに行くか知ってますか? ここにいない時はどこへ?」
「残念ながら、さっぱりわかりませんね。お友達ですか?」
「彼の兄なんだ」と、パトリックが真剣な眼差しを向けると、その男の心はいくぶん和らいだようだった。
「まあ、ここに来るカウンセラーの誰かが知ってる可能性はありますね。でも、教えないでしょうね。中には借金を抱えてる人もいるし。売人とかも多いし。あなたはそういうタイプには見えませんが、もし私たちが彼の居場所を教えたら...彼がどうなるか、わかりますよね?」
パトリックはイライラしつつも、理解はした。
「ここで待っていてもいいですか?」と彼は尋ねた。「彼が来たらわかるように」
「この中は駄目です。ですが、外をうろついてる分には止めようはありませんが」
「わかりました」と彼は、少しがっかりしたように言った。
「紅茶でもいかがですか?」
「え?」
「紅茶の友っていうのかな? 手に持ってるだけでも、ほっとしますよ」と、その男は優しい笑顔で言った。
「ありがとう」と彼は言った。
パトリックはプラスチック製のカップに入った薄い紅茶を受け取ると、外の通りに出た。そして避難所の反対側の縁石に腰を下ろした。彼はその時読んでいた犯罪小説で時間をつぶそうとしたが、1段落読むごとに通り過ぎる人々に気を取られ、顔を上げてしまう。その中の誰かが弟かもしれないのだ。
時間の経過とともに、さっきの男性が、さらに2杯の紅茶と1枚のビスケットを持ってきてくれた。そんな細(こま)やかな気遣いに、パトリックは目頭が熱くなり、このような施設で働く人々の心意気を知った。
夕方6時頃になると、避難所のドアの前に人だかりができてきた。貧窮(ひんきゅう)した、汚い身なりの、一見して不幸とわかる男たちだ。中にはアルコール度の高いりんご酒の缶をすすっている者や、マクドナルドのチーズバーガーを大事そうに両手で守っている者もいた。もしかしたらアンドリューかもしれないと思いながら、一人一人の顔を一心に観察した。しかし、誰一人として彼の横顔に合致する者はいなかった。
さらに30分ほど過ぎた頃、パトリックは一人の男が通りの端の角を曲がって来るのに気づいた。彼は迷彩柄の軍隊ズボンを穿き、黒くて大きなダウンジャケットを着ていた。無精ひげを生やし、野球帽の下からボサボサの黒髪が突き出ている。寝袋を詰め込んだスーパーマーケット〈セインズベリーズ〉の袋を肌身離さず手に持ち、同じくパンパンに膨れたバックパックを背負っていた。
21歳とは思えないほど老けていたが、紛れもなくアンドリューだった。彼は他の男たちに近づきつつも、うつむいたまま顔を上げようとしない。―どうやら友達や仲間を作ることには興味がないようだ。
彼の手には缶ビールは握られていなかったが、金属製の水筒がバックパックからぶら下がっていて、軍隊での生活が垣間見えるようだった。彼はパトリックが道の向こうから自分を見ていることには気づかず、壁の方を向き、他の人たちとともに避難所が開くのを待っている。
どうやって近づけばいいのか、何を話せばいいのかわからないまま、パトリックは立ち上がり、ためらいがちに道路を渡っていった。
「おい!」と彼が呼びかけると、何人かの男たちがこちらに顔を向けた。しかしアンドリューはうつむいたままだ。パトリックはもう一度声を上げ、今度は「アンドリュー・カドガン」と付け加えた。
パトリックは、弟の肩がガクンと落ちたのに気づいた。見つかったことで落胆したのか? いや、そうではないだろうと思った。パトリックの声は親しみに溢れ、親切で、ふるさとや救いを連想させただろうから。
いや、そうでもなかったか。
ゆっくりと、アンドリューは兄の方を振り向いた。
パトリックは、アンドリューが今にも走り出すのではないかと心配しながら道路を渡り、慎重に彼に近づいていった。彼が軍隊で体をきたえている間、パトリックはビールで腹をふくらまし続けていたのだ。―追いかけっこをしても、勝てるわけがない。
「アンドリュー」と彼はもう一度言った。「どうして―」
「なぜ来たの?」と彼は言った。「なんだってこんなところまで来たんだよ?」
唾(つば)のしぶきがパトリックの顔面にかかる。彼の吐く息は、腐ったコーヒーの臭いがした。―何時間も前に飲んだコーヒーが胃の中で発酵したかのような臭いだった。
「なぜって―」
「僕は逃げ出したかったんだ」
「ずいぶんと荒れた生活をしてるみたいじゃないか」と彼は言って、訴えかけるように弟を見つめた。
「僕が選んだ生活だからね」
「アンドリュー、しっかりしろ。何があったんだ?」
「あんたにはまったく関係ないだろ」と彼は怒鳴った。「僕が家を出た時はちっとも気にしなかったくせに、今になってなんで気にするんだよ?」
他の何人かが周りから様子を窺っていた。喧嘩が始まるんじゃないかと期待しているのだろう。
「そうだな、10分だけくれないか。どこかその辺でお茶でも飲もう」とパトリックは言った。アンドリューは拒否したそうに渋い顔をしている。彼が今にも逃げ出すのではないかとパトリックは再び思った。しかし、アンドリューは心のどこかで、「もう万事休すだ」と諦めていた。見つかってしまった以上、ちゃんと自分の言葉で説明しなければならない。
「いったい何だってんだよ」と彼は言った。
「頼むよ」
アンドリューはうなずきはしなかったが、同意してくれたようだった。二人は角を曲がったところにあった〈プレタ・マンジェ〉に入り、温かい紅茶を飲むことにした。パトリックは自分の時間をこれだけ割(さ)いて彼を探し出し、温かい飲み物を振る舞っている自分が、なんだか聖書に出てくる善きサマリア人のように思え、ひっそりとほくそ笑んだ。そして弟がいなくならないようにちらちらと視線を送りつつ、レジでお金を払った。
パトリックは罪悪感を感じていた。確かに、アンドリューが軍隊に入ることを決めた時、彼はあまり関心を寄せなかった。彼が家を出てキャンプ場へ行ってからは、ほとんど連絡も取らなかった。パトリックには自分の生活があり、自分の友人たちがいて、そちらに気を取られていたのだ。―家族は家族であり、それは誰にとってもそうであるように、特に努力をしなくても当たり前に自分の周りにあるものだと思っていたから。
積極的に関与しなかったとはいえ、俺が何かしたか? とパトリックは思った。アンドリューがひねくれ、人生の道を外してしまうほど悪いことを俺はしたか? 彼がこんな生活を選ばなければならなかったほど、俺たち家族が何をしたというのだろう?
パトリックが紅茶と砂糖の小袋を2つ手渡すと、アンドリューが「乾杯」と言った。
「何か必要なものはあるか...」と彼は言いかけたが、この種の質問をどう投げかければよいのかわからず、「つまり、何か食べたいものはあるか?」と言い換えた。
「大丈夫」
「そうか」
「さっきソーセージ・ロールを食べたばかりなんだ」と彼は言った。彼が昼間、温かい食べ物を買えるくらいの蓄えはあることをパトリックは理解した。
「それで」とパトリックは言った。「俺は...実は何を聞いていいのかわからないんだ」
「じゃあ、なんでここに来たんだよ?」
「うるせえ。推測してみろ、アンドリュー」
二人はしばし黙り込んでしまう。それぞれに紅茶を一口すすったが、まだ熱すぎて飲めたものではなかった。
「僕はドラッグはやってないよ。どうせ疑ってるんだろうから言っとくけど」とアンドリューが単刀直入に言った。「何度も誘われたよ。うんざりするほど何度もね。でもやらなかった」
「よかった...それはよかった」
「上から目線で言うなよ」
「わかった」とパトリックはその発言を遮るように食い気味に言った。「それで、何があったのか教えてくれ。軍隊に一時(いっとき)いたかと思えば、今度は野宿同然の生活をしてるなんて、いったいどういうわけだ? まだ誰にも言ってないんだろ? お金が全くないわけでもなさそうじゃないか? 寝る部屋だって」
アンドリューは今にも身を乗り出し、反撃したそうな顔をしている。パトリックは、カフェにいる他のお客たちが自分たちを見ていることに気づいた。おそらく、この浮浪者が暴れ出すのではないかと心配しているのだろう。
「僕は出て行った」と彼がようやく口を開いた。落ち着きはらった口調だった。「もううんざりだと思ったから出て行ったんだ」
「自分から空挺部隊を去ったわけじゃないんだろ、アンドリュー」
「まあ、自分からだよ」
パトリックはそれが事実ではないとわかった。部分的に見ればそうかもしれないが、それが話の全体像ではないことは知れたが、彼は追及しないことにした。
弟が任務を外されたことを知るまでには、それからさらに1週間を要した。直近の遠征から戻ってきて、主に精神面の評価が下された結果、長期休暇を取るように促されたらしい。アンドリューは、そう告げてきた将校の執務室をめちゃくちゃに荒らし、さらに自分の部屋もめちゃめちゃにして、兵舎を後にした。任務を完遂する半年前に、彼は除隊されたのだ。
「ていうか、なんで家に帰ってこなかったんだよ?」
「心の準備ができてなかったから。軍隊に入って、ランクを一つも上げられずに、何の称号も得られずに脱落したなんて、恥ずかしくて伝えたくなかったし。それに軍隊は僕の人生計画そのものだったから、それをポシャったなんて」
「それがどうした?」とパトリックは言った。「そんなどうでもいいことで、ちょっと外で寝てみようかなんて思ったのか? そしたら他に新たな道が開けるかもしれないってか?」
「外で寝たことはないよ」と彼はピシャリと言い返した。「ユースホステルや避難所を利用してるんだ。大抵ベッドはある」
「それがない時は?」
「いつもあるよ」と彼は言った。パトリックはこれも嘘だとわかったが、やはり無理に追及しないことにした。
それから二人は数分の間じっと黙っていた。窓の外に目をやると、絶え間なく人々が行き交っている。
沈黙を破ったのはパトリックだった。
「それで、どうしてほしいんだ?」
「まあ、理想を言えば、僕を2、3ヶ月放っておいてほしい。もう少し準備ができるまで」と彼は言った。
パトリックはそれを聞いて、不当に重い判決を受けたような気分になった。何も悪いことをしていないのに、出禁をくらった気分だった。「しかし、そうそう理想通りにはいかないだろ」
「キャンピングカーがあるんだ」と彼は、逆に頼み込むように言った。「俺が南海岸まで送ってやる。少しの間、俺のところに泊まってもいい。それか、どこかに部屋を見つける。誰にもわからないようにするから」
「どうやって―」
「健康診断で不合格になったとか、そういうことにしよう。それでお前が俺に、迎えに来てくれと電話した。そうして俺はここに来て、お前を車に乗せて帰る。そうすれば、お前が話したくないことは話さなくて済むし、みんなもお前が軍隊を辞めたと知れば、安心するさ」
「そうかな」
「アンドリュー、わかってると思うけど、息子が軍隊に入ってあちこち飛び回ってるっていうのは、親としては気が気ではないんだ。それはともかく、もっと重要なのは、お前が話したいことだけ話して、言いたくないことは言わなくていいってことだ。お金が必要なら、俺と一緒に仕事をすればいい。実は仕事が次々に回ってきて、一人では全部こなせない状態なんだ」
パトリックはアンドリューをひと睨みして、それはお前のせいだからな、と無言の圧力をかけた。弟を探し回るために仕事をキャンセルしたつけが回っているんだぞ、と。
アンドリューはしばらく思案するように窓の外の上空を眺めていたが、「いいよ」と言った。「でも、すぐに君の家は出て、自分の部屋を見つけるから。それでいい? そうしたら、みんなに僕が戻ってきたことを伝えよう」
「好きにすればいいさ」とパトリックは言った。アンドリューの顔に微笑みが浮かんだような気がした。パトリックはそれを自分への感謝の印として捉えたが、再び、気のせいかもしれないな、と思い直した。「角を曲がったところに駐車してあるんだ」と彼は言って、二人は一緒にカフェを出ると、昔のように並んで車まで歩き、ブライトンまで戻っていった。
「彼のことを考えてるの?」とカースティが言った。
パトリックはキャンピングカーの窓から外を見た。漆黒の闇が視界を遮り、遠くまで見えない。一組の散策者のテントだけが、ぼんやりと光を発している。彼は今どこにいるのだろう? とパトリックは考えていた。2度目の失踪は何の手掛かりも残してくれなかった。アンドリュー・カドガンを知っている者は皆、彼が残していった謎と疑問符の中で、首をかしげながら途方に暮れるしかなかったのだ。
「彼には時々会うわ」とジェシカが言った。「ロンドンにいるとね、あ、って思うことがあるのよ。彼にちょっとでも似てる人が目の前を横切ったりするとね、髪の色とか、歩き方とかを見て、もしかしたらって思う瞬間がしょっちゅうあるんだけど、でもそれってあれよね、他人の空似っていうか、脳のいたずらっていうか」
「あなたの言いたいことはわかるわ」とカースティも言った。「彼がいなくなって数年間は、ホームレスの人たちの中に彼と同じくらいの年齢の人はいないかって見て回ってたもの。念のためにね」
「そういう人たちに聞いてみたことはある? 彼を知ってるかどうか」
「一度か二度ね」
「もしかしてそのために、クリスマスに避難所でボランティアをしてたの?」
カースティはうなずきつつも、照れたように、はにかんだ。周りの人が思っているよりも、自分は利他的ではないことを少し恥じているようだった。一方、パトリックは、胸に秘めたまま打ち明けられずにいる秘密に身震いした。
家族のみんなは、アンドリューが軍隊を辞めた時に起こったことを半分も知らなかった。パトリック以外の家族が知っていることは、アンドリューは喘息(ぜんそく)のために健康診断で不適格となり、子供の頃からの夢だった仕事を続けることができなくなった、それだけだった。彼が兵舎を去る時、感情を爆発させ暴れたことも、ホームレスになったことも、パトリックがロンドン中を探し回ってようやく彼を見つけたことも、何も知らなかった。
パトリックは、いつになったら彼女たちに本当のことを話せるのだろうかと考えた。話せば少しは、彼女たちが今でも愛している弟について考える上で、何らかの手助けになるかもしれない。もっとも、彼が今どこにいるのか、誰といるのか、生きているのかどうかさえわからない状態は変わらないだろうけど。
「あなたはどうなの?」とジェシカに聞かれて、物思いに沈んでいたパトリックは、ハッと我に返った。
「毎日考えてるよ」と彼は言って、ドアのそばに置いてあったバックパックから財布を取り出した。「これを常に持ってるんだ」彼はくしゃくしゃになった写真を財布から引き抜くと、それをテーブルの上に置いた。
写真には、20代前半の若い男が写っていた。ライトブラウンの髪はスタイリングされ、無造作風に整えられていた。彼はロックバンド〈リバティーンズ〉のTシャツを着て、分厚い腕時計を革製のストラップで手首に巻き、ダークブルーのジーンズを穿いている。無精ひげを生やした顔には、満面の笑みが浮かんでいる。片手には半分ほど残っているビールのジョッキを持ち、ジョッキの縁にはライムがひと切れ刺さっている。パトリックはそれがどこで撮られたものかを覚えていた。―ブライトンの〈ホープ・アンド・ルーイン〉だ。ある新進気鋭のバンドを見るために、彼らはそのパブ兼ライブハウスに行ったのだ。ちなみに、そのバンドは「新進気鋭」の域を抜けることなく沈んでいったのだが、そこで、メルという名の、アンドリューのガールフレンドが撮った写真だった。
「これっていつ?」
「2009年の3月だよ」
「彼がいなくなる2ヶ月前ね」とジェシカが言うと、パトリックはうなずいた。
三人はもうしばらくの間、その写真を眺めていた。パトリックにとって、この写真は弟との思い出を呼び覚ますものだった。さらに、今では30代になっている彼の顔をこの写真をもとに推測し、道端で絶望を背負って座っている30代らしき男を見るたびに照らし合わせるのだった。
とはいえ、何週間も、時には何ヶ月も、この写真を見ることなく過ごすこともあった。その間、パトリックの頭の中のアンドリューは、昔の少年に戻るのだった。世界に明確な居場所を見つけられない寡黙(かもく)な少年、健康志向が強く、体力づくりには余念がないのに、スポーツには全く興味のない10代の少年、ジェリー・カドガンの息子であろうと頑張ったが、失敗した少年。そして2009年のある日、彼は、もう二度と戻らない、と宣言し、家族のもとを去っていった。
「彼が来なかったことに驚いてるの? つまりパパの葬式に」とカースティが言った。
「ママの時にも来なかったじゃない」とジェシカが言った。「自分が死んじゃったことにも気づいてないんじゃない? そうじゃなかったら...」
「よせよ」とパトリックが言った。
「時々思うのよ」と彼女は続けた。「彼は今でも、私たちのことを考えたりするのかな?」
「やめろって言っただろ。そんなこと、誰のためにもならないよ。こうやって憶測を話してたって、なんにもならない」
ジェシカはコップに残っていたウイスキーを飲み干すと、「そうね、あなたの言う通り。それにもう遅いし、明日すっきりした頭で、もっと話し合いましょ」
そう言うと、彼女はテーブルに両手をつき、席を立った。それから、キャンピングカーの後部にある小さなバスルームへと向かった。
今は凍えるような寒さが身に染みていた。骨がきしむような寒さに、昔の家族旅行でもこんな経験をしたことがあるな、とパトリックは思い出していた。家族みんなでキャンピングカーの中で眠った夜、じめじめと湿気を含んだ空気に包まれ、痛みをともなう寒さに耐(た)えていた。キャンピングカーの中の空気はいつまで経ってもカラッと乾くことなく、快適さとは無縁だった。
彼はウイスキーを一口飲んだ。この寒さの中では、体内に流れ込んだその熱さが、異様に際立っていた。
「そんなにいいものなの?」とカースティが聞いた。「私はウイスキーのことは、よく知らないっていうか、パパが教えてくれたことしか知らないし。私には、なんかヒリヒリ胸焼けするような味しかしないんだけど」
「ああ、うまいよ。あまりのめり込みすぎると、親父みたいにろくなことにはならないけどな」
シャワーの音が止まり、ジェシカが唾を吐いた音がして、バスルームのドアが開いた。そして、再びバタンと閉まる音が聞こえてから、パトリックは振り返ってそちらを見た。彼女が二段ベッドの下段に入り込み、カーテンを閉めているところだった。
彼とカースティはお互いに顔を見合わせた。お互いが、ジェシカが寝ちゃった今こそ、彼女について話しましょう、と言っているかのようだった。
「私もシャワーを浴びようかしら」と彼女は笑顔で言った。「おやすみ」
「おやすみ」と彼も言った。
彼女がシャワーを浴びている間、パトリックはウイスキーをケースに戻し、それをアルバムと一緒に再び釣り具箱に入れた。そして、アンドリューの写真を手に取ると、最後にもう一度彼の顔を見つめてから、財布の中に滑り込ませた。
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〔チャプター 4(の後半)の感想〕
一人キャンプが流行っているらしい!←情報が2周くらい遅っ!! 山の中に住んでるの?!爆笑
テレビを見なくなってから(寝る間際にYouTubeは見てるけど)、情報の荷が下りたというか、心なしか翻訳ペースも速くなった(1日で進む量も多くなった)気がする。←今の若者は思春期からすでにテレビは見てないから!←だから今の若者は凄いのか!!←謎の解釈!笑
それにしても、キャンプしてる人が焼いたり炊(た)いたりして食べてるものって、お店とかより美味しそうに思えるのはなぜだろう?←ジャック・ロンドンの『荒野の叫び』でも読んで、それについて論文を書け!
ウッドストックっていう、スヌーピーの相棒の黄色い鳥じゃなくて、野外の音楽イベントがあって(今もあるのかもしれないけど)、←行ったことあるの??←いや(笑)、昔CNNか何かで見て、3日くらいキャンプしながら音楽を聴くんだー! と思って、行きたいなー! と思っただけ...f^_^;←じゃあ、書くなよ!!笑←キャンプと音楽の組み合わせが絶妙だなー! と思って🐤ピヨピヨ♬
「圏外」だと諦めがつくというか、どうあがいても自分にはどうしようもないから、逆にほっとするというか、解き放たれた感が半端ないのかもしれませんね。ひと時の解放感こそ必要🐤チュンチュン♬
藍の人生にもリア充への兆しが、ようやく遥か彼方に、
オアシスのように、あるいは蜃気楼(逃げ水)のように、
キラッと見えてきて、
リアルが若干忙しくなってきたので、
現在超~スローペースで進行中です。笑
数週間ぶりに翻訳して、なまりつつあった頭が、油を注がれたぜんまい仕掛けみたいに、すこぶる気持ちいい。
楽器でも将棋でもなんでもそうだと思うけど、毎日やることが一番の秘訣なんだね!
クローズアップとズームインは何が違うかというと、クローズアップは実際に歩いて対象に近づいていって接写すること。対して、ズームインは立ち位置はそのままで、カメラのズーム機能を使って被写体を撮影すること。藍が好きなのはクローズアップで、藍は昔から、河野英喜さんとか、会田なんとかさんとかのカメラマンに、「いいな~♡」と目をハートにしながら憧れていて、←全部グラビアのカメラマンじゃねーかよ!!爆笑
若い頃、翻訳の勉強をしている時、(←今もだろ?笑←僕って今も若いよね!笑←そこじゃねーよ!笑)がっつり参考にしていた小説が、弟か幼馴染を探し求める話だったので、なんだか懐かしさに包まれている。やっぱり(人生という)暇をつぶすには、片手に小説、片手にコーヒーだね☕←そこは紅茶じゃねーのかよ!笑
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