『ミュージック・スクール』

『ミュージック・スクール』 by ジョン・アップダイク 訳 藍(20161022~20161119)


 私の名前はアルフレッド・シュヴァイゲンといい、私は時間の中に存在している。昨夜、若い司祭の話を聞いたのだが、彼は聖餐式で食べるパンに対する教会の姿勢が変わってきたと言っていた。何世代にも渡って修道女や司祭は、(その若い男が言うには)特に修道女はカトリックの子供たちに「パンは口の中に入れたまま自然に溶けるまで待つように」と教えてきたらしい。歯で嚙んだりしたら、(絶対にそうしてはならないという教義があるわけではないが、そういうニュアンスで教えるしきたりだったので、)ある意味で神への冒涜になる、と。

 今では教会は次々と新しく大胆な考えを打ち出していた。まるで思いがけなく照らしてくれる太陽のような存在の故ヨハネ教皇の思いに応えてツンドラの氷が溶けるように、教会も柔軟になっているのだ。そんな中で、キリストは『これを取って、汝の口の中で溶かせ』と言ったのではなく、『取って食べよ』と言ったという考え方が生じてきた。その『食べよ』という言葉を文字通りに解釈すると、キリストの肉が物理的に栄養となり血となるという化体説の比喩が薄まってしまう。神学におけるこのような微妙な解釈の変化が物質的な世界では綺麗に単純化されて、ミサにパンを供給するパン屋は、舌の上にのせて溶けるような半透明のパンを作る技術を捨て、教会からの指示で、より厚くて堅いパン(実際嚙まなくてはのみ込むことができないほど堅いパン)を用意するようになったらしい。

 今朝、私は知り合いの一人が殺されたという記事を新聞で読んだ。5人の子供の父親である彼は感謝祭から一週間経ったその日、子供たちと一緒に夕食のテーブルについていた。その時、一発の弾丸が窓から撃ち込まれ、彼のこめかみを貫いたのだ。彼は床に倒れ、子供たちの足もとで数分後に亡くなった。知人とはいえ、彼をほんの少し知っているくらいなのだが、彼は私の知人の中で唯一の殺人の被害者になってしまった。そんな役回りは誰であっても余りにも配役を間違っているように思える。地層に必然性があるように、それぞれの人生にはいくつもの出来事が必然的につきまとうものだとしても。

 今はもう、彼が生きている姿を想像することはできない。彼はコンピューターの専門家で、ネブラスカ州出身の優しい声をした体格のよい男だった。私にはとても難解な事柄を扱っていたが、彼は知性をひけらかすような人ではなく相手を思いやる寛大さがあり、私の認識では彼には氷山のような趣があった。水面下に隠された巨大な知性の上にとても静かに浮かんでいるかのような佇まいだった。

 私たちは(二度だけだったと思うが、)共通の友人の家で会ったことがある。その友人は私の隣人で、彼とは職業上の同僚だった。お互いの詳しい分野がかけ離れている者同士が話すといつもそうなるが、私たちもその場にいた誰もが深入りできないような話題について話した。政治とか子供のこととか、たしか宗教についても話したと思う。

 学者や中西部出身者にはよくあることだが、彼は宗教を全く必要としていないという印象を少なくとも私は抱き、彼の中に新人類の典型的な人間像を見た。そういう人間は科学研究所や討論会や屋外でのスポーツといった場で活躍したり、にこやかに節約生活を送ることができる。性的衝動を遊郭だけにつぎ込むような、今では見かけなくなった昔の紳士たちのように、このような男たちは才気を全て仕事につぎ込むのだ。しかも、その仕事は何らかの形で政府と関係しているので、大抵のことは秘密事項である。彼らには豊富な収入があり、たくさんの子供がいて、フォルクスワーゲンの大型車やハイファイのレコードプレーヤーを持っていて、半分改装したヴィクトリア王朝風の家に住み、それから、皮肉を言う悩みがちな妻がいる。彼らは私たちが考える動物であるという逆説を解決してしまったか、あるいは忘れてしまったように思える。彼には罪の意識が欠けていて、今世紀のことには関心がなく、次の世紀のことに関わっているかのような印象だった。

 私が彼のことを個人的にはっきりと覚えているのは、かつて私はコンピューター・プログラマーについての小説を書こうとしていたからで、それで私は彼にいろいろと質問したのだが、彼は快く答えてくれた。私の家から1時間ほどのところにある彼の研究所に、気が向いたらいつでも訪ねていいと彼はさらに愛想よく言ってくれた。

 私はその小説をついに書くことができなかった。私の人生の中で、その小説が結晶して綺麗に形になるはずの瞬間が余りにも急速に消え去ってしまったのだ。それで私は彼の研究所にも一度も行かなかった。実のところ、彼と最後に会ってから今朝までの一年間、一度も友人である彼のことを考えなかったように思う。今朝、朝食の席で妻が私の前に新聞を置くと、「私たち、彼のこと知らなかった?」と私に聞いてきた。熊のように大きく見開いた目をした、にこやかな彼が新聞の一面から私を見つめていた。

 私は彼が殺されたという記事を読んだ。昨夜のことと今朝のことがどうつながっているのかわからないが、何か関連があるように思える。午後になって、私は娘がピアノのレッスンを終えるのを待ちながら音楽教室の片隅で座って、そのつながりをつきとめようとしている。二つの出来事には栄養を摂取すること、すなわち異物の侵入を美化する行為という共通の要素があるように思えてくる。それに、この二つの出来事には類似した動きもある。つまり、無形の現象(宗教的優雅さと、狂気じみた憎悪)から有形の現象(堅いパンと、こめかみに撃ちこまれた銃弾)へと移る完璧なほどに直接的で優雅な飛翔がある。

 その殺人について、被害者である彼のことを思うと、私の知る限りでは、彼が誰かの感情を害したのだとしても、それは恨まれるほどのことではなかったのではないかと私は確信している。彼自身は罪悪感を抱くことも、恥ずかしく思うこともなかった些細な何かが発端だったのだろう。私がその事件を思い描こうとすると、数字やギリシャ文字しか見えなくなる。そうして私はこう結論づける。私は遠くからほとんど前例のないような犯罪、すなわち純粋に科学的な情熱がもたらした罪を目撃しただけだ、と。

 もし付け加えるとすれば、あの若い司祭は十二弦のギターを弾き、メンソールの煙草を吸う。そして、あの司祭はカトリックなのだが、プロテスタントの集会に同席しても物おじするようには思えないし、あの未来から来たような、私の殺されたコンピューター仲間の無神論者の輪に入っても、きっと仲良くやれただろう。

 さて、この音楽教室について語ろうと思う。私はここが大好きだ。ここは大きなバプティスト教会の地下にある。私の横にあるテーブルの上には金色の募金用のお皿が何枚か置かれている。思春期に入ったばかりの顔を赤らめた女の子たちが、淡い黄褐色のフルート用ケースと楽譜を入れた透明なフォルダーを手にして、私のそばを小走りに通り過ぎる。女の子たちのぎこちなさが可愛らしい。まるで泳ぎに来た海で海水を確かめるように足を踏み入れているみたいだ。男の子たちや母親たちもやって来ては帰って行く。

 四方八方からピアノやオーボエやクラリネットの音が、もう一つの世界が存在する気配のように聴こえてくる。その別世界で、天使たちが手もとを狂わせ、ちょっと止まり、そしてまた弾き始める。その音楽に耳を澄ましながら、私は音楽を習うとはどういうことかを思い出す。初めての演奏がどれほど途方もなく複雑で難しいことかを思う。それは、それぞれの音符に位置と長さの二重の意味が込められている独特の言語を初めて読解するのに似ている。楽譜はラテン語のように複雑で、ヘブライ語のように簡潔で、アラビア語や中国語のように見ためで驚く言語でもある。五線紙に書かれた書道のように、なんと神秘的に見えることか! 渦巻きのようなト音記号、上に書かれた連結線、下に書かれたデクレッシェンド、付点やシャープやフラット!

 初めて楽譜を目で追ってから、初めて演奏するまでには、なんと大きな壁が立ちはだかることか! 目で見たものがぎこちなく音に変わり、音が音楽となり、音楽が感情となり、そして感情が目に見えるものに変わっていく。この円環を最後まで辿っていける音楽の心を持っている人はほとんどいない。私も音楽を何年も習ったが、全く身に付かなかった。それで昨夜、司祭の指が自信に満ちてギターのネックの上を動き回るのを見ながら、私は羨ましくもあり、信じられない気持ちだった。

 私の娘はピアノを習い始めたばかりである。初歩のレッスンを受けている彼女は8歳で、熱心であり希望に満ちている。レッスンを受ける町まで9マイルの道を車で走っている間、彼女は静かに私の横に座っている。帰りの道中も、暗い中で彼女は黙って私の隣に座っている。普段の彼女とは違って、ご褒美にキャンディーやコーラをねだったりはしない。まるでレッスンそのものがご褒美だとでも思っているかのようである。彼女はただ、「お店の窓がもうクリスマスの飾り付けになってるよ」と言うだけである。そのぼんやりとした言い方は、成長した子がクリスマスの飾り付けを見て反射的におねだりするようでもある。

 私は彼女を連れてここに来るのが好きだし、こうして彼女を待つのも好きだし、確実に夕食が待っている家に向かって、神秘的な闇を抜けて、彼女を乗せて車を走らせるのも好きだ。私がこうして娘を送迎しているのは、今日は妻が精神科医のところに行っているからである。彼女が精神科医のもとに通っているのは、私が彼女に対して不誠実で、浮気をしているからである。私にはそのつながりがわからないが、どうやら何か関連があるらしい。


 ついに書くことはなかった小説の中で、私は主人公をコンピューター・プログラマーにしたかった。それは私が思い付くことのできる最も詩的でロマンティックな職業だからである。そして、私の書く主人公はものすごくロマンティックで繊細でなければならなかった。その主人公は不倫が原因で死ぬことになるのだから。つまり、不倫は可能なのだと知ってしまったために死ぬ。神のもとで不倫が可能だという、その可能性が彼を押しつぶしてしまうのだ。

 私は彼をこんな風に思い描いていた。彼は夜の書斎でプログラミングをしている。(私の聞いた話では、コンピューターはとても貴重なので昼間はずっと企業が利用していて、夜になってやっと自由に娯楽のために使えるそうだ。)彼はプログラミング言語を考案しながら、それを駆使して、真実を浮かび上がらせる音楽のように、2拍子のリズムに乗せて様々な問題を機械に打ち込んでいく。

 私は彼を、この粗雑な時代で生きるには洗練されすぎていて、純粋で几帳面すぎる男として頭に描いていた。生物学的に喩えると、彼は恐竜の足の下に踏みつぶされた哺乳動物が突然変異という進化を経た結果、この世界では生き残ることができない生物になるはずだった。数学的に喩えるなら、彼は仮説的な究極の数字、すなわち最後の実数の一つ先の数字となるはずの男だったのだ。この小説のタイトルは『N+1』とする予定で、冒頭の一文はこうするつもりだった。「エコーが頭上を通り過ぎる時、彼は大きな花柄の洋服の上から、マギー・ジョンズの脇腹を優しく撫でた」

 エコーとは人工の星であり、最初の驚異の星である。芝生でパーティーをしているカップルがエコーを見上げながらお互いを抱擁している。マギーは彼の空いている手を取り、その手を自分の唇にもっていくと、優しく息を吹きかけ、指の関節にキスをする。動きを止めた彼は、彼自身の中で、地球の大きく緩やかな回転にやっと追いついたように思えた。頭上では、新たに宇宙空間に誕生した硬くて小さな白い星が、古い星々の間を穏やかに進んでいく。エコーとは対照的に、他の星々はきれぎれに弱々しい光を放っているように見えた。

 科学技術の奇跡が浮かぶ不吉な空の下、この静まりかえった瞬間から、物語の本筋は多かれ少なかれ下降線を辿り始める。それから物語は恋と罪の意識の中へと入り込む。いつしか主人公は神経衰弱へと至る。生理的な病気もあって、(私はこの辺の専門知識を調べなければならないが、)その病気が原因で彼は死んでしまう。間違えた数字が黒板から消されるように静かに。

 この物語には、主人公と妻と愛人と、それから彼が受診している医者が登場する予定だった。最後に、妻はその医者と結婚するのだ。そして、愛人のマギー・ジョンズは穏やかな自分の生活に戻っていくのだろう。比較的に色褪せた私を置き去りにして…もう、やめよう。


 私が受診している精神科医は、どうしてそんなに自尊心を傷つける必要があるのかと聞いてくるのだが、それは私に懺悔する習慣があるからだろう。私がまだ少年だった頃、私は田舎の教会に通っていた。そこでは二ヶ月に一度、私たち全員が自分の罪を告白することになっていた。私たちは絨毯の敷かれていない床の上にひざまずき、教会の長椅子の上に礼拝が書かれた本を立てかける。それは厳粛で長い祈りの言葉だった。こう始まる。「主のもとに愛されている者よ! 真心をもって主のもとに近付こう。そして我らの父なる神に我らの罪を告白しよう…」

 ドイツ系の大柄な人たちが床を擦り、祈りの言葉を呟きながら、ぎこちなく後ろ向きにひざまずく体勢を変える。そういう周りの雑音は一種の伴奏音楽のようだった。私たちは声に出して読み進める。「しかし、我らがこのように自分自身を省みれば、我らの内側には罪と死以外は何もないことがわかるだろう。我らは罪と死から自由になることは決してできない」

 告白が終わると、私たちは立ち上がり、長椅子の列ごとに祭壇前の手摺りのところへ導かれる。そこでは、とても小さな白い手をした黒髪の若い司祭が、私たちにパンを食べさせてくれた。司祭は小声で言った。「取って食べなさい。これはあなたがたの罪のために死に伏した我らの救い主、イエス・キリストの真実の肉体である」

 祭壇前の手摺りはニスを塗った木製で、その手摺りは祭壇の三面を囲っていたため、立っていると、(不思議なことに私たちはそこではひざまずかなかったのだが、)一緒に礼拝している人たちの顔が見えた。どうしても見えてしまうのだ。私たちはみな、よそ行きの服を着ていて、外気に晒されたような顔をした地味な大人しい人たちの集まりだった。そして、私がパンを口の中に含んでいる間に見た人たちの顔は、みな緊張していて、閉じた唇の上で彼らの目は涙ぐんでいるようだった。この謎に満ちた谷底から救われたいと訴えかけているように見えた。

 思い出すと唾液が出てくるほどに鮮明な記憶を辿っていくと、確かにパンは嚙まないまでも、口に含んで形を確認するようにしながら、少なくとも歯で触る必要があったように思う。

 私たちは清々しい気分で教会を後にした。「我らは全能の神に感謝を捧げる。この有益な恵みを通して我らを再び元気づけてくれたことに対して」

 その教会はこの音楽教室と同じ匂いがした。耳慣れない囁き声が溢れる中で、ニスを塗られた部分が明るく煌いていた。

 私は音楽的でもなければ、宗教的でもない。私は生きている一瞬一瞬に、絶えず指を置く場所を考えなければならないし、しかも、聴き心地よい和音が出るのか全く自信のないまま、指を下ろさなければならない。

 私の友人たちも私と同類である。私たちはみな、離婚に向かってよろめきながら進む放浪者なのだ。お互いに告白し合うことより先には行けない人もいる。告白がやみつきになり、繰り返しているうちにいつしか疲れ果ててしまう。告白の先に進む人もいるが、彼らは激しく言い合ったり、暴力をふるったりして、そうこうしているうちにいつしか性的興奮にやつれてしまう。精神科医に頼ってなんとかしようとする人も少しはいるし、ごくわずかだが、弁護士に相談する人もいる。

 昨夜、司祭が私の友人たちに囲まれて座っている時、一人の女性がノックもせずに入ってきた。彼女は弁護士のところへ行ってきたのだ。あたかも強風の中を歩いてきたかのように、彼女は苦痛の表情を浮かべ、目を見開き、髪は広がっていた。彼女は黒服を着ている司祭を見ると驚き、自分の身なりを恥ずかしいと思ったのか、二歩ほど後退った。それから静けさの中で彼女は落ち着きを取り戻し、私たちの間に座った。

 二歩後退って再び前へ進むという、この優雅な旋律の繰り返される話をそろそろ終結部へと向かわせなければならないようだ。

 この世の中は教会のパンである。すなわち、嚙まなければ身にならない。私はこの音楽教室の中で満ち足りた気分だ。娘がレッスンを終えて出てくる。彼女の顔は満足そうにふっくらしていて、生き生きと希望に満ち溢れている。下唇を嚙みしめている嬉しそうなその笑顔が、私の心を突き刺す。そして、私は彼女の足もとで死ぬだろう。(おそらく私は今、死につつある…)




藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

0コメント

  • 1000 / 1000