『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて』1
『Mind the Gap, Dash and Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年11月12日~)
『ダッシュとリリー』シリーズの最新刊が、(藍のおかげで、笑)もうすぐ出ます!!!
『ダッシュとリリーの冒険の書』、『ダッシュとリリーの12日間』に続く、シリーズ3作品目で、こんなに続くのは藍が訳したから??←なわけない。笑
それはともかく、藍的には、『ダッシュとリリーの冒険の書』を訳してから、世界が変わったというか、いつでもどこでもダッシュやリリーたちが周りにいる感じで、人生が楽しくなったので(悩んでいることすら楽しい状態になったので)、間違いなく『ダッシュとリリーの冒険の書』が、藍の人生最大の書になりました。
最新作のタイトルは『Mind the Gap, Dash and Lily』 で、
直訳すると、「そのギャップに気をつけて!」とダッシュとリリーに注意をうながしている感じになります。
ロンドンの地下鉄のホームには、乗り込み口付近に「Mind the Gap」と書かれているそうです。ロンドンの地下鉄は、電車とホームの隙間が結構広く空いていて、落ちる人が多いんだとか。
そう、今回の舞台はロンドンなのです!!
あと、「Gap」は、ダッシュとリリーの二人の間の「距離」という意味も込めているのでしょう。心の隙間と、物理的な距離。ニューヨークとロンドンの遠距離恋愛っぽいです...
今はまだダウンロードできませんが、11月12日になったら、これを見てくれている数百人でKindle版を即ダウンロードして、「なんで日本のAmazonでこんなに売れてるんだ?」と思わせましょう!笑
ちなみに、ポイントの「-145円」というのは、藍のAmazonポイントのことなので、601円ではなく、746円になります。
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リリー
12月21日
クリスマスにはダッシュが悲惨な境遇に陥ってくれないと困るのよね。暗い顔したダッシュをパッと明るい笑顔に変えるのが、私の役目みたいなものだから。そしたら私もハッピーになれるし。
ダッシュはね、この時期になると自然と顔がほころんで、何もしなくても幸せがにじみ出てくるような、そういう人じゃないの。私だったら自然と笑顔になっちゃうような光景を見ても、ダッシュはむすっとしたままなのよ。たとえば、大きな犬とか、よちよち歩きの可愛らしい双子とかね。同じ顔した小さな双子が、酔っぱらった海賊みたいに、砂場を縦横無尽に駆けずり回っていたりすると、私なら思わず笑顔になっちゃうけど。どしゃ降りの中、傘がなくて、しかめっ面で雨に濡れながら手を挙げている人が、ようやくタクシーを拾えたところを目撃しても、私なら自然と笑顔がこぼれちゃうわ。ダッシュにそういうのは通じなくて、逆に彼を笑顔にさせる場面っていうのはね、たとえば、かっこつけて気取った男が、スマホ片手にインスタグラムで配信しながら、大きな犬を連れて公園を散歩していたら、画面に気を取られ、自分の犬がした糞を踏んづけちゃって、うわって慌てふためく様子とか。あとは、砂場で遊んでいた小さな双子が、ヨーグルト味のチューブ型お菓子を剣代わりに戦いごっこをしていたら、それがどんどんエスカレートしていって、いつの間にか本気のけんかになっちゃって、辺りに砂をまき散らし、怒った親まで巻き込んで、双子の顔がギャーギャーと可愛くない形相に変わる場面とか。それから、雨上がりのウォール街に停まったタクシーから、さっそうと降り立った高そうなスーツを着たお偉いさんが、ちょうどタクシーの降り口にできていた深い水たまりに、ずぼっと足首まで足を突っ込むところを目の当たりにしたら、ダッシュは笑うでしょうね。
私は欲しがってばかりの恋人みたいに思われたくはないんだけど、ダッシュの笑顔を見るという、めったに訪れない瞬間のために生きているって感じなの。すっごくピュアな笑顔をするのよ。それはきっと、予想外にもたらされた笑顔だからで、誰かに強制されたものじゃないからね。あえて言わせてもらうけど、彼の笑顔は、巨大なクリスマスツリー全体を煌々と輝かせるほどの威力なのよ。(こんなのろけ話を彼が聞いたら、一瞬で彼の顔から笑顔は消え失せて、もう二度と笑ってくれない恐れもあるけど...)
今年のクリスマスは彼に笑顔を届けようと決めてるの。笑顔に限らず、彼の顔自体を見るのが久しぶりだからね! 去年の春、私たちは高校を卒業したんだけど、彼には二つの素晴らしい選択肢があったの。彼はコロンビア大学にも合格したから、ニューヨークに残ることもできた。そしたら、私はもっとハッピーだったかもしれないわね。さらに、彼はオックスフォード大学にも合格したのよ。彼は英国びいきだし、『オックスフォード英語辞典』を愛してやまないほどの本好きだから、それはそれは喜んでいたわ。それと、海を隔てて両親から離れられるっていうのも、彼にとっては大きな特典だったみたい。(私からしたら、彼の両親はいい人たちだと思うんだけどね。彼はうざいとか思ってるのかしら。その辺は複雑な親子関係ね。)
ダッシュと私は2年間付き合ってるの。大好きな人と離ればなれになるとか、飼っていたペットを手放さないといけなくなるとか、そういう時は私だってわがままにもなっちゃうけど、でも、私はぐっとこらえて、彼にオックスフォードに行くように勧めたわ。それが長年の彼の夢だったんだから。―彼はそれを叶えるべきでしょう! 私はニューヨーク市内のバーナード大学に合格したのよ。もちろん今年から入学できたんだけど、バーナード大学には「ギャップイヤー」の制度があったから、それを取ることにしたの。一年間入学を遅らせて、入学前にいろんな経験を積ませる制度よ。おかげで今年の私は、私自身が立ち上げた「犬の散歩ビジネス」に専念できるし、おじいちゃんがいる介護施設でのボランティアも引き続きできてるわ。私にとっての大きな特典はね、―私たちにとっての特典って言った方がいいかもしれないけど、―私が大学に行っていないことで時間がたくさんあるってこと。つまり、イギリスに行こうと思えば、好きな時にダッシュに会いに行けるってことよ! だからこそ、海を隔てて離れても平気って思えたの。
そういうわけで、遠距離恋愛でもなんとかなるって高をくくっていたんだけど、予想外に私のビジネスが右肩上がりで成功しちゃって、自由時間があまり取れなくなっちゃった。ダッシュに直接会ったのは今年の8月が最後で、それから4ヶ月くらい会ってないわ。ああ、彼のモップみたいな髪を撫でてあげたい。彼ったら、理髪店に行く時間も惜しんで勉強ばっかりしてるみたいなの。画面越しの彼は、髪の毛もぼさぼさに伸び放題だった。ひげとかもあまり気にしてないみたい。そんなだらしない外見の男が私のタイプだったなんて、自分でも全く気づかなかった。それだけが彼に会いたい理由ではないんだけど、そうするのがたまらなく好きなのよ。ああ、早く彼のむさ苦しい首筋にキスしたいわ。
ダッシュのイギリス暮らしもまた、彼が予想していたものとは違ったみたいね。私が感じた印象では、彼は彼自身が行く前に思っていたほど、イギリスを好きになれなかったようなの。イギリスというか、オックスフォードをそんなに好きになれていない感じね。あそこは規律や伝統を重んじるみたいだから、性に合わなかったのかしら。ダッシュもその辺はあいまいで、はっきりとは言ってくれないんだけど、私は彼の恋人なのよ。それくらい直感でわかるわ。(彼が「来年はどこか他の大学へ転校するかもしれないから、いろいろ調べてるんだ」みたいなことをぶつぶつ独り言っぽく言っていたことも、ヒントにはなったんだけどね。ああ、千里眼みたいに、海の向こうの彼の心を見通せる目を持ちたいわ!)
もうすぐクリスマスだから、彼がニューヨークに帰ってきて、そしたら、もっとたくさん話せるって楽しみにしてたんだけど、感謝祭の数週間前に彼が爆弾を落としてきたの。彼は「話がしたい」ってメールしてきたのよ。わざわざ前もってメールで「話」を要求するなんて、これは絶対良くない展開だって思ったわ。実際に電話で話してみたら、最悪の事態ではなかったから良かったんだけどね。私はシンガーソングライターのロビンが好きなんだけど、彼女が歌っているような展開にはならずに済んだわ。「他に好きな人ができたんだ」って深刻な声で言われるんじゃないかって、ドキドキしちゃった。ただ、ダッシュが私にクリスマス爆弾を落としてきたことには変わりないけど。「クリスマスはニューヨークに帰って、君と過ごそうと思っていたんだけど、ロンドンのおばあちゃん家に行って、おばあちゃんたちと過ごすことになってしまった」ですって。
事前メールでの空襲予告から、リリーの頭上めがけてズドンと爆弾を落とされちゃった感じ。その気になっていたリリーは完全にメルトダウン。
深呼吸を繰り返し、心を洗い清めるのよって自分に言い聞かせながら、やけ食いもしたわ。
そうやって私は会いたい気持ちを抑えて、やり過ごしていた。なんとかショックから抜け出し、冷静になって考えてみると、私には二つの選択肢があることがわかったの。一つは彼の決断を理性的に受け入れて、家族とクリスマスを過ごすこと。私は今までの人生ずっとそうしてきたんだし、それが私の喜びでもあるんだから。とはいえ、今年はダッシュがいないんだと思うと、寂しくて仕方ない。
それに、私は理性的になるのが大っ嫌い。
そして浮上した二つ目の選択肢は、―
「やっぱりやめておこう、リリーベア」と、いとこのマークが私に言った。彼はいまだに私のことをテディーベアみたいに呼ぶのよ。マークも私も、本屋さんのレジの後ろの掛け時計をチラチラ見ている。時計の針は午後6時10分を指していた。そういえば、戦時中でもないのに、イギリスではなぜか軍隊式に18時10分って言うのよね。「ボーイフレンドっていうのはな、そういうサプライズを望んでないんだよ。しかも、ひねくれ男のあいつならなおさらだ。あいつにサプライズを仕掛けるまで、俺たちの家に泊まるといい、なんて言うんじゃなかった」
そう、私がサプライズでロンドンに来ちゃったのよ!
これはクリスマス間近になって急に決めたことだったから、大幅にスケジュールを調整しなければならなかったし、ママとも何度もメッセージのやり取りをしなければならなかった。ママは私が四六時中いつでも手が空いてるものと思っていて、年に一度の大切な日に向けての飾り付けとか、料理とか、買い出しとかを当然、私が手伝うものだと思い込んでいたから、それはもうカンカンだったわ。だけど、ひょっとしたらママも、私と同じくらいほっとした面もあるのかもしれないわね。たまにはお互いに距離を置いてみるのも、ブレイクタイムみたいでいいじゃない。私が入学を1年間延期することに決めてからというもの、ママは事あるごとに「これは一時的なブレイクなのよ、リリー」と言って、ずっと続く休暇ではないことを私に思い出させる、というのが彼女の任務みたいになっていた。私が犬の散歩ビジネスで成功して、ソーシャルメディアでの認知度も高めていることに、ママは拍手喝采、大喜びでしょうって思われそうだけど、―私は犬のビジネスを分社化するみたいにして、犬の手芸品も作ってるの。それをSNSを通じて販売していて、今では私が編んだものすべてが売り切れちゃうくらいだから、ママもさぞかし喜んでいるかと思いきや、実際のところ、私の起業家としての普段の疲れを癒す、単なる「気晴らし」だと思ってるみたいね。彼女は私に大学の学位を取得することが最優先事項だって常に思い出させてくれるわ。「チワワのためにセーターを編んで、SNSでいいねをたくさん集めても、考える力は身につかないのよ、リリー」
彼女が間違ったことを言ってるとは思わない。私だってそれくらいの考える力は身についてるのよ、ママ。
それはそれとして、遅かれ早かれ、私は恋人に会う必要があるのよ! これはもう絶対的に必要なことなの。メインはそっちで、母親の小言から逃れられるのと、住み慣れたアパートメントを離れられるのは、おまけみたいなもの。最近、私の住むアパートメントがなんだか窮屈というか、狭すぎるように感じてきたのよね。
「もうすぐ彼がここに来ちゃうから」と私はマークに言った。「ここは外国なんだから、リリーベアなんて呼ばないでちょうだい。私はここでは家族のぬいぐるみちゃんから、新しい人間に生まれ変わるんだから」私は自分がロンドンにいるなんて信じられなかった! こんなに遠くまで旅行したのは初めてだったし、すでに目に映るあらゆるものに夢中だった。地下鉄! ブリティッシュアクセントの英語! キャドバリーのチョコレート! もちろん、今までも地下鉄には乗っていたし、英語も、上質なお菓子も、何度も経験してきたわ。だけど、ロンドンではそれらすべてが、異国情緒あふれる新鮮なものに感じられた。地下鉄の車掌さんが、乗り降りする人たちに向けて、「足元の隙間にお気を付けください」って言ってるのなんて最高だわ。車掌さんがマイクを通して、「そのギャップに気をつけて」と言うたびに、私は自分のギャップイヤーのことを言われている気がして、密かにうなずいちゃう。この一年は気を緩めちゃだめ、ちゃんと自分がやりたいことを見つけるのよって身の引き締まる思いがした。そして、ロンドンが気づきの場所になる予感がする。ギャップイヤーが終わった時、私は本当にしたいこと、―周りの人たちが私にしてほしいことではなく、私自身がしたいことを心に刻み付けられる気がするのよ。心の隙間にね、ママ。
イベントは午後6時からの予定だった。というか、18時ね。あー、いちいち計算するのが面倒臭い! でもすでに10分以上過ぎている。ニューヨークで書店員をしていたマークが言うには、「書店のイベントなんて、たいてい時間通りには始まらないよ」ということだった。会場はすでに、今か今かとイベントの開始を待ちわびる人々で埋め尽くされている。しかし、ダッシュの姿はどこにも見当たらない。私はちゃんと招待状に時間と場所を書いたのに。私はダッシュに〈アドベント・カレンダー〉を送っていた。「アドベント」というのは、キリストの降臨という意味よ。つまり、クリスマスまでの日数を数えるためのカレンダーで、カレンダーに付いてる小窓を毎日一つずつ開けていくの。その小窓にメモを入れておいたのよ。
ドーント・ブックス / ロンドン市内のメアリルボーン 12月21日午後6時
100%混じり気のないスリルを味わいたいのなら、欲望に逆らっちゃだめ。
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メアリルボーンはロンドンの中心地で、ちょうどピムリコとカムデンの真ん中くらいでした。(ダッシュもリリーも知らないでしょうが、ピムリコにはエズミーが、カムデンにはトムが住んでいます♡)
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これを読んでダッシュが部屋でじっとしてられると思う? 彼は宝探しが大好きなのよ。しかも、彼がこよなく愛する本屋さんだからね。私たちの関係は二年前のクリスマスシーズンに、〈ストランド書店〉での宝探しから始まった。赤いモレスキンのノートに、交互に手がかりを書き残すことで、二人の距離を縮めていったのよ。今年はその原点に立ち返ることにしたの。英国風のアレンジを加えてね。感謝祭の直後に、私は国際郵便でダッシュ宛てに手作りのアドベント・カレンダーを送ったの。アドベント・カレンダーは英国の伝統だけど、私にとっては新しいクリスマスの伝統だから、とってもわくわくしたわ。私は未知の伝統に触れるのが何よりも大好きなの。こういう伝統があるから、イギリスって素敵なのよね。12月1日に始まって、12月24日に終わるアドベント・カレンダーには、バリエーションが無限にあって、その作り方も十人十色だから、それは一大プロジェクトだったわ。アイデアを得ようと、〈ピンタレスト〉を覗いたら、たくさんの人がいろんな手芸品を作ってるから、リサーチに丸々一週間も費やしちゃった。おかげで、完成した作品には満足してる。
私がダッシュのために作ったアドベント・カレンダーは、木製の本の収納ボックスを土台にしたもので、まず最初に大きな扉を両側に開くと、24個の小窓が現れて、それぞれの窓には1~24の数字が書かれているの。それを毎日一つずつ開けていくと、日ごとに小さなプレゼントが彼の目の前に姿を現すってわけ。ほとんどの小窓には、クリスマスの大きな靴下に詰め込まれているような、典型的なプレゼントを入れておいたわ。履く用の靴下とか、紅茶とか、チョコレートとかね。それ以外にも、こんな感じで個人的な贈り物も忍ばせておいた。
12月1日 ー 〈プレタ・マンジェ〉のクーポン券を50ポンド分。ダッシュはイギリスの〈プレタ・マンジェ〉が気に入ったみたいで、ランチによく行っていて、〈チェダーチーズとチャツネケチャップのサンドイッチ〉がやみつきになっちゃったんですって。ニューヨークにも一応〈プレタ・マンジェ〉の支店はあるけど、彼が言うには、「本場の味は格別」だそうよ。
12月5日 ー 今年のクリスマスシーズンの大ヒット映画『サイボーグ・サンタ』(3D)のチケット。さっそくダッシュは見に行って、すぐに感想を送ってくれたんだけど、「さすがにサイボーグ・サンタはなかなか死ななかった」ですって。
12月8日 ー 無制限に使える〈添い寝券〉。ダッシュはこんな陳腐な券を差し出して、「添い寝して」なんて言う人じゃないってわかってるから、この券を目の当たりにした時のダッシュの表情を思い浮かべるだけで、私はクスクス笑っちゃう。きっと私に添い寝してもらいたくて、身もだえしたわ。
12月14日 ー 私の個人的なUSBメモリー。中には私の飼い犬のボリスの写真集が入ってる。このために、ダッシュのお気に入りのスポットを回ったのよ。ストランド書店、プロスペクトパーク野外音楽堂、ニューヨーク公共図書館...そういう場所で、ボリスに「ポージング」を取らせて、写真を撮ったの。ボリスはブルマスティフという犬種の、ブルドッグを大きくした感じの犬で、クリスマスの衣装なんて着たがらないんだけど、私がなんとか説き伏せて(犬でも、心を込めて語りかければちゃんと通じるのよ)、この写真集のためだけに特別に着させたの。
12月17日 ー トルーマン・カポーティのレゴ・ミニフィギュア。
今日 ー 〈ドーント・ブックス〉への招待状。アドベント・カレンダーの21日の小窓にこのプレゼントを入れた時の私の意図は、マークから聞いたロンドンのイベントにダッシュを招待すれば、本好きの彼なら喜んでくれるはず、という感じだった。その時は気づかなかったけど、ダッシュにとって本当のプレゼントは、私が彼の目の前に現れること、なのよね!
午後6時15分。
マークの新妻ジュリアが、レジのところにやって来て、私たちに「そろそろ始めるわね」と言った。
「もう少し待ってもらってもいいですか?」と私は彼女に尋ねた。「もうすぐ彼が来ると思うから」
「わかったわ。きっと地下鉄が遅れてるのね」とジュリアは、懇切丁寧な口調で言った。「あと数分時間を稼いでみるわね」
彼女の声には若干、戸惑いの色が浮かんでいた。自信家の彼女らしからぬ弱々しい声色だと思った。彼女はダッシュが来るかどうかを気にしているのではなく、彼女が取り仕切ることになっている〈宝探しゲーム〉のことが気がかりなんでしょう。昨夜、ジュリアとマークの部屋を訪ねて、泊めてもらった際に、一通りの段取りは聞いていた。彼女が自ら立案して、細かく計画を立てたイベントだから、彼女は緊張しているんでしょう。というか、私も緊張してきちゃった。
いとこのマークはニューヨークの〈ストランド書店〉で働いていたんだけど、一年前、休暇を取ってイギリスへ旅行に行ったの。その時の目的地の一つがロンドンの〈ドーント・ブックス〉で、〈ドーント・ブックス〉は特別に魅力的な書店だと聞かされていたみたいで、一度は行ってみたかったんですって。彼はその内装にうっとり見とれてしまったと言っていた。実際、私もここに来てみて、彼が言うほどではなかったけれど、たしかに、とは思った。〈ドーント・ブックス〉のメアリルボーン店は、エドワード朝様式の3階建てで、オーク材のバルコニー、青みがかった色の壁、温室のような太陽光を集める天井、ステンドグラスの窓などを備えた音楽学校みたいな場所だった。そこで、彼はジュリア・ゴードンと出会った。ジュリアはジャマイカ人のロンドンっ子で、ユダヤ教徒でもある。彼女はケンブリッジ大学で英文学の博士号を取った後、〈ドーント・ブックス〉の販売促進部で働いている。彼女がマークをロンドンに呼び寄せたのか、マークが彼女に結婚を迫ったのか、いずれにしても、私はいまだに彼が結婚したことが信じられない。私だけではなく、親戚中が信じられずにいる。
ジュリアはいつか文学をめぐるようなビジネスを始めたいと夢見ている。一方で、彼女は〈ドーント・ブックス〉で働きながら、せっかくのクリスマス休暇なのだから、どうにかしてお客さんを集めたいと企画を練っていた。そうして彼女が立案したのが、〈ドーント・ブックス〉始まって以来、初のイベント「愛書家チャレンジカップ」だった。ダッシュがアドベント・カレンダーの指示通りに来てくれれば、彼も参加することになるんだけど、ちゃんと来てくれるかしら? それと、私はジュリアの計画がしっかり機能するかどうかも心配。私の頭はまだちょっと時差ボケが残っているんだけど、それにしても、なんとなく彼女の計画には絵空事のような、現実味に欠ける印象を抱いてしまう。―私はアカデミックな家庭で育ったから、そういう人種には敏感に反応するのよ。ジュリアも、うちの親みたいに、頭はいいんだけど、実行性に欠けるアイディアにばかり思いをめぐらせているんじゃないかしら? 彼女から「愛書家チャレンジカップ」の詳細を聞いた時、私はすでに計画の穴というか、彼女の考えが及んでいない部分がいくつかあることに気づいていた。例えば、今日ロンドンに外国の要人が訪問することになっていないか? もしそうだったら、交通規制があったり、大規模な抗議デモがあったりして、地下鉄やこの辺りの道路にも影響が出るはず。あるいは、今日はロンドンの「サンタコン」の日ではないのか? そうだとすれば、大通りはサンタの格好をした人たちでごった返していて、歩行者がなかなか目的地にたどり着けない状況が生じているかもしれないわ。他にも、お客さんの気まぐれ、天候...私はニューヨークで犬の散歩のビジネスをしているから、こういう現実的なことを常に考えているのよ。ジュリアは本の中の住人だから、実際的な問題にはそれほど対処する必要がないんでしょうけど、本の外の私たちは、こういうこまごまとした事に心を砕いているの。とはいえ、私は彼女の起業家になりたいという野心を支え、応援したいと思ってる。ママが私の野心を支え、応援してくれているようにね。
「客の出足はよかったじゃないか」とマークが誇らしげに、新妻に向かって言った。ジュリアはほっとした表情をしている。彼女はソーシャルメディアを使って、このイベントの告知を拡散していたけれど、それにしたって、クリスマス直前で忙しいこの時期に、〈本探し〉に来る人が本当にいるのかどうか、ふたを開けてみるまでは、彼女自身も含めてみんな半信半疑だった。
店の中央、指定された集合場所には、ざっと見た感じ、20人ほどの人が集まっている。その時、私の心臓が、はっとした。ダッシュがいたからではなく、一組のカップルに私の記憶がビクンと反応したのよ。女性の方はヒジャブという、イスラム教徒の女性がかぶるスカーフを頭に巻いている。―エメラルドグリーンが鮮やかなシルクのスカーフで、ダッシュが私に送ってくれたオックスフォードでの集合写真にも、同じような素敵なヒジャブを頭に巻いている女性がいたから、ピンと来た。さりげなく二人を観察していると、彼女が彼氏らしき男性にこう言った。「オリヴィエ、私たちチーム・ブレーズノーズは、絶対に優勝するのよ」やっぱり! ブレーズノーズというのはオックスフォード大学の校舎の名前で、ダッシュが学んでいるところだから聞き覚えがあった。彼氏が彼女を見つめて、にっこりと微笑みかけた。ダッシュは私にそんな甘い微笑みを投げかけてくれたことはない。「アズラ、俺に任せておけば、もう勝ったも同然だ」と彼は、急に意識を集中させるかのように、キッと表情を引き締めて言った。
え、えぇーー、まじーーーーー!!!!!!!!
その二人は、オリヴィエ・ワイス・ジョーンズとアズラ・ハトゥンという、ダッシュのクラスメイトだった。彼はオックスフォードがあまり好きではないらしく、事あるごとに二人の名前を出しては、愚痴っていた。ダッシュにとって、彼らはオックスフォードの嫌いな面を象徴する二人なのよ。
イギリスの大学はアメリカの大学とは大きく異なっている。科目は専攻する対象ではなく、「読む」対象らしい。試験は「受ける」ものではなく、試験のために「じっと座っている」ものらしい(真っ黒なアカデミック・ローブを身にまとってね!)。1年生はフレッシュマンではなく、「フレッシャーズ」。大学では一つの科目だけを履修し、それ以外の分野は何も勉強しない。一年間を二つの学期に分けるのではなく、8週間ずつ三つの学期に分けている。それぞれの学期には、「ミカエルマス」、「ヒラリー」、「トリニティ」という、魔法学校?と思っちゃうような響きの名前が付けられている。(もちろん、イギリスは、イギリス国教会というキリスト教を中心にした国だから、一年間の分け方もイギリス人には理にかなっていて、お金をポンドという、重さと同じ単位で呼んでいることとも関係があるんでしょう。)イギリスの大学は基本的に複数のカレッジの集まりで、ホグワーツ魔法魔術学校の寮が「ハッフルパフ」とか「レイブンクロー」とかに分かれているように、それぞれのカレッジには独自の特色があるみたいで、そういうのはなんかいいな、と思っちゃう。ダッシュが応募したのはブレーズノーズ・カレッジで、彼は古典をひたすら「読む」学科に入学したのよ。なぜ彼がブレーズノーズを選んだかというと、そこの寮が一人部屋だったからで、ダッシュはルームシェアが嫌いなのよね。ただ、彼からすると誤算だったのが、彼があまり近づきたくないタイプの学生たちが、部屋から一歩出ると、そこら中でうろうろしている、ということだった。中でもオリヴィエ・ワイス・ジョーンズとアズラ・ハトゥンは、ブレーズノーズ内で大きな力を持つカップルで、ダッシュは彼らのことを、「ドラコ・マルフォイとフラー・デラクールが付き合ってるみたいだよ」と、ハリーポッターの登場人物に喩えていた。
私はダッシュがここには来ない方がいいかもしれない、と思い始めていた。
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「明日、文学の試験がある」と言う場合、
アメリカでは、Tomorrow I’ll take a literary exam.と言って、
イギリスでは、Tomorrow I’ll sit for a literary exam.と言うそうです。
もちろん、takeを使っても通じるし、
Tomorrow I’ll have a literary exam.と言ってもいいわけだけど、
イギリス人は、sit forという表現を「好む」みたいです。
たぶんそれは、試験中じっと座って、黙々と読んで解く、というイメージが強いからでしょう。
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同時に私はもどかしい気持ちにもなってきた。私以上にダッシュのことをよく知っている人なんていないと思う。彼が文学的な挑戦状に見向きもしないなんてありえないのよ。彼はそれくらいの文学オタクなんだから。だからこそ、私は彼のことがこんなにも好きになったんだし、もう2年も付き合っているのも、そういう彼だからよ。私がこうして近くまで来てるっていうに、彼のセンサーはビビビッと反応しないのかしら? 彼の最愛の人がどれだけ多くのことを犠牲にして、この素晴らしいクリスマスのサプライズを届けるためにはるばるやって来たのか、感じないの? この時期は一年で一番の繫忙期で、犬の散歩も稼ぎ時だっていうのに! 私は兄のラングストンに、私がいない間の仕事の埋め合わせを任せてきたんだからね! 私は犬をしつけるみたいに、できるだけ多くの訓練を兄に施してきたけれど、それでもまだ心配で仕方ないわ。私がニューヨークに帰った時、一気にお客さんが減っていないか、ちゃんとまた私に犬の散歩を頼んでくれるかって心配なのよ。
禿げた男が私のところにやって来た。中年のおじさんといった外見で、レインコートを着ている。外は雨でも降ってるのかしら? 彼が私に言った。「もしよろしければ、あなたと一緒に写真を撮ってもらえませんか?」
隣にいたマークが怪訝な目で彼を見た。マークは過保護すぎるってくらい、いつも私のことを心配してるのよね。「なんであんたが彼女と一緒に写真を撮る必要があるんだよ?」
その男が言った。「あなたは犬の散歩をしているリリーですよね?」
私はうなずいた。そういうことか、と私は状況を把握した。こういうことってたまにあるのよね。犬好きで有名な凄いフォロワー数のインフルエンサーが、私のアカウントを紹介してくれて、私のフォロワー数も爆発的に上がっちゃって、最近では『Dog People』という雑誌の取材を受けるまでになっちゃったのよ。目の前の男性が手に持っているその雑誌の最新号には、犬のインフルエンサー、通称「ドッグフルエンサー」のトップ10という記事が載っていて、私も10人の1人に選ばれたの。私は前から自分のサイトで犬の手芸品を販売してたんだけど、急にたくさんの人が買ってくれるようになったから、びっくりしちゃった! たぶん雑誌を見た人たちだと思う。
マークは渋い表情をしながらもスマホを受け取り、私とその男性のツーショット写真を撮った。写真を撮り終えると、彼が私に聞いた。「〈犬のサポーター世界教育会議〉のためにロンドンに来たんですか?」
「できれば参加したいんだけど」と私は曖昧に答えておいた。私の帰りのチケットは12月26日の早朝のものだった。クリスマスの前の週は忙しいとはいえ、なんとか私抜きでも回るかもしれない。だけど、クリスマスと新年の間の一週間は、犬の散歩ビジネスにとって繫忙期中の繫忙期で、私がいなければとうてい仕事が回らなくなってしまう。つまり、ロンドンで開催される世界最大級の〈犬のサポーター世界教育会議〉の日には、私はもうここにはいないんだけど。
まだダッシュにも私の両親にも話していないことがあって、うっかり口を滑らせてしまわないように気をつけた。その〈犬のサポーター世界教育会議〉を主催しているのは、ペンブローク・ケイナイン・ファシリテーター・インスティテュート(PCFI)という犬の専門学校で、実はその学校から私は入学の誘いを受けてるのよ! PCFIは、犬関連の学校の中のハーバード大学みたいなもので、要するに世界でトップの学校なの。今回ロンドンに来たのは、もちろんダッシュに会うためなんだけど、PCFIがあるロンドンがどんな場所なのか、私がここを気に入るかどうかを確かめるっていう目的もあるわけ。私はバーナード大学への入学を1年遅らせたわけだけど、そのことで両親はすでにカンカンだから、その上、ロンドンの犬の学校に行くなんて言い出したら、殺されかねないわ。さすがに殺されはしないとしても、親はこう思うでしょうね。大学へ行って勉強するのが嫌だから、PCFIに行こうとしてるんだって。
まあ、そういう面もあるかもしれないわね。
午後6時20分。
「そろそろ始めないとだわ、リリー」とジュリアが言った。「ごめんなさいね」
彼はどこへ行っちゃったの? 「わかったわ」と私はイライラしながら言った。このイベントにやって来たダッシュが私を見つけた瞬間、彼がどんな顔をするのか。私はその瞬間を胸が高鳴るくらい期待していたっていうのに、彼は面倒だと思ったのか、姿を見せなかった。メールで「いったいあなたはどこにいるのよ?」と聞いてしまおうかとも思ったけれど、せっかくのサプライズを台無しにしたくはなかったので、それはやめておくことにした。
ジュリアがマイクを通して、集まったお客さんたちに話しかけた。「みなさま、本日はお越しいただきありがとうございます! 私はドーント・ブックスのマーケティング・マネージャー、ジュリア・ゴードンと申します。以後お見知りおきを。このイベントは本書店初の試みですが、できればこれから毎年開催したいと思っております。それでは、ドーント・ブックス主催、〈愛書家チャレンジカップ〉の開幕です!」
誰も、うんともすんとも言わなかった。「なんでみんな歓声を上げないの?」と私はマークに小声で聞いた。
「イギリス人は歓声なんか上げないよ。それはアメリカ人のすることだ」
「でも、サッカーには熱狂するんでしょ?」
「そうだな、サッカーの試合の日はテレビ画面に向かって歓声を上げる。ただ、大抵の場合、試合が始まる前にすでに大量のビールを飲んじゃってるからな」
ジュリアはiPadを上に掲げながら続けた。「みなさまのチーム名はここにリスト化されています。順番にチーム名を読み上げますので、チーム名が呼ばれたら、参加確認のため、代表者は私にメッセージを送ってください。そうしましたら、最初の手がかりをお渡しします。その手がかりをヒントに毎回、目的地を見つけるわけです。それぞれのスポットでは、雑学的なクイズも用意されていますので、それに答えられた場合、ボーナス点が付与されます。一つミッションが達成されるごとに、新たな手がかりをチームリーダーに送ります。そして、最終問題は23日の朝に送信されることになります。各目的地でのメンバーの評価値に基づきまして、私がこのiPadで得点を集計し、クリスマスイブに最も得点の高いチームが優勝、惜しくも二番手となったチームが準優勝となります。その2チームには、それぞれ獲得したポイント分の〈ドーント・ギフトカード〉が贈呈されます。それではみなさま、幸運を祈っております! 本イベントにご参加くださり、誠にありがとうございました」
マークが声を上げた。「それと、もう一つ!」
ジュリアがわずかにため息をつき、言い足した。「もう一つあります。私の夫はアメリカ人なので、アカデミー賞とかグラミー賞とか、授賞式を見慣れているんでしょうね。彼がどうしても形として残る賞品を、と言うものですから...」
マークはミステリー本が並べられたテーブルの下から何かを引っ張り出し、ジュリアがお客さんに向かって挨拶しているところへそれを持っていった。それは私の犬よりも大きなトロフィーだった。ボリスはかなりの大型犬なんだけど、ボリスよりも高さがあって、形は典型的なトロフィーカップではなく、本を何冊も積み重ねたような独特のデザインをしていた。「これがドーント・ブックス愛書家カップです!」とマークは、オスカー像を誇示するような気迫で言った。しかし、誰からも拍手喝采は起きなかった。
私は心の中ではマークを応援していた。やっぱり、トロフィーは欠かせないでしょ! イギリス人のお客さんたちは一向にそれを手に入れたいというそぶりを見せない。あるいは、内心では闘志を燃やしているのかもしれないわね。わざわざ他の人に闘志を見せびらかして何になるんだ? とか思ってるのかしら。
ジュリアが最初の手がかりが入った封筒を各チームに配っている。私が一人で突っ立っていると、マークが同様の封筒を持って私のところにやって来た。それは私とダッシュのための封筒になるはずだったものだ。私たちは〈チーム・ストランド〉を名乗ろうと思っていた。「今回の宝探しは俺とお前で組むしかなさそうだな、リリー」とマークが言った。
彼が封筒を開けて、最初のヒントを読み上げる。
ヒースの近く
水浴びをする人が池を見つける場所
水の中に名前が書かれた者が眠る
「簡単すぎだな」とマークが言った。
「そうね」と私は言った。私にはそのヒントが何を意味しているのか、さっぱりわからない。そうね、と言ったのは、15分ほど前にマークが言ったことに対してだった。「やっぱり、ダッシュを驚かせようなんて、こんなことするんじゃなかった」
私はいとこが大好きよ。だけど、こうして海を超えてはるばるやって来たのは、恋人と一緒に宝探しをするためなのよ。マークとじゃないわ。
私は何ヶ月も待ち望んだのよ。ダッシュのだらしないぼさぼさの髪と無精ひげが見たかったの。彼のしかめっ面も。黒のスキニージーンズを穿いて、この時期の彼が好んで着る素敵なセーターに身を包んだ彼に、会いたかった。私は自分自身に言い聞かせる。クリスマスはまだ終わったわけじゃない。こんなの大したことないわ。そのうちダッシュに会えるわよ。でも、全部間違いだったのかしら―
突然、店の入口の扉が勢い良く開いた。つかつかと店内に入ってきたのは、ファッションショーのような派手なドレスを着た年配の女性で、リードにつながれた猫を連れている。うっ。猫派の人は苦手なのよね。「遅れてしまったかしら?」と彼女が、堂々としたブリティッシュアクセントで聞いた。ただ、どことなくわざとらしさがあり、本当はニューヨークのブルックリン区、シープスヘッド・ベイ辺りの出身なんだけど、ブルックリンなまりを隠すために、長年はきはきと英国発音を心がけてきた、といった印象も受けた。彼女に続いて、エレガントなスーツに身を包み、シルクハットを被った紳士が店内に入ってきた。彼は大きく手を振りかざすようにして帽子を取ると、その帽子を彼女の方へ傾けた。「いいえ、そんなことございませんよ」と彼が彼女に言った。「世界はいつまでも、あなた様を待っておられます」
その紳士はダッシュだった。ダッシュ! 私の愛しい人! 彼の長かった髪はきれいさっぱり切られ、整えられていた。ひげもちゃんと剃ってあり、にこやかに微笑んでいる。
えっ。なんですでに笑顔なの!? 私が誰よりもよく知っていると思っていた人は、どこ行っちゃったの? そこには、私が全く知らない彼がいた。
2
ダッシュ
12月21日
これは、何かを失い、何かを見つけ、次に何をすればいいのかを考え続けた少年の物語である。
ことの始まりは、かなり奇妙ないきさつなのだが、子供用Mサイズのトレーナーだった。
僕は当時7歳か8歳で、学校から帰宅すると、おやつを求めて真っ先にキッチンへ向かった。すると、キッチンテーブルの上に何やら箱が置いてある。箱には切手が何枚も貼ってあって、切手に描かれた肖像は、名前までは知らなかったが、どこかの国の女王様だという認識はなんとなくあった。彼女の顔の上に消印が押され、長旅で少し擦り切れてはいたけれど、彼女の威風堂々とした表情は全く揺らいでいなかった。僕はそのことに感心しながら、小包をさらによく見た。そこに僕の名前が書かれていることに気づき、僕は驚きと興奮で胸がいっぱいになった。つまり、この箱は僕へのプレゼントってことだ。
「それはおばあちゃんからよ」と母親の声がした。振り向くと母親がキッチンの入口に立ち、僕の様子を見ていた。母親の言い方に喜んでいる感じはなく、むしろ驚いているような声音だった。
僕のまだ若く、柔らかな頭は、瞬時に祖母の面影を探した。ヒューンと飛んだ思考が着地したのは切手の上で、それから少なくとも数年間は、僕の祖母のイメージは切手のクイーンの肖像画と合致することになった。彼女は父方の祖母で、僕は直接会ったことがあるのかどうか、あったとしてもまだかなり小さい頃だったらしく思い出せなかった。僕の母親が彼女について言っていたのは、僕の理解の到底及ばないような不思議な話で、彼女は石(stone)と恋に落ちてしまい、いたたまれなくなって祖父と別れ、イギリスに渡ったということだった。僕の母親がママ友たちと雑談している時に、小耳に挟んだだけなので、幼い僕にはその意味がよくわからなかったし、その場に父親はいなかったので、聞くわけにもいかなかった。石を好きになったまでは良かったが、結局、石とは結婚できなかったらしい(この部分は僕にも、そりゃそうでしょ、と納得がいった)。ただ、彼女がロンドンに引っ越すくらいの大きな理由にはなったようで、僕の母親の言葉を借りれば、彼女はそこで「新しい人生」を始めたそうだ。それからも数年間、その話が出るたびに、母親は「石の中の誰?」と周りの人たちに聞かれ、「さあ、そこまでは知らないわ」と答えていた。僕が中学に上がる頃、母親が誰かとまた祖母のことを話している場面に遭遇し、ようやくそれまでの謎が解けた。彼女が恋したのはストーン(石)ではなく、ローリング・ストーンズだった。その中の一人のメンバーを熱狂的に好きになった彼女は、彼を追いかけて、海を渡ってしまったのだ。
彼女は毎年、僕の父の誕生日には電話をかけてきた。父は、自分の親との会話なんてそんなものかもしれないが、気乗りしない感じで少し話した後、受話器を僕の母へと渡した。それから受話器が僕へと回ってくるのだが、僕は何を喋ればいいのかさっぱりわからず、いつも彼女が一方的に話すのを聞いているだけだった。
彼女は僕が生まれた時にも、おもちゃやぬいぐるみを買ってくれたらしい。後になって、彼女が赤ん坊の僕を両腕で包み込むように抱いている写真を発見した。この写真は家の目立つところに飾られていたわけではなく、僕の赤ん坊の頃のアルバムを引っ張り出し、見つけたものだった。ついでに両親の結婚式のアルバムも引っ張り出して、めくってみた。そこには、ピンクのペイズリー柄のドレスを着た祖母が写っていた。彼女は満面の笑みを浮かべて、自分の息子の門出を祝っていた。(その時には、祖父には新しい妻がいたのだが、祖父も新妻も、その結婚式には参加していなかった。当時の彼はゴルフに明け暮れ、あちこちのカントリークラブを飛び回っていて忙しかったというのもあるし、自分の息子が妻選びに賢明な選択をしたのかどうか、漠然とした不信感を抱いていたからでもあった。)
それまで彼女から僕宛ての小包が届いたことは一度もなかった。しかも、そのタイミングが(僕の誕生日に近かったわけでもないので)、余計に僕の興味をそそった。彼女は梱包用のテープを惜しげもなく使い、頑丈に箱をくるんでいたので、母がナイフで手伝ってくれないと、僕の力だけでは開けられなかった。その小包が海を越えて旅してきたという事実が、いっそうそれを魔法の小箱のように思わせた。その中身は、僕の期待を裏切らないものだった。―箱の中には色々入っていて、がっかりする隙を与えなかった。まず、キャドバリーのチョコレート。それは僕が味わったことのない種類の甘さだった。それから、ロアルド・ダールのペーパーバック版の本が何冊か入っていた。『チャーリーとチョコレート工場』はすでに家にもあったけれど、アメリカの本とは表紙の絵が全然違った。トラックのおもちゃも入っていた。僕はずっとローリー(Laurie)という名前のトラックだと思っていたのだが、後になって母が、イギリスではトラックのことをローリー(lorry)と言うのよ、と教えてくれた。サンデー・ガーディアン紙のアート欄にくるまれたものもあり、その新聞紙を開いてみると、中には赤いフェルト帽が入っていた。タグの表示から、イギリスの最北端に住む〈くまのパディントン〉が被っている帽子だと明らかになった。そして箱の底には、オックスフォード大学の紋章が胸に描かれたトレーナーが入っていた。さっそく着てみると、僕の体にぴったりだった。
そのトレーナーにはメモ用紙がピンで留めてあった。
気に入ってくれたかしら、全部あなたへのプレゼントよ。
特に理由はないんだけど、受け取ってね。
愛を込めて、おばあちゃんより。
僕はうっとりとした心地になり、すっかり魅了されてしまった。
帰宅した父に、祖母から小包が届いたと言うと、父は「冗談だろ?」と怪訝な表情をしていた。
母に「お礼の手紙を書きなさい」と言われ、僕は全力で丁寧な字を心がけて、手紙を書いた。こうして、10年以上続くことになった僕たちのやり取りが始まった。忘れた頃に不意をつくようなタイミングで祖母から小包が届き、中には季節もののプレゼントの他に、決まってキャドバリーのチョコレートと、何冊かの本が添えられていた。僕は返事の手紙に、ほんの少しだけ、おまけ程度に自分の生活について書き、それよりもはるかに多くの分量を彼女が送ってくれた本の感想に割いた。これが僕たちの通信のやり方だった。それ以上のことを必要としない関係は、双方にとって、気軽で心地よいものだった。
その間に、僕のオックスフォード幻想が始まった。それは僕にとって文学的なユートピアであり、向学心のある子供は周りから軽蔑されるような世界で、僕の目指すべき場所を示してくれる灯台だった。クラスメイトたちは僕を見下し、あざ笑ったが、そんな時はいつでも、「オックスフォード」を夢見ていた。そこにはきっと、僕を正確に理解してくれる人がたくさんいるはずだ、と。僕の両親が、私たちの融合したDNAは、なんでこんな博識ぶったひねくれた子供になっちゃったんだろう? とでも言いたそうな、裏切られたような顔で僕を見る時にも、僕は親身になってくれるオックスフォードの教授たちを思い浮かべていた。僕がいくら知的好奇心が強くても、彼らなら、謎の子供を見るような眼差しを向けることなく、ちゃんと僕を解ってくれるはずだ、と。
ここより素敵な場所が存在することを知ってしまうと、副作用として、どうしてもそこへ行きたくなり、自分はその門をくぐる資格があるのか、それに見合うだけの優秀な学生なのか、と絶えず懐疑心にさいなまれるようになる。もし深い洞察力に裏打ちされた分析のつもりで僕が何かを言っても、それが単なる長ったらしい知識のひけらかしだったとしたら? もし僕がいくら適切な本を読み、古今東西の優れた思想家を概観したとしても、僕自身に正しい言葉をつなぎ合わせる能力がなかったら? 本当に大志を抱くことと、大志を抱いているようなそぶりをすることの間には、見えづらい境界線があって、その線は月日を重ねるごとに僕の心の中で不規則に変化した。その変化があまりに予測できないものだったので、僕は自分の立ち位置がその線のどちら側なのかわからなくなってしまった。実際に出願の手続きが始まると、僕は最悪のシナリオを思い浮かべるようになった。―僕が本当の意味で尊敬する教授たちに、今までこつこつと積み重ねてきた独学が認められれば、学校の友達にいくら奇異の目で見られようが、うぬぼれていると思われようが、耐えられる。しかし、もし僕は合格レベルに達していない、とオックスフォードに門戸を閉ざされてしまったら? 僕の精神は壊滅的な事態に陥るだろう。―暗く、不安定な心の中で、僕は最悪の事態を想定していた。
ところが、大変驚いたことに、彼らは僕を招き入れてくれた。
合格がわかった瞬間、僕の隣には母がいて、思わず二人で抱き合い、感極まって二人して泣き出してしまった。これほどまでに母に親近感を覚えたのは初めてだった。数時間後、彼女は僕が遥か遠くの地へと旅立ってしまうことに思い至り、巣立つ雛鳥に取り残される親鳥のような翳りの色が、彼女の興奮の上に覆いかぶさった。それから二日ほどして、僕は父親に報告した。というのも、僕の両親はすでに離婚していて、なかなか父親とは連絡が取れない状況だったからだ。父は自分の人生を歩んでいたし、母と距離を置いているのはもちろんのこと、僕にもあまり連絡をくれなかった。僕は時々、彼の部屋にひょっこり顔を出した。そうすると、彼は父親っぽい態度を見せようと躍起になってくれた。そのぎこちなさが可笑しくて、僕はそれを見に行っているようなものだった。僕がオックスフォード大学に合格したことを告げると、彼は抱擁ではなく、「おめでとう」というシンプルな言葉で僕を祝福してくれた。それから間髪入れずに、学費はいくらかかるのかと聞いてきた。僕が金額を答えると、彼はぶつぶつと煮え切らないようなことをつぶやき、「他にどの大学を受けたんだ?」と聞いてきた。この前一緒に食事した時にも、僕が受けた大学のリストを渡していたのだが、僕はもう一度それを口頭で繰り返した。他の大学では人生に精彩を欠く、という僕の気持ちがあからさまに彼に伝わるような言い方で。
幸運にも、父の友人たちがオックスフォードの価値に気づいてくれたらしい。息子がオックスフォードに合格したと言った時の、友人たちの反応があまりにも好感触だったらしく、父は気をよくしていた。そんな父を見ながら、僕は偉大な詩人たちを思い浮かべていた。自分のふさぎ込んだ気持ちと闘いながら、それを力に変えて、世界を泥沼から引っ張り上げてきた詩人たち。彼らの多くが学んだのがオックスフォードだ。それが僕の認識だった。一方で、父の友人たちのオックスフォードのイメージは、「未来のリーダーたちの学び舎」というものだった。父も、彼の友人たちの話に影響を受けていたので、僕はその追い風に乗ることにした。詩人ではなく、「未来のリーダーになれる」路線で、僕は父親に手厚くこびを売るようにアプローチをかけた。その結果、父も母もあちこち個人的なツテを駆けずり回り、普段の彼らでは考えられないような必死さで交渉してくれたようで、なんとか学費の問題は解決した。
実際に夢が現実のものとなり、僕はそのことをリリーに話した。僕たちは二人ともニューヨークに残るものと想定していた。―彼女はバーナード大学に、僕はコロンビア大学に合格していたからで、どちらの大学もニューヨーク市内にあるので、一緒に大学時代を過ごすつもりでいた。それを僕はぶち壊してしまった。でも、僕たち二人の未来まではぶち壊しにしていない、そう思いたかった。
僕は彼女をニューヨークの〈エレファント&キャッスル〉に連れて行き、スコーンケーキと紅茶を挟んで、オックスフォード大学に行くことを伝えた。〈エレファント&キャッスル〉はロンドンの地名から取った名前のレストランで、店内もメニューも英国風だった。そんな雰囲気で話したからか、彼女はさほど驚いた様子を見せなかった。むしろ彼女が自分のことのように喜んでくれたから、僕は感激してしまった。オックスフォードが僕にとってどれほど価値があるのかを彼女はわかってくれている。僕の人生でそこまで僕を理解し、喜怒哀楽をともにしてくれる人は他には誰もいない。
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ハッシュタグ、スコーンケーキ&紅茶←ハッシュタグってカタカナだっけ?爆笑
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「あっちで会えないかな?」と僕は聞いてみた。
「きっと会いに行くわ」と彼女は約束してくれた。僕は僕自身の言葉にはそこまで信頼を置けないけれど、彼女の言うことなら信じられる。リリーはいつでも約束を守るから。たとえ約束を守るためには、世界を背負って時間をねじ曲げる必要があってもね。
遠距離恋愛は大変だということはわかっていた。デジタルなやり取りに嫌悪感を抱いている僕にとっては、ことさらそうだろう。僕たちの関係の下にはしっかりと愛の炎が燃え続けていることを確かめるために、メールやFaceTimeには頼りたくなかったし、お互いの投稿の下に気の利いた甘いコメントをいちいち書くなんてありえなかった。
「僕は君にこうして直接会っている時が、一番君を好きになれるんだ」と僕はリリーに言った。それは真実だった。僕はリリーに手紙を書くことを約束し、彼女がバーナード大学に入学するまでには、つまり僕が2年生になるまでには、一緒にヨーロッパを旅行しようと提案した。僕もなんとか時間を作るから、と。僕は畑にオート麦の種をまくみたいに、いろんな女の子と手広く付き合うつもりはなかった。僕の畑はリリーだけだし、僕のオート麦の種は彼女が全部持っていた。彼女は僕の新しい生活サイクルに完全にはフィットしなかった。ただ、それは今に始まったことではない。彼女は僕の以前の生活スタイルとも呼応していなかったし、まさにそのちぐはぐさこそが、僕たちの関係の美しいところなのだ。お互いの生活がぴったり適合するかどうかに、多くの人がとらわれすぎている気がする。きっと愛は生活のフィット感とは別次元にあるんだ。必要なのは、繋がりを作るために、工夫して生活の方を変えること。僕たちは出会った時から似たような関係だったじゃないか。だったら、きっと今回もできる。
最初は精神的にきつかった。僕は寮の部屋でひとりぽつんと座って、〈デス・キャブ・フォー・キューティー〉というロックバンドの『Transatlanticism - atlantic(大西洋)を越えて』(同名のアルバムではなく、この一曲だけ)を繰り返し聴いていた。
I need you so much closer...(君がこんなにも必要なんだ。僕のそばにいてほしいのに...)
僕はオックスフォードのポストカードの裏に彼女への想いを書き、国際郵便で送った。
I need you so much closer...(君がこんなにも必要なんだ。僕のそばにいてほしいのに...)
僕は彼女の声を聞くために彼女に電話をし、彼女の言葉を聞き、彼女が僕の声を聞いていることに安心感を得ていた。
これは学校が始まって最初の2週間のことだった。それから猛烈に、容赦なく、オックスフォードが僕の生活を乗っ取っていった。
ポストカードに描かれている光景に、僕はずっと憧れていた。あのトレーナーを着た日から、オックスフォードへの好奇心を膨らませていった僕の頭の中には、ずっとこの風景があった。青々とした芝生、学び舎の洗練された大聖堂。ゴシック建築の屋根にはガーゴイルの守護神がいて、開校以来ずっと、古びてはいるが威厳に満ちた鉄の門を見張っている。ブラックウェル書店とボドリアン図書館には、無数の本がぎっしりと並んでいる。天才たちの英知が詰まった本たちは、天才たちに気まぐれに引き抜かれるのをじっと待っている。神が宿っているかのような趣きのあるキャンパス。そんな知識の城塞都市ともいえる大学に、僕はついに足を踏み入れた。しかし、そこはポストカードの中ではなかった。
緑豊かな芝生の上には、ポストカードには写っていなかった人たちがいた。風格のある建物の中は大勢の学生たちでごった返し、図書館の本も手当たり次第に引き抜いていた。古風な門を現代的な学生が次々とくぐり抜け、スマホを耳に当てながら大声で喋ったりしている。そう、僕はそこに生身の人間がいることを考慮に入れていなかったのだ。彼らはコミュニケーションの手段のみならず、思考回路を丸ごとApple社に委託してしまったかのように、懸命にiPhoneに当てた指を動かしていた。
オックスフォードの学生は、他のどの大学の学生よりも洗練されていて、知性に裏打ちされていて、文学に熱中しているのだろう、と僕は勝手に思い込んでいた。
しかし、結局のところ、彼らもまた、どこにでもいる10代と変わらない若者たちだった。
僕は俗世間から逃れたわけではなかった。僕の理想も含めて、俗世間はすっぽりと僕のすべてを飲み込んでいたのだ。たしかに、友達は何人かできた。―親切な人もいたし、寛大な人もいたし、本好きな人もいた。だけど、やっぱり周りには、心が狭くて、群れることを好み、自己顕示欲が強く、自己ブランディングに躍起になっていて、自身のステータスにとらわれがちな、神経質で、感情が不安定で、自己中で、対人関係に政治的な策略を持ち込み、行き当たりばったりで、学問的には見かけ倒しで、会話がつまらないくせに、さりげなく自慢話をする人たちで溢れかえっていた。
言い換えると、夢の場所に辿り着いたと思ったら、そこで僕は苦虫を嚙み潰したような気持ちになってしまったのだ。
大学は厳しい要求を課してきた。自分にはそれをこなせるだけの能力があると思いたかった。詩の授業だけは楽しく受けていたが、他の科目では全力を奮い起こさなければならなかった。授業が終わると、僕は真っ先に教室を出て、寮の部屋に戻り、本を読みたかった。それから夜が更けるまで読書に耽ることができたなら、どれほど幸せだったことか。しかし、隣の部屋のジョンという名の未来の大臣が、僕を飲みに誘ってきた。彼は友人たちを飲みに誘っては、ラガービールを飲みながら、大手を振って熱弁をふるうことを生き甲斐にしているのだ。僕は空気を読んで付いていった。場を白けさせるような人にはなりたくなかった。読書という至福の時間を犠牲にしてまで、僕はアルコールと愛想笑いの祭壇に飛び込んだ。
僕はどんどん寝る時間が遅くなっていった。まるで僕の体内時計がニューヨーク時間に戻ろうとしているかのようだった。僕はリリーにその辛さを正直に話した。ただ、そこは過度に深刻ぶるのではなく、努めてストーリーテリングに徹した。自分の身の回りの出来事について、読み手を惹きつける魅力的なキャラクターに乗せ、語りの推進力を発揮して、面白い物語を語るようにリリーに話した。でも、どうしても語りにどんよりとした暗い影が混じってしまう。それは僕自身の気持ちが乗っていないから? 僕はそれを新入生特有のぴりぴりした緊張感のせいにした。でも、そんな一過性の落ち込みではないことくらい、観察眼の優れたリリーには簡単に見破られたかもしれない。
僕は自分が期待していたほど高みには達していなかった。周りのみんなも、そこまで高みに達しているようには見えなかったが、なぜか彼らはそのことを気にもしていないようだった。
オックスフォード大学への進学が決まった時、僕は祖母に、これからは国際電話ではなく、国内電話で話せることを知らせるために、珍しくプレゼントのお礼以外の手紙を送った。手紙を受け取った祖母から電話があり、いつでも好きな時にウォータールーの私の家にいらっしゃい、と言われた。
「ここはあなたの家からは遠く離れているけど、あなたの家だと思っていいのよ」と彼女は言ってくれた。彼女の発音は、ほとんど磨きがかかった上品なイギリス英語だったが、かすかにアメリカ英語の耳馴染みな響きが、その奥から聞き取れた。
僕は長期の休暇に入ってからロンドンに向かおうと思っていた。しかし、あまりにストレスがかかる生活だったため、オックスフォードの寮に入って3週間後に音を上げ、僕は祖母に電話して、「ちょっと逃げたくなっちゃった。今から行ってもいい?」と聞いた。その日は土曜日だったのだが、祖母は「サタデーナイトは色々忙しいのよね。明日なら空いてるわ」と言った。それで僕は翌日の日曜日の午前中、バスで「都会」へ向かった。ウォータールー駅からテムズ川の南側の土手沿いを少し歩くと、おばあちゃん家のある〈ルーペル・ストリート〉に着くはずだった。僕がロンドンを訪れたのは、これが初めてだったので、何度も道に迷い、同じようなところをぐるぐると回ってしまった。グーグルマップがなければ、おそらく僕はテムズ川に落っこちていただろう。僕はスマホでストリートビューを開き、画面と同じ景色の中、静かな小道に入っていくと、目的地の赤いドアにたどり着いた。約束の時間を15分ほど過ぎていた。インターフォンを押すと、赤いドアが開き、彼女が笑顔で出迎えてくれた。僕の遅刻に気を悪くしてはいないようだった。
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オックスフォード大学は世界ランキング1位らしいです。
ウォータールーのおばあちゃん家をダッシュが訪ねている間、
ピムリコの一室では、エズミーとトムが、ベッドの上でモーニングティーをめぐって会話中なのですが、藍が続きを訳さないから、いつまで経ってもエズミーは飲みたくて仕方ない紅茶を飲めない。可哀想に...
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直接会ってみると、彼女は切手の女王様とは全く違った。強いて言えば、彼女は別の種類の女王様という感じだった。ボヘミアンであることをラプソディー風に表現しているような、いわば派手に着飾った芸術家といった印象を受けた。髪型もスタイリッシュなシャギーヘアーという矛盾めいたスタイルだった。服装は、僕の両親の結婚式で着ていたピンクのペイズリー柄のドレスと同じくらい目を引く、鮮やかな模様の洋服をこの歳になってもなお着ていた。けれど、最も印象的だったのは、彼女がどれだけ僕に似ているかということだった。僕は父にはそれほど似ていないのだが、父を飛び越えて、なぜか祖母とは、不気味なほどそっくりだった。
「あら、まあ」と、ドアを開けた彼女も驚いた表情を見せた。「いらっしゃい。どうぞ遠慮なく上がって」
タウンハウスの中は、いたるところにスピーカーが備え付けられていて、すべての部屋にジョージ・ハリスンの音楽が流れていた。僕は彼女に促されて廊下にバッグを置くと、彼女の後に続いた。彼女は1階と2階をざっと案内し、特にゲストルームは、「あなたが英国にいる間はこの部屋を使っていいわよ」と言って念入りに説明してくれた。リビングに行くと、僕だったら本を並べているだろう棚に、彼女はぎっしりとレコードを保管していた。インテリアはとても今風で、天井からはハンモックのようなカプセル型の椅子がぶら下がっていた。かすかに揺れるその椅子の横に、黄緑色のソファーが置かれている。
ソファーに座ってくつろぐのかなと思ったところ、彼女は僕をキッチンへ連れて行った。年季が入った木製のキッチンテーブルには、遅い朝食が用意されていた。僕たちは紅茶を飲みながら(彼女の紅茶はほんの少しのウィスキーで味付けされていた)、パン菓子や甘いタルトを食べた。食べながら、僕の19年間の人生について大まかに時系列を追って話した。僕の両親の話はどちらからも出なかった。僕は自分のことを話しすぎていると感じ、彼女の方に話を振ると、彼女は一つか二つの事実を明かしてくれた。(彼女は美術関係の仕事をしていて、現時点では特に誰とも付き合っていないということだった。彼女に結婚を迫っている男は何人かいるそうだ。)それから、彼女はもう一度僕の方へ話を押し戻した。僕はオックスフォードについて思っている本心を話してみた。彼女は僕を恩知らずだと叱ったり、自分で困難を乗り越えなさいと𠮟咤激励したりはしなかった。代わりに彼女はこう言ってくれた。「まあ、オックスフォードはあなたに教育の一部分しか与えられないんだから仕方ないわ。残りは私たち家族の役目なのよ」
僕たちは何時間もキッチンで話し込んだ。彼女は僕の話ぶりから、リリーのことが好きだと言った。隣人のジョンに関しては、なんか嫌な感じね、と、こちらも僕の話ぶりから判断した。そうして、最終的に自然と会話が途切れた頃、彼女は言った。「これだけは言わなくちゃね。私はあなたがとても好きよ、ダッシュ。私たちの道がこうして交わってくれて、すごく嬉しいわ」
僕も嬉しかった。感謝の気持ちでいっぱいだった。
いつでもロンドンにおいで、という言葉の招待状を胸に、僕はその日のうちにオックスフォードに戻った。それからも、数週間に一度くらいの頻度で、寮の部屋の壁がどんどん僕に迫ってくるような息苦しさを感じると、僕は祖母を頼ってロンドンへ向かった。祖母は彼女の友人たちに僕を紹介してくれた。美術展や、ロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートや、ウェストエンドの劇場にも連れて行ってくれた。彼女は、宝石を意味する「ジェム」と呼んで、と僕に言った。彼女の友人たちも彼女をジェムと呼んでいたし、僕は彼女に面と向かって「おばあちゃん」と呼んだこともなかったので、すんなりと祖母をジェムと呼べた。彼女は友人や知人に会うたびに、いつも僕のことを自分の孫だと言って紹介していたが、カールという男性に会うまでは、そのことを何とも思わなかった。彼女の友人の一人で、画家だというカールは僕にこう言った。「君が彼女の孫だということが、どれほど大きな意味のあることか理解した方がいい。俺は長年にわたって彼女を見てきたんだ。ジェムは年を取らないと思っていた。なのに孫がいたとはな」
ジェムと僕は、僕の父親の話は一度もしなかったし、僕は父に、たびたび祖母の家を訪れていることを言わなかった。僕の母親が感謝祭の休暇を利用して、僕の寮を訪ねて来た。(母は休暇だったが、オックスフォードに感謝祭の休暇はなかった。)母はロンドンに行きたいと言ったが、僕は学校があり、ジェムに相談すると、彼女は快く母をもてなしてくれた。いわば嫁と姑の関係なのだが、奇跡的に意気投合したようだった。(「前からあなたの母親のことは好きだったのよ。ただ、彼女の男の好みはどうかと思うけどね」という皮肉を利かせた名言をジェムは残した。)感謝祭の前から、ジェムには「クリスマスはとにかくここにいて、家族と過ごさなければならないのよ」と言われていた。僕は、とにかくここにいなければならないんだな、と思った。ジェムに言われたら、何でも受け入れてしまうような感覚だった。あれだけ祖母の悪口めいたことを言っていた母も、ジェムに丸め込まれてしまったのだから、母もその感覚を味わったのだろう。母はクリスマスには旅行に出かけることが多かったのだが、今年は家族と過ごすことにしたらしい。
リリーは残念がっていた。クリスマスにニューヨークに帰れなくなったことを、メールやメッセージのような文字ではなく、肉声で伝えたくて、僕は彼女に電話した。彼女は残念な気持ちを隠そうともせず、彼女の肉声から、本気で落胆しているのが伝わってきた。―僕たちは遠く離れていても、お互いに正直でいられている。信頼関係をちゃんと築けている。そのことに僕はじんわりと感動すら覚え、君の元へ飛んで行くよ、と申し出そうになった。しかし彼女が、「私も家族と一緒に過ごさないといけないから仕方ないわね」と言ったから、僕は反論できなくなってしまった。
僕は彼女がたまらなく恋しかった。その気持ちと僕がクリスマスにここに残るという事実は、矛盾してはいなかった。彼女にそのことを伝え、僕はここでしっかりと自分の足場を築く必要があることを伝えた。オックスフォードは僕の魂をボコボコに叩きのめしていたし、ロンドンがその傷を癒してくれる唯一の慰めだった。ニューヨークに帰ればリリーに会える。ただ、ニューヨークに帰ると、他にもたくさん、やらなければならない義務が僕にのしかかってくる。彼女は理解していると言ってくれた。
数日後、手作りの〈アドベントカレンダー〉が郵便で寮に届いた。彼女はここに来る代わりに、この作品を通して僕を慰めようと、彼女なりに考えてくれたんだ。
同じ寮のジョンとオックスフォードの同期たちは、そのアドベントカレンダーを見て、「かわいい」と言った。―まるでティーカップに描かれている動物の絵を見た時のような、棒読みの形容詞だと感じた。―ジョンの仲間たちは、勉強なんかそっちのけで毎晩のように集まっては騒いでいた。その中心的な役割を担うカップルが、嫌みったらしいアズラ王女と抜け目のないオリヴィエ王子だった。彼らは、影の薄い僕なんかよりもずっと、担当教官に目をかけられていた。
彼らはリリーの作品をおとしめ、僕の気分を台無しにしようとしたのだが、僕はそんな手には乗らなかった。(とはいえ、〈添い寝券〉だけは彼らに見つからないように、靴下を入れている引き出しの奥の奥にしまい込んだ。)僕は8歳の頃にジェムが初めて送ってくれた小包を思い出し、それを再現してリリーに送ることにした。キャドバリーのチョコレート、おもちゃのローリー(トラック)、僕が子供の頃から好きだった文学作品(表紙は英国仕立て)を何冊か、そしてオックスフォードの紋章が入ったトレーナーを買ってきて入れた。理由のない贈り物ではなく、理由のある贈り物。僕はそれを茶色の包装紙で包んで、十字に紐で結び、海を越えて送った。
それから、手厳しい試験期間に突入した。僕がこれまでに経験した中で最も難しい試験の連続だった。試験中、解答用紙に言うことを聞かせるために、僕は目に力を込めて睨み付けていなければならなかった。そうすると目が乾き、僕はまばたきをした。またじっと試験用紙を見つめ、またまばたき。何度も繰り返しまばたきをしていたから、試験が終わる頃には、まぶたがくっつき、瞳孔が塞がってしまったのではないかと心配になった。僕は内臓をえぐり取られたような、げっそりとした顔をしていたのだろう。試験が終わると、真っ先にジェムの家を訪れた僕を見るなり、玄関先で彼女は「あらまあ、可哀想に」と言った。
「数週間は寝込む必要があると思う」と僕は彼女に言った。「年が明けたら、元日の午前0時に起こしてくれない? それまでずっと寝かせてくれないかな?」
「とりあえず4時間、昼寝しなさいな」と彼女は答えた。「ちゃんと計画を立てて起こしてあげるから」
ぴったり4時間後、ドアをノックする音が聞こえた。僕はまだ眠すぎて、「どうぞ」と声に出して言ったのか、そう言おうと思っていただけなのか定かではないが、いずれにせよ、彼女は入ってきた。
彼女は僕の枕元で、「水晶玉で調べてみたわ」と言った。(彼女はスマートフォンのことを水晶玉と呼んでいる。)「今のあなたは気の抜けたシャンパンなのよ。そんなあなたに気力を注入するイベントを見つけたわ。きっと楽しいわよ」
「それって知らない人たちがいっぱい来る?」と僕はうめくように聞いた。
「もちろんよ」
「いやだよーーーー」と僕は、顔を覆い隠していた枕に向かって嘆いた。
「ダッシュ」と祖母はなるべく声を抑えて、諭すように言った。「このままでは、あなたは中途半端な僧侶になってしまうわ。ふさぎ込んでちゃダメ。今夜、あなたはめかし込んで伊達男になるの。私は強情な貴婦人になって、コンビを組みましょう。田舎で起こる数々の事件を解決する代わりに、文学の謎を解くのよ。きっとそれが気付け薬になって、あなたの傷をすっかり癒すわ」
疲れ果てて、眠くて、世界が歪んで見える僕にも、それは僕を安らぎへと誘うせせらぎのように、かなり良い計画のように聞こえた。
「なんかミセス・バジルみたいだね」と僕は思わずつぶやいていた。ミセス・バジルというのはリリーの大叔母さんで、彼女もまた、ここぞとばかりに気の利いた言い回しをぶつけてくるのだ。
「グルーヴィーで、イカしてるわね」とジェムが返した。その言葉に、一瞬かぶって見えたミセス・バジルの残像が払拭された。そこまで高度な若者言葉を、ミセス・バジルは彼女の全盛期にさえ使っていなかっただろうから。「さあ、支度して出かけましょう」
僕は、わかったよ、とうめき声を上げながら、枕の下からちょっと顔を出し薄目を開けた。祖母が頬を紅潮させ、これから挑もうとしている冒険に心躍らせているのが見て取れた。普段は、代わりに大好きなエリック・クラプトンを聴くことで、デヴィッド・シューリスの演技を見ることで、あるいは、ダミアン・ハーストや保守党の悪口を言うことで紛らわしている冒険心がうずくのだろう。
「そう来なくっちゃ!」と彼女は歌うように言った。「私は身支度をしてくるわ。たくさん宝石を身につけるわよ」
すぐに、彼女のお気に入りのアルバム『Red Hot + Blue』が流れてきて、室内の空気を音楽が埋め尽くした。僕はベッドから出て、リリーの〈アドベントカレンダー〉の前まで歩いていった。寮から持ってきた荷物の中で、これだけは眠りに落ちる前に取り出しておいたのだ。今日の日付が書かれた小窓を見て、僕は開けるのを躊躇した。開けないと、中に何が入っているのかわからない。これがアドベントカレンダーの欠点でもある。小窓に入るくらいの小さな物で、リリーの愛情が詰まった何かが入っている。そのご褒美にありつく前に、それに見合った良い行いを、今日僕はしただろうか? まだ夕方だし、ジェムと出かけて、帰ってきてからでも開けられると思った。
次に僕はトイレに行き、(a)電気をつけ、(b)鏡を見る、という致命的なミスを犯した。なんとなく頭ではわかっていたが、実際に目で見ると、その衝撃は半端なかった。オックスフォードで理髪店を探し回るのも億劫だったし、髪を切る時間とか、そういう隙間時間を見つけるのが、とにかく僕は苦手なのだ。しかし、こんなことになっているとは思わなかった。何かの胞子が大量に増幅したみたいなぼさぼさの髪に、伸び放題のひげ。イギリスの映画『輝ける若者たち』の世界から、一気に『ロビンソン・クルーソー』の未開の地へと流れ着いたみたいだ。
「髭を剃る道具ある?」と僕はジェムに呼びかけた。
「どうせだったら、私が髪を切ってお洒落な髪型にしてあげる。久々に腕が鳴るわ!」という声が返ってきた。(こうして彼女が高級サロンで、3年間美容師として働いていたことを知った。)
2時間後、僕は以前の自分にかなり戻っていた。大学に入り、自分をだましだまし、ずぶ濡れになった犬みたいに、がむしゃらに頑張ってきたけれど、風貌はすっかり変わってしまった。それが何とか前みたいに戻ったようで、清々しかった。ジェムのワードローブには、男性用の高級スーツも何着か入っていて、僕の体に見事にぴったりフィットした。(こうして彼女が老舗百貨店〈Liberty〉のブティックで、2年前からコンサルタントとして働いていることを知った。)彼女はシルクハットまで保管していた。かつて付き合っていた紳士が置いていった物らしい。帽子と一緒に彼女まで置き去りにするなんて、到底紳士とは呼べないが。
僕は一旦自分の部屋に戻って、ビシッとスーツを着込んでから、再びリビングに行ってみると、ジェムも着替えを終えていた。彼女は僕のスーツと系統は似ていて、色味をさらに派手にした感じのドレスを身にまとっていた。
「これでお似合いのコンビね?」と彼女が微笑んで言った。
「確かに、エレガントを超えてますね」と僕は彼女を褒めちぎった。
大学がどんよりと暗い葬送曲だとしたら、これはソナタの第三楽章辺りの華やかな音楽だと思った。ジェムが玄関の扉を開けると、馬車が僕たちを待ち構えているのではないか、と半分期待してしまった。実際には、僕たちは地下鉄に乗って、一般の人たちから、気味の悪いものを見るかのような視線を大いに受けることになった。でもそれは、不思議と気分が良かった。リリーに送って見せてあげようと、僕たちは地下鉄内で派手な衣装を着た自分たちの写真を撮ったのだが、地下鉄内は電波が届かず、すぐには送れなかった。ジェムがワードローブから、リリーのためにも同種のドレスを引っ張り出してくれればいいな、と想像した。そして三人で並んで街を練り歩くんだ。実現しそうな予感もあった。
僕たちはメアリルボーンで降りて、〈ドーント・ブックス〉まで王室のパレードのごとく歩いた。僕は〈ウォーターストーン・ピカデリー〉なら、イギリスに来てから何度も行っていたが、同じ本屋でも〈ドーント・ブックス〉は趣きが違った。〈ウォーターストーン〉は、100年前のジャズの時代から現代に出航してきた大型船を思わせた。一方、〈ドーント〉は、さらに数百年時代を遡った感じの概観で、ジェーン・オースティンやチャールズ・ディケンズがふらっと立ち寄って、小説について熱く議論を交わしたり、あるいは一人でじっくりと小説の構想を練るような場所に見えた。
「今夜は誰の朗読会があるの?」と僕はその書店に入る前に聞いた。まだどんなイベントなのかわかっていなかった。
「朗読会ではないわ。本のイベントではあるんだけどね」とジェムは答えた。「あらまあ、あれを見て」
僕たちから数歩離れたところに、首からリードを引きずってはいるが、飼い主の見当たらない猫が歩いていた。
ジェムが身をかがめて、猫に名札が付いているか確認している。僕は聞いた。「イギリスでは、猫にリードをつけるのが当たり前なの?」
「他の国と変わらないわよ。飼い主によるわね」ジェムは首を横に振った。「メスみたいだけど、名前も住所も何も書かれてないわ。なんて不用心な飼い主なのかしら。もしかしたら、飼い主は本屋さんの中かもしれないわね。―外で待たせておくのはかわいそうだから、彼女も中に入れてあげましょう」
僕たちが店内に入ると、すでに人だかりができていて、今夜のイベントはもう始まっている様子だった。いっせいにすべての目がこちらを向いた。―猫を連れていたせい?―ジェムが注目を浴びて気を良くしたのか、そのチャンスを捉え、大げさに貴婦人を気取った。「遅れてしまったかしら?」僕も彼女に合わせ、おどけて執事役を買って出た。「いいえ、そんなことございませんよ。世界はいつまでも、あなた様を待っておられます」
恐怖の試験期間が終わり、自分は本当にオックスフォードに向いているのか、と思い悩んでいた暗雲立ち込める日々を抜け出て、開放的になっていたのかもしれない。僕は空想から降って湧いたようなやり取りに喜びを感じ、有頂天だった。自分がこれからここで何をしようとしているのかはまだわかっていなかったが、それが何であれ、寮の部屋でストレスに押し潰されそうになりながら、神経質に夜を過ごすよりはずっとましだろう、と本能的にわかった。正直、この瞬間が最高で、これ以上楽しい事が待っているとは思っていなかったけど。―観客の反応を見ようと、群衆にざっと目を走らせる。なぜかリリーの顔があって、視線が合った。僕を見ていた。
僕は最初こう思った。こんなことはありえない。僕はまだ昼寝中に違いない。
次にこう思った。これはジェムが仕込んだサプライズに違いない。彼女はマジシャンなんだ。
もし夢ではないなら、仕組まれた計画だろう。でも、もしそうだとしたら、なぜリリーはあんなに混乱した顔でこちらを見ているのだろう?
僕は彼女の元へ駆け寄ると、感情のままに彼女を抱きしめた。
「信じられないよ!」と僕は声を上げた。「君にこんなところで会えるなんて!」
「そりゃ私はここにいるわよ」と彼女は(肯定しながらも)少し小首をかしげ、僕を抱きしめ返した。そして、一旦二人の体を離したところで、彼女は付け加えた。「あなたはひげを生やしてるのかと思ってたけど? 髪も長かったでしょ?」
ジェムの声が肩越しに聞こえた。「誰だったかしら? 私も歳ね。またど忘れしたみたい」
僕はジェムに微笑みかけた。「いつの間にこんなことを? どうやって僕に知らせずに、リリーをここへ呼んだの?」
ジェムが目を大きく見開いた。「この子がリリー!? あらまあ、どうりで思い出せないわけね」
「私は自分で来たのよ」とリリーが言った。「この人はどなた?」
「僕のおばあちゃんだよ!」と僕は彼女に言った。「ジェム、この子がリリーだよ。リリー、こちらがジェム。こんなことってあるんだな。―僕が世界で一番好きな二人が、こうして一つの場所に集まってるなんて、凄すぎる!」
満面の笑みを浮かべているのは僕だけで、二人とも、どこかぎこちなく微笑んでいる。
僕の足に何かが当たる感触があってビクッとしたけれど、足元を見ると、単に猫が頭を擦り付けているだけだった。
「この猫はあなたの?」とリリーが聞いた。
「そこで拾ったんだよ」と僕は言った。「飼い主がこの中にいないかと思って。どなたか、この猫の飼い主はいませんか?」
しかし、誰も名乗り出て、リードをつかもうとする者はいなかった。さっきまで好奇の眼差しで見守っていた人たちがもう飽きたのか、みんなじれったいような表情を浮かべている。そこにもう一人、見知った顔が視界に入ってきた。―リリーのいとこ、僕に対していつもけんか腰のマークだ。そういえば、彼はロンドンに引っ越してきていたんだ。リリーから聞いていたのに忘れていた。
「こいつも俺たちのチームに入るとか、ないよな?」とマークが聞いた。相変わらず、友好的だこと。
「私たちはあなたのチームにぜひとも入りたいわ、リリー」とジェムが、マークのつっけんどんな発言をぴしゃりと否定するように言った。
「ああ」とリリーが戸惑ったように声を上げた。
僕は手を伸ばし、彼女の手を取った。
それでも彼女が決断を下すまでには、もう少し時間がかかった。
3
リリー
12月21日
もちろん、ダッシュには私のチームに入ってもらいたいわ。彼とチームを組むために、ロンドンまで来たんだし。
ただ、このジェムっていう人も一緒?
それはどうだろ。
ダッシュがこうして心から好きだって言える家族ができたんだから、私も喜ぶべきなんでしょうね。今までは、彼が愛する人(ママ)と、義務感からであっても彼が許容している人(パパ)しか、彼には家族がいないと思っていたから。でも、彼がおばあちゃんとこんなにも仲良くしている姿を見せつけられると、私の中のダッシュに対する見方が、がらっと180度変わっちゃう。ダッシュは家族を避けて、独りでいたがる人なのよ。彼はそういう人で、私の認識では、だからこそ、彼は子供の頃から本の世界にのめり込んでいったの。本は彼にとって、家族からの逃避場所だったのよ。
「今日のあなたはとてもお洒落ね」と私はダッシュに言った。彼の貴族みたいな服装と、さっぱり剃り落としたひげに感心しながらも、あのむさ苦しい首筋が恋しかった。私は今ではすっかり清潔になってしまった首筋を見つめた。
ダッシュは私に向かってシルクハットを傾けた。「どうもありがとう」
ジェムが私を抱き寄せるように腕を回してきた。今出会ったばかりなのに、昔からの知り合いのような馴れ馴れしさだ。「あなたはありえないくらい可愛らしいわね。お肌なんてまだピチピチしてるじゃない」と彼女が私を間近で見て言った。
無理...無理...私には無理よ。こんなの耐えられない! 私はもう、ダッシュの最愛の祖母に対して、どこまでも深い底なしの嫌悪感に陥ってしまった。昔はロックバンドの熱狂的な追っかけで、今では文学の謎解きゲームに孫を引っ張ってきちゃうような人だったら、さぞかしみんなに好かれるんでしょうね。そんな素敵なおばあちゃんを嫌うような、不親切で、いじわるな人って誰? おそらく私ね。
あと、猫に首ひもをつけてまで、本屋に引っ張ってくる人って誰よ?
「ここにいたのね、モリアーティ!」とジュリアが言った。手がかりのカードを配った後、一旦裏手に下がっていた彼女が、私たちの方へ駆け寄ってくる。彼女が猫を抱き上げると、猫はほったらかしにされたことを怒ったのか、抗議の声を上げてジュリアの顔に猫パンチを食らわせた。それでもジュリアは笑顔のまま、猫の頭を自分の首元にすっぽりと収めるように、大きな愛情で包み込んだ。「思い、思われ、ふり、ふられ」という感じの関係は、猫ならではね。「彼はこの書店のオーナーの猫なのよ。1時間前に私はちゃんとオフィスに置いてきたんだけど、彼はどうやって抜け出したのかしら。あ、こう見えて彼はオスよ」
「窓が開いてたんじゃない?」と私は指摘した。
「そうかもね」と彼女は言った。自分のミスの重大さに気づいていないようだ。もし彼が窓の隙間からするりと外に出て、その後、車にでもひかれてしまったら。彼女の不注意が、モリアーティにとって、カタストロフィー的な大惨事になっていた可能性だってあるのに。猫だけに、キャットストロフィーって言った方がいいかしら。
「なぜ彼にひもなんてつけてるの?」と私は聞いた。
「ひも?」とジュリアが困惑した表情を浮かべた。
「リードだよ」とマークが言った。「イギリスでは首ひものことをリードって呼ぶんだ」
首ひもをリード? それこそ、ありえないくらい可愛らしい呼び名じゃない!
「私が彼を散歩に連れて行った後に、外し忘れたんだと思う」とジュリアは言った。またしても、自分の過ちに気づいていない様子だ。彼はロンドンの路上で自活して、一人で生きていかなければならなかったかもしれないのよ。そうなったら、首ひもが邪魔でしょ。どこかに引っかかって、その拍子に怪我をするかもしれないし、他にもいろんな危険が待ってるわ。人間たちよ。私には理解できない人たちだっているの。体を毛で覆われた動物のことなんて何とも思ってない人たちが、外にはたくさんいるんだから。
「彼はこの本屋さんの中で暮らす家猫なのかしら?」とジェムが聞いた。彼女がモリアーティを撫でようと身を乗り出し手を伸ばすと、モリアーティはその手をさっとかわし、ジェムにも猫パンチを食らわせた。私はこのモリアーティと気が合いそうで、この猫を好きになり始めた。
「彼はうちの従業員の中で一番優秀なのよ」とジュリアが言った。「ネズミを追っ払ってくれるし、彼がいるとオーナーの機嫌もいいのよ」
マークが言った。「チーム・ストランドは4人ってことだな? さっそく謎を解きに街に繰り出そう」
私はまだ煮え切らなかった。追い打ちをかけるように、ジェムが言った。「この文学の謎解きイベントについて読んで時、私は興奮したわ。これはまさしくダッシュが望んでいることだって思ったの」それを聞いて、ますます不快感が増す。
待って。ジェムはダッシュがここに来たのは、彼女のアイデアだと思ってるの?
「アドベントカレンダーの今日の小窓は開けた?」と私はダッシュに聞いてみた。
「まだだよ」と彼は陽気な声で言った。
その小窓には、彼をここへ導くメッセージが入っている。彼がここに来たのは、私のメッセージを見たからではなく、ジェムが彼を連れてきたから? 私からの今日のギフトをおろそかにしておいて、彼は全く気にもしていない様子だ。
無理...無理...私には無理よ。こんなの耐えられない! 私はどうしようもなく、嫉妬と怒りに駆られてしまった。海を渡って何千キロも旅してきて、犬の散歩の仕事を、犬があまり好きではない兄に任せてきて、そこまでして私はダッシュをこの文学の冒険に誘ったっていうのに。それがジェムのアイデアだと思われてるなんて、ありえない!
不愉快な気分が表情に出そうになって、私は慌てて、英国の偉大な女性パン職人メアリー・ベリーが焼いたチョコレートケーキにかぶりつく自分を想像した。うっとり表情がほころんで安心した。ダッシュはとても幸せそうな顔をしている。私はそれを台無しにしたくはなかった。
彼の笑顔を台無しにしたのは、私ではなかった。さっきからダッシュに気づかれないかと心配していたカップルが、彼らの方から、私たちのグループに挨拶に来てしまったのよ。
「ダッシュのだんなじゃないか! おいおい、今日はどうしちゃったんだよ。そんな粋なスーツできめちゃって」とダッシュのクラスメイトが言った。そういえばダッシュは、オリヴィエに「だんな」と呼ばれるたびにゾクゾクッと寒気がするんだって愚痴っていた。ダッシュが言うには、彼は単に英国の貴族ぶりたいから、アメリカ人の耳にはかっこよく聞こえるだろうと思って、昔ながらのスラングで彼を呼んでいるらしい。
ダッシュはあからさまには顔をしかめなかったけれど、眉間にしわを寄せた。彼が不愉快な時、そうなることを私は知っている。厳格に紅茶しか飲まないだんなが、緑茶を出された時にかすかに嫌悪感を示す、あの感じね。
「やあ、オリヴィエ」とダッシュが言った。「こんにちは、アズラ」彼の声は少し重く陰っている。彼は手ぶりで私とジェムを彼らに紹介した。「この子が僕のガールフレンドのリリー。そして、僕のおばあちゃんのジェム」
「それから俺が、リリーのいとこのマーク」と、マークが自分で付け加えた。「リリーの親戚の中では、俺が一番ダッシュと仲がいいんです」
もちろん、そんなことはない。ダッシュをけなしたり、困らせたりするのは兄のラングストンが得意としていることだけど、ラングストンの手が空いていない時は、マークがその役を率先して買って出る。入れ代わり立ち代わりいじめられて、ダッシュもかわいそうだとは思うけど、なんとなく、ダッシュはそれを期待している節もある。なんか、彼らがダッシュに優しく接すると、がっかりしている時もあるから。ラングストンとマークは、ダッシュにとって、いわば男兄弟みたいな関係なのよ。ダッシュは一人っ子だし、兄弟を持ちたいと思ったこともなかったでしょうけど。そんな感じの関係で、わりとうまくいってるみたいだから、私はなるべく関わらないようにしてるの。
ダッシュはマークを無視して、ジェムに言った。「オリヴィエとアズラは〈ブレーズノーズ〉で一緒の、僕のクラスメイトなんだ」
「まあ、凄い偶然!」とジェムが言った。「あなたたちも〈ドーント・ブックス愛書家チャレンジカップ〉に参加するの?」
「はい、参加します」とアズラは言った。
「そして優勝を狙ってます」とオリヴィエが付け加えた。
「相変わらずの負けず嫌いだな、オリヴィエ」とダッシュが言った。
「愛書家っていう穏やかそうな名前がついてるのに、こんなにも闘志あふれるイベントだったとはな」マークはそう言い放つと、オリヴィエとアズラを見て、うなずいた。「もちろん、チーム・ストランドがお前たちをぶっ潰す」
「チーム・ブレーズノーズはそんな言葉にびびったりはしない」とオリヴィエが返した。
私は視線を感じ、ふと見ると、アズラが私を見つめていた。彼女はあえて努力をしなくても、おしゃれであか抜けている感じがして、私は怖気づいてしまう。生まれながらにして彼女は、私よりもいけてるように思えてくる。彼女たちのチームに負けるのは仕方ないかな。私が自分でもよくわからない理由で弱気になっていると、彼女が私に向かって言った。「あなたって...リリー? 犬の手芸品を作ってる?」
「はい!」と私は言った。彼女に好印象を与えようとして、逆に声が上擦ってしまった。
アズラは言った。「私の妹があなたの大ファンで、〈リリー・ドッグクラフト〉のページをよく見てるのよ。私があなたに会ったって言っても、きっと彼女は信じてくれないわ。一緒に写真を撮ってもいいかしら?」
「もちろん!」と私は言った。
彼女は私の横に並ぶと、片手を伸ばしてスマホをかざした。「私は妹の誕生日に、〈リリー・ドッグクラフト〉のレインコートを買ってあげたの。彼女の欲しいものリストの第1位がそれだったのよ」
「ああ、あれね! 私のアイデアで、レインコートの裏地におやつ用のポケットと、うんち袋を入れるポケットを付けたのよ。そうすれば、雨に濡れないでしょ」普通のレインコートより20ドル高いけど、買う価値は十分にあるわ、というのが私の意見。
「たしかに」とアズラは言った。「あのピンクはいい色ね」
「あれは全ての色の中で一番いい色ですよね! 私はレインウェア用の生地を専門に扱ってる問屋さんから生地を仕入れてるの。ピンクにも色々あるんだけど、私の細かい注文に合わせて、あの色味を出してくれたのよ。私は凄く誇りに思ってるわ」
「妹も凄く気に入ってくれたわ」アズラはそう言うと、ダッシュの方を向いた。彼を見る彼女の眼差しには、新たに芽生えた尊敬のような感情が浮かんでいる。「どうしてあなたは、ガールフレンドが有名人だって言ってくれなかったの?」
オリヴィエが言った。「正直に言うと、ダッシュがニューヨークにガールフレンドを残してきた、という話自体信じてなかった」
マークが言った。「正直に言うと、ニューヨークにいる彼女の家族も大体そんな感じで、いまだに信じられずにいる」
ダッシュが吹き出すように笑った。やっぱりどこか嬉しそうだ。マークや私の兄に侮辱されても、彼は自分の家にいるような居心地の良さを感じているみたい。自分の家以上かもしれないわね。ここは本屋さんだから、ダッシュが一番本領を発揮できる場所だし、たとえ笑いのネタにされてからかわれても、彼はなんだか満ち足りて輝いている。
私は両腕を広げ、ダッシュに抱きついた。彼を安心させるように、同時に彼を誇りに思いながら、私は言った。「私の家族はあなたを慕ってるわ」
ダッシュは言った。「君の家族は人数が多いからね。たとえ10%の人たちでも好きになってくれれば、僕自身の家族で僕を好きだっていう人よりも、人数的に多くなっちゃうよ」
「私は家族の中でも、あなたを好む派よ」とジェムがダッシュに言った。
「だから僕はあなたを頼ってるんですよ」とダッシュが返した。
「アメリカ人同士の会話だな」とオリヴィエは軽蔑を込めて吐き捨てた。
「俺はアメリカ人だけど、ダッシュに大した愛情はないよ」とマークがオリヴィエに向かって、確約するように言った。
突然、モリアーティがジュリアの腕から飛び出し、書店の正面玄関に向かって走り出した。それを見て私はとっさに駆け出し、猫を追いかけてお客さんたちの間を縫うように走り抜けた。ダッシュは書店での振る舞い方や、私の親戚の扱い方を心得ている。一方、私は飼い主に無断で遠出しようとする動物たちの扱い方を心得ている。モリアーティが開け放たれた正面玄関の隙間から滑り出ようとする間一髪のところで、私はシュッと腕を伸ばし、彼を拾い上げた。
「惜しかったわね。あなたのチャレンジ精神は認めるわ」と私はモリアーティに言った。彼は体をくねらせて私の腕から逃れようとする。ここに私がいたのが運の尽きだったみたいね。私はこういうことで生計を立てている、この道のプロなのよ。私は彼を抱いたままドアを蹴って閉めると、ジュリアに言った。「モリアーティを安全なオフィスの中に戻してあげてくれない? それから、この首ひもは外してあげて。っていうか、リードだっけ?」ジュリアに小言は言いたくなかったけれど、どうしても言わずにはいられなかった。「散歩に連れていかない時は、本当にリードは外しておいてあげて。そうしないと、何かに引っかかって怪我しちゃうでしょ」
「そうするわ」とジュリアは言った。せっかく知恵を授けてあげたのに、私のアドバイスには全く関心がないような口ぶりだった。彼女は私の腕からモリアーティを奪い取ると、声を張って言った。「私は彼をオフィスに戻してきます。さあ、チーム・ストランドとチーム・ブレーズノーズのみなさん、―謎解きの開始よ!」
彼女は猫を連れて行ってしまった。ジェムが私に言った。「彼女にペットに関するアドバイスなんて必要ないんじゃないかしら、お嬢さん。猫が一人でその辺をぶらつきたいなら、そうさせてあげればいいのよ!」
うーっ。
私はペットケアに関しては誇りを持ってやっているから、そこに異議を唱えられるというのは、かなりこたえる。ダッシュはそのことを知っているから、私がジェムに言い返す前に、話題を逸らしてくれた。―「世の中にはね、動物について教育しなくちゃいけない、どうしようもない人たちだっているのよ!」そう口火を切って反撃に出る寸前だったので、助かった。―「そうだ! 最初のヒントなんだけど、何かピンと来た人いる?」ダッシュはそう言うと、声に出してそれを読み上げた。
ヒースの近く
水浴びをする人が池を見つける場所
水の中に名前が書かれた者が眠る
マークが「簡単すぎるな」と言っていたことを思い出し、私は彼の方を向いた。さっそく手がかりを解読してくれると期待したけれど、彼は首を横に振った。「俺はこれについて内部情報を知っている。ただ、いきなり俺が言ってしまったらつまらない。ここは一つ、ブレーズノーズの博士くんの腕試しと行こうじゃないか。スマホでずるはするなよ」
ダッシュは言った。「ずるなんかしないさ。それに、僕が博士号を取るにはあと6年は大学に通わなきゃいけないんだ。そこは、6年後の博士と呼んでほしいな。―水の中に名前が書かれた者が眠る。この最後の言葉は、詩人のキーツの墓石に刻まれている言葉だよ。遺言でキーツ自身がそう彫るように望んだんだ。つまりこれは...叙事詩として読むべきじゃないかな」
「あなた天才じゃない、ダッシュ!」とジェムが言った。彼女の横を、本をどっさり抱えたお客さんがレジの方へ通り過ぎていく。「ねぇ、彼はオックスフォードに通ってるのよ!」とジェムが、イベントには興味がなさそうなそのお客さんに声をかけた。それから彼女は、謎解きを楽しむように、ぶつぶつと独り言を言い始めた。「キーツ...キーツ...ヒース...水浴び...池」彼女は一瞬黙り込み、そして言い放った。「わかったわ! 最初の手がかりは、おそらくハムステッド・ヒースのことよ。近くにキーツが住んでいた家があるの。今はキーツ博物館になってるわ。そして、ヒースには水浴びができる池があるのよ!」
「あなた様こそ天才でございます」とダッシュが彼女に言った。
「博物館のすぐ近く、角を曲がったところにすっごく美味しいインド料理店もあるのよ。あそこのドーサが無性に食べたくなってきたわ。あなたも好きでしょ?」とジェムが言った。
「もちろんでございます。そこまで気が回るなんて、僕なんかよりよっぽど天才じゃないですか」とダッシュが追い打ちをかける。
私はすっかり食欲が失せてしまった。私はインド料理が嫌いなのよ。少なくとも、息の合ったコンビのような関係を見せつけられている今日は、食べたくない。
私たちが書店を出ようとしたところ、オリヴィエとアズラが正面玄関に向かって私たちの横をさっそうと通り過ぎていった。オリヴィエが扉を開けながら、ダッシュに声をかけた。「優勝者のお立ち台から、手を振ってやるよ、だんな」
ダッシュは人差し指と中指を横に振って、彼の発言を否定した。オリヴィエはそれを見て、笑いながら書店を後にした。
「地下鉄? それともタクシーで行くか?」とマークがチーム・ストランドの面々に聞いた。
「地下鉄だろ」とダッシュが言った。
「タクシーで行っちゃおうぜ」とマークが返す。
私たちは外に出た。雨が降り始めていたけれど、マークが手を旗のように振って、すぐにタクシーを停めてくれた。私がロンドンのタクシーに乗るのは初めてだったけど、後部座席が広々としていて、凄く気に入ったわ! 4人全員が後部座席に収まり、2人ずつ向かい合って座れるようになっていた。マークと私が並んで座って、その向かい側にダッシュとジェムが座った。
「どこまでっ?」と運転手さんが聞いた。彼は『メリー・ポピンズ』に出てくるような、昔ながらの東ロンドンの訛りで喋った。『メリー・ポピンズ』は大好きな映画だから、それを聞いて私はとても興奮したわ。
マークが彼に行き先の住所を伝えている。私は精一杯メリー・ポピンズの真似をして、「お願いしやっす。タクシーのおやっさん」と東ロンドンのアクセントで付け加えた。
ジェムが言った。「ここではそういう言葉遣いは嫌われてるのよ、リリーちゃん。そのアクセントはやめなさい」
私は顔が真っ赤になって、急に恥ずかしくなった。運転手さんを嫌な気持ちにさせるつもりなんてなかったのに。
ジェムを嫌いになるつもりもなかったんだけど、嫌いになっちゃった。私はここに初めてやって来た観光客なのよ。少しくらい、はしゃいだっていいじゃない? そんな私を𠮟りつけるなんて。
マークが手に持っていた鞄のチャックを開けた。「ジュリアが、これをチームのみんなに配るようにって」彼は鞄から〈ドーント・ブックス〉のロゴが入ったノートとペンを取り出した。「これにクリスマスの神父様へ手紙を書くんだってさ」
「その手紙を暖炉の炎で燃やして、煙突から吹き出す煙に乗せて届けるのね?」とジェムが聞いた。「私の好きな英国式の儀式の一つなのよ」
彼女の口から吹き出すアイデアを全部、暖炉にくべて燃やしてやりたい気持ちだった。
こんないじわるなことを思っているようだと、今年はクリスマスツリーの下に私へのプレゼントはないでしょうね。私はボーイフレンドのおばあちゃんに腹を立てているような、悪い子だった。あんなに高い飛行機代を払ってまで、海を飛び越えてきたことを本気で後悔していた。私にはサンタさんからプレゼントをもらう資格はないわね。
「僕はサンタに手紙なんて書いたことないよ」とダッシュが言った。
マークはダッシュにノートをぽいっと投げると、言った。「今初めて書けばいいだろ」
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「ハムステッドヒースの池」の近くには、〈キーツ・ハウス〉という詩人のキーツが住んでいた家があるみたいです。(ジェムが美味しいと言っていたインド料理店もグーグルマップに載っていました!)
ちなみに、赤丸の〈ロスリン・アームズ〉というパブでは、今、トムが待ちぼうけをくらっています...笑(待ちぼうけをくらっているといっても一人ではなく、幼馴染たちと楽しそうに和気あいあいとお喋りしているので、ダメージはなさそうですが...笑)
というか、〈ロスリン・アームズ〉と〈キーツ・ハウス〉がこんなに近くにあるという、奇跡のような偶然に、その偶然を引き寄せた藍の右指に、感動しています...号泣
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4
ダッシュ
12月21日
僕はマークの顔を目がけて、そのノートを投げ返した。「嫌だよ。僕は書かない」
ほとんど無意識的な行動だったのだが、みんながびっくりしたような顔で一斉に僕を見たから、僕自身も驚いてしまった。何か考えがあったわけではなく、条件反射的に、つい投げ返してしまったのだ。
僕の体のどこかから、声が聞こえたといった方が正しいかもしれない。少なくとも僕自身の部分的な分身ではあるのだろうが、内側から聞こえたその声は、こう言った。
クリスマスの神父様に手紙なんて、書く必要ないぞ。
たしかに、と僕は思った。そして体が勝手に便箋を投げ返していた。
お前はこんなところに居たくもないだろ。今すぐタクシーから飛び降りてしまえ。
ちょっと待って…それって?
ほら、感じないか? このタクシーの壁が、お前の寮の壁みたいに、両側からどんどん迫ってきてるだろ? 頭も殴られたように痛み出したんじゃないか? ダッシュ、なぜそんなに汗をかいてる? ほら、今すぐそのドアを開けて、ここから飛び出さないとダメだろ?
終わったはずの試験期間に舞い戻ったようだった。僕はいつまでも試験を受け続けなければならないのか。
そして僕は落第するんだ。
僕は落ちる。だって、僕はこのタクシーの中に居たくないから。
僕は落ちる。だって、マークに我慢ならないから。彼はとことん嫌な奴だから。
僕は落ちるよ。だって、リリーがロンドンまで来ていたなんて知らなかったから。僕には、彼女が望むようなリアクションを取れる自信はないから。
僕は落ちるよ。だって僕は、彼女のインスタグラムを一度も見たことがなかったから。ただの一度も。
僕は抜け落ちるよ。だって僕は、彼女がレインコートを販売しているなんて知らなかったから。アズラの反応から察するに、リリーはソーシャルメディア上で、かなりの有名人なのだろう。
僕は抜け出るよ。だって僕はずっと…彼女がしているのは犬の散歩だと思っていたから。まさか犬の散歩中に、見知らぬ人に声を掛けられたり、声までは掛けられなくても、有名人のリリーが犬の散歩をしている!とか思われていたなんて知らなかった。彼女が作った犬関連のグッズを購入する人もたくさんいるなんて。
僕は降りるよ。だって、アズラとオリヴィエが僕に闘争心をむき出しだから。そういう態度で来られると、僕の心まで憤りでいっぱいになっちゃうんだ。そうすると、他の感情がすべて吹き飛んじゃって、あの二人をやっつけることだけに囚われることになるからね。
僕は降りるよ。だって、これからキーツと相まみえることになるんだから心がワクワクし出してもいいはずなのに、実際の僕は、キーツのことを考えると、とても気分が沈んでしまうから。
僕は落ちるよ。だって、心に浮かび来るこれらの事を、僕は声に出しては言えないから。
お前は首ひもでつながれた猫だ、と内なる声が言った。急にネクタイが首ひもになったみたいに、襟元がどんどん苦しくなる。内なる声に首を絞められているみたいだ。
僕はネクタイを緩め、シャツの一番上のボタンを外した。
「どうした?」とマークが言った。僕は『いじわるグリンチのクリスマス』のグリンチになった気分だった。そうすると、マークが『セサミストリート』のいじわるオスカーってことか。どっちもどっちだな。
「大丈夫?」とジェムが心配そうに聞いてきた。
リリーの顔を見ると、―リリーはまた混乱した表情を浮かべている。
ほら見たことか、ダッシュ。お前がまた彼女を混乱させたんだ。お前はここにいるべきじゃない。
「ごめん」と僕は言った。言ってから、「大丈夫?」と聞かれているのに、「ごめん」は変だろうと気づいた。
「ダッシュ?」とリリーが僕に声を掛けてくる。
「今夜は冷えてきたなっ。寒くないか?」とタクシードライバーが僕たちに声を掛ける。「ほら、暖房をもっと上げてやるよっ」
それだけはやめてくれ、と僕は心の中で叫んだ。急にカシミアのマフラーみたいな雲で覆われたように、車内が生暖かくなる。僕のシャツの中はもう汗でぐしょぐしょだ。スーツを脱いだら、脇の下にくっきりと湖の形が浮かび上がっていることだろう。
ジェムがリリーに質問を始めた。本当なら、それらの質問は僕が聞くべきことだった。―どこに泊まってるの? フライトはどうだった? どのくらいの期間、滞在する予定なの? 僕は必死で彼女の答えを頭に叩き込もうとしたが、汗と熱に邪魔されて、うまく頭に入ってこない。頭にのしかかってくる圧迫感がますます重くなり、心臓の鼓動は速さを増す。待てよ、鼓動はそれほど速まっていないのか? 僕は自分の脈拍を測ろうとした。馬鹿げている。
タクシーが〈キーツ・ハウス〉に到着した。ハムステッド・ヒースのすぐ近くだ。僕は真っ先にドアから飛び乗りるように外に出た。外の空気を大きく吸い込み、振り返ると、僕の祖母がタクシーの料金を払っている。しまった! レディーに払わせるなんて、紳士にあるまじき行為だ。
真っ暗な夜の中、白くぼんやりと浮かび上がるキーツ博物館は、ほとんど幽霊屋敷のように見えた。内部に潜む死者の霊魂で光っているようだ。こんなに遅い時間まで開いているとは思っていなかったが、何か裏工作でもしたに違いないアズラとオリヴィエが、僕たちより一足先にエントランスホールの中にいるのが見えた。
「ダッシュ?」
ふと横を見ると、リリーが僕の肘をポンと叩いている。僕を見つめる彼女の表情から、僕は自分がぼんやりしていたことに気づいた。彼女が僕に何か言ったのだろう。でも僕はキーツ・ハウスを眺めていて、聞いていなかった。
「聞いてるよ」と僕は言った。
「これって間違いだったかな。あなたをこのイベントに誘ったこと自体―」
「そんなことないよ!」と僕は言った。
間違いだったんだよ! と内なる声が付け加えた。その声はいまだに僕の首を絞め付けていて、一向に力を弱める素振りを見せない。
僕はその声を振り払うように、リリーに説明した。「人生で最もきつい、魂が砕かれるんじゃないかと思うような一週間が終わったばかりなんだ。試験期間中は睡眠もままならなかったよ。もし僕がぼんやりしているようなら、きっとそのせいだ。僕は、言うなればハングオーバー状態なんだよ。二日酔いっていう意味じゃなくて、崖からぶら下がってる状態。今にも真っ逆さまに落っこちそうだけど、自分の体を引き上げる力も残ってないみたいだよ」
そこでやめておくべきだったのに、僕はこう付け加えてしまった。
「それと、君がレインコートを売ってるなんて知らなかったから」
リリーの反応は一瞬で歴史から消え失せた。邪魔が入ったのだ。僕がリリーと話しているといつも茶々を入れてくる、マークという名の悪魔の使い走りが、不愛想に「早く入ろうぜ。何してるんだよ?」と言ってきたから、リリーも僕もそちらに気を取られてしまったのだ。そこへ、ジェムが遅れてやって来た。タクシーがようやくこの場を走り去っていく。
「あの運転手が私の番号を聞いてきたのよ」と彼女は言った。「ゼロよ!って答えちゃったけどね」
「気をつけた方がいいわよ」とリリーが言った。「そう言うと、今度はゼロを押せば繋がる電話の交換手だと思われちゃうわ」
「ぐずぐずしてると負けちゃうだろ!」とマークが叫んだ。
「じゃあ、さっそく中へ入りましょう」とジェムが僕らを促した。
僕は少しの間、夜気の中で熱を冷ましたかったのだが、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。ジェムは活気に満ちた様子で先を急ごうとしているし、マークはただ単純に活気に満ちているし、リリーは…彼女だけはなんだか活気をそがれているように見えた。僕の陰気なムードが、彼女から活力を吸い取ってしまったのだろうか。
「ロマンを共有しないか?」と僕は思い切って言ってみた。ロマン主義の詩人キーツになりきって、リリーの目の前にそっと手を差し出す。
「私はロマンより、ロマンスの方が好きかな」とリリーは答えながら、僕の手を取った。二人で手をつないで、入口までの短い距離を歩いていく。それから僕たちは、入口で手を離し、個々に中へ入った。
この家はキーツが死んだ場所ではなかった。―彼はイタリアに移り住んだ後に亡くなったのだ。それでもなお、彼はこの家で死んだのではないか、と感じさせるものがあった。25歳で亡くなった彼の死が、そこかしこに宿っているようだった。空気中に、壁に、残された彼の言葉一語一語に、彼の残影を読み取れた。
僕の心臓が再び高鳴り始めた。
ロビーには、キーツの顔がリアルに彫られた仮面のような銅像が置かれていて、来場者はどうぞお触りください、と書かれている。僕はその不気味さに震え上がってしまった。触りたくはなかったし、彼に見つめられているのも嫌だった。僕は逆方向へと目を背けたのだが、すると今度は、キーツの等身大の胸像が立ち現われて、間近で彼とばったり出くわした感じになり、気まずかった。
「次の手がかりを探してるのよね?」とジェムがマークに聞き、彼はうなずいた。
ライバルチームはすでに家の奥の方へと進んでいた。
「それぞれ別々に手分けして、くまなく探していきましょう」ジェムがそう提案すると、今度はリリーがうなずいた。ジェムは向かって左側の部屋へ、リリーは右側の部屋へと入っていく。マークは階段を上がって、二階に姿を消した。
僕は一人で廊下を進み、家の奥深くへと歩いていった。観光客として来たわけではないことはわかっていた。―次の手がかりを探さなければならない。―それでも、キーツがここに残した言葉を読めば読むほど、僕を取り巻く霧はどんどん厚く深くなっていった。彼は母と弟が結核で死にゆくのをみとったのだ。そして彼自身も結核で死んだ。僕よりたったの6歳年上の若さで。
僕は彼の手書きの詩を見て、次々と胸に弾丸を撃ち込まれたような衝撃を受けた。
若さは成長するにつれ青白く薄まっていき、いつしか水のように見えなくなり、死す。
それから、この詩も目に飛び込んできた。
自分がいなくなるかもしれないという不安に包まれると、
私はペンを握る。頭の中に降りしきる言葉をかき集めるんだ…
それから、彼が愛した女性に宛てた手紙の中の一節。
私はまだ、私の死後も残るような不滅の作品を一つも残していない。―私の死後、友人たちが私を誇らしく思い出してくれるようなことを何一つ成し遂げていない。―しかし、私は目に映るあらゆる物を貫く美しさだけはずっと愛してきた。もっと時間があれば、私の存在を覚えてもらえるくらいまで、美の核心に迫れただろう。
そしてもちろん、彼の墓石に刻まれた碑文もあった。
水の中に名前が書かれた者が眠る。
僕の内なる声がキーツに触発されたように声を上げた。
お前はいったい何をしている?
僕はその声の意味を解釈する。
お前はオックスフォードで、いったい何をしている?
お前は大丈夫なふりをして、いったい何をしている?
お前はこの部屋でいったい何をしている? ほら見てみろ。ここの壁も迫って来てるぞ。
実際は壁は迫っていなかった。しかし、そう感じるだけで十分に息苦しくなった。襟元を緩めようとしたら、もうすでにボタンは開いていた。汗がとめどなく溢れ出る。
早くここから外へ出ろ。
父の姿が頭に浮かんだ。僕が尻尾を巻いて家に帰ったら、父は、ほら見たことか、と言わんばかりにうなずいて見せるだろう。父は初めから、オックスフォードは間違いだったとわかっていたんだ。本に多大なる価値を見出し、自分の道を突き進もうなんていう考え自体が間違いだったと。僕は未来のリーダーにはなれないし、意気消沈を言葉に変えて乗り越えようとする詩人にすら、きっとなれない。僕は今までずっとそうだったように、未来永劫、敗者のままだ。
こんなことしてる場合じゃないだろ。
文学の初めての授業で、僕たちは教授に聞かれ、一人ずつ自分の好きな作家の名前を挙げていった。僕が「サリンジャーです」と答えると、その教授は笑った。「サリンジャーを敬愛するアメリカ人の少年か、ロンドンの雨のようにありきたりだな」と彼は言った。
あんなことを続けてても埒が明かないだろ。
リリーのことを考えていた。彼女はどういうつもりで、遥々ここまで飛んできたのだろう? 僕はどうして、僕たちの関係を一旦凍結するみたいに宙ぶらりんにしたまま、無謀な夢を追いかけるために海を渡ってしまったのだろう? 上の階の床板がきしむ音が聞こえた。―おそらくオリヴィエたちのチームだろう。あるいは何人かの足音が聞こえるから、マークもそこにいるのかもしれない。どれだけの時間が経過したのか、僕にはもうわからなくなっていた。少し外に出た方がいい、と僕は自分自身に言い聞かせた。
問題は、僕の欠陥が常に僕につきまとっていることだ。僕には協調性が欠けていて、周りの人たちと一緒に何かをすることができない。他の人たちが僕にここにいてほしいと望んでいることはわかっていても、僕はその気持ちに寄り添うことができない。
まるでキーツにからかわれているような声がした。
君は生きているくせに、こんなことしかできないのか?
君の若さも青白く擦り減っていくんだよ、ダッシュ。君にまだ残っているものは何だ?
僕はほとんど無意識のうちに、キーツ・ハウスの外に出ていた。肺を夜の空気で満たそうと、大きく息を吸う。頭の中の声たちを追い払おうとしたが、彼らは頑なに出て行こうとせず、僕の頭の中の床板の上をポンポン飛び跳ねていた。外の空気は寒かったが、汗は一向に収まることなく、どんどん噴き出してくる。こうして玄関前に突っ立っていると、中から誰かに見られるかもしれない、と不安になり、僕は少し遠くまで歩いてみることにした。ハムステッド・ヒースはすぐそこで、僕がここを離れるのは数分だけだ。すぐに戻れば、ジェムもリリーも気付かないだろう。
僕はいったい何をしているんだ?
以前、友人のブーマーに聞かれた質問を思い出した。「喉がヒリヒリ痛いんだけど…原因は喉にあると思う?」今の僕も、喉がヒリヒリ痛い。たぶん原因は喉ではなく、僕はパニックに陥っていて、何かしらの攻撃を受けているのかもしれない。ということは…
ヒースの森に入ったところで、僕はスマホを取り出した。グーグルの検索ボックスに、「これってパニック発作かな?」と打ち込んでみた。
ウェブ上の医師たちはいくつもの症状をリストアップしていて、そのうちの多くが僕の症状に当てはまった。それを見て、僕はさらなるパニックに襲われた。僕はリンクからリンクへと、セカンドオピニオンを求めてネット記事を移り渡り、第三、第四と見ていくうちに、いつしか第九の意見にまで探りを入れていた。
「これはまずいぞ」と僕は周りの木々に向けて言った。
インターネットにはパニック発作に襲われた際の応急処置がいくつも載っていた。僕はそのうちのいくつかを声に出して読み上げた。
戦うのではなく、まずはそれを受け止めること。
「でも受け止めるって、一つの戦い方じゃないかな?」と僕は木々に尋ねた。
次の助言に目をやる。
自分自身と話してみて。
「そんなこと、もうとっくにやってるよ」と僕は言った。「他に何か僕に言いたいことある?」
「いや、特にない」と僕自身が答えた。「次に行け」
次の助言を見る。
目を閉じてごらん。
この助言は、今の僕の状況に適しているのか定かではなかった。今、僕は森のような公園の中を一人でふらふらと歩いている。下手したら、目を閉じた隙に、「切り裂きジャック」の末裔がその辺の陰から飛び掛かってくるかもしれない。それでも僕は助言に従って、目を閉じてみた。周りに広がっていた暗闇が一気に狭まり、個人的な闇になった。きっちり10秒数えたところで、近くの茂みで何かが蠢く音が聞こえ、妄想が現実のものとなったか、と僕はパッと目を見開いた。キツネだろうと、人間だろうと、攻撃してくる前に、一目顔を見てやろうと思った。
大きく深呼吸して。
誰も、キツネもいなかった。あるいは、まだ茂みの中にいるのかもしれない。僕はいつの間にか自分自身のことではなく、キツネのことを考えている事実に気づき、それを良い兆候だと思った。しかしそれも長くは続かず、すぐに思考は自分自身の胸へと舞い戻った。再び自分自身の置かれた悲惨な状況について考え始めている。僕は深く息を吸い込んで、フーッと大きく吐き出した。もう一度、大きく息を吸い込んで、白い息を闇夜の中に吐き出す。
自分の体に聞いてみて。お腹空いてない? 怒ってない? 寂しくない? 疲れてない?
言われてみれば、お腹が空いていた。何か食べてくるべきだったのかもしれない。あるいは、この精神状態でマークと対峙したのがいけなかったか? もしくはニューヨークに留まっていればよかったのか? というか、やっぱり新年までベッドで寝ているべきだった。
あなたが幸せになれる場所を思い浮かべてみて。
マークのいないストランド書店を思い浮かべようとした。今夜マークのやつがストランド書店の話をしていたから、どうしても彼の顔がちらついてしまう。彼はもう、あそこの店員は辞めてるんだよな。―僕は想像の中で、ストランド書店にたどり着いた。待ち合わせしていたリリーが正面玄関前で手を振っている。リリーと僕は、希少価値の高い本が陳列されたコーナーに行き、古いパルプ紙に包まれた本たちを眺める。表紙には昔の風刺画みたいな趣きある絵が並び、トレンチコートに身を包んだ男性が貴婦人みたいな女性と抱き合っていたりする。それは放課後の平凡な一時なのだが、僕の愛するすべてが、そこに凝縮されている。
一つの物体に意識を集中して、そのままそこに意識を留めて。
この助言を見つけるまでに、僕はすでにスマホという物体に意識を集中していたことに気づき、この助言の真偽をいぶかしんだ。その時、僕に見つめられていることを感じ取ったかのようにスマホが反応し、何かと思えば、バッテリーがあと10%しか残っていない、と表示された。
すぐに僕はスマホの電源を切った。それから、リリーとジェムにメールしようと思い立ち、再び電源を入れた。
ちょっと散歩に行ってくる。外の空気を吸いたくなったんだ。僕のことは心配しないで。
スマホのやつも、僕と同じくらい疲れていたに違いない。メッセージが送信されるや否や、画面が真っ暗になってしまった。
僕はスマホに向かって愚痴った後、ふと顔を上げると、いつの間にか公園の奥深くまで来ていることに気づき、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
僕は続けざまに、木々に向かって毒づいた。
時間はそんなに遅くはなかったが、公園は暗く、小道には誰もいなかった。街から届く光が、北極のオーロラみたいにぼんやりと木々の最上部に輪郭を描き、生命の気配をそこはかとなく感じさせてはいた。しかし、方角を示すコンパスとして使える物は何も見当たらない。僕は本能的に怖くなり、地図を確認するためにスマホをポケットから取り出した。そして、今度は森全体がびっくりするくらいの大声で、ピクリともしないスマホに向かって毒づいた。
お前は道に迷ったんだよ、と内なる声が教えてくれた。
そして、それはもう一つの意味を含んでいた。お前は人生の迷路に迷い込み、自分が何をやっているのかわからなくなっているんだ。
実際、僕はずっと迷っていた。それは、この一学期の間、僕を悩ませ続けていた声だった。ニューヨークにいるリリーと話すたびに、BGMのように僕の耳元でこだましていた声だ。未来が僕の目を覗き込もうとする時にも、その声が聞こえ、僕はどうしてもまばたきをしてしまう。僕は自分の未来を直視できなくて、ごまかすようにまばたきしてしまうのだ。
「僕は人生の迷路に迷い込み、自分が何をやっているのかわからなくなっている」と僕はつぶやいた。
たしかにそうだ、と思った。
だけど、そう声に出して言ってみても安心感は得られなかった。地獄のような恐怖に包まれていた。
僕はもう一度そう言ってみた。それから、鬱蒼と生い茂るような暗闇の中で叫んだ。
「僕は人生の迷路で、自分が何をやっているのかわからなくなっているんだ!」
その声に反応したように、今まで一度も聞いたことのない声が返ってきた。
「そういう時は、クラブに入ろう」
5
リリー
12月21日
クリスマスの神父様へ...
イギリスのサンタさんに手紙を書くなんて初めてだから、何を書いたらいいのか分からないわ。もしかしてイギリスのサンタさんって、私の苦手なきっちりとした英文法を要求してくるとか? cozyをcosyにしたり、いちいち「z」を「s」にしなさい! とか直されちゃうわけ? 文章の最後には毎回、「innit?」(ですよね?)を付けた方がいいのかしら?
私は子供の頃からサンタさんに手紙を書いたことがなかった。母の話では、私がサンタさん宛てに書いた唯一の手紙は申立書のようなもので、私は幼いながらも「サンタさんに言っても仕方ないな」と悟ったのか、それ以降は書いていない。その手紙で、私はサンタさんを強く批判してしまったから、今さら私から手紙を受け取ったところで、「あのリリーとかいう生意気な子か!」って思われるだけ、innit?(ですよね?)
サンタさんへ
私の名前はリリー、9歳です。あなたはトナカイにそりを引っ張らせていますけど、それって間違っていると思います。セントラルパーク周辺で馬車を見たことがありますか? 観光客があの辺をぐるりと観光するのに、馬に馬車を引っ張らせてるのよ。あれを見ると、ほんと腹が立つわ。馬たちはどんなに天候が悪くても外で待たされてるし、体を雨に打たれたり、頭に雪が降り積もったり、車やバスに排気ガスを吹きかけられても、文句一つ言わず頑張ってるんだから。ほんと、馬の扱い方をなんにも知らない失礼なお客さんが多すぎるのよね。それと、馬はお金をもらっていません。ご褒美にいくらニンジンをもらっても、全然割に合わないっての。大叔母さんの知り合いで、〈ニューヨークシティ・タクシー&リムジン労働組合〉の顧問弁護士をしている人に聞いたから、これは確かな事実よ。馬たちは賃金未払いを訴えて、ヒヒーンって嘆いているわ!
それで、私はトンプキンス・スクエア公園に立って、セントラルパーク周辺で馬車に乗ることを禁止する請願書に、28人から署名を集めました。それを市役所に持っていって、事態が改善したらまたお知らせします。今度は、あなたがそりに乗ることを禁止する、別の請願書を作ろうかなと考えています。私はすでに学校では人気のない子なので、この新しい請願書を作ることで、友達をなくすんじゃないかっていう心配はいりません。
もちろん、あなたがトナカイたちに親切に接していることは知っています。でも、トナカイにも自分で選択する自由があるはずです。きっと中には、あなたみたいな太っていて重い人を世界中に運ぶ代わりに、クリスマスには楽しく北極辺りを走り回りたいって思ってるトナカイだっているはずよ。
私がクリスマスに何を望んでいるかというと、それは、動物たちもあなたと同等に扱ってほしいってこと。だって、あなた自身はいい子だろうと悪い子だろうと、動物たちはあなたに奉仕しているんだから。
お願いします。
リリーより
追伸―ユニコーンの形をしたきれいに光るマジックランプも欲しいです。
追々伸―あなたはどんなクッキーが好きですか?
「クリスマスの神父様へって...今は手紙を書きたい気分じゃないわ」と私はマークに言った。ダッシュがキーツハウスに戻ってくるまでの時間を利用して、サンタさんに手紙を書くようにマークが言ってきたから、そういう気分じゃない、と伝えた。彼が言うには、サンタさんに手紙を書くことも、このイベントの一部らしい。ダッシュは早々と、「サンタに手紙なんか書くもんか!」と匙を投げてしまったけれど。
「私もよ」とジェムが言った。「ダッシュのことが心配なの。どうして急に出て行っちゃったのかしら。彼のことはあなたが一番よく知ってるんでしょ、リリー? こういうことってよくあるの? 心配すべき?」
「彼はきっと大丈夫だと思います」と私は彼女に言った。
実際はそこまで確信はなかった。
ダッシュは不安に駆られると、おかしくなるのよ。私がサプライズで突然現れるなんて愚行に出たから、彼のおかしな行動に拍車をかけてしまったのかな? それとも、オックスフォードでの極度の不安状態が原因なの? 私は怒るべきなのか心配するべきなのか分からなかった。何より、私自身がおろかしく思えてきた。〈アドベントカレンダー〉に込めた彼へのロマンチックな想いは、全部無駄だったってことになるわね。―私自身がプレゼントになったつもりで、彼の目の前に現れたことも、どうやら彼のロマンチックな琴線には触れなかったみたいだし。だって、こうして私と久しぶりに再会したっていうのに、私を置いてどこかへ行っちゃうんだから。
マークが言った。「まったく、あいつはオックスフォードに行っても、何も変わってないじゃないか。礼儀がなってないんだよ。誰にも何も言わずに勝手に出て行くなんて、失礼極まりないな」
ジェムが言った。「失礼というより、彼はひねくれ者なのよ」
まあ、ダッシュは失礼なところもあって、ひねくれてるところもあるんだけど、そんな彼がジェムの家を訪れた時、彼女はダッシュが不安を抱えていることに気付いたのかしら? 私はそれを知りたくて、彼女に聞いた。「彼がロンドンのあなたの家を訪れる時って、あなたたちはいつも何をしてるの? まさか、あなたの家にいる時も、彼は勉強で忙しいとか?」
「私たちはいつも最高に素晴らしい時間を過ごしてるわ!」ジェムは興奮気味に語った。「一緒に美術館に行ったり、本屋に行ったり、コンサートに行ったり。彼って一緒にいると楽しいのよ。まあ、あなたは知ってるでしょうけど」マークが鼻を鳴らすように笑ったが、彼女は続けた。「たしかに、今日彼を家から連れ出すのはひと苦労だったわね。とても疲れが溜まってるようだった。おそらく、期末試験が終わったばかりでへとへとだったんでしょうね」
「おそらくそうでしょうね」と私は言った。彼への怒りが徐々に薄まり、彼を心配する気持ちが大きくなり始めていた。ダッシュがどんな不安を抱えていたとしても、こんな風に逃げ出さずに、私に話してくれたらよかったのに、と思った。へとへとという言葉が、私にはなんだか別の響きを伴って聞こえた。彼の心が悲鳴を上げているようだった。
その時、私のスマホが鳴った。ダッシュからだと思い、急いで画面を見たのだが、―FaceTimeで電話をかけてきたのは、兄のラングストンだった。スマホの画面越しでも、一目ダッシュの顔を見ることができれば、どんなに安心したことか。とはいえ、ニューヨークの状況も気になってはいたから、私はキーツ博物館の外に出て、道端で電話に出た。
「私の犬はどんな様子?」と私はラングストンに聞いた。スマホの画面に彼の顔が映し出される。どうやら彼は今、私たちの両親のアパートメントのリビングにいるらしい。彼は実家を出て、ニュージャージー州のホーボーケンでボーイフレンドと同棲しているんだけど、私が留守の間は、私の仕事の穴を埋めるためにマンハッタンの実家に戻っている。
私の声がボリスの耳に届いたようで、突然ボリスがリビングに駆け込んできて、画面が狂ったようにくるくると回転した。ボリスがラングストンに飛び掛かり、その拍子でスマホが宙に舞ったようだ。ニューヨークでけたたましく吠えたボリスの声は、大西洋を一気に飛び越え、ロンドンのハムステッドの路上を歩く通行人の耳にまで届いた。見知らぬその人は、通りすがりに私を怪訝な表情で見ていた。今たしかに聞こえた怪物の遠吠えは、いったいどこから来たのだ? と私に聞きたそうな表情で、その人は辺りをキョロキョロ見ながら歩き去った。
ラングストンがようやくスマホをつかんだようで、画面にボリスが映し出された。「お座り、ボリス。お座り!」と彼がボリスを静止させようとしているが、ボリスは興奮冷めやらぬといった様子で吠え続けている。また今にも私の兄に飛び掛かるのではないか、という威勢だ。
私も画面に向かって、声を張り上げた。「お座り、ボリス」私の声に安心したかのように、ボリスは座り込むと、尻尾を激しく振り出した。
「こいつはまた俺を床に叩きつける気だ」とラングストンが言った。彼の体重は大体60キロくらいだけど、ボリスも負けず劣らず重い。
「そんなことないわ」と私は言った。「ボリス、大人しくしてなさい」
ボリスは立ち上がると、愛用の毛布に向かって歩き出した。カメラはその姿を追いかけている。ボリスは毛布の上に横たわると、クンクンといじけるように小声で鳴き出した。ラングストンがカメラを彼自身に向け直す。
「この野獣はお前のことが恋しいみたいだな」とラングストンが言った。
「他の家の犬たちはどう?」
「順調だよ」と言ってから、彼は一瞬間を開けた。「そういえば、今日サディに薬を飲ますのを忘れたんだ。一応、俺の口から言っておいた方がいいな。後で、あのドアマンがお前に告げ口した時のための予防策だ。ただ―」
「ポメラニアンのサディ? それともチャウチャウのサディ?」
「ポメラニアンのサディだよ。ただ―」
「彼女の場合、一種のホメオパシー療法だから大丈夫よ。気持ちの問題っていうか、彼女の飼い主が留守にしてると不安になるようだから、ちょっとした気休め」と言いながら、私は苛立ちを覚えた。こういう細かな指示は、ニューヨークを出発する前にあれだけ言っておいたのに。もしもう一方のサディだったら大変なことになっていたわ。「でもね、もしチャウチャウのサディだったら―」
「糖尿病なんだろ、わかってるよ。彼女にはちゃんと薬を与えたよ。人の話を最後まで聞け。俺はただ、散歩を終えて家に着く前に、ポメラニアンのサディに薬を与えなかったなって思い出して、わざわざ気休め薬を与えるために戻ったんだよ」
彼は私の返事を待っていたが、私は何も言わなかった。しびれを切らしたかのように、ラングストンが「どういたしまして」と言った。
私は彼にお礼を言うべきかしら? ラングストンはスーパーマーケット〈トレーダー・ジョーズ〉でアルバイトをしているんだけど、その一ヶ月分の給料よりも多い金額を、たったの一週間で私は彼に支払うことになってるのよ。逆に彼は私に感謝すべきね。私からの臨時収入を得た彼は、新年明けの1月は働かずに済んで、修士号の試験勉強に集中できるんだから。
「ママとパパはどこ?」と私は彼に聞いた。
「モーニングサイド・ハイツのおじいちゃん家に行ったよ。アップタウンに行ったついでに、ガーベイ教授と会ってディナーを食べるとか言ってたぞ」
私はため息をついた。ガーベイ教授はバーナード大学で国語を教えている先生で、私の母の知人でもある。私が来年ガーベイ教授の教え子になるのを、今から彼は鼻息を荒くして楽しみに待っているらしい。
「そんなにあからさまにうろたえるなよ、リリー。パパもママも、お前が大学に入ったら専攻する科目を勝手に決めちゃったとか、そこまではしてない、と俺は思うぞ。それより、ロンドンはどうだ? ダッシュの様子は? 彼は驚いたか?」
「どうだったかな?」と私は言った。私は勝手に、彼が驚いて大喜びするものと期待しすぎていたんだわ。実際のご対面の瞬間は、大したことなかった。あれだけ情熱を燃やして、彼への気持ちをつぎ込んだ私がバカだった。「なんか彼は気が抜けてる感じだったわ。ストレスを溜め込んでるみたい」
「実は俺も、彼を驚かせるのは良くないんじゃないかと心配してたんだ。大学の1年目ってかなり大変なんだよ。しかもダッシュの場合、全く不慣れな新しい国に飛び込んだわけだし。新しい環境に自分を馴染ませるのに四苦八苦しているところへ、今度はお前が現れたら、お前を楽しませなきゃっていうプレッシャーも乗っかってくる。このクリスマス休暇はリラックスして、疲れを癒す必要があったのかもな」
「彼は私にここで会えて喜んでいたわ」と私はラングストンに断言しながら、自分にもそう言い聞かせた。私たちはお互いに、新たな自分自身を再編成する時期にいるんだわ。ダッシュは海外の学校に通う、オックスフォードの自分。私はギャップイヤー中の、起業家としての自分。そういう自分自身の新たなバージョンを作り上げなければならない時期なのよ。
しかし、カップルとしての私たちは、まだ強固な絆を保っていた。私はそれを疑っていなかった。疑っていることなら、他にいくらでもある。両親の希望通りに、来年私は大学に行くことになるのかどうか。ダッシュは本当にオックスフォードに向いているのかどうか。気候変動による海面上昇に、マンハッタン島が沈まずに持ちこたえられるのかどうか。ダッシュが主張するような美味しいピザを、私はロンドンで食べられるのかどうか。でも、ダッシュ&リリーの絆だけは、一度も疑ったことはなかった。私が若くて世間知らずだからではないわ。私が恋人との関係に自信を示すと、親はすぐ、「あなたはまだ若くて世間知らずなのよ」って言うけど。
私に何が言える? 私の心はただ、ダッシュを求めているだけなのよ。凄くシンプルな気持ち。
マークとジェムがキーツ博物館から出てきた。私を探すように辺りを見回している。私は兄に「ちょっと待ってて」と言った。
「腹減ったよ」とマークが言った。
「そこの角を曲がったところにインド料理店があるのよ」とジェムが言った。「電話が終わったら、あなたも一緒にどう?」
私は言った。「私はご遠慮してもいいですか? ちょっと一人でロンドンの街をぶらぶら歩きたい気分なんです。その後、私はマークの部屋に行きます。それでいいでしょ? マーク」ダッシュがどこかへ雲隠れできるなら、私にだってできるでしょ? そりゃ、夜中に一人で街をふらふらするのは怖いけど、―だけどダッシュの祖母と一緒に、彼が同席してないところで食事をするなんて、それこそ恐怖だわ。彼女が選んだレストランなんて、どうせ不味い料理を出してくるに決まってるし、それをさも美味しいかのように笑顔で口に運ぶなんて、ありえない。
ジェムが言った。「これって世代的なものかしら? 若い子は文学の宝探しなんかやってられないわって感じで、年寄りを置いてけぼりにして、みんなどこかへ行っちゃうのね」彼女は自分で言って自分で笑っていたけれど、私はちっとも面白くなかった。
マークは私を見て、渋い顔をした。「お前を見知らぬ街の暗がりの中に、一人でほっぽり出すのは気が気じゃないな」
「そういうところから、楽しいことって始まるものよ」とジェムが言った。
「リリーなら心配いらないよ」と、話を聞いていたらしいラングストンがスマホから声を上げた。「彼女はどこへ行っても、野良犬たちが味方についてくれるから。彼女が危険な目に遭いそうになったら、野良犬たちが守ってくれるさ」
「たしかにそれは言えてる」とマークは言うと、私の父か祖父にでもなったつもりなのか、私を心配そうな目で見つめ、「一人で大丈夫か?」と聞いてきた。
「うん」私はため息まじりにうなずいた。
マークが言った。「夜中の12時までにアパートに戻らなかったら、インターポールに電話して、お前を探してもらうからな」
ジェムが言った。「私は数年前に〈インターポール〉のメンバーとマヨルカ島で素晴らしい週末を過ごしたわ。彼らは元〈ザ・スミス〉のモリッシーと一緒にヨーロッパを回るツアー中だったんだけど、途中でモリッシーと仲たがいしたみたいね」
ダッシュから学んだことの中にそのヒントがあったから、私にもなんとか彼女の話は理解できた。ダッシュが言うには、〈インターポール〉は国際的な警察組織であると同時に、バンド名でもあるらしい。そして、若い頃のモリッシーは優れたシンガーであり、ゾッとするほど才気あふれる曲を書くソングライターでもあったみたいなんだけど、晩年は右翼的な変人に成り下がってしまったということだった。〈インターポール〉が彼と仲たがいしたのも、その話を知っていたから納得がいった。ダッシュがモリッシーの歌詞を引用して、モリッシー自身をこう評していた。「輝ける光があれば、いつかは消える」
「じゃあ、またね」と私はマークとジェムに手を振って、ラングストンとの電話に戻った。「私はどこへ行ったらいいかしら?」
「今どこにいるんだ?」
「ハムステッド・ヒースよ」
「そこなら去年の夏に行ったよ。その辺りに良いパブがあって、ベニーと一緒に行ったんだ。今からそのパブのリンクを送るから、そこで俺の分までパイントグラスでビールをぐびぐび飲んでくれ!」
見知らぬ国のパブなんて行きたくはなかった。そんなところに一人で入ったら、不安で落ち着かない気がした。でも、パブって大体、お客さんは他人のことなんて気にしてない感じなのよね。ビールのせいでしょうけど、みんな笑顔で陽気にはじけていて、そんな空間で私も、ビールは飲まないにしても、陽気な気分だけでもあやかりたかった。切実にそう感じるくらい、私は落ち込んでいた。
ラングストンが教えてくれたパブ〈ホリー・ブッシュ〉は、キーツ・ハウスから15分ほど歩いたところ、―ハムステッドの中心部を抜けて、わき道に入り、坂道を上ったところに建っていた。外壁にはステンドグラスの窓が連なっていて、木の香りが漂ってきそうなオーク材でできた建物だった。中に入ると、色とりどりの壁紙が貼り巡らされていて、金の額縁に入ったデザイン画がいくつも飾られていた。ダークウッドを基調としたテーブルや椅子は、まるでディケンズの小説から飛び出してきたかのようで、私はすぐにその場所が気に入った。ただ、中はお客さんでごった返していて、確かに一人でいると怖さを感じた。その時、暖炉の近くの居心地良さそう(cozy)なテーブルから、「リリー!」と私の名前を呼ぶ声が聞こえた。―あ、イギリスではcozyじゃなくて、cosyだったわね。
私は声の方へ歩いていった。すると、アズラ・ハトゥンが囲炉裏のそばのテーブルに座っていて、ホットチョコレートを飲みながら本を読んでいた。彼女が言った。「よくここを見つけられたわね。ここは私のお気に入りの場所なのよ。私がロンドンでよく行くところは、〈ドーント・ブックス〉か、ここ〈ホリー・ブッシュ〉なの。ここで会ったってことは、私たちは友達になる運命みたいね」
「よくこんなところで本が読めるわね?」と私は周りの声に負けじと声を張り上げた。「こんな騒がしいところで!」
「私は騒がしいのが好きなのよ。逆にリラックスできるの。凄く陽気でうきうきしてくるでしょ! オリヴィエはうるさい場所が大嫌いみたいだけどね。どうぞ座って。お話しましょ」私は彼女の隣、暖炉のすぐそばに座った。「オリヴィエは少し前に帰ったわ。私はホットチョコが飲みたかったから、一人で残ったの」
「私、お腹ぺこぺこなの。ここの料理って美味しい? なんか、どの料理も肉々しい感じだけど」店内に入ってから、ちらちらと横目で見た限り、なんかみんな、狩りで捕ってきた獲物にかぶりついている感じだった。「私はベジタリアンなのよ」
「私は、ハラールっていうイスラム法で許された料理しか食べないから、ここのディナーメニューはほとんど食べたことないわ。でも、デザートのトフィー・プディングっていう、ねばっこいプリンは美味しいからお勧めよ」
ディナーのメイン料理を抜いて、いきなりデザートに行く人なんて、私と気が合いそうだわ。「それ食べたことない。名前からすると、不気味な感じで、しかも美味しそう。私の大好きなデザートって感じがする」
「きっとあなたも気に入るわ。ちょっと買ってくるわね」彼女は立ち上がると、そのプリンを注文しにカウンターの方へ歩いていった。戻ってきた彼女は、椅子にゆったりと腰掛けて、私をじっと見つめてきた。彼女の瞳が「これからたっぷりと、暖炉のそばでおしゃべりしましょ」と訴えかけてくる。「あなたとダッシュは付き合ってどれくらい?」
「2年よ」
「あら一緒。私とオリヴィエも2年よ。私たちはカレッジで知り合ったの」
私は混乱した。「大学で知り合ったのに、付き合って2年ってどういうこと? あなたたちって今年オックスフォードに入学したばかりじゃないの?」
彼女も、私の発言に一瞬混乱したようだった。それから彼女は言った。「あ、忘れてたわ。アメリカに住んでる私のいとこにも、前に同じ説明をしたことがあるんだけど、イギリスで『カレッジ』っていうと、GCSE試験の後に行く学校を指すのよ。高校と大学の間に行くところって感じかな。GCSE試験の後、大学に進学したいと思ったら、2年間『カレッジ』に行って準備段階の勉強をするの。アメリカ的にいうと、11年生と12年生みたいなものよ」
その言い方のほうが、私にはぴんと来た。「あなたとオリヴィエは、前から一緒にオックスフォードに行くつもりだったの? それともたまたま、うまい具合にそうなったの?」
ダッシュと私の場合、12年生の時、卒業後の計画を全く立てていなかった。なんとなく、ニューヨーク近辺の大学を二人とも志望するという共通認識はあったけれど、なぜか今は二人とも、ニューヨークの大学に行っていない。もっとちゃんと卒業後の計画を立てておくべきだったのかもしれない。
「またまたこうなった感じね。正直に言うと...」彼女の声が次第に小さくなった。
私は彼女に助け舟を出した。「一緒に大学に行くっていうは、ちょっとやり過ぎよね?」
アズラが笑ってくれた。彼女はエメラルドグリーンのスカーフを巻いて頭と首を隠しているから、髪の毛や首元に視線が行くことなく、彼女の整った活力あふれる顔が直接、私の目に飛び込んでくる。「たぶんそうね」と彼女も同意した。「わかんないけど...私の親が言うには―」
「あなたはまだ若いんだから、将来を約束した付き合いなんて早い?」
「それ!」
「私はこれを『ささやきキャンペーン』って呼んでるのよ」と私は言った。「うちの親は、私のボーイフレンドの前では、温かく歓迎している顔をして、彼に聞こえないように裏では、私に小声であれこれ言ってくるの―」
「他の男にも出会ってみたほうがいい、とか?」
「まさにそれ、『ささやきキャンペーン』のスローガンよね!」
アズラが言った。「うちもそう。私の両親はイスラム教徒だから、私にもイスラム教徒の人と付き合ってほしいみたい」
「でもオリヴィエは大丈夫なの?」
「彼は英国国教会の信徒だし、親は反対してる。というか、たぶん彼がイスラム教徒じゃないから、というよりも、宗教は関係なく、私の両親はオリヴィエのことが好きじゃないんだと思う。あなたとダッシュはどうなの? 離れて暮らしてみてどんな感じ?」
「遠距離恋愛なんて望んでなかったんだけど」と私は言った。「でも今は忙しすぎて、逆に彼が近くにいなくてよかったって思うことが多いわ。彼がそばにいたら、気が散って仕事に集中できなくなるし、犬の手芸サイトを立ち上げることもできなかったでしょうね」その時、私はオリヴィエが本屋さんで言っていたことを思い出した。「あなたたちは、ダッシュがニューヨークにガールフレンドがいること自体、信じてなかったんでしょ?」
「あれはつまり...」彼女は言いよどんだ。何かうまい言い方はないかと、この場を取り繕う言葉を探している風だった。「彼って一匹狼っていうか、気難しいところがあるのかな?って。もちろん、彼が魅力的じゃないとか、そういうんじゃないのよ。彼はとてもハンサムだし、ね」私はうなずいて、声には出さずに「わかってる」と返した。「彼は誰とも関係を持ちたいと思ってないんじゃないかって。本と一緒にいれば満足、みたいな人かと思ってたから」
彼女が語る彼の印象は、決して彼を侮辱しているわけではなく、思ったことをそのまま言っているんだろうな、と私は受け取った。ちょうどその時、暖炉のそばに座っている私たちの間に、ネバネバしたトフィー・プディングが運ばれてきたから、私はご機嫌だった、という面もあるかもしれないわね。それは温かいトフィーソースがたっぷりかかったスポンジケーキで、その横には、とろけるような丸いバニラアイスも添えられていた。私はそのあまりの美味しさに、今すぐにでもイギリスに引っ越せるわ、と思ってしまったくらいだった。
「私、このケーキと結婚したいわ」と私は言った。「ごめんね、ダッシュ」
「私もよ。ごめんね、オリヴィエ」私はスマホを取り出して、ダッシュからメッセージが届いていないか確かめた。届いていなかった。アズラは、私が写真を撮るためにスマホを手に持ったと思ったらしく、こう聞いてきた。「あなたって、食べたものを全部インスタに載せちゃう系の人なの?」
「いいえ。私は犬の写真か、犬関連のグッズしか投稿しないわ。それと、イギリスにいる間はSNSを一時休止してるの」私はお酒を飲んだわけでもないのに、少しほろ酔い気分だった。周りの人たちが飲むビールの匂いと陽気な話し声。プリンの甘さと暖炉の暖かさ。それと、アズラの温かさにも、酔っていた。私はまるで大きな秘密を明かすかのように、身を乗り出して言った。「よくいるじゃない? 『しばらくSNSを休止します!』って宣言しちゃう系の人。私はああいうことはしたくないのよ。ただしれっと休んでるだけ」
「悪い子ね」とアズラが言った。
「まさに!」ダッシュにはオックスフォードを中退してほしくなかった。彼を訪ねてここまで来て、私はアズラと心を通わせることができた。きっとダッシュも、アズラやオリヴィエを好きになれるわ。私と出会ったばかりの頃の彼は、クリスマスが大嫌いだったのよ。それが今では、彼もクリスマスのとりこになっちゃったわけだし。
彼女の携帯が鳴った。メールが届いたようだった。「親から。もう遅いから帰ってこいって。たぶん次のチェックポイントでまた会えるわね。私たちは今、ドーントブックスのイベントで争ってるのよね?」
「そうだったわね!」と私は言った。「あなたの電話番号は何番?」彼女は私のスマホに彼女の番号を入力して、電話をかけた。そうして私たちはお互いの電話番号を共有した。
「私たちが友達になったみたいに、お互いの彼氏同士も仲良くなれると思う?」と私は彼女に聞いてみた。
彼女は笑った。「たぶん無理ね! あの二人は競争心が強いから」
「仲良しになった記念に、拳と拳を合わせよっか? 女子同士でグータッチ。男子同士だとよくやってるじゃない?」
「やめておくわ。また近いうちに会えるといいわね」
アズラはパブを出ていった。私は一人で暖炉のそばの椅子に座ったまま、満ち足りた気分だった。それは単に新しい友達ができたからではなかった。私は家族の付き添いもなく、一人で外国を冒険しているんだ。そんな達成感がふつふつと胸のうちに湧いてきた。時々、ダッシュがうつに苦しんでいるのではないかと心配になるけれど、私の場合、原因は息苦しさにあったのかもしれない。私は家族から離れたかったんだと、ようやく気づいた。ダッシュに会いに来たというのは口実で、イギリスに来た本当の目的は、家族から離れることだったのかもね。私自身の道を見つけたくて。
マークとジュリアが待つ家に帰らないといけない。インターポールに電話される前に。〈インターポール〉に電話して、モリッシーと仲直りできたのか聞くのかしらね。その前に私は、イベントの一環だとマークが言っていた、もう一つの課題をやり遂げなければならない。
私はバッグから〈ドーント〉と記されたノートを取り出して、書き始めた。
クリスマスの神父様へ
ダッシュがどこにいようと、どうか彼が無事でありますように。どうか、私がどれほどダッシュのことを愛しているかを彼にお伝えください。
愛と、ねばっこいトフィー・プディングを込めて
リリーより
追伸―ブリットレイル・パス(イギリス全土を回れる鉄道乗り放題のチケット)も欲しいです。もっとイギリスを探検する時間も欲しいな。
追々伸―あなたはアメリカのサンタよりもスリムで、ちょっと陽気さに欠けているようですね。もしかして、ヨーロッパの子供たちって、あなたにクッキーをどっさりとあげないのかしら?
私は書き終えると、サンタさんに届くように、と願いを込めて、暖炉の中にその手紙を放り込んだ。
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