『1日でめぐる僕らの人生』1
『Our Life in a Day』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2020年09月07日~)
例によって、Amazonで(最初の数ページを)立ち読みというか、試し読みしていて、藍らしい感じの小説を見つけました! 藍の目が最初の1ページでスルーできなかった、放っておけなかった作品です。
アマゾン川の澄んだ水面を凝視しながら、色々な熱帯魚が通り過ぎるのを眺めていて、あ、この魚いいな、藍に合いそう! と恋に落ちた💙という感じです。👈どんな感じだよ!!笑
これもまた素敵な出会いになればいいな、と思います。
2017年に『ダッシュとリリーの冒険の書』(レイチェル・コーンとデイヴィッド・レヴィサンの二人の共著)をAmazonで見つけて、藍のライフスタイルは(あるいは藍の人生は)、劇的に変わったから、今回もそんな感じになればいいな、と。
『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』(レイチェル・コーン著)は2019年に発表された作品なんですよ。『19曲のラブソング』(デイヴィッド・レヴィサン著)も2019年か2020年です。
つまり、レイチェル・コーンの新作に「東京」という日本の地名が入っているのを見た時は、かなりびっくりしました!!!
レイチェル・コーンがエゴサでもしている時に、たまたま藍のブログを見てくれて、「日本について書こう!」と思い立ったんじゃないかと、勝手に想像を膨らませちゃったくらい、奇跡的な縁を感じました。
もちろん、『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』と『19曲のラブソング』も訳し続けるので、トリプル(三つ平行)になります。三つも同時に読ませちゃって、すみませんm(__)m
読書の秋ですし...
目安としては、
火、水:エルちゃん
木、金:めぐる人生
土、日:テイラー・スウィフト👈この話も、とっても藍らしい感じなんですよ! ブログをめぐる話だし、藍も音楽がないと生きていけないくらい、音楽中毒なので(^^♪
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〈登場人物の紹介〉
トム・マーレイ:ちょっと間が抜けてる、こじらせ男。カバーバンドを組むミュージシャンで、ピアノ講師。ぼさぼさのモップみたいな茶色の髪で、灰色が混じった短い口ひげを生やしている。(それっぽい写真を探していたら、ジョン・レノンに行き当たった👇)
エズミー・サイモン:トムの恋人。言語療法士。大きな瞳、薄い唇、茶色の髪(ピクシーカット👇)
アナベル:トムの幼なじみ。トムとエズミーを引き合わせた人。
アリ:トムとエズミーが出会ったパーティーの主催者。
メム:DJ。
アングリー・マット:エズミーの元カレ。ハードロック・バンドのドラマー。
タンジー:トムの元カノ。
今後、折に触れて情報を付け足していきます。
【2020年9月18日の感想】
頭の感覚が新鮮✨✨
この小説の斬新さは、10年後がわかっている、ということですね!
誰と誰がくっつくのか?とか、死んじゃうんじゃないか?とか、そういう読み進みながら当然浮かぶはずのクエスチョンマークが浮かばない。(ただ、普通なら浮かばないクエスチョンマークが浮かんじゃうけど...笑)
【チャプター 1の感想】(2020年9月24日)
いつか新婚旅行でロンドンに行ったら、トムとエズミーが歩いた〈セント・マーティンズ通り〉を、手をつないで歩こう!👈相手がいないだろ!爆笑
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プロローグ
今夜はまだだろうと油断していた。トムは明日が特別な日になるだろうと思っていた。明日は6月21日。トムとエズミーが10年前に出会った日だ。あれは真夜中過ぎだったな、出会ったばかりのエズミーと、初夏のロンドンの静まり返った道を並んで歩きながら、一緒に家に帰った夜が思い出される。
西ハムステッドにある共同住宅に帰り着き、トムが玄関のドアを開けると、紙吹雪が舞った。エズミーが仕掛けたんだな、とすぐにわかった。部屋中いたるところに彼女の犯行を示す証拠が残っていたから。この紙吹雪は、二人で回し読みした本を細かく切り刻んで作ったのだろう。それをドアフレームの上に挟んでおいて、彼が中に入ろうとドアを開けた瞬間に、無数の紙吹雪がはらはらと頭上から舞い落ちてくる仕組みだった。それから、何百枚もの写真が目に入ってきた。茶色のひもを廊下の天井に斜めにかけて、万国旗を並べて吊るすみたいに、10年分の写真を木製の洗濯ばさみで留めていた。リビングルームからはゆるやかに音楽が聞こえてくる。そういえば3年前、この曲に合わせて二人で踊ったな。あれはこの部屋を購入してすぐの頃で、まだ前の所有者が吸っていた煙草の臭いや、彼が飼っていたボクサー犬の臭いがきつく残っていて、二人で文句を言い合っていたっけ。このCDは、ダイアー・ストレイツの『メイキング・ムービーズ』というアルバムだ。二人でここに引っ越してきてから数ヶ月間は、狭いフロアを占拠するように40箱くらいのダンボールがずらっと置かれていたんだけど、無性に音楽が聴きたくなって、でもどの箱にCDが入っているのかすぐには見つからなくて、最初に出てきたCDがこのアルバムだったんだ。
「ハロー?」トムはエズミーに呼びかけた。手に持っていたバッグをコートラックの下に落とし、軽量素材の黒いレインコートをラックに掛ける。オーバーグラウンド鉄道のハウンズロー駅から歩いていたら、〈アイラ・ガーデン〉に差し掛かった辺りで急に雨が降ってきて、初夏のこの時期にはよくあることだからレインコートを持っていたけど、まだ髪や袖が濡れている。「一体何事だ?」
「ラウンジよ」彼女の声が返ってきた。
ラウンジといっても、彼女がそう呼んでいるだけで、ホテルのラウンジとは違って、ただのリビング兼ダイニングルームのことだ。廊下を3歩ほど歩けば、すぐにたどり着ける。ラウンジのドアを開けると、エズミーが待ち構えていた。
彼女は藍色の優美なカクテルドレスに身を包み、グレーのハイヒールを履いていた。顔にはメイクがばっちり施され、彼女の大きな瞳と薄い唇が際立っている。ルージュが引かれた口元は、キラキラ輝く笑顔にも、涙を浮かべたしかめっ面にも、どちらにも転がれる準備ができている感じだ。彼女の髪は、まだ見慣れていないピクシーカット。前までは茶色の髪を肩の長さまで伸ばして、軽くカールさせていたんだけど、今年に入って、彼女の、―というか二人の困難が始まった時、「これからは『ニューエズミー』よ」と言って、彼女は外見を刷新させ、その一環で髪もばっさり切り落としたのだ。
「何だよこれ? エズ」と彼は聞いた。「今夜は、一緒に荷造りするだけかと思ってた」
「サプライズよ」
「おお、そっか。夕食は?」
「まだよ」
トムは部屋を見回す。ソファーの前のコーヒーテーブルの上にはろうそくが立っていて、オフホワイトの壁をほのかに照らしていた。かなり値が張った壁掛け時計は、7時3分を指している。ソファーの側面は、二人の飼い猫、マグナスが執拗に引っ掻いた爪痕が相変わらず目立つ。マグナスは深みのある真っ赤な色がどうしても気に入らなかったのだろう。部屋の片隅には安物の垂れ板式ダイニングテーブルがあって、二人のディナー用に整えられていた。レストランのテーブルに近づけようとしたらしく、中央にパンかごが設置されている。そして、トムがいつも座っている側には、包装された小さなギフトが置かれていた。縦横5センチほどの正方形で、高さは1センチほどの平べったい小包みだった。
「しまった。エズミー、君へのプレゼントはまだ包んでもいない」と彼は言った。罪悪感でわずかに心が痛んだ。もっと正確を期するなら、「まだ買ってもいない」と言うべきだろう。明日は二人の記念日ということで、明日から2、3日、西の山の方へ小旅行に出かけることになっていて、彼は明日、出発前にプレゼントを買うつもりでいた。彼女の思いつきで、コッツウォルズの新緑を望む素敵なホテルを予約してあった。しかし、どうやって10周年を祝うかという段取りは、しばらく宙ぶらりんのままだった。近頃では、二人が望んだ通り、計画した通りに物事が進むなんてことは、ほとんどなくなっていた。
「プレゼントっぽいけど、それはプレゼントじゃないわ」と彼女が言った。「ちょっとしたアイデアを思いついたの」
「アイデア?」
「そう。ちょっとね。本当のプレゼントは明日になるわ。今夜の贈り物は、タイムトラベルよ」
彼女は面白がっている様子で、笑みを浮かべている。トムはからかわれているのかと怪しんだ。
「ほら、座って。最初のコースはもう準備できてるわ」と彼女が言った。
「その前に着替えていい? 不意をつかれて目が点状態だけど、ほら、見て」彼は自分の服装を示すように、雨に濡れた〈ニューバランス〉のトレーナーを引っ張った。ボタンを開けて羽織っていた、生地がすっかりくたびれた青いリネンシャツも濡れている。安手のジーンズ(彼のコレクションで2番目に良いジーンズ)も湿っている。彼は明日の午前中、北ロンドンに行って、もろもろ買い物を済ませたら、一番安い理髪店で髪を切ってもらうつもりでいた。全然決まらないぼさぼさのモップみたいな茶色の髪をさっぱり切って、灰色が混じった短い口ひげも整えてもらうつもりだ。
「いいわ。でも急いでね。あなたはもう遅れてるのよ」
もう遅れてるってどういうことだよ。彼は自分の知らないことが始まっているのかもしれないと、いぶかしみながらも何も言わずに、二人の寝室に急いだ。エズミーが「そのシャツ好き」と言ってくれたのを思い出し、コットンのオックスフォードシャツを選んだ。一日中穿いていたジーンズを脱ぎ、別のジーンズに穿き替える。
トムは鏡で自分の顔を見て、一日中悩ましかった鼻毛を引っこ抜きながら、なぜ彼女はこんなことをしたんだろうと考えた。―まあ、彼女らしい行動ではあるんだけど、もしかしたら、彼女は何かに気づいたのか?
トムは頭を振って、その疑問を振り払うと、記念日前夜を台無しにするようなことは避け、彼女の言う通りに身を任せようと心に決めた。彼は一度大きく深呼吸してから、彼女がテーブルの片側に座って、微笑みながら待っているリビングに向かった。
「それで」彼は向かい側の席に座ると、言った。「これは一体どういうことなのか、教えてくれるかな?」
「それを開けてみて」
「これ?」彼は目の前の小さな包みを手に取ると、彼女が熱い視線を注ぐ中、セロテープを剝がし始めた。
中にはポスト・イットみたいなメモ用紙の束が入っていて、一番上の紙にはこう書かれていた。1日でめぐる私たちの人生。一緒に時計の絵も描かれていて、ちょうど12時を指している。真夜中の12時なのか、お昼の12時なのかはわからない。トムは黄色いメモ用紙をパラパラとめくってみた。中にはストーリーが書かれているか、あるいは、何かの絵が動いているように見えるパラパラ漫画かと期待した。それってエズミーらしい考えだと思ったんだけど、違った。どの用紙にも文字は書かれていなかった。ただ、時間と小さな時計の絵だけが描かれている。
「ごめん、エズ」と彼は言った。「本当によくわかんない」
「ゲームよ」
「ゲーム?」
「そう、私が考えたの。特別にトム・マーレイのためにこしらえた、エズミー・サイモン考案のゲームよ」
「このゲームで何が起きるんだ?」
「まあ、あなた次第ね。上手くやれば2、3時間で、私たちが一緒に過ごしてきた10年間の、すべての重要な瞬間をめぐれるわ。私たちのあらゆる瞬間を追体験する感じね」彼女は自分のひらめきに得意そうに微笑んで、言った。「ようやく意味がわかった? タイムトラベルでしょ」
「たしかに」とトムは言いつつ、内心驚いていた。数年前のエズミーなら、こういうことをやりそうだと思った。だけど、今の彼女には、あまり似つかわしくない気がした。「それで、この...タイムトラベル・ゲームには何かルールがあるの?」
「一つだけね。指示をその裏に書いておいたわ」
トムはメモ用紙の束をひっくり返した。小さく折りたたんだA5の紙がテープで留めてあった。彼はそれを広げて、読み始める。
1日でめぐる私たちの人生ゲームへようこそ! 私たちの10周年を一緒に祝うために、エズミー・サイモンがトム・マーレイのために考案した新しいゲームです。
メモ用紙の各ページは1時間を表します。24枚あるので24時間、つまり1日です。あなたは、私たちが一緒に過ごしてきた人生で、最も重要な24の瞬間を思い出してください。1時間ごとに1つの出来事とします。
ルールはこの1つだけです。メモ用紙に示された時間のことを思い出してください。大体このくらいの時間だったな、くらいで大丈夫です。たとえば:
午前3時~4時頃、エズミーがミルトン・キーンズ駅まで僕を迎えに来てくれた。僕は馬鹿だったから、電車に乗ったまま寝ちゃったんだ。(あれは2011年3月だったな。覚えていたら、年月まで言ってね)
みたいな感じで、あなたから24の重大な出来事が出そろったら、ゲームクリアよ。あなたは賞品を受け取れるわ。
楽しんで! 愛してる。エズより、キスの花束を。
トムはエズミーの顔を見上げた。二人の間に置かれたろうそくにほのかに照らされた彼女の顔が、にっこりと満面の笑みをたたえていて、彼は一瞬たじろいでしまう。
僕とエズミーの関係を振り返って、最も重大な24の出来事か。トムは思いを巡らせてみた。彼女が忘れているようなことを言った方がいいんだろうか? それとも彼女が、そんなこと知らなかった! と驚くようなこと、あるいは彼女が知りようもないことを言えってことか?
手のひらがじっとりと汗ばんできた。鼓動も少し速まっている。彼女の意図もまだ不明確だけど、これはひょっとすると、彼女が考えている以上に意味のある、大変なギフトだぞ。心の中を偽りなく、ありのままに話すのって、僕にはしんどいんだよ。
彼は積み重なった一組のデッキをちらっと見やってから、もう一度エズミーを見た。
「準備はいい?」と彼女が言った。
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ニューヨークに関しては、ホールデン・コールフィールドや、ダッシュやリリーのおかげで、そこそこ詳しいんだけど、ロンドンは存じ上げないので、笑
藍用の地図です。(地図がないとどこにいるのかわからなくなっちゃうので...)👈実存的危機説。爆笑
ロンドンの北西部に位置する西(ウェスト)ハムステッドで、トムとエズミーは同棲しています。
明日から、さらに西へ行ったコッツウォルズのホテルに泊まりに行く予定です。
エディンバラの近くにおじいちゃん家があります。👈誰の?笑
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パート 1
チャプター 1
午前2時~3時
僕らが出会った夜
2007年6月 — ストックウェル、ロンドン
「で、いつこの街を出て行くの?」
「べつに、僕は出て行くとまでは言ってないけど」とトムは言った。
「言ってるようなものでしょ」
トムは首を横に振った。
「『ロンドンという街のせいだと思う自分もいて、僕はエディンバラに引っ越すかもしれない』」と彼女は、トムの口調を真似て言った。「あなたが言ったそのままよ。っていうか、あなた、エディンバラに知り合いなんていないでしょ。あなたの友達は全員、ここか、東海岸のローストフトにいるだけでしょ」
「エディンバラの隣町のリースにおじいちゃん家があるんだ」
「おお、いいじゃない! 25歳の男が、週末の夜に年齢が3倍の人たちと仲良くつるんで過ごすわけね。っていうかさ、トム、手持ちのカードを全部見せてみなさいよ」
「僕は行くかもしれないって言っただけで、まだはっきり決めたわけじゃないんだ」
「まったく、あなたってほんと面倒臭いよね」
「自分でもわかってるよ」と彼は悲しそうに言って、縁が欠けた水色のキッチンカウンターに寄り掛かった。カウンターの上に誰かがこぼしたビールが肘につかないよう気を付けながら、手に持っている缶を口に近づけ、炭酸の抜けた生温いダイエットコーラを一口飲む。
「ごめん」とアナベルは同情するように彼の腕に触れた。「ちょっと言い過ぎたわね」
トムは微笑んだ。あとどれくらいの時間、このパーティーに居続けることができるだろうか。鳴り響く音楽も耳をつんざくようで、ひどい。90年代のインディーズ・バンドと、ちゃちなハウス・ミュージックを融合して垂れ流しているのは、アリの友人のメムという自称DJだ。彼が言うには、「本当は今夜、〈ファブリック・ロンドン〉で皿を回すはずだったんだけど、君たちに俺のDJスキルを披露するために、〈ファブリック〉の出番は断って、こっちに来た」そうだ。ラウンジはアリが勤めている広告代理店の同僚でごった返していた。やばいやつを鼻から吸い込んだのか、ラリってる馬鹿もいる。壁にはマグリットの『ゴルコンダ』が額縁に入れられている。「集団の中の個」をテーマにした傑作絵画だ。といっても、もちろんレプリカで、元々ここに飾られていた大家の所有物らしい。屋上のテラス(というか、ただの屋上)を仕切っているのは、アマチュアのカメラマンだった。彼はパーティーの参加者たちに、穴の開いた額縁を顔の前に掲げるよう指示しながら、使い古された構図だが、ロンドンの摩天楼を背景に写真を撮りまくっている。そんな中で、トムは完全に浮いていた。見渡せば、50人以上の人たちが、アイアンマン、スーパーマン、バットマン、スパイダーマン、バナナマンなどに扮して、騒ぎまくっている。ワンダーウーマンも3人くらい見受けられる。ハルクに扮しようと全身を緑に塗った、ほぼ全裸のやつもいる。―時間が経つにつれて、普段着の自分がこの中で一番の馬鹿に思えてきて、自分も何かしらのコスプレをしてくればよかったな、と悔やんだ。
隣のアナベル(彼女はジーン・グレイというスーパーヒーローの恰好をしているらしいが、そう言われなければ、ただ緑の洋服を着ているだけにしか見えない。)によれば、このパーティーで「まとも」なのは、アナベル自身以外では、エズミー・サイモンくらいで、彼女はアリの同居人の元カノということだった。アリの同居人、つまり彼女の元カレは、アングリー・マットという名のドラマーで、彼のハードロック・バンドはそこそこ人気があり、ライブスケジュールが一年中ぎっしり詰まっていた。彼が全国ツアーに旅立ってから、かれこれ11ヶ月が経ち、その間、このアリの部屋には帰っていないそうだ。
エズミーは綺麗だった。髪は肩までの長さで、こげ茶色の髪をふわっとカールさせている。彼女の瞳は輝きを放ち、顔だけでなく彼女の全身に生彩を添えていた。彼女は一晩中ずっと、笑顔を絶やさなかった。彼女はジーンズに、赤いコンバースを履き、チェックのコットンシャツというカジュアルな軽装にもかかわらず、優雅なドレスを身にまとっているかのような佇まいだ。一方、彼女の周りは、似ても似つかないインクレディブルや、スパイダーマンや、無敵のヒーローでごった返している。
しかし、エズミーに見とれているのをアナベルに気づかれ、「彼女はあなたには合わないわよ」と言われてしまった。
「ちょっと待って」とトムは言った。「まず第1に、なぜ合わないって言える? 第2に、僕が彼女に興味があるなんて誰が言った?」
「そうね。まず第1に、彼女はいつでも陽気なの。あなたみたいな根暗とは違うのよ。第2の前に、第1.5に、彼女は素敵すぎて、あなたには無理よ」
「それってどういう意味? 彼女は素敵すぎて」と彼は、アナベルの言い方を真似て、ため息をつくように言った。素敵! と憧れを爆発させるような言い方ではなく、もっと投げやりな感じだったから。
「彼女は子供たちを相手に、言語療法とか、そういうことをしてるのよ。素敵なことでしょ。自分の人生を他の人たちのために捧げようっていうのよ。あなたみたいな、アーティスト気取りの自己中とは違うってこと」
「僕は一応ピアノを教えたりもしてるけど、所属してるバンドはカバーしかやらないし、アーティストを気取ってるわけじゃない。まあ、それはいいや。とにかく、そういうそれぞれの性格を持つ二人が相容れない、なんて僕には納得できないな」
アナベルはため息をついた。彼女がまた、教訓めいたことを口にしようとしているのがわかった。彼女は善意からなんだろうけど、いつも僕の面倒を見ている感じで、あれはしちゃいけない、これはしちゃいけない、と小言を言ってくる。まあ、最近の出来事を考えてみると、彼女の忠告はもっともだったけれど。
「いいよ。何でも言って」とトムは言った。
「ぴったり合うかとか、相性の問題ばかりじゃないでしょ」そう言うと、彼女は遠回しにエズミーとトムを交互に指さした。「恋愛とか、そういうのはまだ良くないんじゃないかってことよ。あんなことがあったっていうのに」
「僕はただ、ちょっと見てただけだよ。パーティーで男女がチラッチラッとお互いに視線を交わすなんて、普通のことじゃないか。君は勘ぐりすぎだよ」
「私の意見を言ってるだけよ。それが私の役目でもあるから。べつに何も口出しせずに、悪い友達みたいに傍観しててもいいのよ」
「君の意見って?」
「あなたは弱いから、きっとあなたの心はまたすぐにパリンと割れちゃう。どうせ、もう大丈夫、とか思ってるんでしょうけど、まだ2ヶ月しか経ってないでしょ」
トムは何も言えなかった。アナベルが言ったことには、多少なりとも問題の核心が含まれていた。しかし彼には、長年にわたる、あまり誇らしいとはいえない免疫がついていた。友達や家族が彼のためを思って言ってくれる忠告や警告を、良くも悪くも、彼は無視してしまうのだ。
「心配しないで」
「心配するわよ。あなたはもう、彼女のことが好きになっちゃったんでしょ。彼女があなたの視界に入ってる時、あなたは私の話の半分も聞いてないじゃない」
「君は何様だよ? 勝手に決めつけないでくれるかな」
アナベルがまたため息をついた。彼女は明らかにイライラしている。
「トム。あなたと知り合って何年経つかわかる? もう14年よ」
「それはお気の毒に」
「そしてその間、あなたは何人とまともに恋愛できた?」
「一人。いや、二人かな」
「正解はゼロよ、トム。あなたがちゃんと付き合えたことなんて一度だってなかったでしょ」
「君はタンジーを気に入ってたじゃないか。みんなタンジーのことが好きだった」
「あなたを除いてみんなね」
トムはまたもや沈黙に陥った。痛いところを突かれてしまった。タンジーは彼が初めて真剣に付き合ったガールフレンドだったのだが、2000年代の初期に始まった恋人関係は、ほんの6ヶ月しか続かなかった。アナベルや彼自身と同じように、タンジーもサフォーク海岸のローストフト出身だった。彼女の両親は海岸の埠頭で、ドーナツが食べられる喫茶店を経営していた。行楽客がめっきり減って、収入の乏しい冬の時期は、ティーが劇的に薄くなることで有名で、費用削減のためにティーバッグを3回まで使い回していると噂されていた。トムとタンジーは〈ローストフト・シックスフォーム・カレッジ〉で出会った。最初は授業中や授業の後に、お互いに軽口を叩いて、冷やかし合うような関係だった。やがて友情が恋愛関係に変わり、いつしか軽口は辛辣な口論に変わった。地元のシーサイドホテルで、カレッジ主催のディナー・ダンスパーティーがあり、その最中に、タンジーがサイダーの缶をトムの頭に投げつけて、関係に終止符が打たれた。
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「ローストフト、ローストフト、ローストフト...」と10回言いましょう!
そうすれば、すぐに口なじみ(耳なじみ)になります✨✨
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「タンジーは気難しかったんだよ」と彼は言った。「君は彼女のことを全然わかってなかった」
アナベルはオーブンを開けた。中には氷に埋もれるようにして、ビールの缶が詰め込まれていた。彼女が〈カールスバーグ〉をもう1本引き出す様子を眺めながら、トムは少し神経が逆立っていた。周りにお酒とか、やばい薬がある状況に身を置いていることが気がかりだった。彼はアナベルに「もう何ともない」と言って、こんなところに付いて来てしまったが、まだこういう場は早すぎたのかもしれない。
このパーティーの参加者のうち、何人が僕のことを知っているのだろう? どんな噂が広まっているのだろう?
アナベルが僕を観察しているのは気づいていたが、どうしても、もう一度エズミーに視線を送ってしまう。彼女にはどこか視線を引き付ける魅力があった。彼女の顔に浮かぶ優しさやユーモアがそうさせるのかもしれない。実際、彼女だけは天性のハッピーオーラに包まれているように見える。彼女を好きだと感じた。その気持ちを打ち消すのは無理だった。
「トム」
「何?」
「もう一度言おうか?」
「いいよ」
「私はちゃんと目が見えるし、馬鹿でもないわ」
「どうしたらいいかわからないんだ」
「そっか、私の忠告をきっぱりと無視することに決めたのね。じゃあ、仕方ないわね。あなたの目の前には二つの道があるから、どっちでも好きな方を選びなさい。エディンバラに引っ越して、おじいちゃんたちとトランプでもしながら過ごすか、エズミー・サイモンと真実の愛を見つけるか」
「なんか、両極端だな。田舎に引っ込むのが最も無難な選択って気もする」とトムは言った。それは冗談だったが、実際それが無難な選択であることもわかっていた。この一年はいろんなことがあった。波乱万丈の一年だったな。みんなが「気を付けて」って声をかけてくれた。わかってる、バランスが大事なんだ。
「おそらく、というか明らかに、田舎に引っ込む気はないみたいね」
「君はどう思う? なんていうか、君の意見としては、どっちが正解だと思う?」
「私の意見としては、あなたをこのパーティーに無理やり引っ張ってこなければよかったなって思ってるけど」
「そうじゃなくて、アナベル。君はどっちがいいと思う?」
彼女がうめいた。彼女が息を吐き出しながら、「まったくもう」とかすかにつぶやくのが聞こえた。
「田舎に引っ込むのは、素晴らしい考えだとは思えないわね」と彼女は言った。「でも、あなたが私の言うことを素直に聞くとも思えないし、そして何より、―彼女があなたを好きになるとは到底思えないけどね」
「ありがとう」
「どういたしまして。もっと言うとね、彼女があなたのことを好きになることもないとは思うけど、逆にあなただって本気で彼女を好きになるか、あやしいものね。ほら、彼女に話しかけてきなさい。そうすれば、私が正しいってわかるから。いつまでもこんなところで、私の話を聞いてるふりをしながら、彼女に視線を送ってたってらちが明かないでしょ」アナベルはビールをぐびぐびと喉に流し込んだ。「ほら、彼女の友達がタバコを吸いに出て行くわ」
「それが?」
「今がチャンスってことよ。さっさと行きなさい、トム・マーレイ」見れば、エズミーと30分ほど一緒にいた女の子がドアに向かって歩いて行くところで、エズミーは一人きりになった。
「トム!」とアナベルが言った。
「何? 僕はパーティーで誰かにアプローチをかけたことは、今まで一度だってないんだよ」
「それが?」
「リスクが高すぎるってことだよ」と彼は言った。
「ってことは、私はあなたに、すべきじゃないことをけしかけてるってことかしら?」
「そうは言ってないよ」
「じゃあ、教えてあげるけど、彼女もあなたをチラチラ見てたわ。あなたが彼女を見る回数の半分くらいだけど、あなたが話しかけてくるのを待ってるってことでしょ。まあ、なんか変な人が見てるって思ってるだけかもしれないけど」
「本当に彼女も見てた?」トム自身も一度か二度、彼女と目が合った気がしたんだけど、にわかには信じられなかった。「いや、彼女が僕を待ってるなんて、そんな馬鹿な。僕たちが意気投合して、付き合っちゃう確率はどれくらいかな?」
「さっき言ったように、限りなくゼロに近いわね。100万分の1くらい」
「100万分の1ってゼロに近いかな?」
「そんなことはどうでもいいのよ、トム! さっさと行ってこい。ハローって言えばいいだけでしょ。あんたのそういうところがイライラするのよね。『君の意見を教えて』って聞いてくるくせに、私が意見を言うと、無視。じゃあ、聞くなよ。っていうか、一晩中うじうじとくすぶってる気? こんなところで私と、彼女はどう思ってるかな?って言い合ってたって仕方がないでしょ。当たって砕けろよ。砕けたって死ぬわけじゃないし、パーッと綺麗に砕け散るところを見せてみなさいよ」アナベルはひと呼吸置いてから、言った。「ほら、さっきあなたが言ってたジョーク、あれ使えるわ。仮装の靴のやつ。まあまあ面白かったから」
「まあまあ?」
「いいから、行け!」彼女はそう言うと、彼の腕を力強く押した。二人で揉み合っていたら、エズミーがこっちを見ているのがわかり、トムは行かざるを得なくなった。バタバタとコットンシャツを羽織りながら、彼女に近づいて行く。
トムは何千人もの観衆が見守るステージ上に、台本なしで押し出された気分だった。一つだけのスポットライトが彼を照らし出す。数千の視線が、早く面白いことを言って笑わせてくれよ、と期待しながら、彼が口を開くのを待っている。
でも、実際に僕を見ていたのは一人だけだった。振り返ると、キッチンの角で、緑の洋服を着た女の子が立っていて、心配そうにこちらを見守っている。彼女の優しさが伝わってくるようなまなざしだ。あの瞳に見つめられると、従わなければって気になってしまう。僕自身の直観が逆方向に行けと指令を出していても、僕の友達が彼女の言うことは聞かない方がいいと忠告しても、僕はどうしてもアナベルに従ってしまう。僕は意を決して前を向いた。あと4歩ほどで、エズミーの元に辿り着く。しかし、トムにはあと4歩が広大な海のように思えた。
ハッと我に返ると、彼はまだ大洋の真ん中にいた。エズミーとアナベルの間、ひび割れたリノリウムの床の上で、どちらの大陸にも向かえず、彼はぽつんと突っ立っていた。彼は何度目かの勇気を奮い起こした。こんなのどうってことない、自分にそう言い聞かせながら、彼は手に持っていたダイエットコーラをぐびっと一口飲み、もじゃもじゃの髪に5本の指を走らせた。
それから3時間ばかり逡巡した後、トムはようやくエズミーにアプローチした。
「ハイ」と彼は言った。
「ハロー」と彼女は言った。
「エズミー、だよね?」
「そうです。えっと、あなたはトム?」
「うん」
「はじめまして」とエズミーが言った。そこでどういうわけか、自分でもよくわからないまま、僕は彼女に手を差し出した。彼女の手を握ると、ぎこちなく上下に揺する。彼女の瞳が驚いたように、ちょっと開いた。
「ああ、とても礼儀正しいのね」
「ごめん」
「いいのよ」と彼女は言った。トムはエズミーについて、細かい事に気づき始めた。彼女の口元が緩んで、ニュートラルより、ちょっとだけ笑顔寄りのほころびを見せる感じとか。すべての子音と母音を聞き分けられるくらい明瞭に発音する話し方とか。彼女はメガネをかけていて、それが彼女の顔をちょっとだけ不均衡に見せていることとか。というのも、彼女の眉毛は片方がわずかに高い位置にあるから、そのわずかの差がメガネで強調されて見えた。そして、彼女も同じように僕を観察し、色々な発見をしているのだろうかと思った。僕の剃ってないひげや、コットンシャツの襟に付いたカレーの染みや、前髪を調整してなんとか隠そうとはしているけれど、見えちゃってる赤いニキビとか。
「おお、ありがとう。ところで」とトムは、気まずさを取り繕うように言った。
「ありがとうって何に対して?」
「君は仮装してないんだね。僕も普通の服で来ちゃった」
「どういう意味?」と彼女が言った。「私はスーパーマンの恋人、ロイス・レインのコスプレをしてるのよ」
「あ、ああ...」トムは口ごもりながら、自分に対して罵詈雑言を浴びせかけた。アナベルの方をチラッと見る。「もう無理。もうそっちに戻っていい」と懇願するようだった。「くそっ。っていうか、ごめん。なんていうか、僕はそういうスーパーヒーローとか、あまり詳しくないから」
「ちょっとからかっただけよ」と彼女は言って、クスクスと笑い出した。彼女は物事を深く悩まないタイプなんだな、と感じた。周りを埋め尽くす、映画館のスクリーンや漫画本から飛び出してきた、さまざまなスーパーヒーローや、悪名高きキャラクターを見渡しながら、彼女は一人で笑っている。
トムも、感情を抑えるのはやめにして、声に出して笑ってみた。けれど内心では、エズミーが「あなたには興味ないわ」とそれとなく知らせようとしているのではないか、と訝しく思っていた。彼女は優しいから、はっきりと言葉で意思表示して、僕を嫌な気持ちにさせるのがためらわれ、口ではなく目で、あっちに行けと合図しているのかもしれない。彼は振り返って、再びアナベルを見やった。彼女は今、『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』のコスプレをした男に言い寄られていた。でも、きっとすぐに彼女が同性愛者だとわかって、何か適当な言い訳めいたことを口にしながら、彼女の元から去って行くことになるだろう。
それより今はエズミーだ。もっと彼女の笑顔を引き出したい。なるべく長く彼女の注意を引き付けておきたい。そのためには何か言わなくちゃ。
「仮装パーティーではね、みんなの靴を見るといいよ。ほら、あそこのスパイダーマンとか、全身スパイダーマンでばっちり決まってるように見えるけど、足元を見てごらん。黒のローファーを履いてる。もうコスプレが台無しだよね」
エズミーがクスクスと笑ってくれた。「たしかにそうね」と同意してくれた。僕の心はちょっとウキウキした。さっきまで、エズミーが僕とは関わりたくないと思っている理由をずらっと、内心でリストを作るように並べ立てていたけれど、そのメンタルリストは破り捨ててしまおう、と決めた。すると、彼女が面白がって、僕のジョークを引き継いでくれた。彼女があちこち指を差して、「あそこのワンダーウーマンはパンプスを履いてるし、あのアイアンマンはデザートブーツを履いてるわ」と言い出した。一応靴のジョークで笑いを取れたけど、今夜はこれでおしまいなんだろうな、と思った。パーティーで少しの時間、笑いを分かち合った二人は、じゃあね、と言って別れ、これから別々の道を歩んで行くんだろうな、と。
彼は彼女に流れを委ねるしかなかった。何か聞いてほしい。ワンチャンあるかもしれないと、ちょっとでも自信を与えてくれるようなことを言ってほしい。しかし、スーパーヒーローの靴のジョークは次第に効力を失っていき、お互いに何も言うことがない見知らぬ二人の間に、気まずい沈黙が漂い始めた。
「それで、あなたはトム・マーレイよね?」と彼女が聞いてくれて、彼はひと安心した。彼の念が通じたのか、彼女の声にはしっかりと希望の声音があり、もしかしたらいけるかもしれない、と思わせてくれた。「アリの地元の友達?」
「そう」
「ミュージシャン?」
「まあね、一応。ちょっと演奏したり、ちょっと作曲したり」
「作曲?」
「全然大したことはしてないよ。映画音楽とか、作曲してみたいとは思ってるけど」
「わー、凄ーい!」と彼女が言った。え? 作曲してみたいって言っただけなんだけど、作曲したって聞こえちゃったかな、映画音楽なんて作曲したことないんだけどな。
「でも、大体は教えたり、カバーバンドで演奏してる感じかな」と彼は言った。「ほんと、お遊びみたいなもんだよ」
「じゃあ、いろんな楽器を演奏できるの?」と彼女が聞いた。
「いや。でも、とても賢いキーボードがあるからね、いろんな楽器の音は出せる」
エズミーが笑ってくれて、僕はまた浮かれる。レベルアップを告げる音楽が聞こえた気がした。そう、僕たちは傍から見たら、滑稽なゲームをしていたんだ。
「何か飲み物が欲しい?」と彼は言った。「オーブンレンジじゃなくて、オーブン冷蔵庫の中に、まだ何本か入ってたと思うよ」
「そうね。でも、もうそろそろ帰ろうかと思ってたところなの。明日は仕事だから」と彼女は言って、広告代理店のアル中や薬中たちを眺めた。お前やりすぎだよ、とか言いながら、ふらふらと白い粉を取り合っている男たちが目に入る。自分用にポケットにしまい込むやつもいる。「それに、このパーティーも間もなくお開きになりそうだし。みんな酔い潰れて寝ちゃいそうって言った方が適切かもしれないけど...」
一度上がったテンションも、彼女が帰る、と聞いて、一気に下がってしまった。この何分かは良い雰囲気で、これは見込みあるかも、と思ったけれど、やっぱりアナベルが正しかったのかもしれない。仮装パーティーなのに、普段着っぽい恰好をしているという共通点以外、何も打ち解ける要素が見当たらない。それだけでは、ファーストデートに持ち込むことすらできないし、恋愛関係に発展なんて、言うまでもなく無理だ。
「ああ、そうだね。うん。君の言う通りだよ。今夜はお開きにして、また今度、機会があったら」トムはそう言って、肩を落とした。再びやるせない沈黙が訪れるのだろうな、と思いながら、二人はまだ「赤の他人」の域を出ないことを痛感した。
「そうね」
「え?」
「また機会があったら」
「ごめん、僕は―」
「たぶん、また一緒に飲めると思う」
「うん...え、あ...そうだね」と彼はつっかえつっかえ、言葉に詰まりながら言った。また一緒に飲める、という彼女の言葉に、彼は驚きを隠せない。一方、エズミーはキッチンのドアにかかっていたハンガーから自分の上着を手に取り、初夏の夜の涼しくなった野外に出て行こうと準備している。
「それで、君はもう今すぐ帰るの?」と彼は聞いた。
「そうする」
「それって、僕と話していてもつまらないからってことじゃないよね」
「違うわ。本当にもう遅いから。あなたが私に、それならまだ残っていなくちゃって思わせるようなことを言ってくれれば別だけど。明日ぐったり疲れちゃっても、ここに残っているだけの価値があるって思わせてくれるくらい、素晴らしい理由はあるかしら? そのせいで日曜日も仕事するはめになってもいいって思えるくらいの何か」
「そうだな、まだあの写真家が屋上でうろうろしてるだろうから、写真を撮ってもらう?」
「それもいいかもね」
トムはアナベルの視線に気づいた。彼女がまるで、小学校に入学したばかりの我が子を車で校門まで送り届けて、期待と不安を胸に、その背中を見つめている親のようなまなざしで、彼を見ていた。「いいわよ、私は一人で帰るから」と彼女が彼に向けて大声で言った。
「あなたの友達が、あなたも私と一緒に帰っていいって言ってるみたいね」とエズミーが言った。
「ああ、そうみたいだね」と僕は、混乱しているそぶりを見せながら言った。家に帰ったら、アナベルに感謝のメールを送らなきゃだな、とメンタルメモに記入したところで、僕は不安に駆られた。この幸運な展開は、僕の望み通りではあるが、アナベルの予想通りでもあるのだろうか? 頭を抱えそうになる。どれだけの水深がある池なのか、水面を見ているだけの僕にはわからない。僕は、相変わらずのトム・マーレイだ。何も変わってないな。もっと斬新なことをして、自分自身を驚かせたいけれど、その方法がさっぱりわからない。
そして今、エズミーが僕の目の前に立っている。彼女は赤くて裾が長めのジャケットを羽織り、ライトグレーの薄手のスカーフを軽く首に巻いている。いくぶん期待に胸をはずませているような顔つきで、僕を見ている。
「あなたはどこに住んでるの? トム・マーレイ」と彼女が、ジャケットのボタンを下からはめながら言った。
「カムデン。〈ザ・ロック〉っていうライブハウスの近く」
「よかった。私はピムリコだから、方向は同じよね?」
「まあ、大体ね。完全に同じかというと...」
「じゃあ」と彼女が割り込んだ。「私の家まで一緒に歩いて送っていって、ね」
そう言うと、彼女は振り向き、パーティー会場のアリの部屋から出て行く。僕も彼女の後について部屋を出た。階段では、ウルヴァリンに扮した男が、キャットウーマンのコスプレをした女にキスしていた。二人ともかなり酔っ払っている様子だ。壁に背中をつけるようにして、その横を擦り抜け、建物の外に出た。ストックウェルの〈セント・マーティンズ通り〉は静けさに満ちていた。腕時計を見ると、午前2時59分を指している。隣を歩く彼女の腕が、僕の腕にこすれるように触れている。そして、彼女の指の先が、僕の指の先にそっと触れた。エズミーが初めて僕の手を握ってくれた瞬間だった。彼女の手の感触がじんわりと伝わってきて、10年経ってもありありと思い出せるくらい、驚きに満ちた手触りだった。
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トムが住んでいるカムデンはこの辺りです👇
『クリスマス・キャロル』で有名なチャールズ・ディケンズ博物館があるみたいです👆(藍が行ってみたいと思っただけです...笑)
パ:パーティー会場。
セ:〈セント・マーティンズ通り〉
ピムリコ:エズミーの家がある地区。
緑の線:トムが(たぶんニヤニヤしながら)一人で帰った道。
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チャプター 2
午前7時~8時
僕らのファーストデート、それとも二度目?
2007年6月 — ピムリコ、ロンドン
彼女のむき出しのももの感触に、トムは目を覚まし、思わず自分のももを離した。
「おはよう」とエズミーが言って、僕の胸の上に腕を伸ばし、抱きしめてきた。
「おはよう」と僕は返す。いったい自分はどこにいるのか? と一瞬戸惑い、頭を振ると、昨夜の記憶が蘇ってきた。ピムリコに来ることになったきっかけを、そのありえないような出来事をざっと思い出し、急に二人の親密さを強く意識した。—彼女の軽くて柔らかい髪が僕の胸の上にかかり、さらにその髪の上に彼女の腕が乗っかった。このような状況でどんなことを言えばいいのか、さっぱりわからない。いったい何が言える? 女性の隣で目を覚ましたことは前にもあったけれど、過去の経験なんて僕には何の役にも立たないんだよな。「大丈夫?」と僕は聞いてみる。
「ちょっと疲れてるわ」
エズミーがあくびをした。口の片方の端をもう片方よりも少し上に持ち上げるような、エルビス・プレスリーの歌い方みたいな、あくびだった。
「君は目覚めたばかりみたいだね」
「ほとんど寝てないわ」
「えっ、まさか僕、いびきかいたりしてないよね? いや、今まで誰にも言われたことないけど」と僕は言った。そして、もっと意味をはっきりさせた方がいいな、と気づいた。「いや、そんなに多くないってこと。こういう風に...わかるよね」
「いびきとかじゃないの、大丈夫よ。あなたじゃなくて、私」
「それにしても、こういうのって早すぎない?」
エズミーが僕の胸に乗っていた腕を振り上げ、からかうように叩いた。「そうじゃなくて、私は睡眠に問題を抱えてるの。新しい人がベッドに入ってくると、眠るのに苦労するのよ」と彼女は言った。「いいえ、そんなに多くないのよ...こういう風に...わかるでしょ」
「もちろん」
「トム!」
「僕は何も言ってないよ」
「私だって何も言ってないわ。ただ、こういうことは...珍しいことなの。ってあなたも言いたかったんでしょ?」
「君がお望みならそれで」
「私は、新しいボーイフレンドとか...パートナーができたらって意味よ」と彼女は言葉を選ぶように言った。「最初の2、3回は、なかなか眠れないわ。回っていうか夜って意味ね」
エズミーは僕から体を離し、ベッドの片側に置いてある赤と白のストライプの枕に頭を乗せた。黄色のベッドシーツとのコントラストが鮮やかな枕だ。僕は昨夜のことを改めて思い返す。初めて彼女の寝室に足を踏み入れた時、彼女は「凄く散らかってるけど、見えてないことにしてね」と言った。実際は、全然散らかってなかった。少なくとも僕のワンルームの部屋に比べれば、全然ましだ。僕の部屋は、服やバッグや楽器や、ピザの空箱なんかが常に散乱していて、結構上の階だから良かったものの、もし1階や2階だったら、まず間違いなくネズミの問題を抱えていただろう。
二人の体のどの部分も触れていない状態になると、僕は妙な違和感を覚えた。通常の状態に戻っただけなのだが、二人の間に少しでも空間が空いていると、急に耐えられなくなったようなもどかしさを感じた。彼女もそう感じているのではないか、と僕は思った。しかしそれは、もし表現するとすれば、センチメンタルな衝動が、いつもべったりしていたいという妙な方向へと僕を推し進めているのであって、決してロマンチックな、僕自身の自発的な感情ではない気がした。
「じゃあ」と僕は言った。「ずっとそうやって横になって、起きてたの?」
「考え事をしてたの」と言って、彼女はちょっとはにかんだ。
「『何を考えてたの?』なんて聞いて、感傷的なゲームはしないよ、エズミー」
「あらそう、私だってするつもりはないわ」
「でも...」と僕は少し間を開けてから、言った。「何を考えてたの?」
「はっ! やっぱり聞くと思った」
「まあまあ。僕は自ら進んで嫌われ役を買って出てるんだからさ」と僕は言ってから、一瞬口を閉ざして、彼女の方へ体を寄せた。「それで?」
「あなたならわかってくれると思うけど、行動原理というか、行動を支配するルールについて考えてたの」
「ルール? ああ、昨夜のことね?」と僕は言った。昨夜、エズミーにシャワーを借りた後、パンツ一丁でキッチンにいたところ、急に見知らぬ女性がキッチンに入ってきて、僕を見るなり目を見開き、キャーと悲鳴を上げたのだ。図らずも、上の階の住民がその声を聞きつけ、ヒーロー気取りで駆け付ける、という騒ぎに発展した。彼女はエズミーの同居人で、寝室は別々だけど、居間とキッチンを共有しているらしい。上の階の彼は、ヒーローを気取っているわりには、クリケットのバットを構えて、やや腰が引けていた。ヒーローベルトは腰に巻かれていないようだった。
「そうじゃなくて、なんていうか、こういう関係になっちゃうこと」
「ああ、そっちか」
「そっちって?」
「この共同住宅の同居人とか、上の階の隣人のことかと思ったよ」
「違うわ。でも繰り返しになるけど、昨夜の彼女のことはごめんなさい」
「僕は水を一杯もらおうと思っただけなんだけどな」
「私がいけなかった。彼女に一言メールを送っておくべきだった...お客さんが来てるって」
「お客さんって誰のこと?」
「トム。私は冗談なんて言ってないのよ...私はね、こんな事はめったにしないから。めったにっていうか、絶対にしないから」
「じゃあ、僕は特別ってことだね。なんか光栄な気分だよ」
「そうね」とエズミーは言って、羽毛布団の下で僕の手を握りしめた。冗談を言い合っているような雰囲気がさっと消え、急に彼女が真剣なまなざしで僕を見つめてきた。その手の感触に、僕の頭は昨夜の〈セント・マーティンズ通り〉に飛んだ。彼女が初めて僕の手を握った瞬間、未知の世界とつながった気がした。一晩一緒に過ごして、少し馴染みのある感触になったけれど、手をつなぐと世界がつながった感じがするのは今も変わらない。
僕は枕の上で頭を横向きにし、彼女を見た。僕が寝そべっているのはベッドの右側だった。エズミーは「壁に近すぎる」という理由で、ベッドの右側では決して寝ないそうだ。右側に置かれた枕はふっくらとしていて、ほとんど使われていない感じだった。使ってなくても、左右対称の方が見栄えがいいからという理由で、装飾品として置いているらしい。
「とにかく」と僕は言った。「それは君の行動原理だよ」
「ああ、そうね。わかったわ。じゃあ、私たちの基本的なルールを考えましょ。私たちの関係性を統括する行動原理よ。初日から...いつまでかはわからないけど」
「関係性?」と言って、僕は微笑んだ。
「そうよ。まず、ルール1。私たちが付き合ってるって完璧にわかりきってる時に、付き合ってるかどうかは聞かないこと」と彼女は言った。それから少し間を開けて、付け加えた。「まあ、聞きたいでしょうけど?」
「そりゃ聞きたいよ」と僕は言った。なんだか、不思議な魔法にかけられているような気分だった。彼女が目に見えない魔法の杖を振りかざして、一瞬で僕らは恋人関係になってしまったような。―とはいえ、魔法のわりには、ちょっと事務的なプロセスに感じられたけど。僕は今までの恋愛を思い返した。どの恋愛も不運な末路に至ったわけだけど、最初の数週間は、前置きがあったというか、セックスしたらパートナーになったことを意味するのか? と不確かさの中であれこれ思い悩む期間があった。その関係性が、〈頻繁に会っている〉とか、〈デートしている〉というあいまいなタイトルではなく、もっと確かな言葉でラベル付けされるくらいに強い結びつきなのかどうかを、数週間考えたあげく、「僕たちって付き合ってるんだよね?」みたいな会話をしてしまう。そして、そういう独占性をめぐる会話というのは常に、より良い選択肢が他にあることをほのめかす感じになってしまう。だから、僕はかつてある女の子に、直接的に付き合ってるのかは聞かずに、こう聞いたことがある。フェイスブックの僕のステータスを「恋人あり」に変えた方がいい? と。
「私は自分がどこで何をしているのかわからないっていうのが大嫌いなの」とエズミーは説明口調で言った。「あいまいな期間を過ごすくらいなら、最初から〈付き合ってる〉ってラベル付けしちゃった方が楽でしょ。それで、3週間経って、やっぱり間違いだったとわかれば、シールを貼り替えればいいわけだし」
「なんか君は、楽観的な見方と悲観的な見方が混在してるみたいだね」
「私はそういう風に考えるのが好きなのよ。コップに水が半分入っていたとして、『半分はいっぱい』と考えるのと、『半分は空』と考える二つの見方があるでしょ。私は両方の見方で見たいの」
「ってことは、3週間後にチェックインするホテルの部屋を、今から予約しちゃうってこと? 見極め期間みたいな感じで」
「私を信じて。予約しちゃえば、後からなんとでもなるから」
僕は笑った。そして聞いた。「ルール2はどんなの?」
「これは大きなルールよ」
「オーケー」と僕はいぶかしみつつ言った。
「ルール2はね、これは必ず守ってほしいんだけど、私が仕事をしている時は、私は仕事をしているんだってちゃんと受け入れてほしいの。私は今までに二人の男性と付き合ったことがあるんだけど、二人とも勝手にどんどん予定を入れて、私が仕事で行けなくなると、ぐちぐち文句を言い出す男だった。週末しか会えないなんてつまらない女だって言われたわ。一人は親がお金持ちのぼんぼんで、働くってどういうことか何もわかってないのよ。私が仕事をすっぽかしたり、適当に急いでやっちゃったりしたら、かわいそうな子供たちのコミュニケーション能力に、文字通りどれだけ影響を及ぼすかが、全然わかってないの」
「その関係はどのくらい続いたの?」
「一ヶ月」
「もう一人は?」
「もう一人はマットよ」
「アングリー・マット(怒れるマット)?」
「みんな彼をそう呼ぶけど、私はその呼び方が嫌い」
「僕は彼にまだ2回しか会ったことないけど、実際、彼はかなり怒りっぽい人だっていう印象だったよ。それはともかく、彼はどんなことをしたの?」
「もう、いろいろやらかしてくれたわ。彼はバンドのツアーから自分が帰ってくると、私には世界一周できるほどの時間が有り余ってるって思い込んでるのよ。金曜の午後に〈オールトン・タワーズ〉の遊園地のチケットを予約しちゃったりとか。私はセラピーの面談が3人続けて入っていて、絶叫マシンとか乗ってる場合じゃないっていうのに、彼ったら学校まで車で迎えに来る始末よ。その時に、これはもう続かないって悟ったわ」
「それが原因で、彼は帰ってこなくなっちゃっ...」
「黙って」とエズミーが遮って、笑みを浮かべた。「とにかく、私はいつも仕事のことを気にかけてるのよ。それはそれとして、この後、9時から書類仕事を始めないとだから、それまでにはさっさと帰ってちょうだいね」
「わかった。君が仕事好きだって知れて良かったよ。僕はそういうの好きだよ」と僕は言った。言いながら、彼女の仕事は何だったっけ? と昨夜の記憶を呼び起こしていた。たしか、子供に関係する仕事だったはず。
「それに私はまだ勉強中の身だから」とエズミーが言った。「あなたもそうでしょ。人と接する仕事っていうのは常に勉強なのよ。特に子供相手だとね」
「僕は子供に教えるのが、へどが出るくらい嫌いなんだ」
「トム!」
「毎週、9歳の男の子がピアノで『Merrily We Roll Along』を弾こうと頑張ってるのを、1時間見てるんだけど、一向に上達してくれない。まあ、下手になることもないけどさ。毎回うんざりして、それが毎週繰り返される」
「それは大変そうな仕事ね」
「実際大変だよ」
「でも、それって教えてる人が悪いのかもよ」
「ちょっとそれは」
「いずれにしても、私だったらそんな風には教えないわ」
「まあ...そうだろうね」
「もしかしてあなた、私の仕事忘れちゃった?」
「児童心理学者だったよね?」と僕はピンと来て言った。
「100万マイルまでは遠くないわね」
「精神科医?」
「言語療法士よ」とエズミーが言った。そうだった、と僕はすぐに思い出した。昨夜、彼女が話してくれたんだ。それが頭をすり抜けるみたいに抜け落ちてしまったことを気まずく思い、他にも忘れてしまったことがあるんじゃないか、と頭を巡らせた。たしか、彼女にはミドルネームがあったはず。
「私はなぜ子供が言葉を話すのに苦労したり、全く話せなかったりするのか、その理由を調べてるの」とエズミーは続けた。「多くの自閉症の子供たちとか、学習障害のある子供たちと一緒に働いていると、時々凄く悲しい気持ちになるわ。子供の親と会う時なんか特にね。だけど大抵は、私自身の励みにもなるし、素晴らしい仕事よ」
僕はもぞもぞと彼女に近づいた。ベッドサイドのテーブルに置かれた芳香剤入りの容器から、バニラとハッカの香りが立ち込めていて、ベッドの彼女の側に近づくと、その香りも強まった。
「どうやってその道に入ったの? 子供の言語とか、そういう世界に」
「大学では国語を専攻してたんだけど、中でもどのようにして言語が発達していくのか、ということに一番興味を持ったの。それで、幼少期の言語発達について研究して修士号を取って、そこから色々始まった感じね。最初の仕事はセント・バーツ小学校だったわ」
「今も学校で働いてるの?」
「学校の仕事もしてるし、NHS、つまり国民保健サービスの仕事とか、こまごまと色々よ。ほんと色々」
「それは素晴らしいね」と僕は言った。「大事な仕事だ。ほら、僕みたいに、パブやバーでしか演奏機会がないギタリストとは違って」
エズミーが笑った。
「あなたはあなたのやり方で変化を起こそうとしてるのよ、きっと」
「僕もそう思いたいよ」と僕は言った。「じゃあ、君は医者とかじゃないの?」
「ただのセラピストよ」
「かっこいい」と僕は言いながら、少し気が散っていた。自分がセラピストと対峙した時の記憶が急に頭に浮かんできたのだ。―そんなに目立たない都会風のタウンハウスに入っていくと、立派なオフィスが並んでいて、ふっくらとした大きなソファーが置かれているのが目に入る。NHSのオフィスは、中でも機能重視な感じで、プラスチックの部屋といった印象だった。しっくい塗りの壁には剥がれ落ちそうなポスターが何枚か貼られていて、インフルエンザの予防接種や、髄膜炎や、喘息についての注意を喚起していた。
「あなた大丈夫?」とエズミーが聞いてきた。意識が飛んだような僕の無表情に気づいたらしい。
「大丈夫。それで、ルール3は何かな?」
「えーとね」
「もしかしてさっきから、今考えながら適当に作ってる?」
「違うわ!」とエズミーが言った。その言い方がむしろ、違わない、と言っているようだったから、僕の口元はゆるんでしまう。「ルール3はね、私には嫌いな言葉があって、嫌いっていうか、それを使う人を軽蔑してるんだけど、―holibobs、nom、foodieみたいな、意識高い系の言葉は使わないでちょうだいね。普通に祝日って言えばいいのに、holibobsとか言ったり、普通に食べるって言えばいいのに、nom nomとか言い出したり、美食家アピールに、食べ物のことをfoodieって言ってみたり、そういうのを聞くと、むかむかするの。フルーツスムージーのボトルの側面に印刷されてるような言葉よ。もし使ったら、私たちの間に亀裂が生じるでしょうね」
「聞いたこともない言葉ばかりだな」
「冷蔵庫にリストを貼ってあるわ。ローラが嫌いな言葉も入ってるから」
「マジで?」僕はA4サイズの紙に、赤ペンで怒ったように、それらの言葉がなぐり書きされているのを思い浮かべてしまう。
「ほんとよ。そういう言葉を使った者には、地獄にそれ相応の場所が用意されてるんだから」
「それ相応ってスムージー地獄とか?」と僕は言ってみた。
「あなたはこう言いたいんでしょ。何を言われたって、しょせん言葉だろって。文字通り相手を殺したくなるほどの言葉なんて、この世にないって」
「いや、なんていうか、僕にも嫌いな言葉はあるよ」
「たとえばどんな?」
「さあ、何だろう? ちょっと思いつかないな」
「じゃあ、もっと真剣に考えて」
「わかったよ」と僕は言いながら、頭の片方で言葉を探した。「あ、見つけた。僕はあれが嫌い。時計を見て、『ワインの時間だ』って言うやつ。何時だったとしても、その台詞言っただろって思っちゃう」
「それはウエッてなるね」
「でも僕は、そういうことを言ったからって、必ずしもその人が嫌いになるわけじゃないよ」
「べつに嫌ったっていいのに。自分だけいい人ぶってずるいわ。冷蔵庫のリストにそれも書き加えちゃおうかしら」
「ぜひ、むしろ光栄だよ。ねえ、聞いてもいいかな? そういう、ある種の言葉に対する嫌悪感って、何か理由があったの?」
「一緒に働いてる同僚にそういう女性がいるのよ。四六時中そんな言葉ばっかり使ってて、アンジーっていうんだけど、彼女が近くにいると、歯がゆいっていうか、ほんとイライラする」
「さっきの言葉も聞いたことなかったけど、彼女のことも聞いたことないな」と僕は言いながら、アンジーという女性を勝手に思い浮かべていた。少し太りぎみで、ブーツを隠すようにベルボトムのジーンズを穿いていて、何かのスローガンが書かれたTシャツを着ているんじゃないかと思った。
「それが一番ね。私も見ず知らずの他人だったらよかったのに」とエズミーが言った。
僕は笑った。まだ灰色のカーテンは閉じたままで、マグノリアの花のような淡いクリーム色をした壁とカーテンの隙間から、朝の日差しがひっそりと差し込んでいた。その光の筋は、光沢のあるオーク材の床を照らし、ちょっとけばけばした青と白のストライプの絨毯まで伸びている。絨毯の上には、昨夜僕が穿いていたジーンズが脱ぎ捨てられていた。その光景は、この状況の異常さを改めて物語っていた。僕は他人のベッドで頻繁に目を覚ますような人間ではないし、エズミーも、必死になってこういうのは珍しいことだってアピールしていたから、僕と同じなのだろう。ということは、気持ちが高ぶった二人が、思い余って突発的に起こしたあやまち的なことなのか? それとも、二人が本気で、真剣に望んで、こういうことになったのか? どちらなのか、すぐに答えはわかるだろうと思った。エズミーが掛け布団をめくり上げ、寝たまま腕を頭上に上げて伸びをする。彼女はパジャマ代わりにグラストンベリー・音楽フェス2005のTシャツを着ていて、ちょっとめくれ上がったそのTシャツを直している。一昨年の6月、あの野外フェスに誰と行ったのだろう?
「もう一つ」彼女がこちらを振り向き、そう言った。彼女の茶色の瞳に見つめられ、僕の目は吸い込まれそうになる。これから彼女に見つめられるたびに、こんな風にドキッと胸が締めつけられて、目から全身に、じわっと癒しが広がるような喜びを感じることになるのだろうか? 「ルール4は真面目なものよ」
「真面目中の真面目? それとも僕をおちょくってるの?」
「真面目中の真面目」彼女はベッドの上で身を起こしながら言った。横になったまま、お互いに目を見開き、じっと見つめ合って話すような内容じゃないわ、とでも言いたそうだった。
「オーケー」僕も身を起こす。
「私は、あなたのこれまでの歴史とか、大きな出来事とか、どこ出身とか、そういうことを今すぐ知りたいっていう気持ちはないの。でも、これだけは知っておいて。私は嘘が大嫌い。浮気は絶対に許さない。中にはそういうことを乗り越えられるカップルもいるんでしょうけど、私には無理。交渉の余地なしだと諦めてね」
「君の言う通りだよ」
「勘違いしないで。あなたがそういうことをしそうって言ってるわけじゃないの。ただ、最初にはっきり言っておいた方がいいと思ったのよ。過去にそういうことがあって、私の家族も巻き込んで、私と家族の仲が悪くなるくらい大変だったから」
「それはお気の毒に」
「いいのよ。もう昔のことだし。でも、そういうことっていつまでも引きずるのよね?」
「たしかに、引きずる」と僕は言った。言ってから、次に何を言えばいいのかわからなくなってしまった。沈黙が二人の間に舞い降り、僕が戸惑っていると、エズミーが話を引き継いでくれた。
「私は前から思っていたんだけど、大きな問題になる前に話し合えば、それがどんな問題であれ、きっと抜け出すことができるんじゃないかしら。どんな問題とはいっても、あなたが何かの常習犯とかじゃない限りね」
「えっ。それってあれのこと...」
「嘘でしょ? っていうか、やっぱり。さっきあなたの目の中を覗き込んでみたら、何かやましいことが見えた気がしたのよね」
「実は二年前から、拳銃を片手に強盗を繰り返してるんだ」
「ウエッ」
「いや、失敗してひどい目にあって、もうこりた」と僕は冗談めかして、ベッドから降りるそぶりを見せた。すると、エズミーが僕の腕を掴み、僕を彼女の隣に引き戻した。
「私が言いたいのはね」彼女はどうしても話題を戻したいらしい。「もしそんなことが私の身に起きたら、私は見て見ぬふりをするみたいに、そのまま付き合っていくことはできないって前からずっと思ってたのよ」
僕はうなずいた。心配しなくてもそんなことは起きないよ、と言いたかったけれど、僕はそう言う代わりに、彼女にキスをした。―絶対的な約束ではないとしても、暗黙の了解としてのキスだった。唇が離れると、すかさずエズミーは話を続けた。
「じゃあ、その次の段階を考えましょう」
「はい?」
「結婚よ」と彼女が言った。
「これってそういう関係じゃないよね? セックスしたから婚約したとか、まさか言うつもり? 君がキリスト教のカルト的な宗派に入っていて―」
「そうじゃなくて、実際、真逆よ」エズミーは掛け布団を見下ろしたままで、僕の目を見ようとしない。「こんなこと言ったら頭がおかしいって思われるでしょうけど、先に知っておいてほしいの。私は絶対に結婚したくないのよ」
「絶対に?」
「そう、絶対に。私は本気で言ってるのよ、トム。プロポーズされるまでは「絶対に結婚しない」とか言ってるような女の子たちとは違うの。私は絶対に絶対にしないタイプってこと。こんな話を持ち出すのは早すぎるっていうのはわかってる。だけどね、中にはふざけた男がいるのよ。私がそういうタイプだってわかった途端、アングリーになるような男が」
「そうなんだ」としか言葉が出てこなかった。いきなり結婚の話題が出てきた時点で少し驚いていたけれど、その理由を聞いて、啞然としてしまった。「大丈夫。僕はそういうタイプじゃないよ。落ち込むかもしれないけど、怒ったりはしないから」
「それでもいいのね?」
「まあ、それでもいいよ。僕はまだ結婚とか、そういう長期的なことは考えたことがないんだ」と僕は言った。その裏にはいくつかの原因がひそんでいることを、僕自身わかってはいた。
「よかった」とエズミーがほっとした様子で言った。「あなたがそれでもいいのなら、私は安心よ。私は気が気でなかったから。といっても、ほとんどの人とは心配するポイントが違うんだけどね」
「ルール5」と僕は彼女の手を取って言った。「結婚はしない」
「いいわ」とエズミーが笑顔で言った。「ところで、もし私がキリスト教のカルト的な宗派に入っていたらどうする?」
「おお、そしたら、僕も入らないといけなくなるよね?」
エズミーが笑って、こう言った。「ロマンチックなのね」そうして、焦りのない沈黙が二人の間に舞い降りた。僕は満ち足りた気分で、ここに至るまでのいきさつを振り返っていた。
一昨日、パーティーで出会った僕らは夜中の3時に一緒に帰った。僕は彼女を自宅まで送り、中には入らず玄関先で別れた。その時に、11時間後の午後2時に〈セント・ジェームズ・パーク〉で会いましょう、と待ち合わせの約束をした。僕は意気揚々と家に帰り、寝ようとしたけれど、気持ちが高ぶったままほとんど眠れず、ファーストデートに出かけたんだ。公園では池の周りを歩きながら、売店でコーヒーとアイスクリームを買った。二人でベンチに座って、それを食べながら、ペリカンやアヒルやガチョウが水面でたわむれているのをしばらく眺めていた。
それから、僕が参加しているコピーバンド〈トップ・ガンズ〉が、その日の夜、ケンティッシュ・タウンにある〈ヤギとブーツ〉という名のうらぶれたパブで演奏すると言ったら、彼女が見に来てくれた。僕は演奏しながらずっと彼女の方を見ていた。彼女は立ち飲み用のテーブルに向かい、脚の高い椅子に軽く腰かけていた。彼女の目の前では、酔っ払い達が『Chelsea Dagger』や『I Predict a Riot』などの歌に合わせて踊っていて、彼女は物珍しそうにその様子を眺めていた。シンガーは一人で悦に入り、バックで伴奏している僕たちなどそっちのけで、それらの曲を熱唱していた。
演奏が終わり、次にエズミーに会えるのはいつになるだろうか、また今夜も悶々とした眠れない夜を過ごすのだろうか、などと思いながら楽器をしまっていたところに、エズミーが近寄ってきて、なんと、タクシーで彼女の家に行きましょうと誘ってきたのだ。驚きを隠せないまま、タクシーで彼女の部屋に到着すると、僕らはそっと忍び込むように彼女の部屋に入り、そのまま彼女のベッドの上に二人で倒れ込んだ。そして十代の若者みたいな不器用さで、お互いの体をまさぐった。オレンジ色の街灯が薄手のカーテンを通り抜けて、ベッドの上をぼんやりと照らす中、僕たちは遠慮がちにお互いの洋服を脱がしていった。セックスは緊張していて、途中で挫折してしまった。30分後に2度目の挑戦をして、1回目の失敗から学んだ教訓を胸に、その分ましなものとなった。
何もかもがめくるめくような速さで進んでいた。今年はまだこういうことはしてはいけないと自分自身に言い聞かせていたのだが、周りの人たちからも、しばらくはこういうことからは遠ざかって、今年はゆっくり過ごした方がいいと助言を受けていたのだが、自分を抑えられなかった。
しかし、これが正しい行いだったとしたら? エズミーがちょうどいいタイミングで僕の人生に現れ、そして僕もちょうどいいタイミングで彼女の人生に登場したのだとしたら? 今朝、目覚めて感じた心地良さ、彼女が隣にいることのときめき、こんな希望に満ちた朝は、もう何年も過ごしていなかった。もしかしたら、とうとう僕はぴったりの相手を見つけたのかもしれない。今までの長い年月、自分にしっくりくる人生をあれこれ模索してきて、やっとたどり着けたのかもしれない。
そうして今、朝のピロートークが一段落した頃合いで、僕は僕自身のことをいくつか彼女に話しておいた方がいいと思った。予め彼女は知っておいた方がいい事柄。知る権利がある事。だけど、せっかくいい雰囲気なのに、ムードを台無しにしてしまうのではないか。僕たちは今、幸福感に包まれている。僕は今、幸せだ。それに、時間はたっぷりある。もしこの先も彼女と付き合っていくことになるのなら、僕の問題を話すタイミングはいくらでもあるはずだ。今じゃない。
「わかったわ。もう真面目な話はおしまい」とエズミーが言ってくれて助かった。脳内ディベートにけりが付いた。「ルール6もあるんだけど、知りたい?」
「あといくつあるかによるね」
「これが最後の一つよ。約束する。でも、たぶんこれが一番大事なこと」と彼女は言った。「ルール6、今日みたいに一緒のベッドで一晩を過ごした翌朝は、必ずあなたが最初に起きて、紅茶を入れてちょうだい。私の紅茶はミディアム・ストロングにしてね。キャラマックのチョコレートみたいなクリーム色になるくらいの濃さよ」
「ちょっと待って」と僕は言った。「もし僕の中のルール1が、お茶を入れるのはいつも君っていう方針だったらどうする?」
「まあ、見た感じそれはないでしょうね。ただ、もしそうだったとしても、この事に関して最初に言い出したのは私なんだから、そういうこと。お願いね」
「たしかにそんな主義はないけどさ。ってことは、そうだな、たとえば50年一緒に過ごすことになったとして、毎朝僕が君に紅茶を入れ続けるってこと?」
「そうよ。50年後は、私は70代半ばだから、その頃には誰かがホームヘルパーロボットを発明してくれてるといいんだけどね」
「僕が足を骨折したら?」
「ティーメーカーを買えばいいじゃない。旅行用の水筒と、スティックシュガーとミルクをベッドわきに置いておくの。っていうか、あなた、昨夜の私との絡みで足を骨折したの?」
「いや、してないけど」
「ならいいじゃない。あなたはもうキッチンがどこにあるかわかってるんだから、ほら...」
「今? 文字通り君の部屋に初めて入った初日から?」
エズミーがうなずいた。彼女はいたずらっぽく微笑んでいた。
~~~
〔新たな登場人物〕
アンジー:エズミーの同僚、意識高い系女子
ローラ:エズミーの同居人
上の階の住人:正義感が強い or エズミーに惚れてる or ローラに惚れてる or 藍みたいに誰でも大好き。笑
〔途中の感想〕
いやー、書く順番が素晴らしい! この順番で書かれたら、絶対にパーティーから直行でエズミーの部屋に行ったと思っちゃう!! 小説の特性を最大限に活かした、藍をうならせる小説だ。
小説の醍醐味は時間がかかるところにあって、小説の中の世界では3分くらいであっても、読むのに3日かかったりするわけです。その間にあれこれ考えることこそが、藍をつかんで離さない「やみつきポイント」なのです。藍の人生と照らし合わせながら、いろんな可能性に思いをはせる...
〈キャラマックのチョコレート〉
要するに、このくらいの色になるまで、紅茶にミルクを入れて! という命令です。笑
〈ケンティッシュ・タウン〉
トム(僕)が住んでいるカムデンから、少し北へ行ったところです。
〈セント・ジェームズ・パーク〉
エズミーが住んでいるピムリコから、ちょっと北へ行ったところにあって、ペリカンやアヒルやガチョウがいるみたいです。エズミーの家からは近いので、待ち合わせ場所には最適ですね💙
~~~
「ティーバッグはガスコンロの横の食器棚にあるわ。ミルクは冷蔵庫よ。マグカップはカップ掛けにかかってるおしゃれなデザインのを使って。Darling Daughter(可愛い愛娘へ)って書いてあるカップはだめよ。もしそれをあなたが使っちゃったら、ローラは一目散に上の階へ駆け上がって、クリケットのバットを借りてくるでしょうね。ああ、それとちゃんと服は着てから行ってね」僕が裸のままベッドから出ようとすると、彼女がそう言った。すきま風がかすかに入ってくる室内はひんやりしていた。
僕は絨毯の上に脱ぎ捨てられていたジーンズを拾い上げ、服や本が山積みになっている椅子の下に僕のシャツが滑り込んでいるのを見つけた。僕はそれを着ると、振り返った。エズミーはベッドの上で座ったまま、こちらを見ていた。ベッドサイドのテーブルに置かれた、金管楽器を思わせる色味のアンティーク調の丸い目覚まし時計の針が、7時45分を指していた。
「とてもセクシーだわ」と彼女が言った。僕は鏡に向き合うと、ぼさぼさの茶色い髪を手荒く撫でつけて、どうにか人前に出れるくらいには整えた。「キッチンへ行くだけなのにそんなにかっこつけちゃって、いったい誰に会いたいのかしら?」
「なんかいちいち面倒臭いな」と僕は自分の自尊心を保つために言った。「それと、僕はまだ僕のルールを君に言ってないからね」
「あなたにルールなんてあるの?」
「ルールといえるほどのものはないけどさ」と僕は寝室のドアを開けようとしたところで、言った。「でも質問ならある」
「私たちの関係はどういう関係だとか、そういう質問じゃなければ聞いてもいいわ。さっきの話は早すぎたのはわかってる。でもね、私はただ―」
「そういう質問じゃないよ。僕はこういう...名前のない関係に満足してるし」
「なら良かった。じゃあ、なんでも聞いて。どうぞ、トム・マーレイ」
「僕たちは金曜日に出会ったんだよね」
「そうね」
「土曜日の早朝って言った方が正しいかな」
「そうかもね」
「それで昨日の昼間、再び待ち合わせして...なんていうか...デートした」
「したわ」
「そうすると、それって僕らのファーストデート? それとも二度目のデートになるのかな?」
「いい質問ね。あなたはどっちだと思う?」
「ちょっと」と僕は言った。「君に聞いてるんだよ」
「いいわ。じゃあ、私は二回目と言いたいわね。だって、ほら...そっか、ファーストデートの延長戦って感じかな」と彼女は周りの布団を手でいじりながら言った。「わからないわね。あなたが私のカップを持ってきてから、紅茶を飲みながら決めましょう」
キッチンには誰もいなかった。僕はこの1日半の間の出来事を思い返していた。アリのパーティーで思い切ってエズミーに声をかけた瞬間から、今に至るまでに起こったすべてのことを。ありえないくらい、驚きの連続で、素晴らしい1日半だった。そういえば、まだアナベルに知らせていなかった、と思い出した。この後彼女にメールしなくちゃな。彼女はエズミーが僕を受け入れるわけないとか言ってたけど、間違ってたじゃないか、と単刀直入に言ってやるつもりだった。もちろん、彼女は僕の言うことを認めないだろう。やめておいた方がいいと言うかもしれない。でも、彼女にはこの関係がどういうものかわからないんだ。
お湯が沸騰してきて、やかんがカタカタと音を立て始めた。その時、玄関のドアが開いて、バタンと閉まる音がした。それから、廊下をきしませる足音がこちらへと近づいてきた。ほどなくして、キッチンは一人で物思いに耽る空間ではなくなった。
「また君か」
まだ外が暗かった時間に、ここで出会った金髪の女の子だった。今回の彼女はジョギングでもしてきたらしく、体にぴったりフィットしたレギンスを穿き、レギンスとひと続きのタンクトップを着て、「サンデーテレグラフ」の新聞を脇に抱えていた。ローラだ。昨夜、彼女のことはある程度エズミーから聞いていた。彼女は駆け出しの政治記者で、エズミーによると、「骨の髄まで完全に保守党員」らしい。さらに、彼女のスタイルは、キャメロン首相の妻、サマンサ・キャメロンをお手本にしている、とも言っていた。それにもかかわらず、ローラは素敵な人よ、とエズミーは言って僕を安心させた。
「おはよう」と僕は明るく言って、マグカップからティーバッグを持ち上げ、一旦スプーンの上に置いた。
「受け皿なら、流し台の下の棚にあるわ」
「ああ、ありがとう」
「なるほど。彼女はもう君に紅茶を入れさせてるんだね」
僕は微妙に笑って、言った。「ローラだよね?」
「そうよ」
「僕はトム」
「また会えて嬉しいわ、トム。昨夜はあんな大事になっちゃってごめんなさいね」
「もういいよ」
「家まで押しかけてくる人ってだいたい紳士ではないですからね。おわかりでしょ」と彼女は堅苦しい言い方をした。わざとそういう言い方をして、逆に堅苦しく張り詰めた空気感を和まそうとしているようだ。
「本当にもういいよ」と僕は言いながら、最後に僕の部屋に誰かが泊まったのはいつだったか、と振り返っていた。1月だ。イズリントンのパブ〈Hope and Anchor〉でライブがあって、それまで3ヶ月くらい「ガーディアン・ソウルメイツ」のサイトでやり取りしていた子が、ライブを見に来てくれたんだ。翌朝は、良い言い方をしても、静かで気まずい朝だった。
「君にも何か入れようか?」と僕はローラに聞きながら、頭を振ってジュリー(ジュリアだったかな?)のことを忘れようとした。
「大丈夫よ。私は自分で入れるから」
彼女は高そうなコーヒー豆が入ったガラス瓶を棚から取り出した。瓶の正面には、マーカーペンで「ローラ専用」と書かれている。彼女はエスプレッソマシンのフィルターをすすぎ始める。
「じゃあ、あなたが仮装パーティーの人だったの?」とローラが聞いた。「彼女からメールで聞いていたんだけどね」
「たぶんそうだと思う」
「そうすると、2回目のデートになるの? まだ1回目が続いてるとか、聞かない方が良かった?」
「実は今、その話をしてたところなんだけど、今のところ、まだ決まってない」
「まあ、どっちにしても、うまくいったってことでしょ」と彼女はコーヒー豆をコーヒーメーカーに入れながら言った。「私はエズミーのことをよく知ってるからね」
「そうだといいんだけど」僕は紅茶が入ったマグカップを二つ両手で持ちながら、彼女の言葉が正しければいいな、と期待した。エズミーの寝室に戻ろうとした時、ローラに名前を呼ばれた。
「はい?」
「聞いて。私は今までこんなことを言ったことはないし、他人にあれこれ口出しして...ああしろこうしろって指示を出すようなタイプじゃないのよ」と彼女は言った。エズミーから聞いていた彼女のジャーナリストとしての評判から考えると、かなりがさつな言い方に思えた。「でもね、これだけは言わせてちょうだい。彼女には優しくしてあげて。エズミーは親切で、他人に対して思いやりがあって、賢い女の子なの。もしあなたが彼女に優しくしてあげれば、きっと彼女は、あなたが今までに出会ったことのないような最高の親友になれるわ」とローラは鋭い視線で僕を見つめながら言った。「彼女をよく知る人が言ってるんだからね、信じて。いい?」
僕はうなずいた。
「よし」と言って、ローラは突然振り返り、自分の朝食を運び出した。狭い船内の厨房のような、真っ白なキッチンの端に置かれた薄っぺらいダイニングテーブルの上に、彼女はコーヒーを運んでいく。「それじゃあ、またそのうちね」
ベッドルームに戻ると、エズミーがカーテンを開けたようで、窓から朝日が差し込んでいた。ベッドの後ろに掛かっているロイ・リキテンスタインが描いたポップな版画、賃貸住宅の少し汚れた灰色のカーペット、松の天然木で作られた木目調のたんす、ノートパソコン、積み上げられた本、木の形をしたアクセサリーハンガーには過剰なくらい大量のジュエリーがぶら下がっている。そういったものすべてが朝日にまばゆく輝いている。細長い寝室の隅には、両開きの扉が一つ付いたワードローブがあって、そこに今にも倒れそうな形で僕のギターが立てかけてあった。彼女の全身鏡には、昨日彼女が着ていた緑地に小さな花が散りばめられたドレスが掛かっていて、鏡の半分以上を隠している。昨夜二人でベッドに入る前に、掛けたものだ。
窓も少し開いていた。エズミーの部屋の窓辺には、ちらほらとロンドン鳩が集まっていて、くぐもった鳴き声を響かせている。近くのヴォクスホール・ブリッジ・ロードからは、車の走行音や人々の話し声がハミングのように僕の耳に届く。太陽は輝いていて、ピムリコに建ち並ぶ白と黄色のレンガ造りのタウンハウスの屋根を明るく照らしていた。窓の外に見える木々のてっぺんが揺れていて、そよ風が頬をなでる。完璧な一日の始まりだった。
エズミーはベッドに座って、白い歯を見せてにっこりしていた。僕は彼女の隣に座り、マグカップを差し出した。彼女はそれを受け取らず、両手で僕の顔を挟んで引き寄せると、僕の唇にチュッとキスをした。
「幸せ?」と彼女が聞いた。
「幸せ」と僕は答えると、ベッドの頭部に背をつけて、まだ少し熱すぎる紅茶を一口すすった。
「結構時間がかかったわね」
「またローラに会ったんだ」
「あらまあ。彼女、何か言ってなかった?」
「特には」と僕は噓をついた。「何も言ってないよ。ただおしゃべりしてただけ」
「ローラは誰ともおしゃべりなんてしない人よ。彼女は一方的に話すだけで、相手には何も言わせない。まあ、たまにはね、彼女の機嫌が良ければ、相手の話を聞くこともあるにはあるけど、めったにないわ」
「機嫌はいいみたいだったよ。ほんとに」
「それで、あなたはどっちだと思うの?」
「ああ、デートの件ね。ファーストデート、かな。二度目のデートって呼ぶには、間に1日かそこらの間隔は必要だと思って」
「じゃあ、11時間は、単なる休憩?」
「まさにそんな感じ」
「まだ36時間のファーストデート中ってことね」
「そうだね」
「まあ、私もそれでいいわ」
「よかった」と僕は言って、エズミーに彼女の紅茶を手渡した。そして、彼女の目の中を覗き込んだ。自分の人生がこんなにも急変するなんて、僕はまだ信じられずにいた。まさか夜中の2時半に、ストックウェルのパーティーがぐだぐだになって、流れ解散的に幕を閉じようとしている時に、エズミー・サイモンと出会うことになるとは思ってもみなかった。ロンドンの南部へテムズ川を渡って、彼女を家まで送ることになるなんて。しかも、彼女がその日のうちにまた僕と会いたがるなんて。予想だにしないことの連続だった。その中でも予想外のリストの最上位に位置するのが、6月下旬の明るく晴れ渡った朝に、エズミーのベッドで目覚めたことである。僕は彼女に恋をしている、そうはっきりと、決定的に実感した。
「でも一つ質問がある」とエズミーが言った。
「どうぞ」
「記念日はどうするの? 一日を引き伸ばすの? 二日にまたがる? それとも―」
「それは来年になったら、また考えよう」
「そうね」とエズミーは言うと、ベッドの上で腰をずらして、僕に近づいた。「私たちには、時間はたっぷりあるしね」
チャプター 3
この時計の絵は、エズミーのベッドサイドのテーブルに置かれていた目覚まし時計の絵だということが、チャプター2の後半で判明しました♪リンリン
ロンドン動物園の東側にトムは住んでいまして、
そこから北へ行ったところにハムステッドはあります。というか、あるっぽいです。笑
午後9時~10時
最高の自分自身を
2007年10月 — ハムステッド、ロンドン
~~~
〈チャプター 3の登場人物〉
ニール:昔とは変わった。
パドレイグ(愛称はパッド):ローストフト在住。仕事でロンドンに来ている。
トム・マーレイ(僕):おなじみのトム
アナベル(愛称はアニー):おなじみのトムの連れ
自然と笑みがこぼれちゃうくらい、『1日でめぐる僕らの人生』と『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて』が色々リンクしていて、嬉しい!笑←そりゃ舞台が同じロンドンなら、色々かぶってくるだろ!笑
~~~
「おい、9時ぴったりだぞ」とニールが腕時計のデジタル表示を見ながら言った。「彼女はどこだよ?」
「もうすぐ来るよ」
「もう30分もそう言ってるじゃないか。本当にお前が言うような、そんなにキラキラした素敵な恋人が実在するのか、あやしくなってきたな」
「黙れ、ニール」と僕は言った。
「アニーは彼女に会ったことがあるんだろ?」とニールがアナベルに聞いた。アニーというのはアナベルの愛称だ。
「そうね。何度か会ったわ」
「何度か?」
「トムが彼女と付き合い始める前に、何度か」とアナベルは言って、〈ギネスブラック・ラガービール〉を一口飲んだ。
「ふーむ」ニールはドラマの探偵を真似るように顎を撫でた。「トムがパーティーでその子に一目惚れして、それから空想しすぎて、勝手に新しい情人だって思い込んでる可能性は十分にありえるな」
「情人?」と、パドレイグ(愛称はパッド)がニールに聞き返した。
「スラングだろ? 昔は恋人のことをそう言ってたんだよ」
「そんな言葉聞いたことないぞ。少なくとも俺の知る限りでは、ない。昔ってどれくらい前だよ?」
「知らん」
「友達や同僚に恋人ができるたびに、『情人とはうまくいってる?』とか聞いてたら、頭がどうかしちゃったと思われるだろ」
「まあ、俺は頭がおかしいからな」とニールは返した。そして彼は、テーブルの真ん中に置いてある花瓶から花を一本を引き抜くと、自分の髪の毛に当てがった。
「あなたはアホなのよ。頭がおかしいのとは全然違うわ」とアナベルが言った。ニールはそう言われて数秒間黙り込んだが、注意されて少しだけしゅんとしたわがままっ子のように、またすぐにしゃべり出した。
「いずれにしてもだ。お前たちは、俺の理論にはかなりの信ぴょう性があることを認めざるを得ないんだよ。このトム・マーレイは、夢でその女に会ったんだ。逢瀬を重ねたのも夢の中だろうな。そして、こうしてハムステッドのしゃれたバーに俺たちを呼びつけた。夢の中の彼女を紹介するから、と言ってな。もう、あと10分もしたら、どうせこいつはこう言い出すぞ。携帯の画面を見ながらメールが届いたふりして、『彼女は仕事で来れなくなっちゃった』とな。あるいは、『彼女が働いてる研究室で爆発騒ぎが起きた』とか言い出しそうだな」
「彼女が働いてるのは研究室じゃないよ、ニール。彼女は病院とか学校で働いてるんだ」と僕は弱々しい声で言った。小学校時代の記憶が蘇る。―僕はニールに繰り返し、からかわれ、おちょくられ、いじめられた。ニールは僕の頭を両腕でヘッドロックし、拳で頭をぐりぐりやりながら、くだらないことを僕に認めさせた。校長には金玉がないとか、要するにゲイだとか、そういうことだ。でも、それは14歳の時に、ぴたりと止んだ。アナベルが、ニールと僕に打ち明けたのだ。要するに彼はゲイだと。「少なくとも、バイセクシャルみたいなんだ」とアナベルは言った。それからというもの、ニールは同性愛擁護派になった。当時は90年代半ばで、まだそういうことを大っぴらにはできない時代だったけれど、学校でみんながホモを小馬鹿にしても、ニールは一人立ち上がって、アナベルをかばう側に回ったのだ。
「同じことだろ」
「どこが同じなんだよ?」と、僕はせせら笑った。
「研究室、病院。どっちも理系で、白衣を着てるだろ」
「じゃあ、学校は?」とパッドが言った。
「知的ぶって細かいことにこだわるな」
「学校といえば」と僕は言った。「時々思うんだけど、僕らがまだこうして友達でいられるのは、同級生の中でロンドンに引っ越してきたのは僕らだけだから、なのかな?」
「ローストフト出身のロンドナーなら、他にもベン・メリウェザーがいるぞ。ベンとつるめばいいだろ」とニールが言った。彼はこの話題が持ち上がるたびに、その名前を出してくる。ローストフトから首都に最初に上京してきたのはニールだから、ロンドナーとしては彼が先輩だった。彼はインターンシップからそのまま銀行の職を得て、こちらに移り住んだのだ。続いて、両親と衝突して家を飛び出したアナベル。それから数年後、二人とは全く異なる理由で、最後に僕が引っ越してきた。
僕は何か言い返そうと思ったが、やめておいた。ニールみたいなタイプと議論しても埒が明かないのだ。彼はいつも正しいし、たとえ彼が間違っていても、適当に事実をでっち上げて、いつの間にか彼に有利な方向へ話を持っていかれてしまう。
「僕が言いたいのは、君が僕らをここに引きずり込んだってことだよ―」とだけ僕は言った。
「ニール、あなたは5分で行ける範囲内に住んでるでしょ」とアナベルが言った。
「俺が住んでるゴルダーズ・グリーンは地下鉄で10分はかかる。バスだと15分だぞ。それはともかく、パッドがはるばるローストフトから来てくれたんだ。お前の夢の彼女を一目見ようってな!」
「いや、俺はちょうどロンドンにいたんだよ」とパッドが、無邪気さと困惑が入り混じった口調で言った。「仕事でこっちに来てたんだ。っていうか、俺がこっちにいるから、今晩みんなで会うことにしたんじゃなかったの?」
「ニールの言うことは無視していいのよ」とアナベルが言った。
「そりゃお前はいいだろうな。すでに彼女に会ってるんだから」とニールが返した。
「いずれにしても、トムが私の忠告に従って、彼女と付き合ったりなんてしなければ、私たちがこうしてここに集まることもなかったし、あなたもゴルダーズ・グリーンで、馬鹿みたいに飽きもせず、Xboxで遊んでいられたのよ」
「それはどうも。PS3だけどな」
「どっちだっていいのよ、このゲームオタク。私はちょっとタバコを吸ってくるわね。まったく腹が立つわ、パブでもうタバコが吸えないなんて、一体どんなふざけた時代よ。トイレでおしっこの臭いを嗅ぎながらタバコを吸っても、ちっとも美味しくないわ」彼女はそう言いながら、テーブルから立ち上がった。僕はもう一度携帯を見た。エズミーは違う店に行ってしまったのかもしれないと思った。あるいは彼女から、今夜は行けなくなった、とメールが来ているかもしれない。
しかし、受信画面はさっき見た時と同じだった。
トム:ハムステッドの〈ロスリン・アームズ〉っていうパブなんだけど、どうかな?😘
エズミー:わかるわ。じゃあ、スペイン語のレッスンの後で会いましょう😘
僕はさらに他のメッセージを送ろうかとも思ったけれど、もうすでにたくさん送ってしまった。
大丈夫?😘
何かあった?😘
そして、何気ない感じで、それとなく必死さを醸し出しつつ、こうも送った。
今晩来れるかどうか知らせてくれないかな😘
これ以上何か言えることがあるだろうか?
エズミーは僕との関係を考え直したのだろうか? 付き合い始めてから3ヶ月以上経っていた。もしかしたら、クーリングオフというか、やっぱり止めましたってことか? 前にもこんな経験あったな。―僕はその兆候に気づいていた。先週、彼女は映画に行こうという僕の誘いを、土壇場になってキャンセルした。僕はそのお返しに、パブで演奏した後の週末、いつもだったら彼女の部屋に泊まりに行くんだけど、行けない、と言った。そして、今度はこれだ。
「さっきのはどういう意味だ?」とニールは、アナベルがいなくなってから、僕に聞いた。「彼女の忠告って何?」
「ああ」と僕は言った。彼らには言いたくなかったが、僕が言わなければ、アナベルに聞くだろうし、彼女はさらりと答えてしまうだろう。「なんていうか、付き合わない方がいいって。つまり、エズミーと。アナベルは心配してるんだよ、あんな事があったから」
「なんで? そのエズミーって―」
「いや。そういうんじゃない。彼女のことじゃなくて、僕自身のことだよ。アナベルはまだ早すぎるって思ってるんだ」
「でも、うまくいってるんだろ? つまり、そのエズミーと」とニールが言った。僕は彼と長い付き合いになるから、彼の物腰が昔とはだいぶ変わったことがわかる。声の感じとか、話ぶりも違う。からかったり、おちょくったりすることがなくなり、代わりに、似つかわしくないほどの真剣さが前面に押し出されることがある。まさに、今のこの感じだ。
「うまくいってるよ」と僕は答えた。「アナベルは...ただ心配してるだけだよ。ほら、君ならわかるだろ? わかんないけど、たぶん彼女の言うことにも一理あったのかな」
「どういう意味?」
「要するに、彼女の忠告は正しかったってことだよ。早すぎた。わかんないけど。僕は頭で考えてただけだから」
「おい、トム。しっかりしろよ。お前が言ってることを総合すると―」
「僕が言ってることを総合すると、彼女は僕の夢の中の人ってことかな」
「それでもいいだろ。それのどこが悪いんだ?」
僕は一瞬考えた。何も悪くないな。エズミーとの関係は初めから信じられないものだった。初めて会った時から、急激に僕らを引き付ける、抗えない力が働いていた。その引力に身をまかせるように、あれよあれよという間に、僕らの関係は完璧なまでに進展した。
では、急に押し寄せてきたこの疑念や不安感は何なのだろう? 僕はなぜ、彼女が現れないのは僕のせいだと理由を探しているのだろう? 僕は前にも似たような経験をしたことがある。―誰かと友達や恋人になっても、僕は少しずつ、友情や恋人関係の土台となるはずの石を削ってしまうのだ。そして基盤はいつしか音もなく崩れ落ちる。僕の場合、絆を破壊するのに、何か大きな、ドラマチックなことをする必要はない。僕は今、エズミーにも同じようなことをしているのだろうか? そうは思いたくなかった。
「何も悪くない、と思う」僕はようやく言った。ニールが再び話し出そうとしたが、僕はそれを阻むように先に言った。「実は数ヶ月前から、ロンドンを離れようと思っていたところなんだ。どこか他の場所で心機一転、再出発しようと」
「エディンバラ?」
「そうだね。どこでもいいんだよ、ほんと。どこか新しい場所で、新しい空気を吸ってすっきりしたいんだ。アナベルには話したけど...」
「君はいっつも同じようなこと言ってるな。もう50回くらい同じような計画を聞いたぞ」とパッドが言った。
「そうかもしれない。でも今回はいつも以上に真剣だよ」
「そうか?」と彼は目を細め、疑い深い眼差しを向けてきた。
「そうだよ。もうネットでアパートとか、色々見てるんだから」
「俺だって暇さえあれば、ネットであちこちの部屋を見てるよ。だからといって、俺はそこに引っ越すわけじゃない」
「要は、ここから出て行くときの準備だよ。今はまだ、僕はここにいて、エズミーと一緒にいて、僕は―」
「幸せ?」
「僕は将来の忠誠を誓ったと思っていたんだけど...」
「将来の忠誠とか、そんなのまだ早いだろ。トム、今のお前は幸せか? エズミーと一緒にいて、どうなんだ?」
僕は少しの間、口をつぐんで考えてみたが、答えは明白だった。
「まあ、そうだね」
「それで、お前は彼女を愛してるんだろ?」
僕はそれには答えずに、ただうなずいた。彼らと知り合ってから、もう20年近くになるけど、正面切って愛がどうこうとか、真剣に恋愛について話したことは一度もなかった。ニールが大学生の時に、ガールフレンドにプロポーズするとか言っていた時も、空気はもっと軽かった。(結局、ニールはその恋人と、卒業して3週間後に破局した。)
「オーケー。じゃあ、いったい何が問題だっていうんだ?」とニールが言った。彼のがさつさがどんどん前面に押し出されてくる。「お前は幸せで、相思相愛の恋愛まっただ中にいて、それなのに、ロンドンに留まっているのが間違いだとか思ってるわけか。何の魅力もない辺ぴな場所にずらかろうとしてるわけだな」
「ニール、エディンバラは何の魅力もない辺ぴな場所じゃないよ」
「それはそうかも知れんが。ポイントはそこじゃないだろ。何をためらってるんだ?」
「僕はそういう性格なんだよ。知ってるだろ? いつだって僕が何かに自信を持って決断できたことなんてなかったじゃないか」
「たしかに、一度もないな。でも今回だけは、お前は一世一代の決断をしたんじゃないか。俺にはそう思えるぞ」
ニールはそう言うと、ビールをゴクゴクと飲み干した。そこへアナベルが戻ってきた。彼女は席についてからも、横目でバーテンダーを睨み付けている。口いっぱいに含んできたタバコの最後の煙を吐き出しながら、最近急速に広まりつつある禁煙令にあからさまにむかついている様子だ。
「まだ連絡ないの?」と彼女が聞いてきた。
「まだないけど、きっともうすぐ来るよ」と僕は言った。伝え方がちょっといけなかったかな、と思い始めていた。何人かの友達と会うんだ。君も一緒に来てくれたら最高なんだけど。というのは、表現として軽すぎたかもしれない。もっとはっきりと、大切な予定であることを伝えるべきだった。
「それで、何の話をしてたの? 」
「このマーレイくんと、そのエズミーさんの話をしてたんだよ。なんかこいつが、全部間違いだった、みたいなこと言ってためらってるからさ、思い切って突き進めって励ましてたんだ」
「僕はためらってなんか―」
「ほんとに?」とアナベルが言った。
「ためらってないよ」
「トム、大丈夫?」
「大丈夫だよ」と僕は言った。年季の入った木製のテーブルの端にはろうそくが立っていて、ぼんやりと辺りを照らしている。その明かりを見つめながら、僕はダイエット・コーラを一口飲んだ。
「トムが言うには、お前の言うことにも一理あったとさ。急ぎ過ぎたかもって」
「ほらやっぱり。私の言った通りじゃない」
「俺はそうは思わんな」とニールが言った。「こいつはここ何年かで最高に幸せそうだよ。こいつの傷だらけの人生が、やっと報われたって顔してる。だったら突き進むべきじゃないか?」
「まあ、あなたの意見はそうなんでしょうね」とアナベルは言った。「でも私はまだ早すぎるって心配してるのよ」
「僕はもう大丈夫だよ」と僕は言った。
「わかったわ」アナベルが真剣な表情で僕を見つめてくる。「一つ質問があるの。彼女にはもう話したの?」
彼女にそう聞かれたとたん、僕は黙り込んでしまった。僕は答える代わりに記憶の中に沈み込む。何度もエズミーに話す機会はあった。口の先まで出かかったけれど、その瞬間にことごとく、僕は言葉をのみ込んでしまった。つい最近も、今夜の逆の食事会があった。ソーホーでタイ料理を食べながら、エズミーの友人たちに紹介されたのだ。
あの時は僕が遅刻した。テーブルを取り囲む女子たちはみんな外で働いているようだったけれど、僕はその日ほとんど家にいたから、遅刻の言い訳ができなかった。(1時間ばかり、プリムローズにある邸宅にお邪魔して、豪華なリビングでそこの息子にレッスンはした。僕がいつか買える日が来ることを夢みていたギターを、その息子は買い与えられていたが、大して興味もなさそうだった。)
僕がようやくレストランに到着すると、エズミーと友人たちはすでにテーブルをぐるりと取り囲み、会話に花を咲かせていた。僕は一瞬入り口のところで躊躇して、彼女たちの様子をうかがった。彼女たちは僕が到着したことに気づいていないようだった。僕は急いで心を落ち着けて、緊張を隠した。こういう食事会には慣れていないのだ。全体的にとても大人な雰囲気が漂っていた。人生に大きな問題を抱えていない人たちの集まりだと思った。僕は自分がこういう雰囲気に向いているのかどうか、彼女たちの中に割って入ってもいいものかどうか、確信が持てなかった。
僕は気を取り直して、テーブルに向かって歩き出した。iPodの停止ボタンを押すと、「彼が来たわ!」という甲高い声が耳に飛び込んできた。
「カラ」とエズミーが子供を叱る学校の先生のように言った。甲高い声の女子はカラという名前らしい。「彼は着いたばかりなんだから、そんなに急かさないであげて」
「なんで彼の顔がわかったんだ?」とカラの隣の男が聞いた。
「フェイスブックで見たのよ」とカラが言うと、他のみんなは「あんなのやってるの?」と言うようにうめき声を上げた。「えっ? もうみんなやってると思ってたけど」
「あんなのやるわけないじゃない!」と別の女子が言った。彼女はタイの漁師みたいなダボダボのズボンを穿いていて、髪を細かく編み込んで垂らしていた。エズミーが言っていたフィリーだと、ぴんと来た。彼女は1年ばかり、東南アジアをめぐる旅に出ていて、最近帰ってきたらしい。旅先でのんびり、アジア(と彼女自身)を見つめ直してきた、という話だった。
「どうしてよ?」とカラが言って、フェイスブックの功罪についての軽い議論が始まった。彼女たちは簡単に居場所などが特定できてしまうことの善悪についてあれこれ言い合い、(知り合いの中で誰がフェイスブックを始めたかを教え合っていた。)僕はまだ突っ立ったままだったが、彼女たちの注意が自分から逸れたことに、ほっと胸をなでおろした。僕はテーブルの奥に座っているエズミーに視線を投げかけた。おそらく僕の居心地の悪さを察知してくれたのだろう、彼女は立ち上がると、僕の腕を取って、彼女たちの輪の中に僕を導いてくれた。
「遅くなってごめん、エズ」と僕は彼女の耳元でささやいた。僕たちは結婚披露宴で入場する新郎新婦のように、彼女の友人たちに見守られながら席につく。「馬鹿げているように聞こえると思うけど、本当に何を着ていけばいいのかわからなくて、迷ってたんだ」
「あなたはシャツを3着しか持ってないでしょ」
「そうなんだけど、3着のうちどれを着ればいいのかわからなかったから」
「あなたは素敵よ」と彼女が僕の手を握って言った。「どれを着たって、あなたはいつも素敵」
エズミーが僕を連れてテーブルを回り、彼女の親しい友人やその恋人を一人ずつ紹介してくれた。それは良かったのだが、僕はYさんを紹介されている時にはすでに、Xさんの名前を忘れているという有様だった。
8人のうち、僕が覚えられたのは、エズミーの「ここだけの話よ」で始まる内緒の話によく出てくる人たちだけだった。彼女のルームメイトのローラはすでに知っていた。それから、ジャム。―彼女はエズミーが大学時代に知り合ったケニア人とのハーフの女の子で、ジャミラを縮めてジャムと呼んでいた。
「ジャムは再開発が進みそうな地区に住みたがってるの。それで実際に近くの道路で工事が始まったら、美味しいコーヒーと焼きたてのパンを楽しみながら、窓の外から聞こえる騒音に文句を言いたい子なのよ」とエズミーは、親友であるジャムの人となりを、その核を成す部分にずけずけと入り込んで行くような切り口で語っていた。
そして、マーティン。彼はエズミーが一番親しくしている男友達だと聞いていたから、紹介されるまでは若干身構えていたのだが、実際に会ってみると、思わず僕はにやけてしまった。彼はかなり太っていて、ぎとぎとした長い髪の男だった。しかも、そこはおしゃれなレストランだったにもかかわらず、彼はウォーキングブーツにカーゴパンツを穿き、『シンプソンズ』のアニメキャラが描かれたTシャツを着ていたのだ。
僕が落としそうになるほど重いボトルをつかんで自分のグラスに水を注いでいたら、僕に直接、質問が投げかけられて、ちょっと水をこぼしてしまった。
「トム、あなたはカムデンのどの辺りに住んでるの?」とジャミラが聞いてきた。
「鍵かけ橋の近くに〈ロック〉っていう音楽スタジオがあって、そのすぐそば。大した場所じゃないよ」
「その辺りに住んでる人を知ってるわ。いいところだけど、観光客が多いって言ってた」
「そんな感じかな。僕は昼間はあまり外出しないから、日帰り客で賑わってるところに出くわす、なんてことはないけど」
「ロンドンに来てどのくらい?」
「もうすぐ4年になるね。元々はローストフトに住んでたんだ」
「そこってウェールズの方?」飛んできたその質問に僕が答えようとしたところ、テーブルの端から声が上がった。マーティンだった。彼がグローブをはめた手を伸ばしてボールを横取りするみたいに、横から割って入り、僕の代わりに答えてしまった。彼の喋り方は、だるそうで、どこか恩着せがましい感じだったが、彼はいつでもどこでも誰に対しても、そういう喋り方をするんだと、だんだんわかっていった。
「フィリー、ローストフトは東だよ。海岸沿い」
「ウェールズも海岸沿いよ」という返事が返ってきた。
「あなたはミュージシャンだってエズミーが言ってたけど?」とジャミラが言って、僕の注意を彼女の方へ引き戻した。
「えー、かっこいいー」と別の女の子が声を上げた。彼女の名前はたしか、ソフィー、クロエ、シボーンのどれかだったと思う。
「ミュージシャンっていう響きほど、かっこいいものじゃないよ。僕は音楽を教える方がメインだから」
「じゃあ、音楽の先生なの?」と彼女が言った。
「まあ、近くの学校で少し教えてることは教えてるけど、音楽の特別講師だし、どっぷりと先生って感じじゃないよ」
「そうなの?」と、その女の子は少し混乱したように言った。
「それ以外は、お金持ちの家の子供に個人レッスンをしたり、あとは、いくつかのバンドを掛け持ちで、ギターとかキーボードを弾いてる感じかな」
「そこそこ有名なバンド? 私たちの耳にも届くような」とローラが言った。相変わらず、質問をする時の彼女の口調には、手厳しさが滲んでいる。一瞬、僕に対する嫌悪感がそうさせているのかと思ったけれど、彼女は常に、ジャーナリストとしての本分から完全には離れられないのだと気付いた。誰かに何気ない質問を投げかけるだけで、相手を心底パニックに陥れてしまうほど、彼女はどっぷりとジャーナリストなのだ。
「たぶん誰の耳にも届いてないね」と僕は言った。なんとか僕の話題から、違う話に持っていきたかったのだが、この夕食会が、そもそも僕と会って僕を知ることを唯一の目的として開かれたことを考えると、それは難しかった。「結婚披露宴で演奏するバンドとか。あと夏に時々、〈スーパーソニック〉っていうオアシスのトリビュートバンドで代役を務めることもある」
「噓でしょ? 私はそのバンドを見たことがあると思う」とカラが割って入った。「何年か前に知り合いに連れられて行ったのよ。あなたがあの時、舞台上にいたノエル?」
「いや、違うと思う。ノエル役はもう一人いるんだ。僕は年に数回しかライブに出ない。いつもの二人が出られない時だけね。ほとんどのライブでは、その二人がノエルとリアムを演じてる。あの二人は髪型もぴったりなんだよ」
「ノエルって歌わない方でしょ? 誰も見てない方って言った方がいいかしら」
「そう。だから僕も楽な仕事なんだ。―ポロシャツを着て、1時間かそこら、笑顔を封印して、ニヒルにギターをかき鳴らしてればいいだけだから」
僕の話を聞いていた何人かが笑ってくれたので、僕は少し自信を取り戻した。すぐに別の話題が立ち昇りテーブルを席巻し出すと、僕はようやく話の中心から解放され、ほっとした。フィリーがギャップイヤーを利用して海外旅行に行った話をすれば、ローラも同じような体験をしたけれど、泊まったユースホステルがことごとく居心地の悪いところだったらしく、「私のギャップイヤーは散々だったわ」と言って、フィリーの思い出話を打ち消していた。
ようやく、僕もその晩の雰囲気になじんできたと思った矢先、僕が恐れていた質問を浴びせられた。答え方を心得てはいたが、それでもその質問をされるたびに、僕はうろたえてしまう。誰にも気づかれないことを願っていたが、彼女たちは気配り上手でずっと僕に注意を払っていたから、やはり気づかれてしまった。そうして僕は、この新しく友人になれるかもしれない人たちに対して、初めて嘘をつくことになった。
「あら! ごめんなさいね、トム。あなたのグラスが空っぽになってるの気づかなかったわ。赤と白、どっちがいい?」とジャミラが言った。
「あ、ワインはやめとくよ。ありがとう」
「それじゃあ、ビールでもどうだ? これでよければ」とマーティンが〈シンハービール〉の瓶を掲げて言った。
「いや、遠慮しとくよ。ありがとう」僕は内心ひやひやしていた。「僕は今、錠剤を飲んでるから、一緒にお酒を飲むわけにはいかないんだよ。だからコーラだけで大丈夫」
「ほとんどの錠剤はお酒と一緒に飲めるのよ」とローラが主張した。「それってよくある誤解で、お酒と一緒に飲むと、吐いちゃった場合、薬も吐き出すことになっちゃうから、医者が飲むなって言ってるだけなの」
「なら吐くといけないから、僕はコーラでいいよ」
そう言いながらも、僕はみんなに嘘を見抜かれていると確信していた。こんな取って付けたような、薄っぺらい言い訳、言ったそばから見破られるに決まってる。こうして嘘をつくのは数ヶ月ぶりだった。もしかしたら1年ぶりくらいかもしれない。練習不足は否めず、ぎこちない言い方になってしまった。汗ばんだ手のひらをジーンズで拭って、トイレに逃げ込もうとしたとき、エズミーが体を寄せてきて、耳元でささやいた。「あなた、錠剤を飲んでるなんて一言も言ってなかったじゃない」
「錠剤なんて飲んでないよ」と僕はささやき返した。「そう言った方が手っ取り早いんだよ。単にお酒は飲まないことにしてるって言うと、変わった人だと思われるだろ」
「そんなこと思わないわ」とエズミーが言った。「私の友達はみんないい人よ」
「勘弁してくれよ。前にも似たようなことがあったんだ。お酒は控えてる、とか言うとすぐに、「それでどうやって楽しむつもり?」みたいな馬鹿げた質問が返ってくるんだよ。いちいちそんなやり取りしたくない」
「わかったわ」とエズミーが言った。僕の声から苛立ちを感じ取ったようで、彼女は僕から離れると、ローラを中心に繰り広げられていた会話に加わった。―会話というより、ローラが一人で、最近首相に抜擢されたばかりのゴードン・ブラウンについて、手ぶりを交えて熱弁をふるっていた。
その間、僕は一息ついて、気持ちを落ち着けた。断崖絶壁のふちに立っている気分だった。今はまだなんとか持ちこたえているが、いつ落ちるか気が気でない。今夜この会がお開きになるまで、ずっとこんな状態なのかと思うと、うんざりした。―ある時は注目の的になり、嵐が去った後は、冷や汗をかきながら、静かにみんなの様子を観察していた。―そんなこんなで午後10時になり、僕たちはようやく店を出た。ジャミラが「そこの角にパブがあるから行こう」と誘ってきたけれど、その誘いを断ると、僕とエズミーは腕を組んで、一団から離れていった。一瞬解放されたかに思えたが、気づけば、そこは新たな崖っぷちだった。
「大丈夫だった、よね?」と僕は聞いた。地下鉄のトッテナムコートロード駅に向かって、二人で歩いていた。
「良かったわよ、トム」
「うまく立ち回れたかな?」僕はエズミーに聞きつつ、自分自身にもそう問いかけた。
「上出来。でもどちらかというと、あなたが私の友達に気を配っていたというよりは、私の友達があなたを気遣っていた感じだったわね」
「わかってる。彼女たちはお互いに気を遣い合って、いい仲間って感じだった。僕が思うには―」
「お酒のことは何だったの?」と彼女が唐突に聞いてきた。
「お酒のこと?」
「錠剤を飲んでるとか言い訳してたでしょ。そしたら、本当は錠剤なんて飲んでないとか言って。どうして正直に、お酒は飲めないって言わなかったの?」
「だから言ったじゃないか。そういうと変に思われるっていうか―」
「でも、あなたは私にはそうは言わなかったよね?」とエズミーは言うと、握っていた僕の手を離し、地下鉄へ続く汚い階段をコツコツと踏み鳴らすように下りて行った。踏みにじられて、ぐしゃぐしゃになった『イブニング・スタンダード』の新聞紙をまたぎながら、彼女は言った。「あなたは私にこう言ってたわ。飲むと気分が悪くなるのが嫌だから、飲まないって」
「エズ」
「あなたはこうも言ってたわ。僕はビールやワインの味が嫌いだから、飲まない。それが本当ならそれでいいのよ。でも先月、あなたはラガービール味のノンアルコール飲料を飲んでたわよね。あなたの言ってることがころころ変わるのは何なの? 私はもう何が何だかわからなくなっちゃった」
僕は何も言えなくなり、自分を呪った。もっと気を引き締めて、言動に注意を払っておくべきだった。この種のことには根気が必要なんだ。
「ねえ、どうして錠剤を飲んでるなんて言ったの?」と彼女が追い打ちをかけてくる。「トム、なんで嘘をつくの?」
僕が答えようとしたとき、地下鉄のライトがトンネルのブラックホールをピカッと照らした。数秒後、列車がゴーッという音を立てて目の前に滑り込んできて、耳を突き刺すようなキーッというブレーキ音が鳴り響いた。駅員の不鮮明な声が、「扉から離れてください。扉から離れてください」と繰り返し、扉が開く。その夜はエズミーも北上する地下鉄に乗ってカムデン・タウンへ向かい、僕の部屋に泊まる予定だった。
地下鉄の到来によって会話が遮断されたことに、僕は感謝した。一方的に攻められ続ける会話が、一時休止を余儀なくされたのだ。先に列車に乗り込むエズミーの後に続きながら、僕は頭の中で考えをまとめていた。ピンストライプのスーツを着た太った男が寝ているのが目に入り、その横の席がちょうど二人分空いている。さらにその横には二人の少年が並んで座っていて、悪臭を放つアルミホイルに包まれたブリトーにかぶりついている。
エズミーが空いている席に全体重を投げかけるように腰を下ろした。夜も深まり、一日の疲れが相当足に溜まっていたようだ。僕も彼女の隣に座り、ボロボロの茶色い肩掛けカバンを足のふくらはぎとファンヒーターの隙間に置いた。どこへ行くにも常に持ち歩いている年季が入ったカバンだ。ファンヒーターから生暖かくて、かび臭い温風が吹き上がってくる。地下鉄の扉が滑るように閉まっても、僕は黙っていた。エズミーから何か言ってくれるのを期待しながら。
「飲みたくないのなら飲みたくないって言えばいいじゃない。そう言ったって誰もなんとも思わないわ」と、徐々に速度を上げる列車の中で、彼女は言った。彼女の口調は先ほどと打って変わって、柔らかくなっていた。憤りや漠然とした怒り、苛立ちといった感情は影を潜め、代わりに、共感や優しさ、広い心で受け入れようとする姿勢がはっきりと伝わってきた。
「わかってる」と僕は言った。
「じゃあ、なぜ錠剤を飲んでるなんて言うの? 味が嫌いとか言うの? お酒で何かあったのなら、話してよ。誰だって嫌な経験くらいあるわ」
「わかってる」
「トム、あなたは『わかってる』以外に何も言えないの?」
それに答える前に、僕は少し逡巡した。またこの感覚だ、と思った。僕の内面をどこまでさらけ出せばいいのか? 僕のどの部分を彼女に差し出せばいいのか? と問われている感覚。ただ、今回は考えがまとまるまで待っていられない。とにかく、何かを言わなければならない。
「あったんだ」と僕は言った。
「何があったの?」
「嫌な経験だよ。本当に嫌な経験を、何度かね」
「どんな? 吐いたとか? 気を失った?」
「まあ…そんな感じかな…両方とも、いっぺんにって感じ」と僕はどもるように言った。「とにかく、その種のことがあったんだよ」僕は再び手のひらに汗をかいていた。心臓がバスケットボールくらいの大きさまで膨れ上がり、肋骨を押し広げ、喉元を突き上げてくる。
「それでお酒をやめたの?」
「そう…たぶんそうだと思う。それで気づいたんだよ。わかるだろ? あれは…僕には合わないって」
僕がそう言い終えたところで、列車はユーストン駅に到着した。地下鉄を降りてからも、エズミーは黙り込んでいた。冷えた舗道に積もった雪のように、彼女は頭の中で言葉が固まるのを待っているようだった。ほんの少しの沈黙だったけれど、僕には何時間も続くように感じられた。エズミーの斜め後ろを歩きながら、僕はさらなる質問が飛び出してくるのか、それともこれで終わりなのか、と身構えていた。
「わかったわ」エズミーは静かにそう言いながら立ち止まると、僕の手を握った。「それは誰もが通る道よ。わかるでしょ?」
僕はうなずいてみせたけれど、本当はこう言いたかった。「違う。誰もが通る道なんかじゃない。君が経験したことと、僕がたどった『道』は全く異なるものなんだ。君は友達に長い髪を抑えてもらいながら、飲んだ酒を全部吐き出してしまった、とか、そういう酒に酔った夜の経験を言っているんだろ」と。
「飲まないなら飲まなくてもいいのよ、トム」とエズミーは続けた。「それはあなたが決めることよ」
「わかってる」と僕は言った。「ごめん、エズ。どうやら僕は、気にしすぎていたみたいだ…周りの人にどう思われるかって」
「それじゃあ、周りの人次第の人生になっちゃうでしょ? あなたの人生なんだから、あなたが道を選ぶのよ。他の人と同じ事はしないっていうあなたを誇りに思うわ。だからこそ、私はあなたを愛してる」
エズミーが僕に抱きつくようにキスしてきた。カムデンの冷えた路上で、しばらく僕たちは熱くキスを交わしていた。
☆
「トム、まさか言ってないの? バッカじゃないの」とアナベルは言って、手に持っていたパイントグラスを勢い良くテーブルに置いた。グラスからビールが飛び散るくらい、彼女は怒っていた。彼女が怒るのも無理ないな、と僕は思った。
「アナベル、僕は―」
「時々、あなたが本当に信じられなくなるわ」
「ほっといてやれよ、な?」とニールが言った。
「ニール、ただの風邪じゃないんだから、ほっといたって治らないのよ」
「いいか、こいつはまだ今の時点では、彼女に知られたくないと思ってるんだよ。だったら俺たちが口出しすることじゃないだろ。こいつだって時期が来れば、ちゃんと話すさ」
「ニール」
「この話題を持ち出すのは禁止な。それと、トムの元カノの話も禁句」とニールが言った。僕は不安な表情を隠すように、もう一度腕時計に目をやった。
「待て、禁句はないだろ。彼女がここに到着したら、さっそくトムの元カノの話で盛り上がろうと思ってたのに!」とポッドが言った。「あの時は大騒動だったよな。町全体でトム・マーレイを捜索したら、こいつは土曜日のバイトをさぼって、地理教師の娘といちゃいちゃ乳繰り合ってるところを発見されたんだ」
「ポッド、やめてくれ」と僕は言った。アナベルの苛立ちがますます膨れ上がるのを僕はひしひしと感じていた。
「あの話はどうだ? お前が案山子を盗んで、それにドレスを着させて、さも恋人のようにナイトクラブにこっそり持ち込もうとしたら、入口で止められた事件は?」彼は続ける。「あれもあったな、お前がパトカーに雪だるまを投げつけて、逮捕されそうになった事件は?」
「どれも言っちゃだめ」と僕は言った。「彼女には知られたくないんだ、僕がそんな―」
「嫌な奴だと思われたくないんだな」とニールが言うと、ポッドも笑い声を上げた。僕は俯いて口をつぐむ。
「まったく何がそんなに可笑しいのかしらね、お二人さん」とアナベルが、いたずらっ子をたしなめる教師のような口調で言った。
「ちょっとみんな、こういう話はやめてくれないかな?」と僕は意思を固めて言った。「今は大事な時期なんだ。なんか…最初にこういう人かなって思ってた人と違う、みたいに思われたくないんだよ。わかるだろ? まだ僕自身を少ししか見せてない段階なんだ。君たちもさっき、彼女とどんどん突き進めって言ってたじゃないか。僕だってそうしたいのはやまやまなんだよ。ただ、ちょっと自分自身をさらけ出すのが怖いっていうか、わかるだろ?」
幼なじみたちが一斉に静かになった。彼らは皆、僕が何のことを言っているのかわかっていた。5年前のあの夜に、僕の中の一部分は死んでしまったんだ。
「僕は彼女を愛してる。彼女も僕を愛してる。僕たちは上手く行けば、きっと素晴らしい関係になれる」
テーブルが静まり返る。軽口も冗談もすっかり消え失せていた。
「いいわ、トム。でもね、心の底ではわかってるんでしょ。彼女にあの事を話さないってことは、あなたたちの関係が『上手く行く』助けにはならないのよ。早く気づいた方がいいわ」
「アニー、もういいだろ」とニールが僕をかばうように、再び間に割って入ってくれた。
「彼女が知らないままでもいいと思うの? ほんとにそれでいいと思うの?」
「それはトムが決めることだろ」
「あなたたちは付き合い始めてどのくらい?」と彼女が僕の方に向き直って、聞いてきた。
「もうすぐ4ヶ月になるけど」
「それで彼女は全く何も知らないの?」
「少しは話したよ。断片的に」
「断片的って」
「アナベル、ちょっと」
「それは間違ってると思う」と彼女が話す後ろで、店の扉が開いた。
「黙って」と僕は言った。
「黙らないわ、トム。もしあなたがこれからも彼女と上手く付き合っていきたいのなら、ちゃんと―」
「ほんとに黙って」と僕は固めた言葉を投げつけた。アナベルが辺りを見回す。「彼女が来たんだよ」と僕は言った。
チャプター 4
今回の舞台はベルサイズ・パークです。
プリムローズ・ヒルは高級住宅地で、トムの教え子が住んでいます🎸
(そして、ただ今、ダッシュがキーツハウスを抜け出して、ハムステッド・ヒースに迷い込んでしまいました...)
~~~
午前8時~9時
二人で一つの家庭を築くということ
2009年4月 ― ベルサイズ・パーク、ロンドン
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