『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』6

『My Almost Flawless Tokyo Dream Life』 by レイチェル・コーン 訳 藍(2020年01月26日~2020年10月26日)


チャプター 31


マサおじさんは、私がICSで誰と友達になるべきかという相談を持ち掛けても、どうでもいいようだった。彼はただ久しぶりに私と二人きりで、街をぶらぶらしたいだけなのだ。台北での週末は、彼とのデートみたいな散歩で幕を開けた。それから、シャンパンが運ばれてきた。

土曜日の朝、マサおじさんは彼のお気に入りの場所だという〈チョンシャンパーク〉を案内してくれた。〈台北101〉と呼ばれる、台北を象徴する101階建て超高層ビルの影の下、噴水のある湖をぐるっと一周する、緑の木々に囲まれた美しい散歩道を二人で歩いていた。いろんな人たちを見ることができて、素敵な場所だった。ロマンチックに肩を寄せ合い散歩する若いカップル、ベビーカーの中の赤ん坊の様子を気にしながら笑顔で歩く両親、太極拳を練習するお年寄りたち、自転車に乗る子供たち、花の写真をカメラに収める自然愛好家たち。何より最高だったのは、バオビングというフルーツたっぷりのシャーベットだった。―極薄でシャリシャリの氷に濃厚なミルクがとろーりかかっていて、格別に甘い香りを漂わせていた。私はバオビングに、四角く切ったマンゴーをトッピングでつけてもらった。マサおじさんはスイートポテトをトッピングに選んだ。氷のシャーベットにスイートポテトなんて、私は想像すらしたことなかった組み合わせだったけど、一口食べさせてもらったら、結構いけた。

水泳の試合が始まるのは、午後の遅い時間だったので、午前中は観光を楽しむことにしたんだけど、最終的に、酔っ払いの洗礼を受けることになってしまった。

昼食を取ろうとホテルに戻り、マサおじさんがシャンパンを飲むというので、私も一口だけ味わってみたくなって、ちょこっとだけ飲ませてもらった。シャンパンは美味しかったけれど、それ以上飲むのはやめておいた。コーチのターニャが近くで、ボーイフレンドと並んで座っていたからだ。数時間後に行われる大きな試合を前に、選手たちがホテルの屋上のプールで各々調整しているのを見守っている。

「それで、ジュネーブでの任期が終わったら、東京に戻るかどうか、もう決めたの?」と私はマサおじさんに聞いた。

彼が笑った。私はジョークを言ったつもりなんてなかったんだけど、たぶん彼は上機嫌だったんでしょう。マサおじさんは4杯目のシャンパンに口をつけ、珍しく仕事のない一日を楽しんでいた。

「家族と仕事は分けたほうがいいんだ」と彼はシャンパンを飲みながら、言った。「ケンジのところで働くのは、危険が大きすぎる」

「危険ってどんな? あなたはケンジにとって弟みたいなものだって、彼が言ってたわ。あなたたちが一緒に働いたら、上手くいく気がするけどな」

「ケンジには、もう一人兄弟なんて必要ないよ」

私は納得できなかった。「あなたたちはいとこ同士なんだから、―」

「そうじゃなくて、彼には兄がいたんだよ。亡くなっちゃったけど。そしてケンジも、兄と同じように、あやうい状態にいる」

「待って。私には叔父さんがいたってこと? 彼は何歳で亡くなったの?」

「マサルは長男で、ケンジより3歳年上だった。母親のお気に入りの息子だったんだけど、彼が19歳の時、ボートの事故で亡くなった。お酒を飲みすぎて、ボートのコントロールが利かなくなったんだ」

「全然知らなかった」私はミセス・タカハラに同情の念を覚え、胸が痛くなった。私には子供を失う辛さはわからない。きっと想像を絶する悲しみに襲われたんでしょう。だからといって、意地の悪い人になってもいいってわけじゃないけど、一人の人間をあんな風に変えてしまうほどに、それが大きな悲劇だったということは理解できた。

「マサルは王子みたいだった。ケンジは彼を崇拝していた。それから、ケンジは彼のようになったんだ」

「そうね、ケンジは家族の王子みたいだもんね」と私はうなずいた。

「違うよ、彼も酒を飲むようになったんだ」

「でも、彼はもう飲んでないわ!」

マサおじさんは、ほろ酔い気分を通り越し、慎重さを欠いて声を荒げた。「だけど、彼が酒に溺れていた時期は大変だったんだ。飲んでは騒ぎ、パーティーに明け暮れ、悪い人たちと取引をしてしまった。そのつけが回ってきたんだよ。私が彼と一緒に仕事をすることになれば、彼がめちゃくちゃにした混乱を、私が全部片付けなければならない」

私の直観は、マサおじさんを信じる方向へ向かった。でも理屈が追いついてこなかった。「ケンジが正気じゃなかったのなら、彼に経営を任せたらだめでしょ。彼の母親がそんなこと許すはずないわ。彼女はあんなに賢いんだから」

「彼女には他に選択肢がなかったんだ。日本には女性のCEOはいないから。キミは必死になって陰で頑張ってたよ。キミがやった仕事は全部、社長のケンジがやったことになったけどな。キミとノリコがなんとか彼を食い止めたんだ」

「食い止めたって何を? お酒?」

「そう。彼はなかなかお酒をやめようとしなかったんだけど、交換条件を出してきた。娘の君を東京に呼び寄せるなら、お酒はやめる。彼はそう言ったんだよ。彼は君のためにお酒をやめたんだ」

私を東京に連れてくるために彼が払った犠牲がどの程度のものなのか、私には想像もつかなかった。それでもまだ、私は疑わしく思っていた。「彼はリハビリに行ったんでしょ?」

マサおじさんは激しく首を横に振った。「リハビリなんて行かないよ。そもそも日本には、アルコール依存症のためのリハビリセンターなんてほとんどないから。リハビリは、アメリカほど大きなビジネスにならないんだよ。日本の社会では、一旦依存症になった人は男でも女でも、人々に見下される対象になる。回復後に元のステータスを取り戻すのは、極めて困難だ。それでいて、きっぱりお酒をやめなければならない。しゃれた英語を使えば、冷たい鶏(cold chicken)にならなければならない—」

「それを言うなら、冷たい七面鳥(cold turkey)よ」

「それだ。彼らは死んで、文字通り冷たい肉になるか、弱い人間と見下されながら生きるか、義理と人情を重んじる日本では、そのどちらかしかない。義理というのは、周りの人たちへの義務のことで、人情というのは、元々その人にそなわってる感情のこと。日本人は常にその狭間で葛藤してるんだよ」

「彼がリハビリセンターに行けないのなら、彼の母親はもっと彼をサポートするべきでしょ」と私は言った。「あの二人が一緒にいるところを見ると、彼女はいつも日本語で何やらケンジを𠮟りつけてばかりいるわ」

「もしかしたら、彼女は彼がまた酒に溺れることがないように、彼の気を引き締めてるのかもしれないな。せっかく娘が近くにいるんだから、彼が君の模範となるように」

私はそんなこと思ってもみなかったから意表を突かれ、唖然としたまま何も言えなくなってしまった。そんなことってありえる? あのミセス・タカハラにも、義理や人情があるのかしら?

私のママは依存症から抜けられなくなって、彼女自身の人生をほとんど壊滅させ、私の人生にも暗い影を落とした。逆にケンジは依存症からきっぱり抜け出して、私の人生に明るい光を降り注いでくれた。

上機嫌のマサおじさんはいいことを言ってくれるわね。もっと色々教えてほしくて、私はシャンパンボトルの残りを彼のグラスに注いだ。彼は嬉しそうにそれをすすった。

私は打ち明けた。「正直な話、ケンジは父親になることに、あまり興味がないみたいなの」

マサおじさんが言った。「彼は君の父親になりたがってるさ。そうでなければ、わざわざ君を日本に呼び寄せたりしないだろ。ただ、彼が親になる方法を見つけるには、もう少し時間がかかる。彼自身の父親はとても厳しくて、いつもケンジを残念な息子として扱ってきたからな。それに、彼が母親からどれだけプレッシャーをかけられてるか、君も見てわかっただろ。もうちょっと辛抱強く、彼のことを理解してあげなさい」

私は彼の子供なのよ。理解したいんじゃなくて、理解されたいの。



チャプター 32


リュウはぶっちぎりで200M背泳ぎを征した。2分31秒25の好タイムだ。私は声がかれそうになるくらい声を張り上げて、彼を応援していた。ベンチから、コーチのターニャが彼に向かって呼びかけた。「キムラ! 自己ベスト更新よ! よくやったわ!」彼女が振り向いて、後ろに座っている私を見た。「あなたが見てるとね、彼は自己ベストが出るのよ」

私は顔が赤くなっても彼女に気づかれないように、うつむき気味で言った。「彼は屋内プールの方が得意だって言ってたから、それでじゃないでしょうか」ICS-台北の屋内プールは、緑豊かな造園に囲まれたlCS-東京の屋外プールほど立派ではなかった。ただ、台北のプールはこじんまりとしている分、気持ちが落ち着くような空間で、気温が安定しているという利点もあった。両サイドから、控え選手たちがチームメイトを応援する声が反響して聞こえる。(スタンドにいるICS-台北の保護者たちが両手で耳を覆うようにしているのは、私が東京から連れてきた非公式の応援団がうるさすぎるからだ。)

リュウがベンチに戻ってきて、私の隣に座った。次のレースが始まろうとしていた。私は彼とハイタッチを交わした。「素晴らしい泳ぎだったわ!」こんなに素敵な彼と、付き合うな、だなんて、ケンジは何もわかってないわね。時間の問題じゃないのよ。ケンジはリュウがどんな人なのか、知ろうともしてないんだから。というか、彼は自分の娘のことも、知ろうとしてないみたいだけど。

「ありがとう」とリュウが言った。「気持ち良かった」彼はあまり笑顔を見せない人なんだけど、この時ばかりは、屈託のない笑顔を見せた。しかし、突如として彼の顔が、しかめっ面に変わった。彼の視線を追って、振り返って見れば、スタンドにありえない人たちが到着したところだった。エックス・ブラッツのメンバー、ニック・ズホノフとオスカー・アコスタだった。

「こんなところで何してるの?」と私は、近寄ってきた二人に聞いた。

「応援に決まってるじゃないか」とオスカーが、そんなの当たり前だろ、という顔で言った。

ここは台北よ」と私は戸惑って言った。一体どういうこと?

ニックが言った。「昨日ブルネイでポロの試合があったんだよ。うちのプライベートジェット〈ズホノフ・エアー〉で家に帰る途中なんだけど、ここに立ち寄ってもらったんだ。君の初めての試合を、しかと見届けようと思ってね」彼はそう言えば私が喜ぶとでも思っている感じだったけど、私はストーカーに遭った気分だった。私が何も言わずに黙っていると、ニックは待ちきれなくなったのか、とうとう自分から、「どういたしまして」と言った。

次は私の出番だっていうのに、集中力によって胸のうちに溜まりつつあった神秘的な力が、一気に消えてしまった。100Mバタフライのアナウンスがあり、私はげんなりした気分で、ベンチを立った。観覧席の一番上の列から、マサおじさんが私を見下ろして、熱狂的に両腕を上げ、親指を立てていた。彼が私の泳ぎを見るのは、私が子供の時以来になる。私は彼を感動させる泳ぎがしたい。今からでも、もう一度集中しなくちゃ。聞いたことない名前の場所でポロの試合があって、その帰りに「立ち寄った」だけね。そんなことに気を取られて、精神集中が台無しになるなんて、絶対避けなきゃ。

ニックが私に言った。「君が望むなら、帰りはプライベートジェットで君を東京まで送り届けてあげるよ」彼はリュウを一瞬睨み付けてから、もう一度私を見て言った。「特別に君だけね」

「私はリュウたちみんなと帰るからいいわ」と私は言った。リュウの口の両端がくるっと丸まって、ほとんど笑顔になったのが、私にはしっかり見て取れた。

「君は君自身が何を求めているのかわかってない」とオスカーが言った。

はっきり言って、私はわかっていた。だから断ったんでしょ。もう、私がニックとキスしちゃったなんて、信じられない。私はニックを見やる。高慢ちきで不気味な彼とキスなんて、もう二度とするもんか。


・・・


「行け、ゾエルナー!」スタート直前、私が飛び込み台から水面を見つめていると、ニックの叫び声が聞こえた。スタンドを見上げると、彼が私に投げキッスを送った。

バンッとスターターの銃声が鳴り響き、私は飛び込んだ。直後、私は水を飲んでしまい、むせるように息継ぎしながら、バタフライを開始した。私の100Mのタイムは、いつもなら平均して1分10秒くらいなんだけど、台北での私の記録は1分25秒という体たらくだった。やってしまった。怒りを力に代えて、腕や脚をしっかり動かせばよかったのに、私は動揺して、バタバタと空回りさせてしまった。私の集中力は水中から浮き上がり、私は泳ぎながら、なぜかスタンドにいるエックス・ブラッツのことを考えていた。あの投げキッスは何なの? どういう意味? 外国での試合に、呼ばれてもいないのに突然現れて、恋人気取り? ニックに直接、「もう付きまとわないで!」って言った方がいいかしら? それとも接近禁止命令を出してもらって、間接的にそれを伝えた方がいいかな?

「君の泳ぎは素晴らしかったよ!」とマサおじさんは嘘をついた。彼は一足先にジュネーブに戻る必要があるため、空港に向かう前に私のところに挨拶にやって来た。

「私はビリだったのよ」と私は彼にさっきのレースを思い出させた。

「君は明らかに一番パワフルな泳ぎをしていたよ。ただ、君はどこか気が散っているようだった」

「集中、集中、集中」と私はつぶやいた。レジーがいつもスタート前に私に声を掛けてくれる言葉だ。最悪だ。それをレース後に思い出すなんて。

日本式ではなく、アメリカ式のお別れの挨拶だけど、マサおじさんは私を包み込むようにハグしてくれた。ほっとした。

今の私にはそれが必要だった。

台北空港行きの貸切バスに乗り込む前に、私は着替えのため更衣室に向かった。更衣室にはもうほとんど人はいなかった。私がマサおじさんと話している間に、チームメイトたちはすでに着替えを済ませて更衣室から出ていた。私はシャワーを浴びて服を着た。負けたことを水着のせいにはしたくないけど、この水着はもう着たくないな、と思いながら、それをスポーツバッグに詰めて、外に出た。ICS-東京のキャンパスのように、台北のキャンパスも広くて、しかもすでに辺りは暗かったので、私はスマホを懐中電灯代わりにして、バスが待っているはずの中央広場に急いだ。

たしかこの本館の角を曲がれば中庭に出るはず、と思いながら、建物の横を急ぎ足で歩いていると、木陰から男が飛び出してきて、私は心臓が止まるかと思うほど、びっくりした。「ブー!」と言ったは、ニックだった。

「そういうことはやめて!」私は彼の体を突っぱねるように押しながら言った。

暗闇で突然襲われて、恐怖で心臓発作を起こしそうだったのよ、と私が言うよりも先に、彼が私を引き寄せ、抱きしめた。「君は思わせぶりだな」と彼はつぶやくと、唇を私の唇に押し付けてきた。

「やめて!」私は口ごもるように言い、顔を回転させ、なんとか彼の唇を回避した。

「ラフなプレイが好きか?」私は何が起きているのかわからないまま、地面に押し倒され、彼がもう一度私にキスしようとしてきた。これって現実に私の身に起きていることなの?

集中、集中、集中、レース前のレジーの声が聞こえた。私が抱いているパニックや嫌悪感を覆すには、集中力しかない。そして私は...

「わぁ!」とニックが悲鳴を上げ、私の横に転がり落ちた。猫背の姿勢でうずくまり、両手で股間を押さえている。私がスイマーの全力をひざに集中させ、思いっきり彼の股間を蹴り上げたのだ。「このビッチめ! こんな仕打ちしやがって! こっちはちょっとからかっただけだろ」

もう二度とからかわないで」私は立ち上がった。誰かのスマホが懐中電灯のように、私たちを照らし出した。

リュウだった。彼は私を見ると、言った。「行こう、エル」私に向けられる彼のまなざしが、私を安心させた。私は無事だったんだ。それからリュウはニックを見下ろし、言った。「もう一度こんなことやろうとしたら、俺がお前を殺す」



チャプター 33


「そんなの大したことじゃないよ」

月曜日、そう言ったのはジャンビ・カプールだった。私が彼女たちに週末、台北でニックにされたことを話したら、軽くあしらわれてしまったのだ。私たちは課外授業で明治神宮に来ていた。明治神宮は昔の天皇とその妻の霊を祀る神社らしい。都会の真ん中にぽっかりと空いた林には、赤やオレンジの葉っぱが生い茂っていて、信じられないほど穏やかなスポットだった。鳥居と呼ばれる巨大なヒマラヤスギの門をくぐると、小道がずっと続いている。見事な寺院や国宝が展示されている博物館もあった。小道の脇に白い酒樽がきちんと積み上げられて、壁のようになっている場所もある。伝統的な衣装を身にまとった神主や巫女さんもいた。神社の静けさとは裏腹に、私の心臓はドキドキと不協和音を奏でていた。―私は意を決して打ち明けたというのに、エックス・ブラッツの子たちがほとんど無反応だったから、彼女たちの正気を疑った。

ヌトンビが言った。「きっと飲み過ぎたのよ。彼は飲むとそういう感じになるのよね」

「レイプされそうになったのよ?」私は彼女たちの無関心さがショックでならない。

「その言い方は不適切ね」とイモジェンが言った。「彼はちょっと羽目を外しただけで、あなたを傷つけるつもりはなかったのよ」

ジャンビが言った。「彼はいい人よ。まあ、酒を飲むとアホになるけど」

私は言った。「彼は間違ったことをしてるってわかっていたのよ! その証拠に、ほら見て、今日学校を休んでるじゃない」

ジャンビが言った。「今週は感謝祭でしょ。だから半分くらいの生徒は、アメリカの家族の元へ帰っちゃったのよ」

「ニックはアメリカ人じゃないわ」と私は指摘した。きっとリュウが彼を殺すって脅したから、ニックは休んでるのよ。私はその部分については彼女たちに話さなかった。リュウはあまり口数が多いほうではないけど、一旦彼が口を開けば、ズバッといいことを言ってくれるんだから。私はリュウもこの課外授業に参加していてほしかった。上辺だけの友達と一緒にいるより、彼と紅葉の下を歩きたかった。昨夜、台北から東京に帰る飛行機の中で、リュウは私の隣に座って、寄り添うようにしてくれた。彼はほとんど一言も話さなかったけど、彼の沈黙がすべてを語っていた。俺が君のそばにいるから大丈夫だよ。夜空を飛ぶ薄暗い機内で、私は頭を彼の肩に乗せ、彼は手を私の膝に乗せていた。日本に来て以来、誰かの庇護に包まれて、これほど安心しきった時間はなかった。

イモジェンが一歩前に出て、振り返ると、一旦歩くのをやめましょう、と私たちに指示した。「ガールズトークタイムよ」彼女は私に鋭い視線を向けた。「エル、ニックは私たちの友達なの。あなたはどちらかの道を選ばなければいけないわ」

「どちらかの道って?」と私は混乱して聞いた。

ジャンビが言った。「彼にレイプされたとか言ってたら、私たちのグループにはいられないってこと」

私はハッと息を止めてしまった。この会話って実際に今起こってるの? 女の子同士ってお互いに支え合うものじゃないの? 私は嫌悪感で胸がいっぱいになり、言葉も出なかった。

ヌトンビが言った。「私たちは彼のことをそれなりに知ってるけど、あなたのことはほとんど何も知らないわ」

私はもう我慢できなかった。私は言った。「それなら今、私のことを知ってちょうだい。私がなぜ東京に引っ越してきたか知ってる? 私はここに来る前、里親の家にいたの。ママが刑務所に入っちゃって、一緒に暮らす家族がいなかったからよ。私の服はすべて〈ターゲット〉か〈オールドネイビー〉で買った安物ばかりだったし、飛行機にだって乗ったことなかったんだから。私はあなたたちみたいに、いろんな特権を持って生まれたわけじゃないけど、少なくとも何が正しくて、何が間違ってるかってことの区別くらいつくわ。少なくとも、木の陰から突然飛び出してきて、女の子を地面に押し倒す男は、いい人ではないってことくらいわかるわ」

誰も何も言い返してこなかった。少しして、イモジェンが手を叩きながら、褒め称えるように声を上げた。「素晴らしい名言ね。メリル・ストリープみたいだったわ」

ヌトンビが言った。「ごめんなさい。あなたにとっては大変なことだったのね。それでも、ニックは私たちの友達なのよ」

イモジェンが私の腕につかんで、私たちはまた歩き始めた。「そんなにピリピリ怒らないで、エル。私がニックと話して、丸く収めてみるから」

「あなたに丸く収めてほしいなんて頼んでないわ」と私は言った。

「それが上司の役目なのよ」とイモジェンが言った。

私は余計に混乱してしまった。丸く収めるってどういうこと? 議論がかみ合わなかったとかじゃないんだから、丸くなんて収まるの? というか、私は丸く収めたいの?



・・・


それから3日経っても、私はまだ混乱していた。どうしたらいいのかわからなかった。エックス・ブラッツのメンバーにはアメリカ人は一人もいなかったので、感謝祭といっても、家族で祝おうという者は誰もいなかった。代わりに、みんなでタック・ラグゼの〈生け花カフェ〉でお祝いしましょう、という話になり、ちょうど今、東京にエックス・ブラッツの元クイーンがいるらしく、イモジェンが彼女も連れて来たいと言った。それから、ニックは参加させないから安心して、と約束してくれた。

アラベラ・アコスタは、ほっそりとした顔をしていて、茶色い瞳には目力があった。太い眉毛に、不完全さが逆に魅力的なわし鼻で、クイーンという呼称にふさわしい風格をまとっていた。彼女のウェーブがかったダークブラウンの髪は、何気なく乱れている感じで、まるで彼女の頭上には目に見えない妖精が飛んでいて、常に絶妙な乱れをキープしているみたいだった。私は彼女の美しさに、ぱっと見で良い印象を抱きかけたけれど、彼女はリュウ・キムラとかつて付き合っていた子だと思い出し、逆にその美しさが憎らしくなった。

「ちょっと確認していいかしら?」とアラベラが私に言った。話し方まで王族みたいに上品で、私は胸くそが悪くなった。「あなたって東京に来るまで、お父さんが誰なのかも知らなかったって本当?」

「だったら何なの?」と私は言った。イモジェンがべらべらと全部喋ったのね!

〈生け花カフェ〉で感謝祭を祝うパーティーをしたいと言うと、ケンジが前もって、その夜のために特別なメニューを注文してくれた。私の顔を立ててくれた、彼の粋な計らいだったけれど、彼は感謝祭というものを理解していないようだった。家族で分け合える料理をテーブルの上にデンッと一つ用意して、それを和気あいあいと家族みんなで食べるのが感謝祭なのよ。「時間があったら俺も参加する」とか言って、娘をほったらかすような祝い事じゃないんだけどな。(今のところ、彼はまだ参加していない。)ゲストのほとんどがアメリカ人ではなかったので、誰もそんなこと気にしていないようだった。テーブルには、七面鳥の切り落とし、マッシュポテト、ほうれん草のクリーム和え、それと、さまざまなパイが並んでいた。―アップルパイ、クルミパイ、レモンメレンゲパイ、スイートポテトパイ、パンプキンパイ。―ママが逮捕される前の年の感謝祭を思い出した。私がママと祝った最後の感謝祭だった。あの時よりも、確かに料理は豪華だった。あの頃の彼女はソファーで死んだようにぐでんとしていたし、感謝祭に出してくれた料理は、冷凍のミートローフをレンジでチンしたものだった。それを食べ終わった頃、デザートの代わりに、見知らぬ男が家にやって来た。インターネット経由で、ママから薬を買いに来たらしかった。その男がうっかり置いて行ったマクドナルドのアップルパイを、「ほら、食べなさい」とママは差し出したけれど、私はそれをゴミ箱に投げ捨てた。翌朝、テーブルの上に、捨てたはずのアップルパイの食べ残しがあり、ママがゴミ箱からそれを掘り出して、食べたことがわかった。

興味深いことに、アラベラが東京にいる間は、イモジェンは一時的にボスの座を彼女に明け渡し、ジャンビもヌトンビもアラベラに仕えている様子だった。

ジャンビがアラベラに熱のこもった口調で言った。「今シーズンのフィールドホッケーは、リーグで2位だったのよ!」

「1位じゃなきゃだめじゃないの」とアラベラが鋭く言い返した。それから彼女はジャンビを労うように、優しく付け加えた。「全力を尽くしたのなら、いいのよ」

「どうしてオスカーはあなたと一緒に来なかったの?」とヌトンビがアラベラに聞いた。

「オスカーとニックは、今週はイギリスでポロのトレーナーと練習にいそしんでいるのよ。イモジェン、そわそわと足を揺するのやめてちょうだい。さっきから、あなたの足が私の足にぶつかってるのよ」

リュウがこの女の子の何を見て、どこに惹かれたのか、私には正直理解できなかった。彼女の美しい顔と体、それ以外に何かある?

アケミ・キノシタが〈生け花カフェ〉にやって来た。デザートブッフェのそばのテーブルを囲んで座っているエックス・ブラッツの女子たちを見て、彼女は目を丸くし、恥ずかしそうにしていた。

「ハイ、アケミ!」と私は声をかけた。「こっちに来て、一緒に食べましょ」アケミは絶対断るだろうな、と思った。その方が、エックス・ブラッツのみんなも安心することもわかっていた。だけど、彼女がここに加わっても、みんなは彼女を歓迎するってことも知ってほしかった。

「ありがとう。でも遠慮しておくわ」彼女は他の子たちとは視線を合わさず、ぼそぼそと言った。「母にパンプキンパイを一つもらって来てちょうだいって頼まれたの。彼女はアメリカのパイが大好きだから」

「なんて可愛らしいの」とアラベラが言った。「それじゃあ、さようなら」

アケミはパンプキンパイを持って、そそくさとその場から逃げ出した。私は我慢の限界だった。「私の友達に失礼な態度を取らないで」と私はアラベラに言った。

アラベラが言った。「あら、あんな子があなたの友達?」

ジャンビが私に言った。「エル、かわいそうな子に手を差し伸べるのはやめなさい」

ヌトンビが言った。「ニックから聞いたわ。あなたは、例のあいつ、キムラとずいぶん仲がいいそうね。彼は仲間外れだって言ってるでしょ」

「本当に?」アラベラが片眉を上げて、私を見た。「まあ、お似合いなんじゃない。あなたの新しいお父さんも、ヤクザだって聞いたから」彼女は豪華絢爛な〈生け花カフェ〉の内装を大袈裟に指差して、付け加えた。「そうじゃなかったら、日本でこんな宮殿みたいな建物を建てられるわけないじゃない」

私はもうこの子たちとは付き合えない。私はアラベラに向かって言い放った。「そういえば、私も聞いたわ。あなたは妊娠させられたあげく、振られちゃったそうね」

テーブルを取り囲む全員が大きな口を開けて、あわあわと喘いでいた。

すでにわかっていた。今度は私が仲間外れにされる番だと。



12月

チャプター 34


親愛なるママへ


問題です。スペイン語の成績がAに上がったのは誰でしょう? イエス、イエス、正解!―私です!


成績が上がったのには理由があってね。私が東京に来てから学校で仲良くしていた人気者の女の子たちに、実は捨てられちゃったの。でも良かったわ。おかげで、スペイン語でいうと、Muy bien(おかげで)―勉強する時間がたっぷりできたし、勉強の途中でメッセージが来て邪魔されたりもしないしね。恐れていたことが現実になってみると、案外大したことないものなのよ。なーんだ、あんなに怖がって損した、みたいな気分。(ママがいるジェサップ矯正所もそんな感じなんでしょ? そうであってほしいわ。)心配しないで。私は元気よ。(この前手紙を送ってくれてありがとう。ママも元気だって知れて嬉しかった。)


矛盾しているようだけど、人気者たちを実際に好きな人なんて、学校に誰一人いないんだってわかったの。みんな彼女たちの言うなりになってるか、そうでなければ、彼女たちに目を付けられないようにビクビクしてるだけだったの。今では私の周りには人気者たちはいなくなったから、私はもっと普通の子たち、そんなにお高くとまっていない子たちと知り合うようになったのよ。スペイン語で一緒になる女の子がいるんだけどね、最近初めて話しかけてみたら、その子もメリーランド州出身だってわかったの。メリーランド州のベセスダですって、私たちが住んでたあの家からそんなに遠くないでしょ! 彼女のママが東京のアメリカ大使館で働き始めた関係でこっちに引っ越してきたそうよ。彼女は日本について詳しいから、興味深いことをいろいろ教えてくれるの。たとえば、ほとんどの日本人にとって、クリスマスは宗教的な行事じゃないんですって。恋人たちがデートする日なんですって! ケンタッキーフライドチキンを事前に注文して(そうじゃないと売り切れちゃうから!)、クリスマスの当日、カップルは寄り添いながら列に並んでチキンを受け取るらしいの。お店の前ではサンタの恰好をした店員さんとか、カーネルサンダースのサンタバージョンが、列に並んで待ってる人たちを楽しませてくれるんですって。そして、人々はイチゴのショートケーキに凄くよく似た特別なケーキをデザートに食べるの。KFCとストロベリーショートケーキ。—なんかクリスマスっていうより、7月4日の独立記念日の食事みたいな響きよね? 年末年始は5日間くらい仕事が休みで、それぞれ生まれ育った都道府県に帰って、家族に会って、先祖を敬って、お墓にみかんをお供えするそうよ。それで先祖を家に迎えて、数日一緒に過ごして、またね、と言ってお墓に帰すそうよ。そういう伝統って、なんかいいなって思う。私も死んだら、誰かがそうやって毎年来てくれたら、嬉しいもん。死んだ後も家に迎え入れてくれるなんて、いい家族を持ったなーって胸が熱くなるわ。しかも、私の好きなみかんを持ってきてくれるのよ。


この時期の東京は綺麗よ。日本人は12月25日のために家の中に実際のツリーを置いたり、プレゼント交換をしたりはしないけど、通りの街路樹には白い電球がたくさん付けられて、夜になると明るく光るし、どのお店もキラキラと装飾されていて、タック・ラグゼのホテルのロビーにも、巨大なクリスマスツリーが設置されてるの。ロビーを通るたびに見上げると、大きな金のボールがいくつもぶら下がっていて、クリスマスライトがキラキラと瞬いてるわ。外はすっかり寒くなって、雪も、はらはらと風に舞う感じだったけど、もう何回か降ったし、クリスマスが近づいてきたって感じで、気分もうきうきしてくる。私、クリスマスが大好き! だからこそ、この時期は余計にママが恋しくなるわ。あの家で一緒に暮らしていた頃なら、今の時期は、ママと一緒にクリスマスクッキーを作りながら、今年のクリスマス休暇は何をしようかしらって計画を立てている頃ね。今年はケンジと一緒のクリスマスだなんて、信じられない。あなたと一緒じゃないなんて。


大好きよ。


エルより



チャプター 35


もうリュウが一人で座っていることはなくなった。昼休み、ランチのテーブルには、私とアケミ・キノシタも、彼と一緒だった。

外で食べるには寒すぎる季節になり、オープンテラスから屋内のカフェテリアへと、学生たちがどっと流れた。そこでも、エックス・ブラッツが中央の丸いテーブルに陣取り、他を寄せ付けないドーム状のバリアを張っていた。そして彼女たちを中心に回る衛星のごとく、他のみんなは周りのテーブルにつき、昼食を食べていた。

「彼女たち、あなたのことを話してると思う?」アケミがピーナッツバターとジャムのサンドイッチにかぶりつきながら、私に聞いた。アメリカでは昔から定番の食べ物なんだけど、アケミも大好きなメニューらしい。

「たぶんね」私は肩をすくめた。気にしないように、と自分に言い聞かせ、チラッと彼女たちの方を見やる。彼女たちの誰も私を見ていなかったから、彼女たちはペチャクチャと喋っているけれど、私をけなす言葉もそこに含まれているのかまではわからない。彼女たちは私のことなんて話していないと思いたかった。でも、私は彼女たちと一緒にランチタイムを何度も過ごしてきて、リュウ・キムラの悪口もあれこれ聞いてきた。私がこんな心境でいることくらい、彼女たちはわかっているはずで、そんな中、私のことを話さないなんてありえない気がした。私の心配が的中したかのように、ニック・ズホノフが私の方を見て、視線が合った。彼が中指を突き立てて、私を威嚇する。彼の周りでエックス・ブラッツのみんなが、どっと噴き出すように笑った。

「私たちもお返しに、彼女たちについて話しましょ」とアケミが言った。

「やめておこう」とリュウが言った。「仲間外れにされる利点はね、透明人間になれるってことなんだ。向こうから見えないのなら、こっちからも見えないってことだよ」彼の青いメッシュが入った髪の毛が、ぱさっと落ちて、彼の片方の目を覆った。私は無性に手を伸ばして、その髪を彼の耳の後ろに押し込みたい衝動に駆られた。

「このチキンナゲット、美味しい」と私は初めて食べた食堂のメニューを噛み締めるように言った。もうすまし顔の彼女たちに囲まれて、セブンイレブンで買った冷えたコンビニ弁当を食べなくていいんだ。普通の学生が食べるランチメニューを食べられることに、私は安堵感でいっぱいだった。

「私もそのナゲット食べたい」とアケミが言った。「私はアメリカの食べ物が大好きなの。すぐ戻るね」彼女は席を立つと、もう一度配膳スペースへ向かった。

「君はフライドチキンが好きなんだ?」とリュウが私に聞いた。

「そりゃそうよ。嫌いな人なんている?」

「そりゃいるだろ。ベジタリアンとか」私は笑った。

するとリュウが「クリスマスの予定は何かある?」と聞いてきた。

「微妙ね。父のホテルと〈ディスティニー・クラブ〉は、クリスマスは大忙しらしいから。日本ではクリスマスという祝日はないみたいだけど、パーティー好きの外国人とか、クリスマスを祝いたい日本人で大賑わいになるんだって」

リュウがテーブルの下を見た。なんかもじもじしているようで、彼らしくない。ついに彼は顔を上げ、私を見ると、意を決したように言った。「その日、俺と一緒にKFCに行かないか? なんていうか、日本ではそういう伝統があるんだよ」

オーマイガー! リュウ・キムラにデートを申し込まれちゃった! 真剣な表情でよ!

「ぜひ行きたいわ」私の心臓は幸せで爆発寸前だったけれど、なるべく平静を装って、こんなのなんてことないわ、という感じで言った。リュウがにっこりと微笑んで、喜びつつも、ほっとした表情を浮かべた。

カフェテリアの真ん中から視線を感じ、私は再びエックス・ブラッツの方に目をやらないわけにはいかなかった。ニック・ズホノフが悪意に満ちた目で私を見つめていた。今度は私が、中指を突き立てて、彼を威嚇した。


・・・


「それで、あなたとアラベラ・アコスタの間で、本当は何があったの?」と私はリュウに聞いた。その日の夕方、水泳の練習を終えて、私たちはバスに乗って港区に帰る途中だった。KFCデートの約束をしたことで気をよくした私は、こういうぐっと突っ込んだ質問もためらいなくできるくらいまで、彼に親近感を覚えていた。

私たちはもうバスの通路を挟んで座ってはいなかった。最近ではいつも、先にバスの一番後ろの席に座っている彼の隣が私の特等席で、二人で寄り添うように座っている。他の子たちは私たちの近くの席には座らず、私たち二人だけの聖域がそこにはできているようだった。

「君は本当に知りたいのかい?」とリュウが聞いた。

「うん」

「たぶん聞かなきゃよかったって思うよ」

うそ! ってことは、単に彼女を妊娠させたってだけじゃないのね。そんな一癖も二癖もある秘密を抱えた男と付き合うなんて、私自身がそれを望んでいるとはいえ、考えものかしら?

「大丈夫。なんとか対処するから」

「どうして知りたいの?」

「たぶんあなたが彼女みたいな人と付き合ってたっていうのが、私の中で腑に落ちなくて、だから聞いてるんだと思う。あなたは寡黙な人だし、他の人に干渉されないタイプでしょ。それにひきかえ、この前、アラベラって子に会ってびっくりしちゃったんだけど...」私はあやうく、彼女がどれほど傲慢で意地悪かを並べ立てるように言いそうになったけど、彼の前で彼の元カノをけなすのは良くないな、と思い直した。「彼女から受けた印象は、そういう感じじゃなかったから」と私はできる限り慎重に、外交官のように言葉を選んで言った。

彼は私をまっすぐ見つめると、真顔で言った。「アラベラはそれほど悪い子じゃないよ。彼女の家族もごたごたしていて大変なんだ。金持ちすぎるというか、家族の誰も彼女の面倒を見てないから」

あなたみたいに? と私は思った。「あなたは彼女を愛してたの?」と私は静かに聞いた。

私たちの近くには誰も座っていなかったけれど、彼はささやき声で言った。「べつに付き合ってたわけじゃないよ。友達以上恋人未満っていうか、わかるだろ、お互いにどういう人かを探りながら、距離を縮めていってる感じだった」

「本当に? じゃあ、なんで彼女は東京を離れちゃったの? イモジェンが言うには、あなたが彼女をこっぴどく振って、彼女が傷ついて」

「イモジェンは勝手に話をでっち上げるんだよ。彼女の中には別の現実があって、それに合わせてストーリーを作るんだ。悪役が必要になって、俺を悪者に仕立て上げたんだろ。アラベラが妊娠しちゃって、それでボリビアに帰国したという噂は本当だよ。だけど、父親は俺じゃない」

「じゃあ、誰なの?」

「ニック・ズホノフだよ。飲み物に睡眠薬か何かを入れられたんじゃないかってアラベラは言ってた。ニックの家でパーティーがあって、彼の両親は不在だった。彼女が目覚めると、なぜかベッドの中にいて、隣には彼が寝てたって。でも彼の部屋に入った記憶はないそうだよ」

「なんてこと!」やっぱりやばいやつじゃん! まさかアラベラ・アコスタに共感を覚えるとは思ってもみなかったわ。もうニック・ズホノフの首を思いっきり絞めてやりたい気持ちだった。私がニックにされそうになったことを言っても、エックス・ブラッツの子たちは信じてくれなかったから、彼女たちを嫌いなことには変わりないけど、—だけど、アラベラがされたことに比べると、私はまだ運が良かったほうね。アラベラを好きになったわけじゃないけど、彼女を抱きしめてあげたくなった。大丈夫だよ、すべてうまくいくから、と耳元でささやいてあげたかった。「彼女は彼を告訴とかしなかったの?」

「それが強要だったという証拠がなかったんだよ。彼女は板ばさみになってしまった。彼女の兄のオスカーはニックの親友でもあるし、ニックはエックス・ブラッツのメンバーでもあるから、彼女はイモジェンにも他の女子たちにも話せなかった。気まずくなって、グループ内での自分の立場があやうくなるのを恐れたんだ。それで一人でボリビアに帰国して、ひっそりと処置してきたんだ」

「それであなたが罪をかぶったわけね」

「べつに俺は誰が何を思おうと、誰に何を言われようと構わないよ」とリュウは言った。

私は自分から手をつなぎにいく勇気があるなんて信じられなかったけど、彼の手に向かって、自然と手を伸ばしていた。私たちの小指どうしが触れ合って、小指から彼の温もりが伝わってきた。私の手がこれほど幸福感に包まれたことは今までなかった。「私はあなたのそういうところが好きよ」と私は告白した。「私もそういう人になれたらいいな」

彼は顔をこちらに向けて、私を見た。鍵と鍵がかみ合うように、彼は指を私の指に絡めた。私は待った。彼の唇が近づいてくるのを望みながら。

私の望みは30秒ほど私たちの間の宙をさまよい、その間、私の胸は期待で膨れ上がった。彼のまなざしは、うるうると私に吸い寄せられ、唇が重なり合ったら私たちの関係は根底から変わってしまうことを告げていた。

ついに、リュウが身を乗り出し、私にキスをした。彼の唇は柔らかくて、それでいて引き締まっていて、甘かった。この上なく、天にも昇るほど、甘かった。

これが正真正銘、私のファーストキスだった。待ちに待った、生涯一度きりのその瞬間、真の王子様に口づけされた私の中で、いくつもの花火が上がっていた。



チャプター 36


もう彼から離れることはできなかった。彼も同じ心境だったようで、「一緒に来る?」とリュウが私に聞いた。いつもだったら、ここで先にバスを降りる彼に手を振って、彼の後ろ姿を見送ることになるんだけど、花火の残り火はなかなか消えてくれなかった。

「もちろん行くわ」行く先がどこだろうと構わなかった。彼と一緒だったら、どこへでも行ってやるわ。

芝公園の入口近くでバスを降りた。「この公園の中に、君に見せたい大好きな場所があるんだ」とリュウが言った。私は思わず笑みがこぼれてしまう。彼がお気に入りのスポットを私と共有したがってるなんて、幸福感で頭がクラクラしてきた。赤と白の東京タワーが緑の芝生に覆いかぶさるように、すぐそこに建っていた。空気が冷たく澄んでいて、晩秋の木々が赤や黄色の鮮やかな色彩をたたえている。ゴージャスな景色を眺めながら歩くだけでも、最高の季節だった。(しかも隣には素敵な男の子がいるのだから、完璧な日だ。彼は私をKFCに誘ってくれて、さっき私にキスしたのよ!)

私たちは公園の入り口で立ち止まった。その美しい門は、それ自体がお寺のようにも見えた。赤い四面体の構造物で、屋根には金の縁取りが施され、漆塗りの柱で支えられている。リュウが言った。「これは江戸時代からあるんだ。昔の人はこの門をくぐって、将軍様の霊殿にお参りしたんだよ。この辺りにはもっとこういう建物があったんだけど、第二次世界大戦中の空襲でほとんど失われて、これしか残っていない」



「あの人たちは誰?」私は門の中でたたずむ2体の彫像を指差して聞いた。そのワイン色をした彫像は、私に侍の怪物を思い起こさせた。片方の像は、「やめろ」と言うように手を上にかざしていて、もう片方は像は、金のナイフを持っていて、今にも切り付けてきそうだ。「彼らは荒武者みたい」

「彼らは守護神で、強さの象徴なんだ」

リュウが私の手を取った。私は彼の手をしっかりと握りしめた。彼と一緒だと、私は守られているようで心強い。それでいて、独立して立っている感覚もある。―これが私にとって、一番強さを発揮できる状態だと思った。木々や芝生の庭に囲まれ、私たちは歩いていた。私たちの他にも、手をつないで散歩しているカップルが何組かいた。なんだか、見ず知らずのカップルたちに共振してしまった。ここに集まった恋人たちはみんな、同じ秘密結社に属している気分だった。

「ここからあなたの家までは、どのくらい?」と私はリュウに聞いた。

「歩いて15分くらいかな。大体いつも学校帰りにここに寄るんだ。天気が良ければベンチに座って、あるいはカフェに入って、宿題したりする」

「あなたは学校では誰とも一緒にいないみたいね」

「俺は一人でいるのが好きなんだ」彼はそこで一旦黙り込み、私の手をそっと握りしめた。「今まではね」キュン死。もう気絶しそうだった。

「あなたは他の男子とは違うのね? 早く家に帰ってオンラインゲームをしたいって感じじゃないみたい」

「俺もそういう面はあるよ。でも、宿題はほとんど終わらせてから家に帰ったほうが、後々楽なんだよ。オンラインゲームとかしてると、父親がうるさいからね。その時に、今日の宿題はもう終わったって見せられるから。本当に彼はうざくて、なるべく避けるようにしてるんだ」

「どうしてお父さんを避けるの?」

「彼は俺のやることなすこと、すべてが気に食わないんだ。ウクレレ。イラスト。俺が興味を示すものは何でもかんでもケチをつける。そんなものに未来はないってね」

「うわっ、最悪ね。なんかかわいそう」リュウのお父さんの干渉的な態度と比べると、ケンジの私に対する無関心が良心的なものに思えてきた。

「もう慣れっこだから、なんてことないよ。あと2年もすれば、俺はアメリカの大学に行くんだ。彼にわずらわされることもなくなる」

「あなたのお母さんはどんな人?」

「母親とはうまくいってるよ。でも、彼女は自分一人では何もできない人なんだ。父親があれこれ口出しする。彼女は何を着るべきか、どういう感じで化粧して、どういう風に振る舞うべきか、いちいち指示を出して、彼女はそれに従って生活してる」

「たぶん彼女は怖くて逆らえないのね」

「彼女はそういう人だから仕方ないよ。彼がビジネスでスキャンダルを起こしてから、二人はほとんど家の外に出ていない。うちの家は私的な刑務所みたいなものだな。ただ、メイドがいて、美味しい料理を出してくれるからいいけど」

「なんだかタック・ラグゼみたい」

「君のお母さんのことも聞いていい?」私は彼にママのことはまだ話していなかったけれど、たぶん風の噂で耳にしたんでしょう。

「いいわよ」

「彼女はどれくらい刑務所に入ってるの?」

「彼女は5年の刑を言い渡されて、来年、仮釈放の資格が与えられることになってる」

「そしたら、どうするの?」

「正直言って、まだわからないの。どうしようかって考えるのも怖くて、まだ何も考えてない。彼女がそこから出られないっていう報告を聞くのも怖いけど」

「自分がどうしたいのかわからないってこと?」

「どっちに行ったらいいかわからない。選ばなきゃいけなくなりそうだから。ホームに帰ってママと暮らすか、それとも―」

「今はここが君のホームだろ」

「そうかな? 時々、ここが現実とは思えなくなるの。私は2ヶ月ここで暮らしてきたけど...」私は自分が本当はどう感じているのか、胸をうちを晒すのがためらわれた。それから気づいた。リュウもお父さんのことを私に打ち明けてくれたんだから、私も恥ずかしがってなんかいられない。「私は父のことをまだほとんど知らないの。エックス・ブラッツのみんなが言うには、私の父は...」私はまた躊躇した。あの言葉は、リュウの父親と彼が属している組織を指しているかもしれないんだった。あの言葉を口にしたら、リュウが嫌な気持ちになるかしら? 私はリュウの目を覗き込んだ。私を信頼してくれている目だ。洗いざらい話すべきね。「私の父がヤクザかもしれないって。もし彼が刑務所に入れられたら、私はどうしたらいいのかわかんない」

ふっと心が軽くなったようで、私はびっくりした。私のことを気にかけてくれる人に、悩みや恐れを声に出して話すだけで、こんなに気が楽になるものなんだ。

「彼が俺の父親と同じ種類の人間なら、彼にも優秀な弁護士がついてるはずだから大丈夫。家が私的刑務所になるくらいだよ」

私は歩くのをやめ、立ち止まった。「あなたもケンジ・タカハラがヤクザかもしれないって思ってるの?」

リュウは、私の顔に不安の色を見て取ったんでしょう。手を差し出してきて、私の頬をそっと撫でてくれた。「俺には何とも言えないよ。けど、これだけは知っておいた方がいい。日本のヤクザは、合法なビジネスだってしてるんだ。もし君のお父さんがヤクザだったとしても、即座に犯罪者になるわけじゃない。彼はきっと...多くの日本のビジネスマンと同じように、まっとうなビジネスをしているよ」

リュウの話を聞いていたら、そういうのはよくあることで、大した問題じゃないと思えてきた。彼にとっては、大した問題じゃないんでしょうね。彼の父親は起訴されたけれど、釈放された。日本式の「恥の刑務所」に家族ともども入れられたとはいえ、リュウの贅沢な暮らしは続いている。だけど、もし私の父が刑務所に入ってしまったら、私がケンジのことを知っていく機会がなくなってしまう。それに、私は両親ともに刑務所暮らしってことになっちゃう。しかも、二人とも何かの中毒者だなんて。あ、そっか。そしたら、私はまた家なき子だ。それとも、キミかミセス・タカハラが、私がここに残ってもいいって言ってくれるかしら? というか、そもそも私はそれを望んでいるの?

リュウは、私が抱いた不安を感じ取ってくれたようで、再び私の手を取ると、黙って歩き始めた。彼と手をつないで歩いていると、不思議と満ち足りた気持ちになった。恐れや不安は必ずしも声に出して打ち明けなくてもいいんだな、と思った。こうして私のことを大切に思ってくれる人がそばにいるだけで、すべての恐ろしい考えが蒸発し、紅葉の隙間に消えていくようだった。

数分後、公園の真ん中辺りに建っているカフェにたどり着いた。私たちは二人して、飲みたいものを同時に叫んだ。「ホットチョコレート!」

カウンター越しにホットチョコレートを二つ注文した。注文した品が出されるまでの間、私は公園を見渡し、近くに子犬の柴犬がいることに気づいた。華やかに着飾ったその柴犬は、ご主人様の横の地面にちょこんと座っている。首輪には名札が付いていて、アルファベットで「Kicho」と書かれていた。

「キチョーを撫でてもいいですか?」と私は、アメリカ人っぽい飼い主に聞いた。

「どうぞ」と彼女は言った。「彼女はとてもフレンドリーな犬なのよ。どんな人にも懐くわ」

私がしゃがみ込むと、キチョーはすぐにごろんと横になり、お腹をこすってほしそうにした。私がお腹をこすってやると、キチョーは嬉しそうに体を揺すった。しばらくお腹をさすっていると、彼女はもう十分満足したのか、体をひっくり返し、立ち上がった。そして、飼い主と一緒に小走りで去っていった。「バイバイ、キチョー!」と私が言うと、彼女は情熱を込めてグッバイと吠えた。彼女の飼い主は、私たちに手を振っていた。

「君は動物が大好きなんだ?」とリュウが私に聞いた。私たちはホットチョコレートを片手に、再び散歩道を歩いていた。ホットチョコレートは甘くて、極上の味だった。

「動物は大好きよ。メリーランド州では猫を飼ってたんだけど、私の親友はその猫ちゃんだけだった」リュウが私の肩に腕を回してきた。もうそれ以上言わなくていいよ、というサインのようだった。私の猫ちゃんの話はハッピーエンドじゃないって、話す前にわかっちゃったみたい。「ケンジに猫を飼いたいって頼んだんだけど、ダメって言われちゃった」

「じゃあ、君はあそこに行ったことある?」

「猫カフェ?」

リュウが私に向かって微笑んだ。そのスマイルよ! 彼の表情がこんなに明るくなるのを見たのは初めてだった。胸がキュンキュンと波打った。「そう、俺が言おうとしたのはまさにそれだよ」

「一回行ったけど、ゾッとして震え上がっちゃった。猫ちゃんたちがゾンビみたいに見えたから」

「じゃあ、日本の猫島のことは知ってる?」

私はまた立ち止まって、彼を見た。「私をからかってるの?」

「からかってなんかいないよ。日本の離島の中には、猫が占拠している島がいくつかあるんだ。たくさんの猫が自由に歩き回ってるよ。漁師が彼らに餌をやってるみたいだけど、基本的に島の主は猫たちなんだ」彼も歩くのをやめ、スマホでその島の写真をググった。「ほら見て」

「わあ」と私は声を上げてしまった。島の猫たちが徘徊したり、遊んだり、喧嘩したり、食べたり、それから、もちろん寝たりしている写真がいっぱいあった。お互いの体を温め合うように寄り添っている猫ちゃんもいる。私たちみたいなカップルなのかしら。「可愛い。私好みのこんな無人島があるなんて!」

私たちは再び歩き始め、私たちの手はすぐにしっかりつながれた。まるで磁石がくっつくように。

「ここが東京の中で、俺のお気に入りの聖域なんだ」とリュウが言った。「日本語では、紅葉谷(もみじだに)って呼ばれてる。谷みたいになってて紅葉が綺麗だろ」

私たちは、一段低くなった場所にたどり着いた。三階建ての建物くらいの高さに、さまざまな形の岩が積み上がっていて、紅葉に囲まれた渓谷ができていた。人工の滝が、カエデの紅い葉っぱの向こうで、小気味よく流れ落ちている。滝の下に目をやると、小川が流れていて、その小川には、絵になりそうなほど美しい橋が架かっている。―そこは穏やかで、ひっそりしていて、神秘的な場所だった。―視線を上げると、上空には東京タワーがそびえ立っていて、木々の向こうの街の喧騒を思い出させた。

私たちはベンチに腰を下ろした。今この場所にいるのは、私たち二人だけだった。「もう一度キスしてもいい?」とリュウが私に聞いた。

「どうぞ、して」と私はささやき返した。

彼の唇が私の唇に重なった。今度のキスは、さっきのバスでのキスより長くなった。より深いところまで絡め合い、相手が夢中になっているかなんて心配することもなく、お互いに夢中だった。これから先、彼と何度も何度もキスするんだろうな、という予感がして心地よかった。直観的にわかったのだ。これこそ、私が求めている人生だって。リュウがいて、シンプルで、気楽で、喜びに満ちた生活。彼と一緒に東京で、こういう心地よい人生を歩んでいきたい。突然、レジーへの怒りが薄まった。レジーの気持ちが、今の私には完全に理解できた。彼も私も、みなしごみたいなものだった。そして目の前に大切な人が現れたら、すぐにでも、その関係の中に深く飛び込みたくなるものなのね。たとえ彼の相手が、あのいい加減なスイマーだったとしても。リュウとキスしていると、洪水のように私の胸に誇らしさが押し寄せてきた。彼が私を選んでくれたことが誇らしかった。私は狂おしいほどの幸福感に溺れていた。

どうか、これが夢だなんてオチはやめて、と私は願った。



チャプター 37


絶対無理。リュウ・キムラとは付き合うなって言われたって、そんなことできっこない。

私たちの新しい関係をケンジに知られないように、秘密にしておくことは難しくなかった。彼は私に「リュウとは交際するな!」と命令を下したかもしれないけど、そもそも彼は私の周りにほとんどいないし、私の人生にも積極的に首を突っ込むほど興味はないみたいだし、東京に来たばかりの頃はそれが悩みの種でもあったけど、今は逆に好都合ね。

放課後のバスの一番後ろの席で、リュウとこっそりキスをすることができた。水泳の練習後、体を温めるための温水浴槽で、他の選手も一緒に温水に浸かっていたとしても、彼と水中でひっそりと手をつなぐことができた。リュウと私が物理的に一緒にいない時でも、起きている間はずっとメッセージを送り合うこともできた。ケンジは全然気づいていない。

二週間前のファーストキス以来、私たちは二人だけの泡の中に入り込んだ。そこはシャボン玉のように幻想的な世界で、とても居心地がよかった。彼のようになりたいと憧れる人と付き合えるなんて最高だったし、しばらくの間はこの関係はお互いに内緒にしておこう、と意見が一致したので、私は彼を独占することができた。それはびっくりするくらいセクシーな時間だった。見つめ合うたびに胸がときめき、メッセージが届くたびに嬉しさがこみ上げ、世界に内緒でキスをするたびに、極上の料理を堪能しているような気分だった。周りの誰も、私たちのセクシーな結びつきに気づいていない。

リュウと私は毎日ランチを一緒に食べていたけれど、ICSの校内でカップルのようにくっついて歩き回ったりはしなかった。わざわざ見せつけるような真似はしたくなかった。それはエックス・ブラッツが怖いからではなく、私たち二人だけの秘密の関係という背徳感がたまらなく気持ちよかったから。それに、くだらないスクールゴシップの話題の種にもなりたくなかったし。

「学校が冬休みに入ったら、東京以外の場所にも連れて行きたいな」とリュウが私に言った。私たちは銀座線に乗っていた。東京の中心部を抜けて、上野公園に向かう途中だった。午後は先生たちの職員会議があるとかで、クラブ活動もなしで、学校が半日で終わったので、リュウさんが私を観光に連れ出してくれたのだ。電車はそれほど混んでいなかったけれど、私は彼にぴたっとくっついて座っていた。

「東京以外でどこが好き?」と私は、彼の手のひらに私の親指を当てながら聞いた。

「京都は日本で最も美しい街の一つなんだ。まずはそこから旅を始めよう。中心地を離れると、どんどん静かな趣ある場所になっていく。そして、日本語で言うと、温泉旅館に泊まろう。温泉に入れる和風旅館のことだよ。東京で外国人として見るものよりも、はるかに日本的なものを体感できる。山があって、湖があって、―」

私は彼の腕のてっぺんにキスをした。「ライオンがいて、トラがいて...」

「オーマイ!」と私たちは同時に言って、それから笑い合った。

リュウと一緒にどこかへ行くことは、ファンタジーみたいにめくるめくような冒険だったけれど、私たちは二人とも、それがまさに、―実体のないファンタジーだということも知っていた。

上野駅で電車を降り、手をつないで公園の方へ歩き始めた。身が引き締まるような清々しい日で、いよいよ冬の到来を感じさせた。建物はクリスマスの飾り付けで引き立てられ、木々の葉っぱはもうほとんどなくなっていた。空気は肌寒かったけれど、まだ白い息が見えるほどではなかった。学校の制服の上に彼が掛けてくれた彼のジャケットを羽織っていると、ちょうどいいくらいの気温だ。学校以外では、こうして見ず知らずの人たちに私たちのラブラブっぷりを見せびらかすのが大好きだった。公園内を散策しているすべての人の目には、疑いようもなく、リュウと私はカップルに見えているでしょう。

「どうして迷うことなく、そんなにすいすい進めるの?」と私はリュウに聞いた。彼はプロの添乗員みたいに大きな通りを横切って、公園の入り口を抜け、最終的に池が見える小道まで私を案内してくれた。「あなたは全然地図とか見てないじゃない」

「父親のスキャンダルが発覚して、大変なことが起こりそうになった時、独り立ちしなきゃいけないなって思ったんだ。何でも自分でしようって決めたんだよ。両親も家も、洗いざらい調べられていたから、部屋に閉じこもって、悪い知らせが次々と舞い込んでくるのをじっと待ってるよりはと思って、外に出て、あちこち探索して回っていたんだ」

その頃、彼はまだ小学生だったはずだから、子供が一人で公共の交通機関を利用していたことに驚いた。「東京は凄く安全な街みたいで素晴らしいね。私は14歳になるまで、一人でワシントンDCの地下鉄に乗るなんて、ママが絶対に許さなかったわ。まあ、ちょうどその頃、ママも洗いざらい調べられていたから、私が一人で電車に乗って、ニューヨークとかに行ったとしても、ママは気づかなかったでしょうけどね。ケンジも私がどこへ行こうと、全然気にしてないみたい」

「君と俺の共通点がそんなことなんて、最悪だな」とリュウが言った。

「同感」と私は言った。「でも日本人の親がみんな、あなたの親やケンジみたいな人ばかりじゃないでしょ?」私はアケミの両親について考えていた。彼らは日本の伝統的な両親って感じではなかったから。

「俺たちの親は、間違いなく例外だな。日本人はとても伝統的で、家族を重視するんだよ。ICSみたいな学校にいると、考え方も歪んでしまう。特権階級の裕福な家庭が多いから」

「この学校にいると、なんか現実感が湧かないのよね」と私は同意を示した。

「たしかに」とリュウが言った。

私たちは池が広がっているエリアにたどり着いた。リュウが言った。「ここは不忍池といって、 夏になると、水面が緑の植物で覆われて、綺麗な蓮の花が咲き誇るんだ。凄く壮観な眺めだよ」




私は彼の手を握りしめた。「あなたって物知りっていうか、オタクね。自分で気づいてる?」

彼が私の方を振り向いて、微笑んだ。青いメッシュの入った黒髪がさらっと落ちて、彼の顔の側面にかかる。「褒め言葉だろ? お世辞はやめてくれ。それより、ボートに乗りたい?」

「うん、乗りたい!」

私は大きなボートに乗って、川を下るようにして町中をめぐるのかと思ったけれど、レバーが回転する入り口を通り抜けると、池のほとりには、レンタル用の小さなボートが並んでいた。

「やだ!」と私は言った。ボートは白鳥の形をしていて、子供用の屋根付きワゴンみたいに小さな乗り物だった。その安っぽさに、思わず目を見張ってしまう。

「いいから!」と彼が言った。

彼がレンタル料を払ってくれて、私たちはピンクの白鳥が翼を広げた形のボートの中に足を踏み入れた。「あなた、これ用の運転免許持ってるの?」と私はからかってみた。

「スワン用のA級ライセンスを持ってた気がする」彼は冗談を言うと、エンジン音を真似て、ブロロロロと言いながら、両足でペダルをこぎ出した。私たちは岸辺からじわじわと離れ、亀のようなペースで池の中央へと進んでいった。公園の木々に囲まれ、遠くに高層ビル群が見える池の水面で、私たちはのんびりとスワンボートに揺られていた。

「あなたって運転も上手ね。完璧だわ」と私は彼に言った。池の真ん中辺りまでたどり着き、私たちはペダルをこぐのを一旦やめた。

彼が私の方へ身を乗り出してきて、私にキスをした。「いや、君こそ完璧だよ」と彼がささやいた。

私はケンジにリュウとは付き合っちゃいけないって言われていることを、まだリュウに話していなかった。

これからも絶対に言わない。

なぜなら、このうっとりするような、魔法がかった男の子と会うことは禁じられていないから。


・・・


「家に帰りたくない」と私はリュウに言った。彼が私をタック・ラグゼのエントランス前の私道まで送ってくれたんだけど、私は彼と離れたくなかった。私は彼の胸に頬を寄せ、彼の両腕に包まれていた。すぐそこに私の住む高層ビルが建っているけれど、私は気にしなかった。雲で見えないくらい上の方の階には、摩天楼の王様がいるはずで、彼がこんなところを見たら、さぞかし憤慨するでしょうね。

「俺もだよ」

「明日も遊びに行かない?」と私は聞いた。明日は土曜日だから、私たちは一日中一緒に過ごせるわ。

「そうしよう。そうだ、一緒に俺の田舎のおばあちゃん家に行こう。日曜日の方がいいかな」

「やった! 日曜日が楽しみ!」

私たちは私道の端まで歩き着いてしまった。「上の階に上がったらメールしてね」とリュウが言った。

「エレベーターに乗ったらすぐメールする」

「俺も大通りに出たらすぐにメールするよ」

私たちは二人して声を上げて笑った。手はまだ繋いだままだった。そのままキスする流れだったんだけど、タック・ラグゼの従業員がたくさん行き来している中で、キスをする度胸まではなかった。私はキスの代わりに、リュウの肩をそっと撫でて、言った。「バイバイ。じゃあ、5分後にメールするね」

リュウは、彼の美しい顔にかかっていた青いメッシュの入った髪を手でさっと横に流すと、「またね」と言って、振り向いた。彼が遠ざかっていくにつれ、私の胸の鼓動は徐々に静まっていった。

ふと見ると、タクシー乗り場にキミ・タカハラが立っていた。私はリュウに心底夢中になっていて、周りが見えていなかった。いつからそこにいたのだろう? ベルボーイが笛を吹いて、「タクシー!」と声を張り上げた。

キミが私に聞いた。「今の子、サトシ・キムラの息子さんでしょ? 彼に送ってもらったの?」

「そうよ!」リュウとめくるめくような時間を過ごしてすでにくらくらしていたところに、追い打ちをかけるようにキミが現れ、彼女の機嫌を損ねてしまうのではないかと心配になり、頭がオーバーヒート寸前だった。私とリュウの関係は本物だし、かけがえのないときめきをくれる。だけどタック・ラグゼで、それを吹聴して回るつもりはなかった。あえて隠すつもりもないけれど。


・・・


ペントハウスに帰ってみると、まだ夕方の5時だというのにケンジがいたから、面喰らってしまった。平日は夕食の時間まで彼を家で見たためしはなかった。一緒に食事をした後も、私をここに送り届けて、彼はさっさと仕事に戻ってしまうのが常だった。

彼は「おかえり」も言わずに、私の顔を見るなり、強い口調で言った。「サトシ・キムラの家族がここに出入りしてるって思われたら困るんだ。さっき妹からメッセージが来たよ。あの少年をここに連れて来るのはやめるように、俺からきつく言ってくれ、ということだ。彼はお前の彼氏なのか?」

靴をスリッパに履き替えてからリビングに入り、ソファーに座ると、ケンジが座っている横のサイドテーブルにスコッチのボトルが置かれているのが目に入った。彼の手にはグラスが握られている。

まったく。ファックって感じね。

オーケー。本当は息せき切って思いの丈をぶつけたかったけれど、ケンジがそこまで思い詰めているのならと、私は冷静に振る舞うことにした。

私は正直に答えた。「私たちは親友よ。私は彼のことが凄く好きだし」

「彼と友達になるのは危険すぎるんだ。彼とは付き合うなって言っただろ」

私は怒りを爆発させそうになったけれど、なんとかこらえ、声を平静に抑えつつ、私の言い分をしっかりとした口調で話した。「誰と付き合っていいとか、誰と付き合っちゃだめとか、そんなことは言わせないわ。私は自分が友達になりたい人と友達になるし、付き合いたい人とデートする。あなたが気に入るかどうかは関係ない。それに、父親の罪を息子のリュウになすりつけるなんて、そんなの馬鹿げてるわ」

ケンジはグラスに入ったスコッチを一気に飲み干した。

まったくもう。ファック、ファック。百万兆のファック!

リュウをここに連れて来るな、と言われたことには腹が立っていた。だけど、それ以上にケンジが手に持つお酒の方が気がかりだった。そっちの方がよっぽど大きな問題だ。またお酒を飲み出したら、闇の中から野獣が戻って来ることを私は知っている。

ケンジは言った。「なぜニック・ズホノフみたいな子じゃ駄目なんだ? 保護者会の夜、いい感じだったじゃないか。彼がお前を見る目は、」あら、あんなに早く帰っちゃったのに、そんなところは見てたんだ? 「あれはお前のことが好きな目だぞ」

「私は彼を好きじゃないのよ。それにもう、彼とかイモジェンたちに私は締め出されちゃったから、もう友達でもないんだよ」

ケンジは首を横に振った。「とてもがっかりだよ」なぜ?と締め出された理由も聞かずに、彼は私に落ち度があったんだと決めつけたらしい。

ついにプチンッと切れてしまった。「私は一度だけニックとキスしたわ」と私は打ち明けた。「でもニックの意図は、私が好きとかそういうんじゃなかったのよ。アレクセイ・ズホノフの息子は、女の子を手玉に取って、レイプするゲームに夢中だって知ってた?」

「そんなひどいこと言うもんじゃない!」ケンジはよだれみたいな唾を飛ばしながら言った。彼は君を傷つけようとしたのか? そういう質問は彼の頭には浮かんでこないみたいだった。信じられない。私がママにこのことを打ち明けたなら、たとえ彼女が常軌を逸している時であっても、すぐに警察を呼んで、ニックを逮捕させるわ。中毒にやられていたって、子供を守ろうとする母親の本能は健在なのよ。ケンジにはそれが全くなかった。私も唾を飛ばしながら、そう言い返したかったけれど、私に言い返す隙も与えず、彼はこう付け加えた。「お前がここで暮らすのは、良くないかもな」

彼が酔っ払って、あの憎たらしいニック・ズボノフの肩を持っていることに、私は憤慨しているのかしら? それは定かではなかったけれど、確かなことがあった。今この瞬間のケンジは、光り輝く鎧を身にまとった私が憧れる騎士ではないということだ。彼の富とカリスマ性は、ただ単に彼の本当の姿を隠す仮面だったんだ。真の彼は、ただの臆病者よ。

しかし私は、酔っぱらいで臆病者であっても、彼から離れたくはなかった。せっかくここに落ち着き始めたばかりなのに、エックス・ブラッツには破門されたといっても、学校ではまずまずうまくやっている。アケミとは仲良くやってるし、春先には水泳の公式大会も始まる。それに、リュウがいる。リュウ、リュウ、リュウ。

私にはここを追い出される覚悟はできていない。またここも追い出されちゃうなんて。まあ、私の人生そうなっちゃうかな、とも思うけど。

「どこへも行きたくないわ」私は思いの丈をそのまま声に出した。本音を隠して、頭に浮かぶあれこれを取捨選択するのにうんざりしていた。「たとえあなたがいい加減な父親であっても、仕事や体裁ばかりを気にしていても、娘を全然知ろうとしなくても、哀れにもその娘は、あなたの人生の一部になりたいとこんなにも思ってるのよ!」それを言うのは心が痛んだけれど、ふっと心が解放された感じもあった。ありのままのすべてを言えた気がして、すっきりした。今のケンジは酔っ払っているから、どうせ私が言ったことなんて覚えていないでしょうけどね。

彼はスコッチをもう一杯グラスに注ぎ、飲み干した。彼の顔は赤みを帯びていた。お酒の衝撃を吸収した赤みなのか、私の発言の衝撃ゆえなのか、その両方かもしれないわね。その時、彼のスマホが鳴った。彼はメッセージを見ると、おもむろに立ち上がった。「俺は仕事に戻らなければならない。君の選択肢については、明日また話し合おう」

ケンジが部屋を出ていった。

勘弁してよね。

私は日本を離れるつもりなんてなかった。使い捨ての娘だなんて御免だわ。



チャプター 38


部屋に戻り、リュウにメッセージを送ろうとスマホを見たら、アケミから「すぐに生け花カフェに来て」というメッセージが何通か入っていた。エレベーターで〈生け花カフェ〉に行ってみると、店内は夕食を楽しむ常連客で賑わっていて、店の中央に置かれた巨大な生け花をぐるっと囲むソファーのようなベンチに、アケミが座っていた。彼女の隣にはテイクアウト用の食品容器が重なって置かれている。

「どうしたの?」と私は彼女に聞いた。彼女は悲しそうにも、動揺しているようにも見えた。

「私のメッセージを見てくれてありがとう。あなたが来てくれて凄く嬉しいわ。これから飛行機に乗るから、テイクアウトの食べ物を買いに来たの。もうすぐ私の母がここに来るわ。そしたら私たちはここを出て行くの」

「どこへ行くの?」

「東京を離れるの」彼女は言葉をしぼり出すように、震える声で言った。今にも泣き出しそうな顔をしている。

「週末の旅行?」

「違うわ。ブラジルに行って、そこで住むの。母の兄の家があるから」

そんな! 「今日? っていうか今すぐ? どうして前もって言ってくれなかったの?」

「私も急に知らされたのよ。学校から帰ってきたら、母が荷造りしていて、すぐにここを出て行くよって言われたの。父が仕事でトラブルを起こして、銀行に預けてある彼のお金は全部凍結されちゃって、もうすぐ警察が彼を逮捕するって」

なんてこと! 「何をしたの?」

アケミはリュックサックから英字新聞を取り出すと、私に手渡した。折りたたまれた新聞を開いてみると、一面にこう書かれていた。日本の当局が闇の帝王タケオ・キノシタを起訴。マネーロンダリングと麻薬密売の容疑。

オーマイガー!

私はアケミの父親に何度か会ったことがあった。彼はかなり年を取っていて、―少なくとも、別々の都市に複数の家族を持っている男にしては年を取っていて、「闇の帝王」って感じではなかった。信頼のおけない中毒者の親が二人もいるって大変よね。かわいそうなアケミ。「凄く残念だわ、アケミ。あなたは知ってたの?」

彼女は肩をすくめて、言った。「知っていても知らないふりをしていた、みたいな感じかな」私は完全に理解できた。野獣がママの人生を乗っ取って、私の人生にも手を伸ばしてきた時、私も同じような気持ちだったから。最悪の結末がやって来ることはわかっていたけれど、それでも私たちは大丈夫、なんとかなるって、なるべくそう思おうとしていた。そして、今の私もたぶん同じ。ケンジとの関係が終わってしまうことを知らないふりをしている。

アケミの母親が旅行鞄を抱えてやって来た。店の外ではベルボーイが彼女を待っていて、大きなスーツケースを四つ持っている。彼女はアケミに日本語で話しかけた。それから、アケミの母親が私に向かって初めて微笑んでくれた。いつもむすっとすました顔をしていたから、彼女がそんな笑顔を持ち合わせているなんて知らなかった。―また彼女の笑顔を見られるかはわからないけど。

私は自分の気持ちを抑えられなかった。日本人はハグなんてしないんでしょうけど、私は両手を広げてアケミに抱きつき、力いっぱい抱きしめた。「あっちに着いたらメールしてね。いい? これからも連絡を取り合うのよ。絶対よ」

涙がアケミの頬を伝っていた。彼女はうなずいた。「ずっと友達でいようね」

「あなたの人生から私を追い払うことなんてできないんだから」私は熱いものがこみ上げてきて、うまく言葉を出せなかった。

彼女の母親が手を伸ばし、アケミは立ち上がって彼女の手を取った。「さようなら、エル」と彼女が言った。二人はベルボーイの後についてエレベーターまで歩いて行き、そして、アケミは行ってしまった。

思えば、私のママの急転直下も、マサおじさんの到来も突然だった。だけど、免疫なんて全然ついてなくて、私はせっかくできた親友との突然の別れに、深い悲しみに暮れた。東京での特権的な生活がこれからも続けばいいな、とか考えていたら、一気に悲しみの中に突き落とされてしまった。そうだ。今日は私の人生で最も輝かしい日になるはずだったんだ。私はキュートなリュウが好きで、リュウも私が好きだってわかって、一緒に将来を夢見ながら、まさに夢見心地でいたんだった。今、私の周りですべてが崩れ落ちてきたように感じ、私はベンチに座り込んでしまった。私の沈み込んだ気持ちは、デーブ・フラーハティが近づいてくるのが目に入ったところで、底まで落ち切った。彼は〈タック・ラグゼ〉の従業員で、どんな仕事でも引き受ける何でも屋さんだ。デーブはアケミがベンチに置いていった新聞記事を見ると、おぞましいものを見るように顔をしかめた。「わけわかんないよな?」と彼が言った。

「そうね」と私は言った。彼女の父親がどんな罪を犯したとしても、そのせいでアケミのボートまでひっくり返されて、彼女の人生が転覆してしまうなんて、わけわかんないし、不公平だし、絶対に間違ってる。

私の底まで落ち切った気分を、さらに地下まで掘り進めるかのように、デーブが言った。「キミ・タカハラから、さっきコンシェルジュデスクに電話があったんです。彼女は君を探していて、僕はここで君を見かけたと言っておきました。ミセス・タカハラのスイートルームに来てほしいそうです」

いいでしょう。もうなんでも来いよ。私の人生、どうせなにもかもがくだらないたわごとなのよ。私は立ち上がった。何を言われるかはなんとなくわかっていた。いつの間にか、嵐は台風に変わっていた。


・・・


ミセス・タカハラのアパートメントに入ると、リビングのテーブルにはすでに高級な陶器に入ったお茶が出されていて、美しい形をした小さな和菓子がトレイに並べられていた。まずはティーパーティーを開いて女の子を喜ばせておいて、その後、お腹を空かせたライオンのいる檻にその子を放り込もうとしているかのようだ。―もちろんその子は私なんだけど。

ミセス・タカハラは女帝然としたたたずまいで、彼女専用の一人掛けの椅子に座っていた。ソファーを挟んで向かい側の椅子にはキミが座っている。私は促されるまま、真ん中のソファーにちょこんと座った。目の前のお茶や和菓子に手を出す余裕なんてなかった。手が震えてお茶をこぼしたり、口に入れた和菓子を吐き出してしまうんじゃないかと思うくらい緊張していた。

キミが言った。「来てくれてありがとう、エル。そろそろ本音で話し合った方がいい頃だと思って」

私は息を呑んでうなずいた。ミセス・タカハラは湯吞みに口をつけてお茶をすすりながら、話はキミに任せている。

「今晩、あなたはケンジに会ったんじゃない?」

「はい」と私は言った。

「その時、ケンジはお酒を飲んでいたんじゃないかしら。今夜だけだったらまだいいんだけど、残念ながら、―」

「彼は過去にアルコールの問題を抱えていたんですよね」と私は言った。「でも、それは過去の一時的な過ちであって、今はもう大丈夫なんでしょ!」なんで私は彼をかばっているんだろう、と自分でも呆れてしまう。彼は私を守ろうともしていないっていうのに。

キミが首を横に振った。「過去の過ちじゃないのよ。彼は数週間前から、また隠れて飲んでるみたいなの」

「どうしてそれがわかったの?」と私は聞いた。

ミセス・タカハラが口を開いた。「従業員のみなさんにお金を払って、彼を見張ってもらい、報告させました」彼女の性格を考えると、完全に納得がいった。自分の息子をお金で見張らせるなんて、まさに彼女がしそうなことに思えた。

キミが言った。「もう気づいてると思うけど、今タック・ラグゼに政府の監査が入っていて、みんなピリピリしてるの。私が思うには、兄には今回のプレッシャーは大きすぎたようね」

二人とも本音で話している様子だったので、私も本当に知りたかったことを聞く絶好のチャンスだと思った。「彼ってヤクザなの?」

ミセス・タカハラの目がぎろりと光り、私に穴が開くんじゃないかと思うくらい、じっと睨んできた。そして彼女はキミと日本語で話し始めた。二人の会話は早口で、かなり熱を帯びている。ようやくキミがこちらを向き、言った。「お母さまは、それはちょっとぶしつけな質問だと仰ってますけど、答えはノーです。ケンジはヤクザではありませんよ。ただ、彼はキノシタさんと不適切な金融取引をしていたんです。キノシタさんが起訴されたとなっては、タック・ラグゼも無傷ってわけにはいきません」

「うわっ」としか言葉が出てこなかった。ケンジも一緒に犯罪者になっちゃうってこと? 共犯者とか?

キミが言った。「ケンジは少しの間、休職する必要があるわね。不祥事に対処して、それから彼自身の人生を見つめ直して、整理をつけるために」彼女はミセス・タカハラを見て、何かを促すようにうなずいた。

ミセス・タカハラがサイドテーブルに手を伸ばし、バインダーを手に取ると、それを私に差し出してきた。「あなたのアメリカでの選択肢よ」と彼女が言った。

私はそのバインダーを受け取って、開いてみた。ラミネート加工されたアメリカの寄宿学校のパンフレットがたくさん挟まっていた。

要するに、ケンジは酔っぱらいのペテン師だったってことね。そのせいで、私はまた家なき子に逆戻りか。

イチかバチか、彼女たちに思いの丈をぶつけてみることにした。どうせ私には失うものなんて何もないでしょ? 私はミセス・タカハラをまっすぐに見て、彼女が喜ぶだろう言い方を心がけながら話すことにした。好きでもない相手に、緊張で心も体も爆発しそうだっていうのに、ふつふつと湧き上がる怒りを抑え、自分を殺してまで、私は言った。「お願いします。ここにいさせてください。私は今の学校が好きだし、ここでの生活が大好きなんです。あなたのおかげで贅沢な暮らしができていますが、そのことを言ってるわけではありません。私には日本人の血が流れているから、私を生んでくれた日本ともっとつながりたいんです。日本の労働倫理、秩序や義務感、人々の優しさ、そういったものに私は感服します」あなたには感服しないけどね、とは付け加えなかった。「迷惑はかけないと約束します」リュウ・キムラと付き合っちゃだめとかいう、わけのわからない命令には従わないけどね。もっと彼のことをちゃんと知ってちょうだい! 「もっと自分のルーツである文化を知る機会が欲しいんです。お二人のことももっとよく知って、お二人の人生の一部になりたいと思っています」

上辺だけ取り繕った下手な口上に聞こえたかもしれないけれど、これが私の本心でもあった。

ミセス・タカハラとキミがまた日本語で話し出した。ちくしょう。やっぱり日本語がわかるようにならないとだめだ。それから、キミが私に言った。「日本の文化や私たち家族とつながりたいと思ってくれて感謝します。あなたの考えはとても立派よ。ただね、タイミングが悪かったの。これから私たちはビジネスの危機にもっと集中しなければならない。あなたが望むような家族にはなれないの。そのパンフレットには、メリーランド州とペンシルバニア州の良い学校がたくさん載ってるから、好きなところを選んでいいわ。お母様の近くにいられるのよ。もちろん学費は私たちが払います。お母様に面会に行けるように、外出許可も取ってあげます」

それが彼女たちのせめてもの罪滅ぼしだということは私にもわかった。しかし、「それはそちらの都合を私に押し付けているだけですよね」と言おうとしたら、その前に激しくドアが開いて、ケンジが玄関から入ってきた。彼はスリッパに履き替えもせず、靴のままずかずかとリビングに入ってきた。私に近づいてくる前から、すでに彼の吐く息からアルコールの匂いが漂っている。彼の髪はくしゃくしゃに乱れ、シャツとネクタイはだらしなくゆるみ、目は真っ赤に充血していた。彼は地獄から這い上がってきたように見えた。1時間ほど前に会った時は、レベル5の酔っ払いだった感じが、今はレベル8か9までいっちゃってる。

「なんだよ、俺抜きで全員集合かよ!」と彼が英語で言った。

ミセス・タカハラが勢いよく立ち上がって、日本語で彼を叱りつけた。

ケンジは何も言い返さず、しばらく母親の話を聞いていた。それから彼は私の方を向いて、言った。「彼女の言う通りだな。俺はあまりにも長い時間、お前と離ればなれだった。もう手遅れかもしれない」

「そんなことないわ!」私は泣き叫んだ。これほどまでに裏切られたと思ったことは今まで一度だってなかった。あの野獣がママを食い尽くし、家まで失って、彼女の不注意がハッフルパフを死なせちゃった時だって、ママが逮捕されて刑務所に送られた時だって、おかげで私が里親の家に送られることになった時だって、こんな屈辱は味わわなかった。私は死にたくなるほど恥ずかしかった。―娘として、こんな彼が恥ずかしい。

ミセス・タカハラが英語で言った。「ケンジ、あなたの娘をここにおいていてはいけません。あなたの存在が彼女のためになりません」

キミが言った。「残念だけど、私も同じ意見です。ケンジがあなたの人生の一部になりたいという気持ちが痛いほど伝わってきたから、彼にこの実験を勧めたんだけど、やっぱり失敗だったみたいね。ケンジには明らかに、父親になる資格も能力もないわ」

「私は実験台じゃない!」

ケンジがソファーに腰を下ろし、両手で頭を抱えた。それから私を見上げて、言った。「二人の言う通りだよ、エル。君はアメリカに帰るべきだ」



チャプター 39


絶対に嫌だ。

私は日本を離れる覚悟はできていなかった。

リュウと離ればなれになることだけは嫌だ。

16年間音信不通だった父がどこからともなく現れて、私を呼び寄せたと思ったら、今度は出て行け? そんな勝手なことは許さない。私のろくでなしの父にも、彼の家族にも、私の行き先を決めさせはしない。私以外の誰も、私の運命の設計者にはなれない。私が自分の行き先は決める。ただ、長期的に考えると、その場所がどこなのかわからない。でも短期的には、とりあえずタック・ラグゼ以外の日本のどこかに行きたかった。

私はリュウにメールした。私はここから出ないといけない。何もかもがめちゃくちゃになっちゃった。彼から返信が来た。どこへ行きたい? 私は答えた。東京から遠くて静かなところならどこでもいい。15分ほどして彼から再び返信が来て、東京駅で待ち合わせることになった。彼がある計画を考えてくれたらしい。

「俺たちって駆け落ちするカップル?」駅のホームでリュウに駆け寄ると、彼が聞いてきた。

「そうかもね」と私は言った。

彼は私を引き寄せて、そっと抱きしめた。「いったい何があったの?」

私たちは電車に乗り込み、今日立て続けに起こった、アケミのこと、それからケンジのことを話した。私たちがどこへ向かっているのかわからなかったけれど、彼と一緒ならどこでもよかった。

電車の中で一息ついてから、私はマサおじさんにメールを送った。私は大丈夫だから、心配しないで。私もどこへ行くのかわからないけど、友達と一緒だから大丈夫。

ケンジにこういうメールを送る義理はない。私が何をしていようが、どんな状況だろうが、彼に知らせる必要はない。だけどマサおじさんは、私がいなくなったと聞けば、動揺しちゃうと思うから、私は全然大丈夫だって知らせて安心させてあげたかった。実のところ、私の気持ちはあまり大丈夫ではないんだけど。それでも今、私の隣には、私のことを気にかけてくれる人がいる。リュウがそばにいてくれるから、きっと大丈夫。

電車が東京からどんどん遠ざかっていく中、私はリュウの肩に頭を乗せて、そのまま眠り込んでしまった。何時間寝ていたのかわからないけれど、リュウの声に目覚めると、窓の外は夜が明けつつあった。「もうすぐ降りるよ」と彼が言った。

私たちは石巻という駅で電車を降りた。「これからどこへ行くの?」と私は彼に聞いた。

「タクシーでフェリー乗り場まで」と彼は言った。

タクシーに乗ると間もなくフェリー乗り場に着き、私たちは人魚姫の絵が描かれた船に乗り込んだ。「それで私たちはどこを目指してるの?」と私はリュウに聞いた。

「田代島という小さな島があるんだ。君をどこへ連れて行こうかわからなくて、悩んでいたら急に閃いたんだ。逃避行といっても、俺たちが現実的に行ける場所、猫島だよ」

「嘘でしょ! 信じられないわ」

「何百匹という猫があちこちうろついてるから、それを見れば信じるよ」

そこはまさに私が潜在的に望んでいた逃避行の目的地だった。東京の窮屈な雑踏を抜け出して、自由気ままに羽を伸ばせる場所。私には考えるべきことが山積みだったけれど、一旦すべて保留にして、頭を空っぽにできるところ。早朝のフェリーの潮風は、冷たくて気持ちよかった。―眠気も波のまにまに吹き飛んでしまった。私は歓迎されている気分だった。石巻から40分ほどの船旅を経て、私たちは仁斗田(にとだ)港にたどり着いた。リュウが言った。「君が寝ている間に、スマホでこの島について調べたんだ。田代島には二つの小さな集落があって、仁斗田はその一つだよ。島の人たちがたくさんの猫の世話をしている。人数比は6対1で猫の方が多いらしい。学校もレストランもない。お年寄りと猫がいっぱいいるだけ」

「私はすでにここが大好きになっちゃった」

フェリーから降り、桟橋を渡って岸辺に足を踏み入れると、船の到着時間を心得ているらしい猫ちゃんたちの群れが出迎えてくれた。桟橋で体を伸ばしている猫、朝日を浴びてのんびりしている猫、じゃれ合ったり喧嘩したりしている猫、自分の体を舌できれいにしている猫。三毛猫、トラ猫、首元だけ白いタキシード猫、赤茶色のジンジャー猫、黒猫。船場の端には、木箱を改良して作ったらしい毛布で覆われた小さな猫の住まいがあり、しっぽがシェルターの中から何本かはみ出ていた。道路沿いの建物には、壁に猫のグラフィティーアートが描かれたものもある。

夫婦らしい日本人の観光客も船を降りた。彼らは私たちよりも慣れている様子で、―かつお節を持参していて、猫ちゃんたちに配り始めた。道路脇の小屋で売り物の魚を仕分けしていた漁師さんも、朝食の時間なのか、猫にごちそうを与え始めた。漁師さんが小魚を放り投げると、幸運にもそれにありつけた猫は、口の両端から魚の頭と尻尾を突き出したまま、私たちのそばをのしのしと歩いていった。

私はしゃがみ込んで手を差し出してみた。人懐っこそうな、まだら模様のキャリコ猫が私に近寄って来て、私の指の匂いを嗅ぎ、私の匂いを気に入ってくれたのか、私の足に頭を擦り付けてきた。「ごめんね、おやつは持ってないのよ」と私は猫ちゃんの頭を撫でながら言った。

「君もお腹空いた?」とリュウが聞いてきた。

「そういえば、ぺこぺこ」昨夜あんなことがあって、頭に次々といろんなことが去来して、ストレスで食欲なんて失せてしまったと思っていたけれど、自分でもびっくりするくらいお腹がぺこぺこだった。

「俺もぺこぺこ。この島にはお店が一つと、自動販売機がいくつかあるだけだから、今のうちに食べ物を買っておいて、それから島をめぐろう」

島唯一のお店だという〈鎌仏商店〉の店先は階段状になっていて、さらに多くの猫たちが集まっていた。そこで私たちは水、ポテトチップス、お菓子、おにぎりを買った。私たちは猫ちゃんたちの集まる店先の段差に腰を下ろして、ひとまず腹ごしらえをしてから、島を見て回ることにした。ケンジは私の居場所を気にしているかしら? 心配してるかな?

細い道と遊歩道が森林に覆われた島の内部へと続いていた。私たちはわかりやすそうな遊歩道を進んでいくことにした。林冠に覆われた木立の下には、人の姿はほとんど見えなかった。猫たちがそこかしこで木々の間を駆けずり回っている。私はすっと心が落ち着くのを感じた。幸福感に包まれる。東京での地獄のような騒動から抜け出して、私は猫島を歩いている。隣には最高にいかした男の子がいて、私の手をしっかり握ってくれている。ぺちゃくちゃとむやみやたらに喋ってきて、心の静寂をかき乱したりしない人。私と同じように、この静寂の価値がわかっているのね。鳥のさえずり、木々の揺れる音、猫の鳴き声、―頭の中の不安を紛らわすのに最適な静かな音。タック・ラグゼで今何が起きているのかなんて考えなくて済む。

遊歩道は上り坂になり、坂道を登っていくと、高台に建てられた家が何軒か見えた。お昼頃、私たちは「猫神様」を見つけた。―それは猫の神社のようで、広めの寝室くらいの屋外スペースが赤い柵で仕切られている。大きな神社と同様に、ちゃんと鳥居もあった。両脇には赤い旗が立っていて、旗には日本語で入り口を告げる文字が書かれているようだ。鳥居をくぐると、岩がテーブルのように二段になって置かれていて、その上には訪れた人たちが残していったお供え物がたくさん並べられていた。―猫の顔が描かれた石、招き猫の像、それからもちろん、ハローキティの人形もたくさんあった。

リュウが猫神社の説明が書かれたプラカードを訳してくれた。「この神社は、岩が落ちてきて死んだ猫が安らかに眠る場所だって。漁師が猫たちを祀って建てたそうだよ」

「ここで結婚式を挙げよう」と私は冗談めかして言った。その場所はうっとりするほど神がかっていた。

リュウが言った。「来賓のみなさんにはマグロの缶詰と、牛乳をボウルに入れて、おもてなしだね」私は思わず吹き出し、ガクンと膝から崩れ落ちそうになった。

「それと、猫が好むハーブ味のウェディングケーキもね」私たちは顔を見合わせ、二人して恐怖におののく顔をした。「それは気持ち悪すぎるわね。ごめん」

私たちは再び登山道に戻った。島の頂上にたどり着くと、島を取り囲む海が一望できた。しかし、一番の見所は、最高のオーシャンビューを見下ろす猫の形をした建物だった。赤と白の縞模様のコテージが何軒か建っていて、行儀の良い猫のように、並んで絶景を見下ろしている。屋根は耳の形をしていて、目の代わりに窓が二つ付いていた。ドアには鼻と口が描かれ、ドアの横にはひげも描かれている。

「このコテージは島で唯一の宿泊施設だよ」とリュウが言った。「ベッド代わりに畳の上に布団を敷いて寝るんだ。あとお風呂もある。それだけだけど、それで十分だろ」

「今夜はここに泊まれるの?」

「今の季節は閉まってるから無理だね」

「現実世界に戻らないといけないってこと?」

「そうなっちゃうね」彼は私の手を握りしめた。「でも数年後、ここが開いてる季節に戻ってこよう。新婚旅行で」とリュウが冗談めかした。


・・・


「いつから私のことを好きだって思ったの?」と私はリュウに聞いた。私たちは再び人魚姫のフェリーに乗り込んでいた。石巻に戻って、そこで一晩過ごせるユースホステルを探すつもりだった。船を降りるまではスマホの電源を入れないことにした。メッセージを確認したり、そういう現実世界へのアクセスはできる限り先延ばしにしておきたかった。タカハラ家の人たちは私がいなくなったことに気づいたのかどうか、それさえもわからなかった。

私たちは船の一番後ろの席に座り、夕暮れの風に吹かれながら、お互いに体を寄せ合うようにして温め合っていた。

「君がICSに転校してきた初日からだよ。ベントレーのドアが急に開いて、君が俺を殺そうとした時から。君はいつから?」

「ICSのプールで泳いだ最初の日から。水中から急にあなたが顔を出して。俺に対抗できるスイマーがやっと現れたか、みたいなことを言った時から」

「そんなこと言ったか?」

「言ったわよ!」

「それで好きになったのか?」

私はその答えとして彼にキスをした。東京に戻ることを考えると、私の人生はすべて間違っていたように思えてきて憂鬱だったけれど、すべてが正しかったと私を陽の光の中に引き戻してくれるのは、このリュウ・キムラとの熱いキスだった。

黄昏の中、ひとしきりキスをした後、唇を離して、リュウが真剣な表情で言った。「お父さんが君をアメリカに送り返そうとしたら、どうするの?」

「わかんない。マサおじさんに相談することになるかな。彼ならきっと助けてくれる。うん、絶対なんとかしてくれる。日本に来る前の生活には、どうしたって戻れないもの」

「そんなにひどかったの?」

「良くはなかったわね。ママの具合が最悪の時は、私がママの財布からお金をくすねて、食べ物を買っていたりもしたから。そうしないと、二人とも食べ物にありつけなかったのよ。でも里親の家はもっとひどかったわ。私のことを忌み嫌っている他人と暮らすわけだからね。汚い家、意地悪な人たち。タカハラ家の人たちは、私をアメリカの立派な全寮制の学校に入れようとしてるみたい。里親の家よりはましかもしれないけど、私はそんな寮生活も望んでない。きっと寂しくなるわ」

「俺が君を行かせたりはしないよ」

「自分のことは自分でやれるから大丈夫よ」

彼が私を守ろうとしてくれるのは有り難かった。でも結局、いつもそうだけど、私を守れるのは私自身しかいないことも知っていた。私の10代の人生は、ずっとそうだったから。

「君が自分でやれるのはわかってるけど、俺も君のためにここにいるんだからな」

私たちはもう一度キスを交わした。夜の帳が降り始めた頃、フェリーが石巻に到着した。

私たちが船を降りると、フェリーターミナルの到着口でマサおじさんが待っていてくれた。



チャプター 40


「仕事で大阪にいたんだけど、キミから電話があって、何があったのか聞いたんだ」

「どうして私たちの居場所がわかったの?」と私はマサおじさんに聞いた。ネイビーのスーツを着た彼は、身なりはきちっとしたビジネスマンに見えたけれど、顔色は疲労困憊といった感じだった。昨日から寝ていないのかもしれない。

「警察が君のクレジットカードの使用場所を調べてくれたんだよ。それからキミがプライベートジェットをチャーターして、私がそれに乗って君たちを迎えに来た次第だ」

そういえば、私はフェリーのチケットを買う時にアメックスカードを使ったんだ。まさかそれで簡単に追跡できるなんて思いもしなかった。というか、タカハラファミリーがそこまでして私を探すほど心配してくれたなんて、そっちの方が驚きだ。私はほっとしたような、歯がゆいような、何とも言えない気持ちになった。

「ケンジはどこ?」と私は聞いた。

「君がいなくなったことですっかり酔いが覚めて、今は家で君を待ってるよ」

「本当に? 私はあの家に帰ってもいいの?」

「もちろんだよ。君のホームは東京のあの家だ」


・・・


「あなたは大丈夫?」と私はリュウに聞いた。

私たちはタック・ラグゼのエントランス前の私道に立っていて、リュウはこれからタクシーに乗って自分の家に帰るところだった。

彼がとろけるような笑顔を見せてくれて、私の心がキュンと鳴った。「俺は大丈夫だよ」彼はそう言いながらも、大丈夫ではなさそうな表情をした。「うちの親はカンカンだろうな。また俺を無視して、悲惨な家庭に逆戻りだ」

私は彼にキスをした。タック・ラクゼの関係者が見ているかもしれないけど、構わなかった。彼がここにいて、彼は私の恋人なんだから、この敷地内に彼を温かく迎え入れてしかるべきでしょ。「ありがとう」と私は彼の耳元でささやいた。

リュウが帰った後、私はケンジのペントハウスに戻った。リビングでは家族会議が行われていた。マサおじさん、キミ、ミセス・タカハラが座って私を待っていた。ただ、「無事でよかったわ、エル!」とか、「ここから逃げ出したくなるほどの気持ちにさせちゃって、ごめんね!」とか、そういう声は誰からも飛び出してこなかった。

待って。テーブルの上にはお茶と、それから色とりどりの和菓子がトレイの上に綺麗に並べられている。そこに漂う空気感は、昨日までとは違うものだった。私の主張が通ったんだとわかった。ちゃんと気持ちが伝わったのね。

「ケンジはどこ?」と私は聞いた。

「お医者さんのところよ。今後の治療方針について話し合ってるわ」とキミが、私をしっかり見据えて言った。その声の優しさ、彼女の目に表れた気配りの色から、彼女が初めて私を、赤の他人ではなく、姪として見てくれていると感じた。「彼は、昨夜あなたに言ってしまったことをとても後悔していたわ。あなたをアメリカには帰さないそうよ。ただ、父親になる方法はよくわからないみたいだけど」

「私だって娘になる方法なんてわからないわ」と私は認めた。「でも挑戦したい」

「彼もそう言ってたわね」とミセス・タカハラが言ったから、私はびっくりしてしまった。「あなたが昨夜出て行った後で、今後どうするか家族で話し合ったの。みんなで頑張らないといけないってことで意見が一致したわ」

マサおじさんは、まるでセラピストのように、あるいは経験豊富な外交官としての手腕を発揮して、私たち全員にお茶を入れてくれた。「帰ってきてくれてよかったよ、エル。ここにいる全員が改善すべきことを胸に抱えているんだ。さて、誰から話す?」

誰も何も言わなかった。

それでマサおじさんが、「じゃあ、私から話します」と切り出した。「君が東京にやって来た時から、もっとちょくちょく君の様子を見に、私は顔を出すべきだった。見知らぬ国に引っ越してきて、いろいろ大変だっただろう。これからは君から目を離さないようにするよ。それに、私はこのタカハラ・インダストリーズで働くことにしたんだ。今までキミがやっていた仕事を私が引き継いで、46階のスイートルームに住むことになった。これからは、私のホームは君のホームと同じってことだ」マサおじさんが私のそばにいてくれるんだと思うと、この上なく心強かった。

「私のことをおばあさまって呼んでもいいですよ」とミセス・タカハラが言った。以前、イモジェンが彼女の日本人の祖母について話していたのを思い出した。日本語には、おばあさんとか、おばあちゃんとか、祖母の呼称がいくつかあると言っていた。彼女がそう呼んでいいと言ってくれたのは、始まりに過ぎないとはいえ、かなりの前進に思えた。彼女も歩み寄ろうとしてくれていることに感謝した。

キミが言った。「お母さまと私と一緒に、あなたも週一回抹茶のお茶会に参加してちょうだいね」

私は内心密かに喜んでいたけれど、彼女には女子会くらいで満足してほしくなかったので、それを表には出さなかった。私は言った。「あなたはもっとあなたらしくあってほしい」

「それはどういう意味?」とキミが聞いた。

「もっと外に出て、誇りを持って羽ばたいてほしい」と私は答えた。

キミが驚いた表情をした。マサおじさんも、おばあさまも、何も知らないような顔をして、とぼけている様子だ。キミが日本語で何かを言った。

「その日本語、どういう意味?」私は警戒心を抱きながら聞いた。

キミが言った。「すぐにわかるようになるわ。年明けからあなたに家庭教師の先生をつけることにしたの。あなたは日本語のレッスンを受けるのよ。私たちの仲間になろうというのなら、私たちの言葉を話せないとね」

「私はあなたを誇りに思っていますよ」というおばあさまの声が、何の前触れもなく、私の耳に降り注いだ。「あなたは強い女の子ね。口ごたえが過ぎるところもありますけど、頭はいいですね」

私は言った。「おばあさま、ありがとうございます。私が強くて頭がいいのなら、もしかしてそれは、あなたから引き継いだ資質かもしれません」

彼女はうなずいていた。そんなの当然でしょ、と言いたそうだった。

突然、タック・ラグゼが牢獄の城には思えなくなった。ここは私のホームだと実感した。栄光があって、欠陥もあって、完璧じゃないけれど、だからこそ家族なんだと思えた。

ここに来て初めて、これからが本当のスタートだと感じた。


・・・


マサおじさんが仲介役になってくれて、タカハラファミリーにある種の平穏がもたらされた。私がここに残るために、彼が何を言ってくれたのか、私には知る由もないけれど、きっと彼が粘り強く交渉して、勝ち取ってくれたんだ。彼はケンジのアルコール依存症の治療プログラムも手配してくれた。ケンジは仕事から離れ、昼間はそこに通い治療に専念し、夜は私と一緒に家で過ごした。マサおじさんは、ケンジのお酒の問題は公にして、みんなに知ってもらった方が、一時は「恥」かもしれないけれど、長い目で見たらその方がいいと主張し、ミセス・タカハラとキミも納得した。そして、キミがケンジの後を継ぐことになった。タカハラ・インダストリーズ初の女性社長になったのだ。ケンジは仕事に復帰した時、彼女のサポート役に回ることになるでしょう。この体制なら、政府の会計監査やキノシタさんのスキャンダルを乗り越えられるかもしれない。キミがCEOを務めることで、タカハラ・インダストリーズが倒産しない可能性が高まったことは確かだ。

家族の中での私の仕事は、タック・ラグゼとICS-Tokyoを行き来する生活を再開することだった。私はその申し出を快く引き受けた。

家族会議を終えて寝室に戻った私は、ようやくスマホの電源を入れた。久しぶりに画面を見ると、イモジェンからメッセージが来ていた。

ハイ。アケミのこと聞いたわ。それから、ふふっ! あなた、リュウ・キムラと駆け落ちしたそうね? せっかくあなたと友達になれたのに、こんなスキャンダルを起こして、アメリカに帰っちゃうなんてことにならなければいいんだけど。だって、いろいろと面白くなってきたばかりだし。アラベラがとうとう、ボリビアに帰った本当の理由を私たちに話してくれたの。(彼女の家族にも話したみたい。)何が言いたいかというと、ごめんなさい。私が馬鹿でした。PS―ニックが除け者になったわ。アラベラの家族が弁護士を雇って、彼を告発したそうよ。

私はイモジェン風に目をくるっと回した。今度はニックを除け者だなんて、エックス・ブラッツも浅はかで愚かだけれど、私はイモジェンのことを好きな気持ちを否定できなかった。そして、アラベラが声を上げたことを誇りに思った。

ママに手紙を書こうと、パソコンに向かった時、ドアをノックする音がした。ドアを開けると、廊下にはケンジが立っていて、彼の足元には毛布で覆われた箱が置いてあった。上にリボンがかけられている。

「君にプレゼントだよ」と彼が言った。彼はしらふのように見えたが、少しやつれた表情をしていた。禁断症状の悪魔と闘っているのかもしれない。「悪かったと思ってる。許してほしい。君との生活は実験なんかじゃない。君は俺の娘だ。これから父親になれるように頑張るよ。もっと精進する」

「私ももっと頑張るね」と私は言った。まだ心の傷は癒えていなかったけれど、ほっとした気持ちの方がずっと強かった。私はここに残って、みんなで一緒に家族としての生活を築いていけるように頑張りたい。ケンジには正直に何でも話したいし、彼の悩みや苦しみもちゃんと聞いてあげたい。「箱の中身は何?」

「開けてごらん」

私は毛布を手に取って、めくってみた。下にはケージがあった。

中には猫が入っていた。

ケージを開けると、とっても可愛い黒猫の子猫が、ミャーと鳴き声を上げながら、ゆっくりと出てきた。私はその柔らかくて、ふわふわの毛に覆われた天使を抱き上げ、顎の下ですりすりと寄り添った。

「何て呼べばいい?」とケンジが聞いてきた。

「ハッフルパフの後継者だから、レイブンクローね」と私は答えた。

私はアケミから教えてもらった日本語のことわざを思い出した。猫の魚辞退(うおじたい)。意味:内心は欲しくてたまらないのに、表面的には遠慮することのたとえ。彼女が言うには、欲しくないふりをして遠慮していた人が、最終的に折れて、「そんなに言うならもらっておくわ」と受け取ることを表すらしい。

私は私の人生で今までずっと望んできたものを辞退したくはなかった。望んできた人を拒みたくはなかった。

初めて、私はケンジを、父親を抱きしめた。彼は少し戸惑ったように躊躇してから、私を抱きしめ返してくれた。

私の完璧ではない、アルコール依存症の、とっても魅力的で、心の広いお父さん。






〔訳者あとがき〕


「起承転結」がこれほどはっきりとした小説は、『ティファニーで朝食を』以来だと藍は思った。『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』は、言わば、40階建て(40チャプター)の高層ビルを組み上げたような見事な作品で、どの階(チャプター)にも、文字通り、ストーリーがあり、大まかに区切ると、10階までが「起」、20階までが「承」、30階までが「転」、そして40階までが「結」といった感じで、最後には屋上からの爽快な絶景を見せてくれました。


「起承転結」のお手本として教科書に載せてほしいくらいです。まあ、長さ的に、この小説だけが載った教科書になっちゃうでしょうけど...笑

「起承転結」は人間の遺伝子に組み込まれている、と言った人はいないかもしれませんが、太古の昔から、人間が「起承転結」に慣れ親しんできたことは事実みたいです。ギリシャ神話にも『源氏物語』にも『平家物語』にも、「起承転結」はあるはずです。

一つの方法や枠組みには、流行り廃り(栄枯盛衰)があり、時代(川)の流れとともに、それらも一緒に流れ去ってしまうものなのですが、どういうわけか、「起承転結」は廃れることなく、脈々と、どの時代の「現代人」の眼前にも留まり続けています。


音楽で言うと、(たぶんですが、)ベートーヴェンのソナタ形式みたいなものでしょうか? やっぱり何百年経っても、きっちりとした形式のソナタ(『悲愴』や『熱情』など)を聴くと、「音楽を聴いた!」という気分になるものです。

「起承転結」のストーリーにもそれと似たような効果があって、「よし! 物語を読んだぞ!」と、すっきりするのです!


江戸時代の人は、「起承転結」の結(オチ)を聞くために寄席に足を運んだ、といっても過言ではないでしょう。落語なのに「落ち」がなかったら、お客さんから「金返せ!」と怒鳴られること間違いなしです!笑

オチを聞いて、すっきりと腑に落ちた感を味わって、家路につくわけです。途中たくさん笑わせてもらったあげく、オチで真顔に戻されてしまった、という落語も多かったことでしょうが、それでもオチさえあれば、文句を言う人はいなかったでしょう。「そういうもんだよな」とうなずきながら、(現実の世界へ)帰って行くのです...



『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』で、何より優れていると思った点は、キャラクター造形でした。レイチェル・コーンの他の作品にも言えることですが、エルちゃんが愛しくなるくらい、キャラクターが立っている!(これだけ生き生きとした人物を描ける才能が羨ましい...)


もちろん、ストーリー展開の妙もあって、猫カフェをふり(布石)として使っておいて、最後に猫島、というテクニックにも痺れたし、最後の最後にケンジが猫をプレゼントしてくれた時には、エルちゃんと一緒に泣きました...泣


また、この小説は『Daddy-Long-Legs(あしながおじさん)』的な、手紙を挟んだ日記形式の小説でもありました。一人称で自分の内面を折り込みつつ、ストーリーを展開させる手法は、藍の好きな形式でもあります。そして、これはアメリカ的とも言えるでしょう。

大雑把に分類すると、イギリス文学は三人称の文学で、アメリカ文学は一人称の文学だと言われたりします。つまり、アメリカ文学は、「個」というものを重視して、自分はどう思っているのか、自分はどうしたいのか、を深く掘り下げて追求するわけです。


ところで、アメリカという国は、(どちらかというと、)血筋よりも、国旗(星条旗)が一つにまとめています。(もちろん「表向き」は、ということですが、表向きの理想がすべてなので、これで良いのです。)


一方、日本という国は、(どちらかというと、)国旗(日の丸)よりも、日本人の血が一つにまとめています。

『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』の中で何度も言及があったように、日本は「個」よりも、「家族」や「社会(村)」を重視する文化です。(アメリカとの戦争から75年が経ち、だんだんとアメリカ色が色濃くなってきましたが...)

日本とアメリカの共通点は数え切れないくらいあります。←たとえば何?←たとえば、民主主義とか、KFCとか...←え、二つだけ?笑


相違点もいろいろありますが、一番大きな違いは、天皇の存在でしょう。天皇制は日本にあって、アメリカにはないものです。東京の地図を見るとわかるように、東京は皇居を中心とした一つの家族なのです。第二次世界大戦中、東京を空爆したアメリカ軍も、皇居だけは狙いませんでした。一種の神がかった領域なのです。

日本の天皇は、もちろんアメリカの大統領とは違いますし、ヨーロッパの王様や君主とも違います。わかりやすく言うと、日本の天皇は、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)様なのです。邪馬台国の人々は、卑弥呼様が「近いうちに恵みの雨がもたらされることでしょう!」と言ったら、本当に雨が降って豊作になった!と卑弥呼様を崇めたわけです。つまり、自然と卑弥呼様を同一視して、自然があるから(卑弥呼様がいるから)、自分たちはその中で生かされているんだ、という境地です。

戦時中、日本人一人一人(の心)と天皇陛下との結びつきは、今より強固だったはずです。結果、アメリカが勝ち、アメリカ文化がどっと日本に、文字通り大手を振ってなだれ込んできました。←たとえば何?笑←KFCとか。←またKFCかよ!爆笑

KFC以外にも、「個人主義」なる価値観も入ってきました。それはじわっと75年かけて、日本人の心に浸透しつつあります。自分の中に「真の自分」なるものを抱き、「自分が何をしたいのか」を絶えず問いながら、「自分の人生」を生きようという試み(価値観)です。



チャプター 14

My skin was not dark, but it wasn’t exactly lily white, either. On a skin-shade scale of one to ten where one was the lightest white and ten was the darkest brown, I was probably a three. “My mother’s father was part Native American and African American,” I explained.

私の肌は浅黒くないわ。ユリみたいに真っ白ってわけでもないけど、1から10の色合いで表すと、1が最も明るい白で、10が最も暗い茶色だとすると、私は白に近い方の、3といったところよ。「私のお母さんの父親の家系に、アメリカ先住民と、アフリカ系アメリカ人の先祖がいるから」と私は説明した。


これはエルちゃんがミセス・タカハラに自分の出生を説明している場面ですが、

母親がアメリカ人で父親が日本人のエルちゃんは、「血筋」からして、「個」と「周り」の融合を象徴する存在なのです。


村上春樹的に言うと、「個」を、ディタッチメント(自分の内側へのベクトル)と言います。逆に、外向きのベクトル、「誰かの役に立ちたい」という姿勢をアタッチメントと言います。



『嫌われる勇気』的に言うと、すなわち、「自分以外の人への貢献が、逆に自分を救う」ということです。


オードリー・ヘップバーンがこう言っています。



"As you grow older, you will discover that you have two hands, one for helping yourself, the other for helping others."

- Audrey Hepburn

「年を重ねるにつれて、自分には二つの手があることに気づくでしょう。一つは自分を助けるため、もう一つは他の人を助けるため」

- オードリー・ヘップバーン



チャプター 37

His wealth and charisma only masked his true self: a coward.

彼の富とカリスマ性は、ただ単に彼の本当の姿を隠す仮面だったんだ。真の彼は、ただの臆病者よ。


これはエルちゃんがケンジをあてこする(けなす)シーンで、「mask」という動詞が使われていたので、この文を取り上げたのですが、

ユング心理学的に言うと、これを仮面(ペルソナ)の自分と言います。すなわち、内側の自分と表向きの自分がいて、人は「内」と「表」で対話しながら生きている、というわけです。

そして、先ほど「アメリカの理想」のところにも書いたように、「表の自分がすべて」という風に解釈することもできます。たとえば、相手のことを「こいつむかつくな」と内心思っていても、表向きはにこやかに接していれば、「にこやかに接してくれた」ことだけが事実になるのです。これは大きな生きる指針になりえます。


藍は大学院生の時に、出版本の下訳をした経験があります。下訳はゼロから訳すので、全体の作業の8割以上は藍がやったのですが、訳者として名前が出たのは最後に手直ししただけの教授で、「訳者あとがき」もその教授が書く、という屈辱を受けました。内心では「お前訳してねーだろ!」と思っていましたが、表面的にはペルソナをかぶり、にこやかにしていました。

まあ、今では、『嫌われる勇気』的に、その教授が下訳を任せてくれたおかげで英語力が身についた、と感謝しています。今でもご健在でしたら、その教授は70歳くらいだと思いますが、この『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』の翻訳をそのI先生に捧げます。(表向きは...)


藍は微妙な天才ですが、人生の落伍者でもあります。日本で成功するには、頭が良いことよりも、コミュニケーション力や「人当たりの良さ」が、断然ものを言います。なぜなら、日本は村社会だからです。たとえば大学でも、教授は有能な部下よりも、毎日顔を合わせたい部下を選ぶわけです...


「読むこと」と「訳すこと」は、8割くらいは同じ作業なのですが、そこにはやはり大きな差異があって、自分以外の人にもわかるように表出することが一番大変なのです。同時に、それこそが翻訳の醍醐味でもあります。


ここで、この小説を出版してくださる出版社の方を募集します。もしくは、出版社に知り合いがいらっしゃる方、こちらまでご連絡お待ちしております!

hinataaienglish@gmail.com

表紙にちゃんと「訳 藍」と入れてくれれば、翻訳料は微々たる額で結構です。



思い返してみると、スクールバスから始まったこの物語は、スクールバスでキスして内面に花火が上がったり、色々ありましたね。

エルちゃんはスクールカーストの頂点に位置するエックス・ブラッツの仮面(ペルソナ)も手に入れました。しかし結局、その仮面はエルちゃん自身にはしっくりこなかったようです。仮面と内実(真の自分)とのずれに戸惑い、自我(アイデンティティー)が揺らぎ、そして、エルちゃんは気づきます。自分の内面をありのままにさらけ出し、真の自分が望んでいる方向へ進もう!と。

言わば、ピラミッドを登ること自体をやめてみたら、逆に高々と、ピラミッドをはるかに上回る高さまで、(キスの)花火が打ち上がったわけです!!

「本当の自分が望む方へ」というのはアメリカ的な考え方ですが、最終的に「アメリカ的自己を抱えたエルちゃんが日本的な家族に包まれる」というオチは、ほぼ完璧なハッピーエンドと言えるでしょう!


真のエルちゃんは、きっと医者になるために勉強も、そして水泳も頑張るエルちゃんで、「シャワーってこんなに気持ちいいの!」とか、「タオルってこんなに柔らかいの!!」とか、そういった生活の中の小さなことに喜びを見出せる人なのです。(勝手に決めつけ。)


オードリー・ヘップバーンはこうも言っています。



"I believe, every day, you should have at least one exquisite moment."

- Audrey Hepburn

「私は信じています。毎日、誰にでもきっと、少なくとも一つは極上の瞬間があるはずだと」

- オードリー・ヘップバーン



チャプター 39

the birds chirping, the trees swishing, the cats meowing—the perfect sounds to drown the anxieties in my head about what was happening back at Tak-Luxxe.

鳥のさえずり、木々の揺れる音、猫の鳴き声、―頭の中の不安を紛らわすのに最適な静かな音。タック・ラグゼで今何が起きているのかなんて考えなくて済む。


これは猫島でエルちゃんの心が癒されるシーンですが、


藍的に言うと、翻訳こそ、頭の中の不安を紛らわすのに最適な音です。たとえば、その日嫌なことがあったとしても、翻訳が紛らわしてくれますし、その日何もないことが苦しくても、本の中では絶対に何かが起きます。起きてくれます!!!

藍は毎日2時間くらい訳していますが、毎日続けていると、物語のあっち側の世界に行ってしまうものなのです。そして、そこがいつもなら、ニューヨークだったりするのですが、今回はなぜか、まあまあ馴染みのある東京だったので、不思議な感覚でした。言わば、鏡の向こう側に行ってしまったはずが、なぜかこっち側にいる、みたいな...爆笑


さて、みなさんも、この翻訳療法を試してみてはいかがですか? Amazonを開けば、次々と、何千冊という本が出てきます。逆に何千冊もあったら選ぶ気なくす、という方は、じゃあ、『ティファニーで朝食を』でもいいですよ。藍のブログが嫌なら、本屋さんに行けば村上春樹様が訳した本が売ってますから、訳しながら「この英文難しいな」と思ったら、それをチラ見すれば、確実に訳し進めることができますよ。毎日ではなくても、1回2時間でも1時間でも、30分からでも、翻訳ライフを始めてみてください。翻訳療法より「翻訳ライフ」の方が断然良い命名ですね!笑


そこに英文があるから!←急にどうした!? 誰も何も聞いてねえよ。いよいよ幻聴が極まったか!!爆笑



チャプター 11

He veered his head in the direction of Ryuu Kimura sitting alone in the courtyard, Propped under a tree, eating cafeteria rice balls and reading a Haruki Murakami novel―in French. The Ex-Brats smirked in Ryuu’s direction. He looked up briefly, noticed their glares, and returned to his book. He seemed like he couldn’t care less. I kind of admired him for that.


彼は頭の向きを変えた。視線の先には、リュウ・キムラが一人で中庭の木の下に腰を下ろし、食堂のビュッフェコーナーで売っていたおにぎりを食べながら、村上春樹の小説を読んでいた。―よく見ると、フランス語版みたいだ。〈エックス・ブラッツ〉の面々は、ニヤニヤしながら彼の様子を眺めている。彼はほんの少しの間、顔を上げ、辺りを見渡し、私たちの視線に気づいた。しかし何事もなかったかのように、彼は本に視線を戻してしまう。見られていても全然気にしていないみたいだ。私は、凄い、と思い、彼のその精神力に尊敬すら覚えた。


これはリュウ・キムラ(木村龍)が昼休みに、一人で村上春樹の本を読んでいたシーンですが、

『My Almost Flawless Tokyo Dream Life(私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし)』は、タイトルにDreamと入っているように、メタフィクション的な感じで、「すべてエルちゃんの夢(願望)でした」というオチかな、と思わせておいて、実は「完璧じゃないからこそ(家族は)素晴らしい!」というお話でした。

ちなみに、村上龍のデビュー作のタイトルは、『限りなく透明に近いブルー(Almost Transparent Blue)』です。



『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし)』をAmazonで買いましょう!!

買ったら、(開かなくていいので、)この本を抱き締めながら、藍の日本語訳を読みましょう!!

すると、あら不思議! 魔法のランプからもくもくとジーニーが出てくるように、この本から、エルちゃんがありありと立ち上がってくることでしょう!!笑


藍はエルちゃんから生きる姿勢を教えてもらいました。なんでエルちゃんには三回もファーストキスがあるのか!?笑 エルちゃんは嫌なことをなかったことにできるんでしょうね!(藍にはない特質だから羨ましい...)

そうだ! 藍もファーストキスはまだってことにしておこう!←それ、女子がやるから意味があるんであって、おっさんがファーストキスはまだってキモッ!!爆笑




〈おまけ〉(ペルソナを取ってみたはいいけど、藍の内面をさらけ出しすぎたかも...笑)


『藍の限りなく完璧に近い夢のような家庭教師』 by 藍


僕の名前は藍(あい)。今日からエルちゃんの日本語の家庭教師をやることになった。キミ社長との面接では、「5ヶ国語くらい話せます!」とか適当なことを言って採用してもらったけれど、もちろん嘘だ。

僕の目には一年中、何もかもがキラキラと煌めく性的対象に映る。隣に座るエルちゃんを見つめる。可愛かった。水泳をやっているだけあって、なまめかしさというよりは、健康的な溌剌さが、逆にたまらない。シャツのボタンは上まで留めてあり、胸元は覗けなかった。エルちゃんはパステルピンクのリボンが付いたICSの制服を着ていた。机の横に置かれた学校指定のリュックカバンにもレースのリボンが付いている。

「今日は学校の制服のままなの?」と僕はエルちゃんに聞いてみた。

「スクールバスが渋滞でなかなか進まなくて、さっき帰ってきたばかりなんです」

「そうなんだ。可愛い制服だね」

「そうですか? シャル・カトウっていう世界的なデザイナーがデザインしたんですけど、なんか地味じゃないですか?」

「そんなことないよ。可愛いよ。僕は大好き。ちょっと立って見せてくれる?」

エルちゃんが椅子を引き、立ち上がると、一歩下がって、両腕を腰の辺りまで上げた。白を基調としたエルちゃんの部屋は、まだアメリカから引っ越してきて、三ヶ月ほどということもあり、あまり物は置いてなかった。壁にポスターなどが貼ってあることもなく、ベッドと勉強机とクローゼットが並んでいるくらいだ。

「凄く素敵だよ!」本心だった。プリーツスカートは膝までの長さで両サイドに切れ目が入っていて、深緑と藍色のチェック柄。両サイドの切れ目は、バックルではなく、黒の安全ピンみたいな掛け金で留めてある。オックスフォードスタイルの白いシャツの肩口には、グリーンとゴールドの文字でICS-Tokyoと綴られている。ネイビーブルーのニーハイソックスはスカートの色と合っていて、可愛かった。

「ちょっとくるっと回って見せて」

エルちゃんは少しかかとを上げると、体を軸にくるくると二回転回った。膝丈のスカートがふわっとひるがえり、眩しいくらいに白いももが一瞬露わになった。その柔らかそうなももに、瞬時に僕の目が脳内保存のシャッターを切り、瞳孔がうずくようにキュンと、ときめいた。

少し照れたように勉強机に戻ったエルちゃんの肩に、僕はそっと手のひらをのせた。「凄く可愛いよ」

「それより、この問題教えてください」

細くしなやかな指の先に目をやる。「どれどれ、なるほど。これは実に興味深い問題だね」そう言いながら、エルちゃんの両足が重なる膝の辺りを眺める。僕の視線を感じたのか、膝がピクッと動いたようだ。

僕は右手でシャープペンを持ち、左手でエルちゃんの背中の後ろの椅子に手をかけると、説明を始めた。

「この問題はね」チラッとエルちゃんの顔を見ると、真剣な表情で問題を見つめている。薄桃色の頬にはうっすらとうぶ毛さえ見えるほど間近にエルちゃんの顔があり、口づけたくなってしまった。

「まず、日本語にはひらがなと、カタカナと、漢字の、三種類の文字があるんだよ」

「え~、なんでそんなにいっぱいあるんですか?」

「でも、とりあえず漢字は省いて大丈夫だから、まずはひらがなとカタカナをマスターしよう!」

「わかりました~! っていうか、いつまでお尻に片手あててんのよー!!」とエルちゃんが言って、僕に向かって、左フックを繰り出してきた。綺麗に弧を描き飛んでくるそのパンチが、本気のグーパンチだったら、僕たちの関係は今日で終わりだな、と僕は0.02秒で考えた。笑

平手のビンタだったら、まだワンチャンあるかもしれない。また今度、続きに進むチャンスが、ギリである予感もする...笑

僕はエルちゃんの体の向こう側から繰り出されつつあるパンチが、グーではなく、パーに開くことを期待しながら、こう思った。これが本当の起承転、尻(ケツ)。






藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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