『1日でめぐる僕らの人生』2

『Our Life in a Day』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2020年09月07日~)



チャプター 4


午前8時~9時

二人で一つの家庭を築くということ

2009年4月 ― ベルサイズ・パーク、ロンドン


目が覚めてからすでに1時間近く経っている。ガシャンというガラスが割れる音がして、唐突に覚醒の世界へ引っ張り出されたっきり、目が冴えたままだ。隣のパブで昨夜飲み空かされた大量の空き瓶を、ゴミ箱からゴミ収集車に積み込んでいる音だとわかったが、再び眠りの世界へ戻ることなど不可能なくらい、ひどい気分だった。隣を見ると、エズミーはまだすやすやと眠っている。

だから言ったんだよ、と僕は思った。こういうことが起きる可能性を想定できなかったわけではない。

「窓ガラスが一枚張りで薄そうだし、〈エセックス・アームズ〉っていうパブから10メートルしか離れてないじゃないか、エズ」と僕は8週間前に言ったのだ。その時はまだ、二人で僕のワンルームの狭い部屋のベッドの上にいて、ついに一緒に住もうという話になり、引っ越し先を話し合っていた。「僕は本当に眠りが浅いんだよ」

「仲介業者の人が言うには、夜もパブの音はほとんど聞こえないそうよ」

「そう言ってる人は実際そこで何泊過ごしたと思う?」

「トム、お願い。ここにしましょうよ。ベルサイズ・パークにあって、しかも、私好みの年代物の外観と内装なのよ」

「壁も薄いし、隙間風が入ってきそうだし。それに、いくら年代物が好きっていっても、建物に入ってから部屋までの共有廊下は、まるで殺人鬼のすみかみたいじゃないか」

「あなたって、満足ってものを知らない人ね」と彼女が言った。

公正を期して言っておくと、僕は代替案を示していた。―ロンドンの中心街からは離れるけど、ハムステッド・ヒースの近く、フィンチリーロードの端にある部屋で、寝室が二つあって、窓からは線路が見える。線路にはネズミはいるだろうけど、繫華街みたいにハトはあまり見当たらない。正直言って、その部屋の唯一のとりえは静かなことだったが、静けさこそ、僕が住む家に求める最重要事項なのだ。ただ、ネットでこの物件を見つけた瞬間から、彼女は絶対に嫌がるだろうな、とはわかっていた。

一方、エズミーはたくさんの候補物件を示してきたが、どれも僕には似つかわしくないものばかりだった。マスウェル・ヒルという、ハムステッド・ヒースよりさらに北に行ったところにある部屋は、「ちょっと郊外に行き過ぎだね。〈ピザ・エクスプレス〉の支店が近くにないのが難点」と言って、僕は拒否権を行使した。彼女はカムデンの物件も示してきたけれど、玄関が大通りに面していたため、毎週金曜と土曜の夜には、酔っ払いが小便をかけていくと僕には予見できたので、却下した。彼女が示した中で唯一、完璧に思えた物件は、ウェスト・ハムステッドにある広々とした間取りの部屋だった。最上階にあって静かだし、ここなら、と同意するつもりでいたのだが、僕らが下見に訪れた際、薄気味悪い男が「隣に住む者です」と言って、挨拶にやって来た。彼が去ってから、僕たち二人は困ったように顔を見合わせ、その部屋もあえなくおじゃんになった。

その年の1月、僕らは週末になると、北ロンドンの不動産屋に出向き、部屋を探し回った。どの不動産屋も似たようなミニクーパーを所有し、僕たちを後部座席に乗せて、ぶっきらぼうな表情で小型車を走らせた。そして、薄汚い、まだ引っ越す前の人の荷物でいっぱいの部屋に案内されるのが、毎週末の常だった。

そんなこんなで、ようやく見つけたのがこの部屋だった。

エズミーとって、ここはようやく出会えた「運命の部屋」だった。僕にとっては、まあ今まで見た中では、最も「運命の部屋」に近かった。居心地よさそうで、家庭的でもあった。この二つはどちらも重要な要素だった。―というのも、エズミーと一緒に住むことを考えると、空恐ろしい気分になったからだ。二人で部屋探しを進めるうちに、その気持ちはますます大きくなっていった。

彼女はアドバンテージを(いくつも)持っていた。そのうちの一つが、ルームメイトと一緒に暮らしていた、という経験だった。彼女は、あの同居人との暮らしから、同居することの駆け引きのようなことをすでに学んでいたのだ。なんとかうまく一緒に暮らしていくために、お互いに口には出さないけれど、実践していくようなこまごまとした事だ。一方、僕はそのようなことを何も知らなかった。同棲すると決めてから、部屋を選び、その空間を共有するに至るまで、ありとあらゆる事が僕にとって初めての経験だった。

大学卒業後、2年くらい実家に戻って両親と暮らしたけれど、その期間を除けば、僕は同居とは縁がなかった。―まあ、ハートフォードシャー大学に入って、初めは学生寮に入れられた。他の7人の学生と一緒に、1970年代に建てられた古びた寮にキツキツに詰め込まれたわけだ。ベニヤ板と家具に塗られた安っぽいニスの臭いがきつく、高学年になって一人暮らしを許された時には、開放感でいっぱいだった。一方、エズミーは大学の寮で、またしても僕とはまったく違う経験をしていた。オックスフォード大学で英語の言語学を学ぶために3年間、ロンドン大学で児童言語療法士になるための実習に2年間、彼女の5年間の学生生活は、高等教育という名にふさわしい華やいだもので、彼女はその期間のあらゆる瞬間を愛していた。それは寮生との同居の日々でもあり、誰かと暮らすことは彼女にとって当たり前の日常なのだ。

結局、僕の恐れや不安や、もやもやとした気持ちは、クイーンズ・パークのスターバックスで解消されることとなった。ホットチョコレートを飲んでいたら、その湯気とともにふわっと、どこかへ消え去ってくれたのだ。いや、ホットチョコレートよりも、エズミーの言葉に救われたというべきだろう。僕たちは最終的に4つの候補まで絞り込み、その4つの物件リストを見開き1ページに並べるようにして、スターバックスのテーブルの上に置いた。僕が細かいことにいちゃもんをつけ、エズミーが反論する、という定番の会話が始まりそうだった。

「ねえ、あなたってほんとに一緒に住む気ある?」と彼女が聞いてきた。僕がつい、お金をかけて引っ越すくらいなら、あと何ヶ月か様子見で、このまま僕のアパートで暮らしていようよ、と提案してしまったのだ。

「そりゃ、もちろん一緒に住みたいよ」と僕は言ったが、またしても言えなかったことが二つある。家と呼んで慣れ親しんだ場所を離れるのが怖い、という事実。それから、エズミーと一緒に暮らすことで得られるはずの親密さ。後者はちゃんと言葉にして言うべきだった。

「それなら、あなたは二つの事実を乗り越えなければならないわね。どこに住んだって完璧な場所なんてないってこと。それくらいわかるでしょ、トム。それから、ここはロンドンなのよ。2年も住めば下衆(げす)な大家が家賃を上げて、結局どこかへ出て行かざるを得なくなるわ」

「それもそうだね...」

「だったら、いちいち重箱の隅をつつくみたいに、見てきた物件のあらさがしばかりするのはやめてくれないかな?」と彼女は続けた。僕の物件リストを見る目が、文句をつける気満々だったのかもしれない。まだ文句を言う前に、先に制されてしまった。「今まで見てきたどの部屋も、べつに大きな問題はなかったでしょ。あ、あのカムデンの部屋の、ドアにおしっこをかけられるっていうのだけは、問題だけど」

「わかったよ、エズ。もうあらさがしはしない」

「それで、あなたの中のもやもやは何なの? あなたのことだから、この状況にまつわるすべてに恐怖を感じているんでしょうけど。新しいことを始めるわけだし、今まで居心地いいと感じていた場所から出るのは、さぞかし怖いでしょうね。でも、それは自然なことなのよ、トム」と言って、彼女は僕の手を握った。「ジーザス、私だって怖いわ。神の名を呼びたくなる時もあるの」

「君も?」僕は驚いてしまった。彼女の告白は、二人の関係にすでに確立されていた前提構造に反しているように思えたのだ。つまり、僕の人生はぎこちなく不安定で、社会不適合者のそれ。一方、彼女の人生は健全でぐらつきがなく、しっかりとした未来の見通しも立っている人が送る人生、という大前提があったはずだ。

「もちろん、めちゃくちゃ怖いわよ。怖くないとしたら、逆に心に何か問題があるってことじゃない? あのね、トム。普通に生活してるだけだったら、同僚とか友達がどんな人か、ほんの20パーセントくらいしか見えないものなのよ。だけど、一緒に暮らすとなったら話は別。相手の100パーセントが見えるようになるんだから。可愛げがあるところも、みにくいところも、何もかも全部よ。たとえば、私があなたに来てほしくない夜があったとする。ジョギング用のジャージを穿いて、フェイスパックをしてたら、そんな姿見られたくないでしょ? だけど、否が応でもあなたはそこにいるの。気分がすぐれなくて、一人にしておいてほしい時も、あなたはそこにいる。ああ、なんてこと! 最悪のことに気づいちゃった。私たちは同じバスルームを使うことになるんだ! 想像できる範囲内で最も恐ろしい事態だわ」

「それはそうなるね...」と僕は、引きつった笑みを浮かべながら言った。

「誰かと生活を共有するっていうのは、まるごと全部を共有するってことなの。他の人に見てもらいたい部分だけじゃなくて、全部よ。だけど、他にどうしろっていうの?」

「君の言う通りだよ」と僕は言った。「君が正しいことはわかってる」

「よし。じゃあ、この中からひとつ選んで」と彼女は言うと、トランプの手品のように3枚の紙を手に持った。「今ちゃんと言っておくけどね、トム。私は、一緒に暮らして、なんてあなたにお願いつもりはないの。私はそんなことしない。あなたが選ぶのよ」

彼女の表情から、固い意志のようなものが感じられた。僕の内面の、どうしようもなく変化を恐れてしまう生まれつきの性分(しょうぶん)とか、そういうことを持ち出す時ではないと気づいた。エズミーは、単に住む場所を選んでほしいと言っているのではなく、二人の未来を確認したいのだ。これから長い年月を一緒に築いていける何かがある、と確かめたいのだ。僕たちの関係は、1年やそこらで、将来の話が出た途端に壊れてしまうようなものではない、と。

僕らはもう後戻りできないほどに親密だった。

「これにする」と僕は、ベルサイズ・パークのメゾネットタイプの集合住宅を指差した。「君がこれを気に入れば」

「気に入ったわ」とエズミーは笑顔で答え、「さっそく仲介業者に連絡しましょ」と携帯電話を取り出した。

そうして今、僕たちはここにいる。

エズミーはまだ眠っていて、外の騒音はどんどん大きくなっていく。スポーツカーの一団が朝一で週末のドライブに繰り出すエンジン音、バタンと閉まるドアの音、トラックがバックするピーピーピーという音、さまざまな音が混じり合い、1日が始まろうとしている。その時、上品そうなマダムの声が聞こえた。「ああ、ディグビー、そこにしちゃだめでしょ」ディグビーとは、彼女の飼い犬だろう。そして「そこ」が、僕らの新居の玄関ではないことを願った。

壁際にはまだいくつものダンボール箱が積み重なっている。北ロンドンのスーパーマーケットからくすねてきたダンボールには、スナック菓子の〈モンスター・マンチ〉や、洗剤の〈フェアリー・リキッド〉、〈ペディグリー・チャム〉といった商品名が書かれているが、中身は商品ではない。昨日、カムデンとピムリコの家から持ってきた僕とエズミーの全財産が入っている。僕らはワゴン車いっぱいにダンボールを積み込み、(その重さにハンドルを取られながらも、)なんとかここに運び込んだのだ。

目覚まし時計の針は8時30分を指していた。つまり僕が目覚めてから1時間半以上になる。その間、彼女はどんな物音にも動じずに眠り続けている。たぶんこれが、と僕は予見できた。これがずっと続くのだ。こんな感じで毎朝早くに目が覚めて、この雑音に慣れることはなくても、なんとか折り合いをつけて生活していくことになるんだ。今までもそうだった。壊れたドアベルや、きしむ床板のように、最初は気になってもすぐに忘れてしまう。そしてそこを去ってみると、そんな悩ましかったものが、なぜか妙に懐かしく思えてくるものだ。エズミーは胎児のように横向きに丸まって、ぐっすりと眠っている。羽毛布団を彼女の首と顎の間まで引き上げた。

僕は彼女を起こすことを諦め、ベッドから出ると、狭いリビングルームに入った。一応キッチンとは分かれていて、朝食を食べられるカウンターで仕切られている。プラスチック製の安っぽいダイニングテーブルが置かれ、他にも大家さんが予(あらかじ)め、一揃(ひとそろ)えした最も基本的な家具類が並んでいる。僕らの新居は、どこに目をやっても、まだカオス状態だ。キッチンの調理台には、昨夜テイクアウトしてここで食べた中華料理の残飯があり、チーズおろし器が3つ、やかんが2つ、穴開きボウルにいたっては4つもあった。―仕方ないことだ。僕らはそれぞれに物質的な生活を送ってきたわけで、それが合わさるとこうなる。

積み重なっていたエズミーの本を手に取って、パラパラと見ていると、彼女がリビングに、足を引きずるようにして入ってきた。彼女は赤いチェック柄のパジャマのズボンを穿き、上半身には、僕の大きめサイズの紺色のパーカーを羽織っていた。長い袖を肘までまくり上げている。

「おはよう」と僕は明るく言った。

「いつから私を起こそうとしていたの?」と彼女は寝ぼけまなこで言った。

「どういう意味?」

「ぶつぶつ文句を言ったり、音楽を口ずさんだり」そこで彼女はあくびをした。「ベッドの周りを歩き回ったり」

「なんだ、起きてたんだ?」と僕は言った。彼女は僕の頬にキスしてから、もう一度あくびをすると、髪の毛に指を走らせた。それから食器棚を開けて、何かを探しだしたけど、それはそこにはないものだったらしく、結局あきらめて冷蔵庫を開け、中からパンを取り出すと、トースターに入れた。

うとうとしてたのよ」と彼女が言った。「ていうか、どうしてパンを冷蔵庫に入れておくわけ?」

「パンは冷蔵庫に入れておくものだよ」

「パン専用の入れ物があるでしょ」

「僕たちは持ってないみたいだね...」

「じゃあ、買うものリストに追加して」と彼女は言い、冷蔵庫にマグネットで貼られた紙を指差した。彼女はそこに現在不足していて、数日以内に必要になりそうなものを一つ一つ書き出していた。アイロン台、お皿を追加で何枚か、ティースプーン、バスマット。バスマットに関しては、床にタオルを敷けばいいじゃないか、と僕は反論した。しかしエズミーが、もうすぐ30歳になる女性として、学生や不潔な独身男性のような生活はしたくない、と再反論した。

「今紅茶を作ってるんだ」と僕は言った。「君は朝食を作りながらでも、仕事の続きをやればいいさ」

「いいえ、結構よ」と彼女が言った。「ルール6、覚えてる? それに、私は私の朝食を作ってるの。あなたはあなたで自分のことをやればいいわ」

「こんな感じがずっと続く感じ?」と僕は言いながら、彼女がコップ類専用として指定した棚から、彼女の色あせて少しふちが欠けた〈オックスフォード大学〉のマグカップを取り出した。「自分のことは自分で。それぞれに」

「あのね、目覚めたとき、私は自分がどこにいるのかわからなかったの」と彼女は、僕の発言を無視して言った。

「君はエズミー・サイモンだよ」と僕は皮肉っぽくゆっくりと言った。「僕はトム・マーレイ。そしてここが」手を広げて部屋の中を示しながら、「ロンドンのベルサイズ・パークにある僕たちの新居。今年は2009年で―」

「うるさい。バカ」彼女はそう言うと、トーストにマーマレードを塗り、お皿を持たずにリビングに持っていった。昨夜もお皿が見当たらずに、僕らは中華を、テイクアウト用のアルミパックから直接食べた。

彼女はソファに腰を下ろすと、トーストを一口かじった。僕は紅茶を、イケアの手狭なコーヒーテーブルの上に置いた。そういえば、これまで内見してきたどの賃貸住宅にも、似たようなイケアっぽい箱型テーブルが備え付けられていたな、と思っていると、彼女が紅茶の表面の色具合をじっくりと確かめている。僕が紅茶をいれた時の、彼女のいつもの所作だ。

「ここはひどい騒音の渦の中だって知ってるだろ」と僕は言ってみた。

「平気よ」

「毎朝、そこのパブから業者がビンを回収していくんだ」

「まだ引っ越してから、朝は1回しか来てないでしょ」

「じゃあ、毎朝ではないかもしれないけど、そこのパブから業者がビンを回収していくんだ」

「だから?」と彼女はソファから身を起こして言った。

「脳に響く。この世の終わりのような音なんだよ」

「大袈裟ね。メロドラマみたいなことを言うのはやめて、トム」

「外で話してる人もいて、結構うるさいよ」

「でしょうね。っていうか、人が話すなんて異常事態だわ。人が話してるんですって陳情書を書いて、評議会に訴えたほうがいいんじゃない?」

「犬が吠えたり。ランニングしてる人もいる」

「でしょうね。トム、あなたね、ここはロンドンなのよ。わかってる?」

「わかってる、けど―」

「あなたの前の部屋は4階だったって言いたいんでしょ。そりゃ通りから離れれば、その分静かになるのは当たり前でしょ」

「うーん」

「ここが気に入らないって言いたいの? もう?」

「違うよ! ただ僕は―」

「ここを見つけるのに、かなり時間がかかったものね」

僕は少しの間何も言えなくなってしまった。心に不安やもやもやはまだ残っていた。しかし、その部分は見ないようにすることが、彼女にとって、二人にとっても、重要なんだとわかっていた。

「エズミー、違うんだ。そうじゃなくて...僕はここに満足してる。ただ、ベルサイズ・パークにもっと人が少なければいいのにって」

「この辺に住んでる人はみんな同じことを考えてるでしょうね。それがロンドンなのよ。そうでしょ? 誰もが他の人の近くに住みたいとは思わない。けどね、誰だって近くに全く誰もいないところに住みたいとも思わないのよ」

「うーん、いまいちぴんと来ないな」

「ゆっくり考えなさい」とエズミーは言うと、腕を伸ばしてあくびをした。この議論は終わり、という合図らしい。

「あとね」と彼女が言った。「あなたはCDを持ってきすぎ。少し処分しないといけないわね。通りの向こうにリサイクルショップがあったから、持っていきましょ」

「わかったよ。っていうか」

彼女が「何?」と言った。『小説 A~M & 花瓶類(割れ物注意!)』と書かれたダンボールを、僕が指さしたからだ。

「ガラクタが多すぎるっていう話なら、君の本はどうなのさ? アルファベット順に4つの箱に分けるほどあって、しかもそのほとんどがもう読んだものだろ。なんで本はリサイクルショップに持っていかないの?」

「また読みたくなるかもしれないし」とエズミーは素っ気なく言った。

「本気で言ってる? 実際に読み返したことは、どれくらい...」と僕は言いながら、箱の中から適当に本を1冊手に取った。ジョン・グリシャムの『甘い薬害』だった。

エズミーが自己弁護するように何か反論してくるのがわかったので、僕はそれを遮るように先に言った。

「ついでに言えば、なんでジョン・グリシャムの『甘い薬害』なんて読んだの?」

「それは休日用ね! 先が気になってめくる手が止まらなくなる系は、休日に読むことにしてるの」

「ということはだよ。もう先がわかってしまった今となっては、つまり、今後この本を読むことはないって君は自ら認めてるようなものじゃないか。まあ、それこそ何かの小説にあったみたいに、スペインのマルベーリャとか、どこかのリゾート地で記憶を失いつつ、余生を過ごすことになれば、また読み返すってこともありうるだろうけど」

「そうね。言われてみれば、それはもう読まないかもしれないわね―」

「じゃあ、捨てよう!」僕はそう言うと、その本をリサイクルショップ行きの箱に投げ込もうとした。中には二人の要らなくなった物がたくさん入っている。この部屋に引っ越す前に、それぞれで処分すべきだった物たちだ。そこでエズミーが手を伸ばし、僕の腕を掴んだ。

「待って! 本をいつ捨てるかは、私が決める。あなたじゃない」

「だけど―」

「じゃあ」と彼女は言うと、僕のCDを1枚手に取った。ディレイズというバンドのアルバム『Faded Seaside Glamour(かすみゆく海辺の幻影)』だった。

「そ、それをどうしようっていうんだよ?」と僕は言った。

「取引よ。これとそれを交換、いい?」

「そんなのむちゃだよ」と僕は言った。

「CDなんて、今はもう価値がないのよ。あと2年もすれば、こんなの誰も持ってないわ」

「僕以外はそうかもね。そのレコードは残すよ」

「ちょっと、CDをレコードって呼ぶのはやめて。レコードはかっこいいけど、CDはくだらないガラクタよ」

ちょっと、CDをレコードって呼ぶのはやめて」と僕は、声を裏返して、すねるような口調で繰り返した。

「子供みたい」とエズミーが言った。

「僕はそれをまた聞くかもしれない。けど君はこれを、もう二度と読まないってわかってるんだろ」

「そういう問題じゃないわ」

「問題はね、君が物を捨てるのが嫌いだってことだよ。たとえそれが全く役に立たない物であってもね」

「そっくりそのままお返しするわ」とエズミーが言って、CDを振り上げたから、僕は笑ってしまった。「何がおかしいの?」と彼女が聞いてきた。

「いや、なんかそのCDを僕の頭に投げつけようとしてるみたいだから」

「逆よ、あなたから遠ざけてるの。っていうか、あなたがその本を下に置かないのなら、投げつけるかもしれないわね」

「それはできない相談だね」

「いいわ。ならゲームで決着をつけましょう」

「いったい何を言い出すんだよ」

「お互いに、これは捨てた方がいいと思うものを一つ選んで、それについて質問をする。持ち主がその質問に正解すれば、それは残す。間違えれば、それは捨てる」

「僕が先に質問してもいいなら、いいよ」と僕は言って、ガンマンのメキシカン・スタイルに終止符を打った。なんだか二人のガンマンが銃口を向け合ってるみたいだったな、と思いながら、手に持った銃ではなく、本を裏返して宣伝文を読んだ。「余談だけど、君は即興で、こういうゲームを思いつくのが得意みたいだから感心したよ」

「そうなのよね。私がテレビ業界に入れば、この才能を遺憾なく発揮できるんだけど」と、彼女は僕のCDを持ったまま言った。

「わかった。じゃあ、『甘い薬害』の主人公は誰?」

「クレイ・カーター」とエズミーは、考えるまでもないわ、という感じで軽く答えた。

「なんでそんなことまで覚えてるんだ?」

クレイ・カーターみたいな名前を忘れるわけないでしょ? はい、私の勝ち。その本は残す」

僕は仕方なく、ポイッとその本をエズミーのそばの床に投げるように置いた。そこには革張りのハードカバー版『くまのプーさん』や、サイン入りの『ハリー・ポッター』1巻から3巻までといった、〈残す/捨てる〉ゲームをするまでもなく、取っておく本が置いてある。

「私の番よ」とエズミーが言った。「このCDの3曲目のタイトルは何?」

僕は頭をひねったが、それらしいタイトルは何も浮かんでこなかった。何年か前にこのアルバムを買った時に聴いて以来、ずっと聴いていなかったのだ。正直に言えば、その時に最後まで全曲聴いたかどうかもあやしい。

「わからない感じ?」

「ちょっと待って」と僕は、一か八ばちか賭けてみる覚悟で言った。「えっとねー」

「5秒」

「エズ!」

「3。2」

「ちくしょう」

「1。さあ答えて」

「だめだ。パス。さっぱりわからない」

「答えは『Long Time Coming(やっとここまで来れた)』よ。知ってる曲?」

「ああ、それか。それはシングルカットされた曲なんだ。そのアルバムの中で唯一の、いい曲だよ」

「じゃあ、最後にもう一度聴いてみたらどう?」とエズミーは言って、自分の本とは分けるようにしてCDを置いた。そこに捨てるCDを重ねていくつもりらしい。「だってこれは売っちゃうから」

それからそのゲームを3回した。その間、僕はエリオット・スミスのアルバムと、ライアン・アダムスのアルバムを失った。一方、エズミーは、黄ばんでボロボロになったイアン・ランキンの小説を失った。何度も読み返したのかと思ったけれど、裏を見ると、古本屋の割引シールが貼られていた。しかもかなり前に潰れたチェーン店のシールだから、元からボロボロだったのだろう。それから、どうやらエズミーが、僕の好きなCDや、何かしらの思い入れがあるCDばかりを狙っていることに気が付いた。友人からのプレゼント、サイン入りのCD、限定版のCDにさえ手を伸ばす始末だ。

「このゲームは好きになれそうもないな」と僕は、ザ・ベータ・バンドの『The Three EPs』に入っている曲名が出てこなくて、このCDも失いそうになりながら言った。「僕はこういうのは下手くそみたいだから」

「楽しいじゃない」

「だろうね。君は本を一冊しか失っていないのだから」

「私はこの種のゲームの才能があるのよ」

「まあ、君が作ったゲームだからね」

「そうかもしれない。でもね、私のゲームには、どのゲームにもちゃんと、背後にメッセージが込められているのよ」

「このゲームのメッセージは、『トムの荷物を片っ端から片付けろ』だな」

「というか、『思い出と妥協』かしらね。二人で一つの人生を築いていく上で、それって重要な要素だと思うの。どの思い出を残して、どれを忘れるか、そういう折り合いをつけていくことが、二人でうまくやっていくコツなのよ」とエズミーが言った。「そう思わない? これから先、私たちの前には新たなことがどんどん押し寄せてくるのよ」

彼女がにっこりと微笑んだので、僕も微笑み返した。すぐ外の通りを大音量のカーステレオを響かせた車が通り、その重低音が去ると、子供たちの笑い声が聞こえてきた。犬が吠え、またトラックのバック音が聞こえる。近くに運送会社の車庫でもあるのだろう。これから、これらすべての音に慣れていかなければならない。慣れればきっと、ここがホームになるから。

「曲名すら覚えていないってことは、それだけの物なのよ」とエズミーは言うと、次にふるいにかける本を差し出してきた。「さあ、何でも聞いて」



チャプター 5


午後6時~7時

二人で過ごす初めてのクリスマスは秘訣に満ちて

2007年12月 ― ローストフト、サフォーク


アン・マーレイは、クリスマスにしか使わないグレービーソースを入れた食器を洗い流すと、トムに手渡した。この魔法のランプみたいな食器を使うことは、マーレイ家のクリスマスには欠かせない、伝統の一つなのだ。トムの父親のゴードンは、ブランデーと葉巻(クリスマスだけは家の中で吸うことが許されていた)を手に持っている。姉のサラと婚約者のネイサンは、音楽を選曲し、ダイニングテーブルをゲーム用にセッティングしている。トムとアンは洗い物をしながら、来年の抱負をお互いに語り合っている。

しかし、今年は何かが違っていた。クリスマスのランチを終え、洗い物をしているキッチンカウンターの前に、3人目がいたのだ。

「これはどちらへ置きますか?」とエズミーが聞いた。フルーツサラダを入れていた大きなクリスタルボウルを掲げている。エズミーがそれを振り上げたとき、母親が一瞬身構えたのをトムは見逃さなかった。

「その棚の一番上よ、エズミーさん。それ用の箱があるの」

トムは、重ねたお皿を食器棚に運んだ。そこには最高級の陶磁器類が保管してあって、今日それらをしまい込んだら、また来年のクリスマスまで使われることはない。一方、エズミーは流し台の前、アンの横に立つと、湿ったティータオルを手に取った。

「変な感じでしょ?」とアンが聞いた。「クリスマスに家族と離れて過ごすなんて」

「昨夜は二人で彼女の実家に泊まってきたんだよ」とトムが言った。

「わかってるわよ。でもクリスマス当日は今日でしょ」

「母さん、―」

「いいえ、全然そんなことありませんよ」とエズミーが割って入るように言った。きっぱりとした、それでいて丁寧な言い方だった。トムが「馬鹿なことを聞くなよ」的なことを母親に向かって、息子特有の憤(いきどお)った、イライラした感じで言うのを見越して、先回りしたようだ。

「私たち家族が、いい気分転換になってくれればいいんだけどね。そんなに変に思わないでちょうだいね」とアンは言った。マーレイ家は普通の家族よりも、まとまりがなく、手に負えない家族であると、アンは信じて疑わなかった。

「素敵な時間を過ごせています」

「あなたの家のクリスマスはどんな感じなの? 今頃、あなたの家族は何をしてるのかしら? まさか、何か知的なことをしてるとか言わないでちょうだいね。私たち家族は食べることしか能がないみたいに、ただ食べてグダグダしてるだけだっていうのに」

エズミーが笑った。「特別なことはしてないと思いますよ」と彼女は言った。「両親はハンガリー出身なので、前日のクリスマスイブの方が特別な夜なんです。なので、毎年イブはお祝い事をしていますけど、今日は散歩に出かけたり、映画を見に行くくらいだと思います」

「じゃあ、七面鳥のお肉とかは食べないの?」

「鯉(こい)だね」とトムが言った。

「どういうこと?」

「彼女の家では鯉を食べるんだ。川にいるやつだよ」

「こい?」

「彼の言い方だと、なんだかまずい食べ物みたいに聞こえますけど。でも、すごくおいしいんです」

「あなたも食べたの?」とアンは、少し驚いたようにトムに聞いた。子供の頃、パン粉をまぶした揚げ物ばかりを食べて、他の物はことごとく拒絶していた息子が、鯉を食べる姿を想像できなかったのだろう。

「食べたよ」とトムは言った。

「こい」とアンはもう一度呟いた。また少し信じられない様子だ。

「母さん、ハンガリーは内陸国だからね。つまり海に面していないってこと。だから、1匹のタラでも釣り上げるのが大変なんだ。網で一気にってわけにはいかないからね。貴重なんだよ」とトムは知識をひけらかすように、得意げに言った。実は1週間ほど前にエズミーが彼に言った、そのままだった。

「ジンジャーブレッド・クッキーも作ります。それを包んで、近所の人たちに配るんです。それからイブの夜に教会に行って、真夜中のミサに参加します」

「あら、あなたのおうちって...その...」

「信心深いってことですか? そういうわけでもないんですよ。ただクリスマスの讃美歌が好きなだけで」

「素敵よね。トムも連れて行ったのかしら?」

「いいえ」とエズミーは言って、トムに微笑みかけた。彼は昨夜、午後10時頃まで、ひき肉の詰まったロールキャベツや、ポピーシード・ケーキをたらふく食べて、テレビでクリスマスイブの〈トップ・オブ・ザ・ポップス〉をうつらうつら見ているうちに、肘掛け椅子に座ったまま眠ってしまったのだ。午前3時に目覚めると、毛布をかけられていて、テレビはすでに消えていた。「彼はパパと家で留守番してました」

冷えたリビングルームで目覚めたとき、不思議な感覚がした。なんだか自分の家にいるようだったのだ。今まで誰かの家に行って、そんな風に感じたことは一度もなかった。タマス・サイモンとレナ・サイモン(エズミーの両親)が彼を受け入れ、昨夜二人の話を聞かせてくれたからかもしれない。20代前半だった彼らは異国の街(ロンドン)で出会い、二人で生活を始めた。そういう話だった。彼らはクリスマスプレゼントもくれた。楽しい時間を過ごしているうちに、彼らの家族の中に引き込まれていったのだろう。

「他に何かお手伝いできることはありますか?」とエズミーは、ナイフやフォークをひと掴み、コンロの下の引き出しにしまい終えて、言った。

「あなたはもう十分に手伝ってくれたわ」とアンが言った。「さあリビングに行って、座っててちょうだい。仕上げは私とトムがやるから」

エズミーはティータオルをすすいで、しぼって広げた。赤鼻のトナカイのルドルフが描かれていた。小学生が描いたみたいな大雑把な絵だったので、トムの絵をタオルにプリントしたのかもしれない。彼女はそれをキッチンカウンターに置くと、トムと彼の母親がいるキッチンを後にした。

彼はラジオのつまみをひねって、周波数を合わせた。クリスマスの定番曲『ニューヨークの夢』がキッチンに流れだす。今年の冬もすでに何千回と聴いたような印象の曲だ。それから彼は、母のワイングラスにスパークリングワイン〈プロセッコ〉を、巨大なボトルを両手でかかえるようにして注いだ。食材でいっぱいの冷蔵庫には入らないということで、母が氷と冷水を入れたバケツに入れて冷やしておいたワインだ。

「それで?」と彼は言った。

「それでって何?」

「それで、どう思った?」

トムの母親が、彼から受け取ったオタマを持ったまま、一瞬動きを止めた。調理器具を立てておく円柱型の容器にオタマを立てると、バランスが傾いて容器ごと倒れる恐れがあるので、キッチンカウンターの引き出しにしまおうとしているところだった。

「彼女は完璧よ、トム。ほんとパーフェクト」

彼は微笑んで、ありがとう、と言おうとしたところ、その前にアンが、斜め上を見上げるようにして、エズミーの美点を挙げていった。

「彼女は賢くて、面白くて、彼女が近くにいると場が和むわね。ああ、それに、すごく可愛い子じゃない、トム。あなたが連れてきた子の中で一番じゃないかしら」

「彼女を気に入ってくれて嬉しいよ」

「あなたも好きなんでしょ」

「まあ、そうだね。もちろん」

「でも、私はそれ以上のことを感じたわ、ね?」と彼女は言った。彼女は何気ない感じで、さまざまな感情や意味合い、言外の含みを込めようとしているようだった。「私にはわかるの。彼女は違う。この子は、今までの子たちとは違うって。ニアムとも違うし、エマとも違う。あと、もう一人、誰だっけ? あのオーストラリア人の子」

「カーラ」

「そうそう、カーラ。エズミーは誰とも違う。何かが違う。お父さんもそう思ってる。あなたのお姉ちゃんも。それにネイサンもね」と彼女は、姉のサラの婚約者の名前も挙げた。

「ネイサン? 彼は何も知らないでしょ? 彼は最近うちに来るようになったばかりだし、エズミー以外の子たちには会ったこともないじゃないか」

「ああそうね。でも彼は、そうやって家族の中に含めてあげると喜ぶのよ、ね?」アンはそう言うと、ゴム手袋をパチンと勢い良く外した。「彼女の家族はどうなの? あなたはうまく溶け込めてるの?」

「いい感じだよ、うん。いい人たち。ほんと、すごくいい人たちなんだ」

「なんだか、あまり煮え切らないような言い方ね」

「そんなことないよ。僕を受け入れてくれて、昨日だってすごく楽しかった」

「不思議だったでしょ。前日のクリスマスイブに、こい、でお祝いだなんて」

「でも、それはいいことだよ。イブに彼女の家でお祝いして、クリスマスにうちでお祝いすれば、毎年両方の家族に会えるんだから」

「うーん」とアンは言いながら、食器棚に向かった。そしてガラス扉を開くと、エズミーが間違った場所に置いた食器を直したり、バランスを考えて、上に重なったものを下にしたりし始めた。

「何?」

「あなたの言い方が気になったのよ。毎年両方の家族に会えるんだからって」

「それが?」

「なんだか、これからもクリスマスを一緒に過ごすことが決まってるみたいな言い方じゃない」

「そうなるといいな、とは思ってるよ」とトムは言った。

その言葉が引き金となって、彼の思考が数年先の未来へと飛んだ。エズミーの実家で彼女の両親と一緒にいる、数年後の自分の姿が浮かんだのだ。一瞬、全く別の誰かの姿も見えた気がした。子供かもしれない。その存在を何よりもほのめかしているのは、玄関のそばに置かれた子供用のキックスケーターだった。トムは頭を振って、その想念をすぐに振り払った。そのようなことを考えるのはまだ早い。もしかしたら、そういうことは僕には向いていないのかもしれない。

「そうなるといいわね、トム。で、あなたはどう思ってるの? 彼女って...」アンは食器棚から離れると、調理台の上に手を伸ばし、薬指に指輪をはめる真似をした。

「いや、エズミーはそういうんじゃないんだ」

「そういうんじゃないって?」

「彼女は結婚が嫌いなんだよ。その考えを嫌ってる」

「どうして?」

「嫌いなものは嫌いなんだよ、母さん。どうして? なんて、そんなこと彼女に聞くもんじゃないよ」

「わかったわ」と彼女は言ったけれど、この問題を放っておくつもりはないわ、と示唆するような言い方だった。

「母さん」とトムが言った。

「なんだか悲しくなっちゃうわね」

「そういうことなんだから、仕方ないだろ」

「じゃあ、もうそのことについて話し合ったのね?」

「彼女が結婚には興味がないってことを確認しただけだけど」

トムには母親の気持ちがわかるようだった。エズミーのことははっきりと好き、だけど、自分が今まで築き上げてきた伝統的ともいえる家庭をエズミーは嫌悪している。その相反する相関関係をなんとか丸く収めようと必死なのだ。

「まあ」と母は言った。「彼女の気持ちも変わるかもしれないものね」

トムはこれに反論しようと思ったが、反論したところで得るものは何もないと思い直し、やめておいた。エズミーの結婚観は彼の中で揺るぎないものだったし、彼女の気持ちを変えようとするほどの関心は彼の中になかった。

「サラはもうすぐ結婚生活を始めるんだろ?」とトムは、姉のことを考えながら言った。彼女は今頃、クリスマスにしか日の目を見ないゲームセットを開けて、トランプやカジノコインを準備しているはずだ。

「もうすぐね」と言った後、アンは真剣な声音(こわね)に変えた。「トム、あなたに聞きたいことがあるのよ」

何を聞かれるかはわかっていた。予期していたことだった。しかし、彼が何か言う前に、リビングから声が聞こえ、会話が中断されてしまった。

「〈ラミー〉をやりましょ! 準備完了よ」

「僕たちも行かなくちゃ―」

「まだよ」と、アンはしっかりとトムを見据えて言った。

「母さん」

「トム、私たちはね―」

「今じゃない」とトムはピシッと言うと、母をキッチンに残してリビングへ向かった。


その15分後、マーレイ家がみんなでゲームに興じている最中、エズミーはわざとトムの目を引くように、こめかみに手をあてた。

「大丈夫?」と彼が口にした。彼女は赤ワインをもう一口飲み、微笑むことで、その質問に答えた。そして彼女は、3枚のエースをテーブルに置くと、5、6、7、8というハートの連続技を繰り出した。

「またか」と彼の父親が叫んだ。「これで4回連続エズミーさんの勝ちだ!」

「なんだか申し訳ありません...」

「このゲームを一度もやったことがないってのは本当かい? 君は私たち一家の貯金をごっそり頂戴するために参上した〈カード・シャーク〉じゃないのか? うちの5ペンス硬貨をすっからかんにしようって魂胆か」

「私は何とも言ってませんよ」とエズミーは言うと、6枚重ねのシルバーコインを自分の方に引き寄せ、すでに溜まっていたコインの山に加えた。

トムも一緒になって、憤りやイライラを抱えたふりをして、ぶつぶつ文句を垂れたけれど、実際、彼の心のうちは晴れやかだった。この何週間かずっと、エズミーは彼の家族に打ち解けられるか心配していたし、彼も心配だった。それは杞憂だったわけだ。他人の家で過ごす初めてのクリスマスには、家族に溶け込むコツのようなものが必要なのだ。それを間違えると、二人のうちのどちらかが、あるいは二人とも、理解もできなければ破ることも許されない、その家族の伝統やしきたりの迷宮に何時間も迷い込んでしまう。すぐに追い出されるから、何日も迷い込むことにはならないとしても。

時折、母親の様子を見ながら(彼女はキッチンでの会話をすでに忘れたように楽しそうだ)、トムはエズミーを観察していた。不快感やストレスを感じている気配はないかと、彼女の細かな表情の変化に気を配ったが、彼女はどの時点でも満足し、くつろいでいるように見えた。彼女はサラとネイサンに、幼児期の言語発達に関わる仕事をしている、と話し、それから彼女はネイサンに、アングリー・マットについても話した。マットはドラマーで、トムと出会う前の数ヶ月間、彼女と付き合っていた元カレだ。ネイサンが彼のバンドのファンだったのだ。ゴードンは彼女に、オックスフォードでの勉強について尋ねたけれど、大学というより別の惑星について聞いているみたいだった。アンは彼女に、ローストフトの歴史をざっくりと語り、彼女の友人や、友人の友人にまつわる噂話のような逸話(いつわ)を語っていた。

彼は、クリスマスに両親を訪れることについて、エズミーと話した時のことを思い出していた。会話の流れによっては、この計画は流れていたかもしれない。

12月中旬のある晩、エズミーはピムリコの彼女の部屋でプレゼントを包装しながら、砂糖を入れて温めたグリューワインを飲んでいた。トムがその様子をじっと見つめていると、彼女が「もしかしたら、やめておいた方がいいかもしれないわね」と言った。

「何を?」

「クリスマスにお互いの両親に会いに行くこと」

「僕は平気だよ」

「ああ、それはよかったわね」と彼女は皮肉っぽく言った。「あなたはいいかもしれないけど、私のことを話してるのよ。もし私がクリスマスに何かやらかしちゃったら、毎年クリスマスが来るたびに、そういえば、あの時のあの子って思い出されることになるわ」

「君は何も失敗しないよ」

「するかもよ。飲みすぎてバカなことを言いだしたらどうしよう」

「じゃあ、飲み過ぎなければいいよ。僕も飲まないようにする」

「ゲームはどうするの? あなたの家ではクリスマスにゲームをするんでしょ?」

するね

「それって、どんな?」

「大体トランプだね。時々クイズもするけど」

「そう」と、彼女は緊張ぎみに言った後、黙り込んでしまった。

「今度は何?」

「ルールがわからないんじゃないかって心配なのよ、トム。私はポンコツだから、新しいルールをその場で覚えられるかどうか」

「エズミー、君はオックスフォード大学で学位を取ってる。今まで僕が出会った人の中で、一番頭がいいんじゃないかな。〈オールド・メイド〉のルールだってちゃんと覚えられるよ」

「〈オールド・メイド〉って何?」

「それはしないかもしれないけど」とトムは言った。

彼女はまた、しばしの間黙り込んでしまった。うつむきながら、ケイト・ラズビーのアルバムに耳を傾けている。トムが、一度聴いてみてよ、と言ってかけたアルバムだ。聴いてるとウキウキしてくるし、彼女ほどクリスマスのこの時期にぴったりな歌手は他にいないよ、と。しばらくすると、再び彼女の心配が噴き出した。

「私のことを好きになってくれるかしら?」と彼女が聞いた。

「もちろんさ。好きにならないわけないだろ?」

「じゃあ、あなたの前の彼女は気に入られた?」

「ナイアム?」と聞き返しながら、2年前の春、復活祭の週末にサフォークに連れてきた、内気なアイルランド人の女の子のことを思い返していた。彼女はこっちがドギマギしてしまうほど物静かで、ほとんど何も喋らず、ゆえにその数日間はとても長く(ひどく長く)感じられた。「何とも言えないな」

エズミーが深いため息をつく。

「いや、君は大丈夫だよ、エズミー」とトムは言った。「君が気に入られないわけないじゃないか」

そして今、すべてが正しかったと思えた。ちゃんとしっくり、僕の家族に溶け込めてるじゃないか。彼女は準備したのかもしれない。僕の家族と打ち解けるために、まるでゲームを秘訣をつかむように。そんなことを思いながら、〈ラミー〉に興じるエズミーを見つめていた。彼女が僕の視線に気づき、にっこりと微笑み返してきた。彼女がワインの最後の一口を流し込むと、グラスが空になった。

「もう一杯飲む?」とトムが聞いた。

「もうすっからかんだよ」とゴードンが言った。

「大丈夫。もう1本ボトルを持ってくるから」

トムはテーブルから立ち上がって、キッチンへ向かった。ワインは冷蔵庫の上のラックに入っている。6×6で36本入るラックには、ウォッカの〈スミノフ〉も入っている。母親が土曜の夜にたまに、トニックと混ぜて飲んでいるボトルだ。昔は1本飲み干すのに1年ほどかかったボトルも、息子が成長し、母親に内緒でこっそり口をつけるようになってからは、〈スミノフ〉の減りも早くなった。他の穴はコーラのボトルで埋まっていた。

彼は赤のボトルを引っ張り出した。ねじ蓋(ぶた)式のワインだ。半年前であれば、お酒を手にした感触は、今とはだいぶ違っていただろう。今はもう、切羽詰まった誘惑は芽生えてこない。代わりに、もっと感覚的な、人生への満足感のようなものが、胸のうちに初めて芽生えつつあった。彼がしみじみとボトルを見つめていると、スリッパが床とこすれる柔らかい足音が聞こえてきた。

「あなた、さっき私の言ったことに答えなかったじゃない」と後ろから声がして、振り向くと、母親がキッチンの入り口に立っていた。

「答えるって何のこと?」

「とぼけないで。わかってるでしょ、トム」アンはそう言うと、表情を引き締めた。彼女が最も嫌っている話題を今にも持ち出す構えだ。

「母さん、頼むよ。もうちょっと待てないの?」

「あなたが今日来てからずっと気になってたのよ」と彼女は言って、彼をじっと見つめた。

「そんなの、気にしなくていいよ」

「彼女がもう知ってるのなら、私だって気にしないわ。でも、あなたがそうやってこの話題から逃げてるってことは、彼女はまだ知らないんでしょ」

どう答えればいいのかわからずに、しばし立ちすくんでしまう。本当のことを言えば、母親を困らせ、怒らせるだろう。ここは適当に嘘をでっち上げた方が賢明か。軽い嘘なら問題ないはず。しかし、母親の目を真正面から覗き込むと、彼女の目があの時と同じ目だと気づいた。僕が病院のベッドで取り乱している時に、僕を見下ろしていたあの目だ。

「彼女はまだ知らない」と彼は言った。「けど、正確に言うと、そうでもない」

そう付け加えると、母親はみぞおちにパンチを食らったかのように、目を点にした。彼女が驚くのも無理はない。エズミーとの関係はこれまでとは違う、そう言っている割には、他の子たちの時と、どうせ同じだと高を括っていたのだろう。

「そうでもない?」と彼女が、信じられないような表情で彼の発言を繰り返した。

「彼女は僕がお酒を飲まないことを知ってる」と彼は言った。

「でも、それがなぜなのか、理由はまだ彼女に話してないのね?」

「母さん―」

「トム、彼女にちゃんと話しなさい

「わかってるよ」

「だったら、早く―」

「母さんってば、そんなに慌てないでよ。今日じゃなくてもいいじゃないか。もう少し時間をくれないか? 今日はクリスマスなんだし」

「私だってこの話題は好きじゃないわ。わかってるでしょ。クリスマスは特にね」

「じゃあ、なんでこんな話を持ち出すのさ?」

「だって、今までの子たちもそうだったでしょ? 何ヶ月間か、あなたのお酒の問題を知らないまま付き合って、ダメになっちゃったじゃない。いつも言ってるでしょ、トム」彼女はそこで、口を開こうとする彼を遮るように手を挙げた。「前から言ってるように、あなたを知るためには、あなたのすべてを知らなければならないの。あなたの問題なところも含めてすべてよ」

「彼女はすべてを知ることになるよ。全部話すって約束する」

「いつ?」と彼女は彼を見据えて言った。

トムは躊躇した。いつ言えるかを今決めることは不可能だ。そのような会話をするタイミングなんて、計画することはできない。実は今日の午前中、エズミーの実家からここまで車を走らせている間に、話そうと計画していた。しかしなぜだか代わりに、彼はローストフトで育った昔話をしてしまった。あれは18歳の誕生日を過ごしたパブなんだ、とか、昔通っていた中学校だよ、と、個人的な、どこにでもあるような思い出話をしていた。

「そのうち」と彼は言った。「タイミングが合えばね」

「じゃあ、もしタイミングが合わなかったら? 打ち明け話が大変だってことくらい、私だってわかってるわ」

「僕の方が大変だよ」と彼は言った瞬間に、ちょっと言い方がきつかったかな、と反省した。母親も彼女の両親に隠し事をしていたことがあったらしい。両親を怒らせたくなかったのよ、と彼女はトムに向かって胸のうちを吐露(とろ)したことがあった。そのことを思い出したが、今それを持ち出すのは、彼女に対してフェアではない気がして、やめておいた。

「ごめん」と彼は言った。「だけど、今回は違うと僕も思ってるし、台無しにしたくはないんだよ。僕のやり方でやらせてくれないかな」

「わかったわ。でもなんか心配ね。これまでのあなたのやり方は、正直に話すって感じじゃなかったでしょ?」

「母さん」と彼は言った。ほとんどささやくように、必死に声を抑えて言った。「正直に話すよ。今回は違うんだ。ちゃんと彼女に話す」

「全部?」

トムはため息をついた。

「全部話さなきゃだめよ、トム。ぜーんぶ。そうしないと、あなたが望んでいない時に、すべてが明るみに出るわ」

トムは再び口を開くのをためらった。

「全部言うよ」

「私に約束して」

トムは頷いた。すると、何の前触れもなく、アン・マーレイは息子のところに歩み寄り、彼を抱きしめた。彼女は泣いていた。体を引き離し、見れば、彼女の頬に涙がつたっている。涙が描く川のような線は、まるで彼女の内面を映し出すように、優しい流れだった。

「どうしたの?」

「私も今回は違うって思いたいのよ」

「わかってる」と彼は言った。

「そんなこと願ったって仕方ないのにね」アンは心を落ち着けるように間を空けてから、言った。「でも、ずっと考えていたのよ」

「何を?」

「そううまくはいかないのはわかってる。こんなこと言ったら、あなたは私に腹を立てるでしょうね」

「母さん、そんな風に思わないでくれよ」

「私はただ、思い描いていただけよ。わかるでしょ? 彼女があなたの助けになってくれるのなら、あなたはもっと...良くなるんじゃないかって」

「母さん」

「いいえ...良くなるなんて言うもんじゃないわね」と彼女は自分に言い聞かせるように、訂正した。「もっと幸せになれるんじゃないかって。今のあなたは―」

「そんなに簡単じゃないんだよ、母さん。そんなにすんなりいかないってわかるよね」

「もちろん、わかっています」と彼女はきっぱりと言った。「息子が自殺しようとしたんですもの」

彼女の発した言葉にトムも、そして彼女自身も驚いたように動きを止めた。数年前までは、トムはこのような母親を見たことがなかった。しかし今は、このように生々しい怒りが彼女からほとばしる瞬間が、時々訪れるようになっていた。トムは責任を感じていた。全部僕のせいだ、とはわかっていても、母親に何もしてあげられない自分がもどかしかった。母親の口から飛び出した言葉はいつまでも宙をさまよい、二人は沈黙の下にすっぽりと閉じ込められる。まるで冬の分厚い掛け布団のように、重い沈黙に閉ざされた。

「私はただいつも願っているだけなのよ」と彼女は、口調を和らげて言った。彼女の中で嵐は過ぎ去ったようだ。ほとばしる怒りが稲光(いなびかり)となって放出し、黒い雨雲は過ぎ去った。「トム、こうしてあなたを見てるとね、今のあなたは違うって思うのよ。前のあなたよりずっといいわ」

彼女が数歩あとずさる。トムは、離れていく母親の顔が少し陰(かげ)るのを見て取った。もう大丈夫だと彼女に言ったところで、自分と同じような症状に関する最新のネット記事などのリンクを彼女に送ったところで、親にとっては気休め程度にしかならないのだ。前からずっと、そして今でもまだ、両親は息子の治療法を探している。そのことがトムを悩ませた。

「僕は幸せだよ」と彼は言った。「彼女のおかげでだいぶ助かってる」

母親は頷いた。瞳の中の小さな妖精がまた泣き出さないようにと、下唇を軽く噛んでいる。その時、彼女が驚きの表情を浮かべた。トムの肩越しを見つめている様子だ。

「大丈夫ですか?」と、トムの背後からエズミーが言った。

「大丈夫よ、エズミーさん」アンはそう言うと、〈フェアリー・リキッド〉というラベルが貼られた食器用洗剤を指さした。「ちょっと妖精がね、洗剤の妖精が目に入ってしまったの。私ったら、ほんとおっちょこちょいなんだから。ちょっと目を洗ってくるわ」と彼女は言うと、目の辺りを隠すようにして、エズミーのわきをすり抜け、廊下に出ていった。「目を洗ったら、私はサラのところに行って、ゲームに混ぜてもらおうかしらね」

トムは振り返り、エズミーと向かい合った。彼は、母親と話した時に感情的になった部分が、悲しげな目の奥や、心配そうな表情に表れていないか気になった。彼女に気づかれてしまうかもしれない。

「本当に大丈夫なの?」とエズミーが言った。「久しぶりにご両親に会ったんでしょ」

「彼女は大丈夫。ただおしゃべりしてただけだから」

「私はサラに言われて来たのよ。あなたを連れて来てって」

「じゃあ、戻ろう」とトムは言って、元々取りに来たはずだったワインのボトルを手に取ると、キッチンのドアに向かって進んだ。エズミーはまだドアのところに立っている。

「もし何かあるのなら―」

「何もないよ」とトムは言った。

「わかってる。でも、もし―」とエズミーが言ったとき、炊飯器がピッと鳴り、赤く光ったデジタル時計が17:00を示した。まるで告白タイムの始まりを告げるように。




〔訳者なかがき〕


トムの衝撃の過去が明かされました! 実は藍も10年ほど前にトムと同じようなことを、考えたことがあって...←考えたことがあるくらい、誰だってあるよ!笑

なので、ひとごとではないというか、僕の話だなと思いました。←いやいや、君には元カノとかいないっしょ!笑笑


ダッシュもひねくれてる部分はかなりあったのですが、

トムのこじらせ具合は、一線を超えていたみたいです。


ただ、エズミーのやばさ、というか、負けん気の強さというか、むしろ台風のうずの中心は、彼女の方っぽいですね! この二人、大丈夫なんでしょうか?笑

相性はぴったり合うんでしょうか?

実は藍も上原レナちゃんという元カノがいたのですが...←お前の話はいいよ!!笑笑








藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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