『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて』4

『Mind the Gap, Dash and Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年11月12日~)



「じゃあね、焼き菓子は、そのレモンシロップがたっぷりかかったやつが食べたい。で、人生ではね、やっぱり私、犬の起業家になりたい

「そんな職業あるの?」

「もちろんあるわ。犬と一緒にいたいし、犬のしつけもしたいし、犬の手芸品のデザインとかもしたいわね。犬関連のビジネスを全般的にしたいの。犬関連で、まだ見いだされていないビジネスだってきっとあるはず。私はそれを掘り起こして、本格的な商売にするのよ。母が言うところの、『片手間な暇つぶし』とか、『ギャップイヤーの穴埋め』ではなくてね。私はそれが天職だと思ってる。そんなのくだらないって見限る意味が私にはわからない」

「僕はそんなこと一度も言ったことないけど」

「わかってる。うちの両親の話よ。帰ったら彼らに言うことを、今リハーサルしてるの」

「リハーサル? じゃあ、アドバイスはいる?」

「一般的なアドバイスならいらないけど、あなたが、そのきらびやかな紫のパジャマ姿で言うアドバイスなら、欲しいわ」

「そうだな、両親と話し合う時には、バーナードに行く気がないのなら、何か他の代替案を考えておいた方がいいと思う」

「だから代替案はさっき言ったでしょ、私は犬の起業家になりたいの」

「リリー」ダッシュはコーヒーをサイドテーブルに置いて、私をじっと見つめてきた。「これは君を心から愛してるから言うんだけど、犬と一緒にいられればいい、だけじゃなくて、もっと何か人生に望むものはあるだろ。それを言ってくれ」

ダッシュとこういう練習ができてよかった。絶対両親とも同じような議論になって、今彼が言ったことを、うちの親も言い出すはずだから。そして全く同じことでも、親に言われたら、なぜだか私はむきになって、反発しちゃうのよね。でも、ダッシュの口からそれを聞く分には、冷静にそれについて考えられる。

私は言った。「もちろん、他にも人生に望むものはあるわ。犬に限らず、いろんな動物のレスキュー活動をしてるボランティアにも関わりたいと思ってるし、お年寄りの方々に関わる仕事もしたい。―たとえば、セラピーアニマルを連れて老人ホームを訪問するとかね。それから、洋服やアクセサリーを作るのも好きよ。今もやってて凄く楽しいし、犬用と、人間用のもね。スケッチとか裁縫も、もっと上手になりたいわ―」

「FITについて考えたことはある?」とダッシュが聞いてきた。

「ないけど、どうして?」

「君のノートパソコンは?」

「リュックの中よ」

ダッシュがノートパソコンを引っ張り出してきて、ベッドに戻った。彼は私の目の前でラップトップを開くと、ニューヨーク、マンハッタンにあるファッション工科大学 (Fashion Institute of Technology)、通称FITのウェブサイトにアクセスした。選択科ごとにたくさんのタブが並んでいて、私たちはそれぞれのコースについて熟読した。バーナード大学と違って(ごめんね、バーナード)、そこには私の興味が湧くような科目がたくさんあった! アクセサリーのデザイン。起業家としての心構え。イラストレーション。パッケージングデザイン。織物の開発とマーケティング。おもちゃのデザイン!

「大学に行くって、こんなにワクワクするものだとは思わなかった。もっとじめじめと本ばっかり読んでるだけかと思ってた」と私は言った。「全部の科目を受けたいわ!」

ダッシュが言った。「ほら、願書の締め切りは一週間後だ。まだ間に合うよ」

「でも、ポートフォリオって書いてあるから、何か自分の作品も提出しないといけないみたいね。もう時間がないわ...」

「君はインスタグラムに手芸品の写真をたくさん載せてるじゃないか。もう売れちゃったのもあるだろうけど、ポートフォリオとして使うには十分な量の写真だよ。SNSで『いいね』ばかりを追い求めるのはあまり賢明ではないって、君も知っての通り普段は思ってるけど、今回の場合は、むしろ『いいね』が多いのはアピールポイントになる。君の作品の素晴らしさが数字になって表示されてるわけだから」

「本当にFITに願書を出した方がいいと思う?」と聞きながらも、私は彼の答えを必要としていなかった。ここに行きたい、という声が胸のうちから聞こえていた。

「絶対出すべき。ここだったら君にぴったりだよ。FITだけに、まさにフィットしてる」と彼はダジャレを言ってから、少し間を空けて私が笑うのを待っていた。でも私は笑わなかった。そんなしょうもない、パパが言いそうなダジャレで得意げになるほど、ダッシュはレベルが低くないはず。「バーナード大学に行くのをやめると言えば、君の両親は残念がるだろうけど、そこで、他の大学に行きたいという代替案を出せば、多少はあつれきも緩和されるんじゃないかな。犬の起業家になりたい!って声高に叫ぶだけじゃなくてね」そこで彼はひと息ついた。「僕が犬の起業家になりたい、とか言うと、なんだか滑稽な感じする」

「滑稽でいる時のあなたが好きよ」私はノートパソコンを操作して、私のお気に入りの曲を色別に並べたプレイリストを選択した。もちろん今日の気分はパープル。紫っぽい曲がずらっと並んだプレイリストを選び、今日の午前中をどう過ごしたいかをわかりやすく示すために、この曲から始めた。―プリンスの『キス』。


「予想以上に倒錯してるというか、ひねりを加え過ぎて、もう何が何だか」とダッシュが私の耳元でささやいた。

「たしかに!」と私はささやき返した。「何が何だかわからないものの中に、完璧さがあるってことじゃない」

私たちは薄暗いシアターの観客席に並んで座っていた。『私たちそれぞれのテムズ川』に出演していた俳優から前日にもらったチケットで、『メリクリ、ディック・ウィッティントン』のマチネ公演(昼公演)を観に来ていた。

あのチケットをくれたイギリス人が、舞台で有名な俳優だということは知っていた。シェイクスピアの戯曲を演じた彼の演技は、かなり高く評価されていた。舞台で鳴らした後に映画に進出した俳優たちは、選ばれし精鋭といった感じで、あの『X-Men』に出てくるおじさんたちみたいに、プロ中のプロということだ。私の大好きなオスカー女優ヘレン・ミレンも、映画界に進出する前は、舞台でトニー賞とか数々の賞を受賞して、演劇の女王と呼ばれていたそうよ。その後、彼女は私の大好きな、コーギー犬が大活躍する映画『コーギー&ベス』でエリザベス女王の声を担当することになるわけだけどね。挙げればきりがないから、もう一人だけ。イドリス・エルバなんかもロンドンの劇場で腕を磨いた俳優よ。

しかし、この無言劇は、ロンドンのウエスト・エンドの大劇場で上演されている伝統的な演劇とは一線を画しているというか、かなりかけ離れているようで、動き一つ一つも度を越えて大げさすぎるし、演出も凝りすぎのような気がした。あえてそうして芸術性を高めようとしているのかもしれないけど、奇抜な衣装に身を包んだ役者たちが、わざとらしく大手を振って舞台を駆け巡る様は、演劇好きの同人集団といった趣きだ。悲しいことに観客もまばらで、私のイメージだと、イギリス人は観劇中もシャキッと背筋を伸ばしているのかと思っていたけど、なんだかみんな、だらっとしているし、悪役が現れた時は、「失せろ!」「引っ込め!」などと罵声を浴びせている。善良なディック・ウィッティントンの背後に悪役が忍び寄ってきた時は、全く気づいていない風のウィッティントンに向かって、「後ろだ!」「やつは後ろにいるぞ!」などと面白がって教えている。そして、彼のクリンボー(クリスマスを意味するイギリスのスラング)の願いが達成されたあかつきには、ブーイングだか歓声だか区別がつかないような、奇声が方々で上がった。ついにネズミの王様が、ロンドンで一番腕利きの策士猫の手により、闇に葬られたのだ。(ちなみにこの猫は、『テレビでルームメイトに全部打ち明けちゃいまショー』という、ルームシェアを覗き見る形のリアリティショーに出演していた、知名度はDランクくらいの微妙に有名なタレントが演じていた。)

けばけばしく派手な衣装で着飾ったキャストが舞台上に勢ぞろいし、少ない観客も一体となって、『ムーラン・ルージュ』ばりの熱狂的な大合唱が始まった。私が今までに見た舞台の中で、最も狂喜乱舞といった感じで、キラキラ感も、紙吹雪の量も、間違いなく観客が飲んでいるビールの量も、一番多かった。

「これはクラリッジズを離れた甲斐があったね」と私はダッシュにささやいた。

「そう?」と彼がささやき返した。

私たちの後ろに座っていた酔っぱらいが、「うるさいぞ! 携帯は切っとけ!」と怒鳴ってきた。さっきまで、「俺に全部打ち明けちゃいまショー!」とか叫んでいた人だ。ディック・ウィッティントンの妻のアリス・フィッツワレンを演じている、ぽっちゃりした女優のファンみたいで、彼女が登場すると、彼は俄然興奮し、私たちの真後ろで声を荒げていたくせに。

ダッシュは怒鳴られたことも、携帯の電源を切るように言われたことも無視して、おもむろにスマホでメッセージを確認すると、その画面を私に見せてくれた。「コンシェルジュのカタリーナからだ。クラリッジズで午後のティータイムのお招きがあるから、戻って来いって」と彼は、もうささやくことはせずに言った。

「お招きって誰から?」

「さあ、わからない。カタリーナはただ、ハーフスリーまでに戻るように、とだけ言ってる」

ハーフスリーってどういう意味?」

「3時半って意味だよ!」と後ろの酔っぱらいが口を挟んできた。「さっさと行っちまえ。俺たちは純粋にショーを楽しんでるんだ」

「じゃあ、そうさせてもらいます」と、ダッシュが言って立ち上がった。私も中腰になって、彼の後に続いた。

劇場の外に出て、急に明るくなった世界の中で、私はダッシュに聞いた。「気晴らしになった? 大学とか大変だったんでしょ?」

「うん、凄くなったよ」

「私も凄くよかったわ」と私も彼に同意した。家父長制の守護聖人ともいうべきサンタへの手紙を燃やしてから始まった私の旅は、ハイドパークのウィンターワンダーランドを経て、そして今、クリスマスの「パントマイム」を観た。イギリスで過ごすクリスマス休暇は、うっとりするほど楽しいことづくしで、私はすっかりイギリスの大ファンになっていた。

「イギリスの午後のお茶会には参加したことある?」とダッシュが聞いてきた。

「ないわ」

「じゃあ、きっと凄く気に入るよ」

昨日クラリッジズ・ホテルに着いた時は夜だったので、その日の午後ホテルに戻った時、初めてそのアールデコ調の壮観さを陽射しの下で目の当たりにした。それは赤れんが造りの建物だった。正面玄関の上に飾られた複数の旗が風になびいて、心地よさそうに波打っている。メインフロアに入ると、まばゆいばかりのクリスタルのシャンデリアが降り注ぎ、チェスボードのような市松模様の床、パネル張りの壁、アンティークの金色の鏡、そして私の背よりも大きなフラワーアレンジメントが待ち構えていた。エレガントなロビーにはピアノの音楽と、午後の紅茶を楽しむ人たちのティースプーンの音が、軽快なアンサンブルを奏でている。

ダッシュと私は喫茶店の入口に立つボーイに、自分たちの名前を言った。彼は「ご予約を承っております。さあ、どうぞ」と言うと、私たちをホテルのロビーから喫茶店の中へと招き入れた。ゴージャスなロビーにもっと身を置いておきたい気分だったので、名残惜しくもあったけれど、「こちらはゆったりと読書も楽しめるお部屋でございます」と案内された空間の心地よさに、再び顔がほころぶ。「あなた方のもう一人のメンバーはすでにいらしてございますよ」

私たちをお茶会に招いた謎の人物は誰なのか、私は聞くまでもなくわかってしまった。ボーイが私たちを案内する先から、ほのかに漂うシャネルNo.19の凛とした香り。(ちなみにNo.5はありきたりって感じでつまらない。)視界に入ってきたベルベット張りの長椅子に腰かけていたのは、やっぱり!

ミセス・バジルが私たちを見て立ち上がった。彼女はボーイに向かってうなずいた。「どうもありがとう、ジェフリー」

彼は彼女にお辞儀をすると、「またお越しいただき嬉しく思います、マダム」と言って、去っていった。

ミセス・バジルは私の頬にチュッとキスをし、ダッシュの肩をポンと叩いた。彼女は長椅子に再び腰を沈めると、私たちに「遅刻ですよ」と言った。

「今は3時40分ですから、ほんの10分です」とダッシュが言った。「それにここに招待されたのは、つい1時間前のことでしたし」

「時間厳守は一つの美徳よ」と彼女は言った。

「待ち伏せするなら、もっと早く予告状を送ることもね」とダッシュが言い返した。

ミセス・バジルが笑った。「さすがの切れ味ね。ひねくれ具合に磨きがかかってるわ。誰にも真似できない感じ」

「ありがとうございます」とダッシュが言った。「おばさまも真似できない感じです」

私の大叔母さんは私の家族の中では珍しく、ダッシュのことを単に許容しているだけでなく、彼と一緒にいることを楽しんでいる。そして逆に、彼もそうみたいね。

「ここで何をしてるんですか?」と私は聞いた。

「あなたが急に街を飛び出して、ロンドンに行っちゃったと聞いて、だったら私もついて行こうかしらね、と思ったのよ」

「他に理由は?」とダッシュが聞いた。

ミセス・バジルは答えた。「リリーが大学を中退するつもりだという風の噂を耳にしてね」

「なるほど」とダッシュが言った。私の親族に共通している過保護っぷりを、彼は改めて確信したようだった。

「中退も何も、私はまだ入学もしてないのよ!」と私は言った。

ダッシュが言った。「その問題なら、今日二人で話し合って解決済みかもしれません。問題はリリーが大学にまだ通っていなかったことじゃなくて、間違った大学を選んでしまったことで...来年は軌道修正が必要かもしれませんね」

ミセス・バジルが私をじっと見つめてきた。「私の母、つまりあなたの曾祖母にあたる人も、バーナードに行ったのよ! 私もバーナードに行きました! あなたのおばあちゃんもバーナードです。彼女がどうやってあなたのおじいちゃんに出会ったと思う? 私が紹介したのよ。彼女と私はバーナードで一緒だったから

ダッシュが言った。「そのロジックに基づいて、リリーが将来のビジョンを決めなきゃいけないなんて、不条理にもほどがあるって思うのは僕だけでしょうか?」

「それが伝統だからって、私もそこに行かなくちゃいけないってことにはならないでしょ」と私は言った。

「じゃあ、どうしてバーナード大学に出願したの?」とミセス・バジルが聞いてきた。

「おじいちゃんの老人ホームの近くにあったことと、私以外の全員が、あそこが私のおさまるべき場所だって確信してるみたいだったから」

「それと、家族のプレッシャーがすさまじく大きかったからですね」とダッシュが付け加えた。

「どれも、もっともらしい理由ね」とミセス・バジルが言った。

ダッシュがもっと踏み込んで言った。「実は、リリーはFITに出願しようと考えているんです。デザインと起業家精神を学ぶためです」

ミセス・バジルはうなずいた。「それは悪い選択肢ではありませんね。でもバーナードはどうするんですか? うちの家族は誰も、FITなんて行ってませんよ」

ダッシュが片手を飛行機に見立てて、飛び立つ動きをしながら、言った。「この人は、またしてもそのロジックだ...こうやってリリーが軌道を変えたっていいでしょ」

その時、私はふと思い出した。「あなたってバーナードを中退したんじゃなかった?」と私はミセス・バジルに聞いた。

「たしかにそうね。私は1年しか続きませんでした」

「は? どうして中退したんですか?」とダッシュが聞いた。

彼女は微笑んだ。「彼の名前はアンリといってね。彼はプラット大学の美術科の学生だった。バーナードから近かったし、私はプラット大学まで出向いて、人物デッサンの授業でヌードモデルをしていたの。その時に見初(みそ)められちゃって、私たちは付き合い始めたのよ。それから大学を辞めて、二人でヨーロッパへ1年ほど放浪の旅に飛び立ったの。―2年だったかしらね?―あの頃が、私の人生で最高に華やいでた時期だったわ」

私は啞然として何も言えなくなってしまった。私はダッシュに目配せして、テレパシーで言いたいことを伝えた。彼女って自分のことは棚に上げちゃって、偽善者よね! 彼の唇がわずかに上向きになって、彼がめったに見せることのない種類の笑顔が浮かび上がった。私をうっとりと、その笑顔に釘付けになる。私はテーブルの下で彼の膝を叩いてから、ミセス・バジルに言った。「中退したことを後悔してないんですか?」

「後悔なんてとんでもないわ」

「でしたら、どうしてリリーも、そこに行くのをやめる、という権利を行使してはいけないのですか?」とダッシュがミセス・バジルに聞いた。

私に向かって、彼女が言った。「べつに行かなくても、私は構いませんよ。ただね、それを補って十分なほどのまっとうな目的が必要です。犬だけでは十分ではありません。まあ、FITに行くというのなら、考える余地はありそうですけど、私も、もう少し考えてみないといけませんね」と言って、彼女はアフタヌーンティーのメニューに目を落とした。「ところで、あなたはどこに泊まってるの? マークの家? あのひどく座り心地の悪いイケアのソファで寝てるのかしら? マークも結婚すれば、もう少しインテリアとか、家具の美意識が上がると期待していたんですけどね」

「私はクラリッジズに泊まってるのよ」と私は言った。「っていうか、だから私たちをここに呼び戻したんでしょ」

彼女が笑った。私が冗談でも言ってると思ったみたいだ。私が真剣な表情をしていることに気づくと、彼女は言った。「あなたたちをここに呼んだのは、私がここに泊まっているからよ。ここのコンシェルジュにあなたたちの名前とメールアドレスを教えて、ここに招待してもらったの。まさかあなたもここに泊まってるなんて、思いもしなかったわ」

「あなたが何度もこのホテルのことを私に話してくれたから、私もいつかここに泊まりたいって思ってたんですよ!」と私は言った。

「誰が宿泊料を払ったの?」と彼女が聞いた。

私が払いました」

「そんな大金どうしたの?」

「自分のお金です! 犬の手芸品が予想以上に売れたし、何人かのお客さんからクリスマスチップをもらったし、中にはびっくりするくらいの額をくれた人もいたから」

「でも、年末のこの時期は、ここのホテル代も一年で一番高くなるのよ。あなたがそんなに稼げたとは思えないけどね」

私が稼ぎました。一番大きかったのは、犬の散歩のクライアントにとても裕福な方がいて、ありがたいことに彼が、思わぬ大金をチップとして振り込んでくれたことですけど。彼は私のおかげで年老いたメス犬が散歩好きになったって喜んでくれています。彼女は関節症を患っていて、前まではマンションから絶対に出たがらなかったそうですけど、今では〈トンプキンス・スクエア・パーク〉で、子犬みたいにハトを追いかけていますよ。あと、彼は私がデザインした犬のセーターもたくさん購入してくれたんです」

「あなたは自分の得意なことを仕事にしてるみたいね」とミセス・バジルが言った。

「はい」と私が言うのと同時に、ダッシュが「彼女は凄いんです」と言った。

「それは立派ね。とてもまっとうな目的です」とミセス・バジルが言った。「あなたにはバーナード大学の教育を必要としない将来がふさわしいのかもしれませんね」ウェイターが注文を取りに来た。「私が三人分を注文しちゃっていいかしら?」

ダッシュと私はうなずいたけれど、彼女は私たちの返答はお構いなしといった様子で、メニューを吟味している。

ミセス・バジルがウェイターに言った。「じゃあ、こちらのオックスフォードの友人には、クラリッジズお手製の午後ティーをお願いします。彼はたしか、英国の朝食ティーには目がないのよね。そしてこちらの私の姪っ子には、ベジタリアン用のベーコン抜きサンドイッチをお願いします。彼女は動物や地球への思いやりを常に念頭に置いてるの、ベーコンがどんなに美味しくてもね」

ティーサービスが始まると、私のイギリスへの浮気心が深まってしまった。私の心をぐっとひきつけたのは、陶磁器の美しさやティーポットから漂ってくる香ばしい香りだけではなかった。ウェイターの精度の高い所作振る舞い、私たちのカップに整然とお茶を注ぐさまは、まるでサーカス団のピエロが綱渡りをしているかのようで、完全に意識を集中させつつも、完全なる気楽さをかもし出すという芸当に、私はすっかり見とれてしまう。お茶を味わう前からすでに、私はお茶会のとりこになっていた。ティーポットからカップへと注がれ描かれる、寸分の狂いもない放物線は、水しぶきが跳ねることもなく、正確に同じ分量ずつ私たちのカップを紅茶で満たしていく。その注ぐ行為自体が、芸術といってもよいほどに見事だった。

「紅茶にはミルクを入れる?」とミセス・バジルがダッシュに聞いた。

「いや、甘ったるくなるんで結構です」とダッシュが言った。

「いい心意気ね」と、ミセス・バジルはうなずきながら言った。

ダッシュがミルクも砂糖も入れずに、紅茶の最初の一口をすすった。私も同様にストレートティーを喉に通す。彼の喉仏がごくんと動いて、彼は言った。「今まで味わった中で、一番美味しい紅茶だ」

紅茶に添えられたサンドイッチの盛り合わせを食べてみて、私も同じ感想を持った。白いパンの上にイングリッシュ・キュウリが刻まれ、レモンとクレソン葉のクリームがかかったサンドイッチ。ヤギの乳で作ったシェーブルチーズをベースに、かぼちゃとセージの葉がのり、コショウをまぶしたサンドイッチ。綺麗な模様の陶器のお皿が3つ、金色の細い棒を軸に塔みたいに3段に重なっていて、それぞれの段にそれらのサンドイッチがのっている。その陶器の台は、置いておくだけでテーブルを華やかにしてくれるようで、私はそれをナプキンでくるんで、こっそりアメリカに持ち帰りたくなった。(世界中の万引き犯よ、今こそ団結せよ、と歌うザ・スミスのボーカル、モリッシーが歌声がふいに頭に流れた。あんな悪漢が歌う歌は聴いちゃだめよ、リリー、と私は自身に言い聞かせる。)「このサンドイッチを編み出してくれた人には、イギリスの女王からナイトの称号が贈られるべきね」と私は言った。

ミセス・バジルが言った。「ね、そうでしょ。あなたにぴったりだと思ってそれを注文したのよ。でも、リリー、そのお紅茶の飲み方は感心しないわね。もっとおしとやかに飲みなさい。それはそうと、ダシール、オックスフォードのことを聞かせてちょうだい。すべては順調? 期待通りに進んでる?」

「イギリスはとても気に入りました」とダッシュは言った。「でもオックスフォードに関しては、どうなんだろ、よくわかりませんね」

「それはどうして?」と彼女が彼に聞いた。

「理想があって、現実があるって感じかな。子供の頃から、こうあってほしいっていう理想の上に乗っかって生きてきたのに、大人になった途端、現実を突きつけられて幻滅した、みたいな。前からずっと英文学を勉強したいって思ってたから、それが叶ったといえば叶ったんだけど、なんかそればっかりなんですよね。他にもたとえば、そうだな、心理学とか、アジア史とか、アフリカの美術とか、文学にしてもイギリスだけじゃなくて、南米のマジカルリアリズムなんかも勉強したいなっていう気持ちが強くなってきた感じです。なんていうか、予想以上に制限されてるんですよね」

「それはもしかすると、オックスフォードの問題ではないかもしれないわね」とミセス・バジルが言った。「イギリスの大学システムがあなたの性に合ってないんじゃないかしら。あなたこそ、ギャップイヤーを取って、じっくり進むべき方向を考え直した方がいいかもしれませんね。あなたが本当に勉強したいのは何なのか、どこで勉強したいのか」

「ニューヨークが恋しいです」とダッシュは認めた。

「そうでしょうね」と彼女は言った。

「私はここが好きよ!」と私はドアベルを鳴らすように割って入った。「ロンドンをちょっと出たところに犬の学校があるんですけど、そこにも行ってみました。あそこも選択肢の一つとして、私は考えています」

ミセス・バジルはレーズンの乗った焼き菓子をお皿に戻すと、私を睨みつけた。「あなたがバーナードに行かないという考えがようやく腑に落ちてきたところで、今度は犬の学校に行くためにここに引っ越すだなんて、私はそんな話には聞く耳を持ちませんよ。馬鹿馬鹿しい。あなたはニューヨーカーなんですよ。イギリスとは一時の戯れ程度の関係で終わらせなきゃだめです。情が移って、このままずるずると関係を続けてたって、その先に真実の愛はないわ」彼女は自分の過去に思いを馳せるように紅茶を一口すすると、ダッシュの方を向いた。「あなたにも同じことが当てはまりますよ」そこで彼女はカップを置き、ひと呼吸置いてから、言った。「ゲルタのことは話したかしら? 彼女はとうとう引退して、アリゾナ州のスコッツデールに引っ込んでしまいました」

「急にゲルタの話なんか持ち出して、ダッシュと私が行くべき場所を探してることと何の関係があるんですか?」私は混乱して彼女に尋ねた。ゲルタはミセス・バジルの家で長年、家政婦をやっていた人だ。彼女はこの1年くらいは、ミセス・バジルの豪華なタウンハウスの中の、とても暗くて、かなり狭い地下の一室で暮らしていて、こんな風に彼女が私たちの食事中の話題としてのぼることは、今まで一度もなかった。

「彼女は妹と一緒に暮らすために、そして再び太陽の光を浴びて暮らすために、アリゾナへ旅立ったのよ。私の考えを聞いてちょうだい」ミセス・バジルはそう言うと、私の手を取り、そしてダッシュの手も取り、二人の手を重ね合わせた。「解決策は明白です。まあ、これをあなたたちの両親に提案するのは気が引けますけど、あなたたちは地下のアパートに引っ越したほうがいいわ。薄暗い部屋にこもって、二人で目的を見つけるの。きっと何か見えてくるから」

シチュエーションコメディの道化に慣れ親しんできたアメリカ人の私としては、口に含んだ紅茶を、ブーッと吹き出すにはうってつけのタイミングだったけれど、クラリッジズの瀟洒(しょうしゃ)な談話室の神聖さを汚すのは忍びなくて、ぐっとこらえて紅茶を飲み込んだ。

ダッシュが私の手を優しく包み込むように握りしめながら、私の大叔母さんに向かって言った。「僕がどれほどあなたの姪を愛しているかご存知ですよね。でも、まだお互いの人生の今の段階では、一緒に暮らすなんてことを話す時期には来てないし、まだそんなことを言える立場にもたどり着いていないと思います」

「同感」と私は言った。彼女は正気なの?

ミセス・バジルが言った。「私はね、何もうちの地下室に空きができたから、ルームメイトの穴埋めをしてちょうだい、とか言ってるわけじゃないのよ。リリーの大叔母として私が所有している不動産をあなたたちの新居に提供します、とかいう話でもないの。二人は今すぐ結婚すべきです。駆け落ちしなさい!」

あらまあ、憐(あわ)れんだほうがいいかしら。私の最愛の大叔母さんは、本当に正気を失ってしまったらしい。



14

ダッシュ


12月23日

「いったい何を言いだしてるのよ?」とリリーが驚きの表現を浮かべて、叫んだ。かなり憤然(ふんぜん)たる様子だ。

僕は比較的落ち着いていた...なぜなら、ハッタリをかましてるんだな、とわかったからだ。僕にはそういったことを見抜く目がある。

「彼女は本気じゃないよ」と僕は言って、リリーを落ち着かせた。「彼女がやっていることには、たしか心理学的な用語があったと思うけど...思い出せないや、僕は心理学の授業を受けることを許されていないからね。それはともかく、彼女はそういうことを言うことで、僕たちの態度をはっきりさせようとしてるんだ。僕らはそんなことまで望んでいないって、一緒にどこかへ逃げ出すなんてしたくないって自分たちの心に確認させて、一緒に住む必要はないし、カップルでいるために同じ街に住む必要もないなって気持ちにさせるためだよ。挙句の果ては、結論として...」僕はミセス・バジルの方を向いた。「ここはあなたが言う台詞ですよ」

ミセス・バジルはため息をついた。「あなたはバーナードに行った方がいいわ」

「なんでそうなるのよ?」とリリーが嘆くように言った。

僕は彼女の大叔母さんに話し続けた。「ミセス・バジル、こんな言い方をして気を悪くしないでほしいんですが、ちょっと今のあなたは、頭の中がとっちらかってるというか、もう少し考えを整理した方がいいですよ」

ミセス・バジルはそこで、その話題を続けるのを断念した。しかし、そこから他の話題を持ち出すのも、3人ともためらわれ、僕たちは黙って紅茶をすすり、黙々と焼き菓子やサンドイッチを味わった。お皿がすっかり空になると、ウェイターがすっとやって来て、塔みたいに段になった陶器とか、ティータイムにぴったりの繊細な模様が描かれた食器類を奥に下げていった。きっとイギリスの厨房の洗い場には、ハリーポッターに出てきた〈屋敷しもべ妖精〉がいて、陶磁器をピッカピカになるまで磨いているのだろう。

僕は腕時計を見た。

「そろそろ行かないとだね」と僕は言った。「僕たちはこれから僕の祖母と会う約束をしてるんです。素敵なアフタヌーンティーをありがとうございました。心を通わせる、とまではいきませんでしたが」

僕たちが立ち上がって行こうとすると、ミセス・バジルが言った。「リリー、私もこの後、夜までいくつか予定があるんだけど、10時までにはここの私の部屋に戻ってると思うから、寝る前に私の部屋にいらっしゃい。私の寝酒に付き合いなさい。あなた一人で来るのよ」

「わかったわ」とリリーは静かに言った。

「そんな、絞首台までの十三階段をのぼっていくような態度はやめなさい」とミセス・バジルがたしなめた。

「次に会う時までには、僕たちは結婚して、夢のマイホームのローンをせっせと返していることでしょうね」と僕は言った。

僕はミセス・バジルのしょんぼりしたまなざしを僕の方へ向けようとした。間接的にリリーをかばうことになれば、と思って言ったんだけど、大成功だった。僕はこの技が得意みたいだ。

「あなたね、そうやってひねくれたことばっかり言って、食って掛かるのはやめなさい」と彼女は僕に矛先を向けた。「あなたの中にある邪悪な部分をちらつかせて、悪びれて見せてるんでしょうけど、ひねくれなくたってあなたは魅力的なはずよ。言っておきますけど、私が大西洋を渡ってここまで来たのは、皮肉を言い合って、おしゃべりを楽しむためじゃありません。あなたたちはとても重要な岐路に立ってるの。間違った道を歩みだそうとしてるんじゃないかって心配してるのよ」

「間違った道も何も、ここから一番近い地下鉄の駅までは一本道ですよ」と、僕はさらに皮肉を重ねた。

「また今夜会いましょう」とリリーが付け加え、大叔母さんにハグをして別れを告げた。

リリーと僕は、ホテルを出るまでお互いに何も言わなかった。ミセス・バジルがロビーのいたるところにスパイを配置していて、僕の皮肉めいた発言や、リリーの後悔の言葉を、もらさず彼らにメモさせ、報告させるのではないか、と考えたとしても不思議ではなかった。外に出て、地下鉄の駅へ向かって歩きだして、ようやく僕は「いったいどうなってるんだ?!」と声を発した。それに対してリリーも、「何がどうなってるのか私にもさっぱり!」と白い息を吐き出した。

「駆け落ちだなんて、ね」と二人で驚き合っていると、カーリー・レイ・ジェプセンの『Run Away with Me(一緒に逃げよう)』が頭に浮かんだ。「そういえば、こういう曲あったよね」と、その歌をリリーに向かって口ずさんだ時、僕たちは地下の中心部に向かって、1キロくらいあるんじゃないかと思うほど、長いエスカレーターに乗っていた。

「あんな言葉が彼女の口から飛び出すとはね、本当にびっくりした」とリリーが言った。「夢にも思わなかったわ」

「なんとなくだけど、あれは君の両親の発案じゃなくて、彼女が思いつきで言っただけじゃないかな」と僕は言った。「まあ誰の発案だとしても、君の気持ちをバーナード女子大に戻すための作戦だろうけど」

「私はバーナードには行かないわ」

「わかってる」

「わかってくれてありがとう」

彼女はエスカレーターの一つ上の段に立っていたので、僕らの顔はほぼ同じ高さにあった。僕は思わず身を乗り出して、彼女にキスをした。

「これって何のためのキス?」と彼女が聞いた。

「バーナードに行かないためだよ」

エスカレーターが終点に近づいてくると、地下通路でキーボードの弾き語りをしている女性が見え、ジョニ・ミッチェルの『River(川)』のイントロが聞こえてきた。この寒い時期にぴったりのしっとりとしたバラードで、リリーの大好きな曲の一つだ。その時だった。妙なことが起こったのだ。そのピアノのイントロはたしかにジョニの『River』だったのだが、彼女は『River』を歌い始めることなく、そのまま自然な流れで曲調を変更し...さっき僕の頭に流れたばかりの『Run Away with Me』のピアノバージョンにつなげ、それを歌いだしたのだ。

「まさか」と僕は驚きの声を上げた。

その路上パフォーマーは、妙にカーリー・レイ・ジェプセンに似ていた。でも、有名歌手がこんなところで歌ってるなんて、ありえない、よね?

彼女に興味を持ち、その歌声に魅了されたのは、僕だけではなかったようで、他の通行人たちも足を止めて、曲に合わせて体を揺らしていた。

「ちょっと待って」と僕はリリーに言った。「やらなければならないことがある」

するとリリーは微笑んで、「わかってる」と言った。

当然のように彼女は覚えていてくれた。僕は以前、彼女にこの誓いを話したことがあったのだ。もし、そこを通りかかる前に僕の頭の中で流れていた曲を、偶然にも、あるいは運命的に演奏している路上パフォーマーがいたら、僕は財布の中のお札をすべて、その人のギターケースに入れるよ、と。

そんなことがあるとしたら、財布のお札をごっそり持っていかれるのは、ビートルズの曲になるだろうな、と思っていたのだが、それがカーリー・レイ・ジェプセンだったことに、より運命的な意味があるように思えた。

その女性シンガーの歌声を聴きながら、僕は財布を取り出し、中から紙幣をすべて引っ張り出して、彼女がギターケースの代わりに置いていた、クリスマス飾りのティンセルが巻かれたクッキー缶の中に入れた。ついでだ、とばかりに、僕はつい財布の中の小銭も全部入れてしまった。

そのシンガーは、困惑と感謝の入り混じった不思議そうな表情を浮かべながら、サビに突入した。

Hey, run away with me(ねえ、私と一緒に逃げようよ)

Run away with me . . .(二人で一緒に逃げようよ . . .)

通行人たちに邪魔だと言わんばかりに背中を押される中、僕はリリーを持ち上げ、くるくると体を回転させた。他のカップルや一人で歩いていた人も一緒になって、もう一度めぐって来たサビを一緒に歌った。カーリー似の歌手も満面の笑みで指を弾ませ、声を高らかに地下通路に響かせる。

リリーは僕の手をつかむと、僕を引っ張るように歩き出した。カーリー似の歌声が僕たちの背中を追い風のように押し、僕たちはふわりと舞うように歩みを進める。そのままホームにたどり着き、電車に乗り込んだ時、僕たちは二人して、ニヤニヤとにやけてしまった。周りを見れば、他の乗客たちもなぜか、にこやかだった。

ジェムのタウンハウスの最寄り駅に着く頃には、魔法の効力が切れたように、二人とも落ち着きを取り戻していた。

「なんか緊張する」と、ウォータールー界隈を歩きながら、リリーが心のうちを打ち明けた。「第一印象があまり良くなかったと思うから」

「これは本心から言うんだけど」と僕は言った。「何も心配することはないよ。君はありのままの君でいれば大丈夫」

玄関前に着くと、リリーがノックをしようとしたので、僕はそっと鍵を持っていることをアピールした。それを使ってドアを開けると、玄関ホールに入ってから、ジェムに声をかけた。家の中はシナモンとバニラの香りで溢れかえっていて、天上のスピーカーからはトム・ジョーンズのクリスマスアルバムが流れている。

ジェムがエプロン姿でキッチンから出てきた。―いつもの彼女とは違う姿だ。

「いらっしゃい!」と彼女は言って、僕にハグし、そしてリリーにもハグした。「あなたの曾祖母から受け継いだクリスマスケーキを作ってたのよ。コーヒーケーキをちょっとゴージャスにしただけなんだけど...やっぱり伝統の味は守らないとね」

「ダッシュの家に伝統のクリスマスケーキがあったなんて知らなかったわ」とリリーが言った。

「僕も知らなかったよ!」と僕は認めた。

ジェムも一瞬驚いた様子だったけれど、すぐに合点がいったらしく、こう言った。「まあ、あなたの父親がこれを一度でも、あなたの前で作ってみせたとは、―やっぱり思えないわね。仕方ない、ここはひとつ、私があなたに秘伝のレシピを伝授してあげましょう。世代を飛び越えた伝統の味の継承といったところかしら」

「すごく美味しそうな香りがしますね」とリリーが言った。

「ありがとう。作った甲斐があるわ。うちでディナーパーティーを開くのが昔から大好きだったのよ。みんなうちに来れば、心ゆくまで食事ができるって知ってるから、たくさんの人が集まったわ。あの頃はヌーベルキュイジーヌの時代でね、フランス語で「新しい料理」っていう意味なんだけど、具材の量を減らして、お皿にちょこんと料理を乗せて、見せ方とか見映えを工夫した料理が出てきた頃だったから、私が主催するディナーパーティーは時代に逆境してたのよ。コーヒーケーキを侮(あなど)ってはいけないわ。味も量も増し増しにした私の特製ケーキはね、ロンドンっ子の肥(こ)えた舌だってうならせたんだから。他の料理も、そうね、あと1時間くらいで出来上がるから、ダッシュ、それまで彼女に家の中を案内してから、あなたの部屋でくつろいでてちょうだい。ディナーにふさわしい服装に着替えてね」

「何か指定の服装でもあるの?」と僕は聞いた。

「そのうちわかるわよ」とだけジェムは答えて、それ以上の説明をしなかった。

彼女がキッチンに戻ると、僕は家の中を案内し始めた。まずダイニングルームに顔を出すと、ジェムはそこを〈ホリデー・ワンダーランド〉と呼べるような、キラキラ輝く空間に仕立て上げていた。部屋の真ん中にひときわ目を引くクリスマスツリーが飾ってあった。緑の葉っぱは一枚もなく、全面が色とりどりの花で覆われたクリスマスツリーだった。

「24時間前は、ここには何もなかったんだ」と僕はリリーに言った。リリーは目を輝かせて大喜びしている。僕はキッチンに向かって、「これをどこで手に入れたの?」と声を張って聞いた。

「〈リバティ〉で働いてる子たちが、私への感謝の気持ちにってくれたのよ!」とジェムが答えた。

テーブルの上には食器類が3セット並べられていて、リリーがそこから花柄の布ナプキンを手に取った。「素敵なお友達をお持ちなんですね」と彼女は感想を口にした。

リリーも一部に溶け込んだその光景に、僕はうっとり見入ってしまう。「それはいえてる」

1階の他の部屋も見せてから、僕の部屋がある2階へと彼女を案内した。

「ようこそ、僕のホームルームへ。といっても、実家からはかなり離れたホームだけどね」と僕は彼女に言った。

「本、本、本、さらに本、洋服が少しと、壁に写真がちらほら...あなたの実家の部屋によく似てるわ」と彼女が言った。

「それに、アドベントカレンダーもあるよ」と僕は指差した。

「ええ、気づいたわ」

彼女がクローゼットに歩み寄った。クローゼットの扉には、これ見よがしに〈リバティ〉の衣装バッグが2つかかっている。

「これは何?」とリリーが聞いた。

「さあ、何だろう」と僕は答えた。

一つにはリリーの名前が書かれた紙が貼ってあり、もう一つには僕の名前が書かれていた。

リリーがまず、彼女の名前が記された衣装バッグのファスナーを開けると、中から、色鮮やかで華やかなワンピース型のドレスが姿を現した。

「これは...すごい」というのが彼女の反応だった。

僕のバッグの中には、こじゃれたスーツが入っていた。〈ドーント・ブックス〉に着ていったものよりは若干控えめだったけれど、それでもかなり高級感あふれるスーツだった。

「彼女の〈リバティ〉のお友達に感謝しなくちゃね」と言って、僕はリリーと視線を重ねた。

リリーは手に持っていたドレスをクローゼットの扉に掛けると、僕のベッドに腰を掛け、真剣なまなざしを僕に投げかけてきた。

「ダッシュ、これから私たち、何をしましょっか?」と彼女が聞く。

そして僕は気づく。この2、3日の間、いろんなことがあれよあれよという間に、僕たちの身にふりかかってきた。こうして冷静にじっくりお互いを見つめ合うのは、この数日で初めてかもしれない。

僕は自分のスーツを彼女のドレスの横に掛ける。

彼女の質問は、僕たちのこれからの人生についてなんだろうけど、僕はあえて、今からの1時間について答えることにした。

「そうだな」と僕は彼女に言った。「僕たちは今着てる服を脱いで、それから、この新しい服に着替えることになると思うけど、その合間に、何らかの行為に及ぶんじゃないかって気もするけど、どうかな?」

「比喩にしても、将来のことを言ってるようには聞こえないわね」と彼女は言った。「でも、その計画もたしかに良さそうね」


・・・


1時間ほどして、夕食の準備ができたとジェムに呼ばれた時、僕たちは慌てて新しい洋服に身を包み、ボタンを閉めている最中だった。

なるべく平静を装って、二人向かい合って食卓の席につく。僕たちの間の主催者席にジェムが座った。スピーカーからはエイミー・ワインハウスの、その名の通りワインに酔ったような歌声が流れていた。―エイミーと同じく20代で亡くなったニック・ドレイクという歌手を、ジェムは好きだったのよと言って、思い出したように席を立ったけれど、リリーも僕も、それが誰なのかピンと来なかった。ジェムがレコードを差し替えて、ニック・ドレイクを聴かせてくれた。ギターをかき鳴らしながら牧歌的に歌うバラードは、どこか寂しげで、12月の夜にしっくり来る気がした。

ジェムが僕たちの今日一日について聞いてきたので、僕たちは話せる範囲で詳しく今日の出来事を彼女に伝えた。パントマイムの劇を観に行った話をしたら、またしても彼女の記憶の片りんを刺激してしまったようで、ジェムがうっとりと語りだした。イギリスのコメディグループ、モンティ・パイソンと彼女は一緒に仕事をしたことがあるらしく、祝日のイベントでパントマイムを披露したそうだけど、セクシーの要素が強すぎて、BBCは放送を断念したという...そこから彼女の話は広がって、若き日のマギー・スミス、アンジェラ・ランズベリーという二人の有名女優に挟まれて、ジェムも一緒に女子三人で音楽スタジオに忍び込み、イケメン俳優リチャード・バートンの誕生日を祝おうと、『You're the Top』のちょっと卑猥(ひわい)な替え歌をレコーディングしたことがあるそうだ。

「言っておきますけど、当時はまだ、リチャードはリズとは付き合っていなかったから、私たちはみんな必死だったのよ」とジェムは僕たちに向かって断言した。

知らねーよ、とは言えずに、僕たちはふむふむと納得したようにうなずいていた。

「さて、私の話はもういいわ」とジェムが言った。「あなたたちはパントマイムを観たんだったわね、そこから話が逸れちゃったけど、そのあとはどうしたの?」

その後は、サプライズ的にミセス・バジルにお呼ばれしたんだけど、リリーがそのことを話すのは抵抗があるんじゃないかと思って、彼女を横目でちらりと見た。でも、彼女はすべてを事細かに話しだした。彼女が大学への道を拒んだ結果、ミセス・バジルが突如、ティラノサウルス(T-Rex)みたいに怒っちゃって、いや、お茶会だったから、お茶の女王(Tea-rex)みたいに気がふれてしまって、という話を、リリーは講談調にまくし立てた。僕にはすべての隠語を理解できたけれど、ジェムにすべてが伝わったかは微妙だった。けれどリリーはお構いなしといった感じで、最後にミセス・バジルの「間違った道をうんぬんかんぬん」という台詞で締めくくった。

「おそらくあなたが選ぶ道は、バーナードとは逆方向へ進む道ってことかしらね?」とジェムが尋ねた。

「そう考えてもらって差し支えないと思います」とリリーが答えた。

「わかったわ、それなら」ジェムは、一旦持ち上げたワイングラスを口につけないままテーブルに戻すと、言った。「二人に質問があります。率直に言って、私があなたたちくらいの年齢の時には、誰も私にこういうことを聞いてくれませんでした。だからあなたたちには聞くのよ。私も自分の親と同じ過ちを犯して、年頃の息子には聞けなかったわ。あの頃は、母親になったとはいえ、私はまだ若かったし、自分の息子には怒ってばかりで、そういう質問の大事さに気づけなかったのよ。リリー、私はあなたにとって、まあ他人ですね。ダッシュ、私はあなたにとって他人ではないけれど、まだ知り合ってから日が浅く、あなたがどう答えたところで、私がその答えに一喜一憂するほどの仲には、まだなっていないでしょう。だからこそ二人に聞きますが、もし私があなたたちに、これからの人生で何をしたいかって尋ねるとしたら、あなたの心はどう返答しますか?」

リリーは躊躇(ちゅうちょ)しなかった。「私は犬と一緒に働きたいです。それが私の得意なことだから、というだけではなくて、犬たちのためになるからです。私は心からそうするのが好きだし、それが何らかの形で役に立つことも知っています」

「素晴らしいわ」とジェムが言った。「さて、ダッシュ、―あなたはどうかしら?」

僕の答えは「わからない」だった。しかし、僕自身その答えでは満足できなかった。心の奥底に別の答えがあることを感じていた。ジェムの言葉を借りれば、僕の心が跳ね返してくる答えがある、と。

「本を扱う仕事がしたい」と僕は言った。「それが僕のやりたいことです。リリーが犬に囲まれて仕事をしたいように、僕は本に囲まれて仕事がしたい。僕の未来は本とともにあります」

そう声に出して言うのはおこがましい気がした。

でも、清々(すがすが)しさもあった。

リリーとジェムも、僕からそれを感じ取ったに違いない。二人とも納得するようにうなずいていた。

「よかった」とジェムが言った。「これでわかったわ」

そう。今、僕たちはわかったのだ。

ジェムが突然テーブルを叩いて、僕たちを驚かせた。―イギリスの環境に囲まれて、実にアメリカ的なジェスチャーだった。

「善は急げよ!」と彼女は言って、立ち上がった。「すぐに戻ってくるわ。電話をかけないといけないから」

「それで」とリリーは言い、テーブルの向こう側から僕に手を伸ばしてきた。「本なのね」

僕は彼女の手を取った。「そう、本。それと、犬だよね」

彼女が僕の目を見て、にっこりと微笑んだ。「そう、犬よ」

「君はFITに応募するんでしょ」

「みんな反対するでしょうね」

「彼らは無駄に月に向かって吠えてるだけだよ」

1分ほどして、ジェムが食卓に戻ってきた。満足そうな笑みを浮かべている。

「明日の11時よ」と、彼女は椅子に腰を掛けながら言った。

「それがどうしたの?」と僕は尋ねる。

「あなたにはセント・ジョン・ブレークモアとの面接を受けていただきます」

はあ?!」と、僕はきょとんとするばかり。セント・ジョン・ブレークモアといえば、ニューヨークで最も有名な文芸編集者のことだろう。

「ブレーキーが、ちょうど今この街にいるのよ。クリスマス休暇を利用して、彼の両親に会いに来てるの。電話してみたら、明日の11時にあなたに会ってくれるって」

ブレーキー?!

「ああ、私は彼をそう呼んでるの。80年代に一時期、彼の面倒を見たことがあるのよ。ラシュディの小説『悪魔の詩』が出版された時、熱心なムスリムから激しい反発が巻き起こってね、彼の両親が地下に潜らなければならなかった時期に、彼は私のもとに身を寄せていたの。それからの仲なんだけど、私は彼のために何冊か本を書いたことがあるのよ」

「あなたが書いたんですか?」

「ええ、そうよ。彼が出版した有名人の回想録の何冊かは、私の手によるもの。ゴーストライティングと言っちゃえば聞こえは悪いけど、歌手とか俳優とか、有名人っていうのはね、忙しすぎて、自分の過去をあんまり覚えていないものなのよ。彼ら自身より、私たちみたいな、近くで見ていた取り巻きのほうが、あの時はこうだった! とか、よく覚えているの」

「っていうか明日、セント・ジョン・ブレークモアと面接? そんなの無理だよ! 心の準備もできてないし」

「何のための面接なんですか?」とリリーが聞いた。

「そうだよ」と僕は言って、ジェムの方を向いた。「それって何の面接?」

「べつに何だって構わないわ」と彼女は答えた。「チャンスをものにできるかどうかはあなた次第よ。自分のなりたいものになるために、自分を思いっきりアピールして来なさい」

僕は緊張と興奮で過呼吸になりそうだった。

「オッケー」と僕は言った。「そういうことなら、やってやろうじゃないか」

「ただ、一方で」とジェムは続けた。「残念ながら、私には犬関係の世界につてはないのよ」

「そのことなら大丈夫です」とリリーは言った。「自分でもう見つけたと思います」

食事の残りの時間は、僕がリリーに、セント・ジョン・ブレークモアとは何者なのかについて説明したり、ジェムが誰の回想録を書いたのかについて、彼女は秘密保持契約にサインしたそうで、言えないわ、とは言いながらも、ヒントを散りばめつつ、ほのめかすことに費やされた。

それからクリスマスケーキが出てきて、これが実に美味しかった。

「僕の人生で今まで君に出会えなかったなんて、いったい君はどこに雲隠れしていたんだい?」と僕はそのケーキに向かって尋ねた。

「私も同じことを知りたくて仕方ないわ」とジェムが言った。

「さっき、これは僕の曾祖母のレシピだって言ってましたよね。彼女の名前は何ていうの? 彼女はどんな人でした?」

ジェムは微笑んだ。「彼女の名前はアンナ。私が子供の頃は、グラナと呼んでいたわ。グランマ(おばあちゃん)とアンナを一緒くたにして呼んでいたの。彼女はお菓子作りが大好きでね、でも食べることにはあまり執着がなくて、自分が作ったものを他の人が食べて喜んでるのを見るのが、何よりの喜びっていう人だった。私たちはいつも、おばあちゃんに『こんなに美味しいパンを作れるならパン屋さんをやったらいいよ』って言ってたんだけど、彼女はその対価として人にお金を請求するのが嫌だったのよ。それよりも、自分で作ったクッキーや、オーブンから取り出したばかりのケーキを持って、友達の家の玄関を訪れるほうが好きだったみたいね」

「僕の父は彼女を知ってた?」

「少しね。彼はまだ小さかったから、覚えてるかしらね。彼のお気に入りのトラックの形をしたクッキーを彼女が作ったら、彼は大喜びしてたのよ」

これには思わず笑ってしまった。「僕の父に、お気に入りのトラックがあったの?」

「ええ、あったわ!」とジェムが言った。「そのトラックにポールという名前をつけて、肌身離さず持ってたわ。―ポールっていうのはおもちゃ屋さんのおじさんの名前でもあって、おもちゃ屋さんをやってるくらいだから、すごくいい人だったわ! ―それはともかく、人じゃなくてトラックのポールは、私の手と同じくらいの大きさで、あなたのお父さんはいつもポールをなくすのよ。そうして、「ポール、どこへ行ってしまったの?」って、ソファのクッションの間とか、ベッドの下を探し回っていたわ。彼の幼少期の半分は、ポール探しに費やされたといっても過言ではないわね。あなたのお父さんはポールを、それはそれは大事にしていてね、いい年になってからも、ベッド脇にポールを置いて寝ていたのよ。私は部屋の掃除をしながらポールを棚に戻すんだけど、また次の日になると、枕元に置いてあるの。彼が高校生になってからのことよ」

僕は、父がこんな風にトラックのおもちゃを大切にしていたとは、なかなか想像しがたかった。

「で、ポールは今どこにいるの?」と僕は聞いた。

「ああ」とジェムが言った。「今は私が持ってるわ。二階の私の寝室よ。彼は今は、私を見守ってくれているんだと思う」

その時、彼女の目に涙が溢れてきた。幸せな気持ちがこみ上げてきているようでもあり、そこから一筋の寂しさがこぼれ落ちた。家族と過ごした日々や、人間の方のポールを思い出したのかもしれない。

「おお、ジェム」と僕は言って手を伸ばし、今度はジェムの手を握りしめた。

「大丈夫よ」と彼女は言った。「もし、もう一度やり直すことができたら、今度はきっと、もっとうまくやれるわ。でも、みんなそう言うんでしょうね? 口だけなら何とでも言えるから」

リリーに目を向けると、リリーも悲しそうな顔をしている。

「私も家族と離れて寂しいわ」と彼女が言った。「ここで、あなたたち二人と過ごすのも楽しいけど、やっぱり私もこうしていると、自分の家族が恋しくなります。あっちとこっち、両方でクリスマスを過ごせる方法があればいいのに」

「でも、リリー」とジェムが言った。「あるわよ。ちゃんと、その方法はあるわ」

「どういうことですか?」

「1日は24時間しかないけどね」とジェムは言った。「それは東から西に飛んで移動しなければ、の話よ」

「それはつまり―?」と僕は口を挟む。

「私は、こっちでクリスマスを祝いましょうと言ってるのよ」とジェムが言った。「それから、あっちでも、お祝いしましょう。私たちみんなで!」

「私たちみんなで?」と僕は聞いた。

「そうよ」とジェムがきっぱりと言った。「私たちの家族も、ようやくみんなで一緒にクリスマスを祝う時が来たのよ。私たちの親族は今では少なくなっちゃって、もうあんまり残っていないけど、そろそろみんなで集まってもいい頃なんじゃないかしら」

僕は頭の中を整理して、彼女の言っていることを理解しようとした。リリーも明らかに同じことをしている。

「すぐに答えなくてもいいわ」とジェムは間を空けずに付け加えた。「ヴァージン・アトランティック航空で親友が働いているの。善は急げよ。彼女に連絡して、クリスマス前ギリギリになっちゃったけど、席を取れるか確認してみるわ」

「なるほど」とリリーが言った。

「それはいい考えだね」と僕も同意した。

「みんな考えはまとまった? もしオッケーなら、時間を飛び越えるわよ、リリー。その前に今夜は、私たちと一緒にここに泊まってくれるわね?」

「あ、いけない!―今何時ですか?」

「9時半よ。どうして?」

「ミセス・バジルが待ってるんだった!」

リリーは僕の部屋へ行き、急いで元の洋服に着替えた。真新しいドレスを着ている理由をミセス・バジルに説明するよりも、その方が手っ取り早いと判断したらしい。ジェムがすぐにタクシーを呼んで、リリーに『クリスマスイブのサプライズがあるから、明日の晩もう一度いらっしゃい』と言って、彼女を見送った。

「僕は本当に一緒に行かなくていいの?」と僕は、通りでタクシーに乗り込むリリーに聞いた。「君が彼女の寝酒に付き合ってる間、僕はホテルの君の部屋で待ってることもできるけど」

「いいの。これは私一人でやる必要があるから」とリリーは言った。「つまり、彼女と二人きりでゆっくり話さないといけないから。もちろん、あなたが寄り添っててくれるのはわかってる、精神的にね」

「僕たちはいつも一緒だから」と僕は宣言するように、同時に誓うように言った。

「そうね、いつも一緒」と彼女は言って、僕の頬にさよならのキスをした。

「幸運を祈ってる」というのが、その夜、僕がリリーに発した最後の言葉になった。彼女の乗ったタクシーは、夜のとばりの中に消えていった。



15

リリー


12月23日と12月24日

ダッシュは彼のおばあちゃんが大好きなんでしょうね。あのクリスマスケーキは、私からすると月並みだったけど、彼はすごく美味しそうに頬をほころばせて食べていたから。―少しパサパサしていたのは、焼き時間が3分くらい長すぎたからなのよね。それと、ジェムは粉砂糖をふるいにかけなかったんでしょう、クリームに砂糖の小さな塊が残っていて、なめらかさが十分ではなかったわ。って、ちょっとダメ出ししちゃったけど、実は私もすごく好きな味で、あのケーキを通して、ジェムのことを見直したというか、好きになっちゃった。作った人が込めた心が感じられたというか、彼女の人柄が表れていたから。

公に認めます。私は完全に間違っていました。

私はジェムのことが大好きになった。彼女の家は居心地が良くて、家中に流れていた音楽のコレクションは、どの曲も素晴らしかった。どの部屋のテーブルにも、お皿に入ったキャドバリーのチョコレートが置かれているのも感心したけど、何よりも私が心を打たれたのは、彼女がどれほどダッシュを愛しているか、ということだった。生物学的につながっているから、ではなくて、それは彼女が心から彼を受け入れているからでしょう。

私はさっそく、彼女がどんな犬を飼うべきかを考えていた。彼女とその犬をつなぐ手助けができればいいな、と考えていた。彼女の資質に合った、彼女とペアを組むべき犬は、―そうね、人懐っこくて、警戒心が強く、それでいて陽気で、勇敢な犬種といったところね。*Googleで探してみるから、ちょっと待ってて...* 見っけ! ウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア、通称ウェスティっていう白い小型犬が彼女にぴったりね。きっと生涯を通じて最高の友になるわ。現実にウェスティが見つかり次第、彼女に引き合わせたいな。

私はロンドンも大好きになった。タクシーでジェムの家からホテルに戻る間、私は流れゆく街の様子を眺めていた。ニューヨークのように人々の活気に満ちてはいたけれど、そこに漂っている空気の質は異なっていた。ニューヨークには生々しく、慌ただしいエネルギーが渦巻いているのに対し、ロンドンには威厳のようなたたずまいがあった。訪問客を喜ばせなくては、という焦りがまるでなく、街全体がこう言っているようだった。私はあなたがたがここを訪れるたびに想像以上の驚きを与えてきました。でもそれは意図したものではなく、私は私なりの、―こうあるべきだという振る舞いをしてきた結果に過ぎません。あなたがたが目を潤ませて、私に感銘を受けようと、そうでなかろうと、私にはどうでもいいことです。あなたがたの評価など気にしていません。

この季節になると毎年クリスマスを最優先に考えてきたけれど、私は生まれて初めてクリスマスを後回しにした。もちろん、クリスマスの飾り付けやワクワク感を楽しんではいたけれど、クリスマス自体は二の次で、イギリスでダッシュと過ごす時間を楽しむことが最優先だった。ダッシュがニューヨークに戻ってきて、ずっとニューヨークで一緒に暮らせればいいな、と望む気持ちと同じくらい、ロンドンの魅力や、彼がここで出会った祖母の魅力も痛烈に感じて、それらを否定することはできなかった。彼にしっくりきていたから。

そのため、私はトゥイッケナムの犬の学校に行くという考えを完全には除外できずにいた。もちろん、ニューヨークのFITに応募することは確実なんだけど、ロンドンの道も捨てきれなかった。12月のホリデーシーズンの数日間だけでは、ダッシュと過ごす時間は十分ではなく、物足りなさが残った。欲張りなのはわかっているけど、もっと長く、クリスマス休暇が終わってもずっと続く魔法をかけてもらいたかった。私は今のこの幸福感にひたっていようと心がけた。なるべく、ダッシュと離ればなれになってしまう未来からは目を背けようとした。―けれど、またあの独りぼっちの日々に戻るのかと思うと、憂鬱な影が忍び寄ってくる。海を隔てて、時差もありすぎるニューヨークの私と、オックスフォードのダッシュ。そんな関係性に今さら戻れる自信はなかった。

とはいえ、私はなる早でニューヨークに戻って仕事に復帰しなければならない。飛行機代に貯金を切り崩してしまったし、豪華なホテル代に散財したのは、完全に予定外だった。

ロンドンという街には見るべきものがたくさんあり、するべきことが山ほどあるようだったけれど、帰国便までにすべてを見て回ることは無理そうだった。でもそれでよかった。なぜなら、私はクラリッジズに泊まっているから。車を降りてホテルのロビーに足を踏み入れた瞬間、先ほど頭をよぎった金銭的な後悔は一気に吹き飛んだ。「お帰りなさいませ、リリー様」と言って迎えてくれた親切なスタッフは、私の名前を覚えていたし、ロビーの特設ステージではジャズのカルテットが美しい音色を響かせている。あちこちから快活な会話が華やぐように聞こえ、美味しそうな料理や飲み物の匂いが鼻をくすぐる。これはほんのひとときのファンタジーに過ぎないことはわかっていたけれど、できる限り長く、この中で楽しんでいたかった。こんな贅沢は、もう二度と味わえないだろうから。

「ずいぶん幸せそうな顔をしてるじゃない。私たち家族はあなたのせいで、みんなしょんぼりムードだっていうのに」スイートルームのドアを開けると、ミセス・バジルが私の顔を見るなり、そう言った。私はあえて返事をせずに、彼女が泊っている「スイートルーム」を観察して回ることにした。まあ、なんということでしょう! ブロードウェイ劇場のチケットにたとえるなら、私のシングルルームは最後尾の隅っこの方、鼻血が出た時みたいにずっと顔を上げてないと舞台が見えない席で、ミセス・バジルの、この宮殿のようなスイートルームは、舞台の真上に突き出ているプライベートのボックス席だった。

「こんな部屋が実際にあるんだ?」と私は彼女に聞きながら、くるりと体を一回転させて、ベッドが二つ置かれた寝室から、リビングルームに向き直った。―待って!―グランドピアノがあるじゃない! 私はすたすたと歩み寄って、ピアノの前に座った。「ホテルの部屋を予約するとき、いつもグランドピアノがある部屋にしてるの?」

ミセス・バジルが言った。「本当はね、フランス皇帝ナポレオンの妻、ウジェニー皇后がよく泊まっていた〈ウジェニー・スイート〉に泊まりたかったんだけど、すでに予約済みだったのよ。もうクリスマスも差し迫っていたから、スイートはこのピアノがある部屋しか空いてなかったの。直前のキャンセルが出たんですって」

「これでも、いつもよりランクダウンした部屋ってこと?」

「ランク的には同じくらいね。この部屋も素晴らしいけど、〈ウジェニー〉の内装の方が私の好みには合ってる。ここのインテリアは、私にはちょっとモダンすぎるわ。でもピアノがあってよかった。マークが来たら弾いてもらおうかしらね」

「すっかり忘れてた。そういえば、彼はピアノをやってたわね」まあ、むしろ忘れていてよかったかも。マークがピアノを弾いている姿を思い出して、なんだか悲しい気分になってしまった。おじいちゃんが『憂鬱なピアノ・エレジー』と呼んでいた、マーラーとか、ショパンとか、―そういう悲しげで、眠気を誘うような曲ばかりをマークは弾いていたし、発表会の観客席でそれを聴いている私は、ピアノがなんだかかわいそう。もっとぱっと明るい、エリントンとか、ガーシュウィンとかの方があなたの性格に合ってるわ、と思っていた。それから、それは私は思ったことではなくて、観客席の私の隣に座っていた母が私に耳打ちしてきた発言だったと思い出した。あの頃の私はむすっと、こじれていたんだった。

ミセス・バジルが言った。「このピアノがきっかけとなって、またマークが真剣にピアノと向き合ってくれればいいんだけど。彼がピアノへの興味をぽいっと投げ捨てるみたいに、やめちゃう未来が見えていれば、私は彼のピアノのレッスン料を払わなかったのに...本なんかに興味が移っちゃうとはね」彼女は汚いものでも吐き捨てるように、本なんかに、と言った。

「あなたは本が好きな人だと思ってたけど」

「私は本が好きよ。でもね、ピアノが弾ければ、みんなで共有できるじゃない。特に私が主催するパーティーでね」

私はピアノから離れて、ソファに座った。「今年の、あなたの家の大クリスマスパーティーは、あなたが取りやめたって聞いたわ」

「私は、あなたがクリスマス自体を取りやめたって聞いたわ」と彼女が返した。「だったら、私には他に選択肢がないじゃない」

「参りました」と、痛いところを突かれた私は言った。

ドアベルが鳴った。「きっとアドウィンよ」彼女はドアを向かって声を上げた。「どうぞ、入って!」

「エドウィンって誰?」と私は小声で言った。こんな夜遅くに女性の部屋を訪ねてくるなんて、いったい誰?

玄関ホールでドアが開く音がした。ミセス・バジルが私に耳打ちしてくる。「エドウィンじゃなくて、アドウィンよ。彼はもともとはガーナ出身で、彼の父もアドウィンで、彼の祖父もアドウィンだし、彼の曾祖父の名前もアドウィンよ」

「だから、誰?

その質問にミセス・バジルが答える前に、アドウィンが部屋に入ってきた。彼の姿を見たら、それ以上の説明は必要なくなった。彼は執事の制服を着ていて、銀色のカートを部屋の中に押し入れた。カートには、氷の入ったシャンパンボトル、シャンパングラス、チョコレートがかかったイチゴの盛り合わせが載っている。

彼はミセス・バジルに頭を下げ、礼儀正しく「マダム」と言った。

「ありがとう、アドウィン。あなたもご一緒にいかが?」

「ご親切にありがとうございます、マダム。ただ、わたくしの子供たちがクリスマスプレゼントを期待しているもので、―」

「あら、なら急がないといけないんじゃない? もうすぐお店も閉まっちゃうわ」とミセス・バジルが彼に言った。

「そうですね。他に何か必要なものはございますか?」

「もう大丈夫よ、ありがとう。明日またあなたにお会いできるのを楽しみにしてるわ。さあ、早く行ってあげて。お子さんが待ってるんでしょ。いいプレゼントが買えるといいわね。たしか、『ハリー・ポッター』が若い人たちの間で人気があるって聞いたわ」

「あなたのお子さんは何歳ですか?」と私は彼に聞いた。

「双子で、4歳でございます」とアドウィンが答えた。

「まだハリーは早いわね」と私は言った。それから、私はまるでダッシュが乗り移ったかのように、つまり、誰よりも本を薦めるのが得意である顔をして、「4歳くらいだと、『スーパーヒーロー・パンツマン』がお薦めよ」と付け加えた。

アドウィンはもう一度私たちに向かって頭を下げ、「そのアドバイス、確かに承りました。おやすみなさいませ」と言って、〈グランドピアノ・スイート〉を後にした。

ちょっと、リリー、と私は自分自身に言った。あなたね、自分が今何を言ったかわかってるの? ビシッとかっこいいスーツで決めたガーナ出身のイギリス人執事に向かって、『スーパーヒーロー・パンツマン』とか口走っちゃったのよ。私はお下品なアメリカ人ですって言ってるようなものじゃない!

「ちょっと待って」と私は、声に出してミセス・バジルに言った。「このスイートルームって...執事まで付いてるの?!」

「彼ってチャーミングでしょ? 彼は5ヶ国語を話せるし、トランプの《ピノクル》の名手で、それにね、完璧なマティーニを作れるのよ。彼の夫は幸せ者よね」彼女は、シャンパンとイチゴが載った銀色のカートに歩み寄った。「こういう時は、シャンパンを飲みながらの方がいいと思ってね」

「それって、私の婚約とか、駆け落ち? に乾杯するため?...っていうか、あなたはいったい何を考えてるのよ? そんなことを私とダッシュに勧めるなんて!

「そんなに声を荒げないでちょうだい、お嬢さん。あなたたちを祝福するとか、そんなんじゃないわ。むしろあなたにはがっかりしてるのよ。こういう難しい話をする時は、上質な発泡酒を飲みながらの方がうまくいくの。会話も喉ごしが大事なのよ」

私は息を呑んだ。胸が張り裂けそうにドキドキしている。目の前で彼女が、大晦日のパーティー用みたいな派手に飾り付けられたシャンパンボトルを開けて、私たちそれぞれのグラスに注いでいる。

「どうして私にがっかりしたの?」と私は、とても肩身が狭い思いで尋ねた。私はシャンパンを一口飲んでみる。口の中にさわやかさが広がって、大粒の泡が幸せそうにはじけ、繊細な線香花火がパチパチと火花を散らすように喉を通って落ちていった。そのシュワシュワ感は、これから私の身に降り注ぐはずの小言の大雨の、しっとりとした素敵な降り始めだった。

「大学に行かないと決めて、それをメールで、家族以外の大学教授にまで宣言したそうじゃない。そんな重要な決断をメールなんかで済ませちゃだめでしょ」

「わかってます」と私はつぶやいた。「ごめんなさい」

「それよ。それもがっかりしたことの二つ目ね。あなたは私ではなく、お母さんに謝るべきです。謝る以前の問題として、お母さんからのメールや電話に出なくちゃだめでしょ。そういうのは、よく言えば、ずぼら。悪く言えば、意固地ね。自分でよくわかってるでしょ」

「わかってます」と私は繰り返した。「ごめんなさい」

「私の大好きな姪っ子があなたのせいで落ち込んじゃってるのよ。感心しないわね」

ちょっ、ちょっと待って。「あなたの大好きな姪っ子って、私じゃないの?」

ミセス・バジルはシャンパンを一口飲んでから、言った。「大好きな姪っ子の一人目が、あなたのお母さんだったのよ。ほら、イチゴを食べなさい」

一人で呼び出しをくらってから、𠮟られることは薄々わかっていたので、あんまり食欲はなかった。けれど、イチゴは完璧な赤色を放ちながら、完璧な形でたたずみ、チョコレートは、完璧なアドウィン自身が溶かしながらイチゴの上にかけたようなつややかさで光っていたので、断るのは失礼な気がして、私は一口かじってみた。断らなくてよかったわ! そう心から思うほどの美味しさが口の中に広がった。

「じゃあ、どうすればいいの?」と私は彼女に尋ねた。

「何をすべきかはわかってるでしょ。謝りなさい。自分の行動に責任を持ちなさい。そうしないと、どうなるかわかるでしょ?」私は首を横に振った。「ダッシュが責められるのよ」

「彼は私の決断に何の関係もありません!」

「だったら両親に、ちゃんとそう説明しなさい。話さなきゃわからないでしょ。あなたが素直に気持ちを伝えないから、はっきりしない態度で親と接してるから、彼らだって不安なのよ。そしたら、クリスマスだっていうのに突然ロンドンへ飛び立っちゃうし、バーナードには行かないって一方的にメールを送り付けてくるし、そりゃあなたの両親だって、あなたにとって唯一の優先事項は、ボーイフレンドなんだなって思うでしょ。彼らはあなたが盲目的にダッシュに従うことを望んでいないのよ」

「なんて侮辱的なことを言うの」

「あなたの両親は今、FoxNewsの視聴者みたいな気持ちなのよ。不安をあおられて、恐怖にさいなまれているの。彼らの気持ちもわかってあげなさい。彼らも若くして結婚したのよ。―若すぎたわね。彼らなりにうまくやってはいたけど、いろいろ浮き沈みもありました。まあ、どんなカップルだって浮き沈みはあるでしょうけど。彼らはようやく棚卸しができる年齢になったのよ。今までの後悔を一つ一つ再確認していて、それで、あなたが同じ過ちを繰り返すんじゃないかって恐れているの。こんなに早い年齢から、一人の人に限定してしまうことで、あなた自身を縛っているんじゃないかって心配なのよ。彼らだけじゃなくて、―あなたのおじいちゃんも、私も同じ意見だけどね、―真剣な交際をするには、あなたはまだ若すぎるわ」

昼間と言ってることが真逆じゃない。まさかあの時、彼女はアフタヌーンティーと見せかけて、すでにお酒を飲んでたの?「ダッシュと私に結婚を勧めてきたのはあなたでしょ!」

「ああ、あれはあなたを煙に巻こうとしたのよ。ダッシュに対するあなたの本心をさぐろうとしたの」

「やっぱり! ダッシュの言った通りだわ」

「彼は頭が良すぎて、いつかそれがあだとなって身を滅ぼしそうね。でも、そうよ。彼が言ってた通り。で、どうなの、リリー。ダッシュに対するあなたの本心は? 彼と結婚するつもりなの?」

「そんなことわかるわけないでしょ? 遠ぉーーーい将来そうなるかもしれないけど、それまでに私にはやり遂げたいことがいっぱいあるの。バーナード女子大に行かないという選択は、ダッシュとは一切関係なく、すべて私一人で決めたことよ」

彼女はうなずいた。「それを聞いて安心したわ」

「ダッシュと私がもっと近くに住めたらいいな、とは思うけど、でもそのことを中心にして、私はこの先どうしたいのか、どうしたくないのか、自分の行動を決めてるわけではありません」私はシャンパンをもう一口飲んだ。ぐっと来た! これって飲めば飲むほど気持ちが大胆になっていくわ。「それと、もう一つ! 真剣な交際をするにはまだ若すぎるって、みんな口をそろえたようにそればっかりで、もううんざりだわ。むしろあなたたちは、私を褒めるべきよ。ダッシュのような人を選んだことをたたえるべきよ。あんなに賢くて、あんなに親切で―」

彼女は私の口を止めるように手を横に振った。「やめて。ダッシュに関する常套句(じょうとうく)はもういいわ。彼の良いところなら、みんな知ってます。でもね、あなたはこの家の子なの。あなたが自立して、もっと広い世界へ飛び立っていくのを見たい気持ちはあります。一人で立派にやっていく姿を、家族みんなで温かく見守りたいのはやまやまなんだけど、あなたはそうする準備ができたんでしょうけどね、私たちはまだそこまで心の準備ができてないの」

2年前、もしもダッシュと出会っていなかったら、私の人生はどうなっていただろう、と考えてみた。今と同じくらいやりがいのある生活を送っていたかもしれないし、今よりもっと家族に守られて、安心した日々を送っていたかもしれない...だけど、こんなに甘い人生にはならなかったでしょうね。彼は私の人生にぽっかり空いた穴を埋めてくれただけではなくて、そこからさらに豊かな、実りをくれたのよ。

彼女が私に何を言わせたいのかわからなかったけど、思いのままに私は言った。「私は彼を愛さずにはいられないの。いったいどうしろっていうの?」

「思いやりを持ちなさい。あなたが家族のぬいぐるみになりたくないのはわかっています。もちろん、そうなる必要もありません。私が言いたいのはね、家族から離れて独立するのなら、その分もっと、あなたの両親やおじいちゃんに優しくしてあげなさいってこと。離れるっていうのはね、あなたが想像してる以上に大変なことなのよ」

私はその大変さを想像できた。彼が夢を追ってオックスフォードへ行ってしまった時の、あのたまらなくつらい痛みは、世界を暗転させた。でも、その道を選んだのは正しかったのよね。

「やってみる」と私は言った。

「あなたはおじいちゃんの世話をするという責任から逃れたくて、バーナードには行きたくないって言ってる、彼らはそう思ってるのよ」

ちょっと面喰ってしまった。そんな風に思われていたなんて。なんだかむかむかしてきた。「それとこれとは全く関係ありません。場所が近いからって勝手に関連づけないで。バーナードには行かなくても、おじいちゃんの老人ホームには、もちろん行きます」

「でも、あなたが検討中って言ってたイギリスの学校にしたらどうするの?」

「あそこは1年間のプログラムだから、長く離れるわけじゃないし、できる限り頻繫に帰ってくるつもりよ」

「イギリスに永住するなんてことは、ないんでしょうね?」

「将来のことはわからないけど、ダッシュのためという意味なら、それもありえるかもしれないわ。でも、他によっぽどの理由がなければ、私はそこまではしないと思います。あのドッグスクールが提供している重点研究領域に、〈セラピーアニマルとの付き合い方〉っていうのがあって、私はそのスキルをニューヨークに持ち帰って、おじいちゃんの老人ホームでそれを活かしたいと思ってるの」

「面白いことを考えてるのね」シャンパンを一口すすって、イチゴをひと噛み。「私はまだ認めたわけじゃないけど、あなたは自分がやるべきだと思ったことをやろうとしてるわけね」

「そして、私はいつまでもあなたの大好きな姪っ子のままよ。私がどの道を選ぼうとね」

彼女がグラスを置いた。「もう行っていいわ。自分の部屋に戻って、もう一人の私の大好きな姪っ子に電話しなさい。わだかまりを解消するのよ。クリスマスのキャンセルを撤回しなさい!」


「ごめんなさい」と、私はママに言った。自分の部屋に戻ってきていた。ミセス・バジルの〈グランドピアノ・スイート〉に比べれば、星が一つしか付かない、まがいものの部屋にしか見えないけれど、私はここが気に入っていた。ここは私のものであり、私だけの空間だった。私が自分で稼いだお金で取った部屋だし、この豪華で狭苦しい小屋が私のお気に入りだった。

ビデオ通話の画面は鮮明ではなかったけれど、それでも彼女の疲れきった表情を見て取れるくらい、―彼女は疲弊していた。もう何日も寝ていないような、泣きながら、せっかく作ったクリスマスクッキーを全部一人で食べてしまったような、目を真っ赤に腫らした、腫れぼったい顔をしている。背景にはリビングが見えた。感謝祭の後に私も一緒に飾り付けをしたはずのクリスマス飾りが、すっかり取り外されていた。私は付け加えた。「私の対応がまずかったわ」

「そう思ってくれたのね?」とママは言った。画面越しに、ほんのわずかだけど、彼女の表情がふっとほころんだのが見て取れた。「バーナードに行きたくないのなら、どうして応募したの?」

「この際正直に言うけど、去年はまだ、大学に行くとか行かないとか、全く何も決断できていなかったの。バーナードに応募したのは、どうせ受からないだろうと思ったから。ただそれだけの理由よ」私の学校の成績やテストの点数は、それなりに良かったんだけど、バーナード女子大の合格者の平均点には届いていなかったから、願書を出しても、はじかれるのではないか、というのが私の計算だった。しかしなぜか受け入れられてしまった。誤算が生じた理由は、私の母親が卒業生だからという、いわゆるレガシー制度のゆえか、あるいは、願書と一緒に提出したエッセイを、編集能力の高いダッシュに添削してもらって、完璧に仕上げてもらったからか、どちらかでしょう。

「なぜ、それをもっと早く言わなかったの?」

「あなたをがっかりさせたくなかったから」

「今ごろ打ち明けられたほうがよっぽどがっかりよ。当然入学するものだと期待させておいて、実は入学するつもりはありませんでした、なんて」

「入学するつもりはあったのよ」

ママの顔に若干笑みが浮かんだ。「本当に?」

「なんていうか、理論的には、そうなるわね。あなたが私をどうしてもバーナードに入れたいっていうのはわかってたから、あなたのその野望を叶えてあげたかったし、あなたが通った道を私もたどろうって自分に言い聞かせてた。それに、おじいちゃんにも頻繁に会いに行けるしって。でも、なんだか自分の中でしっくり来なかったのよね」

「それで、あなたは何にしっくり来たの?」

「今はまだ、これっていう答えにはたどり着いていないけど、たぶんそれは、私が望んでいたことで、あなたにどう伝えればいいのかわからなかったことだと思う。私はそれを、自分なりのペースで、自分のやり方で見つけ出せる自由がほしかったのよ」

「そうなのね、わかったわ。もっと早く言ってほしかったというのはあるけど、でもあなたの気持ちがわかってよかったわ」

「驚かないで聞いて。こっちに、イギリスにドッグスクールがあって、そこに行こうかなって考えてるの」

「それは絶対にダメ」

「ママ」と言って、そこで私はひと呼吸、間を空けた。ドラマチックな演出のためではなく、勇気を振り絞ったのだ。「それは私が決めることです。あなたが決めることじゃないわ」

彼女がびっくりして目を見開いた。次の瞬間には、彼女の頬に涙が伝い、彼女が手でそれを拭った。「手厳しいことを言うのね、リリー」

「でも、その決断をする手助けをしてほしいのよ」と私は付け加えた。「家に帰ったら、もっと詳しく話すから。そのドッグスクールに行くことが素晴らしい機会になるかもしれないってあなたもわかってくれると思う」

「ダッシュのそばにいるため?」

「それはただのおまけに過ぎないわ。それが理由じゃない」私は大きく息を吸ってから、言った。「お母さん、私は彼を愛しています。あなたのもとを離れる心の準備もできています。あなたはまだ、子供を手放す準備ができていないみたいだけど、もうそういう時期なのよ。彼はもう私の人生の大部分を占めていて、それだけじゃなくて、彼は私の人生の最高の部分なの」私は去年のクリスマスの時期を思い出していた。私はあの頃、不安定極まりなくて、取り乱していた。ダッシュとの関係を見失っていて、私たちがどこに立っているのかわからなくて、彼が私と同じ気持ちを抱いてくれているのか不安で、疑心暗鬼になっていた。それから1年経って、今は世界がすっかり変わった。見渡す限り視界が開け、関係の中に強固な芯を築けた感じがするし、自分自身の中にも自信が湧いてきて、かつてないほど充実している。ダッシュがくれたんじゃなくて、私がつかんだ自信だった。自分の道を進もうと決めたから(できるだけ多くの犬がいる道をね)。

「気持ちはわかるわ、リリー。パパと私はね、あなたがそんな風にダッシュに心酔する前に、まずはあなただけの力で親離れしてほしいと思っているのよ」

「もう遅いわ。私の心は彼に向かって、もう彼の島に着地しちゃったから、もうどこへも行かないわ」

ゆっくりと、彼女の目から大粒の涙があふれ出した。「わかったわ」とママが、しばしの沈黙のあと、泣きじゃくりながら、涙と一緒にこぼすように言った。

良い知らせを告げるタイミングが来たと思い、私は言った。「FITにも応募しようと思ってるの」

彼女の表情がぱっと明るさを取り戻し、彼女はティッシュで涙を拭い始めた。「FITって、ここニューヨークの? 本気?」

「そうよ。私はデザインに興味があるの。それから起業家としての心構えにも。両方とも私に向いてるかもしれないわね?」

「犬以外のことじゃない! あなたの口から犬以外のことが聞けて、私がどれだけほっとしたか、あなたはわからないでしょうね」実はわかるのよ、と私は思った。リハーサルが功を奏したわ。ありがとう、ダッシュ。

「ところで、私の愛犬はどこ?」ママがカメラを足元に向けると、ボリスがママの足に頭をくっつけて、眠っていた。私は目を疑った。ママがダッシュを私のボーイフレンドとしてどうにか「許容」してくれたとしても、私の巨大な愛犬だけはずっと「毛嫌い」したままだと(ママ自身が肌に合わないのよ、と言っていたし)、思っていた。

「私たちはあなたを待ってるのよ」ママはそう言って、カメラを彼女の、疲れてはいても愛らしい顔に戻した。

「ママ、愛してるわ」

「私もよ、リリー。とにかく、大きな決断をする前に、まずはもっとよく話し合いましょう。それでいいわね?」

「はい。クリスマスのキャンセルは撤回します」と私は言った。

「わかったわ。早く帰ってきてちょうだい!」


翌朝、目覚めた私は、昨日みたいに紫のパジャマを着たダッシュが目の前に立っていればいいのに、と思った。そして、今日はクリスマスイブだと思い出した。それだけではなくて、今日はダッシュにとって、とても重大な日になるはずだった。彼は自分の身を本に囲まれて暮らしていく将来に投じようとしている。今日はそのための最初の大きな一歩となる面接の日だ。相手はたしか、シンジン・ブレーキーとか聞こえたけど、初めて聞く名前の人だった。ともかく、ダッシュの未来への扉が今日開かれるのかと思うと、私もドキドキしてきた。それから、今頃彼は、アドベントカレンダーの最後の扉も開けて、私が彼に贈ったプレゼントを見てくれたかしら、と想像した。ダッシュは本に囲まれたがっているでしょ? だから、そういうプレゼントにしたの。

最後のプレゼントはUSBメモリーだった。中にはたくさんの写真が入っている。10月下旬に兄と日帰りでハドソン渓谷に紅葉狩りに行った時の写真で、紅や黄色に色づいた紅葉の写真も入っているけど、それがメインではなかった。私たちはニューヨークの北部、ヒルズデールにある〈ロジャース・ブック・バーン〉という素晴らしい本屋に行った。そこは田舎の古い家を改築したもので、どの部屋の中も、そして庭に置かれた書棚も、本、本、本、本、本で溢れていた。そんな中でラングストンが私の写真を撮ってくれた。金色、黄色、赤の葉っぱに覆われた木の下で、ダッシュのお気に入りの本を腕いっぱいに抱えている私や、〈ブックバーン〉のあちこちにある読書スペースで本を片手にポーズを決める私の写真が収まっている。

私は目を開けた。あいにく今朝は、紫のパジャマを着て窓辺に立っているダッシュの姿は見当たらない。幸いにも昨日撮った写真がスマホの中にあったので、昨日のダッシュのパジャマ姿を見て気分を紛らすことにした。それを眺めてほくそ笑んでいたら、ちょうどダッシュからメールが届いた。

今、君からの最後のアドベントプレゼントを開けたところだよ。すっごーーーーーくたくさんの本だね。

そのあとに彼は感激の言葉や感謝の言葉を打ってくると思い、待った。

何もない。

それで? と、しびれを切らした私は打ってみた。

僕はパニック発作を起こしたみたいなんだ、と彼が答えた。



16

ダッシュ


12月24日

クリスマスイブは朝からドタバタしていた。「何を着て行けばいいのかわからないよー!」と、僕はジェムの家中に響き渡る大声を上げた。

こんなことは、普段の僕だったらそうそう口にするセリフではない。僕にとって衣服というものは、それ相応の体の部分、たとえばズボンだったら足、上着だったら上半身を覆ってさえいれば、特段どれだろうとお構いなしだった。

しかし、面接となると? 相手はセント・ジョン・ブレークモア...通称SJBとして知られ...ニューヨークで最も力のある文芸編集者の一人であり...(なぜか)ジェムの友人の「ブレーキー」でもある人との面接ともなると?

ジェムが僕の部屋に入ってきた。

「あらまあ、あなたのお父さんにそっくりだわ!」と彼女が僕を見て声を上げた。

僕が思わず一歩後ずさると、僕のがっかりした気持ちが伝わったようで、彼女はすぐに訂正した。「高校生の時のお父さんにって意味よ。今みたいな...あんな風になる前の若かりしお父さん」

高校生の父と言われても、なかなかその姿を思い浮かべることは難しかった。彼は今まで一度たりとも、かつて自分は若かった、という片りんを示すことはなかったから。

一方、ジェムは今まで積み重ねてきた年輪のようなものを幾重(いくえ)にも身にまとっていた。若かりし頃の彼女も、今の彼女からうっすらと見て取れた。

「ていうか、何を着ればいいの?」と僕は彼女に聞いた。

ジェムが微笑んだ。「あなたが似合うと思うものなら何でもいいわよ。あまり堅苦しくならない方がいいわね。あなたらしさを心がけて。ブレーキーが見たいのはそこなのよ。これだけは覚えておいて。この面接は洋服ではなく、言葉で決まるのよ。あなたの発言」

ジェムが予め見繕って中央にかけておいてくれた、しゃれた洋服をわきにどけて、僕はいつものお気に入りのセーターの中から適当に一つを手に取った。

僕はありのままの自分で勝負しようと決めた。それで失敗してもいいや、と思った。他の誰かが望むような自分を演出して、こういう感じが望まれているんだろうな、と取り繕っても、そんな偽(いつわ)りの自分に価値などないから。


人生が変わる時というのは、まさにその変わり目に立っているさなかには、その大きな変化に気づかないことがほとんどなんだ。僕は両親が離婚する前、最後に家族三人で出かけた時のことを覚えていない。それが最後になるなんて思いもしなかったから。ストランド書店の棚でキラリと目に留まった赤いノートを見つけた時には、それがリリーにつながるとは思わなかったし、ポストに入っていた〈オックスフォード〉と胸に記(しる)されたトレーナーが、僕の学業面での大いなる勘違いにつながるなんて、その時は想像もできなかった。

でも、たまに、ごくたまにだけど、未来との約束を感じる瞬間がある。運命は、見えない風であることをやめ、行く先を示す飛行経路の形をとる。

ブレークモアのタウンハウスの玄関前に立っている時が、僕にとってその瞬間だった。玄関横についている電子的なドアベルを鳴らすか、それとも、玄関扉の中央についている昔ながらの金属製ドアノッカーを使うか決める時、未来へ通じる飛行経路が見えた気がしたのだ。

僕はドアノッカーをつかんで、ドアを叩いた。

木製の扉の向こうから聞こえてきた足音は、僕の鼓動よりもずっとゆっくりしたものだった。だんだんと足音が近づき、そして扉が開いた。僕は対面した顔を見て...

イアン卿(きょう)?

「おお」彼も同様に、僕を見て驚いている様子だった。「君じゃないか!」それから彼は僕に向かって、親しみのこもった笑顔を見せた。「なるほどね。ある意味では完璧に筋が通ってる。SJBおじさんがクリスマスを中断してまで会いたいなんて、そんな男は、君くらいしかいないよな?」

彼は僕を家の中に招き入れ、コートを預かるよ、と手を差し出してきた。彼にコートを手渡しながら、僕は聞いた。「君は彼のことをSJBおじさんって呼んでるの?」

「そうとも、サリンジャーくん」とイアン卿は答えた。「だがな、そう呼んでるのは俺だけだ。君が彼をそう呼ぶのはお勧めしない」

恐ろしいことに、発作が再び始まってしまった。頭蓋骨の壁が四方からぎゅっと脳を押しつけてくる。思考がめまいを起こし、異常をきたしたかのように、言葉が出てこなくなりそうだった。

イアン卿が僕の肩にそっと手を乗せた。

「ほら、深呼吸するんだ」と彼は言った。

僕はうなずき、深く息を吸い込む。

イアン卿は続けた。「いいか、SJBおじさんなんて呼ぶんじゃないぞ...ただ、気持ちはSJBおじさんだと思いながら話すんだ。どうせ君はおじさんを、王室に編集者として仕える騎士のような威厳ある存在だとイメージしてるんだろ。全然そんなことなくてな、彼はこの家のお風呂場の湯船の横に、アヒルのおもちゃを置いてるんだ。それから彼はチョコレートアレルギーにもかかわらず、すぐにチョコレートを食べちゃうんだよ。彼は現代を代表する偉大な作家たちを世に送り出してきたけど、同時に、現代を代表することになったはずの偉大な作家たちを世に送り出しそこねてもきたんだ。彼は初恋の人を失った。いまだに未練があるみたいだな。彼女はある動物学者と恋に落ち、彼のもとを去ったんだ。彼は毎朝、朝食にヨーグルトを食べる。自分にご褒美をあげたい朝には、ヨーグルトにベリー類を入れることもある」

「どうしてそんな話を僕に?」

「彼は人間だということを思い出させるためだよ。それから、君が動物学の話を持ち出さないようにするため」

「ありがとう」

「オックスフォードの脱走仲間が、進みたい業界に入ろうっていうんだから、助言でも何でもするさ。さあ、こっち。―彼は応接間にいると思うよ」

廊下を数歩ほど進んだ先に、玄関と同じくらい古そうな木製の扉があった。

「さあ、どうぞ」とイアン卿が言って、華麗に扉を開ける。

僕はもう一度深く息を吸い込んだ。

この扉の向こうに未来があるんだ。

僕は中に足を踏み入れた。一瞬、イアン卿もついてくるのかと思ったけれど、彼は「幸運を祈る」と言うと、僕にウインクし、扉から手を放すことなく、僕の背中で豪快に扉を閉めてしまった。戸惑う僕の目の前には、白髪(しらが)が大半を占めた黒髪の男がいた。彼は肘掛け椅子から立ち上がると、僕に向かって、歯を見せてにっこりとほほ笑んだ。

「おお、ようこそ!」ニューヨークで最も名高い文芸編集者が、きついロンドン訛りで声高らかに言った。「君が伝説のアメリカ人のお孫さんか!」

そして、すっかりうろたえてしまった僕は、つい「SJBおじさん!」と返してしまった。

恥ずかしさでカッと顔が熱くなり、プールに飛び込みたい気分だったけれど、彼は笑って僕の手を握りしめた。

「私は彼女をジェマと呼んでいてな、私たちは親戚以上に親密な関係なんだ。ロンドンで一緒に暮らしていた時期もあるからな。『私たちは人生を入れ替えちゃったのね』って彼女もたまにジョークを言うよ。私がマンハッタンに行き、逆に彼女はロンドンで名を馳せることになったんだからな。まあ、座ってくれ」

彼は肘掛け椅子の向かいにある横長のソファを指差した。僕は最大限の優雅さでソファに腰を下ろそうとしたのだが、ソファが予想に反して柔らかく、僕は慌てふためきながら沈み込むように背もたれに背中をつけた。もっとさりげなく背もたれに身を落ち着けたかったのに。

SJBは、肘掛け椅子の肘掛けに腕を乗せると、すぐに面接を開始した。「さて、ここからが本題だが」と彼は言った。「ジェマは今の君がどんな状況にいるのか説明してくれた。私も君の状況には同情している。君がオックスフォードで、うちの甥っ子とどの程度親しかったのかは知らんが、最近うちの家族にも同じような問題が襲い掛かってきたよ。あいつは勝手気ままなやつだからな。それでも私は終始変わらず弁護する側なんだ。追求する検察側ではなくね。私は自分の身だって弁護する。もし聞かれれば、私はいつだって同じことを言うさ。私はこの国を追われ、致し方なく海を渡ったんだ、とね。―実際は、脱獄同然に逃げ出したんだけどな。当時のこの国の女王になんら恨みはないが、彼女と私は決して相容れなかった、ということだな。そこでだ、まず言っておくが、私は女王とか、そういう後ろ盾(だて)に気を遣うのが好きじゃないんだ。君でいうと、ジェマのことだ。君はジェマの推薦でここまで、入口までは来た。ただ、だからといって扉は自動で開くわけじゃないんだよ。彼女には数えきれないくらいの恩義がある。しかし、私はこの道のプロでね、プロとしての信念をねじ曲げるほどの恩義は、誰にも負っていない。それはわかるか?」

僕はうなずいた。

「よし。じゃあ教えてくれ。―君はなぜここにいる?」

僕は自分の心臓が早鐘(はやがね)を打つのを感じた。彼の耳にも届きそうなくらい、大きな鼓動だったが、彼は平然と僕を見つめている。それはとてもシンプルな質問だった。それなのに、シンプルな答えはどこにも見当たらなかった。

心の中心から話そう、そう決めた。

「僕は本が好きなんです」と僕は言った。

ここで黙るわけにはいかない。こんなんじゃ全然足りない。

「昔からずっと本が好きだったんです」僕は続けた。「そしてこれからも、本を愛し続けることになると全身全霊で感じています。そして僕は今、非常に恵まれた環境にいて、自分が何を愛しているのかを自分自身に問いかけることができています。自分が愛しているものとともに歩む未来を作れるかどうかを自分に問うことができる稀有(けう)な特権を与えられているのです。オックスフォードに入ったとき、僕がやりたかったことは、本を研究し、蝶の採集家のように、それぞれのページを掲示板にピンで貼り付け、それぞれの羽の模様を分析することだと思っていました。しかし僕は、―それは違うと気づいたんです。その場にぴったりハマる言葉を見つけた瞬間の快感は、それはそれは格別ですが、ただ一方で、僕の将来は作家になることではないな、とも感じています。クリエイターでも科学者でもありません。あえて言うなら、僕は羊飼いになりたいんです。本のことを十二分に心得ていて、作家の頭の中から出てきたままの状態よりもさらに良くしようと、無数の言葉を統率し、全体として魅力溢れる一冊の本に仕上げる手助けができる、羊飼いのような存在になりたいんです。なぜなら、僕が『本を愛しているんです』と言うとき、『僕は本の読者です』と宣言しているのと同じだからです。博識の文学者ぶった態度は、この際すべてボイルして水蒸気にしてしまいます。そうして僕の中に残るのは、面白がりながらページをめくる読者の姿だけです。時にはページに書かれていることに、うんうんと頷きながら啓発され、言葉がページ上でできることの無限の可能性に、ただただ放心状態になることもあります。それが、僕がここにいる理由です。なぜなら、僕は今まで一度たりとも、同じ気持ちを抱いている人と出会ったことがなかったからです。そして今、あなたが私の向かい側に座っています。率直に言って、恐ろしい気持ちでいっぱいです」

SJBは椅子の背もたれにぐっと寄りかかると、恐ろしく長い時間、僕をじっと見つめ続けた。あるいは、それはほんの1、2秒だったのかもしれないけど。

ついに彼の口が動いた。「最近君が読んだ本の中で、これはみんなが読むべきだ、と思った本について聞かせてくれ。考えすぎないで。―最初に頭に浮かんだ考えこそ、最高の考えだ」

「デボラ・ワイルズの『ケント州』という本があるんですけど、―もうお読みになりましたか?」

彼は首を横に振った。

「でも、ケント州立大学の事件のことはご存知ですよね?」

「ベトナム戦争反対集会のさなか、州兵が学生に向かって発砲し、4人のアメリカ人学生が殺された事件だったか、あれは1970年だったかな? 」

「その通りです。半年ほど前、僕が高校を卒業する時に、国語のキャメロン・ライアン先生が薦めてくれた本です。卒業後、オックスフォードで新たな生活が始まる秋までの長い夏休みに『これくらいは読んでおきなさい』って、ずらっと本の題名が並んだ紙を彼女が僕に手渡してくれて、そのリストの一番上に書かれていたのが、『ケント州』でした。この本はフィクションではなく、かといってノンフィクションでもなく、―さまざまな立場の人が、それぞれの視点から当時の事件を物語っています。その時何が起きたのかを多角的に知れるようになっている本です。あなたもおっしゃったように、事件の概要は有名ですから、4人の学生が亡くなることは最初からわかっています。しかし、結末がわかっているにもかかわらず、読み進めるにつれて、そうならないでほしい、と心から願うようになるんです。でもそうなることは目に見えてるから、ますます絶望感でいっぱいになります。なぜなら、この4人の学生は、大人のせいで、アメリカに根強く残る敵対心と不義のせいで死んだのだと気づくからです。彼らは今の僕とほぼ同じ年齢でした。ですよね? その場にいた学生の中にはキャンパスを歩いて教室に向かっていた人もいました。そんな中へ、自分たちの軍隊が、学生を守るべき任務にあるはずの州兵が、発砲したのです。もう壊滅的ですよね。そして、州兵の中には、学生たちと同年代の若者たちもいました。この本を読めば、彼らも、みんな追い詰められていたことがわかるでしょう。読者として、彼らと一緒にそこに閉じ込められてしまう。そんな経験ができるのは、素晴らしい本の証しですよね? 読者をその中へぐっと引きずり込んで、何か重要なことを身をもって感じさせるのです。自分自身について、社会について、理想的にはその両方について、体感として考えさせるのです。僕もこれを読んでたくさん考えました。特に彼らが僕と同年代だったということの意味を考えました。そして、僕のこの年齢で時間が止まってしまうことについて考えました。それがいかに間違っているか。本当にこの本は読んでみるべきです」

「読んでみるよ」とSJBは言った。「初日にその本を持ってきてくれ」

「初日?」

「インターンの初日だよ。私に付いてもらう」

「待ってください。―これで面接はすべて終了ですか?」

SJBが再び微笑んだ。「ああ、これですべてだ。編集職の面接では、この二つの質問だけをすればことは足りる。オフィスで面接するときは、人事部の連中も横にいる手前、他の質問もいくつかして体裁(ていさい)を整えるが、結局のところ、自分がここにいる理由を正しく認識し、それを的確に伝えられるかどうか、そして、自分と本をつなぐ方法を知っていて、そのつながりを他の誰かに広げる方法を知っているか、―私が知りたいのはそれだけだ」

「なるほど」と僕は言った。「というか、ありがとうございます。どうもありがとうございました」

「それで、君はクリスマス休暇が終わったらニューヨークに帰るのか? 私は1月の第1週は、まるまる1週間ニューヨークにいる。じゃあ、その週の金曜日に私を訪ねて来れるか? その時に、勤務曜日などを決めようじゃないか」

僕はそれについて考える必要性を感じなかった。

「それで全く問題ありません」と僕は言った。

なぜなら、彼は質問として尋ねているようでありながら、僕には答えを突き付けられていると感じたからだ。僕はニューヨークに帰ろうと本気で思った。ニューヨークで、インターンとして彼のもとで働き始めようと思っていた。フルタイムではなさそうだし、給料は、少しはもらえるかもしれないけど、大した額ではないだろう。でも、必要であれば他の仕事も掛け持ちするつもりだった。また母との生活に戻ろう。そして、オックスフォードを中退して、―コロンビア大学か、ニューヨークの僕を受け入れてくれる大学に編入しよう。

またリリーと同じ街で暮らすんだ。リリーと二人で一緒に生活していくんだ。二人で一つの人生を築くための最初のステップになる。

それは正しい道だと思った。すべてが正しく感じられた。

それから、SJBと僕はさらに話をした。―彼は僕にジェムのことや、僕のロンドンでの暮らしぶりについて聞き、僕は彼に今携わっている仕事のことや、彼の家族はクリスマスイブをどう過ごす予定なのかを聞いた。仕事は得られた(っぽい? よね?)とはいえ、それでも僕は好印象を与えようと必死に喋った。頭がフル回転しすぎて、そのうちに、エンストを起こしたかのように減速したプロペラは空回りを始め、埃(ほこり)のような、どこにも着地しない言葉をまき散らすだけになってしまった。

ようやく、SJBが肘掛け椅子から立ち上がって、「私はクリスマスギフトの包装を終わらせなきゃならん」と言った。その発言は僕にとって、まさしくギフトだった。神経を張り詰めすぎて、うまくキャッチできなくなっていた彼の言葉からかろうじて、ギフトという単語だけが僕の頭に舞い降りてきた。

そういえば、どういうわけか、僕はまだ誰にもクリスマスギフトを買っていなかった。

SJBにうながされて、僕も廊下に出た。応接間の扉が開く音を聞きつけたようで、すぐにイアン卿が、僕のコートを持って出て来た。SJBが、詳しくはジェムにメールしておく、と言った。「私のアシスタントの連絡先もメールに書いておく。彼女がすべての段取りを整えてくれる」そう言うと、彼はもう一度僕の手を握りしめてから、2階に上がっていった。

イアン卿が片方の眉をつり上げた。「こりゃ驚いたな、サリンジャーくん」と彼は言った。「やったみたいじゃないか」

「やったよ」と僕は、自分でも信じられない、という気持ちを隠そうともせずに言った。「本当に手に入れたんだと思う」

「俺の場合、ヘンリー王子とメーガン夫人みたいなものだな。彼を通してインターンシップを手に入れようと思ったら、正式にこの家族と縁を切らなければならない...こんなに素晴らしい俺がそいつを手に入れられないのは、だからさ」

「で、君はどうするの?」と僕は聞いた。「オックスフォードには戻らないみたいだけど」

「まあ、俺の目の前に死神でも現れて、強引に腕を引っ張られない限り、俺がオックスフォードに戻ることはないだろうな。代替案としては、ロンドンの地理や歴史を勉強する。―ロンドンでタクシードライバーになるためには、専門のテストがあって、この街のすべてを知り尽くしているかを試されるんだ。べつにタクシードライバーになりたいわけじゃないけど、テストには合格したって言いたいじゃないか。あるいは、他の大学に編入して、もっと学ぶっていう選択肢も考えてる。とりあえずそれまでの間は、フォイルズ書店の情けにすがって、書店員として働かせてもらうよ。あそこは親切というか、慈悲深いというか、こんな俺を受け入れてくれたんだ。これで俺も、一応は出版業界に身を置いてるって言えるかもしれないな。親族のコネは使ってないぜ」

「あのさ」と僕は彼に言った。「親族に本を宝物のように扱う人がいるっていうのは貴重だから、もっと感謝した方がいいよ。僕の母は基本的には本好きなんだけど、なにせ忙しくてね、本を読む時間がないんだ。僕の父は、本のタイトルにという言葉が入っている場合のみ、それこそを見つけたみたいにさっと手を伸ばして、その本を棚から引き抜くんだ」

「そいつは考えただけでぞっとするな」

「父は僕を気味悪がって、僕は父を気味悪がってる...素晴らしい関係だよ」

「信じられないかもしれないが、俺の父親も似たり寄ったりなんだ。でも、なぜか父以外の家族がその穴埋めをするみたいに、本好きなんだよな」

「穴埋めか」と僕は、ジェムを思い浮かべながら言った。「うちの家族も、そういうところあるよ」

イアン卿が僕のコートを差し出してきた。「君をさっさと追い払おうってわけじゃない」と彼は言った。「もう少しここにいたいのなら、エッグノッグでも飲むか? すぐに俺が美味しいのを入れてやる」

「遠慮しとくよ」と僕は答えた。「もう行かなくちゃ。お店が閉まる前に、いくつかプレゼントを買わなきゃだから」

イアン卿が腕時計を見て、「今日はどこも早い時間で閉まっちゃうだろ?」と言った。

僕は肩をすくめた。「まあね、今日はイブだし」

イアン卿は、来年どこかのタイミングで時間を作って、必ずニューヨークを訪れるから、俺たちの道が再び交差することを願ってる、と言った。僕もそう願ってる、と返した。

「ありがとう」と僕は言った。「面接の前に廊下で深呼吸をするように言ってくれて。それから、この間の夜のことも」

「自分以外の誰かにとって、必要とされてるタイミングで、最適な相手になれることは、俺たちができる最高の奉仕さ」と言うと、イアン卿はお辞儀をした。「さあ、プレゼントを買いに行け」

路上に戻ってすぐに、僕はスマホをチェックした。プレゼントを買う時間は、2、3時間しか残されていなかった。リリーの。ジェムの。それからママのも。ママはまだ知らないけど、クリスマス中に帰れそうだから。ミセス・バジルのも買おう。僕はそれぞれのプレゼントがみんなにとって、特別なものになることを願った。とっても特別なものになってほしい。単にクリスマスを記念するものじゃなくて、次の章へのスタート記念だ。オックスフォードの章は、あっけなく終わっちゃったな。

でも、次の章は?

始まる前から、もっとずっと長くなりそうな予感に満ちていた。








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〈タイムテーブル〉

12月21日


12月22日


12月23日(クラリッジズ・ホテル→劇場→クラリッジズの談話室→地下鉄→ジェムの家→クラリッジズ・ホテル)

朝起きて、極上のコーヒーを飲んで、ジャム付きの焼き菓子を食べて...


午前中、何があったのか知りたい!!

藍はうぶだから、書いてくれなきゃわかんない!笑

明らかに、この空白時間以降、(藍の頭の中の)リリーの表情がほがらかになった♡♡爆笑


昼過ぎ、演劇を観て、

3時半~、ミセス・バジルとアフタヌーンティー

地下道でカーリー似の歌手の歌を聴いて、

ジェムの家で...


ホテルへ戻るタクシーの中で、リリーがロンドンという街から受けた印象は、「べつにあなたがたの評価など気にしていません」だった。

これは藍が愛読している『嫌われる勇気』にも通じるものがあって、藍の到達したい(いまだに到達できていない)境地でもある。「あの人に悪口を言われたらどうしよう」「みんなに悪く思われたらどうしよう」ではなく、そもそも気にしない。(そんな思考にしばられて生きるのって窮屈だよね。by『嫌われる勇気』)






藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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