『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』5

『My Almost Flawless Tokyo Dream Life』 by レイチェル・コーン 訳 藍(2020年01月26日~)


〈登場人物の紹介〉

エル・ゾエルナー:16歳になったばかりの女の子。水泳が得意。

レジー・コールマン:2歳年上の男の子。かつてYMCAの水泳チームでエルと一緒だった。来年の1月から軍隊に入る。同じ学校のカルメン・ロドリゲスと付き合ってるっぽい。

ママ:現在、服役中。

マサおじさん:ケンジのいとこ。

ケンジ・タカハラ:エルの父親。〈タック・ラグゼ〉のオーナー。野球が得意。ジョージタウン大学に留学中、レストランのウェイトレスをしていたエルのママと知り合い、恋に落ちた。

ノリコ・タカハラ:ケンジの母親。影の女帝。

キミコ・タカハラ:ケンジの妹。ハーバード卒。

エミコ・カツラ:ケンジの秘書。エルの世話係。日本の大学を卒業後、ハーバードの大学院でMBAを取得。

デーブ・フラーハティ:〈タック・ラグゼ〉で働いている。

アケミ:1歳年下で、シャイな女の子。〈タック・ラグゼ〉に住んでいる。家族関係が超複雑。バイオリンが得意。

タケオ・キノシタ:アケミの父親。

リュウ・キムラ:水泳が得意な細マッチョ。親がヤクザという噂。村上春樹が好き。ウクレレが得意。

アラベラ:リュウの元カノ。リュウに振られ、傷心してボリビアに帰国。


〈エックス・ブラッツのメンバー〉

イモジェン・カトウ:母親が世界的デザイナーのシャル・カトウで、父親が彫刻家のアキラ・カトウ。

ジャンビ・カプール:赤のメッシュが入った長い黒髪のインド人。フィールドホッケーが得意。

ヌトンビ・アマティラ:髪の毛をビーズ状にして細く編み込んでいる黒人。母親がナミビアの大使。両親が厳格。

オスカー・アコスタ:黒髪でオリーブ色の肌をしたイケメン。アラベラの双子の兄。

ニック・ズホノフ:気取り屋で藍色の瞳をしたイケメン。北欧出身のスラブ系で、丸刈りに近い短髪。父親がアレクセイ・ズホノフ(スマホのマイクロチップ開発者)。エルに気があるっぽい。からの、エルのファーストキスの相手。


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チャプター 25


私はあなたを好きだけど、あなたとキスしても、私の心は震えなかったの。そう伝えたいんだけど、何か良い方法あるかしら?

海洋科学の授業中、長方形の長テーブルにニックと私は並んで座っている。教室の前では先生が海水のさまざまなサンプルを示し、それぞれの温度、塩分濃度、透明度、密度、圧力を測っていた。ニックはさっきから、私の横でしきりに体を押し付けてくる。これではまるで、二人でこそこそと内緒話でもしてるみたいじゃない。

私は授業に集中してノートを取ろうとしていたんだけど、ニックが私の手の上に彼の手を乗せるようにして、私のノートの空いているスペースに文字を書いてきた。この授業、かなり退屈!

授業に関しては私も同じ意見だった。でも今は、私のすぐ隣に座っている男子の大きな体ではなく、なんとしても授業に意識をもっていきたくて、私は彼の手の下から、私の手をすっと抜いた。

この週末、私はニックとキスしたなんて、まだ信じられない。というか、もっと正確に言うと、彼が私にキスしてきたことが信じられない。私は唇を合わせましょうって彼に無言の合図でも送ったのかしら? 送ってないとも言い切れないし、彼が無理やりキスしてきたって感じでもなかった。でも、不意を突かれたのは確かね。私は彼に迫られて嬉しい気持ちもあったし、好奇心をそそられたというのもある。みんなと過ごしていた時間はとっても楽しかったし、この楽しさがずっと続けばいいなって思ってた。だけど、キスするとは思ってなかったし、それに、実際するってなったら、キスってもっと刺激的なものだと期待していた。彼の口は、ビールとニンニクが混ざったみたいな味がして、なんだか不快だったの。

どうしてあんなに味気無かったのかしら? 私が未経験だったから? それともキスが下手だったの? 唇や舌を通して全身が相手に惹きつけられるような、なまめかしさが無かった。私の思考は熱く燃え上がることなく、冷静に自身を見つめていた。ほら、エル、今あなたは男の子とキスしてるのよ。キスに夢中になってるふりをしなさい。これが舌? そうよ。経験ある感じで動かしてみなさい。うぇ...

私は女の子に惹かれたことは今まで一度もなかった。ということは、レズだから男子とのキスに夢中になれないってわけじゃない。残念ながら、答えはもっと単純なのだ。私がニックに心底惹かれていないってことね。なんだか自分でもがっかりだわ。ケンジだって、私がアレクセイの息子と付き合ってるって知ったら、とても感激するでしょうね。それに、ニックが私のボーイフレンドになれば、私はずっとエックス・ブラッツにいられるし、イモジェンが連れて来た単なる新入りという立場から抜け出て、学校一お金持ちの男子の彼女になれる。だけど、そのステータスは、自分が心から惹かれていない男子と付き合ってまで手に入れる価値は、ないわね。

私はニックとキスしたことをエックス・ブラッツのみんなに言っていなかった。彼とキス以上の関係になりたい気持ちが私の中にないとわかったし、みんなに騒ぎ立ててほしくなかったから。でも、ニックはみんなに言っちゃったのかしら?

どうして私は彼に夢中のふりをできないの? それは心から彼に惹かれていないから。肌が合わないと、化学反応は起こらないのよ。

唇が軽く触れるキスなら、2年くらい前にしたことがあった。それだけでも全身に電気が走るみたいな感激があったから、私はキス自体は好きだと思う。高校に入学する直前の夏休み、ママの問題が始まる直前でもあった。私たちのYMCAの水泳チームが優勝して、みんなで意気揚々と〈レド・ピザ〉に向かっている時だった。いつものようにレジーと私は、バスの一番後ろの席に並んで座っていた。みんながバスから降りようと立ち上がった時、レジーが私の手を押し返すようにして、私を座ったままにさせた。「どうしたの?」と私は聞いた。

「今日の君は、素晴らしい泳ぎだったよ」と彼が言った。

「あなたもね」と私は返した。

彼とは小さい頃から一緒にいたから、私にとって彼は、ほとんど兄のような存在だった。しかし突然、私たちの間に走る視線の質が変わった。兄と妹なら絶対そんな目で見ないでしょ、という感触の視線だった。私の手を押さえるように握る彼の手は汗びっしょりで、私の手まで熱くなってきた。その時初めて、彼の顔が優しさだけでなく、美しさにも兼ね備えていることに気づいたの。彼の瞳がまっすぐ私の目を見つめてきて、彼が私の知ってるお兄ちゃんじゃなく、男に見えた。そう、あの時、私の心が震えたの! ニックがカラオケで私にしたように、レジーも私も、急に相手に飛びかかるようなことはしなかった。レジーと私の心は通じ合い、二人の動きは調和していた。私たちの口はどんどん近づいていって、ぶつかった。唇と唇が触れた瞬間、ビビビッと感電したような衝撃に打たれた。人生初めての体験だった。私の人生の最高の0.5秒。そうね、たぶん私の本気のファーストキスは、一昨日のじゃなくて、あの時のレジーとの一瞬のキスだったんだわ。今まではキスのうちに数えていなかったけど。

「誰か、俺のジャケット見なかったか?」コーチがバスに戻ってきた。すぐに、レジーと私は体を引き離し、ぎこちなく立ち上がった。ちょこっと唇を重ねただけの軽いキスだったけど、うしろめたさがあった。コーチが私たちを見て言った。「何やってるんだ? ゾエルナー、コールマン、ほら早くしろ! ピザが待ってるぞ」

その後すぐ、レジーは孤児院に入れられ、あの野獣がママと私の人生を襲った。私たちはそれからあまり会えなくなり、私たちの間で起きた一瞬の出来事について、話したことは一度もない。私たちの人生はお互いに、ますます複雑になっていったから、私たちは友達のままでいた方がいいってわかっていたんだと思う。私たちはあまりにも長い時間を一緒に過ごしてきちゃったから、もし感情のままに友情を次のレベルに引き上げて、恋愛してみたはいいけどうまくいかず、別れるようなことにでもなったら、その傷は耐えられないほど激しい痛みを伴うはずだから。

放課後、俺の家に来ないか? とニックが私のノートに書いてきた。プライベートの映写室があるんだ。映画館並みの音響だぞ。最新映画が公開されるたびに、パパのところに次々と新作が送られてくるんだ。カラオケマシーンもあるし。

私はすぐに返事を書いた。宿題がいっぱいあるの。でも誘ってくれてありがとう。

彼は数分間黙ったまま、何も書いてこなかった。もうすぐ私が考えを変えるとでも思っているような間だった。それから、ニックは私のノートに泣き顔を描いた。そして、その絵の横に、わかった、と書いた。

ふう、言いたいことが伝わったみたいでよかった。思ったよりも簡単だったわ。ちょっと冷たかったかもしれないけど、こういうのは早い方がいいのよね。



11月

チャプター 26


親愛なるママへ

日本の秋はすごく美しいのよ。窓から見える木々は、金、赤、緑、黄色がいっしょくたになってて、棒付きキャンディーみたいでうっとり見とれちゃうし、木々の向こうでは、ビル群の電子看板がキラキラとまたたいてて綺麗なの。このエキゾチックな場所にもすっかり慣れて、もう目に映るものに恐れおののく、なんてことはなくなったけどね。49階からの眺めも、今ではもう日常の風景だし、周りに日本人しか見当たらない街を歩くのも、全然平気よ。ママは自分の目で見るまで信じないでしょうけど、どこに行っても溢れんばかりの人でごった返してるの。それでいて、すべてが清潔で、整然としてるのよ。私が好きなのは、お店に行って、食料品を買う時のやり取りね。カウンター越しに店員さんが私に向かってお辞儀をしてくれるから、気分いいの。私がパックに入ったお蕎麦を買ったとして、店員さんはそれがお蕎麦じゃなくて、大切な誰かへのクリスマスプレゼントみたいに、凄く丁寧に包んでくれるのよ。


私はここのリンゴの虜になっちゃった。ママと家で食べてたリンゴよりも、はるかに甘くてジューシーなの。日本のリンゴジュースも、毎日飲まないと1日を乗り切れないってくらい、もう手放せなくなっちゃった。水泳チームでジョークみたいな話があってね、私が自己ベストのタイムを更新するたびに、コーチのターニャがボトルに入ったリンゴジュースを私にくれるのよ。ご褒美で釣るみたいな単純な作戦なんだけど、50メートル・バタフライのタイムが、なんと4秒も速くなっちゃったのよ。信じられる?


学校は楽しいけど、凄く大変。私はスタートから出遅れてたんだけど、ようやくみんなに追いついたって感じね。前に書いたアケミっていう女の子、同じところに住んでて、一緒にICS-Tokyoに通ってる子なんだけど、本当に彼女と私は相性が合うわ。お互いに英語と日本語のことわざとか、面白い言い回しを教え合ってるの。この前なんか、「Cool as a cucumber」(キュウリのように冷静に)っていう英語の言い回しを教えたら、「キュウリのようにって馬鹿みたい」ですって。彼女が今までに聞いたおかしな表現の第一位に躍り出たそうよ。逆に、私が彼女から聞いたおかしな日本語の表現はね、「爪の垢を煎じて飲む」ね。文字通り、誰かの爪の垢をボイルして飲むのかと思って、うぇってなっちゃった。彼女に意味を聞いたらね、尊敬に値する人にあやかるように、その人の爪の垢をお茶に煎じて飲むような気持ちで、見習いなさいっていう意味なんだって。そういう気持ちで相手に接してると、その人の良いところが自分に移るそうよ。


学校では、私は大体イモジェンと一緒にいるの。彼女には、ヌトンビとジャンビっていう親友がいるんだけどね、彼女たちとも仲良くやってるけど、もしイモジェンの友達じゃなかったら、私が彼女たちとつるむことはなかったでしょうね。彼女たちは上流気取りっていうか、みんなを見下してるところがあるから。イモジェンもそうなんだけど、彼女の場合は、面白い上流って感じね(笑)。それで、イモジェンの仲間に、ニックっていう男の子がいるんだけどね、彼は、おそらく彼が望むどんな女の子とでも、付き合うことができるの。彼が私を好きみたいで、言い寄られちゃった。でも私は正直言って、そこまで彼に夢中になれないの。彼は今も私にメールを送ってくるわ。彼がSNSで見つけた可愛い子猫ちゃんの写真とかを送ってくれるの。子猫ちゃんには癒されるけど、早くICS-Tokyoに可愛い子が転校して来ないかなって思っちゃう。そうすれば、彼の関心はその子に移ると思うから。ケンジは、私がニックともっと仲良くなればいいって思ってるみたいね。「ビジネスにとって有益だ」って思ってるみたい。だけど、私は勉強とか水泳で忙しいから、彼氏を作ってる暇はないってケンジに言ったの。そしたら、ケンジは笑ったわ。「いつ俺が彼氏を作れって言った?」ですって。前の手紙で書いたけど、リュウっていう同じ水泳チームの男の子がいて、彼はちょっと気分屋なところがあるんだけど、チームで一番速いスイマーなのよ。帰りのスクールバスは彼と一緒に乗ってるんだけど、イモジェンには言ってないの。彼女は彼が好きじゃないみたいだから。でも、彼って凄く面白いのよ。


ほとんど毎晩、ケンジとディナーを食べてるわ。でも、その時間が1日のうちで、ほぼ唯一の彼と一緒に過ごせる時間だけどね。彼の母と妹も、同じ建物の別の階に住んでるの。彼の母親は、あまりいい感じとは言えないわね。彼女を見かけたら、さっと物陰とか廊下の角に隠れて、彼女が通り過ぎるのを待つことにしてるの。彼の妹さんとは一応話せるけど、彼女が私の叔母さんだなんて、ちょっと想像できないわ。彼女は社交辞令として、私に興味がある素振りを見せてるだけみたいだから、私も彼女に対して、そういう気持ちで接することに決めたの。エレベーターで彼女と会っても、天気の話しかしないわ。


ママに凄く会いたいよ。本当の家族が恋しくて仕方ないわ。いつでもあなたのことを考えてる。ママが元気で過ごしてることを望んでる。マサおじさんが言ってたんだけど、たぶん来年の春休みに、私も彼と一緒にワシントンに行けるわ。そうしたら、ママに会えるわね。


愛を込めて、


エルより


PS ― 13歳の誕生日に約束したこと覚えてる? 私がファーストキスをしたら、ちゃんとママに報告しなさいって。あの時、わかったって言っちゃったから、ちゃんと約束を守るわね。さっき書いたニックと、私はキスしたの。一回だけよ。そんなに感激はなかった。こんなもんって感じ。彼は今も私の周りでうろちょろして、ちょっかい出してくるの。男って馬鹿みたい。



チャプター 27


「具合でも悪いのか?」とリュウが私に聞いてきた。私たちはICS-Tokyoの放課後のバスに乗り込んだところで、彼は真ん中の通路を挟んで隣の席に座った。前の学校のスクールバスは最悪だったけど、このバスに乗っている男の子たちは大体みんな行儀がよくて、スマホの画面を見つめてゲームをやっている。私みたいに宿題をしたり、たわいもないことを喋り合ったりしている子はあまりいない。ましてや前のバスみたいに、他の子をいじめてる男子は一人もいない。例外的にスマホの画面を見ていないのは、リュウだけだった。彼はいつも、紙の本を読んでいた。(学校の教科書とか課題の一部ではなく、―彼自身が楽しむための本をいつも読んでるから、なんて我が道を行く人なの!ってびっくりしちゃう。)本を読んでいない時の彼は、「水泳日誌」をカリカリ書いていた。そうなの、今時、手書きなのよ! パソコンのスプレッドシートも、スマホのアプリも使わずに、厚手のバインダーを広げて、罫線が入ったルーズリーフに、その日に食べた物や、それぞれの泳法での、その日のタイムを事細かに書き込んでいくの。そして、それをグラフにして、タイムを分析してるのよ。色鉛筆を使い分けて、さまざまなデータを区別してるから、横から覗き込んだだけだけど、カラフルで綺麗!って思っちゃった。そういうことをしている姿を見ると、彼って日本人なんだなって思うの。もちろん日本人はテクノロジーの最前線にいるんだけど、一方で、文房具を偏愛してるのよ。次から次へと目に入ってくる飲み物の自動販売機の横に、ひょっこり文房具の自販機を見かけて、ポストイットとか、ノートとか、ペンとか、鉛筆が、ドリンクみたいに並んでいても、私は驚かないでしょうね。リュウのオタクっぽいバインダーの最初のページには、ジッパー式の透明な袋状のルーズリーフが挟まれていて、彼がその中に色とりどりの色鉛筆を入れているから、チラッと見るだけで、なんだか私までウキウキしてきちゃう。もちろん彼には言わないけどね。

「どうして私が具合悪いって思ったの?」と私はリュウに聞き返した。

私は窓側の席から通路側の席に移動した。彼も同じことをして、距離がぐっと縮まる。私たちが二人とも放課後のバスに乗る時は、毎回こうして座席を移動して、二人の距離を詰めてる気がする。そうして、いつものように、私はひそかに彼の匂いをかぐ。泳いだ後の彼の髪はまだ濡れていて、彼の体から塩素と汗が混じった匂いが、ふわっと私の鼻筋を通って、体内に取り込まれる。ああ、この男子の匂い、大好き。

脇に置かれた愛用のウクレレに手を当てながら、彼が言った。「君はいつもリンゴジュースを飲んでるみたいだけど、ビタミンCが足りてないのか?」

「私がこの惑星で16年間過ごしてきて、足りなかった知識といえば、こんなにもリンゴジュースが美味しかったってことだけよ」

「どこでも同じ味じゃないのか?」

「私もそう思ってたんだけど、ここのリンゴジュースは全然違うのよ。レベルが違うっていうか、次の次元の美味しさね。完璧なの。自然に甘さが体内に広がっていくようで、爽快感があって、力がみなぎってくるのよ」

「なんか、リンゴジュースのコマーシャルみたいだな」彼の青が混じった黒髪がさらっとなびいて、彼の目を隠した。クスクス笑っている彼の口だけが見える。私もつられて、クスクス笑ってしまった。リュウが彼の腕に巻かれたApple Watchを見た。「運転手が来るの遅いな。もう出発時間を5分も過ぎてる」

「たぶん、日本人の全員がきっちり時間を守るってわけじゃないのよ。アメリカ人なら、バスの運転手が遅れて来ても、誰も遅れたことに気づかないし、そんなこと気にもしないわ」

「キャンパスを出発する時間が遅れると、道が混む時間帯に差し掛かってくるんだよな」彼は水泳日誌に視線を落としてから、再び私を見て言った。「今週末の対抗試合の準備はいいか? 前回はブリティッシュ・インターナショナル・スクールに負けたけど、今年はチャンスがあると思うんだ」

「その学校、そんなに凄いの?」

「去年は凄かった。だけど、今年は向こうの主力選手が卒業しちゃったから。それに今の俺達には、君がいる」

私は頬が赤くなるのを感じた。なぜエックス・ブラッツのみんなが彼を冷たい目で見て、仲間はずれにしているのか、私には理解できない。私が火照った頬で氷を解かすみたいに、ピリピリした関係を和解させて、彼をギャング団に戻した方がいいかしら? でも、私自身はそうしたいのだろうか? たぶん私は、彼を独り占めしたい。

私は言った。「対抗試合で勝ったら、チームのみんなでどこか楽しい場所に行って、お祝いしたりするの? 私はアメリカでYMCAのチームに入っていたんだけど、みんながよく頑張った時は、コーチが〈レド〉っていうピザ屋さんに連れて行ってくれたわ」

「時々、渋谷の回転寿司に行ったりするけど、知ってるか? 池のお堀みたいに、寿司がぐるっと流れて来るんだ。でも、あそこは観光スポットにもなってて、観光客も多いからな。回転寿司を本場の日本料理だと勘違いして、慣れない箸を片手に、みんなはしゃいでるよ」

「お寿司がお堀に乗ってぐるっと流れて来るなんて、凄く楽しそう、行ってみたいわ! 本場の日本料理とか、本物の日本的な体験って何だと思う? あなたの意見を聞かせて」

「なんだろう? ロボット・レストランではないな。去年のシーズンが終わった時、コーチのターニャと彼女のボーイフレンドが、俺たちみんなをロボット・レストランに連れていってくれたんだ」

「私も行ったことあるけど、私はロボット・レストランを気に入ったわ」と私は言った。

「まあ、たしかに、悪くはないよ」と彼が素早く返してきた。「だけど、あそこまで観光客に知られていなくても、もっと面白い日本的な場所が色々あるよ」

「たとえばどこ?」と私は聞いた。

「まあ、観光客はたいがい、秋葉原に行きたがるな。いわゆる『電気街』で、どの建物も電子広告でライトアップされてる。ひしめき合うように並んだお店には、日本の最先端のテクノロジーが何でも売られてる。あそこはクールだけど、ちょっと度が過ぎてるな。で、俺が好きな場所もあの辺にあるんだけど、雰囲気は真逆で、街のバイブスがオフになってる感じなんだ。神保町のブックタウンっていう、千代田区のこじんまりとした場所だよ。東京の出版社が集まっていて、古本屋もたくさんあるんだ。ヴィンテージものの雑誌を立ち読みしながら、古本屋をめぐるのは楽しいぞ。掘り出し物の古本をお買い得価格で買えたりするしな」


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神保町はこの辺りです。👈え! 東京の地図も?爆笑



藍は東京に住んだことはありませんが、神保町の古本屋街には、2回くらい行ったことがあります...💦笑


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「なんか、凄く行きたくなってきた。東京ってどこ行っても騒がしいっていうか、イケイケなムードに満ちてるから、そういう落ち着いたところで、ゆったりと過ごすのもいいかも」

「それはいえてるな。君が行きたいのなら、そのうち連れていってやるよ。だけど、あそこで売ってる本は、ほとんどが日本語で書かれたものだぞ。たぶんだから、あそこは観光客がそんなにいないんだろうな」

私は心から彼と一緒にブックタウンに行ってみたいと思った。でも、イモジェンは承知しないだろうな。そう考えると、彼って大胆ね。私がエックス・ブラッツのみんなとつるんでるのを知っていながら、私をデートに誘ってくるなんて。彼のそういうところが好きなのよね。彼ってヒエラルキーとか、スクールカーストとか、そういうのを全然気にしていないから。だけど私は、そういうくだらないことをいちいち気にするタイプだから、彼の誘いを受け入れられない。せっかくカーストの階段を上って、高いステータスを手に入れたっていうのに、それをふいにする心の準備はできていない。

「あなたって、どうしてそんなに英語が上手なの?」と私は彼に聞いた。英語が上手な日本人にはたくさんあったことあるけど、彼ほど流暢な人はいなかった。ケンジもちゃんと英語を話せるけど、やっぱり日本人訛りが混じっちゃってるし、たまにへんてこりんなフレーズが飛び出すし。でも、リュウの英語は自信たっぷりで、しかも訛りがない。

彼は言った。「俺はニューヨークで生まれたんだ。幼稚園から6年生までICSのニューヨーク校に通ってた。家では日本語で生活してたけど、家以外では全部英語だったから」

「ニューヨーク! 私はずっとニューヨークに行ってみたいって憧れてたの! 気に入った?」

「凄く気に入ったよ。あそこは東京と共通点が多いな。高層ビルが立ち並んでて、夜もいろんなライトで明るくて、クレイジーなエネルギーに満ち満ちてる。でも、俺の家は〈ウエスト・ビレッジ〉にあったんだ。あの辺りは古い建物が並んでて、高層ビルなんてないからな。大都会の真ん中の小さな村って感じで、住み心地抜群だった。大学に進学する時、マンハッタンに戻ろうと思ってる。たぶんコロンビア大学か、ニューヨーク大学だな」


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青枠で囲った辺りの閑静な住宅街を〈ウエスト・ビレッジ〉といいます。『ティファニーで朝食を』に出てくるような、ブラウンストーン(赤レンガ造り)の建物が並んでいる一帯です。



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「本当? どうしてこっちの大学には行きたくないの? 東京はこんなに素晴らしいところなのに」

「今、うちの家はてんてこ舞いで、やばいんだよ。窮地に陥っててね」彼はそう言いながら、笑った。

もっと詳しく聞きたかったんだけど、そのチャンスを失った。ニック・ズホノフがバスに乗り込んできて、狭い通路を物凄い勢いで近寄ってきたから。「窓際にずれて」と彼が私に言った。「俺様が君の隣に座ってあげるから」ニックがこんなに軽薄で、下品な人だったとは知らなかった。あるいは単に、自分が何を口走っているのか気づいていない馬鹿なのかも。

バスがようやく動き出した。きっと運転手は時計を見ながら、ニックが来るのを待っていたのね。

私はこの席を譲りたくなかったから、はっきりと言った。「私の前の列が開いてるじゃない。そこに座ったら」

ニックは悲しそうな顔をして、私の前の席に座った。それからこちらを振り向くと、言った。「リュウとかいうやつが、君にちょっかいを出してるのか?」

リュウはすぐ近くに座っている。なぜニックはこんな、ろくでなしみたいな真似をしてくるの? 私は言った。「そういうんじゃない。っていうか、もし彼がちょっかいとか出してたとしても、あなたには関係ないでしょ」

「君はそうやって威勢がいいからな、エルさん。だから俺たちは気が合うんだよ」

あなたと気が合うわけないじゃない。彼はよくそう言うんだけど、私もつられて、そうかな、と思いかけたこともあったけど、口先だけだということがはっきりとわかったわ。彼が私に送り付けてくるメッセージを見てもそれは歴然だし、彼にはお抱え運転手がいて、自家用車で送り迎えしてもらえるっていうのに、わざわざスクールバスに乗り込んでくるような人と気が合うわけないじゃない。カラオケでのあの夜、ニックの口が私の口に合わさった時、あれはまさに驚きだった。私は全然期待してなかったけど、すでにキスが始まっちゃってたから、流れに身を任せたの。私は新入りの女の子だったし、億万長者の息子とカラオケでいちゃいちゃするのもいいかなって。でも今はもう新入りって感じでもないし、なんとかして彼を遠ざけたいんだけど、エックス・ブラッツの他のメンバーとの友情を壊すことなく、ニックに私を諦めさせる方法ってないかしら?

私が男の子とお付き合いをするとしたら、急に覆いかぶさってきて、いちゃいちゃしだす感じじゃなくて、ロマンスが欲しいの。いろいろ経験してわかったのよ。私は私を安売りしたくない。

リュウが脇に置いてあったウクレレを手に持った。彼はそれをかき鳴らしながら、歌い出した。「Cause I want the one I can’t have, and it’s driving me mad.(だって、僕には手に入らないから欲しいんだよ。こんなにも僕を狂おしく駆り立てるんだ。)」思わず、私は目を大きく見開いてしまう。私の心臓は破裂しそうだった。耳なじみの曲だったから。ママがよく歌っていた、ザ・スミスの曲だ!

「うるさいぞ、キムラ」とニックが言った。

彼が仲間はずれにされていようが、そんなことはどうでもいい。

私はリュウ・キムラが好き。


・・・


その夜、私は〈スカイガーデン〉で宿題をしようと、最上階まで上った。ケンジは夕食の時間に仕事が入ってしまい、一緒には食べられなかった。そういう時は、勉強道具を持って〈スカイガーデン〉に上り、夕食を食べながら勉強する、というのが私の習慣だった。今夜は、そこにアケミが加わった。私たちは〈生け花カフェ〉からお寿司を届けてもらい、バラに囲まれたガーデンテラスで、お寿司を頬張りながら、本を読み耽った。ふと本から視線を上げると、きらめく東京の摩天楼が視線の先に広がっている。

私はアケミとこうして過ごす勉強の時間が好きだった。エックス・ブラッツのメンバーと一緒にいる時は気が張るんだけど、彼女とはゆったりと気楽に過ごせるから。アケミは噂話が大好きだけど、決して不満たらたらの性悪女ではない。私が英語の文法問題を出して彼女の英語力を鍛えてることに、ありがとうって言ってくれるし、逆に彼女は私に日本語を教えてくれる。私は日本人の父親と一緒に暮らしてるっていうのに、日本語に関しては、彼女から教わることの方が多い。

その時、スマホが点滅した。見れば、ニックからのメッセージだった。

 ゴージャスに過ごしてる?

電話番号を変えた方がいいかしら? 彼に返信せずに画面を消灯させようとしたら、アケミが私のスマホの画面を見ていた。

「彼、あなたのことが好きなのね」と彼女は言った。

「そうなの」と私は言って、ため息をついた。

「あなたは彼が好きじゃないの?」

「彼はうっとうしくて」

「アラベラ・アコスタも彼が好きじゃなかったわ。オスカーの双子の妹よ。彼女もあのグループの一員だったの」

興味深い情報ね。「どうしてわかったの?」

「アラベラとジャンビが彼について話してるのを聞いたことがあるの。アラベラは言ってた。ニックはみんなの前ではクールに気取って、一面だけを見せてるけど、二人きりになると、急に激情型になるんですって」まさにあの時と同じだ!「それに対してジャンビは言ってた。アラベラはロマンスを求めすぎなのよ、ニックはいい人よって。そして、ニックは二面性があるだとか、そういう噂は広めない方がいいわよって忠告してた。口止めしてた感じね。ほら、ニックの父親って権力者だから」

それこそまさに、私がニックとの体験をエックス・ブラッツのメンバーに話せずにいる理由だ。話したところで、彼女たちは私の言うことを信じないだろうし、当然のように、ニックの肩を持つに決まってる。

アケミは色々と事情に通じてるみたいだから、他にも聞きたいことが浮かんだ。

「聞いてもいい?」

アケミがうなずいた。

「私があなたにリュウのことを聞いたって、誰にも言わないでくれる?」アケミはもう一度うなずいた。「どうしてリュウ・キムラは仲間はずれにされてるの?」

アケミは両手で口を隠すようにして、身を乗り出し、私の耳元でささやいた。「彼はアラベラ・アコスタを妊娠させちゃったの。やだ、私がそんな言葉を知ってるって、私の母に言わないで!」



チャプター 28


「エルは人気者なんだ。俺は彼女に会えなくなった。彼女はいつも学校の友達と出かけてるんだよ」とケンジはその夜、マサおじさんに言った。私たちは〈ファンタジーリーグ〉で夕食を食べていた。マサおじさんが私を東京に送り届けてくれたのは、ほんの2ヶ月前のことなんだけど、なんだか遥か昔のように感じる。それ以来なので、フェイスタイムではチャットしていたけれど、直接会うのは久しぶりだった。彼は今、出張でこの街に滞在してるのよ。「アレクセイ・ズホノフの息子が彼女を気に入ったみたいなんだ!」

「ただの友達よ」私は嘘をついた。ケンジと一緒に夕食を食べている時間以外、私が自分の時間をどのように過ごしているのか、ケンジは何も知らない。「それに、私は放課後には友達と会ったりしてないわ。放課後は〈セイルフィッシュ〉の練習があるのよ」私はマサおじさんの方を向いて、説明した。「〈セイルフィッシュ〉っていうのは、私たちの学校の水泳チームなんだけどね」

マサおじさんが言った。「次の大会はいつ?」シンプルな質問だったけど、私の胸に刺さった。いつ大会があるのか、ケンジはそういうことを聞いてくれないから、大会や練習試合の時、観客席をどんな気持ちで見ればいいのか、心の準備ができない。ケンジは刑務所に入ってるみたいに仕事に囚われていて、私は時々、彼への想いに囚われる。もっと私の人生に関わってよって切実に感じる時がある。でも、この快適な生活環境を失いたくはないから、彼にそうせがんで、彼を困らせるようなことはしない。東京は私に、私の手からこぼれ落ちるくらいたくさんの機会を差し出してくれる。だけど、私はこの街で、自分がちっぽけな臆病者になったように感じる。あらゆるハイクラスな特権を享受しているけれど、私がなりたかった人にはなれていない。―私は父親に向かって、「父親になって!」と想いをそのまま言える、勇気のある人になりたい。

「次の週末に対抗試合があるわ」と私は言った。

マサおじさんはスマホを取り出して、スケジュールを確認した。「君の勇姿を見たい気持ちは山々なんだけど、ジュネーブに戻らなきゃだな。その次の試合はいつかな?」

私は彼にその日付を言った。「でも、その対抗試合は、私たちが台湾の台北に出向いて、あっちの学校で行われるの」私はペントハウスでの優雅な生活には慣れてきたとはいえ、他校との練習試合のために国をまたいで飛行機で移動するような、国の代表選手並みの待遇には、まだ現実味を持てずにいた。

「ちょうどその数日前に上海に出張で行くから、その試合は見に行けるぞ。応援団が欲しいだろ?」とマサおじさんは言った。

「やった!」私はケンジを見た。彼の表情には、彼が「俺も!」と手を挙げて、応援団のバスに飛び乗ってくる気配はない。私は勇気を振り絞って、彼に聞いた。「あなたも来る?」

彼はスケジュールを見て、その日を確認した。「今週末の試合なら、おそらく見に行ける。ただ、君が台北に行く週の土日は、俺はシドニーだな」

見に来てくれるんだ! 私は溢れんばかりの気持ちを抑えながら、聞いた。「エミコに言えば、スケジュールを調整してもらえるんじゃない? あなたとマサおじさんと私で、どこかを旅行するなんて、凄く楽しそう」

ケンジは言った。「彼女は俺のスケジュールなら調整できるだろうな。しかし、彼のスケジュールは調整できない」ケンジの視線の先には、アケミの父親、タケオ・キノシタがいて、ちょうどレストランに入ってきたところだった。アケミの母親も一緒で、彼を支えるようにゆっくりと歩いてくる。彼はおそらく70代の老人で、少し猫背になった体のバランスを取るように、若い女性の腕をつかんでいる。「キノシタさんの会社が、その事業の建設費をまかなっているんだ。彼のスケジュールに合わせて、私たちはシドニーに行くことになる」

アケミの両親が私たちのテーブルに立ち寄って、ケンジと日本語で挨拶を交わした。二人は昔からある、お決まりの組み合わせね。―しわくちゃの肌をした背の低い老人と、彼に寄り添うファッションモデルのような、背が高くて若い愛人。―日本語での会話が終わると、キノシタさんが私に向かって言った。「アケミが英語のテストでAを取ったんだよ。彼女が言っていた。君は学校までの車の中で、いつも英文法の練習問題を出してくれるそうじゃないか。よくやってくれた」

凄いわ、アケミ、やったじゃない! 彼女の父親が私の肩を優しくポンポンと叩いた。見れば、ケンジの表情が明るく輝いている。ケンジはキノシタさんのもう一つの家族について知ってるのかしら? たしか大阪に住んでるとか言ってたわね。

もちろん、ケンジは知っていた。アケミが前に一度、彼女の父親について書かれたネット記事を見せてくれたことがあった。キノシタさんは大阪のアートシーンを金銭面で支える慈善事業家だった。その記事には、彼がオペラのガラコンサートに出向いて、終演後のロビーでにこやかに笑う姿が掲載されていた。彼の周りには彼の妻と、彼の孫たちが写っていて、孫たちは全員アケミより年上だったけれど、彼は大阪の家族を秘密にはしていなかった。

ケンジとキノシタさんが日本語で話している時、なんだか内緒話をしているようで、私は話の内容が知りたくて仕方がなかった。ビジネスの秘密の取引についてかしら? それとも、二人に共通している隠し子について?


・・・


夕食後、私たちのミセス・タカハラに拝謁を許された。彼女のスイートルームに赴くと、彼女は、彼女の甥にあたるマサおじさんとの再会をしきりに喜んだ。もちろん、孫娘である私のことは、あなたも来たの? みたいな感じで一瞥をくれたきりだったけど、今夜はなぜか私も訪問者一行の一員なんだから、仕方ないわね。

私は自分が祖母になるなんて、まだまだ先すぎて想像もつかない。だけど、もし私に今まで知らなかった孫娘がいて、彼女が私に会いに来たら、彼女を睨み付けて、息が詰まるような窮屈な思いをさせたりなんてしない。彼女を温かく迎えて、今まで会えなかった時間を取り戻そうとするわ。彼女を美術館に連れて行ったり、彼女がどんな本を好きなのか、どんなことに情熱を傾けているのか知って、なるべく彼女の気持ちに寄り添いたい。きっとそうするわ。

「元気そうね」とミセス・タカハラが私に言った。広々としたリビングルームで、ケンジ、マサおじさん、私が横並びで座り、私たちの前にはミセス・タカハラとキミが座っていた。キミが私のためにお茶を注いでくれた。でも私はお茶があまり好きじゃない。「東京にもすっかり慣れたみたいね」と彼女は残念な報告を認めるみたいに言った。

「ありがとう」と私は丁寧に返した。お茶に口をつけ、苦さに身もだえしないように気を付けながら、ひとすすり飲むふりをした。こういう時は足を組んだ方がいいのかしら? キミを見ると、淑女らしく両足をそろえて横に流していたから、私もそうした。

キミが言った。「昨夜クロエ・レーラーと夕食をご一緒したの。ICSでのあなたの様子を聞いたわ。とてもよくやってるそうじゃない。先生たちがあなたの頑張りを褒めてるそうよ。もうみんなに追いついちゃったそうね」おべっかを使われているんだとはわかった。軽く頬を叩かれたようでもあり、前のお下劣な学校を思い出した。というか、なんであの高等部の部長先生は、このつれない叔母に私のことをべらべらと喋ってるの? それってプライバシーの侵害とか、守秘義務違反とかじゃない?

マサおじさんが言った。「エルは前から優秀な学生だったんだ。先生たちはいつも通知表に書いてたよ。彼女は向学心があって、熱心に話を聞いてくれるから、教室に彼女がいると、先生も嬉しいって」

私はケンジに目を向けた。しかしケンジは私を見てくれなかった。彼は、私がかつて家に持ち帰ってきた数々の通知表を一つも見たことがない。マサおじさんがミセス・タカハラに聞かせるために、私の過去を自慢げに話してくれていることはわかった。彼女からしたら、私はただの外国人でしょうけど、私にもちゃんと長きにわたる歴史があるんだって、過去との繋がりが可視化されるようで、心強かった。

「東京にはいつ帰っていらっしゃるの?」とミセス・タカハラがマサおじさんに聞いた。

「大使館の任期が年末までなので」と彼は言った。「たぶん、来年からはこっちで暮らせるかと」

キミが言った。「もっと重要なのは、いつになったらあなたが、〈タカハラ・インダストリーズ〉に入って働いてくれるかってことよ」彼女は私の方を向くと、言った。「彼がここに住んで働いてくれたら、素敵だと思わない?」

ようやく、私がなぜこのお茶会に招かれたのかを理解した。仲買人みたいに間に入って、ここに住んで一族経営の会社のために働くように、彼を促してくれってことね。そういうことなら任せて。喜んで協力するわ。

「イエス、イエス、イエス! 私も嬉しい!」と私はマサおじさんに向かって言った。「お願い、東京に戻ってきて!」

ケンジは言った。「マサのために、俺たちは46階のスイートルームを空けて待ってるんだ」そうなの? ということは、マサおじさんも東京で暮らしてここで働くっていう考えは、あながち夢でもないじゃない。高原家が一家総出で後押ししてる、現実的な選択肢ってことね。彼がここにいてくれたら私も心強いし、もしかして私のためを思って、彼を呼び寄せようとしてるの?

全然違った。

ミセス・タカハラが言った。「私たちは政府とのつながりが深くて、信頼できる人が必要なんです」

それから、私以外のみんなは日本語で活発な話し合いを始めた。私は、言語の扉をピシャッと閉められたみたいに、またしても一人取り残されてしまった。


・・・


「もうすぐこっちに帰って来て、東京で暮らすって本当?」と私はマサおじさんに聞いた。ミセス・タカハラとキミ・タカハラとのお茶会が済むと、マサおじさんは私のペントハウスにやって来た。ケンジはいつものように仕事に戻ってしまった。

「おそらくそうなるね」とマサおじさんは言った。「親戚も家族だからね、ファミリーのためにそうするのが正しい選択だよ」

それは興味深い反応だった。選択って自分自身のためにするものじゃないの? ファミリーのためって、マサおじさんが彼自身のためにする正しい選択ではないような言い方だったから。「それってなんで?」

私はリビングのソファーに座り、マサおじさんはソファーの横に置かれた一人用の椅子に腰かけた。彼が言った。「私が君にこのことを話したって知ったら、君のお父さんは怒るだろうけど、君もいくらかは知っておいた方がいいと思うから、一応話しておく。彼がなぜあんなにあくせく働いてるかというとね、今、政府の監査が入ってるんだ。この建物の建設費用を工面するために使われた複数の融資について、調べられてる」彼はそこで一旦間を置いた。「でも大丈夫。きっとすべて解決されるよ」

急に降って湧いたような話に、私は現実味を持てなかった。「私も心配した方がいい?」

「もちろん心配は要らない!」

「それじゃあ、何が行われているにしても、私がこの家を失うことはないってことね?」ママが野獣に襲われ、懲役刑を受けてから、私は三つの里親の家を渡り歩いて、この家に辿り着いた。まだ私に最悪のシナリオが待っていたっておかしくないし、そう思ってしまうのは無理もない。

マサおじさんが私に向かって微笑んだ。「ミセス・タカハラに気に入られるようにしていれば、いつまでもここにいられるから大丈夫。ここが君のホームだから」

その答えは私にとって何の慰めにもならなかった。私は大変身を遂げたのよ。学校では自分のお尻を叩くように猛烈に勉強して、「由緒正しき」友達も作って、こっちに来てからトラブルなんて一つも起こしてない。ミセス・タカハラに気に入られるようにって、これ以上どうしろっていうの?

不安をかき立てる話ばかりだから、話題を変えたかった。「あなたがここで落ち着けば、日本人の素敵な女性に出会えるかもしれないわね」と私はマサおじさんに軽口を叩いた。

彼が笑った。「そんなことになったら素晴らしいな! 今まで転勤に次ぐ転勤だったから、落ち着くのは難しかった。そろそろ一ヶ所に根ざした生活をしたいって思ってたんだ」

ふと、キミとケンジのことが頭に浮かんだ。二人は一ヶ所に根付いている感じだけど、二人ともデートはしていないようだった。ケンジのガールフレンドが自分の国に帰っちゃったのは聞いたけど、キミはボーイフレンドとかいないのかしら? 「どうしてキミは結婚してないの?」と私はマサおじさんに聞いた。「彼女は美人だし、頭もいいし、どんな男だって選べる感じなのに」

「彼女は結婚してたんだ。相手は日本有数の銀行に勤めてるお堅い人だったんだけど、彼女の父親が亡くなるとすぐに離婚してしまった。きっと彼女は自分の気持ちよりも、父親を喜ばせることを優先して、結婚したんだろうな」

日本の伝統的な妻として振る舞うキミを思い描いてみたけれど、全然様になっていなかった。日本ではアメリカよりも離婚の件数がはるかに少ないことも知っていたから、キミがあの母親に離婚のニュースを持ち帰ったというのも、想像し難い絵だった。「彼女が離婚したことで、ミセス・タカハラはカンカンに目くじらを立てたでしょ!」

「彼女は確かに、不満ではあるようだったな」

高原ファミリーのゴシップをもっと聞きたかったんだけど、その時、私のスマホがブンブンと振動した。画面を見ると、レジーからのFaceTimeだった。レジーと私は時差の関係でなかなか連絡が取れないから、せっかくのこの機会を見過ごしたくはなかった。リュウ・キムラとアラベラ・アコスタの間で起きたことを知ってから、私はなんだか胸の辺りがもやもやしていて、画面越しでも昔から親しんできた顔を見て、ほっとしたかった。私にとって一番長い付き合いの友人だから。「この電話取ってもいい?」と私はマサおじさんに聞いた。

「どうぞ」と彼が言った。

私は自分の寝室に駆け込んで、電話に出た。「コールマン!」と私は言った。

「ゾエルナー!」と彼が返した。

「最近どう?」

「すべて順調だよ。この間GEDに受かったから、早々と卒業を認められた。これで心置きなく入隊できる」

「おめでとう! 何かお祝いした?」

「カルメンが、二人でよく行くレストランでクラブケーキをおごってくれた。ケーキにカニが入っててうまかったな」

え? もう二人には行きつけのレストランがあるの?

「良かったじゃない」と私は言ったけど、内心では、おぇ、と思っていた。「それで、あなたたちはもう正式に付き合ってるの?」

こんなこと書きたくないんだけど、彼の顔が、幸せに満ちた未来を思い浮かべたようにパッと輝いた。「まあね。俺たちは結婚しようかって話もしてるよ」

は?」それっておかしくない?「あなたたちはまだ18歳にもなってないでしょ! あなたたちが付き合い出してから、まだ1ヶ月とかじゃない! 詳しくは知らないけど」

「君も時期が来たら分かるよ」と彼は言った。「俺はやりがいのある仕事に就くんだ。俺の人生で初めて安定ってやつを手に入れる。これで、二人で家庭を築くこともできる」

私だって大人みたいに振る舞って、自分のことは自分でやらなきゃいけない時も結構多いけど、やりがいのある仕事に就くだとか、結婚するだとか、そういう大人の決断に関しては、まだ考える段階に近づいてもいない。レジーがそういう決断をもうしようとしているっていうのは、なんか嫌な感じ。こんなに若くして、自分を縛り付けるみたいに人生の道を決めてしまうんじゃなくて、彼にはもっといろんな可能性を試してほしい。でも実は、同じような境遇だった私には彼の気持ちが手に取るように分かった。恋人ができて、仕事も決まって、不安定だった人生が急に安定したというか、あとは自分さえしっかりすれば、安定した未来が待ってるって、覚悟を決めたんでしょう。

「本気なの?」と私は聞いた。彼が大きな思い違いをしていることは分かっていた。分かってはいても、私にはそれを止める術も力もない。

「俺は本気だよ。あと、君に言わなきゃいけないことがあるんだ」急に彼の顔に不穏な表情が浮かび上がった。

「あら、もしかして彼女が妊娠しちゃったとか?」

「違う、違う。そういうんじゃない。実は...」FaceTimeの映像は不鮮明で、接続も不安定に揺らいでいた。それでも、彼が苦渋の決断をしようとしているのが、画面越しに伝わってきた。「これをどうやって君に伝えればいいのか分からないんだ。でもちゃんと言わなきゃいけない。実はカルメンが、もう君と話さないでくれって」

「そんなのって。冗談だって言って」冗談ではないことは分かっていた。お上品な東京の洋服を脱ぎ捨てて、メリーランドの田舎で育った女の子が今にも飛び出してきそうだった。気持ちを抑えなくちゃ。お願い、出てこないで! 私は気丈に振る舞いたかった。

「そこまでのあれじゃないよ。彼女が望んでいるのは、なんていうか、まっさらな状態に戻ろうってことだよ。俺と君の間には何も起きようがないって言ったんだけどさ、納得してくれないんだ。地球半周も離れているっていうのに、彼女は嫉妬するんだよ」

あの子の馬鹿げた要求よりも、彼がそれに従おうとしていることの方が、私にはショックだった。あの子はどんな言い方で彼に迫ったのかしら? 「私たちはこれだけ長く友達でいたっていうのに、全部なかったことにして、そんな簡単に私を無下にしちゃうんだ?」

「なかったことになんてしないよ。これからも連絡は取り合うし。電話はあれだけど、メールとかで。彼女もそのうち落ち着くと思うから。彼女には時間が必要なんだよ。きっと俺を信頼してくれるようになる」

「馬鹿馬鹿しい」と私は言った。

「仕方ないよ」とレジーが返した。

私は力を込めて、通話を切った。

自分でも信じられないことに、私は深く傷つき、カンカンに怒っていた。

レジーは、私の前の人生と繋がっている唯一の旧友だった。その彼が、私の新しい人生から去って行った。私がそれを選んだのだ。

リビングに戻ると、マサおじさんがテレビを見ていた。「ケーキが食べたい」と私は言った。

「ルームサービス!」と彼は、待ってました!と言わんばかりの勢いで言った。彼は女性とのお付き合いを始めようとしない。彼を愛してくれる人が現れても、わけのわからない要求をしてくるようなビッチなら、彼はすぐに切り捨てる。レジーとは違うのだ。

私はソファーの彼の隣にドサッと腰を下ろした。そして日本式のお茶会とは違って、気楽な感じで、彼の肩に私の頭を乗せた。「お願い、ここに引っ越して来て」

マサおじさんは私の肩を抱くように腕を回し、もう一方の腕を伸ばして、壁掛けの受話器を取ると、ケーキを注文した。



チャプター 29


土曜日の朝、〈ブリティッシュ・インターナショナル・スクール〉で行われる対抗試合に胸躍らせながら、私は目覚めた。〈ブリティッシュ・インターナショナル・スクール〉は都内だから、そんなに慌てる必要はない。さらに嬉しいことに、今日の試合は、ケンジが見に来てくれるのだ。午前8時、私は幸運を呼ぶリンゴジュースを飲もうと、キッチンに向かった。すると、キミがリビングのソファーに座っていて、一緒にケンジのアシスタントのエミコもいた。

「ハイ?」と私は、意外な組み合わせに戸惑いつつ言った。

エミコが言った。「タカハラさんが着替え終わるのを待ってるのよ。急にビジネス会議が入ったの」

「え、でも、彼は私の水泳の試合を見に来るんでしょ!」信じられない。せっかく彼が初めて、私の学校での活動に見に来てくれるって言ったのに、もしかしてばっくれようとしてるの?

キミが言った。「残念だけど、彼は行けないわね」

「でも、今日は土曜日よ!」と私は食い下がった。

「会議は予定されてなかったんだけどね」とエミコが言った。

ケンジがバタバタと廊下に出てきて、リビングに入ってきた。「ごめん、エル!」と彼は言った。「本当は君の水泳大会に行きたかったんだけど、緊急を要する事態が持ち上がってしまった。今夜、夕食の時にでも、君から勝利の報告を聞けるのを楽しみにしてる」彼は気もそぞろといった表情を浮かべながら、スーツのボタンを留めた。

「何がそんなに重要なの?」彼のビジネスのことは、たまに聞いても話題を逸らされちゃうし、あまり話したくないようだったから、私も聞かないようにしていたんだけど、つい聞いてしまった。

「政府の監査人が今ここに来てるんだ」と彼は言った。

「どうして?」と私は、さらにつっこんで聞いてみた。

「君が心配するようなことじゃない」と彼は言い残して、キミとエミコと一緒に私たちのペントハウスを出て行った。

しかし、それは私が心配するようなことだった。

その時、私のスマホにイモジェンからメッセージが届いた。

今日はフィールドホッケーも空手もないから、ジャンビとヌトンビと、遠出することにしたわ。あなたも来れる? 今日は一日東京から出て、ガールズデーを満喫しましょ。

私は、今日は水泳の試合で忙しい、と打ち込んだ。それから、「送信」を押す前に思った。私は責任感を持って、良い子でいなくちゃって頑張ってきたけど、それってなんか、馬鹿らしいわね。水泳チームは、私がいなくたって代わりの選手はいるし、今日は大会じゃなくて、ただの対抗試合だし。それに、レジーに彼の人生から追い出されちゃったし、私の新しい父親は、彼の人生の中になかなか入れてくれないし、なんか、もういいやって感じ。時間に追われっぱなしで、人生の試合に出ずっぱりなんて、私もそろそろこの辺で、コートの外に出て、タイムアウトを使わないとやってられないわ。

私は打ち込んだ文字を消し、私も行く、とイモジェンに返信した。

それから、コーチのターニャにメッセージを送った。

コーチ T、申し訳ありませんが、今日の試合は出れそうにありません。女の子の日が来てしまい、生理痛がひどいんです。うずくような痛みです。

私はうそつき。


・・・


駅のホームで私を待っていたエックス・ブラッツの女子たちを見た瞬間、私は自分の過ちを悟った。後悔の念がどっと押し寄せてくる。男子たちはマイアミで開催中のポロの大会に行っていたので、少なくともニックのことで気を揉む必要はなく、その点は少しほっとした。しかし私はやってしまった。レジーとケンジの行動に腹が立っていたとはいえ、リュウの過去の出来事に混乱していたとはいえ、―水泳のチームメイトたちをほったらかしにして、エックス・ブラッツの子たちと一日遊ぶというのは、やはり行いとして間違っている。ホームに立ち、電車を待っている間ずっと、私は水泳の試合がどのように進んでいるかを想像していた。今の時間は、100Mリレーの頃かしら。リュウがバタフライで水面をかき分け疾走している。今頃、チームのみんなは私の噂話をしている。応援にも来ないなんて、私がどんなにくさったチームメイトかってことを話しているんだわ。私は不安感にさいなまれ、吐き気を催した。そして、女子たちから行き先を聞かされた時、胃のむかむかはさらにひどくなった。―彼女たちが大好きだというアミューズメントパーク、〈富士急ハイランド〉。嘘でしょ! こんな状態でジェットコースターになんか乗ったら、確実に吐くわ。

「ガールズトリーップ!」新宿駅でJRの電車に乗り込むと、ジャンビが甲高い声で叫んだ。エックス・ブラッツの子たちはこんな風に公共の場で大声を上げたり、周りの人の迷惑になるくらい騒いだりするから、私は一緒にいて気恥ずかしさを覚える時がある。近くの席から私たちに向けられる乗客のみなさんの怪訝な表情から、明らかに私たちの態度を快く思っていないことがわかった。でもエックス・ブラッツの子たちは身だしなみが煌びやかすぎて、誰も声に出して文句を言えないみたい。

私たちは指定席に座った。二つの席が前向きで、二つの席が後ろ向きで、向かい合っているボックス席だった。私は通路側の前向きの席に座ったんだけど、イモジェンが私の手を引っ張り上げて、言った。「私、後ろ向きだと気持ち悪くなっちゃうの。あなたこっちに座って」

仕方なく私は後ろ向きの座席に移った。上司の顔色を窺うようにイモジェンの顔を見ると、今日は機嫌が悪い感じだ。アラベラ・アコスタとリュウ・キムラの間で実際に何が起きたのか、彼女に聞きたかったんだけど、今日は無理そうね。アケミから話の一部を聞いてしまった今となっては、残りの部分を聞きたくてたまらなかった。彼女が妊娠しているとわかって、リュウはアラベラを捨てたの? 彼女に中絶をするように迫ったっていうの? ボリビアに帰って静養が必要なほどアラベラを追い詰めたのは、いったい何?

「今週末も、両親はまたこの街にいないの?」と私はヌトンビに聞いた。

ヌトンビはうなずいた。彼女のコーンロウヘアーにつるされたビーズが、カチカチと音を立てる。「ソウルに出張中よ。ルークは連れて行ったのに、私は置いてけぼり。私とルークを引き離したかったのよ。私はうちの親が大嫌い。彼らのせいで、私の人生めちゃくちゃよ」

「少なくともあなたの両親は、あなたがしていることに対して、あれこれ言ってくれるでしょ」とイモジェンが言った。

「私やエルの親はほったらかしよ。ね、エル?」彼女は拳を私にかざして、同士の証として私の拳を待ち受けた。私は拳を合わせる気にはなれず、手を膝の上に置いたままだった。真実だったから、胸が痛い。

週末に政府がわざわざ出向いてきて、タック・ラグゼを調べてるなんて、一体全体どうなってるの?

私はリュウのことをもっと知りたくて知りたくて、仕方がない。彼のビジネスマンのお父さんも、日本政府ともめ事を起こしてるのかしら? 「ハーフでもヤクザになれる?」と私はイモジェンに聞いた。

「それが何かに関係あるの?」とイモジェンが強めの口調で言った。

「ちょっと興味があって。私もヤクザの世界に入ることになるかもしれないから」私はあくびをしながらそう言ったので、思い付きで言っただけの、くだらない質問のように聞こえたはず。

イモジェンは言った。「ハーフのヤクザも結構いるけど、彼らは女性じゃないわ。もともとヤクザって、日本で働いてた韓国人が組織したのよ。日本人じゃないからってビジネスの世界から追い出されて、より大きな機会を求めて犯罪に手を染めるようになったの。今のヤクザは、日本人のグループと、韓国人と日本人のハーフのグループがあるのよ」

「ちょっとその話は、本当かどうかあやしいわね」とヌトンビが言った。「大使館で言われてるのは、―」

「ググったのよ。何でも知ってるグーグル先生が言ってるんだから」とイモジェンが割って入った。「間違いないわ」

ジャンビが言った。「ヤクザが悪者だってことは、みんな同じ意見よね」

善と悪はそんなに単純に割り切れるものではない。ママは刑務所に入ってるけど、犯罪者ではあっても、彼女が悪い人だという意味ではない。どちらかというと、迷い人に近い。

私はその話には踏み込まない方がいいと頭ではわかっていたけれど、好奇心に屈してしまった。「リュウ・キムラの父親がヤクザだとか、あなた言ってなかった?」

イモジェンが答えた。「前から知ってたわ。あなたリュウ・キムラが好きなんでしょ」

「好きじゃないわ!」私は否定した。「けど、毎日のようにプールで彼に会ってるから、彼のことが気になるっていうか」

「気になる」とジャンビが言った。「好き好き大好きまでは行ってないのね」

「それ以上踏み込まない方がいいわ」とヌトンビが言った。

「彼は除け者なのよ」とイモジェンが言った。彼女は紙袋に隠し持っていたビールをゴクゴクと美味しそうに飲み、ようやく満足そうに微笑んだ。「リュウのお父さんは日本の大企業の最高財務責任者だったんだけど、帳簿を料理するみたいに適当に書き換えて、株主をだましたってことで起訴されたの」

ジャンビが言った。「彼はインサイダー取引で起訴されたんじゃなかった?」

「同じことでしょ!」とイモジェンが言った。

「ほら、またあなたは間違ったこと言った」とヌトンビが言った。

「彼は刑務所に行ったの?」と私は聞いた。このような情報に喜ぶべきではないんだけど、リュウにも起訴された親がいるって知ったら、不思議と安心感がこみ上げてきた。なんか私に近しい人たちの親って、みんな身の程知らずのがんばり屋さんみたいね。

ヌトンビが言った。「いいえ。彼は巨額の罰金を払っただけよ」

イモジェンが言った。「木村家のことは心配いらないわ。アラベラが彼から聞いた話によると、罰金を払っても、まだ潤沢な資金が残ってるって言ってたそうだから」

ジャンビは言った。「彼のお父さんは別の種類の刑務所に送られたのよ。日本ならではかもしれないわね、恥の刑務所。まだ人生は続いていくけど、まっとうな日本社会からは排除されたの。彼は要無しの透明人間みたいなものね」

私は言った。「ヤクザって、ギャングみたいなものかと思ってた。大企業で仕事をしている誰かのお父さんが、裏で組織犯罪に加担しているなんて、思ってもみなかった」

ジャンビが言った。「彼が騙し取ったお金はどこへ行くと思う? ヤクザのところよ!」

イモジェンがげっぷをしながら言った。「タック・ラグゼを経営してるあなたのパパだって、おそらく裏でヤクザと結託してるわ。建設業とエンターテインメント業界の人たちは、ほとんど全員がそうなんだから」

「彼が働いてるのは、ホテル業界よ!」私は本気で、たわごとばかり言ってるイモジェンをボコボコにしてやろうかと思った。

でも心の奥底では、ケンジの深夜の会合や、ゲームパーラーでの麻雀や、プライベート・メンズクラブについて考えていた。あんなに立派な彼が、犯罪に手を染めているっていうの?


・・・


その日の夜、タック・ラグゼに戻ると、車が入ってくる私道の隅、低木の陰で、ケンジがタバコを吸っているのが目に入った。

「あなたってタバコ吸うんだ?」と私は言った。

彼は唇の隙間から煙を吹き出した。「普段は吸わないようにしてるんだけど、今日は特別だ。水泳大会はどうだった?」

「行かなかった」

「なんで行かなかったんだ?」彼は驚いたように目を見開いた。

「なんとなく、そういう気分じゃなかったから」

「そんな風にチームメートを失望させちゃだめだろ」

なるほど、あなたが毎日毎日私を失望させてるみたいに? と思ったけれど、私はこう言っていた。「月に一度の日が来ちゃったのよ」

彼が顔を赤らめた。今朝、あなたにデートをすっぽかされて、私がどれほど失望したか、私の悲しみもわかってほしかった。

「それで、今日は一日どこに行ってたんだ?」は? 今さら、私の居場所に興味があるの? 東京の周辺も含めれば、人口3千万にもなる大都市圏で、何でも起こり得る、危険さえもはらむ街で、実の父親から居場所を聞かれたのは、これが初めてだった。

「イモジェンと、彼女の友達と一緒に、富士急ハイランドに行ったのよ」ICS-Tokyoに転校してきてから、彼女たちと行動をともにしているけれど、ジャンビとヌトンビはまだ、イモジェンの友達であって、私の友達だとは思えなかった。

彼はイモジェンの名前を聞いて、満足したようにうなずいた。「良かったな」と言ってから、彼は付け加えた。「俺は今度、ICS-Tokyoの保護者会に参加することになってる。夜に行われる懇談会だな」彼の喋り方は、若干申し訳なさを漂わせていた。今日は私の水泳の試合を見に行くべきだった、と思っている様子だ。彼は親として、見込みなしの不適格者ではないと私に知ってほしいようでもあった。「その時、シャル・カトウに直接会えるから、今から楽しみだ」もちろん、彼が懇親会に出席するのは、ビジネス上のメリットを見据えてのことなんでしょうけど。「彼女に、娘がお世話になってますって言うのが待ち遠しいよ。で、富士急はどうだった?」

彼女たちからは「アミューズメントパーク」だって聞いていたんだけど、いざ富士急に着いてみると、「ホラーパーク」って呼んだ方がいいんじゃないかと、私個人の意見だけど、思った。そこには、悪名高き廃病院があって、迷路のような廊下を進むと、手術台があったり、瓶の中に奇妙な臓器が入っていたりして、拷問部屋もあって、壁は血まみれだし、檻の中の「患者」は、めった切りに切り刻まれてるし、お客さんたちはキャーキャー叫びながら、幽霊や、狂気の「看護士」に追いかけ回されてるし...

エックス・ブラッツのみんなはそういう感じだって事前に知らせてくれなかったから、私はどっきりを仕掛けられた気分だった。

私はケンジの質問に肩をすくめた。「まあまあだった」

「俺は20代の頃に行ったことがあるけど、あれは身の毛もよだつ恐怖体験だったな」

「たしかに」と私は笑った。少なくともケンジと同じ体験を共有できて、嬉しかった。

彼は舗道の縁石にタバコを置き、かかとで踏みつけて火をもみ消すと、それを拾い上げてゴミ箱に捨てた。「夕飯にするか? いい肉が入ったから、今日からうまいステーキが食えるぞ」

「昨日までは、まずかったの?」と私は聞いた。私は彼の後に続いて、建物のエントランスへ向かった。私も心配した方がいいのかしら?

「最高級になるってことだよ」

「監査人が会社を調べてるってことは、たとえば、税金の何かってことでしょ? それってつまり...会社が何か悪いことをしたとか、そういうんじゃないよね?」

「なぜそんなことを聞くんだ? もちろん犯罪行為なんて一切してないよ」

「私はただ、何があなたを悩ませてるのか知りたいだけよ」と私は言った。ついに私は彼に対して正直になれた。「もしあなたが私の家族なら、私もあなたのためにそばにいたいの」

「俺のためとか、君はそこまで考えなくていい!」と彼が言った。

彼は、落ちたら確実に死ぬ崖から、私を突き落としたようなものだった。それくらい痛烈に、彼の言葉は私の耳に響いた。

私は言った。「じゃあ、私が近くにいないように、私を全寮制の学校に入れればよかったじゃん」

私は振り返って、一人でエントランスに入っていった。「待て! エル!」と彼が、私の背中に向かって叫んだ。しかし、私はつかつかとエレベーターに乗り込み、扉を閉めた。彼が呆然と突っ立ったまま、混乱したようにこちらを見ていた。



チャプター 30


「親に見られるくらい、べつになんてことないでしょ」体育館のバスケットコートを見下ろす階段状の観覧席で、前かがみになって本を読んでいるリュウに向かって、私はそう言った。富士急ハイランドでのホラーショーと、その後の、ケンジと交わしたあの恐ろしい会話を経験した今となっては、エックス・ブラッツのみんなの目は気にならなかった。除け者のリュウと仲良くしてるところを誰に見られたって構いやしないわ。

体育館の中央では親たちが入り交じり、歓談していた。ウェイターがトレイに乗せて運んできたオードブルを口にしたり、ワインを飲んだり、広い空間をぐるっと囲むように置かれた生徒たちのプロジェクト作品(ジオラマや、絵画や、科学実験のレポートなど)を見て回っている。富士急に行った最悪の日から数日後の夜、パーティー形式の保護者会が行われていた。lCS-Tokyoに集まった親たちが校内を見学したり、担任の先生と話したり、我が子のプロジェクト作品を愛でるように眺めている。

約束通り、ケンジ・タカハラは参加していた。東京在住の外国人で溢れていたけれど、私の血に宿る日本人の本能が作動したように、簡単にケンジを見つけられた。あの後、ケンジは何事もなかったかのように振る舞ってきたから、私もそうすることにした。対立することもなく、お互いに距離を置き、私とケンジは礼儀正しくも、よそよそしいルームメイトに戻っていた。

「最悪だよ」とリュウが言った。

私は言った。「あなたのアート作品は素晴らしいわ。あなたが優れたイラストレーターだったなんて、ちょっとびっくり」バスケットゴールの後ろの壁には、額に入ったリュウの作品が掲げられていた。それは漫画本の表紙っぽく描かれたイラストで、golfer(ゴルファー)のユニフォームを着たスーパーヒーローのgopher(カンガルーネズミ)が、東京のスカイラインを見下ろすグリーン上で、ゴルフクラブをフルスイングしている。タイトルは『Golpher(ゴルファーネズミ)』。

彼の茶色の目が、青のメッシュが入った黒髪の隙間から覗いている。「今週末はどうしたんだ? どうして対抗試合に来なかった?」

「私が馬鹿だからよ」と私は正直に答えた。エックス・ブラッツのみんなが何と言おうと、リュウ・キムラは人間として、やばい人じゃないと私は確信していた。というか、噂とは真逆の人だと思っている。要するにこういうこと。私はレジー・コールマンという人間を知っていると思っていた。彼は私の親友だとずっと思ってきた。だけど、突然、突き離されてしまった。青天の霹靂とはこのことね。しかも、彼が大切に思っている相手は、あの不満ばかり口にしているものぐさスイマー。「髪が濡れちゃうわ」って...プールなんだから、そりゃ濡れるでしょ! つまり、たとえリュウの第一印象が悪かったとしても、―エックス・ブラッツのみんなはその印象を強めようと色々言ってくるけど、―リュウがいい人ではないってことにはならないってこと。私は気づいたの。相手が本当の意味で自分を受け入れてくれるまでは、その人がどんな人間かを知るのは不可能なのよ。

「だめ、だめ、だめ」背後からおなじみの声が聞こえてきた。イモジェンだ。「今は水泳大会じゃないのよ。孤独が大好きな気分屋は放っておきなさい、エル。彼は一人になりたいから、こんな高いところに座ってるんでしょ。―彼はそういう人なのよ。さあ、行きましょ。うちの親がエルに会いたがってるわ」

「さよなら、上司」とリュウが本から顔を上げずに、日本語で言った。「さよなら」は私も知ってる日本語だった。「上司」はエックス・ブラッツ内の彼女の呼び名だけど、リュウも彼女をそう呼ぶっていうのは、なんか意外だった。

私は腕を引っ張られるようにして、観覧席を後にした。私は今にもこう言いそうになった。私のタイミングでそっちに行くから、先に行ってて。あと、リュウと話しちゃだめとか言わないで。でも、ケンジが近くにいる手前、行儀よくしていたかった。こんなところで言い争いを始めるわけにはいかない。

会場の中央では、イモジェンの両親の周りに人だかりができていた。イモジェンが人々の隙間をかき分け進み、私も後を追った。彼女のママは雑誌で見た写真よりも小さく見えた。オートクチュールのファッションで着飾ってる感じかと予想してたんだけど、全然違って、ボヘミアンっぽいヨガ好きのママって感じだった。シャル・カトウは、シンプルなレギンスを穿き、カウボーイブーツに、白いニットのセーター、それに大きなダイヤモンドのペンダントが付いたネックレスを首から下げていた。ダークブラウンの髪をポニーテールにして高い位置で結んでいる。メイクは最小限にとどめ、リップグロスとマスカラのみだ。彼女はイモジェンと同じ青い目をしていて、堂々とした立ち振る舞いだった。最新流行のファッションは、夫のアキラ・カトウに任せているようだった。彼は深紅色のチェックのカーゴパンツを穿き、赤のシルクハットをかぶり、スーツと白いシャツでビシッときめていた。「あなたがエルね」とミセス・カトウがイギリス英語で言って、私に手を伸ばしてきた。「あなたのことはたくさん聞いてるわ!」え、そうなの?

「俺は何も聞いてないぞ」とミスター・カトウが冗談めかして言った。「俺に話したことあったか?」

「何度もあったわ。パパはいつだって私の話を聞いてないじゃない」とイモジェンが言った。

「そういうことか。俺らしいな」彼女のパパは愛想よく笑った。

「エル、今度週末にでも、うちに泊まりに来なさい。あなたのことをもっと知りたいわ」とミセス・カトウが言った。私はお招きにあずかって光栄だった。他の人の家で親交を深めることは、アメリカでは一般的なんだけど、日本ではそれほど浸透していないようだった。

「ぜひ彼女をお願いします!」突如、私たちの輪に新しいメンバーが加わった。誰かと思えば、キミ・タカハラで、彼女は自分から私の叔母だと名乗り出た。タック・ラグゼで何が起きているのか知らないけど、ケンジが今夜はすっぽかさずにちゃんとここに来てくれたことだけで、十分驚いていたっていうのに、そこにキミまで登場したから、私は気絶しそうだった。私が混乱している横で、彼女はこれくらいお手の物、といった手慣れた感じで、保護者のみなさんの中でたくみに振る舞っている。ニック・ズホノフの母親がスマホを片手にアプリの説明をすると、キミはすでにそのアプリを使いこなしていたはずなのに、あらまあ! と大げさに驚いてみせた。かと思うと、ジャンビのエンジニアのパパが史上最悪のつまらないジョークを言った時、キミは彼がプロのコメディアンであるかのように笑った。キミがそんな風に声を立てて笑うところを今まで一度も見たことがなかった。かと思えば、キミはヌトンビの母親に近寄って、大使館のレセプションパーティーを、ぜひ〈ディスティニー・クラブ〉で開いてほしいとお願いしていた。

そこへクロエ・レーラーが、キミとケンジの間に滑り込むようにして、グループに加わった。「来年の春、2年生のクラスは京都へ旅行に行くことになっているのですが、保護者で付き添ってくれる方が何人か必要なんです。どなたか一緒に行ってくださる方はいませんか?」

ラジオの電波が途絶えたように、カトウ夫婦とケンジは黙ってしまった。「ぜひ私が!」と言ったのはキミだった。

「行けたら私も」とアキラ・カトウが手を挙げた。キミが目を大きく見開いて、わざとらしく感嘆の声を発する。ふりが下手くそ!

「来ないで!」とイモジェンが言った。

クロエが言った。「そっか、あなたはすっかり転校生のスタースイマーと仲良くなったのね。 そういえば、キミもハーバードで優れたスイマーだったのよ、知ってた? エル」

キミが微笑んだ。「たしかに泳いではいたけど、大学のチームには入っていなかったわ」

クロエが言った。「彼女はチームに入る実力はあったんだけど、あえてそうしなかったのよ。あれは何語と何語だったかしら? 毎年ルームメイトが変わるたびに、ルームメイトの子の母国語を、選択科目で受講するのに忙しかったのよね。言葉が通じないと、洗濯物が汚いだとか、文句の一つも言えやしないってね」

キミが言った。「今から思えば、私も水泳チームに参加すべきだったわね。朝練のために早起きしなきゃいけないんだけど、誰かさんのおかげで、どうせ毎朝それくらい早く起こされてたから」キミとクロエが声を上げて笑った。

「私たちは新入生の時、ルームメイトだったのよ。それで、私はボート部だったから」誰も説明を求めてはいなかったんだけど、クロエは説明した。「いつも5時起きだったのよ」

「思いやりの欠片もなかったわね」とキミがからかい口調で言った。

「何のために友達はいると思ってるの? 夜が明けたらモーニングコール。それが友達ってもんでしょ」とクロエは、『That's What Friends Are For』のメロディーに乗せて歌った。

学部長先生って保護者会で歌うものなんだ?

キミにもちゃんと友達がいたんだ?

っていうか、彼女たちって500年前のハーバードのルームメイトたちっぽくて、キモい。

ケンジが心配そうにスマホを見た。「タック・ラグゼがまた緊急事態だ。残念だけど、俺は今すぐホテルに戻る必要がある」彼は身を乗り出し、キミの耳元でそうささやいた。彼女がうなずく。

私はがっかりしたけれど、驚きはしなかった。そもそも彼がここに来てくれたこと自体信じられなかったから。私はキミをちらっと見やった。彼女がケンジの代わりにタック・ラグゼに戻って、なんとか彼女だけで事態に対処してみる、と言い出してくれないかと期待した。

「早く行って」とキミがケンジに言った。「ここは私に任せて。うまくやっとくから」

「私も一緒に行く」と私はケンジに言った。「あなたがここにいないのなら、私もここにいる必要はないから」

キミが言った。「あなたは行っちゃだめよ、エル。ここに残って、私に校内を案内してちょうだい」そう言いながら、キミの目は1メートルほど離れたところにいるシャル・カトウにねらいを定め、照準を合わせていた。ここに残って、私がおべっかを使いながら、あなたの友達のママとお喋りするのを手伝ってちょうだい、エル。というメッセージが聞こえた気がした。

ついにリュウ・キムラが観覧席に張り付いていた腰を上げたようで、両脇に両親を引き連れて、私の方へ歩いてきた。彼らはひときわ目立っていた。―彼の両親はともに濃紺のスーツを着ていて、外国人でごった返している中で、彼らは見るからに日本人だったから。リュウが私たちのグループに近づいてくる。彼は両親に私を紹介しようとしているんでしょう。イモジェンがしかめっ面になり、私は思わず笑みがこぼれる。

キミのレーダーが敵の接近を察知し、警報音を鳴らしたようだった。私を奪われまいと、私の腕をグイッとつかみ、言った。「あなたの先生に会いたいわ」私はさっきの観覧席みたいに、またしても連れ去られるわけにはいかず、足をふんばるようにして、その場に固執した。

しかし、リュウは私のところへ両親を連れてこなかった。彼の両親も紹介なんて、はなから期待していない様子で、私のそばを通り過ぎていく。

私は、私の腕をつかんで離さないキミの美しい顔に、強烈なパンチを食らわせてやりたい気分だった。彼女の鼻頭めがけて、昔どこかで見た廃れ知らずの右ストレートを。

ニック・ズホノフと彼の父親が私たちのグループに加わった。―彼の父親はニックと瓜二つで、年の違いしかないくらいよく似ていた。ニックが言った。「パパ、この子が友達のエルだよ。彼女はワシントンDCから、最近引っ越してきたんだ」

彼のパパは目を上下させて、私の全身を隈なく観察した。ニックと初めて会った時と同じ目だ。「可愛らしい」と彼は感想を述べ、握手を求め、私に手を差し出してきた。私は軽く彼の手を握り返す。こんなことなら、ハンド消毒液を持ってくればよかったな。

「彼女は私の姪なんです!」とキミが高らかに言った。あら、キミ叔母さん、ようやく私のことを姪だって認めてくれたの? そんなわけないか、なんてインチキ叔母さんなの!

「君が叔母さんから美貌を受け継いだのがよくわかるよ」とニックが言った。

もうズホノフ親子がいないところならどこへでもいいから、早くここから立ち去りたかった。私は言った。「あ、キミ叔母さん、あそこに海洋科学のジム先生がいるわ。挨拶しに行きましょ!」私は「叔母さん」という言葉に皮肉を込めて言ったんだけど、むしろ悲しい気持ちになってしまった。本物の叔母さんが欲しい。―ビジネスチャンスが広がるから、という理由だけで、エリート私立学校に通う姪を、姪だと思うような人ではなくて。

「東京のおすすめレストランのリストをメールでお送りしますので、いつでもこちらにご連絡ください」そう言って、キミはニックの父親に名刺を差し出した。「それから、みなさま、―〈ディスティニー・クラブ〉にもぜひお越しください。その際は私がお出迎えしますので」

彼女はお辞儀をしながら、近くにいた人たちに名刺を配っていた。


・・・


帰宅する途中、車の中でキミは、彼女がパーティーで成し遂げたあらゆることについて、順を追ってしゃべり続けた。それを聞かされる私にとっては、この上なくうっとうしい夜になった。彼女はアキラ・カトウに、タック・ラグゼの〈スカイガーデン〉に置く彫刻を設計してほしいと頼み、検討しますという回答を得た。それから、彼女はジャンビ・カプールのパパに、タック・ラグゼの事業の中で請け負える仕事はないか、今度話し合いの場を持つ約束を取り付けた。ニック・ズホノフの父親は、彼の会社の取締役会を開く際に、〈ディスティニー・クラブ〉を会場の候補として検討してみる、と言った。結局のところ、今夜の集いは、保護者のための夜会ではなく、キミのための夜会になった。予定では、私はケンジに校内を案内して、彼を先生たちに会わせるつもりだったんだけど、その機会がすべて、キミのビジネスチャンスに変わってしまった。今どんな「緊急事態」が起こっているのか知らないけど、こんなにキミが有能なら、ケンジの代わりに彼女がタック・ラグゼに戻っても、きっと問題に対処できたはず。だけど、結局ケンジにとって、私の学校生活の様子を目で見て確認することは、優先すべき事柄ではなかったってことね。

「サトシ・キムラの息子さんがICS-Tokyoに通っていたなんて、びっくりしたわ」とキミは、リュウの父親の名前を出して言った。「クロエは私にそんなこと一度も話してくれなかったから」

「子供をどこの学校に入れたっていいじゃない。そんなことを気にする人がいるの?」と私は聞いた。

「その通りね」とキミは、私の発言を完全に誤解して言った。「キムラさんのお子さんたちは、普通の日本の学校に通えないのよ。親がしたことのせいでね。あなたもリュウ・キムラとは友達にならない方がいいわよ。ICSでは異質な家族だから」

「そんなのおかしいわ!」と私は、自分が偽善者だとわかっていながら抗議した。私もエックス・ブラッツのみんなの意見に従って、最初彼から距離を置いてしまったから。それでも、私はキミに「父親がしたことは子供のせいじゃないわ」と指摘した。しかし彼女はもう聞いていなかった。頭を切り替えて、膝の上に置いたノートパソコンでビジネス関係の文書に集中している様子だ。タック・ラグゼに政府の調査が入ったということは、もしそれがスキャンダルにでも発展したら、リュウの父親と同じことになるんじゃないの? それでも彼女はリュウの家を異質だとか言うのかしら? タカハラ家のビジネスの問題が、娘の私の評判を落とすかもしれないって心配じゃないの?

車の座席に置いてあった私のスマホが点灯し、ブルブルとメッセージの受信を告げた。手に取って画面を見ると、それは私のスマホではなく、キミのスマホだった。彼女はノートパソコンで何かをタイプしていて、気づいていない。画面に映ったメッセージは、クロエ・レーラーからだった。今晩部屋で待ってるわ。一緒にお風呂入ったら、シャンパンで乾杯しましょ! 愛してる。

えっ?!

キミはレズビアンだったの? そして、クロエ・レーラーが彼女のガールフレンドってこと? なるほど! だからクロエはいつもキミのことばかり話していたのか。それから、父親が亡くなってすぐにキミが離婚しちゃったのも、きっとそれが原因ね。

キミがノートパソコンで何を読んでいるのか見えなかったけれど、彼女は画面を見つめながら、不安な面持ちで小指のあま皮を噛んだ。私の中で、彼女に対する苛立ちがさっと消えた瞬間だった。逆に彼女が気の毒に思えてきた。今時、なぜ同性愛を隠す必要があるの? 公表したって何も問題ないでしょ、と思ってから、考え直した。私にも、あのミセス・タカハラみたいな昔ながらの母親がいたら、私もそんなに積極的には、カミングアウトできないかもしれない。

私はキミに言った。「あなたのスマホが光ったみたいよ」

彼女がスマホを手に取った。「ああ、銀行に勤めてる友達。彼が今夜飲もうって。タック・ラグゼであなたを降ろしたら、私はそのまま彼のところへ行くわ」

オ、オ、オッケー。

私には嘘をつかなくてもいいのよ、と言いたかった。ガールフレンドがいたって、私は笑顔で応援するだけだから。でも言えなかった。私たちはそこまで親密ではなかった。家族ってそういうものかもしれない。


・・・


タック・ラグゼのエントランス前でちょっとしたいざこざがあってから、私とケンジの間には、お互いなるべく衝突しないように生活しましょう、という暗黙の合意があった。そんな中、保護者会の夜がやって来た。

その翌日の朝、私はキッチンで牛乳をかけたシリアルを、ざくざくと急ぎ気味で口の中にかき込んでいた。アケミと一緒に車で通学する時間が迫っている。すると、ケンジがふらふらとキッチンに入ってきた。彼はすでに仕事用のスーツを着ている。朝、学校に行く前に彼を見るのは珍しいことだった。彼は通常、午前2時頃まで〈ディスティニー・クラブ〉から帰ってこないし、それから午前7時か8時まで寝ているから、彼が起きた時には私はもういないのだ。彼はとてもとても疲れた顔をしていた。今日は睡眠時間を削ってまで、朝から仕事なのかもしれない。ちょっと気の毒になって、彼のために朝食を作ってコーヒーを差し出してあげたくなった。できた娘だったらそうしたんでしょうけど、私はまだ、彼が保護者会をそそくさと抜け出して帰っちゃったことを根に持っていた。

「おはよう」と私は言った。

彼は私に挨拶すらしなかった。彼はすたすたと冷蔵庫に向かうと、中からリンゴを取り出し、一口かぶりついた。それから私の方を見て、言った。「昨夜、お前が観覧席でサトシ・キムラの息子と話してるのを見たぞ」

「だから?」と私は言った。こう付け加えたいくらいだった。私もあなたがさっさとイベント会場を後にしたのを見たわ。あなたが初めて来てくれた私の行事だったのに、1時間もいてくれなかった。

ケンジが言った。「イモジェン・カトウとか、ニック・ズホノフと君が友達になるなら、大歓迎だ。だが、キムラさんの息子はだめだ」

何言ってくれちゃってるの? そんなの、絶対受け入れられないわ。エックス・ブラッツのみんなも同じようなこと言ってたけど、そうでなくたって、生まれたばかりの娘を16年間も放っておいた父親がそんなこと言ったって、受け入れられるわけがないでしょ!

私は鼻で笑い飛ばすように言った。「彼にはちゃんとリュウっていう名前があるのよ。彼はれっきとした一人の人間なの。父親がどんな悪いことをしようが、それを彼にかぶせて見ちゃだめでしょ」

ケンジが首を横に振りながら、食器棚から水の入ったボトルを取り出した。(水の入ったボトルは冷蔵庫に入れて冷やしておく、というのはアメリカに特有の習慣だったんだと学んだ。)彼は水をコップに注いでゴクゴクと飲み干すと、言った。「子供っていうのはそういうものなんだよ。お前が学校でタカハラ家を背負っているのと同じだ。お前はここに住んでいて、タカハラ家がお前をICSに入れたんだ」

そう言うと、彼はせわしなく玄関ホールに向かった。私もそろそろ家を出る時間なので、彼の後に続いた。彼は玄関ホールにしゃがみ込んで、仕事用の靴を履いていた。「そんなの全然意味わかんない。私がすることは私が背負うけど、あなたがしたことは、あなたが自分で背負ってよね」

「お前は考え方がアメリカ的だな。これからもここに住むつもりなら、日本的なものの考え方を学ぶ必要があるぞ」

「私はこれからもここに住んでていいの?」それは私が抱えていた不安だった。それを彼にぶつけてしまったことが自分でも信じられない。「私はあなたたちの価値観を好きになれるかどうかわかんない」

私は心の奥深くまで溜まった大きな不安をぶつけたんだけど、彼はまったく意に介していない様子だった。彼の琴線にかすりもしなかったようで、平然としている。彼にとっては、朝仕事前に私の顔を見かけたから、そういえば、と思い出したことを言っただけの、短い、間を埋めただけの会話だったのだ。それ以上でも、それ以下でもない、ただの雑談。「ここで暮らすつもりがあるのなら、それを学んだほうがいい」と彼は感情を込めずに淡々と言った。彼のスマホが鳴り出した。電話のようだ。彼が玄関のドアを開けて、出て行こうとする。彼はドアノブを持ったまま、こちらを振り向いた。彼の目は怒りと苛立ちに満ちていた。私に理不尽なことを無理に納得させようとしている目だ。「あのリュウ・キムラとは付き合うな。俺が言ってるのはそれだけだ。大したことじゃないだろ」

彼は電話に出て声を発しながら、バタンとドアを閉めた。

大したことなのよ。私にとっては。








藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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