『帰り道にて』5
『The Way Back』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2021年07月09日~)
パート 3
チャプター 10
ケナクレイグ、スコットランド
カースティ
兄より先に目を覚ましたカースティは、静かに寝台を出ると車内の床にそっと降り立った。窓は曇り、思わず両腕を抱えてしまうほど空気は冷たい。最悪の眠りだった。顔のすぐ横の小窓は外の風にガタガタと揺れっぱなしだったし、あの後、酔っ払って寝たに違いないパトリックの、うめき声やら大きないびきに安眠を邪魔された。毎晩のように、あれの隣で寝ていたスザンヌに、両腕を抱え突っ立ったまま同情している自分がいた。
昨日は大変な1日だったけれど、ある意味カタルシスだった。パトリックの告白には衝撃を受けた。ジェシカはその内容に驚いていたようだけど、私にはむしろ、彼がまともなことを言い出したこと自体が衝撃的だった。ジェシカが途中で帰らなければ...と思いながら、やかんをそっとコンロに置く。
お湯が沸くのを待つ間、彼女はテーブルの上の食器棚に手を伸ばした。車の振動で食器棚が開かないように留めてあった小さな掛け金を静かに外し、そこから父親の遺灰が入った箱を取り出す。彼女はテーブルに置いたその箱を見つめて、微笑んだ。まるで、中に入っているものが人間の姿になり、彼女の目の前に立ち現れたかのような微笑みだった。今日がその日なのだ。ジェシカやパトリックは、アイラ島でアンドリューに会えるんじゃないかとか、何かのサプライズを期待していたみたいだけど、今日、この遺灰を浜辺に撒いて、彼が望んでいた方法でお別れすることになる。
「フェイセズをかけてくれ」彼がそう言っていたのを思い出した。彼の死の2週間ほど前、葬儀の段取りやその後のことを彼は彼女に指示していた。「ロックバンドだ。知ってるよな」
もちろん知っていた。中でも『ウー・ラ・ラ』が彼のお気に入りの曲で、誕生日会や家族のパーティーでは必ずと言っていいほど流れていた。そして葬儀の時、彼の柩(ひつぎ)はこの曲とともに運ばれた。(火葬の時は、彼の指示通り曲を変えて、チャス・アンド・デイヴの『スヌーカー・ルーピー』を流した。この曲は彼が好きだったからというより、これが流れることにより場が和むだろう、という彼の計らいだった。)パトリックはその後のお別れ会で、酔っ払ってこの曲を歌っていた。ジェリーの古くからの仕事仲間たちも一緒になって歌っていたが、彼らは父とは違い、長年の喫煙とビールと激務の代償として、早死にすることはなかった。
パトリックの熊のようないびきが、彼がまだ眠っていることを告げていた。カースティはスマホのSpotifyのアプリを開き、画面の一番上にあるプレイリスト「パパ」を見た。島では電波が届かず、肝心な時に彼の好きな曲をかけられない恐れがあるので、葬儀の時にかけた曲を予めダウンロードしておいたのだ。
彼女はキャンピングカーのドアを開け、広場に出た。明るく晴れ渡った朝だった。反射した光線が、穏やかな海面の上でキラキラと踊っていた。その上を一隻の小さな漁船が、サケの漁場に向かってまっすぐ疾走している。自分の吐く息が白く舞い上がり、その向こうには緑と茶色の丘が見えた。丘の天辺にはほとんど木がなく、禿げているように見える。実際、「禿げ頭」を意味する愛称で地元の人にも親しまれていたのだが、カースティは自分が見ている場所が何と呼ばれているのかまでは知らなかった。
周りには、夜のうちに到着したらしい車やトラックが数台増えていた。そのうちの1台は車体を鮮やかな水色で染め、〈ブルイックラディック〉と側面に大きな文字が入っている。あれはたしか、リビングの棚に並べられたパパのウィスキーのコレクションの中にあったはずだ。あんな色のボトルに入っていて、そんなようなブランド名だった。きっと〈ブルイックラディック〉の熱狂的な愛好家が、アイラ島のウィスキー蒸溜所を目指しているのだろう。ちなみに、パパのコレクションの数々は、今ではそのほとんどがパトリックか、彼の1人か2人の友人の手に渡っていた。
「なんでウィスキーなの?」と数ヶ月前、彼女は父親に聞いてみた。がんでウィスキーが飲めなくなったことを嘆く父にそう聞いたところ、彼は少し考え込む仕草をした。美味しいからだよ、という単純な答えでは、彼女が納得しないことを彼は知っていた。
「唯一無二だからだな。同じ工程を経ても、ボトル一本一本が違うんだ。樽も違えば、水も違う。同じものは二つと存在しない。時間をかけて、信頼して待つしかないんだよ」と言って、彼は、3年以上リビングの棚に置かれたままの赤紫と白の箱を指差した。「あれはボトルに入れる15年も前に蒸溜されたものだ。その間ずっと倉庫で眠っていたんだ。樽の中で何が起こっているのか、誰も知らない。蒸溜した本人が、完成を見ずして死んでしまうことだってある。そしてボトルに入った瞬間、それはもう二度と変わることはない。コルクで栓をした瞬間、いわば歴史に凍結保存されるんだ」
「タイムトラベルみたいだね」
「ちょっとな」と、彼は笑った。「たしかにそうかもしれん。樽から出した瞬間のウィスキーを、そのまま口の中で味わえるんだからな。海風が吹き込む海辺で飲んでも、咳き込みながら飲んでも、ちゃんと熟成された味は変わらず残ってる。それがウィスキーの醍醐味だ」
海の向こうの遠くから、フェリーと思しき船がこちらへだんだんと近づいてくるのが見えた。それはゆっくりと移り行き、海面に突き出た岩礁を迂回する様が、水色のキャンバスに大きな弧を描いているように見える。
アイラ島のアスケーグ港へ向かうフェリーが8時15分に出発するまで、まだ30分もあった。それでも、この時間はほんの一瞬で過ぎ去るように感じられた。この旅を始めたブライトンから1,000キロも離れた目的地へ、私たちを運んでくれる船が、次第にその大きさを露わにしつつあった。
彼女はキャンピングカーに戻った。父親のウィスキー談義に引き続き思いを巡らせながら、彼女は釣り具箱を開けて、〈ポート・エレン〉を取り出した。なぜこの1本なのだろう? と彼女は思った。上の方から物音がして、彼女は飛び上がった。
パトリック
「それはちょっと早くないか?」と、彼は冗談めかして言いながら寝台から首を突き出し、カースティが手にしているウィスキーのボトルを見下ろした。
「びっくりさせないでよ、パトリック。あやうく心臓発作を起こしそうだったじゃない」
「ていうか、それを落とすなよ。後で一杯やるんだから」
彼女はウィスキーを釣り具箱に戻すと、蓋をしてテーブルの下に押し込んだ。
「ところで何してるんだ? こっそりアルバムを開こうなんて無しだからな」と、彼は陽気な口調で言った。昨夜の口論には触れないことで、事態を沈静化させようという意図らしい。まるで翌朝目を覚まし、お互いに自分が間違っていたことに気づいた夫婦のように。
「そうじゃなくて」と彼女は言った。「私はただ...」
「ただ何?」
「何でもない。さっき、ふと思ったんだけど。でも、何でもないの」と、彼女は少し身構えるように言った。「おでこのたんこぶ、だいぶ小さくなったわね」
「よかった」と彼は言ったが、指で触れてみると、それが起こった時の衝撃が、まだ痛みを伴ってありありと思い出された。
「もう準備した方がいいわ。フェリーが海を渡ってるの。もうすぐ着くよ」
カースティは自分の寝台に一旦引っ込むと、パトリックの視線を遮るようにカーテンを閉めた。
彼はあくびをした。昨夜は疲れていたが、そわそわとエネルギーが内側でうごめいていて、寝床に入ってからも何時間も眠れなかった。明け方かろうじて眠れはしたが、それまでずっと気がたかぶっていた。おそらくそれは、昨日アンドリューに関する秘密をようやく吐き出せたことから来る安堵感だったのだろう。あるいは同程度に、真夜中、酔ったまま寝台でクロエと交わしたメッセージのせいだったのかもしれない。
彼は彼女からの最新のメッセージを再び読んだ。
クロエ:明日というか今日はがんばってね。あなたたち二人の(特にあなたの)幸運を祈ってる。途中で投げ出さずに続けたあなたを誇りに思うわ😘
パトリック:ごめん。寝ちゃった。ありがとう。今日は大変な一日になるだろうけど、少しは解放感があるといいな。なんだか楽しみになってきたよ。変かな?😘
クロエ:いいえ、全然そんなことないわ。どう感じても自由よ。みんな自分なりの対処法があるんだから😘
パトリックはそれに対する返信を書いていた。―付き合い始めのカップルしか気にしないような、意味のない「おはよう」のメッセージだ。―その時、フェリーの到着を知らせる汽笛が爆音をとどろかせ、彼は頭を揺さぶられたように夢想から覚めた。そして、キャンピングカーのドアがノックされた。
「ちょっと待ってもらってもいいですか?」と彼は声をかけながら、カースティはまだ寝台の狭い空間で、もぞもぞと着替えている最中だと気づいた。
「出てくれる?」と彼女が声を上げた。
「わかった」
パトリックはジョギングパンツに〈AC/DC〉のバンドTシャツという格好のまま、ぎこちなく体をくねらせ、運転席に乗り込むと、窓を開けた。無精ひげを生やし、古ぼけたニット帽をかぶった若い男が、ガムを噛みながら立っていた。メモ帳のような紙の束とペンを手にしている。
「チケットは買いました?」
「まだです」とパトリックは言った。朝の日差しが顔面にもろに当たり、まぶしくて顔をしかめてしまう。ぼんやりと腑抜けた顔をぐにゃりと曲げ、自分がどれだけひどい顔をしているか、想像もつかなかった。
「じゃ、30ポンド(約4,800円)」
「了解。ちょっと待って」彼は手を伸ばし、助手席の小物入れを開けると、財布を取り出した。「カードは使える?」
男は頷き、紙の束に何かを走り書きすると、一番上の紙をちぎってパトリックに手渡した。
「車のまま乗船ですね」彼はクレジットカードを受け取ると、ベルトに付けたホルスターから銃を抜くような仕草で、読み取り機を取り出し、それにカードをかざした。「さあ、今すぐ乗船してください。もうすぐ出発しますよ」と彼は言った。
彼が歩き去りながら、「クソ、イングランド人め」と呟くのをパトリックは確かに聞いた。
「オーライ」パトリックは車内に響き渡るように叫んだ。「つかまれ、出発するぞ」
キャンピングカーを発進させると、「ダメ」とか「ちょっと待って」という叫び声が聞こえたが、それを無視してフェリーへと直進する。彼らは今、旅の最終区間に突入した。
チャプター 11
アスケーグ港、アイラ島
パトリック
航海は約2時間だった。広々とした川のような〈ターバート入り江〉を西へ進んでいると、いつしか開けた海に出た。しばらくすると視界の遠くにビーチや岬が見えてきたが、人影はほとんど見当たらない。その後、アイラ島への狭い海峡に入り、フェリーから降りることになる小さな港へ向かった。
彼は航海の大半をデッキで過ごした。かつての両親のようにウィスキーのテイスティングが目的だと思われる人たちもいたし、仕事でアイラ島へ向かうトラック運転手たちもいたけれど、彼らからは距離を置き、救命ボートや産業機器みたいな機械が置いてあるデッキで、彼は流れる景色を楽しんでいた。金属製の湿った椅子に腰を下ろし、海風や、青緑の海面から吹き上げる、冷たく塩辛い水しぶきを新鮮な気分で浴びていた。
パトリックは海面をくまなく見つめ、クジラを探した。スコットランドのこの地方に、クジラが生息している、あるいは旅をしていると聞いていたからだ。一方その頃、カースティは女子トイレで吐いていた。トイレから出てきた後も、カフェ兼休憩室で体を二つ折りにして、膝の間に顔を埋めていた。彼女自身が「軽い二日酔い」と呼ぶ症状に、海面の穏やかな揺れが重なり、彼女の一日は始まる前から、すでに最悪の様相を呈していた。
そういうわけで、アスケーグ港に着いた後も、すぐには島の南部にあるポート・エレンのビーチへ向かわず、二人は自然と車を降り、休憩がてら小さな防波堤に並んで腰を下ろしていた。ジュラ島を眺めながら、カースティは深く、ゆっくりとした呼吸を繰り返している。
「あのウィスキーのせいよ」と彼女は言った。
「1杯だけだろ」
「2杯」
「そうか、自分で注ぎ足したんだな。それは俺のせいじゃない」
カースティはそれには答えず、スコットランドの新鮮な空気を再び大きく吸い込んだ。まるで二日酔いを魔法のように取り除いてくれる霊薬が、ここの空気には含まれていると言わんばかりに。
「パパが言ってたけど、美味しいウィスキーは二日酔いにならないんだってね」
「そうか。彼がでたらめを言ってた可能性もなきにしもあらずだな」
「なんてこと」彼女はまた吐きそうになってえずいたが、なんとかこらえた。
二人はしばらくの間、肩を並べて座ったまま海を眺めていた。風の動きだけが感じられた。小さな港を囲む木々の間をゆるやかな、時折り強い風が吹き抜けていった。海峡の向こう岸には、ジュラ島の海岸沿いに崖が見える。崖の上は緑豊かな岸辺で、その向こうには岩だらけの丘が続いている。パトリックは、魚やカエルが断続的に引き起こす水面の波紋を眺めていた。すると、顔に水滴が1滴、2滴と落ちてくるのを感じた。雨なのか、それともその辺の葉っぱについた滴が風に飛ばされたのか。
「それで、これからどうする?」と彼が聞いた。
「さあ、どうしましょ」とカースティは答えた。「こういうことは初めてだから」
「ママの時は?」
「あの時とはちょっと違うんじゃない? 人数も多かったし」
「そうだな」パトリックは、スー・カドガンに最後の別れを告げたホーブのビーチを思い出していた。あの時は、ジェリーもジェシカもそこにいた。今、6人中、2人しかここにいない。他の家族はさまざまな理由で不在だ。
ジェリーが「落とすなよ」とか、「これは彼女の足だ」などと言いながら、妻の遺灰を一握りずつみんなに分けていた。妻を亡くしてから毎日抱えてきた強烈な悲しみを、少しでも和らげるための儀式のようだった。3つ数えて、遺灰は空中に舞い上がり、いくらかは浜辺に散った。そして、みんなで家に帰り、ソーセージを焼いて、サイダーを飲んで、彼女を偲んだ。それから1ヶ月もしないうちに、彼らは再びホーブに集まり、家族を引き裂いたあの運命的な夜のキッチンテーブルを囲むことになった。
すでに全員が大人だったけれど、父親がいることで全体が引き締まる感じがした。今回はまとめ役が不在のまま、子供二人だけであれこれ相談している感じだ。
「また同じことをすればいいんじゃない?」とカースティが言った。「灰を分け合うのよ。つまり、遺灰を手のひらに載せて、パッと。それか、骨壺を二人で持って撒くのもいいかもね」
「かもな」パトリックは二人で骨壷を抱え、砂浜に中身をどさっと空け、砂の上でこんもりと山になった遺灰が、風で吹き飛ばされるのを待つ間の気まずさを思い描いた。「もう少し儀式的な要素があった方がいいような、誰かが何かを言ったりとか」
「え? あなたがその役を買って出る気?」
パトリックは笑った。父親が、いつも家族の中で演説をする人だった。咳払いをして声の調子を整え、ワイングラスを軽く叩いてみんなを静かにさせ、「ちょっと一言」と始めるのだ。彼のスピーチがちょっと一言で終わったためしはなく、家族の誰もが覚悟していた時間よりも、はるかに長くかかるのだった。
「BGMは持ってきたんだろ?」と彼がカースティに聞いた。
「準備できてるわ」と彼女は言って、二人の目の前にスマホを差し出した。ロック画面にカースティと彼女の娘が映っている。―パトリックはほとんど会ったことがない姪っ子だ。「曲は入れてきたんだけど、なんか物足りないのよね。ただ彼の遺灰を海に撒いて、さっさと退散するだけじゃ味気ないっていうか。それ以上のことをしなければいけないような気がする」
「かもな。何か考えよう」と彼は言った。「気分はよくなったか?」
カースティが顔を上げると、彼女の顔がまだ青ざめていることに気づいたが、そのことは言わない方がいいと思った。
「あんまり」彼女はそう言うと、海を臨む草むらから立ち上がり、彼に先立ってキャンピングカーへと戻っていった。
カースティ
アスケーグ港からポート・エレンまでの道行きは、この小さな島のほぼ全域を網羅することになった。キャンピングカーはまず南西へ、ブリジェンドまでの細くて静かな道を走り、そこから真っ直ぐに南下した。アスファルトの道路はところどころが歪んでいて、左右のどちらかが浮き上がる感覚をたまに覚えながら、不気味なほど真っ直ぐな1車線の道路をひたすら走った。両側には畑が広がっていて、時折、農場の建物やトラクターが視界に入った。音といえば、耳障りな楽器のようにいつまでも鳴り続けるエンジン音と、パトリックが田園風景を眺めながら語る泥炭湿原(でいたんしつげん)についての話だけだった。この島のウィスキーにこうばしい薫香(くんこう)を加えるために、泥炭を掘り起こすのだという。カースティはそんな話はどうでもいいと思ったが、同時に、彼はこれからしようとしていることから目をそらしたくて、そんなつまらない情報をさも得意げに披露しているのだともわかった。
やがて、小さな町が見えてきた。道の片側には灰色の平屋住宅が建ち並び、反対側には背の低い石垣が続いている。石垣が途切れた地点に、大きくて不格好な工場のような建物が現れた。
「あれがそう?」と彼女は聞いた。運ばれてきた原料をここでウィスキーにしているのではないか、と思った。
「いや、あれは麦芽(ばくが)製造所だよ。あそこで原料の麦芽を―」
「わかったから大丈夫」彼女はパトリックが工場で行われていることを説明し始める前に、彼の発言を遮った。そこを通り過ぎると、大きな湾に入った。アイリッシュ海のノース海峡、その最北端の海水が、眼前に広がるポート・エレンの浜辺に打ち寄せていた。
その湾は広く、U字型をしていて、周囲を芝生に囲まれた狭い砂浜が、ぐるりとカーブを描いている。砂浜には、ベンチがいくつか間隔を空け、海に向かって置かれていたが、座っている人は誰もいない。その向こうの海は、2種類の青色で分かれているように見えた。―浅瀬は明るい青、そして奥へ行くほど青が濃くなっていく。湾の反対側に目を向けると、夫婦が犬を連れて散歩していたが、他には人影は見当たらない。
パトリックは静かな道の脇に車を停め、エンジンを切り、ハンドブレーキをかけた。
「ようやく着いたのね」と彼女は言った。「じゃ、さっそく―」
「まず一杯飲まないか?」とパトリックが言った。「ほら、あそこにパブが見える。ちょっと緊張をほぐす意味でも。パパに乾杯してから...」
ほんの30分前にそう聞かれていたら、お酒なんて飲む気にならないわ、と拒んでいたでしょう。しかしこうしてポート・エレンに到着し、目の前には砂浜があって、ジェリー・カドガンの遺灰を撒く準備が整ってしまった今となっては、それを遅らせるためなら何でもしようという気持ちだった。
「ソフトドリンクか何かなら、いいかな」
「じゃ、そうしよう」と彼が言い、二人はコートを羽織ると、海岸へと続く道に出た。カースティは、父親の遺灰を入れた黒と金色の骨壷を抱えていた。
風が強く吹いていた。乾いた砂が巻き上がり、道路と海岸を隔てているぶ厚い海草の間を吹き抜けていく。カースティは、この風が散骨にどう影響するかを心配していた。突風が父親の遺灰をまき散らし、彼女の顔に吹き付けて、洗っていないベタベタの髪の隙間に消えていくのを想像し、急に不安を覚えた。
パトリックが先立って、二人で海岸沿いの道を歩いていくと、町の中心地らしき場所に出た。中心地とはいっても、実際には生協のスーパーと小さなホテル、そして〈アードビュー・イン〉というパブがあるだけだった。彼がドアを開け、彼女を先に店の中に入れた。彼女がテーブルを探している間、彼はカウンターで飲み物を買っていた。しばらくすると彼が、ギネス・ビールを2杯と、チューリップ型のグラスに入ったウィスキーを2杯ずつ持って戻ってきた。
「ちょっと何やってんのよ、パトリック」と、カースティが懇願するように言った。「私はスパークリング・ウォーターが飲みたかったの。この後、私は運転しなきゃなのよ。っていうか、あなただってそうでしょ」
「それまでまだ何時間もあるだろ。帰りの船は6時半までないし」
彼女は腕時計を見た。まだ正午を回ったばかりだった。
「それに今は気分が最悪なのよ、無理だわ」彼女はそう言って、ギネス・ビールの入ったグラスに視線を落とした。
「今日はお前のための日じゃないだろ? これは彼が望んでいたことなんだ」
「パトリック」と彼女は言った。「あなたって時々、とんでもなく生意気な、ティーンエイジャーみたいな顔をするわね」
「さぁ、乾杯だ。このビールは旅のために。そして、このウィスキーは親父のために」
カースティは一瞬反対しようかと思ったが、彼の言う通りだと思い直した。もしパパがここにいたら、まずこのパブに来ていたことでしょうね。
「てか、私はギネスなんて好きじゃないのよ、反吐が出るわ」
「パパは好きだったよな」と、パトリックが悪戯っぽく微笑んで言った。「お前って、あれだな。ファッキンって言う代わりに、反吐が出るってよく言うよな? 汚い言葉を避けてるつもりなんだろうけど、ある意味―」
「うるさい」と彼女が遮った。
「じゃあ、彼に乾杯」と、パトリックが気取った感じの笑みを浮かべながら言った。
彼がグラスを骨壷に軽く当て、空に向かって乾杯した。カースティも視線を外に向けると、パブの窓に雨粒がぽつぽつと落ちてくるのに気づいた。そういえば、母親の遺灰を散骨した時も、ひどい天気だった。あの時の雨と風と寒さが思い出される。
二人を同じ場所に埋葬できないのなら、せめて同じような別れをさせてあげたい、と思った。
それから、しばらく窓の外を眺めていると、見覚えのある顔が横切った。すぐに通り過ぎていったが、カースティはそれが誰なのか、はっきりとわかった。一目見ればすぐに認識できる顔だ。
「何?」と、パトリックが彼女の異変に気づいて言った。
「そんなはずはないわ」
「だから何が?」今度はより強く、切迫したように言った。
チャプター 12
ジェシカ
「まだ撒いてないんでしょ?」彼女はそう言いながら、まるでぼろぼろの服を着た冬の旅人がようやく見つけた旅館に駆け込むように、荒々しくドアを開けて入ってきた。
そこは天井の低い、みすぼらしいパブだった。白い壁と年季の入った木製の家具が置かれ、装飾といえば並べられたウィスキーくらいで、あとは窓の下にジュークボックスがぽつんと置かれているだけだった。こんな店に自ら好んで入るはずもないが、この湿原ばかりの小さな島では、選択の余地などないんでしょうね。
「ジェシ?」とカースティが言った。彼女は唖然としつつ、イライラしているようでいて、かつ喜んでいるようにも見えた。ジェシカは驚かなかった。妹はいつもこんな感じで、同時に複数の感情を露わにしがちなのだ。彼女が言うことには、だいたい隠された意図があると思って間違いない。
「彼はまだその箱の中にいるの? パパのことだけど」
ジェシカはハンドバッグを、隅の椅子の上に投げ出すように置いた。近くのテーブルでは、蒸溜所のロゴが入ったお揃いの野球帽をかぶった一団が、体験してきたばかりのウィスキーの試飲についてメモを取りながら話していたが、ちょうど昼ドラが始まると、手を止めて、主人公の行く末を案じるような目つきで熱心に見入り始めた。
「ええ、もちろん彼はまだこの中よ。っていうか、あなたは何...ここで何を―」
「気が変わったの」
「スマホでチケットを買ってたよな」とパトリックが言った。
「まあ、そうね。買ったけど、今言ったように、気が変わったの。せっかくだし、見逃せない重要なシーンってあるなって思ったの」
ジェシカは足元に目をやりながら、そう話した。それは昼ドラをチラッと見てひらめいた、悪意のない噓だった。実際は、空港のセキュリティゲートで、いざパスポートを見せる段になった時、それが入っているはずのハンドバッグの内ポケットのジッパーを開けてみると、〈フルーツ・パスティル〉の包み紙と、名刺が一枚入っているだけだったのだ。ちなみにその名刺は、かつて新しい通信システムを売り込むために彼女の花屋を訪れた、魅力的な男性のものだった。
もちろん、彼女はすぐに電車を調べ、どうやって家に帰ろうかと別の方法を考えた。電車賃は高くつきそうだったが、そんなことはどうでもよかった。この大失敗の顛末(てんまつ)をダンに話せば、彼もわかってくれるでしょう。
しかしその時、テレビ画面ではなく、実際の空港のロビーで、15歳そこそこのまだあどけない少女が、涙ながらに父親を抱きしめているシーンを目撃した。
ジェシカはその少女に自分を重ね、空港の片隅で自分の若い頃を思い出していた。父に別れを告げた時、あるいは父と過ごした時間が蘇ってきた。私は彼にとって、初めての子供だった。父親と長女、二人きりで過ごした貴重な時間...そして、彼女は自分の視点から物事を見るのではなく、ついに彼の視点から世界を見た。それは子供たちを育て上げ、大人になった一人一人が、それぞれ異なる形で自分から離れていくのを見てきた男の視点だった。
ジェリー・カドガンが私を初めて学校に連れていったシーンが見えた。校門のところで泣きながら、家に帰りたいと駄々をこねていた私。(数十年後に彼が打ち明けた話によると、)彼は車の中で泣きながら、家に帰ってきてほしいと願い、校舎に入る娘の背中を見送っていたらしい。〈カドガン・ファミリー・建築士事務所〉とロゴが入った〈フォード・トランジット〉には、ポテトチップスの袋やら、ランバート&バトラーの煙草の空き箱やら、パリパリに日焼けしたデイリー・ミラー紙やらが無造作に置かれていた。私はその助手席に乗り込み、荷台に私の全財産を詰め込んで、大学に行くためにロンドンまで送ってもらった。その道中チラ見した、運転席の彼の横顔が思い出される。彼が妻のスーの(鼻持ちならない)両親に気を遣い、形だけもう一度結婚式を挙げたのと同じ教会で、私も結婚式を挙げた。長女に寄り添い、バージンロードを歩く直前、教会の入り口の外側で、その時を待っていた彼の緊張した面持ち。そして、数時間前に生まれたばかりの孫を抱く彼の笑顔。
ジェリー・カドガンは、カースティ、パトリック、アンドリュー、そして私にも多くを求めなかった。親としての要求は、愛と理解以外にはほとんどなかった。しかし今、彼は何かを求めている。そして、3人でその何かを実行に移そうとしていた。けれど、再び責任の擦り付け合いが勃発し、私は途中で車を飛び出してしまった。自分の娘や息子が互いにいがみ合っていることに、彼は長年心を砕いてきたというのに。
私がいなければ、彼の依頼を最終的に実行するのは、彼の子供のうち、たった2人だけになってしまう。彼の4人の子供の半分だ。空港であの少女を見た瞬間、そして父親と過ごした人生を思い返した瞬間、彼にそんな仕打ちをするわけにはいかないと思った。死後の世界なんて信じていないし、通夜の席で遠い親戚たちに慰められたような、「彼は上から私たちを見下ろしている」などという意味不明な提案も受け入れていない。それでも、彼の漠然とした存在感はあった。実体はないし、霊的なんて言葉を使ったらたちまち白けて、立ち消えてしまうような微かなものだったけれど、そこはかとなく彼を感じていた。親が子供に対して抱く感情の中で、最も破壊力のある「失望」の原因に、またしても自分がなることに耐えられなかった。
その時、私は気づいた。今後も人生という長い旅を続けるつもりなら、始めたことは終わらせるべきだと。そこから遠くへ逃げるのではなくね。
「ていうか、なんでパブにいるの?」と彼女は聞いた。
「彼を送り出すのに最良の方法だと思ったんだよ。1杯はこの旅のために、そして―」
「気が利いてるじゃない、彼もパブに連れて来るなんて」と彼女は言いながら、骨壷を指差した。周りの酔っ払いたちは、これを何だと思っているのかしら。
「とにかく座れ」パトリックが勢いよく席を立ちながら言った。「もう1杯買ってくるから」
「ウィスキーはやめて」と彼女は言いつつ、彼を目で追った。カウンターでバーテンが、球根のような変な形のグラスにウィスキーを注ぎ出したのを見て、「パトリック、ウィスキーはやめてって言ったでしょ」と付け加えた。
「まあまあ、ほら」と言いながら、彼がテーブルに戻ってきた。
「ギネスビールとウィスキーなんて」と彼女は言った。「パパ好みだけど」
「いい組み合わせだから、一度飲んでみろ」と彼が言った。「舌が肥えて、味を覚えるかもしれないぞ」
「それはどうかしら」
「飲んでみなきゃわからないだろ。味を覚えるには、少しの時間と努力は必要だけどな」
「いったいなんで時間と努力を費やしてまで、好きでもないものの味を覚えなきゃならないの? 正気の沙汰じゃないわ」
ジェシカはようやくテーブルの上座に腰を下ろした。カースティとパトリックは左右から向かい合っている。外はまだ雨が降っていて、さっきより少し強くなってきたようだ。散骨の儀式はどうなってしまうのだろう、と心配になってきた。ふと、二人の視線が自分に注がれていることに気づいた。
「何?」
「まさかお前、何があったのか、俺たちに話さないつもりじゃないだろうな?」とパトリックが言った。
「何を話せって言うの? 気が変わって、それでここに来たのよ」と彼女は言った。空港での出来事まで話を広げるのは何としてでも避けたかった。〈フルーツ・パスティル〉の包み紙が、虚しく、あるいは、突然の啓示のように目に飛び込んできたなんて言えるわけないわ。
「何がきっかけで気が変わったのかは置いといて、じゃあ、どうやってグラスゴー空港からこのパブまで来たんだ?」
「バスよ」と彼女は単刀直入に言った。「グラスゴーからフェリー乗り場までバスが出てるの。あなたたちが乗った朝一番の船には乗り遅れちゃって、それからが大変だったわ。次の船が来るまで、あの小さな掘っ立て小屋で、2時間も待ちぼうけよ」
パトリックとカースティは何も言わずに、グラスに口をつけ、お酒をすすった。
「何なのよ?」とジェシカが促した。
「べつに」とパトリックが言った。
「べつに、じゃないでしょ。何が言いたいの?」
「正直言って、ジェシ。お前がバスで来たことに驚いてる。飛行機をチャーターして、この島まで飛んできたのかと思ったよ。ところで、お前の荷物は?」
「車の中よ。っていうか、あなた鍵をかけなかったでしょ」
「パトリック!」と、カースティが叱りつけるように言い放った。パブにジェシカが入ってきた時に、思わず彼女の名前を口にして以来、カースティが初めて発した言葉だった。
姉妹二人で解決すべきことがあると感じたのか、パトリックはトイレに行くと言って席を立ち、二人をテーブルに残して消えた。それとも、姉妹の間でバチバチと繰り広げられていた無言の対立を見ていられなくなったのか。
しばらくの間、カースティはジェシカを見ようともしなかった。まるでパブが混みすぎていて、相席を余儀なくされた他人のようだった。意味のある会話をしようと苦心するよりも、相手を無視してスマホを見つめることの気楽さを選んだように俯いている。
「じゃあ、私から話すわ」ジェシカがそう切り出した。カースティは目だけを鋭く上に向けた。靴に唾を吐かれたかのような睨みを利かせてきたが、それでも何も言わなかった。「ねえ聞いて。まず、ごめんなさい。大丈夫? なんであんな風になったのか、自分でもわからないの。それに、誰かを殴ったことなんて、大人になってから初めてよ」
「それならなおさら、何か大きな意味があったってことでしょ」
「カースティ、お願い」
カースティが椅子をジェシカの方へ向け、正面から彼女を見据えた。
「平手打ちだけじゃないでしょ」と彼女は言った。意外にも、カースティは怒っている感じではなかった。むしろ苛立っているような、動揺しているような声だった。「いろんなこと全部よ」
「全部? 全部に対して謝れって言うの?」
「違う―」
「じゃ何、私という存在すべて? 私のやることなすこと全部?」
「そうじゃない。ジェシカ、頼むから聞いてちょうだい」
カースティが大きく息を吸い込んだ。これからスカイダイビングかバンジージャンプでも決行するかのような意気込みで、姉に歩み寄るつもりは毛頭ないらしい。
「わかってるでしょうけど、私はいっつもいろんなことを背負わされてきたの。そうでしょ? ママとパパのことよ。私は彼らの近くに残った。あなたたち二人は、とっとと出て行ったけどね。また始まった、それをネタにいっつも突っかかってくるわねって思ってるんでしょうけど」
また始まった、とジェシカは思ったが、口には出さなかった。
「とにかくそうなんだから、仕方ないでしょ。私が一番頑張ったの。あなたたちよりずっとね」
「それはそうでしょうけど、避けて通れなかったんでしょ、カースティ。あなたが彼らの近くにいてくれたことには感謝してるわ。もしあなたがいなかったら、どうなっていたんでしょうね」
「私がいなくても、彼らは二人でうまくやってたんじゃない? たとえそうだとしても、私はそんなこと絶対に認めないけどね。ってか、もしかして私、必要とされたかったのかな」
あなたは必要とされたかったのよ、とジェシカは思ったが、それも呑み込んだ。
「あなたもどこかへ引っ越そうと思ってたんでしょ? 大学を卒業して、何年かロンドンに住んで? それから海外?」
「ええ、思ってたわ」
「じゃあ、どうしてしなかったの?」
「さあ、どうしてでしょうね。ただその気になれなかっただけ。ぐずぐずしてるうちにリヴィが生まれて...あとはもうね、わかるでしょ」
ジェシカは頷いたが、カースティの言うことはあまり信じられなかった。妹がブライトンに残ったのは、両親のことを第一に考えたからだと、ジェシカは内心では思っていた。近くに子供が一人もいないなんて、彼らが気の毒だと思ったからでしょ。アンドリューは両親の近くにいたけど、いなくなっちゃって。彼がいなくなった頃には、私とパトリックはすでに新天地でそれぞれの人生を始めていた。カースティはまだ10代で自分を確立している途中だったから、兄を失ったことが、私たち二人よりもはるかに大きく、彼女の決断に影響を与えた可能性は高い。ダラム大学を中退して、故郷の近くの大学に入り直したことも、決して相容れないボーイフレンドと付き合って妊娠したことも、その影響でしょうね。彼女は、自分が育った実家から目と鼻の先で生活し、自分の家庭を築こうとしていた。
「あなたが決めた人生なんだから、何の問題もないわ」
「でもそれが問題なのよ。決めた、とか言われても、ほんとに私が決めたのかどうか。まずあなたが出て行ったでしょ、それからパトリックも。アンドリューもなぜか出て行った。でも私は残った。ママとパパと一緒にね。いつも近くにいて、頼りになる存在だったと思う。結局私は、私自身の居場所を見つけることができなかったけどね」
ジェシカは笑った。「いったい私が何を手に入れたと思ってるの?」と彼女は言った。「パトリックが何を? 聖者気取りで勝手な思い込みはよしてよね、カースティ。彼は今、スチュアートの家のソファで寝泊まりしてるのよ!」
「あなたはかなり落ち着いてるじゃない」
「そうね、落ち着いてる。でもそれは巡り合わせでそうなっただけで、私が決めたわけじゃないわ。今の場所に留まってるのは、ダンの政治家としての野心のせいよ。あの町が好きだからじゃない。私はただ彼に付いて行っただけ。ダンに会った時、私はロンドンに住んでたの。彼もそうだった。家族を作るには引っ越した方がいいって彼に言われて、私は賛成した。今はお店もあるし、友達もいる。だけど、もし全部捨てて別の場所に引っ越さなければならないとしたら、私はそうするでしょうね。パトリックも同じ。スザンヌに言われればどこへでも行ったでしょ。彼がどこかの時点でアメリカへ渡らなかったことが驚きだったくらい」
「かわいそうなパトリック」とカースティが言った。この旅が終わったら彼はどこへ帰るのかしら? と彼の行く末を心配しながら、彼女は窓の外へ目をやった。「妻はデジタル遊牧民だかなんだか知らないけど、あちこち移り住んでて、その間彼はあの子を一人で育てなきゃならないなんて」
「あなたの知り合いにもそういう人たちがいると思ってたわ。ブライトンは結構進んでる街なんだから」とジェシカは言いつつ、自分の言い方に嫌気が差した。話し方で損をしていることは前からわかっていた。それが自分を実際より10歳年上に見せ、10倍も保守的な印象を周りに与えてしまっている。
「そうね、何人かは知ってるけど、あいつらは役立たずのバカよ」とカースティが言った。「とにかく、あなたは自分の評価を下げてるわ。あなたがそれで幸せなら、あなたは付いて行っただけじゃないし、それに、あなたは自分の時間を持てるじゃない」
「そうかもね」とジェシカは言った。そして、少し間を置いてから続けた。これから言おうとしていることは、自然と口をついた言葉ではなかった。本心を打ち明けるのは昔から勇気の要ることだった。赤ワインを2、3杯飲んで舌を緩める必要があったし、常に身にまとっている感情的な拘束衣を脱がなければ何も始まらなかった。
「大丈夫?」とカースティが聞いてきて、心配されるほどあからさまな苦渋(くじゅう)が自分の顔に表れているのかと、気勢をそがれた。
「うん、そうね...大丈夫じゃないかな」と言って、彼女はギネスビールを一口飲んだ。その濃厚でピリッとくる味は、これぞアイルランド! という味で、大学時代に一時期アイルランドに嵌(は)まっていた時期を思い出した。当時はこのビールを飲みながら、アイルランド人作家の小説に夢中になり、アイルランド人の男の子(彼は今どうしてるのかしら?)と付き合っていた。「あのね、カースティ。私はもう一度謝りたいの。そして...これは馬鹿げたことに聞こえるかもしれないけど...でも、すべてのことを考えた上で、私たちはもう一度、仲良くやっていくことはできないかなって―黙って聞いて」と彼女は言った。妹が今にも反応して、流れを断ち切ろうとしてくるのを察知して、それを前もって阻止したのだ。そんなことになったら、また同じことの繰り返しで、もうどうしようもなくなってしまう。「だってほら、駆け引きとか、家族の中の権力争いみたいな? いろいろあったけどさ。でもまあ、なんていうか、この旅は、実際役に立ったわ。私でさえそう思う。いい旅だった。あなたたちと一緒に過ごせて楽しかったし、もう一度...」と彼女は言った。「もう一度私たちに戻れそうね」
ジェシカは飲み物をもう一口飲んで、それ以上しゃべらないという意思表示をした。カースティも1分ほど何も言わなかった。代わりに、彼女は手を伸ばすと、ジェシカの手の上に自分の手を乗せた。そして、その手に少し力を込め、上から握り締めた。ちょうど、カースティが動揺したり、ストレスを感じたり、あるいは気分がすぐれない時に父がよくそうしてくれたように。
「こっちこそ」と、長い沈黙の後、彼女は言った。「私こそ、ごめんなさい。私たちはもっと早く仲直りするべきだったわね、あなたが途中で...降りる前に...」
「いや、もういいのよ」
「でも」と彼女が言ったところで、パトリックがテーブルに戻ってきた。
「ああ、よかった」彼はそう言って座ると、ビールをぐびぐびと、少なくともグラスの4分の1ほどを一気に飲んだ。「いざこざはもうよそう」
「いざこざなんかじゃなかったのよ」とカースティが言った。
「くだらないいざこざだよ」
「何て呼ぼうと勝手だけど」とジェシカが口を挟んだ。「もう過去の話よ」彼女は、カースティの笑みを自分の顔に映したように微笑んだ。
「私たちはただ、この旅が役に立ってるって話してたのよ」とカースティが言った。「楽しい、ともね」
「楽しい?」パトリックが少し驚いたような声で言った。「どの場面がそんなに楽しかったんだ? 唾をかけ合うような激しい口論か? タイヤが吹っ飛んだことか? それとも、ひどい思い出話か?」
「パトリック」とカースティが言った。
「ごめん。冗談だよ」
「要するに」とジェシカは言った。「一緒に過ごせてよかったって意味よ」自分の気持ちにもっと正直に、あなたたち二人をまた友達みたいに思いたい、とか、あなたたちを私の人生の一部にしたい、とか言いたかったけれど、そう言うのが精一杯だった。「それと、私が一番好きな場面はね、明らかに、あなたの告白ね。〈フィットビット〉を通して、ファックしてることまでわかっちゃうなんて」
「傑作だろ」とパトリックが笑顔で言うと、カースティとジェシカが声を上げて笑った。
「ごめんね、笑っちゃって。違うのよ。そんなことになるなんて、大変だったわね」
カースティはにやけたまま、今度は兄の手に自分の手を添えた。ジェシカがその上に手を重ねる。
「正直、もういいんだ。それに関しては、もう気持ちの整理がついてる」
「あの女の子は?」とカースティが聞いた。「名前は何だったかしら? キャロル?」
「クロエ」
「ああ、その彼女。あなた...その気はあるの?」
「わからない。まだちょっと早いかな?」
「好きなら早いも遅いもないわよ、パトリック」
「それはそうなんだけど」と彼は微笑みながら言った。
さらに数人のウィスキーマニア(ウィスキーの銘柄が入った野球帽を被っているから一目でわかる)がパブにのらりくらりと入ってきて、彼らの近くの空いたテーブルを見つけた。一方、カドガン家の子供たちは話をやめて、お酒を味わい始めた。
ジェシカは、1ヶ月前、あるいはほんの1週間前と比べても、3人でいる時の沈黙に、確かな変化があることに気づいた。前は、もっと張り詰めたような緊張感に満ちていた。言葉を発していないというだけで、3人の間の空気には無数のボールが飛び交い、いがみ合い、点数を競い合っていた。今の沈黙は、試合終了のホイッスルが鳴った後のような、心地よさを感じられる。古くからの友人の間に流れる静寂のように、互いに話すことはなくても、一緒にいるだけで幸せな気分になれる。
もし今、そんな状態になれたとしたら、おそらくこの計画はうまくいったことになるんでしょう。1台の車で旅に出て、過去を訪ね、3人で話し合い、正直に胸の内を共有し、心を通わせることができたのかもしれない。同じ血を分け合った3人は、何年も前に途絶えていた幸せな家族に近い状態に戻れたということかしら。
彼らがビールを飲み終え、ウィスキーも飲み終える頃には、雨はやんでいた。しかし空はどんよりと、隙間なく厚い雲に覆われている。太陽の光が神の思し召しのように差し込んでくることもなく、入り江の波打ち際は暗い海水をぴちゃぴちゃと弾いている。それでも、これはこれでいいと思えてくる。これからよくなる可能性を秘めたまま、まだ灰色で、不穏で、予断を許さない関係のままで。
「それで、どうやって撒くの?」とジェシカが聞いた。
「ちょうどそれを考えてたところなんだ」とパトリックが言った。「お前がこの島に来る前に、2人で話し合ってたんだよ。カースティが流す曲を用意してくれた。で、曲を聞いたら、3人で少しずつ分ける感じかな?」と彼はためらいがちに言った。
「私が何か言った方がいいかしらね。2人がよければだけど、どう? 誰かが何かを言わないといけない気がする。パパのために」
「それでいいんじゃない」とカースティが言うと、3人は椅子を後ろに押し広げ、立ち上がった。カースティが骨壷を手に取り、店の外に出ると、パトリックと並んで歩き出した。ジェシカは少し歩を緩め、2人から距離を取った。目の端に浮かんで今にもこぼれ落ちそうな涙を拭いながら、戻ってきてよかった、と思った。
カースティ
お店から砂浜に向かって歩いていると、カースティは顔に数滴の雨粒が触れ、頬を伝って落ちていくのを感じた。空は少し明るくなってきたものの、天気はまだどちらに転ぶかわからない状況だった。彼女は骨壺をしっかりと抱き締めながら、道路を渡ってビーチに出た。少しの草むらを横切って、砂浜に足を踏み入れる。湿った砂は固まっていて、一歩進むごとにひび割れ、くぼみができた。
「どこがいいと思う?」とジェシカが、広い入り江を眺めながら聞いた。父親がどこに遺灰を撒いてほしいと望んでいるのか、3人ともさっぱり見当がつかなかった。見晴らしの良い場所がいいのか、彼にとって特別な意味を持つスポットがあるのか、そういうことは何も書かれていなかった。
「もう少し海に近い方がいいかな。半分は海へ、半分はこの島の砂と、混ぜる感じで」とカースティは言いながら、「混ぜる」という言葉を口にするのに少し抵抗を感じたが、他にいい言葉も思いつかなかった。
2、3分砂浜を歩いただろうか。海に近づくほど、徐々に足元の砂が柔らかくなり、3人が歩いたは足跡がくっきりと後ろに残っていった。その数は、家族全員で来ていれば、この砂浜についたはずの足跡の、ちょうど半分だった。
頭上では、空がさっきより暗くなっていた。雨も少し強まり、風も強くなってきた。パトリックはコートの襟を立てると首元を隠すようにして、ギリギリまで水辺に近づく決意を固めた。
その時、カースティはあることに気がついた。
「忘れてきちゃった」
「何?」ジェシカが、一人で立ち止まったカースティの方を振り返った。
「ウィスキーを持って来なくちゃ」
ジェシカが視線をそらし、空を見上げた。その顔は、それくらいいいじゃない、と言いたそうだった。
「そうしなきゃいけないのよ、ジェシ。わかってるでしょ。パパの―」
「そうね」ジェシカはそう言って、海辺からこちらへ戻ってくる。パトリックがカースティに車の鍵と釣り具箱の鍵を手渡した。
彼女は早歩きで車に戻り始めたが、背後からジェシカの、急いで、という声が聞こえ、砂浜を蹴るように走り出した。泥や汚れにまみれた古いキャンピングカーは、何かの記念碑のように道端に佇んでいた。
カースティは車内に入ると、まずプラスチックのコップを3つ手に取り、それからウィスキーが入っている釣り具箱を開けた。それを取り出すと、ボトルが入った箱に何かが記(しる)されているのに気づいた。
BOTTLED IN 1983.(1983年、瓶詰め)
今朝、父親から聞いた話を思い出していた。瓶詰めのこと、樽の中で何年も熟成させること。ボトル1本1本がどれも唯一無二で、ボトルにコルク栓を差し込んだ瞬間、中に時間、場所、歴史が凍結保存されるということ。
このウィスキーは35年前、今、兄と姉が立っている浜辺からほんのちょっと行った所にあるポート・エレン蒸溜所で、その工程を経た。そして瓶詰めされた後は、何が起きようと、どこに運ばれようと、誰が所有しようと、中身のウィスキーは35年前のまま、ここに収まっているのだ。
彼女はそのボトルを手にしながら、ジェリー・カドガンがこれを選んだ理由を考えていた。1983年に瓶詰めされたウィスキー。この島でコルク栓がはめられる数ヶ月前か、あるいは数ヶ月後に、アンドリュー・カドガンが、ここから600マイル南にあるブライトンで生まれた。
カースティは急いで車を降りると、砂浜を走って、再び強まってきた雨と風と寒さを凌(しの)ごうと、2匹のペンギンみたいに身を寄せ合っている姉と兄のところへ駆け寄った。
「それじゃ、それを?」と、パトリックは彼女が持ってきたコップを指差しながら言った。「急ごう。ここはクソ寒くて、凍えそうだ」
「少しだけ時間をちょうだい」と彼女は言った。彼女の声は、吹き付ける風の音に紛れ、揺れていた。「あなたたちに言わなくちゃいけないことがあるの。アンドリューのことで」
「アンドリューのこと?」とジェシカが聞き返した。
カースティは頷くと、言った。「彼はここにいるのよ。なんとなく―」
彼女が発した「なんとなく」という言葉は風にかき消されるように、二人の耳には届かなかったようで、「彼はここにいる」と言った直後から、二人は彼女に向かって、どこで、どうやって、いつ知ったのか、と続けざまに質問を浴びせ始めた。
「違う! 待って」と彼女は言った。「ちゃんと聞いてる? なんとなく、そんな気がするって言ったのよ」
「ふざけんなよ、カースティのカスが」
「彼はこのウィスキーなのよ」と彼女は言った。二人の顔に困惑の色が浮かぶのが見て取れた。「つまりね、このボトルの日付を見てよ」
「1983年」とパトリックが言った。
「彼が生まれた年よ。数ヶ月前、パパに聞いたの。なぜそんなにウィスキーが好きなのかって。そしたら、瓶に詰めると中で時間が止まるからだ、みたいなことを言ってた。このコルク栓を抜くまで、決して変化しないんだって」と言って、彼女はそのボトルを少し持ち上げた。「そしてこれは、アンドリューが生まれたちょうどその年に、ここで瓶詰めされたものなのよ」
二人は彼女をぽかんと見つめていた。
「残念だけど、彼はここにはいないわ」彼女はそう言って、足元の砂を指差した。「彼はおそらく一度もここに来たことがなかった。だけど今、彼はここにいる。パパがこのウィスキーを、つまり彼を、私たちと一緒にあの車に乗せて、ここに送り込んだのよ。今朝、そのことをずっと考えてた。だからこそ彼は私たちに、数ある浜辺の中からアイラ島を指定して、ここに行けと言ったんだわ」
カースティはボトルを指差した。『ライオン・キング』の冒頭で猿がライオンの赤ちゃんを天高く掲げるように、よっぽど彼女はそれを天高く掲げようかと思ったが、やめておいた。彼女はただボトルを抱えたまま、そこに立っていた。2人はそんな彼女を、雨でずぶ濡れになりながら、見守っていた。
「なるほどね。パパらしいというか、奥ゆかしいというか、深すぎて気づかないところだったわ」とジェシカが骨壷を見下ろしながら言った。「パパ、私たち、そしてここに...アンドリューの身代わり」
「そうは思わない?」とカースティが聞いた。
「ある意味、そう思うかな」と彼女は渋々といった感じで同意した。「アンドリューの代わりになるもので、私たちに持たせるのに一番いいものがこのボトルだって、パパが思ったのなら、そうなんでしょう」
「だからパパはこれを買ったのよ。このラベルを見て、彼の思い出の品にって」
「センチメンタルね」とジェシカは言った。しかしそれは批判というより、同意の意思表示に聞こえた。
パトリックが「じゃあ、開けようか」と言うまで、3人はしばらくそのボトルを見つめていた。
波打ち際まで歩いていき、カースティがホスト役を務めようと、コップにウィスキーを注ぎ出した。2つのコップに注いだところで、パトリックがしゃらくせぇと言わんばかりに瓶の首根っこを掴み、ボトルごと、ぐびぐびと飲み出した。
海に目を向けると、あちこちで波が立ち、海面が荒く波打っていた。左右2つの桟橋が海に突き出し、パレードを両脇から見守る儀仗兵(ぎじょうへい)のように真っ直ぐに伸びている。右手の向こうに見える麦芽製造所から煙がもくもくと立ち昇り、手前では桟橋につながれた小さな漁船がゆらゆらと上下に揺れている。冷たいアイリッシュ海が、この入り江を徐々に削り取ろうとしているかのように、岸壁(がんぺき)に海水を打ち付けていた。浜辺に打ち上げられた青いナイロン製のひもや岩に、昆布が張り付くように顔を覗かせている。
「じゃあ、準備はいい?」とジェシカが言った。パトリックはウィスキーをカースティに渡し、彼女は一口飲んでから姉に渡した。ボトルはもうほとんど空になっていた。あと一人一口ずつ(パトリックは二口分)残っているくらいだ。
ジェシカは骨壷の蓋を取ると、カースティとパトリックに差し出した。二人は無造作に詰め込まれたビニール袋に手を入れ、灰褐色(はいかっしょく)の遺灰を一掴みずつ手に取った。その骨壺は大きさとしては宝石箱くらいで、今はジェリーが入っているけれど、ジュエリーなども収納できそうだった。そして、ジェシカも遺灰を手に取った。
「ここまで来たわよ、パパ」と彼女が言った。カースティは自分が言おうとしていた「台詞」を姉が先に言い出したことに気づいたが、この場は姉に任せることにした。用意してきた曲も、少なくとも今は、流さないことにした。「私たちは途中で断念しそうになった時もあったけど、というか、私が断念しかけたんだけど」彼女はそう言うと、申し訳なさそうな顔をして2人を見た。「でも、私たちはたどり着いた。そして、あなたの計画が素晴らしいものだったと気づけた。すべては...あなたの思し召しね。私たちはちゃんと話し合ったわ。胸を割って正直に話した。そして、私たちは再びつながったの。だから、きっとパパは、よくやったって言ってくれるわね。あなたは良い親だった、最後の最後まで、というか、それ以降の延長戦までもね。パパ、いつもいつも簡単じゃなかったのはわかってる。辛い時期もあったし、ひどい時期もあった。でも、いつだって私たちはあなたと、あなたの愛を疑ったことはないよ。あなたがいなくて、私たちは寂しい」
パトリックとカースティも涙を浮かべながら、最後のセンチメンタルな言葉を繰り返した。それから、ジェシカが「スリー、ツー、ワン」と言い、3人は一斉に遺灰を海に向かって投げた。
雨にさらされながら海水の上に落ちたものもあれば、風に押し戻され、カースティのジーンズを灰色に、細かな砂粒がパウダー状にかかったように染めたものもあった。残りは濡れた砂の上に落ちた。
3人は再び骨壺に手を入れると、もう一度投げるために遺灰を一握り掴んだ。パトリックがブーツの底を海水につけて、ジェリーの遺骨を海に撒いた。遺骨はしばらくの間、水面に浮かんでいたが、やがて海へと消えていった。
パトリックとカースティが再び骨壺に手を伸ばした。最後の一握りになりそうだった。
「待って」とジェシカが言った。「少し持って帰ろうよ。ママも眠ってるブライトンの浜辺にも撒こう」
パトリックもカースティも、それに対して何も言わなかった。2人の沈黙は十分に同意を示していた。すると、パトリックがウィスキーのボトルを手に取り、残っていたわずかな量を口に流し込むと、父親の遺灰を少しだけ手に取った。
「何を―」とカースティが聞きかけたが、すぐにわかった。
パトリックは手のひらを丸めて、1983年にこのスコットランドの小さな町でその生涯を始めたボトルの口に、父の遺灰をそっと注ぎ入れたのだ。そして入り江の水でボトルを満たし、いわば遺灰と海水のカクテルを作ると、コルク栓をして、ラベルにキスした。
彼がボトルに向かって「ごめんな」と呟く声が、カースティには聞こえたような気がした。
彼がボトルの首を持って、頭上に振りかぶり、それを海に投げ入れようとした。その時、犬の鳴き声が聞こえ、彼女は振り向いた。
かなり離れたところに、ゴールデンレトリバーを散歩させている男がいた。遠すぎて顔立ちまではわからなかったが、濃いブルーのジーンズにウェリントンブーツを履き、ジャケットに野球帽という出(い)で立ちだった。時々立ち止まってはテニスボールを拾い、砂浜の進行方向に向かって投げては、愛犬に取りに行かせていた。
瞬間的に、彼かもしれない、と思った。アンドリューかも。年齢も体格も彼と似通っていた。腕を弓なりに反らしているパトリックを制止しようかと思った。けれど、その男が近づいてくるにつれ、彼がただの見知らぬ男であることに気づいた。知らない人だ。アンドリューではない。私の兄ではない。パパの息子ではない。
喉の奥からうめき声を発しながら、パトリックがボトルを海に向かって投げた。30メートルほどくるくるとアーチを描いたところで、それは小さな水しぶきを上げて海面に落ちた。浮いたまま沖へ流され漂流するのか、波に押し戻され岸辺に戻ってくるのか、それともポートエレンの入り江の底に沈んでいくのか、遠すぎて判別できない。
「よし」パトリックは2人の方を振り向くと言った。「じゃ、行こうか?」
「うん」とカースティが答え、3人は砂浜を横切って、キャンピングカーへと戻っていった。あと1冊、まだ探索していないアルバムがテーブルの上に残っていた。
カースティはすでにその中を見ていた。今朝、パトリックはまだ眠っていたが、こっそりと表紙をめくってみたのだ。最初のページの写真が目に飛び込んできて、すぐにいつ撮った写真かわかった。それは、新しい命が誕生し家族が増えたと思ったら、原因不明の失踪で家族が減った直後の家族写真だった。
アンドリューがいなくなった後の冬。
2009年のクリスマスと大晦日 ―
ギャントン通りの邸宅、ホーブ
ジェリーは、テーブルの上に積み上げた椅子に載せたカメラの後ろに立ち、ファインダーを覗き込んだ。
「ダン、もうちょっと前へ」と、彼は手をパタパタとはためかせて指図した。「ジェシカ、お前は一番前だ。マックスちゃんを前面に押し出すようにして、彼が笑顔を見せてるかどうか確認しろ。なんてったって、彼が主役だからな」
彼はにんまりと、孫を愛おしそうに見つめながらそう言った。それから少し警戒するように視線をずらし、末娘のカースティを見やった。20歳になったにもかかわらず、時々、マックスが家族の全注目を独り占めしていることに、彼女は嫉妬しているような雰囲気があった。おかげで自分は用済みだとでも、彼女は思っているようだった。しかし、今夜ばかりは嫉妬している場合ではないと思ったのか、彼女はすまし顔で佇んでいた。
「スー」と彼は妻を呼んだ。「スー!」
「一度目で聞こえたわよ」
「じゃあ、なんですぐ返事しないんだ?」
「どうしたの?」と彼女は、それには答えず言った。
「このなんだかよくわからん機械は、どうやってタイマーをセットするんだ? ロケット工学の学位が必要なのか―」
「時計の上についてる小さなボタンを押すんだよ、パパ」とパトリックが言った。
「そんなこと俺が知るわけねぇだろ?」
「時計っぽい液晶画面があるだろ、その上の小さなボタンだよ」
「生意気なやつめ」とジェリーは言いながら、ボタンを押した。「10」という数字が画面に表示され、彼は急ぎ足で家族の元へ戻った。その場から離れながら、カメラを載せた椅子がテーブルから崩れ落ちるのではないか、と心配がよぎった。「よし。その立ち位置をキープだぞ」
「みんなソーセージと言って、せーの!」
「ソーセージ!」と、全員がスーの掛け声に続いて言った。まるで牧師に続いて「アーメン!」と、声を合わせる信徒たちのようだった。約2秒後、彼らの表情が和らぎ、半笑い状態になった頃、フラッシュがたかれ、カシャッとその一瞬が保存された。
カドガン家の面々と、そのパートナーたちは歓声を上げた。ダンとジェシカは幼い息子を取り囲むように寄り添っている。一方、パトリックはスザンヌの手を取り、お酒を飲み直すためにキッチンへ向かった。カースティはソファに一人で座り、大学時代から付き合っているブラジル人のルイスに、またメールを書いた。彼はその夜、ロンドンの南部、ストックウェルの友人宅で開かれているパーティーに参加していた。
大晦日を一緒に過ごすというのは、ジェリーとスーから言い渡された義務のようなものだった。クリスマスに関しては微妙で、政治的な判断も必要だったため、ジェシカとダンは、お互いの両親の元を、一年ごとに交互に訪れることにしていた。今年はダンの実家を訪れる番だった。(孫が生まれたことにより、どちらの実家にも気を遣い、やはり交互に訪れるのが一番いいと、決意を新たにしたのだった。)パトリックとスザンヌはニューヨーク行きのチケットを予約し、12月30日までは彼女の実家で過ごすことにした。カースティだけが留守番だった。
「お父さんと私はね」と、スーが電話越しに言ったのは10月のことだった。どうやら家族みんなに電話をかけ、まるでコールセンターで台本を読んでいるかのように、全く同じ台詞をみんなに言い聞かせているらしかった。「新年だけは一緒に迎えたいって思ってるのよ。クリスマスが無理なら、新年だけはって。今年はほら、家族みんなにとって辛い出来事があったでしょ。だから、新たな年はできるだけ仲良く、みんなで集まって始めることが大事なのよ」
パトリックは断れないと思った。スザンヌは、大晦日にはプリムローズ・ヒルに登って、ロンドンの街を見下ろし、テムズ川の向こうで打ち上がる花火を眺めながら、2010年を迎えたいと言っていた。それは彼女が今までに経験したことがない新年の迎え方だった。しかし、このような例外的な状況にあっては、それはお預けにするしかなかった。
ジェシカとダンには特に何の予定もなかった。親子で新年を祝うことは、子供が10時以降も起きていることになるので、なるべく避けたい、くらいの意見しか持っていなかった。
カースティだけは、なんとしてもルイスたちと一緒にストックウェルへ行くことを熱望していた。パーティーで彼が仲間たちと何を飲み、何を吸い、そしてその影響下で何をやるのか、気がかりで落ち着かなかった。
家族写真を撮った後、ジェシカとダンはマックスを寝かしつけに行った。パトリックはスザンヌに付き添ってタバコを吸いに外へ出た。ジェリーとスーはキッチンでビュッフェの準備を始めた。一人取り残されたカースティは、リビングの一角を占拠している特大のクリスマスツリーをしばらく眺めていた。ツリーが邪魔して、庭に面した窓は見えない。
彼女はソファから立ち上がると、テレビ横のキャビネットの前に立った。その上には、家族それぞれの写真が飾られている。例外なく1人につき2枚ずつ、母親が公平に並べたものだ。カースティは黒のパーカーを体に巻きつけ、ジッパーを閉めた。その勢いで、剝がれかかっていたバンド名〈ストロークス〉のロゴが少し剥がれ落ちた。
そこには家族みんなの写真が、一見するとランダムだが、母親だけが知っている意味のある順番で並べられていた。
ジェシカの2枚は、卒業式と結婚式の時のものだった。パトリックのは、ワトフォードがリーズを3-0で破ったチャンピオンシップのプレイオフ決勝をジェリーと観戦した直後の親子写真と、もう1枚は、彼がワゴン車に寄りかかっている写真だった。父親の家業とは区別して、彼が自分で住宅改修業を立ち上げた時に買った新車だ。カースティの写真は、彼女がレベルAの卒業証書を手にしているものと、ステージでベースを弾いているものだった。大学進学を機に解散した、過激なパンクバンドだった。
そして、もう2枚の写真があった。家族それぞれの人生からは見えなくなってしまった男の写真だったが、家族の記念ギャラリーにはちゃんとその姿が写っていた。
1枚目は、アンドリューが軍服姿の写真だった。キャッタリックでの訓練を終えた日に撮られたもので、ジェリーとスーが彼に会いにこの地を訪れたのだ。もう1枚は昨年のもので、ガールフレンドのメルと一緒に写った写真だった。今年の初め、彼が失踪する直前に、2人の関係は破局を迎えていた。
カースティはメルが写った写真を手に取ると、独り言にもならないほど微かな声で、「あなたがいなくて寂しいよ、お兄ちゃん」と言いながら、そっと写真を入れ替えた。神経が張り詰め、抑えきれない想いがこみ上げてくる。また、彼がいないことに泣きそうになっている自分に気づく。
その夜は、主にジェリーがカメラを持って、家族がゲームをしたり、食事をしたりしている姿を撮っていた。何をやるにもその場を支配していた強制的な楽しさは、世界中のサラリーマンが耐えている、あの強制感みたいだ、とジェシカは思った。社員の結束を高めるとかいう謎の名目の元に、大々的に敢行される日帰り旅行のようだった。彼女は、マックスのせいで疲れたからもう眠いわ、と言って、さっさとベッドルームに退散しようか、と何度も思っては、なんとかこらえるのに必死だった。いっそのこと、リビングのソファで寝たふりをしようか、とさえ思った。(ダンの友人たちとのディナーパーティで、早く帰りたい時に何度か使った技だ。)しかし、ゲームに参加するほどではないにせよ、より大きな善意が彼女をその場にとどまらせた。
11時半頃になると、ゲームも一旦お開きになった。スーは新年を祝うためにチョコレートフォンデュ用の器具を出してきて、キッチンでチョコレートを溶かし始めた。ジェリーは「真夜中に飲みたい人?」とパトリックとダンだけを見て聞くと、書斎に保管してあるウィスキーを選びに行った。
スザンヌが再びタバコを吸いに外へ出て行くのを見て、パトリックも後を追うかな、とジェシカは思ったが、彼は腰を上げなかった。外は寒く、小雨が降っていた。
「どんな感じ?」とジェシカは、テレビに面した大きなソファに座っているパトリックの横に腰を下ろしながら聞いた。(他の2つのソファは1人掛けで、少し斜めに置かれているので、テレビを見るには不向きだった。)
「疲れた。そういうことじゃなくて?」
「それはわかるけど、パパとママは大丈夫だと思う?」
「正直言って、俺らがここにいる限りは大丈夫だろ。心配なのは明日だよ」
「明日になればすべてが見えてくるでしょ?」
「何が?」
「新年の幕開けは、物事を見極めるのにうってつけじゃない。新たな年をどうスタートさせるのか考えるのよ。自分が持っているもの、持っていないもの。頭の中を整理して、哲学的な時間にもなるわ」
「そうだな」とパトリックが言った。「それに、彼らは二日酔いだろう。そうなると、すべてが悪くなるな」
「うーん」ジェシカは、そういうことじゃなくて、と思い、弟の単純明快な思考回路に感心すると同時に呆れた。彼の思考回路には、高速道路が1本走っているだけで、そこを真っ直ぐに進んでいれば、真理にたどり着くらしい。
「あのさ、今夜はそのことに触れないつもりだったんだけど―」
「何よ?」とジェシカは聞いた。「彼女が妊娠したとか?」
「いや。それは...ない」と、彼は自分自身に確認するように言った。「そうじゃなくて、今夜は言いたくなかったんだけど、スザンヌに新しい仕事のオファーが来たんだ。昇進だよ、栄転ってやつだ」
「よかったじゃない。神様が良い知らせを授けに舞い降りたのね」
「まあ、それはそうなんだけど、そうでもないっていうか、その仕事はアイルランドにあって、ダブリンに引っ越さないといけない」
「あら」
「タイミングが理想的じゃないのはわかってるけど―」
「じゃあ、彼女はもうオファーを受けたんだ」
「いや、そういうわけでもなくて、俺たちはまだ...なんていうか」
「パトリック。タイミングが理想的じゃないのはわかってるけど、とか言ってる時点で、もう受けたも同然なのよ」
「正式にはまだだよ。でも、給料がすごいんだ。IT部門は今ダブリンで大きく発展している。それに、俺の仕事はここでなきゃできないってもんじゃない。アイルランドにも壁を塗って欲しがってる人はたくさんいるだろ?」
ジェシカはラム酒とコーラのカクテルに口をつけると、グラスの中にパンくずが落ちているのを見つけ、小指ですくい取った。彼女は着ている赤いジャンパーにも手を走らせ、パンくずがついていないか確認している。
「おい、何か言ってくれよ」
「何を言わせたいの? 明らかに、引っ越す気満々じゃない。タイミングは、これ以上ないってくらい最悪なのに。子供が1人いなくなってまだ半年しか経ってないっていうのに、もう1人遠くへ行っちゃうなんてね」
「そうか。言いたければ、彼らに言えばいい。お前は気楽だな、10年も前にこの地を離れて、行ったきり戻ってこない。スザンヌはアメリカからロンドンに来て、それからここに引っ越してきた。彼女が俺についてきてほしいって―」
「なぜ私たちがロンドンの近くに住んでるのか、わかるでしょ。ダンは1人っ子だし、彼の両親がマックスに会えるのはいいことなのよ。それに、私は自分のビジネスを立ち上げて、あそこで自分の人生を築いてきた。あなただって今までここで自分の人生を築いてきたんでしょ―」
「2人は何を言い争ってるの?」とカースティが言った。2人とも、彼女が部屋に入ってきて、ソファの肘掛けの上に腰を掛けたことに気づいていなかった。彼女は缶入りの洋梨の発泡酒を飲んでいる。
「パトリックがアイルランドに引っ越すんだって」とジェシカが言った。
「ジェシ」
「だって、そうなんでしょ」
「パトリック」とカースティがイライラした口調で言った。「それって半年くらい待てなかったの?」
「スザンヌの栄転なんだよ」と彼は言った。
「そう。それで、あなたはあそこよね、ベーコンズフィールドだっけ?」と、カースティはジェシカを指さしながら聞いた。
「バーカムステッドよ」とジェシカは訂正した。
「どうでもいいけど。私は大学があるから、これから6ヶ月間ダラムにいるのよ。あなたがダブリンに行っちゃったら、彼らは2人きりになっちゃうじゃない。2人きりにしてはいけない時に」
「戻ってくるよ」とパトリックがカースティに言った。「俺たちはどこかの時点で戻ってくる。一時的なものだよ」
「そうでなくなるまでは一時的よね」とジェシカは言った。
「それで? 私はこの辺りに居残って、じっとしてればいいってわけ?」とカースティが言った。「私は何? 両親の番人?」
パトリックはもううんざりだった。彼はビールの残りを飲み干すと、必要以上に力を込めてグラスをテーブルに置いた。
「あのな。ママは昔から、親のためにこの近くに居続ける必要はないって言ってただろ」
「状況は変わるものよ、パトリック。人生は変わるの」とジェシカが言った。
「じゃあ、お前がここに戻ってくればいいだろ?」
「私の生活を丸ごと移転させるのは大変なのよ。これから数ヶ月間あなたがここにとどまるのは、それほど大変じゃないでしょ。私が言ってるのはそういうこと」
「何も言わなければよかったな」とパトリックが嘆くように言った。
「今回は言ってくれてよかったわ。じゃないとまた、あなたが引っ越す前日になって、え? あんた引っ越すの?って、私たちは知ることになったでしょうね」
「彼女の言う通りよ、パトリック」とカースティも言った。「あなたはいつもギリギリまで待ってから、何でも言うのね。それがどんなに重要なことであっても」
いつもじゃない、と彼は言いたかった。たまにはそういうこともあるけど、自分の中には、先を見越して行動する力もあるんだ、と。自分が積極的に行動していなければ、アンドリューはもっとずっと早く、この家を出て行っただろう。そしておそらく、もっと悪い結果をもたらしたはずだ。
「そうだな。引っ越すのを少し延ばせないか考えてみるよ、それでいいか? ただ、今夜はもうそのことで言い争うのはやめよう」と彼は言った。そして、2人の沈黙を同意とみなして、彼は空になったグラスを掲げ、「休戦」と言った。姉と妹もグラスを掲げ、3つのグラスを軽く合わせて、「休戦」と繰り返した。パトリックが飲み物を取りに行こうと、ソファから立ち上がった時、リビングのドアが開いて、ジェリーとスーが入ってきた。2人はそれぞれ、カメラと、チョコレート風味のスナック菓子〈トゥイグレッツ〉が山盛りに入ったボウルを抱えている。
「全員そろってるな」と言って、ジェリーはカメラを構えた。「さあ、2人ともそのままそこにいて。パトリックも戻って座れ」
彼が父の指示通りにソファに戻ると、ジェリーは立て続けに少なくとも6枚、3人が一緒に写った写真を撮った。
「10年前にも、まさにこんな感じの写真を撮ったんだよ、覚えてるか?」と彼はスーに聞いた。「当時はどぎついピンクのソファに座ってたけどな。あれは、巨大な怪物のようだった」と彼は笑いながら言った。「たしか、あそこにあったな」彼が部屋の隅を指差した。めったに使われないピアノの上に、フレームの縁が真鍮や銀で光る写真のコレクションが並んでいる。「取ってくれ。見てみよう」
一番近くにいたカースティが、その写真を手に取って見た。明らかに、10年よりもはるかに前に撮られたものだった。過ぎ去った年月が父の中で圧縮され、キュッと束ねられ、時間と記憶を曖昧にしているのだろう。彼女はまだ赤ん坊で、ジェシカの膝の上に座り、姉の長い茶色の髪の束を、ぽっちゃりとした小さな手で掴んでいる。
それを見てすぐに、カースティは写真をピアノの上に戻そうとした。父には渡したくなかった。しかし、彼はそれを奪い取るように掴むと、自分とスーの目の前に差し出した。途端に、2人の顔から陽気な笑顔がすっと消えた。スーは泣きそうになるのをこらえるように、急いで部屋を出て行った。ジェリーは4人が写った写真を持ったまま、「知らなかった、愛しい息子よ。俺は覚えていなかった...」みたいなことを呟いていた。
彼の手から写真がするりと滑り落ち、彼は部屋を出ていった。床に落ちた写真をジェシカが拾い、ソファに座った。カースティとパトリックも彼女の両脇に座った。
ガラスに大きなヒビが入っていた。フレームの端から端まで水平に亀裂が伸びている。それでも彼らは、なぜこの写真を母親がピアノの上に飾っていたのか、すぐにわかった。
その写真の主役は、姉の膝の上に座っている赤ん坊のカースティではなかった。妹を上から見つめているジェシカでもなかった。〈ワトフォード〉の紫と緑のアウェイ用ユニフォームを着て、隅っこでうつむいているパトリックでもなかった。彼はカメラを見てさえいない。
そう、この写真の主役は、ソファの真ん中に座り、にっこりと歯を見せ、両手を広げているアンドリューだったのだ。兄や姉がカメラを無視している中、一人あふれんばかりの快活さで、おちゃらけるようにポーズをとっている彼こそが、この写真が撮られた理由だった。他の人たちは、ただ写っているだけのエキストラに過ぎなかった。
それは、数十年後にジェリーが「まさにこんな感じの写真を撮ったんだよ」と言って、期待したような、3人で写っている写真ではなく、彼が決して再現することの叶わない写真だった。
「ったく」とパトリックが吐き出すように言った。母親の泣き声が聞こえてきた。深く、息苦しく、激しい嗚咽だった。彼女がそこまで取り乱したことはそれまでなかった。彼女自身の母親が死んだ時でさえも、そんな泣き方はしなかった。それは、時間とともに必然的に亡くなっていく人への悲しみではなく、悲劇的で予期せぬ喪失への鋭い叫びだった。
その時、玄関ホールの大時計が鳴った。午前0時を回ったのだ。
しかし誰も、新年あけましておめでとう、などとは言わなかった。
チャプター 13
ポート・エレン、アイラ島、スコットランド
カースティ
1ページ目をめくる時には、みんな涙を流していた。2ページ目には、3人がソファに座っている写真が現れた。パトリックがアイルランドに引っ越すことについて口論になったことが思い出される。その直後に撮られた写真だ。もちろん、彼はアイルランドに行った。それは誰もが予想したことだった。スザンヌがそう決めたのなら、彼も、他の人も、彼女の気持ちを変えることはほぼできなかった。
その年の大晦日の記憶は、長く尾を引くことになった。2010年は、アンドリューのいない生活に慣れなくてはいけなかったのだが、慣れるどころか、さらなる悲しみと痛みをもたらした。父親は息子を探す方法はないかと懸命に知恵を絞り、母親は彼が自分の意志で帰ってくることを信じ、探すのをやめるよう父親に懇願し続けた1年だった。
「時期が来たら、きっと帰ってくるから」
このように2010年に起きたことを思い出すと、ほとんどすべての出来事がアンドリューを呼び起こすきっかけとなる。あの年、スーが地元のスポーツジムの受付嬢として久方ぶりに仕事に復帰したのは、アンドリューが家業を破産寸前まで駄目にしてしまったため、住宅ローンの借り換えが必要になったからだし、パトリックが隔週でダブリンから実家に帰ってきたのは、彼なりに罪悪感があったからだろう。彼はなるべく両親のそばにいようとした。何か恐ろしいことがあった後では、人はいつもより注意深く行動するものだ。でも、1年か2年も経てば、大抵はまた離れていってしまうのも人の常だった。
その年の後半、ジェシカが再び妊娠したことを発表した。彼女がもう一人子供をつくろうとダンを説得したに違いない、とカースティは思った。壊れた家族を修復する最善の方法は、新たな命をつくることよ、という彼女の声が聞こえてくるようで頭を振った。一人の人間の欠落を別の人間で埋める。失恋して新たな恋を探すみたいで嫌だったが、彼女はそのことを決して口にはしなかった。
「大丈夫?」とカースティはジェシカとパトリックに聞いた。
「なんてことないよ」と彼は答えたが、ジェシカはただ頷いただけだった。「もっとウィスキーを飲みたかったけどな」と彼は付け加えた。
「パパがこの写真を現像してたなんて知らなかったわ」
「これを撮ったことすら忘れてたよ」
「マックスが、おじいちゃんおばあちゃんと初めて過ごしたクリスマスだったのよ」とジェシカが言った。「彼はカメラを持ったきり、ほとんど手放さなかったわ」
「たしかに」とカースティは言った。
「もっとあるかしら?」ジェシカは妹からアルバムを受け取ると、過去の集合写真がもっとあるんじゃないかと期待しながら、というか、むしろハラハラしながらページをめくった。
しかし、もう写真はなかった。代わりに、次のページを開くと、テープで貼られた封筒が目に飛び込んできた。封筒はボロボロで変色し、しわくちゃだった。表面にはドイツの郵便切手が貼られ、その上に押された青いインクの〈エアメール〉スタンプが少し滲んでいる。日付は2019年8月、父親が亡くなる1ヶ月余り前のものだ。宛先の住所は手書きだったが、カースティには見覚えのない乱雑な筆跡で書かれていた。
ジェリー・カドガン様
6 ギャントン通り
ホーブ、BN6 7JP
イングランド
その住所の上に、ジェリーが書いたとわかる不安定な筆跡で「これを開けろ」と書き込んであった。
「私が開けようか?」とカースティが名乗り出て、他の2人は頷いた。
彼女は封筒をアルバムから剝がし、裏に折り込まれた糊代(のりしろ)を持ち上げてみた。乾ききった糊はほとんど粘着力がなく、するりと中身を取り出すと、テーブルの上に置いた。
それは3、4枚の紙の束で、1枚目のA5のメモ用紙には、封筒の表に書かれた住所と同じ字体で、こう綴られていた。
あなたに知らせておいた方がいいと思いました。私はあなたの家族以外では、一番あなたのことを知っている人だと思います。
とても残念です。
ジュディス
胸の高鳴りが喉の奥から聞こえてきそうだった。カースティがメモを脇に寄せると、200字にも満たない短い新聞記事が露わになった。記事の上には、まぎれもないアンドリュー・カドガンの写真が載っていて、故、マシュー・スターリングというドイツ名が付されていた。
「マシュー・スターリング? マシュー島のムクドリって意味か?」とパトリックが言った。彼は少し驚き、少し混乱し、おそらく少しは期待もしているような声音(こわね)だった。
「素敵な名前ね」とカースティは言った。冬の夕方、ブライトンの海岸で見たムクドリの群れを思い出した。空に小川のせせらぎが浮かび上がったかのように、何千羽もの鳥が一体となって、流れるように移動していた。誰一人排除されることなく、誰一人取り残されることなく、ゆらめきながら遠ざかっていく鳥たち。アンドリューが自分の新しい名前を決めた時、それがいつだったにせよ、その光景を思い浮かべたとは思えないが、その名前の詩的な本質が彼女の中に染み込んでくるようだった。
「どういう意味―」とジェシカが言い始めた。
「ちょっと待って」と言って、カースティは記事に目を通した。ドイツ語で書かれていて、翻訳機もなかったが、その必要はなかった。カースティは高校で習ったドイツ語の基礎的な知識を使い、読み進めていった。最も突出していて、最も恐ろしい事実を読み取るには十分だった。
彼女は唾を飲み込み、こみ上げてくる恐怖を無理やり押し下げ、そして口を開いた。
「彼は死んだ」と彼女は、新聞の切れ端に視線を落としたまま言った。兄と姉の顔を見ることができなかった。「去年の6月って書いてあるんだと思う。詳しい内容までは読み取れないけど、交通事故があったみたい」
「ちくしょう」とパトリックが言った。彼は妹から新聞記事をひったくると、まるで睨んでいれば目から光線でも出て、全ての単語が英語に再構築されるとでも思っているかのように、鋭いまなざしを向けた。彼が高校でドイツ語の授業をほとんど受けたことがなかったことをカースティは知っていた。お前の兄はドイツ語の授業をさぼっては、フィッシュ・アンド・チップス店にしけ込み、タバコを吸ってばかりいた、と教師が冗談めかして言っていたからだ。
「あなたには無理よ―」
「誰だ?」とパトリックが、カースティを遮るように聞いた。「このアンナ。アンナ・スターリングってのは誰だ?」
カースティは彼から新聞を受け取ると、もう一度できる限り頭を働かせて読み返した。個々の単語はなんとか頭に入ってくるのだが、フレーズ単位ではあまり意味が浮かんでこない。それにもかかわらず、この未知なる名前を説明する言葉がパッと頭にひらめいた。
「彼の娘よ」と彼女は静かに言った。「アンドリューに娘がいたんだわ。娘のアンナと、妻のジュディスが生き残ったって書いてあるんだと思う。アンナは4歳よ」
「同い年だな...」とパトリックは言いかけたが、尻すぼみに小声になった。
娘のマギーと同じ年頃の姪がいるという現実を急に突きつけられて、彼は戸惑い以上の息苦しさを感じた。2人はいとこであると同時に、友達になれるかもしれない。別の可能性、近々起こりうる世界では、カドガン家に新たなメンバーが2人増えることも考えられる。そうしたら、両親が亡くなったことでもたらされた喪失感を少しは埋めてくれるだろうか。「くそったれ」と彼は言った。「アンドリュー」
カースティは記事と手紙をジュディスから送られてきた封筒の中に戻した。
外では、雨がキャンピングカーの薄い天井をしつこいくらいリズミカルに叩き続けている。頭上に広がるダークグレーの空のせいかもしれないが、なんだか暗さが増してきたような気がする。父親の遺灰が眠っている浜辺は、汚くて、好き好んで訪れたいような場所ではなかった。コーラの空き缶やペットボトルが、網(あみ)や鮮やかな緑色の海藻に絡まっている。まるで初めて見るような景色だとカースティは感じた。
「ジェシカ」と彼女は言った。「あなたも何か言ってよ」
「そうすると、彼は知ってたってことね」と、彼女は1、2秒考えてから言った。「パパは全部知っていた。この子のことも、奥さんのことも。アンドリューの新しい名前も、そして死んだことも」
「まあ、送られてきたこの記事に載ってることだけでしょうけどね」
「でも彼は言わなかった。言わずに彼は―」
「同じことだろ?」とパトリックが言った。「もし彼が、死ぬ2週間前とかにアンドリューのことをお前に話したとして、そしたらお前はどうした?」
「私は...その」とジェシカは言葉に詰まった。その場合、自分がどういう行動を取ったのか、明らかに彼女はわからないようだった。他の2人も同様にわからなかった。「彼はきっと、私たちに考えさせようとした...」
「いいえ、そうじゃないわ」とカースティは言った。「彼がどこにいるのか、そんなの考えたってわかりっこないし、堂々巡りを繰り返すだけ。パパはどうしても私たちにこの旅をさせたかったのよ。その結果、私たちは前よりいい関係になれたじゃない。もしアンドリューのことを、こういう七面倒なことをする前に私たちに話していたら、どうせ私たちのことだから口喧嘩を始めて、お互いに責任の擦(なす)り付け合いになっていたでしょうね。そしてパパには、そうなることがお見通しだったのよ」
それは単なる仮説に過ぎないと、カースティはわかっていた。ジェリー・カドガンがなぜ、遠く離れた場所で暮らしていた、今は亡き息子の知らせをアルバムの最後に載せたのか、理由は知る由もないが、彼が指定した順番の最後にこれを持ってきたということは、一番重要なことだったのかもしれない。残された3人の子供が再び仲良くなること、それ以外にも、彼の望みはあったのかもしれない。
「得たものはあった。というか、大きな収穫だったわ」とジェシカが言った。彼女の声に嫌味な響きはなく、代わりに悲しみと、少しの後悔が感じられた。
「俺たちが手にした何かは、この封筒には入りきらないものだな」とパトリックが言った。
カースティは釣り具箱を取りにテーブルを離れた。
中身はもう空っぽだった。ウィスキーは飲み干した。アルバムは探索し終えた。遺灰は撒いた。彼女は昔の思い出の詰まった重いアルバムを手に取ると、釣り具箱の中に入れた。一緒に、ウィスキーの箱と、アンドリューの記事とジュディスからのメモが入った封筒も、中に入れる。
彼女は、この女性とその娘、つまり姪っ子にいつか会うことはあるのだろうかと考えた。それはない気がした。彼女たちはアンドリュー・カドガンの家族ではなく、マシュー・スターリングの家族なのだ。彼女たちは、彼の友人、彼の人生、彼が歩んできた歴史を、彼の口から聞くことで共有してきたのだろう。彼が妻と娘に語ることに決めた人生が、どんなバージョンだったのか、私には想像もつかない。血の繋がりはあっても、それ以外はアンドリューとほとんど共有してこなかったホーブの家族とは、かなり形態の異なる家族を、彼女たちは彼とともに築いてきたのだ。
このメモは、繋がりを持とうというより、むしろ親切心で送られてきたものだろう。家族の絆を何よりも大切にし、家族の幸福を守りたいと願った一人の男への、そう願いながらもそれを果たせなかったジェリーへの、思いやりだったのだ。
カースティは釣り具箱を閉じて鍵をかけ、テーブルの下にそれを置くと、帰路につこうと立ち上がった。まだ座ったままのパトリックとジェシカを見下ろす。二人ともぼんやりした表情で、〈フォーマイカ・テーブル〉の上で組み合わせた両手を見つめている。まるで2人でチェスをしていて、お互いに次の一手を考えているかのようだった。
「そうね」と彼女は言った。「目的は果たしたし、祝杯をあげたい気分だね。パブでも行っとく?」
〔感想〕20220625
今日は午前中訳そうとしたら、野暮用で飛んで、午後訳そうとしたら、気温が37度とかで(体温を超えて)頭がぼんやりして、夜(今)訳そうとしたら、寝ないと集中力が回復しそうにないから、明日でいっか!ってなった...汗(笑)
久しぶりに感想を書こうかな。
海辺で遺灰を撒いたシーンで泣いて、アンドリューの記事で泣いて、最近は泣きながら訳してばかりだけど、1年近く前に訳したプロローグを読み返してみたら、我ながら、訳がうまっ!ってうなってしまった!!笑
そこじゃなくて、ちゃんとアンドリューの伏線が張ってあったんですね。プロローグを訳してる時は、ジェリーの妻のスーに関係してる何か(不倫とか?)かと思ってた...笑←なんで不倫??笑笑
我ながら、引きの力があるというか、訳した作品がまた「当たり」だな!←それいつも書くけどさ、出版されてるって時点で全部「当たり」なんじゃね!笑←えっ、売ってるアイスの棒全部に「当たり」って書いてないだろ!
パート 4
チャプター 14
バーカムステッド、ハートフォードシャー州
ジェシカ
「よしっ」と彼女は声を上げた。「みんな、準備できた?」
「もう少しだ」とダンが叫び返す。
階段の下にある棚からコートや靴を引っ張り出す物音が、がさごそと聞こえてくる。それだけで、夫も子供たちも、まだ準備ができていないことがわかった。11時ちょうどに出発する予定だというのに、彼らはスマホやらゲームやらでぐずぐずしていて、すっかり時間を浪費してしまった。
「11時に出発するって言ったでしょ。もう10時過ぎよ」
「運転で挽回するよ」とダンが叫び返した。
「近道はやめて。スピードの出し過ぎもダメ」と彼女は言った。キャンピングカーの運転中にタイヤがパンクして以来、高速道路での事故を極度に恐れ、用心深くなっていた。もっとも、グレットナでの事故があったからこそ、そのあと兄妹3人は、まさに彼らが必要としていた時間を過ごすことができたのだが。
ジェシカはスマホを確認した。〈エアビーアンドビー〉を通じて知り合ったブライトンの家主からメッセージが届いていた。今日の午後、到着したら近所を案内してくれるという。ブライトンは生まれ育った街だからその必要はないわ、とでも返信を打とうと思ったが、考え直す。ここ数年、南海岸で過ごす時間がほとんどなかったので、大きく様変わりした街を案内してもらうと助かるかもしれない、というのが実情だった。
3人がまだ慌ただしく騒いでいる中、もうしばらくかかりそうだった(ダンはいつも子供たちに支度させるのに手間取り、私ほどすんなりこなせない)ので、ジェシカはリビングへ向かい、つい最近本棚の隅に追加されたばかりの写真立てを手に取った。
ポート・エレンの海辺を背景に、雨に濡れ、風に吹かれているパトリックとカースティ、そして彼女自身が写っている。あれからパブに向かう途中、犬を連れた男が通りかかり、カースティが彼に頼んで、3人の写真を撮ってもらったのだ。
ジェシカとパトリックが困惑して彼女を見ると、カースティは「後世に残すためよ」と説明した。長い間行方不明だった兄が亡くなっていたことを知った直後のこの瞬間を、なぜ彼女はデジタルプリントして、神棚に祭るみたいに後世まで飾っておきたいのか、その時の2人には理解できなかった。「今日のことはしっかり記憶に焼き付けなきゃね」
彼らはもうへとへとで、感情がぶれ気味だった。パトリックとカースティは無理してカメラに向かって微笑んだ。ジェシカは、自分の気持ちを表すというよりは、ポーズを決めるみたいに、半笑いのような表情をしていた。
その後、パブでギネス・ビールが溢れそうなグラスに口をつけながら、パトリックがある提案をした。それがきっかけとなり、ジェシカと彼女の家族は、これから南へ向けて出発しようとしているわけだ。
「考えてたんだけどさ。また一緒に大晦日を過ごさないか。すべてがわかった今こそ、前みたいに。こんなこと言いたくはないけど、きっとパパもそれを望んでるだろうし」
ジェシカは、彼の言う通りだとすぐさま思った。3人の間に亀裂を生じさせた難問が、ようやく解けたのだ。アンドリューの失踪で生じた不和も解消された。もう、3人が友達にならない理由はどこにもない。こうして一緒に今年を終え、来年を迎えることは当然の成り行きだった。
「あと10秒で出発するわよ」とジェシカが家の中に呼びかけた。ダンと子供たちが、コートやバッグ、帽子やマフラーでぐるぐる巻きになった状態で廊下に出てきた。マックスとエルスペスは真っ先に玄関を出て、車まで走っていった。ダンが防犯ブザーをセットし、リビングルームの明かりがついていることを、またチェックしている。何万回確認すれば気が済むのかしら?
「準備はいいかい?」と言うなり、彼がジェシカの唇にキスをした。彼は最近、以前より愛情深くなり、優しく接してくれる。これもポート・エレンへの旅がもたらした功名なのかもしれない。2人の関係から少し血が抜け、プレッシャーから解放された気分だった。
「ええ、いいわ」
約2時間後、ジェシカはハンドルを握り、幼い頃から慣れ親しんだ道路を走っていた。さながら観光ガイドのように、ランドマーク的な建物を指差しては、子供たちに説明していた。前回来た時は2人ともまだ幼かったので、あまり覚えていないらしい。
「ほら、この教会の前で、おばあちゃんとおじいちゃんが結婚式の写真を撮ったのよ」と彼女は、セント・フィリップ教会を通り過ぎたところで言った。
「でも、結婚した場所じゃないんでしょ?」とマックスが言った。ジェシカはアイラ島から戻ってすぐ、2人の子供に古い写真を見せたのだ。そして初めて、自分の家族について、醜い部分もさらけ出して真実を話した。
「そうよ、教会の前で写真を撮っただけ。あれが戸籍役場だった建物よ。今はマンションになっちゃったみたいね」
「何でもかんでもマンションになっちまうな」とダンがぼやくように言った。
「私たちはあそこで結婚したんだけどね」と彼女は、ダンのぼやきを打ち消すように明るく言い添えた。「パパと私が結婚した場所よ」
数分後、彼女は角を曲がって、もう二度とお目にかかることはないだろうと思っていた道に出た。ギャントン通りだ。その先にある、古くて白い邸宅に向かってゆっくりと車を走らせ、邸宅の脇の小道に車を止めた。彼女は玄関へと続く踏み段に目をやった。さらに視線を上げ、1階の窓を見て、2階の窓も見る。どの窓も、通行人や近所の人が、中を覗けるくらい大きな窓だ。(彼女は10代の頃、通りに面した2階の部屋を使っていて、思春期に外からの視線を痛いほど感じていた。)
「さあ、着いたわ」と彼女は、声のトーンを安定させようと気を配りながら言った。自分でも予期していなかったのだが、ジェシカはここに帰ってきたことに感激し、こみ上げてくる熱い想いでいっぱいだった。まるでこの家が、家族とともに保存され、待っていてくれたような気がした。
彼女が先導しながら、4人はそれぞれバッグを抱えて、小道を歩いた。玄関には、これ見よがしにライオンの口の形をした大きなドアノッカーがついている。ジェリーが買ってきて取り付けたところ、スーに怒られた代物(しろもの)だ。彼女はノッカーを掴むと、3回音を鳴らした。
出てきたのはカースティだった。彼女はブルーのデニムシャツに、虹色のストライプのセーターを着ていた。その色合いを見てジェシカは、エルスペスの去年の誕生日に作ったケーキを思い出した。
ギャントン通りの邸宅 ― ホーブ、サセックス
カースティ
「ああ! もう着いたのね」と彼女は、少し面食らったように後ずさり、間を空けてから続けた。「ちょうど言ってた時間ね。あなたのことだから、どうせ遅れると思ってたんだけど」
「そんなに驚かないでよ」
「どうぞ、入って」と彼女は、ジェシカの発言を無視して言った。一緒に育った家に姉を招き入れるのは、なんだか不思議な気分だった。「パトリックは今...あれね...」何の最中(さいちゅう)なのか、具体的なことを言うのがなんだか気恥ずかしくて、言葉に詰まった。兄と暮らすようになってよかったと思うことはたくさんある。彼のガールフレンドが泊まりに来た翌朝、物音や会話が聞こえ、彼の行動が手に取るようにわかるのは、よかったこととは言えないけど、10代に戻ったような気分にはなれる。兄や姉の行動に目を光らせつつ、いろんな行為に見て見ぬふりをしていた思春期の頃に、一気に引き戻された気分だった。「家の中の、どこかその辺にいると思う」と彼女は言った。
ジェシカ、ダン、マックス、エルスペスの4人家族は、彼女の後を追ってキッチンに入って行った。彼女はお湯を沸かし始めると、3つのマグカップにティーバッグを放り込んだ。
「あなたたち2人は何にする?」と彼女は、マックスとエルスペスに聞いた。2人とも、大晦日に祖父母の古い家に来ても、大して感激しているようには見えない。とはいえ、他にどんな反応を示せというのだろう? と、これが現実的な気がしてきた。「スカッシュ・ジュースがあるわ。それか水ね」
カースティは飲み物を用意すると、テーブルの4人に加わった。これもまた、少し妙な気分だった。アイラ島から帰ってきてすぐに、パトリックとここで暮らし始めた。その時以来、キッチンだけは手入れをせず、そのままの状態で使っている。食器類は2人の共有ということにして、壁には元々あった絵が数枚かかっている。表向きはまだ父親が使っていた頃のままで、この家で唯一、父親の指紋が完全には取り除かれていない場所だった。
「それで、どんな感じなの? 実家に戻ってきて」とジェシカが聞いた。
「快適よ。でも、すっかり私たちの家って感じるようになるには、もうしばらく時間がかかりそうね。やっぱりまだ、ママとパパの家って感じするし」
ギャントン通りの邸宅で暮らすことは、帰る道すがら、キャンピングカーの中で決めたことだった。
最初は、ヘブリディーズ諸島からサセックスまで、一気に帰ろうとした。しかし、マンチェスター辺りで一泊する必要があるとわかり、ウォリントン近くのサービス・エリアに直結したホテルに泊まった。
ジェシカはさっそくシャワーを浴びて、キャンピングカーの中で寝た日数分の汚れを洗い流していた。カースティとパトリックは、四方をそれぞれのファーストフード店の売店に囲まれた、広々としたレストラン・スペースでまず食事を取ることにした。半分くらいの席が埋まっている。
「あなたをどこで降ろせばいい?」とカースティが聞いた。2人は〈バーガーキング〉のフライドポテトをつまみながら、向かい合っていた。
「ロンドンが近づいてきたら、どこか適当な場所で。ステュには明日の夕方には戻ると言ってある」
「わかったわ」と彼女は言って、チョコレートミルクシェイクをズズズと吸い込んだ。「その後は、どうするの?」
「どういう意味?」
「これからのことよ。またイングランドで暮らすのなら、いつまでもステュの家のソファで寝泊まりしてるわけにはいかないでしょ?」
パトリックはこれに対して何も言わなかった。彼がシングルファーザーで、仕事もなく、住むところもないという現状をはっきりと思い知らせているみたいで、自分があまりにも残酷で、無遠慮すぎたかな、とカースティは考えた。
「わかってる」と彼は、老舗百貨店〈マークス&スペンサー〉が自社生産している缶ビールをごくごくと飲みながら言った。
「ロンドンに行けば、どこか見つかるかもしれないわ。ロンドンのちょっと郊外ならたぶん」と彼女は提案した。さすがに都市部は家賃も高いし、広々とした素敵な部屋に住むのは無理だろうとはわかった。
「ロンドンには住みたくないよ。アイルランドに戻ろうかと思ってるんだ」
「ブライトンに戻ってくる? それともホーブ?」と彼女は言った。パトリックが何か考え込んでいるのに気づいて聞いた。「どうしたの?」
「ホーブがいいかな。さっきから考えてたんだけどさ。ママとパパの家とか?」
「内見はあったけど、まだ誰も申し込んできてないよ。でも、そのお金を引っ越しの当てにするのはどうかと思うけど。それに、ホーブは一応高級住宅地だし、家賃だって―」
「いや、そこに住もうかと。俺とマギーで」
その考えに彼女は面食らった。カースティは家を売って、そのお金を3人で分けるものだと思っていた。ギャントン通りの邸宅は、パトリックとマギーが2人で住むには広すぎるのだ。
「本気じゃないんでしょ、パトリック。あの家に戻りたいってこと?」
「かもね」彼はそう言うと、すぐに付け加えた。「でも、いくらかお金は渡すよ。お前とジェシは...あれだろ...」
「そうね」
「もしくは」と彼が、少しためらうような声で提案した。「お前も引っ越してくればいいじゃないか。リヴィと一緒に」
「え? あなたと一緒に暮らすってこと?」
「考えてみてくれ。お前はあのアパートを持ってる。まあ、いい部屋だけど、風通しが悪くないか。隣人も変な奴ばっかりだろ。あの部屋を売り払えば、もちろん俺もアイルランドの家を売るし、そうしてお金を合わせれば、あの家を買い戻せる」
「それはそうだけど、でも、一緒に住むってことでしょ」
「それのどこが悪いんだ?」
彼がそう言った瞬間、カースティは何も悪いことはないと気づいた。あの家は十分広いから、一人になりたい時には、ちゃんと自分のスペースを確保できる。それに、ブライトン周辺の小さなアパートや賃貸住宅に2人が別々に住むよりは、確実にいい。
「あの女ね、だから引っ越してきたいんでしょ? あなたがメールしてた、クロエ」
「いや」と彼が、にやつきながら答えた。その表情を見てカースティは、やっぱり、と思った。ほぼ間違いなく、クロエのことも理由の一つではあるようだ。「そういうわけじゃなくて、そろそろホームに帰る頃合いかなってね」
旅を終えた2日後、さっそくパトリックはスチュの家からホーブに引っ越してきて、売りに出していた古い実家を取り戻した。そして、マギーが通う学校を探して手続きをした。さらに、家の所有権を移し、パトリックとカースティの共有にした。ジェシカには、アイルランドの家を売った売却益から、それ相応の金額を渡した。
それから数ヶ月の間に、パトリックは各部屋を装飾し、改装した。かつて父親がスーを説得して、多くの可能性を秘めたボロ家に引っ越してきた時の様子が蘇ってくるような、不思議な感覚を味わっていた。この家を改装していた父親が乗り移ったような妙な感覚だった。そこは次第に、両親の家と自分たちの家のハイブリッドになっていったが、いずれにしても、カドガン一家の家であることに変わりはない。
「彼がもうすぐ下りてくるわ」とカースティは言った。2階の床板がきしむ音でパトリックが階段の方へ移動しているのがわかったのだ。ちょうどジェシカを連れて、1階の各部屋を案内し終えたところだった。ラウンジも見違えるように改装されていた。両側の壁がダークブルーに塗り替えられ、家具の位置も様変わりし、パトリックのインテリアデザイナーとしての才能を感じさせた。父親が使っていた仕事部屋には、テレビとソファが置かれ、くつろげる個室のようになっていた。ラウンジのテレビで何を見るかについて意見が分かれた時のための、隠し部屋的な空間らしい。(たいてい、サッカーを見たいパトリックと、それ以外の人たちで意見が分かれるのだ。)
「べつに急いでないからいいのよ」とジェシカが言った。「またここに戻ってこれて嬉しいわ。私がまた、ここに帰ってくるとは思わなかったけどね」
「私もよ。彼はうまくやったでしょ? この壁とか」
「そうね。ホームって感じがする。でも、少し違うかな、新たなホームって感じね。言ってる意味わかる?」
カースティは微笑んだ。広々とした全面窓から庭を見ると、マギー、リヴィ、エルスペスが、数日前に降って溶けかかった雪で、どろどろの雪玉を作って遊んでいる。マックスはラウンジのソファに座り、両手で握り締めた携帯用ゲーム機に夢中だった。彼は四六時中そのゲーム機を掴んだままで、彼からそれを引き剝がすのは不可能に近かった。
庭だけは、やはりジェリー・カドガンの作品だという印象が強かった。草花の位置、芝生、池、池のほとりのベンチなど、彼が配置したそのままだ。彼が植えたアジサイは、今の季節は茶色の茎(くき)だけの状態だが、時期が来れば、薄いピンクの花を豪勢に咲かせるだろう。ラベンダーも、今は抜け殻のようなさやが萎(しお)れているだけだが、夏には紫の花を咲かせるはずだし、花壇に埋まった球根も、数ヶ月間冬眠した後には、むくむくと芽を出すだろう。
彼女とパトリックは、庭はこのままの形で残すことに同意していた。手入れは2人が引き継ぐことになるが、パパのものであることに変わりはない。
「じゃあ、ここで幸せなのね?」とジェシカが聞いた。「パトリックと暮らすのは、あまり苦にならない?」
「全然平気。むしろ気に入ってるわ。キャンピングカーより断然ましだしね」とカースティは言った。
2階でキーッとドアが開く音がして、遠くてまだよく聞こえないが、2人の話し声が階段を一足先に滑り降りてくる。
パトリック
「君はきっと気に入られるよ」と彼は言った。振り返ると、彼女はまだ口紅を塗っていた。それは普段使いの薄めのリップだった。ディナーやバーに出かける時は、もっと明るい、赤や紫の口紅をつけていたが、さすがに今日は控えめだ。彼女は髪を後ろで束ね、ポニーテールにしてから、鏡を覗き込んだ。そして、ため息をつくと、ポニーテールをほどき、また髪を下ろした。
「パトリック、あなたのお姉さんに最後に会ったのは、あなたのお父さんのお別れ会の会場だったわ。私はバーメイドをしてたのよ」
「それが?」
「なんかちょっと変じゃない? この前はウォッカ・トニックを差し出しながら、「お悔やみ申し上げます」とか言ってた人が、次に会った時には、幸せな家族気取りだなんて。それに、あなたの話を聞いてると、あなたのお姉さんって相当、怖そうっていうか」
「言いたいことはわかるけど、彼女は変わったんだ」と彼は言った。「まあ、少しだけど。彼女は...なんていうか、前より気楽な感じだよ」
「でも、前に比べたらってだけで、実際にはそんなに気楽でもないんでしょ?」
パトリックは少し考え込んでしまう。あの姉が、たとえ最高に機嫌のいい状態だったとしても、細かいことを気にせず、物事を成り行きに任せるような態度をとることがあるだろうか。
「いい感じ」とクロエが言った。彼女は前髪をさっとかき上げ、鏡に向かって微笑んだ。にっと笑顔をつくって、鏡で入念に歯を確認している。
「なんでそんなに緊張してるのかわからないな」
「大イベントでしょ? お正月をみなさんと過ごすのよ。あなたの家族と一緒によ。私たちが1階に下りるのが遅いから、きっとみなさん、私たちが...上でまだ」
「それはどうかな。彼女たちはそんな―」
「言わなくていいわ」と彼女が言った。
クロエがベッドに腰を下ろしたまま、腕を伸ばして靴を取り、それを履いている姿を、パトリックは横から眺めていた。正月早々、ぐうたらした午前を過ごしてしまった。空になったティーカップ、トーストの粉やマーマレードの残りがついた皿、ベッドの下に投げ出されたままの半分よじれた靴下や下着など、部屋のあちこちにその名残が散見している。パトリックが早朝、寒さに震えながら彼女のために買いに行った新聞は、しわくちゃになってベッドサイド・テーブルに置かれていた。
昨日は、ほぼ一週間ぶりに2人が一緒に過ごした夜だった。一週間前のクリスマス、彼女はバースの実家で過ごしたのだが、子供たちがおじいちゃんと過ごしている間、少し外出して、バースのホテルで彼と会ったのだ。パトリックはその後、ステュとサラの家に寄り、再びソファで寝泊まりしたのだが、数ヶ月前にそのソファを借りていた時よりも、ずっと気楽で幸福感に包まれていた。
人生が逆戻りしたみたいで不思議な気分だった。10代後半や、20代前半の頃に戻ったような甘酸っぱいときめきがあった。お互いの部屋に泊まったり、やがて自分の歯ブラシを洗面台の横に置きっぱなしにできるだけの自信がついたり、相手の友人や家族に会って緊張したり、2人とも結婚歴があるからこそ、そんな時期はもう二度と訪れないと思っていた。新しい関係の息吹がもたらす興奮やら、この先どうなるかわからない不安やらを、再び経験することになろうとは思ってもみなかった。
それにしても、いい気分だった。クロエと一緒にいるのが心地よかったし、彼女も自分と一緒にいるのが心地よさそうだという実感が湧いてきた。お互いの子供たちは十分に仲良くなり、それぞれの元パートナーは、自分が失望させたはずの相手が前に進んでいることを知ると、少し身構えるようになった。すべては、あるべき姿になっていった。
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