『帰り道にて』3

『The Way Back』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2021年07月09日~)



パート 2


チャプター 5

ボウランドの森

ジェシカ


雨が降っていた。そのせいか、思ったよりも早く目覚めてしまった。ジェシカの戦略は、この旅をできるだけ長く寝て過ごせば、体感的にあっという間に旅が終わってくれる、というものだった。しかし朝の6時、彼女は寝袋の中で丸くなりながら、キャンピングカーの屋根を小刻みに叩く雨音を聞いていた。

彼女は眠りの浅い人だった。普段から階段のきしむ音や、夫の咳、フクロウのホーホーという鳴き声などでも、すぐに目が覚めてしまうのだ。数年前に診てもらったセラピストによると、それは彼女の頭の中で常に物事がぐるぐると回っているからだという。

「花屋の経営、家族。子供の学校のことまで、ありとあらゆることを考えているんでしょうから、そうなっても全然不思議ではありませんよ」

彼女としては、自分が重要な存在で毎日が忙しいと言われているようで、悪い気はしなかったのだが、自分が実はどんな状況にあっても自ら心配事を作り出してしまうタイプだというセラピストの指摘だけは信じなかった。信じたくない部分は信じない、それが彼女の流儀なのだ。

ジェシカは自分のスマホをチェックした。メッセージは届いていない。というか、電波自体が届いていない。彼女はタイマーアプリを開き、6時43分、6時48分、6時56分、7時8分に設定してあるアラームをスクロールして飛ばし、7時12分に設定しておいたアラームをオフにした。

二日酔いで少し頭がくらくらしていた。普通の赤ワイン4杯と高級なウイスキーを2杯、これは彼女が1週間で飲むお酒の量を超えていたし、ましてや1晩で飲む量ではなかった。特にウイスキーに関しては、カクテルを作るときにやむを得ず使う場合を除いて、彼女は手を出してこなかったのだ。夫のダンはウイスキーが好きだった。―彼女の父親とダンが、絆を深めることができる数少ない共通の趣味がウイスキーだった。それ以外は、あまり話が合わないようだった。ジェリーはサッカーが好きで、対してダンはラグビー好きだったし、ダンはジェリーの仕事、建築業のことを全く理解していなかった。そもそもダンには自営業者に対して偏見があり、彼らは自分のようなエリートをねたみ、嫌っているんだと思い込んでいた。―ジェシカはウイスキーよりも、上等な冷えたウォッカにトニックを少し加えたものを好んで飲んだ。

寝袋の内側の毛が口の中に入ったような嫌な味がして、それを消そうと彼女は水筒に手を伸ばした。その時、車内の前方、リビングエリアで梯子(はしご)のきしむ音がした。パトリックが起きてきて、梯子を降りたのだとわかったが、彼女はまだ、カーテンを開けて彼に話しかけたいとは思わなかった。昨晩は、話が奇妙な方向へ逸(そ)れ、そのままお開きになってしまった。アンドリューの話が持ち上がるたびに、いつもそうなってしまうのだ。解けない謎をそのまま放置したみたいに。

あまり弟や妹と比較したくはないのだが、ジェシカとしては、アンドリューが失踪したことで、一番苦労したのは自分だと思っていた。その時、彼女にはすでに子供がいた。―当時3歳だったマックスは、自分を取り巻く世界をなんとなく認識してきた頃だった。誰が自分にとって重要な役割を果たしているのかを理解し、その中の一人がいなくなったことにも気づくことができた。

それからの1年間は、家族の行事などで親戚が集まると、「アンドリューおじさんは来るの?」「アンドリューおじさんは次は来るの?」「アンドリューおじさんはどこにいるの?」といった質問が、マックスの口からぽんぽん飛び出す有り様だった。母親のスーがその場にいた場合、彼女は頽(くずお)れるように顔を覆い、奥へ引っ込んでしまった。その後、「おばあちゃんはどこか悪いの?」とマックスが聞くのだった。

マックスがアンドリューと交流したことはほとんどなかったのだが、家族の集まりになると、彼は周囲の大人たちの顔を見回し、いつもの叔父や叔母の集まりとは違うことをすぐに見抜いた。もう少し年長になっていれば、これは言わない方がいいな、と自制も働くのだろうが、そのフィルターすらない年頃だったのだ。

結局、ジェシカが説明を余儀なくされた。

「アンドリューおじさんはもう来ないのよ。おじさんは家を出て行くことにしたの」と彼女は言った。少しの間だけね、と付け加えようかとも悩んだが、付け加えないことにした。マックスの期待を高めないためであると同時に、自分の期待を高めないためでもあった。

「どこに行ったの? パパみたいにロンドン?」

「それがわからないのよ。でも彼は行ってしまったの。私たちは彼が元気でいることを祈るしかないのよ」

というのが、何度も繰り返された会話だった。当時を振り返ると、20回以上はこれに類するやり取りを経験し、数年後には、マックスの口からさらに鋭い質問が飛び出した。

「アンドリューおじさんは死んだの?」と彼が聞いてきたのだ。その頃、友達の祖母が亡くなったことで、彼は死について学んだばかりだった。その友達はクラスのみんなに、死と死後の世界について、両親からの受け売りらしいが、宗教めいた話を聞かせていたそうだ。空に昇った祖母が、去年死んだモルモットと一緒に僕たちを見下ろしている、という昔からよくある話だった。生きている間モルモットが常に震えていたのは、死におびえていたからだ、とも言ったらしい。

「そうじゃないわ」と、ジェシカはショックで涙を浮かべながら言った。

「どこかに行っちゃっただけ?」

「そうよ」と彼女は言った。彼女は弟が生きていることを確信していたが、もし弟が死んでしまっても、それを知る術はないだろうとも感じていた。

「でも、ロンドンじゃないんだよね」

「違うわ、マックス」

「じゃあ、どこか違う場所なんだね」

「そうよ」

それを聞いて、マックスはにこやかな表情になり、その会話に興味を失ったらしく、床にぺたりと座ると、木製の車を押して、木製の道路の上を走らせ始めた。

「じゃあ、もうすぐ彼に会えるね」

ジェシカは、彼の発言を正さなかった。そこで何か言ってしまったら、また会話の出発地点に戻り、初めから同じやり取りを繰り返さなければならないとわかったからだ。彼女は2階のトイレへ急いで向かうと、閉まったままの便座の上に座って、泣いた。

そのうちに、息子は何も聞いてこなくなった。あるいは、どうでもよくなったのかもしれない。とはいえ、家族の一員が自分たちのもとを去った、という一大事を、わかりやすい言葉で何度も説明しなければならなかったことは後を引き、ジェシカの精神を弱らせた。「私はどうすればよかったのか?」「どうすれば彼の失踪を防ぐことができたのか?」という内なる声が、それ以来絶え間なく聞こえ続けている。

他の二人はこのようなことを経験していない。経験していない以上、それがどのようなものなのかを知ることはできない。


ジェシカは顔のすぐ隣にある小さなカーテンを開けて外を眺めようとした。プラスチック製の窓ガラスには雨のしずくがつき、内側には結露ができていて、白くぼやけている。彼女はそれを手でこすって視界を良くした。

外は明るくなり始めていたが、空はどんよりと灰色の雲に覆われていた。管理されたキャンプ場というよりは、野原を一応囲っただけの敷地には、何人か早起きの人たちがいて、小さなテントの前で輪になり、ブリキのマグカップで温かそうな飲み物を飲んでいた。彼らは皆、目立つ色合いの登山用ウェアを着込んでいる。朝食を済ませたら、さっそく山歩きを始める構えだ。敷地を取り囲む生垣には鳥が飛び交い、その向こうには、緑が色あせて茶色っぽくなった草原がどこまでも広がっていた。

彼女は家での日常を考えた。朝、太陽光を模(も)してだんだんと光が増す目覚まし時計で目覚め、形状記憶マットレスから起き上がる。階段を下りると、まずは美味しいコーヒーを飲み、子供たちにお粥(かゆ)などの朝食を作る。子供たちを学校まで送り届けたのち、彼女は花屋の仕事を開始する。奥のオフィスで事務処理をしながらラジオを聴き、その間、表では店員の女の子たちがお客さんの注文に合わせて、花を選(え)り抜き、花束を作って売っている。この花屋は曜日に関係なく安定した売り上げを誇っているようで、いつでも活気づいていた。彼女は仕事が終わったら急いで家に帰り、ワインを飲みながら夕食を作って、ダンを待つ。そんな日々に思いを馳せていた。

彼女は自分の生活を気に入っていた。それを邪魔したこの旅が、いまだに癪(しゃく)に障る。

「正しいことをするのは、必ずしも簡単ではないよ」というダンの言葉が思い出される。もし彼が私と別れることになったら、まさにこういうことを言われるのではないか、といつも思う。

「わかってる。けど、気まずさに耐えられなくなるのよ。みんなが私に遠慮してさぐりさぐりで、まるで腫れ物に触るような扱いなんだもの」

「じゃあ、気まずさなんて感じてないで、思ってることを言えばいい」

彼女は再びスマホをチェックした。まだ何も届いてない。電波は近くの町までは来てるんだろうけど、ここまでは届かない。昨夜みたいに一瞬風向きが良くなって、電波が風に乗ってやって来てくれればいいのに。

ジェシカは素早く寝袋のジッパーを開け、カーテンも開けてベッドから出た。すでにパトリックと、カースティも起きていた。パトリックは自分の紅茶を飲みながら、片手で私にも紅茶の入ったマグカップを差し出してきた。

この人たちは私のことを何にもわかってないんだわ、と彼女は思った。


パトリック


「よく眠れた?」と彼は、髪をかきあげているジェシカに聞いた。昼間の彼女は念入りに髪型に手を入れているのだが、彼には、わざとぼさぼさ風に崩したヘアスタイルと、寝起きのぼさぼさの違いがわからなかった。

「まあまあね」と彼女は言いながら、彼から受け取った紅茶をテーブルに置き、コーヒードリッパーでコーヒーを入れ始めた。コーヒードリッパーが、キャンプの不自由さにどっぷり浸かれない彼女の妥協点なのだろう、と彼は想像した。もし彼女に判断をゆだねていたら、エスプレッソマシンごと持ってきた可能性すらある。4種類のコーヒー豆を選択できる豪華なやつだ。「雨音で目が覚めたのよ」

「私はそれが逆に落ち着かせてくれたわ。ホワイトノイズか何かみたいで、心地よかったじゃない」とカースティが言った。

「うぇ、私は大っ嫌い」

「それじゃ、どのくらい前から起きてたの?」

「30分前くらいかな」と彼女は言いながら、コーヒーの粉が入った小さな三角形の紙の中にお湯を注いだ。

「あなたも出てくるべきだったわね。外でちょっとしたヨガをやってたのよ」とカースティが言った。

「アウトドアでヨガをするにはちょっと寒くない?」

「ピリッと寒かったけど、かえって身が引き締まったし、屋外でするとすっきりするのよ。とっても静かだし、鳥の鳴き声を聞きながら、草の香りをかいで、新鮮な空気を吸い込む。あそこのコテージから、まきを燃やした煙のいい匂いがしてくるのよ」と、彼女は昨日会った管理人が住んでいる場所を指差した。

「ああ、忘れてたわ」とジェシカが言った。「あなたは秋人(あきびと)タイプだったわね?」

「秋人タイプって?」

「わかるでしょ。葉っぱの色とか、マフラーとか、そういうのが大好きなんでしょ。そういえば、あなたは昔からそうだった。10月になった途端、待ってましたと言わんばかりに、あなたは頭のてっぺんにボンボンが付いた毛糸の帽子をかぶって、スターバックスの赤いカップを片手に外を歩き回ってたわ。まだどんなに暖かくてもね」

「それの何がいけないの?」とカースティが言った。朝っぱらから人格を攻撃されて、ちょっと面食らっているようだった。

「とにかく、私はヨガなんてできない」とジェシカはきっぱりと言った。生き方の選択というよりは、物理的に不可能であるかのような言い方だった。

「どういうこと? ただのストレッチとリラクゼーションよ」

「タムと一緒に一度やってみたんだけど、私には、なんにも集中できなかった。はい、意識を集中させて、深呼吸~! とかって言われても、私は一週間の食事の献立(こんだて)をどうしようかって考えてたわ」彼女はコーヒーを一口飲んでから、続けた。「私には考えなくちゃいけないことが色々ありすぎて、今を生きるとか、今この瞬間に集中、なんてできないのよ」

「それはまあ―」

「ちょっと思ったんだけど」とパトリックが口を挟んだ。二人の間に、沸騰前のぐつぐつと煮え出した、不穏な空気を読み取ったのだ。ジェシカとカースティが、お互いのライフスタイルや様々な選択を批判し出した。いつものパターンだ。ジェシカは自分がいかに忙しく、重要な人物であるかをそれとなく、あるいはあからさまに伝えようとし、一方カースティは、ベジタリアン、ヨガ、マインドフルネス、体型が太ってたって綺麗という肯定主義、潜在能力の開花、などの「聞こえが良い」ライフスタイルを強調し、自分は全体として健全な生活を送っていると主張する。結局、どちらかがキレる。それから、パトリックがどちらかの肩を持つようなことを言って、三方向に入り乱れた言い争いが勃発するのだ。これらすべてが、わずか15分ほどで起こってしまう。

「何?」とジェシカが言った。

「なぜアイラ島なんだろう?」とパトリックは言った。「それに、俺たちが実際にこの旅に出かけるって、どうして彼はわかったんだろう?」

「サディズムね」とジェシカが言った。「愛する娘たちをこんな寒い、イワシの缶詰みたいな中に押し込んで、来る日も来る日も昔の写真、昔の自分たちの姿を見させるなんて、どんな男なのよ?」

「ジェシ」とカースティが言った。

パトリックはハハッと、無理に笑い声を発した。ジェシカの言い草を聞いて、この話を持ち出すことに不安を覚えた。しかし彼は昨夜、眠りにつくまでの1時間、もやもやと煮え切らない頭で、このことを考え続けていたのだ。

最初、アイラ島は、この旅の目的地として奇妙な場所に思えた。ジェリー・カドガンとヘブリディーズ諸島のその島を結びつけるものは、休暇に数回訪れた場所だということ、それから彼がウイスキー好きだという理由しかないはずだ。それなのになぜ、彼はカーディガン湾やダーウェント湖などではなく、アイラ島に遺灰を撒いてくれ、と言ったのだろうか? 他にも、彼と彼の妻が好んで訪れていた場所はあったはずだし、そもそも、実家から800メートルも歩けば、何十年もの間、毎日のように散歩していた、小さな丸石が敷き詰められた海岸があるではないか。

もしかしたら、その島がアンドリューと関係しているのではないか、という考えがぬぐいきれなかった。

ジェリーが時々、私立探偵について検索していたことは家族の誰もが知っていた。私立探偵の多くは、元警察官とか元軍人で、疑り深い男からの依頼で、妻の浮気の確証をつかんだり、あるいは逆に、孤独や不安に駆られた妻からの依頼で、結婚したことを後悔しているクソ夫について調べたりして、小銭を稼いでいるのだった。基本的に、不安は杞憂でしたよ、という結果よりも、やっぱりあいつ浮気してましたよ、という報告の方がはるかに喜ばれるらしい。そしてカドガン家では、そんなジェリーを妻のスーが、やめておきなさい、と説得するのが常だった。ジェシカ、カースティ、パトリックは、母親から、父親がしようとしていたことを、まったく呆れちゃうわ、という前置きとともに聞かされていた。

「もしお父さんがあなたたちにそんな話をしてきたら、それは良くない考えだって言ってちょうだいね」と彼女はいつも言っていた。彼女は確信していたのだ。そんな裏から手を回すみたいな手段でアンドリューを見つけたとしても、彼をさらに遠ざけるだけだと。もし彼が、いつか家族のもとに戻るとしたら、それは彼自身の側に何らかの変化があった時であり、それはおそらく、何十年もかかってやっと起こる変化なのだろう。

けれども、妻を失い、自分自身の時間も残り少なくなってきたジェリーが、意を決してそれを実行したのだろうか? 彼はついに、しかめっ面した私立探偵にお金を払って、自分を捨てた息子捜しに乗り出したのかもしれない。息子が失踪した時、ジェリーはつゆほども想像しなかった形で心を壊されたのだ。それくらいしてもおかしくはない。

「君はどう思う?」と、パトリックはカースティに聞いた。「この数年、親父の一番近くにいたのは君だ。アイラ島のこととか、何も言ってなかったか?」

「いいえ、でも彼の考えを理解するのは難しくないわ。アイラ島はすごく遠いじゃない、そうすると、道中こうしてたくさん話をしないといけない。きっとそれが理由よ。彼は私たちの関係がぎくしゃくしていたことを、いつも気にしていたわ。時々、あなたたちのどちらかと話をしたか?って聞いてきて、私が話してないって答えると、残念そうな顔で、いいかって、仲たがいの解決策を教えてくれた。『いいか、人生は一周しかない。会う人会う人に親切にしておかないと、後からじゃ遅いんだ』彼女は声を1オクターブ下げて、親父の真似をした。「会うたびに同じことを言ってたわ」

「私たちはお互いに親切にしてるじゃない」とジェシカが言った。

「一口に親切と言っても、そこに真心がこもってないとダメなのよ。真心は家族である証だけど、単に親切っていうのは、コールセンターにかかってきた電話で、お客さんと話す時の態度でしょ」

「それはそうだ。かなり納得」とパトリックは言った。「でも、なんでよりによってアイラ島なんだ?」

「彼はそこが好きだったのよ。あのウイスキーだってそこで作られたんでしょ? よく知らないけど」

「さっき言ったように、彼はサディストなの」とジェシカが言った。今度はちょっとにやけている。

「あるいは、何か隠された動機があるのか」と、パトリックは顎に人差し指と親指を当てて言った。


カースティ


「やめて」と彼女はきっぱり言った。「何が言いたいのかわかるわ。実はね、私たちがこの旅に出発する前、私もそう思って自分で調べてみたのよ。でも、何の手掛かりも見つからなかった。あなたも期待しない方がいいわ」

パトリックが意気消沈するように、うなだれてしまった。彼には珍しい表情だった。彼はいつでも楽観主義で、明るい面を見なさい、親切にしなさい、幸せでいなさい、という父親のアドバイスに最も忠実に従ってきた。彼は昔から、どんなに救いようのない暗い状況に陥っても、その良い面を探し求めることで、そんな状況を明るく笑い飛ばしてきたのだ。パトリックが財布に弟の写真を入れていても不思議ではなかったし、弟の写真を見ては、弟を思い出すとともに、自分自身の存在も確かめているんでしょう、と彼女は思った。彼は弟が帰ってくるという希望を、3人の中で一番捨てていない人だった。

カースティにはアイラ島の謎はわからなかった。そして、パトリックの希望をいきなり打ち砕いたことを、少し残酷だったかもしれないと感じた。けど、その方がよかったのだ。

釣り具箱を開けて、父からの手紙を読んだ日の翌日、カースティは自分でもそのことを考えていた。彼女はしばらく試していなかった言葉を、Google検索に入力した。「アンドリュー・カドガン」、「アンドリュー・カドガン 名前変更」、「アンドリュー・カドガン 行方不明者」久しぶりに彼のFacebookも開いてみた。数年前に見た時と同じページが、少し古びた印象を纏(まと)い、そのまま残っていた。更新が続いている他の人たちのページと比べると、彼のページだけ時が止まっているようだった。最後の投稿は失踪の6週間前のもので、2009年の日付もそのままだ。


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その下には電話番号と、アンドリューが会社の経営を引き継いだ時に、高すぎるデザイン料を支払って作った会社のロゴマークが貼られていた。

その後、カースティは「アンドリュー・カドガン アイラ島」、「写真家 アンドリュー・カドガン」という検索ワードも、(彼が、趣味だった写真を仕事にして、新たな人生を歩み始めたことを願いつつ)試してみた。さらに、「アイラ島 新参者」とも打ってみた。小さい島だろうから、島のコミュニティはかなり緊密で、新しい人が入ってくれば、地元紙の見出しを飾るほどの大ごとかもしれないと期待したのだ。―が、何もヒットしなかった。

次第に、希望が現実に取って代わられ、彼女は立ち往生した。どうやらパトリックは思っただけで、同じことはやらなかったようだ。

「わかってるよ」と、1分ほどの沈黙の後、彼は言った。「わかってるけど、ただ、あの頃親父は、探偵を雇うとか、そんなことを言ってたじゃないか―」

「彼は実行には移さなかったのよ、パトリック。私を信じて。彼は決してそうしなかった。パパはアンドリューの居場所を知らないまま死んだの。そして私達もそうなるんでしょうね」

「でも、どうしてわかるの?」とジェシカが聞いた。

カースティはパトリックを熱心に観察していたので、姉もそこにいることをほとんど忘れかけていた。

「だって、彼がそんなことをしていれば、絶対私に話してくれたわ、ジェシ。私は何年もずっと、一日おきに彼に会いに行っていたのよ。彼が誰かを雇ったりしたら、そんなのわかるに決まってるじゃない。もし彼がアンドリューを見つけのなら、私が知らないはずがないわ。彼が誰かと連絡を取っていたとしても、私は気づくでしょうね。こんな...的外れな議論をしていても仕方ないわ」と言って、彼女は適切な言葉を探した。自分たちが感じている、弟に対する自責の念や罪悪感、羞恥心などの感情を束ねて一つにして、投げ捨てられるような言葉を。すなわち、それらすべての中心を成す本質を探していた。

「じゃあ、私たちはどうすればいいのよ?」

「わからないわ、ジェシ。正直、私はお手上げ状態。彼がヘブリディーズ諸島のどこかのビーチに劇的に立っていて、私たちを待っていてくれる、なんて期待したって無駄だし、そもそも、私たちは彼が出て行った理由と折り合いをつけなきゃいけないのよ。そんなこと考えたって意味ないでしょ」

カースティはマグカップをシンクに投げ入れた。硬い金属製のたらいに当たった衝撃で、取っ手の部分が割れてしまった。

「いけない」と彼女は言って、それを拾い上げると、ゴミ箱に捨てた。「ほら、そろそろ出発しなくちゃでしょ。ジェシ、今度はあなたが運転する番よ。さあ、もう出るわよ、いい?」




~~~


〔チャプター 5の感想〕

パトリックはトムと違って、結構健全なんだよね。

藍はこのストーリーの中では、ジェシカに近いかなと思う。藍も周りから腫れ物に触るような扱いを受けるし、誰も自分のことをわかってくれない感にも、しょっちゅう苛まれている...😿

あと、藍もコーヒー好きだし☕←君は好きを通り越して「中毒」だよ!笑←「コーヒーくれ~~!!」って? まあ、コーヒーならそれでもいいじゃない!笑


出た。朝からヨガパターン! ジョン・アップダイクの『キリスト教徒のルームメイトたち』を訳して以来、幾度となく登場したヨガ好きキャラ! 実は、インドア派の藍の淡い夢でもあって、朝起きたら何よりも真っ先に、恋人と並んで朝陽を浴びながらヨガしたい!! ストレッチでもいいよ🐱(それが叶わないから、ツイキャスでヨガしてる人を見ながら、インドアで毎日ヨガってる...😻)←それは書くな!!!笑笑


それは冗談だけど、カースティは海辺を走って帰ってたこともあったし、アウトドア派なんだよね。そしてパトリックの立ち位置が微妙で、二人の姉妹の間で、どっちつかずにふらふらしながら、火消し役に徹してる感じかな...🌼🦋🌻


生き方の選択(a life choice)とか、ライフスタイルや選択(lifestyle and choices)という言葉が出てきたんだけど、藍の場合(In the case of Ai)、生き方を自分で選択していると言えるのかどうか微妙...🙀

というのも、藍も(おっさんのくせに、笑)音楽のサブスクリプションに入って、定額でいろんな音楽を聴いているんだけど、「あなたへのおすすめ曲」とか、謎の判断で勝手におすすめされた曲を聴いているわけで、自分で選んでいるのかどうか、微妙...🙀💦

(こいつにはこれをあてがっとけばいいってか? と思ったら、僕好みのいい曲じゃねーかよ♪爆笑)


今もそうかもしれないけど、藍が10代の後半の頃は、「英文速読」ということが、(予備校講師などによって)さかんに叫ばれた時代だったんですよ。速く読むことが最善、という主義なんだけど、そのマインドにどっぷりと浸かっていたから、いまだにその志向がぬぐいきれなくて、ふと気づくと、無意識で目を高速に走らせ、ダーーッてかなり先まで読み進めている自分がいるから、いつも「ゆっくり、ゆっくり、味わって」って、自分に言い聞かせながら訳しています。

いつしかそれが口癖になっちゃって、「ゆっくり、ゆっくり」って、会う人会う人につい言ってしまい、怪訝な顔をされます。笑


季節は合わせたわけではないんだけど、ちょうど年末のこの時期の数年前に、三人はキャンピングカーの旅をしていたのかと思うと、朝のピリッと肌を刺すような寒さだけでなく、キャンプ場というよりは草原の、寒々とした景色さえも目に見えるようで、シンクロ率がぐっと高まる🎅

本当に寒い季節に「寒い」と書くのと、夏の暑いさなかに「寒い」と書くのとでは、伝わり方が若干異なる、と藍は信じている。たとえば、10年後とかに読み返した時に、目に見えて違ってくると...🕵


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チャプター 6

スコティッシュ・ボーダーズ

パトリック


もうすぐ正午になる頃、ジェシカが運転する車は、英語とゲール語で〈スコットランドへようこそ〉というメッセージが書かれた巨大な看板の前を通り過ぎた。青地に白の十字架が描かれた国旗も大きく掲げられている。パトリックは、他の二人のどちらかがそれについて何か言うのを待っていた。もし自分が運転していたら、ちょうど国境を越える時に『スコットランドの花』でも流すところだ。

しかし誰も何も言わなかった。看板に気づいてさえいないようだ。それなりに感慨深い瞬間ではあるはずなのに、とパトリックは思った。父親の遺骨をまくことになる国へ入ろうとしているのだから。たとえその遺骨は、カモメか何かの海鳥につままれる運命だとしても。

まだ何時間も車を走らせなければならないことを考えると気が滅入って、それどころではないのかもしれない。目的の島へ渡る船に乗る波止場までには、トロサックスやローモンド湖などを越えて、まだまだ深い田園地帯を抜けて進まなければならない。

彼らは着実に北へ進んで行った。湖水地方の丘が広がる美しい景観を片側に眺めつつ、反対側には国立公園の外縁部を横目に、それぞれが黙り込んでいた。時折、車が坂道を登り切ると、そこには、イギリスが誇る素晴らしい絶景が広がっていて、自然と目が広がった。ジェシの負担を軽減しようと、代わりにパトリックが運転していた時、一度彼はヒヤッとした。下り坂でややスピードを出しすぎてしまい、あやうくキャンピングカーが横転し、中央分離帯に突っ込むところだったのだ。しかしその時でさえ、誰も何も言わなかった。沈黙を破ったのはパトリックの一言で、「〈テバイ〉のサービスエリアだ」と彼は窓の外を指さして、つい口走っていた。独自のシェフがいて、店内で調理していることで有名なサービスエリアだった。カフェもチェーン店ではなく、独自のものが入っている。

もちろん、彼女たちが黙っている理由はわかっていた。彼女たちに少しでも、彼のような気質があるとすれば、彼女たちも弟のことを考え、弟の思い出に浸っているのだろう。ちょうど10年前、弟は家族の一員ではなくなることを選び、カドガン家の形を永遠に変えてしまった。そのことについて、あれこれ思いを馳せているのだろう。

カースティとジェシカはおそらく、彼が失踪する前に、それを食い止めるために自分たちができたかもしれないことを考え、彼がいなくなった後、どうやって気持ちを整理し、彼の不在を受け入れてきたかを振り返り、その後、弟捜しに迷走した日々を思い返しているのだ、とパトリックは思った。まさに自分がそうしていたように。

アンドリューの失踪後、家族は一丸となって、弱体化してゆるくなった絆を束ねようと、がむしゃらに突っ走ってきた。まるで、家族の一人が天寿を全うすることなく夭折(ようせつ)したことで、残りの家族が自分たちの持っているもの、すなわち生の価値に気づいたかのようだった。

しかし、実際は、何かが根本のところで変わってしまった。アンドリューはカドガン家の中で、それほど目立って発言するタイプではなかったし、積極的に行動するタイプでもなかったのだが、彼の存在は家族という共同体にとって、なくてはならないほど重要だったのだ。彼がいなくなってからそのことに気づくなんて、悲しすぎるじゃないか、とパトリックは思いながら、スマホを取り出した。メールアプリを開くと、検索バーにandrew.cadogan33@gmail.comと入力する。

パトリックはそのメールを「A」というフォルダに保存していた。また、そのメールをプリントアウトした紙を、ナイキの〈エア マックス 1〉のシューズボックスにも入れて保管してある。その箱には他にも、見れば当時を思い出すライブのチケットや、お土産の類、個人的に意味のあるグリーティングカードなども保管していた。

アンドリューのメールは、短く、形式的に書かれたもので、返信を求めず、何か質問があれば、などという言葉もなかった。その硬い文体は全くアンドリューらしくないもので、誰かの助けを借りて書いたのではないか、と疑うほどだった。しかし、とパトリックは思い直す。アンドリュー・カドガンは、このメールを送信するまでの数ヶ月という日々を送る中で、弁護士や銀行からの形式ばった手紙を何度も読む機会があったに違いない。それで、このような形式的すぎる書き方を真似することができたのだろう。


差出人: andrew.cadogan33@gmail.com

送信: 2009年5月18日 10:20

宛先: patrick@patrickcadoganhomeimprovements.co.uk

件名: 私について


パトリックへ

この度、私は我が家を離れることにしましたので、そのことをお伝えしたいと思います。

あなたがこれを読む頃には、私はもういなくなっていることでしょう。どこへ行くかは教えるつもりはありませんし、私を捜さないでほしいと願います。私はこのことについて長い間、真剣に考えてきました。要するに、私はカドガン家にふさわしくない、ということです。一度も家族の一員であるという実感を抱いたことはないかもしれません。いずれにせよ、これは一時の気の迷いではありませんし、もう二度とお目にかかることはないでしょう。私のこの思いを尊重してほしいと切に願います。

アンドリューより


パトリックは、初めてこれを読んだ時、ある種の深い衝撃を受けたことを覚えている。神経が内側からピリピリしてくるような、初めて抱く感覚だった。そのメールを受け取った時、彼はブライトンから西へ15キロほど行った海岸沿いの町、ワーシングで、リフォームの仕事をしていた。数ヶ月前に知り合って意気投合した同業者と一緒に働いていた。彼は休憩中に飲んでいた紅茶を置くと、作業員たちの誰かがスイッチを入れた大音量のラジオから離れるために、別の部屋へ行った。

彼はもう2回ほど、その文面に目を通してから、返信を打ち込んだ。


差出人: patrick@patrickcadoganhomeimprovements.co.uk

送信: 2009年5月18日 10:26

宛先: andrew.cadogan33@gmail.com

件名 Re: 私について


相棒。直接話せるか? こんなことやめてくれ。5分後にまた連絡する。


すると、すぐに自動返信が返って来た。


差出人: andrew.cadogan33@gmail.com

送信: 2009年5月18日 10:26

宛先: patrick@patrickcadoganhomeimprovements.co.uk

件名: Re: 私について


このメールアドレスは現在使われておらず、確認が取れません。


これをもって完全に姿をくらまそうと、すでに決めていたらしい。

「大丈夫か?」と知らない声がした。この部屋には誰もいないものと思っていたのだが、部屋の隅っこでラジエーターを取り付けている作業員がいたのだ。

「ああ、まあ」

「ほんとに? なんだかおびえてるようだけど」

「大丈夫。ちょっと用事で、すぐ戻る」

パトリックは半分壊れかけた家の中を突っ切り、周りで作業している人たちを無視し、バケツにつまずくのをかろうじて避けながら、外へ出た。それから海岸沿いの道に出ると、海を見ながら歩いていた。誰かに電話した方がいいかな、と彼は迷っていた。腕時計を見るとまだ10時半で、アンドリューからメールが届いてから10分しか経っていない。彼が家族のみんなにメールを送ったのなら、両親ともまだ読んでいない可能性が高い。カースティは、授業中にこっそりパソコンをチェックするという芸当をしていない限り、間違いなく読んでいないはずだ。ジェシカだけは、彼と同じようにスマートフォンを持ち歩いていたので、指でタッチするだけでメールを見ることができただろう。

彼は家族のみんなに知らせることをためらった。しかし前回のことを考えると、何もしないわけにはいかない。前にアンドリューが軍隊を勝手に抜け出し、ロンドンをさまよっていた時、俺が家族のみんなに真実を伝えていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのだ。

その答えはともかく、アンドリューはすでに新しい人生の計画を立て、出発してしまった後なんだ、とパトリックは気がついた。その計画に、カドガン家は含まれていないんだ。

ビクトリア朝様式を今に伝える〈バーリントン・ホテル〉や、同じくビクトリア朝時代から海岸沿いの道路に建ち並んでいる古民家を横目に、パトリックはどうしたらいいのか考えていた。何の決断もできないまま、ただ歩くペースだけが速くなる。その時、彼の手の中で携帯が鳴った。

母さん。

「もしもし」と彼は言った。

「アンドリューから連絡あった?」彼女は挨拶もせずに開口一番そう言った。彼女の声はパニックで震えていた。

「ああ。まあ、メールがね」

「ジェシカにも届いたそうよ。今彼女から電話があって」それを聞いてパトリックは、ぐじぐじと考え込んでいたことを悔やんだ。やっぱりメールを見たらすぐに、両親に連絡すべきだったんだ。ジェシカは昔から彼よりもずっと、自分に自信を持っていて、どんな状況でも自分のすべきことを的確に判断していた。

「じゃあ、母さんにも届いてたんだ? メール?」

「私たちには手紙。ズンバ・エクササイズから帰ってきたら、テーブルの上に置いてあったのよ。郵便じゃなくて」

「そうすると彼は家まで―」

「わかってる、彼はまだ遠くへは行ってないわ。お父さんは仕事中だったけど、今捜しに行った。私は、彼がまた家に立ち寄るかもしれないから、ここにいるようにって。でも、パトリック」と彼女は、かすれぎみの声で言った。「何もしないでいると、いたたまれなくなって、無力感に押しつぶされそうで」

パトリックは何も答えなかった。かけるべき言葉が見つからなかった。母さんの気持ちはよくわかったが、父さんもまた、正しいことを言っている。いずれにしても、アンドリューが最後にもう一度実家を見に戻るとはとても思えなかった。ただの引っ越しならそれもわかるが、彼は、もう二度とお目にかかることはない、と書いてきたのだ。

「手紙にはなんて?」しばしの沈黙の後、彼は聞いた。アンドリューが両親に書いた手紙には、メールの内容よりも、もっと深刻な事態が書かれているのではないか、と彼はたじろぎそうになる。「もしかして―」

「これを読む頃には、私はもういないって」と彼女は言った。それを聞いてパトリックは、全員が全く同じ形式の文章を受け取ったのだと悟った。「彼がこんなことをするなんて、私には信じられないわ。彼が動揺してたのは知ってたけど、どうして話してくれなかったのかしら?」

「わからない」とパトリックは言いながら、家族全員でキッチンテーブルを囲んだ時のことを思い返していた。アンドリューが最後の望みをかけて家族に助けを求めていたというのに、みんなは要するに、それを無視したんだ。

電話は再び、しばしの沈黙に包まれた。母親もおそらく同じ時のことを思い出して、後悔の念にさいなまれているのだろう。

「もう切らないと。彼から電話がかかってくるかもしれないから」と彼女は言った。携帯電話は話し中でも、新たな電話を受信できることを理解していないらしい。「あなたに彼から連絡があったら、電話くれるんでしょ?」と彼女は言った。パトリックは同意し、二人は電話を切った。

その日、彼は残業して働いた。他に何ができるのか、もっと役に立てることはないのか、もっと他に気が紛れるようなことはないのか、わからないままに、彼は現場で一人きりになるまで働いていた。その間、カースティ、ジェシカ、そして母親から、ひっきりなしに電話がかかってきた。みんな実家のあるホーブに集まって、彼を捜し回っているらしい。そして、父親からもかかってきた。その声は、パトリックがこれまで聞いたこともないような、悲しく、諦めに満ちた、怯(おび)え切った声だった。

ようやくちゃんと話せたのは、全員が彼の捜索をやめた夜の9時だった。誰も口には出さなかったが、彼がもう近くにはいないことに気づいていた。

「じゃあ、これからどうするんだ?」とパトリックは、携帯電話を耳に当てて、ジェシカに聞いた。カースティは今、意気消沈してしまった両親に何か食べさせようと必死で説得を試みているという。

「どうしたらいいのかわからないけど、当分の間は、何の知らせもないことを良い知らせだと思うのがいいかもしれないわね...」彼女は語尾を曖昧に濁(にご)らせた。アンドリューの手紙が字面(じづら)よりも、はるかに恐ろしいことをほのめかしているのではないか、そう言ってしまいたいのをぐっと堪(こら)えているようだった。

「行方不明者として届け出るんだろ? 待ってても仕方ないし、わかるだろ?」

「ママもそう言ってたけど、私にはわからないのよ、パトリック。本当にどうしたらいいのかわからない。もし彼が遠くへ行きたいのなら、捜索願を出せばもっと彼を追い詰めることになるんじゃないかしら? 私たちが彼の決断を尊重してないって感じさせてしまうわ」

「おいおい、ジェシカ。ちゃんと捜索願は出さなきゃダメだぞ」

「そうかもしれないわね」と彼女は冷静に答えた。「でも、今言ったように、それがいい考えかどうか、私にはわからない」

その週を皮切りに、何ヶ月にも及ぶ捜索活動が始まった。若者の死について、みんなで探せるだけ探して、あらゆる記事をチェックした。ホームレスの避難所に電話して、アンドリュー・カドガンの特徴に合う人物が最近やって来なかったかどうか確認した。公に行方不明者として届け出ることまではしなかったが、特にスーが泣き崩れる場面が多々あった。

しかし、月日が経つにつれ、家族は徐々に彼の決断を受け入れるようになっていった。そして、いつか彼が戻ることを決断する日が来るかもしれないという希望を胸に、生きていくことを学んだ。家族のほとんど全員がその時を待っていた。


当時を振り返ると、アンドリューが家族の屋台骨(やたいぼね)だったことがよくわかる。彼がいなくなったことで、まさに礎石(そせき)を抜かれた家のように、みるみるうちに家族は崩壊の一途(いっと)をたどった。完全に壊れつくすのは時間の問題だった。何もかもが、もう二度と元には戻れないところまで崩れていった。

最後の一撃は、4年近く前に起こった。ブライトンでスー・カドガンが暴走した盗難車にひかれ、即死したのだ。残された面々の反応は様々だった。―ジェシカはジェリーに実家を売らせようとし、カースティは、二人のうちどちらか一人でも、故郷であるこの町に戻ってくるよう働きかけ、パトリックは、その時もやはり黙り込んでいた。その一撃がきっかけとなり、三人の仲はその後、修復しようという気力も湧いて来ないほど、バラバラに引き裂かれてしまった。

避けられたはずの家族の失踪に追い討ちをかけるように、避ける間もない形で、もう一人の家族が失われた。その時パトリックは、立て続けに盗難に遭ったようだ、と思った。その感覚に一番近い記憶を呼び起こすと、彼が11歳の時に遡(さかのぼ)る。ギャントン通りの邸宅に泥棒が入り、学校から帰ってみると、家の中がぐちゃぐちゃに荒らされていたのだ。何者かがずかずかと侵入してきて、尊厳を踏みにじるように、家族のものを奪っていた感覚。

残された者は皆、戦地からの帰還兵のように、人生を不条理なものとして否応なく定義づけられてしまった。

パトリックは、まだ解決されていないそういった議論に触れずに、この旅を終えるわけにはいかないと思った。俺の遺灰を撒いてくれ、なんていうのは表向きの口実に過ぎない。親父からの本当の依頼は、三人でとことん話し合い、関係性に折り合いをつけることに違いないのだ。親父は生前からそれを望んでいたが、叶わなかったから手紙に託した。それが、パトリックの手紙の読み方だった。

「聞きたいことがあるんだ」と彼は言った。ジェシカは運転中だったが、助手席のカースティが後ろを振り向いた。彼女は軽いショックを受けたような表情をしていた。まるで30年の沈黙の誓いを破って、酒でも飲むか? と声を発した僧侶を見るように、目を点にしていた。

「どう思う?」と彼は続けた。「俺たちはこんな風に、なんていうか、疎遠(そえん)になってしまった。もし母さんがああならなかったら...」

その問題提起はしばしの間、車内にふわふわと浮かんだまま、着地点を見失っていた。ジェシカはパッと風船をつかむように声を発した。「疎遠っていうのは、ちょっと強い言葉じゃないかな」

「だとしても、言いたいことはわかるだろ。俺たちはバラバラの人生を歩んでいる。あの夜以来...俺たちは基本的に、1年間お互いに一言も口をきかなかったじゃないか」

「そんなに長くはなかったわ。数ヶ月くらいのものでしょ」

「ジェシ、そういうことを言ってるんじゃない、わかるだろ。俺たちは、そうだな、疎遠じゃないにしても、仲違(なかたが)いしてるじゃないか」

「まあ、ちょっとは難しい状況だったのはわかるけどさ、なんか少しあなた、メロドラマチックになりすぎじゃない?」

「そんなことない。メロドラマなんか気取ってない。俺たちはこの4年近く、まともな、意味のある会話を一度もしてこなかった。手紙も書かないし、会話もしない。何かよっぽどのことがない限り、メールすら送らない」と彼は言った。「俺たちは、お互いに口をきかない家族になってしまったんだ。俺がアイルランドに住んでた頃、二人とも一度も俺を訪ねて来なかったじゃないか」

「招待されたこともないわ!」

「まさにそれだよ。それこそ俺の言いたいことだ。他人行儀というか...前は違っただろ、数週間に一度は顔を合わせてた。それが今は、義理でクリスマスカードを送り合うのがやっとみたいな間柄になっちまった。招待されなきゃ来ないような仲なのかって聞いてるんだ」

「実はアイルランドに行っことはあるのよ」とジェシカが言った。「聞きたいなら聞かせてあげるわ。ダンが商用旅行というか、仕事の取引でね、私もついて行ったの」

「そうか。なら、余計にひどいんじゃないか? 俺が住んでる国まで来ておいて、俺に連絡を取ろうという考えが一度も浮かばないとはな」

「とっても忙しかったのよ、パトリック。ビジネスだったんだから―」

「ならいいよ」と彼はぶっきらぼうに言った。「わかった。もういい。俺が質問したのが間違いだった。今のはなかったことにしてくれ。何も変わってない、昔のままだ。すべては順調、それでいい」

「いったい何なの? あなたが何を望んでるのかわからないわ、パトリック。週に一度のランチ? 家族で集まって語らいましょうってこと? 最近流行りのWhatsAppグループでも作って、家族で退屈を紛らわしたいとか?」と彼女は言った。「私たちが集まったのは、パパの遺灰を撒きに行くためよ」

「でも、真の目的はそうじゃないだろ? 俺たちは絆(きずな)を取り戻すために集まった。親父の手紙にそう書いてあった」

「そんなこと書いてなかったわ」

「そういう意味だったんだよ」

「私たちが旅を楽しむことを望んでるとは書いてあったけど、家族の絆を取り戻せ、なんて解釈するのは無理があるわね」

「じゃあ、なぜ彼はこれを計画したんだ?」

「そんなの知らないわ、パトリック。彼はもういないの。彼の気持ちなんて今さらわかるわけないでしょ? 『絆を取り戻せ』でも何でもいいけど、おままごとなら、あなたたち二人でやっててちょうだい。私は彼に頼まれたことを文面通り、そのままするためにここにいるの。それだけよ」

「ああ、もういい加減にして! 二人とも黙ってて」とカースティが怒鳴った。「もううんざり。とことんまでうんざりしたわ。二人とも自分自身のことしか考えてないじゃない。4年も経ってから、あの時俺はこう思ってたんだ、とか、今さらぐじぐじ言い出すのはやめて」と、彼女はパトリックに向かって言った。「気づいてないといけないから言うけどね、あの後、パパのそばにいたのは私なの。パパは息子を失った後、妻まで失ったのよ。そんなパパの目の前で、あなたたち二人は平気な顔して、あの家を売ろうとした」

「俺はしてない」とパトリックは言い放った。彼は爆発寸前の高鳴りを感じた。昨日と今日の会話や、これまでのささいな口論で溜まりに溜まった、三人の鬱屈した感情が、今にも暴れ狂い、噴き出しそうだった。

「ふざけたこと言わないで、パトリック」

「あなたは私に賛成してくれたわ」とジェシカが言った。

「あなたたち二人とも、どっちもどっちね。あなたたちは、この4年間に実家で何があったかなんて、なんにも知らないでしょ。年に一度クリスマスの時期になると、別々の日にちょこっと顔を出すだけ。それから月に一度のペースで、後ろめたさを感じてきた頃合いで電話だけしてきて、罪悪感を解消して勝手にいい気になって」

「はい、始まった。お得意の『可哀想な私を見て』の上演開幕ね。っていうか、ブライトンに残ることを選んだのはあなたでしょ」とジェシカが言った。「そのことで私たちを責めたってなんにもならないわ。私には私の人生があるんだから」

「うぬぼれるのもいい加減にして、ジェシカ」とカースティが一段と声を荒げた。「あなたのどうでもいい、無意味な人生なんて誰も注目してないわ」

その瞬間、バンッという大きな衝撃音がして、キャンピングカーが高速道路を左によろめき、たなびいた。後ろからクラクションが鳴り響く中、ジェシカの運転する車は、ふらふらと蛇行を続け、彼女は唖然としたまま、ハンドルから一瞬手を離してしまう。パトリックは、これは間違いなく横転する、と思った。彼はパニックに陥りながらも、自分だけシートベルトをしていないことに気づき、さらにパニックに陥った。カースティが悲鳴を上げた時、車は急に右に折れ、路肩に乗り上げたところで、ふーっと息を吐くように停まった。ジェシカは深く息を吸い込みながら、ゆっくりとすすり泣きを始めた。




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〔チャプター 6の感想〕

「このメールアドレスは現在使われておらず、確認が取れません。」

これは響く! ほんとに響く!! 藍の骨の髄まで響いたね!!! 藍の人生最大の衝撃と言っても過言ではない。まさに死ぬまで覚えている、生命がゆらぐ感覚...

あの日の昼間、藍と上原レナちゃんは数ヶ月後に迫ったクリスマスの話をしていた。(←何回同じこと書くんだよ!笑←何回でも書くよ! 藍の人生最大の一大事なんだから!)

それなのに、「またね」って笑顔で手を振って、家に帰って、夜になったら、「もう会うこともメールすることもない」というメールが藍の携帯に届いて、目が点状態の藍はもちろん返信したけれど、すぐに自動返信が返ってきた。

このメールアドレスは現在使われておらず、確認が取れません。


藍も10代の頃、一度家出を試みたことがある。ただ、それはアンドリューとは違って、ただ単に思春期でこじらせていたってだけで...都会に出てみたくて、同じ県の、より都会に近い町に住んでいた、一人暮らしの親戚の家に行ったってだけで...😅笑

でも、その時に見た一人暮らしの部屋が、藍の中でデフォルトというか、プロトタイプになっていて、大学時代に一人暮らしをした時、その時のことを思い返しては参考にしていた。←何の話だよ??笑


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チャプター 7

グレットナ

カースティ


「あのさ」とジェシカがようやく言葉を発した。キャンピングカーが止まってから数分後のことだった。カースティの指導による深呼吸と、カースティがミントの葉っぱを入れてくれた水を何口かすすったことで、なんとか話しができるほどには落ち着いてきた。「他に何か言うことはないわけ? これで私が死んだら、死にゆく私にかけた最後の言葉が、ヨガの呼吸法だったなんて、あなたは生涯そのことを悔やみ続けるわよ」

カースティは怒りとともに、感心する気持ちも入り混じった表情で彼女を見つめた。どんな状況でも自分のストーリーに組み込んでしまう姉の天性の能力に、改めて感嘆してしまう。カースティは何か言い返そうとしたが、何も言葉が見つからず、やるせなくパトリックの方に目をやると、彼が額を押さえていた。

「大丈夫?」

「ああ」と彼は歯を食いしばりながら言った。

「どうしたの?」

「クソッ、頭をぶつけた。車がぐらっと揺れたとき、窓にぶつけたんだ」

彼はまるで、つま先をドアにぶつけて、なんでこんなところにドアがあるんだよ、と見当違いの文句を言っているような口ぶりだった。

「あらまあ。血は出てないんでしょ? 真っ直ぐこっちを見て、私が何人に見える?」

「大丈夫。ただ痛いだけ」

「パトリック」ジェシカが運転席から後ろを振り向いて、彼の名を呼んだ。「あなたの名前は? あなたは誰だか言ってみて」

彼はカースティに鋭い視線を送った。

「脳震盪(のうしんとう)を起こしているかもしれないわ」ジェシカが一段と声の音量を上げた。

「脳震盪じゃない、ただ痛いだけ。っていうか、いったい何が起こったんだ?」

「わからないわ」とジェシカが言った。「制御不能っていうか、私には為す術もなく、車体が跳ね上がったと思ったら、左右に揺れ出して」

カースティは車から降りた。〈グレットナ・サービスエリア〉を過ぎて、1.5キロほど進んだところの路肩に車は停まっていた。路肩の向こう側は急な斜面になっていて、木がまばらに立っているが、それよりも車から投げ捨てられたゴミが目立つ。路肩のこちら側は、北へ向かう片側2車線の高速道路で、車が次々と通り過ぎていく。小雨が降っていて、肌寒い。カースティはグレーのカーディガンの前を締めるように両手をクロスさせながら、車の前に回り込んで故障箇所を確認した。

「パンクね」彼女は窓の外から、運転席のジェシカに言った。「左前のタイヤ。ぺしゃんこにつぶれてる」

道路を振り返ると、タイヤのゴム跡がくっきりと残っていた。ジェシカがコントロールを失って、思いっきりブレーキを踏んだ時についた、黒くて長いタイヤ線がウェーブしながらこちらへ続いている。

「まあ、なんていうか、私のせいじゃないわ」とジェシカが開いた窓の中から言った。「ただ...まあ、そうね。ただパンクしちゃったってことでしょ?」

「誰もあなたのせいだなんて言ってないじゃない。誰のせいでもないわ。強いて言うなら、何年も誰にも乗られず、放っておかれた、この馬鹿でかい車のせいってことね」

「なに、これから先も、またパンクしちゃうかもってこと?」

「そうならないことを祈るしかないわね」

「まあ、私は車についてはよくわからないけど—」

「じゃあ、何も言わないで」とカースティは言って、その場を離れると、車内に戻ってきた。「後ろにスペアタイヤがあるわ」そう言って後方へ向かおうとした時、こちらを見ているパトリックの顔を見て、彼女は立ち止まった。

「何? 俺にやれってことか?」と彼はしかめっ面で言った。

「いや、そうじゃなくて...」

「何だよ?」

「あなたの」と彼女は言ったところで、何と言えばいいのかわからなくなった。彼の額(ひたい)の、右の眉のすぐ上に、大きな赤いこぶができていたのだ。「その...あなたの...ここ」

「ここが何?」彼はそう言って、スマホを手に取り、カメラを開いて自撮りモードにした。「おいおい、勘弁してくれよ」彼はそう言いながら、こぶを指で触って、たじろいだ。「これじゃ馬鹿みたいじゃねぇか。ゴルフボールくらいあるな」

カースティはクスッと笑ってしまった。

「ああ、そうかい。そんなにおかしいか?」彼が不機嫌そうに眉を動かした。「これじゃ、れっきとしたお馬鹿さんって感じだな」

「ごめんごめん」

「ああ、馬鹿馬鹿しい」と彼は言って、スマホをテーブルの上にポイッと投げ捨てた。

「まあ、あれよ、ヘブリディーズ諸島で誰かと待ち合わせして、デートするわけじゃないんだし、そうでしょ? ジェシカと私にしか見られないんだから」と言ってから、にっこりと笑みを浮かべて続けた。「そうだわ、あのセクシーバーテンダーに、名誉の負傷だって言って、その写真を送ったら?」

「ああ、そうかい。まだ傷は癒(い)えてないってのに、もう話のネタにしちゃえってことか?」

「パトリック」と彼女はなだめるような口調で言って、彼を落ち着かせようとした。「ただの頭のこぶなんだから、心配要らないわ」

「なんでもいいけど」と、彼は気分を切り替えようとした。「早くタイヤ交換した方がいいんじゃないか? ぐずぐずしてると、今日のフェリーの最終便に間に合わなくなるぞ」

パトリックは立ち上がると、レインコートを羽織って、雨の中へ出て行った。カースティは彼が座っていた座席に腰を下ろすと、スマホを取り出した。メッセージを3件受信していた。すべてトリーナからで、リヴィがタイプしたらしいメッセージが最初にあって、次に2人が一緒に写った自撮り写真。それから、トリーナ自身が打ったWhatsAppのメッセージだった。


トリーナ:どんな感じ? もう誰かを殺しちゃった?笑


カースティは返信した。


カースティ:今のところ、なんとか耐えてる。というか、パンクしちゃって、今はスコットランドの道端で立ち往生。ジェシはキレぎみ。パットは大丈夫。笑


トリーナ:あらあら大変ね! 何があったの?😘追伸、スコットランドのどこ? スコットランドって言っても広いからね😘


カースティ:ただタイヤがバンッて破裂したの。グレットナの近く😘


トリーナ:災難ね。まだかなり南の方じゃない。今日この後フェリーに乗るんじゃなかったの?😘


カースティ:思い出させてくれてありがとう


トリーナ:動揺させちゃったらごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。リヴィはあなたに会いたがってるわ😘


カースティ:こちらこそごめんなさい。ただこの状況に苛立ってるだけよ😘


トリーナは3つの絵文字を立て続けに返してきた。まず悲しい顔が来て、次に車。そして爆発を表す絵文字が画面にポッと現れた。カースティは椅子にもたれるように深く座ると、パトリックが頭をぶつけた窓に後頭部をつけて、のけぞった。

彼女たちはかなり気が滅入るような場所で立ち往生していた。順調に行けば、そろそろトロサックスに差し掛かっている頃で、スコットランドの湖や丘陵(きゅうりょう)地帯の絶景を眺めながら、気分良く車を走らせているはずだった。それがなぜか、こんな所で足止めを食っていた。グレットナといえば、結婚式場で有名だけど、ここで結婚式を挙げた新婚夫婦の離婚率が高いことでも有名だった。そんなことをぼんやりと考えながら、カースティは窓の外を見た。何もかもがどんよりとした灰色に見える。木々でさえも、夏の緑色から秋の赤々とした黄金(こがね)色に変わりつつあるというのに、灰色の靄(もや)が掛かって見えた。

「ていうか、謝らないわけ?」と、前の運転席から棘(とげ)のある、食って掛かるような声が飛んできた。

「なんで私が謝らないといけないの?」

「あなたの無意味な人生なんて誰も注目してないわ、だっけ?」と彼女が言った。「違った。あなたのどうでもいい、無意味な人生なんて誰も注目してないわ、だったわね」

カースティはため息をついた。母親が子供の親指に刺さったトゲを抜こうとするかのような執念(しゅうねん)で、妹から謝罪を引き出そうとしてくる姉を面倒に思うと同時に、ジェシカの言う通り、謝らなければいけないようなことを言ってしまったな、とも思った。

「言葉の綾(あや)よ」

「今まで一度も耳にしたことがない綾だけど、それしか言えないわけね―」

「わかったわ。ごめんなさい」と、カースティはきっぱりと謝った。その時、キャンピングカーの左前方が少し持ち上がり、グラスの水もその分傾いた。「さっきの私は、どうかしてた。あなたの人生は無意味なんかじゃない」

「人生の見方によるわね」とジェシカは言って、運転席から立ち上がると、後ろに来てテーブルを挟んで妹と向き合った。車から降りよう、という言葉が、カースティの喉元(のどもと)まで出かかった。そう提案すれば、二人で外に出ることになっただろう。しかし、雨は先ほどよりもさらに激しさを増していた。こんなどしゃ降りの中で、ビシャビシャと雨を跳ね返す路肩に立って、パトリックがタイヤを交換してるのを見守るなんて、耐え難いことに思えた。

「見方によるって何? あなたの人生だって無意味じゃないでしょ」

「私はそうは言いきれないわ。一部の人達には、私なんかの人生は無意味だって思われても仕方ないでしょうね。私は大金を動かしてるわけじゃないし、ただの郊外の花屋よ。ダンと子供たちと一緒に、ただ毎日を過ごしてるだけ。私は世界を変えてない」

「は? そんな人いるの?」

「少なくともあなたの仕事には、ある程度の影響力があるじゃない」

「私は中学で国語を教えてるのよ、ジェシカ。『いまを生きる』とかの映画みたいな感じを想像してるとしたら、大間違いよ、私はロビン・ウィリアムズでもないし。先週ね、『二十日鼠と人間』についてのエッセイを採点したんだけど、35人中、34人はほとんど同じ内容だったの」

「で、残りの一人は?」

「彼は間違った本を読んでたのよ」

ジェシカが笑った。外ではパトリックが、パンクしたタイヤを引っこ抜こうとして、唸り声を発していた。

「ダンがね、また政治の世界に戻ろうとか考えてるのよ」

「マジで! 今度は市会議員じゃなくて?」とカースティは言った。ダンが2年間、地元の小さな商業都市で保守党の議員を務めていたことを思い出した。市民の誰かが真夜中に、自宅の私道に停めていた彼の車に、『くそったれ』とか卑猥ないたずら書きをした後、彼は議員を辞めた。―いたずら書きをした人は学費の値上げに反対してたんだろうな、というのがダンの持論だった。

「それが、今度は1つランクを上げて、上の議会に出馬するとか言ってるの」

「あらあら...」

「だから私も憂鬱なのよ」とジェシカが言った。「あの頃は私も、しょっちゅう人と会ったり、食事をしたりで大変だったわ。もちろん、会う人会う人みんなひどい人たちなんだから。で、私は奥さん同士で仲良くしなきゃいけなくて、奥さんたちもうんざりするほどひどい人たち」

「いつも奥さん同士なんだ?」と、カースティは女性議員が少ないことを思い、少し決めつけるような口調で聞いた。

「大抵はそうね。あなたはブライトンから出たことないから、そこが基準になってるんでしょうけど、他の地域では少しは変わってきてるわね。たまにだけど、そういう場で女性議員の旦那さんの隣に座らされることもある。彼らはいつも居心地悪そうにしていて、ほとんど話すらしないわ。赤ちゃん連れの父親と同じよ。とにかく、私が言いたいのは、またそういう生活が始まるのかと思うと、うんざりっていうか、そういうのって少し不毛な時間の過ごし方だと思わない? 上辺だけの付き合いに何の意味があるの? 私は大学時代、本を書くつもりだったの。ブライトンでコラムニストになった友人に会うことになってたけど、キャンセルしたって言ったわよね。会う気になれなかったのよ」

「今からでもまだ書けるんじゃない―」

「そのことについてダンと話し合ったわ。お手伝いさんを雇おうかって。毎日じゃなくても、私が週3で家事をやってもいいから。お店の管理は他の人に任せて、とかって」

「じゃあ、そうすればいいじゃない?」

「いろいろと面倒なこともあるのよ。ダンが所属してる党の方針っていうか、党は支持者がどう思うかを気にするの。保守党の支持者は伝統的なものが好きなのよ。家庭も伝統的であるべきだって。ひどい話よね。でも、それが現実なの」

「失礼な言い方になっちゃうかもしれないけど、『くそったれ』はどっちだって話ね。彼に投票する人たちのことを言ってるのよ」

「ほんとそう。カーテンの隙間から見張ってるような人たちなのよ。ほんと嫌な人たち。人の人生を持ち上げたり落としたり、自分たちの思いのままだって思ってるんでしょうね。ダンが議員だった時、次の選挙では彼に投票しないでおこうかなって思ったことがあるくらい。誰も知らないでしょうけど。私以外は」

「そうすればよかったのに! ちょっとした反抗心があったっていいじゃない。それに、パパだったら何て言うか考えてみてよ」

「そうね。パパは、ダンが家族の一員であるという事実に最後まで慣れることができなかった。彼が当選した時、一応おめでとうって電話をくれたんだけど、なんだかいろんなことに対してパパが怒ってるのが伝わってきたわ」とジェシカは言った。「これはあなたには言ってなかったかしらね? 私が結婚する前、パパと二人きりで話したことがあるの。私たちを『正しい価値観』で育ててきたって言ってたわ。パパが子育てをしていた頃より、今のお前たちはお金を持っている。だけど、パパから教わったことを忘れてはいけないって。あの会話はたしか、ダンの父親が誰だかわかった時だったと思う」

カースティは笑った。その時の会話の様子を思い浮かべることができた。彼女の父親は、中産階級の中でも上層に位置する家庭で育った第1子が、必要以上のお金のせいで堕落するのではないかと心配していたのだ。勤勉さや誠実さよりも、自分の好みや血縁を重視するようになるかもしれない。そして、父が彼女に日々の中でしみ込ませるように植え付けてきた思いやりや共感、優しさといったものが、より自己中心的な世界観によって排除されてしまうかもしれない、と。

まず間違いなく、彼の心配は現実になってしまった。もしジェリー・カドガンの教えや格言に彼らがもっと忠実であったなら、もっと家族を大切にしていただろうし、こうして再び集まって、仲直り目的の旅になど出るまでもなかっただろう。

「ここで立ち往生するなんて、おかしいでしょ?」とジェシカが言った。

「どうして?」

「グレットナよ。よりによってこんなところで」

「私はここには来たことないけど、グレットナで何かあったの?」


ジェシカ


彼女は運転中、道路左側の地名表示を見た時から、それについて考えていた。その直後だった。突如、車が制御不能となり、恐ろしいほどの揺れを感じた。ぐらっと大きく傾いたキャンピングカーが、他の車との衝突をぎりぎりで避けたことだけは認識できた。車が緊急停止してからは口論が始まってしまい、カースティがひどく突っかかってきたため、今までそれについて言及できなかった。

「結婚式よ」とジェシカは言った。

「結婚式って何?」

「本気で言ってる? 知らないはずないでしょ」

「ジェシ」とカースティが真顔で言った。

その表情を見て、妹がグレットナと家族の関係を純粋に知らないことを初めて知り、彼女は驚いた。

「パパとママは、あなたにそのことを話さなかったの?」

「何のこと?」とカースティは聞いた。

「彼らの結婚式よ。昔、二人が結婚した場所。パパとママは駆け落ちして、ここまで来たんだって。親が結婚を許してくれない場合、当時の人たちは結構そういうことをしたそうよ」

「ママとパパが駆け落ち? 冗談でしょ? 私はずっと〈セント・フィリップ教会〉で結婚式を挙げたものとばかり思っていたわ」とカースティが言った。まるでそれこそが事実で、ジェシカの方が間違っていると言わんばかりの口調だった。「テレビの上に写真があったじゃない」彼女は金縁の写真立てに言及した。グレーのスーツを着たジェリー・カドガンと、白いドレスを着たスーが写っていた。家から10分ほどのところにある教会の前で、二人は微笑みながら立っていた。その写真はテレビ台の上にずっと立て掛けられていて、両脇には4人の子供たちの、それぞれ撮った時期の異なる写真も一緒に飾られていた。しかし数週間前の大掃除の時、それらの写真もすべて取り払ってしまった。

「あなたが知らなかったなんてびっくりね」とジェシカは言った。

「ジェシカ」カースティが再び真顔で、話を先に進めるよう促(うなが)した。

「あの写真は仕組まれたものだったのよ。ママの両親が、地元の牧師に結婚を祝福してもらいなさいって、改めてあの写真を撮ったんだけど、でも実際の結婚式はここで挙げたのよ」

「ほんとに? なんで駆け落ちなんてバカなことしたの?」

「おばあちゃんとおじいちゃんが認めなかったんだって。パパのことをよ。うちの家系には合わないって」

「嘘でしょ? おばあちゃんもおじいちゃんも、あんなにパパと仲良かったじゃない」

「だんだんと受け入れていったのよ。パパの建築士事務所がなんとか軌道に乗り始めた頃から、ようやく認められたみたいね。パパはワトフォードからブライトンに仕事でやって来た建築業者で、サッカー観戦の後、町で夜遊びしてた時、ママと知り合ったそうよ。だけど、ママの家系は兵隊さんばかりで、当然ママも大尉とか大佐とか、そういう軍人さんと結婚するという流れだったみたい」と彼女は言いながら、祖父の記憶を思い出していた。彼女が覚えているのは、現役を退いた後の他人行儀で不愛想な祖父の姿で、彼は一日中新聞をめくりながら、紙面に対してぶつぶつと文句を言っていた。「パパとは相容(あいい)れなかったのよ」

「だからって、駆け落ちまでするかな?」

「したのよ」

「それはいつのこと?」

「78年よ」とジェシカは言ってから、妹が話に付いてくるのを待つように間を開けた。

「そうすると、それって...」

「そう、私が生まれた年よ。ママはその時、妊娠5ヶ月だったの。だから急いで結婚式を挙げたんでしょうね。パパは妊娠を知るとすぐにプロポーズしたんだって。でも、両親には妊娠を隠してた。まだ若かったから。ママは19歳になったばかりだった。パパはおじいちゃんに、結婚させてくださいってお願いしたんだけど、カンカンに怒られちゃったみたい。それで二人で駆け落ちして、ここで式を挙げたの」

「あの写真は? ママはたしかお腹が出てなかったよね」

「テレビの上の?」ジェシカが尋ねると、カースティは頷いた。「あれは私が生後3ヶ月の時に撮ったものよ。おばあちゃんとおじいちゃんは、ママが結婚したのを知った時も、パパと会うのを拒否したそうだけど、私が生まれてからは、再び話をするようになったみたい。地元の牧師に改めて祝福してもらう、という条件付きでね。〈ボウルズ・クラブ〉の芝生の庭で、くだらない披露宴をやって、それでおしまい。だから、あの写真以外はないのよ」

「なんてこと」

カースティが処理しきれない情報をなんとか咀嚼している間、ジェシカは自分の中で最も古い記憶を思い起こしていた。

ブライトンのレインズ通り近くの共同住宅の記憶だった。今でこそ、あそこは家賃の高い物件になっているけど、当時は風通しが悪く、夏は湿気に、冬は寒さに悩まされる建物で、ジェリーの職人としての腕前があったからこそ、どうにか住めるくらいにはなっていった。ヘリンボーンの床は、彼の手によりカーペットが被せられ、壁紙が取り除かれ、壁はパイン材で覆われた。合成樹脂でできた茶色いキッチンを彼女は覚えている。消毒液の臭いがして、埃っぽかった。

あそこには3年間住んでいた。大家さんが所有する他の物件に関しても、ジェリーが同様の内装工事を請け負うことによって、家賃を安く、工事がかさんだ月は家賃をゼロにしてもらっていたそうだ。そうやって貯めたお金で、彼とスーは自分たちの家を買った。ジェリーは口癖のように、お金が貯まったらワトフォードに帰るぞ、と言っていた。スーの両親や友人たちの冷ややかな目から逃れるために、彼の地元で暮らす計画だったのだ。しかし、スーがパトリックを妊娠した頃には、彼らは南海岸の町に根を下ろしていた。ジェリーは、ワトフォード訛り(テムズ川の河口周辺の方言に、ロンドンの労働者階級の訛りを混ぜたようなアクセント)を、あえて直そうとはしなかったし、幼い頃から応援してきたサッカーチームへの熱烈な愛情も、頑なに抱き続けた。それでも彼の故郷は、その頃にはすっかり海岸の町になっていた。

カドガン夫妻は、パトリックが生まれる2ヶ月前にギャントン通りの邸宅に移り住み、そのままそこに住み続けることとなった。買った当時は、水道が使えるかどうかもわからないような、ボロボロの家だったそうで、その後数年かけて、ジェリーは手間暇かけてあの家を住めるように改築していった。そしてカースティが生まれる頃には、あの家は完成形に至り、子供たちがあちこちを壊し出すまでの少なくとも数年間は、完成形を保っていた。

「何も言ってくれなかったなんて信じられない」

「私はあなたが知ってるとばかり思ってたけどね」

「そういえばママはよく、結婚式のことはあまり覚えてないとか言ってた。あの頃は結婚式なんて大したイベントじゃなかったって」

「それはそうでしょうね。今だって結婚式なんて大したイベントじゃないわ。私は一応その時そこにいたから、私には知る権利があると思ったんじゃない? それで私にだけ話したのかもしれない」

その時、パトリックが車内に戻ってきた。全身ずぶ濡れで、手はタイヤの汚れと油にまみれ、真っ黒になっていた。ジェシカはカースティが動揺しているのがわかった。大人になってからのほとんどの時間を両親の一番近くで過ごし、ずっと心配し、世話をしてきたつもりだったのに、両親に裏切られたと感じているのかもしれない。

「じゃあ、もういいのね?」とジェシカが聞いた。

「もう無理だ」と彼は怒ったように言い捨て、蛇口をひねると、手についた落ちそうもない汚れを洗い出した。

「何が?」

「RACか、この辺りの修理工を呼んでくれ。完全に足止めだよ。この道路を横切って、パンクしたまま縁石に乗り上げた衝撃で、車輪がめちゃくちゃに曲がってるんだ。俺は素手で直そうとしちゃったものだから」と彼は言いながら、こちらに向き直り、所々赤くなって少し血もにじんでいる手のひらを見せてきた。

「ほんとだ」とカースティが穏やかな口調で言った。「じゃあ、誰かに電話して直してもらうしかないわね。タイヤを変えてもらわなきゃ」

「タイヤを変えるどころの話じゃないよ、カースティ。車輪が壊れてるんだ。ホイールがくにゃって曲がっちゃって、車軸から外れないんだよ」

パトリックの話を聞いて、ジェシカが慌て始めた。ここで過ごす時間が長くなればなるほど、今日中にフェリーに乗れる可能性はますます低くなる。家族や自分の人生から離れている日数が、もう1日延びることになってしまう。これ以上こんな馬鹿げた旅に、無駄に時間を費やしてはいられない。

「ダメ」と彼女は言った。パトリックが修理工を呼ぼうと、携帯を耳に当てたところだった。

「ダメってどうしたの? ジェシ。パトリックがやっても車輪を外せないんだったら、誰かを呼ぶしかないでしょ」

「無理ってこと。ここで何時間も待つのは嫌だっていう意味。絶対にもう嫌だ。もし今晩のフェリーに乗り遅れたら、私はもう降りるわ」

「明日の朝のフェリーに乗ればいいだけじゃない。理想的とは言えないけど、港で一晩過ごせるし、パブか何かのお店に入って、ゆっくりしましょうよ」

「いやよ!」と彼女がキレた。「カースティ、私は嫌だって言ってるの。もし今日中にフェリーに乗れなかったら、私を降ろしてちょうだい...エディンバラ空港かどこかで」

「エディンバラ空港は逆側だよ、東海岸。こっちは西海岸」とパトリックが言った。

「逆側だっていいじゃない。グラスゴーでもダンディーでも、何ならアバディーンまで行っちゃってもいいわ。どこだって構わない。この旅が予定より長くなることは絶対にないって言ってるの。じゃあ、こうしましょ。この近くの海岸で、海が見えたら遺灰を撒く。それで問題ないでしょ」

「ジェシ!」とカースティが言った。「パパがポートエレンの海岸って指定したのよ。どこでもいいから撒けばいいってわけじゃないでしょ。それとも、あなたにはどうでもいいのかしら? そして、ちゃんと使命は果たしたって言い張って、カドガン家の嘘の山に、また一つ嘘を積み重ねるんだ?」

「同じ海でしょ、カースティ。海は全部つながってるのよ」

「ああそうね。じゃあ、太平洋かインド洋にばら撒けばいいじゃない。それか、家族と一緒に地中海へ旅行に行ったついでに、撒いてくればよかったじゃない。全部同じ海なんでしょ?」

「ふざけたこと言わないで、カースティ」

「わがままばっかり言うな、バカジェシカ」

「もういい!」とパトリックが怒鳴った。


パトリック


彼はタイヤ交換を試みている最中、開いた助手席の窓から彼女たちの話を聞いていた。ホイールを車軸に固定しているボルトの1本をどうにか緩めようと、全身の力を指先に注ぎ込んでいる合間も、彼の意識は車内から聞こえてくる会話の断片に注がれていた。

彼女たちが両親の結婚の真相について話している時でさえ、もうすぐ沸点を超え、口論に発展するだろうな、と予期していた。

「バカな言い合いはやめろ」と、彼は二人に苛立ちをぶつけた。

「彼女に言ってよ」とカースティが言った。

「それはこっちの台詞よ」とジェシカが煽った。

「二人ともだよ! まったく、いつになったら終わるんだ? 2分くらいはまともに話してたと思ったら、もうこれだ」

「彼女が―」

「いいから黙れ。そして大人になれ」と彼は声を張った。

パトリックは現在の状況に対して声を張り上げた。でも本当は、これまでの20年間いつだって、そう言えたはずなんだ。

ジェシカとカースティの間には、常にピリピリとした緊張感が漂っていた。長女の知恵と、末っ子の特権がぶつかり合っていたのだが、ほとんどの場合、二人はそれを表面下に隠していた。しかしカースティがことさら、自分だけブライトンに残って親の世話をしていることや、故郷を離れ、それぞれの道を歩み出したあなたたちより、家族に対して忠誠心があることを強調した時には、緊張の糸がぷつりと切れ、口論が勃発するのだ。あるいは逆に、ジェシカが過度にわがままな態度をとった時や、過度に感傷モードに入った時も同様だった。

二人の間で些細なことから始まる口論や、どちらが上かという争いが、いつしか事実そのものよりも重要視されるようになったことに、パトリックは我慢がならなかった。本当に大切なものが何なのか、今ではもうぼやけてしまって見えにくい。

母親が亡くなった時、罪悪感にさいなまれたカースティは、悲嘆にくれ、卵を茹でたり、簡単な料理をすることもままならなくなってしまった父親の世話をすることに、多くの時間を割(さ)いた。そして父親が亡くなると、どちらがより多くの家事をこなせるか、二人は競うようになり、この旅自体も消耗戦になりつつあった。二人のうちどちらが父親のリクエストを成就(じょうじゅ)させるか、競(せ)り合っているのだ。

「馬鹿馬鹿しい」とジェシカが言った。誰かにというより、自分に向けて言ったようだった。彼女はテーブルに手をつけ、立ち上がると、自分の寝台へ向かった。

数年前から、二人は口論が起きそうになると、お互いにしばらく距離を置くようになった。それぞれのパートナーにうっぷんを発散することで、気を紛らすことを学んだのだ。パトリックにぶちまけてくることもあった。パトリックはどちらから相談を持ちかけられても、常に同意することにしていた。これ以上の衝突を避けるためには全てを肯定するしかない。その後、彼女たちは普段は友好的に振る舞うようになった。仲の良い友達同士の雰囲気すらあった。しかし今は、友達という仮面もはがれ、二人を結び付けられるのは、家族という絆だけだ。

カースティはテーブルの上でiPhoneに指を滑らせ、周りの世界に目もくれずにいる。彼は二人の親になった気分だった。自分の娘にも感じたことのない感覚で、ジェシカとカースティが10代の若者に見え、二人をたしなめた直後の親父に成り代わったようだった。彼の本当の娘はまだ小学校にも行っていない。対して、二人の姉妹はすっかり成人している。それなのに、彼女たちの間にできた溝を自分が埋めようとしていることに気づき、よりいっそう不思議な気持ちになった。

彼はテーブルに向かって座り、赤い釣り具箱を手に取った。彼が蓋を開けると、カースティは心配そうな顔をした。

「今は開けちゃだめよ」と彼女が言った。「足止めされてるからといって—」

彼女を無視し、彼は最初のアルバムを取り出した。昨夜三人で見ていたアルバムだ。海辺の防波堤に座る4人が写った写真のあるページを開く。

左端にカースティがいて、緑の花柄のスカートにトレーナー、中にはピンクのTシャツを着ている。その隣にはパトリックがいて、いつものように〈ワトフォード〉の黄色いユニフォーム型シャツに、デニムのショートパンツという格好だ。その隣のジェシカは、長い髪が風になびき、顔の大部分が隠れている。そして右端に、アンドリューがいた。

「俺たちは話さなければならない。彼について。この機会にちゃんと、正直に思っていることを言うんだ」

カーテンの向こうで聞いていたジェシカが、ここぞとばかりに寝台から顔を出した。

「今さら何言ってるの? 彼が出て行ってから何年経つのよ、もう話し合うことなんて残ってないでしょ」

「彼がどこにいるかについては話し合った。彼が何を考えているのか、についても話し合った。でも、なぜあんなことが起きたのかについては、一切話し合ってこなかったじゃないか。なぜ彼は俺たちのもとを去ったのかってことだよ。無意識のうちにであっても、俺たちはいったい何をしたのか、そして」そこでカースティが再び口を挟もうとしたが、彼は強引に続けた。「今、俺たちがそれについてどう思っているか、一度も話したことがないだろ」

「あなたは何様なの? カウンセラーか何か?」と、ジェシカが背後から苦々しげに言った。

「いいから聞け、ジェシカ。お前がこの旅を途中で離脱して帰るというのなら、せめて今、何かを得ようとすべきじゃないか?」

ジェシカがしぶしぶながらも寝台から降りてきて、テーブルに加わったのを見届けてから、彼はアルバムのページを覆っているセロファンをはがした。4人が揃って写っている写真を手に取り、テーブルの上に置く。

「なんだかあの時と同じ気持ち」とカースティが言った。

「それはどういう?」

「悲しい気持ち、かな。彼のことが心配で」

「罪悪感はないのか?」と彼は聞いた。「彼が出て行くのを止めるために、何かできたかもしれないって思ったことはないのか?」

「パトリック。彼はパパの事業資金の半分をギャンブルで溶かしたのよ。問題があったのは彼の方。そのことで私たちが罪悪感を感じたって仕方ないでしょ」

「彼は俺たちに助けを求めてきたじゃないか」

「パパは彼に仕事を与えたじゃない。事務所の経営を彼に任せて、そしたら、1年も経たないうちに彼は自己破産。事業をほとんどダメにしちゃって、ママとパパは慌ててあの家を抵当に入れて銀行からお金を借りて、なんとか廃業は免れたけど、あれからパパはまた、フルタイムで働かなくちゃならなくなって、きっとパパの病気もそのせい―」

「それ以上言うな、カースティ。それとこれとは関係ないだろ。親父は肝臓がんだったんだ」

「私が言いたいのは、ストレスが体に何かいい影響を与えるの? ってことよ」

「俺は、その2つに因果関係があるとは思えないって言ってるんだ。そりゃ、親父がまた事務所の経営を一手に担うことになったのは、不運が重なったのかもな...病気もひそかに進行中だったんだろうから。けど、俺たちだってもっと何かできたはずだろ」

彼女はそれについて少し考えているようだった。あるいは、ギャントン通りの実家での、あの時の家族会議を思い出しているのかもしれない。アンドリューは、失踪する数ヶ月前、俺たちを実家に集めた。ビジネスがまずい状況に陥っていることを打ち明け、家族に救いを求めたのだ。

彼女は「ギャンブル」という言葉を使ったが、アンドリューの場合、その言葉はぴったり当てはまらないかもしれない。彼にも少しは被害者という側面があったのだ。軍隊時代に知り合った友人からアドバイスを受けつつ、彼はさまざまな投資やファンドに資金を突っ込んでいった。アンドリューが退役して間もなく、そいつもアンドリューを追うようにして軍隊を辞めたそうで、今はロンドンの金融街で働いているという。そいつのアドバイスが全面的に悪かったと言いたいわけではなく、アンドリューにも不運が重なったということだろう。彼が資金を動かしている間に、なぜか金融危機がこの国を直撃し、この国の経済全体が停滞してしまったのだ。そんな時期にもかかわらず、彼は、こっちがダメならあっち、という風に、次々と投資先を変えていった。半分やけになっていたのだろう。まるでドッグレースで生計を立てようと意地になって賭けまくる、やばい男みたいに。

パトリックはあの日の会話を、まるで今朝の出来事のようにはっきりと覚えている。


「どうしてそんな?」と、ジェリー・カドガンが悲しそうな声でアンドリューに聞いた。「前回が最後じゃなかったのか?」

アンドリューは少しの間、逡巡(しゅんじゅん)しているようだった。ジェリーが言及したのは、2年前、アンドリューが悔恨(かいこん)の表情を浮かべ、両親の元へお金の工面を頼みに来た時のことだ。彼は軍隊を辞めた後、ある仕事に就いたのだが、3ヶ月も経たないうちに辞めてしまい、それからはニートのような暮らしをしていた。そんな彼を見るに見兼ねて、ジェリーとスーは彼に仕事を与えることにした。

パトリックと違って、彼は昔から家業にほとんど興味を示さなかった。そこで彼らの提案は、まず1年間、父親の付き人として〈カドガン・ファミリー・建築士事務所〉の経営面を学ぶ。それから数ヶ月、経理や給与計算といったマーケティングの面を母親から学ぶ、というものだった。そうして、彼は事務所の商業的な面を引き継ぐことになったのだ。引き継いだといっても、1年かそこらでポシャってしまったのだが。

「父さん、僕は稼げないんだ」と、彼はむせび泣き、しゃくり上げながら言った。ジェリーがアンドリューのために注いだウィスキーには、まったく手を付けていない。ジェリーは大きな失望と、それと同じくらい大きな愛情をもって息子を見つめていた。「商売がうまくいかないんだ。基本的なことはやってるつもりなんだけど、それ以外は、もう手が付けられない。だから―」

「なんてこった、アンドリュー」と、ジェリーは自嘲ぎみに言った。

「頑張ったんだ。本当に頑張ってはみたんだけど」

「あなたは会社のお金をギャンブルに使ったのよ」とスーが割って入った。「大金がすっかり消えたの、わかってる? アンドリュー。たくさんの人がうちの会社のために働いてるの。その人たちに給料を払わなければならないのに、あなたのせいで払えなくなりそうなんだからね」

「それは何とかなるさ」と、ジェリーが横から妻をなだめた。

「ギャンブルじゃないよ、ママ」とアンドリューが言った。「もちろんリスクはあるけど―」

「いい加減にしろ、アンドリュー。それをギャンブルっていうんだ」とパトリックが怒鳴った。カースティとジェシカもその場にいたが、二人とも口を開かなかった。「会社の資金をハイリスクな投資に突っ込むなんて、ふざけた真似を」

「みんなそうやって稼ごうとしてるんだよ」とアンドリューが懇願するように言った。「グラハムが言うには―」

「グラハムのことは忘れろ」とジェリーが言った。「今度あいつに会ったら、俺があいつの頭を引きちぎってやる」

「どれくらい必要なの?」とジェシカが、父親よりもだいぶ落ち着いた口調で聞いた。

少しの沈黙の後、アンドリューが再び口を開いた。

「2万」と、彼は伏し目がちにつぶやいた。「もうちょっと必要かな。今、ある仕事の見積もりをしていて...ちょうど2万ポンド(約323万円)くらいあれば」

重い沈黙がテーブルに降りてきた。パトリックには、その沈黙が何世代にも渡っていつまでも続くように思えた。窓から見える庭の温室で、これからはやばい薬草を育てて販売し、その売り上げを家業の財源に当てよう、とでもアンドリューが提案しているのではないか、そんな錯覚に陥りそうになる。沈黙を打ち破ったのはカースティだった。

「まさか本気じゃないでしょ? ねえ、アンドリュー。本気なわけないわよね?」

再び沈黙が舞い降りた。

「誰がそんな大金を持ち合わせてるっていうの? バカじゃないの、想像を絶するバカね」

「今持ち合わせてるとは思ってないけど...」

「なるほど。そうやって泣き崩しみたいに、みんながそれぞれせっせと貯めた貯金を引き出そうって魂胆(こんたん)ね。可哀想なあなたを救済するために」

「ビジネスだよ。僕のためじゃない。僕は自分で道を切りひらいていくよ。これは家業のために仕方ないことなんだ」

「アンドリュー、私はもうすぐ大学に行くの。学費で3万ポンドくらい必要になるんだから。パトリックは自分で仕事を始めて手一杯だし、ジェシには小さな子供が2人もいる。誰がそんな大金を出せるっていうの?」

「お前には期待してないよ」

「じゃあ、どうして私まで呼んだのよ?」

「家業のことだし、みんなで話し合った方がいいと思って。若いから発言権がない、ってことはないだろ」

「ずいぶん上から目線な言い草じゃない?」と彼女が半分立ち上がって、逆に上から目線でアンドリューを見下ろして言った。この発言をきっかけに、非難の応酬が始まった。四方八方から、「無責任」だの、「愚か」だの、「破産」がどうこうといった罵声が飛び交い、しっちゃかめっちゃかな喧騒(けんそう)が巻き起こった。パトリックはなんとか意味のある発言をとらえようと耳を澄ませたが、無理だった。アンドリューの声だけがまったく聞こえないことに気づき、彼の方を見ると、彼は喧騒の中で黙ったまま、兄をじっと見つめていた。その眼差しには、後悔とあきらめが滲んでいた。最終的に、ジェリーが「やめろ!」と叫んでその場を収め、全員をそれぞれの家に帰らせた。


あの時だったのだろうか? と、パトリックは当時のことを思い返していた。アンドリューがもうこの家族の一員ではないと腹を決め、出て行こうと決断したのは、まさにあの瞬間だったのだろうか。

案の定、ジェリーは彼にお金を渡そうと考えていた。数日後、息子に向かって彼は言った。「家を担保にして、その金でビジネスを立て直そう」と。そしてこう付け加えた。「もしこの金をお前自身の問題を解決するために使おうというのなら、お前はもう家族の一員ではない」とも。ただ、ジェリー・カドカンがその悪い知らせを伝えるよりも前に、アンドリューはすでに、出て行こう、と腹をくくっていたのかもしれない。

パトリックはこの10年、何度も繰り返し、あの時の彼を、あの瞬間の彼の表情を思い返していた。あまりにも繰り返し脳内再生していたゆえに、逆にその記憶がどこまで正確なものなのかがわからなくなってきた。あの時、アンドリューは微笑んでいただろうか? 涙を浮かべていただろうか? あるいは、もうこの家族は終わりだ、もうみんなが知ってる昔の家族ではない、と嘆くように首を振っていたのだろうか?

もしくは、ただ黙ってそこに座り、ごたごたの発信源は自分だというのに、周りで家族が言い争うのを彼は静観していた。そんな混乱の中にあっても、みんながそれぞれに家族の中の役割をしっかりと務めていた。ジェリーは家父長的な威厳を持って発言していたし、スーは家族の全員が平等に発言できるようにと配慮していたし、ジェシカは自分の人生のためになりそうなことは何でも取り入れようという心構えで振る舞っていたし、カースティは自己防衛にことさら躍起になり、理屈っぽく議論していた。

いったい何が起きていたのか、真実は一つしかない。それなのに、まるで俳優の〈過去の出演作ダイジェスト映像〉みたいに、いくつものバージョンがパトリックの脳内に去来するのだった。アンドリューが失踪してからというもの、何をしていても、罪悪感がつきまとった。あの時、何か悪いことが起こる、という予感はあった。こうなることはわかっていたのに、俺は何もしなかったのだ。結局のところ、アンドリューのことを、家族の誰よりも理解していたのは俺だった。そうだろう?

「じゃあ、どうしたらよかったの?」とカースティが言った。「私たちに何ができたっていうの? 私は19歳だったのよ」

「たぶん、お前じゃない」と彼は言った。「わからないけど、俺だ。俺が彼と話をするべきだったんだ。そうすれば、彼を救えたかもしれない」

「あなたにもそんな余裕なかったでしょ―」

「金のことだけを言ってるんじゃない、カースティ」とパトリックが、彼女の発言が終わらないうちに言った。「彼は俺たちの誰かから、思いやりを求めていたんだ。だけど誰も、それを差し出してやらなかった。みんなで彼を責めて、怒鳴って、彼のせいだとわめき散らした」

「それはそうだけど」と、ジェシカがゆっくりと熟考しながら言った。「でも彼のせいでしょ。彼が嘘をついたのよ。もしもっと前に彼が助けを求めてきていれば、私たちだって手を差し伸べていたでしょうね」

「『あんたの馬鹿な行いのせいでめちゃくちゃじゃない』」とパトリックが、ジェシカの言い方を真似て言った。「まさにあの時、君が言った台詞だ。覚えてるだろ? 君がアンドリューに言い放ったんだ」

「よしてよ、パトリック。今になってそんなこと言われても」

「君が言ったことだろ」

「私だって後悔してるわよ! これだけ時間が経てば...いろいろ状況だって違ってくる。っていうか、あなたはアンドリューを買いかぶり過ぎてるのよね。彼はとても壊滅的な人間なのよ。失踪したって、どこへ行ったって、彼がどういう人間かは変わらないでしょうね」

パトリックは反論しようとしたが、できないことはわかっていた。説得力もないし、正当性のある事例を持ち出すこともできない。軍を去った後、アンドリューは問題を次から次へと背負い込むようになった。彼の中で痛みはふくらむ一方で、彼は内側で誰にも届かない悲鳴を上げていた。21歳の時、彼は飲酒運転で捕まった。夜の街をほっつき歩いては喧嘩をし、また逮捕。朝方、パトリックが迎えに行くと、酔っ払い専用の監獄で彼はうずくまっていた。すべては彼の自傷行為のようだった。みんなが彼を曲解していた。どちらかといえば物静かで、根は優しい人間だと、家族はわかっていたはずなのに。

そして、もっと大きなこともあった。アンドリューがパトリックだけに打ち明けた、まだ誰にも言っていない秘密があったのだ。

「メルが妊娠したんだ」と彼は言った。ブライトンのパブ〈キングス・アームズ〉で、二人でギネス・ビールを飲んでいる時だった。「金曜日におろす。誰かに知ってほしくてね」

アンドリューはビールを一口飲んで、この話題を打ち切った。パトリックは、彼からもっと話を聞き出そうと、あれこれつついてみた。彼はそのことをどう思っているのか、その決断が下された時、彼はどういう態度をとったのか。しかし、「さあ」、「わからない」、「まあそうだね」といった返事ばかりで、アンドリューがこの件に関してこれ以上何も言うつもりはないことだけはわかった。メルは、アンドリューの人生を支えてきた唯一の存在だった。大学進学でブライトンにやって来て、街で彼と出会ったらしい。北部地方出身の素敵な女性だった。

堕胎手術から2ヶ月後、彼らは別れてしまった。

「わかってる」とパトリックは、ジェシカを見上げながら言った。彼はいっその事、すべてを話してしまおうかと思った。けれど、今がそのタイミングだろうか? こんな不安定な状況で話すべきことだろうか?

「俺たちの誰かが何かできたんじゃないかって今も思うんだ。彼が去ってしまう前に」


ジェシカ


やるせない表情の弟が椅子から立ち上がり、冷蔵庫を開けるのを彼女は見ていた。彼は缶ビールを取り出し、リングを勢い良く引くと、ごくごくと飲み始め、すぐに口の周りがビールの泡であふれた。

「このあと運転するんじゃないの?」とカースティが、いぶかしそうに聞いた。「スコットランドのトロサックス国立公園に着いたら飲むぞって、さっき言ってなかった?」

「もうトロサックスなんてどうでもいい」と彼は言った。「とにかく1杯飲まなきゃいられない」

ジェシカは舌の先まで出かかったことを口に出すべきかどうか悩んでいた。今こそ正直に胸のうちを明かす時だと思った。父親は娘と息子が償いをすることを望んでいる。その父親の思いに向けて、少なくとも何らかの反応は示すべきじゃないか。私たちは過去の清算を始めなければならない。このままでは、いつまで経っても過去からの湧き水はあふれ続ける。

「あの辺りを運転するには、シャキッとした頭じゃないとダメでしょ。地図によると、かなり曲がりくねった山道よ」

「じゃあ、お前が運転しろよ。シフトを入れ替えればいい」

「パトリック、そういう問題じゃないの」

アンドリューのことを話そうという彼の主張は、一応の成功をもたらし、それぞれが過去を顧みて、因果関係について思いを巡らせることにはつながった。けれど、誰も結論にはたどり着かなかった。彼がなぜ去ったのか、確かなことは誰にもわからなかったし、今彼がどこにいるのかについては見当もつかなかった。

ジェシカは釣り具箱の中に手を入れ、2冊目のアルバムを取り出した。少し埃をかぶって、へこんではいるが、パスポートのような赤色をしたアルバムだった。

「まだダメって言ったでしょ」とカースティが言った。

「そうだったわね。でも、誰かが来てくれるまでしばらくここにいることになりそうだし、それに、キャンプ場に着く頃にはもう疲れ切っちゃって、アルバムどころじゃないわ。朦朧(もうろう)としながら見てもしょうがないでしょ」

「ジェシ」

「彼女の言うとおりだ」とパトリックが言った。「業者の人がここに到着するまで2時間かかると言われた。もっとかもしれない。ここでアルバムを開いた方がよさそうだ。それとも他に話すことでもあるのか?」

「それじゃ、あなたはこの旅を続けるつもりなのね?」とカースティが聞いた。「遺灰をその辺のどぶ川に捨てるんじゃなかったの?」

「カースティ」と、パトリックがたしなめるように言った。

彼女は、わかったわよ、といった表情で折れた。ジェシカがアルバムを3人の中心に置き、再び電気ケトルのスイッチを入れた。表紙をめくると、最初のページに写真が2枚あった。低いレンガ壁を背に家族全員が並んでいる写真と、もう1枚は、パトリックとアンドリューが二人して釣り竿を持っている写真だった。


2000年6月 — フランス・ロワール渓谷、バズージュ・シュル・ル・ロワール


あの家族旅行は、ジェシカの大学卒業を祝って企画されたものだった。彼女は22歳で、ロンドン大学で3年間英文学を学び、さらに1年間、カナダのバンクーバー島にあるビクトリア大学で交換留学生として学んだ。

控えめに言っても、カナダとロンドンでの体験がジェシカを変えたのは間違いない。本好きでためらいがちだった少女は、ロンドンのホルボーン地区でルームシェアを経験し、カナダにも留学して、4年後、父親の運転する〈トランジット〉の荷台に荷物を詰め込んで、助手席に乗り込み、ブライトンに帰ってきたわけだが、なんとスタイリッシュで都会的なタイプに変身していたのだ。アメリカンなラップ調の表現をふんだんに使いこなし、出版社や音楽業界に就職した友人たちとも積極的に交流を続けることで、音楽や文学の最先端に身を置いていた。インターネットの創生期にあって、彼女はすでに電子メールを使って彼ら全員と連絡を取り合っていた。(「ビジネスに役立つから」と聞こえがいいことを言って両親を説得し、実家に導入したのだ。当時はダイアルアップモデムを使っての接続で、画像もじわじわと表示されるという辛抱強さを鍛えられる通信速度だった。)

フランス旅行では1週間コテージを借りて、そこで過ごしていた。その家は広い庭付きで、ジェシカはほとんどの時間を庭の椅子に座り、アレックス・ガーランドの、読み古して表紙の傷んだ『ザ・ビーチ』を読みふけっていた。その本を読んでいると、彼女は無性にタイへ旅行に行きたくなってきた。半年後、その年の暮れに友人の3人がタイ旅行を計画していることを思い出し、それに参加したくなったのだが、もしかしたらその時期、大手出版社の〈ペンギン・ブックス〉でインターンシップに参加できるかもしれなかった。給料はもらえないが、もう一度ロンドンに進出するチャンスでもある。本を読みながら、〈ディスクマン〉というポータブルCDプレーヤーのイヤホンを耳に突っ込み、彼女はジェフ・バックリィのアルバム『グレース』を聴いていた。以前は彼の曲を半分くらいは知っていて、まあまあ好きという程度だったのだが、ボーイフレンドのピーターに勧められ、さらに多くの曲を聴き込んでいた。彼は経済学部の学生で、シンガーソングライターとして成功することを決意しつつ、アメリカの政治にも並々ならぬ関心があるらしく、そういったことをジェシカに熱く語ってみせる男だった。

「10分後にランチが出来上がるわよ」スーが暗いキッチンに続く小さな木製のドアを開いて、外へ声をかけた。ジェシカはページの端を折りたたみ、顔を上げた。ちょうど妹が、水着から水をしたたらせながらプールから上がるところだった。ジェシカはその姿を見届けると、デッキチェアにあおむけに寝そべった。

そのコテージは今にも崩れ落ちそうな、おんぼろ小屋だった。周りにも同じような小屋がいくつか集まっていて、それらの中心に、同じくおんぼろのひときわ大きな邸宅がそびえ立っていた。所有者は一風変わった女性で、彼女自身の話によると、彼女は1970年代、『ヴォーグ』のモデルになろうと意を決して、ロサンゼルスからパリに渡ったが、結局はシェフとして成功したのだという。彼女は夏の数ヶ月間、この邸宅を貸し出すことで臨時収入を得ているそうだ。

ジェリーは様々な家の補修工事をしながら、「1週間ほど家族みんなで過ごせるくらい広々としていて、しかも格安な貸家はないか」と聞いて回っていたところ、クライアントの一人からこの邸宅の情報を得たのがきっかけだった。ここの最大の魅力は、カドガン一家それぞれのメンバーが別々のコテージで思い思いに過ごせることで、夕方には共有の庭やキッチンにみんなで集まれることだった。暖房がないこと、それからネズミが多いことは少し不満だったが、家賃の安さを照らし合わせて考えると、それらの欠点は目をつぶることにした。

ジェシカはジェフ・バックリィのアルバムを3曲飛ばして、中でも一番好きな『ハレルヤ』を聴き始めた。しかし彼女はそのことをピーターには決して言わないことにしていた。彼にしてみれば、『ハレルヤ』が一番好きとか、ありきたりすぎて鼻で笑われるのが目に見えていたし、『ハレルヤ』なら、レナード・コーエンのバージョンの方が断然いいから、と、またあの渋い歌声を聴くように強要されるだけだから。

「俺は噂で耳にした、ふふふーーん」と彼女はジェフ・バックリィの歌声に合わせて、口ずさんでいた。実際の彼女の歌声は、どんよりとくぐもっていたが、ジェシカの頭の中では、綺麗に澄んだ歌声が天に舞い昇っていった。

カースティがやってきて、隣のサンベッドに寝そべった。彼女はまだ11歳という多感な年頃で、姉みたいになりたい、とジェシカを尊敬していた。ジェシカはそんなカースティに、10代の楽しい世界をそれとなく吹き込んでいた。たまに夕食時にちょっとワインに口をつけるところを見せつけたり、ボーイフレンドの話や、セックスの危険性について話して聞かせたりしていた。妹を守りたい気持ちもあったが、同時に、カースティが13歳になった時、当時の自分よりも少し経験豊かで、いろんな知識もある女の子に仕立て上げることができるんだ、という自覚もあった。

ジェシカは微笑みながら目を閉じ、数分間リラックスしていたのだが、ガタガタとでこぼこの地面を、泥除けを揺らしながら走る自転車の音が近づいてきて、アルバムへの集中が途切れた。ちょうど『ハレルヤ』が終わったところで、一瞬の無音の後、ひずませたギターリフが勢いよく流れ出し、猫が威嚇(いかく)するような声で、ジェフが次の曲を歌い出した。この曲を好きなふりをしないといけないかも、と彼女は思いながら、自転車の音から音楽に意識を集中させた。彼女は『ハレルヤ』の方が断然好きだったのだが、今度ピーターに会った時、またこのアルバムの分析的すぎるうんちくを聞かされたあげく、この曲よかっただろ? と聞かれることがわかっていた。

自転車を押して、アンドリューが先に門をくぐってきた。カゴの中には、半分食べたらしいフランスパンと、使い古して傷んだエナメル生地の鞄、そしてTシャツが入っていた。ジェリーもすぐ後から敷地内に入ってきた。2本の釣り竿と、赤い釣り具箱を持っている。1年前、アンドリューが父にプレゼントした釣り具箱だった。アンドリューは最近では、土曜日に近くのパブまで父親についていくようになっていた。ジェリーの自転車のカゴには、空のビール瓶が入っていて、カチャカチャと音を立てていた。彼が3、4本、おそらくアンドリューも1本、飲んできたようだ。

「何かつかまえたか?」とパトリックが、新聞から顔を上げて言った。町の小さな店で買ってきた昨日の『デイリー・ミラー』を一丁前に読んでいたのだ。

「スズキが何匹か」とジェリーが言った。「鯉がかかったと思ったんだけどな、ビチャビチャと暴れて逃げられちまった。今度はお前も来るだろ?」

「たぶんね」

「1日前に起きたことを見てるより、ずっといいぞ。古いニュースだろ、そんなの」

「情報に追いつこうとしてるんだよ。っていうか、ロワール渓谷に行くのなら、俺も行くって言っただろ。ボートか何かを買ってさ」

「お前はどうする?」とジェリーは言って、ジェシカを見下ろした。彼女はデッキチェアに寝そべって、赤の〈Nokia 3210〉を指で叩いている。まだ画面が小さくて、液晶の文字しか表示されない携帯電話だったが、大方、ボーイフレンドとメールでもしているのだろう。

「釣り?」と彼女が言った。父親から急に、スカイダイビングでもするか? と誘われたかのような反応だった。

「そうだ、あそこはいいところだぞ。湖の静けさ、緑の木々に囲まれて、鳥のさえずりに耳を澄ます。大きな古いオランジュリーもあるんだ。昔はあの温室でオレンジを栽培してたんだろうけど、今はがらんどうだ。いい感じに改装すれば、何かの会場になるのにな」

「こうしている間も時間がもったいないから、何か仕事に自分を売り込もうとしてるのよ、パパ」と彼女は笑顔で言ったが、画面を見たまま、作成中のメッセージから目を上げなかった。

「俺は昔から働き詰めだ。お前らに愛情を注ぎすぎて、干からびそうだよ」

ジェリーは自転車を壁に立てかけ、その横に釣り竿を置いた。そして、パトリックが日光浴を楽しんでいる長椅子の端に腰を下ろした。「お前はそうやって、俺が稼いだ金を大西洋に流してるんだ。ロンドンに何度も何度もメールを送って」と、彼はジェシカに言った。彼女のボーイフレンドがロンドンではなく、英国のどこか別の場所に住んでいれば、通信料はもっと安くなるとでも言いたげな口調だった。「1通3ポンドだぞ」

「3ポンドもしないわ」

「そうか、じゃあ請求書が届いても、俺のところに持ってくるなよ。血まみれの大惨事になりかねない」

「パパの愛情で回避できるでしょ」

「いいや」と、ジェリーは冗談めかしつつも、きっぱり言うと、長椅子から立ち上がり、屋内へと入っていった。

ジェシカは昨日の口論を思い出していた。出発前に2回ほど、ピーターのことで両親ともめたのだ。彼女はこの旅行にピーターも連れて来ると言い張ったのだが、これはあくまでも家族旅行なんだ、と諭(さと)された。―家族全員で遠出するのは最後になるだろうから。カドガン家の年長組はもうすぐ、親と旅行なんて行かない、という年頃に達する。その前に、いわば最後の記念として、家族水入らずで過ごしたいんだ、と。






藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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