『19曲のラブソング』4
『19 Love Songs』 by デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年01月26日~)
トラック 10
雪の日
エイブリーとライアンの5回目のデートの日、雪が降った。
二人が暮らしている地域では毎年たくさんの雪が降るし、取り立てて大騒ぎするほどのことでもないのだが、―それは今年最初の雪だった。初雪というのは、毎年変わらず、不思議と驚きをもたらすものだ。木々は黄金色の冠をすべて脱ぎ捨てたわけではなく、ちらほらと葉っぱは残っていたが、冬はもはや否定できないほど間近まで迫っていた。日に日に昼間は短くなり、毎日1分か2分ずつ、太陽の光が夜の闇に飲み込まれていった。ただ、それは突然の雪のように誰もが気付くものではなく、ひっそりと日光は夕闇にこぼれ落ちていった。
エイブリーとライアンが同じ町に住んでいたなら、雪はデートにさほど影響しなかっただろう。二人がお互いへの距離を縮める速度は、雪によってある程度は遅くなったかもしれないし、雪が二人を多少慎重にさせはしただろうが、同じ町ならすべては計画通りに進んでいただろう。突然の雪に見舞われた時、ライアンはエイブリーの家に車で向かっていた。順番的にライアンが出向く日だったわけだ。彼らがどこか別の場所に住んでいたなら、途中で待ち合わせるという手もあったかもしれないが、何しろ二人の家の間には何もなかった。実際、半径50マイル以内には、映画館が二つと、レストランが数軒あるだけだった。かつては賑わっていた商店街は今ではすっかりうらぶれてしまい、安さを売りに商店街から人々をごっそりとかっさらっていった〈ウォールマート〉がドンッと建っているのみである。そんな場所でも、二人でぶらぶらと、過ごそうと思えば過ごせるかもしれないが、遠慮したくなる気持ちも当然で、特に、今度のデートこそは何かしらの進展を、と意気込んでいるなら、なおさらそんな所で時間を潰したくはないだろう。そしてこの日、エイブリーとライアンは、お互いにそういう気持ちだったのだ。
二人の出会いはダンスパーティーだった。―ドレスやタキシード姿で踊るプロムパーティーが有名だが、そのゲイバージョンだった。―青い髪の少年(ライアン)と、ピンクの髪の少年(エイブリー)がお互いを見つけた瞬間、それぞれの心が音楽と色で満たされた。恥ずかしさが湧き上がり、すぐにその恥ずかしさを乗り越えたいという切実な、謎の衝動に襲われた。初デートの時、二人はエイブリーの叔母の家のそばの小川まで行き、ボートに乗って小川を下った。二人とも、これまで誰かとプライベートな話をする機会は全くなかったので、特にデートのようなお互いの内面を分かち合う機会はなかったので、おずおずと過去の自分の亡霊を呼び起こすように話し、未来の自分自身の理想の姿を語った。―自分の内面をさらけ出すことは、恐れていたほどの大勝負ではなく、少し拍子抜けした。
2回目のデートは、ライアンの町のゴルフ場に行った。といっても、すでに営業していないゴルフ場で、コースはすっかり荒れ果てていたのだが、二人は架空のクラブをスウィングするふりをしながら、見えないボールを追いかけ、ゴルフを楽しんだ。そこで二人の関係も営業を停止し、廃れていく恐れもあったのだが、なんとか持ちこたえた。いわば、ロマンスが、馬鹿なことをしてはっちゃけたいという欲求に勝ったのだ。ライアンはバンカーや池を避けながら慎重にショットするように、おちゃらけて関係を台無しにすることなく、コースを回り切った。3回目と4回目のデートは、比較的シンプルなデートだった。―映画を見たのだ。まずエイブリーの家のソファ(3回目のデート)で映画を見て、次にライアンの地元の映画館(4回目のデート)で映画を見た。ライアンはエイブリーの両親に会ったことがあったのだが、エイブリーはまだライアンの両親に会っていなかった。エイブリーに問題があるから会わせないのではなく、ライアンの両親の方が、まだ心の準備ができていないのだ。エイブリーもそこは心得ていた。髪を青く染めた息子が、髪をピンクに染めたボーイフレンドを家に連れて帰る事態は、ライアンの両親にとって想定外なのだろう。(ピンクだからというわけではなく、髪が何色であっても、ボーイフレンドを連れては帰れないのだ。)
一方、エイブリーの両親は前から理解があった。―彼自身が自分は男の子でいなくちゃいけないんだと気付く前から、両親は理解していた。彼がそれっぽい振る舞いをするようになっても、両親はそれを否定しなかったし、エイブリーに「そんなことしちゃだめでしょ」と言い聞かせることもなかった。そして、ライアンがエイブリーの人生に現れた。エイブリーはすぐに彼を両親に会わせ、両親の人生にもライアンを登場させた。エイブリーとしては両親がどんな反応をするのか、半信半疑なところもあった。いわば、彼の人生の新たなチャプターが始まろうとしているわけで、それを親にも読ませようとしているのだがら、少しは緊張もしていた。やはりと言うべきか、両親はライアンを快く歓迎してくれ、エイブリーは胸をなでおろした。一方、ライアンにとっては、このような歓迎ムードは意外だったようで、彼は終始どきまぎしていた。彼自身の両親は何でも彼の行動を否定してくるタイプだったこともあり、すんなり受け入れてくれたよその家の両親を前にして、どのように振る舞ったらいいのか、わからなくなってしまった。エイブリーの両親が友好的であればあるほど、自分の言動がどんどんぎこちなく、おかしな方向へと進むのを止められず、彼は悲しい気持ちになっていった。次に会った時には、もっとスムーズに振る舞いたい、そう彼は願っていた。
ライアンは車のキーをつかんで家を出た時、天気予報をチェックしなかった。学校では雪についての話題も語られていたのかもしれないが、ライアンは学校では耳の受信ボリュームをひねるようにして、周りの雑談は聞かないようにしていた。大概はくだらない、あるいは悪質な噂話で、まだ天気予報を聞いていた方が有益だからだ。最初にひとひらの雪がフロントガラスに当たった時、小さな半透明のクモが空から落ちてきて、フロントガラスに当たった衝撃で潰れ、体の跡を繊維状に残したのかと思った。その雪の結晶は徐々に数を増し、フロントガラスを埋め尽くしていった。あと10分もすれば、エイブリーの家にたどり着く距離を走行していた。ワイパーをオンにして、車を減速させる。雪片が空を白く染めてゆく。突然の雪の到来に、思わず笑みが零れてしまう。形のない空気から固形物が発生し、落ちてくるさまは、まるで魔法を見ているようだった。雪よ、アクシオ(来い)!
エイブリーの家にはすでに何度か行っていたし、ライアンとしては通い慣れた道だという認識だったのだが...雪に見惚れていたせいもあるのか、どこかで違う方向へハンドルを切ってしまったようだ。でもまあ、正しいルートに戻ればいいだけのことだと気楽に考え、車をUターンさせた。エイブリーに電話をかけて道案内を頼むという手もあったのだが、代わりにスマホのナビ機能の助けを借りて、正しい道に引き返すことにした。自分の記憶や経験を頼りに、人生の道も自力で切り拓くことができるとエイブリーに思ってほしかったから。(5回目のデートとなれば、この先6回、7回、8回と逢瀬を重ねることができるかどうかの岐路に立っているともいえるから。)
エイブリーは窓際でライアンを待っていたので、雪にもすぐに気づいた。窓際で彼が現れるのを待っている時間というのは、胸に喜びがどんどん降り積もっていくようで好きだった。雪はそれほど激しい降り方ではなかったから、胸に積もった喜びが、スリップしてスピンアウトするように、心配へと滑り落ちていくこともなかった。全く心配に気持ちが傾かなかったわけではないが、ライアンが事故に遭ったり、やむを得ず家に引き返してしまうなんてことは頭をよぎらなかった。それよりも、目の前で繰り広げられる雪の演出に心を奪われていた。複雑に入り組んだ模様を織り成しながら、無数の雪片が次々と舞い落ち、徐々に世界を変え、しかるのちに一変させてしまう衝撃に、胸を打たれ、ただ立ちすくんでいた。
ライアンの車が雪景色の中に現れた時、エイブリーの心に積もった雪は、まさに重力に反して、舞い上がった。その時だった。―窓の外で実際に不思議な突風が吹きつけ、雪がふわっと上昇するのを目撃した。雪の舞い。ライアンの車が私道にずんずん入ってくるのを見つめながら、エイブリーの心は興奮の嵐だった。
彼はなんとか心の動揺を抑えようとした。心に門番を置いた形だったが、その門番は気もそぞろで、任務を遂行する気はさらさらないようだった。興奮を奥の倉庫にしまい込んだまではよかったのだが、扉には鍵がかかっていなかった。そんな無防備な形で人を好きになるのは、危険だとわかってはいた。
緊張感もあった。ライアンは何度か家に来たことがあったが、ちょっと立ち寄った感じの短時間の訪問だったし、ほとんどの時間を家族もいるリビングルームで過ごしていた。しかし今回は、もっと深いところまで入り込んでくる予感があった。自分の部屋は彼が入って来てもいいように体裁を整えたが、家全体をどうにかできるはずもなく、廊下など至る所に家族写真が飾られていた。彼の母親が家族の軌跡を写真として残すのが好きなのだ。その中には子供の頃のエイブリーの写真もたくさん含まれていて、あどけない彼が写っていた。まだ世界を認識する前のエイブリー、世界と自身の認識の不一致を自覚する前のエイブリーが写っていた。母親はこのことに自覚的だった。つまり、過去は隠す必要はないというスタンスで、過去を消そうとすることは、傷口を広げるだけだと気づいていた。彼女は、過去の自分と仲良くした方が心穏やかに過ごせるわ、と言った。エイブリーもそういう気になっていた。何も隠す理由はないし、かつての自分を捨て去る必要もない。そんな単純なことではなく、もっとややこしい事態が生じる予感もあったが、同時に両親を信頼してもいた。エイブリーの親は、どんなことに対しても冷静に判断して、うまく対処するのだ。だから写真のことも親に従って、外さない方がいいと思った。写真を外すのはフェアじゃない、と。改めて写真をひとしきり眺めてみると、エイブリーが幸せそうに笑っているものもあれば、そんなに幸せそうには見えないものもある。実際の心のうちはエイブリーにしかわからない。笑顔の下でどんな感情が流れていたのか、エイブリーだけが心の小川を見下ろすことができた。まだ子供だった頃でさえ、見下ろすことができた。
ライアンが家に来るからといって、今さら親に写真を外してほしいなんて言えるはずもなかったし、自分の過去の見栄えのいい部分だけを残して、あとは切り落としてしまうなんて、愚かな行為だとわかっていた。あたかも逆であったかのように、取り繕って見せても何の意味もないのだ。ただ、エイブリーにとって、ライアンに真実を伝えることは、最も胸躍ることであると同時に、最も恐れていることでもあった。無理に演じようとしないこと。むき出しのまま、お互いをさらけ出して話をすること。これは、二人がお互いの中に認めている共通した美徳だった。
包み隠さず自分を見せるというスタンスは、ライアンにとっても不安ではあったが、その不安感は、彼が喜んで乗り越えていきたいものだった。たとえば、家の外に真っ白な、不安感という名の雪が積もっていて、それでも彼は車に乗り込もうと、ザックザックとその雪を踏みしめ、歩みを進めたい、といった心境だった。エイブリーの家の私道に車を入れた時、窓際に立っているエイブリーの、ピンクの髪が見えた。彼のすぐ隣には電灯が置いてあるようで、ぼんやりと彼の輪郭を浮き上がらせている。まるで空が雲で覆われた薄暗い日の、陽射しのようだった。ベリンダ・カーライルの歌の歌詞が、彼女の風をとらえたような歌声に乗って、頭をよぎった。leave a light on for me(私のためにそっと明かりを灯しておいて)、このフレーズはこれまでに彼の耳を吹き抜けていった多くの曲の中で、最もロマンチックな愛の表現の一つだと思っていた。誰かと恋に落ちた時、いわば交代で灯台の番人になる、という考えがライアンは好きだった。たとえそれで夜通し起きていることになっても、暗闇の中で目を凝らしながら、相手のことを見守っていたかった。そのうち暗闇に目が慣れてきて、愛が形を取り戻すまで、隣でそっと明かりを灯しておきたかった。
ライアンが車を停め、ワイパーも止まると、瞬く間にフロントガラスが雪で覆われた。ヘッドライトを消した瞬間、周りの世界が完全なる自然界と化し、純粋な静寂が訪れた。彼にとっての灯台の番人が、そっと明かりを灯して、窓の中で待っていた。それでも彼はすぐには車を降りず、運転席に座ったまま、数秒間、雪の音楽に耳を澄ませた。かすかに聞こえる電話のベル音のように、無数の雪片が次々とフロントガラスにぶつかる音は、さながらコソコソと内緒話をしているようだ。彼はドアを開けて、私道に薄っすらと降り積もった雪をスニーカーで踏んだ。風が吹きつけ、寒さが耳を襲い、指もひんやりした。彼は玄関に向かって早足で突き進んだ。雪には彼の足跡が、最初にこの道を通った人の証とした刻まれていった。彼が玄関にたどり着くと、すでにドアは開いていた。横を見やると、エイブリーが窓を開け放つところだった。青いセーターを着たエイブリーが顔を出し、満面の笑みで、「開いてるから入って」と言ってくる。あたかも少年が長い間待ち望んでいた、欲しくて欲しくてたまらなかったプレゼントが、ようやく到来した瞬間のような笑顔だ。
ほんの少しの間だったが、二人はその場で動きを止め、見つめ合っていた。ライアンの肩と髪に、しんしんと雪が降り積もってゆく。彼はそんなに雪をかぶっていたとは知らず、家の中に入った。エイブリーが彼の肩や頭を素手で撫でるようにして、その雪を払い落し始める。雪を口実にして、彼が到着してすぐに、自然な形で彼の体に触れることが叶った。まず頭のてっぺんから始め、顔の側面と首回りをさすっていった。
「あなたが来てくれて、凄くうれしい」とエイブリーが言った。
「俺も来れて、凄くうれしいよ」とライアンが答えた。そう言われたら、そう返すしかない面もあるが、本心から出た言葉でもあった。
エイブリーは今まで何時間も家の中にいたので、ライアンにとって、室内がどれほど暖かい空間なのか気づいていなかった。ライアンには、1メートル先でクッキーを焼いているような、この中で二人寄り添い、巣ごもりしたくなるような、そんなほんわかした空気に満ちていた。
別の部屋から足音が聞こえ、エイブリーの母親が大声で、「彼が来たの?」と聞いた。ライアンはマットの上で足踏みして、靴底についた雪を落とし、コートを脱いでそれをエイブリーに手渡した。エイブリーはコートをリビングルームのドアノブに引っ掛けた。すぐにクローゼットに入れると、他の洋服も濡れてしまうから、まずはここにぶら下げて乾かすつもりらしい。エイブリーの母親が家の奥の仕事部屋から現れ、ライアンを歓迎し、雪の中の運転について聞いてきた。ライアンは、親からそのような気軽な雑談を持ち掛けられたことがあまりなかったので、さっそくあたふたしてしまう。自分の父親でも、雪が降っていれば、運転は大丈夫だったか?くらいは聞いてくるだろう。ただ、それ以上は何も知りたくないのか、そこで話が終わってしまうのが常だった。エイブリーの母親にとっては、気軽な問い掛けは話の導入にすぎず、そこから広範囲にわたる話題へと会話を展開していくつもりなのだ。
エイブリーの母親はライアンに、スニーカーを脱いでドアのそばに置いておいてね、と頼んだ。それは命令というよりは、お願いといった感じの言い方で、悪い気はしなかった。ライアンはそれに従い、靴を脱いだが、内心では、左の靴下のかかとに空いた穴を大っぴらにするようで、そわそわしていた。エイブリーの母親は、彼の靴下の穴に気づいていれば、スニーカーを脱いで、とは言わなかっただろう。
(一方、ライアンの母親には、そのような気遣いはないので、靴下の穴の有無にかかわらず、さっさとスニーカーを脱ぐよう命令してきただろう。)
「あらやだ、私はあなたたちの邪魔をする気はないのよ」とエイブリーの母親は、ずけずけと会話に割り込んでいることを詫びるように言いながら、さらに食い込んできた。「何か必要なことがあったら、言ってちょうだいね。キッチンにはマフィンがあるし、―ブルーベリーもあると思うわ。それからニンジンでしょ、―ブラン・フレークもあったかしら。ライアン、あなたはブラン・フレークはいける口? レーズンの方がお口に合うかしら?―ライ麦を使った、―」
「もういいよ、母さん。わかったから」とエイブリーが割り込んで、止まらない母親の口を制した。ライアンとしては、マフィンからどんどん広がる余興のようなトークを聞いていたい気持ちもあったから、そこまで怒らなくても、とエイブリーのつっこみが可笑しかった。
エイブリーの母親は笑いながら、文字通り、お手上げといった感じで、手を上げた。
「とにかく、私は仕事部屋にいるから、何か必要なものがあったら声をかけてね」
彼女はエイブリーを最後に見やると、ウインクをした。―愛してるわ。たとえあなたがお友達の前だからって、強がって私にツンツンした態度を取ってもね―と無言で告げたのだ。そして、そそくさと退散するように奥へと引っ込んでいった。
ライアンは靴下の穴を通してフローリングの木の感触を感じていた。エイブリーの母親がリビングから出て行くと、2人きりになり、さっきエイブリーが開け放ったままの窓から、雪の音が聞こえてきた。ライアンが窓に近寄ると、突風に煽られるようにして雪が少し吹き込んできた。窓を閉め、外を眺める。さっきまでエイブリーが立っていた場所だと思った。雲が、戦いの途中でバラバラに散開する軍勢のようにうごめいている。木の枝は強風にしなり、まるで暗雲が立ち込める空に向かって、雪よ、もっと降れ、と手招きしているかのようだ。
降り始めのうちにたどり着けて、ラッキーだったな、とライアンは思った。
外を見つめるライアンの背後に、エイブリーが忍び寄ってきた。まずどこに手を置けばいいのか、一瞬躊躇する。彼がすぐそばにいればいいのに、そう思いながら長い時間を過ごしてきた。そして今、その彼がすぐそばにいた...そっとライアンの腕と体の間に、自分の腕を差し込んだ。そしてゆっくりと胸の方へと手を伸ばしていく。彼の背中に自分の胸をくっつけ、顎を彼の肩に乗せて、顔を並べた。二人の視界には今、全く同じ景色が広がっていた。無数の雪片が空間を埋め尽くすように落ちてきて、世界をどんどん白くしていく。
綺麗だ。二人とも声には出さなかったが、同じ感想を胸に抱いていた。こんなに綺麗な雪景色を、こうして一緒に共有できてよかった、と。
ライアンが一瞬体を強張らせたのが、エイブリーに伝わってきた。すぐにその理由がわかった。通りを挟んで前の家に住んでいるミセス・パーカーが、彼女の家から出てきたのだ。彼女は2時間ほど前から、大体20分置きに家から出てきては、ああやって彼女の家の私道に、雪が凍結しないようにと、塩を撒いていた。夏の時期には、彼女は鳥たちにパンくずを撒いてやっていたのだが、今はそれと全く同じ動作で塩を撒いている。
彼女がこちらを見上げてくる気配はないのだが、ライアンは彼女がいつ顔を上げるか気が気ではない様子だ。こんな姿を見られたら、瞬時に彼女の頭の中に、あらぬ想像が駆け巡り、よからぬ噂が広まる、とまで思っているのかもしれない。
エイブリーは彼女がそんな人ではないことを知っていた。仮に見られたとしても、青い髪の少年とピンクの髪の少年が、日記に巻き付けた留め輪のように絡み合っている姿を見たとしても、彼女は何も気にしないか、あるいはラブラブの二人を微笑ましく思うくらいだろう。しかしライアンには彼女の性格まで知る由もないし、彼は自分の家の近所の人たちと彼女を同一視しているのだ。
これを説明するより先に、ライアンが振り返った。エイブリーは彼の体に巻き付けていた腕を緩め、前から抱き付けるように腕を添えた。二人は向かい合い、一瞬見つめ合った後、リビングから廊下に出た。窓から見えないようにドアを閉める。
「君に会いたかったよ」とライアンが言った。
エイブリーは身を乗り出し、彼にキスした。一度きりのキスだったけれど、いつまでも唇を離したくない気持ちが溢れ出たキスだった。
「僕も会いたかった」
ライアンとエイブリーは毎日話をし、起きている時間は、ほぼ1時間ごとにメッセージを送り合っていた。夜は、いつまでもチャットをしながら、お互いの行動や思いを実況中継し合っていた。話はたいがい脇道に逸れて、元の話に戻れなくなるのが常だった。しかし、いくら画面上で言葉を積み重ねても、彼らが感じていた欠如感を癒すことはできなかった。むしろ、お互いに会いたい気持ちは、言葉を交わせば交わすほど、ますます降り積もっていった。強烈に会いたくなった夜、もう寝るべき時間はとっくに過ぎていたのだが、エイブリーはライアンに、こうメッセージを送った:こうしてチャットしてるのって、スイカ味って感じ。実際に会えたら、スイカにありつけたって感じ。ライアンにもぴんと来た。その時も、なかなかうまいことを言うじゃないかと思ったが、実際にこうしてキスをしていると、その意味が如実に実態を伴った。まさにスイカだ。キスもそうだし、体に腕を回しきつく抱き締めているのも、スイカって感じだ。目の前で話すエイブリーの表情にも、スイカが浮かんでいるようだった。
「あなたは何がしたい?」とエイブリーが聞いた。
そしてライアンは思った。やっぱりこの感じ、スイカだ。
ここで、愛について考えるべき、もう1つの真実が浮かび上がる。5回目のデートということもあり、二人にとっては、何をするかは、さほど重要ではないのだ。そこであえて何がしたいか聞かれても、あてもなく遠くに飛んでいく風船の行く先を聞かれたようで、しばし虚空を見つめた後、最も短く、最も重要な言葉しか浮かんで来ない。
君と。
ここで。
二人きり。
こうして。
これらの言葉は、「今」や「愛」といった同様に短い単語とも相性が良く、ぽろっと流れで、そういったやや直接的な言葉が口を衝いて出ても不思議ではない。
しかし、ライアンはまだ16歳だった。彼は、一言こぼすようにそう言うだけで、的確な答えになることをまだ知らない。エイブリーも、次にすることのプランなど、立てなくても大丈夫だということに気づいていない。
どう答えればいいのか考えあぐねた結果、ライアンは「君の家なんだから、君が決めていいよ」と返した。
決めていいと言われて、エイブリーが真っ先に思い付いたことは、このままここで再び抱き締め合い、今度はもっと長く、数分間続くキスをするということだった。だが、それは危険すぎた。母親がキッチンにあったマフィンの、言い忘れた味を思い出して、「そういえば、ブルーベリー味のマフィンもあったわ」などと、仕事部屋のドアを開けたとたん、キスシーンを目撃されてしまう。
「じゃあ、僕のベッドルームに行く?」と彼は提案してから、顔を赤らめた。彼は言い訳するように、早口で付け加えた。「いや、ベッドルームっていうのは、ベッドがあるから行こうっていう意味じゃなくて、ベッドはあるけど、なんていうか、僕のルームに行く?」
ライアンは微笑んだ。「いいね。そうしよう」
ここで家の間取りについて書いておく。5回目のデートで、時間は午後5時頃。
廊下の左側のドアが、母の仕事部屋。ここで母親がせっせとキーボードに文字を打ち込んでいる。時折、彼女は指を止めて、自分が書いている世界に思いを馳せるが、彼女の思考がその世界から出ることはめったにない。キッチンでは、冷蔵庫と時計がひそひそと内緒話を繰り広げている。ガレージは眠り込んだクジラのように今は静かだが、あと1時間もすれば、父親が帰ってきて、クジラの咆哮のような、けたたましい音を立てて門が開くので、家の中の誰もが気づくだろう。家族でくつろげるリビングルームは、窓際には電灯も立っていて、仄かな明かりを暮れゆく外の世界にこぼしている。玄関には、湿ったスニーカーが立て掛けられていて、2人の少年が靴下で廊下を擦るようにして、歩いている。廊下には写真類も貼られているが、先を歩く相手の背中と、自分の靴下の穴以上には気にしていない。彼らの行く廊下の先では、ベッドルームがひっそりと、ドア横のスイッチをカチッと入れられ、パッと命の光が宿るのを待っている。その向こうには、もう一つ別の寝室があるが、現在は使われていない。バスルームでは、まるで外の降雪を真似たくて仕方ないかのように、蛇口から水滴が滴り落ちている。便座カバーは上を向いて開かれていて、3本の歯ブラシが直立に並んで立っている。歯ブラシたちは喋っている様子はない。きっと家の中で起きていることを、耳を澄まして聞き入っているのだろう。そんな佇まいだ。
これらすべてを雪が取り囲んでいる。今では屋根はすっかり雪に覆われ、私道に停めた車は、私道自体と見分けるのが難しいくらい真っ白だ。もし上空からこの家を見下ろせば、よく目を凝らさないと、ここに家があることすら気づかないだろう。
でも、あなたは大丈夫。あなたは上空から見ているわけではなく、中に入り込んでいるから、見失う心配はない。
前に来た時はエイブリーの部屋をチラッと覗き見た程度だったが、今回はじっくりと部屋の中を観察できた。壁にはポスターが何枚か貼られている。すべてアーティストのポスターで、といってもバンドとか音楽関係ではなく、画家系のアーティストだった。本棚は、本棚自体をキャンバスに見立てたかのようで、ストライプ模様になるように本の順番をアレンジしたのだろう、背表紙が綺麗に、―青、赤、青、赤、緑、赤、緑、黄、緑の順に並んでいた。ベッドは部屋の隅にあり、その頭上に、部屋に唯一の窓があった。
ライアンは窓に近づき、外を見た。目が外の暗さに慣れるまで数分かかったが、徐々に雪が見えてきて、雪の落ちる様を指でなぞるように目で追うことができるようになった。エイブリーも彼の横に立ち、二人は寄り添うように、窓の外で雪片が雨滴のように舞い落ちる様を眺めた。無数の雪片は、一つ一つがカンマやクォーテーションマークに見え、重力がどこに存在しているかを知らせてくれるようだった。
エイブリーは床に腰を下ろし、背中をベッドにつけた。ライアンも続いて、彼のすぐ隣に座った。二人の足と足が触れ合い、彼らは腕を重ねる。妙だな、とエイブリーは思った。こんな感覚は初めてだ。誰かに目の前から見つめられると、自分の欠点をすべてさらけ出しているようで、質の悪い広告塔になった気分になるものだが、こうして隣に並び、体の一部をくっつけていると、相手が自分の体の一部になったようで、相手も同じように感じているのが伝わってきて、心地良く、愛おしく感じてくる。ライアンの肌を感じながら、同時にライアンが自分の肌を感じていることも知りながら、もちろん別々の感情だということはわかっていたが、触れ合った肌を通じてお互いの体を行き来するセンセーションは、きっと同じだろうと思えた。ちょうど呼吸も合ってきて、心臓の鼓動まで呼応してきたようだ。エイブリーは身を横に倒すようにして、それを感じ入っていた。
「それで、最近何かあった?」とライアンが切り出し、それから数分間、二人は学校について、友達について、今年初めて空に出現した雪について話した。こういう話題は、誰もがそうであるように、彼らにとっても話の手始めに必要だった。二人は身を寄せ合うように、お互いの話に耳を傾けながら、二人が最後に会ってから今日までどんなことをしていたのかを語り合った。そこにはこれといって、目を見開くような真新しい情報は含まれていなかった。淡々と、いつも通りといった印象の日常が語られている間、言葉の間に言語化されぬまま残された真の気持ちを感じ取っていた。二人とも日常生活を送りながら、こうしてお互いに会う瞬間を思い描いていたのだ。まさにこの瞬間を期待し、待ち遠しい気持ちでいたことこそが、最近の出来事の大部分を占め、かつ最大に胸躍る時間だったといえる。
「それって卒業アルバム?」とライアンが聞いた。エイブリーの本棚の一番下の段に、それっぽいものが見えた。彼は身を乗り出して、それを引っ張り出そうとする。
「だめ!」とエイブリーが言った。「それは見ちゃだめ!」
ライアンは面白がって、それを大げさにつかんだ。そこにエイブリーが大げさにタックルを仕掛けた。ライアンは床に倒れ込み、ふざけて参ったふりをして、両手を大きく床の上で広げた。エイブリーがライアンの上に乗っかってきて、抑え込む。
これは遊び心から発生したじゃれ合いだった。そして、二人を包む和やかな雰囲気を、お互いの体を欲する熱が凌駕できる瞬間でもあった。しかし、ライアンもエイブリーも、それを望んではいなかった。―今ではない、まだ早い、まだデートの序盤じゃないか、と。―それで二人はじゃれ合いムードを続けた。一瞬の間があり、エイブリーが真上からライアンを見つめる。そのまま重力に任せて唇を落とせば、重なる位置にあった。なのに、なぜか笑い出してしまった。二人でひとしきり笑った後、エイブリーは真顔になって唇を近づけた。ライアンは身を半分起こすようにして、そのキスを受け止めた。
エイブリーは床に彼を押さえつけていた力を緩め、二人はより自由度の高いキスをした。ライアンが手を差し出してきた。エイブリーのピンクの髪を撫でたいのか、肩のカーブを撫でたいのか、しかし、それはフェイクだった。彼はすかさず伸ばした手を方向転換させると、うつ伏せの体勢で腕を目いっぱい伸ばし、本棚から卒業アルバムを引っ張り出した。
エイブリーは、まったくもう、と不満そうな声を上げたが、それ以上抗おうとはしなかった。ライアンがじっくり見ようと床に座り直し、最初のページから開いていく。それは去年の卒業アルバムだった。エイブリーは主役ではない2年生だったので、どのページにもほとんど写っていなかった。
ライアンが親指と人差し指で次々とページをめくっていく。エイブリーはそれを横から見守りながら、以前は気づかなかった些細な事に気づいた。―ライアンの青い髪が色落ちして、元の色に戻りかけていた。それから腕にある母斑が小熊みたいな形で可愛かった。ライアンが写真に写っている何人かの生徒について、質問を投げかけてきた。エイブリーは答えられる範囲で答えた。―彼の学校は大きすぎて、全員を把握することなどそもそも不可能だし、エイブリーは、それでも全員を知ろうと友達の輪を積極的に広げていくようなタイプではなかった。彼には数少ない友達しかいなかったが、彼らは性格を深くまで知り合えた良き仲間で、休み時間のほとんどを彼らとつるんで過ごしていた。
ライアンの指がついに、エイブリーが写っている2年生のページにたどり着いた。ただ、そこには切手サイズの小さな写真がコラージュみたいに張り巡らされているだけで、エイブリーが大きく写った写真はなかった。教室での日常風景を写真に収めようと、彼のクラスに回ってきた写真家が、ぶつくさと不満を垂れている生徒たちに無理やりカメラを向け、フレームに収めた写真だ。もっと大きく写っていれば、「この写真嫌い!」などと言えたかもしれないが、エイブリーはそこに写る自分の姿を見ても、自分の抜け殻を見ているようで、何の感慨も湧いてこなかった。
「素敵な髪型じゃないか」とライアンが言った。若干からかい口調ではあったが、本気でけなす気はなかった。
「試してたんだよ!」
「何を?」
「変な髪型を!」
しかも、それはモノクロ写真だった。(卒業生だけがカラー写真だった。)おかげでエイブリーが突然の写真撮影の日に哀れにも、たまたま着ていたオレンジ色の洋服は、―実際はハロウィーンのカボチャちょうちんみたいな色なのだが、―マーマレード感がうっすらと出ているのみだった。エイブリーの中で、オレンジの次にブームが来たのは、ピンクだった。目立ちたがりの時期でもある男子高校生にはありがちだが、エイブリーの場合、ピンクブームはすぐに通り過ぎることなく、しばらく彼の中に留まることになった。
「俺の髪は、前はもっと長くて、肩まで伸ばしてたんだ」とライアンが告白した。「12歳か13歳の頃で、髪を伸ばすことで、タフになれると思ってた。ひげを生やして大人ぶるみたいなものだろうけど、俺にはひげは生えてこなかったから。今から思い返してみると、あれはカムフラージュのつもりだったんだな。―大してカムフラージュにもなってなかったけど。ある日、俺が肩にかかる髪を手でさっと後ろに流しているところを母親に見られたんだ。『どうしてそんなことをするの?』と単刀直入に聞かれたよ。ああ、たしかに、と俺は思った。次に髪を切りに行ってからは、母親は何も言わなくなった。俺は理髪師に『バッサリ切っちゃってくれ』って言ったからな。待合室で順番待ちをしていた男性諸君に、『よく言った!』とスタンディングオベーションで拍手喝采を浴びたよ」
「髪を切っちゃって寂しい?」とエイブリーが聞いた。
ライアンは鼻先で笑った。「全然。最悪の組み合わせが何か知りたいか? 長髪と12歳の少年だよ。俺は髪につけるグリースをチューブから絞り出して、ボトルに詰めていたんだ。ゾッとするほど気持ち悪いだろ」
ライアンがそんなことを言うから、エイブリーは髪の毛がかゆい気がしてきて、つい頭皮をさすってしまった。ライアンはそれに気づくと、微笑んだ。
「ごめんごめん」と言って、ライアンは続けた。「変なこと言ってるのはわかってるよ。でもこれが俺なりの言い方なんだ。誰でもみんな過去に髪型で失敗してるってことを伝えたかったんだ。髪型の不運に見舞われるっていうかさ」
その時、ガレージから轟音が聞こえてきた。クジラが目を覚まし、大口を開けて欠伸をしたらしい。父親が帰ってきたのだ。エイブリーは時計を見た。―いつもより少し早いな、と思った。
「たぶんこの雪だから、父さんの職場が終業時間を早めたんだな」と彼は、ガレージの音に何事かとキョロキョロしているライアンに向かって言った。「きっと外はもう凄い雪だよ」
そこには言外の意味が含まれていて、二人ともそのことに気づいていた。エイブリーの父親が早めに仕事を切り上げるほどに雪が降り積もっているということは、ライアンも一刻も早くここから脱出し、家路を急ぐ必要があるということだ。しかし、ライアンは自分にそうする気がないとわかり、しばらく留まることにした。
(エイブリーにも、彼がこんなに早く帰ってしまうというのは考えられなかった。)
「二人とも!」とエイブリーの母親が大声で呼びかけた。「あと30分もすれば、晩ご飯が出来上がるわ!」
エイブリーとしては、両親も含めてみんなで晩ご飯を食べるつもりはなかった。二人でどこか、―といっても〈バーガーキング〉くらいしかないのだが、―外で食べようと思っていた。彼は立ち上がると、窓際に行って再び外を見た。さらに雪が深くなり、やはり外食なんてできそうもない。この辺りは中心街から離れているから、除雪車が回ってくるのも、かなり後になるだろう。今では、エイブリーの家の私道がどこで曲がり、どこから一般道が始まっているのかさえ見分けがつかない。ライアンが乗ってきた車がイヌイットの住居っぽく見えてきた。あるいは、巨大な亀が雪の下に埋もれているのかもしれない。
それでもエイブリーは、ライアンが早く帰った方がいいとは思わなかった。もうすでに早めに帰れるような段階ではなくなっていたともいえるが、二人とも天気予報を聞いていなかったし、彼らとしては、じきに止むだろう、くらいの認識だった。
「30分だって」と、ライアンが近寄ってきて、エイブリーの耳元でささやいた。「30分で何ができるかな?」
答え?
ライアンの手はエイブリーのお尻を触っていた。
それが答え?
キス。さまざまなキスを試す。何度もキスを繰り返す。キスを通してお互いを知る。
これが答え?
廊下を歩く親の足音が聞こえる。服は着たままの方がいい。というか、まだ服を脱ぐような段階でもない。服を着たままでも、お互いの体を感じ取ることはできた。服の繊維を通して、相手の体を触っているというありありとした感覚があり、逆に触られているセンセーションもあった。
答え?
二人にとってはもう、何をするかは、さほど重要ではないのだ。
エイブリーとライアンは、外は吹雪になりつつあることにも気づかず夢中だ。一方、エイブリーの母親は準備に余念がなかった。食料品貯蔵庫には非常食を蓄えてあり、冷蔵庫にも食料を溜め込んでいた。停電になってもいいように、キッチンカウンターにはろうそくとマッチも用意してあった。リビングのテレビからは、「ウェザーチャンネル」のナレーションが絶えず聞こえてくる。画面上の天気図に映る大きな雪雲は、東海岸の北部を覆いつくしており、今度はどの地域を襲ってやろうか、と逡巡しているようだ。
ライアンとエイブリーは、お互いの身だしなみを確認した。キッチンに向かう前に、乱れた衣服をきちんと直し合った。ちょっとくらい何かがずれていても、エイブリーの両親はそれをあげつらうようなタイプではないし、それに二人とも今は忙しかった。母親は夕食の準備に大慌てで、父親は「ウェザーチャンネル」を見入っている。窓の外を見ても真っ暗なので、テレビを窓代わりに外の様子を確認している。
「あら、あなたたち、そこにいたの?」二人がリビングに入っていくと、すかさずエイブリーの母親が言った。二人が今までどこにいたのか知りもしなかったわ、と言わんばかりだ。「今夜はゆっくりお話しできるわね。そうそう、ライアンに聞くのを忘れてたのよ。あなたはアレルギーとかあるの? 食べないようにしてる物とかある?」
「何でも食べますよ」とライアンは答えておいた。嫌いな食べ物なら100種類ほどあったが、嫌いな物を聞かれたわけではないし、「私が作ったものは何でも食べると言ったわよね」と強制的にすべてを口に詰め込まれるわけでもないだろう。
「良かったわ。チキンと、ポテトと、ブロッコリーで料理を作ったの。―これだったら無難というか、食べるのを控えてる人もあまりいないと思って。それより、問題は雪よね。高速道路は雪で大混乱だって、テレビで言ってたわ。吹雪はこれから真夜中まで激しさを増していくそうよ。ライアン、今夜は泊っていきなさい。こんな雪の中、車で帰らせるわけにはいかないわ。もしよければ、私があなたのお母さんに電話して、事情を説明してあげるから。明日だって、この分だと学校は休みになるんじゃないかしら」
エイブリーはキャッと喜びの声を上げそうになり、思わず口を押さえるが、ちょっと声が漏れてしまった。もし宇宙の大いなる存在が、この突然の事態に彼がどれほど喜んでいるかを知れば、熱風を局所的に送り込み、一瞬で雪を溶かしてしまうのではないか、と恐れたが、すぐに馬鹿な考えだと思い直した。ママには、胸のうちにしまい切れない満足感がばれてしまったようだ。エイブリーのキラキラした瞳が喜びに満ちた内面を物語っていた。
その間、ライアンの心は、エイブリーほど高くまでは、飛び跳ねるようにときめいてはいなかった。エイブリーの母親が言っていることはもっともだし、この雪の中、家に帰るのは現実的に無理だとはわかっていた。彼の両親も、そう説明すれば納得するだろう。ただ、そうすると、別の問題も生じてしまう。そもそもなぜ彼の家に行ったんだ、と聞かれるだろうし、トラブルの兆しが見えた時点で、さっさと帰ってくればよかったじゃないか、と言われるだろう。ガミガミ小言を言われたあげく、小遣いまで減らされた日には、たまったものじゃない。
「じゃあ、僕が母に電話して、途中で代わりますから」と彼はエイブリーの母親に言った。「状況を説明してください」
「任せて」と間髪入れずに返事が返ってきた。「私も母親よ。彼女も母親同士、話したいこともあるでしょうし」
ライアンは電話をかけ、母に何が起きているのかを話した。(デートという言葉は使わなかったが、)デートの予定だったのが雪で帰れなくなり、(一緒のベッドでとは口が裂けても言えなかったが、)一晩泊まらせてもらうことになった、と告げた。案の定、受話器越しに母は、エイブリーの母親と話したいと言ってきた。なんだか月面着陸の様子をスタジオで撮影している気分になった。外の吹雪さえ、自分の両親をだますための大がかりな演出に思えてきた。今晩は罪の意識に苛まれ続けること間違いなしだ。
エイブリーが母親に、ライアンの両親について何か話していたのか、話していたとすれば、どんなことを話していたのか、ライアンには想像もつかなかったのだが、エイブリーの母親は受話器を耳に当てると、さっきまでの口調から少なくとも音質つまみを3回転ひねった感じで、陽気さを上乗せして喋り出した。「あら、初めまして!」それから、深刻そうな声で、「そうなんですよ」と言った後、共感をたっぷり込めて、「それ、すっごくわかりますわ」と言った。すると、―ライアンは会話の片割れだけでも聞いていたかったのだが、―エイブリーの母親は受話器を耳に当てたまま、キッチンを出て行ってしまった。
「きっと母親同士で、僕たちの結婚の段取りでも話し合っているんでしょ」とエイブリーが当てずっぽうでコメントした。
「まさに俺が恐れてるのはそんなようなことだから、笑いたくても笑えないよ」とライアンは答えた。
エイブリーの父親がキッチンにやって来て、冷蔵庫の中からブドウを一粒もぎ取ると、口の中に放り込んだ。
「うまそうな匂いがするじゃないか」と彼が言った。
「ママにそう伝えとくよ」とエイブリーが返した。
エイブリーの父親は周りを見回し、「そういえば、母さんはどこ行った?」と聞いた。
「ライアンのお母さんと話してるよ。彼は今夜泊まるんだ」
「おお、そういうことか」エイブリーの父親はそう言うと、ライアンの方を向いた。「裏庭に空きがあるから、一人で寝てくれよ、な? たしか地下室のどこかに、上等な寝袋があっただろ。あれは防寒が優れてるから、大丈夫だ」
「パパ、なんてこと言ってるんだ。全然恰好よくないよ」
「パパは恰好つけようとしてないからな」
エイブリーの母親がキッチンに戻ってきた。エイブリーの目には、彼女がさっきより少しだけ、肩の荷が下りたような安堵感に包まれて見えた。ライアンには、自分の母親と話してきたばかりのよその家の母親、といった印象しかなかった。
「大丈夫よ。―すべて解決したわ。最初はね、ライアン、あなたのお父さんが車でここまで迎えに来るって言ってたんだけどね、―私があなたのお母さんを説得したわ。それはやめた方がいいって。きっと彼らはうちが市街地から遠く離れてるって知らないのね。まあとにかく、―最後は納得してくれたわ。ちゃんとあなたの面倒を見るって言っちゃったんだから、行儀よく大人しくしててよ。ナイフでジャグリングしたり、ビニール袋を頭にかぶせたりしちゃだめよ」(彼女は性的なことをほのめかしたつもりはなかったのだが、ライアンとエイブリーの耳には、性的な言及にしか聞こえなかった。)
「それから」と彼女は続けた。「あなたには客間を用意するって約束しちゃったんだけどね、我が家では客間ってソファーのことなのよ。ソファーがちょうど空いてて、あなたにとってはラッキーだったわね」
エイブリーはこの決定にあからさまに異議を唱えるなんて馬鹿な真似はしなかった。すでに幾重にも張り巡らされた戦略的道筋が頭に出来上がりつつあった。ライアンと一緒に眠りを共有する、そう考えるだけで抗えない興奮が湧き立ち、体が震えそうだった。
ライアンは両親に電話をかけ直すべきか考えた。謝った方がいいだろうか。それで事態は良くなるだろうか?
なるわけない、と直感が言っていた。君がここにいてくれれば幸せだ。そこではなく、ここに帰って来てくれさえすれば、幸せなんだ。両親の思いが、なぜか綺麗なメロディーに乗って聞こえた。
エイブリーが急に背中を触ってきたから、どきりとしてしまう。彼はまだ、エイブリーの愛情が手に取るように理解できるまでには至っていない。そうなるためには、エイブリーの両親と同じくらい、彼をじっくり見つめる必要があるだろう。でもそれは悪いことではないし...間違った方向に進んでいる感覚もなかった。―彼の愛情をもっとしっくり受け止められるように、これから向き合っていけばいいことだ。
そんなライアンの思いを手のひらに感じつつ、エイブリーは背中から手を離した。その時、母親が「やだー」と大声を上げた。彼女はオーブンに向かってバタバタと走っていくと、ストップボタンを押し、瞬時に扉を開いた。煙が噴き出すということはなく、彼女はほっと安堵のため息を吐いた。オーブンから香ばしい匂いが湧き立ち、鼻をくすぐった。
「さあ、ディナーにしましょ」と彼女が言った。「すっごく美味しいわよ」
食事中、ライアンは家族の様子を観察していたのだが、この家族は不思議な言葉を使って会話していることに気づいた。意地悪しようという意図はなく、ユーモアとしてやっているようだ。たとえば、—アボカドはどこ?―とエイブリーが聞いたと思ったら、母親がポテトを取ってあげたりしている。彼らは完璧に理解し合っているようだが、会話に入り込めていない部外者には、何のことかいまいち掴めない。
食事中、エイブリーはライアンの様子を観察していたのだが、どうやら彼は家族の前ではシャイになるらしい。自分から何かを言い出すことはなく、いつでも瞬時に反応できるように耳をそばだてている感じだ。エイブリーは自分の家族がおかしな会話を繰り広げていることに、痛いほど気づいていた。きっとライアンは内心小首をかしげているだろうから、聞かれれば即座に、こう説明するつもりだった。(「実は僕が8歳の時に、不幸な出来事があったんだ。当時の僕は、無性にアボカドが食べたくてね、そういう時期だったんだよ。でもアボカドは安くないし、セブンイレブンで売ってるようなものでもない。アボカドは、ママとパパには手が出せない高嶺の花みたいなものだったんだ。それで僕が『アボカドはどこ?』って言うと、ステーキを食べさせてくれた。スパゲッティの時もあったし、ホットドッグが出てきた時もあったな。」)
食事中、エイブリーの母親もライアンの様子を観察していたのだが、普段の彼がどんな感じなのかよく知らず、比較対象を持ち合わせていないため、シャイなのね、くらいしか思わなかった。
食事中、エイブリーの父親は、エイブリーがボーイフレンドを家に連れてきたという事実に頭を悩ませながらも、なんとか理解しようと努めていた。それは大きな第一歩なのだろうが、エイブリー自身がそんな大袈裟なことではない、みたいに軽く振る舞っているから、父親としては、動揺を悟られないよう胸に秘めておくしかない。
外では雪が降り続いていた。
食事が終わると、ライアンは立ち上がり、テーブルを片付け始めた。エイブリーの家族は口々に、君はゲストなんだから、そんなことしなくていいんだよ、と言って、彼を座らせようとした。しかしライアンは、いや、これくらいやりますよ、と彼らの手を跳ね除けるようにして、片付けを続けた。何らかの形で貢献したいんです、という言葉が喉元まで出かかったけれど、声にはならなかった。エイブリーと彼の両親は、そう? それなら、と折れ、お皿を洗い、すすぎ、乾かすという、いつもの流れ作業にライアンも参加させた。若干、彼のところで流れが止まることもあったが、彼はまずまず上手く作業し、打ち解けていった。このようにして、徐々に彼の中で、自分はゲストであるという感覚は薄れていった。この人たちの輪に入って、このキッチンでこうして洗い物をしていることが、自然なことのように感じられた。彼らは片付けの最中はテレビを見るのをやめ、言葉を交わし合っていた。ライアンは聞かれた質問には答えたが、彼らに対して何かを聞こうとは思わなかった。
またライアンとエイブリーの二人きりになれば、遠慮がちな態度もどこへやらで、彼の口数も増えるのだが、二人きりになる時間は、思ったよりも早く訪れた。―まだ8時にもなっていないというのに、エイブリーの両親が、そろそろ寝るわね、と言って、寝室に引っ込んでしまったのだ。「二人で映画でも見ながら、今日は早めに寝るよ」と言ってから、父親が冗談めかして、こう付け加えた。「夜が明けたら、すぐにお前たちを起こしに行くからな。家の前の私道の雪かきを手伝えよ」ライアンとしては、これだけ手厚いもてなしを受けたからには、雪かきでもして、それに報いるのが筋だろうと感じ、いいですよ、と言いかけたのだが、すかさずエイブリーが、気持ちはわかるよ、という風に片手を出して、彼の発言を制しながら、大声を上げた。「それだけは無理だから、勘弁して」
ライアンにしてみれば、自分の父親に対して、そんな風に声を上げるなんて考えられなかった。
エイブリーの父親が高らかに笑った。
「はい、はい」と母親は言って、父親の背中を押すようにして、キッチンから出て行こうとする。そしてドアのところで振り向くと、彼女はエイブリーに向かって言った。「バスルームにライアンのタオルを置いておいたから。リビングのソファーにかけるシーツもね。―あ、リビングのソファーっていうか、客間ね」すると、彼女は感慨深げな面持ちで、エイブリーとライアンの顔を交互にまじまじと見つめた。「あなたたち二人を信頼するわね、いい? 映画のPG-13と同じで、親が子供の判断を信用して、目を離すんだからね。あなたたちはまだ知り合ったばかりなんだから、―」
「わかってるよ!」エイブリーが顔を真っ赤にして、声を荒げるように割って入った。「PG-13だろ」
(ライアンとしては、穴があれば入りたい気分だった。)
「ならいいわ」とエイブリーの母親は言った。「私たちはちゃんと理解し合ってるのよね」それから、彼女がまっすぐにライアンの目を見てきた。ライアンは照れ臭さを振り払って、どうにか彼女の目を見返した。「これだけは覚えておいて。あなたのお母さんに、あなたは客間で寝るって約束しちゃったの。だから、ちゃんと客間で寝てちょうだいね」それから彼女はエイブリーの方を向いた。「だけど、私はあなたがどこで寝るか、については約束しなかったのよ。私はあなたたち二人の判断を信用してるから...ごゆっくり」
「ママ! だから、わかってるって!」
エイブリーの母親がにっこりと微笑んだ。「外に行くなら、お願いだから、ブーツを履いて行ってちょうだいね」
二人はまず、外には出ずに、リビングルームに向かった。そうすることが、親から期待されている行動であるかのように、彼らはリビングのソファーに腰をかけると、並んで「ウェザーチャンネル」を無言で凝視した。人工衛星からの映像が雪雲の行く末を示している。エイブリーはリモコンを手に取ると、横を向いて、ライアンに「何を見たい?」と聞こうとした。すると、ライアンはすでに見たいものを見ていた。彼の視線を追うと、壁に貼ってあるエイブリーと家族の写真に行き当たった。エイブリーがまだ小学校3年生か2年生くらいの頃、家族でディズニーランドに行った時の写真だ。エイブリーはミッキーマウスの耳をつけていて、グーフィーの顔真似をしているわけではないだろうが、はっきり言って、間抜けな表情をしている。誰かに頼んで撮ってもらったのだろうか、家族三人が写真のフレームに収まることによって、家族らしさを維持しようとしている感じもする。―エイブリーは両親に挟まれて、ぎこちなく半笑いを浮かべている。
「こういうのってありきたりだよね」と彼は言った。「頼むから剝がしてくれっていつも言ってるんだけど、うちの親は僕をからかうのが好きだから」
「俺は好きだよ」とライアンが静かに言った。「楽しそうだし」
相手の発言を聞くことによって、その人のことを知っていくものだが、この時、エイブリーは、その7文字、7文字の短いつぶやきを聞いて、ライアンの過去の長編を知った気がした。ライアンはきっと、ディズニーランドに一度も行ったことがないのだ。おそらく、ディズニーランドのような遊園地にはどこにも行ったことがないのだろう。ライアンの人生には、そんな場所へ行くという脇道や寄り道は用意されていなかったってことか。こんな写真、見るだけで恥ずかしいよって思っていたけれど、ライアンにとっては、恥ずかしさ以前の話で、新鮮なのかもしれない。ライアンに対して、気を遣いすぎるのもどうかと思うけど、もう少し彼の気持ちに寄り添ってもいいのかもしれない。
「楽しかったよ」と彼は認めた。「あの時、すれ違う人たちが、ことごとく『可愛いミニーちゃんだねぇ』って言うから、訂正ばかりしていたよ。『頭にリボンなんてついてないでしょ? ボクはミッキーだよ』って」
ライアンが手を伸ばし、その写真を手に取った。
「でも、君はミッキーよりずっと可愛いよ」
エイブリーが笑った。「そう? ありがとう!」
二人はもはやその写真に注目していなかった。今、彼らはお互いの手を見つめ、指を絡めるようにして、手のひらを重ねた。穏やかな温もりが、重なった手を震源として、じんわりと二人の体に広がった。つながっている、という安らぎだった。
その心地よい安らぎの中に、二人はそれぞれ、小さなショックに似た驚きを感じた。自分が自分であるために闘わなければならない時、自分の中の一部がどうしても、何らかの交換条件があるはずだと考えてしまうものなのだ。そして、これまで自分が標準だと思ってきた道から外れるということは、標準的な幸せからも身を引くことになるかもしれない、とリスクにおののいてしまう。相手が自分を愛してくれることを望み、そのためにはもっと懸命に闘っていかなければならないと感じ、それにふさわしい自分になるためには、さらなる孤独に耐えていかなければならない、と覚悟を決める。
それでも。
大抵の場合、その小さなショックによって、闘争心は、するすると糸がほどけるように緩んでいく。リスクという外膜がばらばらと剝がれ落ちていき、繭がパカッと開かれるように、ありのままの自分が顔を出す。その自分を目の前から見てくれている、目だけでなく、肌を通して感じてくれてもいる。この感覚。孤独の殻を破って、完全に独りではなくなった瞬間だった。この感覚に到達しようとしてきたんだ。そして今、やっと辿り着いた。
エイブリーは目を閉じると、ライアンに体を預けるように寄りかかった。ライアンも目を閉じ、エイブリーに体を預けた。数分間、二人は一体となり、それぞれの人生の道が一本に合流するような感覚に浸っていた。両親の寝室から、何かのテレビ番組の音がかすかに聞こえていた。外では、妖精が雪の上を歩き回り、小さな足跡をつけていた。エイブリーはライアンの呼吸を感じることができた。ライアンは目を閉じていたが、ソファーの上で重なり合う二人の姿が見えるようだった。肩の辺りにエイブリーが顔をうずめてくる感覚があり、その様子をライアンは心の目で俯瞰するように想像していた。
すると、ライアンの手がぎゅっと握られ、引っ張られる感覚があり、思わず目を開けてしまう。半身を起こしたエイブリーが、こちらを見て、にこにこ微笑んでいた。
「外」とエイブリーが言った。「せっかくの雪だし、外に出てみようよ」
・・・
エイブリーがかつて履いていたブーツを何足か試してみたけれど、ライアンの足は入らなかった。仕方なく、靴入れの一番下の段に置かれていたエイブリーの父親のブーツを借りることにした。(エイブリーは、絶対に怒られないから大丈夫だと請け合った。)二人はお互いの体をいたわるように、身支度を整えた。―エイブリーはライアンの首にマフラーを熱烈な勢いで巻いていき、ライアンは部分的にミイラ化した。ライアンは、俺がやってやるよ、とジャンパーのチャックを自分で上げようとしているエイブリーの手をどけ、エイブリーの首元までチャックを上げると、頭にジャンパーのフードをかぶせた。ライアンはすぐに手を下ろさず、そのままエイブリーの頬を指で撫でるようにしている。そして...チャックを上げる時からキスに至るまで、計ったかのように滑らかな流れだった。
すべての道が消えていた。―家の前の私道も跡形もなく消えている。一歩外に足を踏み出すと、澄み切った静寂と白い闇に包まれた。雪はまだ降ってはいたが、後から思い付いて補足説明している感じで、余韻を楽しむように、はらはらと舞っているのみだ。
エイブリーは手袋をはめた手で、同じく手袋をはめたライアンの手を取ると、引っ張るようにして庭に入っていった。ライアンは一瞬、通りの向こうで夕方塩を撒いていた人に見られるのではないか、あるいは他の隣人が薄闇のどこかから見ているのではないか、と気になったが...そういう考えは一旦忘れることにした。まっさらな雪を一歩一歩踏みしめるごとに、ブーツが雪の表面から沈んでいく感覚に集中し、頬に当たる繊維状の雪の冷たさに酔いしれた。ミトン越しにエイブリーを感じ、それから、自分を取り巻く静寂の深さに染み入った。そこは車のない世界だった。翌朝にセットされたアラームもない世界。
エイブリーは手を離し、先へと駆け出した。ある衝動を抑えることができなかった。―雪が完璧な状態で目の前に広がっていて、どうしても手を出さずにはいられなかったのだ。ライアンは周りの世界に浸っていたため、エイブリーが何をしているのか気づくのが遅れた。はっと気づいて、自分も近場の雪を掬い取ろうと手を伸ばした時には、すでにエイブリーは雪玉を完成させていた。エイブリーはライアンの顔に狙いを澄まし、雪玉を投げた。
命中。
ライアンは反撃に出たが、エイブリーはさっと身をひるがえし、雪玉をかわす。そのまま、ひねった体の動力を利用するように雪を掬うと、手早く雪玉を作り、すかさず投げた。またしてもライアンの体に当たった。ライアンは多めに雪をかき集め、大玉を完成させると、確実に仕留めるために至近距離に移動してから、大玉を放った。エイブリーは身をよじってかわそうとしたが、完全にはよけ切れず、肩口にくらってしまった。お互いに次々と雪玉を作っては投げ合った。庭にはどんどん二人の足跡ができていった。
最終的に、ライアンがもうたまらないというように、エイブリーにタックルをしかけると、二人は雪の上に倒れ込んだ。コートの厚みのせいで、枕ごっこをしているようだった。二人の少年が枕に扮して、ごろんと寝転んだ感覚。雪のクッションにより倒れた衝撃は緩和され、ふわっと視界が天空を向く。エイブリーは自身の上にのしかかったライアンをかいくぐるように抜け出そうとしたが、気が変わり、力を抜いた。雪の中で仰向けに横たわると、真上のライアンの顔を見つめた。眉毛が雪で白くなり、頬は寒さで赤く染まっている。そのまま吸い込まれるように、キスをした。
ライアンがごろんと彼の隣に横たわった。二人並んで空を見上げる。空の闇から突然目の前に現れる雪片が、次々と顔に降りかかってくる。無数の星が降ってくるようだ。ライアンの頭はエイブリーの頭の隣にあり、ライアンの腰はエイブリーの腰の隣にあった。エイブリーは左足を右足の上に重ね、一本足の形にした。ライアンもエイブリーを真似て両足を重ね、一本足を作った。ライアンの左の手袋が、エイブリーの右の手袋をさぐり当て、その手を握り締める。それから、3つ数えながら、ライアンは右手を、エイブリーは左手を広げた。二人で一人の大きな天使となり、カウントダウンとともに翼を広げ、星が舞い落ちてくる白い空に飛び上がった。
「ここに向かってる時は、こんなことをやろうなんて思いもしなかったよ」とライアンが言った。雪が降ってこなかったら、今頃、家に向かって車を運転していただろうな。
「だろうね」とエイブリーはささやいた。
ライアンはジーンズに雪が染み込み、足がひんやりするのを感じた。鼻もムズムズして、鼻水が垂れてきそうだ。ライアンは帽子をかぶり、マフラーも巻いていたが、それでもコートの襟の隙間から、首の後ろに冷たい空気が入り込んで来る。とはいえ、彼はそこから動きたくはなかった。
エイブリーは、目の周りに積もった雪をどけるように、パチクリとまばたきした。そして、耳を澄ましてみた。雪たちが会話する(かすかな)音が聞こえ、もっと耳を澄ますと、木々が会話する(さらにかすかな)音が聞こえた。それから、二人のジャケットがこすれ合う、シャカシャカという音もわずかに聞こえる。
「この世界には今、僕たち二人しかいないんだ」と彼は言った。
「そうだな」とライアンも同意した。
二人は足を動かし、天使の足を崩した。翼も引っ込めた。二人は体を傾け、互いに顔を見合わせた。彼らが体を動かすと、雪の表面がそれに倣って変形した。世界の形がそっと変わったのだ。二人は、その変化をはっきりと自覚していたわけではなかったが、それとなく感じてはいた。
ピンクのメッシュが入った髪が、エイブリーの帽子の下から覗いている。濡れたブルーの髪が、ライアンの顔の側面にくっついて、右目の周りでカーブしている。ライアンはもう一度エイブリーにキスしたかったのだが、鼻水が垂れてきて無理だった。エイブリーは目の前の男の子を見つめながら、静寂の声に耳を傾けているだけでハッピーだった。
二人は雪の中でじっとしていた。
雪がジーンズの中にジトッと染み込んできた。コートと帽子の上に雪が積もっている。ライアンは手袋で鼻水をぬぐい、その手袋を雪でぬぐった。
「これってもしかして」とエイブリーが言った。「人が低体温症で死ぬ時って、こんな感じなんじゃない?」
その言い方は彼の母親にそっくりだったが、彼自身は気づいていなかった。ライアンはそれに気づいて、微笑ましく思った。
「そろそろ現実の世界に戻る時だな」とライアンが言った。
「いや」とエイブリーが訂正した。「ここも現実の世界だよ」
そうか...な? ライアンは現実味のない世界の中で、一度自分の胸に聞いてから、「そうだな」と疑念を振り払うように言った。
エイブリーが先に立ち上がり、手袋をはめた手を伸ばしてライアンを引っ張り上げる。ライアンは手助けなしでも起き上がれたのだが、差し出されたその手をしっかりと掴んだ。
ライアンはエイブリーに片手を引っ張られている隙に、もう片方の手で雪を掴むと、雪玉状に丸めた。エイブリーは気づいていないようだ。
二人は雪を投げ合いながら、家の中に駆け戻った。家自体が暖炉のように感じることなど、こんな時しかないだろう。エイブリーもライアンも、自分たちがどれほどぐっしょりとずぶ濡れなのか、正確には把握していなかった。ドアを閉め、上着を剝ぎ取るように脱ぐと、ブーツから足を引っ張り出した。中のシャツは上着に守られ、―多少、汗ばんではいたけれど―それほど濡れてはいなかった。しかし、ジーンズと靴下はぐちょぐちょに濡れていた。
「ズボンを脱がしてあげるよ」とエイブリーが嬉しそうに言った。二人ともつい笑ってしまう。現時点では、ポルノタイムに突入したいという願望はどちらにもなかった。まあ、最終的には、そうなることを望んではいたけれど、今はまだそういう気分ではなかった。
エイブリーとしては、好奇心をそそられなかったわけではなく、これまでにチラッと見てきたライアンの裸体を、思い返すように頭に浮かべていた。
ライアンとしては、性的にそそられなかったわけではなく、ズボンを下ろしたい誘惑に駆られた。自分の両親から遠く離れ、どんな制限からも解放されている。そこで、自分が穿き古した、萎びたようなブリーフを穿いていることに気づき、見せるのがためらわれた。しかも、静かすぎるのも気になる。この静寂の中でズボンのチャックを下ろしたら、シャーッという音が家中に響き渡り、エイブリーの両親が何事かと飛んでくるのではないか。
「すぐに戻ってくるから」とエイブリーは言うと、走って、ガレージ横の小さなランドリールームに向かった。乾燥機が乾燥を終えていたことに、ひと安心し、中に入っていた父親のスウェットパンツと自分のジーンズを取り出した。すぐに、彼はその乾いたジーンズに履き替え、乾燥機に入っていた他の衣服も取り出し、中を空にすると、ぐっしょり濡れたジーンズと靴下を突っ込んだ。それから、裸足でライアンの元に駆け戻ると、乾いたスウェットパンツを差し出した。そしてバスルームを指差して、「そこにタオルがあるから使って」と言った。今度はライアンが「すぐに戻ってくるから」と言う番だった。彼はつま先立ちで廊下をそそくさと進んでいった。
二人は5分も離れてはいなかったが、引き裂かれたような切なさを感じ、それぞれが待っている間、家の中の別の部屋にいる相手の気配に思いを馳せていた。バスルームでは、汗の足跡が床につかないようにまず足の裏を拭いてから、ライアンは腕時計を見た。針が10時半を差していて、思わず目を見開いてしまう。ただ、自分が何に驚いたのかよくわからなかった。まだ10時半なのか、もうこんなに遅い時間なのか、雪に閉じ込められた夜の中では、どちらも同じことのように思えた。
ライアンがリビングに戻ってみると、エイブリーがソファーの背もたれを倒し、ソファーをベッドに変形していた。少しの間、ライアンはドアのところでその様子を見守っていた。エイブリーはベッドにシーツをかけると、全身をベッドの上に投げ出すようにして、四隅に手を伸ばし、伸縮性のあるシーツをなんとか引っ掛けようとしている。ライアンは濡れた衣服を下に置くと、シーツ張りに手を貸すことにした。
「こっち」と彼は言った。
エイブリーは広げたシーツの一方を、ライアンに向かって投げた。実際のところ、ライアンはベッドメイクなんてしたことがなかったし、しないで済むなら、したくなかったのだが、―このソファーで寝るのは自分だし、ちゃんとした方が良いだろうと思った。そこで、二人でソファーを挟んで立ち、シーツの表面を伸ばすように両側から引っ張りながら、四隅に引っ掛け、表面を撫でるように平らにした。
次に、毛布も同様に、二人のチームワークでふわっと上にかけた。
この毛布は親戚とか、珍しいゲストが泊まりに来た時にだけ出されるので、エイブリーの目に触れることはめったになかった。
最後に枕が置かれ、寝床が完成した。エイブリーはベッド越しにライアンを見つめた。すぐにでも、ベッドを這うように乗り越え、ライアンの腕を引っ張り、自分たちでまっすぐに整えたばかりのシーツの上になだれ込んで、シーツがめちゃくちゃになるまで乱れたかった。
しかし、ライアンはそのシグナルを受け取らなかった。彼はじゅうたんの上に濡れた衣服を置いてしまったことに気づき、再びそれを持ち上げると、どこに置いたらいい? とエイブリーに聞いた。
「僕が持っていくからいいよ」とエイブリーが答えた。
「いや、いや、大丈夫。―場所を教えてくれれば」
「じゃあ、こっち」
エイブリーはライアンをランドリールームまで案内し、さながらホテルのドアマンのように、こちらです、と乾燥機の蓋を開けた。ライアンは感謝の意を表すようにお辞儀をしてから、自分のジーンズと靴下を、すでに入っていたエイブリーのジーンズと靴下の上に投げ入れた。エイブリーがいくつかのボタンを押すと、二人の衣服は一緒くたになって回転し始めた。
「さて、どうしよう?」とエイブリーは、今二人でベッドメイクしたばかりのベッドの上に戻ろう、という返答を期待しながら、聞いた。
「君の部屋が見たいな」とライアンは答えた。君の部屋がどんな感じなのか知りたい、と言っているのだ。そしてそれは、もっと君を知りたい、という意味の婉曲表現でもあった。
「オッケー」と言うエイブリーの声には、若干がっかりした声音が混じっていたのだが、ライアンにはそこまで聞き取れなかった。でもそれは良いことだった。もしライアンがその微妙な失望感を感じ取っていたら、そのまま失望されたと捉え、その裏にある熱い感情に気づかなかっただろうから。
部屋に入ると、エイブリーはライアンがとりあえず座り、しばらくくつろぐのだろうと思ったのだが、ライアンは立ったままで、部屋中のあらゆるものを見回している。
「この部屋にある物の中で、一番見せるのが気恥ずかしい、誇れる物は何?」とライアンが聞いた。言ったとたん、ライアンは自分が何を聞いているのか、その意味不明な質問に首をかしげてしまう。しかし、エイブリーはその意味を察してくれた。
「これかな」と彼は言うと、本棚の前に向かい、段の一つを指差した。そこには、ピンクのユニコーンのぬいぐるみが置かれていて、ユニコーンが守っているかのように、その後ろに、『ビバリー・クリアリー全集』がずらっと並んでいた。「このユニコーンはグロリアっていって、彼女は、疑いようもなく、小さい頃からずっと、僕の親友だった。一時も離れることなく、いつも一緒だったよ。前はもっと明るいピンクだったんだけど、今の彼女は、円熟味を増した感じかな。まあ、僕も前はもっと輝いていただろうけど。うちの両親は、彼女の何がそこまで熱く僕を好きにさせるのか、不思議がっていたよ。彼らからすると、僕にはもっと高みを目指してほしかったみたいだね。このユニコーンは、簡単に住める低層アパートみたいなものだから、親友を見つけるなら、もっと高層階を目指しなさいって。彼らには知る由もないけど、僕には話し相手が必要だったんだ。毎日のように話し合っているうちに、彼女が僕の内面にぐっと入り込んできてね、いつしか自分の一部みたいになっていた...たとえ姿形はユニコーンでもね。でもねえ、うちの両親は多くの先入観を捨てる必要があるよ。そこは、多くの新たなことを取り入れる必要がある、と言っても同じことだけど、とにかく、僕たちはみんなそうしてるんだから。君もそうだし、僕もそう。僕たちはみんな、常に更新を繰り返しているんだ」
ライアンはエイブリーに歩み寄り、目の前に立った。「今まさに、未知の領域に足を踏み入れたよ」と彼は、エイブリーが話していたこととは違う意味合いを乗っけて、言った。あらゆることは忘れることもできるし、新たに身につけることもできる。本当に難しいのは、―本当に厄介で恐ろしくて、そして素晴らしいことは、好きな人と一緒に同じ部屋にいて、相手に投げかける正しい言葉を見つけようとしているこの瞬間なんだ。相手の体をどう正しく扱えばいいのか、どうシグナルを送ればちゃんと伝わるのか、伝えたいことはたくさんあって、こんなにも意味で溢れているってことを伝えようと、必死で考えているこの瞬間こそ、大事な更新の時なんだ。
エイブリーはユニコーンを手に取ると、彼女の角をライアンの鼻にチョンと触れさせた。ライアンが思わず笑い声を上げる。
「彼女が気に入ったって言ってるよ」とエイブリーが彼に断言した。
僕たちは愛すべき人を見つけ、その人を見つけることで、自分に愛する能力があることに気づく。
ほとんどの場合、―というか、例外なくいつも、―僕たちは自分の能力に無自覚なのだ。
一つの部屋で二人の少年がキスしている。
一人が唇を離し、ユニコーンのぬいぐるみを学校に持っていった時の話を始める。
もう一人は、ユニコーンの模様が入ったヘアブラシについて話す。彼はそれをフォルダーに入れてベッドの下に隠さなければならなかった。それが親に見つかった時、彼は、それは同じクラスの女の子のもので、彼女とペアになって共同の課題をやったんだけど、その受け渡しに使ったフォルダーに彼女のブラシも入っていたんだ、と説明した。それは本当のことだったが、課題が終わった後も、彼がそれを長らく隠し持っていた理由にはなっていなかった。
二人の少年は、ユニコーンと両親について話し、先生と星の形をした消しゴムについて話した。二人は、いけないと思いつつ、ついやってしまう快楽について、あれこれ例を挙げて話し、この中に本当にやってはいけないことってあるかな? と話し合った。そして、ないね、という結論を導き出せて、二人とも満足感に浸っていた。
彼らは、洗濯や、就寝時間や、外の雪について忘れていた。
もうすぐ真夜中の12時を回ろうとしていたが、時間も気にしていなかった。
・・・
最初にあくびをしたのはエイブリーで、それを見た瞬間、ライアンの中でも何かが誘発され、彼もつられてあくびした。
二人してあくびをした時、二人はエイブリーのベッドを背もたれにして座っていたのだが、最終的に寝るべきベッドは、この部屋のベッドではないことはわかっていた。そういう約束だったし、それに、リビングのソファーベッドの方が大きかった。
エイブリーの母親は、ストックしてあった歯ブラシをライアンのために出しておいた。それは彼女が歯医者に持参する用で買い置きしてあったものだった。それで、彼らはバスルームの流しの前で二人並んで歯を磨いた。二人同時に口に水を含んで、クチュクチュペッと吐き出した。これは二人にとって初めての体験で、二人がお互いに親密さを実感した瞬間でもあった。そのような日常的な行為こそ、親密になるには重要で、大した行為ではないが、むしろ大したことではないゆえに、大きな喜びをもたらしてくれるのだ。
一緒に寝ようか、別々に寝ようかといった話はせずに、二人は自然な流れでソファーベッドに向かい、並んで寝る体勢に入った。ライアンはこうなる確信があったわけではなかった。エイブリーもライアンが今夜こうなりたいと望んでいるという確信はなかった。二人とも不確かさを胸に抱えていたことになるが、それは、両者が胸のうちではそう望んでいたことを意味し、ほとんど実存的な欲求を示していた。二人は並んで横たわっていたが、雪の中とはまた違う感覚だった。彼らの間にはいくつかの層があり、それらが二人を隔ててはいたが、それは薄い膜のようなものだった。二人はお互いを引き寄せるように、キスをした。そのまま唇を離すことなく、いつまでもキスし続けた。そうして段々と、接触面が熱を増していった。もちろん口でキスしているわけだが、接触しているのは口ばかりではなく、手や、皮膚や、呼吸さえも重なり合い、熱を帯びていった。ライアンはエイブリーの腰に手を伸ばし、彼の体をぐっと引き寄せた。エイブリーはライアンの背中に手を伸ばして、彼の体をぎゅっと抱き締めた。二つの体は一つに溶け合い、融合したような一体感を全身で感じていた。服を脱ぐ必要はなかったし、一線を越える必要もなかった。これがすべてだった。お互いを限りなく間近に感じているこのセンセーションこそがすべてで、この感覚をとめどなく生み出している接触面に感じ入っていた。
いつしか、緩やかに熱が下がっていった。軽いタッチに落ち着いていき、二人はそっと寄り添うように寝そべった。相手の呼吸音が聞こえた。鼓動も聞こえる。心臓が鳴るごとに、体中に血液が広がっていく様を思い浮かべていた。熱は和らいでいったが、余熱は完全に消えることはなかった。
二人の吐息が宙をさまよい、眠気が接近してきた。ライアンが睡魔と戦っている様子を、エイブリーは観察していた。彼の目が閉じたり、開いたりして、錨を失った船のように、海面を行ったり来たりしている。エイブリーは彼に、おやすみ、と言った。ライアンは微笑むと、エイブリーの体を抱き締めるようにして、おやすみ、と返した。そのまま、ライアンは眠りに落ちた。―優しさに満ちた落下だった。
エイブリーはそんなにすんなりとは眠れなかった。今、自分の身に降り注いでいる状況について考える必要があった。一度自分の中で整理して理解してからでないと、楽しめないたちなのだ。それで彼は、青く暗い闇の中でライアンを眺めた。彼の胸が上がり下がりを繰り返している。尋常ではないほど精巧に作られた機械みたいに見える。どうしてこうなったのだろう? エイブリーは自問する。こんなことが実現するなんてありえるのか? ここは彼がよく知っている部屋で、両親はここで起きていることは意に介さず、別の部屋で眠っている。外では雪が降り続いていて、そうだ、それがライアンがまだここにいる理由なんだ。全部雪のおかげなんだ。まだ知り合ってからそんなに経っていない人が真横で寝ている。これからこの人の体にリボンを巻き付けるようにして、色々な概念を結び付けていくのだろう。突然、自分を取り囲む世界から、陰謀めいた力が消えた。そっか、宇宙は元々、自分の味方だったのか。背中をそっと押してくれる優しい力を感じた。これから個人的な平穏を見つけ、どこまでもバージョンアップしていける。このふしだらな宇宙が味方してくれるんだから。
エイブリーの頭の中で、これらの概念が言葉に変換される。僕は君が心から好きだ。うまくいってほしい。まだ信じられないけど、目の前の現実を信じたい。これは現実なんだ。これはリアルなんだ。
こんな風に言葉が頭を巡っていたら、眠れるはずがない。そんな時は待つしかないだろう。ゆっくりとクールダウンし、いつしか回転が鎮まるまで。
それまでの間、隣で眠る人を見つめ続ける。そして、その人を通して、自分自身も見つめ続ける。
これは証明もできないし、眠りながら外に行って確かめるわけにもいかない。そもそもこんなこと考えることすらないだろうが、実際、エイブリーが眠りに落ちた瞬間、雪も止んだ。
・・・
夜が明ける直前、ライアンは外の通りを近づいてくる戦車の音を聞いた。寝ぼけまなこで最初に頭に浮かんだのは、とうとう宇宙からエイリアンが襲撃してきたのか、という考えだった...しかし、だんだんと遠ざかっていく音を聞きながら、それは戦車ではなく、道路に積もった雪を削っていく除雪車だとわかった。
さっさと行ってくれ。と彼は思った。雪はどけなくていいから。
そうして、ライアンがこの家で最初に目覚めることになった。見慣れない天井、部屋、ベッドに囲まれ、方向感覚が混乱をきたす。―目の横、ほんの10センチのところにピンクの髪が見えた。頭を横に向けると、隣で柔らかな体が眠っていた。―きっと夜中、寝ている間に手を伸ばし、腕を回してきたのだろう。エイブリーの腕がライアンの腕に巻き付く形で、重なったまま力を失っていた。
室内の空気は、外から差し込む光だけに照らされ、雪の色に染まっている。ライアンは立ち上がると、窓のそばまで行き、カーテンをめくって外を見た。真っ白な景色が広がっていた。見渡す限り、雪の毛布がかけられ、彼が乗ってきた車もかまくらと化している。窓枠の上からはつららがいくつも垂れ下がり、何本かは剣のように長く尖っている。
「まだ雪降ってる?」とエイブリーが背後から聞いてきた。
「もう止んでる」とライアンは振り返りながら答えた。エイブリーがゆっくりと起き上がり、ぐっと両腕を上げて体を伸ばした。―この世界に生まれ落ちたばかりの赤ん坊のように、体が動くことを確かめているみたいだ。毎朝目覚めるたびに、こうやれば腕が動くのか、と体の機能を確かめているようで、なんだか微笑ましい。エイブリーのピンクの髪には鳥の巣のような寝ぐせがついていた。目はしょぼしょぼで、頬には枕カバーの縫い目の跡もついている。それでも、ライアンは彼を愛おしいと思った。淡い朝の日差しが包む寝起きの、生まれたてのエイブリーに、強烈に引き寄せられる。―性欲? そうかもしれないね。だけどそれだけじゃない。もっと深い感情、愛情、―何と呼んでもいいけれど、彼を大切にしたいと心の底から思った。
「スノードラゴンを作ろう」とエイブリーが、半分目を閉じたまま、ぼそぼそと言った。
ライアンは一瞬何を言われたのか理解できず、「何?」と小声で聞き返した。―エイブリーがかなり眠そうだったので、もう一度寝直すのなら大声は出さない方がいいな、と思い、小声にした。
「雪の竜だよ」とエイブリーが、もっとはっきりと言った。目はまだ開き切っていない。「君の地元でも、雪でドラゴンを作ったでしょ?」
「いや、見たことないな」とライアンは正直に答えた。
「それじゃあ」とエイブリーがしっかり目を開いて、言った。「見せてあげるよ」
二人は起きたままの服装でランドリールームに向かうと、乾燥機から昨夜のジーンズを引っ張り出した。ライアンは寝間着代わりに穿いていたスウェットパンツの上から、ジーンズを穿いた。昨日の靴下を足に戻し、ブーツを履き、手袋を装着すると、昨夜と同じ格好に戻った。
外は明るく輝いていて、昨夜の静寂が夢のように、騒がしい朝だった。―水が滴り落ちる音がそこかしこでリズムを刻み、近所の家々で雪かきをしているシャカシャカという音が不規則に鳴り響く。エイブリーが目を凝らすと、うっすらと昨夜二人で走り回った足跡が見えた。二人で寝そべって作ったスノーエンジェルの跡も、―その後に降った雪で半分埋もれてはいたけれど、―天使が飛び立った後の抜け殻のように、ちゃんと残っていた。
雪を一箇所に集めた。せっかくの真っ白な幻想世界を壊さないように、なるべく表面から雪をかき集め、土や草が顔を出さないようにした。雪がこんもりと一つの山状になったら、そこから二人で形を整えていった。まずドラゴンの胴体を形作り、そこから首を生やすように雪をつなげて頭を作った。翼は難しかったので、地面に翼を休めている形にして、尻尾も付けた。通り掛かった人が見たら、何を作ったのかわからないかもしれないな、と思ったけれど、エイブリーの母親が窓から顔を出し、室内の父親に向かって言った。「ほら見て、あの子たちがスノードラゴンを作ってるわ!」
誰もが知っているように、雪で作られたものは、そのうち溶けて消える運命にある。
しかし、雪を手で掴んだ感触は覚えている。雪を手で叩きながら、どんどん固めていった時の感触はしっかりと記憶に刻み込まれたのだ。外に出た瞬間のセンセーション、ドラゴンの形に近づけていく工程、その一部始終をちゃんと二人は覚えている。
だから、雪が溶けてしまった後も、二人のドラゴンはいつまでも消えることはない。
・・・
その後、ライアンは父親からのメールに気づいた。もう道路は車が走れる状態だから、家に帰ってこい、という内容だった。ライアンは既読だけ残して、返信せずにスマホの電源を切った。そのうち、ライアンの母親が電話をかけてきて、エイブリーの母親に同じ内容を告げるだろう。そうしたら、ライアンと、エイブリーと、エイブリーの両親、4人で2つのシャベルを順番に回しながら、ライアンの車を掘り起こし、公共の道路に出るまでの私道の雪かきをすることになる。でも、それはランチを食べた後のことだ。その前にエイブリーの寝室に行って、ひとしきりキスをしよう。それから、二人で作り上げた芸術作品を二人で挟む形で、写真を撮ろう。
このスノードラゴンを作っている間、二人は言葉を交わしていたが、スノードラゴン自体については何も話さなかった。エイブリーはライアンにどのような形にするかという指示は出さなかったし、ライアンも、竜のうろこの模様をどうするか、などという提案はしなかった。二人は手袋を取ると、竜の肌にじかに指を立て、無言の呼吸でうろこの模様を描いていった。エイブリーは前にも竜を作ったことがあったが、それはどうでもよかった。ライアンは初めての経験だったが、それも重要ではなかった。二人の共同作業で作り上げた、この世に一つだけの作品は、エイブリーが一人で作っていたら、こうはならなかっただろうし、同様にライアンが一人で作っていても、このような形にはならなかっただろう。完成品を眺め、もうどの部分をどちらが作ったなどとは言えないほどに、切れ目なく混ざり合った二人の共同作品は、とても二人らしい雪像だった。
いつか、この時の写真を指差しながら、彼らは言うだろう。これが二人で一緒に作り上げた最初のものだった、と。
この後、彼らは有形無形のものを次々と二人名義で作っていくことになるが、この雪の日から始まったんだな、と。
了
〔感想〕(2020年8月29日)
あ~、最後まで殺人事件が起こらなかった~~!爆笑
廊下の先には、両親の寝室や、バスルームがあります。
あと、はっきりとは書かれていませんでしたが、エイブリーは女子です。(もちろん、愛し合っている二人には性別は関係ありませんが。)
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