『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて』2
『Mind the Gap, Dash and Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年11月12日~)
6
ダッシュ
12月21日
その声は馴染みがなかったけれど、暗闇から浮かび上がったその姿を見たとき、顔はなんとなく見覚えがある気がした。彼の髪はぼさぼさに乱れていて、アニメで牛がつけているような金色の鼻輪をしている。その鼻輪がキラッと光り、にんまりと不敵に微笑んだように見えた。
彼は僕を見ると、笑った。 それから彼が叫んだ。「俺は生きて呼吸をしているぞ、ってことは幻じゃないよな。サリンジャーだろ! こんなところでサリンジャー君に会えるなんて!」
ようやく、その顔に少なくとも半分くらいは馴染みがある理由がわかった。彼は僕と同じ文学の授業を受けている同級生だ。でも僕は、彼と一言も話した覚えはないし、彼の名前も思い出せない。
僕が受け答えに窮していると、彼は冷静になって僕の気持ちを汲んでくれた。
「そっか」と彼は言った。「俺はなんてバカなんだ。まず名乗らないとだな。名前はロビー。イアン・ロビーっていうんだけど、ゲイってばれてからは、なぜかイアン卿って呼ばれてる。君もイアン卿って呼んでくれて構わないよ」
極度の自己疑心に駆られ、すたすたと公園の奥の方まで来てしまったが、孤独の時間に幕が下ろされたようで、少しほっとした。もし彼が僕をからかいたいだけなら、すぐに彼を振り切って、どこか落ち着ける場所を探せばいいやと思った。
「イアン卿? マジで言ってる?」と僕はぶっきらぼうに聞いた。
イアン卿は落ち着き払っていた。「まあ、半分は冗談かな。でも君の場合、マジでイアン卿って呼んでくれても構わんよ。だって君のその服装、なんだか上流階級の貴族みたいじゃないか。人生には意味がないって嘆く前に、俺も一度くらいは貴族の恩恵にあずかってみたいものだな」
そこははっきりさせる必要があると感じた。「そう聞こえたのかもしれないけど、僕はべつに人生の無意味さを嘆いていたわけじゃない。僕自身の無意味さに腹が立っていただけだよ」
「わかった。そう心得ておくよ。君自身の胸にもしっかり、そう刻んでおくといい。今後また同じような状態に陥った時のためにね」
またしても、僕には彼が僕をからかっているのか、それとも僕の味方であることを僕にそれとなく示そうとしているのか、わからなかった。
「君はここで何をしてるの?」と僕は聞いた。
「俺は散歩してたんだよ。この時期になっても葉を落とすことなく頑張ってる木々たちと語らおうと思ってな。っていうか、俺の服装を見ればわかるだろ。だいたい俺たちの世代は散歩に出るとき、こういう感じのラフな格好をするものだ。それなのに、君はいったい...?」
この正装にはちゃんとした理由があることを説明する必要があった。「〈ドーント・ブックス〉で文学の宝探しゲームみたいなイベントがあって、今日が初日だったんだ。最初のチェックポイントは〈キーツ・ハウス〉だった。でも、結局そこが僕にとっては、最後のチェックポイントになってしまったけど」
これに対してイアン卿は納得の表情を浮かべていた。「なるほど。君はいち抜けたってそそくさと戦線離脱したわけか。そんな態度でいると、卒業後もオックスフォードに残り続けて研究員になるなんて、絶対に無理だぞ」
「キーツが僕たちの年齢の時、彼にはそうなるだけの素質が十分にあったんだけどね。それはともかく、僕は戦線を離脱しただけじゃない。―僕のチームメイトたちも見捨てたんだ。僕の愛する人が二人も含まれているチームを捨ててきた。あとの一人は、チャンスがあれば猟犬の群れの中に置いてけぼりにしてもいいようなやつだけど」
当然のごとく、マークを思い浮かべた瞬間、彼のニヤニヤした顔が浮かんだ。僕が突然いなくなって、彼はそれ見たことかと、リリーに向かって勝利宣言しているだろうと想像した。「あいつの文学の知識なんて全然大したことないんだよ。だから怖気づいて逃げ出したんだ。つまり、お前の気を引くためにずっと文学好きアピールをしてただけなんだよ。やっと化けの皮が剝がれたな」とか何とか。
私はまだ、私の死後も残るような不滅の作品を一つも残していない。―私の死後、友人たちが私を誇らしく思い出してくれるようなことを何一つ成し遂げていない。―
「歩き続けよう」イアン卿はそう言うと、僕の返事を待つことなく、行き当たりばったりといった感じで雑木林の奥へとずんずん進んでいった。僕は彼に追いつくと、歩調を合わせつつ、彼の横を歩く。イアン卿はまっすぐ前の暗闇を見つめながら、僕に語りかけてきた。「イギリス文学の伝統から言って、二人の男がハムステッド・ヒースの月明かりの下で出会うというのは、お互いの失敗談を語り合うためとか、そんなまっとうな理由じゃないだろ。少なくとも二人のうちの一人は、その名を語ることをはばかることなく、同性愛者だと名乗っているんだからな、そういうことだろ。俺は間違ってるか?」
僕が同性愛者かどうか、それとなく探りを入れられたのは、これが初めてではなかった。僕はその気があるようなオーラを醸し出しているのかもしれない。また誘われているんだろうなと思ったけれど、念のため、僕は確かめるように言った。「君が言ったことを翻訳すると、―君は本気のゲイで、この出会いがきっかけとなって、僕たちが声を大にしては言えないような関係になるんじゃないかって思ってるってことかな。でもそんなことになったら、僕たちは実存的な絶望の淵に一緒に飛び込むことになるって君は気付いてる?」
イアン卿はうなずいた。「そうだな、大体は合ってる。ただ、君がその相手だと気付いてからは、俺たちが追い求めていくのは、官能的な肉体のつながりではないと感じていたんだ。君のガールフレンドが〈アドベントカレンダー〉を送ってきたという噂が教室中に広まって、俺の耳にも入ってきたよ。大抵のやつは軽蔑的に笑い飛ばしていたが、俺はそれを優しさのこもった行為だと思った。俺が幼い頃、祖母が俺と妹のために〈アドベントカレンダー〉を作ってくれたのを思い出したよ。俺自身は恋人からあれを贈られたいとは思わないが、優しさのこもった贈り物だとは思う」
「彼女は実際優しいよ」と僕は言った。「それなのに、僕は彼女につれない態度を取ってしまった」
イアン卿は僕の肩を叩いてくれた。僕が目の前の階段をおそるおそる数段下りている間に、彼はこの辺りを何周も回って待っていた、といった感じの余裕のある叩き方だった。「優しさとつれなさは、べつに相いれないものじゃない」と彼は達観したように言った。「俺はふと気付いたんだ。その二つはお互いにうまく補完し合える関係だよ」
「言いたいことはわかるよ」と僕も負けじと先回りして言い返した。「でも、絶望に打ちひしがれている時の僕は、全然楽しくない」
「それが健全じゃないか」
「そうかな?」
「絶望していながら、なんて楽しいんだとか思ってるよりはずっといいだろ。そういうやつは本当にやばいからな。絶望との闘いを楽しむのは構わないが、絶望にひたって、その中で楽しみ出したら、それはまずいぞ」
「たしかに」と僕は言った。
小道が曲がり角に差し掛かると、彼につられて左へ曲がった。どこへ向かっているのか僕はわからなかったが、イアン卿は行き先を知っているようだった。闇夜の中、1分ほど沈黙が続いた後、彼が聞いてきた。「聞いてもいいか、君は今どんな気分だ?」
歩くという身体運動が、気分にも良い効果をもたらしたようだった。僕はもう、壁の中に閉じ込められている、という感じはしなかった。あるいは、もう一人の自分や周りの木々たち以外の誰かと、実際に話をしたのが功を奏したのかもしれない。
「少しというか、だいぶ落ち着いたよ」と僕は告げた。
「それは素晴らしい」
「君はどんな気分?」
イアン卿は首を横に振った。「実を言うと、まだクソみたいな気分だよ。こんなところで歩いてたって埒が明かないって気がしてくる。何か別のことをしないとって、せっつかれてるようだ。ひどい気分だって自分で認めざるを得ない」
「そんなにひどいの?」
「どん底のさらに底だよ、サリンジャー君。俺はグラスの底の残りかすになったんじゃないか」
僕がとやかく言える立場にいないことはわかっていた。でも気付けば、僕はこう言っていた。「でもオックスフォードにはちゃんと行ってるんでしょ!」
イアン卿は、残りかすは僕の方だと言わんばかりの目で僕を見ると、あざ笑うように言った。「ああ、たしかにそうだな。そこには皮肉があるな。ジョークのたぐいも隠れてるかもしれない。俺ががむしゃらに頑張ってオックスフォードに入った唯一の目的は、オックスフォードを焼き払うためだったんだよ。文字通り焼き払うわけじゃないが、偽善を暴き、反乱を起こし、開校以来きれいなままの壁に泥を投げつけて、少なくとも泥の破片は、壁にくっつけてやるつもりだった。不公平な伝統とか、凝り固まったものを全部ぶっ壊すつもりだったんだ...知らなかったよ。すでに昔から、そして今も、俺と同じような破壊願望のある連中が、オックスフォードで長い列を作っていたなんてな。とんだお笑いぐさだが、それでも俺は諦めなかった。なぜ俺が教室で、誰にも話しかけなかったかわかるか? システムの一部にならないための俺なりの手段だったんだよ。とうとう君に、こんなところで話しかけることになってしまったわけだが、―沈黙こそ、一番の反抗だと思っていたんだ! それでどうなったと思う? 周りの誰も気付かなかったよ。それでも俺は、―お前ら、っていうか世界、俺がどれだけ沈黙を決め込んでるか見ろ!ってシグナルを送っていた。俺にはそれを伝播できるくらいの知恵があると思っていたんだ。―最初の戦略から、何段階も愚かさが増していった感じだな。だから俺は教室を去ることにした。俺が教室からいなくなったこと自体、君は気付かなかったんじゃないか?」
そう言われてみれば、最近見ていないかもしれない。
イアン卿はうなずいた。僕の無反応が彼の予想通りだったのだろう。「サリンジャー君、俺はもう1ヶ月大学に行ってないんだよ。精神科の医者がすこぶる親切でね、『休学許可』を出してくれた。―大学に入った当初、最初の数ヶ月は、やっと手に入れた『入学許可』に心躍っていたけどな。それがどうだい、今はこんな有り様だ。〈ラドブロックス〉って知ってるだろ? イギリスは何でも賭けの対象にするからな。もし〈ラドブロックス〉が、今後俺が大学に戻る確率を設定するとしたら、ほぼ戻らないって予想を立てるだろうな。復学したら、逆に大穴ってやつだ。大方の予想通り、大学には戻らないとして、じゃあ、次に何をすればいいのか、っていう問題と今格闘してるんだ。バラバラに散らばった自分自身の破片を、地図も手がかりもなしに拾い集めるのは、至難の業だよな」
「ソファの下の、手を伸ばしても届かない隅っこに落ちてるかも」と僕は言ってみた。
「それならまだいいが、窓の外の庭に落ちて、それを見つけた犬が土の下に埋めちまったかもな」
僕は冗談めかして言ったのだが、彼の口調はなんだか寂しげで、彼の欠片は本当に手の届かない場所まで飛んでいってしまったみたいだった。そして、僕自身も彼と同じように、バラバラに壊れた状態なんだと思い知らされた。
「僕は自分が賢いと思っていた」と僕は唐突に言った。「本当に頭がいいと思っていたんだ。でも、ここ数ヶ月で確信が持てなくなった。感覚が麻痺しちゃったっていうか、自分に向いていると思っていたことが、実は苦手だったと気付くなんて、あんまりだよね?」
イアン卿が僕の心を読み取ろうとするかのように、僕の目をじっと見つめてきた。―オックスフォードに入ってから、誰かにそんな風に見つめられたのは初めてだった。「サリンジャー君、俺の抱いた印象では、君は賢い方の部類に入ると思うよ。というか、かなりの上位にランク付けされるんじゃないか。っていっても俺には、軽々しく君に学位を授ける資格なんてないけどな」
「どうして僕たちは、こんなにもめちゃくちゃに壊れちゃったんだろう? なぜ僕たちは、オックスフォードの輝けるスター的な存在になれないんだろう?」
「残念ながら、そうやってぐちぐち泣き言をたれてたって俺たちはどこにもたどり着けやしない。それに、君のその質問には正面から答えない方がいいだろうな。なぜならその質問は、君が本当に聞きたい質問じゃないからだ。君は本当は輝くスターになんてなりたいとは思ってないんだろ? 君はオックスフォードに入って、今まで憧れだったスターたちに接近した。遠くから見ていた時はあんなにキラキラ輝いていたあいつらを、君は間近で観察したんだ。違うか? その結果、君は気付いてしまった。あいつらは光り輝くスターなんかじゃない。―まばゆいばかりの光の粒で構成されてると思っていた星を目の前で見たら、ただの土の塊だった、みたいなものだ。金塊なら埋まってるかもしれないがな。それで君は、何もかもに幻滅したんだろ?」
「たしかに」と僕は認めた。金塊ではなく、僕は光に憧れ、光になりたかったんだ。
「それを叫べよ」
「は?」
「おいおい、さっきはあんなに大声で、内容とは裏腹に幸せオーラを全開にして、叫んでいたじゃないか。今度は、何もかもに幻滅したって叫べよ」
周りの茂みの中に逃げ込みたい気分だった。「さっきは誰かが聞いてるなんて思ってなかったから、言えたんだよ」
「頼むよ。俺はお前の叫びを聞きたいんだ」
「僕は何もかもに幻滅した!」僕は張り裂けんばかりの大声を上げた。それに反応して、名前の知らない鳥が飛び去っていった。
イアン卿は満足した様子だった。「じゃあ、次は失望したって叫んでくれ」
「僕は失望したんだ!」
「よし、いいだろう。じゃあ、次の質問だ。君は一生懸命頑張ったか?」
僕は一生懸命本も読んだし、勉強もした。おまけに、一生懸命悩んだ。
「自分で自分の尻にむち打って頑張ったよ」と僕は答えた。
「だと思った。俺が指摘したいのはそこなんだよ。君の失望と幻滅はそこに直結してるんだ。君はさっき、自分のふがいなさに腹が立った、みたいなことを言った。だけど、実際は君がオックスフォードをがっかりさせたわけじゃない。サリンジャー君、逆なんだよ。オックスフォードが君をがっかりさせたんだ。俺もそういうところがあるからわかるんだよ。―君は壁にぶち当たった時、それを自分自身のせいにしがちだ。それはやめろ」
彼のその発言は、単純な方程式のように、すっと僕の中に入ってきた。僕の体が僕の思考から解き放たれたかのように、僕の理性のダムが決壊したかのように、彼の言葉が、僕の内側にどっとなだれ込んできた。自分の攻撃から、自分の身を守るための決定的な方法を見つけたような気がした。考えなくても、とっさに着ることのできる鎧が見つかったような。さらに言えば、その鎧の脱ぎ方まで教わったようだった。
「君はいつもどうやって回避してるの?」と僕は聞いた。「自分からの攻撃の対処方法っていうか」
イアン卿はため息をついた。「俺だってまだうまくできてるわけじゃない。むしろ四六時中、自分で自分を責め立ててるよ。でも、俺が言ったアドバイスは健全だろ。外科医っていうのはな、患者を手術する方法は知ってるんだよ。ただ、自分で自分を手術するのは、至難の業だ」
彼になら、最近ずっと考えていたことを話してもいいと思った。リリーやジェムにそれを話すのは、あまり適切ではないと感じていた。―彼女たちは僕と同じ場所にはいないから。言い換えると、考え方というか、思考の運び方が、彼女たちと僕では違うのだ。とは言っても、オックスフォードで出会った人たちもまた、僕の思考パターンには相いれない感じだったけれど。
でもイアン卿なら理解してくれるのではないか。そう願いながら、僕は内側に抱え込んでいたすべてを吐き出してしまうことにした。
僕は彼に話した。「僕がオックスフォードに合格した時、父はあれこれ否定的なことを言ったけど、最後には前向きなことを言って送り出してくれた。『オックスフォードで人格を築いてこい』って。そんな言葉は何世紀にもわたって使い古された決まり文句だろうけど、僕はその言葉を握りしめて海を渡ったんだ。僕はここで人格を高め、築き上げたかったんだよ。でも、そのメッセージはなんだか文字化けしてしまって、人格を築くどころか、僕らはみんなでこぞって、キャラ探しに夢中になっていた。自分がこの場では何者であるべきかという考えが先にあって、それに合わせて、キャラを演じようとしているみたいだった。―潜在的にそのキャラが本人の内面と合致しているかどうかは関係なくね。ソーシャルメディアがそんな状況をさらに悪化させていると思った。そこでは、キャラクター作りがもはや自分という範疇を超えて、制御不能になっている。望むなら、自分を複数のキャラに分けたっていい。周りから愛されるようなキャラに変身する人もいれば、周りを攻撃する猟犬になる人だっている。僕だけはそんなことには巻き込まれずにやっていけると思っていた。でも今になって思えば、僕も他のみんなと同じように、まんまとその罠にはまってしまったみたいだよ。そして運が悪いことに、僕は演技が下手だったというわけさ。自分自身を演じるなんて僕には無理だったんだ。それが身に染みてわかった時、君ならどうする?」
「俺が思うには、もしかしたら...ああ、わからん」イアン卿は首を横に振って、言葉をせき止めた。
「途中でやめないでくれよ」と僕は主張した。「最後まで言って」
「なんかめめしい感じがする」
「もっと話してくれよ。まだ樹液は出るだろ」と僕は、樹液アレルギーにもかかわらず、言った。リリーから出る樹液だけは僕の体質に合うみたいだったけれど。
「わかったよ」とイアン卿は言った。「俺が君にアドバイスをするとしたら、俺自身がそれを実践できるかは別として、君に助言するとしたら、人格を築くためには、新たな自分自身を創造する必要はないってことだな。現時点でそこにあるものを土台にして築いていくんだ。君の中にある良い部分だよ。君が大好きなものたちだ。それが土台になってくれる。いい加減なことを言ってるように聞こえるかもしれないが、それしかないんだよ。一つの地点から、―すなわち、今いる時点から、―自分の大好きなものを土台として、その上に自分の人格を積み上げていくしかないんだ」
自分の大好きなもの。
僕は考えた。
僕はリリーが大好き。
僕は本が大好き。
僕は言葉が大好き。
僕は家族が、僕を認めてくれる時はことさら好き。
僕は、自分ができるだけ多くのことを学ぼうと一生懸命張っている、という事実が好き。
僕はホールデン・コールフィールドが大好き。彼が反逆者だからではなく、彼はあんなにも苦しんでいるから好き。
僕はシーモア・グラースが大好き。なぜだか自分でもわからないけれど、ホールデンよりもさらに強烈に、シーモアに惹かれてしまう。
僕は『Bloodbuzz Ohio』という曲が大好き。歌詞の意味はよくわからないけれど、あの曲を聴いていると、僕の魂にしっくりはまり込むような感覚を覚えるから。
僕は詩が大好き。ぐっと迫ってくるような詩を読むと、恐怖に怯え、少し混乱してしまうこともあるけど。あ、さっきは少しじゃなくて、大いに混乱してしまったけどね。
僕はニューヨークがとっても大好き。こうして離れてみると特にそう感じる。ニューヨークの街路を埋め尽くす観光客や、ゴミで溢れたゴミ箱が恋しくなる。あのバカ高いグリルドチーズ・サンドイッチも久しぶりに食べたいね。
僕はケイト・ブランシェットが大好き。ちょっと彼女が怖いと感じる時もあるけど。あ、ちょっとじゃなくて、すごくかな。
僕はカーリー・レイ・ジェプセンが大好き。彼女は全く怖いとは感じないし、彼女の歌声を聴いていると、一緒に踊りたくなるというか、同じ気持ちを共有している感じがするから。
僕の大好きなものをざっと挙げてみたけど、好きな順に並べたわけじゃないよ。あ、1位と2位のリリーと本だけは、間違いなくトップ2だね。
そして、それから思った。
それで?
僕は考えながら、歩き続けていた。ふとイアン卿の方を見ると、僕の隣に彼はいなかった。僕は足を止め、辺りを見回す。そこには暗闇と、揺れる木の葉があるだけだった。
「イアン卿?」と僕は声を上げた。
「心配するな。俺は近くにいる」暗闇の中から彼の声がした。「自分の好きなものを頭に並べていたんだろ?」
「うん」
「いいぞ。俺がいなくなったことに気づくのに、これだけ長い時間がかかったってことは、それだけたくさん好きなものがあるってことだ。つまり、強固な土台の上に人格を築いていける」
「でも僕には、ストレスとか不安とか恐れもあるよ」
「ほとんどの人間がそうだ」
「でも、僕の場合、時々それらに圧倒されて、飲み込まれてしまう」
「そりゃ、ほとんどの人間を飲み込めるほど強大だからな。いいかい、愛しのサリンジャー君。人生っていうのは、立ち向かったり、乗り越えようとするものじゃない。方向転換するんだよ。波の穏やかな方向へ舵を切るんだ」
街の明かりからかなり遠ざかり、僕たちはハムステッド・ヒースのずいぶん奥まで入り込んでしまったようだった。
その声は遠くから、かすかに聞こえていた。小さすぎて、僕の心が発している声のようでもあった。
「そろそろ戻ってこれる?」と僕は聞いた。「暗闇に一人でいるなんて、心細いから」
少し間があって、彼はこう聞いてきた。「君はクリスマスツリー農場に行ったことがあるか?」
「なんて言った?」
「頼むよ、サリンジャー君、質問に答えてくれ。クリスマスツリー用の木がずらっと植えられている農場だよ。行ったことあるか?」
ニューヨークでは、クリスマスツリー農場から引っこ抜いてきた沢山のツリーを、駐車場のような空き地にずらっと並べて売っている。
「ないけど」と僕は答えた。「なんで?」
「クリスマスツリー農場の問題点を知ってるか?」
「知らない。何が問題なの?」
「木は農場ではなく森の中で育てるべきなんだ。木がたくさん集まれば、どんな集合体であっても、それは森であるべきだ。同じ理屈で、ツリーを家の中に押し込んで、リビングの真ん中にぽつんと孤立させてはいけないんだよ。苗木の段階で、自分は大きくなったらクリスマスツリーになりたい、なんて思う木は1本たりともいないよ。街の広場に大きなツリーが1本植えられているような街なら、まだ住める。少なくともそこでは屋外に立っているという、木の尊厳はそのままだからな。だが、木を飼いならすように室内に置くのはどうだ? 俺は受け入れられない。それはどの季節の精神とも符合しないだろ」
「君に反対するつもりはないけど...でも、なぜ君が暗闇の中に隠れているのか、その理由と君の発言が僕には結びつかないよ」
「俺がここに来た理由はそこにあるんだ、サリンジャー君。特にこの時期はね、自分の身をクリスマスツリーからなるべく遠ざけることにしている。森の中に身を置くんだよ。オックスフォードは、言うなれば、クリスマスツリー農場だ。あんなに洗練された場所でぬくぬくと育つより、森の中で過ごした方がずっといい。野生の森で自分自身のスタンスを築き上げるんだ。注目されることはあまりないかもしれない。金塊のように輝くこともないだろう。だが、ここで成長すれば、自分らしさを手に入れることができる。一人でいることを受け入れろ、サリンジャー君。心で理解するんだ。君の心が何を望んでいるのか、その声を聞け...そして、それに向かって進め。求めるのは金箔に覆われたトロフィーとか、人生最大の贈り物とかじゃない。新たな友よ、俺たちが求めるべきは、―森だ」
彼の言っていることを完全に理解したわけではなかった。でも、僕の心の扉は、間違いなく理解の方向へ開き、それを受け入れようと待ち構える僕がいた。
その一方で差し当たって、僕にはもっと小さな目指すべきゴールがあった。
「とりあえず、今この場所から抜け出す方法を教えてくれないか? イアン卿」と僕は尋ねた。
「そろそろ俺はお前のもとを去るよ。そのうちまた君に会いに、きっと来る」とイアン卿は答えた。「一人で頑張れよ...一人で頑張れなくなったらまた来てやるから、それまで頑張れ」
彼が行ってしまう音が聞こえた。―足音ではなかった。枝が押しのけられるように広がる音がした。それから、空いた空間が塞がるように、カサッと枝が元の位置に戻った。
僕は一人取り残された。異国の地、異国の街で、僕は独りぼっちだった。風が強くなってきたので、僕はスーツの襟を立てて、首元を温めようとした。1分、あるいは3分ほど、僕は木々に囲まれながら、暗闇の中心に立っていた。そうしているうちに、小さな理解の欠片が、すっと扉から入ってきた。
親愛なるクリスマスの神父様
僕は迷っています。完全に迷いました。
でも、迷うことには大いなる価値がありますよね。
その価値のお零れにあずかった気分です。迷うことで、僕は自分が見つけようとしていたものが何なのか、ようやく見えてきました。迷うことで、僕は自分が見つけられたい場所がどこなのか、わかりました。あるいは、誰に見つけてもらいたいのかが。
「リリー」と、僕は大声で叫んだ。彼女の耳には届かないことくらいわかっていた。
「リリー」と、もう一度言って、僕は穏やかな笑みをこぼした。彼女の心には届く確信があった。
7
リリー
12月22日
クリスマスは、せめて夢の中だけでも、家に帰るわ。
午前6時30分、セットしておいたアラームが鳴り、私のスマホがこの歌を響かせた。目をつむったまま、夢うつつの私は、その歌声に導かれるようにニューヨークの地に降り立ち、理想のクリスマスをしばし過ごす。どんよりとした冬空の下、きらめく光のイルミネーションを眺めつつ、今年初めて雪が降り積もったワシントン・スクエア・パークを、私はダッシュと手をつないで歩いている。彼の温もりを感じながら。
ダッシュは夢の中の人ではなく、実在してるのよね。私ってどれだけ幸運なのかしら?
昨夜、〈ドーント・ブックス〉のイベントを抜け出した彼からメールが届いた。「僕はもう大丈夫だから、明日二人で会おう」と。つまり今日、ようやく私たちは二人きりで会えるのよ。目覚めたばかりの私の胸は、興奮で張り裂けんばかりに膨らんだ。と思ったら、体が言うことを聞いてくれない。痛っ! 私の背中が悲鳴を上げている。ふざけんじゃないわよ! と私の右肩が言った。あんたなんか大っ嫌い! と私の両ひざが私をののしった。私の目は破裂寸前のように大きく見開き、私は体じゅうの骨という骨が、ときめく気持ちに追随してくれない理由を思い知った。私は、おそらく世界で最も寝心地の悪いソファで一晩を過ごしてしまったのだ。表面がゴツゴツしていて、足を伸ばして寝るには小さすぎるソファだった。今になって、体じゅうの節々が痛み出した。せっかく犬の仕事で稼いだお金があるんだから、ホテルに泊まればよかったわ。と一瞬思ったけれど、ロンドンの物価を考えると、大金が一晩で消えちゃうなんて馬鹿馬鹿しいわね。それに、お金を払ってホテルに泊まるなんて、一人前の大人がすることのように思えた。実家暮らしの18歳で、しかもギャップイヤー中の私にはまだ早いかな。とはいえ、いとこの家のこんな寝心地の悪いソファで寝るよりは、床で寝た方がまだましだったわ。
私は上半身を起こして、きしむ体を伸ばしたり捻ったりして、元の状態に戻そうと試みた。今日は朝から一人で街に繰り出す予定なのよ。―もちろんイギリスにはダッシュに会いに来たんだけど、―それ以外にも、異国の地を一人で冒険するという、わくわくするような目的が私にはあった。これしきのことでその計画を諦めてたまるもんですか、いててててっ。ストレッチをしながら、生理痛に効くイブプロフェンは、たしか関節痛にも効くことを思い出し、私は自分のバッグに手を伸ばした。そのまま先に薬を取り出すべきだった。私はその前にスマホの画面を見てしまい、後悔した。母から「大学での計画」というタイトルのメッセージが届いていたのよ、まったくもう。体の痛みに今、頭痛が加わった。
リリーちゃんへ:
パパと私は今日、バーナード大学に行ってガーベイ教授に会ってきました。聞いたわよ。彼女の授業に一度出席するようにって何度も誘われてるそうじゃない。その後、あなたの1年次のカリキュラムについて話し合いましょうって。あなたから全く返事が来ないって聞いて、ママは控えめに言っても、残念でならなかったわ。何度も言ってるでしょ。ほとんどの新入生はこんな機会得られないのよ。学部で最も尊敬されてる教授の一人と直接会って、勉強計画について相談できるなんて、こんな機会はそうそうないことだし、せっかく相談に乗ってくれるって仰ってるのに、それをあなたが拒み続けるってことは、ガーベイ教授の指導には興味がありませんって言ってるようなものじゃない。彼女に悪い印象を与えかねないわ。
クッキーのこともそうよ。また作りっぱなしで片付けなかったでしょ。クッキーを作った後はキッチンをきれいにして、クッキー作りの器具はラングストンが元いた部屋に保管するようにって言ってるでしょ。私が昨日1時間かけて、台所に出しっぱなしだった調理器具を全部箱詰めしたんだから。(というか、あんなにたくさんの種類のクッキーの抜き型、普通必要ないでしょ?!)それからようやく、私はクリスマス料理の準備を始められたわ。ロンドンに出発する前にキッチンは空けておいてって何十回も言ったわよね。ああ、そうね...あなたには決め台詞があるのよね...忙しかったから! でしょ。犬の散歩とか、犬のグッズやら手芸品を作るのに忙しすぎて、私がお願いした、たった1つの作業なんてしてる暇なかったのよね。本当は今週もクリスマスの準備を手伝ってもらいたかったのに、あなたは素知らぬふりして行っちゃったわ。わかってる、わかってる。ロンドンにいるボーイフレンドに会うことの方が、ずっと大事よね。
あなたがダシールと素敵な時間を過ごしてることを願ってるわ。あなたが家に帰る頃には、私も機嫌を直してるかしらね。まあ、約束はできないけど。クリスマスに私のために何かしてくれる気があるのなら、ガーベイ教授からのお誘いにちゃんと答えなさい。それから、いらない調理器具は処分してちょうだい。あなたの調理器具がキッチンを占拠していて、調理するスペースがないのよ。
愛を込めて、
ママより
前はもっとまろやかな母親だったんだけど、この一年で二つも大きな出来事があったから、イライラが募っているんでしょうね。
一つ目の重大事は、ママがコネチカットに引っ越さないと決めたこと。パパが郊外にある全寮制の学校で職を得て、平日はそこに住み込んで働いているんだけど、ママはパパについて行かなかったの。つまり、私の両親は今、週末婚みたいな状態ね。というわけで、ママは平日の時間が有り余っていて、何かに取り憑かれたようにバーナード大学のウェブサイトを熟読しながら、私の4年間の計画を練ってるのよ。彼女もバーナード大出身だから、当時自分が入っていた〈バシャンティ〉がまだ存続していることに興奮して、私もそのアカペラ団に入るべきだってうるさいの! あと、〈急行列車隊〉にも入れば、遠方から電車で通っている人たちで友達の輪ができるわって! キャンパスに学生寮があるのに、私をニューヨークから通わせようとしているのは、口では寮費が高すぎるからって言ってるけど、―本当は、私がバーナードに住み込んじゃうと、ママが率先してボリスの世話をしないといけなくなるからなのよ。彼女は私の犬に対してすごく失礼な態度を取るから、ボリスと彼女を二人きりになんて絶対にできない。私の大学生活の計画に没頭していない時は、彼女はレンタカーを借りて、ニュージャージーのやたらに広いショッピングモールまで出向いていって、〈イケア〉とか〈ターゲット〉とかを何時間も、特に目的もなくぶらぶらと歩き回って、そんなにたくさん必要ないし、そんなの欲しがる人もいないでしょ!ってくらい多くのキッチン用品やら、キャンドルやら、装飾用のクッションやらを買い込んで帰ってくるのよ。他に、彼女の主な時間の使い方としては、そのガーベイ教授が主催している〈フェミニスト読書クラブ〉に参加することね。その集まりは学生とか学者とか、参加したい人は誰でも参加できるみたいだけど、月に一度開かれていて、経済的不平等や家父長制について活発な議論を交わしているらしい。参加者は、むしろ来た時よりも怒って帰路につくというから、その議論の激しさを物語っている。時には、アッパーウェストサイドで最高のチョコレートチップクッキーを作るお店は、〈ルヴァン・ベーカリー〉か、それとも〈ジャック・トレス〉か、という議題に対して熱い論戦を交わすこともあるという。(断然〈ルヴァン・ベーカリー〉の方が美味しいでしょ!って思うんだけど、このガーベイ教授だけは〈ジャック・トレス〉派らしいから、私はますます彼女に気を許せない。)
二つ目の重大事として、ママは中年女性が経験するホルモンバランスの大きな変化に直面しているみたいで、不機嫌極まりなくて、情緒も不安定なのよね。どれくらい不安定なのかって? 一つ目の重大事に長々と書いた彼女の行動を見ればわかるでしょ。
私とママはずっと仲良くやってきたのに、今年に入ってから急に喧嘩が絶えなくなってしまった。私が思春期にホルモンバランスの変化に直面していた時期も、ここまで険悪なムードにはならなかった。喧嘩といっても、私たちの場合、大声で罵り合うなんて大げさなものではないんだけど、顔を合わせれば空気がピリピリして、ママはチクチクと、オブラートに包んでいるようで包んでいない嫌味をぶつけてくる。私は黙りこくることで暗に応戦したり、目をくるりと回して見せたり、時にはバタンとドアを叩きつけて部屋を出ていくこともある。
神様はあなたに勉強を禁止してるのかしらね。犬の散歩と同じくらい真剣に勉強に打ち込んでみるとか、あり得ないわよね、リリー。
夜のうちに食器を洗って全部片付けてしまえば、朝にはキッチンがすっきりしてるでしょって、昔から言ってきた気がするんだけど、忘れちゃったのかしらね。あれだけ私が一生懸命にあなたをしつけようとしてきた努力が水の泡ってこと?
今夜の夕食は6時って言ったはずよ。6時30分ではなくね! 今までボーイフレンドとFaceTimeで話していたんでしょうけど、両親と実際に顔を合わせて話す時間も、それくらい大事にしてくれたらいいのに。
母に言われた嫌味の数々を思い出していたら、むかむかと腹が立ってきて、私はスマホを床に投げつけようとした。まさに腕を振り上げた時、スマホが手の中で震えて、見ればダッシュからのメールだった。もう起きてる? ジェムの家で一緒に朝食を食べない? ジェムがアボカドトーストの新たな作り方を発見したんだって。1975年頃のデヴィッド・ボウイよりも美味しいわ、とか言ってるよ。
彼女はデヴィッド・ボウイを食べたことあるの?! 私は思わず、クスクスと笑い出してしまった。一瞬体に痛みが走ったけれど、こわばった筋肉がほぐれていくようで、むしろ気持ちよかった。私はメッセージを打ち返す。私は昼食後なら空いてるわ。その時に会いましょ? ダッシュは「親指を立てた絵文字👍」を返してきた。私は付け加えた。〈ドーント・ブックス〉のチャレンジはどうする? 次のヒントに進む気はある? すぐに「👎」が返ってきた。少し間があって、ダッシュは付け加えた。正直言って、僕は〈フォイルズ書店〉派なんだ。ダッシュがゲームから外れたいと知って、がっかりした気分に包まれそうになった時、彼がハートマーク💖とともに写真を送ってきた。私が作ったアドベントカレンダーのその日のギフトが映っていて、このギフトには考えさせられたよ、と彼が続けた。
画面にはモレスキンのノートから切り取った一枚の紙が映っていて、その紙には私の筆跡で、詩人メアリー・オリバーの言葉が引用されて書かれている。
教えて。この冒険に満ちた一度きりの人生で、
あなたは何をするつもり?
親愛なる神様/アッラー/ブッダ/オプラ ― 私はダッシュにならって神様を一つに限定しないことにしたの。それくらい私は彼を愛してるってことね。あ、オプラ・ウィンフリーは私が尊敬している女性司会者よ。
その時、マークがリビングに入ってきた。ジュリアはまだ二人の寝室で寝ているらしい。「おはよう!」と私は言った。
「コーヒー」と彼がつぶやいた。
彼を追って、私もこじんまりとしたキッチンに入っていくと、彼はさっそくコーヒーを淹れ始めている。マークが言った。「俺が毎朝ジュリアの分もコーヒーを淹れて、ベッドまで持っていくんだ。それでコーヒーを飲みながら、本を読んだり新聞を読んだりする。1時間くらいかけてゆっくり飲んだ方が胃にやさしい、らしいからな。俺たちの朝の儀式なんだよ」
「それってなんか―」
「―『可愛いわね』とか言うなよ」
私は、台本がないようであるようなリアリティショーに出ているカリフォルニアの男女の会話を真似て、鼻にかけるようにわざとアクセントを平らにして言った。「きゃわいいわね」
マークが軽蔑するような表情で私を見た。そういえば、最近私も母を同じような目で見たっけ、と思い出した。彼が言った。「俺は〈ドーント文学チャレンジ〉の次のヒントを持ってるんだ。あのどうしようもないボーイフレンドに、今日のお昼頃会えるか聞いとけ」
「彼はもうゲームに参加したくないって」
「俺は途中で抜けるやつが大嫌いなんだ」
「あなただってウィリアムズ大学を中退したくせに!」
「フィッシュについていっただけだよ! 半年だけのつもりが、ボストン大学の方が俺には合ってるってわかったから、編入したんだ」
「たぶんそれが、ダッシュにも必要なことなのよね。ちょっと進む方向を変えること。中退するんじゃなくて」
「それは何の話だ? 〈ドーントブックス愛書家チャレンジカップ〉の話をしてるんだぞ」
何の話でしょうね。ふと心に浮かんだことなので、自分でもよくわからなかった。私は言った。「とにかく、ダッシュは〈フォイルズ書店〉の方が好きなんだって」
マークがハッと息をのんで目を見開いた。まるで私がヤンキースファンに「メッツも応援しましょう」と提案したかのように、意表を突かれたみたいだ。彼は私の目をじっと見つめ、言った。「お前はチーム・ダッシュのメンバーなのか? それともチーム・ストランドのメンバーか?」
「私はチーム・リリーよ」と私は言った。「最高の自分自身を目指して、レベルアップしていくゲーム中なの。最高のガールフレンドになれるように、最高の犬の散歩者になれるように、最高の家族の一員になれるように―」
マークが手を上げて、私を制した。「美辞麗句を並べるのはやめろ。もう聞き飽きたよ。どうせまた、ネットか何かの受け売りだろ」
彼はすでに、私がここにいることに苛立っているようだったから、私は思い切って言った。「私、残りの滞在期間はホテルに泊まろうかなって思ってるの。あなたとジュリアの邪魔もしたくないし」実はさっき、私の銀行口座に入金があったという驚くべきメールが届いていて、私のお得意様の、犬の散歩のクライアントの1人から、クリスマスのお心付けというか、チップにしては大金の施しがあったばかりなのよ。それで急に視界が開けたというか、これならホテルに泊まれる、という経済的めどが立ったってわけ。
マークがにやにやしながら言った。「ああ、なるほど。そういうわけか。ホテルで彼氏と二人きりになりたいってわけだな。ただ、それはおじいちゃんに報告しないとだな。お前が俺の家には泊まらなかったっておじいちゃんが知ったら―」
「そういう理由じゃないわ」と私は、そういう理由なのかな? と思いながら言った。
「バカなことを言うな」彼は2つのカップに湯気が立つコーヒーを注ぐと、再び寝室へ戻っていった。足でキッチンのドアを閉めながら、「家族は家族と過ごさなくちゃダメだぞ」と言い残して。
家族は家族と過ごす。子供の頃はそれが当たり前だった。ニュージャージーの海沿いに大叔父さんの別荘があるんだけど、毎年夏になると、私の両親とラングストンと私はそこに出かけていって、でも寝室は他の親戚たちでいつも埋まっていたから、私たちは物置部屋みたいな狭い部屋で、4人で身を寄せ合うようにして寝ていた。家族は家族と過ごさなくちゃダメ。おじいちゃんの兄弟のお孫さんにルイーズっていう女子大生がいるんだけど、週末を利用してペンシルベニア大学のオープンキャンパスに行った時、彼女のしっちゃかめっちゃかに物があふれていて、足の踏み場もないような部屋に、私は泊まる羽目になった。―それで彼女の部屋と大学があるフィラデルフィアを嫌いになったんだけど、私があそこにはもう行きたくない!って言ったら、両親は不思議そうに首をかしげた。一人暮らしはしたくないってことね、と母は勝手に解釈して、来年はバーナード大学に家から通いなさい、としきりに言い出した。―キャンパス内に住むとなったら学費の上に寮費もかかるから、両親の懐事情を考えると、その方が好都合なんでしょう。あるいは、イースト・ビレッジの私たちの実家に残るのが、母とブルマスティフだけになっちゃうから。つまり、巨大な犬と一緒にあの家に取り残されるのが怖いっていうのもありそうね。
家族は家族と一緒に過ごす。それは私たちの家族にとって、もう価値ある指針でもなんでもない。―もうそんな価値観にとらわれるのはうんざりだった。
私はマークとジュリアに向けて、「今日は一日中観光してくる」とメモを走り書きして、彼らのアパートメントを後にした。
ウォータールー駅から30分ほど電車に揺られ、ロンドンから南西に18キロほど行ったところにあるトゥイッケナムで降りた。この町の名前の響きが好き。トゥイッケナム。とってもブリティッシュな響きでしょ。名前から漠然と予想した感じでは、かなりの高級住宅地か、あるいは典型的な労働者階級の町か、どちらかね。それこそ、「精が出ますな、おやっさん」ってみんなが言ってそう。そんなことを考えながら、駅を出て歩き始めると、どうやら裕福な住宅地のようだった。道路沿いに、きゃわいい感じの家々や、おしゃれな建物が並んでいる。でも、なんだかさびしい雰囲気に包まれた町だと思った。空には灰色の雲が掛かっていて、辺りが薄暗かったからっていうのもあるけど。
私は手元の案内状を見ながら、その指示に従って、大通りから外れ、細長い一本道を突き当たりまで歩いていった。そこに大きな木が一本そびえ立っていて、木の幹には、「犬は大歓迎よ。人間は遠慮してね」と書かれた張り紙がくくり付けられていた。その巨木の横に、私の背よりもはるかに高い木製の門があった。私は門の掛け金を外すと、中へと入り、案内状に書かれている通りに、掛け金をきっちり締め直し、押しても門が開かないことを確認した。門の内側には、質素な二階建ての、かやぶき屋根の家が建っていた。門を開ける前は、駅からの道沿いに建ち並んでいたような普通のイギリスの家ではなくて、向こう側には『ナルニア国物語』に出てくるような、お城みたいな家がドンッと登場すると期待していたから、それを見てちょっとがっかりした。私は玄関の前まで行き、ベルを鳴らした。そのベルの音は、この世界のあらゆる雑音の中で最も美しい響きをともなって、辺りに広がった。私の大好きな音。―すぐに反応したのは犬の声だった。ベルの音に興奮したように吠える声が聞こえてくる。それから、玄関の近くの、少し開いていた窓から女性の声が聞こえた。「お客さんが来たのよ、イニス!」
犬に話しかけているらしいその声は、小鳥がチーチーさえずっているような細い声だったので、玄関から、気難しそうな顔の女性が出てきた時は、そのギャップにびっくりしてしまった。おそらく60代くらいの、白髪が筋状に混じった赤茶色の髪をしたその女性は、無愛想に私を見ると、素っ気なく言った。「私が校長のジェーン・ダグラスよ。あなたがリリーさんですね?」
「はい、私がリリーです!」
彼女はさらに顔のしわを深め、不愉快を露わにした。「あなたたちアメリカ人って、いつもそんな感じで、不必要なくらい陽気なのよね」彼女は、私の認識ではたぶんスコットランド訛りで、そう言った。私はテレビドラマ『アウトランダー』を食い入るように全話欠かさず見ていたから、スコットランド訛りで間違いないでしょう。そして、この周りを寄せ付けない感じの、彼女のいかめしさは、ストーリーの後半で裏切り行為に走る人物って感じね。これも『アウトランダー』に基づく予想だけど、当たってそう。
しかし、彼女の愛犬は私好みだった! 短毛のテリア犬で、茶色と白のまだら模様のふさふさした毛並みをしていた。体重は10キロをちょっと超えるくらいの、やや小さめの中型犬で、ピットブル犬みたいな愛らしい顔をしている。彼女は愛おしそうに私をペロペロと舐めて歓迎してくれた。「この子はイニスよ」とその女性が言った。
「犬種は何ですか?」私は身をかがめ、よしよしと彼女の頭を撫でてやり、挨拶を返した。
「スタッフォードシャー・ブル・テリアよ」
「彼女は私のことが気に入ったみたいです」私もイニスが気に入ったわ。彼女は人間の心を持ち合わせているのかしら? わからないけど。
「彼女の愛情を自分だけに向けられたものだとは思わない方がいいわよ。彼女は誰に対しても、そんな風にふるまうの。その犬種はね、犬の中でもとりわけ人懐っこいのよ。特に小さな子供には、一緒に添い寝してあげるくらい寛容だから、その犬種のニックネームは―」
「―子守犬ね!」私はイギリスの犬に関する本で、この犬種について読んだことを思い出し、先回りして言った。
「私は話に割って入られても、気にしないわ」とジェーン・ダグラスが言った。「正解よ。よくできました。さあ、お入りなさい」
私は彼女の後に続いて、玄関ホールを通り、壁がガラス張りになったリビングルームに入っていった。リビングは大きな庭に面していて、庭の端に花壇が一つ見えた。小型犬がはしゃぎ回るには十分に広々とした庭だった。リビングには暖炉があり、いくつかの椅子が散らばるように置かれ、ソファが二つ向かい合っている。「私は大体ここで講義してるのよ」彼女はそう言って、私に座るように手で促した。
「ここで?」私は彼女に口ごたえするつもりはなかったけれど、どうしても驚きを隠せなかった。このリビングルームが、あの有名なペンブローク・ケイナイン・ファシリテーター・インスティテュート(PCFI)?
彼女が私の向かい側のソファに座ると、彼女の横の床の上にイニスが座った。「みんなそうやって驚くのよね。なぜそんなに驚くのか、私には理解できないわ。私は年間20人しか生徒を取らないし、コンクリートで囲まれた建物より、こうして自分の家で講義した方がずっと快適じゃない」
「でも...生徒が実際に犬と触れ合える施設とかないんですか?」
「もちろんあるわよ。地元の救護施設と提携していて、そこを使わせてもらってるの。町の中心地からはちょっと距離があるんだけどね。彼らは今、クリスマス後に開催される〈犬のサポーター世界教育会議〉の準備で忙しいから、今日はそっちは案内できないんだけど、ほら、ごらんなさい。見ての通りここに、学びに必要なすべてが揃ってるでしょ」
「ここに? すべてが?」
「こうして犬もいるし、外に庭もある。私が自分で作った厳密なカリキュラムも用意してあります。犬の行動原理、ボディーランゲージ、発声法。犬はどのように考え、どのように学習する動物なのか。セラピー犬の訓練法。解剖学と応急処置」
私はもう一度聞いた。「ここでですか?」ジェーン・ダグラスは、ここがリビングルームだということに気づいているの?
彼女は言った。「本から学ぶプログラムは、ここでやります。その知識を使って、実際に犬と触れ合いながら行う実習は、施設でやります」
私は黙りこくってしまった。なんて言えばいいのかわからなかった。「犬の学校のハーバード大学」って聞いたから、すごく期待して来てみたら、これ? なんか違う、というか、全然話が違うじゃない! でも、こういうことってよくありそうね。〈Reddit〉サイトのコメントだけを見て応募して、実際に入学してみたら、思ってたのと全然違った!って嘆く人、結構沢山いそう。PCFIはホームページもなくて、インスタグラムもやってないみたいだったけど、イギリスの熱心な愛犬家たちからのコメントがどれも素晴らしくて、私は夢をかき立てられたのよ。(もしかしたら、ダッシュも同じ経験を味わったんじゃないかしら。ネットでオックスフォードへの夢をかき立てられて、実際に入ってみたら...)
うちの両親は、私がニューヨーク市内にあるバーナード大学に行くものと思い込んでいるから、絶対に賛成しないでしょうね。バーナード大学はコロンビア大学のすぐ隣にキャンパスがあるから、ダッシュがコロンビア大学に入ってくれれば、私も一緒に行ってもよかったんだけどな。でも、PCFIは1年で修了するプログラムだから、その後に大学に行くって言ってセールストークをまくし立てれば、両親を説得することは可能かもしれない。けど、それってかなり難しい売り込みになりそうね。
「住まいはどうするのですか?」と私はおとなしめに尋ねた。
「それは自分で考えてちょうだい。ここで学ぶ学生の中には、共同で住める部屋を見つけて、一緒に住んでいる人たちもいますし、卒業する時に新入生に部屋を譲ってくれる人も多いですよ。あとは、〈ペットショップ・レジデンシー〉に申し込むという方法もあります」
「それって何ですか?」
「外に出かけましょう。散歩がてら案内してあげるわ。町の中心地にペットショップがあるんだけどね、その上の階に部屋があるの。そのペットショップのオーナーがね、毎学期1名に限って無料でそこに住まわせてくれるのよ。私の生徒の中でも、とりわけ幸運な1人にね。まあ家賃の代わりに、お店が閉まっている時間は店内のペットたちの世話をする、という条件は付きますけど。行きましょう、イニス」
なかなか難しい選択になりそうだった。バーナード大学に通いながら、不機嫌な母と一緒に暮らし続けるのか。PCFIに入って、ペットショップの上の〈レジデンシー〉とかいう部屋に居候するのか。どちらも魅力が薄い気がする。
外に出ると、先ほどぱらつき始めていた小雨が本降りに変わっていた。ジェーン・ダグラスの家の前の庭は雨に打たれ、さっきよりも芝生の緑が濃く見えた。とはいえ、もの寂しい雰囲気は相変わらずだった。なぜだかはわからないが、私はその殺風景な景色に心惹かれるものがあった。不思議な気分だった。ここからなら、電車に乗ればダッシュに会いに行ける。―それなら、リビングルームの学校に通うのもありかなって気がしてきた。町の中心地に向かって歩いていると、ジェーン・ダグラスがイニスをつないだリードを私に手渡してきた。
「あなたの腕前を拝見させてもらうわ」と彼女が言った。私は右手でそのひもを持つと、イニスが私の左側を歩けるように、腕を斜めにして交差させた。それから、ひもを持っている手を私の体に近づけて、イニスが自分の意思で自由に歩けるように、ひものゆるみを調節した。ひもを伸ばしすぎると、犬の足がひもに絡まっちゃうから要注意だ。「すごく上手ね」とジェーンが認めてくれた。
「私は犬の散歩のプロですから」と私は彼女に言った。
「それは知ってるわ。あなたの願書を読みましたから」
「この学校には、他にもドッグフルエンサーがいるんですか?」と私は期待を込めて聞いた。
「ドッグフルエンサーって何かしら?」
「犬好きで、ソーシャルメディアのフォロワーがたくさんいる人たちです」
「そういう人たちは歓迎しないわね。ここに来る学生には、動物に奉仕してもらいたいのよ。自分たちに奉仕する動物を探しているような人たちではなく」
話が正確に通じていないようで、私はもの思いに沈んでしまった。この学校は史上最悪に頭の悪い人が運営しているのか? それとも、最悪を装って実は、天才にしか話がわからないほど高度な学習機関なのか? 「トゥイッケナムに住むってどんな感じですか?」と、私は大通りに近づいてきたところで聞いた。
「ロンドンから近いって喜んでる学生もいるわ。中には、そんなに近くもないって不満を漏らしてる人もいるけど。トゥイッケナム・スタジアムがあって、イングランド・ラグビーの本拠地なのよ。試合当日は、8万人の酔っ払ったファンがこの町にどっと押し寄せてくるわ。それから、ヒースロー空港の滑走路が近くにあるから、ジェット機の騒音とか、空港へ向かう車が混雑した時には、排気ガスでどんより空気が曇ることもあるわ」
「今のところ、なんだか素晴らしい町のようですね」と私は言った。
「あなたのユーモアのセンス、気に入ったわ、リリー。犬の扱い方もね」私たちは交通量の多い大通りを渡ると、小道に入っていった。川沿いに広がる公園を横目に小道を歩いていく。「トゥイッケナムの魅力的でない部分は今話した通りですけど、ちゃんと素晴らしいところもありますからね。公園。テムズ川。あなたはイングランドの古風で趣のある町を想像していたのかもしれないけど、トゥイッケナムにはトゥイッケナムにしかない風情があるのよ」
公園のベンチに座って、風情を醸し出している人が目に入った。「あれは誰ですか?」と私は聞いた。
それは、身長から顔のしわまですべてを忠実に再現したリアルな女性の彫像だった。彼女はひざの上に置いた本と帽子に手を添えるようにして、心がなごむようなたたずまいでベンチに座っている。「かわいそうなヴァージニア・ウルフよ」とジェーン・ダグラスが言った。「彼女は精神を患って、ここトゥイッケナムの保養施設に入院していたの。彼女の栄誉をたたえて永久的な像を建てるという提案もあるんだけど、その資金はいまだに承認されていないわ。これは、地元の芸術家が発泡スチロールで仮に作った等身大の彫像だけど、本当に彼女がそこに座っているみたいで、身近に感じられるでしょ」彼女の足元の舗道には大きな石が置かれ、そこにヴァージニア・ウルフの言葉が彫られていた。
あなたの心にも書斎があるでしょ。好きなだけ本をしまっておける図書館ほどの広い部屋よ。そこには門も鍵もかんぬきもないから、自由に出入りできるわ。
本は魂を写す鏡なんですもの。
当然のように、ダッシュのことが頭に浮かんだ。彼が最近、どれほどの喪失感にさいなまれていたのかを考えていた。
そして私は思った。私は自分の人生をどう生きていきたいのか、はっきりとわかったわ。それをどうやって実践していけばいいのかはまだわからないけど、―PCFIがその場所になるのかどうかもわからないけど、―でも、確信を持って言えることがある。私は生涯を通じて、犬に関わる仕事をしていきたい。私はバーナード大学には行きたくない。
教えて。この冒険に満ちた一度きりの人生で、
あなたは何をするつもり?
犬に関わる仕事をして、ダッシュのそばで暮らすこと。それ以上の冒険に満ちた一度きりの人生なんてないでしょ? なぜそれを実現するのに大学を卒業するまで待つ必要があるの? 私が今望んでいる人生が、それなのよ。学校が誰かの家のリビングルームだって何か問題ある? 私はお金持ちになる必要はないし、有名になる必要もない。おとぎ話のお姫様になる必要もないわ。親を喜ばせるために、一流の教育を受ける必要だってない。私は私自身を喜ばせる必要があるだけよ。
人生はとても厳しい。どこを見てもそれがわかる。路上に目を向ければ、ホームレスの人たちがいる。地球に目を向ければ、人間がどれほど悲劇的に地球を傷つけているかがわかる。人間同士もずいぶんとひどく傷つけ合っている。私は自分がどれだけ幸運であるかを知っているし、私は自分に与えられた特権を当たり前に持てるものだとは思っていない。
正直なことを言うと、私の両親は、私がダッシュと別れた方がいいと思っている。うちの親は彼のことを十分に気に入ってはいるんだけど、あなたはまだ若すぎて、自分が何をしたいのかわかってないのよ、としょっちゅう言ってくる。でも、そう言われるたびに思う...本当にそうかしら? 大叔父のサルおじさんは、彼の両親の反対を押し切って、高校時代から付き合っていた恋人と18歳になったらすぐに結婚した。それから、もう50年以上も一緒に暮らしている。子供が4人いて、孫も9人、そして、ひ孫がもうすぐ生まれるのよ。聞くところによると、双子が生まれてくるらしいわ。ニュージャージーの海岸沿いにあるサルおじさんの家は、いつも混み合ってはいるけど、愛と笑いが絶えず溢れている。彼らは18歳の時、自分たちが何をしたいのか、ちゃんとわかっていたでしょ。
そして突然、発泡スチロールのヴァージニア・ウルフを見つめていたら、自分の将来がどうなるかというビジョンがパッと浮かんだ。それは閃光が走ったように一瞬で灯った光だったけど、これから先も消えることはないだろうと確信できた。私の将来は、少なくとも現時点の考えでは、ここイギリスにあった。味気なくて、風変わりで、素晴らしい国、イギリス。味気なくて、風変わりで、素晴らしい人、ダッシュとともに。
そして、〈ペンブローク・ケイナイン・ファシリテーター・インスティテュート〉が、おそらく私の未来を築いていく場所になるでしょう。ロンドンに戻る電車の中で、私は母にリクエストされたクリスマスプレゼントを書き、それを同時送信で、母にも送ることにした。
拝啓、ガーベイ教授
あなたの授業の聴講のお誘い、それから、私のバーナード大学でのコース選択について相談に乗ってくれる旨、とても感謝しています。あなたは素晴らしい洞察力をお持ちだと確信していますので、あなたのお誘いは大変ありがたいのですが、私はバーナード大学には行かないことに決めました。私の席を、心からあなたの大学に行きたがっている人にゆずります。そういう人こそが座るべき席だからです。本当にそれを望んでいる人にお与えください。私はわかったのです。今の私の望みは、ニューヨークとはかけ離れた場所にあります。
敬具
リリー
送信ボタンを押した後、私はロンドンでの残りの滞在期間のためにホテルを予約した。一丁前の大人になった気分だった。
早く街に戻って、ダッシュに会いたかった。会ったらすぐに知らせたかった。あなたと私で、一緒に暮らしましょう! ここイギリスで! 彼にメッセージを送ろうとした直前だった。彼から画像付きのメッセージが届いた。それは雪に覆われたニューヨーク、セントラルパークにそびえ立つクリスマスツリーの写真で、その下には彼の気持ちが書かれていた。僕は一刻も早くニューヨークに帰りたいよ。
8
ダッシュ
12月21日と12月22日
僕は何時間もさまよい続け、ようやく家に帰る道筋を見つけた。
スマホのバッテリーも切れていて道案内をしてくれるものは何もなかったけれど、僕はとにかくがむしゃらに突き進み、いつしか通りに出た。僕はもはや森の中にはいなかった。しかし、今度は別の種類の森に迷い込んだようだった。頭上を覆う木々の葉っぱが、そこではコンクリートやガラス窓に変わっていた。僕はコンクリートジャングルを縫うように歩きながら、静けさが街全体に広がりつつあるのを感じた。もう寝るべき時間を過ぎてしまったようで、意識がどんどん薄れていく。
ニューヨークではこういうことはよくやった。僕は街の中をひたすら歩くのが好きだった。混雑した地下鉄に乗り込んで汗だくになるくらいなら、50ブロックくらい平気で歩いて帰った。マンハッタンなら、あそこは僕の専用サーキットみたいなものだから、何も考えなくてもすいすい歩けた。しかし不慣れなロンドンでは、一歩一歩に不安がつきまとう。さまよい歩くという行為は同じでも、知らない街を歩いていると、新たなセンセーションが体内で呼び覚まされた。おなじみの世界が異次元に移ったかのような、地理の感覚が僕の中でがらりと変化したような、不思議な感覚だった。パブに入って、ちょっと何か補給しようかとも思ったけれど、やめておいた。そこで僕は道路脇に表示された地図を見つけた。その地図は日中の観光客向けのようで、夜の放浪者には不親切だったが、とにかく川を目指すべきだということはわかっていたので、しばしその地図を見つめながら、帰る道筋を吟味した。川の向こう側に行きさえすれば、なんとかなるはずだ。
テムズ川にかかる〈ミレニアム歩道橋〉にたどり着いた頃には、もう真夜中を過ぎていただろう。それでも橋の上にはまだ、ちらほらと人がいた。―ビールをたらふく飲んできたのだろう酔っぱらいがふらふらと歩いていた。カップルたちは、お互いの体を温めようとして、あるいは、二人の絆をつなぎ止めようとするかのように、身を寄せ合って歩いている。タキシードの正装に身を包んだ男の一団もいた。誰もが僕には見向きもせず、すれ違って行く。僕は自分が幽霊になったかのような感覚に陥った。自分の存在が危うくなるのを、僕は必死でつなぎ止めた。自分自身に錨を巻き付けるようにして足を踏ん張り、実存の世界に身を留めようとした。周りを見れば見るほど世界は広がり、自分の立ち位置が薄れていくようだ。僕は自分がどこに向かっているのかわからなかったが、とにかく狭い範囲に焦点を合わせることに努めた。テムズ川沿いにジェムのタウンハウスがある。とりあえず今は、そこが僕の目的地だ。
テムズ川の南側まで来ると、なんとなく知っている地区に入った。それでも僕は、まっすぐにジェムの家を目指さなかった。ようやく安心した気持ちで街を歩けるようになったのだから、もう少し歩いていたくなったのだ。僕は適当に角を曲がりながら、誰もいない通りを歩き続けた。昼間は混雑している空間が、今ではしんと静まり返っている。頭をすっきりさせるのに、これ以上うってつけの場所があるだろうか?
僕はこのような孤独を必要としていた...一旦独りになって、そこから戻る必要があったのだ。
携帯に充電器をつなぐと、すぐにリリーにメールした。それからキッチンに行って、もう寝ているジェムへ謝罪のメモを書き、ベッドに倒れ込んだ。間もなく意識が無限に広がっていき、僕は夢のない眠りに落ちた。翌朝、ドアの方から聞こえてくるジェムの声で目覚めた。「ダッシュ、ちゃんと時間を取って、マナーについて話さないといけないみたいね」
「ごめんなさい」と僕は目を開けずに言った。「僕の中でやる気というか、気力がなくなっちゃって、そしたら、それにつられて携帯電話のバッテリーも切れちゃって、だから、ぶらぶらしてきた」
「たしかにそういう衝動には同情もするけど、その方法論は看過しかねるわね」うっすら目を開けると、僕の部屋を見回している彼女が見えた。「でも少なくとも、ちゃんとスーツをハンガーにかけてから寝たようだから、酔っぱらって帰ってきたわけではなさそうね」
「僕の唇を潤す唯一の霊薬は、独りになること」と僕は彼女に向かって断言した。
「それにひたり過ぎないように気をつけなさい」とジェムが忠告した。「食生活と同じで栄養のバランスが必要なのよ。良い仲間と過ごす時間がたっぷりあってこそ、霊薬は効果を発揮するの。そこがないと、お酒と同じで悲惨な運命が待ってるわよ」
「今日は一日中、良い仲間との時間に専念するよ」と僕は約束した。「一日の始まりも、一日の終わりも、そして中間もずっとリリーと一緒に過ごすんだ」
「彼女はもう起きてるの?」
「どうだろう。今朝はまだメールもフクロウも送ってないから」実のところ、彼女がどこに泊まっているのかも知らなかった。まあ、あのいけ好かないマークの家だろうけど。
「じゃあ、もし起きてたら、彼女も朝食を一緒にどう?って招待してあげて。イギリス人はワカモレっていう素晴らしい朝食を発明したのよ。アボカドとかをすりつぶしたサルサ料理で、コーンチップをそれにつけて食べるのが定番なんだけど、それをトーストにのせて食べると、これが絶品なのよ」
「アメリカの若者たちにも大人気、なんでしょ」
「ほんとそうなのよ。一口噛むごとに、『Young Americans(アメリカの若者たち)』を出した頃のデヴィッド・ボウイを思い出すわ。あのアルバムの中でも、特にあの曲ね、『Somebody up there likes me』(ボウイは私を好きなんだと思うわ)」
リリーにメールを送る前に、今日の〈アドベントカレンダー〉を開いた。中には一枚のノートが入っていて、メアリー・オリバーの元気をくれるような言葉が書かれていた。
教えて。この冒険に満ちた一度きりの人生で、
あなたは何をするつもり?
とても良い質問だと思った。一人で答えるにはもったいないくらい良い問いかけだったから、リリーと一緒に考えたかった。
のそのそと部屋を出てキッチンに入ったところで、リリーにメッセージを送った。すると、彼女は昼食の後まで空いていないと返信が来た。幸いなことに、マークが手がかりを握っているあの文学ゲームから抜けることには、彼女も賛成してくれたようで、ほっとした。これでマークの指図に従うことなく、二人で自由にどこへでも行ける。(イアン卿もこの決断にはうなずいてくれると思う。)
ジェムは、リリーが朝食に参加できないと知ってがっかりしたようだったが、それを素直に受け止め、応接間に入ると、『Young Americans』のレコードをターンテーブルに乗せ、針を落とした。それを聞きながら、僕たちは朝食を食べ、僕も一緒に『Fame(名声)』を歌った。歌詞をよくよく嚙みしめながら歌ってみると、ボウイが有名であることにどれほど追い詰められていたかが伝わってきて、僕は有名人でもなんでもないのに、僕もファンに追いかけられている気分になった。その時、悲劇的なことが起きた。―レコードがエンストを起こしたようにガクンと止まったかと思うと、わだちにハマったかのように、ただでさえ繰り返しが多いこの曲の一箇所を繰り返し再生し始めたのだ。
「あら、よくないわね」ジェムが首をかしげる中で、ボウイが「I reject you first over and over.(もう何度も、君とは付き合えないって断っただろ)」と繰り返し歌っていた。
ジェムはレコードの傷口から針を抜くと、自分の傷口に軟こうを塗るように、ボウイの『Low』を流し始めた。キッチンに戻ってきたジェムが言った。「今日〈FOPP〉に行って、新しい『Young Americans』のレコードを買ってきてちょうだい。自分で買いに行きたいところなんだけど、今日は一日中〈Liberty〉のブティックに出なきゃいけないのよ。今日もお客さんで混雑するわ。私が出ないとクリスマスシーズンを乗り切れるかどうかもわからないわね」
僕はシャワーに向かった。(イギリスのシャワーは地味に滴る点滴みたいで、ターボジェットの激しいシャワーが恋しかった。)それでも僕は、シャワーを浴びながら耳に残っていた『Fame』を歌い続けた。ボウイのハイトーンボイスは、(シャワーの中で声を張り上げても届かないくらい、)僕が真似できるものではなかったけれど。
おそらくそれは僕の名声への思いの丈だったのだろう。あるいは、僕の意思ではどうにもできないほど神経が高ぶっていて、自由時間ができたらすぐにスマホを手に取りたい衝動に駆られていたのか。いずれにしても、僕の思考は再び、リリーがネット上で存在感を発揮している、という思念に舞い戻っていた。―存在感。僕にはまるで縁のなかった言葉だ。―服を着て、玄関でジェムを見送った後、僕は自然と〈犬の散歩人リリー〉のインスタグラムを開いていた。
なぜ今までチェックしなかったのだろう。インスタが流行っていることは知っていたが、スーパーマーケットの掲示板にベタベタと張り付けてある、コピー機で量産したようなフライヤーのたぐいだろうと高をくくっていた。―完全に僕の想像力の敗北だった。インスタを開いた瞬間、色とりどりの写真が画面を埋め尽くした。こういう文化があることは知っていた。ただ、犬と写真がここまで親和性があるとは、僕の想像力は及ばなかった。みんなが見たいと思うような、目を引く写真を追い求める文化、といった感じだろうか? チェスをしている犬。ハンバーガーの衣装に身を包んだ犬。冷蔵庫に入っては戻ってきて、また入っては戻ってを繰り返している犬もいた。
しかし、リリーのインスタグラムはそういったものとは一線を画していた。確かに犬の写真ではあったが、決して犬だけでは写っていなかった。どの写真にも必ず、犬と一緒にリリーがいた。ジャック・ラッセル・テリアが公園の滑り台を必死で駆け上がろうとしている写真には、その犬を温かい眼差しで見守るリリー。4匹のブルドッグを引き連れて、ワシントンスクエア公園のアーチの下を幸せそうにくぐり抜けるリリー。木から離れようとしないチワワを優しくなだめながら、先へ進ませようとしているリリー。それらの写真は自撮りではなかった。カメラに向かってポーズを取っているわけでもない。なんとなくカメラの存在に気付いているような写真もあるが、ほとんどの写真では、彼女の意識は犬に向けられていた。そう、これらは他人が撮って投稿したものだった。みんなリリーが何者かを知っていて、どこで待っていれば、彼女が犬を連れて通るのかを知っているのだ。
すなわちそれは、リリーが有名人だということを意味していた。
全国レベルではないかもしれないが、間違いなくニューヨークではセレブだった。それはつまり、こういう人たちと同じ部類に彼女も入ったということだ。地下鉄に乗ると必ずといっていいほど広告が目に入る皮膚科の医者。ニューヨーク市長に復讐するために、市長の4人目の愛人をそそのかした3人目の愛人。ちょっと頭がおかしくなった美容師は、何人ものお客さんの首の後ろに自分のイニシャルを剃り込んでいった。数週間後になって、ようやく気づいた客たちが騒ぎ出したが、噂が広まるにつれ、そのイニシャルは一種のステータスを獲得し、リッチな人たちは数百ドルの追加料金を払って、イニシャルを剃り込んでもらうようになった。
さらにリリーは、ニューヨークのセレブたちの仲間入りを果たしたというだけでなく、―それを自覚しているようだった。彼女のインスタグラムは、〈リリー・ドッグクラフト〉というウェブサイトにつながっていて、そのウェブサイトには「SHOP」と書かれたボタンがあった。そのボタンを押してみると、犬用のレインコートがいくつも売られていた。犬用のセーターもあったし、犬用のニット帽もあった。〈ドーント・ブックス〉でリリーとアズラが話していたレインコートもあった。胸のところに〈Lily〉というブランド名が入っていて、たしかに裏地にはうんち袋を入れるポケットも付いている。
「こんなの実用的じゃない」と僕は声を荒げて言っていた。犬の糞を胸のうちに秘めて歩くなんて僕にはできない。
リリーがネット依存症だとか、他人のあら探しに病みつきになっているとか思っていたわけではない。彼女がソーシャルメディアを使っていることは知っていたが、僕が漠然と想像していたのは、友達の猫の写真を見るとか、見知らぬ人の腎臓手術のために寄付するとか、そういう用途だったのだ。言い換えると、彼女は周りの物事を見るためにSNSを使っているとばかり思っていた。まさか、見られるためだったなんて。
ふたを開けてみれば、思っていたのとはまるで違う世界にリリーはいた。
彼女を誇りに思うべきだということは頭ではわかっている。犬の散歩のビジネスが繫盛していることは知っていた。―だけど、これは全くの別次元へと彼女をのし上げているではないか。湧き上がる自分の感情を抑え込もうとしても無理だった。気づけば僕は...むなしさでいっぱいになっていた。僕たちは名もなき二人組だと思っていた。でも今僕は、名のある一人を見ている。彼女の近くには、僕の存在を示す痕跡はどこにもない。
僕は画面をスクロールさせて最初に戻り、もう一度上から順に写真を見ていった。犬、リリー、犬、ニューヨークの街並み。やはりどこにも僕がいない。そうだ、と思い立ち、僕は彼女のFacebookのプロフィールを見に行った。そこにはちゃんとリリーと僕が写っていて、僕はほっと胸をなでおろす。去年の夏、ブライアント公園の野外広場で行われた無料の映画鑑賞会の時の写真だった。芝生の上に毛布を敷いて、公開されたばかりの映画『ブックスマート』を観たんだ。二人とも弾けるような笑顔をしている。―カメラを手にしているのは友達のブーマーで、彼は「はい、チーズ」と言う代わりに、「ヤールスバーグ!」とか「ペッパージャック!」とか「ハヴァルティ!」などと、色々な種類のチーズの名前を天に向かって叫びながら、カチャカチャと写真を撮りまくっていた。僕たちの周りにはたくさんの若者たちがいたけれど、皆、はしゃぐ僕たちを白い目で見ていたから、次第に僕たちもしょんぼりと大人しくなってしまった。大画面で上映されていた映画がチーズ並みに安っぽいラブロマンスだったというのもあるけれど。
ロンドンの街を散策しようと外へ飛び出してからも、僕はリリーと一緒にタイムマシンに乗り続けていた。テムズ川の上を歩いていても、ニューヨークのハドソン川のことを考えていた。ウォータールー橋を渡り切ると、〈ストランド通り〉という表示が掲げられた通りに出た。その道を歩いていると、〈ストランド書店〉の書棚の間を練り歩いている気分になった。ピカデリーサーカス広場に立ち寄ってみると、二人で行ったタイムズスクエアを思い出した。僕はタイムズスクエア自体には愛着を感じていないけれど、リリーがタイムズスクエアのきらめくネオンに見とれている様子には、色とりどりの光を浴びてリリーの横顔がきらめく美しさには愛着を感じていた。僕はただ、人々がごった返しているな、と思って眺めていただけだったが、彼女はその群衆を人々の織りなす集合体として見ていた。僕にとっては目がチカチカするうざいネオンの光も、彼女には光のショーだったのだ。彼女の目を通してその場所を見ることで、そこに命を吹き込むとまではいかないにしても、僕が一人で通る時には感じなかった人間味がそこには生じていた。そして、自分が身を置く街に人間味を感じると、ますますその街が自分のホームグラウンドに思えてくるものなのだ。
僕は〈ウォーターストーン書店〉の本店に足を向けた。どこの街にいても本屋に行きさえすれば、きっとホームのような居心地の良さを感じさせてくれる。〈ウォーターストーン書店〉は僕の期待を裏切らない素敵な書店だった。しかし無数の本の間に逃げ込んでみても、心酔するような安堵感は得られなかった。様々な書店員さんがお薦めしている沢山の手書きのテロップを見て、一瞬笑みがこぼれはしたが、この街が僕の鼓動と直接つながっているような、血のかよった感覚はなく、やはりよそ者感は否めない。よりきちんとした教育を受けようと、僕は飛び出すようにオックスフォードに来てしまったけれど、ニューヨークが教えてくれた色々なことを、あのとき全部置いてきてしまったのだろうか? 両親から離れて暮らすことは、むしろ望んでいたことだったけれど、リリーやブーマーや、ダヴやヨーニーやソフィアたち、それから他の友人たちも、みんな家族の一員みたいなものではなかったのか?
僕は一刻も早くニューヨークに帰りたいよ、と気づけばリリーにメールしていた。それから、なんだかずいぶん長いこと帰ってない気がする、と付け加えた。
彼女からすぐに返信がなかったので、僕は指を止められず、追伸を打った。
今日は気分だけでも、僕と一緒に『Young Americans』に戻らないか。
そして僕は彼女に、レコードショップ〈FOPP〉のここから一番近い店舗のリンクを送った。
耳から脳に至る神経回路が電子的なリズム音で憔悴しきっているなら、〈FOPP〉のような店は、古き良き文化へと原点回帰するのにうってつけの場所だ。壁一面にはぎっしりとレコードが敷き詰められ、通路沿いの棚にはCDやDVDも並んでいた。言い換えると、1994年に戻りたいと願う僕たちのような人種にとって、そこは安息の地だった。お客さんもなんだか当時を意識しているようで、ファー付きのコートを羽織り、開いた前面からはフランネルのチェックシャツや、バンド名が書かれたTシャツがちらほらと見えた。店員はみんなバンド活動をしているか、少なくともライブハウスで照明とかの仕事を掛け持ちしているように見える。スティーヴィー・ワンダーが頭上で歌っている。その歌声、ピアノの音、間奏さえもがこの店に集う僕たちの心にまっすぐ降り注ぎ、クリスマスの幕開けにこれ以上ふさわしい喜びの歌はないと思わせてくれる。
僕の知る限りでは、ジェムのレコード・コレクションの中に、ジョージ・マイケルの後期の作品は見かけたことがあるけれど、それ以降の歌手やバンドの作品は所蔵されていないようだった。僕はリリーを待ちながら、彼女へのクリスマス・プレゼントとして、僕の好きなバンド〈ザ・ディセンバリスツ〉と〈ザ・ナショナル〉のレコードをいくつか選んだ。それからボウイのところに行き、『Young Americans』のオリジナル音源に忠実なリマスター版を見つけた。僕はボウイのアルバムを一枚ずつ手に取って見ていった。彼の目が次々と現れ、空間の四方八方に視線を投げかける。―斜め上を見たり、下を向いたり、横を向いたり、まっすぐこちらを見つめてきたり...彼は同じような写真を絶対に撮られたくなかったのか。僕の目の前に、彼自身の発明品ともいうべきデヴィッド・ボウイという人間が、これでもかと立ち現れる。凄い人だと感心はするが、人生においてどうやったらそんな自分自身にたどり着けるのか、僕にはその道筋が見えない。
「私はベビーシッターに世話をしてもらっていたんだけど、彼女が来るたびに『ラビリンス』を見せられていたの」とリリーの声が背後から聞こえた。「私はまだ小さかったし、デヴィッド・ボウイが人形の方なのか、魔王の方なのかわからなかったわ。ラングストンが音楽にのめり込むようになるまで、彼が歌手だということも知らなかったの。ラングストンに『何聴いてるの?』って聞いたら、そのアルバムを見せてくれたのよ。私は『えー! あのラビリンスに出てた人じゃない!』って叫んじゃった。そしたら、私がまたヒストリーを起こしたと思われちゃったけど」
僕はとっさに振り向くと、目の前に立つ彼女に思わずキスしてしまった。それから、「どうせ俺の人生なんて、所詮笑い話だよな」と言ってみた。
「どうしてそう思うの?」と彼女が聞いてきた。
「ああ」と僕は言って、『Young Americans』のレコードを持ち上げた。「このアルバムのタイトル曲の歌詞だよ」
「なんか私、話についていけてないみたいね」
彼女はボウイの隣の列に詰め込まれたレコードを1枚ずつ指で持ち上げ始めた。頭上から降り注ぐ曲がオアシスの『ワンダーウォール』に変わった。彼女の顔がパッと輝く。「私、この曲知ってるわ」と彼女が言った。「大好きなの。ワンダーウォールって何なのか、いまだによくわかってないけど」
「よくわからないってところがみそなのさ」と僕は彼女に言った。「彼は好きな人への気持ちを歌詞に込めたんだ。ほら、今のところ、『君は僕のワンダー・ウォールだ』っていう前に、『君が僕を救ってくれる人になるだろう』って歌ってるだろ。つまり、それがワンダーウォールの定義だよ」
「そういうことなら、あなたは私の...ソング・ループね。歌がぐるぐる頭をめぐってる感じ」
「じゃあ君は、リリーは僕のジョイ・ピルだ。僕の体内に喜びをもたらしてくれる感じ」
僕たちはさらにレコードを持ち上げては、ジャケットに目を通していった。
さりげなく、僕は言った。「君のインスタグラムを見たよ」
彼女は「B」と「C」の立て札の間に詰め込まれたレコードをさぐっている最中だった。「もう何日も投稿してないわ。先週のままだったでしょ」
「そうだったかな。というか、それについて言いたいことがあるんだけど、実は、今まで一度も見たことがなかったんだよ」
リリーはブランディ・カーライルのレコードを手に取ったところだった。ジャケット写真のブランディと見つめ合いながら、彼女は僕の方を見ることなく言った。「そっか...」
この話を持ち出したのは間違いだったと感じ始めていた。でも言ってしまった以上、引っ込められない。「君に興味がなかったわけじゃないんだ」と僕は言った。「わかるだろ? 君に興味があるからこそなんだよ」
そこに反応したようにリリーは振り向くと、僕をじっと見た。「あなたが私のインスタをチェックしなかったのは、私に興味があるからこそ?」
「つまりこうして、実際に会った時の君に興味があるってことだよ」と僕は説明した、「なんていうか...画面上の作品としての君じゃなくて」
これもまた、口が滑ったというか、言うべきことじゃなかった。
「そっか。作品としての私は、私じゃないんだ?」
「違うよ! あれも君だよ! それはわかってるけど、そうじゃなくて―」僕は自分で自分を制した。
「そうじゃなくて何?」
「あれは僕が愛してる君じゃない」
しまった。三度目の失言だった。
リリーはブランディ・カーライルのレコードを押し込むようにして戻すと、体ごと振り返り、僕と向かい合った。「ダッシュ、あなたは当然のように、ネットよりもあなたの方が優れてると思ってるんでしょうね。あなたがメールよりも手紙を書きたがる気持ちもわかるわ。実際に顔を合わせて直接会えるまでは画面上のやり取りは控えようっていう、そんなあなたが好きだっていう部分も私の中にはあるの。でも、そういうダッシュが立ち現れるとね、ああ、そっか、って思う。自分の方が優れてるって私をさげすんだ目で見下さないと、私を見ることができないんだって。―そんなあなたは、あなたが言ったことをそのまま返すようだけど、私が愛してるダッシュじゃない」
「たしかにそうだね」と僕は敗北を認めた。「完全に君の言う通りだよ」
「あなたは一段上に立ってる裁判官じゃないのよ! どんなことに対しても勝手に判断しないで!」
「どんなことに対しても?」
「そうじゃなくて、あなたの意見は私にとって重要だから、一人で決めないでって言ってるの!」
四度目の間違いを犯した時、基本的に二つの選択肢がある。それでもとことんそこを掘り進め、いつしか自分自身がその穴に埋まってしまうか...あるいは、その積み重なったミスを懸命に、わだちにハマった車を全身で押すようにして、わきにどけようとするか。
「ごめん」と僕は言った。「何一つとして、まともなことが言えてなかったよ。僕はただ、思ってることをそのまま君に伝えようとしているだけなんだ。非難しようとか、そういうつもりはないよ。僕が言いたいのは、君の人生にそういう部分が存在することは前から知っていた。前は抽象画みたいに漠然としたイメージだった。それが今は、細部まで鮮明に見えるようになったってこと。君の人生が急に、僕の目の前で色鮮やかに輝き出したんだ。そしてそれは僕が見慣れてる風景じゃない。僕は内向きの、独りを好む人間だからね。前からずっと独りでいるのが好きだった。でも君だけは、僕の内側の領域にすっかり入り込んでしまった。プライベートな空間に自分以外の人間がいるっていうのはなかなか慣れなかったけど、君が僕と一緒にその空間を守ってくれているんだって思うことで、受け入れていた。僕たちは二人で一つだと思っていたんだ。でもそれは、僕にとって都合のいい部分だけを見て、他は見て見ぬふりをするってことだった。だって、君はずっと何かをつくり出しては、世の中に向けて発信するってことをやっていたからね。そういう世界があることはわかってる。それについて君と話したくてたまらなかったよ。まさか、遠くからそれを眺めることになるなんて」
「ダッシュ、ただの写真よ。私と犬の写真」
「わかってる、わかってる。それがソーシャルメディアってやつなんだろ。絵葉書の表ばかりで、裏側に何が書かれているかはちっとも見せてくれないメディア。僕は絵葉書そのものを手にしたいんだよ、リリー。自分の手で裏返して、宛名とかも全部くまなく見たいんだ。ただ、皮肉なことに、表側すら見ないことで、君がどこにいるのかを見逃してしまった。まさか絵葉書の表に、君の居場所がばっちり写っているなんて思わなかったよ。個人に宛てた絵葉書でもないのに」
「インスタを通してあなたにメッセージを送ったことはないけど、それはあなたがインスタを使ってないって知ってたからよ。私たちがするコミュニケーションの手段じゃないって思ったから」
「でも君の生活の一部なんだろ? それに、もしインスタでやり取りすれば、僕がガールフレンドの投稿をいちいちチェックするような、良い彼氏かどうかわかるじゃないか」
「やめて、やめて。私がそういう付き合いを望んでいたとしたら、最初からあなたと付き合っていたと思う?」
たしかにそうだね、完全に君の言う通りだよ、と再び言いそうになって、僕は自分を制した。
リリーが微笑んだ。「いいのよ。思ったことは全部言って」
「いや、いいよ。やめとく」
「私をフォローした?」
「フォロー? どこへでも君に付いて行きますよ」
「そうじゃなくて、私のインスタを見たんでしょ。私のアカウントをフォローした?」
「僕はアカウントを持ってないから、見ただけだよ。フォローはできない。でもこうして、君のナンバーワンの追っかけになれてるから満足だよ」
「そうやって、毎年バレンタインを祝福してちょうだいね」
「君のウェブサイトでバレンタインの贈り物を買おうかな。ハート型のチョコみたいなのを見た気がする」
「あれは犬のおやつよ」
「じゃあ、そのおやつに、君のナンバーワンの追っかけよりって文字を刻んでもらうよ」
「あなたがそうするなら、私はクリスマスプレゼントとして、あなたに首輪とリードを贈るわ」
「変態っぽい」
「あはっ」
「そうだ。レコードはまた別の機会に買えるから、外へ繰り出そう。ロンドンが待ってる!」
「ニューヨークに帰りたいんじゃなかったの?」
「君と一緒にいたいんだよ。君がここにいるなら、僕もここにいる。せっかく二人でいるんだし、この街を楽しみつくそう。冒険に満ちた最高の一日にしよう」
リリーをコヴェント・ガーデンに連れて行けば、喜んでくれると思った。クリスマスの飾りに彩られた店舗が並び、イベントスペースでは、いろんな聖歌隊が入れ代わり立ち代わり、途切れることなく歌っている。僕たちは〈セブン・ダイアルズ〉と呼ばれる七つの通りが合流した円形広場まで来ると、〈ウダーリシャス〉という店に入って、アイスクリームを食べた。カウンターでキャラメル味(彼女)とブラックチェリー味(僕)のアイスクリームを買い、テーブルに座って、二人してぺろぺろと舐め始めると、僕たちがしていることの平凡さに衝撃を受けた。そして、もう何年もこういう平凡なことをしていなかったように感じた。
僕は動きを止めて、ぼんやりとリリーを見ていた。
「何?」と彼女が聞いてきた。
「君がここにいるんだなと思って」と僕は言った。「本当に目の前に君がいるから」
「私がここ以外のどこにいるっていうの?」と彼女は返した。
でも、彼女には他にも居場所がたくさんあることを僕は知っている。彼女が僕の人生に色々なものをもたらしてくれたことも知っている。―穏やかさとか甘さとか、度胸とか活力とか。それに引き替え僕は、彼女に何かをもたらしたのだろうか?
僕はまたストレスを感じ始めている自分に気づいた。
そうじゃない、と僕は自分の思考に修正を施す。楽しむんだよ。彼女は目の前にいるんだし。残りの人生ずっとこうしていられるかもしれないじゃないか。
「また黙り込んじゃったみたいね」とリリーが僕を観察しながら言った。
「いや、頭の中は黙り込んでないよ」と僕は彼女に言った。「僕の頭が言葉を発しなくなる時間なんてない」
「私もあなたの頭の中に入れて。あなたの言葉を聞きたいな」
「それはちょっと、今君に聞かせたいような声じゃないんだ」と僕は言った。「今僕が聞きたい唯一の声は、君の声だよ。聞かせて、午前中はどんな日だった?」
彼女は午前中に訪問したらしい「犬の学校のハーバード大学」のことを話してくれた。「ハーバード」と聞いて、オックスフォードの血が騒いだのか、一瞬イラッと対抗意識を燃やしそうになったけれど、彼女の説明を聞いているうちに、その犬の訓練士の学校は良さそうなプログラムを用意しているという印象を持った。
「でも、君が今さら犬の大学院みたいなところに行く必要があるのか疑問だけどね」と僕は言った。「つまり、君はすでにミーガン・ラピノーなんだよ。去年、FIFAの女子最優秀選手賞を受賞したサッカー選手みたいなもの。君がすでにその道の頂点にいることを、僕はちゃんと知ってる。僕たちが出会った週から、君はもうその片鱗を見せていたからね。それが君のインスタを見て、確信に変わったよ。あれだけ称賛のコメントを集めてるなんて、まさに犬の世界の最優秀選手じゃないか。ディスりひとつない、ずらっと並んだ応援やお褒めの言葉を、僕は信じる方に進むよ」
「常に学ぶべきことはあるでしょ」とリリーが言った。
「なんか学ぶべきことが多すぎてうんざりするって意味にも聞こえる」と僕は切り返した。「っていうか、それは僕が思ってることなんだけど」
僕たちはアイスクリームを舐め切ると、コーンを口に放り込み、外に出た。そして大通りではなく、脇の路地を通ってコヴェント・ガーデンに向かうことにした。もうすぐコヴェント・ガーデンというところで、僕たちは異変を察知し、立ち止まった。
狭い路地の角から、恐れおののくような吠え声が聞こえてきたのだ。それはまるで、アーサー・ミラーの映画『るつぼ』で魔女裁判にかけられた若い女性たちを、バセット・ハウンドか何かの一匹の小型犬が演じているような、断末魔の叫びだった。あるいは、三人の魔女が大釜を囲んでニヤけているところを小型犬が見つけて吠えているような、甲高い呼び声だった。その遠吠えには苦痛と陶酔が入り混じり、残忍な行為が路地を曲がった先で今行われていることを如実に物語っている。
「なんてこと!」リリーは声を上げながら、一目散に駆け出した。
鬼気迫る叫び声を聞いた周りの通行人たちは、とっさに声とは逆方向へ走り出した。僕の恋人だけは声の方へ向かっている。
僕も彼女のすぐあとを追って角を曲がった。突然、すべての街灯が一斉に点灯し、僕たちの顔に向けられた、ような気がした。その眩しさに僕は思わず腕を上げて目を覆ったが、リリーは構わず進み続けた。
「大丈夫よ」という彼女の声が聞こえる。「こっちおいで。もう大丈夫だから」
「カット!」人間の大声が響き渡った。
僕は腕を下ろし、辺りの様子をそっと眺めてみる。目の前でリリーが、巨大なジャーマン・シェパードの頭をよしよしと撫でているのが見えた。そして彼女の向こう側には...カメラがあった。それから、100人くらいのスタッフたちが周りを取り囲んでいて、その中心には、怒り狂った形相の監督がいた。
「おい、お前たち、そこで何をやってるんだ?」彼は拡声器を使うことなく、拡声器のような耳をつんざく大声で言った。「誰がこいつらを―」
すると彼は、途中で言葉を切った。リリーの腕の中で巨大なジャーマン・シェパードが、聞き分けの良い子のように大人しくなっているのを見つめている。
「いったいどうやって...?」
ヘッドホンをつけた若い男が僕の隣に滑り込んできた。「俺たちは何日もあの犬を落ち着かせようと悪戦苦闘してきたんだよ」と彼は打ち明けた。「専属のドッグトレーナーはいるけど、全く役に立たない。これこそ、みんなが待ち望んでいた奇跡だ」
リリーは、ようやく自分が撮影の邪魔をしてしまったことに気づいたようで、少し動揺しているように見えた。しかし彼女が何より心配しているのは、犬の状態だった。
「彼女の名前は何ですか?」とリリーが監督に聞いた。
「デイジー」
その名前を聞いても僕には何もピンと来るものはなかったけれど、リリーは、ハッと何かに思い当たったような表情をした。
「彼女ってもしかして...『イルカに乗った犬』の映画版で主役を演じた犬のデイジー?」
「その通り。100%このメス犬だよ」と監督がうんざりするように言った。この主演女優がこの監督を骨までしゃぶりつくし、長年ずるずると関係を続けていることは明らかだった。
華やかに着飾った三人組の男女が周りに集まってきた。
「こんなことってあり得ないわ」そのうちの一人が言うと、他の二人がうなずいた。
「共同製作プロデューサーたちだよ」とヘッドホンの男が僕の耳元でささやく。
「それってどういう意味?」と僕はささやき返した。
「さあね。映画のエンドロールにそういう肩書きで名前が出るからそうなんだろ。航空会社のシルバー・ステータスみたいなものかな。ちょっといい席に座れるってだけで、何か偉業を成し遂げた人たちじゃない」
「あなたってプロなの?」と三人組の一人がリリーに聞いた。
リリーは間髪入れずに即答した。「そうよ」
「あなた、今から二時間ほど空いてる?」
リリーが僕を見たので、僕はうなずく。
「はい」と彼女は答えた。
この映画は『私たちそれぞれのテムズ川』と呼ばれ、相互に関連のある五つの話から構成されているらしく、新年が近づくにつれて、ロンドナーたちが様々な形の恋に落ちる、というストーリーのようだった。現在撮影しているショートストーリーは、クラブで楽しく踊っていたら、頭上から煌めくミラーボールが落ちてきて、不運にも亡くなってしまったロマンチストが、唯一の選択肢として...犬の体を借りてこの世に戻ってくる、という設定らしい。犬の姿になった不運なロマンチストは、同じく運に見放された妹の家に入り込み、自分は姉だとほのめかしながら、事あるごとに妹の手助けをしている。そして、妹をずっと愛してきた男がいて、でもその男は勇気がなく愛を打ち明けることができずにいた。二人の仲をなんとか取り持とうと、犬は扮装しながら奮闘するのであった。(妹はセリーナ・フォレストが演じていた。彼女はぽっちゃりした愛嬌のあるアメリカ人女優で、過度に上品ぶったアクセントで話していた。相手役の求婚者はルパート・ジェストが演じていた。彼は〈ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー〉という劇団の俳優で、きっと映画出演で得た資金を彼の夫に渡すのだろう。彼の夫はその劇団の演出家で、『マチルダ』の再演ならびに全国興行を目論んでいる、とヘッドホンの男が教えてくれた。)
その時彼らが撮影していたシーンは、プロット(のようなもの)を僕が理解した限りでは、重要なシーンではなかった。その妹と求婚者が街角で喧嘩をして、別々の方向へ歩き出してしまった。今、犬は二人のどちらの後を追うか、という選択に迫られている。
そんなに長くはかからないだろう、と思った。犬がどちらに進むか迷っている風に両方向を見てから、最終的には右に歩き出すところを撮ればいいだけのことだ。リリーは、犬が吠え出したり、憤ったりしないようになだめすかして、そのようなパフォーマンスをさせることには長けている。長くても20分で終わるな、と僕は思って疑わなかった。
完全に当てが外れた。監督が「デイジーに十分な意思があるように見えない」とか言い出したのだ。かと思えば...今度は、犬の表情から「いろんな意図を読み取れてしまう」とか言っている。各テイクの間には犬の毛並みをブラシで再調整しなければならないし、ようやく監督と共同プロデューサーたちが納得のいくテイクを撮れたと思ったら...今度は、「さらによくなるかもしれないから、念のため、もうワンテイク撮っておこう」と言い出す始末だ。そんな感じで10回ないし11回同じシーンを撮影した後、20分もかけて複数のカメラを設置し直し、今度は別のアングルから犬を撮影し始めたのだ。
僕はさっきのヘッドホンの男に近づいた。彼は「PA」だと名乗っていたが、これがペンシルベニア州と何らかの形で関係しているのか、彼の子供がまだ小さくて「パパ」と言えずに、「パ」と呼ばれている、という意味なのか定かではなかった。僕は彼に聞いた。「カメラじゃなくて、犬を動かした方が早くないですか?」
「のどが渇いたのなら、水を持ってこようか?」と、なぜか彼は質問で返してきた。
撮影場所を囲うように簡易的な柵が置かれていた。通行人たちは、アクション映画の撮影でもしているのだろうと、激しいアクションシーンを期待してしばらく柵越しに眺めていたが、動きがほとんどない現場の退屈さに耐えきれなくなると、そそくさと退散していった。僕はデイジーを見ていて、主演女優って至れり尽くせりなんだな、と羨ましくなった。僕はリリーにあんな風に甘えられない。―リリーがお茶を飲むために少しの間その場を離れると、デイジーはオムツを変えてと駄々をこねる赤ん坊みたいに、あるいは、近くにそびえ立つビッグ・ベンが怖いとすねるように吠え出した。そしてリリーが急いで戻ってくると、その主演女優は喜びが抑えられないとばかりに、リリーを舐め始めたのだ。
僕は撮影スタッフの誰かに取り入って、ご機嫌を取ってみることにした。1匹の犬を撮影するために、ざっと見ても200人くらいのスタッフがいたから、僕は誰に話しかけようかと、吟味しなければならなかった。
デイジーの頭上、カメラには入らない部分にマイクが掲げられているのだが、その長い棒を持っている人の横に、僕は滑り込んでしゃがんだ。彼はその棒を超人的に長い時間、腕を少しも揺るがすことなく、バッキンガム宮殿の警備員のような威厳さと、断固とした意志を感じる表情で持ち続けている。
「いつも誰かが近寄ってきて、あなたのわきをくすぐったりするんでしょうね」と僕は会話の糸口に言ってみた。彼はマイクを1インチも動かすことなく、無言で僕をあしらうように顔をそむけた。その反応を見て、そうか、誰も彼をくすぐりに近寄ってきたりはしないのか、と悟った。
僕は一人の女性に目を付けた。彼女はエプロンのような作業着を身に付けていて、そのポケットにはたくさんの工具や配線が入っている。
「そのポケットにはツイッズラーが入ってるの?」と僕は、電気配線によく似た形の砂糖菓子の名前を言って、ご機嫌を伺ってみた。「レッド・ヴァインの方かな?」と、さらにお菓子の名称を付け加える。
彼女にも視線を逸らされ、相手にしてもらえなかった。
「あとどれくらいかかるかわかりますか?」と、そのシーンの撮影がついに2時間超えを果たした時、僕はPAに聞いた。監督はデイジーに向かって、このシーンで右を向く動機づけを説明しようとしている。
「本当に水を持ってきてあげようか?」とPAはまた質問で返すと、歩いて行ってしまった。
結局、僕はうろうろと撮影現場をさまよった末、スタッフやキャストが軽食を食べられるテントにたどり着いた。撮影は明らかに本日の全行程を終えていた。というのも、食べ物はほとんど食べつくされていたからだ。残っていたのは、セロリの切り株が数本と、ボウルの底に掬いきれなかったフムスがこびりついている程度だった。あと、12パック入りのカモミールティーは未開封のまま残っていたけれど。
僕は再び撮影現場に舞い戻った。リリーはカメラに映らないようにフレームの外側にいなければならない...とはいえ、デイジーが彼女の存在を感じ、安心していられるほどには近い距離を保っている。
共同製作プロデューサーの三人組が僕のそばまでやって来た。
「あなたは彼女のマネージャーかしら?」と、〈プロデューサー・トリオ〉の一人が僕に聞いた。
「彼女のボーイフレンドですよ」と僕は説明した。
すると、別の一人がため息をついた。「彼氏をマネージャーにしちゃうと、後々大変なのよね」
「母親がマネージャーってよりはましよ」と、最初に質問してきた一人が言った。
「それもそうね、母親よりはまだ彼氏を雇った方が無難ね」
「あ、それは一般的な意味じゃなくて、お母様の場合ってことね」
「なんてことだ!」今まで黙っていた三人目の男性プロデューサーが、スマホを手にして叫び声を上げた。「これを見てみろ!」
差し向けられたスマホの画面には、リリーとデイジーが映っていた。生涯の友のように並んで肩を寄せ合っている。
「セリーナがこれをツイートしちゃったんだ―」と三人目の共同プロデューサーは言う。
「写真はいっさい外に出しちゃだめってことくらい、あの女優だってわかってるでしょ!」と、一人目の共同プロデューサーが嘆いた。
「待って!」と、二人目の共同プロデューサーが他の発言を制するように言った。「このコメント欄を見て! あの犬の訓練士の女の子は、元々かなりの有名人みたいよ。それからデイジーのファンと、セリーナのファンも、訓練士の子に恋しちゃったみたい」
三人目の共同プロデューサーが、ニカッと満面の笑みを浮かべた。「レディース&ジェントルメン、ならびに、そういうカテゴリーには縛られない皆さん、喜ばしいご報告があります...なんと我々はトレンド入りを果たしました!」
彼の言い方は、トレンド入りが良いことで、まるで偉業を成し遂げたかのようだった。
しかし僕には、それが良いことだとは到底思えなかった。
9
リリー
12月22日
私は彼の名前さえ知らないのに、彼はまるでプロポーズでもするみたいに私を誘ってきた。
「『私たちそれぞれのテムズ川』で一緒に働いてみないかい?」そう聞いてきたのは、先ほど大声で私たちがトレンド入りしたことを発表していた、アメリカ訛りで話す早口のプロデューサーだった。でも彼はiPhoneからワイヤレスで繋がったAirPodを耳に差し込んでいて、私にそう聞いたかと思うと、電波で繋がった誰かに向かって、早口で言った。「なるはやで俺に連絡するように彼女に言っといてくれ」すると今度は、「で?」という目で私を見た。
私には、何親等か離れた結構遠い親戚だけど、映画の撮影スタッフとして働いている人が3人もいるし、女優をしている叔母さんが2人もいる。もっとも、2人とも私の叔父さんとはすでに離婚しちゃったから、元叔母さんたちになるけど。(その叔父さんは立て続けに女優と結婚したってことは、よっぽど女優好きなんでしょうね。)そういうわけで、私はこの業界には結構詳しくて、たくさんの取り巻きがいないと、大きい映画には出られないし、テレビ出演もままならないってことを知っている。要するに、意思決定とか、交渉とか、契約書の作成を手伝ってくれる人たちが必要なわけで...それと労働組合にも入らなくちゃ。私は何の組合にも所属してないし、丸腰で乗り込むほどの能なしでもない。
私はそのプロデューサーに言った。「いえ、結構です。あなたの撮影会社では働きたくありません。映画に出演する動物たちのことをもっと考えて、責任を持って世話してください! 彼女は誰の犬ですか? 逃げ出した訓練士が連れて来たんですか?」
そのプロデューサーは肩をすくめた。どこからともなく、また別のプロデューサーが現れた。どのプロデューサーがより偉いとか、序列的なことは知らないけど、こちらのプロデューサーは女性で、イギリス訛りだった。「デイジーは私の犬よ」と彼女が言った。
私は言い返した。「それなら、あなたがデイジーの世話役として雇った訓練士は、明らかに準備不足でしたね」
「そう思うかい?」と、アメリカ訛りのプロデューサーがAirPodを耳に差したまま言った。
ダッシュが私にもたれかかってきて、耳元でささやいた。「彼は君と話してるの? それとも、スマホで繋がった誰かと話してるの?」
さあ、どっちなんでしょうね。
デイジーの飼い主で、明らかに私と話している方のプロデューサーが言った。「あなたを訓練士として採用します。それから、あなたにはスクリーンにも出てもらいます。ソーシャルメディア上で宣伝にもなりそうだから。それなりの待遇は用意しますよ。あなたがSNS上でファンを映画に引き込んでくれれば、その分報酬を上乗せします」
「お断りします」と私は言った。そう言った直後、もっとこの状況にふさわしく、かつ、ぶっきらぼうに聞こえる業界用語を思い出した。「そんなの無理ゲー」と言っておけば、もっと格好良く決まったのに。それから私は、私に報酬をもたらしたかもしれない犬、スクリーン上で私と共演することになったかもしれない犬を呼んだ。「デイジー!」デイジーは飛び跳ねるように私に駆け寄ってきた。「お座り」と私は彼女に命じた。彼女はどこか混乱している様子で、なかなか座ろうとしない。何十人もの撮影スタッフに囲まれ、摩天楼を照らし出せるほどに眩しいストロボライトを四方八方から向けられて、誰が平常心でいられるだろうか? 人間でも無理でしょうね。幸いにも、私は〈リリー・ドッグクラフト〉のコートを着ていたので、コートの裏地に、おやつ入れのポケットが縫い付けられていた。私はポケットから袋入りのおやつを取り出すと、もう一度「お座り」とデイジーに繰り返した。
彼女はすっと座ってくれた。私はおやつを一つつまんで与えてから、膝をついて彼女と向き合った。目線の高さが合い、彼女と私が心を通わせることができるように。
「バルカン人との精神融合の時間ですか?」とダッシュが私に聞いてきた。
バルカン人との精神融合とは何なのか、正確にはわからなかったけれど、ダッシュの母親が大好きだった昔のテレビドラマに関係していることはわかった。私がこうして、責任感のある飼い主に恵まれなかった犬と対話する厳粛な時間を、ダッシュが前からそう呼んでいることも知っていたので、私はダッシュに「そうよ」と答えた。それからデイジーに向かって、「握手」と言った。デイジーが前足を差し出してきたので、私は片手で握手してから、もう片方の手でおやつをあげた。そして、おでこを優しく撫でながら彼女の耳元に口を寄せて、内緒話をするみたいに囁いた。「デイジー、あなたにはお行儀よくしていてほしいの。あなたはもう大人の女性なんだし、力だって強いのよ。そのエネルギーを善いことに使ってちょうだい。わかるでしょ、混乱を起こすためじゃなくてね。あなたの周りには無責任で無能な人間しかいないから、あなたのことまで頭が回らないの。だからこそ、あなたには責任感を持ってもらいたいのよ。逆に周りの人間たちをあなたが仕切るのよ、デイジー。あなたにそれができる? できるなら私と握手して」
デイジーがよだれを垂らしながら私の頬にキスしてきた。それから彼女は前足を上げて、もう一度私と握手した。私は彼女の前足を上下に揺らしながら、最後にもう一つおやつをあげて、彼女の濡れた鼻先にチュッと口づけた。「おりこうさんね、デイジー」ふと見ると、デイジーの飼い主のプロデューサーの手にはiPadが握られている。私は彼女に言った。「トゥイッケナムに知り合いがいるんですけど、その人がしっかりした犬の訓練士を紹介してくれると思います。彼女のメールアドレスをあなたのiPadに入力しましょうか?」そのイギリス人のプロデューサーは頷いた。
私は手渡されたiPadにジェーン・ダグラスの連絡先を入力すると、それをイギリス人のプロデューサーに返した。アメリカ人のプロデューサーが私に向かって、「大した千両役者だな」と吐き捨てるように言った。彼は私とは出会いもしなかったというように、風を切って歩き去っていった。
私はダッシュの方を向いた。彼を見ると時々、私は無性にとろけてしまいたくなる。彼の顔が鏡みたいになって、そんな私の心が映って見えるようだわ。「さあ、私にロンドンを案内して。とんだ道草? だったわね?」
彼はにっこりと笑って、私が腕を入れられるように、彼の腕を曲げて輪っかを作った。「では行きましょう、お嬢様」と彼は言った。
私たちが撮影現場から離れようとした時、メインキャストの一人、ルパート・ジェストが駆け寄ってきた。「リリー・ドッグクラフトの人だよね?」と彼は私に聞いた。「君のインスタを見たことがあるんだ。素晴らしいね!」彼は、親戚にバッキンガム宮殿で働いている人がいるみたいに、上品なブリティッシュアクセントで言った。まさに王室といった感じのきちんと刈り込まれた王族の発音ではなく、映画で見るような、女王の私室に入ってきて、女王を「陛下」と呼んで、粛々と下界のニュースを伝えている感じの執事の発音だった。ダッシュと私が足を止めると、ルパート・ジェストは私に大きな茶封筒を手渡してきた。「明日もしお時間の都合がつくようでしたら、あなたとお友達を招待したいのですが、いかが? お友達は何人連れてきても構いませんよ。僕の夫が演出している『メリクリ、ディック・ウィッティントン』を観に来られませんかね?」僕の夫? 困惑している私たちに向かって、彼は説明を続ける。「無言劇なんですけどね、イギリスの伝統的なクリスマスの出し物で、おとぎ話とか、歴史上の人物を題材にしている演劇なんです。ディック・ウィッティントンは伝説的なロンドン市長の名前で、イギリスの神話にもよく登場する人物なんですよ。オリジナルの開放感は残しつつも、ストーリーに若干現代風の味付けを加えて、重厚感のある芝居に仕上がっています。きっと楽しいですよ。よかったらどうぞお越し下さいな」
私は彼から茶封筒を受け取った。重っ。売れ残りのチケットなのか、中にはどっさりとチケットが入っていて、その厚みが人気のなさを物語っている。「ありがとうございます」と私は、なるべく礼儀正しく言った。
「行けたら行きます」とダッシュは言ったけれど、その言い方から、「リリーのいとこの、いけ好かないマークと彼の新妻と僕の三人で、一晩中〈ピクショナリー〉とかのボードゲームで遊んでいた方がまだマシだよ」という意味だとわかった。
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