『1日でめぐる僕らの人生』3

『Our Life in a Day』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2020年09月07日~)



パート 2


チャプター 6


午後3時~4時

やっと1マイル(1年)、まだまだ先は長そうだ

2008年6月 ― ウィスタブル近郊、ケント


「トム」と、エズミーが助手席から彼に耳打ちするように言った。「やめて。ほら、みんな私たちを見てるじゃない」周りを取り巻く車からの視線に、トムの注意を向けさせようとする。

それでもトムはもう一度クラクションを鳴らし、頭を窓の外に出すと、見えないとはわかっていても、高速道路の前方で何が起きているのか突き止めようとした。諦めて首を引っ込め、運転席に身をうずめると、再びブルーベリーの芳香剤の臭いにむせ返りそうになった。この日のために借りた車〈ボクスホール・コルサ〉は、ドアを開けて運転席に入った瞬間、吐き気がするような臭いがした。そして今、1時間以上もその中に閉じ込められたまま、渋滞が始まってから10メートルも進んでいない。

「まったく災難もいいところだよ」と彼は言った。「この分だと、高速を降りて、着いたらすぐにまた引き返して、家路につかなければならない」

「2、3時間は取れるわよ」

「まあ、それくらいなら。だけど、予定では丸一日楽しむつもりだったんだろ? ランチ、ビーチ、ディナー。夕方までに着くかな? 潮が引くのを見られれば、御の字ってところだな」

「満ちるのよ」

「何?」

「満ちるの。潮が引くんじゃなくて、夜になると潮は満ちるの。あなたは海辺の町で育ったんじゃないの?」

トムは何も言わずに、カーラジオをつけ、交通情報に周波数を合わせた。エズミーはなんだか物珍しそうに、周りをキョロキョロ見ている。こんな状況なのに、はしゃいでいるということは、渋滞に巻き込まれるのは初めてなんだろうな、と思った。よくイライラせずにいられるな、と。付き合い始めて1年の記念日は、海に行こう、ということになって、ウィスタブルの海岸へ通じているはずのM2高速に乗ったはいいけど、このざまだ。

「やっぱキャンピングカーかよ」とトムは声を上げた。ラジオによると、フォルクスワーゲンのキャンピングカーがエンストを起こし、2車線の真ん中で立ち往生しているという。ここから3マイルほど先の〈ボートン・アンダー・ブリーン〉という町の近くで、エンジンが煙を噴き、周囲にオイルをまき散らしているらしい。

「仕方ないでしょ。彼らだってわざとじゃないんだから」

「消防車が4台だってよ」

「こういうことだって起こるのよ。少なくとも、けが人はいないみたいじゃない」

「どうせ調子こいてる若者たちだろうな、車の点検くらい、しとけっての」と彼はぶつくさつぶやいた。「あいつらは他人のことなんてどうでもいいんだ」

「トム」

「それにしても、〈ボートン・アンダー・ブリーン〉ってどんな場所なんだ? 誰が町に〈ボートン・アンダー・ブリーン〉なんてクソみたいな名前をつけたんだよ?」

「トム、私は真面目な話をしてるのよ。そんな汚い言葉ばっかり吐いてるのなら、ほら、あそこに行って、お父さんたちに混ざって来なさいよ」と彼女は言って、窓の外を指さした。ボルボのボンネットの周りに数人の中年男性が集まっている。それぞれの家族を乗せたステーションワゴンから脱出し、この状況を嘆き合っている様子だ。「彼らが持ってるスポーツ新聞でも借りられるかもしれないわ。高速道路(express way)で、〈デイリー・エクスプレス(express)〉を読むのも、おつじゃない?」

「おい!」

「そんなに声を荒げないでよ。リスナー参加型のラジオ番組でわめいてる素人みたいね」

また閉口させられてしまったわけだが、まあ言われてみれば、エズミーの言う通りだな、と思った。トムは座席にゆったりともたれ、晴れた土曜日にウィスタブルの海に行く、という希望に満ちた旅が、いかにして、エアコンのない小さなレンタカーの中で、4時間かけてじんわりと蒸し焼きにされる旅になったのかを考えた。南東部の人口の半分が同じことを考え、一斉にケント州の海辺に向かったためかもな。

すべては彼のアイデアだった。ハムステッド・ヒースでピクニックをして、どこかでディナーを食べるという、いつもの休日の過ごし方ではなく、行ったことのない場所に行こう、と彼が言いだしたのだ。車のほうがどこへでも行けるし、帰る時間も自由に決められるから、レンタカーを借りて、丸一日ロンドンを離れようと提案した。そうして、アリの家での仮装パーティーでの出会いから始まった、奇妙で、向こう見ずで、刺激に満ちた365日を祝おう、と。

ウィスタブルは、「ロンドン近郊の最高のビーチ」に対するGoogleの答えだった。検索の一番上に表示された〈Time Out〉の記事だけを見て、トムはここだと確信すると、すぐさま他の案を思考から排除し、計画を実行に移したわけだ。

「絶対ここがいいよ」とトムは、なんだか訝(いぶか)しげな顔をしているエズミーに言った。「牡蠣を食べて、浜辺を散歩して、見知らぬ町を見て歩いてさ。夕食は、魚とフライドポテトを食べよう」

「あなたが運転しても大丈夫だって言うのなら、いいわ」

「全然大丈夫だよ!」

しかしそれは真実とはほど遠いものだった。

実際、レンタカーを借りる段からすでにトラブルの予兆は始まっていた。ロンドンの北西部キルバーンにある、泥(どろ)がぬかるんだような敷地のレンタカー屋に、トムは文字通り足を踏み入れた。そこのディーラーの男は、その風貌からして、泥棒や詐欺師を生業(なりわい)にしているのではないか、という印象しかなかった。トムは、なるべく安く借りたいと、評判の良いレンタカー屋を避け、一緒にカバーバンドを組んでいるドラマーに勧められた安価な店を選んだのだ。そういえば、エズミーの元カレもドラマーだったな、と思い出し、ドラマーを信用してはならない、と彼は自分に言い聞かせながら、白髪交じりの熊みたいなディーラーが、〈ボクスホール・コルサ〉の鍵を持ってくるのを、泥地に立ちすくんで待っていた。

トムはしばらく車の運転をしていなかったし、ロンドンでは全くしていなかった。高速道路のない田舎町で育ち、運転免許もそこで取ったトムにとって、突然ロンドンの、ゆっくり流れてはいても、―どこか常に危うさを漂わせている―交通量の多い道路に放り込まれることは、以前からずっと頑(かたく)なに避けてきたことだった。大都市ロンドンでライブをするときも、彼は車の運転を拒み、バンドメンバーに頼んで、うらぶれたパブであっても、コミュニティセンターであっても、彼の楽器やアンプを車で運んでもらうように手配していた。

キルバーンからレンタカーを運転し、エズミーの住むピムリコに向かった。〈ボクスホール・ブリッジ・ロード〉を走っていると、片側にはスポーツタイプの自転車を無鉄砲に走らせる人、逆の片側にはパトカーに挟まれ、やっぱり運転はストレスが溜まるな、と再認識した。エズミーの部屋へ通じる道に入るには、車線を二つ移動させてから、その先を曲がらなければならない。この分だと、海岸までの長い道のりは、予想以上に緊張をはらんだ旅路になるかもな、と先が思いやられた。それでも何度か迂回したり、方向転換したりして、なんとかピムリコの〈デントン・ロード〉にたどり着いた。エズミーの家の5軒先に車を停めて、道端に立つと、3、4回深呼吸をして、フラストレーションを体外へ放出した。車を運転している時にしか湧き上がらない種類の、嫌なストレスが溜まっていたのだ。

「まだ準備できてなかった?」と彼は言った。ドアを開けた彼女が、サンダルをつっかけ、ジョギング用のジャージを穿き、ゆったりとしたTシャツ姿だったからだ。彼女の髪はお団子状に束ねられ、メガネをかけている。トムと会うときはコンタクトを入れるのが、付き合い始めてから1年目までは常だった。台所のテーブルには、NHS(国民保健サービス)と書かれた、使い古されたファイルが積み上げられ、その横には、紅茶の入ったマグカップと、開封済みの〈ミルキーバー〉の袋が置かれている。袋の口から丸いホワイトチョコが見えた。

「あと10分いい?」と彼女が、部屋に上がり込んだトムに言った。

「5分」

「トム、そんなの絶対無理よ」

「やってみなければわからないだろ」

「わかったわよ。あなたってほんと気分屋なんだから。突然海に行こうだなんて」

「エズ」

「車の運転は大丈夫そう?」

「たぶんね」と彼は言いながら、窓の外に目をやると、黄色いジャケットを着た交通監視員が〈デントン・ロード〉に入って来ようとしているのが目に入った。「やばい」

「私もすぐ行くから」とエズミーが言うより先に、トムは駆け出した。交通監視員が来る前に車に乗り込むと、駐車禁止の標識が立つ〈デントン・ロード〉をゆっくりと進み始めた。そして道路の端まで来ると、狭い道路なので一度ではUターンできずに、何度かハンドルを切り返しながらターンをし、またゆっくり戻ってくるという、猫とネズミの追いかけっこのような、この上なくくだらないゲームを、エズミーが出て来るまで20分間も繰り返した。

ようやくロンドンから抜け出た頃には、トムの神経はすり減り、最初は高かったエズミーのテンションも下がりつつあった。この日のためにと、好きな曲を並べたプレイリストも、ひと通り聴き終わり、ありふれた週末のラジオ番組に切り替えた。口数が少なくなり、息が詰まるような苛立ちが、車内に立ち込め始めた頃だった。地平線に向かってずっと伸びる赤いブレーキランプの海が、目の前に立ちふさがったのだ。

「気持ち悪い」とエズミーが窓から顔を出して言った。有毒な車の排気ガスと、焼き付くようなアスファルトから立ちのぼる蒸気、そしてダッシュボードに貼り付けられた芳香剤の、吐き気がするような臭いの混在に、彼女は明らかに滅入っていた。

「ミントのキャンディーでも舐める?」とトムは言った。「あ、買いに行かなきゃなかった」

「ああ、まったくもう、トム! いい加減にしてくれない? あなたのせいで頭がおかしくなりそうだわ」

「僕だってイライラしてるんだよ」

「でしょうね。私だってそうよ。でも、そんなイラつく顔しないでちょうだい。全然動かない渋滞のお化けに取りつかれたみたいに、しゃくにさわることばっかり言ってる中年男の隣になんて、私だって座りたくないわ」

「僕は中年じゃないよ。まだ30歳にもなってない」

「あなたのその態度で言えばよ、トム。あなたは43歳といったところね、ステーションワゴンの運転席に退屈極まりない顔で座って、あ~、サッカー見て~、〈スカイスポーツ〉でも契約すっかな~、そうすれば思う存分サッカーを見れるぞ、みたいなことばっかり考えてるのよ。そうでしょ、トム。たまたま今が2000年代ってだけで、ひと昔前の〈モンデオ〉に乗ってるおじさんと何も変わらないわ」

「うっ」

「図星ね」彼女はそう言うと、薄手の夏服のすそを持ち上げ、その縁(へり)でサングラスを拭いてから、シートにぐっと背中をもたせかけた。彼女は向こう側の窓の外を、サングラス越しに眺めている。

「今日は僕たちの記念日なんだよ。なのに、ビーチじゃなくて、車の中に閉じ込められて、こんな惨めな気分になってる」

「ええ、そうね。でもそれって、少なくとも50%は、あなたのせいよ」

「まあ、ごめん。もし僕が―」

「トム!」と彼女が叫んだ。その声は開けっぱなしの窓から外へ響き、ラジオでヨーロッパチャンピオンズリーグの実況中継を聞いていた父親たちが、こぞってこちらに振り向いた。さっきから同じサッカーの実況が、あちこちから聞こえていたのだ。

エズミーは車を降りると、小走りに道路脇へと向かい、路肩の段差に腰を下ろした。彼女が車から出て行った瞬間、自分も彼女のところに行かなければならない、と思った。二人の口論をたまたま目撃した十台以上の車に囲まれながら、彼女に追いすがる、という恥ずかしいシーンをやり遂げなければならない。運転席の父親たちは、「ほら、あいつら」と言って、にやけるだろう。昔、俺も経験したぞ、あいつはこれから彼女に、ごめんって頭を下げるんだ。そんな会話があちこちから聞こえてくるようで、一瞬足がすくんだが、トムは勇気を振り絞って、勢い良くドアを開けた。

エズミーはサングラスを取り、空を見つめていた。彼女の視線の先には、一羽のカモメが飛んでいて、しばらく一点に浮いていたと思ったら、夏の上昇気流に乗って、遠くへ飛び去った。

「ごめん」とトムはぶっきらぼうに言うと、直射日光で暖まった路肩に手をつき、彼女の隣に座った。「ああいう人にはなりたくないんだ」

「どの人?」

「退屈極まりない顔をして、〈スカイスポーツ〉の映像を想像しながら、交通渋滞に文句を垂れてるような人」

「誰だってなりたくないわよ。でも彼らを見てるとね、そこに堕落するのは簡単なのよ。ほら、あのカーゴパンツに色あせた黄色いポロシャツを着た男、見えるでしょ? 彼はきっと、かつては劇作家だったのよ。ガーディアン紙が彼を「英国演劇界のアンファン・テリブル(若き天才)」だって評して、もてはやされた口ね。で、今の彼はどうなったかというと、彼はバスルームのタイルを販売する会社の、エセックス州とケント州を担当するセールスマンって感じね。それもこれも全部渋滞のせい。演劇界も才能が渋滞してるのよ」

「それに、子供が2人いそう」

「渋滞よ、トム。子供の渋滞」と彼女が言った。

トムは、ふふ、と軽く笑った。

「じゃあ、あの人はどうかしら? あのサイズが小さすぎる、ぴちぴちのTシャツを着てる人。彼はね―」

「ああ、やめてくれ」とトムが言った。「なんだか彼らが気の毒になってきたよ」

「心配しないで。彼らは幸せよ」と彼女は言った。「あるいは、そうではなくても、嫌なことは圧縮して小さく丸めて、持ち運びながら人生を送ってるのよ」

エズ! 絶対彼らに聞こえてるよ」

「馬鹿ね。ラジオのサッカー中継に夢中で聞いてないわよ」

二人はしばらく黙って座っていたが、不意にトムはエズミーの手を取ると、彼女の頬にキスをした。

「なんていうか、記念日が台無しになっちゃって、ごめん。こんな、思い描いていた感じとはほど遠い一日になっちゃったから、僕はちょっとイライラしてた。ごめん」

「私も」と彼女は言って、腰をずらし彼に少し近づいた。「でもね、記念日って今日だけのことじゃないのよ。1年を通してお祝いすることを忘れちゃだめ。こういう風に改まって計画なんてするから、台無しになった、とかってなるのよ」

「わかってる」と彼は言った。「君の言うとおりだ」

「それに、今日一日だって台無しにはなってないわ。ここで何かできるかもしれないじゃない」

「ここで?」と彼は言って、すっかり動きを止めた車の列を見回した。窓から中央分離帯をつまらなそうに眺めている子供たちがいる。若いカップルはせっかくの機会だからと、ライトバンの屋根の上に寝そべり、日光浴をしながら、一冊の週刊誌『Nuts』を二人で眺めている。

「そうよ、ここで。ウィスタブルまで行く必要はないわ。楽しみは自分たちで作れるんだから...どこにいたってね」

「3マイル先は〈ブリーン〉の支配下の町らしいけど、ここは誰の支配も及ばない場所だな」とトムは言った。「知ったこっちゃねー」

「その通りよ。知ったこっちゃねーの精神で楽しみましょ。私たちは後々までずっと、今日のことを覚えてるわ。M2高速で座り込んで過ごした記念日なんて、忘れるわけないじゃない」

「しかし、何をしよう? 食べ物は持ってきたけど、〈フムス〉はこの暑さに溶けだしちゃったかも」

「食べ物はいいわ。さっきからゲームを考えてたの」

「だろうね、君はいつもそうだ」と、彼は少し不安げな表情で言った。地平線の向こうに大きな灰色の雲が浮かんでいたが、エズミーには言わないでおくことにした。

「どうしたの?」

「僕はゲームとかそういう気分じゃないんだ」

「まあ、私もそうなんだけどね。でも、いい? あなたは未(いま)だに私に本心を打ち明けてないのよ。1年経っても取り繕ったことばかり言ってる」

「そうかな?」

「そうよ。そろそろ心を開いて。ルールはね、私たちが一緒に過ごした最初の1年間の、ハイライト的な良かった事と、逆にローライト、取るに足りない事をそれぞれ挙げること。それから、次の1年のプラン、どういう1年にしたいかっていう計画もね」

「ハイライトだけでいいんじゃない?」

「現実にそくしたゲームにしたいのよ。最初の1年って、わくわくして素敵な時期でしょ。セックスだって、最初は新鮮で驚きに満ちていて、仕組みやツボを探るみたいにして、非日常的な冒険って感じだけど、1年くらいすると、それが普通になってくるのよね。お互いの欠点を友人にこっそり話しだす時期でもあるわ。将来的に一緒に暮らすことになっても、その欠点に耐えられるかどうか、望みをかけて友人に打ち明けてる感じね。つまり、1年目には妥協点やデメリットがいっぱいあるの。シャンパンとバラの花だけしか見ないなんて、大馬鹿者のやることよ」

「かなり現実的だね。っていうか、セックスのことは、マンネリ化してたらごめん」とトムは言いながら、セックスに対する劣等感が胸中(きょうちゅう)に湧き上がるのを感じた。僕はエズミーを失望させていたのだろうか。いつ? 毎回? だけど、もしあれがエズミーの演技だとしたら、僕に彼女の胸中を知る術はない。彼女に聞いてみたいことの一つではあったが、これは聞かないでおくのがベストだろう。

「それは仕方ないからいいわ。とにかく、それぞれのカテゴリーで、3つの出来事を考えてちょうだい。それぞれにつき、1点ずつポイントが加算されていくの」

「ちょっと待って」とトムがエズミーの方を向いて言った。「ポイントがつくかどうかの基準は? 僕のハイライトは、そもそも僕にとってはハイライトなんだから」

「そうね。だけどこのゲームでは、私が『ハイライト』、『ローライト』、または『プラン』って言ったら、あなたは即座に答えなければいけないの。躊躇したらだめ。もし、う~んとか、あ~とか言ったり、何も思い浮かばなかったら、もうポイントはもらえない。順番で交互に聞いていくのよ」

「これって君が今、自分で考えたんだよね」

「そうよ」

トムは思わずにやけてしまったが、正直なところ、少し不安でもあった。彼女が楽しかった出来事として言うことが、何らかの形で僕の傷口に刺さるのではないか。あるいは、僕が間違ったことを言ってしまうのではないか、と心配だった。

「君にとってはすべてがゲームなんだね?」と彼は言いながら、彼女と一緒に過ごした1年間の記憶を整理し始めた。できるだけ多くの思い出を引っ張り出し、うまくいったことと、そうではなかったことのファイルに、頭の中で仕分けしていった。

「よく気がついたわね。でも、それはポイントには入らないわ。準備はいい?」

「ちっ。僕から? そうだな、僕にとってのハイライトは―」

「あ、ああ、ああ!」エズミーが彼の発言を遮った。「聞いてた? 私が選ぶのよ、覚えておいて。じゃあ、ローライト」と彼女は早口で言った。テレビのクイズ番組で、解答者が気を緩めているところを狙い撃ちする司会者のような言い方だった。

「何?」

「ローライトよ。早く言って」

「えっと...あ~...」

「0点ね」

「ちょっ、ちょっと待ってよ。1秒くらいは考えさせてもらわないと」とトムが言った。

「ルールはルールよ。はい、今度はあなたが私に聞く番」

「よし。じゃあ、ハイライト」

「はは! やっぱりそう来たか。あなたが私の家に初めて泊まった夜のこと。あなたは喉が渇いて朝の4時に起きた。そしたらローラが、キッチンにいるあなたを見つけて、泥棒だと勘違いして、上の階のジョーがクリケットのバットを持って駆け付けてきた」

「あの時はひどい目にあったよ

「可笑しかったわ」とエズミーが言った。「後から思い返せばね」

「っていうか、クリケットのバットを持って駆け付けるやつなんて普通いるか?」

「下の階に住む女の子のことを夢見ていたら、まさにその子の悲鳴が聞こえたんだから、ここは自分の出番だって思ったんでしょ」

「彼は結婚してないの?」

「それで?」とエズミーが言った。

「それで、それが君のハイライトなんだね? 1年間ともに過ごしたすべての事柄の中で、それが君の心をつかんで離さない出来事ってこと?」

「残念ながらそうよ。じゃあ、今度は私が聞く番ね...ハイライト」

「一緒に行ったアムステルダムへの旅行だね」とトムは焦ったように早口で言った。エズミーが彼のこめかみに拳銃を突きつけているかのような焦り方だった。

「もっと詳しく言わなきゃだめよ」

「わかったよ。街の中を船でめぐった」

「あれは捨て去りたい記憶ね」

「いやいや、君が言ったのよりはマシだよ。少なくとも、クリケットのバットで殺されそうになった人はいなかったんだからさ」

「いいえ、私はあなたのことを考えて、あなたがメインの出来事を言ったのよ。だけどそれは、あなたが楽しかった思い出でしょ、トム。あのアムステルダムでの退屈な船旅を、あなたはさぞかし楽しんだんでしょうね。私はそうでもなかったけど」

「もっと具体的に言えばいいんだろ」

「そうだけど、どうせ建築物がどうとか、天気はどうだったとか、そんな話をするんでしょ。思い出はね、あなたと私をめぐる話じゃないとだめ。あなたと私が何をしたかって話じゃないのよ」

「ばかばかしい」とトムは言って、さっきよりもぐっと近づいてきた黒い雲を再び見上げた。「僕はこういうのは苦手なんだ」

「話し方を工夫すればいいのよ」と言って、彼女は彼の腕をポンと叩いた。「アムステルダムの街自体は素晴らしかったし、船の上で配られた音声ガイダンスの機器をあなたはうまく操作できなくて、ずっとドイツ語が流れてたのは笑えたから、0.5点あげるわ」

「お、おう」

「気を取り直して、どうぞ」

「ローライト」とトムが言った。

「食あたり事件ね。ビクトリア地区で行われたアイリッシュ・フェスティバルで、あなたがトリビュート・バンドを組んで演奏するっていうから、見たかったのに」

「いったいどうなってんだよ、エズ。なんでそんなことまですぐに思い出すんだ?」

「私は記憶力がいいのよ」

「ってことは、これはあれだな、不正が行われてるってことだ」

「全くそんなことないわ。じゃあ、今度は私ね。ローライト」

トムは何も言わなかった。手の甲に落ちた一粒の水滴に気を取られていたのだ。続いてもう一粒。それから、次々と水滴が落ちてきた。

「感じた?」とエズミーが言った。

「うん。記念日に雨に降られたことを、ローライトの一つにしようと思ったんだけど、―でも、今思えば、高速道路でこんなことをしてること自体が、本当のローライトだと気づいたよ」

「ローライト中のローライトってことね?」

「その通り」

「私たちも戻ったほうがいいわ...」エズミーが車の方を見ながら立ち上がった。大粒の雨が降り始め、立ち話をしていた父親たちが、それぞれの車へと散らばっていく。

雨脚が勢いを増していく中、小型車の〈コルサ〉に向かって、エズミーが先を走り、トムも後に続いた。しかし、二人がそこにたどり着いたとき、ドアが開かなかった。

「トム、さっさと鍵を開けてちょうだい!」と彼女が、ワンピースの首元を引っ張り上げ、髪の毛を覆い隠そうとしながら叫んだ。その横で彼は、あちこちのポケットをまさぐりながら、必死に鍵を探している。「トム!」

「見つからない」

「ちゃんと鍵をかけたんだったら―」

絶対に鍵はかけてポケットに入れたよ」

「だったら、とっとと開けてよ。このままだとびしょ濡れになっちゃうじゃない」と彼女が大声を上げた。雨が〈コルサ〉のトタンのような薄い屋根を、ドラムロールみたいに叩き始めた。「それにみんなが見てるじゃない」

「クソッ」とトムは言いながら、体のいたるところを叩くように鍵を探したが見つからず、さっき二人で座り込んでいた路肩まで、うつむき加減で跳ねるように戻っていった。

「あった!」と彼がエズミーの方を振り向いて叫んだ。座った拍子に落ちたのだろう鍵を拾い上げると、小走りに車まで駆け戻った。ようやく彼女が握ったまま待っていたドアが開いた。初夏の雨に打たれるのは、実際のところ彼女にとって心地よかったのだが、全身を包んでいた爽やかな夏の香りは、車内に入ったとたん、吐き気がするようなブルーベリーの芳香剤で一瞬にして打ち消されてしまった。

「やめてよね」とエズミーが言った。「ほんとにもう、冗談じゃないわ」

「座った拍子にポケットから落ちたみたいだ」

「もうびしょびしょ」

「ごめん、エズ」

「それから、みんなが見てたわ。パパたちが全員こっち向いてた」

「それは、あれだな...きれいな若い子が、ずぶ濡れのワンピースを着て立ってたら、ね? そりゃ見ちゃうよ」

彼女は彼の腕をバシッと叩いた。それでも彼がクスクスと含み笑いをやめないので、もう一発叩いた。

トムは車のエンジンをかけ、ヒーターを強めに設定した。エズミーがその温風で髪を乾かし始める。ラジオをつけると、「今から2時間ぶっ通しで、あなたのリクエストにお応えして、ベスト・ミュージカル・モーメント100の中から選りすぐりの名曲をお届けします」とDJがリスナーに約束していたが、トムはすぐにラジオを消した。止まったままの車の外では雨が降り続き、フロントガラスにぶつかっては、水しぶきを上げ激しく弾(はじ)けている。髪の毛に対して今できることを、ひと通り施(ほどこ)したエズミーは、助手席に倒れかかると、トムをぼんやりと見つめ、微笑んだ。

「今日の旅は価値あるかな?」と彼が言った。

「あるわ、大ありよ」

「なんか無理やり言ってるように聞こえるけど」

「もうちょっとロマンチックな、ありがちな台詞を言ったほうがよかったかしら。『ええ、トム、最高の旅になったわ。完璧よ!』みたいな?」

「全然完璧じゃないけどね」

「そうね」

「それでもオッケー?」

「オッケー以上よ」

「君のそういう楽観的なところが好きだよ、エズ」とトムは言った。「僕もたまにはあやかりたい、というか、ちょっとでもそんな風にお気楽になってみたいよ」

「楽観的とはちょっと違うんだけどね。こういうことの方が私たちの記憶に刻まれて、ずっと覚えてるんじゃないかって思っただけ。だからオッケー以上なのよ。計画通りに、望んでいる通りにいったことなんて、必ずしも覚えてるわけじゃない」

「太陽の下、ビーチで過ごすはずだった1日と、渋滞に巻き込まれた4時間、どっちが良かったかなんて、誰も決められないってこと?」

「私が言いたいのはね、人生には意外性があったほうがいいんじゃないかってこと。例えば、結婚式の計画を細かく立てすぎて、つまらない感じでことが進むよりは、いい加減に計画して、ちょっとドタバタしちゃったほうが楽しそうでしょ。行動がその人を表すっていうけど、カップルも同じ。二人でやることなすこと、すべてが私たちを体現してるのよ」

「それで、僕たちは4時間も身動きが取れなくなってるのか―」

「どういう意味よ」と彼女が言った。

雨が少し小降りになってきた。

「そうだな、今日の旅を栄光の失敗と呼ぶことにしようか?」

「栄光はちょっと大げさなんじゃない、トム」栄光は言いすぎか、と彼の顔からも笑みがこぼれる。「少なくとも、今日のことを私たちは決して忘れないでしょうね?」

「忘れようとしたって無理だ」

トムは身を乗り出して、彼女にキスをした。彼女の顔はまだ雨で湿っていて、彼女の唇は、サクランボのような、リップクリームのほのかな味がした。

彼は帰りの運転のことを考えた。高速道路を何時間もひた走り、一般道に下りたら、ロンドンのタクシーやら、自転車やら、種々(しゅしゅ)の車が不意をつくように迫ってくる。そんな謎のバトルを思うと、気が重くなった。その後、またあのキルバーンのぬかるみのような敷地のレンタカー屋に車を返しに行かなければならない。しかも夜だ。あんなところに夜行ったら、テレビの犯罪ドラマのクライマックスシーンを、地で演じなければならなくなりそうで、気が滅入る。ふとエズミーを見ると、彼女は微笑んでいた。こんな時でさえ、些細な驚きに満ちた人生を楽しんでいるようだ。見習わなきゃな、と思った。彼女は僕に欠けているものを持っている。そしてきっと、僕も彼女に欠けているものを持っているんだ。その時、二人の間に分かちがたい一体感のようなものを感じた。二人でいれば、二人で補い合うように過ごせば、どこにいようと、何時間だって退屈なんかしない。

「続きをする? 今度は君が聞く番だったよね?」と彼が言った。エズミーが驚いたように目を見開いた。彼女が考案したゲームの続きをしようと、彼の方から言いだしたのが意外だったようだ。トムは口には出さなかったが、この1年の出来事をもっと思い出し、もっと追体験したかった。その時の彼は気づかなかった些細な驚きってやつを、いっぱい胸に刻みたいと思った。

「ああ、そうね。じゃあ、ハイライト。でも今日のこと以外でね」と彼女が笑顔で言った。

「わかった」と言って、彼は座席に深く身を沈めた。エズミーと過ごした12ヶ月を、夢うつつを漂うように、いつまでも振り返っていた。



チャプター 7


午後2時~3時

君のことをもっと知っていく

2010年3月 ― オックスフォード


トムは足元に集めた小石の山をまたぐようにして、小石を一つ拾い上げると、それを力いっぱい投げた。小石は思うように飛ばず、うまく跳ねてくれない。腕のしなりが足りないんだな、と彼は首をかしげながら、次の石を拾い、今度こそは、と目を細めた。そして腕を後ろへしならせるようにして、投げた。

「ねえ、想像してみて。トム・マーレイの生涯を示す〈ブルー・プラーク〉を掲(かか)げることになったら、どうする?」エズミーが数年前の冬に投げかけてきた言葉を思い出していた。ふるえるような寒さに、どこか南の島のビーチで太陽を浴びて過ごしたいね、なんて話していたのだが、二人ともお金がなくて無理だった。そんな会話の流れで、彼女が聞いてきたのだ。「どこに掲げる?」

「どういうこと? ブルー・プラーク?」

「建物の壁に掲げられてる、丸くて青い記念プレートよ。超重要人物とか、超有名人が住んでいた建物ですっていう看板。『ジョニー・なにがし、科学者、1881年にここに住んでいた』みたいな」

「それは知ってるけど、僕の名前が掲げられることはまずないでしょ」

「もちろん、ないでしょうね。でも、あるとしたらって想像してみて。あなたのプレートはどこにありそう?」

「さあ。ローストフトかな、たぶん。ロンドンかな。っていうか、それと僕たちに何の関係があるの?」

「それがお互いを知るための方法なのよ。どこか素敵な場所で休日を過ごす代わりに、私たちが住んでいた場所とか、大好きだった場所を訪れるの」

「じゃあ、テネリフェ島へバカンスに行く代わりに、ローストフトに行くってこと?」

「そんな感じ」

それでもまだトムは彼女の意図がよくわからなかったので、最初の行き先はエズミーに選んでもらった。2008年の2月にレスターに行き、思い出の地めぐりが始まったのだ。レスターはイングランドの中部、彼女が学生時代を過ごした町だ。彼女の通っていた学校を見ながら彼女の話を聞き、彼女が何時間も過ごしていたという図書館にも行った。なるほどね、と彼はようやく腑に落ちた。実際にその場所に来た方が、彼女のことをより深く知れたのだ。オックスフォード大学の受験結果が届いたとき、おせっかいな親の目の前で開けたくなかったから、このカフェに駆け込んで、この席で開けたの、と彼女は言った。

トムの番になり、彼は思い出の地として、イングランドの東部の町、ノリッジを選んだ。アマチュアバンドを組んでいた時代、彼はそこで何度も熱いライブをした。初めてアルバイトをしたのもそこだった。土曜日に働いていた楽器店に彼女を案内した。スケートボードで暴走し、駐車していた車と衝突して鼻を骨折した坂道に立って、ほら、鼻のここ、少しへこんでるでしょ、と、彼は自分の鼻筋をさするように指さした。

それから数ヶ月後、ローストフトにも行った。昔通っていた学校や友人の家、子供の頃にやんちゃした思い出の場所を慎重に選びつつ、めぐった。エズミーの番では、レスターの近く、バーミンガムにも行った。彼女が中部の州で過ごした10代の様子が、前よりもわかってきた。

毎回どの地に行くにも、赤い二階建てのバスに乗り、日帰りだった。いつも眺めのいい二階に乗り込むと、お互いが選んだ町を巡り、その後、バスを降り、かつて住んでいた家や、重大な出来事があった場所など、個人的な名所を3、4ヶ所めぐるという旅だった。お互いを背景まで深く知りたい人のための、財布に優しいバスツアーといったところだ。

そして今回やって来たのは、彼女が大学時代を過ごしたオックスフォードだ。二人は今、ユニバーシティ・パークにいて、チャーウェル川の土手からトムが小石を投げ、なんとか川面(かわも)にバウンドさせようと躍起(やっき)になっている。(が、ことごとく失敗している。)

「チェッ」と彼が言った。今度もまた、彼が投げた石は水面をかすめると、跳ね上がることなく、すぐに沈んでしまった。

「今のは2バウンドに見えなくもないわね」とエズミーが陽気な声を上げた。

「気休めを言うのはやめてくれ」と彼は言い、麦わら帽子の形をした小石を手に取った。平べったくて丸く、腕時計の文字盤ほどの大きさで、完璧な小石に見えた。彼はそれをすばやく投げると、期待を込めてその軌道を見守った。が、その石もあっけなく沈んでしまった。

「はぁ、なんだかむなしくなってくるわね。こうして立ったまま、あなたが水切りに躍起になってる姿を見てると、オスの求愛ダンスを見てるメスの気分だわ」

「あぶなかった~、神に感謝しなくちゃ。人類が水切りで判断される種(しゅ)だったら、僕は永遠に童貞のままだ」

「トム! 誰かが聞いてるかもしれないわ」

「だから何? この大学は優秀な学生だらけなんだろ。っていっても、学校の成績が優秀ってだけだから、あっちの未経験率はかなり高そうだな。みんな、いつになったら初体験できるんだろう、もしかしたら永遠にできないんじゃないかって心配なんじゃない?」

彼女は彼の腕を殴った。そんなことを言う彼にかつてない種類のショックを受け、周りの耳も気になり恥ずかしかった。

「う~ん、どうしてうまく石が跳ねてくれないんだろう。うまい人だったら、どんな石でも適当に拾って、ひゅっと投げると、ピョンピョンピョンってバウンドするんだよ。20回くらい跳ねながら水面を進んでいくんだ」

「そんなのできなくてもいいじゃない。なぜ気にするの?」

「自分でもなぜかわからないけど、なんか悔しい」トムはそう言って、もう一度挑戦したが、結果は同じだった。

「力を入れすぎなんじゃない?」

「ネットに書いてあった通りに投げてるんだけどな―」

「ネットで水切りの方法を調べたの?」

「まあ...」

「いったい何がしたいのよ、トム。大した芸ね」とエズミーが言った。「男のたしなみってことかしら?」彼女は疑問を投げかける。「ひげを生やしたり、川があったら石を投げたり、山小屋を所有したり、そういうことができなければ、本当の意味での男らしさは得られないってこと?」

「おそらくね」とトムは言った。「僕はサッカーボールのリフティングも、5回以上できないんだ」

「それ以上できないアピールはやめて。あなたのことを新たに発見していくたびに、あなたの魅力がどんどん失われていくわ。そんなことばかり言ってるなら、私はあそこの若者たちの一人に、運だめしにアタックしちゃおっかな~」と彼女は言って、フィールドの方を指さした。たぶん大学のラグビー部だろうとトムは思った。がたいがいい学生たちが、グラウンドに置いた赤いコーンの間をダッシュで行ったり来たりしている。

「あの筋肉隆々(りゅうりゅう)のラガーマンたち?」

彼らはきっと水切りもうまいし、学校の成績だって良かったんだから。彼らは頭脳と腕力の両方を持ち合わせているのよ、トム。女の子が欲しがるものを両方ともね」

「集中してるから黙って」トムはそう言って、今度こそは、と大きく振りかぶって、小石を投げた。思いっきり投げすぎた石は、勢い良く弧を描き、一度も川に着水することなく、向こう岸まで届いてしまった。

エズミーが声を上げて笑い出した。

「もう気が済んだよ。このくらいにしておく」と彼は言い、ふてくされたように、集めた小石をすべて川に捨てた。「次はどこ行く?」

「寮に行きましょ。行ってみないとわからないけど、こっそり忍び込めば、私が住んでた部屋に上がれるかもしれないわ」と言って、彼女はトムの手を取った。「こっちよ」

彼女は彼の手を引きながら、ユニバーシティ・パークを抜けると、オックスフォードの街の中心部、彼らがバスを降りた辺りまで戻って来た。二人はもの思いにふけるように、黙って街を歩いていた。木々のつぼみは芽吹きつつあり、薄紫のクロッカスが道端に点在している。もうすぐ黄色い花を咲かせるはずのスイセンの新芽も、青空に向かって伸びている。3月の学生街は思いのほか、ひっそりとしていた。ランニングをしている人が時おり通り過ぎ、犬の散歩をしている人がちらほらいて、学生と思(おぼ)しき人が一人か二人歩いている程度だった。

エズミーは幸せそうな顔をしていた。ノリッジの近く、キングズ・リンの公園に彼女を連れて行った時と同じくらい幸せそうだったから、ほっとした。彼女はオックスフォード大学には馴染めなかったと言っていたから、ちょっと心配だったのだ。僕の手を引きながら、誇らしげにオックスフォードを案内する彼女の温かいまなざしは、ここが彼女にとって、居心地の良い場所であったことを示しているようだった。その横顔はとても美しかった。

彼女の故郷を訪れた時とはまるで違う、晴れやかな表情だった。彼女が幼少期と10代のほとんどを過ごした町では、嫌なことばかりが思い出されて辛(つら)そうだった。(「ここで初めて付き合ったボーイフレンドと別れたの」と彼女は悲しそうに言っていた。)父親が見知らぬ女性とキスしているのを目撃してしまったという公園にも行ったし、マクドナルドの外では、自転車で通りかかった同じ学校の3人組に飲み物をかけられたそうだ。その3人には学校でも何かにつけ、いじめられていたと彼女は打ち明けた。そのようなエズミーの人生の断片を共有することは、僕にとっても心が痛んだ。

「生まれ育った町に残ることを選ぶ人たちっていうのは、学校でイケてた子たちなのよ。人気者たちが残るの」とエズミーが、そういう苦(にが)い経験を話した後に言った。「そうじゃなかった私たちは、町から逃げるように出て行かなきゃならないの。嫌な思い出から逃れるためにね」

「そして、そういうイケてた子たちは、最終的には敗者になるんだろ?」

「そうであってほしいものね。有名なデザイナーか誰かが言ってたじゃない、誰でも一生のうちで15分間は名声が得られるって。きっとその時期が違うだけで、みんな一度は人気者になれるのよ。小学校や中学校でその時期が来る人もいれば、大学で花開く人もいる。大人になるまで待たなきゃならない人もいる」

「君はもう、そういう時期を過ごしたの?」

「それは周りの人たちが言うことだと思うわ」エズミーは彼女の故郷の町でそう言っていた。

今、オックスフォードのパークス・ロードを歩きながら、エズミーのその時期、―つまり彼女の全盛期は、―ここにあったんだと確信した。パークス・ロード沿いには風格のある建築物が並び、彼女が敬愛する知性の香りが漂っていた。ここを歩いていた大学生の彼女の姿を簡単に思い浮かべることができた。彼女はいろんな集まりに参加して、いじめられていた過去などみじんも感じさせないような明るい表情で、屈託(くったく)なく自分の意見を述べていたに違いない。それはワインとか本についての意見であったり、トニー・ブレア政権下での新自由主義の失敗に対する意見であったりしたのだろう。ピリッと引き締まった秋の空気の中、スカーフを首にゆるく巻いてさっそうと歩く彼女の姿を想像しながら、僕は彼女になりきって、気取って歩いてみた。ちょっとふざけてみた、というのもあるが、これこそがまさに、この日帰り旅行の目的だったのだ。―彼女の内面を深く知り、彼女の内側から周りの世界を眺めてみたかった。

「ここよ」とエズミーが言った。道路を向こう側へ横断すると、〈キーブル・カレッジ〉があった。オックスフォード大学はカレッジごとに校舎が別々で、それぞれに寮も付いている。彼女はトムに〈キーブル〉の歴史を大まかに説明した。非公式のガイド役をかってでて、歴史的に意義のある建築物としての校舎、学生数、〈大学クイズ選手権〉に何度も優勝してきた〈キーブル〉の輝ける実績、それから著名な卒業生についてざっと話しながら、大学に沿って道を歩いていった。彼女は校門の前で、警備員の制服を着た女性に同窓生カードを見せると、守衛室付きのアーチ型の門をくぐった。四角い中庭には手入れの行き届いた芝生が広がり、その向こうにゴシック様式の校舎が並んでいた。

「マジかよ、エズミー。こんな浮世離れしたところに住んでたのか?」とトムは、魔法学校でも見上げるように目を見開いて言った。

「まあね。寮はあそこよ。ほとんどの学生があそこで寝泊まりしてたの」と彼女は言って、比較的新しい、機能重視といった感じの建物を指さした。古くてツタに覆われた趣ある校舎の並びには、その簡素な寄宿舎は似つかわしくない感じがして、トムは少しがっかりした。「私たちはここで講義を聴いたり、担当教授から一対一で指導を受けたりしてたのよ。素敵なところでしょ?」

「『回想のブライズヘッド』に出てきそう。っていうか、君にとっては回想の〈キーブル・カレッジ〉か」と彼は、エリートの高等教育の内幕を初めて垣間(かいま)見て、ちょっとばかりショックを受けつつ言った。

「『回想のブライズヘッド』読んでくれたの?」

「読んだよ」と彼は言った。「まあ、半分くらいね。せっかく君が貸してくれたから」

「登場人物を3人挙げてみて」とエズミーが言った。

「いいよ。ほんとは4分の1くらいしか読んでないけど、ウィキペディアも見たから、もしかしたら言えちゃうかも」

エズミーが声を上げて笑った。ここに戻ってこれた喜びが彼女の顔に大きく表れ、その喜びに全身の血が沸き立つように、彼女は笑っていた。それから彼女は青、白、赤の紋章が入ったカレッジスカーフを首にかけると、大学のキャンパスに入っていった。二人は一番大きな中庭をぐるりと一周してから、芝生の真ん中を十字を切るように歩いて渡り、図書館を見学した。エズミーは様々な注目すべき特徴を指さしながら、トムに説明していった。

「そしてこれが」キャンパスの片隅、何の変哲もない場所にたどり着いたとき、彼女は言った。「私が初めてジャミラと出会ったベンチよ」エズミーは、舞台上でイリュージョンの終えたばかりのマジシャンの手つきで、そのベンチを示した。ちょうどそこに座っていた女子学生が、怪訝(けげん)な表情で二人を見上げると、立ち上がり、どこかへ去っていった。「あの時、私は彼女の身に何か良からぬことが起きたのかと思って、近づいたのよ。でも実際は、〈アフターショック〉とか〈ジン・トニック〉とかを浴びるように飲んじゃったみたいで、さっきの中庭で吐いちゃって、中庭には監視カメラが設置されてるから、それに長く映らないように、彼女はこのベンチに一旦避難してたみたい」

「いいね」とトムは、半分聞いていないようなそぶりで言った。

「なんでいいのよ?」

「ごめん。良いという意味ではなくて、つまり―」

「退屈なの?」

「そんなことないよ! エズ、全然退屈じゃないし、むしろ―」

「なんか上の空で、話を全然聞いてないみたいじゃない。つまらないのなら、もう帰ろっか?」

「正直、つまらなくはないよ。ただ、今のところ君は、友達のこととか、有名人が同じ寮に住んでたとか、同じ学年で目立ってた男子がテレビの司会者になったとか、そういうことばかり話してるけどさ、僕はもっと君のことが知りたいんだよ、エズ。君がここでどういう時間を過ごしていたのかをね。さっきここに入ってきたとき、君はとても幸せそうだった」

「わかったわ」と彼女は自信なさそうに言った。「なんていうか、あんまり話すことがないっていうか」

「典型的な君の一日を教えて」

「どこにでもいる学生と同じだと思うわ。学生寮の食堂で朝食を食べて、チュートリアルを受けたり、ゼミがあったり、あとは読書して、夕食を食べて、たまにパブに行ったりして、また読書して寝るって感じかな」

「それはどこにでもいる学生と同じだとは思えないな。まず第一に、ほとんどの学生がそんなに読書しないだろ。学生寮で朝食も、一般的じゃないよね」

「まあ、それはそうね」

「じゃあ、勉強以外に何か活動はしてた? 演劇とか、読書会とか、スポーツは?」

「演劇のことは前に話したでしょ」

「じゃあ、その演劇グループはどこを拠点に活動してたの?」

「あそこら辺のどこか」と彼女は言って腕を上げると、学生街の中心部の方向を指し示した。

彼女は妙に意気消沈していた。公園からここまで歩いてきた時には彼女をキラキラと包み込んでいた自信やら、喜びがどこかへ消え去り、代わりに寡黙(かもく)な、どことなく遠慮がちな雰囲気が彼女を取り巻いていた。

「どうしたの、エズ?」

「聞いて。私がここで過ごした時間がどんなものだったのか、あなたには美化しないでちゃんと知ってほしいの」と彼女は言って、ベンチに腰を掛けた。「正直に言うとね、私はがり勉タイプというか、勉強オタクだったのよ。ほとんど外出しなかったし、友達も片手で数えるほどもいなかった。私はここに勉強しに来たわけだしって思いながら、それを実践しちゃったの。オックスフォードかケンブリッジに入った学生だったら、街全体がキャンパスみたいなものだから、普通はもっと羽目を外すんでしょうけど、私の学生時代は結構地味だったのよ」

「それでいいじゃないか―」

「そうね、私はそんな勉強ばかりの生活を気に入ってたのよ、トム。本当に、心の底から気に入ってた。毎日が楽しくて仕方なかったわ。大学っていう場所の捉え方によるんでしょうけど、大勢の人と出会って、はしゃいで、泥酔する場所だと思って入ってきた人もいることは知ってた。けど、私にとっての大学は、教育の場なのよ。そんな考え方、退屈で堅苦しいと思われるかもしれないけど―」

「いいと思うよ、エズ。もっと多くの人がそういう風に考えるべきだ」と言って、トムは彼女の体を彼のそばに引き寄せた。「ごめん。君が僕をここに連れてきたとき、もっと華やかな学生時代の話を期待しちゃった。オックスフォードとケンブリッジに付き物の話、ダンスパーティーとか、なんちゃらソサエティとか、そんな社交界みたいな」

「ダンスパーティーはね、100ポンド払わないと参加できないとか、そんな感じなの。将来金融界に入る人とか、弁護士になる人とか、そういう人たちだけが行くところ」

「そうなんだ。無料で誰でも参加できるのかと思ってた」

エズミーは悲しそうに首を振った。「限られた人だけよ。他の人は大体みんなパブに行くんだから」

「さあ行きましょ」と彼女は言って、ベンチから立ち上がると、彼の手を引き、キャンパス内の小道を再び歩きだした。現役の学生が携帯電話で話しながら小走りに横を通り過ぎていった。何人かで話しながら並んで歩いている学生たちもいる。「そんなに私の学生生活が気になるのなら、私が住んでた部屋を見せてあげるわ」

彼女がそう言った途端、トムはちょっとしたパニックに襲われた。久しぶりに蘇った火花散る感覚だった。ここでの彼女の生活っぷりがどんなだったのかに思いをはせすぎて、個人的な領域に踏み込みすぎたかもしれない。聞かなければよかったと後悔した。大学は違えど、僕にとっては約9年ぶりに学生寮なる場所に足を踏み入れることになるのだ。トムは、もう時間がないことを期待して腕時計を見た。もうこんな時間だから学生寮は見ずに帰ろう、とでも言おうと思ったのだが、まだ2時半過ぎで、3時にもなっていなかった。

エズミーは彼を連れて、隣のゴシック様式の校舎を回り込むようにして、現代風の建物に向かった。正面玄関にたどり着くと、まずはそっと中を覗き込み、誰かが怪(あや)しんでこっちを見る前に、すっと忍び込んだ。そのまま彼女はトムの手を引き、小走りぎみに廊下を進んだ。足が覚えていた。彼女の足の筋肉に、何度も通った廊下の記憶が蘇る。冷たいリノリウムの床を踏む二人の足音が、すり傷だらけの壁に反響する。階段を上り、2階の廊下を進んでいくと、真ん中辺りでエズミーが立ち止まった。119号室と書かれたドアに向かい合う。

「ここが私の部屋だったのよ」と彼女は言って、久しぶりに見たそのドアを懐かしそうに眺めていた。「前はここに小さい表札が貼ってあって、エズミーって書いてあったんだけどね」

トムもそのドアを見つめていた。今は特に表札はなく、セロテープで貼り付けられたクリスマス飾りのティンセルが一本だけ取り残されたように、ドアにぶら下がっている。

同じだ、と思った。僕が大学時代に住んでいた学生寮との共通点が目についた。匂いまで似通っている。床から立ち込める漂白剤の臭い、学生寮特有のよどんだ空気。馴染み深い要素に囲まれていた。白い壁は長い年月をかけて汚れ、へこみ、すり傷だらけになっている。廊下の一角には掲示板が掲げられていて、ライブの告知や、学生の生活態度に関する注意喚起、火災時の行動などが示されている。

あの夜の記憶が鮮明に残っているわけではない。ただ、周りの人から聞いた話を寄せ集め、自分自身のおぼろげな記憶の断片とつなぎ合わせると、ぼんやりとあの夜の出来事が形を成し、眼前にそびえ立ってくるようだった。

事を起こしたのは夜の10時頃だった。それくらいは覚えている。僕の異変に気づいたのは、サウンドエンジニアを専攻しているジョンという学生だった。僕の部屋からうめき声と、何かを吐くような声が聞こえたそうだ。それから2ヶ月後、僕は請求書を受け取った。何かと思えば、駆け付けた救急隊員が僕の部屋のドアを壊して中に入り、僕を救助したのだが、その時のドアの修理代だった。

それ以上のことは、ほとんど何も思い出せない。

車輪付きの担架(たんか)に乗せられたことは覚えている。担架がガタガタ揺れて、青と赤のライトが見えた。僕の顔を覗き込む人たちの面影も、おぼろげながら残っている。

その後、トムは大学に戻ることができなかった。パリピに憧れて始まった彼の大学生活は、お酒とともに堕落の一途をたどり、ついに自暴自棄の自殺未遂で完結した。翌年復学して、下の学年の、彼のことを知らない学生たちに囲まれて再起を図ろうかとも思ったが、できなかった。どうせすぐに噂が広まってしまうことはわかりきっていた。大学とはそういうところなのだ。聞こえよがしの噂話でがんじがらめにして、締め出すのだ。物静かで内向的な20歳の音大生は、学生の相談に乗るカウンセラーの語り草になった。「何年か前にこういう学生がいたのよ」と語り出すのだ。―カウンセラー室にも来ないで、不摂生な生活を続けていると、みたいになっちゃうから気をつけなさい、という「サンプル」として、彼の存在は今も大学に残っている。

そんなところに戻りたくはなかった。当時の記憶を思い出したくなかった。人生の一時期を過ごした大学時代は、あの学期末の夜に終わったのだ。もうすぐ春休み、キリストの復活を祝う長期休暇が始まろうとしていた。これも神の思し召しだと思って去ったのに、またあの時期の不穏な感覚が舞い戻ってくるようだ。せっかく大学を辞めたことで事態は好転した、と確信しつつあったのに。

「大丈夫?」と彼女が聞いた。

「うん、大丈夫」

「なんかそうは見えないけど」

大丈夫だよ」と彼は言った。

「ならいいけど」とエズミーは、彼が強めた語気に一歩後ずさりながら言った。

トムは廊下の壁に背中をつけ、寄りかかった。エズミーが彼の手をにぎり、そっと寄り添う。

「ほんとに大丈夫なの、トム? 顔色がすごく悪いわよ」

「だ...だいたい大丈夫。き、気にしないでくれ」とトムは、自分を奮い立たせるように言った。せっかくこれまでの時間、楽しい一日を過ごしてきたというのに、エズミーの聖地巡礼なのに、あやうく僕が台無しにするところだった。「次はどこ?」

「お気に入りのパブにあなたを連れて行こうと思ってるの。そんなに遠くないわ。パブの名前はね―」

「それはちょっと...やめてもらってもいいかな?」とトムが言った。「お酒じゃなくて、コーヒーか何かにしよう」

エズミーはさっきから解(げ)せない表情で、首をかしげ気味に彼を見つめている。

「もちろん、それでもいいわ」と言って、彼女は彼の手を取った。一瞬、彼はその手を振り払って逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。彼女を前にしてそのような気持ちになったことは、それまで一度もなかった。



〔チャプター 7の感想〕

トムの過去の出来事がより詳細に語られましたね。「似通った場所」が引き金となって、記憶が呼び起こされる、という事象は僕にもあって、←は?

僕の場合、トムとは方法が違って、どちらかというと太宰治寄りというか、血迷って川に入ったんだけど、←海水浴?笑笑←海ではない。

それ以来、どの川にも近寄っていないのは、トムと同じ理由かもしれない。←これ感想か?笑



チャプター 8


午前3時~4時

キャンプ旅行

2012年8月 ― ウィンブルボール湖、サマセット


二人は同時に視線を上げた。テントの屋根の上に雨水がたっぷりと溜まっているのがありありとわかる。ビニールシートの屋根はげんなりと垂れ下がり、トムが天井に引っ掛けて取り付けた簡易ランプは、本来あるべき位置より少なくとも15センチも下に来ていて、二人の鼻先にもうすぐくっつくのではないか、と心配になるくらいだ。

「ていうか、ちゃんとテント張った?」

「張ったよ」と彼は声を荒げた。

「私たち、キャンプに来たの初めてでしょ」

「わかってるよ、エズミー」

「それに...なんかこのテント...ちょっと悲しそうね」

「悲しそう?」

「うん」

「テントが悲しそうってどういう理屈だよ?」

「わかるでしょ。だら~んと垂れ下がっちゃって」

「今日は調子悪いだけで、次回はちゃんと」

キャンプのことを言ってるのよ」エズミーは激しい剣幕(けんまく)でそう言うと、エアベッドの上で快適に寝られる体勢を探すべく、体をゴロゴロと動かし始めた。トムがくすくすと笑っている。

「何がおかしいのよ?」

「だら~んと垂れ下がっちゃって、って」と、笑いをこらえるように彼が言った。

「見たままじゃない!」

「悲しいことだね、だら~んと垂れ下がっちゃったテント」と彼が言うと、エズミーもつい笑ってしまった。抑えきれず、説明もできず、どうしようもなく何かを面白いと思ったときに鼻から出てしまう、吹き出し笑いだった。彼の笑いにつられるように、彼女の笑いも大きくなり、相乗効果でお互いの笑いがハウリングを起こした。二人は雨音の中でヒステリックな興奮状態に達し、大声で爆笑したい気持ちと、音を立ててはいけないという思いが混在する複雑な心境にいた。まるで学生時代、体育館で何かの集会があって、声を出してはいけないとわかっていても、どんなに必死に抑えようとしてもこぼれ出ちゃう、クスクス笑いのようだった。

「しょんぼりテントね」とエズミーがなんとか言葉を発した。ようやく笑いが収まったようだ。

「しんなり萎(な)えちゃった」とトムがかぶせてきて、彼女が「全然物足りないわ」と言ったとき、二人の気分は頂点に達し、大爆笑の渦(うず)に包まれた。二人はキャンプ場の野原にテントを構えていたので、周りでも同じようにキャンプをしている人たちがいて、近くのテントから、うるさいぞ、と、騒がしくはしゃぐ子供をたしなめるような声が聞こえた。

「すみませ~ん!」とトムが大声で謝ると、それがさらに可笑しくて、エズミーが再び笑いのつぼにはまった。

「おい、お前ら」と、別のテントから声が聞こえた。「俺たちは明日の朝7時から、20kmマラソンのスタートなんだよ。ちょっとは寝ておきたいんだ」

二人はそれを聞いて、再びクスクスと笑いながら、寝袋は別々だったが、風船のお城の上で弾(はず)む芋虫のように、ごにょごにょと体を動かして、ぴったりとくっついた。

笑い声が消え、二人が現実世界に戻ってくると、トムは身を乗り出してエズミーにキスをした。しな垂(だ)れたテントのことで言い争うのではなく、逆に二人して笑っていることに、トムはほっと胸をなでおろした。10分前までは、テントのことで口論が始まる気配が濃厚だった。もしそうなっていたら、夏の嵐のようにすぐに通り過ぎていく、というわけにはいかず、このキャンプを早々(そうそう)に切り上げて帰ることになっていたかもしれない。また先週の続きか、とげんなりしていたのだが、テントが笑いの種になってくれるとは、予想外の好転だった。先週、いくつかの要因が重なり始まった口論は、口喧嘩に発展し、数日間続く長期戦の末、トムはソファで寝ることになった。―同棲を始めてから、ソファで寝たのはそれが初めてだった。

口喧嘩のきっかけの中で大きかったのは、彼の仕事のことだった。ある決済テクノロジーを手がけるIT企業からの依頼で、誰でも口ずさめるような陽気なウクレレサウンドを、という注文にしたがって、トムは何日も夜遅くまで作曲に専念していた。その企業のPR動画に合わせて、BGMをつけてくれ、という依頼だった。TotalPayというその企業は、かなりやっかいな依頼主だった。気乗りしない仕事ってやつだ。特に、その会社のジュニアマーケティングマネージャーとかいう奴(やつ)が、音楽をかじったことがあるらしく、評論家気取りで、競合他社の企業PR動画と比較しては、いちいちダメ出しし、納品した作品をつき返してくるのだ。だったら自分でやれよ、とは言わずに、奴の指摘にしたがって、メロディーやサウンドの微調整を繰り返していた。そもそも、奴が比べている他社は、PR動画の制作に高額な費用をかけているのだ。つまり、ちまちまと僕なんかを雇ったりしない。

「一体いくらもらってるのよ、割に合わないでしょ。馬鹿じゃないの」とエズミーがベッドの中で言った。彼がそのプロジェクトに毎日何時間もかかりっきりなことにイライラしている様子だった。しかし、この種の仕事は評判がものを言うのだ。彼は最近、大手の広告代理店との仕事に有り付けたばかりだし、彼の作品を気に入ってくれたプロデューサーも現れた。僕は良い仕事をする、ということを間接的に示したかったし、それには時間をかけることも厭(いと)わなかった。

そう言われると、彼もイラッと腹が立った。最近では二人とも、相手が正しいとわかっていても、自分からは負けを認めなくなっていた。だから、彼も話し合おうとする代わりに、叫ぶことを選んだ。

「うっせぇんだよ、エズミー。俺だってあんな仕事はやりたくないけどさ、カバーバンドも活動休止中だし、ライブのサポートメンバーにも呼ばれなくなった。どこかで金を稼がないといけないだろ!」と彼は叫ぶと、ベッドから出て寝室のドアを激しく開けた。そして一目散にリビングのソファを目指し、倒れ込むようにうつ伏せに寝転んだ。が、こんな狭苦しいソファの上ではまともに寝られない、と気づいただけだった。それから2時間ほど、悶々(もんもん)と悩ましい闇の中を漂っていた。引き下がるべきか、否(いな)か、それが問題だった。エズミーに詫(わ)びを入れ、ベッドに戻るという道もあったが、ここで一旦こっちが引き下がると、余計に問題が大きくなるだけだと思い、引き下がらないことにした。翌日、やっぱりベッドに戻るべきだった、と、彼はこの決断を大いに悔やんだ。体のあちこちが痛み、特にずっと曲げて寝ていた腰が致命傷のごとく痛み、20分以上パソコンの前に座っていられなかったのだ。

かなり歩きにくい砂利道をすでに5年ほど、共に歩んできた二人にとって、今回の「四六時中、ウクレレサウンドが部屋に流れている問題」も、些細な話題をめぐる個人的な口論が、ちょっと加熱しすぎただけだと、トムは思っていた。ただ、最近では、そんな些細な口喧嘩が、あらゆる場面で勃発(ぼっぱつ)するようになり、気がかりではあった。たとえば、夜中に幼なじみのアナベルが彼にメールを送ってきたり、エズミーが家でノートパソコンを使って仕事をしているときには、彼女が作業をしながら飲んだのだろう、飲みかけの冷たいお茶が入ったコップが家のいたるところに放って置かれていたりと、お互いの行動がお互いの気に障ることが増えてきたのだ。

きっかけの規模と、そこから発展する口喧嘩の規模はあまり相関関係がない。しかし、どんなにひどい言い争いに発展したとしても、トムは、あの時みたいに発作的に別れを切り出してはならない、と自分に言い聞かせていた。あれは2008年10月のことだった。あの時も今回と同じような感じで口論になり、というか、あれは口論の内容よりも、むしろ距離感の問題だった。エズミーが今まで出会った誰よりも僕の内側に入り込んできたから、僕は戸惑い、パニックに陥ってしまったのだ。何もかもどうでもよくなってしまった僕は、発作的に関係を解消してしまった。

もちろん、それから48時間自戒(じかい)を続けた末、彼は自分の愚かさに気づき、彼女に許しを請(こ)うた。しかしながら、カンカンに頭にきていたエズミーは、それから1週間返事をせずに、彼をやきもきさせ続けた。

最終的に彼女は、ピムリコのパブで彼と会ってもいい、と返事をした。秋が深まってきた頃の雨の日だった。トムはあまりにも早く到着したため、酒びたりの常連客の中に混じって、ダイエットコーラを半分ほど飲み、雨で湿った〈イブニング・スタンダード〉を読んでいた。一応壊れた傘を差してはきたが、地下鉄の駅からの短い道のりでさえ、足がびしょ濡れになってしまった。パブは、週の半(なか)ばから何も考えていないような空っぽの顔でお酒を飲んでいる人たちと、雨宿りをするために立ち寄ったのだろう、しかめっ面をした人たちが混在していた。彼らは皆、窓の外の荒れたテムズ川を眺めていた。灰色の水面が水かさを増し、流れを速めている。外の通りを覆っていた黄金(こがね)色の落ち葉は、―通りを歩けばパリパリと葉っぱが割れる小気味よい音さえしたのに、―何日も降り続いた雨のせいで、泥だらけのカビ臭いヘドロみたいな葉っぱに変わってしまった。

トムは新聞のクロスワードパズルに集中し、濡れたページを破らないように力を加減しつつ、「MAGPIE(カササギ)」と書き込もうとしていた。その時、ドアがきしむような音を立てて開いた。顔を上げると、一週間ぶりに目の前にエズミーが立っていた。トムは微笑んで、半分ほど肘(ひじ)を上げると、ぎこちなく手を振った。しかし、彼女が接近してくると、彼はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。

ハグ? キス? お互い濡れた服のままハグっていうのもな。ただ、この状況を考えると、キスはやりすぎのような気もする。結局、彼は何もしなかった。彼女は上着を脱ぎ、自転車用のヘルメットをトムの新聞の上に置いた。せっかく途中までやったクロスワードパズルを、彼女が台無しにしてしまったわけだが、なんとかうろたえないように平静を装った。

「マジか。こんな雨の中を自転車で来るなんて、よくやるよ」

「そんなに悪くないわよ」と彼女は簡潔に切り返すと、レインコートのズボンをもぞもぞと脱ぎ、それを壁際の大きな暖房器を覆う鉄の柱に掛けた。

「何を飲む? 買ってくるよ」

「じゃあ、ロンドン・プライドで」と彼女はビールの銘柄を口にした。「そんなに飲みたくないから、パイントグラスの小さいやつにして」

トムがテーブルに戻ってくると、彼女は背もたれのない椅子に腰掛けて、iPhoneに指を滑らせ、メールをチェックしていた。―iPhoneは彼女の新しいおもちゃ、というか相棒で、彼女は最近そいつばかりいじっているから、結果的にトムの大嫌いな器具となった。

「それで」と彼はつぶやいた。

「それで」と彼女も言った。パブのざわめきと、遠くから聞こえるラジオの音が、二人の間の沈黙を際立たせ、余計に気まずくなってくる。

「エズ、本当に何と言っていいかわからないんだけど」

「言うことがないなら、もう帰ってもいい?」と彼女は言って、高さのある椅子から降りようとする。

「ちょっ、待って。頼むよ、エズミー。言葉にするのが難しいだけだよ」

「そう、ならどうぞ」

「なんていうか...」とトムは話し始めたが、彼には自分が何を言いたいのか、何を言えば二人の関係を修復できるのか、何も思い浮かばなかった。ただ彼女にもう一度会いたかっただけなのだ。―会ってからのことなど、何をどう説明すればいいかなど、何も考えていなかった。「言いたいことは、ごめんってことだと思う」

「思う?」

「エズ」

「何? 謝ってるのか、そうじゃないのか、どっちなのよ」

「僕が悪かった」

「そう、それは良かったわね、トム」

「エズミー、頼むよ」

「あなたは私に、もう終わりって突然別れを告げたのよ。理由もさっぱりわけがわからないし、それこそ青天の霹靂(へきれき)だったわ。それで、こんな陰気なパブに呼び出しておいて、言いたいことは、僕が悪かった、だけ?」

トムはよりを戻そうと、彼女の部屋にも直接行ったけれど、彼女は不在だった。カムデンからピムリコまで無駄足だったわけだ。

「これは『ごめん』で済む問題じゃないでしょ、トム、わかってる?」

「君が住んでいるところから近いパブを選んだんだよ」と彼は、とりあえず言ってみた。

「何?」

「このパブだよ。君の家から来やすいと思って、ここを選んだんだ。なんかここじゃ不満みたいな言い方だったから」

「それはそうなんだけど、トム。パブの選択は、とりあえず今は、言いがかりのリストの一番下でいいじゃない。まずは、今回のことが起きたそもそもの理由はなんなのか、そこから始めるのが筋じゃない?」

「僕は―」トムは躊躇(ちゅうちょ)した。彼は、自分が別れを切り出した理由を正確に把握していた。ただ、それを自分自身で認め、正直に話すことが、嘘をつくことよりも事態を悪化させるのではないか、と気がかりだったのだ。「僕は神経過敏なんだ」

「神経過敏?」

「そう。なんていうか、ほら、僕らの関係が親密になればなるほど、関係がダメになった時に傷口が大きくなるというか、そう考えるとね」

「それで、自分からさっさとダメにしてしまおうって?」

「まあ、そんなところだね。でも、見切り発車で言っちゃってから、よく考えたら、ダメにするなんてダメだって気づいたんだ。わかってもらえるかな?」

「ちょっと何言ってるかわかんないけど」

「ほら。僕たちは何度か口喧嘩をしただろ。だんだんと関係が変わってきてるんだよ」

「それが人生というものよ、トム」

「わかってるけど―」

「それに耐えられないのであれば、その時は...神のみぞ知るね」

「もし僕らが一緒に住むことになって、たとえばだけど、もしそうなったとして、それでうまくいかなかったら...ひどいことになると思わない? それに、僕って、ルームメイトに不向きというか、僕と一緒に暮らすのはそう簡単じゃないよ。だから僕は―」

「怖気づいたの?」

「そうじゃないけど」

「あなたは怖気づいたのよ。まあ、そうなっちゃうのよね。クリスティーンって子、知ってる? 彼女は今はバーニーと付き合ってるんだけど、前にジェイソンっていう男と付き合ってて、彼と同棲する直前まで行ったの。だけど、引っ越しの2週間前になって、彼は彼女の家に来る途中、バスを途中で降りて、いかがわしいマッサージ店に入って、お金を払ってセックスしたのよ。彼はそれを何のせいにしたと思う? 怖気づいた、ですって」

「僕はしてないよ...そんなことしてない」

「私が言いたいのはね、トム。『怖気づいた』っていうのは、クズ男が自分の不始末をごまかす時に使う下手な言い訳なのよ。それで、あなたはどうして私に、もう終わりにしよう、って言ったの? ほんとは色々思うところがあったんでしょ。でも、そういうのは端折(はしょ)って、一言で済ませたのはなぜ?」

しばらく黙り込んでから、トムは「わからない」と言った。なぜ廊下の火災報知器を鳴らしたの? と𠮟(しか)られている小学生のような気分だった。なぜかと聞かれても、正直、自分でもわからないのだ。わかるのは、自分が間違いを犯した、ということだけだった。

二人とも解決を望んで足を運んだにもかかわらず、その夜、二人は和解に至らなかった。エズミーはまた連絡すると言って、彼を数日間待たせてから、再び連絡を取り、このようなことは最初で最後にしてよね、と明言し、釘(くぎ)を刺した。

トムは二人の関係の軌道を中断させてしまった。一旦不時着(ふじちゃく)した感じだ。だけど、不思議と後悔はなかった。自分がわけもわからず、ごねて、関係をぎくしゃくさせてしまったことは悪かったと思う一方で、この1週間ばかりのインターバルを経て良かったと、ほっとしている自分がいた。


このキャンプ旅行は、二人が明言したわけではないが、関係の修復と再構築のための練習という側面もあった。西部地方で5日間、歩き、食べ、話す。それだけをやってみようということになったのだ。「SNSも、仕事のメールも一切なし」というルールをエズミーが決めた。トムは、どうでもいいようなちっちゃなことですぐに腹を立てないようにする、と約束し、一方エズミーは、彼のささいな欠点をすぐにあげつらうのはやめる、と言った。

そして今、彼らは濡れて、体を冷やし、急速に崩壊していくキャンバス生地のテントの中で身動きが取れなくなっている。

「これってあなたが思い描いてたキャンプ?」と、崩れかけているテントを見上げ、エズミーが聞いた。「テントが崩れ落ちてこないことを願って、このまま目を開けてるしかないわね」

トムは冗談を言おうかとも思ったが、ここはやめて、正直な気持ちを言うことにした。

「僕はただ、仲直りできればいいなって願ってるよ」と彼は言った。

「トム―」

「わかってる。最近の僕は、カッとなったりして、一緒にいて嫌気がさす感じだったよね」

「そんなことないわ、トム」

「いや、ほんとのことだよ」

「それを言うなら、私も、一緒にいて嫌気がさしたでしょ? たぶん私は、あなたの仕事とか、状況がどう変わっているのかとか、そういうことをあんまり理解していないのかもしれない。私って外の世界を知らないっていうか、キャリアをステップアップしていく必要がないから、焦って次の仕事を考える必要もないし。割れにくいシャボン玉の中にいる感じかな」

「音楽業界にそんなシャボン玉はないんだよな。見つけたと思ったら、すぐ弾(はじ)けちゃうものばかりだった。少なくとも今までは」

「でも、あなたは広告関係の仕事が得意なんでしょ。元々あなたがやりたかった音楽は、そういうんじゃないっていうのはわかってるけど、作曲は作曲なんだし。作曲家を名乗れる人なんてほとんどいないんでしょ?」

「一口に作曲っていっても、いろんなレベルの仕事があるからな」とトムは言いながら、自分を取り巻く環境の変化を思い返していた。1年ほど前、テレビの背景音楽を手がけるサウンドプロデューサーが、僕の作品に興味を持ってくれたことをきっかけに、僕には素質があるんじゃないか、と勝手に解釈してしまった。ただ、その興味はほんの一瞬僕に向けられただけで、すぐに弾けて消えてしまった。けれど、そのプロデューサーが紹介してくれた別のプロデューサーに会ってみると、君の才能は主にインターネットを使った広告で活かした方がいいんじゃないかと提案され、この道に入ったのだ。それなりにお金も入ってくるし、自分に向いてる仕事だと思った。まあ、締め切りがあるから、多少妥協して納品しなければならない時もあるけど、おおむね順調なすべり出しだった。家で作業をする時間が増え、ライブの出演がなくなっても、作曲だけで生計を立てられるようになった。思い描いていた作曲生活とは、だいぶ趣が違ったけれど。

「レベルってどういう意味?」

「例えば、映画のスコアとか、そういう目立つ仕事をしてる作曲家もいるけど、限られた人しか耳にしない短いジングルみたいなものを作曲してる人だっているんだ。クレジットカードの読み取り機を売る企業のPR動画なんて、その読み取り機の購入を検討してるスーパーマーケットの担当者しか見ないよ」

「でも、それだって作曲家には変わりないじゃない、トム。それってすごいことよ。それにいつか、自分の道を歩める日が来るかもしれないしね」

「それはどうかなぁ」

「もしそうならなくても、私はあなたが作った短いジングルの一つ一つを誇りに思うよ。ジムでそれを繰り返し聴きながら汗を流すわ」

トムは微笑んだ。彼女は本心からそう言っていると思えた。僕のやることなすこと、すべてを彼女は肯定してくれる。ハムステッドの裕福な家に出向いて、音楽に興味のない子供たちに音楽を教え込もうとする家庭教師を辞めて、新たに広告業界へ舵(かじ)を切っても、彼女は僕を励まし、全面的に受け入れてくれる。児童言語療法士として確固たる地位にいる彼女には、心の底から僕の心境に共感することはできないのかもしれない。だとしても、彼女は常に僕の行動を肯定的にとらえてくれるのだ。

「私の方こそ、謝るべきね」とエズミーが静かに言ったのは、周りで二人の会話を聞いていた他のテントの人たちが、ようやく夜中のお喋りが終わってくれた、と思うくらい沈黙が続いた後だった。

「いや、僕の方こそ」とトムは納得いかない様子で言った。

「トム、そこで張り合わないで。私なのよ、最近の私は...気が張ってた。理由はわからないけど」

「アナベルが夜中にメールしてくるから?」

「それは明らかにすごい迷惑よね。でも、それだって今までは気にならなかったのよ。それに、私はアナベルが好き。彼女はあなたにぴったりよ、いいコンビね。彼女がいなかったら、あのパーティーで私たちは出会えなかったわけだし」

「そうでなくても、僕たちは出会えたと思いたいな」

「どうやって?」と彼女が言った。

「たぶん地下鉄の中でね。たまたま君の好きな小説を読んでる僕を見かけて、君が僕に話しかけてくるとか」

「私が地下鉄で見知らぬ人に話しかけるなんて、絶対にあり得ないわ。それに、私は自転車で通勤してるのよ」

「じゃあ、自転車のタイヤがパンクしちゃって、そこを、たまらなく魅力的な僕が通りかかるんだ。君がつい話しかけたくなっちゃうくらいたまらなくね」

「まあ、あなたが通りかかれば、そうなっちゃうわね」と彼女は、彼の発言を小馬鹿にするように鼻で笑って言った。「それはともかく、最近の私は気が張ってたし、愛想がなかった。私はちょっと...」

そこで彼女は間を空けた。その先を言う勇気を振り絞ろうとしているようだった。

「何、エズ?」とトムは聞いた。

「ねぇ、この機会に教えて。あなたは...問題を抱(かか)えてないの?」と彼女が聞いた。彼女は真剣な表情で彼を見つめている。トムはなんとか取り繕(つくろ)って答えようとしたが、その前に、頭上でテントのポールがボキッと折れる音がした。

「やばいぞ、脱出だ!」とトムが言った。彼らは寝袋から這い出て、衣服をいくつか掴むと、大急ぎでテントから脱出した。間もなくテントの前半分が、溜まった雨水の重みでガクンと崩れ落ちた。坂道のようになったテントの屋根を、溜まっていた雨水がドバッと下(くだ)っていく。ささやかな鉄砲水のごとく、さっき彼らに静かにしろ!と言ってきた、不機嫌なキャンプ愛好家たちが中で寝ているテントへ向かって、その水は突き進んでいく。トムとエズミーは濡れた野原の真ん中で、パジャマにゴム長靴という格好で突っ立っていた。

「正直に言うけど」と彼が言った。彼のよれよれのチェック柄のパジャマは、どんどん雨を吸い込み、下半身までぐっしょり濡れてきた。「実はテントを張るとき、説明書をよく見ていなかったんだ」

「だと思った」とエズミーが言って、雨に打たれながら笑い出した。なんとか持ちこたえていた最後の1本のポールも折れて、テントのキャンバス生地が地面にへたり込んだ。エアマットレスと、保冷用のクーラーバッグ、それからトムのウォーキングブーツの輪郭が生地に盛り上がって浮かび上がった。

頼むから、静かにしてくれないか?」と、別のテントからしわがれた、怒鳴り声が聞こえてきた。

「さっさとずらかりましょ」とエズミーが笑いながら言った。二人はそそくさと荷物を抱えて、グシャグシャにぬかるんだ野原を駐車場に向かって駆け出した。トムはぬかるみを踏みしめながら、さっき彼女が聞こうとしたことを、改めて彼女が聞いてこないことを願っていた。問題は抱えてるけど、抱えてるなんて言えないよ。



〔チャプター 8の感想〕

エズミーはNHS(国民保健サービス)から小学校とかに出向している言語療法士なんですよ。

NHS(National Health Service)とは、

ウィキペディアによると、

「国民保健サービスとは、イギリスの国営医療サービス事業をさし、患者の医療ニーズに対して公平なサービスを提供することを目的に1948年に設立され、現在も運営されている。NHSにはイギリス国家予算の25.2%が投じられている。」そうです。

つまり、エズミーは、ほぼ公務員の医者みたいな感じなんですね。よって、職を失う心配とか、次の仕事を探す必要がないわけで、そこがトムとの違いであり、(僕との違いでもあります。笑)

僕もこの何年かの間に何十回と、個人で仕事をしたことがあって、それはそれは嫌味な企業とか、意地悪な依頼主が結構いました。←愚痴?笑

こっちは超低賃金でやってるっていうのに、評価される立場だから、何も言えず、どんな要求にも従わなければならない...ああ、もうへとへと...って感じ。泣

(あ、もちろん、僕みたいに性格の良い依頼主さんもちゃんといますよ。)←僕みたいに?笑


あ、話が逸れましたが、僕はトムと気が合うんですよ! とはいっても、恋愛の方は、僕の場合、3年くらいで終わっちゃいましたが、この小説の中に色々と共感する場面があるわけです。でも、キャンプには行かなかったな。それが失敗だったか...

僕もテントで一緒に寝る、という非日常体験を共有していれば、上原レナちゃんともっと長く続いたかもな~!←前から思ってたんだけど、その上原レナちゃんって本名なの?笑笑



チャプター 9


午後1時~2時

サプライズ・パーティー

2011年5月 ― ベルサイズ・パーク、ロンドン


「来てくれるんだろ?」と、トムは携帯電話を耳と肩の間に挟み込み、紙吹雪が入った袋を開けながら言った。

「たぶんな」

「『たぶんな』じゃないよ、ニール」

「今さら何を言ってる? 俺は今までずっと定(さだ)まらない男としてやってきたんだ」

「フェイスブックでは、拒(こば)まない男でやってるじゃないか」

「まあ、それはそうだな。それがフェイスブックってもんだろ?」

「いいから来てくれ、いい?」

「ていうか、何が問題なんだ?」とニールが聞いてきた。一歩歩み寄ってくれたわけだが、トムが求めている完全承認にはまだほど遠い。

「会場が広すぎて、困ってるんだよ。2ヶ月前に予約した時よりもずっと大きい部屋なんだ」

「部屋が2ヶ月前よりも大きくなる、なんて怪奇現象があるのか? 同じ部屋だろ」

「察してくれ。そう感じるくらい広いって話だ」とトムは言いながら、ベルサイズ・パークにある〈ザ・ラム(子羊)〉というパブの、がらんどうの多目的ルームを見渡した。これまで1時間かけて、トムはテーブルやカウンターチェアを、配置に工夫を凝らしながら並べ、ビュッフェ用のテーブルには、メインのケーキと、エズミーが好きな食べ物をケーキを囲むようにして並べた。それから天井や壁に、青と白のヘリウム風船を大量に吊るし、華やかさを演出した。それでも部屋は広すぎて、がらんとしている感は消えてくれない。「40人が入れるスペースを甘く見ていたよ」

「なるほど、お前がローストフトでライブをやった時みたいにか。あの時もガラガラだったもんな」

「黙れ」とトムは言った。「ここにいてくれるだけでいいんだ。30分だけでいい。っていうか、30分で帰ってくれ。お前が長居すると、ろくなことにならないから。せっかくのサプライズパーティーがハチャメチャになるのだけは避けたい」

「いいよ。ステイスを連れて行ってもいいならな」

トムはステイスが誰なのか聞こうと思ったが、聞くだけ野暮(やぼ)だと思ってやめておいた。どうせ彼女はニールの最新のガールフレンドだろう。すぐにまた、ニールの元カノの長いリストに加えられるとみた。彼には、すぐに恋に落ちてしまう、という残念な癖があるのだ。ただ、恋に落ちるのと同じくらいのスピードで、相手の許しがたい欠点を見つけてしまうという厄介な特質もあって、そのせいで女性関係の回転率が、ミキサーで攪拌(かくはん)しているのではないかと思うほど速く、周りの人間はついていけない。だからといって、僕がステイスの名前を覚えていない、なんて言ったら、ニールはひどく腹を立てるに決まっている。

「もちろん連れて来てもいいよ」と言って、トムは電話を切った。「なんだよ、くそ」と彼は、自分が飾り付けた見栄えの悪い、出来損ないのパーティー会場をようやく客観的に見て、つぶやいた。パーティーの開始時間まで残り1時間を切っていたが、まだやるべきことが山ほど残っている。

少なくとも、エズミーがこのパブを気に入っていることは知っている。晴れた週末にはハムステッド・ヒースを散歩した後に来たり、雨の日曜日には新聞のクロスワード・パズルを解くために来たり、つまりほぼ毎週末のように訪れているパブだった。二人にとって、いつしかそこは、歴代のお気に入りの場所と肩を並べるくらい個人的な、ホームと呼べるような、くつろげる空間になっていた。彼は初めのうちは、リラックスするためにパブに行く、という考え自体に抵抗を感じてはいたけれど。

トムにとって、酒場は魅惑的であると同時に恐怖を呼び起こす場所でもあった。パプにいる時は常に、自分がどんな人間であるかを自分に言い聞かせている必要性を感じていた。

最初の頃はこの種の不安感に駆られ、〈ザ・ラム〉から早く出ようと、言い訳や噓を重ね重ね口にしていた。店に入ってまだ数分しか経っていないうちから、時には彼女が注文する前であっても、ここから逃げ出せるような口実を見つけ出し、何気なさと切実さのはざまで彼女に訴えるのだ。

今日は混んでて、席が空いてないみたいだね。

ごめん。急に気分が悪くなっちゃった。

なぁ、家に帰らないか? 映画でも見ようよ、それか...

しかし、多くのことがそうであるように徐々にではあるが、エズミーの存在がトムの心を癒し始めた。ロンドンという都会に住む20代男子の魂を救うのは、たいていそういうことなのだ。彼女と向かい合って座っている限り、周りにお酒が溢れるお店の中にいても、禁酒を続けることはそれほどの苦行ではなかった。次第に、パブがなんでもない場所に感じられるようになっていった。

彼女はもちろん、僕の内面の葛藤を何も知らない。カウンターの壁のディスペンサーにはお酒のボトルが逆さまに設置されていて、グラスに注がれるのを今か今かと待ち構えている。チラッとそちらを見れば、僕を惑わすように、それはボトルの中で煌(きら)めいている。飲まなければいられない、という強迫観念は今ではもうない。だけど、消せない何かが心のうちにあった。飲もうと思えば飲むことができるという認識がもたらす、誘惑の前兆のような感覚だった。たとえ飲みたくはなくても、魅惑の鐘の音がかすかに鳴っていた。

それは馴染みのある不安感だった。今でもごくたまにこういう感覚に包まれるのだが、10代後半から20代前半にかけては、それが日常茶飯事だった。僕は銀色に煌めく紙吹雪をテーブルにまき散らしながら、その頃を思い出していた。紙吹雪の一つ一つは30の数字に縁取られている。エズミーの30歳の誕生日を盛大に祝ってあげたい思いに、過去の苦い思い出が覆いかぶさる。酔いつぶれた僕を友人が寮まで連れて帰ってくれたこともあったし、午前3時に父親と姉が、水とコーヒーで僕の酔いを覚まそうとしてくれたこともあった。その時、母は近くでただ泣いていた。大体は学生寮の部屋で一人飲んだくれて、夜更けには年季が入ったカーペットにゲロを吐いていた。まさに、アルコールの危険性を示すにはふさわしい、症例の見本市のような日々だった。だからこそ今では、そういう学生時代を思い返すことで、お酒に対して常にノーと言い続けているのだが、それから数年後、24歳くらいの時には大きなぶり返しもやって来たし、さざ波は絶えずあって、自分をごまかしごまかし、エズミーの顔を見ては、なんとかやり過ごしている感じだ。最終的にたどり着いた結論めいた考えは、僕に欠けていたものの代替要員としてお酒に頼っていた、つまり、精神の支えとしてアルコールを使い、結果、精神を壊した、という相容(あいい)れない矛盾だった。

トムは手に消毒液をつけた。つんと嫌な臭いが鼻をかすめる。ビール・ディスペンサーの取っ手をさするように握る。これをひねるだけでビールが流れ出てくるのだ。5年間続いた禁酒生活から抜け出すのは、どれほど簡単なことか。一口飲めば、きっとそれがパイントグラス1杯になり、1セッションとなり、1つの失敗になるのだ。

手や首がピリピリしびれて、そわそわしてくる。全身の血管がアルコールを求め出したのだ。僕はエズミーのことを頭に思い浮かべようとする。彼女の笑顔や、僕が不安になり始めたら、それを察して僕の太ももに乗せてくれる彼女の手のひらの感触を思い浮かべ、彼女のために禁酒を続けなければならない、と思った。そしていつかきっと、彼女に全てを話そう。今はまだ無理だけど。

トムは腕時計を見た。招待状でみんなに呼びかけた午後1時半が近づいていた。主役のエズミーは、友人のジャミラに連れられて、午後1時45分にこのパブに来る手はずになっている。午前中は老舗百貨店〈セルフリッジズ〉で買い物をしていたはずだ。さりげなくランチを食べにこの店に立ち寄るように、とジャミラに言ってある。

彼が紙吹雪を無造作に辺りの床にまき散らしていると、階段を上がった入口のところに、二人の若い女性がひょっこり顔を出した。(一人は何となく知っている顔で、たしかこの店のバーテンダーだ。)

「いい感じね」と、見覚えがあるショートカットのブロンドヘアーの子が、イギリスの北部地方のアクセントで言った。

「どうも」

「風船の位置が全体的に低いかもしれないけど。ここの天井は高いから、もう少し高く上げても大丈夫よ」

「もう紐(ひも)がないよ。全部使い切っちゃったから」

「そう、ならこれで、全然問題ないわ」と彼女は、明らかに問題ありと言いたそうな表情で言った。

「それで、何人来るの?」

「40人くらいかな」

「わかってると思うけど、会場費だけで2,000ポンド(約31万円)になりますからね。それにプラスして、飲食代もよ」

「わかってます」とトムは言いながら、お酒をやめてから10年近く経つけど、過去最大の飲み代が自分に降りかかってきそうだ、と思った。ゲストは大勢来てほしいけど、そうすると、飲み代もその分かさむという皮肉に、苦笑いがこぼれる。

「彼女の名前はなんていうの?」

「エズミーです」

「いい名前ね。あなたの奥さん?」

「ガールフレンドです」

「何年付き合ってるの?」

「もうすぐ4年になりますね」

「彼女はラッキーね、あなたみたいな人と付き合えて。私のボーイフレンドは、パブに飲みに連れて行ってくれることすらほとんどないし、誕生日パーティーを会場を貸し切って計画なんて言わずもがな、絶対にしないわ」彼女は微笑みながら、ミキサーに入れるフルーツを切り始めた。トムは、エズミーの最近の写真を集めたボードを、季節がら使われていない暖炉の上に飾った。

階段がきしむような音がして、彼は入口の方を振り向いた。ほどなくして、エズミーの両親、タマスとレナが笑顔で現れた。二人はこのパーティーのために、珍しくロンドンに出てきたのだ。タマスは手を伸ばし、トムの手をきつく握りしめた。思いっきり握り返してこい、と言わんばかりの力強さだ。まるで握力で男の度量を測れると本気で思っているようだった。一方、レナはトムをぎゅっと抱きしめると、頬に長めの口づけをした。頬に深紅(しんく)の脂ぎったキスマークがべっとりと残るほどだった。

「本当にあなたって素晴らしいわ、トム。うちの子のために、こんなことをしてくれるなんて」と彼女は言った。「会場も素敵に飾ってくれて」

「ありがとうございます」

「少し風船が低いように見えますけどね」

トムは引きつった笑みを浮かべながら、ちょっと失礼します、と言って自分の両親の元へ向かった。ぐずぐずしてると、僕の両親がつかつかとこっちにやって来て、エズミーの両親と気まずい会話を始めるに決まってるから、それを食い止めるためでもあった。―僕の両親はきっとそうするのだ。そうしたいからではなく、そうすべきだと思ってするのだ。

この4人が顔を合わせるのは今回が初めてというわけではない。2009年、エズミーとトムが一緒に暮らし始めてから2ヶ月後に、二人は引っ越し祝いをしたのだが、新居で行われたそのささやかなパーティーが、お互いの家族の初顔合わせにうってつけの機会となった。4人とも上辺(うわべ)は打ち解けたように振る舞っていたが、50代後半とか60代前半の男女の間に友情が芽生えたり、それを育むなんてことは、人によって程度の差こそあれ、無理な相談なのだ。その年齢になれば、確固とした自分らしさというか、ゆずれない特質を備えているわけで、それがバチバチとぶつかり合い、見えない火花を散らすのは不可避だった。

それでもなお、4人は、あたかもそれが自分の子供のたっての願いであるかのように、あるいはゲームを楽しむように、事あるごとに一通りの表面的な礼儀作法をこなすのだった。そして後日、父親はトムに向かって、それしか言うことがないのだろうが、聞き飽きた台詞を口にする。「タマスさんはいい人だな、奥さんのレナさんは素敵な女性だし」そう言われたところで、中身がこもっていないのが丸わかりだから、返答に困るだけだ。

「素敵な会場に仕上げたわね、トム」と彼の母親が言った。「彼女はこの会場にふさわしい人なのよね?」

「もちろんだよ、ママ」とトムは言った。彼女は誇らしげに彼の二の腕を掴むと、興奮気味に彼の腕を左右に揺らした。おそらく母親はこの日に特別な何かを期待しているのだ。誕生日パーティーなのに、婚約披露パーティーか何かと勘違いしてもらっては困るのだが。

「ただあれだな、もう少し風船を上に掲げた方がいいな。彼女の友達が、みんな小人ってことはないんだろ?」父親はそう言って、くっくっくっと一人で笑いながら、バーカウンターの方へ歩いていった。どうせ店員に向かって、「ロンドンはなんでこんなに物価が高いんだ」と、文句ともジョークとも取れるような言い方で絡みだすに決まっている。

階段を上がってくる、さらなる足音が聞こえた。エズミーの友人たちが、彼氏を引き連れてやって来たのだ。―彼氏連中はトムにとって馴染みのある面々だった。というのも、何かのパーティーがあるたびに、エズミーに背中を押されるようにして、彼氏たちの輪に否応なく入れられていたからだ。彼らとは、3回、4回と会ううちに、フェイスブックで友達に追加されたり、時にはゴルフやフットサルの試合に誘われるようになった。彼らも、僕がどうせ断ることはわかっていて儀礼的に誘ってくるのだ。(エズミーはそのたびに、たまには体を動かしてきなさいよ、としつこく言ってくるのだが、)僕は結局断るのだった。「昼間に外でスポーツ」というだけなら、行ってもよかったのだが、その後の飲み会が目的であることは目に見えていたので、断ざるを得なかった。

最初に現れたのはローラだった。エズミーの元同居人の記者だ。一緒にスティーブ(「ステ」と呼ばれている男)も入ってきた。彼は「マジか、お辞儀して通れってことかよ」と叫ぶと、風船に頭突きをくらわせた。その風船がトムの方へゆっくりとなびいてくる。エズミーの話によると、ローラはもうすぐスティーブと別れるつもりらしい。すでに彼女は同僚の男と懇(ねんご)ろな関係にあり、その男に乗り換えるという。昨年の総選挙の取材で、一緒に徹夜でレポートを書いているうちに気心が通じ合い、そこから発展してベッドをともにしてしまったというのだ。トムは、もうすぐ捨てられる「ステ」を見て、少し同情した。といっても、ほんの少しだ。彼は時間とお金に余裕があるから、ロンドンの中心地〈スクエア・マイル〉のストリップ劇場に足しげく通っているのだ。そんな男にありったけの同情は出せない。

続いて、エズミーの友人と、そのパートナーが続々と入ってきた。トムは指折り数えるほどしか会ったことがない人たちもいる。エズミーの人生にはまだ詳しく語られていない地域があって、彼女たちはそこで仲良くなった子たちだろう。大学時代の友人たちとは、離れれば離れるほど連絡を取らなくなっていくらしく、大学でできた友人と会ったり話したりすることは今ではまれなようだ。彼女たちは、トムがこのパーティーを企画したことを、すごいじゃない、と称(たた)えたり、どうやって今日まで彼女に秘密にできたのかと感心したり、それからもちろん、風船の位置が低すぎることについて言及したりした。

「パブの安全衛生規則で決められてるんだよ」とトムはつい、エズミーの幼なじみの同級生に向かって、少し大きめの声で言い放ってしまった。レスターから来た彼女はただ、誰がこのバルーンを飾り付けたの? と、疑問に思ったことを悪意なく口に出しただけなのに、溜まったうっぷんを彼女にぶつけてしまった。「ヘリウム入りのバルーンは天井から6フィート(約180センチ)以上離さなければならないっていう規則があるんだよ」

風船に囲まれ、人々が次々と挨拶してくる。こんにちは、とか、元気してた? とか何気ない世間話が繰り返されるが、トムは会話に集中できなかった。時刻は1時40分。あと5分でエズミーがやって来る。周りを見渡せば、エズミーの知り合いや、エズミーが大好きな人たちが彼女の到着を待っている。トムは不安に包まれていた。エズミーがここに入ってきて、この面々を一度ぐるっと見渡したのち、彼女は踵(きびす)を返し、そそくさと帰ってしまうのではないか、という予感が拭えなかった。

このパーティーの企画自体が、ひどく残念なアイデアだったのだろうか?

「私とあなただけで祝いましょ。ディナーとか。それか、週末のお出かけ程度でいいわ」と、彼女の30歳の誕生日はどうしようか? という彼の問いかけに対して、エズミーは言っていたのだ。あれは今年の元日のことだった。ロンドン動物園とかがある〈リージェンツ・パーク〉を散歩するのが、二人にとって1月1日の恒例行事になっていて、軽い足取りで冬の公園を散策しながら、これからの数ヶ月の希望や展望について漠然と、気楽に話していた。

「でも、30は大きいだろ、エズ」とトムは言ってから、急に言い訳を始めた。「いや、数量的な意味で大きい、って言ってるんじゃなくて、30歳はまだまだ若いけど、なんていうか、人生の節目という意味で大きいだろ」

「そうね。でも節目って言われても、実際何をすればいいの? 私の生活は2年前と何も変わってないのよ。横にあなたがいることを除けば、5年前とも同じね」

「まず第一に、同じなんてことはない。第二に、この10年間を振り返ってみようよ。最近の2年よりもたくさんのことを、君は20代の間に成し遂げてきたんだ。僕と違って大学で学位を取って、修士号まで取って、素晴らしい仕事を得て、ロンドンにホームを持った」

「ロンドンにホームはないわ。私たちが住んでる部屋は賃貸よ。ロンドンの共同住宅に住んでるだけでしょ」

「そうだけど、僕が言いたいことはわかるだろ。言い方はなんでもいいけど、ロンドンを拠点に生活してるじゃないか」

「私の本心を言えば、べつにロンドンに住みたいとも思ってないけどね」

「マジで言ってる?」

「イギリスにはたくさん都市があるじゃない。ロンドンだけが都市じゃないでしょ、トム」と彼女は、むくれたように頬を膨らませて言った。「今年はいろんな都市で会議に参加したわ。ブリストル、ノリッジ、マンチェスター、どこも素敵な街だった」

「僕の家族は今もノリッジの近くに住んでるよ」

「だから?」

「もし僕らがノリッジに引っ越せば、いつでも会いに行ける」

「家族に会うのはいいことよね」

「でも、いつでもってなると、うざいかも」

「そうね。っていうか、私が言いたいのはね、私はもうすぐ30歳になろうとしている。たしかにそれは大きいことなんでしょうけど、でもね、きっかり10年置きに節目が来て、すべてがリセット、みたいに思いたくはないの。30歳になる条件が揃ったから数字が繰り上がるってだけで、私の未来は過去数年の延長線上にあるだけなのよ。それはずっとそう」彼女は凍った水たまりの氷をブーツで割ってから、続けた。「私たちの親の世代が30歳になった時は、まさにそんな感じだったんでしょうね。仕事があって、家があって、家族がいて、友人がいて。それから、40代半ばになって、自分の子供たちが自立してそれぞれの人生を歩み始め、友人たちが離婚し始めるまでの間も、何も変わらなかった」

「何が言いたいんだ、エズ?」

「今の30歳は昔みたいに大きな意味はないってこと。なぜそれを祝うのか、私にはさっぱりわからないわ」

「じゃあ、代わりに何を祝えばいいんだ?」とトムが聞いた時、二人はテニスコートの脇にさしかかった。そちらに目をやると、ぽっこりお腹の中年男性たちが、若いテニスコーチの目を引こうと、やたらめったら力(りき)んでサーブやスマッシュを打ちまくっていた。

「5よ」

「は?」と、トムもつられてコーチをチラ見しながら言った。

「5がつく年(とし)を祝うべきだわ。25歳、35歳、45歳。今の時代、節目となるのはむしろそっちね。25歳、大学を卒業して、自分の人生の大海原に出て、これから何をして生きていくべきかを考える年よ。35歳になると、もう結婚していたり、子供がいるかもしれないわね、あるいは何かしらの人生の蓄積みたいなものは手にしてるでしょ」

「45歳は?」

「どうなんだろ。離婚しようとしてたりしてね」

「なんか陽気に言うね」

「25歳で相手を探して。45歳になったら、また別の誰かを探すのよ。人生ってそういうもの」

「なんて暗い未来像を描(えが)いてるんだ? 絵の具の色を変えた方がいいと思う」

「そんなにどんよりとした絵じゃないわ。ただ写実的なだけ」

「それはともかく。じゃあ、35歳になったらパーティーをするってこと?」

「私はパーティーがあまり好きじゃないのよ」

トムは何も言わず、ボート乗り場のある池にかかる橋を渡り、北に向かってカムデンの方へ戻り始めた。

「どうして黙っちゃったの?」と彼女が聞いた。「ねぇ、パーティーを企画しようとしてたとか、そういうんじゃないんでしょ? 違うって言って」

「それいいかも。みんなで集まってさ」

「ちょっとやめてよ、トム。ほんとにやめて。あなたのお姉さんみたいに、『ノーだけど本当はイエス』って意味じゃなくてよ。彼女はフィアンセのネイサンに『クリスマスプレゼントなんて要らないわ』って言ったんでしょ? そしたら彼が真に受けて、本当に何も買わなかったって話は面白いけど、私の場合はノーと言ったらノーなのよ」

「わかったよ」とトムは言った。「ノーと言ったらノーね。了解」

ノーと言ったらノー。

その言葉がトムの頭の中で鳴り響いた時、ジャミラからメールが届いた。


もうすぐエズとパブに着くわ。みんな準備はOK?💋


トムは「OK」と打ち返すと、グラスを2つ手に取り、それをカチンと鳴らして、みんなを静かにさせた。グラスの鳴る音が耳にこだまし、喉(のど)が急激に乾いていくのを感じつつ、この企画自体が本当にひどいアイデアだったんだ、と確信した。今からでも遅くない、みんなに裏口から帰ってもらった方がいいのではないか、という考えさえ過(よぎ)る。

「皆さん、あと2分です」と彼が声を上げると、周りから大きな歓声が湧き起こった。

「こういうのってどうやればいいのかわかってないんだけど、まず電気を消して、静かにして、彼女が入ってきたら、『サプライズ 』って叫ぼう」

バーテンダーの女性がそれに応えて、調光スイッチを切った。部屋に暗幕がかかったように、急に薄暗くなる。その時、パブの古い木製の階段がきしむ音がした。エズミーだ。

トムの胸は高鳴った。―彼女はどんな反応をするだろうか? 愛情のまなざし? それとも怒りに満ちた目でにらまれる? 勢い良く体を翻(ひるがえ)して、この場から立ち去ってしまうとか?

それから、ふと気づけば、エズミーが目の前に立っていた。―綺麗だった。黒のジーンズに白のコットンシャツ、そしてつま先に赤いポンポンが付いたハイヒールを履いている。彼女の顔には、何の前触れもなく氷混じりの冷たい池の中に突き落とされたような、ぽかんとした表情が浮かんでいた。口元は笑顔と悲鳴、どっちつかずの位置でけいれんしているようだった。

薄暗い部屋の中で二人の目が合った。明かりが灯(とも)る前の一瞬、トムはエズミーの全注目を瞳で受け止めた。人々が彼女にどっと群がり、つながった視線が邪魔される前のほんの一瞬、時間が止まったかのような、完璧な瞬間が訪れた。僕はこの先ずっと死ぬまで、あの時の彼女のまなざしを覚えているだろう。

「サプラーイズ」という叫び声が、部屋の前方から巻き起こり、メキシコ湾で発生した波のように、後方に向かって伝播(でんぱ)していった。一瞬で、その波は二人だけの完璧な瞬間をさらっていった。それが収まると、エズミーが型通りに驚きの声を上げて、みんなに応えた。ローラがスパークリングワイン〈プロセッコ〉のグラスを片手で持ってやって来た。空いてる方の手で彼女の腕を引き、親しい友人たちの方へ連れて行こうとする。

「待って」とエズミーが鋭く言った。ローラの手から腕を振りほどくと、彼女がトムの方へ近づいてくる。彼の心臓も、肺も、おそらく肝臓も、喉の奥辺りにキュッと集められたように、緊張が走る。

「あなた?」と彼女が言って、ほのかな笑みを浮かべた。どっちとも取れる笑みだ。

「僕だよ」

「全部あなたが?」

「ほとんどね。君は―」

「すべてを受け入れるわ」と彼女が言った。そして両腕を広げると、身を乗り出し、覆いかぶさるようにトムの唇にキスをした。が、二人はすぐに引き離され、彼女は波に飲まれるように、友達の渦の中に消えた。


トムが再びエズミーを見つけるまでに10分ほどかかった。その間に彼女はスパークリングワインを2杯飲み干し、ケーキや料理が乗ったテーブルを、何から食べようかしら、と見ているところだった。テーブルにはプレゼントやメッセージカードが積まれ、さらに(そんなつもりはなかったのに)低すぎる風船まで乗っかっている格好だ。

「僕のことが嫌いになった?」と、トムは彼女の手を取りながら言った。

「そうね、ちょっとうわってなった」

「ムカついてる?」

「うーん、どうだろ」と彼女は言った。

「じゃあ、気に入った?」

「まだ始まって10分しか経ってないから、わからないな」

「そっか...そうだね」と、トムは床に視線を落としながら言った。

「ねぇ。ちょっと二人で外に出よっか? 自分の考えをまとめて、気持ちを整理したいの」

「ああ...なるほど」と言いながらトムは、このパターンはあれだな、と確信した。彼が彼女の発言を無視して勝手気ままにやっている時に、彼女がプチンッとキレるパターンだ。二人は階段を下り、一般客でごった返すパブの一階を通り抜けた。日曜日の散歩者たちがふらっと立ち寄って、空いているテーブルはないかとキョロキョロ探している。裕福そうな家族は予約席で団らんの真っ最中だ。エズミーはトムを引き連れ、大きくて重い木製の扉を開け、店の前の〈フリート・ロード〉に出た。道端では何人かの酔っ払いがたむろして、タバコを吸っていた。

「やっぱり気に入らなかったんだ?」とトムは、二人きりになった時に言った。

「いいえ」

「イエスって言っていいよ、エズ。受け入れたふりなんてしないでさ。本心を隠すなんて君らしくないじゃないか」

「トム、ほんとにすごく気に入ったわ」と彼女がにっこりと笑顔で言った。

「ほんとに?」

「ほんとよ!」と彼女は言った。「すごいわね。感動しちゃった。というか、よく秘密にしておけたわね。そっちの方がもっとびっくりよ」

「かなり大変だったんだ。特に君の―」

「ママ?」

「さすがに鋭いね」と彼は言った。

エズミーが不意に僕にキスをした。彼女の唇から〈プロセッコ〉の味が伝わってきた。それは僕には馴染みのない飲み物だった。発泡性のワインは軽すぎるというか、飲んでもなかなか酔えないから、あの頃、即効性重視だった僕が手にすることはまずなかったのだ。

「あなた、ちょっと大丈夫?」とエズミーが聞いてきた。

「それなりに」

「私が言ったこと、ちゃんと聞いてた?」

「いや、ごめん。ちょっと考え事してた...気にしないで」と言ってトムは、タバコを吸っている一団の方へ視線をやった。

「もう一度はっきり言っておくけど、今でも私はパーティーっていう催しが嫌いなのよ」

「わかった」

「さらにサプライズ・パーティーとなるとね、困ったことに、私はきちんとメイクしたり、服装を選んだりできない。髪の毛もね」

「今の君はすごく素敵だよ」

「トム」と彼女は言って、彼を黙らせた。「私はね、あなたがしてくれたことに対して、気に入ったって言ったのよ。この数ヶ月間、あなたはいろんな人たちを招待したり、ケーキや飾り付けの準備をしたり、いろいろしてくれた。それもこれも全部私のためでしょ」

「よかった」とトムは言いつつも、まだ頭の半分は彼女の話に集中できていなかった。たむろしているグループの中の一人に見覚えがあったのだ。もう10年くらい見ていない顔だった。そして、もう二度と見たくない顔でもあった。さらに悪いことに、そいつはタバコを吸いながら、チラチラこちらを見ている。僕を認識しているようだ。

「でも、ひとつだけ」と彼女が言った。「あの風船はちょっと低すぎるわね。みんなどしどし頭をぶつけちゃって―」

「ちょっと待って」

「風船のことを言ってるのよ」エズミーは彼の顔の前で手を振った。「トム? どうかしたの―」

「伝説のトム・マーレイじゃないか!」忘れかけていた、しかし馴染みのある声が、エズミーの発言を蹴散(けち)らすように、鋭く僕の耳に届いた。

ジョンだ。タバコを吸っている男の名前はジョン。仲間うちではジョノって呼ばれていた。ハートフォードシャー大学の寮の食堂で毎晩のように顔を合わせた。その後、学生会館で一緒に飲むこともあったし、近くの繁華街〈セント・オールバンズ〉のパブまでみんなで出歩くこともあった。みんなエンジニアを専攻していた。仲間うちでの冗談交じりのやり取りが、ふと頭に蘇る。お酒を飲んで酔っ払ってくることを、「油が乗ってくる」と言っていた。決まって行くパブが3軒あって、その店を順番にすべて回ることを「トラック一周」と呼んでいた。彼らは僕を邪険(じゃけん)にすることなく、仲間の一人とみなしてくれたが、決して友達ではなかった。

ジョンは僕の手を握ると、力強くその手を揺すった。彼は明らかに酔っ払っていて、タバコを口にくわえたまま、その場でふらふらと体を左右に揺らしている。

「元気してたか? 長らくその面(つら)を拝(おが)まなかったな。お前は自ら行方(ゆくえ)をくらましやがったんだ」

変わってないな、とトムは思った。昔からこいつはこういう話し方だった。10代後半からすでに、こじんまりとした平屋のパブでカウンターにつっぷしている50代の溶接工を思わせる話し方をしていた。

「僕は元気だよ」とトムは言った。「実は今、彼女の30歳の誕生日パーティーの真っ最中で、ちょっと抜け出してきたところなんだ―」

「ハッピーバースデー!」ジョンはエズミーの手を握ると、ほとんど叫ぶような大声で言った。「気づいたら三十路(みそじ)の大台に乗っちゃったってか? あっという間だよな」

「とにかく」とトムが口を挟んだ。さっさとエズミーをジョンから遠ざけなければならない。話が過去のことに移り、ジョンとどこで知り合ったのか、みたいな話題になる前に早く。そのことを考えるだけで、というか、エズミーが僕の過去を知ってしまったら、と思うだけで、胃がぎゅっと締め付けられ、ねじれるような感覚を覚えた。よりによってなぜ今日、このようなことが起きなければならないのか。






藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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