『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて』3
『Mind the Gap, Dash and Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年11月12日~)
ルパート・ジェストが言った。「それと、この演劇のことを君のインスタに投稿してくれても構わないよ」それから彼はこう呟いた。「セリーナにも頼んだんだけど、投稿を拒否されちゃった。彼女はひどい人だよ、正直なところ」
なるほど。ぎくしゃくした関係をスクリーン上ではぼやけさせるために、犬を間に置く必要があったってことか。『私たちそれぞれのテムズ川』で描かれている儚くも淡い恋の物語は、「カット!」という声とともに断ち切れるってわけね。
「一緒に働いてる人を好きになれないって、どんな感じなんだろうね」と私はダッシュに言った。テムズ川沿いの〈ビクトリア・エンバンクメント〉と呼ばれる土手が見えてきて、そこに立つ大きなビルボードには、『私たちそれぞれのテムズ川』の広告が大々的に掲げられている。
私はダッシュにぴったりと寄り添った。私の幸せな場所。私たちはテムズ川を下るクルーズ船に乗っていた。ダッシュが言うには、これが最も効率的にリラックスしながらロンドンの主要な観光名所を回れる方法だそうよ。実際にそこに行かなくても、多くの観光地を見て回れる時短術にもなって、(浮いた時間で、本屋さんやレコードショップ、美術館や図書館、公園やお店を散策したり、アイスクリームやイギリスのチョコレートを食べたりできるみたいね。)クルーズ船の上からほんの数分の間に、国会議事堂、ウェストミンスター寺院、ビッグベン、それから〈ロンドン・アイ〉と呼ばれる大きな観覧車が見えた。ダッシュが「あの観覧車に乗ろう」と言わなかったのは、彼の優しさからだった。上空からロンドンの街を見下ろしたら壮大な景色が広がっているんだろうけど、私が高所恐怖症で、地上から離れるとめまいや吐き気を起こしやすいって彼は知ってるの。でも、船旅は純粋に楽しかった。冷たい空気に肌を撫でられ、髪の毛を風にさらわれながら、移り変わる景色を眺めているのは気持ちよかった。何より、彼の肩に私の頭を乗せ、ダッシュを独り占めしてる気分に浸っているのは最高だった。遠くにロンドン塔が見えてきた。私は、昔そこで起きた、ギロチン処刑などの恐ろしい出来事を思い浮かべながら、ダッシュのかけがえのない首に感謝のキスをした。
「嫌いな人と一緒に学校に行くようなものかな。もしそうなら、そんなに楽しくないかもね」とダッシュが言った。
「オックスフォードが嫌いなの?」
「いや、嫌いじゃないんだけど、なんていうか、属性が同じというか、そういう仲間がまだ見つかっていないだけかな」
「あなたの仲間はどこにいると思う?」
「さあ、それがわかればいいんだけど」
「あなたの仲間って誰? もちろん私以外でよ」
「#いつメンは誰?とか言わないでくれてありがとう。ニューヨークにいた頃は、その質問にすんなり答えられてた気がする。ここに来てからは? ジェムと、ジェムだけかな。今のところは」
私は家族が大好きだけど、ずっと住みたくて憧れていた場所に行ってみたら、唯一繋がりのある人が祖母だけだってわかったら、私でも相当へこむでしょうね。 ダッシュがもっと犬好きだったら、そんなにもがき苦しむこともないのに、とも思ったけど。私は言った。「ここに来てまだ数ヶ月しか経ってないんだから、仲間を見つけるにはもっと時間が必要なのよ。もし私がペンブロークに行くことになったら、近くにいられるわ。それは助けになる?」
私は彼にこう言って欲しかった。「君がここにいてくれたら、すべてがうまくいくだろうね。ようやく僕の夢が叶うよ」とか。でも、そうは言ってくれずに、ダッシュは言った。「君がここで暮らすことになったら、僕は君にばかり気を取られて、自分の道がさっぱり見つからなくなるかもね」
イギリスに住めばダッシュの近くにいられる、という妄想しかしてこなかった。私はそのような角度からイギリス行きを考えたことがなかった。もちろん彼の言っていることは正しいと思うし、正直な気持ちを言ってくれたんだとも思う。だけど、私が彼のそばに来るかもしれないと聞いて、何はともあれまず最初に、熱狂的にそのことを喜んでくれなかったことに、私は軽いショックを覚えた。
私は聞いた。「私がロンドンの学校に来たら、あなたは幸せ?」
「不幸にはならないだろうね」
それは私をひどく重たい気持ちにさせる悲しい答えだった。「私が自分の気持ちに反して、無理にここに来ようとしてると思ってるの? それとも、あなたは私にここには来てほしくないってこと?」
私たちは密着していた体を離し、お互いに向き合った。彼は、私の発言に不意を突かれたような顔をしていた。「僕はそんなこと言ってないよ。どっちとも思ってない。君が来てくれたら、そりゃ嬉しいよ。だけど、そもそも僕自身がここにいたいかどうかもわからないんだ。外国で生活するってことは想像以上に大変だし、君はマンハッタンでの生活に慣れきってるからね。あそこは君の庭みたいなものだ。君の家族がいて、犬もいて、いつでも安心していられる場所だろ。僕は心配してるんだよ。君が思ってる以上に、君がここに馴染むのは難しいんじゃないかな」
「私はここではうまくやっていけないって言ってるの?」
「そんなことも言ってないよ!」彼は私にキスをしてきた。私の口をふさいで黙らせるためね、と思いつつも、私はそのキスにとろけていった。夢のような一時を存分に味わった後、私たちは唇を離した。潤んだ瞳で彼が言う。「僕は居ても立っても居られないほど、ここに来たかったんだ。でも実際に来てみると、ここは思ったほど素敵な場所じゃなかったよ。君にはそういう経験をしてほしくないんだ。じっくり考えてから行動した方がいい、って僕が言いたいのはそれだけ」彼は少し間を空けてから、続けた。「でも、僕は君がどういう人か知ってるからね。犬がそばにいさえすれば、君はどこに行っても大丈夫だろうね。僕にもその能力があればいいのにな」
私は改めて、というか前にも増して彼が好きになっちゃったわ。
ダッシュの携帯がブルブルと振動したらしい。彼はポケットから携帯を取り出すと、私から目を離してメッセージに目をやった。私は携帯の電源を切っていた。ダッシュとの時間を満喫したいから、という理由と、―私がバーナードに行かないと決めたことに関して、きっとカンカンに怒った両親から、メールやらメッセージやらがガンガン届いているだろうから。クリスマスには家に帰るつもりだから、そのことは帰ってから対処しようと思っている。今は...誰にも邪魔されることなく、天にも昇るようなハッピーホリデーに浸っていたいの。
せっかく大きなシャボン玉の中にいる気分だったのに、あっという間に破裂してしまった。ダッシュが水を差すように言った。「ブーマーとソフィアが今ロンドンにいる! バルセロナへ向かう途中で、ロンドンに立ち寄ったみたい。バルセロナ行きの飛行機まで時間があるから、会えないかって言ってる。まさか君もロンドンにいるなんて!って驚いてるよ。君がトレンド入りしてるのを見て知ったんだって!」
「ああ、そうなんだ」と私は言った。舞い上がっていた気分が一気に地上目がけて落ちていく。いつでもテンションマックスなブーマーは、凄いなと感心はするけど、彼が周りにいるとエネルギーをどんどん吸い取られていくのよね。ダッシュの元カノのソフィアは、まあ大体は好きだけど、彼女のあり得ないほどの美しさと、何気ないクールさが我慢ならない時があるのよね。(そう、私はみみっちい人なのよ。)クリスマスにはニューヨークに帰るつもりだから、もうあと何日かしか残されていないっていうのに、これじゃますますダッシュと二人きりの時間が少なくなるじゃない。彼と私とジェムの三人で過ごすっていうのは、なんか気が引けるし。
「バービカンで会わないかって言われた」
「バービカンって何?」
「ニューヨークでいうと、リンカーン・センターみたいな芸術の複合施設だよ。コンサート、演劇、映画を楽しめるシアターがあって、カフェもあるよ。素晴らしい図書館もね。ブルータリスト建築なんだ」
「ブルータリスト建築? そんなものがあること自体知らなかったわ。それってどういう?」
「その名の通りだよ。ブルータルな、つまり荒々しい獣みたいなデザインの建物」
「行きたくないって言っても大丈夫?」私はダッシュと夜のデートがしたかった。バービカンとかいう、荒々しい獣に飲み込まれて、彼の元カノとダブルデートをするんじゃなくて。
ダッシュの顔がくもった。「そりゃあ、もちろん」と言いつつも、彼は明らかにがっかりしている。
「その代わり、当ててみて。何だと思う?」私の用意した代替案に、彼がブルータリスト建築よりも興奮してくれればいいな、と願った。
「何?」
「残りの滞在のためにね、ホテルの部屋を予約しちゃったの。マークとジュリアの家の、あのごつごつしたソファで寝るのは、もうこりごり」
「ほんとに? どこの?」
「クラリッジズよ」私は子供の頃、大叔母さんのアイダからそのホテルの話を聞いていた。アイダというか、ミセス・バジルっていった方がわかりやすいわね。ミセス・バジルは彼女の本名ではなく、私と兄が子供の頃に大好きだった本の登場人物から取った名前なんだけど、私も兄も、今でも彼女をミセス・バジルって呼んでるの。そこは大叔母さんのお気に入りのホテルだった。ロンドンで、というだけでなく、彼女が世界で一番大好きなホテルだった。「クリスマスのクラリッジズは本当に凄いのよ」と、何度もそのホテルの豪華絢爛さを聞かされていたので、そこを予約する以外の選択肢は思い浮かばなかった。私は普段は、かなりの倹約家なんだけど、ニューヨークに帰ったら両親との一世一代の壮絶な喧嘩が待っているし、クライアントから思いがけないボーナスも入ったことだし、ここは奮発して、最高のクリスマスを演出したっていいじゃない?
ダッシュが笑った。「いやいや、そうじゃなくて。君はどこのホテルを予約したの?」
「だからクラリッジズ・ホテル!」
「君が自分で払ったの? それとも、ミセス・バジルがそこに泊まりなさいって...彼女のクレジットカードを渡してくれたとか?」
私は腹が立ってきた。「犬の散歩のお客さんからクリスマスチップをもらったから、それを使ったの!」
「あそこはロンドンで一番高いホテルのうちの一つだよ! いったい君は、チップでいくらもらったっていうんだ?」私は彼が感激してくれるものと思ったんだけど、感激というより、彼は恐怖でぞっとした顔をしていた。
「クラリッジズの中でも、私の手が届く一番安い部屋を3泊ほど予約しただけよ」
またしてもダッシュは、私がわかりやすく示したチャンスボールをみすみす不意にした。私がロンドンにいることに、どうしてもっと熱狂してくれないのかしら。彼が言った。「それはお金の無駄遣いじゃないか。一生懸命働いて、チップまでもらって、それをホテル代なんかに浪費する気?」
私は考える前に言い返していた。「そうよね、ドーント・ブックスで私に会った時、あなたは『君も一緒にジェムの家に泊まろう!』とは言ってくれなかったものね」
「君は何を言ってる? 僕が君に会えて嬉しくなかったとでも? ジェムの家は狭いんだよ。それに、まだジェムと知り合ってから日が浅いから、それを許してくれるような人かもわからないし、『この家にリリーを泊めてもいいかな?』って聞くのも変だろ。っていうか、君が彼女の家に泊まりに来るなんて思えなかったよ!」
私は考えるための間を空けずに、どんどん言い返すことにした。夢見心地のシャボン玉はもう割れちゃったんだから、いくら理性的に考えようとしたって、弾けちゃった感情はもうどうしたって収拾がつかない。「私がここに来なければよかったって思ってるのね! 家族のみんなに言われたわ、あなたにサプライズを仕掛けるなんてやめなさいって。あーあ、やっぱりサプライズで会いに来るなんてやめておけばよかったな! あなたはクリスマスをジェムと過ごしたいんでしょうから! それか、ブーマーやソフィアと過ごしたらいいじゃない!」
会話のテンポが急に速くなったと思ったら、坂道を転げ落ちるように、気づけば、谷底にいた。
ダッシュが深くため息をついてから、言った。「そりゃあ君の家族は、大切なリリーベアを海の向こうまで行かせたくはなかっただろうね。僕たちが離れていることが、彼らのお望みなんだからさ」
え、今彼は、私の家族を侮辱した? (まあ、彼が言う通りかもしれないけど。)
遊覧船がすでに桟橋に横づけになっていることに、船内アナウンスが流れるまで、私は気づいていなかった。「最終案内です。セント・キャサリン・ドッグです。ロンドン塔にお越しの方は、こちらでお降り下さい」
さっきダッシュは、じっくり考えてから行動した方がいい、と言ったけど、確かにそうね。私には考えなければならないことがたくさんある。―考えずに、口から出るにまかせて喋っていたら、せっかくの甘く愛に満ちた船旅が、意図せずして、大喧嘩に発展してしまった。それから今頃、家族はカンカンに怒っているんだろうな。クリスマスに家族と過ごさず、彼氏を選んじゃったんだから。さらに、ちゃんと大学進学の道を用意してくれて、学業への期待をかけられてるっていうのに、イギリスで彼氏と半同棲生活をする可能性を模索しているんだから。というか、私は本当にイギリスの犬の学校に行きたいのだろうか。それもわからなくなっちゃった。どの道を選んでも、大きな選択になるわ。ああ、もう何もかもが面倒になってきた。突然、疲労感がどっとのしかかってきた。なんか私、疲れちゃった。本当に、本当にボリスが恋しかった。
「私、ここで降りるわ」と私はダッシュに言った。私はフェリーから桟橋(さんばし)にかかる厚板をひょいと渡ると、桟橋をすたすたと早足で進んだ。ダッシュは無言で、ショックを受けたように、フェリーに乗ったままだった。じきに船は岸を離れた。
10
ダッシュ
12月22日
彼女が岸に向かってジャンプするように船を降りた時、僕はじっくりと次に言うべき言葉を考えていた。
誰かを愛している時は、そうする必要があると僕は思う。口論のようなものが始まったら、慎重に言葉を選び、うまい言葉を紡ぎ出せば、きっと元の平穏な場所に僕らを連れ戻してくれる。そう期待して、頭の中で文章を並べるのだ。
急(せ)いて逃げ出すようなことはしてはならない。
だから僕は頭にきて、むかついていた。同時に、僕は全くむかついてはいなかった。リリーがあんなに劇的に、激昂したってことは、それだけの理由があったってことだ。彼女はむやみやたらに怒りをぶつけたりはしない人だから。
僕が彼女の家族について言ったことは、残念だけど正しい。マークはその極端な例だけど、多かれ少なかれ他の人たちも、彼と同じようなことを思っている。彼らは僕が好きじゃないんだ。彼らはただ、僕を容認しているにすぎない。まあなんとか、ミセス・バジルは味方に引き込めた。もちろん彼女が僕に気を許してもいいと判断した範囲内だけど、それなりに打ち解けることはできた。ラングストンと僕は二人で良い時間を過ごして、気心が知れたというか、これから先良い関係を築いていけそうな予感を共有することができた。ただ、たったの二人に過ぎない。少なくとも200人くらいいそうな彼女の親戚たちの中の、二人だけだ。(正直、リリーの親戚は次から次へと出てきて、数える術はない。)
それでも、正しければ、何でもかんでも声に出して言っていいわけじゃない。正しいことと、言ってもいいことは、全然違うものなんだ。
ホテルに関してもそう。僕が言いたかった事を頭の中で整理すると、こうなる。僕たちが一緒に過ごすことのために、そんなに多くのお金を費やす必要はない。なぜなら、ロンドンの高級ホテルだろうが、アメリカでよく看板を見かける、格安の〈モーテル6〉だろうが、僕たちは一緒にいさえすれば、同程度にハッピーになれるのだから。費やす金額に比例して、感じる愛の量が変わってくるなんてことになったら、もう僕たちは、世間に蔓延している低俗な関係に陥る。谷底まで真っ逆さまに落っこちる運命しか待っていない。これは正しいだろう。しかし、声に出して彼女に聞かせるべきことではないな、と思って黙っていた。
僕は考えずにはいられない。彼女は豪華なホテルを予約すれば、僕が感激すると思ったのだろうか。彼女がそんなことを考えるとは思えない。彼女は僕のことを何もわかっていないのか?
僕は自分の思考を止められない。待てよ、クラリッジズ・ホテルが、彼女にとって特別な場所なのかもしれない。彼女はそこで僕と一緒に過ごしたいと思ったのかもしれない。それが、彼女がずっと思い描いてきた夢だったとしたら。ダッシュ、彼女のことを何もわかっていないのは、お前の方だ。
混乱してきた。頭が二つに引き裂かれるような混乱は、遊覧船に乗っている間ずっと続き、気づけば僕は、何通ものメッセージを次々と彼女に送り付けていた。
リリー、ごめん。僕が言いたかったのは、これまでで最高のクリスマスを過ごすために、豪華なホテルとか、君の家族の熱心な応援は必要ないってことなんだ。
イギリスのボリス・ジョンソン首相がEUからの離脱を宣言したみたいに、ジョンソン首相の仮面をかぶった海賊が、今この船をハイジャックして、この船は俺の国だと宣言したら、きっと君がロンドン中の野良犬を呼び寄せて、僕を救ってくれると期待してるよ。
ちょっとうまいことを書けたと思ったんだけど、それでも返信がないってことは、僕が何を言っても、今の君には苦痛しか与えられていないってことだね。君に喜びを与えられないのなら、もう送るのをやめるよ。
...あ、もう一通だけ。僕は今から〈バービカン〉に行って、ブーマーとソフィアに会ってくるよ。気が向いたらでいいけど、君も来てほしいな。
あと一通。やっぱり締めの言葉は、ベタだけど、ビートルズかなと思って。恋人に捨てられた詩人気どりとしてはね。『僕たちはきっとうまくいくよ』
〈バービカン〉に到着してすぐに、ブーマーもソフィアも、リリーからメッセージを受け取っていないことがわかった。僕の顔を見るなり、ブーマーがこう言ったからだ。「リリーはどこ? リリーを連れてこないとか、あり得ないだろ!」
ソフィアは、何かを察知したのか、もっと要点を突いた質問をしてきた。「何があったの?」
二人の顔を見たら、なんだか一瞬でニューヨークに戻ったような気分になった。目の前にそびえ立つ〈バービカン〉が、ホイットニー美術館またはニューヨーク近代美術館のようにも思えてきて、懐かしさがこみ上げてきた。僕たちは一緒にいる。そのことがそういう気持ちにさせるのだ。その時立っている街や場所は、たまたまそこだったってだけで、どこだっていいんだ。
ブーマーにはオックスフォードからほぼ定期的にメールを送っていた。返信は来なかったけれど、まあ彼のことだから、こっちも何とも思わずに、一方的に送り続けていた。定期的にメールを書くって、送る方は結構な時間と労力を必要とするんだけど、彼はメールボックスにパッとメールが出現する現象を、何の苦労もいらない魔法か何かだと思っているのかもしれない。彼はコロラド大学ボルダー(Boulder)校の1年生で、入学してみたら、校舎が巨大な岩(boulder)の上に建っていなかったことに、「ボルダリングしながら通学するのかと思って張り切っていたのに」と言って、がっかりしていた。そんな失望も一時(いっとき)のことで、今は平地のキャンパスライフを楽しんでいる。
ソフィアと僕はあまり連絡を取っていなかった。お互いに連絡を取りたくなったら取る、というスタンスの友達関係を育んできたわけだけど、連絡するきっかけがなく何ヶ月も経ってしまったとしても、僕たちは平然としていられるくらい、ゆるやかな関係だった。お互いに必要なら、いつでも非常ベルのガラスを割って、警報機を鳴らすこともできたけれど、そうするためには、火事に匹敵する大きな出来事が必要だった。
彼女の目を見て、僕の中の火災感知器がまだちゃんと作動していることを、確認している自分に気づいた。
「彼女はそのうち来るよ」と、僕は何の説明も加えずに言った。「リリーは君たち二人に会いたがってるはずだから」
「そう来なくっちゃ! ボクたちがここに飛び降りたのは、そのためなんだから!」とブーマーが言った。
「飛び降りてはいないわ。立ち寄っただけね」と、ソフィアが笑って訂正する。相変わらずの名コンビだ。「3時間後にはスペイン行きの飛行機が出発するのよ。バルセロナに帰ったら、初めてブーマーを私の家族に紹介するの」
「でも、ロンドンの歴史を丸ごと全部見る時間はまだある?」とブーマーが彼女に聞く。
「もちろんあるわ」ソフィアはうなずくと、〈ロンドン博物館〉への方角を示した標識を指さした。
ブーマーはにっこりご満悦な様子だ。簡単に心が満たされる彼の気楽さが、僕は羨ましかった。
ソフィアの心はそんなに簡単には満たされない。僕はそれを知っていたから、ソフィアとブーマーが付き合いだしたと知って、信じられなかったのだ。まあ、信じられなかった理由は他にも山ほどあるけれど。それが、どういうわけか、二人はうまくいってるみたいだから、何がどうなるかなんて誰にもわからない。彼はコロラド大学、彼女はニューヨーク大学だから、それなりの遠距離恋愛を半年間続けながら、いつの間にか、親に紹介するまでの段階に発展していたのだ。
ブーマーは緊張などしていないんだろうな。僕だったら、僕がリリーの家族に初めて会うとなったら、心の準備に2年くらいは必要だったかもしれない。実際には、僕には有無も言わせてもらえない形で、会う羽目になったわけだけど。
「それで、あなたたちは喧嘩でもしたの?」とソフィアが聞いてきた。「そうじゃなかったら、リリーは私とブーマーには会いたくないってことでしょうね」
そう言われてしまったら、僕には説明するしか選択肢はなくなる。「そうだね。喧嘩と呼べるかどうかはわからないけど、感情が爆発したって言った方が近いかな、最終的にリリーは僕から逃げ出すように立ち去って、僕がメッセージを送っても、返事は来ない」
「そう、そういうことなら、彼女が私とブーマーに会いたくないってことではなさそうね」ソフィアはスマホを取り出すと、指を走らせ、おそらくリリーにメッセージを送った。それから再びスマホをポケットに戻し、僕を見て言った。「きっかけはどんなこと?」
「要するに、お互いの心がうまく読めてないってことかな。細かいことを言いだしても、たぶんどんどん核心から離れていくと思う」
ソフィアがうなずいた。言わんとしていることが通じたみたいだ。
「恋人関係っていうのは、犬の時間で測るものなんだよ」とブーマーが言った。
「は、どういう意味?」と僕は聞いた。
「これはボクが思いついた理論なんだけど」と彼は続けた。「犬の1年って人間の7年に相当するでしょ。それと同じで、恋人と付き合い始めてからの期間に7を掛けるわけ。そうすると、今どの段階にいるかっていうのが見えてくる。最初の1年は? そう、7歳くらいまでの幼少期なんだよ。物事を楽しみながら、ゆっくりと理解していく時期。そして今のボクたちが到達した2年目は? 14歳まで、つまり思春期だよ。歯がゆいし、反抗的にもなるよね。人生と同じでアイデンティティを見つけようと、もがく時期だから、自分たちの関係って何だろうって考え始めるんだよ。そうでしょ? それから3年目、4年目には、仕事を見つけて働き始めるんだ。絆の礎(いしずえ)が出来上がる時期だね。7年目頃には、中年になって更年期障害が襲ってきたりもする。それでも関係を続けて10年目を過ぎれば、―70歳を超えたカップルと同じで、成熟期に入る。その頃にはすっかり落ち着いてるはずだよ。そういう関係って憧れるよね。でも実年齢じゃないから、14年目や15年目を迎えたって、―実際に死ぬわけじゃない。本当にうまくいけば、100歳になっても、絆はちゃんと機能してる。50年も60年も一緒にいるカップルは? 彼らはヨーダだよ、ダッシュ。7を掛けたら300歳超えだからね、完全にヨーダだ」
僕たちはロンドン博物館に入った。中にはロンドンの歴史が地図のように展示されていて、好きなところから見て回れるようになっていた。入口で警備員に、閉館まであと30分しかない、と注意を促された。
「ロンドン大火!」とブーマーが叫んだ。「ロンドン大火を見てみたいな。あの大火事は牛が引き起こしたんだ。その牛も飾られてるかな」
「牛が原因だと言われたのは、シカゴ大火だと思うな」と僕は言った。
「どこだってきっと同じだよ」とブーマーが反論した。「いつだって可哀想な牛のせいにされる。ヤギとか、弱い人がやり玉に挙げられるんだ」
「たしかに」と僕は負けを認めた。
ブーマーは〈ロンドン大火〉というプレートが掲げられたコーナーへ向かい、残された僕とソフィアは自然と話し始めた。
「君たち二人がまだ付き合ってるなんて信じられないよ。意味がわからない」と僕は言った。
ソフィアが声を上げて笑いだした。「あなたとリリーにも同じことがいえるわ。あなたたちがまだ付き合ってるなんて、意味がわからない」
「いや、そう言われちゃうと何も言い返せないけど。リリーと僕の場合、もうすぐダメになるんじゃないかな。相性が悪いのかもしれない」
「いや、いや、そうじゃなくて」とソフィアが言った。「相性が悪いからこそでしょ! 相性は判断するものじゃなくて、作っていくからこそ価値があるのよ。あなただって経験を積んで、もうそれくらい気づいてるでしょ。ブーマーと私は似てる? 全然似てないわ。あなたとリリーはうり二つの同一人物なの? 違うでしょ。違うことを神様に感謝しないとね。相性っていうのは、2つの別々のものが一緒になることなんだから。そうじゃなかったら...ワンセットの食器みたいじゃない。全く同じスプーンが2つ並んでいても、退屈だわ」
「でも、作っていくのって難しいと思わない? 特に二人が遠く離れている場合?」
「私も彼がそばにいないと寂しいけど、いつもメールしたり通話したりしてるから、そこまで距離を感じないわ。それに、ある程度の距離感があった方が、私はハッピーなのよ。近づきすぎて関係性にのめり込んじゃうと、他に手がつかなくなっちゃうかもしれないでしょ。ある程度の距離を保つことで、そういう心配もなく、私は私らしく成長してるって感じがするの。二人の関係性にのめり込むのもいいけど、自分の仲間を作ったり、自分自身の経験を増やしていくことも、やっぱり必要なんだと思う」
「君たちはそれができてると思う?」
「ある程度はね。っていうか、そういうのって大体ある程度まででしょ? 恋をしてるとさ、100か0かっていう領域に入り込んじゃうものなのよね。中間がないっていうか、そういう二人きりにこもる関係からは、恋をしていても、抜け出したいって思ってる。私たちは、ある程度はできてるわよ。それぞれ別々の世界を持ってるし。私たちが付き合い始めた頃、ブーマーがカタルーニャ語を習いたいって言ったの。彼から聞いて知ってる? 私の家族や友達と、私みたいに話せるようになりたいって。でも、それはしないでって私が頼んだの。私は、彼が理解できない言語を持っていたかったから。私自身の領域を残しておきたかったの。周りの人たちにシェアしたいことがあれば、それは自分のやり方で伝えたいわけ。べつに彼を除け者にしようとかそういうんじゃないのよ。―私の家族も友達も、みんな英語を話せるしね。芯の部分に自分らしさを保てる大切な何かを持っておきたいって感じかな。オックスフォードも、あなたにとってそんな感じの相手だったでしょ。うまくいってないみたいだけど、ね?」
僕はオックスフォードでの生活についてソフィアには何も話していなかった。「どうして知ってるの?」と僕は聞いた。
「あなたのことは報告を受けてるのよ」
「ブーマーからじゃないよね。だって、ブーマーには『何もかもが順調だよ』っていつも言ってるから」
「彼からじゃないわ。実は、私とアズラ・ハトゥンは2年間、寄宿学校で一緒だったの。彼女があなたのことを周りに馴染めない人だって言ってたけど、私はそんなに心配してなかったわ。だってそれが、私のダッシュですもの。私が知ってるダッシュそのものだったから、そうでしょうね、くらいに最初は思っていたんだけど、アズラが、あなたを見ていて可哀想になるくらい、惨めな感じだって言うから。あなたが好きなはずの文学の授業でさえ、浮かない顔して周りから浮いてるって言うから...何かあったんだって思ったの。それで、自分の目で確かめようと思って、ここに立ち寄ることにしたのよ」
「それで、今見て、僕はどんな感じに見える?」
「惨めではないわね。ただ少し、迷路に迷い込んじゃった感はある」
「リリーがここに来るって知ってた? 彼女はサプライズでやって来たんだけど、それで僕は戸惑っちゃって、もう少し心の準備っていうか、前もってリリーが来るって知ってれば、物事はもっとスムーズに進んだと思う」
ソフィアは首を横に振った。「私たちは誰も、リリーとはそんなに会ってないわ。私たちは大学に行ってて、彼女は行ってないっていうのもあるけど、理由はそれだけじゃないと思う。彼女の方が、周りから距離を置いてる気がする。彼女は人間よりも犬と一緒に過ごす時間の方が長いのよ、ダッシュ。私も彼女にメールして会う約束を取り付けようとはしてるんだけど、結局いつも、彼女が犬の散歩中にニューヨーク大学周辺を通る時、歩きながら話す感じになる。そういえば彼女もあなたみたいに、少し迷ってる感があったわね」
「彼女は成功してるんだよ。知ってると思うけど、犬の散歩者として有名なんだ」
「私も彼女のインスタとか見てるからそれは知ってるけど、彼女は有名人になりたいわけじゃないんだと思う。あの感じからすると、それだけが彼女の望みだとは思えないわ」
僕たちはゆっくりと歩きながら、ようやくブーマーのいる〈ロンドン大火〉の部屋に入った。1666年当時のロンドンの街が模型になって展示されている。街並みは至極普通に見えた...突然、天井のスピーカーから警報のようなアナウンスが流れた。「プディング通りにある〈トーマス・ファリナー・ベーカリー〉で火災が発生しました。炎はまたたく間に街中に広がっています」そして炎の広がりを表すように、僕たちを取り囲む壁が赤く光りだした。―街の模型も徐々に大規模に赤く点滅を繰り返している。「トーマス・ファリナーという男が〈プディング通り〉でパン屋を経営していたことは事実です。〈プディング通り〉という美味しそうな名前の道も実在します...」アナウンスは天井から事実を並べ立てている。
「そのパン屋もやっぱり牛を飼ってたんだろうな、ミルク用に」とブーマーが、やりきれない思いを吐露するように言った。地獄のような烈火が街全体を真っ赤に染め上げた時、彼は首を横に振り、気をそらすように僕に聞いた。「リリーから連絡は?」
ソフィアと僕はもう一度それぞれスマホをチェックしたが、何の連絡も届いていなかった。
「彼女がサプライズで彼に会いに来たんだけど、計画通りに物事が進まなかったそうよ」とソフィアがブーマーに説明した。
「ボクたちみたいに?」とブーマーが聞いた。
「いや、そうじゃなくて」ソフィアは詳しい説明を省いて、ざっくりと付け加えた。「私たちとはまた違う感じで失敗したのよ」
「君たちにも何か失敗があったの?」と僕はすかさず聞いた。
「ボクはコロラドから飛行機に乗って、ラガーディア空港に到着するって彼女に言っちゃったんだけど、実際はジョン・F・ケネディ国際空港の方だったんだ」とブーマーが言った。「ボクは彼女に早く会いたくて、JFKからラガーディアに向かったよね。そしたら彼女は逆に、Uberを利用してJFKに向かっちゃったんだよ。あの時はほんと、すれ違いの連続だったな! ボクはむしろ面白くなってきちゃったんだけど、彼女はそんなに楽しそうじゃなかった」
「ようやく会えた時、私は怒っていたかもしれないわね」
「別れようって言われるのかと思って、ドキドキしちゃったよ!」
「正直言っていい? ほとんど、別れましょうって口から出かけてたの。だって、行ったり来たりしてるうちに日が暮れちゃうし、ボクは何も悪くない、みたいな顔してるから」
「でも、ボクが何か面白いことを言ったら、笑ってくれた」
「そうじゃないわ。特定の発言が面白かったわけじゃなくて、気づかせてくれたのよ。私には決める権利があるんだって。怒ったまま一晩中過ごすか、昼間のことはとりあえず脇に置いて、楽しく過ごすか」
「僕だったら、一晩中怒ったまま過ごしただろうね」と僕は正直な気持ちを言った。
「そんなことないっしょ」とブーマーが言った。「ダッシュはボクといる時は、怒ったりしないじゃないか。正面切って、楽しくて仕方ないって顔してるよ」
目の前で街全体が真っ赤な炎に包まれ、〈ロンドン大火〉の再現演出は終了した。その後、炎はだんだんと減退し、照明は元の昼白色へと戻っていった。模型全体がリセットされたようだ。
「今度は出火したらすぐに教えてあげよう!」とブーマーが言いだした。
僕はソフィアにさっと視線を送った。
彼女も僕を射貫くように見た。
二人の視線がぶつかり合い、意見が合致した。やれやれ、そんなのバカげてる。
再び〈ロンドン大火〉の再現が始まり、〈トーマス・ファリナー・ベーカリー〉がチカチカと点滅しだした。そこでブーマーが周りの家々に向かって、天空から「火事だ!」と叫んだ。「みんな、火事だよ! 早く逃げて!」それを面白がってはくれなかった警備員が飛んできて、一緒にいた僕たちも当然仲間だと思われ、三人もろとも部屋の外に追い出されてしまった。
次のブースは〈拡大する都市〉と銘打たれていた。―ロンドンは大火の後、着実に再建され、ドラマ『ダウントン・アビー』で描かれていたような、貴族が台頭する華やかな時代へと次第に移り変わっていった。ブーマーは特に〈ヴォクスホール・プレジャー・ガーデンズ〉という庭園のミニチュア模型を食い入るように見ていた。そこはテムズ川のほとりに位置し、17世紀半ばから19世紀にかけてロンドンの娯楽の中心地だった公園だ。そこには様々なマネキンが置かれ、そこにいる誰もが、自分を社会の高みに押し上げようとしているかのように、豪華な衣装で自身を着飾っていた。
「おー、格好いいね」とブーマーが、シルクハットをかぶったマネキンに声をかけた。頭上のスピーカーから、「まもなく博物館は閉館いたします」と、丁寧な口調で僕たちに退場を促すアナウンスが流れてきた。
「こうしてぶらぶらして過ごす時間が、なんだかいとおしいよ」と僕はソフィアに言った。「言ってる意味わかるよね、意気込むこともなく、それが友達だからさ。オックスフォードにはそういう相手がいないんだ」
「アズラが言ってたわ、あなたは周りに溶け込もうとする努力を怠ってるって」
「まあ、アズラは寄宿学校でそういうスキルを学んだんでしょ、君と一緒に。だからオックスフォードでも、うまく泳げているんだ」と僕は言った。「僕は初めてプールに放り込まれて、あたふたしっぱなしだよ。周りを見ればほとんどの人が、生また直後からこのプールで泳いできましたっていう余裕の表情で、すいすい泳いでる」
「大丈夫よ。あなたは泳ぎ方を知ってるんだから」とソフィアが指摘した。「こうして私と、友達と、ちゃんと泳げてるじゃない。オックスフォードでもできるようになるわ」
「ニューヨークではもっとうまく泳げてたんだけどな」と僕は言った。「ニューヨークの方が、水が僕の肌に合ってるから」
「そんな台詞、初めて聞いたわ。私は初めて耳にした。蛇口から出てくる水道水の話じゃないわよね」
「でも言いたいことはわかるだろ。僕は地元に帰りたいよ。あそこが僕のホームグラウンドだから」
「じゃあ、帰れば」
警備員が再びやって来て、もう閉館の時間だからそこの出口から早く出ていけ、と丁重に言った。
「出口に〈現代〉っていうプラカードを掲げた方が面白いのに!」とブーマーが言って、出口に向かって真っ直ぐ駆け出す。僕たちも後を追った。
外はもう、真っ暗だった。僕たちが建物の中にいる間に、12月の太陽はすっかり身を隠し、どこにも見えなくなっていた。ソフィアはスマホで時間を確認してから、手早くメッセージを入力していた。
「彼女があなたに対して怒ってるからといって、私にも返信が来ないなんて、ちょっとおかしいわね」と彼女がつぶやいた。
「〈バッドエッグ〉で腐った卵か、他のものでもいいけど食べる時間はある?」とブーマーが聞いた。
ソフィアはスマホで検索しながら答えた。「ええ、あるわ。でも1時間後にはタクシーに乗らないと、飛行機に間に合わなくなっちゃう。もう私たちの荷物も機内に積み込まれてる頃だろうし、この便が今夜の最終便だから、逃すわけにはいかないわ」
「ソフィアの家族に、ボクは時間にルーズなやつ(skipper)だと思われちゃう。ボクは飛行機の機長(skipper)だから最後に降りたんだ、とか思ってくれればいいけど」とブーマーが言った。彼としては笑いを取ろうとしたのだろうが、彼女はスマホの画面を見たまま操作し続けている。
「彼女の家族に初めて会いに行くんだろ、どんな気分?」と僕は聞いた。
「怖いよ...いい意味でね」ブーマーはにっこりと笑った。「でもそれが愛ってもんっしょ?」
僕は一瞬考えてから、結論を出した。「ああ、きっとそうだ」
〈バッドエッグ〉は、ブランチ・レストランといった感じの、太陽光を存分に取り込める全面ガラス張りのお店だったが、夜の遅い時間まで営業していた。ロンドンの中心地で、メキシコの卵料理「ウェボス・ランチェロス」を注文するのは違和感があったのだが、ブーマーはお構いなしといった様子だ。
「胃が欲しがってるものを食べるに限るよ」と彼は言うと、ウェボスに追加で、クリスマス・プディング・サンデーも注文した。それはアイスクリームの上に、ブランデーに浸したフルーツと、なぜかクリスマス・プディングと呼ばれているチョコの塊が、こんもりと盛りつけられたパフェだった。
僕もブーマーにつられ、「シャクシューカ」というトマトベースの卵料理を注文した。ソフィアは普通に「ハンバーガーをください」と言った。店員さんが僕らのテーブルを去ると、向かい側に座っている二人を見て...僕の胸がキュンと鳴った。久しぶりに聞いたときめきの音だった。オックスフォードでは、こんな状況は一度もなかった。あえて和気あいあいとした情景は心のうちから排除していたのだ。楽しいひと時を思い出せば、むしろ孤独の声が大きく聞こえるだけだから。大学院に行って学問を究めるのだ。そう自分に言い聞かせていた。そのためには奨学金を得る必要があるし、当然博学を身につけなければならないと、僕は独りの時間に没頭した。でも本当は、誰かと向かい合って食事をしたかったんだ。心に浮かんだことを何でも話し合える相手が欲しかった。ブロンテ姉妹、ジョナス・ブラザーズ、カール・ヴァン・ヴェクテン、カーリー・レイ・ジェプセンなど、芸術や音楽について思う存分語り合いたかった。
「目がうるうるしてる?」とブーマーが僕の目を覗き込んで聞いてきた。それから彼はソフィアの肩に腕を回すと、言った。「見て、彼が泣きそうになってるよ」
「僕はただ...君たちが近くにいなくて寂しかった」と僕は言って、零れそうになった涙を手でぬぐった。自分の口から飛び出した表現があまりにありきたりで、特別な人生を歩もうとしていた自分が、これほどまでに平凡な存在だったのかと思い知ったが、それ以上に喜びの方が大きかった。そのうち僕は耐えきれなくなって、僕の方から彼らの元へと、泣きつくように帰っていただろう。逆にこうして僕のところへ来てくれた。僕はなんてラッキーなんだと思い知り、感謝の気持ちが溢れて止まらない。
「ボクたちも君がいなくて寂しかったよ」とブーマーが言った。
「砂漠たちが雨を恋しがるようにね」とソフィアが割って入るように、イギリスのロックバンドの曲を引用した。
僕は言わずにはいられなかった。「その歌を聞くたびにずっともどかしかったんだけどさ、なんで砂漠たちなの? 普通に砂漠でよくない?」
ブーマーが、そう来なくっちゃ、みたいな目で僕を見て、「確かにいえてる」と言った。
「じゃあ、私が喩え直すわ」とソフィアが続けた。「氷冠たちが寒さを恋しがるように。北極と南極の両方あるから、氷冠たちね」
「いやいや、そこは熱帯を恋しがってよ」と僕はつっこみを入れる。
「今の状況でいうと」とブーマーが追随した。「ボクの胃袋がプディング・サンデーを恋しがってるように。ってか、遅くない...」
それからしばらく、ネタ切れで一息つくまで、僕たちは三人で比喩のオリンピックを繰り広げていた。
僕の心を読んだのか、それとも僕と同じ気持ちになっただけか、ブーマーが言った。「彼女もボクたちの中にいなくちゃだめだよ」
「そうだね」と僕は言った。「彼女もここにいるべきだ」
「じゃあさ」ソフィアが提案した。「みんなで一斉に彼女にそう伝えましょうよ」
僕たちはそれぞれのスマホを取り出すと、君もここにおいで、と画面に打ち込んだ。そして三つ数えて、同時に「送信」ボタンを押した。それからさらに同じことを三回繰り返した。
返事はなかった。
僕たちは彼女から返事が来ないことを笑い話に変えようと、冗談交じりに憶測を言い合ったりしていた。食事も済んで、ソフィアが、そろそろヒースロー空港に向かった方がいいわ、と時間を気にしだしたので、店員さんにお会計を頼み、支払いをした。
僕たちが立ち上がってコートを着ようとした時だった。ソフィアのスマホが鳴ったのだ。
ソフィアは驚いた表情を浮かべながら、届いたメッセージを読んでいる。
「リリーから?」と、ブーマーと僕が同時に聞く。
ソフィアは首を横に振った。「いいえ、アズラからよ。でも、あなたたちびっくりするわよ。彼女とリリーは今、信じられない場所にいるみたい」
11
リリー
12月22日
リリー、やってくれたな。お前のせいでクリスマスが台無しだぞ。
なんとか勇気を振り絞ってスマホの電源を入れてみると、最初に目に飛び込んできたメッセージがこれだった。兄のラングストンの声が頭に鳴り響く。でも続きを読んでみると、完全に気が滅入るようなメッセージではなかった。
お前のせいというか、お前のおかげといった方がいいかもな。お前が送ったメールにママが怒りをむき出しにして、「今年はもうクリスマスをやめる」と言いだした。交換するプレゼントも用意してないし、一日中パジャマ姿でうろうろ過ごすこともないし、クリスマス・ブランチの準備もしてない。やっほーい! って俺は叫んだよ。一年に一度のバカげた日が消えてくれたー! 毎年うんざりしてたんだよ。無駄に労力とお金をつぎ込んで、くだらない消費主義に踊らされて、ひどいセーターをもらって、みたいなクリスマスを今年もやり過ごすのかと思っていたから、待ちに待ったクリスマスなしの年末になりそうだって喜んだ。ただ、家族の中で誰よりもこの時期を待ちわびていたはずの、ナンバー1のクリスマスオタクが、そのきっかけを作ってくれるとは予想外だったな。おかげで俺は、クリスマスをベニーの家族と過ごすことができる。自分の家族をないがしろにして、ボーイフレンドの家族と過ごすなんて、ちょっと気が引けるけど、そこまで罪悪感を感じなくて済む。だって、クリスマスをやめるって言いだしたのはママだからな。―俺は彼女の考えに乗っただけだ! ほんとにお前ってやつは天才だよ。はっきり言って、プエルトリコのクリスマス料理の方が、うちのより美味いんだ。それでもお前が作るクッキーは、一位に君臨し続けるけどな。(大学には行った方がいいぞ。バーナード大学じゃなくてもいいからさ。今度相談に乗ろうか?)
私は地下鉄を降りて、マークとジュリアの部屋へ向かった。私の荷物を置きっぱなしだったから取りに向かっていたんだけど、ダッシュからは一向にメールが届かない。―いったい何なの?!?!?―ママからのメールはちらちらっと見ていったけど、メッセージを開くたびに、ママの逆鱗に触れたというか、逆鱗のスクリーンショットを撮っているかのような気分になり、最後まで読めずにすぐに次のメッセージへと移ってしまう。
あなたが大学に行きたくないと思うのなら、あなたは...
電話に出なさい、リリー!
我が家はね、4世代に渡って女性は全員バーナード大学に入ったのよ。あなたがその伝統を閉ざすなんて...
しかし決定打になったのは、パパからのメールだった。30分ほど前、まだダッシュと船の上にいた時、ちらっとスマホを覗き見たら、パパからメールが届いていた。それが引き金となって、つい私は船を降りてしまったのだ。
ママの心を傷つけたようだな、リリー。
私はいったい何を考えていたのかしら。自分でもわからないまま、気づけばフェリーから飛び降りていた。衝動的な行動だったけど、そうすることで、ダッシュを怒らせて喧嘩状態に引きずり込もうとしたのかもしれない。彼の気を引きたかったのか何なのか、あの時の私はいろんなことで頭がいっぱいで、自分を見失っていた。異国の地にやって来て、独立へ向けて一歩を踏み出した、はずだった。それなのに、たったの一日でこんなことになってしまった。真剣にここで身を立ててやって行こうと考えていたはずの良き日が、こんなにも早く、あっけなくダメになってしまうなんて、いったいどうなってるの?
私は臆病者だからでしょうね。勇気がないから、こうなるのよ。
私は勇気がない小娘だ。バーナード大学には行きたくないってずっと思っていたのに、ママには逆に行きたがっているそぶりを見せてしまった。勇気がないから自分の口では言えずに、メールの一斉送信という邪道な手段で、ママの思い描いている大学への夢を、ママの代わりに叶えてはあげられない、と伝えた。(私は臆病者で、卑怯者だ。)
私はまぬけな恋人だ。クリスマスにボーイフレンドを驚かせてしまった。彼がオックスフォードでの生活に疲れきっていて、力を抜いて頭を休めるための休暇を必要としていることくらいわかっていたのに、のんきにサプライズを仕掛けてしまった。それに、私がイギリスに移り住んで彼のそばにやって来たら、彼が私に気を取られて、この地に彼の土台を築き、根を張る邪魔になるってことに、私は気づかなかった。
私は独りよがりの夢見る乙女だ。トゥイッケナムの、よくわからない犬の学校に行くとかいう考えを思い描いて、甘い気分に浸っていた。現実問題として、イギリスに引っ越すということは、マンハッタンで私を犬の散歩人として頼りにしている、ありがたいクライアントの皆さまを裏切ることになるし、愛犬のボリスとも離ればなれになってしまう。
臆病者、臆病者、臆病者。私は卑怯で、まぬけで、最低だ。
あの時、ガーベイ教授とママにメールを一斉送信した瞬間は、我ながらいい考えだと思った。反抗的な行為であると同時に、―あれよ、あれ、最近みんなが使ってる流行り言葉でいうと、―そう、代理行為にもなって一石二鳥でしょ。私は自分で意思決定をして、運命を選択できるだけの力を手に入れたんだって爽快感もあったわ。ただ、送った後のことまでは見通せていなかった。後から余波がどっと押し寄せて来るとはね。
私は早くホテルの部屋で独りになりたかった。私もダッシュと同じくらい疲れきっていたから、全身の力を抜いてゆっくり頭を休める必要があった。マークとジュリアが家にいなければいいなと思った。そうすれば、荷物だけを持って泥棒みたいにこっそり抜け出せるから。それこそ、臆病者の私らしいでしょ。しかし、そっと鍵でドアを開け、彼らの部屋に入ってみると、マークがあの忌ま忌ましいソファに寝そべって、マーティン・エイミスの小説を読んでいるのが視界に入った。(マークはこの作家が大のお気に入りなんだけど、ダッシュは、あんな作家を好きなやつを信用できるか、とか言ってたから、それも二人が敵対する理由の一つになってるっぽい。)マークは私を見ると、本にしおりを挟んでぱたんと閉じ、体を起こした。
「聞いたぞ。お前はまたやらかしたらしいな」と彼が言った。
「知ってる。私のせいでクリスマスが台無しになったんでしょ。私はモンスターなのよ」と言いながら、私は頭の中で自分の持ち物の在りかをざっと把握した。歯ブラシと化粧品のバッグはバスルームに置いてある。洋服はすべてリュックサックから手の届く範囲にあったはず。私は家の主(あるじ)の邪魔にならないように、ソファの後ろを通り抜けた。私にも先を見通す力はあるのよ、少なくとも数分以内の範囲なら。5分で荷造りして出て行こうと思った。―長くかかっても10分でしょうね。マークが、家族は家族と一緒にいるべきだとか言って、私がこの窮屈な部屋から豪華なホテルに泊まりにいくことを非難してきたら、私は捨て台詞の一つも残してさっさと出ていくつもりだった。
マークが言った。「またニューヨークで家族の危機が始まったそうじゃないか。俺がお前をロンドンに誘い込んだんだろって、なぜか俺が責められたよ。まあ心配するな。全部ダッシュのせいだって言っといたから。彼らは簡単に納得してうなずいてたよ」
「ダッシュは関係ないわ。私よ。全部私が決めたことよ!」
「それもそうだな」とマークは、不信感を顔に滲ませて言った。「〈ドーントブックス・愛書家チャレンジカップ〉も途中で断ち切れになっちまった。お前らが抜けたとたん、脱落者が続出したんだ。ジュリアは自分が企画したイベントが頓挫して、ひどく落ち込んでるよ。まあ、それもダッシュのせいにしといたけどな。あいつは自分が元凶だってわかってるのか」
私は言った。「経営者として言わせてもらうと、企画のタイミングが悪いのよ! クリスマスに向けてみんな忙しいこの時期に、謎を解いてる暇なんてないでしょ! そういうのはイルミネーションがすっかり消えて、冬の淋しさばかりが目立つようになってきた頃、人々が何かやることないかな~ってふらふらと家を出る1月にやらなきゃだめよ」それから、私はまるで常識を言い聞かせるみたいに、世界中の誰もがダッシュを知ってるみたいに付け加えた。「それからね、何でもかんでもダッシュのせいにしちゃだめって」幼稚園で習ったでしょ。
「彼と出会う前のお前はもっと優しかった。もっとお手軽で気さくな感じだったよ」
「私は今だって十分優しいわ。ってかお手軽って何? 礼儀正しいって言ってよね」
マークがソファから立ち上がった。「俺は小学生のリリーの方が好きだったな」
ようやく風穴が開いたというか、捨て台詞を吐けるきっかけができた。すかさず私はマークに言い返す。「小学生のリリーなら、そのソファでも十分体を伸ばして寝れるでしょうね。大人のリリーには残念ながら無理でした。私は荷物を取りに来ただけだから、今からホテルへ行くわ」
マークがはっと息を呑んだ。「この裏切り者!」私がさらに自分の正当性を主張しようとした直前だった。マークの家のテレビ画面が受信音を発した。見れば、スカイプの着信で、発信者IDには「おじいちゃん」と表示されている。
「待って、マーク」と私は懇願した。「お願い、私がここを出ていった後に電話に出て」
「それはならぬよ、裏切り者ちゃん」とマークがにやけながら言った。「俺はさっきガチャってドアが開く音がした時すかさず、リリーが帰ってきたってニューヨークにメールしといたんだよ。みんながお前と連絡を取ろうとしてるみたいだけど、お前は一向に電話にも出ないし、メールも返さないそうじゃないか。ただ、ここなら問題ない」そう言うと彼は、躊躇なく〈リモート〉ボタンを押した。「やあ、おじいちゃん!」私の祖父と、それから私の兄の顔が大きなテレビ画面に映し出された。どうやら二人は今、〈モーニングサイド・ハイツ〉にある特別養護老人ホームの祖父の部屋にいるらしい。そういえば、〈モーニングサイド・ハイツ〉にはバーナード大学もあるのよね。
やっぱり私は最低の最悪みたいね?
そうか、私はおじいちゃんからも離れようとしていたんだ! 私の大好きなおじいちゃん。ほぼ毎日、私が来るのを老人ホームで楽しみに待っていてくれるおじいちゃん。気乗りする日は老人ホームの周りを一緒に散歩して、彼の気が乗らない日は、私がベッド脇に座って本を朗読するのを喜んで聞いてくれるおじいちゃん。彼の子供や孫たち全員を愛しているおじいちゃん。特に彼のお気に入りは私なんだけどね。老人ホームの他の皆さんも、私がボリスを連れてくることを楽しみにしている。ボリスは施設の中に入っても礼儀正しいし、動物との触れ合いが皆さんにとって、癒しの一時になっているみたい。知っての通り、外見は恐ろしい犬なんだけど、ボリスはセラピー犬としての驚くべき資質を開花させちゃったのよ。まあ見方によっては、彼は単純でわかりやすいオスで、ボリスの人生には、ピーナッツバターのおやつと私、それからお年寄りの皆さんがいれば満足みたいね。
私はさっさと画面の前から消えようとしたのだが、マークが私に向かって「座れ!」と鋭くつぶやいた。私はまるでボリスになった気分で、耳から入った命令に条件反射的に座ってしまった。相変わらずゴツゴツしたソファにお尻を埋めた瞬間、私を非難がましく見ていたおじいちゃんとラングストンの視線と、私の視線がぶつかった。
おじいちゃんが言った。「リリーベア、お前のせいでクリスマスが中止になったそうだな?」私はおじいちゃんの顔から目をそむけたが、目に入ってきたのはおじいちゃんのベッドの枕元にずらっと並べられた家族の写真だった。―少なくともその半分には私が写っている。過去のクリスマスパーティーでにこやかに笑う私。可愛らしくて、屈託のない笑顔を振りまく過去のリリーは、私じゃないみたいだ。
「ミセス・バジルはどこ?」と私は聞いた。確か今日は、ラングストンではなく、彼女がおじいちゃんを訪問する日だったはず。
ラングストンが言った。「今日は俺がこの街にいるってことで、彼女に代わってほしいって頼まれたんだ。ってか彼女も今年は、毎年恒例のクリスマスパーティーをキャンセルするとか言ってたぞ。彼女の高級シャンパン・コレクションは、大晦日のパーティーまでおあずけってことだ。それさえも中止になったら、彼女のシャンパンがお目当ての親戚たちと俺に、お前は袋叩きだからな」
「彼女は今日はどこへ行ったの?」私の心はさらに痛んだ。大叔母さんのタウンハウスで毎年クリスマスの夜に開かれるパーティーは、私たち親族にとってメインの行事だった。プレゼント交換がなくなったことよりも、あそこで親族みんなが顔を合わせる機会がなくなったことの方が、大きな損失のように感じられた。
おじいちゃんが言った。「わしの妹のことは気にするな。あいつは姿をくらますのが好きなんだ。ほっとけばいい。それよりリリー、よく聞け。お前の母親がクリスマスを中止したことは、大したことじゃない。どうにでもなる」彼はそう言うと、ベッドから出て、よろよろと歩行器につかまった。彼の足腰が弱っていることを、改めて私に思い知らせようとしているかのようだった。すると彼は片手を振り上げ、私に向かって握りしめた拳(こぶし)を繰り出した。「だがな、お前が大学に行かないというのは絶対に許さん!」
ラングストンがおじいちゃんのそばに寄り添うように立った。「そうだぞ、リリー。お前はいったい何を考えてるんだ?」
「私はバーナードには行きたくないの」ついに言ってしまった。頭の中で何万回と繰り返してきた言葉を、声に出して私は言っていた。
私の背後でマークが言った。「あそこは名門のお嬢様大学だからな。お前みたいな、ちんけなやつが入ったら浮いちゃうってか」
マークに関しては、ダッシュが正しいと痛感した。ほんと彼はひどい人なのよね。っていっても、彼は私のいとこなわけだし、何があっても家族愛はあるけど。でもね、ちんけとか言われると、あんたにだけは言われたくないわって気持ちにもなる。
「それで、大学に行かずに何をするつもりなんだ?」とおじいちゃんが聞いてきた。
今さら悪あがきするみたいに、言い訳めいたこと言っても無意味だとわかっていた。何をどう言ったところで、それはならぬって言われるに決まってるから、私は本当のことをそのまま言うことにした。「犬のトレーニングの学校があって、そこに行こうと思ってる。ここ、イギリスにあるのよ」
一同沈黙。
それからラングストンが口を開いた。「なんていう学校だ?」
「ペンブローク・ケイナイン・ファシリテーター・インスティテュート」と私は答えた。
マークが言った。「なんだ、そのふざけた名前は? 校長はあれか、ロマンス小説の名手バーバラ・カートランドとかか?」
「いいえ、ジェーン・ダグラスよ」と私は言った。
「その学校をどうやって知った?」とラングストンが聞いてきた。「犬の散歩のクライアントにでも教えてもらったか?」
私はうつむいて、小声で言った。「〈Reddit〉サイトで」
また一同に沈黙を引き起こした、わけではなかった。コップで水を一口飲んだラングストンが、それを聞いて、のどを詰まらせ噴き出してしまったのだ。「待て、待て」彼は口を拭いてから続けた。「リリー、しっかりしろよ。バーナードがお前にとって、合わない大学だっていうのなら、なんとか理解できる。まあ、あそこは誰にでも合いそうな校風だけどな。それに、せっかく合格したのにもったいないとは思う。ちょっと待って、今検索してみるから。えっと、―Googleによると、合格率は17%だな、素晴らしい大学だよ。たくさんの優秀な学生がバーナードに行きたがってるってことだ」黙って、グーグル! 私はラングストンの声が一瞬Siriみたいな機械音声に聞こえ、そう叫びそうになった。ラングストンが付け加える。「しかしだ、どの大学にも行かないっていうのは話が違う。犬のスキルをさらに深めたい? それは大学に行きながらでもできるだろ」
おじいちゃんが言った。「まったくだぞ、リリー。お前の人生設計を話してみろ。どんな人生を思い描いてるんだ?」
それは一言では到底答えられない質問で、たくさんの答えが胸のうちにあった。ダッシュと一緒にいたいし、どういう形でもいいから、何か人の役に立つことをして生きていきたい。中でも一番上に浮かんだことを、私は口にした。「私は犬と一緒に働きたいと思ってるのよ、おじいちゃん。例えば、獣医さんになるのもいいかな?」
私は本当は獣医さんになりたいわけではなかったけれど、その響きがなんかかっこよかったし、ふらふらしてなくて、責任感のある成熟した大人が、将来設計を語るのにふさわしい職業のように感じた。
おじいちゃんが言った。「だったら獣医学部に入って、学位を取らなきゃだめだろう」
「それか犬関連の起業家もいいな」と私は言った。「犬の散歩とか、犬の手芸品とか。それなら学位は必要ないでしょ」
「それでも、経営について学んでおくことは役に立つはずだぞ」とおじいちゃんが返した。
ラングストンが聞いてきた。「イギリスのドッグスクールに行きたいっていうのは、ダッシュが理由か? それとも、そこが自分に合った学校だからか?」
「たぶん両方かな?」と私は答えたけれど、たぶんどちらでもない。今日の午前中、ジェーン・ダグラスと行った土手の公園で、私はそのことに気づいてしまった。今までもやもやしていた自分のやりたいことが、突如として、はっきりと見えたのだ。ただ、待ち伏せされたみたいに、家族にスカイプで突撃されて、私は混乱していた。すっかり混乱していたから、そう答えてしまったのよ。
「わしはもう十分、ダッシュのことは大目に見てきたつもりだ。彼のためにイギリスに引っ越すなんてことは、許さんからな」とおじいちゃんが言った。「お前の母親があんなに怒ってる理由がようやく今わかった」
「それはあなたが決めることでも、彼女が決めることでもないわ」と私は強めに言った。ついに言うべき時が来た、と思ったけれど、本当はもっとずっと前に、みんなに言っておくべきだったんだ。「ダッシュは、大目に見るとか、許容するとか、そういう対象じゃありません。このピザは普通の味だけど、まあ大目に見るか、とか、地下鉄がちょっと遅れたけど、許容範囲だな、みたいな感じで言わないで! 彼は私の人生で最も大切な人なんだから。こんなことを言って気を悪くしたら申し訳ないんだけど、これは事実なのよ、あなたは最愛のリリーベアを、ぬいぐるみみたいにまだ手元に置いておきたいだけなの。でも私は巣立って飛び立とうとしてる。一緒に飛び立つ相手が彼で、ダッシュみたいな人で良かったって思ってほしい。だって、彼は善良で親切で面白くて、素晴らしい人だから。彼は、ありのままの私を愛してくれてるの。彼がこうあってほしいって望む私じゃなくてよ。今のあなたがそうしてくれてるようにね」
一同が長い沈黙に陥った。
それからおじいちゃんが口を開いた。「リリー、こういうのはどうだ? 今すぐに大学へのドアを閉ざすんじゃなくて、―わしが言ってるのはRedditなんとかじゃなく、ちゃんとした大学のことだからな、―お前がこっちに帰ってきたら、まずは家族で話し合おう。わしのためにそうしてくれるか? そしたらわしも、ダッシュのことは大目に見るんじゃなく、受け入れると約束する。わしは、結局お前の父親も受け入れたんだ。ダッシュにも同じことができるはずだ」
そこには、おじいちゃんの弱った見た目とは裏腹に、往年の力強さがみなぎっていた。ここでさらに私が自分で決めるからいい、とか言って抗っても、決して勝てない戦いだとわかった。私の気持ちを代弁できる人は私以外にいないけど、―私は家族の一員でもあるから、家族の思いも酌(く)む必要があるのよね。「わかったわ。そうする」と私は言った。
「ありがとう、リリーベア。メリークリスマス」彼はそう言うと、彼のいるあっち側の世界から、私に投げキッスを送ってくれた。
「ママに電話しろよ」とラングストンが言った。「ママは悲しみに打ちひしがれてるから、早くお前の声を聞かせて、そこから引っ張り出してやれ」
「そうする」と私は約束した。そうするわ、後でね。
私はマークの手からリモコンを取って、通話を切ろうとした。私が〈オフ〉ボタンを押す直前、マークが言った。「彼女は今夜、俺んちじゃなくて―」彼がネズミみたいに早口で告げ口を終える前に、私は思いっきり〈オフ〉ボタンを押した。さっき私のことを裏切り者とかほざいてたくせに、裏切り者はあんたの方じゃない。ネズミみたいにニヤニヤしちゃってさ。
ダッシュにはちゃんと謝らないといけないわね。とにかく彼に会ったら、思いっきり抱きついて、激しくキスをしよう。それが一番の穴埋めになるはずだし、私は最低な臆病者だったけど、私もくよくよしてないで、きっと夢中になれるわ。
しかし、私の携帯は心の欲求に協力してはくれなかった。マークの家を出た後、私はさっそくダッシュにメールした。ごめんなさい。今どこにいるの? と何度メールを送ってみても、送るたびに不達のエラーメッセージとともに戻ってきてしまう。携帯の設定をいじってみたけれど、何度やっても同じエラーメッセージが出てダッシュの携帯まで届かなかった。けど、ソフィアとブーマーからのメールはちゃんと受信できたわ。
ソフィアから。何があったのかわからないけど、あなたが正しくて、ダッシュが間違ってるってことは確かでしょうね。でも彼を許してあげて。ブーマーと私がバルセロナへ出発する前に、少しでも会いましょうよ!
ブーマーから。リリー、どこにいるの? 犬の群れに連れ去られちゃったとか? もしそうだとしたら、どこに連れて行かれたの? 犬が人間を監禁するための犬小屋って、どんな小屋だろう。
それからソフィアとブーマーの両方から、同時に同じメールが届いた。君もここにおいで。
あなたはどこにいるの? と私はダッシュにもう一度メールしてみた。またしても届かない。
どうやらダッシュのスマホと私のスマホだけが通じ合っていないらしいとわかり、仕方なくソフィアとブーマーに返信しようとしたら、アズラ・ハトゥンからメールが届いた。今夜空いてる? 〈ハイドパーク・ウィンターワンダーランド〉のチケットが余ってるんだけど、私と一緒に行かない?
ニューヨークでは、私のせいでクリスマスがキャンセルされちゃったのかもしれないけど、ロンドンでは、私の心はクリスマスまっしぐらよ。いまだかつてないくらい、私はクリスマスを祝いたい気分だった。行く! と私は返信した。私は一旦ホテルに立ち寄って、予約しておいた部屋に背負っていたリュックを置いてから、今夜のスケジュールを修正して〈ハイドパーク〉へ向かった。ソフィアとブーマーに返信するのをすっかり忘れていた。
ついに! やっと! 待ちに待ったクリスマーーーーーーースーーーーー!
「あなたが来てくれて嬉しいわ」とアズラが言った。私たちは壮大なイルミネーションの中を並んで歩いていた。私は私を取り囲む幻想風景に圧倒されていた。これってもしかして、私をさらにロンドンに引きずり込むためのイベントなの? こんなのが毎年開催されていると知ってしまった私は、もっとこの街に住みたくなっていた。この時期に冬のワンダーランドと化すのはニューヨークの〈セントラルパーク〉と同じだけど、〈ハイドパーク〉の方が、(私の考えでは、)気合が入っていた。敷地はまばゆいばかりの妖精の光で照らされていて、あちこちにアトラクションの乗り物があった。サンタの家には妖精たちと、偽物の太った男が住んでいた。実際の氷でできた滑り台を、よせばいいのに子供たちが滑り降り、濡れたズボンを引っ張って身を縮こまらせている。クリスマスマーケットで掘り出し物を探す人々。サーカスが練り歩き、巨大な屋外アイスリンクでは人々が手を取り合って滑っている。〈バイエルン・ビレッジ〉っぽく出店が並んだ通路には、音楽、食べ物、陽気な笑い声が溢れていた。私は天国にいた。どのアトラクションを一番に体験したいか決められず、ただキョロキョロしながら歩いているだけだったけれど、その光景を体感するだけで満ち足りた気分だった。連れてきてくれたあなたに感謝よ! ロンドン最高! アズラが付け加えた。「だけど、あなたがダッシュと一緒じゃなかったのが意外ね」
「私自身も意外なの」と私は言った。「こんなことになるとは思わなかった。ちょっとした喧嘩なんだけど、私のせいなの。彼にメールしようとしたんだけど、何度送ってもすぐ返ってきちゃうの」
「そういう時期なのかもね。神のみぞ知るって感じだけど、カップルには休息が必要な時もあるのよ」
そのワンダーランドでは、巨大スクリーンで映画の上映会もやっているようだった。それが私の大好きな映画『ラブ・アクチュアリー』だったから、ダッシュと腕を組んで観たい衝動に駆られたけれど、もしダッシュがここにいて、私が「あれを観ましょ!」と言ったら、私たちの関係はさらにおかしな方向へ曲がってしまうでしょうね。―あれは彼が大っ嫌いな映画の一つだから。私は言った。「一時的な休息ならいいんだけどね。私は彼と仲直りするつもりよ、絶対に」私は彼に素敵なセーターを買ってあげたかった。それを着て、さまになっている彼の姿を見たいっていうのもあるけど、彼の体からセーターをはぎ取るのがもっと楽しいのよね。
アズラが笑った。私は彼女に尊敬の念を抱いてやまない。彼女は〈ハイドパーク・ウィンターワンダーランド〉みたいな素敵な場所を知っていて、それだけでも尊敬しちゃうのに、スキニージーンズにハイヒールを合わせ、こんなのなんてことないって感じで広大な敷地を練り歩くことができる。私だったら、あんなにお洒落でとがったハイヒールを履いてたら、1ブロックも歩けないわ。「仲直りか」とアズラが言った。「そういう気持ちってなんだか羨ましい。私は今朝、オリヴィエと別れたの」
私は足を止めて立ち止まった。「ほんと?」
彼女は5インチの刃物みたいにとがったヒールを履いているのに、それを感じさせないさりげなさで歩き続けている。「本当よ。だから今夜のここのチケットが一枚余っちゃったの」
「何があったの?」
「もう彼とは付き合いたくないって思っただけ。2年くらい付き合ってきたけど、今朝目覚めたら急に、もういいやって思ったの」
「それだけで?」
「前から感じてたことなんだけどね。少しずつ溜まってきたものが、ついに溢れちゃった感じかな。一緒にオックスフォードに行くっていうのは、最善の選択ではなかったみたいね。二人とももっと広い場所で、ある程度の距離を保ちながら付き合うべきだったのよ。最終的に決定打になったのは、昨夜の電話ね。夜遅くまで電話で話してることはよくあるんだけど、昨夜は彼の叔母さんの話になったの。彼女はとても気高くて、反フェミニストなのよ。私も会ったことはあるんだけど、その叔母さんが私のことをすごく気に入ってくれたって彼が言うの。私が最近の若い人に多い、意識高い系のフェミニストじゃなくてよかったって、彼女が言ってたんですって。だから私はオリヴィエに言ったわ。『私はフェミニストよ。意識高い系かどうかは自分では判断できないけど、意識的に他の人を尊重して敬うようにはしてる』って。そしたら彼が私の言葉を遮って、『君は意識高いし、社会的にも力を授かった女性だ。だけど君は、ちゃんと伝統に則ってヒジャブを頭に巻いてるんだから、フェミニストじゃないよ』ですって。彼って私のこと何にも知らないんだ?って思ったわ。思わず私は言い返していた。『ヒジャブを身に着けることこそが、私をフェミニストたらしめてるのよ。それは選択の自由で、私が選んだの。謙虚さや敬意を表現するには、こうしてつつましやかなヒジャブを身に着けるのが一番でしょ。私が生まれ育ったコミュニティを思い出させてくれるし、私自身の中に一つ信じるものがあるって大きいのよ。これを被ってると、私がそれを代表してるんだっていう気分にもさせてくれる。これ以上のフェミニズムがある?』」
「神との関係に基づく自己肯定感みたいなもの?」
今度は彼女も足を止め、こちらを振り向いた。「それよ! 昨夜思い余って、オリヴィエにうっぷんをぶつけちゃったけど、私は電話を切った後もすっきりしなかったわ。ほとんど眠れないまま朝が来て、シャワーを浴びて、いつも通り頭にスカーフを巻いたら、わかったの。もう終わったんだって」
「悲しい?」
「そうね。でもほっとした部分もあるかな。彼って、あのシェイクスピア俳優のオリヴィエみたいに、競争心が強くて、ちょっと気取ってるっていうか、うぬぼれが強いのよね。彼はやりたいことが多い人だから、もうすぐ新しい年になるこの時期に別れるのは、タイミングとしても良い気がする。彼のあのエネルギーを、私の肩に背負ったまま新年に持ち越す気にはなれないわ」
「あなたの両親は喜んだでしょうね?」
「驚いてたけど、喜びを隠そうとしてるのが見え見えだったわね」
近くに〈バイエルン・ビレッジ〉の入り口が見えた。美味しそうな匂いも立ち込めている。「そういうときは、ドイツの美味しいおやつに限るわ。レープクーヘン・クッキーでも食べましょうよ、私がおごるからさ」
「じゃあ、クッキーに合う〈モクテル〉もお願いしちゃおうかな。フルーツジュースがたっぷり入った、アルコールは入ってないやつね」
私たちが匂いにつられるようにビレッジの門をくぐったところで、私は言った。「その靴でよく歩けるわね。足が痛くならないの?」
「平気よ。寄宿学校で部屋が一緒だった子がいるんだけどね、その子はモデルの仕事とかしてたから、ヒールの歩き方を教わったの。今でも彼女とはメールでやり取りしてるんだけど、実はね、あなたのダッシュの、元カノの、―ソフィアなのよ」
「えっ、あなたソフィアを知ってるの?」
「ええ!」
「どうして今まで言ってくれなかったのよ?」
「今の今まで頭に浮かばなかっただけよ。それが何か問題でも?」
問題はないけど、なんか、私がバカみたいじゃない。またしても、ソフィアの完璧さが浮き彫りになって、私はまたまた彼女に嫉妬しなきゃいけないの? 彼女がモデルもやってたなんて、今初めて知ったわ。ランウェイとか歩いてたってこと? ハイヒールできちんと歩けるだけじゃなく、それを他の子たちに指導もできちゃうなんて。「全然」と私は言った。「彼女って当時からあんな、完璧な感じだったの?」
「彼女はかなりやんちゃしてたわよ! 彼女にはスイス人の彼氏がいてね、門限を過ぎた夜中にこっそり寮を抜け出して、彼に会いに行ってたわ。そして、朝の4時頃になってようやく部屋に戻ってくる、なんてことも結構あったわね。私は真面目な女の子だったから、よくやるなーって呆れて見てたけど、感心する部分もあった。それから、彼女の家族がニューヨークに引っ越すことになって、彼女は彼を捨てたのよ。取り残された彼は惨めだったわ。たぶん彼に引っ越すことを言わずに突然消えたんでしょうね、真夜中に彼が寮にやって来て、中庭から彼女の名前を叫び出したんだから! 張りのある声が部屋まで聞こえてきて、誰かが夜中にヨーデルの練習でも始めたのかと思っちゃった!」
「ヨーデルの歌に乗せて彼女の名前を呼んでたってこと? 彼はコーラス隊に入ってたのかしら?」
「さあ、そこまでは知らないけど」
この話を聞いて、私はなぜかソフィアのことが好きになった。そして、まだソフィアとブーマーのメールに返信していなかったことを思い出し、ソフィアもその彼氏に言いそびれただけかもしれないな、と思った。アズラとのリアルな会話が楽しすぎて、今さらスマホを取り出してメールなんてしてる気分じゃなかったけれど。私たちは〈バイエルン・ビレッジ〉の中を歩いていた。通りの四方八方をキラキラしたイルミネーションが取り囲み、人々が笑い、飲み、食事をしていた。私にぴったりの、クリスマスキャロルを歌えるカラオケバーを見つけ、私は聖杯を見つけた探検家みたいに、喜び勇んで店内に入っていった。
バイエルン風の衣装を着たウェイトレスが、スキー板の形をした長いトレイを抱えて、私たちに近づいてきた。トレイにはグラスが収まる穴が開いていて、お酒がスキーに乗っていた。「スキーウイスキーはいかが?」と彼女が私たちに聞いた。
アズラが言った。「私はお酒は飲まないわ。リリーは?」
「せっかくイギリスにいるんだし、飲もうかな?」と私は言った。イギリスの法律では、18歳から飲酒ができる。今ここでお酒を楽しめば、ニューヨークの3年後、21歳の誕生日にタイムスリップしたような感覚を味わえるかもしれない。パーティーは私史上、最高の盛り上がりを見せ、私の中で伝説になる予感がする。
ウェイトレスが「5ポンドです」と言って、〈スキートレイ〉からスコッチ・ウイスキーっぽい色の液体がなみなみと入ったショットグラスを手渡してくれた。
私はウェイトレスに5ポンド札を手渡してグラスを受け取った。私はそれをちょっとずつすするのではなく、―〈ショットグラス〉っていうくらいだから、思いっきりゴルフクラブを振るみたいに飲まなきゃね、と思い、口の上でぐいっとグラスを傾け、一気にのどの奥へ流し込んだ。―まさにショットのように、その液体はのどを高速で通過し、 私の心臓にクリーンヒットした。体がぼわっと熱くなり、私は今年のクリスマスに、今の今までずっと欠けていたものを思い出した。そうだ、歌わなくちゃ!
3、4、5、―何杯飲んだのか、途中から数えてられなくなっちゃったけど、―とにかく何ショットもウイスキーをのどの奥に打ち込んで、私はマイクを握りしめ、歌った。私はその場のスターと化した。お店のお客さんたちが手拍子をしたり、一緒に歌ったりして盛り上げてくれた。アズラは隅のカウンター席から、私を眺めて笑っていた。私は中央のステージに立ち、私の視線の下にあるカラオケモニターに映る歌詞を、見なくても覚えているんだけど、チラ見しながら歌った。私の背後には巨大なスクリーンがあって、私の顔がアップで映し出されている。そのスクリーンは、〈ハイドパーク〉のいたるところに設置されたスクリーンとも同期され、〈ハイドパーク〉全体に私の歌声が響き渡った。
It’s the most wonderful time of the year . . .(一年で最も素晴らしいこの季節に . . . )
歌姫になったような気分だった。私は夢見心地で観衆を見渡し、私ののどから放たれた歌声が、マイクを通り、スピーカーで拡声されて、私の耳に戻ってくるさまに酔いしれていた。突然、マイクが私の手からひったくられた。半開きだった目を見開いて、振り向くとそこには、ダッシュがいた。彼は全然幸せそうには見えない顔をしていたけれど、彼のお気に入りの古いピーコートは、思わず脱がしたくなるくらい、すごく似合っていた。
「そんなに素晴らしい季節ですか?」と、ダッシュがマイクで群衆に尋ねた。
12
ダッシュ
12月22日
一人の人間の二面性を描いた『ジキル博士とハイド氏』のように、〈ハイドパーク〉もジキルに戻る時が来たようだ。祝賀パーティーは最高潮に達し、心のうちに巣食っていた野獣をすっかり外に吐き出し終えたみたいだから。
最初、リリーがお酒を飲んで酔っぱらっているのか判然としなかった。実のところ、リリーはお酒を飲まなくても、クリスマスキャロルを歌うだけで完全に陶酔してしまえる女の子だったから。『リトル・ドラマー・ガール』のヒロインのように、イントロが流れさえすれば、その場のビートは彼女のうちに引き継がれ、あとは勝手に彼女の音楽的才能が花開き、その場を包み込んでしまうのだ。『グッド・ウィル・ハンティング』で描かれたように、才能とはそういうものだ。彼女がゾーンに入ってしまえば、もう僕の出る幕はない。僕は一歩身を引いて、その調和のとれた歌声に身を委ねることしかできない。だから初めは黙って聴いていた。『Do You Hear What I Hear?』(あなたにもサンタの鈴の音が聞こえる?)をホイットニー・ヒューストンばりに歌い上げる彼女は、完全にサンタの鈴の音をかき消しているな、と皮肉めいたことを考えながら僕は聴いていた。『Do They Know It's Christmas?』(アフリカの人たちはクリスマスの喜びを知っているのか?)を聴きながら、その問いかけに対して、「そもそもアフリカの人たちにはクリスマスを祝う習慣がないのに、勝手にクリスマスを祝う側のものさしで価値をはかって、押し付けようとすることに問題があるって思わないのか?」と僕は考えていた。歌詞に今年のクリスマスもアフリカには雪は降らないっていう箇所があるけど、リリーの歌声で聴いてさえ、その内容にはオエッて気分だった。「これをCDとかに焼き付けて、世界中にばらまいているなんて、とんだお笑いぐさじゃないか?! 上から価値観を押し付ける植民地主義のがらくたソングにしか思えない」みたいな考えが頭を行ったり来たりしていた。僕をそれを胸のうちに秘めていられるだろうか? いちゃもんをつけることなく、音楽が夜の空気を満たしていくのを傍観していられるだろうか? 最初、僕は黙って聴いていられた。まあ多少、歌詞に問題はあるにせよ、世界中の人に幸せになってもらいたい、という大きな精神を、リリーの歌声から感じられたから。
僕は空港へ向かうブーマーとソフィアを見送った後...恥ずかしげもなくチャラチャラと頭に角をつけたりしている人々に交じって、〈ハイドパーク〉にたどり着いた後...『Santa Baby』を歌い上げるリリーの歌声が聞こえてきて、その歌声を追いかけるようにして、ステージ上に一人で立ち、歌っている彼女を見つけた時...ごちゃごちゃとした細かいことは先送りにして、とにかく今は聴き入っていたい、という気分になった。彼女の後ろにある大型スクリーンでは、この後、クリスマス映画の、あの定番が上映されることになっているらしい。(『ラブ・アクチュアリー』だったか、『ラブ・アクチュアリー・ノット』だったか、僕は興味ないから知らないけれど、)映画ごときにむきにならなくてもいっか、という気分にリリーの歌声はさせてくれた。
次の曲が始まると、一年で最も素晴らしいこの季節に . . . とリリーが歌いながらステージを下り、お客さんの間を練り歩き始めた。その時、酔っぱらった3人のサンタが、群衆をかき分けるように彼女に近づいてきて、リリーのお尻を掴もうとしたのだ。
僕は『クリスマス・キャロル』のスクルージみたいにサンタが大っ嫌いだし、なんとか3人のサンタを追い払いたかった。しかし、空飛ぶそりでもない限り、僕が3人の男を押しのけるなんてことは無理だとわかった。ここは、リリーから注目をそらし、安全な場所へ逃がすには、僕がこの場を取り仕切るしかないだろう。3人のサンタも、今度は僕のお尻を触りたくなってくれる、かも。
「そうですか?」僕はリリーからマイクをひったくると、言った。「そんなに素晴らしい季節ですかね? 誰もが髭を付けて、サンタの格好をして、ふぉふぉふぉって丸々太った彼の真似して、それってそんなに素晴らしいこと? なんでサンタばかりをそんなに祭り上げるんだ? サンタは北極辺りで、自分の住むべき場所で暮らしてればいいんだよ。サンタの格好をしてるみんなだってそうだろ、世界中の注目の的になるなんてことは一生なく、ひっそりと自分の持ち場で生きて死んでいくんだからさ。ああ、そういうことか、サンタは口実に過ぎなくて、そうやって飲んで騒ぎたいだけなんだ? あるいはあれか、白人男性の優位性を、サブリミナル的に世界中に植え付けるために、また一つ神話を創ったってわけか? プレゼントをあげるかどうか、今年は良い子にしていたかどうかをジャッジするのは、自分のことは棚に上げた太った白人男性なんだから。っていうか、みんな実際にお金を出してクリスマスプレゼントを買ってるのが誰かなんて知ってるだろ? それでも、サンタにお願いしたり、サンタの承認を得ようとするのは、完全に彼を神格化してる証拠だな。っていうか、だったらサンタに頭を撫でてもらえるように、良い子にしてろよ! なんだその振る舞いは? お前らの酒臭い息から、クリスマスの大いなる精神なんて、ちっとも匂ってこないぞ。初代サンタの聖ニコラス様が頭をお抱えになって、お嘆きになっていらっしゃるぞ」
「お前は黙っとけ!」と三人組のサンタの一人が声を張り上げた。
「いいえ、黙りません」僕は、純粋に聖歌を楽しみたいと思っている人たちに語り掛けるように、言った。「この場所は楽しく歌いたい人たちのものであって、ふざけた真似をしたい人はこの場から出ていってもらうしかありません。そうですよね? みなさん、賛成のアーメンをください」
「アーメン!」と聖歌好きの人たちが声を上げてくれた。ただ、みんなイギリス人だったから、アメリカ人の僕の耳には、「アーメン」ではなく、「ワイ、メン」と、お前がやれよ的なことを言われているように聞こえた。
それでも三人組の酔っぱらいサンタは、自分の立ち位置を譲ることを拒否し、野外カラオケバーの中心から動こうとしない。
「ここはあれしかない」と僕はリリーの耳元でささやいた。「君の『きよしこの夜』砲をガツンとお見舞いしてやるんだ」
彼女は僕をぽかんと見つめている。そうか、と僕は気づいた。彼女は背後からガラの悪いサンタたちに取り囲まれつつあったことに気づいていなかったのか。そうすると、彼女から見たら僕は、わけもなくサンタ(たち)に喧嘩をふっかけている、ただの悪ガキ?
「オーケー、それじゃあ」と僕は言った。そして、もうこれしか方法がないと腹をくくり、僕は歌い始めた...
Silent night, holy night. . .(静かな夜、聖なる夜. . . )
ちょっと声が上ずってしまったが、聖歌好きのお客さんたちが次々と合唱に加わってくれた。カラオケマシンはオフになったままで、僕たちの歌声だけが、夜空に舞い上がっていく。
All is calm, all is bright. . .(すべては安らぎ、すべては輝いている. . . )
『きよしこの夜』は素晴らしさに満ちた曲だ。まず第一に、みんなの心を和ませてくれる。天から降り注ぐ子守唄のように、この場にいる者みんなの魂が浄化されていくようだ。しかも、ほとんどの人が歌詞を知っていて、思わず歌ってしまう。静かな曲だから、一緒になって歌っても、自分の声が目立つんじゃないかと心配することもない。この歌には時代を超越した趣きもある。誰もが自分の人生において何度も耳にしてきたはずで、この曲を聴いた時の記憶が蘇り、目頭が熱くなる人もいただろう。何より、こういうピリピリしたムードをなだめるにはもってこいの曲だった。この優しいハーモニーに包まれて、それでもいきり立ってなどいられないはずで、一番を歌い終える頃には、酔っぱらいサンタたちもすっかり武装を解除していた。
僕は途中からマイクを置いた。―『きよしこの夜』にはソロシンガーは必要ないのだ。僕がマイクを置くと、周りの歌声はさらに大きくなり、リリーも合唱に加わった。
Sleep in heavenly peace.(眠り給う、いと安く)
Sleep in heavenly peace.(眠り給う、夢やすく)
群衆たちはしっとりと歌った。街全体が静かな歌声に包み込まれていくのを感じた。何人かの人が携帯電話の画面を光らせて、天に掲げ、ろうそくのように振り出した。ライターを振っている人もいる。野外カラオケバーが一つの小宇宙となり、その天体が優しいメロディーとともにゆるやかに回っていた。
この場にいて、感動しないなんて誰だって不可能だったろう。
しかし、リリーは感動以上のものを感じているようだった。彼女の体は震えていた。その時、彼女が単に聖歌を歌っていること以上の何かに陶酔しているのだと、僕は気づいた。彼女の目に涙は浮かんでいなかったけれど、それが伝わってきた。彼女は、泣きながら歌うのではなく、歌声に泣きを込めるシンガーなのだ。歌詞と歌詞の間の小休止に、それがよくわかった。彼女のいろんな感情が吐息になって、行間に浮かんでいた。彼女はお酒も飲んでいたようで、彼女の歌声はさらなる深淵の鍵を開け、吐息からも泣きを感じ取れた。
僕たちは肩を組み、いつまでも歌い続けた。歌声も、歌い人たちも、すべてが今、一体となり、最後の音符に辿り着くまで、僕たちをいざなってくれた。いつの間にか、ガラの悪いサンタたちはどこかへ行ってしまい、残った僕たちの声だけが、天上への音階をのぼり続けていった。
それが終わった時、しばしの沈黙が訪れた。ゆっくり息を吐き出し、十分に呼吸を整えた後、歓声が湧き上がった。人々は抱き合い、微笑み合い、手を叩き合った。僕はリリーを抱きしめた。彼女の顔を覗き込むと、彼女の目から涙が溢れ出てきて、どっと流れ出した。
「どうしたの?」と僕は聞いた。「それ何の涙?」
「私、クリスマスを台無しにしちゃったの」と彼女が言った。「私のせいで、みんなのクリスマスがつぶれちゃった」
「君のせいなんて、そんなわけないよ」と僕は彼女の両肩を掴んで言った。
「私は家族に嫌われてるのよ」
「そんなことないって」
彼女の肩を抱きながら即席のステージを降りると、即席の舞台袖でアズラが待っていた。彼女は一人だった。
「あれ? あの貴族ぶった君の連れは?」と僕は聞いた。彼女の顔に不穏な色が浮かんだから、僕はこういう風に聞かずにはいられなかった。「『オリヴァー・ツイスト』ばりの思わぬ展開が、オリヴィエに待ち受けていたとか?」
「早すぎたのよ」とリリーが僕の耳元でささやいた。
「遅すぎたわ」とアズラは言って、ため息をついた。「オリヴィエと私はもう一緒にはいられない」
「マジか」と僕は言った。「まさか君たちがそんなことになるなんて思わなかったよ」
「そうね」とアズラが言った。「私も思わなかったわ」
「なんかすごく悲しくなっちゃう」とリリーが僕に言った。
「リリーはどれくらい飲んだの?」と僕はアズラに聞いた。
「たくさんよ」とアズラは答えた。「その時は良い考えだと思ったから止めなかったけど」
「私は全然平気よ」とリリーが言った。「ちゃんと歩くこともできるし、頭の中で計算だってできるわ。テストしてみて。平方根の問題か何かを出して」
「平方根が何であるかをわかっているのなら、それは良い兆候だ」と僕は見解を示した。
「初めてあなたに直接会った時とは違うわ」とリリーが言った。「あの時みたいに、あんなにお酒に打ちのめされてない。ただちょっと...」彼女はそこで言葉を切って、あくびをした。「眠いだけ」
「君の中に、耐性か何かができたのかもしれないね」と僕は言った。
突然、リリーがうずくまって、何かを吐き出すような声を出した。それがお酒への体内反応なのか、僕が言ったことへの意図的な反応なのかはわからなかった。
「毛玉でも吐いた?」と僕は聞いてみた。
「それよ!」とリリーが僕の言った単語に食いついた。「耐性よ。私の体内にお酒に対して耐性ができたように、私の家族もあなたに対して耐性ができたってことじゃない?!」
え、僕って毛玉みたいな存在ってこと?! それが単なる喩えであってほしいと願いながら、僕は言葉を失ってしまった。
アズラが間に入って、言った。「彼女の家族からひっきりなしにメールが来るんですって。彼女が飛行機で飛び立っちゃったから、今年のクリスマスは中止だって責められてるみたい。気の毒というか、私の意見だけど、それはあんまりね」
「そうだ! 家族に電話しなくちゃ!」リリーはそう宣言すると、携帯を取り出した。「本当にしなくちゃ!」
「今はダメ!」アズラと僕が同時に声を上げた。僕らは二人して、彼女から携帯を奪おうと手を伸ばす。リリーは素早く僕らの手を跳ね除けるようにして...携帯をポケットにしまった。
「わかった、わかった、わかった」と彼女が言った。「じゃあ、次は何する?」
「今夜はこの辺でお開きにしよう」と僕は言った。時刻は9時をちょっと過ぎたところだったけれど、リリーは一日中ハイテンションで動き回って、もう限界だろうし、血中アルコール濃度の上昇に加え、飛行機の時差ボケだって黙ってはいないだろう。
アズラがうなずいた。「彼女のリュックはもうクラリッジズ・ホテルに置いてきたみたい」
それを聞いて、僕はほっと一安心した。今夜はマークの相手をしなくて済みそうだ。
「それと」とアズラが付け加えた。「あなたが送ったメールは彼女に届いてないみたいよ。あなたのメールだけ届かないみたいだから、あなたの携帯側の問題だと思う。ただの不具合かもしれないけど、携帯をWi-Fiにつないで、どうなるか試してみて」
「あ、そういうことだったのか。教えてくれてありがとう」と僕は言った。「それと、君とリリーがいる場所も、ソフィアに知らせてくれてありがとう。君とオリヴィエのことは、まあ残念かな。僕にとって君たち二人は、なんていうか―」
「鼻持ちならない?」
「あっ、まあ、そうかな。でも君一人だったら―」
「鼻が持つ?」
僕は思わず笑ってしまった。アズラが僕を笑顔にしてくれたのは、たぶんこれが初めてだった。「確かに持つ!」
そして何と、僕も初めて彼女を笑顔にしていたのだ。大学が休みの時期に打ち解け合うなんて、人間同士何がどう転ぶかわからない。「私の家の運転手を呼んだから、クラリッジズまで連れて行ってくれるわ。私はここから歩いてすぐのところで、何人かの友達と待ち合わせしてるから、今日はここでお別れね」
「ちょっとふらついてる人もいるけど、乗って平気かな...」と僕は言った。
「ありがとね」とリリーが割り込んだ。
「ええ、もちろんよ」
アズラは、また明日電話するね、とリリーに言った。あなたがアメリカに帰る前にまた会えるといいわね、と言いながら、僕たちを大通りまで送り、運転手を紹介してくれた。彼はスーツを着て、帽子をかぶり、まるでNetflixの王室ドラマ『ザ・クラウン』でエキストラでもやってるの? と思うくらい、きっちりした態度だった。彼は、僕たちが誰なのか、なぜ僕たちをホテルまで連れて行かなければならないのか等、普通疑問に思うようなことを一切聞いてこなかった。彼の表情には何のクエスチョンマークも浮かんでいない。感情を表に出さないように表情を作るのも、大変だろうな、と感心した。
リリーをエスコートしながら、車の後部座席に乗り込むと、彼女の口から、ごめんなさい的な吐息がこぼれだした。
「僕の方こそ、ごめんなさい」僕は、彼女の口がはっきりとそう発話する前に言った。「もう過ぎたこと、だよね?」
リリーはそれについて少し考えた後、僕の肩に彼女の頭を乗せてきた。
「そうね、もう過ぎたこと」と彼女はつぶやいた。
それから1分もしないうちに、彼女は眠り込んでしまった。
ホテルに到着し、僕は彼女の肩を揺すった。
「もう着いたの?」と彼女がうっすらと目を開けて聞く。
「着いたよ」と僕は答えながらも、どこに着いたのか、彼女はわかってそう聞いているのか疑問だった。
その疑問はすぐに払拭された。リリーは車から降りると、まるで彼女の家に帰ってきたかのように運転手に、どうもありがとう、と言った。彼女の言い方はとても甘く、彼女の笑顔には感謝の気持ちがあふれていて、あれだけ硬かった運転手の表情が、ほろっととろけそうになり、きりっと顔を引き締め直すさまがおかしかった。それから彼女は、もう何年もここに通っていると言わんばかりの優雅さで、ドアマンに「ハロー」と手を挙げた。
ロビーに足を踏み入れたとき、僕は一瞬自分が夢を見ているのかと見まがい、目を見開いてしまった。ジャズの時代にタイムワープしたかのような錯覚に陥り、思わずキョロキョロしてしまう。高い天井には、きらびやかなシャンデリアがいくつも浮かび、黒と白のタイル張りの床は、タップダンスをしたくなるほど光り輝いている。スキップしたい衝動に拍車をかけるように、リズミカルなジャズナンバーが優美に流れ、ロビーの先には赤いじゅうたん張りの大階段があった。その階段に寄り添うように、クリスタルでできた巨大なクリスマスツリーが鎮座していて、その神々しさを誇っていた。コール・ポーターの言葉を借りれば、そこは「エレガント極まる」場所だった。
「悪くないっしょ?」と、リリーが目を輝かせて聞いた。
「すっげー!」と、僕は認めた。
エレベーターに乗って上昇しながら、彼女の体からエネルギーが、まるで無数の花びらが枝から落ちるように、はらはらと消えていくのが見えるようだった。もうすぐ充電が切れそうな表情で、彼女はエレベーター内でコートを脱いだ。そしてエレベーターを降りると、ふらふらと廊下を進んでいく。文字通り、コートの裾を床に引きずりながら。
「持つよ」と僕は言って、コートの裾を取り上げた。「コートは僕に持たせて」
彼女が部屋を見つけ、ルームキーでドアを開けるのにさらに1分かかった。
部屋自体はロビーと同じアールデコ調の色彩で統一されていて、ロビーの縮小版といった印象だった。キングサイズのベッドが部屋の中央に、まるで君主のごとくデンッと居座っていた。
「さっそくあなたとキスを始めたいんだけど」とリリーはあくびをしながら言った。「ただちょっと」―もう一度あくびをしてから―「あたし」―さらにふわぁとあくびをして―「疲れちゃった」と、なんとか繋げた。
「じゃあ、今夜は一回キスするだけにして、明日またいっぱいするっていうのはどう?」と僕は提案した。
彼女はうなずき、両手を広げ、顔を寄せてきた。僕たちはキングサイズのベッドにポフンッと腰を沈めると、しばしの間キスをした。それから彼女は体を引き離すと、名探偵さながらに人差し指を突き出して言った。「あのローブを着て寝たいな」
僕が「どのローブ?」と聞くより先に、彼女はクローゼットの前面にかかっていた、艶やかなフラシ天のバスローブを手に取ると、バスルームに入っていった。まだ荷物を出していない彼女のリュックを横目に、僕は窓際まで行き、窓の外に広がる夜のロンドン、メイフェア地区の夜景を眺めていた。
リリーがバスルームから戻ってきた時、彼女が身にまとっているのはバスローブだけだった。中には何も着ていないというのが伝わってきて、一瞬そそられそうにもなったけれど、彼女の体が全身全霊を込めて眠いオーラを放っていて、僕は身動きが取れなかった。
彼女は僕のところまで来ると、チュッと僕の頬にキスしてから、そのまま動作を止めずに歩き進み、ベッドの上に崩れるように倒れ込んだ。
またしても、彼女は1分もしないうちに眠り込んでしまった。最初はすーすーとピアニッシモから入った寝息は、いびきと呼べるまでの大きさへとクレッシェンドをつけていった。
僕は彼女が寝やすいように電気をいくつか消し、靴を脱ぎ、バスルームに入った。リリーの服が脱ぎっぱなしで、床のあちこちに散らばっている真ん中で、僕はジェムにメールを送った。
リリーと一緒にクラリッジズに泊まることになったから。じゃあ、また明日。
「送信」ボタンを押してから2秒ほどしか経っていないうちに、ジェムから電話がかかってきた。
「もしもし?」と僕は電話に出る。
「一つだけ確認なんだけど、今あなたが全身でひしひしと感じているはずの、あなたを突き動かす力の源は、愛なの?」とジェムが言った。
「愛以外の何物でもないよ、断言できる」
「わかったわ。明日どこかのタイミングであなたに会えるのなら、そしてリリーとも一緒に過ごす時間を私が持てるのなら、今夜はもう何も言わないわ。でも不思議ね。―私はひとりっきりのクリスマスにすっかり慣れたと思っていたのに、あなたが来てくれたことで...私を取り巻く環境が変わっちゃったってことかしら? きっとそうね。明日は昼間ちょっと用事があるから、早めの夕食を三人で一緒にどうかしら? 今すぐには答えなくていいわ。とりあえず、カタリーナに電話してみようかしらね。彼女はクラリッジズでコンシェルジュをしてるのよ。もうずいぶん昔の話なんだけど、―ああ、今思い返しても腹が立ってきたわ。私がチャールズ皇太子とデートするってところまでこぎ着けた時に、彼女のお節介焼きが原因で、すべてが水の泡よ。だから彼女は私に借りがあるの。私が言えば、彼女があなたたちに良くしてくれるわ。10分後にあなたたちの部屋のドアがノックされるわよ」
僕がその必要はないと言う前に、彼女は勝手に話を完結させ、ぐっすり寝るのよと言って、電話を切ってしまった。10分後、部屋のドアが軽くノックされる音がした。ドアを開けると、ホテルの制服を着た女性がにこやかに立っていて、きれいに折りたたまれたシルクのパジャマの上下セットと、洗面道具が一式入ったバッグを僕に手渡してくれた。僕は彼女にお礼を言うと、バスルームに入り、それに着替えるために服を脱いだ。僕の服も脱ぎっぱなしで、リリーの服と仲良く一緒に放っておいた。
シルクのパジャマなるものが存在するということ自体は知っていたけれど、その意味を実感として理解したことはなかったので、それを初めて羽織ってみると、シルクのパジャマという概念に少しは迫れた気がした。僕が普段着ているフランネルの生地は、暖かい毛布のような質感なのに対して、それは、極めて薄く繊細に織り込まれたシーツに包まれて、肌が滑るような感触だった。
僕がベッドに入ると、リリーが少し寝返りを打って、いびきが、ほんの一瞬だけ和らいだ。
「あら、あなた」と彼女が寝ぼけまなこで言った。
僕は彼女に寄り添うようにして、僕たちは二人一緒に深く、贅沢な眠りの世界に落ちていった。
13
リリー
12月23日
「二日酔い?」とダッシュが聞いてきた。私はうっすらと目を開けてみるけど、彼がカーテンを開けたばかりの窓から、まぶしい朝日が差し込んできて、再び目を閉じそうになる。「まぶしそうだね」
「あなたのパジャマ姿に目がくらむわ!」
彼はパジャマの上着の裾をつかんでみせた。「これ気に入らない?」
「凄くいい感じよ!」と私は言った。「あなたが紫のシルクのパジャマを着る日が来るなんて、想像もしてなかったわ。まるで壮大な夢物語の中にいて、王子様が登場したみたいよ。っていうか、それをどこで手に入れたの?」
「コンシェルジュがわざわざ部屋まで届けに来てくれたんだよ。彼女はジェムの友達なんだ」
「私も起きてればよかったな。あなたのおばあさまと、そのコンシェルジュの会話を聞きたかったわ。だって、それって女性用のパジャマでしょ! 気が利くっていうか、それを着るとあなたが安らかに眠れるって彼女たちは思ったのかしらね」
「こんなにも快適だったなんて知らなかったよ。もし知ってたら、何年も前から女性用のパジャマにハマってたのに」
「写真を撮ってもいい?」正直言って、彼がここまでセクシーに見えたことは今までなかった。
「いいけど、ラングストンには送らないでくれよ。こんな姿を彼が見たら、やっぱりな!って、僕の性的指向を疑い始めちゃうよ」
「パジャマくらいじゃダメよ。それを着て、あなたが『ケイト・ブランシェットとカーリー・レイ・ジェプセンが好きなんだ』って彼に打ち明ければ、ダメ押しになるわ」ダッシュが笑った。私はナイトスタンドからスマホを手に取ると、紫のパジャマの彼を写真に収めた。スマホがカシャッという小気味よい音を立てるたびに、私はこの写真をどう加工して、自分用のセクシーなバレンタインカードに仕立て上げようかと、加工のバリエーションに考えをめぐらせていた。「ねえ、もっと近くに来て。私もその紫のシルクに手を滑らせたいわ」
いきなり、彼がベッドの上に飛び乗ってきて、バネの反動で私の体がぽよんと飛び上がった。私は頭をベッドの枕元のボードにぶつけてしまった。「今になって頭に二日酔いを感じたわ」と私は言った。「でも、幸せな頭痛よ。あなたがここにいてくれて本当に良かった」
彼が頭を抑える私に覆いかぶさるようにして、キスしてきた。私は自分の頭から彼の頭に手を移動させると、熱烈なキスで応えた。それから唇を引き離すと、私は言った。「昨日はごめんなさい」
「謝らなくていいよ。君のクリスマスキャロルをいっぱい聴けて楽しかったし、お酒が入っていたとはいえ、素晴らしい歌声だった」
「そのことじゃなくて。あの時は、フェリーから突然降りちゃってごめんなさい」
「ああ、そっちね。あれは突然のことで僕も戸惑っちゃったけど、今謝ってくれたから、もういいよ。っていうか、いったいあれは何だったの?」
私は彼に話した。来年バーナードに行くつもりは全くないこと。それを家族に宣言したら、いろんな感情が一気に噴き出して、私の中で収拾がつかなくなってしまったこと。ダッシュが言った。「それは大きなことだね。君がトゥイッケナムの犬の学校の話をしてくれたとき、バーナードに行くことについて真剣に考え直しているんだろうな、とは思った。けど、そんなに固い決意だったとはね。それで、家族の反応はどうだった?」
「よくないわ」私はスマホの接続をオンにしてwifiに繋ぐと、母からの怒りのメールを見せてあげようとした。当然のごとく、wifiがオンになった途端に、昨日私がフェリーを降りてからずっと受信できていなかったダッシュからのメールが、次々に届いた。私が送ろうとして、どうしても彼に届かなかったメールも、すべて「送信済」になった。「ねえ、私たちのスマホ同士がついに通じ合ったみたいよ。昨日いっぱいメールを送ろうとしたんだけど、何度やっても跳ね返されて戻って来ちゃったの」
ダッシュが私の手からスマホを奪い取った。それをベッドの下のじゅうたんの上にぽいっと放ると、言った。「今日はスマホのことは忘れよう。家族のことも。ね―」
「うん!」私は彼に手招きして、もっと近づいて、と目で合図した。今日は本当に集中したいことに集中する。彼にキスする。
しかし―
リンッとベルが鳴った。
それはホテルの部屋のドアベルだった。上品な、とてもイギリスらしいつつましやかな音で、ニューヨークのドアベルの、あのリンッリンッリーーーンッという攻撃的な音とはまるで違った。もう少しで触れそうだった唇を一旦離して、「あなたが呼んだの? 何か用事でもあるの?」とダッシュに聞いてみたけれど、彼は首を横に振るばかり。
彼がベッドから出てドアへと向かう。「うちのコンシェルジュからのご厚意でございます、サー」という男性の声がした。私も覗き込むようにドアの方を見ると、ホテルの制服を着たウェイターが廊下に立っている。ダッシュがドアを開けて、彼を中に招き入れた。そのウェイターはカートを押して、銀のトレイを中に運び入れた。「どちらにお持ちしましょうか?」
「じゃあ、その机の上でいいかな?」とダッシュが言った。「それは何ですか?」
「モーニングコーヒーと焼き菓子でございます」ウェイターはそう言うと、机の上にトレイを置いて、その横に白いポットを置いた。ポットからは湯気が立ち昇っていて、美味しそうなコーヒーの香りが私の鼻をくすぐる。頭に少し残っている二日酔いを完全に消し去ってくれそうな匂いだった。
ダッシュが受け取りの署名をすると、ウェイターは去っていった。
「コーヒー飲む?」とダッシュが私に聞いた。
「うん、お願い!」彼が私の分もコーヒーを注いでくれた。それを紫のパジャマの袖口から肌色の腕を伸ばして、私によこした。私は思わず付け加える。「これを飲んで、それを食べたら、あなたにむさぼりつきたいわ」
でも、その前にコーヒータイム。私がベッドの枕元のボードに背中をつけて座ると、ダッシュも私の横に座った。そしてお互いに、湯気の立つコーヒーをすすり始めた。それは完璧な味だった。―濃くて、舌触りが滑らかで、決して苦すぎない、絶妙なコーヒーだった。
ダッシュが言った。「君のホテル選びについてとやかく言ってしまったけど、僕が間違ってたよ。泊まる場所に大金をかけるなんて馬鹿げてるって思ってたけど、実際ここに泊まってみて、君がここの宿泊料を払えるくらいの、犬の散歩人の大家(たいか)になったことに感謝してる」
「ありがとう。ほんとに素敵な場所よね!」
「前に母が、シーツには織り目の細かいものと粗いものがあるとか、わけのわからないことを言っていて、その時はシーツなんかどれだって同じだろって思ってたんだけど、今その意味がわかったよ。ここのシーツは素晴らしい」
「でしょ? 柔らかくって、かつシャキッとしてて。私、ママが〈ターゲット〉で一番高いシーツを買ってきた時は、それに寝っ転がってお嬢様になったような気分だったけど、クラリッジズのシーツと比べたら、あれでも砂やすりって感じね」
「バスルームは大理石だし!」とダッシュが言った。
「ナイトスタンドの上には生け花が飾ってあるし!」
「このコーヒーはうますぎるし! 他のホテルにはもう泊まれなくなりそうだよ」
「だったら、新婚旅行はここにしましょうよ」と私は冗談めかして言った。
「それじゃあ、犬の手芸品のビジネスをもっと拡大しなくっちゃ、ねっ」とダッシュがからかってきた。「最高級のスイートルームを期待してるよ。僕の将来はたかが知れてるから。英文学の学位なんて取ったって、新婚旅行でクラリッジズに泊まれるほどの、高給がもらえる仕事にありつけるとは思えないな」
「この部屋は空気もいい匂いがするわ!」と私は言った。
「たしかに! 気のせいかなと思ったけど、たしかにするね。ラベンダーとミントと、それから、クロテッドクリームの焼き菓子の香りがする。あ、そういえば...」
ダッシュが立ち上がってベッドから離れ、銀のトレイを持って戻ってきた。彼がシルバーに光るドームを外すと、ほくほくとした焼きたてのお菓子の盛り合わせが姿を現した。その隣にはクロテッドクリームの入ったボウルと、小さなジャムの瓶が数種類置かれている。彼は焼き菓子を一つ取ると、その上にクロテッドクリームと、ラズベリージャムを塗って(ラズベリーは私のお気に入りで、―しかも彼はそれを聞かなくてもわかってくれてるなんて感激)、私に手渡してくれた。私は一口かじってみる。口の中に広がるおいしさに、思わず息が漏れる。「最高。こんな朝食初めて!」
「もう僕たちはここから離れることができないね」
「ずっとここにいましょうよ」私はもう一口焼き菓子を頬張って、口元にはみ出したジャムを舌で舐めてから、言った。「ボリスも一緒にここで暮らせるかしら?」
ダッシュが首を横に振った。「それはちょっと素敵な夢を見過ぎだよ、リリー。せっかくのムードが台無し。このシーツはきっと、エジプトの妖精が丹精込めて綿を織り込んだものなんだ。この上にボリスが乗ったら、秒で引っかいてボロボロにしちゃうだろうね」
ああ、愛しのボリス! 彼がそばにいなくて私の胸と、頭が痛いわ。でも、コーヒーが頭痛の種を取り除いてくれる。コーヒーが全身をめぐって、頭がすーっと霧が晴れるように、ひと時の明晰さを得た。「さて、私が次に欲しいものはね」と、私はダッシュに言った。
「ん? 次の焼き菓子はどれにする? あ、それとも人生における欲しいもの?」
「じゃあね、焼き菓子は、そのレモンシロップがたっぷりかかったやつが食べたい。で、人生ではね、やっぱり私、犬の起業家になりたい」
「そんな職業あるの?」
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