『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて』5

『Mind the Gap, Dash and Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年11月12日~2021年04月20日)



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リリー


12月24日

今、私は欲しいものをすべて手に入れた気分だった。目の前にどっと大量のクリスマスプレゼントが降ってきたみたい。

ダッシュが面接に行っている間、私はトゥイッケナム郊外にあるレスキューセンターに出向き、今、ドッグランの真ん中に立っている。犬たちは男の子も女の子も、みんなとってもいい子たちで、青空の下、気持ちよさそうに口を開け、白い息を吐きながら走り回っている。思う存分走った後は、彼らは犬舎に戻り、きっと将来暮らすことになる温かい家庭を夢見て眠るのだろう。彼らはすべてミックス犬ではあったが、それぞれの特徴を観察してみると、スタッフィーの血が強い犬が2匹、ビーグル色が強い犬が1匹、テリア系が4匹、シャー・ペイが1匹、それから、お目当てのウエスト・ハイランド・ホワイト・テリアが1匹。この白い小型犬がジェムに合うんじゃないかと思って、私は会いに来たのよ。そして、黒のウィペットとラブラドールのミックス犬が1匹いた。この犬が私に近寄ってきた。

「彼女はあなたを気に入ったみたいね」とジェーン・ダグラスが私に言った。―すらっと背が高くて、神々しいほどに可愛い、黒の短毛犬だった。首からお腹の上部にかけて太くて白いストライプが入っている。彼女は私の足元にまとわりつきながら、くりっとした茶色の瞳をうるうるさせて、私を見上げてくる。

ていうか、どの犬もみんな私のことが好きなのよ」と言いたいところだったけれど、石のように無表情な顔をして立っているジェーン・ダグラスは、アメリカ人がおふざけで自画自賛しても笑ってくれない気がしたから、やめておいた。ただ、他の犬たちはフリスビーや鳥を猛烈に追いかけたり、犬同士で追いかけっこをしている中で、このウィペドール(ウィペットとラブラドールのミックス犬)だけが、私の足首に体を押し付けて甘えてくる。「彼女の名前は?」と私は聞いてみた。

「アスタよ。彼女はもう1年以上ここにいるけど、まだもらい手がつかないの。彼女は良い子なんだけど、ひどくシャイでね。『私のことを好きになって』っていうアピールをしないから、他の犬にどんどん先を越されちゃうのよ」

「何歳ですか?」

「8歳くらいだと思う。彼女はとても賢くて、穏やかで、他の犬とも仲良くできるけど、仲間との友好を深めようとするタイプじゃないわね。他のペットがいない家庭が一番合ってるでしょうね。この子は少し心配性だから、辛抱強くこの子と向き合ってくれる人、できれば仕事で長時間家を空けない人がいいわね。彼女は一冊の本と飼い主がそばにいてくれるだけでいいのよ。―誰かいないかしらね。あなた、思い当たる人がいる?」

「私のボーイフレンドのおばあちゃん。彼女はロンドンに住んでいて、その条件をすべて満たしています。―それに、彼女は本も好きよ、彼女の孫みたいに」ジェムがアスタの飼い主にぴったりだと思った。冬の寒さに凍えそうな私の足首の骨が、この犬の温かな心を感じ取り、そう思った。

私は微笑んだけど、ジェーン・ダグラスの表情は厳しいままだった。「まさかとは思うけど、クリスマスプレゼントとして犬を贈ろうなんて考えていなかったでしょうね」

「それはないわ!」私はそんなことを考えていたかもしれないと思われただけで、不愉快だった。ペットが新しい家庭環境に適応するためには、時間と愛情、それからたっぷりと気をかけてあげながら、慣らしていく必要があるのよ。クリスマスは、あれやこれやと最も気が散る日だから、じっくりとした関係を築くには、1年で最悪の日だった。「アスタの動画を撮って、ジェムに、―あ、ボーイフレンドの祖母の名前ですけど、―休み明けにでもアスタに会いに来てもらうように話してみます。その時まで、アスタはまだここにいると思いますか?」

「きっと大丈夫よ。それで、どうなの? リリー。次の学期からPCFIに入るかどうか、もう決めた? あなたの席に座りたくて仕方ない他の候補者たちが、私からの連絡を手ぐすね引いて待ってるのよ。あなたが席を譲るというのなら、すぐに埋まってしまうでしょうね。決断の期限は、あと2週間といったところね。そういう人気の業界なのよ、わかるでしょ?」

わかってはいた。PCFIが提供してくれる種類の教育を受けたいとは思った。だけど、家族には、ボーイフレンドありきで進路を決めるわけじゃない、みたいなことを言っちゃったけど、実際のところ、ダッシュがイギリスにいないのなら、私はPCFIには入らないだろうな、と思っていた。それに、こうしてドッグランではしゃぎ回る犬たちを見ていると、ニューヨークで私を待ってくれているたくさんの犬たちのことが愛しく思え、彼らと離ればなれになることを考えるとつらかった。それと同時に、大西洋を越えて、大好きなイギリスで1年間、「犬に関するあれこれ」に没頭するという考えも、わくわくするようで捨てがたかった。

「どうすればうまくいくのか考えています」と私は言った。どうすれば家族に勘当されることなくこっちに来れるのか、と考えていた。「私は犬の手芸品を作る仕事もしてるんです。こっちに来るとなると、こっちのやり方に慣れるまで大変かもしれません。―材料の調達、作品を作る場所の確保、イギリスの出荷ルールとかも覚えて、どうやって続けていくかを考えなければなりません」

「問題は解決よ」とジェーン・ダグラスが言った。「PCFIでの1年間は、そんなことをしている時間はないでしょうね。フルタイムで参加してもらいますから。私の家で勉強するか、それ以外の時間はこのレスキューセンターでたくさんの犬の世話をすることになります。実は今、さらに多くのボランティアを募集しているんですよ。来週ここで、〈犬のサポーター世界教育会議〉が開かれますから、その準備に総力を挙げなくてはなりません。あなたも協力してくれるわね?」

でも...

「今日はクリスマスイブですよ」と私は彼女に思い出させた。

「わかってます。今日と明日、多くのボランティアが休むことになっててね、みんな口をそろえたように『クリスマス、クリスマス』って。普段は自分たちをドッグピープルと呼んで、犬好きを公言しているくせに。くだらない」

クリスマスイブでもボランティアを休まなかったドッグピープルの一人が近寄ってきて、ジェーン・ダグラスに声をかけた。「中であなたを呼んでいます」と彼が彼女に言った。「ケータリングを何にするか決めてほしいそうです」

「犬用の? それとも人間の?」と彼女が尋ねた。

「人間のです」

「まったくもう」と彼女はふてくされながら、施設の中に戻っていった。

「彼女って魅力的な人ですよね?」と、彼女の背中を見送りながら、そのボランティアが言った。ヒップスターというか、ミュージシャンっぽい身なりの、あごひげを生やした二十歳を過ぎたくらいの男性だった。そこで彼の視線が止まり、私をじっと見つめながら言った。「君はリリー、ドッグウォーカーのロックスターじゃないか!」

「私はリリーですよ」と私は肯定した。「犬は大好きですけど、ロックスターじゃないわ」

「君に感謝しなくちゃいけないんだった。―ほんとにありがとう」と彼は言うと、握手を求めて手を差し出してきた。「僕はアルバート。PCFIを卒業したばかりなんだ」

私は彼の手を握った。「卒業おめでとう。でも私に感謝する必要はないわ。それはあなたが頑張ったからでしょ」

彼が笑った。「まあ、それはそうだね。去年は死に物狂いで頑張ったから。いや、そうじゃなくて、君の紹介で仕事が決まったから、感謝してるんだよ」

「は? 何がどうなったらそうなるの?」私は犬の扱いには長けていた。ただ、私は魔法使いでも何でもないから、シノフィリスト(愛犬家のことをかっこよく指す言葉)に、知らず知らずのうちに仕事を与えるなんて魔法は使えない。というか、シノフィリストって言葉はダッシュが好きそうだと思って、胸がドキッとときめいた。

アルバートが言った。「君が『私たちそれぞれのテムズ川』の撮影現場で、あの犬の訓練士にぴったりの人がいるって紹介してくれたんだろ?」

「デイジー?」

「そう、デイジーだよ! 君が映画のプロデューサーにジェーン・ダグラスの電話番号を教えて、その流れで僕が指名されたんだ。まあ、ジェーンの紹介だけど、元はと言えば、君の紹介で仕事が決まったようなもの。おかげで、今年はクリスマスを祝えるお金も入ったし!」ひょっとしたら、ちょっとだけ、私って魔法使いなのかもしれない? なんて、アメリカ人らしく自画自賛しちゃったけど、めぐりめぐって人を笑顔にするなんて、そうそうできることじゃないでしょ? すると、彼の顔から笑顔が消えた。「でも、僕はひとりだから、クリスマスもここで働くけどね」

私は言った。「あなたが稼いだお金は、クリスマスが終わってから使えばいいじゃない。時間ならたくさんあるわ。商品だって店頭から消えることはないでしょうし」

「これで来月の家賃が払える。十分なクリスマスプレゼントになったよ」そこで、彼は私の足元にまとわりつくアスタに気づいた。「君は友達ができたみたいだね。しかも、ここの犬の中で一番気を許さない子がなつくなんて」

「休み明けにボーイフレンドのおばあちゃんに、彼女を引き取ってくれるか説得してみるつもり」

「じゃあそれまでに、アスタが立派なセラピー犬になるように頑張ってみるよ」アルバートはしゃがみ込むと、アスタのお腹をさすった。「おまえはリリーの追っ掛けなのか?」と彼がアスタに聞いた。そうだったのか! そういえば、ジェムもロックバンドの元追っ掛けだったらしいから、アスタとジェムはやっぱり気が合いそうね。

私もアスタにもっと気を配ろうと、地面にしゃがみ込んだ。彼女の頭を撫でながら、アルバートに聞いてみる。「それで、PCFIはどうだった? 私は行こうかどうか迷ってるんだ」

「ここ以上のプログラムや先生は、世界中どこを探しても見つからないよ」とアルバートは言った。「ただ、覚悟しておいた方がいいね。ジェーン・ダグラスは犬のことを第一に考えて生活してるし、学生にもそういう生活を期待する。彼女にはパートナーはいないし、子供は何人かいるらしいけど、今はもう疎遠(そえん)みたいだ。彼女の関心はすべてイヌ科の家族に向けられている。彼女は24時間、きっと寝ている間も、犬のことを考え、犬とともに呼吸してるんだ」

私の両親の心配が客観的にわかった気がした。私の犬への愛情が行き過ぎているのではないか、と彼らが心配している理由がようやくわかった。ダッシュも言っていたけど、彼らは私に、犬以外にも、もっと多くのことを生活に取り入れてほしいと望んでいるのね。

ジェムがダッシュに、やりたいことを聞いたときのことを思い出した。―彼の心の底から湧き出る望みを。私も私自身の心に同じことを聞いてみた。答えはすぐに返ってきた。はっきりとした明瞭な声だった。

そうよ、私は犬と一緒に仕事がしたい。―だけど、家族や、恋人や、他の関心事を排除したりはしない。たとえば、デザインとか、ビジネスを大きくしていくことにも、私は興味があるから。

ダッシュがどこへ行くことを選ぼうと、私は、今はニューヨークにいるべきなんだ。家族のそばにいて、息苦しくなるほどの愛情に包まれていたいと思った。それから、私の輝かしい愛犬のボリスや、ちゃんと責任を持って散歩に連れ出さなきゃいけない、私を慕ってくれる犬たちの元へ帰りたかった。そして、そこで自分のビジネスを成長させたかった。そのためには学校でいろいろと学ぶ必要があるけれど、そのためにマンハッタンを離れる必要はないわ。

教室がジェーン・ダグラスの自宅のリビングルームだと知った瞬間から、そんなことはわかっていたのかもしれない。でも今、はっきりとわかった。PCFIは私の居場所ではない。

私は家に帰る心の準備ができていた。私の未来はニューヨークにあるのよ。


そして、ダッシュの未来も一緒!

ダッシュ、ジェム、私の3人は、一日早いけど、ジェムの家でクリスマスを祝った。そうすれば、飛行機でクリスマスの早朝にはニューヨークに戻れるから。ジェムがイギリスの伝統的なクリスマスディナーを用意してくれた。ダイニングルームにはキャンドルが灯(とも)され、ヒイラギの枝が飾られていた。ジェムがスマホのプレイリストを手元で操作すると、連動したスピーカーから、スティーヴィー・ワンダーの『想い出のクリスマス』が流れだした。

ジェムはグラスを掲げて、乾杯の音頭を取った。「ダッシュの出版業界での未来に!」と彼女が言った。

「そして、リリーの、犬の起業家としての未来に!」とダッシュが言った。

「それから、アスタの最も偉大な飼い主としての、ジェムの未来に!」と私が言った。

私たちは「乾杯!」とグラスを鳴らした。すると、ジェムが私の方を向いて言った。「私はイエスとは言ってないわよ、リリーちゃん」

「もう一度アスタの動画を見ましょうか? ボールを投げると、彼女はちゃんと取ってきてくれるんですよ」と私は提案してみた。ジェムは、ロンドンでのダッシュとの付き合いにすっかり慣れてしまったみたいだから、ダッシュがニューヨークに帰るとなれば、彼女は彼が恋しくなるでしょう。その寂しさを癒してくれるのが、アスタなのよ。私も、ダッシュがイギリスに行っちゃってからというもの、ボリスが心の穴を埋めてくれたんだから。

「考えてみるわ」とジェムが言った。私の経験からすると、その反応はイエスを意味していた。ノーの人は、最初から聞く耳を持たない感じで拒絶するものなのだ。考えてみるわ、という答え方は、その考えに慣れるために少し時間が必要ということで、ほとんどの場合、そこからイエスの方向へ傾いてくれる。私の予想では、1ヶ月もすると、アスタがこの家の暖炉のそばの犬用のベッドで寝そべり、その間に(「間」はwhileより、イギリス式にwhilstと言った方がいいかしらね)―その間にジェムは、彼女の壁の棚を埋め尽くす膨大な数のレコードのコレクションを、アスタの反応がいい順に並べ替えている様子が目に浮かぶようだった。この音楽の良さがわかるのね、なんていい子なの、アスタちゃん!って。

「さあ食べよう」とダッシュが言った。

「イギリス式のクリスマスはね、食事の前にバンガーズよ」とジェムが言った。彼女は目の前のお皿の上に置かれた、クリスマスプレゼントみたいに包装された筒(つつ)を持ち上げた。真ん中にリボンが結ばれ、両端をねじってある。「あなたたちも手に持って。イギリスではバンガーズって言うんだけど、これはクリスマスクラッカーよ。右手でクラッカーを持って、左手は隣の人の腕と交差させて、隣の人が持ってるクラッカーのひもを持つの」

私たちは三人で腕を絡め、輪を作ると、「せーの!」で引っ張った。パンッ!と、三つのチューブが同時に破裂し、中に入っていたいくつかのギフトがディナーテーブルの上に飛び出した。―小さなカードが紙吹雪と一緒に目の前に落ちた。それから、折りたたまれたティッシュペーパーも入っていた。

ジェムが一枚のカードに手を伸ばした。「ひどいジョークの時間よ!」彼女はそのカードを読み上げる。「海賊がグレートなのはなぜでしょう?」ダッシュと私は肩をすくめるしかない。ジェムが自分で答えた。「彼らはいつも、グルーグルゥーグレー(ト)って喉(のど)を鳴らしてるでしょ!」

「たしかに、海賊は巻き舌で歌うようにうなってるね」と、ダッシュが言った。

「お見事!」と、私は合の手を入れて拍手した。

「海賊といえば、ジョニー・デップにクリスマスカードを送ろうかなって思ってるの」とジェムが言いだした。「彼と一週間ほど、彼のヨットの上で一緒に過ごしたことがあるのよ。彼がお金持ちだった頃、まだヨットを所有していた頃の話ね。べつにこの話はしゃべったっていいのよ。彼の回想録を書いた時、秘密保持契約書にサインはしたけど、それから彼の身辺が騒がしくなっちゃって、回想録なんて出版してる場合じゃなくなっちゃったから、私が書いた回想録はお蔵入りよ。契約書も一緒にね」

「ジェムがそう言うのなら、そういうことにしておくよ」とダッシュが言った。それから彼は私の方を向いた。「君のカードにはなんて書いてある?」

私はクリスマスクラッカーから飛び出したカードに手を伸ばした。「海はサンタに何と言った? 何も言わなかった! ただ手を振っていただけよ。waveには「波」と「手を振る」の二つの意味があるから!」

ダッシュがやれやれといった感じで、両手を広げて首を横に振った。

ジェムが「ダッシュのカードは?」と聞く。

彼がカードを手に取って、読み上げた。「サンタの小さなお手伝いさんを何と呼ぶでしょう? これは文法用語の従属節(サンタに従うクローズ)だね!」そう答えると、彼はため息をついた。私にはその答えはわからなかったから、「すごい!」と今度は本気で拍手した。

「さて、お次は『ザ・クラウン』よ」とジェムが言った。

「それは無理です!」と私は言った。「ここで一緒に『ザ・クラウン』を観たいのはやまやまなんですが、実は食事の後、私の叔母に会いに行く約束をしていまして」

「Netflixの『ザ・クラウン』じゃないわ」とジェムは言うと、バンガーズから飛び出てきた、折りたたまれたティッシュペーパーをつかんだ。それを一つずつ私とダッシュに手渡す。それから、まずは自分でお手本を示すように、彼女はティッシュペーパーを広げて、頭の上に乗せた。それは王冠のような形をしていた。「クリスマスのディナー中、こうして紙の王冠をかぶるのが、イギリスの伝統なのよ」

ダッシュが言った。「この国は威風堂々とした荘厳(そうごん)さを誇っていると思いきや、クリスマスにはバンガーズとかいう筒から飛び出したカードで、しょうもないジョークを言い合ったり、薄っぺらいティッシュペーパーで作った王冠をかぶったりして、なんだか威厳(いげん)のかけらもないね」

私は紙の王冠を頭に乗せた。「おやっさん、あたいは気に入ったぜ」と、『メリーポピンズ』で見たロンドンの下町、そこで労働者のみなさんが使っていた言葉をあえて使った。

するとダッシュも私に続いて、ピンクの王冠をかぶった。もし今、彼が紫のシルクのパジャマを着ていたら、私の目にもっとハンサムに映っていたことでしょう。

テーブルの上の食事に目を向けると、私の胃袋が歓喜の声を上げたように、グルルルルと鳴った。ジェムがベジタリアンの私に気遣って、お肉を使わずに、レンズ豆のローストを作ってくれたみたい。そのローストビーンズの周りには、イギリスらしく健康的な料理がずらっと並んでいた。ニンジン、エンドウ豆、ローストポテト、パースニップという芋料理、芽キャベツの和え物、それから、ブレッドソースと呼ばれる濃厚でクリーミーなポタージュ。すべての料理をこのポタージュにつけて食べるのね。

「まず最初にお祈りしますか?」と私は尋ねた。

「お祈り?」とジェムが、怪訝(けげん)そうな表情で言った。

「食事に言葉の花を添えるだけだよ」とダッシュが言った。

ジェムは笑った。「リリー、あなたが花を添えたい?」

もちろん。私は言った。「私はこの場にいられることがどれほど幸せか、あなたとダッシュがお互いに慈(いつく)しみ合っている中、私も食事をともにできることの幸せを嚙みしめます。アーメン」

「とても素敵な言葉ね」とジェムが言った。「ありがとう。私も同じ気持ちよ」

優雅に花を添えられた気分で、私はこう付け加えた。「最近の私は、なんだか気もそぞろだったというか、そういう基本的な幸せにも気づけずに、人生の大きな決断をすることばかりに気を取られて、実は、クリスマスプレゼントを買うのを忘れてしまいました」

私としたことが、どうしちゃったのかしら。「クリスマスの女王」を自任していたくせに、クリスマスの核となるものがすっかり抜け落ちていた。ぽんこつすぎて、あきれちゃう。

ジェムが言った。「月並みな言葉になっちゃうけど、本心からこう思っているのよ。あなたたち二人が今、私の目の前にいてくれることが、私にとって何よりも嬉しいプレゼントです」

ダッシュは愛に満ちた眼差しで私を見つめ、私の手を握った。「リリー、僕も心からこう思うよ。君は忘れずに、僕にプレゼントを用意するべきだったね」私は思わず彼の手を離してしまった。そこで彼はふっと笑い、それから再び真剣な表情になった。「君がこっちに来てくれた時、僕は自分を見失っていたんだ。君にそばにいてほしいのかどうか、自分でもわからなかった。会いたくなかったわけじゃなくて、―ずっと会いたくて仕方なかったけど、―夢破れたというか、大志を抱いて海を渡ったのに、こてんぱんに打ちのめされてしまった僕を、君に見られたくなかったんだと思う。でも、君はとにかく会いに来てくれた。僕はそんな君が大好きだ。君を愛してる。君は自分のやりたいことを見つけ出し、自信を持ってその達成に向かって突き進む。僕もそうできるように、君が身をもってお手本になってくれている。そんな君が、僕にとって最高のプレゼントだよ。君は優美だ」

ジェムが目の端からこぼれた小さな涙を手でぬぐった。「正直言うとね、ダッシュ。あなたがどこでそんなに健全で、幸福な関係のむすび方を学んだのか、実はさっぱりわからないのよ。あなたの家族にはお手本が一人もいなかったでしょ」

「本だよ」と彼は言った。

私もちょっとうるうるきて、涙がこぼれそうになったけれど、笑顔を努(つと)めてダッシュに聞いた。「実際のところ、あなたは私に何をプレゼントしてくれるの?」

ダッシュが珍しくパッと明るい表情になって、私に微笑みかける。私をメロメロにする彼の笑顔に、もう芯までとろけそう。「もうちょっと待って。もうすぐわかるよ」

ジェムが料理をお皿に取って、それを私たちに手渡しながら、言った。「プレゼントといえば...せっかくイギリスにいるんだから、ホテルに帰る時、クリスマスの靴下とお菓子を持って行きなさい。イギリスではね、靴下は暖炉のそばじゃなくて、ベッドの枕元に置いておくのよ。サンタクロースへのお返しとして、ミンス・パイも一緒にね」

ミンス・パイと言われても、異国の食べ物をイメージするのは難しかった。なんだかマウス(ネズミ)をミンチに切り刻んだみたいな響きで、思わず顔をしかめそうになる。食べる気がしなくて、逆に、まるまる太ったサンタさんにあげれば、新年からダイエットを始めるきっかけになるかもね。

ダッシュが言った。「なるほど。アメリカのサンタは子供部屋まで入らず、暖炉にそっとプレゼントを置いていくけど、イギリスのサンタはベッドの枕元まで入っていくのか、なんかストーカーっぽくない? どうりでイギリス人は、お返しにサンタにクッキーをあげないわけだ。変態サンタにクッキーをもらう資格なし」

もしも私が子供の頃、クリスマスイブにサンタさんが私の部屋まで来て、枕元に置いた靴下にプレゼントを入れてくれる、なんて知らされていたら、私は彼を待ちわびていつまでも眠れなかったでしょうね。サンタさんに話したいことがたくさんあったから。

Tiny tots with their eyes all aglow(お目目をパチクリさせたちびっ子たちは)

Will find it hard to sleep tonight.(きっと今夜はなかなか眠れそうもない。)

ちょうどその歌が流れていた。ジェムのプレイリストは、次の曲が『The Christmas Song』だったのだ。この曲はいろんな人が歌っていて、このシンガーの声にはどことなく馴染みがあったけれど、いつどこでこのバージョンを聞いたのかは思い出せなかった。ダッシュは熱心に耳を傾けている様子で、言った。「これって...バーブラ・ストライサンド?」

「正解」とジェムが言った。「彼女のクリスマス・アルバムはね、全歌手の中で最も売れたクリスマス・アルバムの一つに数えられるくらい、指折りの名盤なのよ」

「でも、彼女はユダヤ人でしょ」とダッシュが言った。

ジェムは言った。「そうね。『ホワイト・クリスマス』を作曲したアーヴィング・バーリンもそうだし、サックス奏者のケニー・Gだってそうよ。彼のクリスマス・アルバムは、エルヴィスに次ぐ売り上げを記録したのよ」

ダッシュが言った。「まさかケニー・Gが、プレイリストの次の曲だとか言わないでほしいな」

私は言った。「だったら、エルヴィスがいいわ!」

それから、私たちは料理を食べることに専念した。ジェムはパン作りよりも、料理の方が得意なことがわかった。「おいしいです」と私はジェムに言いながら、ローストビーンズをもぐもぐと頬張った。これに、Tescoブランドの菜食主義者向けのブレッド・ソースをかけて食べみたら、さらに美味しくなった。このソースは動物性のグレービーソースだけど、動物が苦しむような製法はとっていないはずよ。そのソースをローストポテトにもかけてみたら、これが相性抜群だったので、明日の夜、ニューヨークでのクリスマスディナーでは、〈ラトケス〉にもかけてみよう、と思い立った。ちなみに〈ラトケス〉というのは、ローストポテトに似たユダヤ民族の伝統料理よ。ラングストンはボーイフレンドの実家に行ってるし、ミセス・バジルの家で行う恒例のクリスマスパーティーは中止になったので、今年はユダヤ系のクリスマスにしましょう、とママからメッセージが来ていたのだ。ダッシュがジェムを連れて、彼の家族に会いに行っている間、私は家族と中華料理を食べに行って、その後、映画館で『サイボーグ・サンタ』を見るつもりだった。ママは、映画の中で人工知能が、資本家と男性に権力が集中している社会を破壊してくれるのを見るのが楽しみだと言っていた。そして家に帰ったら、〈ラトケス〉にビーガン・ソースをつけて食べるのよ。ああ、今から待ちきれないわ。クリスマスの新たな定番になるかしらね?

そうだ! さっき聞いたユダヤ人アーティストたちのクリスマス・アルバムをオンラインで購入して、みんなにプレゼントするっていう手もあるわ! これならクリスマス・プレゼントを買いに走らなくて済む! サンキュー、バーブ!(あ、バーブっていうのはバーブラ・ストライサンドの愛称よ。)

思い返してみると、私は毎年クリスマスイブを、たまらないほどの興奮と期待で胸がはち切れんばかりになりながら過ごしていた。ジェムの家のお祝いは、なんだかとても...大人っぽいものだった。礼儀正しくて、節度をわきまえていて、優雅で洗練されていた。私の子供時代のクリスマスイブとは正反対だった。どっちが良いとか、悪いとかではなく、―違うものだった。そして私はこの和(なご)やかな雰囲気が気に入った。私たちは、本や音楽、ダッシュの出版業界での将来、犬とともに歩む私の将来、それからジェムが近い将来、本を読みながら、アスタと一緒に聴くことになる音楽について話した。

食事が終わってテーブルを片付けた後、ジェムが発表するように言った。「さて、クリスマスサプライズの時間ね」私は、サンタクロース(イギリス式にファーザー・クリスマスと言った方がいいかしら?)が、どこかから突入してくるかも、と半分期待して身構えた。今夜は私たちの眠りを邪魔したくないから、プレゼント用の靴下は枕元ではなく、やっぱり暖炉のそばに置いてほしいと懇願(こんがん)されるのではないか、と。そこでジェムはドラマチックに、もったいつけるように間を空けた。その間、私の頭の中では甘い砂糖菓子のような幻想が、プリマが舞台で舞うようにふわっと広がっていった。ジェムが誇らしげに口を開く。「さあ、デザートを食べましょう!」

ダッシュが言った。「ちょっとジェム、こんなダメ出しみたいなことは言いたくないけどさ、食後にデザートを食べるのは、全然サプライズじゃないよ」

「このデザートはサプライズなのよ」とジェムが言った。「火だって使うんだから」

彼女はキッチンに行き、ドーム型のフルーツケーキらしきものが乗った銀色のプレートを持って戻ってきた。ケーキの上にはヒイラギの小枝が飾られている。「誰か電気を消して」と彼女が言う。

ダッシュが椅子から立ち上がって、電気を消す。キャンドルの灯(あか)りのみが空間を照らし、私たちを包む雰囲気がより一層安らか(cozy)になった。(あ、イギリス式は cosy だったわね!)ジェムがケーキのプレートをテーブルに置いて、言った。「これはイギリス人がクリスマスプディングと呼んでるものよ。フルーツケーキといっても、アメリカの、あのまずいフルーツケーキとは全然違うわ。クリスマスプディングはね、クリスマスの何ヶ月も前から、フルーツをアルコールに漬け込んでおくの。そしてクリスマスディナーで、これに直接火をつけて、目の前で焼いて食べるのよ」

彼女はシルバーに光るスプーンを手に取ると、そこにブランデーを注いだ。もう片方の手で、ライターをつかむ。

ダッシュが言った。「味が悪くなくて、フルーツにひたったアルコールで酔わせてくれるのなら、それは確かにサプライズだね」

ジェムが言った。「いいえ、サプライズが成功するかどうかのカギは、家を燃やさないようにすることなのよ。前にこれをやったときはね、あなたのお父さんが10歳くらいのときだったんだけど、私は最初にヒイラギの小枝を取り除くのを忘れちゃって、ケーキと一緒に小枝も燃やしちゃったの。そしたら、小枝から炎が飛び火して、彼が着ていた一張羅のネクタイに燃え移っちゃったのよ。彼はあのネクタイをつけて食べるって聞かなくてね、結果、そんなことになってしまったの。彼自身は無事で、すぐに火は消えたからよかったものの、彼の眉毛が焼けて縮れちゃったのよ。彼は今でも、あの時の私の失態を根に持ってるんじゃないかしらね」彼女は大きく息を吸った。「さあ、やるわよ。今度こそ成功してみせるわ」

ダッシュが機転を利かせて、ヒイラギの小枝をケーキの上からさっと取り除いた。ジェムはまたしても、ヒイラギの小枝ごと燃やそうとしていたのだ。

彼女はスプーンの中のアルコールに火をつけた。彼女の瞳にゆらめく炎が映る。恐怖と歓喜が入り混じったようなに彼女の表情を見て、私は彼女の勇気を賞賛した。彼女はケーキに火をつけようとしている。そして同時に、クリスマスで自分の息子にした失敗を取り戻そうとしているのだ。明日、彼女は孫のダッシュを連れて、久方ぶりに息子に会いに行く。いったん切れた縁(えん)を結び直すのは、ケーキに火をつけるよりも勇気が要ることでしょう。

スプーンの上で小さな炎が燃えている。ジェムがその炎を、アルコール漬けのケーキの上に注ぐように、かけた。ボワッと炎が大きくなり、見事に、青みがかった黄色に燃え盛った。しばらくパチパチと燃え上がる炎を見つめていたら、私の脳裏で夕食前の興奮が蘇ってきた。炎が消えると、ケーキはいい感じに茶色く焼き上がっていた。さっきはミンス・パイという名前から変な想像をしちゃったけど、イギリスの〈ベイクド・フルーツケーキ〉は、想像以上に食欲をそそるものだった。

「リベンジ成功だね」とダッシュが誇らしげに祖母に言った。

「やったわ」と彼女はつぶやいた。


「私たちの今の衣装、とっても素敵よね」と私はダッシュの耳元でささやいた。私たちはジェムが〈リバティ〉からもらった、もしかしたら買ってきてくれた、エレガントな洋服を着ていた。ダッシュは格好いいスーツとネクタイでキメていた。私は赤のミニドレスを着ていた。フリルとスパンコールがあしらわれたハイネックのドレスで、腕の袖は長く、そして小悪魔っぽく、丈がすごく短いプリーツスカートが特徴的だった。

ダッシュが私を抱き寄せて、言った。「そんなふしだらなドレスを着てたら、サンタクロースが、けしからん!って鼻息荒く憤慨(ふんがい)するよ。そのミニスカートはなんだ!って。と、とてもそそるじゃないか!って」

「でも、こういうの好き? サンタさんはこういうのが好きなのかな?」

ダッシュは私の頬にキスすることで、それに答えた。「好きに決まってるよ。でも、クロース夫人には内緒だよ。つまり、サンタクロースの奥さん? っていうか、イギリスではサンタの奥さんは誰なんだろう?」

私は笑った。「まったくもう。あなたもすっかりクリスマス好きになったのね」

「まあね。君がクリスマス好きに戻るなら、僕も大好きさ」

私たちはミセス・バジルの〈グランドピアノ・スイート〉のバルコニーに出て、二人きりだった。部屋の中ではミセス・バジルが、派手なクリスマスパーティーを打ち上げていた。ガラス越しにガヤガヤと、陽気な話し声が聞こえてくる。彼女がロンドンに、これほど多くの友人がいることには驚かなかったけれど、クリスマスの直前になってからパーティーに招待して、こんなに多くの人たちのイブの予定が空いていたことには、目を見開いた。ミセス・バジルの人望かしら? 少なくとも20人以上の人たちが、飲んだり食べたり笑ったりして、イブの夜を楽しんでいる。これこそ私の大好きな、みんなが賑(にぎ)やかに浮かれ騒ぐクリスマスだ。マークがピアノでクリスマスの讃美歌を次々と演奏し、ジュリア(マークの妻)、ミセス・バジル(私の大叔母)、ジェム(ダッシュの祖母)が彼の伴奏に合わせて歌っている。部屋の片隅では、アズラ・カトゥンと、イアン卿とダッシュが呼んでいた男の子が、二人だけの世界に入り込んだみたいに話し込んでいる。ピアノの横には、誰も手にすることのなかった〈ドーントブックス・愛書家チャレンジ〉の優勝カップが置かれていた。マークは、〈グランドピアノ・スイート〉の新たな装飾品として、クラリッジズ・ホテルがこの優勝カップを受け取ってくれないかな、と言っていた。

ダッシュが私を後ろから抱きしめ、私たちはクラリッジズからのぞむロンドンの夜景を眺めている。友達がいて、親戚がいて、昔からの、そして新たに知り合った人たちが、ここにいる。絶対にまた、ロンドンに戻って来よう。私はそう誓った。

数時間後には、飛行機に乗ってニューヨークに帰る。ダッシュも地元に戻って、彼が慣れ親しんだ地に足をつけて、新たな旅を始めることになる。私の旅も、始まる。

「メリークリスマス」と私はダッシュに言った。

「ハッピークリンボー」と彼は英国式に返した。

こんな彼と一緒になれて、私はラッキーだ。

背中から彼に包まれながら、私は愛を感じていた。



18

ダッシュ


12月25日

ロンドンのメイフェア街を歩いていると、それが目に留まった。面接を終えた僕は、急ぎ足でクリスマスプレゼントを探していた。どの店の窓もキラキラしたクリスマス飾りに彩(いろど)られていて、いい加減うっとうしいなと思っていたところに、シンプルな窓枠が現れたので、ぽっかり空いたその空間に、目が癒(いや)しを求めるように向いたのかもしれない。僕は立ち止まり...しばらくそれを眺めていた。

それはガラスの鳩だった。僕の手のひらに乗るくらいのサイズで、翼を大きく広げ、自分の行くべき場所が定まったように、まっすぐに飛んでいる。思わず僕は店内に入ると、それを見せてください、と言っていた。それはまさしく、僕が探し求めていたものだった。―美しいほどに堂々としていて、美しいほどに不完全で、一瞬にして凍り付いてしまったようだけど、明らかにこの鳥は飛んでいる最中なのだ。―手のひらに乗せてみると、結構な重さはあったが、翼は今にも折れてしまいそうなほど薄く、全体的に繊細にできていた。それでも大切に扱い続ける限り、割れることはないだろう。

普段の僕なら手が出せないほどの高値が付いていたけれど、迷わずそれを購入した。


時計の針が午前0時を回り、12月25日の到来を告げた時、僕はその鳥を彼女に手渡した。僕らにとっては、30時間のクリスマスの始まりだ。

僕らはサンタを待つまでもなく、自分たち専用のソリに乗り込んだ。ロンドンの中心街、高級ホテルのベッドの形をしたソリだ。このソリはトナカイたちが持ってきてくれたものだが、あとは自分たちでご自由にどうぞ、と言って、トナカイは飛び立っていった。彼らもクリスマスは自由に楽しみたいのだろう。ミセス・バジルの部屋でみんなと宴(うたげ)を楽しんだあと、僕らはリリーの部屋で二人きりになった。彼女は紫のシルクのパジャマの上着を着ている。彼女にはサイズがちょっと大きいようだ。そのパジャマのズボンは僕が穿いている。二人合わさると、パジャマも僕らも、一つになる。

僕はそのプレゼントをソリの上に乗せた。彼女はまるでコートを脱がすようにそっと、その包みをはがしていった。彼女が箱を開けた時、それは彼女が期待していたものではなかったようで、彼女は一瞬目を見開いたけれど...それはまさしく、僕と同様に、彼女も潜在的に望んでいたものだった。ホテルの部屋の柔らかな青い光の中で、彼女の手のひらに乗った鳥は、あたかも宙に浮いているかのように、透明な彫刻が青い空気と同化して見えた。

「私はこの鳥を、彼女をすごく気に入ったわ」とリリーが言った。

「僕もだよ」と僕は言った。

僕はここぞとばかりに、エラ・フィッツジェラルドが歌う『Have Yourself a Merry Little Christmas(ささやかなクリスマスでいいじゃない)』を選曲し、彼女の華やかな歌声を部屋中に響かせた。僕らはソリの上でお互いを抱きしめ合った。繊細で勇敢な鳥が、僕らのそばに寄り添ってくれている。僕らはここにいる。薄暗い部屋の中、二人の心臓の音がして、息づかいが聞こえる。ガラスの翼が寄り添い、愛に包まれ、音楽が流れている。これ以上望むものは何もない。そこは世界中で最高の場所だった。そして、それらがある限り、二人でどこへ行っても、そこが最高の場所になるだろう。自然と言葉が舞い降りてくるように、そう思った。もうすぐこのソリを降りて、飛行機に乗り換える。その前に、魔法のソリに乗っているうちに、この気持ちを声に出して伝えておこう。

「すごくワクワクしてるんだ」と僕はリリーに言った。「この先の未来に、すごく、すごくワクワクしてるんだ」

「私もよ」と彼女が答えた。

そして、その瞬間、一切の恐れが吹き飛んだ。迷いも消えた。絶え間なく聞こえ続けていた不安をあおる、あの声さえも消えてくれた。あるのは、一体感だけだった。ワクワクするような興奮だけがあった。愛だけがあった。

「未来が待ってるわ」とリリーが言った。「素晴らしい未来がね」

僕もその確信に満ちていた。







〔訳者あとがき〕(2021年4月20日)


2020年12月に発表された〈世界都市ランキング〉によると、←ランキングにする必要ある?笑



東京が3位で、ニューヨークが2位で、ロンドンが1位みたいです!



そして、藍の面接が始まった。←どういうこと?笑


「まずですね、『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて』は、ロンドンという都市の観光ガイドであると同時に、イギリス文学の外観が知れる文学案内にもなっているんですよ。その二つが境目なく溶け合っていて、たとえば、ハムステッド・ヒースですけど、あの夏目漱石もですね、ロンドンに留学中に精神を若干病んだ時なんかに、ハムステッド・ヒースの森を訪れていたと言いますから、それから20年後くらいに『吾輩は猫である』とか『坊っちゃん』とかの名作を書くわけですけど、その土壌はハムステッド・ヒースにあったんじゃないかっていうくらい、文学的な場所なんですよ。それはまあ言い過ぎかもしれませんが、そんな場所でイアン卿(きょう)に出会うわけですけど、あれはドラキュラ伯爵(はくしゃく)の化身なわけですね、イアン伯爵と訳してもよかったんですけど、藍の中ではイアン卿の方がしっくり来たので、イアン卿と訳しました。とにかくですね、説話的と言いますか、こういう土壌ではこういうストーリーが生み出されるというのを、現代的なスマホとかを交えながら書いているわけです。シャーロック・ホームズを生んだ地でもありますから、ミステリー仕掛けの伏線回収劇の要素もはらんでいて、次に何が起きるんだろう、というハラハラドキドキ感も満載でしたね。いや~、ストーリーの先の展開がなかなか予測しづらかったです。もちろん、いい意味でですけど、謎解きゲームがずっと続くのかと思っていましたから。(笑)それで、ダッシュが編集者の面接に受かったのはですね、彼の発言がものを言ったんです。藍は至近距離で聞いていましたけど、感動的ですらありましたね。アメリカ文学の主要どころはちゃんと読んできましたよ、ということを、たとえば、フィッツジェラルドとかですね、そういうのをスピーチの中にさり気なく盛り込んだんですよ。とっさの判断でしょうね、はい、今のぼくみたいに、準備なく瞬時に書いている、というかダッシュは喋っていたんだと思います。そんな頭の回転のよさに、なんとかさんっていう有名編集者はほろっときたんでしょう。もう何十年も編集者をやっているみたいでしたから、最近では感受性も薄まってきていて、小説でも泣けなくなっていたところ、不意に涙腺を突かれた感じじゃないでしょうか。藍もですね、気づけば40代半ばになってしまいまして、もうパッと明るい未来なんてこの先開けていないかな...としょんぼりしちゃうことも多いですけど、こういう光(と、ちょっとしたエッチ)に満ち溢れた小説を訳しますと、生命力をもらった感じで若返りますね。素晴らしい未来が藍にも待っているんじゃないかと、錯覚しかけます。(笑)どなたか、慈悲深いお方、藍に翻訳の仕事をください。」⇒hinataaienglish@gmail.com






藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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