『キリスト教徒のルームメイトたち』
『キリスト教徒のルームメイトたち』 by ジョン・アップダイク 訳 藍(2017年04月05日~2017年07月15日)
オーソン・ジーグラーは、父親が医者をしているサウス・ダコタ州の小さな町からハーバード大学にやって来た。オーソンは18歳で、あと0.5インチで6フィートに届く背の高い男だった。体重は164ポンドで、知能指数155だった。彼の頬にはわずかに湿疹があり、彼は少しいらだったように目を細めて見る癖があった―平らな地平線を長く見すぎたせいで、顔までが上下二つに離ればなれになってしまったかのように目を細めるが、その顔の奥には、はっきりと自信が隠されていた。
医者の息子として、彼はその町ではいつも目立つ少年だった。高校では学級委員を務め、卒業生代表として謝辞を述べ、アメリカンフットボールと野球チームのキャプテンだった。(バスケットボール・チームのキャプテンはレスター・スポッテッド・エルクだった。純粋のチバワ族のインディアンで、汚い爪と見事に白い歯を持つ少年だった。煙草は吸うし、酒は飲むという問題児だったが、重要な意味を持つ事において、オーソンが自分よりも優れていると感じた、初めて出会うただ一人の少年だった。)
オーソンは彼の町からハーバードへ進学した最初の少年だった。そして、おそらく、少なくとも彼自身の息子が適齢になるまでは、最後の人間になるはずだった。将来の計画も彼の頭の中ではしっかり固まっていた。ここハーバードで医学部進学過程を選び、ハーバードかペンシルバニア大学かエール大学のいずれかの医学部で学ぶ。それからサウス・ダコタに戻る。そこにはすでに未来の妻にと選んだ女性がいて、約束も交わし、彼を心待ちにしている。ハーバードへ出発する二日前の夜、彼はその女性の処女を奪った。彼女は泣き出してしまい、彼自身も、どういうわけか、うまくいかず、愚かしい気持ちになっていた。それは彼にとっても初体験だった。
オーソンは正気だった。正気どころか、これから沢山のことを学ばなければならないことも知っていたし、限度はあるものの、大いに学びたいとも思っていた。ハーバードはこういう少年を何千となく加工し、外見上ではほとんど何の損傷も与えず、再び世の中へと戻していく。
おそらく彼がミシシッピー川よりも西の出身で、しかも新教徒(メソディスト)だったからだろう、大学当局は新入生のルームメイトにオレゴン州出身で、宗派を自ら変えた聖公会の学生を選んでくれた。オーソンは課目登録の当日の朝、ハーバードに着いた。14時間もかけて乗りついできた飛行機の旅で、彼は体がこわばり、眠気で目がかすんでいた。その時すでにルームメイトは入室していた。
14号室のドアについている二つの名札の上段に〈H・パラマウンテン〉という文字が流麗な筆跡で書き込まれていた。窓際のベッドもすでに寝た形跡があり、窓際の机にもきちんと本が積み重ねてあった。部屋の中へ入ると、オーソンは眠れなかった目で立ったまま、ふらふらと二個の重たいスーツケースを握りしめていた。部屋の中に誰かがいるのはわかっているが、どこにいるのかよくわからない。彼は視覚的にも精神的にも、幾分ゆっくりと焦点をこらした。
ルームメイトは小さめの糸車の前で、素足のまま床の上に座っていた。彼はすばやく跳ねるように立ち上がった。オーソンが抱いた彼の第一印象は、鋼のバネのような素早さだった。ほとんど魔法のように目の前には、唇が厚く、丸い目をした少年が現れていた。
彼はオーソンよりも頭一つ背が低く、素足の上に水色の先細のズボンをはき、木こりが着るようなチェックのシャツを着ていた。喉もとには絹のフラールをお洒落に巻き、頭にはインドのネルー首相の写真でしか見たことがないような白い帽子をかぶっていた。
スーツケースを下に落とし、オーソンは手を差し出した。ルームメイトは握手する代わりに、両手を軽く合わせると、お辞儀をした。なにやらつぶやいていたが、オーソンには聞き取ることができなかった。それから彼が優雅に白い帽子を取ると、雄鶏のトサカのように細く盛り上がったブロンドの髪が現われた。
「俺はヘンリー・パラマウンテン」西海岸っぽい明晰で色のない彼の声は、ラジオのアナウンサーを思い出させた。握手をすると、鉄のようにかたく、少し意地の悪さが込められているように感じた。
オーソンと同じく、彼も眼鏡をかけていた。レンズが厚いために、甲状腺の病気でもあるかのように目がふくれあがって見え、うさんくさそうに探る表情が強調されて見えた。
「オーソン・ジーグラーです」と、オーソンは言った。
「知ってるよ」
オーソンはなにかもう一言、適切でまじめな言葉をつけ加えなければ、と考えた。言わば、二人の状況はこれから一種の結婚をするようなものだったからだ。
「じゃあ、ヘンリー」彼はぎこちなく、もう一つのスーツケースを床の上に置いた。「これからしょっちゅう、ぼくらは顔を合わせるわけだね」
「俺のことはハブと呼んでくれないか」と、ルームメイトは言った。「みんなそう呼んでるから。まあ、君がどうしてもと言うなら、ヘンリーでもいいよ。君の恐れ多い自由とやらを減らしたくないからね。もっとも君は名前なんか全然呼びたくもないかもしれないね。俺はこの寮ですでに三人も、どうしようもない敵をつくっちゃったんだから」流れるように、はっきりと発音された一つ一つの言葉が、最初からオーソンの心にひっかかる。
オーソン自身はこれまで他の人からニックネームで呼ばれたことがなかった。クラスメイトたちもその名誉だけは彼に与えてくれなかったからだ。少年の頃、彼は自分のニックネームを自分で勝手に考えてみたりした。オリーとか、ジギーとか、そして、ひそかに友達に使わせようとやってみたのだが、うまくいかなかった。それにしても「恐れ多い自由」とは、なんという言い草だ? 皮肉っぽく聞こえるじゃないか。それに、名前なんか全然呼びたくないかもなんて、いったいどういうことだ?あと、このルームメイトはもう敵をつくったなんて、そんな時間がどうしてあったんだ?
オーソンはいらいらしたように、「いつからこの寮にいるの?」と訊ねた。
「8日前から」ヘンリーは何か言い終わると、必ず閉ざした唇をすぼめる。まるで「それで、君はそれについてどう思う?」と言わんばかりに、音こそ立てないが、満足げに舌を鳴らすという感じだった。どうやらたやすく驚かせるやつと見られたらしい、とオーソンは感じた。
しかし、二番目にいいベッドと同様にオーソンのために用意されていたらしい、きまじめな男の役に仕方なく、はまり込むことにした。「もうそんなに長く?」
「そうさ。一昨日まではこの寮にたったの一人さ。俺はヒッチハイクで来たからね」
「オレゴンから?」
「そうさ。それにさ、どんな予期せぬ事があるかわからないだろう。もしものために時間的余裕をたっぷりとっておきたかったんだ。強盗に出くわすといけないから、シャツの下に50ドル札を縫いつけちゃったりしてね。でも、いざやってみるとさ、道中ずっとうまく乗り継げたってわけ。大きな厚紙に〈ハーバード〉って書いておいたんだ。君もいつかやってみたらいい。実に面白いハーバードの先輩たちに会えるぞ」
「君の親は心配しなかったの?」
「もちろんしたさ。親は離婚してるけどね。親父はかんかんさ。飛行機で行けってね。飛行機代はインディアン救済資金に寄付したらいいって言ってやったよ。親父は寄付なんて一切しないからね。それから、俺は年を食ってるんだ。二十歳だよ」
「軍隊に入っていたの?」
ヘンリーは両手を上げ、一発くらったかのように後ろへよろめいた。そして、手の甲を額にあてると、「それはない」と泣き真似しながら身震いしてみせ、今度は体をしゃんと伸ばし、敬礼をした。
「実は今、ポートランドの徴兵委員会に俺は追われているんだ」
彼は機敏に両手を動かし、襟のフラールを引っぱり、広げて見せたが、オーソンは彼の手に目が行った。その手はかなり老けて見えた。骨が目立つほどに細く、静脈が浮き出ていて、指の先端が赤みを帯びていて、女性の手のようだった。
「連中はクエーカー教徒とメノー派のプロテスタント以外は良心的徴兵拒否者と認めないんだ。俺のところの主教も連中と同じ意見だ。病院で働く気があるなら免除にしてもいい、と連中は言ったよ。でも俺は言ってやった。そんなことしたら戦闘義務をみすみす逃すことになるし、病院で働くくらいなら、俺は銃を持つほうがましだって。俺は銃だったら名人だ。ただ、主義として殺生が嫌いなだけなんだ」
朝鮮戦争がその夏に始まっていた。オーソンは軍隊に入るのが自分の義務でもあるはずだと、ずっと悩んできたから、そんな陽気な平和主義に苛立った。オーソンは目を細めて相手を見つめ、「じゃあ、この二年間、何をしていたんだ?」と訊ねた。
「合板工場で働いてたよ。にかわで貼り合わせるんだ。実際に貼り合わせるのは機械がやるんだけど、時々、にかわが多すぎて機械自体が身動きとれなくなるのさ。一種の内省のしすぎみたいなものさ。君は『ハムレット』を読んだことあるか?」
「『マクベス』と『ベニスの商人』なら読んだよ」
「なるほど。とにかく、そうなると、溶剤を使って機械を洗わなくちゃならない。肘まである長いゴム手袋をはめてね。凄く心やすまる作業だよ。にかわを使う機械の内部は、頭の中でギリシャ語の文句を繰り返し思いめぐらすのにうってつけの場所だ。俺はそうやってプラトンの『パイドン』をほとんど全部暗記したよ」
彼は机の方を指差した。そこに積まれた本の多くがギリシャ語のプラトンやアリストテレスの著作で、緑色のローブ版対訳文庫であることにオーソンは気づいた。どの本も背表紙がすり切れている。何度も何度も読まれたことが歴然としていた。その時初めてオーソンは自分がハーバードにいるんだと思い、怖くなった。
オーソンは二つのスーツケースの間で突っ立っていたが、やがて荷物をほどき始めた。「ぼくの分のたんすは残してある?」
「もちろんさ。いいほうを使っていいよ」ヘンリーはまだ使っていないベッドの上に飛び上がり、まるでトランポリンではねるように跳びはねた。「それから、ベッドもマットレスのましなほうを使っていいよ」と、彼はまだ跳びはねながら言う。「あと机も、窓の光がまぶしくないほうを使ってくれ」
「それはどうも」オーソンは答えた。
ヘンリーはオーソンの声の調子に素早く反応した。「もしかして君、俺のベッドの方がよかった? 机も?」
彼はベッドから飛び下りると、自分の机に急いで行き、積み上げてあった本をすくい取った。オーソンはそれをやめさせようとして、ヘンリーの体に触れてしまった。そして触れた腕の、ぴんと張った筋肉のたくましさにびっくりした。
「ふざけるのはやめてくれ。両方とも全く同じじゃないか」とオーソンは言った。
ヘンリーは抱え上げた本をまた自分の机の上に戻した。「どんなしこりも嫌なんだ」と、彼は言う。「子供じみた口論もしたくないし、それに俺のほうが年上だから、譲るのはこっちの義務だ。じゃあ、俺の着てる、このシャツを君にくれてやる」そして、チェック模様の厚地のシャツを脱ぎ始めた。あらわになった首筋に華麗に巻きつけたフラールだけを残し、下には何も着ていなかった。オーソンがとても見ていられないという顔つきを見せたので、ヘンリーは勝ち誇ったように笑みを浮かべ、またシャツのボタンをかけ始めた。
「ドアの名札入れの上段に俺の名前を入れといたけど、あれも気になるのなら外すよ。ごめん。君がそんなに気にするたちだとは思わなかったんだ」
たぶんこれは全部、一種のユーモアなんだ。オーソンも冗談を言おうとして、糸をつむぐ機械を指差し、「その糸車ももらえるのかな?」と訊ねた。
「ああ、これ」ヘンリーは片足で跳ねるように後ずさり、急に恥ずかしそうな顔を見せる。
「これは実験なんだ。カルカッタから注文して取り寄せたんだよ。ヨガの後、1日30分、糸をつむぐわけさ」
「ヨガもやるの?」
「ただの基本的な姿勢だけだよ。蓮華座だと、まだ俺の踵は5分ももたない」
「それと、君は主教に相談するとか言ったね」
ルームメイトは改めて興味を覚えたように、ちらっと視線を上げた。「君はよく人の話を聞いてるんだな。そうだよ、俺は英国国教会派のキリスト教徒で、プラトン主義者で、ガンジーの影響も凄く受けてる」
彼は胸の前で合掌し、一礼し、それから体を伸ばすと、くすくす笑い出した。
「主教は俺のことが大嫌いなんだ」と、彼は言った。
「オレゴンの主教だよ。あいつは俺に兵隊になれってけしかける。ここの聖公会の主教にも会ってきたんだけど、こっちの主教も俺のことを気に入ったとは思えない。そういえば、俺は指導教授にまで嫌われたよ。自然科学の必修科目なんかとる気はありません、なんて言ったから」
「冗談言うなよ。なんでとる気ないの?」
「本当は知りたくもないんだろ」
オーソンはこの拒絶の言葉をこっちの気持ちの強さを試すちょっとしたテストだと感じ、「そう、本当はね」と同意してみた。
「自然科学なんか、人間の傲慢さが生んだ悪魔的幻想にすぎないと俺は考えてる。それが空想にすぎないという証拠は、たえず修正の繰り返しをやっていることでもわかる。だから教授に言ったんだよ、『貴重な勉強時間の4分の1を丸々無駄にして、卒業する頃にはすっかり時代遅れになっている仮説の山を覚えることに何の意味があるんですか? そんな時間があれば、俺はプラトンを読んでいたいんです』ってね」
「あきれるよ、ヘンリー」オーソンは叫んでいた。医学によって命を救われた何百万もの人々の声を代弁するように腹を立てていた。「君は本気でそんなこと言ってるんじゃない!」
「頼むからハブと呼んでくれ。君からすると、俺は扱いにくいやつだろうが、ハブと呼んでくれれば、これからお互いやりやすくなると思うんだ。じゃあ、今度は君の話をしようじゃないか。君の親父さんは医者で、君は高校時代オールAときてる。ちなみに、俺は人並みの成績しかもらってこなかったよ。そして、小さな田舎町でずっと暮らしてきた君からすると、ハーバードは東部の国際的環境の中にあり、大いに役立つはずだと考え、この大学を選んだんだろ」
「いったい誰がそんなこと言ったんだ?」オーソンは自分が入学願書に書いた文章をそのまま言われて、顔が赤くなった。それを書いたときの自分より彼はもうずっと大人になっているように感じた。
「大学本部だよ」ヘンリーは言う。「あそこに行って、君の書類を見せてほしいと頼んだんだ。最初はだめだと言われたよ。でも俺は特別に、一人部屋を申し込んでいたからね。大学側が俺にルームメイトをあてがうつもりなら、そのルームメイトのことを知る権利がある。そうすれば、起こり得る摩擦も最小限で済むって言ったんだ」
「そしたら書類を見せたの?」
「もちろん。信念を持たない人間は抵抗する力も持ってないからね」ヘンリーは口の中で、満足そうに舌を鳴らした。
それで、オーソンは突き動かされるように言った。「じゃあ、君自身はどうしてハーバードを選んだんだ?」
「理由は二つある」彼は二本の指を突き立てて確かめるように言った。「ラファエル・ディーモスとワーナー・イエーガー」
オーソンはその名前を知らなかった。「君の友達?」と聞くのはまぬけな質問かもしれないと思ったが、もうその言葉が彼の口から飛び出していた。
しかし、ヘンリーはうなずいた。「ディーモスのところへ行って、会ってきたんだ。とても感じのよい老教授で、美人の若い奥さんがいたよ」
「教授のお宅に行って、図々しく上がり込んだのかい?」オーソンは自分の声がかん高くなるのに気づいた。元々彼の声は高くて不安定だった。自分の中で一番嫌いなものの一つが、この声だった。
ヘンリーは目をぱちくりさせた。凄くすらっとして、いきがった格好はしているが、何も敷いていない黒い床の上に、平たい爪をした、ひどく黄ばんだ素足で立つ彼の姿は、思いがけないほどに気弱く見えた。
「そんなふうに言ってほしくないな。俺は巡礼の気持ちで訪問したんだ。俺と話して、先生は喜んでいたみたいだったよ」彼は慎重に言い、今度は口の中で舌を鳴らさなかった。
僕はルームメイトの気持ちを傷つけてしまった。幽霊のように突然現れた、この気取った男にも感情があるのだ。そう思うと、この男から意図的に色々驚かされたが、それ以上に心の深いところでオーソンは戸惑った。
ヘンリーは跳びはねて目の前に現れたときと同じくらい素早い身のこなしで床の上にしゃがみ込んだ。なめらかな会話の平面に、まるで落とし戸でもあったかのようだった。
彼は再び糸をつむぎ始めていた。その方法は見たところ、一本の糸を足の親指にかけておいて、放心したようにペダルをまわしながら、糸をピンと張ったままにしておく、というやり方だった。集中して糸をつむいでいるヘンリーの姿は、彼の哲学を生み出した例のにかわの機械の内部に密閉されてしまったかのようだった。
オーソンは荷物をほどき始めてみたものの、何となく複雑な、落ち着かない雰囲気に、手の動きがゆるみ、そして止まってしまう。実家で母親が何をどのようにたんすの引き出しにしまっていたかを思い出そうとする。靴下と下着は同じ引き出しで、シャツとハンカチが一緒の引き出しだったかな。故郷の家がはるか彼方にあるように思え、足の下に大きな深い空洞があるようでめまいがした。それはさながら床の黒さが底知れない深い穴の色になったかのようだった。
糸車は愉快な音を立ててまわっている。オーソンが落ちつかなげに立てる音が弧を描いて、ルームメイトの上に落ちる。明らかに、ヘンリーは深遠なる考えに熱心にひたっている。それは、良い学生になろうと実利的にあれこれ考えているオーソンにはとても考えが及ばない何かなのだ。
また明らかに、ヘンリーは知的なことを考えているわけではなかった。この知的でないことは(「俺なんか人並みの成績しかもらってこなかったからね」)、気が楽というより、むしろやっかいなのだ。たんすの引き出しの上にかがみ込み、オーソンは心の中で身動きがとれなくなってしまう。頭から相手を軽蔑して、しゃんと背筋を伸ばして立つこともできないし、かといって、心から相手を尊敬して、ひれ伏すこともできなかった。
ルームメイトの物理的な存在がオーソンの心の中に嫌悪感も引き起こし、気分は複雑だった。病的なほどにきれい好きなオーソンは、にかわを想像してしまい、べとつくような雰囲気につきまとわれて、荷物をほどく手の動きがますます鈍っていた。
二人の間の沈黙は大きな鐘の音が重々しく鳴り響くまで続いた。鐘の音は時間とともに胸の中で鳴る鼓動のように、近くにも、それでいて遠くにも聞こえた。それに、その鐘の音は、大学の中庭に植えてある、音をさえぎる木々の葉までも、この部屋の中に持ち込んできたように感じる。大草原を見慣れてきたオーソンの目には、それらの木々はまるで熱帯の木々のように高く青々として見えた。
部屋の壁が葉の影を映して揺れた。それから、ごくごく小さなものたち(小さな埃や、車の音や、虫ピンの先端で何人もが踊ることのできるほどに小さな天使たち)が、目の前の空中に舞い込んできて、息が止まりそうだった。
寮の階段のあたりに誰かの足音が響く。ジャケットにネクタイ姿の学生たちが玄関に押し寄せてきて、笑いながら、口々に「ハブ。やあ、ハブ」と言って、部屋の中に入ってきた。
「床から起き上がれよ、おい」
「まったく、ハブ、靴ぐらいはけよ」
「くそったれ」
「それに、首に巻いたバンダナも取れよ。上着とネクタイ着用が決まりだぞ」
「あと、そのナースキャップもな」
「ハブ、ユリの花を思え。花は労せず、つむぎもしない。それでも、私は君たちに告ぐ。栄華をきわめたソロモン王でも、そのいでたちは一輪のユリの花に及ばない」
「アーメン、みなの衆!」
「フィッチ、君は伝道師になるべきだな」
彼らはみな、オーソンには初めて見る顔だった。ハブは立ち上がり、すらすらと彼らを紹介してくれた。二、三日もすると、オーソンにも彼らの名前と顔がはっきりしてきた。
肩を寄せあっていた集団は、似た者たちの集まりで安定しているように見えたのだが、毎日顔を合わせているうちに、それぞれ二人ずつの組み合わせ、つまりルームメイト同士に分かれていった。シルヴァースタインとコッシュランド、ドーソンとカーン、ヤングとカーター、ピーターソンとフィッチの組み合わせだった。
オーソンとヘンリーの部屋の真上に住んでいるのがシルヴァースタインとコッシュランドで、二人ともニューヨークからやってきたユダヤ人だった。聖書の中のユダヤ人以外でオーソンが知っているユダヤ人の印象は、悲しい民族で、音楽好きで、抜けめなく、悲哀に満ちていた。
しかし、シルヴァースタインとコッシュランドはいつもおどけて、気の利いた冗談を飛ばしてばかりいた。二人はブリッジやポーカーやチェスや囲碁をやり、ボストンに映画を観に行き、ハーバード・スクエアの辺りにある軽食堂でよくコーヒーを飲んでいた。二人ともそれぞれブロンクスとブルックリンという、いわゆる名門高校の出身で、ケンブリッジをまるでニューヨーク市の一つの行政区のように扱っていた。大学一年で教わることなど、すでに二人ともほとんど頭の中に入っているように見えた。
冬が近くなると、コッシュランドはバスケットボールをやるようになり、彼とバスケ仲間が頭上の部屋で、テニスボールとくずかごを使いバスケをやるから、走りまわる音や、小ぜり合いの音がして、天井があわただしく揺れた。ある日の午後、天井の断片がオーソンのベッドに崩れ落ちてきた。
隣の12号室に住んでいるドーソンとカーンは作家志望だった。ドーソンはオハイオ出身で、カーンはペンシルベニアから来ていた。ドーソンは不機嫌そうにうつむきがちで、子犬のように何かを熱望する表情をしていて、荒い気性の持ち主だった。彼はシャーウッド・アンダーソンとアーネスト・ヘミングウェイを師と仰ぎ、彼自身も、厳格で、かつ簡潔な文体で書いていた。
ドーソンは無神論者として育てられていたから、寮の中では一番ハブがいつもつっかかって、ドーソンを怒らせていた。オーソンは、自分とドーソンが中西部の東西の両端とはいえ、同じ中西部出身だったから、心理的に共通意識を持つ彼のことが好きだった。
カーンとはなんとなく、そりが合わなかった。東部出身っぽくて、微妙に意地の悪い感じがあったからだ。無理をして都会の洗練さを気取ろうとはしているが、農家育ちのこの少年は、結膜炎や痔といった神経性の軽い病気をいくつも抱えていて、やたらにタバコを吸い、しきりに喋った。
カーンとドーソンは二人の間でたえず冗談を言い合っていた。夜になると、オーソンには壁の向こうで二人がいつまでも眠らず、何かを即興で演じているのが聞こえた。それは、教授たちや、講義や、同じ一年の仲間たちをネタにした物まねとかミュージカル風の喜劇だった。
ある晩の真夜中、オーソンはドーソンがこう歌うのをはっきりと耳にした。「ぼくの名前はオーソン・ジーグラー。サウス・ダコタからやってきたー」
少し間をおいて、今度はカーンが続きを歌い返した。「ぼくはいつだって細かい男ー。マスをかくにも分けてやるー」
オーソンとヘンリーの部屋から廊下を挟んで向かい側の15号室には黒人のヤングとカーターが住んでいた。カーターはデトロイト出身で、真っ黒で口数がかなり少なく、とても良い身なりをしていた。彼は的を射たジョークを浴びせられると、くずれ落ちるように笑い出し、頬に涙の跡がきらりと光るまでくすくす笑っていた。カーンはこのカーターを笑わせるのがプロ並みに得意だった。
ヤングはノースカロライナ出身で、ほっそりとした、小麦色の肌をした少年だった。彼はハーバードに国の奨学金で来ていたが、深みにハマり、ホームシックにかかり、風邪を引いていた。カーンは彼をブラザー・ポッサム(童話に登場する黒ネズミ)と呼んでいた。彼は昼間はずっと寝ていて、夜になると起き出し、ベッドの上でトランペットのマウスピースで演奏していた。最初の頃は、午後になると、彼はトランペットを思いっきり吹き鳴らしていた。『センチメンタル・ジャーニー』や『テネシー・ワルツ』のような、もの憂げな曲を、素晴らしく震えるように演奏し、寮の中や、寮を取り巻く緑の木々にまで流れていった。素敵だった。
しかし、ヤングが今いる場所を感じ取ったために、つまり、ハーバードにいることで彼の中で自己を消し去る習慣が強まったせいで、すぐにこの無害な演奏は行われなくなってしまった。彼は太陽から身を隠すようになり、夜になると密かにマウスピースで、唾を飛ばして吹き続けた。廊下の向かい側から聞こえてくるその音は、必死に眠ろうとしているときなど、オーソンには屈辱の中におぼれ、沈んでいく音楽のように思えた。
カーターはルームメイトのヤングのことをいつも「ジョナサン」と呼んでいたが、その名を言うとき、まるでたった今、習って覚えたばかりの名前、たとえばラ・ロシュフコーとかデモステネスのような歴史上の遠い人物の名前を発音するように、几帳面に一音節ずつ発音した。
廊下の斜め向かいの不吉な数字の13号室では、ピーターソンとフィッチが奇妙な暮らしをしていた。二人とも背が高く、肩幅が狭く、それでいて尻は大きかった。その体つきをのぞけば、二人の共通点を探すのは難しかったし、なぜハーバードがこの二人を同室にしたのかわからなかった。
フィッチは丸く見開いてじっと見つめる黒い目をしていて、フランケンシュタインのように平たい頭のてっぺんをしていた。彼はメイン州からやってきた神童で、頭の中には哲学や色々な思想が詰まっていて、そしてまた神経衰弱の種もはらんでいた。やがて翌年の4月には、彼はノイローゼになってしまった。
ピーターソンは、鼻の静脈が透けて見えるほどの透き通った白い肌をしていて、愛想のよいスウェーデン人だった。彼はすでに何回か夏に記者として、ダルースにあるヘラルド社で働いたという経歴があった。それでいかにも新聞記者らしい癖を身につけていた。口の端から皮肉を飛ばし、ウィスキーをちびりちびり飲み、帽子を頭の後ろにかぶり、まだ火のついているタバコを床の上に投げ捨てるのだった。
ただ、彼は自分がどうしてハーバードにいるのか、よくわかっていなかったようだった。そして実際、一年目が終わると、それっきり大学には戻ってこなかった。この二人、それぞれにやがて大学から消えていなくなるのだが、その当時は奇妙なほどにお似合いの二人だった。それぞれ、相手の弱いところが強かった。フィッチはだらしなく、段取りも悪く、タイプさえ打てないほどだった。彼はパジャマのままベッドの上に寝そべり、身もだえしながら顔をしかめて、人文学のやたら込み入ったレポートを口述していく。しかも、そのほとんどが指定された本以外について論じていて、長さも指定の二倍はあるという具合だった。
一方、ピーターソンは二本指をせわしなく動かしてタイプを打ち、この混沌とした独白めいた口述を親切にも新聞記事の原稿のように読めるものにしていくのだ。彼の辛抱強さは母親の域にまで達しようとしていた。お返しに、フィッチは、あの大きな平べったい頭に痛いほどに詰まっている知識の宝庫から、ピーターソンに色々なアイディアを分けてやった。ピーターソンにはアイディアなど皆無だった。
彼は比較することも、対比して見ることもできなかったし、聖アウグスティヌスやマルクス・アウレリウスを批評することもできなかった。ひょっとしたら、あまりにも若いうちに、あまりにも多くの死体や火事や警官や売春婦を見てきたために、思索的な能力が未熟なまま枯れてしまったのかもしれない。いずれにせよ、フィッチの母親代わりをやっていれば、現実的に何かやるべきことがあるわけだ。そして、オーソンはそんな二人を羨ましく思っていた。
彼は他の部屋のペアを羨ましく思った。彼らをつなぐ絆が何であれ、出身地であれ、人種であれ、野心であれ、体の大きさであれ、彼らが羨ましかった。というのも、彼自身とハブ・パラマウンテンとの間には、無理して同居しているという感覚しかなく、何の絆も見当たらなかったからだ。
ハブとの共同生活が表面的に不愉快だったわけではない。ハブはきちんとしていたし、勉強熱心だし、これ見よがしにではあるが、気を遣ってくれる。朝は7時に起き、お祈りして、ヨガをやり、糸をつむぎ、それから朝食に出かけていく。その後、夕方まで姿を見せないことが多い。夜は大体11時ぴったりに寝る。寮の騒音が気になるときは、彼は耳にゴム栓を詰めて、黒いアイマスクをかけ、とにかく眠ってしまう。
昼間、ハブは過密な予定をこなしていた。通常の4つの科目に加えて、さらに2科目を聴講していたし、必修の体育で週に3回レスリングをやっていた。ディーモス教授やイエーガー教授やマサチューセッツ州の主教から、お茶の招待をうまく取りつけては出かけて行き、夜には、無料の講演会や朗読会に参加していた。彼はまたフィリップ・ブルックス協会に賛同し、週に2回午後に、ロクスベリーにある再教育センターで貧民街の少年たちを指導していた。その上、ハブはピアノのレッスンを受けにブルックラインまで通い始めた。それで大抵の日は、オーソンが彼と顔を合わせるのは、寮に隣接する学生会館で食事をするときくらいだった。
秋の最初の数ヶ月は、寮のみんなもまだ緊張ぎみで様子をうかがっている感じだったし、それぞれが違う関心事を持ってバラバラになるのはまだ先のことだったので、彼らは学生会館の長テーブルを囲んで、一緒に食事をするのが習慣だった。その頃はよく、目に留まった話題、たとえば、ハブの菜食主義について、わいわい言い合ったものだった。そういう時、ハブの目の前には、彼の皿の上で湯気を立てている、ふた盛りのカボチャとライマメが山盛りで置かれている。すると、フィッチが菜食主義者の矛盾点なるものを指摘しようとするのだった。「君は卵は食べるんだろ」
「そうだな」と、ハブは言う。
「ひよこの観点から言うと、卵はすべて新生児だっていうことに君は気づいてる?」
「実は、あれは雄鶏から受精した卵じゃないから、新生児というわけじゃないんだ」
「でもね、仮に」フィッチもしつこい。「これはたまに起こるんだけど、ぼくはメイン州の伯父の養鶏場で働いたことがあるから、そこで知ったんだけど、仮に無精のはずの卵が実際は受精していたとしたら、内部に胎芽を持っているとしたら、どうだ?」
「まあ、俺がそれを見つけたら、当然その特別な卵は食べない」と、ハブは言い、あのいかにも満ち足りた感じで唇を鳴らして閉じた。
そこで、フィッチは勝ち誇ったように責めたてるが、急に片手を振ったために、フォークを床に落としてしまう。
「でも、なんで? 無精卵だろうと有精卵だろうと、雌鶏は卵から引き離されたら同様に苦痛を感じるだろ。胎芽には意識がない。つまり植物だ。菜食主義者として、君は特にうまそうに食べるべきだろ」フィッチはそう言って、椅子にそり返ったが、勢い余ってひっくり返りそうになり、思わずテーブルの端をつかんだ。
「ぼくにはちょっと」ドーソンが険悪な表情で眉をひそめて言った。(他の人がはしゃいでいると、彼はしばしば機嫌が悪くなるのだ。)「雌鶏の心理分析をしても意味がないように思えるな」
「いや、逆に」カーンが咳払いして、赤く充血した目を細めて、静かに話し出した。「むしろ、そこに、その雌鶏の小さな、ぼんやりした頭の中にこそ、いわば極小の脳の中にこそ、宇宙の悲劇が見事に映し出されているように思う。一羽の雌鶏の感情を思い描いてみよう。彼女がはたして親しい仲間意識など抱いているだろうか?くちばしでつつきながら、耳障りな噂話をしている群れだ。住まいはどうかな? 糞が飛び散った板切れを何枚か合わせただけのものだ。食べ物はどうだい? マッシュやグリットといった餌をまばらに、雑に地面に投げ入れられるんだぞ。愛はどうだ? 聖書的な意味で複婚の雄鶏に適当に襲われるだけだ。それで、この無情なる世界に突然、まるで魔法のごとく現れるのが卵だ。彼女自身の卵だ。彼女にとって、卵は彼女と神で作ったものだと思えるはずじゃないか。きっと彼女は大事にするはずだよ。その美しくスベスベした表面、穏やかな光沢、かたく、それでいてもろく、そっと揺れる重み」
カーターがついに笑い出してしまった。彼は自分の皿を覆うように体を折り曲げ、目をかたく閉じ、嬉しそうに黒い顔をゆがめる。「たのむーよー」彼はやっとあえぎながら言った。「そんなこと言うから腹が痛いよ」
「ああ、カーター」カーンは上から言う。「まだまだひどい話はこれからだ。いいかい、ある日、その無邪気な雌鶏が、この不思議な、顔のない、楕円形の子供を、羽根の下で静かに揺れ動いている小さな我が子をあやしている。すると」彼は期待してカーターをちらりと見るが、黒人の少年は下唇を嚙みしめ、カーンのジャブに耐えている。「ビールと肥やしの臭いをぷんぷんさせた大男がやって来て、彼女が抱きしめている卵をもぎとっていく。どうしてそんなことをするのか? それは彼が」カーンは腕を思いっきりテーブル越しに伸ばして、ハブを指差すと、ニコチンでオレンジ色に染まった人さし指がハブの鼻に触れそうになった。「彼が、聖ヘンリー・パラマウンテンが、もっと卵を食べたいと言うからなんだ。『もっと卵をくれ!』と、彼が貪欲に叫ぶから、残忍な牛ども、不実な豚どもがアメリカの母たちが産んだ子供たちをおびやかし続けているんだ」
ドーソンはナイフとフォークをテーブルに叩きつけるようにして立ち上がると、食堂から前のめりに歩き去った。カーンは顔を赤らめる。上機嫌で喋るカーンがルームメイトであるドーソンの機嫌を損ねたようだった。沈黙の中で、ピーターソンがローストビーフのひと切れを折りたたむようにして口の中に入れると、それを噛みながら言った。
「まったくあきれるよ、ハブ。誰かほかの奴が動物を殺すんだから、君はついでに食べてもいいじゃないか。もう死んでいるんだから、なんてことはない」
「あんたは何もわかってない」ハブはそっけなく言う。
「おい、ハブ」シルバースタインがテーブルの一番端から声をかける。
「牛乳についてはどういう見解なんだ? 子牛も牛乳を飲むじゃないか? そうすると、君は子牛が飲むはずの牛乳を奪い取っているということになる」
オーソンも何か言わなきゃいけないような気がして、「それは違うよ」と言った。彼の声は突然はじけたように、抑揚が不安定で、たかぶっていた。
「ニューヨーク出身の誰かさんを別にすれば、誰でも知ってることだけど、乳牛っていうのは、すでに子牛に乳をやり終えて離乳を済ませた牛を言うんだ。それより、ハブ、ぼくが気になるのは、君の靴だ。君は革の靴をはいているんだろ」
「まあな」ハブの自己弁護をする声から陽気さが消えた。唇がつんと澄ましたようになった。
「革は牛の皮だよ」
「しかし、その牛はすでに屠殺されている」
「それじゃ、ピーターソンと同じ論法だよ。君が革製品を買うと、屠殺を奨励することになる。革製品といえば、君の財布もベルトもそうだね。君はぼくたちみんなと同様に殺害者だ。あるいは、ぼくらより悪い。だって、君はそれを意識しているんだからね」
ハブは目の前で両手を慎重に組み、ほとんど祈るような形で、テーブルの端にその組んだ手を立てかけた。彼の声はラジオのアナウンサー、それも競馬で、最後の直線コースの状況を早口ながらも冷静に実況するアナウンサーのようになった。
「俺のベルトは、たしかビニール製だよ。俺の財布は何年も前に母親からもらったんだ。俺が菜食主義者になる前だよ。いいかい、俺だって18年間、肉を食べてきたんだから、今でもまだ食べたい気持ちはある。もし卵以外に何か、たんぱく質が濃縮した食べ物があれば、俺は卵も食べない。中には卵を食べない菜食主義者もいる。一方で、魚や肝臓エキスを食べる菜食主義者もいる。俺はそういうのは食べない。靴は問題だな。シカゴの会社が極端な菜食主義者用に人工皮革の靴を作っているんだけど、値段がものすごく高いし、履き心地も悪い。一度注文して履いてみたら、足を痛めたよ。革っていうのは、いいかい、ある意味で〈呼吸〉してるんだ。人工の代用品ではそれができない。俺の足はやわだからな。それで妥協しているんだ。謝るよ。それに、それを言うなら、俺がピアノを弾くとき、(象牙を手づかみにするっていう言い方があるくらいだから、)俺は象の殺害を奨励していることになるし、歯を磨くとなれば、菜食主義者はまめに磨くんだよ。野菜にはでんぷんがものすごく含まれてるからね。俺は豚の毛のブラシを使う。俺は血で覆われている。だから、毎日ゆるしを乞うて祈る」
ハブはフォークを手にすると、また山盛りのカボチャを食べ始めた。
オーソンは呆れてしまった。というのも、彼はハブに同情の言葉をかけてあげないといけないな、と感じていたのに、ハブはまるでオーソンだけが敵みたいな言い方で答えたからだった。
オーソンは自己弁護しようとした。「すごく履き心地のいい靴があるよ」と彼は言った。「布でできていて、波模様のゴム底なんだ」
「じゃあ、探してみるかな」とハブは言う。「俺にはちょっと派手な気もするけどな」
笑いがテーブルに広がり、その話題は終わりとなった。
昼食の後、オーソンは図書館まで歩いていったが、気分は消化不良ぎみだった。感情の余波が胃を重たくゆすっていた。戸惑いの気持ちがどんどん膨れ上がり、それを静めることができなかった。ハブと一緒にされると腹が立つのに、ハブが誰かに攻撃されると、自分が責められているような気がした。ハブは自分の信念を実行に移しているのだから立派だと思うし、それをからかうフィッチやカーンのような人たちは、かえって自分たち自身をつまらない人間に見せているように思えた。
ところが、ハブは彼らにからかわれても、にこやかに受け止め、遊びのように受け流し、
オーソンだけには真剣に言い返し、オーソンを居心地の悪い立場に追い込むのだ。なぜだろう? 同じキリスト教徒だから、本気でやり返す標的になるのだろうか?
でも、カーターだって毎週日曜日に教会に行く。アルファベットが刺繍されたハンカチを胸ポケットにさし、紺地にピンストライプのスーツを着て、教会へ出かけていくのだ。ピーターソンも一応、長老教会派のキリスト教徒だ。また、カーンが大学の礼拝堂からこっそり出てくるところを、オーソンは見たことがあったし、コッシュランドだって、ユダヤ教の祭日には授業を休み、昼食を抜かすのだ。
それなら、どうしてハブはぼくにだけ突っかかってくるのか、とオーソンは自問した。というか、どうしてぼくはそんなことを気にしているんだ? ぼくはハブのことなんか全く尊敬していないのに。
ハブの書く文字は子供みたいにやたら大きくて、慎重にゆっくり書きすぎだし、授業の最初の試験でも、プラトンやアリストテレスの科目でさえ、ハブはCばかり取っていた。
オーソンは、ハブが優越感を抱きながら話しかけてくることに腹が立っていた。さっきもテーブルを囲んでいて、自分がハブより下にいることを思い知らされ、まるで不当な成績をつけられたようにムカついていた。
ハブと自分の立ち位置が頭の中で図表になる。そこでは、オーソンの意図は全て、はぐらかされ直角に弾かれる。彼の努力は意図とは反対方向に向かい、先細になり、無に帰すのだ。その図表の背後には、ハブの満足げにすぼめた唇、うさんくさい厚かましさを醸(かも)し出した目、そして激しくムカつく形と色合いの手足が見えていた。
こういうハブの肉体から切り離されたイメージを、オーソンは心の中に抱えたまま、図書館に入っていき、教室に出入りし、そしてハーバード・スクェアの人込みの中を歩いていった。
時々、ぼやけた膜に覆われた片目や、足の大きな親指の平たく黄ばんだ爪が、読んでいる本のページからはっきりと浮かび上がってきたり、寝ているとき、それが大きく拡大されて、オーソンもろとも眠りの無意識の中になだれ込んでくるのだった。
それでも、ある金曜日の午後に、12号室でドーソンとカーンと三人で座って話し込んでいる最中、「ぼくはあいつが大嫌いなんだ」と口走ってしまったときには、自分でもびっくりしてしまった。オーソンは自分が口にしたことをよく考えてみて、その言葉の感触が気に入り、もう一度言ってみた。「ぼくはあいつが大嫌いだ。今まで会った誰よりも大嫌いだ」声はかすれていた。そして、目の奥で涙が湧き上がりかけて、熱を帯びていた。
彼らはみな、クリスマス休暇から戻ってくると、妙に静かに読書にふけり、前期試験という初めての苦行に突入していった。この学生寮は大体、公立高校の出身者で占められていたので、彼らは1年生の時に、ハーバード独特の緊張感を最も強く感じるのだった。
アンドーバー高校やグロトン高校といった、いわば小さなハーバードで学んできた私立校の出身者たちは、この1年を難なく水面を滑るように進んでいくが、後になって妙な暗礁に乗り上げてしまう傾向があった。酒に溺れたり、気取った感じで物事に興味を失ってしまうのだ。しかし、この大学は学生を解放する前に、心の安定を犠牲にして、それぞれの持っている能力をしぼり出すように要求するところだった。
クリスマスに帰ってきたオーソンを見て、母親は息子がげっそりやつれてしまったと思い、彼にたらふく食べさせた。一方で、オーソンは父親が急に老け、小さくなったように感じて驚いた。
実家での最初の数日は、ぼんやりと何時間もラジオで音楽を聴いて過ごしたり、時には、道の両側に高くかき寄せられて、光り輝く雪を横目に、農地の中の真っ直ぐな狭い道を車で走ったりしていた。
サウス・ダコタの空がこれほど広く、こんなに爽やかに見えたことはなかった。空高く昇った乾いた太陽のおかげで、氷点下の日でもお昼には暖かく感じられたが、それがこの地域特有の現象であると、彼は初めて気が付いた。彼はまた恋人を抱いたが、彼女は再び泣いた。彼は彼女に、ぼくの手ぎわが悪かったと言って謝ったが、心の中では彼女を責めてもいた。彼女が協力的ではなかったからだった。
ケンブリッジに戻ると、雨だった。1月なのに雨が降っていた。そして、灰色の靴跡がいっぱいついた生協の入口には、濡れた自転車が並んでいて、レインコートをはおり、スニーカーを履いたラドクリフの女子学生たちが溢れていた。
ハブは実家には帰らず、寮の部屋にずっと一人でいたらしく、クリスマスを断食で祝ったとのことだった。
何度も読み、概要を書き、暗記するという、ほとんど幻覚にうなされるような単調な1ヶ月を過ごしていると、オーソンは自分がいかに何も知らない愚か者であるかを思い知り、すべての学びは不自然で、くだらないと感じた。ハーバードはそんな彼にAを三つと、Bを一つ与えて報いてくれた。ハブはなんとか、Bを二つと、Cを二つ手にしていた。
カーンとドーソンとシルバースタインは優秀な成績で、ピーターソンとコッシュランドとカーターは平凡な成績だった。フィッチは1科目を落とし、ヤングは3科目も落としてしまった。
やや薄い褐色の肌をした、この黒人は、まるで悪い病気にでもかかり、破滅の刻印を押されたかのように、こそこそと学生寮を出入りした。彼は仲間内で噂の的になっていた。トランペットのマウスピースを押し殺したように吹く音も、もう聞こえてはこなかった。
シルバースタインとコッシュランドとバスケットボール仲間たちが、ヤングのルームメイトであるカーターを仲間として受け入れ、週に3、4回、ボストンに映画を観に行くのに連れていった。
前期試験が終わると、ケンブリッジの冬の真っただ中で、ありがたいことに、ちょっとした休息期間がある。その期間に新しい科目を選んだりする。通年の科目でも後期に入るときに、まるで新しい帽子をかぶるように、新しい教授に変わることもたまにある。
日は静かに少しずつ長くなり、一度か二度大雪が降る。
水泳とスカッシュテニスのチームが珍しく優勝し、『クリムゾン』のスポーツ欄に登場する。
春の前兆のような青い影が積もった雪の上に落ちるようになり、
ニレの木が噴水のような形に生い茂り始める。
「アルビアニ」(ハーバードのキャンパスにあるカフェ)の前の歩道にブーツで踏み固められた雪の円ができていて、それが大きな貴重なコインのように見える。
れんが造りの建物、アーチ型の門、古風な講義台、ブラトル・ストリート沿いに並ぶ広い庭のある大邸宅、それらがすべて1年生の目には、自分が一時的に所有を任された遺産みたいに映る。
今では慣れ親しんだ教科書も、その背が親指の跡ですり減っていて、ある程度知識を詰め込んだ証拠に思える。
また、教科書を入れて運ぶ緑色のバッグのひもが、彼の手首を生きているハヤブサのように引っ張る。
実家からの手紙も次第に重い意味を持たなくなってくる。
時間が広がり、時間的余裕ができる。
新しいこともやってみる。
恋をして、女性に声をかけ始める。
会話も弾む。
そして、ほとんど貪欲なほどに相手のことを知りたいという欲望に誰もがとらわれる。
あの時、そういう雰囲気になって、オーソンは思わず、内側に抱えていたハブへの思いを打ち明けてしまったのだ。
ドーソンは、まるでオーソンの「大嫌いだ」という言葉を自分に当てつけたものと捉えたかのように、顔を背けた。
カーンは目を瞬き、タバコに火をつけると、「ハブのどこが嫌いなんだ?」と訊ねた。
「なんて言うか」オーソンは、黒くて優雅で形は良いが堅いハーバード伝統の椅子の上で、居心地が悪そうに体重を移動させた。
「下らないことばかりなんだけど、たとえば、ポートランドの徴兵委員会から手紙が来ると、あいつは開けもせずにそれを細かく千切って、窓の外にばらまいてしまうんだ」
「それで、君はハブがそんなことをすると、自分まで仲間だとみなされ、刑務所にぶち込まれるんじゃないかと心配してるわけか?」
「そうじゃない。なんて言うか、大げさに見えるんだよ。あいつはなんでも大げさなんだ。あいつがお祈りするところを見ればわかるよ」
「彼がお祈りをどうやるかを、なんで君は知ってるんだ?」
「あいつはぼくに見せてくるからね。毎朝、あいつはまず跪いて、それからベッドの上に体を投げ出すんだ。そして毛布に顔を突っ込み、両腕をこうやって外に伸ばすんだ」オーソンは実際にやってみせた。
「まじかよ」ドーソンは言った。「そいつは驚きだ。中世風だな。それ以上だ。まるで反宗教改革じゃないか」
「つまりね」オーソンは自分がハブをどれだけ深く裏切っているかに気付き、顔をしかめながら言った。「ぼくもお祈りはするよ。でも、奇をてらうようなことはしない」
一瞬、ドーソンは眉を寄せ渋い表情をした。
「彼は聖人なんだよ」と、カーンが言った。
「あいつは聖人なんかじゃない」オーソンは言った。「あいつは偽者だ。ぼくはあいつと一緒に化学1を取ってるけど、あいつは数学に関しては子供以下だ。それに、あいつの机の上に何冊も置いてあるギリシャ語の本、あれも手擦れができているように見えるけど、古本を買ったからなんだ」
「聖人は数学ができる必要なんてない」と、カーンは言う。「聖人に必要なのはエネルギーだ。ハブにはそれがある」
「ハブがレスリングしてる姿を見ろよ」と、ドーソンが言った。
「あいつ本当にレスリングが上手いのか?」と、オーソンは言う。「あいつは1年生のレスリング・チームに入ってないじゃないか。あと、ピアノだって、あいつが弾いてるのを実際聴いたら、きっとひどい演奏に決まってるよ」
「君はどうも大事なことを見落としているみたいだ」と、カーンは目を閉じたまま言う。「ハブの本当のところがわかってない」
「ぼくはうんざりするくらい、よくわかってるよ、あいつが何を考えているか、本当のところをね」オーソンは言った。「だけど、それはインチキなんだ。菜食主義も、飢えたインディアンへの愛情も全部インチキだ。あいつは本当はひどく冷たいやつなんだ。ぼくがこれまでの人生で出会った人の中で、ほぼ一番冷たいやつだと思う」
「オーソンが本気でそう思っているとは思えないな。どう思う?」と、カーンはドーソンに聞いた。
「思えない」と、ドーソンも言うと、曇っていた顔が晴れ渡って、子犬のように微笑(ほほえ)んだ。「それは牧師のオーソンが心から思っていることではないね」
カーンが目を細める。「それは牧師のオーソンか、それとも人間のオーソンか?」
「ハブは頑固者(ナブ)だと思うよ」と、ドーソンは言う。
「あるいは、やっかい者(ラブ)だな」と、カーンが付け足す。
そして、二人は耳障りなほどに大声で笑い出した。
オーソンは、この二人が不安定ながらもなんとか保っている平和な絆のために生贄にされたのを感じ取り、表面的にはふてくされた感じで二人の部屋を出たが、内心では嬉しかった。ついに彼にも「牧師のオーソン」というニックネームらしきものができたからだった。
それから数日後の夜、彼らは(隣室の4人にフィッチが加わり)、新講堂で行われたカール・サンドバーグの朗読会を聞きに行った。
みんなを引き連れるように先頭を切って、椅子席の中へ進んで行くハブだったが、オーソンはハブの隣に座りたくはなかったので、歩みを遅らせ、一番離れた席に座った。ハブの前の席は女の子だった。
オーソンはすぐにその女の子に気付いた。彼女は赤褐色のふわっとした長い髪をしていて、彼女の席の後ろにその髪がゆるやかに垂れ下がっていた。
赤色のふさふさした髪を見ていると、突然、馬と大地と太陽と小麦畑、つまりサウス・ダコタを思い出した。
オーソンの席からは、かろうじて彼女の横顔が見えるだけだったが、
顔は小さく、頬骨の傾斜で影ができていて、淡い色の大きな耳をしていた。
彼女の耳は彼に(恋人の)エミリーを思い出させた。彼女は、エミリーが長い赤毛になって、ケンブリッジの知的素養を身につけたみたいな子だった。
オーソンはしきりに彼女の顔を見たがったが、彼女は逆方向に振り向いて、顔を背けてしまった。
ハブが前かがみになり、彼女の耳元で何かを言っていた。
フィッチにはそれが聞こえたらしく、嬉しそうにドーソンに伝えると、ドーソンはカーンとオーソンに囁いた。「ハブが女の子に『綺麗な髪だね』って言ったらしいぞ」
朗読会の間も、ハブは何度も前かがみになり、彼女の耳元で何か囁いていた。そのたびに、フィッチとドーソンとカーンから押し殺したような笑い声が漏れていた。
その間、サンドバーグは、人工繊維でできた人形のかつらのように光るまっすぐな白髪をおでこに揺らしながら、講義台に覆(おお)いかぶさるようにして粛々と詩を朗読し、なんとギターまでかき鳴らした。
終演後、ハブはその女の子と一緒に外へ歩いていった。
遠くから、オーソンは彼女の白い顔が笑い出すのを見ていた。
やがてハブは友人たちのところへ戻ってきた。いつもは満足そうに口の端だけ開く感じなのに、その時は、暗闇の中で、いつも以上にハブの口が開いているのが見えた。
次の日ではなく、次の週でもなかったけれど、それから1ヶ月も経たないうちに、ハブは赤い髪の毛をどっさり部屋に持ち帰ってきた。
ベッドの上に広げた新聞紙の上に動物の死体のように置かれている髪の毛を見て、オーソンは言った。「ハブ、一体全体これはなんだ?」
ハブは床の上に座り込んで糸車を動かしていた。「髪の毛だよ」
「人間の?」
「もちろん」
「誰の?」
「女の子の」
「何があったんだ?」そう聞いてみて、変な質問だと思った。オーソンは「女の子って誰?」と聞くつもりだった。
でも、ハブはまるで女の子って誰?と聞かれたように答えた。「サンドバーグの朗読会で出会った女の子なんだ。君の知らない子だよ」
「これはあの子の髪の毛?」
「そうだよ。彼女に頼んだんだ。どうせ春になったらばっさり切るつもりだって言ってたよ」
オーソンは唖然として立ち尽くし、ベッドを見下ろしながら、そのまま顔と手をその髪の毛の中に埋(うず)めてしまいたいという衝動にとらわれていた。
「あの子とずっと会っていたの?」自分の声が女々しく甲高く、自分の耳に響いた。
オーソンは自分が嫌になった。全部ハブのせいだ。
「ちょっとはね。俺のスケジュールだと、そんなに会ったりできないんだけど、指導教授にもたまには息抜きしろって言われてるからさ」
「じゃあ、あの子を映画にでも連れていってるんだ?」
「たまにはね。もちろん、彼女は自分の分は払うよ」
「だろうね」
ハブはオーソンの言い方に触発されて言った。「ちゃんと覚えておいてくれ、俺は自分の貯めた金だけで、この大学にいるんだ。親父からの経済的援助は一切断っているんだ」
「ハブ」その名前を口にするだけで苦痛に感じた。「あの子の髪の毛をどうするつもりなんだ?」
「紡いで、一本のひもにする」
「ひもに?」
「ああ。かなり難しいけどな。彼女の髪はすごく繊細だから」
「それで、ひもにしたものをどうするの?」
「それを蝶結びにするんだ」
「蝶結び?」
「そういうふうに言うんじゃないかな。ひも状のものを巻いて、結んで、ほつれないようにして、それを彼女にあげる。そしたら、彼女はいつまでも19歳の時の髪の毛を持っていられるだろ」
「なんてことを。かわいそうな女の子を口先で言いくるめて、こんなことさせたんだろ?」
「俺は彼女を言いくるめたわけじゃない。ただ提案したんだ。そしたら、彼女は素敵な考えねって思ってくれた。それに、正直言って、オーソン、なんでこんなことが君のブルジョワ的な良心を損ねるのかわからない。女は髪の毛をしょちゅう切っているんだし」
「あの子は、君の頭はおかしいと思ってるはずだよ。君をからかっているんだ」
「好きなように考えてくれ。これは完璧に理にかなった提案なんだ。それと、俺が正気かどうかっていう話題は、今まで一度も話したことなかったな」
「じゃあ言うけど、君は正気ではないと思う。ハブ、君は狂ってるよ」
オーソンは部屋を出ると、ドアをバタンと閉めた。
それから彼は11時まで戻らなかった。部屋に戻ってみると、ハブはアイマスクをして寝ていた。
髪の毛は床の上の糸車の横に移されていて、すでに何本かの髪の毛でできた撚(よ)り糸が糸車に巻かれていた。
しばらくすると、一本のひもが出来上がった。女性の小指ほどの太さの軽くてなめらかな編みひもで、長さは約1フィート(約30センチ)だった。
赤土や馬の毛を思わせる燃え立つような髪色は、その工程を経ると、色褪せていた。ハブはそれを丁寧に巻き取り、黒い糸と長いピンでとめ、そのらせん形のひもを、小さな受け皿ほどの大きさの円盤状にかためた。
金曜日のある夜、彼はそれを女の子にプレゼントした。それを贈ると、ハブは満足したようだった。というのも、オーソンの知る限りでは、ハブはそれから彼女とデートしなくなったからだ。時々、オーソンは大学の中庭で彼女とすれ違ったが、髪を切ってしまった彼女は女性らしさがかなり失われていた。白っぽい小さな顔には短い髪がそっけない感じで、耳だけがとても大きく見えた。
オーソンは、か弱く中性的なその子に話しかけたかった。かわいそうな気がして、助けてあげたいという漠然とした衝動に駆られて、声をかけたかったが、最初の言葉が喉につかえて出てこなかった。彼女は自分を憐れんでいる様子もなかったし、自分がどんなことをされたのかも認識していないようだった。
魔力のような何かがハブを守っていた。あらゆる物事が彼を避けて通るのだ。オーソンはハブが正気かどうか疑ったが、その疑いは自分自身に跳ね返ってきた。春がゆっくりと訪れつつある頃、オーソンは眠れなくなってしまった。数字や過去の出来事が不眠症の泥沼の中でどろどろに混じり合っていた。講義の内容が平行に並ぶ四つのパズルのようにわけがわからなかった。数学では、解答のかなめとなる重要な移項が常に理解できず、数字と数字の間の裂け目に消えていくし、化学では、質量が小悪魔のいたずらのように不安定となり、バランスを失った天秤のように急激に目盛りが傾き、そうして、実験室から遠くの星々まで扇形にずっと連結されている元素のシステムが崩れ落ちてしまった。
歴史概論の講義は啓蒙運動のところまで進んでいて、オーソンはヴォルテールが神を告発したことに動揺しながらも妙に感銘を受けたのだが、教授はそれを思想史のありふれた事例として軽く流し、正しいとも間違っているとも言わなかった。
それから、オーソンが語学の必修科目として取ったドイツ語でも、新しい単語が情け容赦なく増えてきた。英語以外に言語が存在すること、それも数多くの言語が存在し、その一つ一つが広大であり、それぞれが独自のルールを持っているというのは、世界全体が痴呆症にでもかかっている証拠に思えてならなかった。
彼は頭の回転が速いというよりは努力型だと常々思っていたが、自分の頭の回転がますます鈍くなっていくように感じられた。授業中、椅子がお尻に貼り付いてしまった気がして怖くなり、パニックで跳び上がったこともあった。忘れてしまうことも、上手く処理することもできない情報で頭がいっぱいになり、オーソンは眠れずに強迫的な妄想へと引きずり込まれていった。サウス・ダコタの恋人が他の男と仲良くなって、幸せに愛を育んでいるに違いないと思うようになり、彼女の処女を奪った気まずさと罪悪感にさいなまれていた。
エミリーが送ってくれた手紙を眺めていると、ボールペンで書かれた筆記体の渦巻きが、愛されて喜んでいる女性のふくよかさに見え、内面が充実している女性の文字だと感じた。
オーソンは相手の男まで見抜いていた。あの黒い爪をしたチバワ族のスポテッド・エルクだ。バスケットボールのコートで平然と素早く動き回る彼に何度もコケにされたんだ。余りにも反応が速く、いとも簡単にプレーするあいつを見て、理不尽だと思った。そういえば、今思い返してみれば、エミリーはあいつをよくかばっていた。
僕の妻になる人は尻軽女で、インディアンの女になってしまった。
診療所で父親が無償で診察していた、やせこけた無口な子供たちが、オーソンの心を映す透明なスライドには、彼自身の子供として映し出されていた。
夢の中では、(実際は眠っていないので、夢の代わりに見え隠れするぐにゃぐにゃした映像の中では、)彼はスポテッド・エルクと同じ部屋に住んでいるようだった。そして、時々仮面をつけるルームメイトが、オーソンが受け取るはずだった愛情や尊敬を、いつもずるい手段で横取りしてしまうのだった。
みんなが陰でたくらんでいた。
カーンとドーソンが壁の向こうで笑っているのが聞こえると、笑いの対象は自分だと思い込み、自分が一番秘密にしている習慣のことを笑っているんだと思った。
心の内側までも無法に侵害された。ベッドで半分リラックスしていると、突然ハブの唇に、ハブの足に、静脈の浮き出たどことなく女っぽいハブの手に、彼自身が体ごと含まれている幻覚に襲われた。
初めはそんな幻覚に逆らい、消し去ろうとしたが、それはまるで水面のさざ波を消そうとするかのように無駄な試みだった。
やがて、彼はその幻覚に屈服することにした。襲いかかってくるもの(歯をむき出し、曲芸のような鋭い身のこなしでまさに襲いかかってくるもの)に身を任せ、そのまま気が抜けて眠り込むまで幻覚に流されることにした。
こうして幻覚の海に飛び込むことが眠りへ通じる唯一の通路だった。
朝になって目を覚ますと、ハブがベッドで大の字になって寝そべり、お祈りしていた。あるいは、糸車の前に背中を丸めて座っていた。もしくは、こざっぱりした服を着て、インドのネルー首相みたいな帽子を被り、ドアまで忍び足で歩いていき、後ろ手にいかにも気を遣ったようにそっとドアを閉めようとしていた。
オーソンはそんなハブのことが大嫌いだった。彼の外見も、体形も、態度も、これ見よがしなところも大嫌いだった。誰かを好きになる時には思い付かないような細かいところまで熱心に探すくらい憎かった。
ルームメイトであるハブの存在のすごく細かいところが、(口の脇にちらつくしわとか、少ししおれた手とか、悦に入って磨いたのだろう革靴の表面とかが、)毒があるのをわかっていても食べ続けなければならない食べ物のようにオーソンの目には映った。彼の湿疹は不安になるほどひどくなった。
4月になって、いよいよオーソンが心のサポートをしてくれるメンタルヘルス室のある大学の診療所に行こうとしていた時、フィッチが彼の代わりにノイローゼ気味になり、彼を救ってくれた。
数週間に渡って、フィッチは1日に何度もシャワーを浴びていた。彼は次第に授業に出てこなくなり、ほとんどいつも裸同然で腰にタオルを巻いたまま過ごすようになっていた。彼は人文学のレポートを完成させようとしていたのだが、それはすでに1ヶ月も提出期限を過ぎていて、しかも指定された枚数より20枚も多いものだった。彼が学生寮から外へ出るのは、食事をする時と図書館から本を借りてくる時だけだった。
ある夜の9時頃のことだった。ピーターソンが2階の踊り場にある電話に呼ばれた。ウォータータウンの警察がフィッチを保護しているという電話だった。寮から4マイルほど離れたチャールズ川沿いの草むらをフィッチが懸命になって歩いていたというのだ。
フィッチは、西部には広い土地があるので神様もいると聞いたから西部に歩いて行くつもりだった、と言い張っていたそうで、それから警察署長に向かって、キルケゴールとニーチェの違いと類似性について熱弁し始めたということだった。
これ見よがしに良いことができる機会を常に窺っているハブは、すかさず寮長のところへ行った。(寮長はひょろりと背が高く、呟くように話す大学院生で、ハーロー・シャプレー教授のもとで天文学を専攻していて、銀河系の星の数を果てしなく数えていた。)ハブは寮長に、そういう人の扱いは得意だから任せてくれと言い、診療所の精神科医にまで相談しに行った。ハブの解釈では、フィッチは思い上がったために罰を受けているということだった。精神科医は問題の根本にはエディプスコンプレックスがあると感じていた。結局、フィッチはメイン州の実家に帰された。
ハブはオーソンに、ピーターソンには来年のルームメイトが必要だと言い出した。
「君と彼なら申し分なくうまくやっていけるんじゃないかな。二人とも唯物論者だからな」
「僕は唯物論者じゃない」
ハブは半分祝福でもするかのように、あの恐ろしい手を広げる。「君がそう言うならそれでいいよ。俺は摩擦は最小限にすると決めているから」
「ふざけたこと言うな、ハブ。僕らの間の摩擦は全部あんたのせいなんだよ」
「どうした? 俺が何をした? 話してくれ。そしたら俺は変わるよ。このシャツだって今脱いで君にやるよ」
彼はボタンを外し始めたが、オーソンが全く笑わないので途中で脱ぐのをやめた。
オーソンは力が抜け、虚しい気持ちになった。このありえない、近づきがたい友がどうしようもなく愛おしく感じ、思わず心の内で畏縮してしまう。
「わからないんだよ、ハブ」と彼は認めた。「僕にも君のどこかいけないのかよくわからないんだ」
沈黙が二人の間の空気に乾いたように貼り付いていた。
オーソンは無理に自分自身を沈黙から引きはがすように言った。
「君の言う通りだと思う。来年僕たちは同じ部屋に住まないほうがいい」
ハブは少し戸惑ったようだったが、うなずいて言った。「だから最初から大学に言ったんだよ、俺は一人部屋じゃなきゃだめだって」
そして、彼の傷ついた目が眼鏡の向こうで大きくなり、ビザンティン様式の建造物のように力強くオーソンを見据えていた。
5月中旬のある午後、オーソンはかじりつくように机に向かい、勉強しようとしていた。
二科目の試験を終え、残りはあと二つだった。
その二科目が、まるで泥だらけの紙でできた高くそびえる二つの壁のように、彼が自由の身になるのを阻んでいた。
彼の置かれた状況はひどく不確かなものだった。
もう後戻りはできないし、前進しようとしても目の前にはとても細い綱があるだけだった。一本の正気という名の綱の上を、彼はバランスを取りながら進んでいった。眼下には、統計や数式の並ぶ奈落の底が見えた。天空を見上げると、自分の脳細胞がきらめく星のように広がっていた。
ちょっと押されただけで、奈落の底へ真っ逆さまだ。
その時、誰かが階段を慌ただしく駆け上がってくる音がした。
すると、ハブが何かを抱きかかえるようにして部屋に飛び込んできた。それは金属製の物体で、銃のような色をしていて、猫くらいの大きさで、
赤い舌のシールが貼られていた。
ハブはバタンとドアを閉めると、ガチャンと鍵をかけた。それからオーソンのベッドの上にその物体をドスンと置いた。
それは支柱から切断されたパーキング・メーター(駐車料金計測器)の頭の部分だった。
一瞬、オーソンは下腹部が切断されるような鋭い痛みを感じた。
「マジかよ」彼は情けない金切り声を上げた。「なんだよそれは?」
「パーキング・メーターだよ」
「知ってるよ、見ればわかるよ。いったいどこから取ってきたんだ?」
「ヒステリーを起こすのはやめろ。君が落ち着くまでは話さない」ハブはそう言って自分の机の方へ向かった。机の上にはオーソンが置いたハブ宛の郵便物があった。
ハブは一番上の手紙、ポートランド徴兵委員会からの速達を手に取ると、それを半分に引き裂いた。
今度はオーソンの胸の辺りを貫くように痛みが走る。彼は自分の腕の中に頭を突っ込むようにして机に突っ伏し、赤黒い闇の中で、ぐるぐると暗中模索していた。彼は自身の体におののいていた。三度目の心身が切られるような衝撃を、体中の神経がじっと待ち構えているようだった。
ドアをドンドンと叩く音がする。ノックの激しさから警察としか思えなかった。ハブは素早くベッドに走り、オーソンの枕の下にメーターを隠した。それからドアに向かって意気揚々と歩いていき、ドアを開けた。ドーソンとカーンだった。
「何かあったのか?」と、ドーソンが眉をひそめて聞いてくる。あたかもドーソンを困らせるために、わざわざハブとオーソンが大騒ぎしているとでも言いたげだった。
「オーソンが拷問でもされてるような声が聞こえたぞ」と、カーンが言う。
オーソンはハブを指差し、「こいつがパーキング・メーターを抜き取ってきたんだ!」と説明した。
「そんなことしてない」とハブは言う。「マサチューセッツ通りで車が暴走して、駐車してあった車にぶつかったんだよ。それでパーキング・メーターが横倒しになった。人が集まってきて、メーターの頭の部分が排水溝に落っこちた。それで俺はそれを拾い上げ、持ってきたんだ。他の誰かが、魔が差して盗むんじゃないかと心配になったんだよ」
「お前が盗んだんじゃないか」と、オーソンが言った。
「誰も君を止めようとしなかったのか?」と、カーンが訊ねる。
「もちろん誰も止めないね。みんな車を運転してたやつのところに集まっていたからね」
「運転してた人は怪我したのか?」
「さあな。俺は見なかったからな」
「お前は見もしなかったのか!」オーソンは叫んだ。「君は大した情け深いサマリア人だな」
「俺は病的な好奇心のえじきにはならない」とハブは言った。
「警察はどうした?」と、カーンが訊ねる。
「まだ来てなかったな」
「それなら、なんで警察が来るまで待たなかった? メーターは警察に渡せばいいじゃないか」と、ドーソンが問い詰める。
「なんで州政府の手先なんかに渡さなきゃならないんだ? これは俺のものじゃないが、あいつらのものでもない」
「いや、州のものだよ」と、オーソンは言った。
「まさに神のご意志がこれを俺の手の中に置かれたんだ」ハブはそう言うと、唇の両端をしっかりとすぼめた。
「この中に入っている金をどの慈善団体に寄付するかは、まだ決めてないんだ」
ドーソンが「しかし、それじゃ盗んだことになるんじゃないかな?」と問う。
「そもそも、自分の車を、すでにひどく高い税金を払っている車を、駐車するのに場所代を払わせることのほうが州政府による金泥棒だ。それと比べたら盗んだことになんかなるもんか」
「ハブ」と、オーソンは立ち上がって言った。「君はそれを警察に返せ。そうしないと僕らは二人とも刑務所行きだ」
彼は自分自身が破滅するのを想像する。始まったばかりの人生が崩壊し、医者の父親の名を汚すことにもなる。
ハブは穏やかに振り向く。「俺は怖くないよ。この全体主義体制のもとで刑務所に行くのなら、むしろ名誉の勲章だ。君だって良心があるのなら、それくらいわかるだろう」
ピーターソンとカーターとシルバースタインも部屋に入ってきた。
彼らに続いて、下の階からも何人か学生たちがやって来た。
話が面白おかしく語り継がれていった。
メーターは枕の下から取り出され、手から手へと回され、その中に入った小銭の重さを量るように振られた。
ハブは、木こりで有名な出身地の名残だろうか、精巧な七つ道具付きの折り畳み式ナイフをいつも身に着けていた。
彼は小さな硬貨の入れ口をこじ開け始めた。
オーソンはハブの背後から飛びかかり、片方の腕をハブの首に巻きつけた。
ハブの体がこわばる。
彼はメーターの頭部と開いたナイフをカーターに手渡した。
次の瞬間、オーソンは自分の体が宙に浮き、飛ばされ、床の上に横たわる衝撃を感じた。見上げると、上下反転したハブの顔が見えた。
彼はなんとか立ち上がると、もう一度ハブに向かっていった。体は怒りで硬直していたが、心の中はなんだか清々しく晴れやかだった。
ハブの体はがっしりとしていて動きも速かった。しがみつくことには成功したが、レスリングをやっているハブはオーソンの手をなんとか外すと、再び彼を抱え上げ、黒い床の上に投げ倒した。
今度は、尾てい骨が床にぶつかる強烈な衝撃があった。
しかし、その苦痛を感じながらも、オーソンは自分からハブの体にしがみつく行為の真意が見えた気がして、ハブができる限り優しく投げ倒してくれていることにも気付いたのだった。
彼は自分が本気でハブを殺す気でかかっても、それを完遂してしまう危険性はないとわかった。
彼は再び飛びかかっていった。防御の姿勢を取ったハブの体がかたくなるのが楽しくもある。それから、ハブは体をねじ曲げながら、オーソンを宙に投げ飛ばそうとする。ハブの体にしがみついている至福のひと時の後、くるりと仰向けに投げ出された。
彼は立ち上がり、4度目の突進を試みたが、1年生の仲間たちに腕をつかまれ引き戻された。
彼は仲間たちの手を払いのけ、何も言わずに自分の机に戻り、本に目を落とすと意識を集中し、ページをめくった。
本の文字は非常にはっきりと見えていたが、文字はひどく激しく小刻みに震えていて、解読不能だった。
パーキング・メーターの頭の部分は一晩部屋に置いたままになっていた。
翌日、ハブは説得されて仕方なく、(オーソンは彼と話すのをやめていたので他の友人たちに説得されたのだが、)それをセントラル広場にあるケンブリッジ警察署に持っていった。
ドーソンとカーンはパーキング・メーターにリボンを結び付け、「私の赤ちゃんをどうかよろしくお願いします」というメモを添えた。
しかし、誰も警察までハブと一緒に行く勇気はなかった。ハブは帰って来ると、署長はメーターを受け取り喜んでくれたと言った。お礼を言われ、中の小銭は近くの孤児院に寄付すると約束してくれたそうだ。
それから1週間して、期末試験が終わった。1年生は全員実家に帰った。
秋に大学に戻ってくると、2年生になった彼らはすっかり変わっていた。ピーターソンとヤングは結局、大学に戻ってこなかった。フィッチは戻ってきて、単位を落とした科目を取り直し、歴史と文学を専攻し、最後には第二優等で卒業した。今はキリスト教のクエーカー宗派系の中高一貫校で教師をしている。シルバースタインは生化学者になり、コッシュランドは弁護士になった。ドーソンはクリーブランドで保守的な新聞の社説を書いている。カーンはニューヨークの広告業界で働いている。カーターは、みんなに忘れられてしまったヤングの後を追いかけていったかのように、3年から4年になる間の夏休みにどこかへ消えてしまった。
寮の仲間たちは、次第にお互いの顔を見かけることもなくなっていったが、ハブだけは別だった。彼の徴兵逃れの件はマサチューセッツ州の裁判所に移されていたから、たまにクリムゾン紙に彼の写真が載っていたし、一度ハブは「私が聖公会派の平和主義者である理由」という夜の講演会を開いたこともあった。
訴訟が進むにつれて、マサチューセッツ州の主教も、やや気が乗らない様子ではあったが、ハブの保証人として法廷に立った。結局、裁判が終わる前に朝鮮戦争が終わったために、この件を扱った裁判官は、刑務所に行っても構わないというハブの決意を根拠に、彼の信念は誠実である、と裁定した。
ハブはこの裁定にむしろがっかりしていた。というのも、彼は刑務所の中で読むための3年間の読書リストを作り、四つの福音書をすべて原語のギリシャ語で暗記するつもりだったからである。
卒業後、ハブはユニオン神学大学院に進み、ボルチモアの都市部で教区牧師のアシスタントを7年間務めた。そして彼はピアノも上達し、チャールズ・ストリートにあるカクテル・バーで演奏するほどになっていた。彼がいつでも牧師の正装をしていたゆえに、このバーはボルチモアではちょっと有名になった。1年ほど、彼は、あまり信仰心の強くない教会上層部の人たちともめていたが、やっと南アフリカに行くことを許された。そこでは、彼はバンツー族の中で共に働き、説教をしていたが、やがてその国の政府から国外退去を命じられてしまった。そこから彼はナイジェリアに行った。そして最後の便りには、(フランス語でメリークリスマスと書かれ、黒人の東方三博士の絵が描かれたクリスマスカードが、郵送中に汚れ、しわくちゃになってサウス・ダコタに届いた時には、すでに2月になっていたのだが、)ハブはマダガスカルにいて、「宣教師と政治活動家とサッカーのコーチの三役をこなしている」と書かれていた。
そのこっけいな近況報告にオーソンは笑いかけたが、ハブの子供っぽいながらも、一字一字がきっちりと書かれた自信に満ちた筆跡を見ていると、昔の腹立たしい気持ちを少し思い出した。返事を書こうと誓ったのに、彼らしくないことだが、そのハガキをどこかに置き忘れ、失くしてしまった。
あのパーキング・メーターの事件から2日間、オーソンはハブと話をしなかった。それから、そんなことをしているのが馬鹿らしく思えてきて、再びにこやかに机を並べ、その一年を終えた。長いバス旅行に隣り合わせて座ることになった二人の乗客みたいに愛想よく別れたのだ。別れる時、二人は握手をした。ハブは用事がなければ地下鉄の売店のところまでオーソンを送るつもりだったのだが、あいにく駅とは反対方向に用事ができてしまい、その場で別れた。
オーソンは期末試験でAを二つ、Bを二つ取った。ハーバードでのその後の3年間は、彼は無事にあまり特色のないウォレスとニューハウザーという名の、二人の医学進学課程の学生と同室になった。卒業すると、オーソンはエミリーと結婚し、エール大学の医学部に進み、セントルイスの病院で研修医を務めた。今では彼は4人の子供の父親であり、彼自身の父親が亡くなってからは、町で唯一の医者である。
彼の人生は大体、計画通りに進み、18歳の時に思い描いていた種類の人間にほぼなれたようだった。彼は出産を手助けし、死んでいく人を看取り、必要な会合に出席し、ゴルフを楽しみ、そして親切を尽くしている。彼は立派な人間でありながら、いらいらすることもある。父親ほど町の人々から愛されてはいないとしても、おそらく父親以上に彼は尊敬されている。ただ一つだけ、(それは切られたというはっきりとした記憶もなく、苦痛もなく、いつの間にかできていた傷のようなものなのだが、)彼がかつて思い描いていた将来の自分と違う点がある。彼は決して祈らないのだ。
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