『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』4

『My Almost Flawless Tokyo Dream Life』 by レイチェル・コーン 訳 藍(2020年01月26日~)


「猫は好き?」とイモジェンが聞いてきた。青空の下で食事をするのは、すこぶる気分が良かった。

こんなことってある? 地震で始まった私の一日が、こんなにも素晴らしい日になるだなんて!

「好きよ。っていうか何よりも猫が大好き。あと、ラーメンと、雪の日と、『ギルモア・ガールズ』をエンドレスリピートで見まくるのも好きだけど。あ、『ギルモア・ガールズ』のお供は美味しいケーキって決まってるけど」

「やっぱりね。あなたとは気が合うから、絶対猫好きだと思ったわ。この後、猫カフェに行かない? エックス・ブラッツの他の子たちは、行こうって誘っても、猫カフェなんかって言って、行きたがらないのよ」

「私たち相性がいいのね。恋人になったらうまくいきそう。行きましょ!」

ランチを食べ終わった私たちは、再び地下鉄に乗るために地下に下りていった。私は興奮で、ちょっとくらくらしていた。ママが野獣に襲われる前の、毎日がキラキラしていた時代に舞い戻ったようだった。

「それで今のところ、あなたのお父さんはどんな感じ?」とイモジェンが私に聞いた。

「彼はいっつも働いてるわ」

「やっぱり、典型的なヤクザね。彼がヤクザだってわかった?」

なんて風変わりな質問なのかしら。「なんでそんなこと聞くの?」

彼女は肩をすくめた。「彼がホテルのビジネスをやってるって言ってたからよ。ホテルを経営してるのなら、おそらくヤクザの世界に片足を突っ込んでるわ。彼はヤクザじゃなくても、一緒にビジネスをしてる人たちがヤクザとか」

私はなんだか不愉快な気分になった。私はケンジ・タカハラのことをまだほとんど知らないけど、ほんの数日前に突然私の人生に現れた、出来損ないのパパだけど...彼はギャングなんかじゃないわ。彼はきれいなスーツを着て、東京からアンドーバーに留学して、ジョージタウン大学に通っていたのよ。「彼はヤクザなんかじゃないわ」と私は断言した。

「あなたがそう言うのなら」と彼女は言った。

地下鉄を降りると、私たちは、買い物客やおしゃれに着飾って街を闊歩している人たちの間を縫うようにして、駅の近くをぐるぐると徘徊したけれど、なかなか猫カフェは見つからなかった。「この辺りに猫カフェが最近新しくオープンしたんだけど、まだ一度も行ってないから」とイモジェンが言い訳するみたいに説明した。とうとう彼女は自力での探索を断念したのか、白旗を振るように片手を挙げて、交番の前で立っていた警察官に話しかけた。彼女が、猫カフェの住所が表示されたスマホの画面を彼に見せると、急に彼の顔がパッと明るくなった。そして、そのお巡りさんが「ニャー、ニャー!」と声を発した。きょとんとしている私に、イモジェンが英語で説明してくれた。「日本語の猫の鳴き真似よ。ミャオ、ミャオ!」それから彼は、私たちを引き連れて路地に入っていき、エレベーターの入り口前で、この建物だよ、みたいな感じで指を差した。さっき通った路地だったのに、こんなところに入り口があったなんて! 彼は両手を使って7本の指を立てている。きっと7階という意味ね。

イモジェンがその建物を見上げて言った。「ここの7階か」彼女が日本人の警察官にお辞儀をして、私たちはエレベーターに乗り込んだ。彼も私たちに向かってお辞儀をしてから、通りに戻っていった。ドアが閉まると、彼女は付け加えた。「凄いでしょ、これが日本の法律と秩序よ。ロンドンの警官があんな風に、猫カフェを見つけるのを手伝ってくれると思う? 絶対、素っ気なくあしらわれるだけだわ」

エレベーターの扉が開くと、直接猫カフェに通じていた。スリッパが出てくる機械が置いてあって、隣に靴箱があった。ここに履いてきたシューズを入れるのね。その隣には、日本語と英語で注意事項が書かれている。英語は短く切り刻まれた、ずさんな表現だった:大声で喋るな。猫に餌をやるな。猫に餌をやりたかったら、追加料金を払え。超楽しめよ!

「キャー! 最高! ニャーニャー!」猫ルームに入ったとたん、イモジェンが猫なで声を上げた。たくさんの猫ちゃんが、部屋のあちこちに置かれたキャットツリーに乗って遊んでいた。ベンチの上で昼寝をしている猫ちゃんもいる。

私はドアのところで立ち止まったまま、動けなくなってしまった。もちろん猫ちゃんを好きなことには変わりないから、毛むくじゃらの体、ひげを生やした愛らしい顔が目に飛び込んできて、心が和みはしたけれど、ただ、なんだかその雰囲気に違和感を覚えたというか、いつもみたいに心がキュンと震え、高鳴る感覚がなかった。どの猫ちゃんも体の大きさに合っていないほど、足が短かった。まるで可愛らしさを追求して、工場で製造された商品が並んでいるように思えた。去勢手術もしているのか、みんな一様に元気がない感じで、遊びたくて仕方ないという覇気が伝わってこない。部屋の壁際には布張りのベンチが並んでいて、私たちも座ることができた。部屋の中央には、ひときわ巨大なキャットツリーがあって、何匹かの猫ちゃんが登って、高台から部屋を見下ろしている。カゴの中や床の上には猫のおもちゃがたくさん散らばっていたから、私は(ハッフルちゃんが大好きだった)ひもの先端にネズミが付いたおもちゃを拾い上げた。そして、私の近くをぶらぶらと通りかかった猫ちゃんを抱き上げて、キャットツリーの高台に乗せ、猫ちゃんの目の前にネズミを垂らしてみた。猫ちゃんは一回、ポンッと猫パンチを繰り出したきり、すぐに興味を失ってしまった。私たちみたいなお客に付き合って遊ぶことに飽き飽きしているのかもしれない。私は追加料金を払って、おやつを買い、猫ちゃんに与えてみたが、猫ちゃんはもぐもぐとひとしきり食べ切ってしまうと、次の瞬間には興味を失った様子で、気まぐれにどこかへ行ってしまった。

「私たちも、もうどこかへ行かない?」と私はイモジェンに聞いた。ここに来てから、まだ10分ほどしか経っていなかった。

「まだ来たばっかりじゃない」彼女は窓際のベンチに座って、7階から下の通りを眺めていた。彼女の周りには何匹かの猫ちゃんが集まっていて、彼女は猫ちゃんの頭や背中の毛を撫でている。猫ちゃんも彼女の指を舐め返しているし、彼女はなつかれた様子で、いい雰囲気だった。

「素敵な場所だとは思うけど、私には合わないかな。正直言って、ちょっと気色悪い。もうここから出たいわ」

イモジェンが言った。「じゃあ、行っていいわよ。私はまだここにいるけど」

「え、一人でどうやって帰ればいいの?」

「気を大きく、もう少女じゃないでしょ。一人で地下鉄に乗るのがまだ不安なら、タクシーを使えばいいわ」

「私は日本語を話せないわ」

「運転手さんに、タック・ラグゼって言って、スマホの画面に住所を表示させて見せるだけよ、簡単でしょ。それでわかってくれるから」

私も彼女にイライラし始めていたけれど、同じくらい彼女も私に対してイライラしているみたいだった。だけど、彼女の肩に猫ちゃんがじゃれつくように前足を乗せてくると、彼女の顔は、クスクスと自然とほころんだ。それから、彼女がくしゃみをした。「実は私、猫アレルギーなのよ。でも、自己中の子猫ちゃんたちはとっても可愛いから、私は全然平気!」

彼女は猫アレルギーと同様に、私のことも気にしていないようだった。私は今から一人でここを出て、見知らぬ街に送り込まれたスパイみたいに、潜入捜査しなければならないっていうのに。



チャプター 19


猫カフェを出た私は、最初に見かけたタクシーに乗り込み、イモジェンに言われた通り、「タック・ラグゼ」と言って、スマホを見せた。それでわかってくれたようで、ほっとしつつ、私は手に持ったスマホをそのまま操作し、「ヤクザ」とググってみた。イモジェンったら、自分が何を言っていたのか、わかっていたのかしら。ケンジみたいな人がヤクザなわけないじゃない。ヤクザっていうのは、ギャングとか、ギャンブラーとか、殺人を犯しちゃうような人たちでしょ。全身に入れ墨があって、何か失敗したら、罰として小指の先っぽを切り落としちゃうみたいな。彼らが高級ホテルをいくつも所有して、それを使ってビジネスなんてするわけないじゃない。

タック・ラグゼに戻ると、ヘアーアレンジの予約時間が迫っていた。私は一息つく間もなく、エレベーターで〈ディスティニー・クラブ〉のエリアに行き、美容室を探した。〈美しい〉という名前のビューティーサロンがすぐに見つかった。中に入ると、鏡の前のサロンチェアーまで案内された。椅子に腰かける私の髪を、というより、私の顔をじろじろ見てくる女性の美容師は、タマオと名乗った。「あなた、とても綺麗な顔をしてるのね」と、彼女は私の髪の長さを指で測るようにいじりながら言った。それから彼女は私の耳元に顔を近づけて、ささやいた。「お父さんに凄くよく似てるわ! とっても魅力的なお顔。あ、これは彼には内緒よ。私がこんなこと言ってたとか、言っちゃだめよ」

私はちょっと嬉しかったけれど、あえて笑顔を出さないようにしつつ、言った。「カットは2、3センチにしてください。長いまま整える感じでお願いします。あんまり短いのは好きじゃないので」

「5センチくらい切った方がいいわ。あなたの髪はさらさらで滑らかだから、実際より長めに見えるのよ。多めに切っておいた方が、いい感じになるわ」私は鏡越しに、疑いの目でタマオを見た。ここでの決定権は私にあるんじゃないの? 「大丈夫だから、私に任せて」とタマオは断言した。

アシスタントの女性がカートを押して、タマオのそばまでやって来た。カートには散髪に使う道具がぎっしりと詰まっていた。ボトルの表示は英語のもあれば、日本語で書かれたものもあった。たぶんこれから、私の髪にコンディショナーをたっぷりとつけて、髪をほぐす感じでケアするんだわ。「まず髪を洗いますので、こちらへどうぞ」とアシスタントの人が言った。

彼女は髪を洗い終わると、シンクから私の頭を持ち上げた。そのタイミングで私は聞いた。「まず最初にコンディショナーをつけて、髪の毛をケアした方がいいんじゃないですか?」私の濡れた髪は、コンディショナーをつけないと、なかなかブラッシングできないはず。そのアシスタントは首を横に振って、「それは彼女がやりますよ」と、タマオを指差した。

「コンディショナーはカットのあとね」とタマオは言って、私をサロンチェアーに戻すと、私の髪をブラッシングし始めた。かなり激しいブラッシングで、私好みの優しく撫でる感じからは程遠いものだった。

「痛っ!」と私は思わず叫んだ。

「ごめんなさいね」とタマオは言った。「ハーフの子の髪って、手ごわいのね」

だから言ったじゃない。この人、何にも知らないのね。っていうか知らなくても、見ればわかったでしょ、まったくもう。「雑誌はありますか?」と私は聞いた。この女性とはもう何も話したくなかった。

タマオはたくさんのファッション雑誌を抱えて戻ってきて、鏡の前に置いた。アメリカやイギリスの雑誌もあれば、日本のもあった。「髪の毛が仕上がった時には、あなたもこういう、雑誌に載ってる女の子たちみたいになるわよ」

私は一言も、この写真のこの子みたいにして、なんて頼んだ覚えはなかったけれど、今さらそんなこと言っても仕方ないと思って、黙って雑誌を読むふりを続けた。こうしていれば、タマオも私に話しかけづらくなるでしょう。彼女はひと通り私の髪を整えた後、ディープ・コンディショナーを髪に塗り付けていった。なんだかヌルッとして、変な臭いもするし気色悪かった。そして、べとべとした髪のままキャップを被され、1時間も座っていなければならなかった。待っている間、音楽を聴こうとイヤホンを耳に差し込もうとしたら、エステティシャンの人が私の席に近づいて来た。彼女が押してきたカートには、美容器具が載っている。「今お顔をやっちゃいますね」と彼女が私に言った。

そのエステティシャンはゆっくりと私の頭を後ろに倒し、額と頬をマッサージし始めた。顔をほぐされるのはとても気持ちよくて、ぼんやりしてしまい、次に何をされるのか、考えることもなかった。突如、目の上の辺りがチクッとした。ハッと目を開けると、彼女が私のまゆ毛を摘み取っていた。「ちょっと、そこまでやってなんて頼んでないわ!」と私は抗議した。

「タカハラさんのお母様のノリコさんに頼まれたんですよ」と彼女が言った。はあ? いったいどういうこと? と思ったけれど、今さら中止してとも言えない。そんなことをしたら、私のまゆ毛は左右対称じゃなくなっちゃう。

「そんなに細いまゆ毛にはしないで」と私は、せめて言った。毎日まゆ毛をペンシルで描き足すなんてまっぴらよ。

そのエステティシャンは言った。「もちろんしないわ。少しピンセットで形を整えるだけよ。ほら、もう終わったわ! ワックスで脱毛処理もできますけど、いかがしますか?」

「結構です!」私は怖くなって言った。

エステティシャンは肩をすくめて立ち去った。私は鏡を見る。さっきまで毛むくじゃらだった私のまゆ毛は、引っこ抜かれ、目の上でくっきりとアーチを描いていた。実際、凄く素敵なまゆ毛に見えた。まだキャップは被ったままだったけれど、このキャップを脱いだら、きっと私の髪も、キミ・タカハラみたいに、キラキラ艶めいているんだわ。

タイマーが切れて、ディープ・コンディショニング・トリートメントが終了した時、私は真っ先に髪がすすがれるのだろうと思った。しかし、べとついた髪のままで私はタマオのエリアに戻された。彼女は私の髪をブラッシングしてから、ブローして時間をかけて乾燥させた。そして乾燥が終わった私の髪は、まさにキミ・タカハラのように、完璧にまっすぐで、つやつや煌めいていた。鏡に映る私が、雑誌の中の女の子みたいだった。「どうですか?」とタマオが誇らしげに聞いてくる。

「いいね」まだちょっと不思議な感覚というか、慣れるまで少し時間がかかりそうだけど。私は鏡に映った自分を、角度を変えながらしげしげと観察した。鏡の向こう側から私をじっと見つめてくるストレートヘアーの少女が、まるで自分ではないようだ。なんか洗練された女の子って感じだし、まゆ毛も、やはり目を見張るほど見事に仕上がっている。「っていうか、今のところ気に入ったわ。まあ、洗えばまた元通りの、チリチリヘアーに戻っちゃうでしょうけど」

また、このつやつやまっすぐヘアーにしたくなったら、タック・ラグゼのこのサロンに来ればいいわけね。選択肢として、こういう私にもなれるんだっていうのがあるのは心強いわね。ただ、ずっとこのスタイルではいたくなかった。なんだか私じゃないみたいだし、レジーは絶対、今度FaceTimeで私を見たら、笑い出して椅子から転げ落ちちゃうわ。

タマオが何気なく言った。「洗っても大丈夫よ。この矯正は少なくとも3ヶ月は続くから。それくらい経ったら、またいらっしゃい。またストレートにしてあげるから」

「は? どういうこと?」私は血が煮えたぎるのを感じた。「これって半永久的なの? そういう大事なことは、やる前に言って!」

「あなたも知ってると思ってたのよ。日本でヘアートリートメントって言ったら、そういう意味だから。なぜそんなに動揺してるの? あなたの髪はとても美しいわ」

タマオが口先だけで美しいと言っているのではないことはわかった。サロンで働いている他のスタッフたちも、私がここに入って来てからずっと、チラチラと私を見ていたのは知っていた。ボスの隠し子が、―というか、もう隠してもいないんだろうけど、―どんな子なのか興味津々といった様子だった。そして今、みんなが承認の眼差しを私に向けていた。「素敵!」と、タマオのアシスタントが私を見て言った。彼女は次のお客さんをシンクの前に誘導しているところだった。

そのお客さんが私を指差して言った。「彼女の髪みたいにしてください!」

私はもう一度鏡を見た。異国の地にやって来て、新しい生活を始めたことは知っていた。でも、この女の子は誰? 鏡の中から、見知らぬ少女がじっと私を見返している。


・・・


「私は断固抗議するわ!」その日の夜、夕食の席で私はケンジに言った。私たちは、〈ファンタジーリーグ〉という名前の、ディスティニー・クラブ内のレストランで席についていた。50席くらいあるスポーツバーで、いわゆる「男の隠れ家」を究極まで推し進めたような飾り付けになっていた。ウッドパネルの壁に囲まれ、部屋の中央にはビールバーがあり、テレビのスクリーンがあちこちに、まるで空間に浮かんでいるように備え付けられていて、どの席からもスポーツ観戦ができるようになっている。野球、アメリカンフットボール、サッカー、ゴルフ、クリケットなど、世界中のあらゆるスポーツが画面上でプレイされていた。「あなたの妹がヘアーアレンジの予約をしたんでしょ。彼女は、半永久的にまっすぐにするヘアートリートメントだなんて、一言も言わなかったわ。私は単に、素敵な形にカットしてくれて、ブローでふわっと、髪がいい感じになるくらいだと思ってたのよ」

ケンジは半分気もそぞろといった感じで、アメリカンスタイルのハンバーガーにかぶりついてる。私の新しい髪型よりも、サイドからとろけたチーズがはみ出しているハンバーガーに夢中なのだ。「俺がジョージタウンにいた時にな、Mストリート沿いにこんな感じのスポーツバーがあって、美味しいハンバーガーを食べられたんだ。だから、内装もメニューも当時の記憶を呼び起こして、こうして再現した。ただ、親父が亡くなるまでは、この〈ファンタジーリーグ〉を新しいビルに追加する計画はなかったんだ。彼はアメリカのハンバーガーが好きじゃなかったし、そもそもタック・ラグゼにアメリカの牛肉を使うメニューはなかった。彼は和牛に関してはうるさいというか、一家言あったから」

彼の家族についてもっと知りたい気持ちもあったけれど、今はそれどころではなかった。髪が一大事なのよ、わかって、ケンジカナ。「ヘアーアレンジの予約だなんて言って、私をだまして。まあ、彼女に悪気はなかったのかもしれないから、それはとりあえずいいわ。それより、まゆ毛よ。あなたの母親が、私のまゆ毛を引っこ抜くように言ったそうじゃない。どうしてくれるのよ? 片方のまゆ毛を摘み取られて初めて、私は何をされたのか気づいたのよ。そんな中途半端なところで、やめてなんて言えないじゃない」

ケンジはハンバーガーと、私の頭の後ろのスクリーンに映し出されている野球の試合に集中している。まったく、典型的な男の回避術ね。すると彼が言った。「君はナショナルズ派かい? それともオリオールズ派? 俺はワシントン近郊に住んでいた時、よく野球の試合を見に行ったんだ。メジャーリーグはいいよな」

はぁ...ため息しか出ない。男ってなんにもわかっちゃいない。私は自分のストレートヘアーを引っ張って見せた。「これよ、この髪のことを言ってるの。私はこんな風にしてって頼んでない」

「そのうち伸びて、また元通りになるだろ。というか、その髪すごく綺麗だぞ」

「それって、今の私は、この店にいる他のリッチなレディーのみなさんと同じ感じに見えるってこと?」

彼はハンバーガーを置くと、私が聞きたかったことをやっと言ってくれた!「俺はめったにこんなことを言わないんだが、全然悪くない。君は美しいよ。なんでそれを嫌がってるんだ? そういうのはあれだろ? 10代の移り気ってやつ。すぐ気が変わるから気をつけなさいって言われたんだ」

「誰に言われたの?」

「母親だよ」やっぱり、あの魔女か。その時の光景が目に浮かぶようだわ。彼女はケンジに向かって、私の悪口をまくし立てるように話して聞かせたんでしょう。一回会っただけで、もう私のことは全部お見通し、みたいな顔して。でも、私が東京でうまくやってのければ、ミセス・タカハラは、「え、そんなはずじゃ」ってびっくりして、彼女の大きすぎるプライドで喉を詰まらせて窒息しかけるわ。

私は急に話題を変えて、10代の移り気ってやつをケンジに実際に見せつけてやることにした。「そんなことより、あなたって年がら年中働いてるみたいじゃない」私は同情するような声で言った。「日曜日まで働いてるんじゃない」

「大体はな」

「だからガールフレンドがいないの?」

ケンジが笑った。私はべつに面白いことを言ったつもりはなかったんだけど。「なんで俺に彼女がいないってわかったんだ?」

「いるの?」

「前はいた。ここの〈ディスティニー・バー〉っていうピアノバーで歌ってたんだ。エデン・ベクテルっていう名前のシンガーで、彼女の歌声は癒しだったな。俺たちは何年か付き合っていたんだが、彼女は4ヶ月前にテキサスに帰ったよ」

「どんな感じの人? スマホに写真ある?」

「まあ、あるかな?」彼は私が興味津々なことに驚いた表情を見せつつも、スマホを取り出して、画像フォルダをスクロールしだした。「1つあった」

私は身を乗り出すようにして、画面に顔を近づけた。彼はタキシードを着ていた。そして彼の隣に、ハッとするほど綺麗な女性が気品高く立っていた。なまめかしく日焼けしたような褐色の肌にブロンドヘアーで、スパンコールがキラキラ輝くシャンパン色の長いドレスを着ている。彼女はおそらく30代半ばでしょう。彼女にウェイトレスの制服を着せれば、野獣にやられる前の私のママにそっくりになりそうだった。きっとケンジのタイプなのね。

「彼女、綺麗ね。なんで帰っちゃったの?」

「彼女が故郷に帰りたがったんだ」彼はそこで一呼吸置いた。「彼女は別のことを望んでいた」人生で打ち込みたいことが歌以外にあったってことかしら? と私は思った。「母さんが彼女を認めなかったんだよ」

マジか。私は胃の中に感情が沈み込むような、やるせない気持ちになった。彼の母親がエデン・ベクテルを認めなかったために、彼女は帰っちゃったってことは、私もそうなる可能性が十分にあるってことじゃない。私にはどれくらいの時間が与えられているの? いつまでに彼の気持ちをがっしりとつかんで、彼女から彼を勝ち取らなきゃいけないの? 彼女がなんと言おうと、彼が私をここにいさせてくれるくらいがっしりと。「明日の日曜日は仕事休めるでしょ? 一緒に何かしましょうよ」と私は彼に聞いた。

「俺と一緒にどこか行きたい場所でもあるのか?」彼は純粋に驚いた様子だった。私の気持ちが何も伝わっていないらしい。この男って本当にジョージタウン大学に行ったの? ちゃっと卒業したのかしら? なんだか彼の輝きが薄れたというか、この瞬間はあまり賢い男には思えなかった。

「うん!」

「どこに行ったとしても、髪の毛についてグチグチ不満を言うのはやめてくれるか?」

ちょっと笑みが零れてしまう。笑いをこらえようとしても、私の口が両端から引っ張られるようだ。彼は本当は、私の髪についての嘆きを聞いていたんじゃない。「やめるわ、たぶんね」

「野球は好きか?」

「公園で野球をやるのは好きだけど、テレビで見るのはつまらないわ」

高級なビジネススーツを着た日本人が、〈ファンタジーリーグ〉に入ってきて、私たちのテーブルに近づいてきた。ケンジが立ち上がると、二人はお互いにお辞儀をして、日本語で話しだした。会話が終わると、ケンジは再びその人に頭を下げた。前屈運動をするみたいに深く頭を下げている。この男性は何かしら重要な人ってことでしょう。彼は振り返ると、私の方を一度も見ることなく、テーブルから離れていった。

「何を話してたの?」と私はケンジに聞いた。

「仕事の話だよ」としか、ケンジは答えなかった。

「なんで私のことを紹介してくれなかったの?」だって今の私は、服装もちゃんとしてるし、髪だってこんなに素敵なのよ。

「あの人は、べつに私の娘に会いに来たわけじゃないんだ。というか、彼はお金のことしか興味ない」ケンジの視線を追うと、スクリーンの一つで野球選手がインタビューを受けていた。「ヒデキ・マツイだ! いいバッターだったな。彼は日本人の外野手で、ヤンキースでプレーしたんだ」また出た。古来から伝わる男性特有の話題逸らし。そういえば、レジーも同じことをしたわ。レジーってもてるから、彼がプールで泳いでると、女の子たちがキャーキャー騒ぐのよね。練習の邪魔だから、私が彼に「あの子たちをなんとかしてちょうだい。練習に集中できないでしょ」って言ったら、彼は話をはぐらかすように話題を逸らしたのよ。

「ヤンキースが好きなの?」と私は聞いた。さっきナショナルズ派だとか言ってなかった?

「ヤンキースはメジャーリーグを代表する球団だからな。そのチームでプレーできるっていうのは、それだけで凄いことなんだ。彼は日本人としての誇りだよ。俺も君くらい若い時は、なかなかいい選手だったんだぞ。ゆくゆくは俺もアメリカに渡って、メジャーリーグで活躍したいな、なんて夢を見ていたな」彼の顔が、過去を懐かしむような、愁いを帯びた表情になった。

「本当に? どのポジションだったの?」

「遊撃手、ショートだな。俺は肩が強かったから。ショートは一塁まで一番遠いから、肩が強くないと守れないんだぞ。俺としてはプロの選手になりたかったんだが、両親が反対した。彼らにとっては、スポーツ選手なんて職業のうちに入ってなかったんだ」

「こうしなさいって言われたわけね。じゃあ、さそがし嫌な気分だったでしょうね! 言ってる意味わかる? 勝手に決められるのは嫌でしょ?」私は自分の髪の毛をもう一度引っ張って見せた。(うわ! 私の髪ってこんなにスムーズで滑らかな触り心地なの!)

「俺の両親は、結果的に正しかったよ。俺はプロになれるほどの腕前ではなかった。妹のキミにも諦めた方がいいって言われたな」

ちょっと、私の髪のことを言ったのよ、まったくもう! 「私って前より日本人っぽく見える?」

「ああ、たしかに。前より日本人らしいな」

すかさず私は聞き返した。「私と一緒にいて恥ずかしい?」

「全然。全くそんな気持ちはないよ。ただ、日本とアメリカは違うからな。期待されてることも違うんだ。君がもっとこの場所で期待されてることを吸収していけば、ここは、君にとってどんどん居心地がいい場所になっていく」

ついに、この台詞を投下する時が来たわ。ケンジって無脊椎動物みたいに軟弱っていうか、自分の意志なくふらふら泳ぐクラゲみたいだから、彼が私を日本に呼び寄せる時、物凄い勇気が必要だったんじゃないかしら。彼の全身から、なけなしの勇気をかき集めないと、彼にはそんな大きな決断はできなさそう。

「私は私自身が決めた判断基準で、吸収するものは吸収していくわ。あなたのお母さんや妹が決めた基準じゃなくてね」と私は言ってやった。

「それで文句ないよ」とケンジが言った。「明日は時間を取れそうだから、バッティングセンターに行って、野球の練習をしようと思ってる。やらないと、どんどん腕がなまっていくからな。一緒に行くか?」

ちょっと残念ではあった。一言くらい、私の行きたい場所を聞いてくれてもよさそうなものなのに。でも、気まぐれな10代の気持ちに迎合して、歓心を買うような態度を取らないところは好ましいわね。私はようやく、目の前のハンバーガーにかぶりついた。うわ! なにこれ、超美味しい!―完璧なジューシーさ、お肉の焼き具合が絶妙だわ。マクドナルドがない国の人が、死ぬ前にやっとの思いでありつけたハンバーガーってくらい美味しい! っていうか、この国にまずい食べ物なんてあるの?

「バッティング練習は素晴らしいわね」と私は言った。バッティング練習をして、ケンジの背骨を鍛えれば、クラゲみたいな彼をしゃきっと変えられるかも。



チャプター 20


日曜日の午後、ケンジと私はタクシーに乗って、バッティングセンターに向かった。地下鉄同様、タクシーもとてつもなくきれいで、座席の背もたれには白のレースカバーがかかっていて、運転席のダッシュボードには大きなGPS機が備え付けられていた。ワシントンD.C.でもたまにママとタクシーに乗っていたけれど、おんぼろタクシーばかりで、こんな清潔なタクシーは初めてだった。タクシーが走行中、私は窓の外を眺めながらうっとりしていた。色とりどりの旗が境内を飾っている寺院を通り過ぎ、高層ビルの間にサンドイッチみたいに挟まれた庭園を垣間見た。赤い提灯が軒下にいくつもぶら下がっている料理屋、多種多様な店、店、店。そして歩道にはたくさんの人々が歩いている。人と建物が秩序のもとにひしめき合っているさまは、目を見張るばかりだった。

「ここからどのくらい遠いの?」と私はケンジに聞いた。タクシーは15分ほど、車の多い通りをゆっくりと進んでいた。

「そんなに遠くないよ」

「じゃあ、ここで降りましょうよ。残りは歩きたいわ」外は絵に描いたように完璧な晴天だった。

「そうだな。これぞ散歩日和って感じだしな。すがすがしい秋の空気、暑すぎず、寒すぎない。完璧だ」

ケンジが運転手さんに言って車を停めてもらい、私たちは外に出た。歩道を行き交う人たちに合流するように、私たちも歩き始める。ケンジの歩くペースは思いのほか速くて、私はせっせと足を動かさないと置いて行かれそうだった。彼は器用に人々の隙間をすいすいとすり抜けていく。「この辺りの建物って、凄く新しいか、凄く古いかのどっちかね」と私は言った。

「東京の大部分は第二次世界大戦で破壊されたんだ。戦後、日本は東京にどんどん新しいビルを建てて、復興していった。そんな中で壊されずに今も残ってる建物もあるわけだ」

彼が足を止めたので、私も立ち止まった。立派な白い門の前だった。鉄製の門には金の輪が付いている。門の中を覗くように見ると、ロンドンのバッキンガム宮殿を彷彿とさせる豪華な建物が建っていた。敷地は木々に囲まれ、緑豊かな公園のようでもあった。ケンジが言った。「ここは東宮御所といって、現在は国営のゲストハウスになってる。ここからは見えないが、皇太子とその家族が、その宮殿の向こう側をずっと奥まで進んだところに住んでるんだ」

「いつかこの中に入って、見学ツアーとかできる?」

「元旦と天皇誕生日だけは開放されるから、一般の人も入れるぞ。こことは別に皇居もあって、そっちの方がタック・ラグゼからは近いな。観光客にも皇居の方が人気というか、訪れる人が多い。皇居の周りにはお堀があって、一年中美しい庭園を堪能できる。特に桜が咲く春は最高だ」

私たちは散歩を再開した。ケンジの切れ目のないスケジュールを考えると、またいつこうしてタック・ラグゼの外に二人きりで出かけられるかわからないので、この機会に大量のコショウを振りかけるみたいに、いっぱい質問をぶつけておきたかった。「あなたは今までずっと東京に住んでたの?」

「ワシントン以外では、ロンドンで1年間暮らしたことがある」

「ロンドンでは何をしてたの?」

「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスっていう経済を学べる大学で、ビジネスコースを受講した」

「良かった?」

「ロンドンは良かったけど、大学はあんまりだな。本当はもっと長くロンドンにいるつもりだったんだけど、親父がタカハラの家業を手伝えってうるさいし、1年で帰って来ちゃった」

「あなたのお父さんってどんな人だったの?」

「親父は厳しかったよ。頑固一徹で、どこまで上り詰めても、決して満足しないタイプだな。俺は勉強なんかそっちのけで遊んでばかりだったから、いつも親父に怒られてたよ」

「学校の成績は?」

「そこそこだな。真ん中辺り。それでも俺としては頑張った方なんだ。君の成績は?」

「私はいつも全科目でAを並べてたわ。ママがトラブルに見舞われるまではね」

「じゃあ、今のクラスでもトップになれるな。妹のキミも常にトップだったんだ。間違いなく君も優秀だよ」

私たちは広々とした公園にたどり着いた。都市の真ん中にぽっかり空いた憩いの場って感じだ。いくつものコートやトラックがあって、色々なスポーツができるみたいだ。多くの人が秋の日を満喫中だった。ずっとコンクリートに囲まれていたせいか、一気に開けた空間で緑の木々や芝生に囲まれると、全身の細胞がリフレッシュして、生まれ変わるようだった。ケンジが緑のネットで囲まれたバッティングセンターの受付で入場料を払い、私も後に続いて中に入った。バッティングセンターに来たのは生まれて初めてだったから、見るものすべてが新鮮というか、何が何だかわからない。ネットに囲まれて、なんか動物園の檻の中に入ったみたいね。

バッティングエリアは、数人が入れる程度の小さなケージで区分けされていた。それぞれのバッティングエリアの中央には実際の土が敷き詰められ、ホームベースが置かれている。そこから空間が広がっていて、その向こうに巨大なスクリーンがあり、仮想スタジアムを映し出していた。「かっ飛ばしていこう!」とケンジが声を上げた。「君が先に打つか?」

「いや、あなたからやって」

彼がバットを握って、ホームベースに近づいた。スクリーンに仮想のピッチャーが現れ、振りかぶって腕を振った。と同時に、本物のボールが飛び出してきた。一瞬の出来事だった。ケンジが狙い澄ましたかのようにバッドを振ると、カキンッ!と大きな金属音が鳴り響き、ボールが弧を描いて飛んでいった。―ホームラン! と場内に音声が流れ、スクリーン上ではバーチャルな観客が拍手喝采を送る中、ユニフォームを着た選手が一塁、二塁、三塁とダイヤモンドを一周している。

「後にやる人の身にもなってよね」私はケージの中に入っていった。ケンジが手に持っていたバットを私に手渡す。私はホームベースに近づくと、以前レジーから教えてもらったバッティングフォームを思い出しながら、バットを構えた。

「リラックス! 肩の力を抜いて、ボールに集中するんだ」ケンジがアドバイスした。突然、ボールが飛び出してきて、風を切るように私の目の前を通過した。私はバットを振るが、時すでに遅しで、ボールはキャッチャーの位置に置かれたマットに跳ね返って、私の足元に転がった。「いいスイングだ! 次は絶対当たるぞ」次のボールが飛び出し、私に向かって突き進んでくる。また空振りだった。ケンジが私の腕と腰を触って調節しているが、私はピッチャーを見たままだ。今度空振りだったら三振でアウトだ。ケンジが離れ、三球目が飛んで来る。私は思い切りバットを振った。カキンッ! 当たった! ファールボールだったけど、ボールの衝撃は腕からしっかりと伝わってきた。「素晴らしい!」とケンジが言った。「父親譲りの力強いスイングだ」

次に彼がバッターボックスに入り、真剣な表情で構えた。私がプールのスタート台に立った時の、水面を見つめる目と同じだと思った。確固たる闘志を秘めた幸せそうな表情だ。

「私は水泳を突き詰めて頑張ってみようと思う」と私は言った。「YMCAのチームにいた頃、コーチが言ってたのよ。私がもっと上達すれば、水泳で奨学金をもらって大学に行けるかもしれないって」

「奨学金もいいけど、君が生まれた時、銀行で大学教育までの信託ファンドを開設して、積み立ててあるんだ。だから君が大学に入る年になったら、学費が下りるよ」そう言うと、すかさずケンジはフルスイングして、またホームランを打った。

は? どういうこと?

私は前から大学には行くつもりだったけど、アルバイトをしつつ、多額のローンも組まなければ、つまり借金をしなければならないと覚悟をしていた。かなり過酷で壮絶な大学生活が待っているのだろう、と。

「冗談でしょ? 私をからかってるの?」と私は聞いた。

「こんな重大なことで冗談を言うわけないだろ。君は頭がいい。全科目でAを並べてたんだもんな。キミみたいに君もアイビーリーグの大学に行けるぞ」彼は自信たっぷりにそう言いながら、凄く誇らしそうだった。

「イェール大学に行きたいわ。彼女みたいにハーバードじゃなくてね」と私は言った。急に彼から自信を分けてもらったように感じた。1分前までは、どうせ学費がそんなにかからないメリーランド州立大学に行くことになるんだろうな、と思っていたから、アイビーリーグが一気に現実味を帯びてきて、頭がクラクラした。

「なんでイェールがいいんだ?」

「ロリー・ギルモアがイェールに行ったからよ」私はドラマの主人公を実在の女の子っぽく言った。

「聞いたことない名前だな」と彼が言った。「イェールで何を勉強したいんだ?」

「さあ、まだ分からないわ」私は自分の意志を確認するように、心の内側をサーチライトで照らした。「なんていうか、あなたが私を大学に行かせてくれるなんて、これっぽっちも思ってなかったから。整理がつかないっていうか、ありがとう!」彼の表情がにこやかになり、どういたしまして、といった感じで私に向かって少し頭を下げた。「科学がずっと私の得意科目だったのよ。それに私は他の人の手助けをするのが好きだから、お医者さんかな? そうね、私はイェール大学に行って、お医者さんになるわ!」

彼がバットを手放し、バットがころんと転がった。「俺の娘が、医者か」彼の目がキラリと光を放ち、遠くを見つめた。

ケンジのこんな誇らしげな表情をもっと見たいと思った。そのためなら、新しい学校でとことんやってやるわ。全力で勉強して、いい成績を取ってやる。



10月

チャプター 21


親愛なるママへ

日本に着いたらすぐに手紙を書くつもりだったんだけど、書こう書こうと思っているうちに、1ヶ月も経っちゃいました。ごめんなさい。その間、ママからは2通手紙を受け取って、大事に何度も読み返しています。「依存問題を共有し合う集い」に参加したんだね。問題解決に一歩足を踏み出したママがすっごく誇らしいわ! 自分の過去を洗いざらい話して、みんなと共有するのって、凄く辛かったでしょうね。刑務所内でヨガを始めたとも書いてあったから、元気でやってるんだなって思って嬉しかったわ。図書館に長らく予約しておいた『ゲーム・オブ・スローンズ』の1巻が、ようやくママの順番になって読めたんですってね。読めて良かったと思ったら、『ゲーム・オブ・スローンズ』に出て来るドラゴンと白い歩行者たちが、悪夢になってママの夢にも出て来ちゃったなんて。


心配しなくても、私がママよりケンジを好きになることはないわ。というか、彼って忙しすぎて、あんまり会えないの。マサおじさんはほとんど毎晩のようにFaceTimeで電話してきて、画面越しに私の状態をチェックしてるわ。顔を見る時間でいったら、ケンジよりもマサおじさんの顔の方がよく見てるくらい。ケンジって、パパというより、ルームメイトって感じなのよね。でも、ケンジのペントハウスからの眺めは最高よ。東京の街が一望できるの。ママにも見せてあげたいわ。それから、いつでも好きな時にルームサービスを頼めるの。(私はあんまり使わないけど、いつでも料理を注文できるっていう選択肢が頭の片隅にあるのは、すっごく気分いいわ。)あと、メイドさんもいて、私が学校に行ってる間に、掃除も洗濯も全部やってくれるの。床の上に洋服を脱ぎっぱなしにしても、お皿を食べたまま洗わなくても、誰にもガミガミ言われないのよ!(^^)!


東京での暮らしは良好よ。クレイジー!って思うことも多いけど、そのクレイジーさが良かったりするのよね。私の野望としては、新しい学校でみんなを蹴散らすように成績でトップに上り詰めることだったんだけど、初っ端から出鼻をくじかれたというか、逆に蹴落とされないように頑張ってくらいついてる感じ。課題が前の学校では考えられないほど多いのよ。スペイン語とかは、前の学校でも習ってたから余裕だろうと思ってたんだけど、どんどん進んじゃうから、必死で予習復習してるわ。毎晩みっちり4時間は勉強してる感じ。水泳チームにも入ったから、放課後は5時まで水泳の練習もしてるの。それから帰宅して、7時にケンジと晩ご飯を食べるのよ。一日のうちで、ケンジと過ごせる唯一の時間ね。そして8時頃から12時頃まで勉強。本当はもっと長い時間勉強したいんだけど、次の日6時30分には起きなきゃだから、4時間くらいが目いっぱいなの。そう、朝学校にはね、スクールバスじゃなくて、なんと運転手さん付きの車で行ってるの。その車が7時にここを出発しちゃうから、6時半には起きなきゃいけないわけ。夜に宿題をやってると、学校の友達からメッセージが来て、いちいち返さないとだから、いっつも勉強の邪魔になるのよね。そうなの、私にもちゃんと友達ができたのよ! これを言ってもママは信じないでしょうけど(だって私自身ですら信じられないんですもの)、なんと「人気者」のグループに私が入っちゃったの。凄いでしょ。学校一の人気者、女王様みたいな子と仲良しなのよ。イモジェン・カトウっていう子なんだけど、私のことを気に入ったんですって。(シャル・カトウが彼女の母親なの! 覚えてる? ディスカウント百貨店の〈ターゲット〉で、よくシャル・カトウのコレクションを買ってたわよね。〈サックス・フィフス・アベニュー〉みたいな高級百貨店では、シャル・カトウのドレスは高すぎて私たちには手が出ないからって、〈ターゲット〉で買ってたのよね。『シャル・カトウってロゴが入ってるけど、安いからバッタものなんじゃないの?』とか言いながら、たくさん買ったわね。イモジェンに聞いたんだけど、あれもみんな彼女のママがデザインしたものですって。あんまり安い素材を使うのは好きじゃないみたいだけど、どこで売られていようと、自分でデザインしたものにはすべてロゴを入れるし、そうじゃなかったらロゴは絶対に入れないって。まあ、実物を彼女のママに見せたわけじゃないけどね。ファッション業界の闇かもしれないわね。)


レジーともFaceTimeで話してるわ。元気でやってるみたいだけど、誕生日を過ぎたら、1月から軍隊に入るんですって。それを聞いて凄いなって思って、応援したい気持ちもあるけど、ちょっと心配で怖いわね。YMCAの水泳チームにいたカルメン・ロドリゲスっていう女の子を覚えてる?(背泳ぎの体勢でぷかぷか水面に浮かんでるのが好きだった子、ほら、プールの水が冷たいって文句ばかり言ってた子よ。)彼女は今レジーと同じ学校に通ってるんだけど、二人は付き合ってるみたいなの。レジーったら、彼女の話ばっかりしてくるし、きっと彼女にぞっこんなのね。彼はもっと女の子を見る目があると思っていたんだけど。


私は今、朝の通学途中の車の中でこれを書いてるの。さっきも言ったように運転手さん付きの車なのよ。そんな馬鹿なって思うでしょうけど、本当なの。アケミっていう同じ建物に住んでる子の家の車なんだけど、一緒に乗せてもらってるの。彼女は私より1歳年下で、シャイな女の子ね。彼女は学校に行く途中は、だいたい寝てるわ。―交通量が多いから、結構時間がかかるのよ。それで私はこの時間を使って、ママに手紙を書いてるわけ。書いてるっていうか、新品のマックブックを開いて、打ってるの。冗談だと思ったでしょ? これも本当で、私は自分専用のパソコンを手に入れたのよ。


制服姿の私の写真をプリントアウトしたから同封します。ただ...髪型にびっくりしないで。日本式のヘアートリートメントをしてもらったのよ。ヘアートリートメントの前に「日本式」って付いてるのがポイントで、「日本式」の場合、事前説明は一切なしで、やられてるうちに、何をやられてるのか段々とわかってくる方式らしいの。ヘアートリートメント自体は良かったかな。髪がまっすぐになって、すっごく滑らかな触り心地なのよ。FaceTimeでレジーに見せたら、そんなに笑う?ってくらい笑われちゃった。彼が言うには、私が雑誌に載ってる女の子気取りなんですって。私らしくないって言われちゃった。自分では、私らしいと思ってるわ...前とはちょっと違うかもだけど。だけど、学校の友達はみんな素敵って言ってくれたし、ケンジも前より日本人らしくなったって言ってたわ。マサおじさんには、とても洗練された女性に見えるって言われたのよ。ママはどう思う?


勉強に関しては、出だしはそんなに順調ってわけにはいかなかったけど、私は元々、差があるところからスタートしたから仕方ないわね。これから巻き返して、どんどん成績を上げていくわ。ケンジが大学に行く学費を出してくれるんですって。そう、落ち着いて聞いてね。そうなのよ、私は大学に行けるのよ! でも、そのためには勉強しなくちゃ。じゃあ、勉強しに行ってくるね。


今度はもっと早く手紙を書くね。


大好きなママに、キスとハグを。


エルより



チャプター 22


「ゾエルナー! 泳いでみて。どのくらい上達したか見てあげるわ」

水泳コーチのターニャ・ホプキンスは、イリノイ州出身の元水泳チャンピオンで、3年前にオリンピック予選の最終選考まで残ったんだけど、惜しくも代表権を逃した強者なの。それで傷心した彼女は、ボーイフレンドに会いたくなったのかしらね、前から日本で英語の先生をやっていた彼氏の元に転がり込む形で東京にやって来たんですって。彼女は生徒全員をラストネームで呼ぶの。私は普段エルって呼ばれることが多いから、急にゾエルナーって声をかけられると、ドキッとしちゃう。今は朝の水泳クラスの時間で、私は5レーンあるプールの一番端のスタート台に立っている。他のレーンでは、15人の生徒たちが思い思いにウォームアップをしている。スタートの合図を待ちながら、緊張で体が震えてきた。ターニャがストップウォッチを掲げて、言った。「ゴー!」

私はプールに飛び込み、クロールのストロークで水面をかき分け前に進んだ。プールの端まで来ると、体をひねってターンをし、再びクロールで水しぶきを上げながら、元の地点に戻ってきた。「素晴らしいフォームね。フリップターンも見事だったわ」ゴールにタッチし、水中から顔を出した私にターニャが声をかけた。「それからタイムは、なんと先週から1.2秒も縮めたわ」

「やった」と私は言った。息を切らしながらも、全身が喜びで湧き立つようだった。体育の単位を取るためでもあるけど、こうして毎日泳げるっていうは最高ね。ただ、ここにはレジーがいないのよね。この喜びをレジーと分かち合いたかったわ。私たちはお互いの力を引き出す良きコンビだったから、私も彼が同じプールに入ってると最高の泳ぎができたし、彼も私と一緒だと最高のパフォーマンスを発揮したわ。そういえば、彼にここのプールの写真をまだ見せていなかった。ターニャの授業が終わったら、写真を撮って彼に送ろう。どうせまた彼は信じないでしょうけどね。

「今度はバタフライをやってみて」

「バタフライは一番苦手なのよね」私は弱気になる必要なんてなかったんだけど、急に自分の泳ぎに自信がなくなってしまった。たぶん、プールの逆側の一番端のレーンで、リュウ・キムラがまさにバタフライで泳いでいるせいで、しかもかなり速いスプリントを刻んでいる。

「苦手かどうか私が判断してあげるわ。レディー? ゴー!」

私は再び水中に飛び込み、バタフライでプールの端まで行って、ターンをし、戻ってきた。

「いいよ、いいよ、いいじゃない!」私が水から顔を上げると、ターニャが歓声を上げた。「特に波に乗ってからの追い上げが良かったわ。もっとスタートの練習をして、スタート直後の加速力をつけた方がいいわね。でも、1.5秒も縮めたわ。バタフライもいけるじゃない。ゾエルナー、あなたがICSの水泳チーム〈セイルフィッシュ〉に入ってくれて心強いわ。どんなチームになっていくのか、凄く楽しみ」

私がタオルをつかむと、みんなが私の泳ぎを称賛してくれた。私は臆面もなく、気分よく称賛を浴びた。プールは温水だから、泳いでいる時は寒くなかったけれど、プールから出ると、東京の秋の空気は肌寒く感じた。段々と冬が近づいているようだ。この学校には、この屋外プールとは別に、室内プールもあるんだけど、そこは現在、冬に使う準備でプールの清掃がなされている。「私のタイムは?」

「ほら、一番よ」とターニャが言い、飛び込み台の後ろにある電光掲示板を指差した。私のタイムが一番上で点滅していた。やっと一番になれた! 電光掲示板が公式に、エル・ゾエルナーがクラスの女子で一番速いことを大々的に発表していた。

そうなのよ! レジーがいなくても、レジーに後ろから追い立てられる形でなくても、私は一人でも強かった...水泳が唯一の私の強みってことでしょう。この学校の特権階級の子たちに、私が勝てる唯一のことかもしれないわね。YMCAのチームで泳いでいた頃から結構ブランクがあったんだけど、私のパフォーマンスは、自分でもびっくりするくらい、揺るぎなかった。おそらく、こうして毎日泳いでいる成果が目に見えてきたってことね。余分なぜい肉がそぎ落とされて、特にウエストラインが引き締まってきたのよ。今の私は、日本の美味しい料理をむさぼるように食べているっていうのに、これまでの人生で最高に引き締まった体をしてるわ。


~~~


〔途中の感想〕(2020年8月6日)


エルちゃんのこの日々は、彼女の人生でも1番キラキラしていた時期(人生の季節)になるでしょうね! 毎日、水泳と勉強に励んで、大学進学やお医者さんになるという夢もあって、まさに水面をがむしゃらにクロールしているみたいな、水しぶきが煌めく「私、生きてる」っていう感じ🏊✨✨


藍も毎日勉強に励んでいた人生の季節は2年くらいあったんだけど、同時に水泳しとけば、当時の思い出がもっとキラキラしたのにな~🌳✨笑


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ターニャが私を指差しながら、他のレーンで泳いでいる子たちに向かって、声を張って言った。「みんな、見て。これからは、この子を追い抜くように練習に励むのよ、いい? 気合を入れていこう!」

突然、私の足元、私が泳いでいたレーンの水面からリュウ・キムラが顔を出した。彼はスイムキャップをかぶっていなかった。彼の濡れた髪には青いメッシュが幾筋も入っていて、太陽の日差しをつややかに反射している。まるで彼自身に後光が差しているみたいだ。

「やっと現れたか」と彼は言った。「この学校に俺のレベルまで到達しそうなスイマーが」

それだけ言うと、彼は再び水中に潜り込み、数秒後、プールの反対側の端のレーンに戻っていた。


・・・


「彼はなんて言ったの?」とイモジェンが叫んだ。私たちは昼食を食べていた。

私はリュウの表情を思い出しながら、なるべく彼の言い方に近づけるように、大袈裟に張り詰めた口調で言った。つまり、馬鹿みたいに恰好つけて言った。「やっと現れたか。この学校に俺のレベルまで到達しそうなスイマーが」

ジャンビが言った。「彼って調子に乗ってるのよね。大したスイマーじゃないくせに」

ヌトンビが聞いた。「あんた、彼が実際に泳いでるところ見たことあるの?」

ジャンビが答えた。「ないけどさ」

イモジェンが甲高い声で割って入った。「私は見たことあるわ。アラベラが彼の泳ぎを見たいって言ったから、付き添いで見に行ったのよ。彼は背泳ぎが素晴らしかったわ。まあ、他の泳ぎも悪くはないみたいだったけど。ただね、ICS-東京でトップスイマーになることと、本当に才能があることとは別物なのよ。彼はその辺を勘違いしてるのよね。去年の大会で〈セルフィッシュ〉は、ICS-台北にこてんぱんに叩きのめされたわ。彼が平泳ぎで台北の選手に抜かされたのよ」

ヌトンビが聞いた。「なんで彼は、こーんなに小っちゃい水着を履いて泳いでるの? あれじゃ、彼の貧弱な体をさらしてるようなものじゃない」

オスカーが返した。「貧弱じゃなくて、あいつは細マッチョなんだよ。よく見たら、引き締まったいい体してるぞ。身長も高すぎず、低すぎない。ちょうどいい感じだな」

ニックが付け加えた。「お馬鹿さんにはちょうどいいだろうな」

まったく、嫌みったらしい二人ね! 私は二人の男子に向かって指摘してやった。「あなたたちはリュウ・キムラを無視してるんじゃなかったの? なんでそんなに彼のことばかり話してるの? 無視どころか、逆に注目の的じゃない」

イモジェンが優しく私の肩を抱くように、腕を回してきた。「あなたが無視された時も、ちゃんと注目して、水着姿のあなたについて話してあげるわ」

「やっぱりあなたって親友ね」と私は返した。その時、私の携帯が鳴った。画面を見れば、アケミからのメッセージだった。周りを確認すると、アケミはテーブルを二つ空けて離れた場所に座っている。パソコンを開いているから勉強しているようにも見えるけど、おそらく私たちの会話を聞いていたんでしょう。

私は彼女のメッセージを読んだ。「猫かぶり」意味:子猫のように可愛らしく振る舞って、無邪気なふりをすること。

私は自分のこの状況を言い当てられ、思わず笑ってしまう。アケミが〈エックス・ブラッツ〉に加わってくれたら、もっと楽しくランチの時間を過ごせるのにな。でも、この人たちは彼女を望んでいないし、彼女も学校では一人でいるのが好きみたい。朝の通学中、彼女が寝ていない時は、〈エックス・ブラッツ〉についてあれこれ聞いてくるんだけど、いざ学校に着くと、しゅんと自分の殻に閉じこもっちゃうのよね。

「誰とやり取りしてるの?」とイモジェンが聞いてきた。

「同じところに住んでる友達」と私は答えた。嘘ではない。

私はアケミにメッセージを返した。「Curiosity killed the cat.(好奇心は猫を殺す。)」意味:聞き耳を立てたりして、あんまり詮索しない方が身のためよ。九つの命を持つと言われる、そう簡単には死なない猫でさえ、好奇心のせいで身を滅ぼすんだから。

ヌトンビが言った。「ねぇみんな、今週末はうちの両親がいないのよ。意味わかるでしょ? 何か楽しいことをしましょうよ! 」ヌトンビの両親は超がつくほど厳格だった。平日の夜や週末は、宿題がすべて終わるまでヌトンビを外出させなかったし、たとえ宿題をやり終えても、港区内の限られた地域にしか外出させなかった。各国の大使館や領事館が多く置かれている地区なら安心だろう、という両親の配慮だった。

私は猫関連のことわざをもう一つ思い付いたので、立て続けにアケミに送った。「When the cat’s away, the mice will play.(猫がいないと、ネズミは遊ぶ。)」意味:監視する人がいないと、いけないことをしちゃうのよね!

「今週の土曜はフィールドホッケーの試合があるから、何よりそれが優先よ」とジャンビは言ってから、キラッと目を輝かせた。いたずらっ子が何かを企んだみたいだ。「試合が終わった後ならいいわ。英国インターナショナルスクールをやっつけて、祝勝会といきましょう!」彼女は赤のメッシュが入った黒髪をお団子状に巻いて、お団子に鉛筆を差す形でとめていたのだが、その鉛筆をすっと抜いた。彼女の髪がバサッと背中に落ちて広がった。

「渋谷に行こうぜ!」とニックが声を上げた。それから彼は私に聞いた。「渋谷には行ったことある?」

「ないわ」私は、お昼休みはこうして〈エックス・ブラッツ〉の輪に入ってるけど、私の加入は即席のサプライズみたいなもので、学校以外で彼らと一緒にどこか、いかした場所に行ったりしたことはなかった。

ニックが言った。「渋谷はたぶん東京で一番楽しい場所だぞ。何でもありの場所だからな。君を最高の場所に連れて行ってやるよ。—俺に任せろ!」


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今さらですが、〈登場人物の紹介〉

エル・ゾエルナー:16歳になったばかりの女の子。水泳が得意。

レジー:2歳年上の男の子。かつてYMCAの水泳チームでエルと一緒だった。来年の1月から軍隊に入る。同じ学校のカルメン・ロドリゲスと付き合ってるっぽい。

ママ:現在、服役中。

マサおじさん:ケンジのいとこ。

ケンジ・タカハラ:エルの父親。〈タック・ラグゼ〉のオーナー。野球が得意。ジョージタウン大学に留学中、レストランのウェイトレスをしていたエルのママと知り合い、恋に落ちた。

ノリコ・タカハラ:ケンジの母親。影の女帝。

キミコ・タカハラ:ケンジの妹。ハーバード卒。

エミコ・カツラ:ケンジの秘書。エルの世話係。日本の大学を卒業後、ハーバードの大学院でMBAを取得。

デーブ・フラーハティ:〈タック・ラグゼ〉で働いている。

アケミ:1歳年下で、シャイな女の子。〈タック・ラグゼ〉に住んでいる。家族関係が超複雑。バイオリンが得意。

リュウ・キムラ:水泳が得意な細マッチョ。親がヤクザという噂。村上春樹が好き。ウクレレが得意。

アラベラ:リュウの元カノ。リュウに振られ、傷心してボリビアに帰国。


〈エックス・ブラッツのメンバー〉

イモジェン・カトウ:母親が世界的デザイナーのシャル・カトウで、父親が彫刻家のアキラ・カトウ。

ジャンビ・カプール:赤のメッシュが入った長い黒髪のインド人。フィールドホッケーが得意。

ヌトンビ・アマティラ:髪の毛をビーズ状にして細く編み込んでいる黒人。母親がナミビアの大使。両親が厳格。

オスカー・アコスタ:黒髪でオリーブ色の肌をしたイケメン。アラベラの双子の兄。

ニック・ズホノフ:気取り屋で藍色の瞳をしたイケメン。北欧出身のスラブ系で、丸刈りに近い短髪。父親がアレクセイ・ズホノフ(スマホのマイクロチップ開発者)。エルに気があるっぽい。


~~~


イモジェンがニックに目を向け、呆れたという風に目を一周させてから、言った。「じゃあ、みんな、パスモを渡して」

みんなが続々とパスモカードを財布から取り出して、イモジェンに渡していく。―私だけが取り残されたように、きょとんとしている。「ちょっとわかんないんだけど」

イモジェンが言った。「恵まれない家政婦さんのために、カンパを集めてるのよ。彼女はフィリピンから日本にやって来て、ヌトンビの家で働いてるの。だからこのカードを彼女にあげて、彼女はそれを他のフィリピン人の家政婦仲間に安く売るの。そうして出来た現金を、フィリピンの家族に送金するってわけ。そうするとね、両親の留守中にヌトンビが外出しても、彼女は黙っていてくれるのよ。ヌトンビが好き放題、何をしたって、親に知られることはないってこと」

「ワオ! なんてやり口なの」私はしぶしぶ財布からパスモを取り出すと、イモジェンに差し出した。「でも、パスモがなくなっちゃったら、私はどうやって地下鉄に乗ればいいの?」

みんなが笑い出したが、私が本気で心配していることに気づくと、笑うのをやめた。ジャンビが、そんなの決まってるじゃない、という風に言った。「なくしちゃったってパパに言えばいいだけよ。新しいのを買ってくれるわ。あなたのパパは優しいんでしょ?」

ママだったら、絶対新しいのなんか買ってくれないわ。もしママがここにいたら、こう言うでしょうね。そんな賄賂みたいな真似までして、人気者たちとつるんでいたいの? あなたってほんと、お人好しの馬鹿ねって。だけど、ケンジなら、「週末にイモジェンたちと遊びに行く」と言えば、喜んで新しいパスモをくれるでしょうね。彼女たちを、私が付き合うのにふさわしい友達だと思ってるみたいだから。

私のスマホにアケミから新たなメッセージが、ポンッと音を立てて届いた。この会話も聞いていたらしい。「窮鼠猫を噛む」意味:追い詰められたら、ネズミだって猫に立ち向かって、噛みつくんだから。

私はすぐに返信した。弱い人たちも、勇気があれば勝てるってことね。

イエス! と彼女から返ってきた。

アケミも週末の冒険に加わってほしかった。彼女はこんなことに巻き込まれるのは絶対嫌だって言うでしょうけど、近くに彼女みたいな子がいてくれると、私はもっとリラックスできるから。彼女の前では、私らしく自然体でいられるから。



チャプター 23


ICS-東京校のバレーボールチームとフェンシングチームでインフルエンザが流行しているため、普段のこの時間帯のスクールバスは、その二つのチームでごった返しているはずなんだけど、今日は運転手を除いて、乗っているのは私とリュウ・キムラだけだった。

アケミは放課後、〈タック・ラグゼ〉の近くで、詳しい場所までは知らないけど、バイオリンのレッスンを受けているから、一緒には帰れない。私は放課後、教室で勉強してからプールに行って、水泳の練習をする。それから、都心に向かうスクールバスに乗って帰ることにしている。ICSのスクールバスは、やはりICSだけあって、通常のスクールバスでは考えられない、至れり尽くせりのものだった。ビロード張りの清潔感溢れる座席は座り心地が良く、Wi-Fi環境も整っている。健康に配慮したお菓子セクションもあり、ナッツ類や新鮮な果物が食べられる。冷蔵庫も付いていて、アルカリ性の水や冷たいジュースも飲める。プライベートジェット並みの豪華設備を整えた高級バスだった。そして、空港のシャトルバスみたいに、東京のさまざまな場所のホテル前で停まって、生徒たちを降ろしていた。バスを降りた生徒は、そこから歩いて家に帰るか、または迎えの車に乗り込む子もいた。私は大体、バスの中では宿題をしているか、夜の勉強に備えて頭を休めるために、うとうとしていた。

リュウは私の一列後ろ、通路を挟んで斜め後ろの席に座っていた。「ねえ、エル」

私は振り向いた。彼の青いメッシュが入った黒髪は、さっきまでプールで泳いでいたから、まだ濡れている。彼の髪から漂う塩素の匂いが、ふわっと私の鼻をくすぐった。私はこの匂いが大好きなのよ。「何?」

「音楽の練習をしてもいいかな? 君はヘッドフォンをしてないみたいだから、一応聞いてみたんだけど」

「べつに構わないわよ」と私は、イモジェンを真似るみたいに、ぶっきらぼうに言い放った。ただ、〈エックス・ブラッツ〉のメンバーはこのバスに乗っていないから、不機嫌そうに性悪を気取る必要もないな、と思い直した。そこで、ふと、哲学的な問いかけを思い出した。誰もいない森で一本の木が倒れた場合、倒れた音はしたのか? その場に誰かいれば、音はしたんでしょうけど、誰の耳にも届かない音は、無いに等しい。つまり、このバスには私たち二人しかいないから、みんなから無視されている男の子にちょっとくらい優しくしても、まあ、優しくしなかったに等しい。それに、純粋に彼のことを知りたい気持ちもあった。彼の隣の空いている席にはケースが置かれていて、楽器が入っているようだった。私は彼に聞いた。「何を弾くの?」

彼がケースを開けて、楽器を取り出した...ウクレレだった! 「何かリクエストある?」と彼が聞いてきた。

「ウクレレの曲はちょっとわかんないな」

「君の好きな曲でいいよ。どんな曲でもウクレレで弾けるから。子供の頃に好きだった曲とか」

「何だろう、あ、『オズの魔法使い』が大好きだったわ。"Over the Rainbow"(虹の彼方に)とか?」ああ! なんてありきたりな選曲をしちゃったのかしら。もっとじっくり考えて、気の利いた曲を選べばよかった。ここにはいないはずのイモジェンが、つまらないことを言った私を見て、呆れたという風にぐるりと目を回す様子がありありと目に浮かんだ。

「それ、大好きな曲なんだ」とリュウが言った。彼は指を軽い感じで動かして、コードをかき鳴らし始めた。彼は弾くだけで歌わなかったけれど、私の頭の中では、彼の演奏に合わせて、ジュディ・ガーランドの伸びやかな歌声が聞こえてきた。Somewhere, over the rainbow, skies are blue.(どこか、虹の彼方には、空が青い場所があって)ウクレレで奏でられるそのメロディーは、なんだかすごく心地良くて、私をとても幸せな気持ちにしてくれた。エル・ゾエルナー、あなたって単純なお馬鹿さんね。

「すごく上手ね」と私はリュウに言った。彼は顔にうっすらと笑みを浮かべて、自信たっぷりに弾いている。彼自身、弾いているのが楽しくて仕方ないといった表情だ。「でも、いろんな楽器がある中で、どうしてウクレレを選んだの?」

彼はウクレレをつまびきながら、コード進行を変え、新たな曲調に移った。その伴奏に合わせて、彼は歌うように、私の質問に答える。「俺が10歳の時に、休暇でハワイに行ったんだけど、ホテルのギフトショップでウクレレを買ったんだ。ぽろんと弾いてみたら、ギターよりしっくり来たんだよ。これだって思って、それからずっと続けてる。ただね...父親は気に入らないみたいだな。ウクレレなんて男の弾く楽器じゃないって思ってるから。そんな彼のジェンダーバイアスに、偏見に立ち向かうために、俺は弾き続けているんだぜ」リュウは一瞬音を切って間を開けてから、フィナーレを演出するように激しくウクレレをかき鳴らした。そして、ヘビーメタルみたいなドスの利いた声で、がなり立てた。「俺は結婚式でも、ユダヤ教の成人式でも、呼ばれればどこへでも行って弾くぜ。センキュー、放課後のスクールバス、いいクルーズだったぜ。センキュー、エル、しっかり聴いてくれて、ありがとう!」彼は締めくくりに、小指と親指を突き出して、腕をひねり、高らかに右手を上げた。

彼がこんなに面白い人だったとは知らなかった。私は彼のイメージとのギャップに面喰ってしまい、笑ってあげることができなかった。私はクールに澄ましている方が、彼の中の私のイメージ通りでしょうから、笑う代わりに、パチパチと拍手で応えた。「バスでウクレレの練習をしても、私は構わないけど、弾きながらどさくさに紛れて、激しくおならはしないでよね」

リュウが再びウクレレをつまびき出し、メロディーに乗せて、言った。「君のバタフライのタイムはもっと伸びる。体を水面にできるだけ近づけて、そこでキープしながら泳ぐんだ」

ちょっと、何、ダメ出しなんてしてくれちゃってるのよ。「私、アドバイスして、なんて言ったっけ?」リュウってこういう人だったんだ。数分もすれば、傲慢で周りに当たり散らす彼がひょっこり顔を出すってことを忘れてたわ。私はヘッドフォンを引っ張り出して、化学の教科書を開いた。

会話終了。


・・・


それからバスに乗っている間、私はリュウを無視し続けた。タック・ラグゼに到着すると、そそくさとバスを降り、エレベーターに乗り込んだ。49階のボタンを押し、エレベーターが上昇を始める。すると、46階で一旦止まり、開いた扉から、キミ・タカハラが乗ってきた。

「ああ、こんにちは」とキミが私に声をかけた。彼女はタック・ラグゼで私を見かけると、いつもこんな風に驚いた顔をする。まるで私の存在を今まで忘れていたかのような、彼女の兄に非嫡出の娘がいて、今ここに住んでいることが信じられないみたいな表情をするのよ。「学校はどう?」

「まあまあ」と私はつぶやいた。私は彼女に何を言えばいいのか、全然わからない。彼女は私のことをちっとも知ろうとしてこないし、そんな彼女に私からすり寄っていくのもどうかと思う。彼女の私に対する無関心がどこから来るのかも、よくわかっていない。彼女は忙しすぎて私どころではないのか、単に興味がないだけか、それとも、彼女の母親みたいに失礼な人なのか。

「その髪、素敵よ」と彼女が私の髪を、また褒めた。彼女はエレベーターで私に会っても、それしか言わない。私に言いたいことなんて、それしかないわよ、と言わんばかりだ。

エレベーターのドアが48階で開いた。廊下にケンジの姿が見えた。ミセス・タカハラの部屋の前で、キミが来るのを待っている様子だ。私はケンジに今夜の夕食のことを聞くために、一旦エレベーターを降りようと思ったんだけど、私の行く手をさえぎるように、キミが私より先にエレベーターを出て振り返ると、言った。「家族しかダメよ」

エレベーターのドアが、私の鼻の前で閉じた。

なんて失礼なの!

私は苛立ちを振り払うように頭を振って、勝手にすれば、と扉に向かって言い放った。49階の自宅に直接帰るのが馬鹿らしくなり、55階を押して〈スカイガーデン〉に向かうことにした。プールサイドの温水ジャグジーに入ってリラックスすれば、叔母から受けた、いじめとまではいえない、巧妙な侮辱感から解放され、わだかまりが解凍されるのではないか。私はスポーツバッグに予備の水着を入れていた。エレベーターを降りて、女性更衣室に入り、水着に着替えると、プールエリアに出る扉を開けた。

うっと、一瞬立ち止まってしまった。ジャグジーバスにすでに誰かが入っている。よく見ると、見知らぬ人ではなく、アケミだった。

「今日のバイオリンのレッスンはどうだった?」と私は彼女に聞いた。

「きつかった。ひじが痛くなっちゃって、それでここに来て、ひじを癒してるの。だいぶ痛みは引いてきたわ」

「賢いわね!」私は温水バスに足を入れた。温かく泡立ったお湯の感触が心地良い。私はアケミと向かう合うように座って、ウォータージェットの穴の1つに背中を押し付けた。水圧にマッサージされているみたいに体が震えて、気持ちいい。

「水泳の練習はどうだった?」と彼女が私に聞いてきた。

「猛烈に泳いできたから、私もひじが痛いわ!」私もアケミの真似をして、両腕を背中の後ろに回してみた。ジェット噴射が直接ひじに当たって、効果てきめんって感じだ。

アケミが言った。「私、バイオリンに力を入れ過ぎてたみたい。バイオリンを弾くことで、いろいろ発散してた感じなんだけど、夢中になりすぎちゃった。英語の文法のテストで、Cを取っちゃったの」

「どんなテストだったの?」

「会話文を品詞に分けるやつ。名詞、形容詞、接続詞とか、そんな感じ。英語は日本語と全然違うから、私には無理みたい」

そこで、私はひらめいた。「ちくしょう!」と私は日本語で叫んだ。

アケミがくすくす笑い出す。「急にどうしたの?」

「聞いて。いい? 英語と日本語の違いをわからせてあげる。たとえば、ちくしょうっていう意味の英語、ファックって言ってみて」

「ファック」とアケミが小声で言った。

「名詞っていうのは、人や場所や物のことなの、わかる?」アケミがうなずく。「だから、ファックは名詞じゃないのよ。ファッカーって言えば、失礼な人って意味だから、名詞ね」

「ニック・ズホノフは失礼な人だから」とアケミが言った。

「あなたもそう思う? 私もニックって、失礼っていうか、うぬぼれが強いなって感じてたの。彼は大富豪の家の子だから、ちょっと浮世離れしてるのよね。ニックを例に使えるわ、『ニックってなんてファッカーなの!』って言ったら?」

「名詞!」とアケミが即答した。「でも、動名詞って何? 動詞なのか名詞なのか、混乱しちゃうの」

「動名詞っていうのは、動詞なんだけど、名詞のような働きをするの。I-N-Gで終わってる動詞のことよ」私はプールエリアを見回して、私たちの話を聞こうと近寄って来そうな人はいないことを確認してから、言った。「Fucking is what makes babies. みたいに、ファッキングって言えば動名詞になるの。ファックすることって意味ね、つまり、赤ちゃんを作ること」アケミが顔を赤らめた。「それから、動詞として使う場合は、Mom fucked Dad.(ママがパパとファックした)って言えばいいの。ファックしたから、私は今ここにいるのよ」

アケミが私にバシャッと水をかけた。私も、やめてよーと言いながら水をかけ返し、私たちは笑いの渦に飲み込まれていった。ひとしきりはしゃいだ後、私は言った。「じゃあ今度は、ファックを形容詞として使ってみて。名詞に説明を加える感じで」

アケミはちょっと考えてから、言った。「My elbows hurt fucking bad.(ひじがひどく痛いわ)」

「そう! 凄い上達ぶりね。教え甲斐があるわ。I’m so proud.」

「そこは、So fucking proud.でしょ」とアケミが機転を利かせた。

一本取られた私は、ブクブクと水中に顔をうずめた。そして再び水面に顔を出すと、アケミに言った。「あなたは私の教え子として申し分ないわ」

「Thank you very fucking much.」と彼女が返した。「あと、間投詞って何?」

「間投詞っていうのは、話し手が主に感情を表現するために使う挿入語句よ」正直に言うと、私は自分がこんなにも英文法に詳しかったとは、今の今まで気づかなかった。これならSATの練習問題をいつ誰に出されても、楽勝ね。「たとえば、うーん、今夜の夕食は何を食べようかしら? のうーんとか。あ、やばい、夕食の時間に遅れちゃう、のやばいが間投詞ね」

アケミはうなずくと、「あ、そうですか」と日本語で言った。

「それってどういう意味? その日本語、あちこちで耳にするから、何だろうって思ってたの」

「Oh, really? とか、Ah, I see. みたいな、日本語の間投詞よ。日本人は言われたことをいちいち確認するのが好きなの、礼儀作法の一つとしてね。だから、相槌を打つ感じで、何かを言われたら、あ、そうですかって間投詞を挟むのよ」

「ありがとう、アケミ! それを知れて、今後すっごく助かるわ」

「You’re fucking welcome(どういたしまして)」と、彼女はファッキングを挟んで言うと、再び私に水をかけ出した。


・・・


その夜、私はケンジと〈生け花カフェ〉でディナーを食べた。タック・ラグゼには、もっと高級なレストランがいくつもあるけど、私はここがお気に入りなの。比較的カジュアルな雰囲気だし、豪華なメニューの中から一つを選ぶよりも、ビュッフェ形式でいろいろ食べられる方が楽しいから。それに、このお店のウェイターは、私のドリンクの好みを心得てくれているから。

「コカコーラを一つお持ちしました」と、さっそくデーブ・フラーハティが、私が頼む前にコーラを持って来てくれた。

「コーラに、―」と私は言いかけた。

「氷ですね。たくさん入れておきました」日本では、コーラに氷が入って出てきたためしがないから、氷を入れて、と頼まなければならないんだけど、それでも氷の量が少ないから、もっとたくさん入れて、と頼み直すことになる。「あなたは炭酸水でよろしかったでしょうか?」とデーブがケンジに聞いた。

「ああ、頼む」とケンジが答えた。「氷は入れなくていい。俺はアメリカ人じゃないからな。文明人のように飲みたいんだ」そう言うと、彼が私にウィンクしてきた。私をからかっているらしい。デーブがテーブルを離れると、私が切り出そうと思っていた話題を、先にケンジが持ち出した。「さっきのエレベーターの件だけど、キミが君に謝っておいてほしいと言ってたよ。彼女はちゃんと説明しようとしたんだけど、その前にエレベーターが閉まっちゃったんだ」

「説明って?」私はまだ、あの屈辱的な出来事について、わだかまりを感じていた。

「キミが『家族しかダメ』って言っただろ。あれは、俺たちが何十年も続けてる伝統行事のことなんだ。週に一度、夕方、母の茶室に集まって日本式の茶道をやってるんだよ。とても形式ばった催しだから、10代が楽しめるようなものじゃない」

勝手に決めないでよね。どんなものかわからないんだから、楽しめるかどうかも、わかるわけないじゃない。「形式ばってるってどんな風に? お茶を飲むだけじゃないの?」

「お茶を飲むだけじゃないな。きっちり決まった作法に則って、特別な抹茶を点てるんだ。母とキミはきちんと着物を着込むし、母にとっては大事な日本の習慣なんだよ。キミと俺は退屈だけど、母に付き合って続けてる感じだな」

「なんか面白そう」私も参加したい、とは言いたくなかった。家族に入ろうと必死になってる、と思われるのも嫌だったし、わざわざ自分から手を挙げて、ケンジの母親と一緒に過ごしたいとは思わない。「それって外国から来た人は、参加しちゃダメなんでしょ?」

「まあ、旅行で日本に来た観光客は、多額のお金を払って、タック・ラグゼで開いてる日本式のお茶会に参加してるけど、あれは、うちの家族だけのプライベートな行事だから」

またそれだ。また微妙な感じで抜け者にされた気分。「あっそ」と私は言った。

「プライベートっていうのはな、俺たちの場合、ビジネスについて話し合うって意味なんだ。親父が亡くなってから、キミと俺が今後の経営方針とか、アイデアを母に、それとなくアドバイスしてるんだよ。茶道をやりながらだと、母の機嫌を損ねることなくスムーズに事が運ぶんだ」

「姑息ね」と私は言った。

「ありがとう」と彼が返した。ずるい、という意味で言ったんだけど、ケンジは褒め言葉だと捉えたみたい。「今日の学校はどうだった?」

学校のことは、私たちにとって無難なトピックだった。私たちが別々の国で暮らしていた長い年月について話すより、今日の出来事を話す方が、何倍も気楽だ。「スペイン語のテストで、Bプラスを取ったわ」

「お、凄いじゃないか。この前はBマイナスだったから、上がったわけだな?」私は氷と一緒に、プライドも飲み込んだ。誰からでも褒められるのは嬉しいけど、ケンジから褒められるのは、その何千倍も嬉しい。「『グレート・ギャツビー』のエッセイは返ってきたか?」毎晩、ディナーを食べながら学校のことを話しているから、ケンジは色々知っているのよ。べつに彼は私の宿題をチェックしたりしないし、宿題を手伝ってくれることもない。

「うん、返ってきた。Bだった」

「それは良かったな」

Bは大して良くないことを、二人ともわかってはいたけれど、それでオッケーだった。

「先生が言うには、私の論述、言葉運びは優れているんだけど、説明に焦点を当てすぎていて、説得の方が手薄になってるって」エッセイが返ってきてから、自分でもう一度読み直してみたら、先生の言ってることがわかってきたけど、愚痴をこぼしたい気分にもなった。ICS-東京校に来るまでは、国語のクラスで、こんなに長い論文を書かされたことなんてなかったんだから、ちょっとは大目に見てよ!

「家庭教師を雇った方がいいか?」少し離れたテーブルのお客さんに、デーブ・フラーハティがビールを持って来たところだった。ケンジがデーブを見遣ってから、私に視線を戻した。「彼はプリンストン大学を出てるんだ。彼だったら、上手く英語の論文を書く方法を知ってるぞ」

「彼はここの仕事で十分忙しいでしょ! 彼にホテルの部屋の配管の修理まではさせてないでしょうけど」

「させてない、とまでは言い切れないな」とケンジが冗談めかして言った。

私は笑った。「学校の図書館に、専属のチューターがいるのよ。次エッセイを書く時は、書き方のアドバイスをもらいに行ってみるわ」

「それは良い考えだな。俺みたいなバカにはなるなよ。俺はアンドーバーにいた時、一度もチューターにアドバイスをもらいに行ったりしなかった。行っとけば、だいぶ俺の成績は違っていただろうな。俺の成績表を見て、親父はいつも怒ってたよ。『こんな成績を取らすために、地球を半周させて、一流の教育を受けさせてるんじゃないぞ。これがお前の全力の結果か?』って」

「あなたのお父さんって、堅物だったみたいね」と私は言った。

私は侮辱してそう言ったわけではないし、ケンジも侮辱の言葉とは受け取らなかった。彼はうなずいてから、言った。「親父はとても頭が良くて、勤勉だったよ。たしかに堅物だったから、喜ばせるのは無理だったな。少なくとも俺には無理だった。キミは親父の自慢の娘だったから、キミのことを話してる時は、表情も緩んでたよ」

「彼女が彼のお気に入りだったってこと? それとも彼女が女の子だから?」

「おそらく両方だろうな。彼女は親父に似てるんだよ。頭も切れるし、彼女は親父の瞳に映るオレンジだ」

「それを言うなら、『リンゴ』ね」

「リンゴ?」

「英語の言い回しで、The apple of someone’s eye.(誰かの瞳に映るリンゴ)って言えば、大のお気に入りって意味なのよ」

「それだ。キミは親父のリンゴちゃんだった。俺は腐ったリンゴだったけどな。成績は一向に上がらなかったし、ビジネスでも失望させちまった」あらあら。子供のあら捜しが過ぎる親を持つと大変ね。ケンジがお酒の問題を膨らませていった理由が、段々とわかってきた。

私は言った。「彼はあなたのことを、そんな風には悪く思ってなかったんじゃないかしら。そうじゃなかったら、あなたに経営を継がせようとは思わないでしょ」ケンジが自分の能力を疑うようなことばかり言ってるから、彼が世界中に何千人もの従業員を抱える会社を経営していることが不思議に思えてくる。

「日本では、男がビジネスを経営するものなんだよ」たとえキミがハーバード大学を優秀な成績で卒業しようとも、とまでは彼は言わなかったけれど、私は自分に置き換えて考えてみた。もし私がどんなに頑張っても、どんなに賢くても、―そして、私より経営者に適さない兄がいたとして、―それでも、家族経営のビジネスのトップに兄がなってしまうのなら、私もキミみたいに、いつも神経をピリピリさせている感じの人になってしまうでしょうね。

私のスマホが光って、「ニック Z」と画面に表示された。ニックからのメッセージだ。土曜日は渋谷に行こう! 他の予定は入れるなよ!

オッケー、と私は返信した。

「もう男とメールをやり取りしてるのか?」とケンジが私に聞いてきた。「どんなやつなんだ?」

「ニック・ズホノフが今週の土曜日、渋谷を案内してくれるんですって」

ケンジがうなずいた。ズホノフという名前を聞いて、嬉しそうだった。「素晴らしいぞ」と彼が、私の功績を褒め称えるように言った。私はニックからメッセージを受け取っただけなんだけど。



チャプター 24


土曜日のお昼過ぎ、オスカーとニックと私の三人はタクシーを降り、新宿の地に足を踏み入れた。新宿は、東京の中でも歓楽街として有名で、高層ビルが立ち並び、バーやレストランや劇場のネオンサインが、風景の上半分を埋め尽くすように、ひしめき合っている。女の子たちは後から合流することになっていた。ジャンビとヌトンビはまだフィールドホッケーの試合中だし、イモジェンは空手の稽古に行っている。私もみんなと同じ時間に待ち合わせるのかと思っていたら、男の子たちが、その前に私だけを誘ってきたから、びっくりした。彼らとは毎日のようにランチタイムを一緒に過ごしているから、今ではもう、彼らの前で緊張することはないけれど、彼らがどういうつもりで私だけを誘ったのか、ちょっと不安。

「この一帯は『歓楽の迷宮』と呼ばれてるんだ」とニックが私に言った。彼はタクシーの運転手さんにお金を払うと、機敏に外に出て、降りる私をエスコートしてくれた。「怪しげなバーとか、逢い引き用のホテルとか、ナイトクラブとか、いかした場所が何でも集まってる」彼はこの地に立っているだけで興奮しているようだった。彼の藍色の瞳がきらめいている。

オスカーが言った。「渋谷の夜は活気があって、テンションが上がるぞ。だけど、まずは新宿だろうと思って、お前を連れて来たんだ。俺たちはいかしてるからな」

「ちゃんと教えて」と私は言った。「あなたたちは私に試練でも与えようとしてるの?」

「新入りに試練を与えて、忠誠心を試す的な?」とニックが聞いた。

「そう」

オスカーとニックはお互いの顔を見合わせて、笑った。ニックが言った。「そんなわけないだろ。これから階段を下りた先で待ってることは、試練とは真逆で、楽しいことばかりだ」

〈ロボットレストラン〉と書かれた建物の前まで来ると、ニックが予約済みの窓口に歩み寄り、三人分のチケットを受け取った。そして私たちは、目立たない入口から中に入ると、ガラスの壁に囲まれた狭く曲がりくねった階段を下りていった。地下2階辺りまで階段を下りると、ラスベガスのカジノを思わせるラウンジに出た。スペースの隅々まで、余すところなく金や銀やヒョウ柄で覆いつくされ、カジノ以上に幻惑に満ちた雰囲気を演出している。天井にもテーブルにもカウンターにも、あらゆる設備に日本のポップアートが弾けていて、その幻想的で壮観な空間は、エルビス・プレスリーの豪華絢爛な邸宅をデザインしたデザイナーが、嫉妬で怒り狂うんじゃないかと思うほどだった。ラウンジの角では、ジャズバンドが演奏を繰り広げている。サックス奏者もキーボードプレイヤーも、みんなロボットに扮していた。小さなステージ上では、ロボットをモチーフにしたランジェリー風の衣装を着た日本人の女の子たちが、ジャズのリズムに合わせてセクシーに踊りながら、日本語で歌っている。

どこを見渡しても、キラキラ煌めくネオンサインのような電灯がまたたいていた。フロアの一角にガラス張りの密閉された部屋があり、中で煙草をふかしている人たちがいた。この光景は東京に来てからよく見かけていたから、馴染みがあった。東京では、コーヒーショップに入っても、喫煙者用のスペースはガラスの壁で分けられていたし、セブンイレブンとかのコンビニでも、喫煙専用のエリアを設けている店舗もあるくらい、分煙に熱心だった。しかし、これまでに私が見かけた喫煙所はどれも、単なるガラス張りの小部屋で、〈ロボットレストラン〉の喫煙室ほど、まばゆいばかりに煌めく宮殿のような場所はなかった。

「こんな場所が実在するの?」と私は二人の男子に聞いた。

「メインイベントはこれからだよ」とニックが言った。

オスカーはスマホでメールを見ている。「今、後半の途中で、〈ブリティッシュインターナショナルスクール〉がICSを4点差でリードしてる。この分だと、俺たちに合流した時の彼女たちの機嫌は最悪だぞ」

「なんか、スポーツがあなたの人生の中心みたいね?」と私はオスカーに聞いた。嫌みを言ってやろうとか、そういうつもりはなかったんだけど、私がこれまでに彼とした会話を振り返ってみると、大概スマホでスポーツのスコアをチェックしていたり、ICSのポロチームがどうのこうの言ってたりしたから、スポーツにしか興味ないのかと思っていた。

「俺は綺麗な男子も、スポーツと同じくらい好きだよ。残念ながら、ここには、いかした男子はいないみたいだな」オスカーはそう言うと、ニックの体をグイッと押した。ICS-東京には他にもゲイの男子が何人かいたけれど、私がこれまで出会った中では、自分のセクシュアリティーをここまで大っぴらにして、しかも誇りに思っているのは彼だけだった。

ニックが私の肩に腕を回してきて、オスカーに向かって言った。「僕は今、美人さんとお話中だから、君の男漁りに付き合ってる暇はないよ」

ニックに腕を回されて、私は気分が良いのか悪いのか、決めかねているうちに、1階下の階でメインのショーが始まるとアナウンスがあり、私たちは階段を下りていった。メインステージのフロアは驚くほど狭く、階段状の見物席が両側にあり、その間にボクシングのリングサイズの、何も置かれていない舞台があった。客席の後ろの壁は映像が流れるスクリーンになっていた。柔らかな光が私たちを照らす中、私たちは一番高い後方の座席に座り、ショーが始まるのを待った。

ステージが突然、レーザー光線とLEDライトでピカッとライトアップされたかと思うと、巨大なゴジラがステージ上に現れた。アニマトロニクスを駆使したロボットのゴジラだった。ゴジラに続いて、日本人の美女たちが続々と登場してきた。ストリッパー風の衣装を着たダンサーや、鼓笛隊もその後に続き、胸がわき立つようなポップチューンを演奏している。視線を上げると、反対側の客席の後ろのスクリーンでは、アフリカのサファリの映像が流され、Wild!Crazy!といった英語が点滅し、またたいていた。場内に鳴り響く楽曲は、どんどん奇妙で厳かなムードの曲調に変化していった。女子たちが踊りながらゴジラと戦い、ゴジラをやっつけると、今度は恐竜が現れ、ロボットスーツに身を包んだ男たちが登場した。そして、ポップミュージックのサウンドに乗って、ロボットスーツ隊が恐竜と戦い出した。その周りでは、セクシーな女子たちが、レーザー光線を発するライトセーバーを振り回しながら、歌って踊っている。

オスカーがポップコーンを口に放り込みながら、言った。「女子だけじゃなくて、マッチョな半裸男子もダンスグループに加わってくれれば、最高なんだけどな」

ニックはステージで繰り広げられているアクションを見ながら、大きな笑みを浮かべている。ニックがこんなにもハンサムだったなんて、今まで気づかなかった。たぶんオスカーがめちゃくちゃイケメンだから、隣にいるニックが霞んじゃってたんだと思う。ニックは北欧出身のスラブ系で、顔がいつもキリッと張り詰めてる感じだから、こんなに緩んだ表情を見たのは初めてだった。彼の丸刈りに近い短髪は、リュウ・キムラの青いメッシュが入った黒髪ほどは目を引かないけど、ニックは頬骨がキリッとつり上がっていて、バラみたいにポッと赤らんだ頬をしてるし、彼の真っ白な歯は、おそらく私が今まで見た中で最も白い歯だわ。彼は歯磨きのスキルがプロレベルなのかしら? それとも、父親の潤沢なお金を使って、歯のホワイトニングをプロに頼んでるのかしら? どちらにしても、笑顔がよく似合ってるわ。

「どうだった?」とニックが、終わったばかりのショーについて私に聞いた。

「こんな経験をしたのは初めてだったわ。悪趣味にぞっとされつつも、同時に楽しくなっちゃうみたいな、不思議な感覚」と私は答えた。途中からニックに見とれていて、ショーはあまり見てなかったけど。

「ああ」とオスカーがスマホを見ながら声を上げた。「それはあれだな、君がまだ、フィールドホッケーの試合に負けた後の、エックス・ブラッツの女子たちに会ったことがないから、そんなのんきなこと言って、余韻に浸っていられるんだ」


・・・


たとえば、私が渋谷の「スクランブル」交差点を急いで横断中に不慮の事故で死んだとして、私の葬儀を執り行ってくれる人は、私の満足そうな死に顔を見て、これが本望だったんだな、と気づいてほしい。歩行者用の信号が「」になった瞬間に、四方八方からドッと何千人もの人々が一斉に歩き出し、縦横無尽に行き交う交差点の真ん中で死ねるのなら、人生に悔いることは何もない気がする。渋谷は、高層ビルに囲まれた世界の中心地のような場所だった。視界の上方では電子広告やネオンサインがチカチカとはためき、地上レベルではガラス窓を通して、様々なお店やレストランの中が見える。一度には捉え切れないほど多くの人々が、どこかに向かって急いでいる。スキニーパンツを穿いたファッショニスタの女性たち。スチレット・ヒールのパンプスをベダルに乗せ、混雑した歩道を自転車ですり抜けるように進む女性。髪をピンクに染め、クレイジーな衣装に身を包んだ原宿ガールズ。着物を着て、ビーチサンダルみたいな履物なのに白い靴下を履き、ちょこちょこと歩いている女性もいる。賑やかな居酒屋からは、大声で話す男性たちの笑い声が通りに溢れてくる。お気に入りのアニメキャラクターに扮した衣装を身にまとい、通りをこれ見よがしに闊歩している若者たち。(ニックが「コスプレって言うんだ」と教えてくれた。)ここでは毎日がハロウィンのようだった。

楽しすぎ。

もちろん私は死にたくはないけど、もし死んだら、死後の世界で出会った人たちにこう言うわ。「私が死ぬのは時期尚早だったかもしれないけど、気の毒だなんて思わないで」って。「短い人生の最期に、東京のすべてを一度に見ることができたから。」

私がそんなことを思っていたら、イモジェンが混雑した横断歩道の真ん中で、文字通り立ち止まった。何千人もの人々が私たちを避けるようにして、歩道の縁石へと急いでいる。もうすぐ信号が赤に変わり、車が再び四方八方からドッと流れ込んでくるからだ。

「一体何やってるのよ、イモさん? 早く!」とジャンビが懇願するように言って、イモジェンの腕を必死に引っ張っている。

「彼はどこにでもいるのよね」イモジェンは愚痴をこぼすようにそう言うと、腕を高く上げ、高層ビルの一つを指差した。―青、黒、赤、白、黄色のコラージュで覆われたビルの壁一面が、巨大な電子壁画のように、彼女の父親の肖像画を映し出していた。つい最近知ったんだけど、彼は単なる彫刻家ではなく、日本で最も有名なポップカルチャーアーティストの一人だった。電子壁画に映るアキラ・カトウは、レゲエミュージシャンみたいなドレッドヘアーをカラフルに染めていて、ほぼ全裸だった。―お相撲さんが身に付けているまわし(ふんどし)は腰に巻いていたけど...これはたしかに見入っちゃうわね。もしミセス・タカハラが、また私の服装がなってないだとか、ディスティニー・クラブではちゃんとした正装をさせなさいだとか、ケンジに向かって日本語で言い出したら、このスクランブル交差点の頭上に掲げられているイモジェンの父親のほぼ全裸写真をミセス・タカハラに見せつけてやるわ。服装規定の何たるかを彼女に教えてあげるのよ。

イモジェンの父親は本当に、いたるところで見かけた。ゴミ箱、地下鉄、誰かが読んでいる新聞の広告など、さっき見かけたばかりの顔がすぐにまた視界に入ってくる。日本のお札に載っているのと変わらないくらい、彼の顔(とぶよぶよの胸とお腹)は東京人にお馴染みだった。

イモジェンが全然動こうとしないので、ニックとオスカーが両脇から彼女の腕をつかみ、持ち上げるようにして縁石まで運んだ。ちょうど歩行者用の信号が赤になり、車やトラックやバスが再び交差点を占拠した。

「そんなことしちゃだめ!」とヌトンビがイモジェンを怒鳴りつけた。

「ごめんなさい」とイモジェンは謝る気なんてなさそうに、投げやりな感じでつぶやいた。「彼の展覧会が終われば、憂鬱な気分も吹き飛ぶわ」

「あとどのくらい?」とジャンビが聞いた。

「あと一週間」とイモジェンは答えてから、私の方を見て言った。「展覧会が終わったら、盛大にお祝いするわよ、いい?」

「今ここで前祝いしようぜ」とニックが言った。彼はさっき駅で買った缶ビールを二つ、ジャケットの内ポケットから引っ張り出すと、いたずらっぽく微笑んだ。日本ではとても簡単にビールが買えてしまうから、私はまだ戸惑いを拭い切れていない。自動販売機でお酒を買えるのよ、しかも、年齢確認なしで。自動販売機はそこらじゅう、―路地、コンビニの前、駅のホームなど、いたるところにあって、ありとあらゆるものが売られていた。―ジュース、コーヒー、お茶、タバコ、お菓子、スープ、温かい食べ物、そしてお酒やビールまで。いったい誰が買うの? 「ビール飲みたい人?」

イモジェンだけが手を挙げ、他のみんなは首を横に振った。ニックはアサヒビールを一缶、イモジェンに手渡し、もう一缶を自分で飲むために開けた。そこに、日本人の年配女性が通りかかり、日本語でイモジェンに向かって、𠮟りつけるような言葉を吐いた。おそらくその婦人は、イモジェンが日本語を話せないと思ったんでしょう。でも実際は、エックス・ブラッツの中で唯一日本語を話せるメンバーが、イモジェンだった。彼女はその婦人に向かって、日本語で怒鳴り返した。すると、その女性は手に持っていた買い物袋で一発イモジェンを叩いてから、そそくさと駅の方へ急いで行ってしまった。

「いったい何て言われたんだ?」とオスカーがイモジェンに聞いた。

「不良、はしたない、あなたたち10代でしょ! お酒なんか飲んで、恥を知りなさい!」とイモジェンは言った。彼女がニックのビール缶に自分のビール缶をカチンと合わせて、乾杯、と言うと、二人並んで、ごくごくとビールを飲み干した。そして空になった缶を、酔っ払いみたいなアキラ・カトウの写真が貼られたゴミ箱の中に、ニックが放り投げた。イモジェンが「プハー、うまい」と言って、げっぷをした。

「お腹ぺこぺこなのよ。今日の試合負けちゃったから、ごちそうを食べて気分を変えたいわ」とジャンビが言った。

「実際、飢えに苦しむ状況は緊迫してるわ」とヌトンビが言った。

「東急フードショーに行こう!」とオスカーとニックが二人して言った。

そこは彼らがよく行く渋谷駅近くのお食事処らしく、私は期待感を膨らませながら、みんなの後についていった。前に行ったデパートとは別の、〈東急〉というデパートの地下フロアにたどり着くと、そこにも食品コーナーがずらっと並んでいた。―グリルしたウナギ、フライドポーク、フィッシュサラダ、お寿司、シーフードの巻き寿司、餃子、お餅の和菓子、ケーキ、チョコレート、ゼリーのお菓子などが、まばゆいばかりに光を放ち、目がくらみそうになる。

「何にする? エルさん」とニックが、棒に刺さったタコを食べながら聞いてきた。

「私はまず、プラスチック製の食品サンプルを見てから決めたいな」と私は冗談を言った。東京に来てから、よく目にするものの中で、私が気に入ったものが食品サンプルだった。レストランの入り口の横、ショーケースの中に並んだメニューのサンプル(スープ、お肉、天ぷら、麺類など)を見ていると、プラスチックでできているのに美味しそうで、うきうきしてくるの。

「これ食べてみて」とニックが言って、タコを私の口の前に差し出した。

私は首を横に振った。「うぇ。私はお餅を食べるからいいわ」

まだ見ぬ父親に会いに地球を半周して、はるばるここにやって来て良かったことはたくさんあるけれど、そのうちの一つが、食べ物や栄養に関してうるさく言う人がいないということだった。ケンジは仕事で年がら年中忙しいし、それに彼は私と同じ甘党だから、野獣に出くわす前のママみたいに、タンパク質を取りなさいだとか、もっと野菜を食べなさいだとか、決して言ってこない。

「何時に家に帰らないといけないの?」とイモジェンがヌトンビに聞いた。彼女の両親は今週末はこの街にいないので、多少自由に行動できるとはいえ、神経質な家政婦が心配しすぎて心臓発作で倒れないためにも、そこまで遅くない門限を設定する必要があったみたい。

「10時には帰るって言ってあるわ。あなたは?」とヌトンビが私に聞いた。

私は肩をすくめた。誰にも何も言われていない。これも東京に来たメリットに入るの? 家で私の帰りを待っててくれる人が誰一人いないなんて。

イモジェンが言った。「ギャルたちについていきましょう。彼女たちが行くところなら、きっと楽しい場所よ。つまらない場所だったら、入らなければいいわ」

「ギャル?」と私は聞いた。

ジャンビが答えた。「日本の女子高生のことよ。制服のミニスカートを穿いて、上はストリートファッションっぽいトップスを合わせてる子が多いわね」

イモジェンが言った。「目が大きく見えるように、つけまつげを付けて、髪を茶色く染めてるのよ。中にはピンクに染めてる子もいるわ」

「背中のリュックには、小さなテディベアのぬいぐるみとかをぶら下げてるんだ」とニックが言った。

「私、ギャルを見かけたことあるわ!」と私は叫んだ。彼女たちを尾行するなんて、スパイみたいでなんだかワクワクするわ。2ヶ月前に誰かが私に向かって、そのうちあなたにはハイソな私立高校の友達ができて、クレイジーな服装で東京の街を歩く日本の女子高生の後をつけることになるわって、予言めいたことを口にしたとしても、私は絶対に信じなかったでしょうね。私たちは、くすくすと笑い合っているギャルの一団を見つけると、彼女たちの後ろについてエスカレーターで上っていった。彼女たちは〈東急〉から外の通りに出て、くねくねと曲がりくねった迷路みたいな路地を数ブロックほど歩くと、高いビルの前まで来た。ギャルたちがエレベーターに乗り込むのを見届けて、エックス・ブラッツの面々は顔を見合わせる。「彼女たち、どこに向かったと思う?」とイモジェンがみんなに聞いた。

私たちは1階に留まったまま、扉の上のモニター表示を見つめていた。すると、エレベーターが8階で止まったことがわかった。イモジェンが日本語で書かれたビルの案内板を確認する。「ああ、カラオケね! 行きましょう、みんな」

私たちはエレベーターに乗り込むと、8階まで上っていった。イモジェンがカウンター越しに店員さんと日本語で話し、手続きを済ませてくれた。「今、ハローキティの部屋しか空いてないって。ごめんね、オスカー!」と彼女が謝ってるというよりは、むしろ面白がってる感じで言う。「あなたが恐怖症レベルでサンリオストアを避けてること、みんな知ってるわ。勇気を出すのよ!」オスカーが苦笑いを浮かべた。

店員さんに案内されて、私たちは小さな部屋に入った。向こう側の壁に巨大なモニターがあって、他の三つの壁際にはソファーが置かれていた。中央にはテーブルがあって、軽食や飲み物のメニューが上に載っている。そして、部屋全体がハローキティの壁紙で覆われ、ピンク、赤、白、リボンが渦巻くようなサイケデリックなスペースを演出していた。ソファーにはハローキティのぬいぐるみが置かれ、テーブルの表面にもハローキティが描かれていて、私は目を見張るばかりだった。「あなたに最初の選曲権を与えるわ、新入りさん」とイモジェンが私に言った。


私はダサい選曲はしたくないと、一瞬考え込んだが、次の瞬間には、最初に頭に浮かんだ曲をぽろっと口にしていた。「『ミスター・ロボット』かな?」

自分で言っておいて、その馬鹿げた選曲にドン引きしてしまう。日本をテーマにした曲で私が知っている唯一の曲が、スティクスの『ミスター・ロボット』だった。私が子供の頃、お風呂にロボットのおもちゃを浮かべて遊んでいた時、ママがよく歌ってくれたから。ママのお気に入りは、曲の出だしで「どうもありがとう、ミスター・ロボット」と日本語で歌うところだった。

「それはちょっと狙いすぎね。パス」とイモジェンが言って、代わりにドレイクの『Hotline Bling』を選んで入力した。「みんなで歌いましょう」

曲が始まり、モニターではミュージックビデオと同時進行で歌詞が流れ出した。私を除く全員が、自由気ままにリズムに乗って歌っている。実は、私はかなりの音痴で、私が歌うと、どうしたって音程が外れてしまうのよ。だから私は、声は出さずに口だけ動かしながら、みんなが歌って踊る様子を眺めていた。イモジェンが壁の受話器を取って、ポップコーンとビールを注文した。その間にも、みんなはおかしなダンスを繰り広げながら歌っている。私はその光景が面白くて、爆笑してしまい、その弾みでおしっこが漏れそうになってしまった。私はずっと声は出すまいと口だけ動かしていたんだけど、思わずメロディーに乗せて声が出てしまう。「ちょっとトイレに行ってくる!」

私がカラオケルームを出ると、ニックも私の後について出てきた。「俺もトイレ」と彼が言った。

細い廊下を進んでいると、他のカラオケルームのドアが私たちの行く手をふさぐように開き、2人のサラリーマンが千鳥足で出てきて、私たちより先にトイレに入ってしまった。仕方なくその場で待っていると、ニックが私に手招きしながら、さっき2人のサラリーマンの出てきたドアのガラス窓から中を覗いている。私も彼の横から中を覗くと、会社の同僚だろうか、3人のスーツ姿の男性がお酒を飲みながら、『Uptown Funk』を歌っていた。ドアの外まで「Uptown funk you up(アップタウンで君を夢中にしてやるぜ)」と歌声が漏れ聞こえてくる。

「俺が君を夢中にしてやるぜ」とニックが私の耳元でささやいた。彼は私の腕をグイッと引くと、廊下に置かれていたベンチに私を座らせた。

私は彼の顔を見つめてしまう。彼のがっしりとしたアスリートのような体が覆いかぶさってくる。彼はタイトなポロシャツを着ていて、引き締まった筋肉が浮き立つように感じられた。彼のキュートな顔には、ちょっと邪悪な笑みが浮かんでいる。

『Uptown Funk』が終わったらしく、日本のアイドルソングらしき曲が流れ出した。ドアの中の酔っ払った男性たちは一段と盛り上がり、より一層浮かれ騒ぐように歌い出した。ドアの外側の外人へ向けたアピールの曲にも聞こえる。ニックも彼らに対抗するように、彼自身のショーを続けた。彼の潤んだ瞳とピンクの唇が迫ってくる。私は唇が軽く触れるキス以外では、キスをしたことがなかった。まさか東京で、その時がやって来るとは思ってもみなかった。

私の本気のファーストキスだった。







藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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