『帰り道にて』4
『The Way Back』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2021年07月09日~)
シュノンソー城の敷地内を散策している間、カースティはジェシカの携帯電話で延々と〈スネーク・ゲーム〉をしていた。中庭のカフェで飲み物でも飲もうということになった時、ジェシカの携帯電話は充電が切れてしまった。それがきっかけとなり、いつものいざこざが始まった。
「充電しておけばよかったのに」とスーが言った。ジェリーはカウンターで、6杯分の50ユーロほどを支払っているところだった。
「私が普通に使ってる分にはそんなにすぐ切れないわ。ていうか、なんであんたはこんなところまで来て、ゲームばっかしてんのよ?」
「退屈だったから」と、カースティは弁解するように言った。
「まったくもう。これでピーターからメールが来ても、私は気づかないままね」
「こんなところでやめなさい」と、スーが声を抑えつつ言った。そこへジェリーが、コーヒー3杯、コーラ2杯、アイスティー1杯を載せたトレーを持って戻ってきた。
「ここも紅茶はないんだとよ」と彼が言った。「またクソまずいアイスティーを買うはめになった」
「フランス人は紅茶を飲まないのよ」と、ジェシカがたしなめるように言った。「みんながみんな、あなたと同じようにするわけじゃないのよ」
「ったく、また喧嘩か。今度は何があった?」
「カースティが私の携帯を―」
「P-E-T-E-R(ピーイーティーイーアー)」と、スーがほとんど疲れ切ったような声で、ピーターの名前のスペルを一文字ずつ言い、遮った。
「おいおい、どうした。いったい何なんだ?」とジェリーが言った。
「私の携帯が死んだの。カースティが殺した。これで彼がメールを送ってきても、私は全く気づかない」
「そんなの1時間か2時間だろ。それくらい我慢できないのか?」とパトリックは言うと、新しく火をつけたタバコを一服吸って、煙を吐き出した。
「タバコなんかやめてほしいわ」とスーが彼に言った。
「なんなら俺も、タバコなんかやめたいんだけどね、ママ」と彼は言って、喫煙習慣についての議論を打ち切った。数ヶ月前のある晩、偶然にも両親が同じパブに来ていて、タバコを吸っているところを見られ、それからは開き直って隠すのをやめたのだ。
「まだ早いだろ。何をそんなに急ぐことがある?」
「もう私には、メールが来ても知る術がないのよ。それに、最初から彼も連れてくれば、こんなことにならずに―」
「ダメだ、ジェシカ。それはどうしてもダメなんだ。これは家族旅行なんだ。たぶん最後になるだろうな。こうして家族水入らずで。もしお前がそのバカと結婚しているのなら、そいつも家族ってことになるが、そうじゃない。お前はもう子供じゃないんだから、そんなわがままは言うな」ジェリーがそう言うと、ジェシカは怒って、すたすたとコテージの方へ戻っていった。ピーターに一度も会ったこともないというのに、ピーターをバカ呼ばわりしたことに対して、スーがジェリーを叱責した。
その夜、二人はコテージのリビングで一緒に過ごし、和解した様子だった。ジェリーは〈ペルノ〉の水割りをマグカップで飲んでいた。ジェシカはリビングの隅で本を読みながら、白ワインをすするように飲んでいた。実際のところ、ジェシカは心の底では気づいていた。もし仮に、ピーターをこの旅行に誘ったとしても、どうせ彼は断ってきただろう。フランスの田舎のコテージで、初めて会う家族と一週間を過ごすなんて、(一人だけ浮いてるようで気まずいだろうし、家族独特の風変わりな習慣に合わせるのも大変だろうし、)彼にとって最高の休日の過ごし方とは言えないはずだから。
その日、ピーターは一度もメールをしてこなかった。というか、その前日も、その翌日も、ホーブを出発してからというもの、一度も彼からメールはこなかった。ホーブでは、運転免許を取ったばかりのジェシカが、親の車を借りて出かけることが多くなり、ジェリーは思い切って、新しくキャンピングカーを購入したのだ。そのキャンピングカーで今回のフランス旅行にやってきたわけだが、休暇を1週間ほど延ばして、帰りはゆっくりと、海岸沿いのブルターニュ地方やノルマンディー地方を経由しつつ、車から視界に広がる海を横目に、家に帰ろうという予定だった。
実は、彼女が今、携帯の画面を見つめ、どう返信しようかと考えているメッセージは、ピーターからではなく、ダンという名の男の子から送られてきたものだった。3週間前、ジェシカはピーターと大喧嘩をした。きっかけは、一緒に映画館で見たブラジル映画が気に入らなかったとか、そんなことだったと思う。腹立たしい気持ちを抱えながら、その夜ブルームズベリーのカクテルバーに行って、一人で飲んでいたら、声をかけてきたのがダンだった。ジェシカは酔った勢いで、彼に聞かれるままに電話番号を教えた。彼女の大学時代の同居人だったアンドリーアと、彼が友達だったという偶然も後押しした。アンドリーアは怠け者のイタリア人で、四六時中タバコを吸っているような女の子だった。コーヒーも、そんなに飲んだら体に悪いよ、とジェシカが忠告しても、がぶがぶと体内に流し込んでいた。
ダンが彼女に好意を抱いていることは明らかだった。この最新のメッセージもまた、頻繫に届く一連のメッセージ同様、遠回しにさりげなくジェシカをデートに誘おうという意図が読み取れた。彼は魅力的ではあった。ただ、彼女が将来のパートナーに求めている、自由放浪なボヘミアン的、芸術的な輝きが彼にはなかった。たとえピーターとうまくいかなくても、ダンみたいな堅物(かたぶつ)の経営コンサルタント見習いと一緒になるなんて、ジェシカにはイメージが湧かなかった。
彼女は携帯電話のボタンを両手の指で押し続けた。数字や文字を入力するたびに甲高いビープ音が鳴り響き、彼女以外の家族全員にはそれが耳障りだった。
こんにちは、ダン。返事が遅くなっちゃって、ごめんね。テヘペロ😜 今、家族とフランスなうなの。来週は無理だけど、それ以降なら大丈夫かな? 返信してね😘
送信ボタンを押してすぐに、なぜ「返信してね」なんて付け足してしまったのか、自分の気持ちを不思議に思った。礼儀として書いたのよ、と一応結論付けた。1ヶ月後くらいに、夏が終わったら私は再びロンドンへ引っ越す。その時の友達として、一応彼をキープしておきたかった。大学時代の友達のほとんどは、卒業後に故郷の町や村に帰ってしまった。まるで壊された巣から一目散に逃げ出す蟻たちみたいに、散り散りになってしまった。今もロンドンにいるのは、ダルストンで母親と暮らしてる、元々ロンドンっ子のナタリーと、ピーターくらいね(といっても、ピーターはそのうちバンド活動が忙しくなって、ツアーでなかなか帰ってこなくなるんだろうけど)。それから、スチュ・アンダーソンもいるけど、彼は、私の友人というよりは、パトリックの連れで、今はゴールドスミス・カレッジの1年生。マーケティングの学位を取ろうとしてるみたい。そんな感じで、あまり知り合いがいないロンドンに、ダンみたいな、親しみやすい友人がいると安心するのよね。
「ランチよ! みんな集合!」スーがコテージの中から声を張り上げた。さっき10分でできると言っていたが、あれからすでに30分近く経っていた。
パトリックが最初に駆けていき、カースティがそれに続いた。ジェシカはアンドリューと話をしようと、彼の方へ寄っていった。彼はその週、存在感を消しているように静かだったから、少し心配だった。
「釣りはどうだった?」
「いい感じだったよ。2、3匹釣れた」と彼は言った。「でも、どっちかというと、パパの活躍かな?」
「あなたも釣り好きだと思ってたけど」
「まあ、好きは好きだよ...でも、他にも好きなことがいろいろあるから」
「写真を撮る方が好き?」
「そうかもね。でも、パパには―」
「言わないわよ」とジェシカは言った。
「今の感じがパパにとってはいいんでしょ? 家族の絆とか、そういうのが好きだから。もし僕らの誰も手を挙げなかったら、パパは、そうか、と言って、一人で釣りに行っちゃうよ」
「あなたはパパのことまで心配しなくていいのよ」
「それはわかってるんだけど、ただ...僕らがみんな成長しちゃったらさ、こういうこともできなくなるだろうし。君だって、なぜかまたロンドンで暮らそうだなんて、妙なこと考えてるんだろ? パトリックもロンドンにアパートを借りるとか言ってるし。そうすると、僕とカーストだけになっちゃうでしょ」と彼は、カースティの子供の頃からのニックネームを口にした。
「それで、あなたはどうなの? 大学進学とか考えてるわけ?」
「たぶんね。パパが言うには、僕には家業を継ぐ素質があるってさ」
「パパはみんなにそう言ってるのよ。あなた自身が本当に興味あるかどうか、そこを見極めないとね」
「ほら、二人とも早く来なさい」とジェリーがテーブルから声をかけてきた。ジェシカは、自分とパトリックがまだプールサイドでぐずぐずしていることに気がついた。
「あなたなら大学でもうまくやっていけるわ。あなたには光るものがあるんだから」
「でも大学なんて、ちょっと時間の無駄って気がする。そうじゃなかった?」
「全然そんなことなかったわ。新しい場所に行って、いろんな人と出会う。働くのはあとからでも、それこそ何十年だってできるんだから」
「かもね」と彼が言ったところで、二人はテーブルにたどり着き、食卓についた。
ジェリーはアンドリューの前にフレンチ・ラガービールの小瓶を置き、ジェシカの前にはグラスに入った白ワインを差し出した。みんながパンをほおばり始め、大きなボウルに入ったサラダを取り分けたり、プレートからハムを小皿に移したりしている間に、ジェリーはトランプをみんなの前に配った。
「よし。ババ抜きするぞ」と彼は言った。
「縦に一列だぞ」ジェリーが自転車の隊列の最後尾から呼びかけた。翌朝のことだった。その日が最終日で、翌日には荷造りをしてキャンピングカーでイギリスに戻る予定だった。彼らは自転車でまっすぐな並木道をゆっくりと、一番近い町へと向かっていた。ジェシカが先頭を走り、パトリック、カースティ、スー、アンドリューと続き、最後尾でジェリーが、まるでツール・ド・フランスのアシスト選手のように、前のメンバーを観察し、統制していた。
ラ・フレーシュという町は、サルト川が枝分かれして細くなったロワール川沿いにあって、小さいながらも賑やかな市場町(いちばまち)だった。市場は朝から賑わっていて、野菜や肉、衣服や家畜などを買い求める地元の買い物客でごった返していた。中には観光客も混じっていて、はにかみながら「ハムを8切れください」と言ったり、あるいは、屋台の店主の誠実さを信頼して、おすすめの野菜を見繕ってもらったら、一家では食べ切れないほどどっさりと、大量の野菜を受け取るはめになったりしていた。
町に着くと、ジェシカは、自転車をチェーンで繋いでおける脇道へとみんなを誘導した。彼女は他の家族よりも、ラ・フレーシュに詳しかった。みんなに内緒で、今週すでに3回もここを自転車で訪れていたのだ。町のインターネットカフェに入り、ピーターからEメールが届いていないか、メールアカウントを確認するのが主な目的だった。それから彼女は、河原のベンチに座って、川の流れを時折り見下ろしながら、面白くもないサルトルの小説を読みつつ、フランスのタバコ〈ゴロワーズ〉を吸う時間が好きだった。
「みんな一緒に行動しようじゃないか、な?」とジェリーが言った。質問のような言い方だったが、実際には命令だった。休暇も残り少なくなってきて、できるだけ長く家族を一つに繋ぎとめておこうと、彼は必死だったのだ。
「なんでだよ? パパ」とパトリックが言った。「俺は、いい感じのバーを探したいんだ。パパとママはバーベキューの材料を買うんだろ? アンドリューは、ガチョウか、なんていう鳥だか知らないけど、河原でそういう写真を撮りたいんだろうし。女子二人は洋服を見に行きたいんだろ」
「性差別主義者ね」とジェシカが言った。
「は?」と彼は顔をしかめて言った。その言葉を聞いたこともなければ、ましてや自分がそうだと言われたことなど一度もない、というような顔だった。「俺が言いたいのは、みんなそれぞれ自分のことは自分でできるだろ?ってことだよ。俺たちは迷子になんてならない。もう6歳じゃないんだから」
「もういい。わかった」とジェリーががっかりしたように、弱気な口調で言った。「じゃあ、1時間後に、またここに集合しよう」
家族は解散した。パトリックが真っ先にその場を離れ、フランスの安いラガービールが飲め、英字新聞が置いてあるようなバーを探しに行った。カースティは両親について行くことにした。先日、携帯電話のバッテリーの件で姉に怒鳴られて以来、まだ少し怯えが残っていて、姉と一緒にいたくなかったのだ。その場には、アンドリューとジェシカだけが残った。
「君について行ってもいいかな?」と彼が言った。「もしよければ」
「もちろん。私はピーターへのお土産に何か探そうと思ってるの。チーズがいいかな。でもパトリックには内緒よ。フランス産の臭いチーズをひとたま車に積み込んでイギリスまで帰るなんて言ったら、文句を言い出すに決まってる。けど、言わなきゃ絶対気づかないから」
アンドリューは微笑んだ。言えてる、と思った。パトリックはまさにそんな感じなのだ。先に口が出る性質(たち)で、いつも何かに文句を言っている。そのくせ現実に対処することは後回し。そのことで、ジェリーはよくパトリックをからかっていた。商売人の素質がある、と言わんばかりでもあった。〈カドカン・ファミリー・建築士事務所〉に出入りしている請負業者のほとんどが、口八丁で文句ばっかり言ってる人たちだったから、その文化がすでに身に付いていたのだ。
「あなたは何したい?」と彼女が聞いた。
「僕は何でも構わないよ」と彼は言いながら、カメラを構えた。彼はカメラを二つ所有していた。一つはクリスマスにもらったデジタルカメラ。今手に持っているのはもう一つの方で、高価なフィルムを使用し、フラッシュを取り外せるキャノン製のカメラだった。彼が卒業制作のアートプロジェクトで使ったもので、ギャントン通りの邸宅の1階のトイレに暗幕を張っては即席の暗室をこしらえ、彼は自分で写真を現像していた。
「いい写真撮ってよ」と彼女は、カメラを目の高さまで持ち上げた彼にエールを送った。彼は、ローストチキンを買おうと屋台の店主にお金を差し出す老人の写真を撮ろうとしていた。
「昨日君が言ってたことについて、考えてたんだ」と、カメラを覗きながら彼が言った。「大学とか、そういうこと」
「よかった。大学は行った方がいいわ」
「こんなこと言うと、君はどう思うかな?」
「何?」
「軍隊。入隊しようかなって考えてるんだ」
ジェシカはショックを受けたようだった。彼が軍隊に興味を持っていることは彼女も前から知っていた。―彼は青春時代の多くをボーイスカウトの活動に費やし、その年月を、いわば入隊への見習い期間として考えているらしいことも知ってはいたが、軍隊を生涯にわたる職業として考えた時、その考えは捨てたものと思っていた。10代のアンドリューはあまりに繊細で、内気な性格だったから、軍隊の中でやっていくのは到底無理だという印象だった。
「何?」と彼が聞いた。
「ちょっとびっくりしちゃって。大学へ行くのかと思ってたから」
「大学なんか行ったって、僕には学ぶべきことがないよ」
「写真は?」
「写真は趣味だよ」と彼は言った。「パパがなんて言うか考えてみて。ミッキーマウスに関する学位でも取るのか?って。ほら、マリアンヌがファッションを勉強してるって言った時も、パパはそういう反応だったじゃないか、そんなの意味ないって感じでさ」と彼は、いとこのマリアンヌを引き合いに出した。
「セントマーチンズで芸術を学ぶとか」と彼女は言った。アンドリューは大して魅力を感じなかったが、彼女の声に真剣な重みを感じたので、一旦受け止めることにした。
「そうだね。まあ、来年が僕の高校生活最後の年になるから、今決めなくてもってことでしょ? 考える時間はたっぷりある。ただ問題なのは、僕には他に何も得意なことがないってことなんだ。君もそう思うよね? ママに言われて数学のAクラスを履修しちゃったけど、さっぱりついていけないし。数学は苦手。あと歴史も」
「でも、美術は得意でしょ?」
「まあ、多少はね。職業にするほどじゃないけど」
彼が殻に籠(こも)ろうとするように萎縮していくのを、ジェシカは感じ取った。二人は道路を渡り、ロワール川にかかる灰色の石橋までやって来た。彼女は橋の欄干(らんかん)に背中をつけ、空を仰いだ。彼の眼下では川が静かに流れ、茶色の水面(みなも)に太陽の光が降り注いでいた。小さな島のように地表が浮き出ている箇所がいくつか見受けられる。アンドリューは、カワセミが青い羽をきらめかせながら、水面を滑るように横切っていくのを見た。
「私が言いたいのは、考えた方がいいよってこと。それだけ」
「もう考えることなんて何もないよ」
「え、じゃあ、もう決めたってこと? それが軍隊?」
彼は頷いた。
「希望は落下傘連隊。あのドキュメンタリーを見て、入りたいって思った」
「グラスゴー芸術大学とか、どこかの入学案内を私が持ってきたらどうする? それで起こりうる最悪の事態は何?」彼女はそう言うと、ハンドバッグを開けた。
ジェシカはタバコとライターを取り出し、市場の方をチラッと振り返ってから、アンドリューに背を向け、タバコに火をつけた。
「ねえ。これはママとパパには内緒よ」
「僕も...いい?」と彼が言った。
「あなたも...吸うの?」
「時々ね。家では吸わないけど、外でたまに」
彼女はパッケージを彼に差し出した。彼はそこからタバコを一本抜き出し、ライターも受け取った。
「ママとパパはなんて言うと思う? このことを話したら」
「軍隊のこと?」
アンドリューは頷きながら、タバコを一服吸い込んだ。
「それは反対するでしょうね。ママは危険だって思うだろうし。パパも、もどかしい気持ちになるんじゃないかな。おじいちゃんの影響でそんなことを言い出したんだって、パパは思うんじゃない?」
「おじいちゃんは関係ないよ。堅物(かたぶつ)で、偉そうで、真似したいなんて思わない」
「じゃあ、なんで?」
アンドリューはタバコを吸う手を止めて、しばらく考え込んだ。
「誤解を恐れずに言えば」と彼は切り出した。「僕は今まで、自分が馴染めてるっていう感覚を持ったことがない。故郷というか、ブライトンが自分の町だとは思わないし、あの辺りにずっといたいとも思わない。軍隊は人生の選択になるでしょ? 入隊したらあちこち遠征に出るし、この先の仕事とか、友達とか、くだらないあれこれを心配する必要もない。すべてはそこにあるんだ」
「あなたがそう言うのなら」ジェシカは幅の広い欄干の上にひょいと腰を下ろし、足をぶらぶらさせた。タバコの煙をふーっと吐き出して、髪を耳の後ろにかき上げたところで、後ろから風が吹き付け、再び髪の毛がさらっと顔にかかった。「あなたは正しいことをするのよ」
「そのまま、そこに座ってて」とアンドリューが言って、カメラのレンズを外し、付け替えた。ジェシカがタバコを口にくわえている間に、彼は立て続けに3枚の写真を撮った。これこそ、この不確かさこそ、デジタルカメラでは味わえない、フィルムの醍醐味だった。背景に写り込んだものが、意図したイメージとは完全に異なる写真にしたり、風やタバコの煙で、姉のシャープな顔立ちが隠れたり、むしろ乱れた髪がメインに強調されたり。そんな不確実性があるからこそ、フィルムカメラは手放せない。
「やばい」とジェシカが言って、欄干から飛び降りた。「タバコを消して。みんながこっちに来る」
アンドリューは首にカメラをかけたまま、半分吸ったゴロワーズの火を欄干に押し付けるようにして消し、吸い殻を川に投げ捨てた。ジェシカがこっそりと彼にミント・キャンディを差し出しながら、近づいてきた両親とカースティの方に顔を向けた。
「全部買い終わったの?」とジェシカが言った。
「お父さんが言うには、まだだけど」と、スーは重そうな野菜の袋を二つ持ちながら言った。「でも、これ以上は持てないわ」
「じゃあ、食料が足りなくなったら、お前の見込み違いってことだな」
「なんか、この辺りはタバコの匂いがするわね」とスーは言いながら、タバコを吸っている人が近くにいないか、辺りを見回した。
「ここはフランスだぞ。どこもかしこもタバコの臭いがプンプンしてるんだ」とジェリーが言った。
「フランスも路上喫煙を早く禁止した方がいいわ」
「フランス人にそう言ってみろ」とジェリーが言ったところで、パトリックが道路を横切って、ゆっくりとした足取りでやって来た。「じゃあ、みんな揃ったことだし、いい機会だ。みんなで写真を撮ろうじゃないか」
「僕が撮るよ」とアンドリューが手を挙げた。彼はカメラの前に立つよりも、後ろからレンズを覗き込む方が幸せを感じるのだ。
「ダメ。誰かに撮ってもらいましょ」とスーが言って、通りすがりの買い物客の方を指さした。
「ちょっと待って」とアンドリューが言った。「みんなこっちに来て、このベンチの前に並んでみて」
家族全員がそうすると、彼は川を見下ろす塀の上にバランスよくカメラを置いた。
「私のカメラでも撮ってみて」とスーが言って、彼女のデジタルカメラを彼の方へ差し出した。「デジカメだとどんな風に写るのか見てみたいわ」
銀色の小さなデジカメと、自分の一眼レフを並べ、彼はそれぞれの見え方を確認すると、タイマーを10秒後にセットした。
「準備はいい?」と彼が声を上げた。そして、カドガン家のみんなが身支度を整えたところへ、彼も駆け寄り、カースティの肩に腕を回しているジェリーの隣に立った。数秒後、2つのカメラが連続してカシャカシャッとシャッターを切る音がして、彼はカメラを回収しに戻った。
アンドリューが母親にデジタルカメラを手渡すと、彼女はすぐさま画像を確認し、家族全員が写った最後の休暇旅行の写真を眺め、ワーッなどと甲高い声を上げ始めた。彼はカメラをいじりながら離れて行き、ジェシカも彼の後を追った。
「それで、みんなに言うつもりなの? あなたが将来どうしたいのか」
「最終的には、そうだね」
「やっぱり考えてみた方がいいと思うの。大学のこと」
「わかってる」と彼は言った。「でも僕は行かないよ」
みんなが自転車を置いた場所までたどり着くと、ジェシカはため息をつきながら、全員分のチェーンの鍵を開け始めた。
「あの写真、私にくれる? 私が一人で写ってるやつ」と彼女は言った。「現像したら、ちょうだい」
「欲しければあげるよ。写りがいまいちかもだけど」
「きっと素晴らしい写真よ。私たち全員の集合写真はどうかしらね? あれはママに渡すの?」
「さあ」と彼は言った。「あれは自分で持っておこうかな。入隊したら、部屋の壁に貼っておけるから」
アンドリューは微笑むと、自転車にまたがり、真っ先にスタートしたパトリックを追うように、ペダルを踏み出した。他の家族はまだ、買い物袋を自転車のカゴに入れたりしている。ジェシカも自転車をこぎ出そうとした時、母親が彼女を呼び止めた。
「彼は大丈夫?」
「ええ。大丈夫だと思う」
「なんだか、おとなしいみたいだけど」
「彼は元気よ、心配しないで。今はちょっと考え込んでるだけだから」
ジェシカはサドルにまたがると、後ろを確認し、道路に向かって勢いよく自転車をこぎ出した。彼女はすぐに二人の弟に追いつき、リズムをとりながら家まで走行した。そんな風に、彼らは休暇の最後の一日を満喫した。
グレットナ
ジェシカ
「ちょっと待ってて」と彼女は言って、お茶を飲み干した。
ジェシカはキャンピングカーの後ろに行って、自分の荷物をかき回すように、あるものを探し始めた。バッグの中から日記帳を探(さぐ)り当てると、その背表紙に挟めておいた写真を引き抜いた。アンドリューがラ・フレーシュの橋の上で撮った写真だ。風に髪をなびかせる自分の姿を見て、彼女は一気に昔の自分に引き戻された気がした。タバコを手に持ち、体にぴったりフィットした赤いTシャツを着て、デニムのショートパンツから白い腿(もも)がむき出している。夫のダンでさえ、彼女がかつてタバコを吸っていたことを知らない。アンドリューとピーター以外は、誰も知らないんじゃないかと思う。(ちなみにピーターは今、Facebookを見る限りでは、アムステルダムで投資ファンドの会社を経営しているらしい。)
「見て」ジェシカはそう言って、写真を二人の前に置いた。それはまるで昔の雑誌の広告のようだった。路上喫煙が嫌厭(けんえん)される前の、まだタバコが若者にとって憧れの習慣だった時代を思わせた。「家族みんなで集合写真を撮ったでしょ。その直前に彼が撮ってくれたやつ。現像してフレームに入れて、私の誕生日にくれたの」
「ずっと手元に持ってたわけ?」
「普段はベッドサイドテーブルの引き出しの中にしまってる。ほとんど見ることはないんだけど。私もこの旅に参加するって決めた時、なぜか持っていこうって思ったんだよね。彼もここにいるべきだと思ったんだと思う。父の遺灰を撒くのなら」
「引き出しの中じゃなくて、飾っておいた方がいいんじゃない?」
「どうすべきかわからないのよ。この写真を見ると、多くの疑問が生じちゃうでしょ。そういう写真のような気がするから。誰が撮ったのか、どこで、なぜ撮ったのか。それに、私はタバコを吸ってるし―」
「お前がタバコを吸ってることはみんな知ってるよ、ジェシカ」とパトリックが口を挟んだ。「ママも、パパも、俺たちも、ダンさえも知ってる。お前は隠すのが本当に下手くそだからな」
「ダンも?」
「彼が初めてママとパパに会いに来た時、もうだいぶ前の話だけど、みんなで中庭にいた時、お前が洗面所に消えて、そしたら窓のすき間から煙が立ち込めてきたんだ。ダンも一緒に、みんなで煙を眺めてたよ。さすがにパパが、戻ってきたお前に注意の一つもするのかと思ったけど、しなかった。注意は逆効果だと思ったんだな。お前がタバコを吸っていようがいまいが、誰も気にしてないぞって無視した方が、やめると踏んだんだ」
ジェシカはどう言い返そうかと反論の言葉を探したが、実際、弟の言うことはまったく正しかった。
「飾っておくべきよ」とカースティが言った。「彼はいい写真家だったわ。職業にして、それで食べていけるくらいの腕があった」
「おかしいわね。あの子が高校を卒業したらどうするのか、そういう話をしていた直後に、この写真を撮ったのよ。彼は軍隊に入るって言ってた。私は大学に行って、写真の道に進むように言ったんだけど」
「そうしてたら、どうなっていたんだろうな?」とパトリックが言った。
三人はそれぞれに紅茶をすすりながら、テーブルの上に置かれたアルバムの最後の写真を見た。ジェリー、スー、アンドリューが、あのコテージの前に立っている。ジェシカは自分がカメラを構えて、この写真を撮ったことを思い出した。この後、家族は二手(ふたて)に分かれて家路についたのだ。―カースティは両親と共にフランスのディジョン、ルクセンブルグ、ベルギーのブルージュをめぐってから帰ることにした。私はアンドリューとパトリックを車でホーブまで送ってから、電車に乗ってロンドンへ向かった。私はあの頃、ロンドンで自分の生活を築こうとしていたから。
アルバムをめくっていた途中、ジェシカは、なぜパパがこのアルバムを選んだのか不思議に思っていた。家族で出かけた最後の旅行だったことを除けば、他の家族旅行と比べて、特に際立った特徴はないように思えたからだ。けれど、橋の上での会話を思い出した時、納得がいった。
帰国した翌週、アンドリューは両親に、卒業試験が終わったら落下傘部隊に入隊するつもりだと話した。両親の反応は予想通りだったが、構わず彼はそれを実行に移した。
フランスへのあの旅行は、家族で過ごした最後の休暇だったというだけでなく、アンドリューにとって、人生の転機となった旅だったのだ。父親と釣りをしながら将来を考え、橋の上で私と話しながら、彼は自分の行く道を決めたのだ。もしアンドリューが軍隊に志願するよりも、大学で勉強した方がいいと判断していたら、その後、彼の身に起きたことは何も起こらなかったでしょう。
しかし、そんなの仮定の話だ、とジェシカは自分に言い聞かせた。手に負えない、どうしようもないことだってあるんだ。
「かわいそうなアンドリュー」とカースティが呟いた。考え込むような、1、2分の沈黙の後だった。ジェシカは、彼女がいつでも被害者の味方をすることに納得がいかなかった。でも今回ばかりは、彼女の呟きは理にかなっていると思った。
「考えたことある?」とジェシカは言いかけたが、途中でやめた。周りにダンしかいない時や、気楽な自宅のキッチンなら、思ったことをつい口に出しても問題ないが、今は状況が違う。
「考えるって何を?」とパトリックが聞き返した。
「気にしないで。どうでもいいことだから」
「明らかにどうでもよくないだろ」
ジェシカはしばらく考え込んだ。これを言ってしまったら、どうなるか? 吉と出るか凶と出るか、どちらにも転ぶ可能性があった。けれど、せっかくこうしてみんなで集まっているのだから、一か八かぶつけてみたくなった。
「私が聞こうとしたのは、彼の本質みたいなことを考えたことあるのかな?って。つまり、彼は私たちの近くにいつまでもとどまっているような人じゃなかったんじゃないかな? 残酷な話に聞こえるかもしれないけど、ちゃんと最後まで聞いてほしい」
弟と妹の顔を見た。二人とも今にも私を激しく叱りつけようという表情にも見えたが、同時に、とりあえず弁明の機会を与えようという気配も漂わせていた。
「つまりね...世の中には、決して年を取らないように運命づけられている人もいるって知ってるでしょ? カート・コバーンとか、エイミー・ワインハウスとか、挙げれば切りがないけど、そういう人たちみたいにね。ロケットみたいにやみくもに飛んで行っちゃって、どこか遠くの彼方で燃料が切れて、燃え尽きちゃう、みたいな。アンドリューもそういうタイプだったんじゃないかな? 彼が私たちと一緒にいるつもりはなかった、というか、そういう運命ではなかった。それに気づくのに時間がかかっただけで」
「彼は家族だったわ」とカースティが言った。
「それはわかってる。私は彼を愛してる、これからもずっとよ。でも、家族を選ぶことはできない。そうでしょ? よく言われることだけど、間違ってない。アンドリューは、それならって考えたんじゃないかしら。そして唯一の抜け道を見つけた。家族を持たないことを選ぶことはできるって」
「要するに、彼はずっと私たちを嫌ってたってこと?」
「そうじゃない...カースティ...説明するのは難しいんだけど、私が言いたいのは、彼はある年齢になって、自分は違う、一人だけ違うって悟ったのよ。だから彼は去った。私の言ってる意味がさっぱりなのはわかってる」
「じゃあ、彼はカドガン家の一員じゃなかったってこと?」
「たぶんね」とジェシカは言った。「私が思っていたのは、そういうことかもしれない」
「なんか、あなたたちの話を聞いてると、自分を正当化しようとしてるだけに聞こえる」
「カースティ」と、パトリックが、それは言うなと注意するような口調で言った。
またもや、三人ともに黙り込んでしまった。高速道路を行き交う車の音だけが聞こえてくる。時折、雷鳴のようなトラックの通過音が轟(とどろ)き、その風圧でキャンピングカーの薄い壁がガタガタと揺れた。ジェシカは、パトリックの目が少し涙ぐんで、赤みを帯びていることに気がついた。アンドリューは、彼らにとっては、いわば遺体のない死だった。彼はいつの間にか行方をくらまし、さよならを言うチャンスさえなかった。
「子供たちにはどう伝えたの?」しばらくして、カースティが聞いた。「リヴィもどんどん成長してるから、そろそろアンドリューのことを話さないとね」
「私は、マックスが10歳になるまで待って、きちんと説明したわ。それまでもマックスは、アンドリューおじさんがもういないってことを受け入れてたけどね。エルスペスにはまだちゃんと話したわけじゃないけど、彼女もなんとなく受け入れてる。前はアンドリューおじさんがいたけど、今はいないんだって」
「うちも同じだよ。マギーは大して彼のことを聞いてこなかった。彼女はアンドリューに会ったこともないし、寂しい思いをすることもなかった。マックスだけだな...」と彼は言って、言葉を濁した。
何がおかしいのか、ジェシカが、ふふっと笑ったから、他の二人は彼女の顔を見た。
「ごめんなさい」と彼女は言った。「ちょっと考え事をしてたのよ。なんだかサンタクロースみたいな存在だなって。『お兄ちゃんだけにわしの存在を教えてあげるけど、妹たちには内緒だよ』みたいな」
パトリックは微笑んだが、カースティが「マックスだって、そんなに会ったことないでしょ」と言うと、その微笑みはすぐにしぼんでしまった。
「そうね」とジェシカが言った。「それはそれとして」
彼女は妹と弟を見た。二人とも、同じ家で育ち、どこかへ飛び立っていったアンドリューの思い出に耽っているようだった。そしてジェシカは、みんながまだ疑問に思っていることを、ここでもう一度取り上げ、自分の考えを言わなければならないと思った。
「どうしてパパは私たちを、アイラ島に行かせようとしてるんだと思う?」
「ジェシ、またそれ?」とカースティが言った。「パパとママの思い出の地だからでしょ」
「ええ、それはわかってる。けど...もっと他に、何か別の理由があるとしたら?」
「ジェシ」
「認めましょうよ、カースティ。あなただって、そのことについて考えてるんでしょ? 私たち三人とも、もしかしたらって思ってる。もしパパが何かを、っていうか、誰かをそこで見つけたとしたら」
「でもどうやって?」
「わからないわ。でも今回のことはすべて、そこにつながってるような気がするの」
「彼がそこにいれば、パパがそこで彼を見つけたのなら、私は気づくわ」カースティはきっぱりと言った。「彼はいない。さっき私がパトリックにそう言ったのを、あなたも聞いてたでしょ?」
「パパが相当気をつけてて、あなたが気づかなかったとしたら?」
「気づくって。あなたは自分の気持ちが楽になる考えにしがみついてるだけよ」と彼女が言った。その言葉自体は少し嫌味を醸し出していたが、彼女が口調を和らげ、同情するように言ったことで、嫌な感じは中和されて耳に届いた。「彼がそこにいるのなら、それがこの旅路の最終的な目的なら、あなたはすべてに対して反省しなくて済むからね。でも、心の奥底ではわかってるはず」
「何を?」
「ジェシ。もう二度と私たちが彼に会うことはないの。こんなこと言いたくないけど、それが真実よ」
そう言いながら、カースティは立ち上がろうとした。しかし、パトリックが彼女の腕をつかんだ。
「話はまだ終わってない」と彼が言った。彼は眉をひそめ、険しい表情でテーブルを見つめている。「実は、二人に話したいことがあるんだ。もう話してもいい頃だろう」
パトリック
「アンドリューのことだよ」とパトリックは言った。旅が進むにつれて、彼は本当のことを言いたくてたまらなくなっていた。今日も何度か口を開きそうになったのだが、その瞬間はやって来なかった。しかし、明日までには、海岸に到着するまでには、言っておかなければならないと思っていた。カースティが立ち上がった時、今しかないと思った。この瞬間を逃したら、もう話せなくなる。
「何?」と彼女が聞いた。「彼がその島にいるなんて、もう二度と言わない方がいいわ。だってそんなの絶対―」
「それじゃない」彼はそう言って、彼女の発言を制した。「彼が軍隊を辞めた時のことだよ。さっきお前たちが二人で話してたじゃないか」
「退役のことなら私たちも知ってるわ」とジェシカが言った。「メディカル検査に通らなかったんでしょ? 喘息で」
「実際はそうじゃなかった。それとは関係なかったんだ」パトリックはいったん息を飲むように間を空けた。今が話すべき時だった。「アンドリューは、あれより6ヶ月も前に、すでに軍隊を抜けていたんだ。彼は2度目の遠征のメンバーから外されたんだよ。1度目の遠征で彼の評価が下されて、次の遠征は君には無理だと言われ、最後は暴れて出てきたらしい」
「でもママが―」
「ママは知らなかったんだよ」パトリックはジェシカの言葉を遮るように言った。「誰も知らなかった。俺以外は」
「どういうこと? パトリック。ママもパパもきっと―」
「待ってくれ」と彼は言った。パトリックは釣り具箱からウィスキーのボトルを取り出すと、自分のグラスに注いで、一口喉に流し込んだ。「今話す。続きがあるんだ」
カースティとジェシカの視線が自分に集まっているのを感じた。二人がどんな反応を示すのか、これを話したことで、この旅は終わってしまうのか、見当もつかなかった。
「軍隊を辞めてすぐ、アンドリューは家に帰らなかった。ロンドンへ向かったんだ。彼の友人が俺のメールアドレスをネットで見つけて、何が起こったのかを知らせてくれた」そこでパトリックは、次のことをどう言ったらいいか迷った。「ランベス区のホームレスシェルターで、俺は彼を見つけた」
顔を上げると、ジェシカとカースティの二人が、唖然として目を見張っていた。口を少し開けたまま、彼がその時の状況を説明するのを待っている。
「俺はしばらく彼を探していた。そしたら、そのシェルターのすかした野郎が情報をくれたんだ」
「彼はホームレスだったの?」
パトリックはうなずいた。「彼自身が言うには、外では寝ない、いつもシェルターで過ごしてる、なんて言ってたけど、俺は信じなかった」
「それならパパが―」
「言ったとおりだ。誰も知らなかったんだよ」
「どのくらい?」とジェシカが聞いた。「つまり、彼はどのくらいの間そこにいたの?」
「しばらく。2、3ヶ月くらいかな。彼はいずれは家に帰るつもりだって言ってたよ。ただ、みんなにどう話せばいいのかわからないって。それで結局、少しの間、俺のところに身を寄せることにしたんだ。俺が基地まで迎えに行って、家に連れ帰ったことにしようって俺が提案した。彼がメディカル検査に落ちたっていうのも、俺が考えた口実だよ」
ジェシカはウィスキーのボトルをぼんやりと見つめていた。彼女がこの告白をどう受け止めたのか、その視線が十分に物語っていた。
「じゃあ、彼が消えたのは2回目ってことね」何時間にも思える長い沈黙の後、彼女がようやく口を開いた。「前にも失踪したことがあったってことでしょ?」
パトリックはうなずいた。10年前、ロンドンでアンドリューを探した日々が脳裏に蘇る。彼を探すのは2度目だったから、ロンドンの中でも、以前彼を見つけた地区を重点的に探した。あの時、彼の写真を見せて回ったのだが、なかなか見覚えのある人は現れかった。ランベスのシェルターには、まだあの職員の男がいて、アンドリューのことを覚えていた。彼はパトリックの連絡先をメモして、アンドリューを見かけたら連絡すると言ったが、それから一度も連絡はない。
数週間探し回って、アンドリューはおそらく、今回は首都には向かわなかったのだろうという結論に達した。首都を通り越してさらに北へ向かったか、南の海峡を渡ってヨーロッパを目指したか、どちらかだろうと。
「彼がいなくなってから、俺はまたそこを探したんだ。もう一度シェルターにも行ってみたし、あらゆるところを探したよ」
「どのくらい彼はロンドンをさまよってたの? 最初の失踪の時」とカースティが聞いた。「軍隊を飛び出してから、あなたが彼を見つけるまでどのくらい?」
「そんなに長くないよ。数週間かな」
「数週間?」彼女はショックを受けたように言った。
「わかってる」とパトリックが言った。「なんで話さなかったんだってことだろ? でも、俺の立場から考えてみてくれ。あのメールを受け取った時、俺は彼が麻薬か何かで大変な状況にいるって思ったんだ。彼が他の家族に会う前に、俺だけで解決してやりたいって思った。そうすれば、もしかしたら...」パトリックは尻すぼみに言葉を失った。あの時、なぜ自分があのような行動をとったのか、うまく説明できなかった。妻のスザンヌだけには事の成り行きを話してあったが、彼女にも自分の行動の理由を説明することはできなかった。唯一、たぶんこうなんだろうと言えることがあるとすれば、両親を守ろうとしたんだと思う。息子が軍隊を離れて、何百万人もが密集する都市のどこかをさまよっていることを知ったら、彼らのうちにとめどなく生じるだろう心配を、予め食い止めたかった。
「そうすれば、もしかしたら...何?」とジェシカが、優しい口調で聞いた。
「わからない。たぶん、俺は彼を助けられると思ってたんだと思う。実際しばらくは、助けられたって思ってたんだけど...」
パトリックは涙をこらえた。そのことを思うたびに、もっとこうしておけばよかった、なんで考えがここまで及ばなかったんだ、と悔やんでばかりいた。アンドリューが完全に姿をくらまして数ヶ月後、パトリックは、退役軍人が定職に就くのはかなり大変な場合が多いことを知った。そのメールを送ってくれたアンドリューの旧友に会って、色々な話を聞くうちに、彼がPTSDに苦しんでいる可能性が高いことに気づいた。アフガニスタンに派遣された際、アンドリューのまさに隣に立っていた仲間が撃たれ、死んだそうだ。
アンドリュー・カドガンに関することは、彼が失踪した後になって、様々なことが明らかになった。彼に関するあれこれを知っていくうちに、パトリックは、彼の最初の失踪、つまり軍隊からの逃亡に関しては、決して口外しないと腹をくくった。
「長い間、自分を責めていたんだ」とパトリックは言った。「彼がそうするのはわかっていた。彼にはそういう衝動があって、実際俺は、彼が街をさまよっているのを見たんだ。あの時、メルが」と言ったところで、何かが彼の言葉をせき止めた。
「メルが何?」とカースティが聞いた。
「彼女が妊娠した」とパトリックは言った。「彼がビジネスでトラブルに巻き込まれる直前のことだった。彼女は妊娠したけど、二人の仲が悪くなって、結局中絶したらしい。一度アンドリューがパブで話してくれたんだ」
「それであなたは決して―」
「言えなかった」と彼は間髪を入れずに言った。「アンドリューとの約束だったから」
「そして彼はどこかへ行っちゃった」とカースティが言った。
「彼が戻ってきたらどう思うだろうって、いつも考えてた。俺はことごとく、彼との約束を破ってきた。彼に秘密を守ると言った時、俺はいつも本気だった。そうは思えないだろうけど、本当に本気だったんだ」
「じゃあ、なんで今になって話すの?」とカースティが聞いた。
「彼はもう戻ってこないだろうから」とパトリックは、目に涙をいっぱいに浮かべて言った。
その言葉だけが永遠にそこを漂っているような沈黙が訪れた。しかし、ついにジェシカが口を開いた。
「わかったわ」と彼女は言った。「怒ってもいいんだけどね。私たち二人とも、あなたに怒ってもいいんだけど、でも、もしアンドリューがあなたじゃなくて、私たち二人に話していたらって思うとね。私たちだってどう反応したかわからないし」
ジェシカは手を伸ばし、パトリックの手に彼女の手を重ねた。彼は顔を上げ、涙ぐんだ目でカースティの目を見た。
「私もよ」と言って、彼女も、パトリックとジェシカの手の上に、手を重ねた。
パトリックは、二人が本心で言っているのかどうか、完全には二人の気持ちをつかめたわけではなかったが、二人の理解に感謝し、弟について自分が知っていることをようやく彼女たちに話せて、胸のつかえが下りた気がした。
ジェシカ
彼女はこのことを旅の後半で話すつもりでいた。アイラ島に着いてからか、あるいは家に帰る道中で話そうかと考えていた。しかし、正直者の妖精が舞い降りたかのように、ジェシカは考えを改めた。
「私も、話したいことがあるの」と彼女は静かに言った。そして促されるのを待つことなく、続けた。「私とダンは、彼を救済することができたの。セラピーを受ける必要があるのなら、そのお金を工面できたし、建築士事務所を立て直す手助けもできた。実際貯金もあった。ママとパパの家で、あんな風に家族会議が断ち切れになって、家に帰ってから、二人で話し合ったの。私たちの家を改築するために貯金していたお金を、アンドリューのために使おうかって。なんとか二人で協力してやりくりすれば、それくらい後から回収できるって」
「ダンがノーって言ったんだな?」とパトリックが聞いた。彼女の夫に、ブーツの先でけりを入れてやりたい衝動が、いつにも増して湧き上がった。
「いいえ」と、ジェシカが少しためらいがちに言った。「ノーと言ったのは私」
その言葉は、しばらく空中を旋回し、不穏な空気をまき散らしていた。ジェシカは時々このような状況を引き起こす。彼女が言ったことが、その場を凍りつかせ、そこにいる全員を激しく怒らせたり、ひどく動揺させたりする。そんな修羅場が直後にやってきそうな雰囲気だった。
「あなたがノーって言ったの?」とカースティが言った。
「彼の助けになるとは思わなかったのよ。正直に言えば、今でもそう思ってる。あの時、急場しのぎで彼を救えたかもしれない。でも、それで本当に彼の問題は解決したのかしら?」
「彼は出て行かなかったかもしれないわ、ジェシカ。家族に支えられてる、みんなに愛されてるって、そういう感情が彼に芽生えたかもしれない」
「彼は支えられてたし、みんなに愛されてたわ。お金の問題じゃないでしょ。何千ポンドあげたって、それはその人を支えたり、愛することにはならないのよ。彼が変わるのを手助けしてあげないと」
「お金では、彼が変わる手助けにならなかった?」
ジェシカは一瞬、言葉に詰まった。あの時、自分がどう感じていたのか、うまく表現できなかった。そう、確かにあの時、両親に負担をかけずに、弟を救い出し、家業も存続させるだけの資金があった。ダンは、ビジネス・コンサルタントとしての経験を生かし、〈カドガン・ファミリー・建築士事務所〉を、2008年の大恐慌の余波から引き揚げ、再び軌道に乗せることができたはずだし、アンドリューも事務所のスタッフとして留まり、給料をもらいながら、セラピーとかを受けて、軍隊で負った精神的な傷を癒せたかもしれない。
しかし、そんな仮定の話は、どこかしっくりこない。家を改築するための資金が貯まったからこそ、私たちは引っ越さずに済んだのだし、ダンはあの頃、地元の政治に参加するようになって、初めて選挙に出馬するんだと意気込み、周りを巻き込み騒ぎ立てていた。
それに、アンドリューは以前にも、困難な人生から抜け出す方法を示され、手を差し伸べられたにもかかわらず、それを拒否したことがあった。もしあの時、私たちが彼にお金を渡して、それで計画が失敗したら、それこそ最悪の事態になっていた。家は改築できず、ダンは〈事務所〉を立て直せなかったことで、彼のコンサルタントとしての経歴に傷がついていただろうし、アンドリューは相変わらず荒れた生活を続けていた可能性だってある。
「何が起こるかなんてわからなかったの」とジェシカは、弁解するように言った。「彼があんなことをするなんて、ちょっとでも、彼が失踪するとか考えていたら、もちろん、私は彼にお金をあげたわ。何でもしたわよ、カースティ。何でもね」
「あのね」と、彼女は手厳しく言った。「彼の顔を見ながら、そのくだらない言い訳ができる?」
「もうやめてくれ、カースティ」とパトリックが言った。
「いいえ、やめないわ。彼女はすべてを防ぐことができたのよ。彼女が自分のことと自分の家のことだけを考えてるから、こんなことになったの。そうでなければ、私たちの仲がこんなに悪くなることもなかったし、こうして、こんな旅に出ることもなかったでしょうね」
「おいおい」
「彼女はお金を貯め込んでるくせに知らん顔だから、ママとパパが彼を救済したのよ。あの家を売って、全部を穴埋めしようとした」
「それは言うな」とパトリックが言った。普段は日和見(ひよりみ)の弟が、自分を擁護する側に回っていることに、ジェシカは驚いていた。
「どうして言っちゃダメなわけ? 明らかに相関関係があるでしょ。ママが死んだ時、パパに家の売却を迫ったのは、彼女だけよ」
「だってね、あの家をいつまでも抵当に入れておいても、借金が莫大に膨れ上がっていくだけだったのよ!」とジェシカが言った。「それを返し続けるために、家業を続けなければならないなんて、パパが気の毒じゃない。もう引退していいはずの歳なのに、まだまだ働くなんて」
「パパは働くのが好きだったのよ」と、カースティが跳ね返すように言い放った。「あなたがもっと彼の家を訪れて、彼と話していれば、そういうこともわかったでしょうけど」
調理台に寄りかかっていたジェシカが身を起こした。カースティをひっぱたこう、という衝動がどこからともなく降ってきたようだった。まるで操られるようにして、彼女の手が伸び、パシッと乾いた音を立てた。
ジェシカは、最後に平手打ちの喧嘩をした時のことを思い出そうとした。あれはたしか学校で、ホッケーの試合の後だった。相手は思い出せないが、妹ではなかったことだけはわかる。私たち姉妹は、年の差が結構あるためか、口喧嘩はしても、手を出したりすることはなかった。カースティの10代から20代前半にかけては、むしろ相談に乗り、助言をしていた。絶縁に近い状態に陥るまでは、ほとんど母性的なつながりがあったのだ。
顔をひっぱたかれた直後、カースティはテーブルに座り込み、放心状態で、赤くなった生身の頬を手で押さえた。
「カースティ、私は―」
「グラスゴー空港で降ろしてあげるわ」とカースティが言った。「そこから飛行機で家に帰れるわ。最初からあなたは来るんじゃなかったのよ。明らかに嫌がってたものね」
そう言うと、彼女は立ち上がり、姉の横を通って、寝台の上の段にのぼり、中に入ってカーテンをピシャリと閉めた。1、2分後、妹のくぐもった嗚咽(おえつ)とすすり泣きが聞こえてきて、ジェシカは罪悪感にさいなまれながら、彼女にもう一度謝りに行こうとした。なぜ叩いたりしたのか、その理由を説明したかった。しかし、梯子(はしご)に伸ばした腕を、後ろからつかまれるのを感じた。
「今はだめだ」と、パトリックが静かに言った。「たぶん、彼女は―」
「ハイホー! こんちはー!」という船乗りのような陽気な声が、パトリックの発言を遮るように聞こえてきた。キャンピングカーのドアがひらき、パサパサにふやけたパイ生地みたいなハゲ頭がにょきっと現れ、ついで笑顔が顔を出した。「パトリック・カドガンさんでよろしかったですか?」
「そうです。そうです」とパトリックは陽気に答えた。ジェシカの耳元で話していた深刻な口調を急に切り替え、建築現場で同僚に話しかけられた時のような、自然な応対だった。―同僚たちの中で揉まれたことのないダンには、これができないんだよね、とジェシカは思った。「さあどうぞどうぞ、入ってください。というか、船に乗ってください」と彼は言った。
「私はキースと申します」と、その訪問者は言った。明るいオレンジ色のオーバーオールに全身を包み、黒くてがっしりした厚底ブーツを履いている。彼はクリップボードを脇に挟むと、手を差し出し、パトリックと握手を交わした。ジェシカには挨拶すらしなかった。「〈THE ADVENTURER(冒険家)〉だなんて、かっこいいですね。船かと思いましたよ。アドベンチャラー号の冒険を再開できるように、手を貸します」と彼は微笑みながら言った。「車輪のことですね?」
「ええ、そうなんですよ。パンクしちゃって、自分でタイヤ交換しようとしたんですけど、完全にハマっちゃってるみたいで」
「そうですね。さっき声をかける前にちょっと見てみたんですけどね。砂利とか泥とか、もういろんなもんがこびりついてましてね」彼はそう言うと、クリップボードの書類に何やら書き込んだ。「問題ありません。解決はできますが、ここでちょっとお待ちいただくことになっちゃいますね」
「どのくらい?」とジェシカが聞いた。彼女の心はすでに、空港に着き、何かちゃんとした物を食べてから、帰りの飛行機で眠ろうという考えに流れていた。彼女は昔から飛行機ではよく眠れる性質(たち)だった。
「1時間くらいですかね。砂利とかを全部取り除いてから、タイヤ交換するんで、もう少し長くかかるかもしれません。私があなただったら、中でゆっくりくつろいでますね」とキースは言って、「楽しい思い出を」と付け加えた。テーブルの上にひらきっぱなしのアルバムを指差して、微笑んでいる。
ジェシカは腕時計を見た。午後1時を回ったところだった。ここから空港へ向かい、飛行機に乗るにはまだ十分な時間がある。他の二人はフェリーに乗るために、まだ300キロ以上運転しなければならない。この時点で、彼女はそこまでする意味を見失っていた。この旅で、カドガン家のきょうだい三人が、ある程度までは礼儀正しく振る舞えることはわかった。けれど、いつまでも一緒にいると、結局は険悪なムードになり、不幸な結末を迎えることになるのだ。それが、今の三人の関係だった。無理もない。私たちの関係は、不倫と裏切りの末の夫婦のようなものなのだ。どんなに過去のことは忘れて、平然と接しようとしても、そういうことは常につきまとってくる。
パトリックは書類にサインをしてから、キースに紅茶をいれようと、調理台の方を向いた。
「これはあなた方の車ですよね?」とキースは、キャンピングカーの中を見回しながら、ジェシカに尋ねた。
「私たちのパパのものだったんです」
「幸運な男ですね」と彼は言った。「ずっとこういうのが欲しかったんですよ」
彼女はよっぽど彼に「あげますよ」と言おうかと思ったが、黙ったまま微笑んで自分の寝台に戻り、そこで、もう少しで終わるこの旅の残りをやり過ごすことにした。
チャプター 8
グラスゴー郊外のどこか
カースティ
キャンピングカーがガタゴトと発進する音を感じて彼女は目を覚ました。口喧嘩の末の平手打ちの後、カースティは寝台に戻った。スマホで、アンドリューのFacebookをスクロールし始めたのは覚えている。どうやら、そのまま寝落ちしちゃったみたいね。
ジェシカに平手打ちされたことよりも、このFacebookのページが、カースティの気持ちをざわめかせた最たる理由だった。末っ子であることは、兄との思い出が最も少ないということでもある。アンドリューの人生に衝撃を与えたいくつかの出来事は、彼女がまだ幼かった頃に起こった事で、当時もあまり認識できていなかったし、何年も経ってから振り返ろうにも、手掛かりがほとんどなかった。もっと言えば、正直なところ、私は幼い頃から10代の半ばまで、彼をうっとうしい兄としてしか認識していなくて、ようやく友達のように思えてきた頃には、彼は軍隊に入ってしまった。つまり、人生で彼と関わった期間が短すぎて、それがとてもつらかった。
不思議なことに、彼女は昨日、アルバムを取り出す前からアンドリューのことを考えていた。三人がそれぞれに、ときおり亡霊のような彼の面影を傍らに感じていたのだ。そして、キャンピングカーがプレストンの辺りを走行している時、カースティは口には出さなかったが、メルとの思い出が心中に去来していた。―メルは、アンドリューの唯一の、長く付き合ったガールフレンドで、プレストンは彼女の出身地だった。
彼女は背が低く、丸みを帯びた顔立ちで、いつ見ても頬が赤く染まっていた。ブロンドの髪はショートボブっぽく、首のあたりで切りそろえられ、ブラックジーンズと、ロックバンドのロゴ入りTシャツを着ることに(私からすれば、ありがちだけど)こだわりを持っていた。アンドリューが言うには、ブライトンの共通の友人を通じて彼女と知り合ったという。けれど、二人がオンライン上で知り合ったことは、ほぼ間違いないだろうと、みんなが思っていた。というのも、メルには、ブライトンにほとんど友達がいなかったからだ。彼女はサセックス大学の修士課程の学生だった。同じ学生寮に住んでいる女友達はいたが、彼女たちがアンドリューとつながりがあったとは思えない。メルの専攻は犯罪学と刑事司法で、それを活かして、彼女は再犯者の問題に取り組みたいと考えていた。当然のごとく、彼女は最悪の部類に属する人物に、病的なまでに興味を抱き、おぞましい殺人事件が起こる小説を貪(むさぼ)るように読んでいた。
家族の誰もがメルを好きだった。彼女とアンドリューは2年間付き合っていたが、彼がふらっと、誰にも理解できない理由で失踪する前に、二人は別れた。アンドリューは別れた理由を話そうとはしなかった。
アンドリューから何か聞いていないかと、スーが彼女に連絡を取ってみた。しかしメルも、私たち家族が知っている以上のことは知らなかった。その時点では、彼女はすでにブライトンを離れていて、マンチェスターに住んでいるとのことだった。アンドリューが、海岸沿いの街と彼女をつなぐ唯一の存在だったようだ。
カースティは昨日、Facebookでメル(正式にはメラニー)のことを調べてみた。私たち家族が知っている彼女の名字(キャッチポール)はカッコでくくられていて、その前に彼女の新しい名字が「バナー」と書かれていた。彼女のプロフィール写真には、なじみのあるショートボブ、バラ色の頬、そして丸っこい満面の笑みが写っていたが、今の彼女は、夫と2人の男の子という家族に囲まれていた。要するに、メラニー・キャッチポールから、結婚してメラニー・バナーに変わったらしい。彼女の名前の下には、「あなたとメラニーには共通の友人が1人います」と、Facebookの仕様で表示されていたが、タップするまでもなく、カースティはそれが誰なのかわかった。
彼女は寝台のカーテンを少し開けて、車内を覗き込んだ。ジェシカはテーブルに向かって座り、スマホをいじっている。パトリックが運転していた。あとどれくらい走れば、空港に着くのだろうと思った。そこで姉を降ろして、それからは彼と二人旅になるわけだ。
「今、何時?」とカースティは、絶え間ないエンジン音に負けじと声を張った。
「もうすぐ4時」と彼が、後ろを振り返ることなく答えた。
「もうそんな時間? 私たちはどれだけ足止めを食らってたのよ」
「それは言うな」
「そうよ」
「えーと、ここはどこ?」
「グラスゴーの近く」と彼が言った。
カースティは寝台の梯子を下り、テーブルの方へ歩いた。走行中の車の中を歩くのは、不思議な感覚だった。足元が不安定だと、不安な気分になってくる。
一瞬、ジェシカと向かい合って座ろうかと思ったが、それはあまりにも気まずい。自分がクビにしたばかりの社員の隣で仕事をするようなものだ。彼女はテーブルを素通りし、ギアスティックとハンドブレーキを乗り越えるようにして、パトリックの隣の助手席に座った。
助手席からの眺めの方がずっと良かった。スコットランド第二の都市グラスゴーが不規則に触手を伸ばし、広がってきたような広大な郊外を見渡すことができた。家々、庭、フェンスが整然と並び、倉庫やタワーマンションが時折り、墓地の樹木のように地面からそびえ立っている。
「セルティックパークだよ、ほらあれ」とパトリックが言って、斜め前方を指差した。彼の指の先に視線を向けると、巨大な四角い建造物が遠目に見えた。サッカースタジアムらしいが、カースティには、人差し指で押されるのを待っている四角いボタンに見えた。
「魅力的ね」と彼女は皮肉っぽく言った。しかし内心では、パトリックが少年の頃と少しも変わっていないことが喜ばしかった。昔、家族でドライブ旅行に出かけた時も、彼は同じようにサッカースタジアムを指差して興奮していた。それを心得ていたパパは、わざわざ回り道をしてでも、リバプールの〈アンフィールド〉や、マンチェスターの〈オールド・トラッフォード〉などのサッカースタジアム、はたまたイギリス中に点在する教会や大聖堂が見える道路を走行することがよくあった。
懐かしい気分になる一方で、カースティは不安な気持ちも抱えていた。パトリックが今運転しているということは、グラスゴー空港でジェシカを降ろした後は、自ずと自分が運転する番になるということだ。となると、トロサックス国立公園を抜けて、ローモンド湖や、湖畔の小さな町を越えて、ケナクレイグのフェリー乗り場まで、自分がハンドルを握らなければならない。―普段乗っている〈日産マイクラ〉で街中を走ることには慣れていた。狭い道路でも、時速35キロを超えることはほとんどないから、すいすい走れた。しかし、スコットランドの田園地帯の、危険をはらんだ曲がりくねった道を、川を流れる流木のようなキャンピングカーで走るのは、私にはきっと無理だ。
そして、空港の標識が目に入り、カースティは深く息を吸い込んだ。いよいよその時が来る。少なくとも三人の旅は、ここで終わる。
ジェシカ
この旅もあと数時間後には終わりを告げる。そう思うと、カースティに謝っておこうかな、と彼女が考えたのは事実だった。何しろジェシカは平手打ちをしたのだ。ここ何年も、誰かを平手打ちなんてしたことがなかった。とはいえ、プライドが高くて、知的な彼女には、当然そんな過去もあった。(学生時代、シェアハウスでルームメイトが食器を割ったことに過剰に反応し、つい手を出してしまったことがある。思い出したくもない過去の一幕ね。)
やっぱり旅を続けようか、という考えがよぎったことも事実だったが、考えれば考えるほど、ここで降りるという判断は正しいものに思えてくる。パパが何を意図していたにせよ、キャンピングカーに娘と息子を押し込んで、家族の絆を取り戻させようなんて、そんなのあり得ない。いったいいつから、キャンピングカーは絆を深める装置になったというのか?
こんなことで元通りになるわけがない。カドガン家は、―カドガン家の名残といった方が正しいかもしれないが、―とにかく私たちは、粉々になったクリスタル・ガラスみたいなもの。修理するにはあまりにも細かく、バラバラに散らばってしまった。もうどうしたって修復なんて不可能だ。どんなに礼儀正しく振る舞おうが、必ずどこかに欠けた破片が転がったままで、平然としたまま終われるはずがない。それは出発の時点で私が感じていたことで、何も変わらなかった。帰り道もこれを続けるなんて、無理な話ね。
「じゃあ、ここは俺がいっちょ運転すっか?」と、パトリックが名乗り出てくれた。あの極端に陽気な整備士のキースがタイヤ交換を終えて(彼の見積もりよりも、さらに丸々1時間長くかかった)、いよいよ再出発するという時のことだった。彼が口先だけで、一応そう聞いてくれているのはわかったし、彼がお酒を飲んだのも承知していたけれど、タイヤがパンクして、車体が滑り、縁石に乗り上げた時の感触が生々しく残っていて、私が空港まで運転する、とは言い出せなかった。
「ええ、そうしてくれると...」
「よっしゃ」と、彼は思ってもいないことを口にした。彼の顔には、あからさまな不快感が浮かんでいた。パトリックは感情を隠すのが、昔から下手くそなのよね。
「私がいなくても問題ないわ。あなたたち二人でなんとかなる。私はこういうことに向いてないみたい」
それを聞くと、彼は運転席へ向かい、座り心地の悪いグレーのシートに座った。シートの縫い目にたまったポテトチップスやビスケットのかすや、パンの耳をわざわざ払い落とそうとはしなかった。私は一人でテーブルの椅子に座った。カースティは寝台で寝てしまったか、怒りで煮えくりかえっているのだろうと思った。そのうち、彼女が寝台から下りてきたが、横柄(おうへい)な態度で私を見ようともせず、不格好な体勢で前のめりになって、部屋履きのスリッパをギアスティックに引っ掛けそうになりながら、パトリックの隣に乗り込んだ。
「あと15分」とパトリックが言った。スコットランドのサッカースタジアムについて、その中で行われているかもしれない試合の熱気を想像していて、ふとそこから現実に戻ってきたような言い方だった。もしカースティに嫌気が差していなければ、私は彼女に同情したかもしれない。私はもうすぐ降りるからいいけど、彼女はあと数日間、パトリックのくだらない話に付き合わなければならない。それを思うと、少し可哀想ね。というか、遺灰を海に撒いた後、彼らはどうするつもりなのだろう? バイキングの葬式みたいに、このキャンピングカーを船に見立てて、火をつけて海に流すとか? しかし、そんな冗談を今口に出したら、それこそ火に油ね。
「了解」とジェシカは静かに言った。これでいい、と思った。もう後戻りはできない。というより、もうこれ以上進むことはできない、と言った方が正しいわね。実際には、飛行機でかなり後戻りすることになるわけだから。
彼女は、スマホで〈イージージェット〉のアプリを開き、ルートン空港行きの次の便を探した。タイミングが悪く、次の便の出発まであと4時間もある。でもそんなの大したことじゃない、とジェシカは思った。グラスゴー空港には、カフェや本屋や、小さなバーだってあるでしょ。散々だった数日間にたまった疲れを、空港で癒すことができるはずだ。彼女は、残り少ない空席を予約し、1時間足らずの空の旅に、200ポンド(約3万円)近くも支払った。
哀しいかな、今回ばかりはそれだけの金額を払ってでも、飛行機に乗りたい気分だった。
パトリックが高速道路の出口へと左にハンドルを切った。その反動で、ジェシカの体が右へよろめく。体勢を立て直しつつ、窓の外を見ると、グラスゴー空港が視界に入った。飛行機が低空飛行をしながら、だんだんと大空へと上昇していく。かと思えば、別の飛行機が緩やかに下降してきて、空港の滑走路に降り立った。きっと多くの乗客が、私みたいに早く家に帰りたいと思っていることでしょう。
ジェシカ:今のところ順調よ。一度か二度、口喧嘩はしたけど、今知らせるべきことは特にないわ。あなたたちが旅行から帰って来たら、全部話すね😘
彼女はメッセージの〈送信〉を押した。画面上部の細い線が伸びるように青く満たされ、ダンへの送信が完了した。順調だなんて、嘘もいいところね。少し忍びない気持ちもあったが、スポーツタイプの自転車でツーリングに出たサイクリストが、山道で息も絶え絶えになって、のぼってきた坂道を逆戻りして下(くだ)り始めるみたいな現状を、つらつらと書き連(つら)ねでもしたら、ダンから電話がかかってきて、途中で引き返すなんてよせ、と説得されるのが目に見えていた。それなら、彼らが休暇旅行から帰ってきてから、すべてを説明した方がいい。それでも、ジェシカに平手打ちしたことや、パトリックの飲酒、アンドリューの思い出話などの詳細は省いてしまうかもしれない。というか、私もダンたちとバカンスへ出かけるはずだったのよ。
グラスゴー市に入ってから、ゴーボールズ地区の灰色の街並みを抜けて空港までの道のりは、ほんの数秒のうちに過ぎ去ったように感じられた。ジェシカはその間、自分の判断が正しかったのかどうか、流れる街並みを眺めながら考えていた。数秒おきに、パトリックに声をかけて、やっぱり私も車に残るわ、と言おうかどうしようか迷っているうちに、キャンピングカーが空港の敷地内に入ってしまったので、彼女は黙っていた。
「駐車場に停めるよ」とパトリックは言って、立体駐車場の方へ車を向かわせた。この大きなキャンピングカーをあそこに入れるのは、かなり苦労しそうだ。
「いい」と彼女はすぐに言った。「大丈夫。その辺で降ろしてくれれば」
「いいのか? 俺が払うよ」
「お金の問題じゃないのよ」と彼女は言った。ほんの少しの間の駐車料金、3ポンド(約500円)の話ではなく、何千ポンドの話をしているかのようだった。
パトリックは彼女の言うことを受け入れ、送迎車が行き交う小さな平面駐車場で彼女を降ろすことにした。
「ったく、ふざけんなよ」と彼は呟きながら、平面駐車場の手前で車を減速させた。
「何が?」
「高さ制限だとよ」と彼は言って、高さを測るバー付きの入場門の数メートル手前で停車した。背後の車がクラクションを鳴らし、さらに3つのクラクションが後に続いた。それぞれが違う音色で、オーケストラのごとく、『苛立ち』という名の曲を奏で始めた。
「うるせえ!」とパトリックは運転席に座ったまま、誰にともなく、というより、楽団員全員に向かって叫び返した。
「もうここで降ろして」と言って、ジェシカがテーブルから立ち上がり、バッグをつかんだ。
「ここで降ろすわけにはいかないよ」
「どうして? 私を降ろしたら、バックして道路に戻ればいいじゃない。後ろの人たちがほら、こんなにイライラしてるんだから」
少しためらった後、パトリックはキャンピングカーを右に寄せ、左側に車が通れるスペースを空けた。そして、クラクションを鳴らし続けながら、すぐ横を通り過ぎようとした車の運転手に向かって、「一回でわかるよ!」と叫んだ。ジェシカが車から降りようと、ドアを開ける。
飛行機の燃料と、渋滞待ちの車の排気ガスが混ざったような臭いが立ち込めていて、彼女は思わず、うっと鼻を押さえた。パトリックが「まだ降りちゃダメだ」と言った。
「どうしてダメなの?」
「ちゃんとさよならを言ってないだろ」
「そうね」彼女は、なるべく優しいさよならの言い方はないかと言葉を探した。「じゃあ、ね、さよなら」
ジェシカはハンドバッグを肩にかけ、スーツケースから取っ手を引き出すと、それを握って歩き出した。目の前の小ぶりな駐車場では、たくさんの人たちが、ちゃんとしたさよならを交わしていた。実家を出るのか、若者を両親が抱き締めている。逆にふるさとに帰ってきた人を抱き締め、迎え入れている家族もいたり、しばしの別れを惜しむ恋人や、友人たちでごった返していた。デニムのショートパンツに麦わら帽子をかぶった女の子が、父親と抱き合っている。父親は、この18年間の出来事をめくるめく思い出しているのか、うるうるしているように見える。彼女は、駐車場の向こうからやって来た女の子を見ると、一緒に上京する友達なのか、甲高い声を上げた。さらに、筋肉に張りつくような、ピチピチのTシャツにジーンズ姿の若い男の3人組が、ワゴン車から降り立ち、談笑しながら並んで歩き出した。搭乗前に一杯飲むつもりか、空港のバーはどこだ? などという会話が聞こえてくる。
ジェシカが振り返ると、パトリックが車をバックさせ、入場を拒(こば)まれた入り口からゆっくりと離れていく。この入場門が、私たちのちゃんとした別れも阻(はば)んだのだ。彼はフロントガラス越しに、申し訳程度に小さく手を振っている。カースティはうつむいたまま、こちらを見ようともしない。
今、ジェシカは一人になって、ターミナルへと歩き出した。
パトリック
15分ほど黙々と運転した後、彼はようやく落ち着きを取り戻し、口を開いた。
「ったく、馬鹿馬鹿しい」と彼は言った。
「そういう決まりなんでしょ。もういいじゃない。落ち着いてよ。入場門を塞いで渋滞をつくってたのは、あなたなんだから」
「そうじゃなくて」と彼は返した。
「まあ、さっさと帰りたがってたのは彼女の方だけどね」カースティは彼の言いたいことを察したようだった。
「こうなってみると、味気ないっていうかさ。なんか違うよな? お前も何か言ってくれれば、こんなことにはならなかった。謝るとか」
「謝る?」その発想自体が信じられないといった様子で、彼女は語調を強めた。「彼女が私をぶったのよ、パトリック。もしかして見てなかったとか言わないわよね?」
「お前もさんざん彼女をこけにしてたんだから、お前の方から謝っていれば、彼女だって、こっちこそごめんなさい、くらい言っただろ。彼女の性格を知ってるよな? 昔からああいうやつなんだよ。彼女のせいじゃない、だろ? しょうがないやつなんだよ」
「だからって、なんで私が謝らなきゃいけないの?」
パトリックは何も答えずハンドルを切り、再び高速道路に乗った。グラスゴーから北へ向かって、無数の車がビュンビュンと疾走している。隙間をついて、その流れに紛れ込んだ。
「今ここには、現在進行中の大きなものがあるんだ。でかいことをやってるんだよ。父さんは俺たち三人が一緒にやることを望んだ。それが彼の最後の望みだったんだ。そして、結局それは実現しなかった」
「まあ」とカースティは言ったが、そこで自分自身を制止した。今は揚げ足取りや議論をしている場合ではないのだ。正しいとか間違ってるとか、そんなことはどうでもよくて、ただ三人が、ちょっとずつお互いにずれてるだけ。これ以上口論しても何も解決しない。
「そうね」彼女がそう言った時、キャンピングカーは長いアースキン橋に差し掛かった。
パトリックは窓の外を見た。橋を上から支える鋼(はがね)のケーブルが揺らめきながら流れていく。眼下のクライド川と、その横の土手や木々、そして遠くに見える町の景色を、揺らめく縦線が歪めている。まるで子供の頃、〈ゾーエトロープ〉を覗いた時みたいに、流れる縦線の隙間から風景が浮かび上がってくるようだった。
「でも何とかなるわよ。二人でやり遂げましょ」と彼女が言った。
チャプター 9
インバラレイ、スコットランド
カースティ
午後6時過ぎ、その日最後の交代のために車を停めた。ファイン湖畔にあるインバラレイという町のガソリンスタンドの前だった。パトリックが後で食べる食料と、さらにワインも買いに行っている間、カースティは体をほぐそうと、道路を渡った。小さな砂浜が、ガラスのような水面まで続いていた。
この日、日中の空は晴れ渡っていた。そのため、ピンクとオレンジの美しい夕陽が、湖面や山肌で跳ねるように、キラキラと眼前に迫ってきた。その色彩は、現実とは思えないほど淡く美しく、まるでエフェクトを使った写真のように幻想的だった。スコットランドのこの辺りは、大都市のような人工的な光がほとんどないため、夕焼けがだんだんと暗闇に包まれていくさまが手に取るようにわかった。水面(みなも)に木々や山の影が映し出されていった。それから、月のシルエットまでも湖面に揺れるように浮かんだ。湖の中腹から彼女が立っている浜辺に向かって、ゆっくりと流れてくるかのような月の輝きを眺めていた。
「素敵な夜ですね」彼女の背後から、見知らぬ声がした。カースティが振り向くと、60歳くらいの女性が犬を連れて立っていた。少し太った小型犬〈ジャック・ラッセル・テリア〉が、リードなしで彼女のそばをちょこちょこと歩いている。
「そうですね」
「旅行ですか?」
「まだこの先まで行くんですけど、ちょっと休憩で」と彼女は言った。先程までトロサックス地方の森林を走行していた。彼女は助手席に座ったまま、うんざりするほどだらだらと続くラジオのサッカー中継と、ときおり歓声の後に挟み込まれるパトリックの熱い解説を、聞くともなく聞いていた。口数の減らないパトリックに対し、カースティはグラスゴー空港でジェシカを降ろしてから、ほとんど何も話さなかった。人情で声をかけてくれたこの女性に失礼にならないよう、「私たちはアイラ島まで車で行くんです」と彼女は付け加えた。
「そうするとあなた方は、ウィスキー愛好家ですか?」
「そんなところです」カースティは振り返って、道路の向こうを見た。パトリックがキャンピングカーにガソリンを入れている姿が見えた。
「それ以上言う必要ないわ」とその女性は言った。明らかに彼女は、私たちを夫婦だと勘違いしているようだった。無理もない。一目見ただけで、だんだんと絶望的になっていく任務を実行中の、口喧嘩の絶えない兄妹だと当てられたら、そっちの方が怖い。
彼女の犬が波打ち際まで駆け寄って、湖の水に濡れた小石や砂利をくんくんと嗅ぎ出した。「私にはあの子がいるから」と彼女は言って、犬の後を追うように歩き出した。その時、犬の首にネオンの輪っかが付いていることに気づいた。暗くなっても見失わないよう、光る首輪を付けているのだとわかったが、まるで放射線を放つフリスビーか何かのように見えた。
「またどこかで」とカースティは言ったが、言った直後、その見知らぬ女性と再びどこかで巡り会うことはまずないだろうな、と思った。
彼女は一人、澄み切った夜空を見上げた。藍色に滲むビロード生地みたい天蓋(てんがい)で、星々が瞬(またた)いている。遠くから、ひときわ大きな彗星のような光が飛んできた。ゆっくりと着実に進みながら、夜空を横切っていく。飛行機だった。しかしその飛行機がどの方向へ飛んでいくのかまではわからなかった。初めて来た湖のほとりで、完全に方向感覚を失っていた。ふと、ジェシカの姿が頭に浮かんだ。彼女は今、どこかの夜空を飛ぶ飛行機の中にいて、スマホを叩きながら、4Gの電波が届く地上に早く着陸してよ、と苛立っている。そんな気がした。
次に姉に会うのはいつだろうと、彼女はその時の再会シーンを思い浮かべようとした。しかし、それがいつになるかは想像つかなかった。実家はもぬけの殻で、売りに出されているから、ブライトンと彼女をつなぐものは何もない。かといって、カースティがジェシカの家を訪れるかといえば、それはもっとない。自分が全世界の中心に住んでいると勘違いしていて、市議会議員だか、町議会議員だか知らないけど、そこの住人の代表気取りで暮らしている夫婦のところへなんて、行く気しないわ。
おそらく次に会うのは、誰かの葬儀の時だろうな、と思った。親戚が死んだ時にだけ顔を合わせる、そんな家族に成り下がったも同然だった。円盤状のヴォロヴァン・パイを取り囲み、冷めたチキン・グジョンをかじりながら、お互いをチラ見して、気まずい会話を交わすのだ。そして、ほとんど見覚えのない大人たちに囲まれて緊張ぎみの姪や甥に、過度になれなれしく話しかける。そんなうっとうしがられるだけの叔父叔母になるのだろう。マックスの身長が前に会った時よりも、30センチくらい伸びていることに目を見開いて、「大きくなったね」などと言う。もっとしょっちゅう会っていれば、急激な成長に驚くこともなかったはずなのに、そのことにすら気づかないまま、作り笑いを浮かべている。
パトリック
彼は道路の向こう側に目をやった。妹が湖の水面を、考え込むように見つめている。まるで水面に答えが浮かび上がってくるのを待っているかのようだ。カースティはそういうタイプだった。人生が次々と投げかけてくる問題について考える時、周りの自然に目を向ける。真実が実際にあるかもしれない自分の内側を見るのではなく、むしろ外側に目を向けるのだ。
パトリックはスマホを耳に当て、着信音を聞きながら、彼女が電話に出ることを願っていた。少し前にも、ガソリンスタンドの脇の、ガスボンベや薪(まき)の入った袋を保管している場所に隠れるようにして、クロエに電話をかけてみた。けれど、留守電につながっただけだった。
今度もまた同じメッセージが流れた。
「留守番電話サービスへようこそ。あなたがかけようとしている相手は現在、電話に出られない状況です」
「ったく、出てくれよ」
いつの間にか、カースティが犬を連れた女性と話している。なぜ彼女は見知らぬ人の気を引くのか、神のみぞ知るだな、と思いながら、パトリックはキャンピングカーの中へ戻った。買ってきたピザを小さな冷蔵庫に入れた。冷蔵庫には、昨晩の残りのサラダが半袋と、ジェシカが置き忘れていったコーヒー豆も入っていた。上等な紙袋に保管されていて、いかにも高級そうだ。
その時、ポケットの中でスマホが震えるのを感じた。
「もしもし?」
「電話した?」
「ああ、うん」彼はカースティの視界に入らないよう、ドアに続く段差に腰を下ろした。「ごめん、なんていうか...」
「いいのよ、べつに。今、子供たちの夕食を準備してたところ」とクロエが言った。パトリックは時計を確認した。マギーもそろそろ、ステュとサラと一緒に食事をしている頃だった。そしてあと数時間もすれば、彼らはマギーをベッドへ連れていくはずだ。彼は、なるべく早くマギーとビデオ通話をしよう、と心のノートに書き込んだ。「どうしたの? なんだかあなたの声がちょっと...」彼女はそう言って、言葉を濁した。
「そうなんだ。ちょっと動揺してるかもしれない」と、パトリックは神経を落ち着かせながら言った。「もしここで、この旅をほったらかして、家に帰ったりしたら、ひどい男だと思うかな?」
クロエが「ちょっと待ってて」と言って、スマホを置いたようだった。背後で子供の甲高い悲鳴が聞こえ、皿かナイフかフォークが、ガシャンと床に落ちたか、叩きつけられた音がした。
「いいえ」と、ようやく彼女の声が返ってきた。「ひどい男だとは思わないけど、でも...わからないわ、パトリック。いったい何があったの?」
「ジェシが帰っちゃって。カースティと喧嘩したんだ。それで、今は二人だけになった。こんな旅に本当に価値があるのか、もうわからなくなってる。まだフェリー乗り場の近くにさえ行けてない。今ここで終わりにしたら、明日の朝までには帰れる...」
「それが、あなたのやりたいことなんでしょ?」と彼女は言った。彼女の声には、判断や強制の響きは全くなかった。まだお互いの行動に口出しするほど、親しくはなっていないということだろう。問題は、俺にはこんな時、他に頼れる人がいないということだ。親戚の誰かに電話すれば、カドガン家の不和を解決する方法について、口うるさく言ってくるかもしれないが、求めているのはそういうことではないのだ。
「わからない。本当にわからないんだ。わかってるのは、これは父さんが望んだことではないってことだけ。なんだか二人で、ただ意地になって続けてるだけのような気がしてきた。昔の殉教者みたいに、聖地にたどり着く前に命を落としそうだよ」
「じゃあ、彼は何を望んでたの?」
「俺たち兄妹が再び結び付くこと。再び家族になること。でも、そうはならないよ。よく言うじゃないか、過去は取り戻せないって。橋の下を流れる濁流と同じだよ。っていうか、橋すらもう残ってないけどね」
「それで、彼はそう言ったの? それとも手紙?」
「いや、まあ」とパトリックは言った。「それはいいんだけど」
「ねえ、聞いて。私はあなたのことなんてどうでもいいとまでは言わないけど、あれこれ指図するつもりは毛頭ないの。でも、あなたは私に話した。お父さんがアイラ島の浜辺に遺灰を撒いてほしいって。そうだよね?」
「そうだね」
「それで、そこへ向かってるんでしょ」
パトリックはそのことについて少し考えた。俺たち三人は、それぞれが違った解釈で父からの手紙を読み取った。あの釣り具箱には、ウィスキー、写真集、キャンピングカーの鍵が入っていた。彼の意図は何だったのだろう? アンドリューの居場所を知らせるためか、兄妹の和解のためか、それとも残された子供にも、自分の好きだったことを享受してほしいのか。ウィスキー、キャンピングカーでの旅、旅先でのキャンプ生活、どれも父が生前楽しんでいたことだ。もし釣り竿のセットもそこに含まれていたら、アイラ島で釣りでもして旅を満喫しろ、というメッセージが、彼の意図として最有力候補になっていただろう。
しかし彼の手紙には、それらの意図はどれもなかったという可能性もある。「お前たちはまた、3人それぞれ違った意見を言い出すんだろうな。ただ、今回だけは俺のためにこれをやってくれ。アイラ島に行って、ポート・エレン蒸溜所のある浜辺から、俺の遺灰を撒いてほしいんだ。」という文面通り、単純に彼がその場所をこよなく愛していた。それだけのことかもしれない。ただ、パトリックはちょっとショックだった。父の指定した場所が、長年暮らしたブライトンではなく、彼の妻がついに発見された海岸でもなかったことに。もっと言えば、彼が生まれ育った町、ハーフォードシャーでもなかったことに。
「まだ向かってる途中なんでしょ?」とクロエが聞いた。
「まあ、一応」
「じゃあ、途中で引き返すなんてやめなよ、パトリック。そのまま続けるより、今帰ったら、もっと後悔することになるよ」
「君の言う通りだってわかってる」
「けど...」と彼女は先を促した。
「今、キャンピングカーの中の段差に座ってて、外にいるカースティからは見えない。到着まであと何時間運転すればいいのかわからないんだ。どうやって乗り切ればいいのか、さっぱりわからなくなってる」
「きっと乗り切れるわよ。ただ、それを彼女に話してみて。私はあなたの妹のことをほとんど知らないけど、あなたが私に言ったことから察すると、もし家族のごたごたを元に戻したいって思ってる人がいるとすれば、それは彼女よ」とクロエは言った。「私がごたごたなんて言っちゃって、出過ぎた真似だったかしら?」
「いや」と彼は言った。むしろ「ごたごた」という表現は、実際の状況よりもマイルドかもしれない。
「ともかく、決めるのはあなたよ。ボールは今、あなたの側にあるの。どう打ち返そうが勝手だけど、そうね、もし途中で引き返してきても、あと1週間は、私はあなたに会わないことにする」
パトリックは笑った。「じゃあ、もしこの旅を続けたら?」
「それでも5日間は無理ね。子供たちにあなたのことをそれとなく伝えなくちゃ。いきなりだとびっくりしちゃうから」
彼はまた笑って、クロエに「それじゃあ、また」と言って電話を切った。段差から立ち上がると、さっきスーパーで買ってきたばかりの缶ビールをリュックに入れて、外へ出た。カースティはまだ道の向こうで、星や湖を眺めながら、新鮮な空気を吸い込んでいた。空気ってこんなに澄んでいたんだ、と肺が驚くくらい不慣れな空気だった。
父親のことを頭の片隅に置きながら、そして車の荷台に置いてある父親の遺灰を思いながら、彼は道を渡っていった。
カースティ
「ピザを買ってきた。湖で牡蠣(かき)でも獲れたのなら、それを食ってもいいけど」とパトリックが言って、彼女の隣に現れた。「そろそろ行こうか。今夜はもうフェリーには乗れないだろうけど、泊まるところを探さないと」
「素敵じゃない?」と彼女は、彼の話をほとんど聞かずに言った。
「見入っちゃうな。けど、カースティ、もうかなり遅れてるから」
「何をそんなに急いでるの?」と彼女は言った。「ちょっとここに座ろうよ。泊まるところなら、港の近くにちょっとしたいい場所がある。ネットで見つけたんだ」
カースティは湿った砂浜の上に腰を下ろし、ファイン湖を眺めた。パトリックはしばらく立ったままだったが、彼女の隣に腰を下ろすと、背負ったリュックから冷えた缶ビール〈オールド・スペックルド・ヘン〉を取り出し、彼女に手渡した。彼はまだ先を急ぎたい感じでそわそわしていたが、彼女は「これといった理由もなく港へ急いだって仕方ないでしょ。白兎に追い立てられてるわけじゃあるまいし」と断固として腰を上げなかった。
二人は缶ビールを開け、ぐびっと一口飲んだ。この種のビールはカースティの好みではなかった。なんだかぬめぬめと喉にまとわりつくようで、美味しくない。しかし外に選択肢がない以上、これで我慢するしかなかった。
「私がベジタリアンだって覚えてた?」と彼女は聞いた。
「そりゃね」とパトリックは返した。私の目を盗んで、ピザからペパロニのスライスを抜き取るのではないか、と思わせる言い方だった。
「パパはこうなることを予想してたと思う? どうせうまくいかないって」
「正直に言うと、予想してなかっただろうな。こういう特別な機会を設(もう)ければ、いつもみたいにはならないだろうと踏んだんじゃないか? 結局、口論の末に計画は台無しだけどな」
カースティは同意したくはなかったが、うなずく他なかった。ジェリー・カドガンは今頃、私たちを見下ろしながら残念がっていることでしょうね。彼が死ぬ間際に思い描いていたはずの筋道から、だいぶ逸(そ)れてしまった。
「もっとよく考えるべきだったよな、パパは。俺たち三人を数日間、一台の車に閉じ込めれば、そりゃあ、殴り合いになるに決まってるだろ」
「それは言わないで」
「本当のことだろ」
「本当のことでも、聞き心地がよくないわ」カースティはそう言うと、缶を大きく傾け、ぐびぐびとビールを喉に流し込んだ。「さっきまで彼女のことを考えてたんだ。あの飛行機の中で、一人きりで座ってる彼女のことを」
「本でも買って読んでるだろ」
「パトリック」
「何?」
「ただね、悲しいなって思ったの。彼女も今ここに、私たちの隣に座ってるべきよ。私たちは三人一緒にやらなきゃ。だってね、こんな機会一度きりよ...わかるでしょ」
「遺灰を撒く?」
「そう」
「だから何? せっかくここまで来たのに」と彼は言った。
「やめようって言ってるわけじゃないの。二人でも撒くべきよ。ただ、少し残しておいた方がいいと思うの。少しだけね、つまり、ジェシカの分を」
「そんなの完全におかしいだろ。でもまあ、お前がそうしたいのなら、べつに構わないけど」
「じゃあそうしましょ」と彼女は言った。
パトリックは頭を後ろに反らして、缶ビールを飲み干した。
「お前も飲み終わったか?」と彼はカースティに聞いた。
「いいえ」と言って、彼女は半分ほど残った缶を彼に手渡した。「残りは全部飲んじゃって。私はこういうお酒が嫌いなの」
「任せろ」
パトリックは、よっこらしょ、と立ち上がろうとしたが、重い体がふらついて、一瞬上がった腰が再び砂利の上に落ちた。もう一度腰を浮かそうとした時、カースティが彼のパーカーを掴み、「待って」と言った。
「何?」
「車に戻る前にもう一つ」
「何?」と彼は繰り返しながら、顔を上げた。湖が月を映している。さらにその向こう岸に目を向けたが、小高い丘々は闇に飲まれ、すっかり見えなくなっていた。
「こうなるのはいつものことだと思う? 私たちが喧嘩別れするのは」
パトリックは、またそれかよ、と言いたげにため息をついた。それに対する答えはすでに何十回も言ってきただろ、と。
「あのさ、ジェシカが―」
「この旅行中のことじゃなくて、一般的な話として、家族ってそういうものだと思う? なんかね、アルバムの写真を見返してたら、なんだか別の家族のように感じられたの。いつもお金のこととかで喧嘩してる家族って、そういう家族があるのは昔から知ってたけど。でも、私たちがそうなるとはね、思ってもみなかった」
パトリックはビールを一口飲んで、「俺も思ってもみなかったよ」と言った。「気づかないうちに、すべてが台無しになってたな。あの夜、喧嘩別れした後、俺たちの誰かがすぐに謝っていれば、家のこととか」
「違ってたかもしれないわね。私もいつもそう思う。アンドリューがいなくなって。ママもいなくなって」
「そんなこと考えてもしょうがないけどな。アンドリューは消えた。ママは死んだ」と彼は言った。「そうなっちゃったんだから、もうどうしようもない。もしかしたら、今とは違う未来が来るかもしれないし。でも、そうも思えないんだよな、なんとなくだけど」
「いつもは楽観的なくせに」
「俺が何を考えてるのか、本当に知りたいのか?」
「たぶんね」と彼女は、ためらいがちに言った。
「おそらく、避けられなかったんだと思う。友情は決まっていつか崩壊するもの。家族をまとめてる唯一のものは、義務感とかいうふざけたものだけだ」と彼は言った。「パパはいつも俺たちに言ってただろ、友達みたいに仲良くしろって。まあ、最終的に崩壊したってことだな、友達なんだから」
「愉快ね」
「俺が言いたいのは、もしそれがアンドリューではなく、ママでもなかったら、違う何かになっていただろってこと。俺たちは大人になっちゃったんだよ」
「そして離れ離れになった」
パトリックが再び立ち上がろうとした。今度は彼女は、彼を引き止めはしなかった。
「こういうこともあるさ」と彼は言って、カースティに手を差し伸べた。彼女が彼の手を掴むと、彼は思い切って彼女を引っ張り上げた。砂利の岸辺から体がふわっと持ち上がる。「けど、ここで終わりにするわけにはいかない。俺たちは先に進まなきゃ、だろ?」
彼は道路を横断した。ぽつんと一つだけ光る街灯の下で、キャンピングカーが誇らしげに鎮座している。カースティは彼に続いて道路を渡ると、運転席に乗り込んだ。凍えるような寒さに、彼女はこれから始まる夜が心配になってきた。熱がどんどん逃げていく薄っぺらな壁に囲まれ、キャンプ場まであと一歩のところにいることも忘れてしまいそうだった。
「頑張れ、アウェイドライバー。敵地のスタジアムで戦うようなものだな」とパトリックが冷やかし半分で言うのを聞きながら、彼女はキーを回した。車が重く震えるような大きな音を立て、エンジンがかかった。ヘッドライトを点灯させると、水辺に面した小さな町が照らし出された。視線を上げると、空気の密度のせいか、夜空の黒まで深く見えた。星が散りばめられ、満月が漆黒にひときわ明るく浮かび上がっていた。
キャンピングカーが動き出し、ガクンと縁石から下りると、道路に出た。パトリックはラジオの音を大きくし、ビールをもう一缶開けた。
パトリック
港の近くにちょっとしたいい場所がある、とカースティは言っていたが、結局それは港近くの駐車場になりそうだった。ネットでは良さそうだと思った二つのキャンプ場は、どちらも実際にはいい場所ではなかったらしく、彼女はそこを素通りした。一つ目のキャンプ場は、ケナクレイグのフェリー乗り場から遠すぎるという理由で、もう一つは人がまばらすぎて、なんだか殺人事件が起きるドラマのロケ地のようね、と言って彼女は却下した。
「ていうか、なんでこんなに人がいるんだ?」とパトリックは、人でごった返す駐車場を見て、不満そうにぼやいた。もう夜はだいぶ深まっていたし、お腹も空いていた。今日はかなり運転したし、車が動かなかった時間も含めて、とても長い一日だった。「10月半ばのスコットランドの田舎町だぞ。物好きな観光客がこんなにいるとはな。まあいい。早く車を停めてくれ」
しかしカースティは彼を無視し、さらに数キロの道のりを進んだ。黄色と黒のさびついた金属製の障壁があったが、それを横にどけると、海の方へどんどん進む。そして、2台のトラックを除いて他には何もない、だだっ広いアスファルトの広場に出た。
パトリックは真っ先にそこへ降り立った。チケット売り場らしきプレハブ小屋はあるが、人の気配はまるでない。翌朝、誰かが出勤してくるのだろう。桟橋(さんばし)にも人っ子一人いない。あの桟橋に横づけされるフェリーに、明日乗り込むことになるはずだ。数羽のカモメが、溢れたゴミ箱の周囲に群がり、そよ風に白い羽を揺らしている。それ以外は動くもののない、灰色で静かな場所だった。
彼は波打ち際まで行き、〈ターバート入り江〉を見下ろした。ゆるやかな波が岩場に打ち寄せている。静かで、澄んだ夜だった。彼は深く息を吸い込み、肺が新鮮な空気で満ちる感覚を味わった。ダブリンやロンドン、ブライトンでさえも、こんな空気は吸えなかった。いつでもどんよりとスモッグが立ち込め、人間が群がって暮らしている街とは全く違った。
時々、こんなところで暮らせたらな、と思うことがある。頭の中で、人里離れた田舎町で暮らす、シンプルな生活を思い描いたりもする。マギーと二人きり、他の人間関係はほとんどそぎ落とした暮らし。けれど、そんな生活はすぐに欲求不満が溜まり、寂しさを感じることになるだろうことも、同時に確信していた。ほとんど他者との交流がない、身内だけの小さなコミュニティーは、その強烈な親密さゆえに、いくら空気が澄んでいても、逆に息苦しくなるはずだ。
彼は小石を拾って海に投げ入れた。その時、カースティの声がした。「最初の一枚を入れるよ!」キャンピングカーのオーブンは小さくて、ピザを一度に一枚ずつしか焼けないのだ。
「頼む」と彼は返事をし、〈オールド・スペックルド・ヘン〉の缶を開け、ごくごくと体内に流し込んだ。ファイン湖のほとりで飲み始めてから、3本目(カースティの飲み残しを入れれば、3.5本目)だった。車内の電灯をつけ、オーブンも使って、それで夜が明けるまでキャンピングカーのバッテリーがもてばいいが、と思ったが、余計な心配はさせまいと、妹には言わないことにした。
広場の縁にある小さな縁石に腰を下ろし、パトリックはスマホを取り出すと写真のアプリを開いた。画面をスクロールし、数ヶ月前に撮った写真で指を止めた。スザンヌとマギーと自分が写っている。夏休みに、アイルランドのコーク州キンセール近くの岬まで行った時に撮った自撮り写真だった。三人はにっこりと笑みを浮かべ、スザンヌとマギーの長い髪が強風に吹かれて、二人の髪が一緒くたになっている。背後には、大西洋がかすかに見える。あの日は天候が荒れていて、眼下の岩に荒波が猛烈な勢いでぶつかっていた。恐ろしく、魅惑的な光景でもあったのを覚えている。
その日の夕方、借りていた小さなコテージに戻ると、風光明媚な海岸の景色を眺めながら、彼は三人分のパスタを作った。そしてマギーを寝室で寝かせた後、リビングのソファでスザンヌとセックスをした。―セックス自体、かなり久しぶりだった。
妻のことはよく知っているつもりだった。そんな彼女が二重生活を送っていたとは、今でもまだ信じられずにいる。俺と娘に囲まれ、こんなに幸せそうに微笑んでいるのに、この時にはすでに、彼女の人生にはパークがいた。(後になってわかったことだが、)この時すでに、俺の妻はパークとベッドに入っていた。どんなに過去を笑い飛ばそうとしても、どんなに今はクロエのことが好きでも、スザンヌから受けた衝撃は消えやしない。その痛みの渦中で、今でも俺は途方に暮れている。この旅が終わって現実の生活が再開された時、自分と娘を支えるために、俺はいったいどうしたらいいのだろう。
彼はスマホをチェックした。ステュとサラから何通かのメッセージが届いていた(一つは明らかにマギーが書いたものだった。)しかし、クロエからメッセージは届いていなかった。彼はそれを自ら打開することにした。
パトリック:まだ旅を続けてるよ。今、港に着いたところ。今夜、君もここに来たかったら、来ても構わないよ😘
クロエ:いいね!😘
クロエ:PS ほんとに構わない?😘
パトリック:全然いいよ。ていうか大歓迎だよ😘
クロエ:ならよかった😘
彼は微笑み、再び返信しようとした。その時、カースティが広場の向こうで「準備できたよ!」と、彼を呼んだ。パトリックはスマホをロックし、キャンピングカーに向かって歩き出した。何もない港の広場で、そのライトはひときわ輝いていた。―闇夜に光る灯台のようだった。
彼女はお皿を2枚と、ワイン用のグラスを2つ並べていた。テーブルの隅にはウィスキーのボトルも、2つのタンブラーグラスと一緒に置かれている。3つ目のグラスがないのが気になった。
カースティは袋入りのサラダを開け、オリーブオイルで和えていた。
「それ、どこで買ったの?」と彼は、イタリアンレストランのディスプレイからそのまま出てきたような、おしゃれまブリキのボトル入りのオリーブオイルを指差した。
「ジェシカが置いていったのよ」
「ジェシカは自分専用のオリーブオイルを持ってきてたのか?」
「彼女だったらそれくらいやるでしょ」と彼女は言った。「とにかく、このオリーブオイル、胡椒が効いててすっごく美味しいわ」
座ったばかりの彼の目の前に、彼女が〈サラダのオリーブオイル和え〉を置いた。
「あなた、大丈夫?」と彼女は、1枚目のピザをオーブンから取り出し、2枚目を入れながら聞いた。
「大丈夫だよ」と彼は、弱々しい笑みを無理に浮かべて答えた。「大丈夫に見えない?」
「見えないわね、うーん...見えるかな、つまり、あなたのことなんだから自分でわかるでしょ」
「そりゃそうだ」とパトリックは言った。カースティに「なんだか表情が怖いわ」などと言われたとしても、驚きはしなかっただろう。今日は1ヶ月分の感情やら後悔やらが、ぎゅっと濃縮して詰め込まれた1日だった。アンドリューのことを思い出し、姉妹がケンカして、それから自分の人生について、つい最近の出来事を思い起こし、少なくとも自分なりの解釈で妻のことを考え、つらい気持ちになった。
食事が終わると、カースティはピザのプレートを横にどけて、〈フォーマイカ・テーブル〉のつるつるした卓上にスペースを空けた。プレートには、すぐに冷たく乾いて固くなってしまったスーパーマーケットピザの食べ残しが何切れか残っていたが、彼女はその横に3冊目のアルバムを置いた。今回のアルバムは黒で、最初のアルバムと同様に金の縁が欠け、擦り切れていた。
「ジェシカがどうしたって?」
「どうしたっていうか―」とカースティは言いかけた。間違いなく辛辣(しんらつ)な嫌みが飛び出すと思ったのだが、彼女は自分を抑えたようだった。「いったん始めたことなら、最後までやり通さないとね。これも同じよ」彼女はそう言ってアルバムを指差し、タンブラーグラスにウィスキーを注いだ。
「ダメだ」と彼はきっぱりと言った。「彼女なしではダメだ」
「だから何なの、じゃあもう二度とこのアルバムを見ないってこと?」
「もしかしたら、いつかまた三人で見れる機会が来るかもしれない」
「なんなのよ、まったく、パトリック」彼女は苛立っていた。彼女の気持ちもわからないではない。両親の一番近くにいたことで、俺たちに対して、より大きな主張ができると思っている。それがカースティなのだ。さっきクロエが「彼女に話してみて」と言っていたが、今がそのチャンスかもしれない。ひょっとしたら、妹のやりきれない表情を乗り越えて、その向こうの奥深いところまで迫れるかもしれない。
「パパは理由があって、これらのアルバムを選んだんだ。他にも何か望んでいたかもしれないが、少なくとも、俺たちが三人で一緒に写真を見て、話し合ってほしい、それが彼の望みだったんだよ。だから、お前一人で目を通すか、彼女を待つか、どちらかだ」
「じゃあ、絶対に見ないってわけね?」カースティはグラスを傾け、ウィスキーを飲み干すと、再びグラスをウィスキーで満たした。彼女の話し方は落ち着いていた。ここでは声を荒げることはなかったが、緊張しているのは明らかだった。おそらく彼女自身も、それはわかっていた。
その時、港に到着した1台のトラックに、しばし意識を持っていかれた。広場の端の駐車スペースにバックで停めようとしているらしく、トラックが旋回を始めた。そのヘッドライトが、キャンピングカーの内部を照らし出すように、ゆっくりと横切った。まだ洗っていない食器類が乱雑に置かれたキッチンや、数日分の靴跡や泥で汚れたリノリウムの床が浮き彫りになった。
「かもな」とパトリックが言った。
「もしこれっきり、こんな形では二度と彼女に会えないとしたら? 私たち三人が集まるのは、せいぜい葬式とか、結婚式だけになっちゃうとしたら?」
「質問があるんだ」と彼は彼女を無視して言った。彼女は返事をしなかったが、彼は彼女の沈黙を、どうぞ何でも聞いて、という意味だと受け取った。「なんで俺に対しては腹を立てなかったんだ? つまり...さっき、三人で彼のことを話してた時」
「だってそれは...」と彼女が口を開いた。「彼女なら防げたでしょ? お金の問題だったんだから。彼女はアンドリューを救えたのよ、パトリック。彼女も自分でそれを認めたじゃない」
「でも、俺も救えたとしたら? もし最初の失踪の時、包み隠さずすべてをみんなに話していれば、彼は何らかの治療を受けることになったかもしれないし。あるいは、パパは彼が不安定だとわかっていれば、彼に家業を任せたりはしなかっただろ」
「あなたがそれを内緒にしていた理由は理解できるわ。あなたはママとパパを守ろうとした。ジェシカは自分自身を守ってただけ」
「馬鹿馬鹿しい」と彼は彼女の発言を一蹴した。「悪いけど、カースティ。それは買い被りすぎだよ、全くのでたらめだ。俺がどうしてあんなことをしたのか、自分でよくわかってる」
「じゃあ、どうして?」
「決まってるだろ。いつものことだよ。みんながそう思ってるのもわかってる。手遅れになるまで何も言わない。俺は昔からそういうやつなんだ」
「なるほどね。じゃあ、あなたにも腹を立てるべきってことね?」
「たぶん」とパトリックが言った。カースティは2杯目を飲み干すと、怒ったようにテーブルから立ち上がり、狭い車内で可能な限りの早足で、嵐のごとく歩き去った。そして彼女は寝台に入り込んだ。
一方、彼はウィスキーのボトルを手に取り、グラスにもう一杯注いだ。
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