『1日でめぐる僕らの人生』6
『Our Life in a Day』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2020年09月07日~)
トムはスマホを取り出すと、この辺りのパブを検索し、行ったことがあるお店の記憶と照らし合わせた。午前中から店を開けてくれるとしたら、〈ザ・ジョージ〉かな。
「わかった。いいお店があるよ」と彼は言って、彼女の腕を取り、ロイヤル・フリー病院から南へ、ゆるやかな坂道を登っていった。ポンド通りとヘイバーストック・ヒルが交わるところまで来ると、彼女が泣いていることに気づいた。トムは彼女の体を引き寄せる。バスが二人を冷やかすようなシューという音を立てて、彼らの隣に停まった。
「大丈夫だよ」と彼は静かに言った。
10分後、二人は52インチのテレビの下に置かれた二人掛けのソファに座っていた。常時〈スカイ・スポーツ〉を流しているスポーツ・バーはまだ開店直前だったが、すでにカウンターでは一人の男が、朝一番の一杯を飲んでいた。店の壁際には、液晶画面にクイズが表示される最新のマシーンが並び、それらに今電源が入ったらしく、ビーッと音が鳴ると、チカチカと赤や黄色の光を点滅させ始めた。女性のバーテンダーが開店の準備を着々と進め、ラジオをつけると、ザ・ラーズの『There She Goes(ほら、また彼女が横切った(=また彼女のことを考えてる))』が流れ出す。エズミーの目の前に、ラム酒入りのホットチョコレートが差し出され、トムの目の前には、お酒の入っていないストレートのホットチョコレートが置かれた。彼の心の一部分が、彼女が飲もうとしている酒入りの方をうらやましく思った。その気持ちをぐっと抑え込むように、甘いホットチョコレートを喉の奥に流し込んだ。
エズミーは一口飲むと、ソファの背もたれにもたれかかり、愛情と憤りと悲しみが混じった表情でトムを見つめた。
「大丈夫?」と彼が聞くと、彼女はうなずいた。もちろん、彼女は大丈夫ではなかった。一方でトムは、このことが二人をどこへ連れていくのか、気付けば二人はどこへ流れ着いているのか、と自問していた。そうこうしているうちにも、日に日に彼の精神は蝕(むしば)まれていくのだろう。
しかし彼はまたしても、自分の精神状態について何も言えなかった。
女性店員は、昨夜床を掃除するためにテーブルの上に載せた椅子をすべて下ろし終えると、ドアにかかった看板をひっくり返し、『オープン』にした。
~~~
〔チャプター 17までの要約〕
この要約を読めば、今からでも間に合います!←どこ行きの電車にだよ!笑←電車?笑
プロローグ June 2017
付き合って10周年の記念日に、エズミーが謎のゲームを仕掛けてきた。24時間の時間帯ごとに印象的なエピソードを思い出せ! と。果たして彼女の意図とは?笑
パート 1
チャプター 1 June 2007
知人の家の仮装パーティーで出会う。
チャプター 2 June 2007
朝のベッド内のシーンから記憶は始まるが、パーティーからベッドに直行したわけではなく、家まで送って一旦トムは帰り、翌日の昼間に公園デートして、夜にパブでトムの演奏を見て、「彼ならいいか」と思ったっぽい。笑
チャプター 3 October 2007
地元の友人たちとパブで飲んでいて、エズミーを呼ぶ。
チャプター 4 April 2009
同棲を始める。内容を思い出せない本やCDは捨てる! というゲームをする。笑
チャプター 5 December 2007
トムの実家でクリスマスを過ごす。
パート 2
チャプター 6 June 2008
高速道路でビチョビチョ(スケスケ)笑
チャプター 7 March 2010
エズミーの母校、オックスフォード大学に行く。
チャプター 8 August 2012
キャンプが崩れる。笑
チャプター 9 May 2011
エズミーの誕生日パーティー。エズミーによると、5がつく歳、25歳、35歳、45歳...が人生の節目らしい。
チャプター 10 April 2007(二人が出会う前の話)
トムがやばい状態になって、死にかける...
パート 3
チャプター 11 December 2013
エズミーの実家でアルバムをめくる。
チャプター 12 July 2014
アナベルとサムの結婚パーティーにて...
チャプター 13 January 2015
トムの地元で、トムは再び「やばい状態」に...
チャプター 14 February 2015
久しぶりに外出したトムは、エズミーを迎えに空港へ...
チャプター 15 November 2015
エズミーの父親が死にそうで...
チャプター 16 September 2016
サプライズでプロポーズを...
チャプター 17 January 2017(2017年1月)
妊娠しかけたんだけど、初期段階で溶解というか、消えちゃったらしい。藍は(身体的には)男だし、深く付き合ったこともないので、よく知らないのですが、いわゆる流産みたいですね。関係が長く続く秘訣は、子供を作ることだったりするのかな?(知らないけど...笑)
パート 4
チャプター 18 June 2017(2017年6月)
チャプター 19 February 2017(2017年2月)寝ちゃった(しちゃった...)
チャプター 20 February 2017(2017年2月)飲んじゃった...
チャプター 21 April 2017(2017年4月)
チャプター 22 June 2017(2017年6月)白昼の怒鳴り合い
チャプター 23
チャプター 24
エピローグ
4分の3くらい訳し終わって、トムは藍だな~!という感じがします。笑←ダッシュの時もそんなこと言ってなかった?笑←ダッシュのひねくれ具合も藍っぽかったんだけど、トムの方が近いかも。というのも藍も、(藍はお酒は飲まないんだけど、)年に3回くらいは「やばい状態」がめぐって来るから!←お酒を飲まないくせにやばい状態って、ほんとにやべー奴じゃねーかよ!!笑
まあ、藍の場合は、ひっそりと内的に「やばさ」と闘ってる感じなので、その間はつらいんだけど、その時期を抜ければ、心は真っ青なブルーに、突き抜ける青空に晴れ渡るので、青空を見るための曇りかな、と思っています。つまり、一旦雲がかからないと...ね!笑
~~~
パート 4
チャプター 18
午後8時~9時
僕らの10周年記念日の前夜
2017年6月 — 西ハムステッド、ロンドン
トムはゲームのルールをもう一度読み返した。
1日でめぐる私たちの人生ゲームへようこそ! 私たちの10周年を一緒に祝うために、エズミー・サイモンがトム・マーレイのために考案した新しいゲームです。
メモ用紙の各ページは1時間を表します。24枚あるので24時間、つまり1日です。あなたは、私たちが一緒に過ごしてきた人生で、最も重要な24の瞬間を思い出してください。1時間ごとに1つの出来事とします。
ルールはこの1つだけです。メモ用紙に示された時間のことを思い出してください。大体このくらいの時間だったな、くらいで大丈夫です。たとえば:
午前3時~4時頃、エズミーがミルトン・キーンズ駅まで僕を迎えに来てくれた。僕は馬鹿だったから、電車に乗ったまま寝ちゃったんだ。(あれは2011年3月だったな。覚えていたら、年月まで言ってね)
みたいな感じで、あなたから24の重大な出来事が出そろったら、ゲームクリアよ。あなたは賞品を受け取れるわ。
楽しんで! 愛してる。エズより、キスの花束を。
彼はエズミーの顔を見上げた。二人の間に置かれたろうそくにほのかに照らされた彼女の顔が、にっこりと満面の笑みをたたえていて、彼は一瞬たじろいでしまう。それからカードに視線を落とす。
僕らの関係を振り返って、最も重大な24の出来事か。最高の瞬間ではなく、重大か。彼女はこのルールを書いた時、慎重に言葉を選んだはずだ。最も重大、それはつまり...うーん...
彼女の表情を見て、トムは初めて疑問に思った。彼女は僕の問題のことを前から知っていたのだろうか。―そもそもの初めからずっと知っていたのだろうか。もしかしたら、誰かが彼女に接触してきたのかもしれない。あるいは、たまたま街で誰かと出くわしたとか。それとも、これが彼女のやり方で、半ば強引に僕の口から白状させるつもりなのか。彼女の口から事実を突きつける代わりに、僕の腕を背中にひねり上げるようなやり口で、僕が望もうが望むまいが、自分で墓穴を掘らせようとしているのだろうか。僕が自ら破滅を導くのを、微笑を浮かべて見守っているってのか。
トムはテーブルの上のカードに再び目をやってから、エズミーを見返した。
「準備はいい?」と彼女が言った。
トムは何も言わなかった。
「トム?」とエズミーは言って、彼を促した。
「ちょっと待ってくれ」
「もっと説明が必要?」
「いや、そうじゃなくて」彼はきっぱりと言った。「ごめん。悪いけど、まだ準備ができてないんだ。これはいったい何?」
「言ったでしょ。これはゲームなの。あなたは24の出来事を書き留めて―」
「それはわかった」彼はぴしゃりと言った。「今晩のことだよ。まず、出かける前にちょっとした夕食を食べた。そして帰ってきたら、君がドレスに着替えていて、プレゼントと、こんなくだらないゲームだ。僕は今までに僕たちに起きた出来事を、いちいち思い出さなきゃならない。バカバカしい。僕はハメられた気分だよ」
「ハメられた?」
「そう、君にハメられたんだ。エズミー、いったい君は何をたくらんでる? 心を開いてすべてを話してくれ」
「私はハメようなんてそんな―」
「じゃあ、なんで僕をこんな目に遭わせるんだ?」
エズミーは唖然として何も言えなかった。テーブル越しに彼と向き合ったまま、じっと彼を見つめていた。彼女の顔には、悲痛の色が浮かんでいた。彼が今までに一度しか見たことがない、悲しみに満ちた表情だった。数年前のあの日の早朝、車で彼女の地元に向かっている途中、彼女の母親から電話がかかってきて、タマスが今亡くなったと彼女に告げた時、彼女はこんな顔になった。彼を見つめる彼女の目に、徐々に涙が溜まっていく。溢れ出た涙のしずくは、彼女の頬を小川のように流れ、せっかく施した化粧に真っ直ぐな線を残しながら、流れ落ちた。
「バカバカしいゲームね」と、彼女は静かに繰り返した。そしてトムはその瞬間、これで今夜はお開きになる、と悟った。どんなに謝罪しようと、彼女の機嫌が戻ることはない、と。
彼は間違っていた。彼女は何も知らなかったのだ。その年の初めに彼が何をしたのか、彼が自分の中に押し込め、彼女に隠してきたすべてのことを、彼女は何も知らなかったのだ。『1日でめぐる僕らの人生』は、ちょっとした余興に過ぎなかった。こんなことでもしなければ困難に陥りつつあった二人の関係に、彼女は光をもたらそうとしてくれたのだ。今ならわかる。しかしそれを知ったところで、彼の気持ちが晴れるわけではなかった。
「そんなつもりじゃ...」
「私は頑張ってるよ、トム」
「エズ」
「ほんとに頑張ってるなって自分でも感心しちゃうくらい。いろいろあったけど、それでも私はこの10周年を祝いたいって思ってるんだもん。10年経ったけど、私たちは何を手に入れた?」エズミーは周りを見回しながら、涙をこらえていた。これまで何度も見てきた表情だ。自分が悩まされていることを表に出すまいと、涙の流出をこらえているのが伝わってきた。「この西ハムステッドの小さなアパートと、猫ちゃんだけね」
トムは彼女に異議を唱えようとはしなかった。それしか得るものがなかったにもかかわらず、こうして今も付き合い続けていることの奇跡を、あえて彼女に言い聞かせようとも思わなかったし、周りのみんながかつてうらやんだ関係を今も続けていることが、どれほど幸運なことであるかについても口にしなかった。
「黙ってるってことは、同じ意見なのね? 10年経っても私たちは何も得られなかった」
「そうじゃない、エズ―」
「このゲームはちょっと面白かったな。それがすべてね。何も得られなかったけど、なかなかいい思い出は結構できたじゃないって思えたから」彼女は椅子を壁際まで引くと、立ち上がった。
「頼むよ」トムは手を伸ばして彼女を引き止めようとしたが、自分が言い過ぎてしまったこと、そして、少なくとも今は、発言を撤回することもできないことはわかっていた。
彼女は彼を無視し、キッチンへ向かってすたすたと細い廊下を歩いていった。すると、キッチンからオーブンのドアが開く音がして、冷たく硬い黒のタイルが敷き詰められたキッチンの床に、ガシャンとお皿がぶつかる音がした。記念日のために焼いた料理が入っていたのだろう。それから、いつだって聞きたくはない、ましてや自分がその原因だなんて耐えられない、低くくぐもったすすり泣きが聞こえてきた。最後に寝室のドアがバタンと閉まる音がして、静寂が訪れた。
一人になった彼は、パンの入ったバスケットや、エズミーがテーブルの上に飾った赤ワインのミニチュアボトルを見つめていた。メモ用紙で作ったカードの束の一番上には、『1日でめぐる私たちの人生』と書かれていて、時計の絵が小さく描かれている。
トムはカードの束を手に取ると、もう一度パラパラとめくってみた。
そしてめくりながら、自分ならどの瞬間をそれぞれのカードに記録するだろうかと自問した。二人が出会った夜、は外せないだろう。それから、最初の記念日。無残な結果に終わったけど、あの海岸への旅行も入れるな。エズミーの30歳の誕生日も。
しかし、と彼はそこで思った。この僕らの10年を形作ってきたものは、もっと曖昧模糊とした、記録されることもなく流れていった時間の集積ではなかったか。二人の会話も、最初は探り探りだったけど、だんだんと言外の意味が広がっていき、今では少し話すだけで、彼女の内面まで見えるようになった。小さな物事が積み重なり、いつしか大きなうねりとなって、僕らをもう戻れないところまで連れてきたのだ。
彼女が知らない出来事やアクシデントについては、24の重大事に入れた方がいいのだろうか。今まで彼女に言わずに秘密にしてきた裏切りや過ちは? 彼女に嘘をついてきたことは?
エズミーは僕らが楽しめたらいいと思って、このゲームを作った。けれど、なんでもかんでも言ってしまったら、楽しめなくなってしまうだろうな、とは知れた。トムは、彼女がラウンジと呼んでいるリビングを見回してみた。いろんな物に囲まれていた。どれを見ても、このカードに書き込めるような出来事を思い出す。良いことも悪いことも。壁の写真には、サマセットまでキャンプ旅行に行った時の二人が写っている。あの時は、雨でテントが崩れて大変だった。初めて一緒に暮らした部屋で、彼女が紅茶を飲むのに使っていたマグカップ(今はペン立てになっている)もある。
トムは外に出て、思い出の品々が目に入らない場所で考える必要があった。
彼はテーブルから立ち上がると、できるだけ静かにアパートの廊下を歩き、キッチンの中をちらっと見てから(猫のマグナスが、エズミーが床にぶちまけたラザニアの残骸を美味しそうに食べていた)、寝室のドア(今は固く閉じられ、ドアノブに触れることさえ許されない)の前を通り過ぎた。彼はランニングシューズを履くと、雨を避けるために薄手のジャケットを羽織り、玄関のドアを開けた。
〈アイラ・ガーデン〉に続く小さな共有スペースに出ようとした時、トムはエズミーのゲームカードをまだ後ろのポケットに入れていることに気づいた。彼はそれを取り出し、最後にもう一度見つめてから、使い込まれてボロボロの肩掛けかばんの底に落とした。それから、そっと後ろ手でドアを閉めた。
チャプター 19
午前4時~5時
あのホテルの部屋
2017年2月 — アルバート・ドック、リバプール
彼の携帯は、ホテルの部屋のどぎつい模様のカーペットの上で、ひたすら震え続けていた。それより前に彼の後ろポケットから滑り落ちた携帯は、画面側をカーペットにつける形で落ちていたため、画面の点滅も、彼女の名前も、彼女が電話をかけてくるたびに表示される二人で写った写真も、彼の目には届かなかった。応答がないまま留守番電話サービスの案内が流れ出し、彼女が通話を切ると、また一つ不在着信の表示が上乗せされた。それから数分間は沈黙が続いたが、再び携帯は震え出すのだった。
彼女が繰り返し電話をかけていた相手は、まだ気を失ったまま、死んだも同然の状態で、周りのすべてに気づくことはなかった。
ようやく、午前4時を過ぎた頃、携帯が震えている音にぼんやり気づいた彼だったが、床からの高さが結構あって寝心地も悪いベッドから、手を下ろしてそれを拾い上げるまでには、さらに10分か15分を要した。驚いたことに、充電器に繋がれていなかったにもかかわらず、一晩経ってもバッテリーは持ちこたえていた。スマホの側面のボタンを押すと画面が光り、こんな時間に彼を起こした原因が、ずらっと画面に表れた。16件の不在着信、4件のボイスメール、9件の未読メッセージの通知に、眠い目が大きく開く。そのどれもがエズミーからのものだった。
トムはスマホのロックを解除し、指でスクロールし始めた。夜中の12時頃に最初のメッセージが届き、最新のものは10分前に届いていた。
トム。いつなら話せる? 一日中働いてたのは知ってるけど、もう終わってるでしょ。休憩も取らなかったの?😘
本当は寝たいんだけど。ひどい一日だったわ。電話ください😘
大丈夫?
トム。こんなのふざけてるわ。1日中音沙汰なしで、夜中の1時になっても連絡がないなんて。
本当に心配になってきたわ。トム、お願いだからメールして。
眠れないの。涙が溢れてきた。あなたは行くべきではなかった。これは何かの間違いよ。電話ください😘
あと30分しても連絡がなければ、警察に電話する。
本当に心配なのよ、トム。何があったにせよ、無事だけは知らせて。
これから警察に電話するわ。無事なら電話ちょうだい😘
彼は手の力を抜き、スマホをするりと落とすと、目をぎゅっと閉じた。
昨夜のことが懐かしく、ほとんどノスタルジックな面影を持って、まぶたの裏に蘇る。毛皮を噛んだような、食べ物が腐ったような味がする。普段使わない筋肉を使ったせいか、手足が痛む。皮膚が汗をかこうとしているのか、肌がチクチクと火照(ほて)りを感じる。血液が気だるく静脈を流れていくような感覚。逃れようのない吐き気が襲ってきて、押しつぶされそうな頭痛が走る。
二日酔いだ。と思ったが、同時にまだ少し昨夜の酔いが続いていたこともあり、その思考も薄れていく。
エズミーと出会う2ヶ月前、病院で目覚めたあの朝以来だった。つまり、ほぼ10年ぶりに経験する、飲んでしまった感。この10年間、二度とこんな嫌な後味は経験すまいと、彼女を失望させまいと、心に誓っていたはずなのに。それなのに...渇望(かつぼう)は先月辺りからますます強くなるばかりで、ついに最高潮に達した欲求は、振りほどけないほど鋭敏になっていた。
何か正しい対処法があれば、どうにかなったかもしれない。しかし自分の周りに、これだという対処法は一つも見当たらなかった。自分のせい以外の何物でもない。またやっちまった。
突然、彼は何かに気がついた。誰か、と言った方が正しいだろう。自分以外の呼吸音が聞こえ、枕元に自分のではない腕があった。マットレスのすぐ隣が自分以外の体で沈んでいる。その体が少し動き、触れた肌からは体温が感じられた。
彼は寝返りを打つようにして、そちらを向いた。やはり、同じベッドで誰かが寝ていた。それが誰で、どうしてこうなったのか、記憶をたどろうとする。彼女が誰かはわかったが、だからといってこの状況は変えられない。
「なんてことだ」とトムはささやいた。上半身を起こし、ホテルのベッドに座り込む。彼はボクサーパンツしかはいていなかった。足元がおぼつかない感じで、インフルエンザの病み上がりの時みたいに足が震えた。
静かに眠っているルイーザにもう一度目をやると、布団をめくって彼女が着ているものを確認したくなった。彼女が服を着ていればいいと願いつつも、どうせ何も着ていないのだろうと思い、めくるのはやめておいた。このようなことは以前にもあった。トム・マーレイ的とも言える、典型的な失敗例だ。長い間記憶の奥底に放っておいた、埃をかぶった台本を演じ直している気分だった。
おずおずと、彼はトイレに向かった。小銭やコートが置かれた机の横を通り過ぎた。壁にはテレビが備え付けられていて、平凡な水彩画も掛かっている。一歩歩くごとに素足を通して、カーペットの弾力や毛触りを感じた。意識が必要以上に鋭敏になっていて、現在経験しているすべてを逐一(ちくいち)全身が感じ取ろうとしている。ライトをつけて、明るく白い、病院のように殺風景なバスルームに足を踏み入れた瞬間、圧倒的な悪臭に見舞われた。自分が昨夜吐いた嘔吐物に違いない。お風呂の中には、彼が着ていた服が無造作に脱ぎ捨てられていた。ジーンズと〈ベンシャーマン〉のシャツが、浴槽の隅でくしゃっと丸まっている。シャツは湿っていて嘔吐物で汚れていたが、ジーンズは大丈夫そうだった。彼はそのジーンズを穿くと、旅行かばんからTシャツを引っ張り出した。寝る時に着るはずだったTシャツに、遅ればせながら首を通す。
トムは昨夜のライブを必死で思い出そうとする。
昨夜はキーボードではなくギター担当だった。それくらいは覚えているが、こんな状態でどうやってギターを弾いたんだろう? 昔は少しくらい飲んだところで大丈夫だった。大丈夫どころか、時には少し自信がつき、間奏のソロでは大胆になり、ステージでの存在感も増したほどだ。しかし最後に酒が入った状態で演奏したのは、15年も前だった。観客とバンドメンバーをがっかりさせるような、ひどい演奏をした可能性が極めて高い。もしかしたら、パーティーを台無しにして、ギャラも貰えなかったのかもしれない。彼はほとんど何も覚えていなかった。かろうじて覚えているのは最初の曲で、ブラーの『カントリー・ハウス』を演奏していた時、目の前のダンスフロアで観客が上下に飛び跳ねていた様子がぼんやりと蘇る。
ホテルの部屋のドアをできるだけ静かに開け、トムは廊下へと足を踏み出した。清掃用具の臭いがむっと立ち込めていて吐きそうになるが、吐き気をこらえながらエレベーターに向かった。両隣の部屋には、昨夜からいろんな物音が聞こえていただろうか? 自分の記憶を手繰り寄せるよりも、隣の部屋の人に聞いた方が、昨夜何があったか詳しくわかるかもしれない。
受付に座っていた夜間担当の従業員が彼の顔を見て驚いた顔をした。あるいは、彼ではなくても、日曜日のこんなに朝早くから誰かが出てくることに驚いたのかもしれない。彼女が「おはようございます!」と朗らかに挨拶してきたから、彼は気まずくなりつつも頭を下げて前を通り過ぎた。明るいライトに照らされた窓のないロビーをそそくさと歩き抜ける。ガラス張りの自動ドアを抜けると、ひやっと朝の冷気が頬を叩き、波止場の方から新鮮な空気に乗って、海の匂いが鼻に届いた。
トムはホテルを離れ、海の匂いに誘われるように埠頭(ふとう)までやって来た。海に面した赤レンガの〈テート・ビルディング〉は、今は現代アートの美術館になっている。水面にはボートが何隻か揺れながら浮いていて、観光客を乗せるクルーザーが待機している。黄色い潜水艦も一隻だけ海上に姿を現していた。彼は夜明け前の海を眺めつつ歩を進めながら、これから自分がしようとしていることは正しい行為なのかと考えていた。嘘を嘘で塗り固めるような、自分の過ちの数々にさらなる欺瞞(ぎまん)の筆を走らせ、自分でもわけのわからない曼荼羅(まんだら)を仕立て上げようというのか? いっそのこと、潔く白状してしまった方がいいのではないか? 自分の過ちを認めてしまった方が...というか、過ちの数々を。
しかし、タイミングが悪かった。
よりによって、なんで昨夜なんだよ。
赤レンガの壁を背に、彼はスマホを取り出すと、自分のメールアカウントにアクセスし、メールを書き始めた。
おはよう、エズ
昨日から連絡できなくてごめんね。ライブの時にスマホと財布を盗まれちゃって、困ったよ。今はホテルのフロントでパソコンを借りて、これを送信してる。連絡がこんなに遅くなって(あるいは、こんなに早い時間に)ごめん。警察に行って被害届を書いて、状況とかを説明してて、やっと30分くらい前にホテルに戻ってきたんだ。今日の午後1時ごろには帰るよ。
君が無事であることを祈ってる。
愛してる。
トムより😘
彼は画面の下に表示されている、Sent from my iPhone(アイフォンから送信)の文言を削除してから、送信ボタンを押すと、赤レンガの壁に寄りかかるように腰を下ろし、足を伸ばして海を眺めた。
彼の人生は自己嫌悪の連続だったけれど、この時以上に自分を嫌いになったことはなかった。エズミーが怒るだろうな、とは思った。どうしてもっと早く連絡できなかったのよ、と。でもそんな口論は、2、3日もすれば断ち切れになり、僕らはそれを過去の出来事として乗り越えていくのだろう。とその時は思った。だけど、実際は...
罪悪感が体内に残ったアルコールに混じって、血管をめぐっているようだった。トムはスマホの電源を切ると、アルバート・ドックの海面に向かって、それを投げ捨てた。黒光りする水面に、黒光りする画面が浮かび上がって、しばらく浮いたまま漂っていたが、ふっと見えなくなると、秘密の数々を内包したまま、水面下に消えていった。
トムがホテルの部屋に戻り、重いドアを押し開けると、その音でルイーザが眠りから目覚めたようだった。彼女は枕に寄りかかるように上体を起こすと、ベッドのライトをつけ、薄明かりの中で彼を見た。彼女はTシャツを着ていたが、彼女のジーンズやブラジャーは、ベッド脇の絨毯(じゅうたん)の上に無造作に散らばっているのが目に入った。
「おはよう」と彼女は眠そうな声で言った。「どこに行ってたの?」
「ちょっと新鮮な空気を吸いにね」
彼女はうなずいた。「気分は良くなった?」
「あまり」
「でしょうね」と彼女は言った。「仕方ないわ。禁酒してたんでしょ? 10年もだっけ?」
「ほぼ10年だね」と彼は条件反射的に返したが、一瞬遅れて彼女の言葉に驚き、少したじろいでしまう。「それ、誰に聞いたの?」
「モグスよ。って言っても、それを聞いた時には、君はもうだいぶ飲んでいて、手をつけられない状態だったけどね」
「なんてこった」トムはソファにくずおれるように座ると、両手で頭を抱えた。「ライブは? 大丈夫だった?」
「うーん、まあ」
「マジかよ」と彼は言い、再びこみ上げてきた吐き気をぐっとこらえた。「どのくらいひどかった?」
「まあ、君はギャラをもらえなかったくらい、かな」
トムは片手でチョップするように自分の額を叩き始めた。
「やめて、トム」とルイーザが言った。「自分を責めても仕方ないでしょ―」
「仕方なくないよ」と彼は彼女の発言を遮った。「僕が悪いんだから」
二人はしばらく黙っていた。知人に過ぎなかった二人は、昨夜久しぶりに再会し、意気投合したのか何なのか、望んでいたわけでもないのに、親密になってしまった、らしい。昨夜何が起きたのか、本当のところを知らなければならなかった。自分は何をしたのか、―あるいは二人で何をしたのか、―彼が聞くのをためらっていると、ルイーザが口を開いた。
「あのね。ごめんなさい。ソファで寝ようとしたんだけど、眠れなくて。体を伸ばせないとダメね。だからってお風呂で寝るわけにもいかないでしょ、理由は明白だけど」
「べつにいいよ」とトムは言いながらも、彼女が何を言ったのか、彼女の発言が何を意味しているのか、理解するのに時間がかかった。少なくとも、意味しているかもしれない事実に気づくまでに。
「ごめん、ルイーザ。こんなこと聞くなんて、ひどいってわかってるけど、その、なんて言うか、僕たちはベッドで...」
「トム」
~~~
〔チャプター 19の感想〕
これは、自業自得じゃね!笑
藍の場合、一途だったにもかかわらず、捨てられたからね!←一途の方がキモいんだよ!!爆笑
ギリで浮気はしてないのかな?笑←いやいや、同じベッドで寝たけど、してない、的な??爆笑
~~~
チャプター 20
午後4時~5時
自制が利かなくなった日
2017年2月 — ハノーバー・ストリート、リバプール
彼はすぐに彼女に気づいた。彼の2本のギターと、ライブ用の機材があれこれ詰まった大きな旅行かばんを抱えて会場入りした瞬間、彼女に気づいたのだ。彼女はステージ上でベースをチューニングしながら、バンド仲間と談笑していた。
トムがルイーザに会うのは、ほぼ10年ぶりだった。トムが時々参加していたオアシスのトリビュート・バンドが、ルイーザのバンドと共演した時以来だった。彼女のバンドは1980年代に流行った曲ばかりを演奏していた。あの時は、たしか会場がチェルトナムにあって、有名なエンジニアリング会社が主催するクリスマス・パーティーだった。午後9時頃には、へべれけに酔っ払った社員が我が物顔で騒ぎ出し、ステージ上まで上がってきてマイクを奪うと、リアム・ギャラガーになりきって、調子外れの歌をがなり立てていた。
かつて、トムとルイーザはすぐに打ち解けた。どこかの会場で出演バンド同士顔を合わせるたびに、気さくに近況などを喋り合っていた。二人の間には、火の粉がパチパチとくすぶっているような、恋の予感が漂っていた。しかしタイミングがなかなか合わなかったし、最後に会った時も同様だった。トムはエズミーと付き合い始めたばかりで、ルイーザも、学生時代の同級生と婚約したばかりだった。彼は税理士をしていて、大学を卒業してからは一度も会っていなかったのだが、ネット上で再会を果たしたという。お互いにバンド活動に費やす時間を徐々に減らし、築き上げつつあるそれぞれの生活を優先していた頃だった。
「彼はくすぶっていた火の粉をつついて、私を燃え上がらせたのよ」と、彼女は婚約者に関して、トムへの当てつけのように言った。「そこからすべてが始まった感じね」
その後間もなく、トムは〈スーパーソニック〉の活動を休止した。必然的にルイーザと顔を合わせることもなくなり、彼女のことを思い出すこともなくなり、かつての友情と言えるのかどうかわからないが、仲の良い関係も色あせてしまった。
だから、会場に入り、彼女の姿が目に入った時には、びっくりしてしまった。それから、彼女が80年代に流行った〈バングルス〉の『Manic Monday(慌ただしい月曜日)』をリハーサルとして弾き始めた。その完璧な演奏っぷりに釘付けになりつつ、一気に当時の記憶が蘇る。
トムはライブ会場の後方の席に座り、彼女の演奏に見入った。ルイーザは、あれから10年近く経っているというのに、ぱっと見た感じの印象はあまり変わっていなかった。髪は少し伸ばしているようで、無造作なボブヘアーだった。当時は髪に入れていたピンクのメッシュは消えていた。当時の彼女はベルボトムのジーンズを穿き、〈ホール〉か〈アーニー・ディフランコ〉か〈ザ・ホワイト・ストライプス〉辺りの有名バンドのロゴが入ったタイトなTシャツを着ていたが、今は、黒のスキニージーンズに、無地の白いオックスフォードシャツというシンプルな服装に変わっていた。そういえば、彼女はまだ舌にピアスをしているのだろうか、と思った。当時はカメラを担いだスタッフが彼女に近づくたびに、紫色に塗られた唇から舌を思いっきり突き出し、ピアスを見せつけていた。
ボーカルがモニターの返し音量について文句を言い出し、曲はサビの途中で断ち切れとなった。ポンポン、ガシャガシャとそれぞれの楽器が一旦音を閉じる。彼は思わず立ち上がって、大きく手を振り、サウンドチェックをしている彼女の視界に入り込もうとしたのだが、腰が浮く寸前に、近くのドアが開き、この後一緒に演奏することになっているバンドメンバーが、ベースやドラムスティックがはみ出たバッグを抱えて入ってきた。
7年前、彼らと最後にライブをした時以来、一人を除いて誰とも会っていなかった。あの時もトムはサポートメンバーだった。レギュラーメンバーのギタリストの奥さんが産気づいたそうで、彼が出産に立ち会うため参加できず、トムが助っ人ギタリストとして呼ばれた時以来だった。ドラムのスティーブン・モグガック(通称モグス)とは、たまに出くわすことがあった。彼もサッカー好きで、彼はアーセナルのファンらしいが、北ロンドンでは段々少なくなってきたスポーツバーで、タパスやクラフトビールをお供に、大画面でサッカー観戦をしている彼を見かけることがあった。そんな時にはバンドの近況を聞いたりしていた。今夜の代役をトムに依頼したのも、モグスだった。
「宿敵リバプールの本拠地に乗り込んできたぞ」と、モグスが細いタバコを指でくるくると回しながら言った。「90年代のカバー曲を2時間やる。主催者はレストラン・チェーンの経営者で、40歳過ぎのおっさんだ。ニールはディズニーランドで家族サービス、元家族と言った方がいいな。元妻が子供たちに会わせてくれる貴重な機会なんだとよ。お前は空いてたんだろ? 腕もまだ健在だよな?」
腕はそれなりに大丈夫だが、タイミングは最悪だった。でもエズミーの病院の費用とかもろもろで、1,000ポンド(約15万円)ほど必要だったから、エズミーがトムに、お金のために行ってきて、と言ったのだ。内心は、彼女に背中を叩かれなくても、行きたかった。何年も前に遠ざかってしまったバンドやライブ音楽の世界に、もう一度包まれてみたかった。ステージライトのまぶしさの中で、観客たちがボーカリストの歌声に負けじと上げる大声を浴びながら、最近の日常を覆い尽くすどんよりとした靄(もや)を吹き飛ばすように、いろんなことを忘れたかった。
彼はモグスの依頼を受けた。
「トム!」ルイーザが声を上げた。ほとんど忘れかけていた、どことなく育ちが良さそうな甲高い声だった。彼女はサウンドチェックを終え、バーを兼ねている会場の、一段高くなったステージから降りてきて、バンドメンバーに近況を聞いていたトムのところにやって来た。「伝説の、かどうかは知らないけど、トム・マーレイじゃない!」
ルイーザはトムの体に腕を回し、まるで長く海外で暮らしていた旧友に10年ぶりに会ったかのように、ぎゅっと抱きしめた。
「いったい、そんな腑抜けた顔しちゃって、どうしたのよ?」と彼女は言った。そういえば彼女は、どんな状況でも悪気なく悪態をついてくる女の子だった、と思い出す。「こんなところで会うなんてね。トム、どうしてた?」
「元気でやってたよ、ありがとう。今夜は、90年代のトリビュートバンドの一員として演奏するんだ」
「マジで? 君はもうとっくの昔にやめたと思ってた」
「そうなんだけど、一夜限りの復帰だよ。かっこよく言うと、ワンナイトスタンドかな。いや、スタンドってそういう意味じゃなくて。とにかく、君は? 君だってもうやめたと思ってたけど」
「まあね。結婚を機にいったんはやめたんだけど、子供が二人できて、なんやかんやあって、離婚も経験して」と彼女は言った。「そして今、私は戻ってきたの。だからこれは、ある種の中年の危機的帰還と考えてもいいわ」
「じゃあ、昔のバンドを再結成したってこと?」
「そんなところね。トーニャはアマーシャムでヨガのインストラクターをしていて忙しいみたいだから、今はスリーピース・バンドだけどね。君たちの前に私たちが45分間、80年代の懐かしい名曲たちを演奏するわ」
「前座というか、僕たちのオープニングアクトってこと?」
「おい!」と彼女が彼の腕を叩いた。「対バンって言ってよね。対等な立場よ。主催者の趣向みたいね。バンドを2組呼んでパーティーを豪華にしたかったんじゃない? もしくは、お金をばらまくのが好きなのか。それはともかく、君は今どこに住んでるの?」
トムが答えようとした時、ステージ上から自分の名前が呼ばれるのが聞こえ、内心ほっとした。というのも、自分の人生について聞かれても、いったいどこから話せばいいのかわからなかったし、ましてやルイーザの人生について、何から聞けばいいのかわからなかったからだ。なぜ離婚したのか? 子供は何歳? 何がうまくいったの? そしてもっと重要なのは、何がうまくいかなかったのか?
「あ、呼ばれた。僕もサウンドチェックをしなくちゃ。でも、ちょっとその辺で待ってて。後でまた話そう」
『A Design for Life(これも一つの人生設計さ)』だけを25分間ひたすら演奏し、リハーサルを終えたところで、トムはカウンターの近くの丸テーブルにいるルイーザを見つけた。彼女は脚の長い椅子に腰掛けており、彼女の前に置かれたグラスの中では、透明な冷たい飲み物が泡を立てている。スマートフォンの光に顔を照らされながら、彼女は画面を指でスクロールしていた。
トムが丸テーブルを挟んで彼女の向かいの椅子に腰掛けると、彼女は顔を上げて、「やっと来たわね」と言った。リハーサルを終えてからライブが始まるまでのこの時間だけは、どうしてもそわそわしてしまう。宙ぶらりんの時間が無限に続くかのようで、何度経験しても慣れなかった。「じゃあ、まず君から。この10年のことを話して」
そしてトムは、彼女にほとんどすべてのことを話した。エズミーのこと、二人の出会い、ロンドンで同棲していること、企業のイメージビデオ用の音楽を作曲する仕事、お金持ちの家の子供にレッスンをしていること、音楽教室でも教えていること。かつてルイーザとともに歩んできたライブハウスをめぐる生活からはすっかり遠ざかり、今は落ち着いた生活を送っていること。
しかし話しているうちに、トムは自分の言っていることの多くが、中途半端な真実であることに気がついた。まだ結婚はしてないと言った時、去年サプライズでプロポーズを試みたけど失敗した話は省略したし、このところ金銭的にも大変で、こうしてリバプールまで来たのも、作曲や編曲の仕事がさっぱりなくなってしまったからだというのも省いた。住宅ローンの支払いはすべてエズミーに任せっきりだということも話さないことにした。
彼は話しているうちに段々と、人生の別バージョンをでっち上げているのだとわかってきた。自分とエズミー、二人の関係を見栄え良く仕立て上げたバージョンを、他の人に見せたいだけなのだ。実際の人生とはまるで違う、不幸や秘密や傷心をいっさい描かない、いろんなところがぼやけたポートレート。
それから、ルイーザに「君たちに子供はいるの?」と聞かれ、トムは「まだいない」とだけ答えた。
もちろん、それは事実だった。けれどその言葉には、トムが素っ気なく口にした以上の、多くのことが隠されていた。3週間前、エズミーのお腹には小さな命が宿っていたこと。大晦日に妊娠を知った時には、涙が出るほど嬉しかったこと。しかし、そんな喜びもつかの間、二人の関係が切実に必要としていた新たな命が失われてしまったこと。出血、血液検査、hCGの不規則な数値、町医者の対応や、耳にした「生存不能」「高リスク」といった言葉も省かれていた。
トムは何かを隠している素振りをルイーザに見せなかった。流産のショックも、自分がどれほど悲しかったかも、それでも、エズミーはもっとつらいだろうからと、彼女の支えになるために悲しみを抑え込んだことも、何も話さなかった。エズミーはこのことを友達に話してもいいと言った。だからアナベルにはざっくりとは話したけれど、それでも、内面に湧き上がった感情までは、アナベルにも打ち明けていない。
表面上は冷静を装い、トムは、落ち着いて、と自分に言い聞かせながら生活してきた。しかし胸中では、葛藤が絶えず渦巻いていた。金銭的に厳しくなってきたことを知って、トムはカウンセラーのクリスティーンに会うのをやめた。もうすっかり具合が良くなったから、と嘘を言ったのだが、実際は、2年前の大晦日に倒れて以来、彼の不調はまだ回復していなかった。むしろ悪化の一途をたどっているかのようで、ここ数年で最悪の鬱症状や不安神経症に陥っていた。生活の混乱の中で、トムはエズミーにそれを悟られないように気を配っていた。
「まだいない」とトムは繰り返した。ルイーザは肩をすくめると、「子供はやめといた方がいいわ」と、子育てのストレスについて冗談を言った。もちろん、知る由(よし)もない悲しみに、配慮なんてできるはずもない。
トムはお茶を濁すように笑って、すべてを忘れようとした。自分がこんな人間になり果てたことに、つくづく嫌気が差す。何ができたのかと過去を悔やみ、どうやって乗り越えればいいのかもわからず、ごちゃごちゃ考えては不安ばかりがつのっていく男。エズミーとの生活がどうなるのか心配で、自分がもがいていることも見えなくなっている男。自分で築き上げた世界なのに、その重みに押しつぶされ、ますますその世界の意味がわからなくなっている男。それが今の自分だった。
こんなふさぎ込んだ自分は投げ捨てて、前みたいに戻りたいと思った。ギターをかき鳴らし、観客を踊らせ、二次会ではしゃぐ、それ以外のことはいっさい考えず、流れに身をゆだねる男。バーでいろんな人に絡み、喋り、馬鹿笑いに興じる男。そんな前のバージョンに戻りたかった。
ルイーザが話している間、トムは彼女が時折りジントニックに口をつけるのを見ていた。彼女の口の中に広がっているだろう、アルコールの味を思い出していた。何年経っても、それがどんな味だったか、彼はすぐさま思い出すことができた。最初の1杯が喉を通る時の爽快感。始まったな、という喜びとともに緊張がほぐれ、2杯目は舌で転がすようにじっくり味わうのだ。3杯目になると、落ち着きが訪れた、と実感する。問題は、杯数がどんどん増えてきた時だ。でも今はそこまでは考えていなかった。
トムは混乱し、不安を感じていた。自分を信じることができない。心臓の鼓動が激しく速まる。なんとか自分を落ち着かせたかった。そのために最も効率的な、最良の方法を彼は知っていた。でも、それは大きな一歩であり、なかなか踏み出せずにいた。
「僕を止めてくれ」とルイーザに言いさえすればいいのだが、言い出せない。自分が今どう感じていて、これから起こるだろうことを彼女に伝えればいいだけだ。そうすれば、彼女は、じゃあ飲まない方がいいわね、と僕を制してくれるだろう。しかし、理性とか合理的な判断なんてものは、もっと純粋で根源的な欲求の前では、ちんけな奴隷と化す。
彼女の子供の一人がダイニングテーブルを壊したという話の途中だったが、トムは何も言わずにテーブルから立ち上がった。そして、椅子に立てかけられたギターや、積み上げられたドラムバッグの横を早足で通り過ぎた。飲みたい欲求をごまかし、消し去るのに役立ちそうな方法を、必死で考えては実行に移してみる。足が床を打つ感触に意識を集中してみた。それから、周りのリアルな世界に焦点を当てるように、見えるもの、聞こえる音、感じる匂いなどを5つ、頭の中にリストアップしてみる。
しかし、どれもうまくいかなかった。
彼は外に出ると、にぎやかな通りの道端でスマホを取り出し、電話をかけた。相手が応答するまでの呼び出し音にすがるように、スマホを耳に押し付ける。しかし、応答したのは生のエズミーの声ではなく、彼女のボイスメッセージだった。彼はもう一度彼女を呼び出してみたが、結果は同じだった。仕方なく、彼は文字でメッセージを打った。
できる時に電話して😘😘
すぐに返信が来た。
今は無理! 忙しいの。何度も電話しないで😘
雨が降り出したが、トムはその場で、夕方の街の喧騒(けんそう)を横目にしばらく立ち尽くしていた。大きく息を吸ってみるが、空気が肺まで届いている気がしない。
無視しろ、と自分に言い聞かせた。飲みたい欲求を無視するんだ。けれど、どうすれば無視できるのかがわからない。
そこが行き止まりだった。
雨脚が強まりだし、トムはスマホをポケットに入れ、店の中に戻った。テーブルではルイーザが彼を待っていた。彼女の手前のグラスはもう空になっている。
「大丈夫?」と彼女が、向かいの席に着いたトムに聞いた。
「大丈夫」とだけ彼は答えた。「話を続けて」
「そっか」と彼女は言ったが、彼のぶっきらぼうな物言いに、気分を害したようだった。
彼女に失礼な態度を取っていることを謝ろうと思った。けれど、気もそぞろというか、意識が散漫になっていて、それすらもできなかった。彼女の話もほとんど聞いていなかった。結婚、離婚、子供、家、そういう単語が聞こえてはいたが、それらがつながり一つのストーリーを成すことはなかった。一応うなずいたり、微笑んだりはしていたが、それもままならなくなった彼は、突然、彼女の話をさえぎった。
「グラスが空いたみたいだから、何か別の飲み物を持ってこようか?」と彼は聞いた。
「あ、お願い。ジントニック。でもあれかな、ライブ前にあんまり飲まない方がいいかな。と思ったけど、ま、いっか。私たちは前座に過ぎないんだし、ね?」
トムは微笑むと、彼女のグラスを手に取り、カウンターへと向かった。彼はルイーザのジントニックを注文した。カウンターの向こうの女性店員がぼやけて見えた。天井や壁の高い位置で光るライトがやけに眩しい。チカチカする視界の中で、ずらっと並んだボトルを見つめていた。見慣れたボトルもあれば、初めて見るボトルもある。現役から遠ざかって10年も経つのだから、新しいお酒も入ってくるだろう。そうして自分が何をしようとしているのか、まるで別室のモニターで自分の様子を見ているみたいに、手に取るようにわかった。ついに、たがが外れる時が来たんだな、と他人事(ひとごと)のように思った。断崖絶壁で力をゆるめ、体を前に倒そうとしている自分がいた。
もう手遅れだ。どうしたって止めることはできない。
「それから...」とトムは、20ポンド札を持った手と声を震わせながら言った。「ウィスキーも。ジンジャー入りで」
「ウィスキーの銘柄は何になさいますか?」
「何でもいい」と彼は即座に言った。
トムはその女性店員がお酒を注いでいる様子をじっと見つめていた。二つのグラスが目の前に差し出され、我に返ったように彼はその横にお札を差し出した。
「お酒は飲まないんじゃなかったの?」とルイーザが、テーブルに置かれた二つのグラスを見ながら言った。彼はグラスの表面に結露した水滴を、考え込むように見つめている。ライムが一切れささったグラスの中で、氷のすき間を埋めた茶色い液体が、魅惑の輝きを放って揺れていた。
「やめてた時期はあったんだけどね」と彼は視線を下げたまま嘘をついた。彼女の目を見ることはできなかった。「今はたまに飲んでるんだ」
「そう、ならいいわ」と彼女は言った。目の前で大変な事態が起きつつあるとはつゆ知らず、彼女は無邪気にグラスを掲げた。「久しぶりの再会に」
二つのグラスが小気味よい音を立て、彼女はにっこりと微笑んだ。トムはゆっくりとグラスを傾け、魅惑の液体を喉に流し込んだ。
チャプター 21
正午~午後1時
話すべき時ではない
2017年4月 — カムデン・タウン、ロンドン
かつて住んでいた赤レンガの建物を見上げながら、今あの部屋には誰が住んでいるのだろう、とトムは考えていた。それが誰であれ、かつてあの小さな部屋で人生の一時期を過ごした人物にとって、あの部屋がどんな意味を持っていたのか、今の住人には知る由(よし)もないだろう。22歳でローストフトを離れ、父親が運転し、母親が助手席に座るワゴン車の後部座席から初めてこの建物を見た日のことは、今でもはっきりと覚えている。僕をロンドンまで送り届けるために両親が借りてくれたレンタカーだったが、大した荷物はなかったから、ワゴン車の後ろにはまだスペースが余っていた。あの日、僕は親元を離れ、独り立ちするために小さな一歩を踏み出したのだ。それには大きなリスクが伴うこともちゃんと自覚していた。
19歳の時に自殺未遂を起こし、大学を早々と退学した後は、2年ほど地元に戻っていた。昔使っていた子供部屋で寝泊まりしながら、カバーバンドを組んだり、音楽教室でアルバイトをしたりしていた。我が子が心配でならない母親が運転する車に揺られ、心療内科に定期的に連れていかれた。そんな日はまるで小学生にでも戻ったような心持ちだったし、音楽をやっている時は、これだけで独り立ちしたい、という強い野望がこみ上げてきた。少年、青年、大人、いろんな自分が表面に現れては、ぐらぐらと感情を振り回されていた。回復途中だったということかもしれないが、とにかく、なんとかして水面に出たかった。だから、初めてこの部屋の鍵を手にして、ドアを開けた瞬間の感激は、玄関前でイライラしながら待っていたニキビ面の不動産屋が想像だにしないほど、大きな内的興奮だったのだ。
旧型のトム・マーレイがアップデートされ、いわば動画での双方向通信も可能になる仕様の、トム・マーレイ 2.0 が市場に出た形だ。お酒がすっかり抜け、希望で胸がぱんぱんに膨らんだ、緊張気味の新たなスタートだった。
あの日、息子を部屋に一人残し、涙を流しながら玄関を出ていった母親の姿を思い浮かべた。「大丈夫、きっと大丈夫よ」と繰り返し言っていたあの言葉は、僕へというより、彼女自身に言い聞かせているみたいだったな。
今日は午前中、近くのチョーク・ファームでセラピーを受けた後、せっかくだからとカムデンまで来てみたのだ。表向きは、昔アナベルに言われたことを実践するためにやって来た。
「いつだって生きる理由はあるのよ、トム。それが何なのか思い出してごらん」
本当はそれよりも、エズミーの前では醜態(しゅうたい)をさらすわけにはいかない、と固く胸に誓うためにここまで来た。昔アナベルの前でさらしてしまった醜い姿、床に倒れ、口からだらしなく嘔吐物を垂れ流す自分を、エズミーには絶対に見せられない。昔住んでいたアパートを見上げながら、そう彼は改めて誓った。それでもいつか、彼女がそんな僕を発見し、慌てて救急と、僕の親に電話している光景が浮かんだ。今度は未遂じゃなくて、ちゃんと死んでるみたい、なんて思いながら、彼女は電話の発信音を聞いている。
トムが彼女に対して正直であってほしい、と彼女は常日頃から望んでいた。トムもそれは心得ていたから、表面的にはそう振る舞っていたが、実際にはそこまで至っていなかった。正直にあれこれ話そうと、細かなピースを頭に並べた瞬間に、話す気が萎(な)えてしまうのだ。何も話さない方がいいと、すべてのピースを引っ込めてしまう。問題はそんなところにあったのだが、彼はエズミーを精神的支えとして見ていたから、彼女の存在が問題を解決してくれるのではないか、とばかり思っていたから、自分の行いを省みることは今までなかった。
「僕のせいだったんだ。すべては、僕の」と彼は午前中のセラピーセッションで言っていた。このところ毎週同じ話を繰り返している。リバプールでの失態。ことが起きてしまった直後から、ありのままをエズミーに正直に話してさえいれば、こんなことにはならなかった。と彼は涙を浮かべ、カウンセラーに打ち明けた。
「彼女にそう言おうとしてるの?」と、カウンセラーのクリスティーンが言った。
「今となっては、もう無理ですよ」
「無理かどうかを決めるのは、あなたの気持ち次第よ」と彼女は言った。
トムは赤レンガのアパートを後にし、カムデンの中心街に向かって歩き始めた。リージェンツ川のほとりにベンチを見つけ、彼は腰を下ろすと、ポケットから新しく購入したスマホを取り出した。機種を変えても、過去数年間に撮った写真は一つ残らず保存されていた。指で画面をスクロールする。ビーチで撮った水着のエズミー、街中でのエズミー、ハムステッド・ヒースでの自撮り、スマートフォンのレンズ越しよりも肉眼で見た方がずっと美味しそうな、僕が作った料理。その一つ一つに、小さな物語があった。幸せや、笑いや、楽しさを二人で共有していた断片に、目が潤む。
この一つ一つが、レンガのように人生を築いていくのだ、と彼は思った。
生きていくために必要な瞬間瞬間。
生にとどまるために。
~~~
〔チャプター 21の感想〕
藍の心境にしっくり来すぎて、泣いちゃう...
~~~
これらの写真と、どれを見ても呼び起こされる思い出たちは、トムがエズミーを愛し、エズミーがトムを愛していた理由をめくるめく物語っている。夜、ヨレヨレのジャージとパーカー姿のお互いに寄り添うようにソファに座りながら、料理の腕前を競うテレビ番組を見る。朝はベッドで新聞を大きく広げ、寝ぼけまなこで読むふりをする。そんな日々が思い出される。
そのうちのひとつで目を止めた。この写真は、2016年の大晦日に撮ったものだ。ジャミラが恋人のクリスとお金を出し合って購入したというチョーク・ファームの高級アパートに立ち寄って、4人で夕食を取った。そのあと、プリムローズ・ヒルの頂上まで登り、そこに二人並んで座って、ロンドン市街地の摩天楼を見下ろしながら、エズミーと一緒に年を越したのだ。―ちなみに、クリスは研究者で、彼が言うには、癌は血液の欠陥を調べれば治療できるらしいが、トムには、なんだか眉唾(まゆつば)な話に感じられた。その夜、丘の上の彼らの周りには、ロンドン北部の高級住宅街に住む家族連れが大勢いて、中国風の提灯(ちょうちん)を夜空に放っていた。その周りでは、子供たちが走り回ったり、ズボンを泥だらけにしながら、小高い丘を滑ったりしていた。
カチッと腕時計の針が12時を指し、新年を迎えた瞬間のことをトムはありありと思い浮かべた。彼とエズミーはお互いに向き合い、まっさらな気持ちで新しい年を迎える心構えができたと感じていた。
「愛してる。そして、今までいろいろごめん」と彼は言った。提灯の一つが、彼らの背後の裸の木にあやうくぶつかりそうになりながらも、夜空に舞い上がっていった。
「私も愛してるわ」と彼女は言った。「ねえ、今年は謝る回数を減らそうか?」
二人はキスをした。ひとしきりお互いの体を抱き締め合ったあと、彼女が、二人で自撮りしましょ、と言ってスマホを取り出した。そして、21世紀のひとコマを記録する係になった気分で、遠くに打ち上がった花火をバックに、二人顔を寄せ合ってこれを撮ったのだ。
あれからまだ半年も経っていなかったが、トムには、一生分の時間がその間に過ぎたように感じられた。周りの人たちも、顔は見覚えがあっても、まったくの別人のようだ。そういえば、人体は7年ごとに細胞が生まれ変わるという記事を読んだことがある。7年で、細胞的には完全に別人になっているらしい。
では、心や魂はどうなのだろう?
この写真を撮ってからわずか3週間後、二人は妊娠初期病棟にいた。エズミーの検査が終わり、流産という悪い知らせを突き付けられたあと、彼女が何か飲みたいと言ったから、〈ザ・ジョージ〉に立ち寄った。それから家に帰って、ちょっと昼寝する、と言ってベッドルームに入っていった彼女の背中を見送ると、トムはバスルームに閉じこもり、15分ほど膝を抱えて泣いた。
そしてバスルームから出てくると、何事もなかったような顔で振る舞うことにした。
リージェンツ川を眺めながら、これからも二人で生きていくためには、何かを変えなければならないと思った。
トムは再び物思いに沈んでしまう前に、思い切ってエズミーに電話をかけた。
「今何してる?」と、彼は丁寧な挨拶のたぐいを省いて言った。
「書類仕事だけど、どうして?」
「今から会えないかな? と思って。今カムデンにいるんだ。リージェンツ・パークを散歩してもいいしさ、コーヒーを飲んだり」
「そうね」と彼女は戸惑い気味に言った。「トム、体調は大丈夫なの?」
「ああ、快調だよ」と彼はなるべく明るい調子で言った。「ただ...その、君に話したいことがあるんだ」
「話したいことって? ヒントだけでもちょうだい」
「いや、ヒントとか、そういうのはない」
「あなたがそういう風に誘ってくるのって、文字通り初めてね。10年間、あなたは家で仕事をしていて、私が外で働いてたってのもあるけど、あなたから公園でコーヒーを飲もうなんて、今まで一度も言ったことなかったじゃない」
「それはそうだけど―」
「なんだか私が誘いを拒んでるみたいに聞こえたら、ごめんなさい。そうじゃなくて、誘いには乗りたいんだけど、ただ、どういう風の吹き回しなんだろうって、びっくりしちゃって」
「たまにはそういうことをするのもいいかなって。待ち合わせして、デートみたいに」
「あなたのそういう考え方好きよ。付き合ってるのに今さらって気もするけど、初心に戻る感じで新鮮かもね」
「じゃ、今から会える?」
「わかったわ。そうね、20分後に地下鉄の出口のところでいい?」
「じゃ、そこで待ってる」トムはそう言って電話を切った。急展開で会うことになり、蝶が胸の中で羽ばたきだしたみたいに、ハラハラドキドキしだした。具合が悪くなる兆候のようにも感じられた。これが吉と出るか凶と出るかは判然としなかったが、どちらかには転がってしまうだろう。
リバプールへの演奏旅行で、携帯を投げ捨て、代わりにひどい二日酔いを抱えて、ロンドンに帰ってきてからずっと、トムはエズミーに話すべきかどうか迷っていた。過ちを犯したからといって、それで悪い人間になってしまうわけではない。それはわかっていたが、今回のことは、そういう次元を超越してやばい気がした。
トムはカムデンタウン駅の出口に立っていた。彼の周りには人々がごった返していて、みな思い思いにカフェに入ってコーヒーを飲んだり、ライブのチラシを配っているパンク風のチンピラを避けるように通り過ぎたりしていた。トムの前を、なんとなく見覚えのある有名人(テレビドラマで見かけた女優だったか、バラエティー番組の司会者だったか?)が通り過ぎていった。バイオリンを肩に乗せた大道芸人が、〈オアシス〉の曲の冒頭部分を、ビブラートを利かして奏で始めた。
その日はうららかに晴れ渡った春の日だった。―これなら夏服でも大丈夫だろうと人々に視覚的に思わせるトリッキーな季節だ。トム自身は、ジーンズに深緑のTシャツを着て、その上にボタンのない薄手のカーディガンを羽織っていたが、少し肌寒かった。
エズミーにしては珍しく約束の時間を過ぎても姿を現さなかったので、彼はメールを再び開いた。
発信 : louisamctell1979@geomailer.com
宛先 : tommurraymusic@geomailer.com
2017年4月2日
Re : ごめんなさい
こんにちは、トム。
あのね、もう何度目かわからないけど、あなたは私にそう何度も何度も謝り続ける必要はないのよ。
あの夜、あなたの身に何か悪いことが起こったのはわかってる。私がその場にいて介抱してあげられて、それは良かったって思うけど、もしあなたが私に...そういうことをしたって勘違いさせてしまったのなら、私の方こそ、ごめんなさい。ソファで寝ればよかったんだけど、ほんとにひどい腰痛持ちで、ソファでは寝られないの。自分の部屋のソファでも無理だし、私専用の高価な枕を使ったって無理なんだから(もうボロボロの枕だけど、愛着があってね)。
とにかく、元気にしてる? トム。色々あったけど、リバプールで君に再会できてよかったよ。あれからしばらく経つけど、これからも連絡を取り合えるといいわね。
ルーより😘
追伸 : 参考までに言っておくと、私はもうルイーザ・マクテルじゃないの。メールアドレスをまだ変えてないだけ。離婚すると、いろいろ変更しなきゃいけないのよね。昔みたいにベーシスト、ルイーザ・スコットとして、現役復帰よ。
もう何度も読み返したが、彼はまだ返信していなかった。「元気にしてる?」と聞かれても、ここ数週間具合が芳(かんば)しくなく、何とも答えられない状態だったのだ。返信しないでメールを眺めている方が楽だった。
「もう他の女の子とメール? 呆(あき)れちゃうわね。たったの5分遅れただけなのに」と、背後からエズミーの声がした。
トムは振り返りざまに、慌ててメールアプリを閉じ、スマホをロックしてジーンズの後ろポケットに押し込んでから、エズミーの顔をちゃんと見た。トムはなんとなくその変化に気づいたものの、具体的に何が違うのか理解するのに数秒かかった。
「あ、髪?」と彼が言うと、彼女はうなずいた。「え、どういうこと? いつ切ったの? エズ」
「えっとね、私、あなたに嘘をついちゃったかもしれない。今日は午前中から仕事の予定が入ってるって言ったけど、実は、美容院に行くために午前中、仕事を休んだかもしれない」
「え、じゃあ、今日切ったの?」
「うーん、もし昨日切ったのなら、あなたは昨日気づいたはずなんだけどな」
「そりゃそうだ。昨日なわけない。ごめんごめん」彼はそう言って、彼女をじっと見つめ、その新鮮さを受け止めた。今まで付き合っている間、エズミーはずっと、少しウェーブがかった髪を肩にかかるか、かからないか程度の長さでキープしてきたのだが、その大部分がばっさり切り落とされ、うなじがすっかり露(あら)わになっていた。
「トム、いつまでジロジロ見てるつもり? 好きかどうかも言わないで」
「あ、ごめん...いや、好きだよ。すごくいい...ほんとに...なんて言ったらいいかわからないけど、ほんとに...」
「ほんとに短いでしょ? ピクシーカットって言うのよ」と彼女は、前髪を指で少し伸ばしながら言った。髪の間に指を通したり、いじるのをやめられない様子だ。
「うん、短いね。でもすごく似合ってるよ」
「ほんと?」エズミーはそう言いながら振り向くと、クリーニング店の窓に映る自分の髪型を見た。「ちょっと過激すぎたかな?」
「過激だけど、いい感じ」トムは彼女を安心させようと、穏やかな口調で言った。
「悪い印象の過激さ、ではなく、いい印象ってこと?」
「そう、その通り。いつから考えてたの? そういう...」トムは何を聞こうとしているのか自分でもわからないまま、見切り発車で質問した。
「この前の週末からね。だけど、あなたを驚かせようと思って黙ってたの」
エズミーは微笑むと、トムの唇に彼女の唇を押し付けるようにキスをした。そしてトムの手を取って、駅を離れ、にぎやかな十字路を横切って公園の方へ向かった。歩きながらトムは、今日は話すべき時ではないかもしれないと感じ始めた。今日の彼女はあまりにも幸せそうで、明るくて、彼女の中で何かが吹っ切れたような清々しさがあった。そんな彼女を落ち込ませるのは、身勝手だと思った。
でも、今話を先延ばしにしても、石はさらに苔(こけ)むすだけだ。さっさと背負った石を投げ捨てて、身軽になってしまった方がいいのだろうか?
数分間、お互いに無言のまま歩いていると、エズミーが再び口を開いた。
「さっきの電話、ごめんね。ちょっと不機嫌そうだったわね。あなたに会いたくない、みたいな」
「べつに気にしてないよ」
「会いたくなかったわけじゃないの。むしろ誘ってくれて嬉しかった。私たちが付き合い始めた頃のことを思い出してたの」と彼女は話し始めた。「毎週のように日曜日は、二人でこの辺りをぶらぶらしてたなって。公園の中の、あの馬鹿でかい邸宅にはいったいどんな富豪が住んでるのかしらって思ったりしながら、ね。公園内のおしゃれなカフェはいっつも席が埋まってて、あなたがぶつくさ文句を言いながら、私たちは駅のそばの薄暗い小さなお店に行くはめになるのよ」
「〈ワールズ・エンド〉は名前のわりに、いいお店だったじゃないか。ホットチョコレートもうまかったし」
「あれはココアパウダーをお湯で溶かしただけよ。あなたが私の肩越しにサッカーを見たいからって理由で、いつもあのお店に行ってたんじゃない。〈ワールド・エンド〉って呼ばれるくらいだから、それなりの理由があったんでしょうね。とにかく、久しぶりにこの辺りを散歩するのはいい考えねって言いたかったの」
「よかった」そしてトムが、「あのさ、エズミー」と、愁(うれ)いを帯びた深刻そうな声音を使って、穏やかさから真面目さへと話の軸を移そうとしたその時、エズミーが割って入るように再び口を開いた。
~~~
〔チャプター 21の感想〕
なんだか切なすぎて、最後まで訳したくない...涙
~~~
「ここにいると、話がはずむっていうか、いろいろ話すいい機会になるわね」そう言ってエズミーが視線を落とした。彼女は紺色の〈コンバース・オールスターズ〉を履いていて、そのシューズを地面にこすりつけるようにして歩いている。彼女が一歩進むごとに、小さな石がその周りに散らばった。
「そうだね」と、トムはひやひやしながら言った。
「今年に入ってから、なんだかお互いに大変なこと続きよね。っていうか、思えば今年に入る少し前から、その兆候は始まってたのかもしれないね」
トムは何も答えずに、エズミーが彼の沈黙を暗黙の了解として受け取る気配を待った。
「私ね、そのことについてずっと考えてたの。私たちのことについて。理想的な時期とはいえないけど、だからって私たちを決定づける年にしちゃいけないと思うんだ。今年は始まったばかりだし、この先好転するかもしれないでしょ?」
「それは...もちろん、君の言うとおりだよ」
「私たちは少し、私たちらしさを取り戻さなきゃいけないよね? エズミーとトムに戻ろうよ。不運に見舞われた、よくいるカップルじゃなくってね。流産したからって、それで私が決定づけられることはないでしょ」と彼女は言った。「あと数週間で、私たちは付き合って10年になるのよ。だから、思い出しましょ。なぜそのほとんどが楽しくて素晴らしい時間だったのかを、そして、なぜ私たちはお互いを愛しているのかを。そういうことを改めて思い返すいい機会だと思うの。これも、たかが髪型だってのはわかってるけど...」
トムの瞳はうるうると、今にも涙がこぼれそうだった。それでも彼はなんとか冷静さを保ちつつ、彼女の手を握り締めた。これは相手を受け入れたこと、支えになることを示す行為で、彼ら二人の関係においては、しばしば必要とされてきた。
「私が言いたいのはね、今から新たに2017年を始めましょってこと。もう一度ね」
「わかった。ただ僕は―」
「春は新しい命が生まれる季節でもあるでしょ。だから、この数ヶ月のことは一旦ピリオドを打って、また明日から1年をスタートさせるべきだと思うの。―明日はちょうど5月1日だし」
「そうすると、今日が大晦日ってことだ」
「そうなるね」
「じゃあ、良いお年を! だね」とトムは明るく言った。今日はエズミーに打ち明ける日ではないな、と結論づけた。明日でもない。
しかし、いずれその時は来るだろう。近いうちに、本当のことを話さなければならない時が。
~~~
〔感想〕(2022年3月17日)
毎年春の空気に包まれると思い出すのは、小学校ではなく、中学校でもなく、高校なわけがなく、大学ですらなく、予備校である。予備校の入り口から受付の窓口に至るロビーの空気こそが、藍にとっての春そのものだ。受付で札束と引き換えにどっさりと受け取ったテキストを、ロビーの台の上でパラパラとめくってみた。英語の長文問題がたくさん載っていた! それぞれの長文問題の下には出題した大学名も書かれている! 藍はにんまりと喜びを胸に秘め、予備校のロビーを後にした。地方のうらぶれた公立高校出身だったこともあり、藍は情報に飢えていたのだ。だから嬉しかった。そんな春の思い出...
居心地が良すぎて、予備校には長居してしまったけれど、人間関係に気を遣う必要もなく、グループを組む必要もなく、講師も人気が生活に直結するから毎回真剣だし、予備校というシステムも、建物(空間)も好きだった。
ただ、予備校生といえども、urge(衝動)は抱え込んでいて、何人かの女の子に声をかけたり、告白したりしてしまった...(汗)そして、時にはこっぴどく振られ、時にはやんわりと振られ、時にはおぞましいものを見るような目で逃げられ...(冷や汗)
やべー、感想が小説になっちゃう...笑←どこの部分の感想だよ!笑笑←どこというわけではなく、「春」の空気感の感想でした。
藍が感じた「春」の空気感も、てんこ盛りで翻訳に乗っけたつもりです...🌸
~~~
チャプター 22
午前11時~正午
僕らの10周年記念日
2017年6月 — ストウ=オン=ザ=ウォルド、グロスターシャー州
「また逆戻り?」とエズミーが言った。ベッドの端に座ったままのトムを見下ろすように、彼女は突っ立っている。
彼女はかなりショックを受けた様子だ。まるで家族の突然の死を告げられたかのように。彼女がこれまで確信してきたこと、―つまり彼がしらふの状態であること、―今まで彼女の中の支柱(しちゅう)となってきたそれが、突然崩れてしまったのだ。彼女の背後から、急に打ち明けられた告白。エズミーはぽかんとしつつも、なんとか理解しようと必死で頭をめぐらせた。
ホテルの部屋に入ると真っ先に、彼は彼女に打ち明けたのだ。
「いつ?」
「2月。リバプールで」と彼は言った。そして再び彼女の表情がショックで曇った。ほとんど目に見えるほどの苦悶(くもん)が、彼女の顔に浮かぶ。あの時、彼女に話した嘘話を彼女は思い返しているんだとわかった。そして今知った真相とのギャップに、気持ちの落としどころを探している。が、見つからない。
あの時、彼はそこにいて...
彼は私にこう言った...
「オッケー」と彼女は、なるべく穏やかに響くように語尾を伸ばした。
「今まで話さなくてごめん。僕はただ―」
「ただ何?」と彼女が今にもキレそうな勢いで言った。「10年間の断酒生活がそんな終わり方をして、それでも大したことじゃない、言う必要ないって思ったわけ?」
「いや、言おうとしたんだ」
「いつ?」
「カムデンの公園に久しぶりに行ったあの日。君があまりにも―」
「それはもう2ヶ月も後のことでしょ! 私は次の日のことを言ってるのよ、トム。次の日っていうか、当日。なぜその夜すぐに、あなたじゃなくても、誰かが私に『トムが今大変なことになってる』って連絡をくれなかったの?」
「連絡をしないでくれって頼んだんだ」
「誰に? 誰に頼んだの?」
「バンドのメンバーたちだよ。君は会ったことがない」
エズミーが彼に背を向けた。一瞬、彼女が部屋を出て行くのでは、と思った。これでもう、終わりだ、と。彼女がもう一度こちらを向いた時、彼女の目は涙でいっぱいだった。彼女の顔には怒りや傷みがありありと表れており、もはやウェーブのかかった髪が顔の輪郭を隠していないことも相まって、それらを痛烈に放っていた。
「最後にお酒を飲んだ時、あなたは自殺しようとした。そのことを告げられた日から、私はまた同じことが起きるんじゃないかってずっと心配してきたの。つまり、私たちの過ごしてきた時間のことよ。あなたが私と一緒にいて、またそういう気持ちになったんじゃないかって」
トムはそれについて考えてみたが、何も言わなかった。
ほどなくして彼女の怒りは悲しみに変わり、エズミーはその場に泣き崩れてしまった。トムはベッドから立ち上がり、彼女を慰めようと彼女の肩に手を乗せたが、まるで見ず知らずの人の手のように、激しく払いのけられた。
「ごめん、エズ」
エズミーはしゃくり上げながらも、彼を見上げた。
「十分じゃないわ」と彼女は言った。
「どういう意味?」
「ごめんって。あなたは嘘をついて、嘘をついて、嘘をつきまくったの。そして後になってから、ごめん、だけなんて」
トムが口を開こうとするのを、エズミーが遮った。
「私が10年間心配してきたことが、全部現実になるのよ。あなたは私に本当のことを話さず、嘘をつい―」
「僕は嘘はついてない」と彼が割って入った。
それを聞いて彼女は振り返り、ドアに向かって歩きだした。トムは彼女に、待って、と呼びかけた。
「どうして私が」と彼女は叫ぶように言った。「どうして私が待たなくちゃならないの?」
「だって、僕たちはこれを解決しなきゃいけないじゃないか」と彼は言い、希望を込めた優しい声音で付け加えた。「そうだろ?」
彼女はちょっと考えてから、ドアから一歩こちらに戻ってきた。
「じゃあ、もし解決しなきゃいけないことが何もないとしたら?」彼女のその言葉に、トムの顔からあらゆる色が、すーっと消えていった。
「どういうこと?」
「さあね」と彼女は彼をあざ笑うように言った。「あなたは私に対して、敬意のかけらも持ち合わせてないみたいね。―私たちの関係なんてどうでもいいと思ってるのよ。だってそうでしょ。そんな一大事が起こったっていうのに、私に言う気になれないなんて」
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ、その時どんな感じだったの?」と彼女が詰問(きつもん)口調で言った。「あなたは何も言おうとしないじゃない。私が知っているのは、その時、私は流産した直後で、なんとか悲しみを乗り越えようとしていた。その間に、あなたがまたお酒を飲み始めた。それだけ」
「僕たち」とトムは言った。
「どういう意味?」
「僕たち二人が流産したんだ。一人でなんとか乗り越えようとか、そういうのはよそうって、前に二人で話し合って決めたじゃないか」
「そうだけど、でも私よ、トム。そうでしょ? 私が赤ちゃんをこのお腹に宿したの。私が赤ちゃんを失ったのよ。あなたはただそこにいただけ。『君は一人じゃない』だっけ?」彼女は、妊娠初期病棟の廊下で彼が言ったことを思い出しながら言った。「なんなのあれ? あんなでたらめってないわよね?」
エズミーは彼に背を向けて、部屋の向こう側の壁に向かって歩きだした。彼女が示した突然の断絶に、トムは自分の中の一部分から、ふつふつと怒りが湧き出てくるのを感じた。僕らが何かを失った時、喪失感にどう対処して、その後、二人でどう乗り越えていくかについて、互いに交わした約束を、そんなにあっさりと破棄するなんて。
「あの夜、他に何かあったの?」
トムはこれに対しては何も言えなかった。何を言えばいいのか見当もつかなかった。
「エズ...」
「知りたいの!」と彼女が声を張り上げた。「なんていうか、全部を聞くのは耐えられそうもないけど、だけど、何があったのか知りたいのよ。あの夜に」
そうしてトムは彼女に話した。
あのいまわしい鬱が、自分の人生に再び忍び寄ってきたこと。それによって、二人の人生にも暗い影を落とし始めたことを話した。でも、そのことをどうしても言い出せず、ぴしゃりと扉を閉め切って、見えないふりを、やつらの気配すら感じないふりをしてきたこと。隠し事はなしっていう、最初の頃二人で決めた口約束を破ってしまったこと。それでもエズミーだけは、心の扉の内側に入れたことを話した。
彼は自分の思いのたけを彼女にぶつけた。何ヶ月も前から崖っぷちに立たされたような心細さを感じていたこと。―果てしなく続くような歯がゆさを感じていたこと。それでも、どうにか目を逸らしつつ、やり過ごそうとしてきたこと。無視できるたぐいの、たわいもないものだって自分に言い聞かせていたこと。自分を奮い立たせ、歯を食いしばって頑張れば、気合いで解決できるって。そういう前時代的な精神論でなんとかしようとしていたことを。
今、彼は泣きながら、あの日のことを彼女に話していた。リバプールのバーでのこと、衝動のこと。ついに抗えず、飲んでしまったこと。彼女に電話しようとしたこと。自分を落ち着かせるために外に出たこと。そのどれもが中途半端になってしまったことを。
それから、ルイーザにキスしようとしたこと。翌朝目覚めると、すぐそばで寝ているルイーザに気づき、自分はキス以外にも何かしたのだろうかと心配になったこと。したのかどうか自分では思い出せなかったが、してないと聞かされ、ほっとしたこと。この部分を伝えるのが、一番きつかった。
最後に、彼は家に帰ってからのことも話した。突然、何もかもが変わってしまったように感じ、体調が日に日に悪くなっていった。断片的にいろんな記憶が蘇り、そのたびに自己嫌悪が雪だるま式に膨らんでいった。そして、どん底まで落ち切った自分に気づき、セラピーや〈アルコール依存症克服のための会〉に、勇気を奮い立たせるようにして、どうにか足を運んでいる、と。
エズミーは瞬きもせずに聞いていた。彼女は一見すると、彼の話に何の評価も下していないように見えた。彼女の瞳から時おり大粒の涙がこぼれ落ちていた。トムがひとりで苦しんでいたことを知り、相談してくれなかったことに、そしてアルコール依存症の彼のどうしようもなさに、涙がぽろぽろ流れ落ちたのだろう。
トムが話し終わると、エズミーの目の下は涙で濡れていて、慌てて手の甲でぬぐったことで、目の周りが赤くなった。
「ごめん」と彼が言うと、彼女が彼の手を取った。「この先どうしたらいいのかわからないんだ」
「私だってわからないわ」と彼女は言った。
しばらく二人で黙ったまま座っていたが、エズミーが手を離し、立ち上がった。
「ちょっと外を歩いてくるね。今聞いたことを一人で整理したいの」
「わかった。君はどう―」
「どうしたいかなんて聞かないでよ、トム」と彼女は言った。「私だって本当にわからないんだから」
そう言ってエズミーは彼に背を向け、すたすたとホテルの部屋を出て行った。彼はベッドの端に座ったまま取り残された。
今、この部屋で一人きりになったトムは、これでよかったのだろうかと考えていた。終わり。10年。ここは〈バイロン・ハウス〉という高級ホテルで、彼女が僕らの10周年記念を祝おうと、予約してくれた部屋だ。ここに到着して間もなく、この半年近くの間に蓄積された思いが堰(せき)を切ったように、懺悔の言葉が溢れ出した。
しかし必ずしも、今日こそは話さなければ、という必要性が、彼にそうさせたのではなかった。二人で自宅を出て、〈アイラ・ガーデン〉を通ってハウンズロー駅から電車に乗り、このホテルにたどり着くまでの間に、いろんな思いが木霊(こだま)して、やりきれない気持ちになっていた。そして、ホテルの部屋に入った瞬間、半年前のあのホテルでの出来事がフラッシュバックして、居ても立っても居られなくなったのだ。
部屋に入るやいなや、エズミーがはしゃぐように部屋中を歩き回る姿を、ぼんやりと眺めていた。第二の自宅に来たといった感じで、ホテルに泊まる時はいつも、彼女はそんな風に興奮ぎみになるのだ。インスタントではなく、豆をひくコーヒーマシンや、ジェットバスや、鏡の前に並ぶ高級なアメニティグッズを指差し、上擦った声を発していた。けれど、トムはほとんど聞いていなかった。彼は足元に荷物を下ろすと、そのままベッドの端に座り、黙って俯いていた。
「トムー」と、彼女がバスルームから顔を出した。「大丈夫? 気分は平気?」
彼が顔を上げると、彼の目には涙が浮かんでいた。「そうでもないよ、エズ。君に話したいことがあるんだ」
そうして今、窓の外に目をやると、ベンチに座っているエズミーの姿が見えた。彼女の視線の先には緑の芝生があって、二人の子供がボールを投げ合っている。彼女には時間が必要なんだとわかった。わかっていても、トムはどうしても彼女にその時間を与えることができなかった。
彼はベッドから立ち上がり、部屋を出ると、急ぎ足で廊下を進んだ。さっきまでいた部屋がどんどん遠ざかり、ロビーに続く階段を下りると視界が開けた。ロビーでは、正装に身を包んだコンシェルジュが、週末の休暇にやって来た夫婦を褒めそやすようにもてなしている。トムにも「何かお困りでしょうか?」と声が掛かったが、無視して、両開きのドアから表(おもて)の通りに飛び出した。そう遠くないところでベンチに腰を下ろしているエズミーの姿が目に入る。空を見上げて、短い髪をそよ風になびかせている。
彼が近づくと、彼女が気配に気づいて振り返った。彼女があからさまな嫌悪感を表情で示し、すぐに彼は追いかけてきたことを後悔した。
「一人にさせてくれないの? まだ5分も経ってないじゃない」
「エズ、僕は―」
「僕は何? トム。私に伝えれば、私がさっさと私たちの将来について結論を出すとでも思ったわけ?」
「いや、君が知らないままでいる状況に耐えられなかったから」
「あなたが私に嘘をついてたってわかって、私は今のこの状況に耐えられないわ」彼女はそう大声で言い放つと、ベンチから立ち上がった。バセットハウンド(足が短く、耳が長い中型犬)を散歩させていた老夫婦が、怪訝そうな視線を向けたが、彼女は気にせず、さらに大声を放った。「これで何度目なのよ!」
「エズミー、僕は...」嘘なんかついてない。そう言おうとして、その言葉を飲み込んだ。その部分で言い争っても、事態が悪化するだけだと思ったし、それに実際、嘘をついた。つきたくなかったけど、ついた。その時にはそうせざるを得ない事情があったはずだが、今となっては意味がない。行動で示すしかない。「僕が悪かった。ごめん」と彼は頭を下げた。
トムとエズミーは向かい合ったまま立っていた。初夏の太陽が斜めから降り注ぎ、彼女の顔の半分を照らしていた。彼女は〈ブルトン〉のボーダー柄のトップスを着ていたが、その長袖を肘のところまでまくり上げていた。肌色というより白に近い腕が露わになっていて、いつも身につけている腕時計を、文字盤が手首の内側に来るようにはめている。
何か形のないものが変わってしまった、と彼は感じた。かつては一つのチームだった二人が、今は敵対している。これまでの年月が、二人の絆を強めるはずだったのに、逆に弱めてしまったようだ。
「時間が必要なら、エズ」
「時間の問題じゃないわ」と彼女がすかさず言い返した。「もう考える必要もない」
「わかった」と彼は心もとなく言った。
「さっきまで考えてたの。あなたがここまで下りてきて、中断されちゃったけどね、っていうか邪魔しようと思って来たんでしょ? これから6ヶ月、私たちはどんな風に過ごすんだろうって想像してたの。今回のことをうまく乗り越えられるかどうか」
「それで?」
「こう考えたの。もしまたどこか遠くの街でライブがあったらどうなるだろう?って。もしまた、私は会ったことがないそうだけど、その旧友? 古き良き時代を共に過ごした仲間? 知らないけど、またその人と会ったら、あなたはどうするだろう?って。それか、私がしばらくの間、どこかの街の会合に出張で留守にしたら?って。また同じことが繰り返されない、なんてどうしたら確信が持てるっていうの?」
「それは―」
「信用できない人とは一緒にいられない、トム。私には無理よ。あなたをそこへ行かせたのは私だから、って保護者みたいに自分を責める気持ちもあるわ。あなたは10代の若者で、まだ分別が身についてないから」そこで彼女が声を荒げた。「そんな人に責任能力があるなんて誰が思う?」
「僕が自分でわかってるよ」
「そんな人が誰かと...私と人生を共にしてるなんて誰が思う?」
エズミーは袖を腕時計が隠れるまで下ろした。その袖口で目元をぬぐってから、彼女は自分を取り戻そうと、深呼吸をした。
「私だけは中に入れてくれるって約束したじゃない、トム。でも、いざとなったら何も言わないのね。この半年間、あなたはずっと黙ってた。生まれてくるはずだった赤ちゃんのことであなたは悲しんでるんだろうって、私に思わせておいて」
「悲しかったよ。今も。そのことも考えてた」
「でも、もっと他にもあったんでしょ? お酒を飲んじゃって、すべてが振り出しに戻ったっていうのに、あなたは言わなかった。あれね、幼児がママに言われるまで黙ってるみたいね。っていうか、あなたはいっつもそうじゃない。私の誕生日の時、あなたの同級生にばったり会うまで、あなたはあのことを言わなかったし、大晦日のパーティーでも、ニールの家で倒れるまで、あなたはじっと黙ってた」
「エズミー」
「もう駄目よ。あなたは嘘をついて、噓をついて、つきまくったの。話すのがつらかったんでしょうね。それはわかってる。でもね、誰も寄せ付けず、そうやって壁を作ってばかりいたら、一体どうやって一人で対処するつもりなの?」
トムは何か言い返したかったが、今回ばかりは何も言うべきことが浮かばなかった。彼女が正しい。
「赤ちゃんが...流産のことで」と彼は言った。何か、なんでもいいから何か、自分の立場を挽回できそうなことを言わなくちゃ、と思った。「それで事態はより深刻になったんだ。それから...」彼はそれを言うべきかどうか、言ったらもっと立場があやうくなるかもしれない、と思いながらも言った。「コーンウォールでのこともそう」
「そうね、私がプロポーズを断ったから―」
「いや、そうじゃなくて、つまり、君がお父さんのこととかで落ち込んでたから...ああいう行動に出たわけで。結果として、ますます僕たちの関係が悪化しちゃったけど、それも含めて、僕の不安の中身は一つじゃないってことだよ」
「そっか、今頃になって教えてくれてありがとう」彼女はそう言って、辺りを見回した。それから真剣な表情で、彼に向き直った。
「信じられない。こんなところで私たち、こんなことを繰り広げてたなんて」
みぞおちにくらったボディーブローのように、トムはその言葉にハッとした。
「どういうこと?」と彼は言った。
「見て。ここは公共の広場よ。せっかくの私たちの10周年記念旅行だっていうのに」
「いや、そこじゃなくて、『こんなこと』ってどういう意味?」
エズミーは答えに躊躇し、一瞬、彼から目をそらした。
「私は第一発見者にはなりたくないって話よ、トム。もしあなたがまた、魔が差して、倒れてたりしたら...」と彼女は言ったが、自殺という言葉までは使えなかった。「もしあなたがもう一度試みたりしたら」
「エズ」
「あなたはそれがもう二度と起こらない、なんて私に約束することはできないわ」
「できるよ!」
「無理ね。さっきあなた自身が言ってたじゃない。また...だんだんそういう気持ちになっていって...って」
「だけど、今回はしなかったよ。直前で思いとどまったんだ」
「直前ってどこまで?」と彼女は聞いた。対決的な口調が一瞬消え、代わりに、一種の諦めに似た同情の響きがあった。
トムは少しの間ためらった。「錠剤が目に入ったんだ。ジャミラがアメリカから持ち帰った大きな瓶に、丸い薬が詰まってた」
それを聞いて、エズミーがその場にくずおれた。怒りや悲しみ、悲痛な感情がこみ上げてきた。彼女の姿を見て、トムにもそれが伝わってきた。彼の両親の姿に重なったのだ。どうしようもないこと、医学的にも本人にはどうしようもないと証明されていることで、本人を責めているという罪悪感。うつ病や不安神経症の患者の行動に振り回される人たちはみな、そういった思いが胸中に交錯し、苦しむことになるのだ。胸中に浮かぶ怒りは、身勝手なものだと思い込まされてしまう。
「ねえ、どれくらい、その...リバプールでのことがどれくらい、あなたに影響を与えたと感じてるの?」
またしても、トムは答えるのをためらった。しかし、彼はその答えを知っていた。
「トム」と彼女がきっぱり言った。「私は知りたいの。どっちが先なのか。うつの症状が表れたのが先か、リバプールでの出来事が先か、どっちなの?」
「どっちでもない!」と彼はキレた。「うつぎみで気分も悪かったし、それから...あのことがあって。それぞれがお互いに悪い影響を与え合ったんだ。どっちが先かなんて、そんな簡単な話じゃないんだよ。お互いがお互いを取り込んで、どんどん膨らんでいって、そういうものだろ?」
「わからない。私には本当にわからないわ」エズミーはポケットからティッシュを取り出すと、目元と鼻を軽く叩くようにして、涙をぬぐった。
エズミーがまっすぐに彼を見つめた。広場の周りでは、何人かの人が二人を見ていた。あからさまではなく、見ていることに気づかれないようにしながらも、見ていた。無視できない見世物のごとく、白昼の怒鳴り合いは目立っていたのだ。彼女はベンチに座り、彼にも隣に座るよう手で促した。
「私たちはもう、お互いに正直ではいられないみたいだけど、どうしてこうなったのか知りたいの」とエズミーが言った。
「どういうこと?」
「どうして今まで何も言えなかったの?」
「それは―」とトムは言い始めた。関係を悪化させたくなかったから、と一瞬言いかけて口をつぐみ、言い直した。「君が動揺するのがわかったから。そして言い争いになるだろうなって思ったから。こうなることを望んでいなかったから」
彼女は再び立ち上がると、その場から立ち去ろうとした。
「頼むよ」と彼が懇願するように言って、彼女はまたベンチに腰を下ろした。
「私たちはお互いを見失ってしまったみたいね」
「僕が君の気持ちを見誤って、プロポーズしたこと?」
「それだけじゃなくて、すべてに関してよ。プロポーズもそうだし、あなたの嘘も、あなたの病がぶり返したこともそう。私に責任がないなんて言ってるんじゃないわ。あなたは『大丈夫だよ』って言い続けていたけど、そこで私は会話を切らずに、もっと追及しておけばよかったのかもしれない」
「そんなことないよ。君に責任はない」
「じゃあ、どうすればいいのよ?」と彼女はキレぎみに言って、彼から顔を背けた。「さっきまで考えてたんだけどね、いっそのこと、あなたが彼女と寝ちゃった方がよかったんじゃないかって」
「なんで?」
「その方が楽でしょ? こんな中途半端な感じじゃなくて」
「現状は大変ってこと?」
「わかんない」と彼女は静かに言った。そこでトムは立ち上がり、彼女の前にしゃがみ込むと、彼女の手をとった。
「エズミー。僕たちはちゃんと乗り越えられるよ」
『ハリーポッター』のロケ地にもなったコッツウォルズ地方に来て、まだ1時間も経っていなかったが、トムには丸1日が経ったように感じられた。関係が深まり、年齢を重ねると、相手の顔を見ただけで、その人が何を考えているのか察しがつくようになる。トムとエズミーの場合もそうだった。お互いの癖や特徴を知り尽くし、表情の微妙な変化から、ストレスや心配事の有無、心痛の状態が手に取るようにわかるのだ。
しかし今、緑の芝生が広がる町の広場で、ベンチに座っている間、トムはエズミーの気持ちがまったく読めなかった。―まるで閉じられた本のように、中身が見えない。彼は恐ろしくなった。
「質問してもいい?」と突然彼が言った。エズミーはうなずきながら、少し腰の位置をずらした。このベンチは人々が5分以上座ることを想定していないらしく、座り心地が悪かった。「僕を見て、何が見える? 君のパートナー? 友人? 愛する人? 明日、隣で目覚めたいと思う人? あさっても、その次の日も、一緒に朝を迎えたい? それとも、何か他のものが見える?」
「トム」と、エズミーは少しためらいがちに、少し焦りぎみに言った。
「これは重要なことなんだ、エズ。君はまっすぐ僕を見なければならない」
「そうね」
「どう? 何が見える?」とトムが聞いた。
エズミーは答えようとしたが、その前に、二人を見下ろしていた教会の時計が鳴り、大きな音を響かせた。針が頂点に達し、辺り一帯に正午を告げた。
0コメント