『1日でめぐる僕らの人生』7
『Our Life in a Day』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2020年09月07日~2022年04月05日)
チャプター 23
午後5時~6時
引っ越しの日
2017年8月 — ウェスト・ハムステッド、ロンドン
トム:
冷凍庫を空にする
CDの梱包
ゴミ箱
キッチン
鍵
新しい家具
エズミー:
猫
冷蔵庫
本
バスルーム
ベッドルーム
リビングルーム
食器棚
役割分担表は冷蔵庫の扉に貼られていた。A5サイズのノートを1枚ちぎった紙にそれぞれの役割が書かれ、マグネットでとめられている。2008年、二人でアムステルダム旅行に行った際、美術館で買ったマグネットだった。表面にフェルメールの『牛乳を注ぐ女』が描かれている。それぞれの項目の横には、やったことを示すチェックマークが書かれ、もうほとんどチェックされていた。二人の部屋は、ほぼ空っぽの状態になっていた。長年使ったパソコンを中古ショップに売る前に、あるいは捨てる前に、工場出荷時の初期設定に戻そうと、いろんなファイルを削除したみたいだ。かつてホームだった家が、ただの建物に戻っていくプロセスが、彼はなんだか嫌だった。空間が内包していた意味がどんどん抜けていくようで、むなしくなる。
表面をきれいに取り繕ったところで、刻まれた過去が消えるわけではないのに。
エズミーは数時間前に出て行った。頬にそっとキスをして、静かに「さようなら」と言い残し、キャリーケースに入れた猫と一緒に出て行った。トムは玄関で彼女を見送った。彼女は、彼女が使っていた鍵を彼に手渡すと、〈アイラ・ガーデン〉を横切り、猫と一緒に小型車に乗り込んだ。この部屋をどうするかについて、二人で話し合った結果、長期的な観点でどうするかはまだ決めずに、とりあえず1年かそこら、誰かに貸し出すことにした。
見知らぬ人(おそらくカップルだろう)が、自分たちが暮らしていた部屋に住み、この古い本棚に彼らのものを置いていき、自分たちが寝ていたベッドで眠るというのは、なんだか妙な感じがした。次に誰がこの空間をホームと呼ぶことになるのか、そんなこと考えたくもなかったが、どうしてもまだ見ぬ新たな住人の影が思考に割り込んでくる。
彼は今、キッチンに一人ぽつんと佇んでいる。あと何箱か運び出せば家の中は空っぽになる。外では、白い〈トランジット〉が片輪を縁石に乗り上げた形で待機している。二人で使っていた小型車はエズミーが乗って行くことになったので、彼がこの日のために借りたワゴン車だ。彼の足元には、4つの袋が置かれている。二人とも未練もないし、現世では何の役にも立たないと同意した品々が入っている。品薄で買い取り強化中のリサイクルショップに持っていくのすら、失礼にあたるようでためらってしまうガラクタだ。そのうちの一つから、小さな金属製のプレートが顔を出していた。流れるような筆記体で「LIVE LOVE LAUGH(ともに生き、愛し、笑え)」と書かれ、羽ばたく蝶や、飛び出すシャンパンのコルク栓で華やかに装飾されている。ローラがエズミーに結婚を促そうと、当て付けがましく買ったプレゼントで、彼女からの一連のひどい贈り物の一つだ。当然の如く、彼らの家の壁に掲げられることは一度もなかった。
トムはそれを家に持ち帰った夜のことを思い出していた。ローラとアマンと、エズミーと僕で食事をした。OXOタワーの展望台レストランで、テムズ川やセント・ポール大聖堂を見下ろしながらのディナーだった。
「さあ、開けてみて」とローラが目を輝かせて言った。「あなたたちにぴったりだと思って」
「あら...素敵」とエズミーが言った。明らかに言葉と表情が合っていない、と彼は思った。ローラからのプレゼントを開ける時のエズミーは、大体いつもこんな感じで、上辺だけの喜びを当て付け返すのだ。(トムが横で見ていて一番傑作だと思ったシーンは、ローラが出版した本にローラ自身が目の前でサインをし、それを受け取った時のエズミーの、あからさまな苦渋の表情だった。)その間、アマンは恐れおののくように、あるいは恥ずかしそうに、その様子を見守っていた。彼も最初は、あんなおかしなプレゼントは贈るものじゃない、とか言っていたのかもしれないが、いっこうに聞く耳を持たない妻への助言をいつしか諦めてしまったのだろう。家に帰ってから、トムが冗談めかして、どこに掲げようか? と家のあちこちの壁にそのプレートを当てている時の、エズミーの笑い声が脳裏に蘇った。
彼は数時間前に、ガラクタが詰まった袋をひっかき回して、何か価値あるものはないかと念のため確認していた。たとえそれが、もっと早くに処分しておくべきものだったとしても、感傷的な意味を伴った品物があるかもしれない。エズミーがそれに気づかず、袋に放り込んでしまったのではないか、と再確認したのだが、やはりすべてが意味のないガラクタだった。
トムの携帯電話が、むき出しのキッチンカウンターの上で鳴った。画面を見れば、彼の父親からだ。彼は手にはめていたゴム手袋を引っ張り抜いて、電話に出た。
「父さん?」
「おお、トム」とゴードンが言った。トムはその口調から、父親がこの電話をかけることに少し躊躇していたことを察した。だいたい父親から電話がある時は、ローストフトに向かう途中の車の中から現在の交通状況を知らせるとか、そうではなくても、実務的な報告がほとんどだった。感情的な会話は、たいてい顔を合わせてしていた。といっても、お互いに気まずそうに床を眺めながらの会話だったけれど。
「お前が元気かどうか確認しようと思ってな」と彼は続けた。「すべてが滞(とどこお)りなく...うまくいったか」
「ああ、今のところ順調だよ。ありがとう」
「それで、お前は元気なのか?」
「元気さ」とトムは言った。「ただ、ちょっとへばっちゃって。わかるだろ?」
「そりゃわかるさ」と彼は答えたが、彼がわかっていないことは、彼自身にもトムにも明々白々だった。
「エズミーは?」
「彼女も元気だよ。3時頃出て行った」とトムは、彼女が鍵を手渡してきた時のことを思い出しながら言った。
「そうか...それはよかった。お前も元気そうで...よかった」よかったを繰り返す彼の言葉の井戸は、干からびる寸前のようだ。
近くに母親もいる気配がありありと伝わってきて、彼女が言葉を発していなくても、トムの耳にはその声が聞こえてくるようだった。父の背中をつつくようにして、トムをなるべく長く電話口にとどめておくために、もっと何か言いなさいよ、と無言の圧力をかけている様子まで目に浮かんだ。
「そうすると、今日はお前にとって大事な日ってことだな。それで、母さんが...わしもだが、お前が大丈夫か確認しておこうってな」
「大丈夫だよ」
「よし、ならいい。あっちに着いたらメールでもよこせよ」
「そうするよ」
二人はぎこちなく別れの挨拶を交わし、電話を切った。トムは携帯電話をジーンズのポケットにしまいながら、手を止めた。突如として、今自分の身に起こっていることの重大性が、どっと全身にのしかかってきたのだ。
今日まで、別れの予感は、いわば家具にかぶせた埃(ほこり)よけシーツの裏側に隠れた形で、見えなかった。つまり引っ越しの準備とか、片付けの忙しさに埋没されて、あまり感じなかった。しかし今になって、とうとうその時が来たんだ、と急に身に染みた。二人の人生を一新するために、ここを後にする日が来てしまったんだ。今日で、(少なくとも当分の間は、)ロンドンでの生活ともおさらばだ。これから、650キロ北へ一人で移動することになる。国境を越えた先で新たな生活を始めるために。
エディンバラに行って、僕の生活がどう変わるのか、そこまではあまり考えていなかった。見慣れぬ町並み、道も覚えなきゃだし、新しい住所も覚えなきゃ、カフェやお店も探さなくちゃだし、と新たなリストが浮かび上がる。僕とエズミーが慣れ親しんだこの、ロンドンの小さな一角は、上書きされるように死滅していくんだろうな。
今日の午前中、アナベルがここに顔を出した時になって初めて、自分の生活基盤が大きく変わろうとしていることに思い至った。この幼なじみに会おうと思ったら、これからは、何週間も前から計画を立てなければならない。ロンドンでは、ありえないような偶然がしょっちゅうあったけれど、どこかでばったり顔を合わせるなんてことも、もうなくなる。
「じゃあ、ついに実行するのね?」とアナベルは言って、荷造りの箱に入れずに残しておいた2つのマグカップのうちの1つを手に取り、ミルクの入っていない紅茶をすすった。エズミーは、アナベルの3歳の娘マーラと一緒に遊んでいる。
「ついにって何?」
「あんたは昔から言ってたじゃない。『うだつが上がらないのはロンドンという街のせいかもしれない』って」彼女は彼の言い方を真似て言った。「『もうこんな街こりごりだよ。エディンバラにでも引っ越そうかな』って。20代前半の頃は、毎週のようにそんな脅し文句だか、愚痴だかを聞かされていたっけね。あんたが会うまでは―」と彼女は、エズミーの名前を出す寸前で口をつぐんだ。
「ああ、そういえば言ってた」
「場所を変えたって何の解決にもならないわよってあたしは返してたんだけど、今思えば、あんたをロンドンに引きとめようとしてただけかもね」
「君は昔っから自己中だっただからな」
「あんたが近くにいれば何かと便利だったんだけど、でも今はもう、あんたに実用的な使い道はないわ。お役御免ね」
「たしかに、もう何の役にも立てそうにない。じゃあ、これで永遠にお別れ?」
「たぶんね」
「よくもまあ、二十数年も続いたな」とトムは微笑みながら言った。アナベルと出会った小学生時代を思い出していた。二人はクラスの中でも底辺に近いグループにいた。血筋の問題とか、サッカーのフリーキックが下手くそだとかで、よくいじめられていた数人の集まりだった。「エディンバラまで遊びに来てよ。長旅になるけど、いい? みんなで」
「もちろんよ」と彼女は言った。その時、マーラがキャーと悲鳴を上げながらキッチンに走ってきて、そこで会話は中断された。彼女の後を追ってエズミーが両手を上げ、ガオーとモンスターを演じながら入ってきた。「どうしたの?」とアナベルが言うと、マーラは彼女の太ももの後ろに隠れた。
「エズミーおばさんが私を捕まえようとしてるの!」と彼女が金切り声で言った。その時、エズミーが触手のような腕を、マーラの頭上に下ろしてきたので、彼女がまたキャーと悲鳴を上げた。彼女はそのままリビングに逃げ込み、キッチンに三人が残された。
エズミーとアナベルがハグをした。彼女たちの友情は、言ってみれば、僕を介したお下がりの洋服みたいなものだが、だからといって、重要な関係であることに変わりはない。
「2分だけ待ってて」とトムは言って、寝室からある物を取って来ようと、少しの間、二人のもとを離れた。
彼が戻ってくると、二人は引っ越し作業の煩わしさや、エズミーがこれからレスターまで、一人で車を運転することについて談笑していた。エズミーは、黒と白のまだら模様のキッチンカウンターに寄りかかるように立っていた。そこは彼女の定位置で、ほとんど毎晩のようにそこに立って、トムが夕食を作るのをそばで見ていた。(彼は決して言わなかったが、ちょっとだけ邪魔だった。)
「君に渡したいものがあるんだ」とトムはアナベルに言った。二人の会話がひと段落したところを見計らって、切り出した。「昨日、僕の作業部屋を片付けてる時に見つけたんだ」
「あんたの財産を分けてくれるの?」と彼女が冗談めかして返した。
「これだよ」と、彼は彼女の発言を無視して、カセットテープを差し出した。
「何これ? もしかしてあれ? あんたが自分で選曲して録音したカセットを学校に持って来て、好きな女の子にプレゼントしてたやつ? 締(し)めの曲はいっつもフェイセズの『ウー・ラ・ラ』なのよ」と彼女がエズミーに言った。エズミーも表面上は微笑みを返したが、実際には笑っていなかった。
「黙れ」とトムは言った。「そうじゃない。これは僕が君のファーストダンスの伴奏をした時のテープなんだ。リハーサルの時に録(と)っておいたんだよ。君が気に入るかもしれないと思ってね」
「あらまあ、トムったら。すっごく素敵」と彼女が言った。「でもまあ、これをもらっても、もう二度と、ほぼ確実にあたしが踊ることはないでしょうね。今は1989年じゃないし、それに、それを再生するカセットデッキもうちにはないのよ。だけど、その気持ちは素敵」
「そこは発想の転換だろ。レコードで踊ってるやつは結構いる。でも、カセットで踊るなんて、今どき君が初めてかもしれない。君はせっかくストーク・ニューイントンに住んでるんだし、―あそこはかつてヒッピーダンスが栄えた本場じゃないか、だろ? 君がその分野の開拓者になっちゃえ」
「そんなこと言ったって、あたしはね、1日のほとんどの時間を子供用のカラー粘土と格闘してるんだから。あれってカーペットにくっつくとなかなか取れないのよね。時間もないし、踊るスペースもないし」
アナベルは再びカセットに目をやり、マジックで書かれた「AW-1」という自分の名前のイニシャルを見た。それから、それをバッグにしまい、トムとエズミーを見上げた。アナベルは目に涙をうるうると浮かべていた。
「あ、そろそろ、マーラをクリックルウッドに連れて行かなきゃ。お友達と遊ぶ約束をしてるのよ。そういうわけだから...」
「ああ」とエズミーが言った。「心配しないで。最後に二人だけにしてあげる」
「そういう意味じゃなくて、ちょっと待って」とアナベルが言って、立ち去ろうとするエズミーを引きとめた。「寂しくなるわ」彼女はそう言いながら、エズミーの体を両腕で包み込んだ。
「私も」とエズミーは言ってから、自分の体を引き離すと、空っぽのキッチンにトムと彼の幼なじみを残して立ち去った。
アナベルはリュックサックを手に取り、勢い良く背中に回してそれを背負った。そして、もう一回エズミーと追いかけっこをする~と言い出し、今にも走り出しそうなマーラの手を取った。アナベルが泣く姿をこれまでほとんど見たことがなかった。彼女の結婚式の時も、その1ヶ月前に両親が出席しないと告げてきた時も彼女は泣かなかった。唯一見た彼女の涙は、僕が病院で目覚めた時だった。自殺未遂をした時、アナベルは病院のベッドの横で、僕に寄り添うようにいつまでも座っていてくれた。
「ティッシュいる?」
「うっせ」と彼女は言った。Fで始まるもっと汚い言葉を使いたかったのだろうが、子供の前ということで、彼女はやんわりと毒づいた。
「またすぐに会えるよ。この次会うのは新年ってことで」
「わかってる。でも、今まで通りってわけにはいかないでしょ? あんたとあたしは同じ時期にロンドンに引っ越してきた。あんたはすっかりあたしの人生の一部なんだよ、世界中の誰よりも。って言いたいところだけど、サムとマーラ以外ではね。さっさとスコットランドに消え失、行っちゃいな」
「消え失せろ?」と彼は笑顔で言った。
「子供の前で汚い言葉はやめて」と彼女は言って、プルオーバーのゆったりした上着の裾で目元をぬぐった。「ねえ聞いて、トム。あなたが行っちゃう前に言っておきたいことがあるの。今年起きたことを考えるとね」
「僕まで泣かそうっていうのかい? だってさ―」
「いいから黙ってて。冗談じゃないの。そういうところよ。あんたはそうやってすぐおちゃらけて、すぐ大事なことを忘れて、なんで家の中に仕事場があるのに30分も遅刻するのか意味不明だし、そんなずぼらなあなたが彼女とやっていけるわけないって、ふさわしくないって、あたしはあれだけ言ってたでしょ? あんたはあたしの最も古くからの友人なんだからわかるのよ。まあ、最も役立たずな友達でもあるけどね」
「たしかに」トムはうなずきながら、涙がこみ上げてくるのを必死でこらえていた。
「そうでしょ、ほんとに何度でも言っておきたいわ、トム。あんたは最も...」
トムはうなずき、声を振り絞って弱々しく「ありがとう」と言いながら、アナベルと抱き合った。マーラも何かを感じ取ったのか、一緒になって彼の足を抱き締めた。
「君がいなければ、僕はエズミーと出会えなかった。それはたしかだろ?」二人が体を離すと、トムは言った。
「すべては目論見通りよ、相棒。最後の一滴まで残らず計画通り」
アナベルは彼をもう一度抱きしめ、さよなら、と言って、娘の手を引き去っていった。キッチンとラウンジを隔てている柱の陰から、エズミーが見ているのに気づいたが、どうしても彼女の目を見る気にはなれなかった。
それから半日経った今、一人、彼はキッチンを見回した。もうほとんどすっからかんになったキッチンに、ぽつんと一つダンボール箱が置かれている。彼は最後にやかんと、ブリキの茶筒(ちゃづつ)をその中に入れた。茶筒には、ティーバッグと賞味期限の長いミルク・ソケットが詰まっている。エズミーが今年の初め、出張に行った際、会議センターからくすねてきたものだ。そのダンボール箱を外の車に持ち出そうとした時、開けっ放しの玄関のドアがノックされる音がした。若くて、陽気な「こんにちはー」という声がそれに続いた。
「どうぞー」とトムが返すと、若い男が顔を出した。グレーのピンストライプのスーツに、白いシャツ、ピンクのネクタイをした22歳くらい男だった。大きな革財布を小脇に抱えて、自信たっぷりといった風情(ふぜい)で家の中にずかずかと入ってくる。
「〈アルダー不動産〉のウィル・マーサーです」男はそう名乗って、握手を求めてきた。握った彼の手のひらは熱く汗ばんでいた。「すみません、ちょっと早かったですかね?」と言って、ウィルは腕時計を確認した。
トムもスマホの画面をちらりと見た。6時まであと15分ある。もう少しこの場所で、ぼんやりと一人の時間を過ごしていたかったな、と思った。
「とにもかくにも、ここから早く逃げ出したいって感じですかね? グラスゴーまでは長いドライブになりますね」
「エディンバラです」
「ああ」どっちでもよくね? と言いたげにウィルは顔をしかめた。「どっちも近くですよね?」
「まあ」
トムはウィルをリビングに案内した。そこには、中央に真新しいソファがどんと置かれている。新たにこの部屋を借りる人のために、トムとエズミーが〈イケア〉で買ってきたものだ。それがテレビユニットと向き合っていた。テレビユニットは彼らが使っていたもので、一応きれいにはしたが、マグカップを繰り返し置いたことによる円形の染みがいくつか残っている。空き家というのは不思議なものだ。彼は壁のあちこちに刺さったままのピクチャーフックや画鋲を見上げながら、そう思った。壁の絵を外したことで真っ白な正方形が露わになり、時間の経過によって黄色っぽく変色した周囲の壁に、四方をくっきりと縁取られていた。掃除機もなかなか届かない、そのため滅多に掃除したことがなかった部屋の隅は、黒ずんだように汚れている。―トムが木目調の細長いプレートを、壁の底辺にガード板としてはめ込んでおいたのだが、それが剝(は)がれかかっていて、トムの仕事のいい加減さが露呈してしまっている。いくつもの円が旋回しているような模様の漆喰(しっくい)の天井には、今は省エネ電球が1個だけ付いている。
「紅茶をお出ししたいところですが、やかんを片付けてしまったんです」
「お構いなく。最後にしまうんですよね? で、最初に出す」
「はい?」
「やかんですよ。最後にしまって、またすぐ使うから真っ先に出す。そういうものでしょ?」
「ああ、そうですね」
「それはともかく、そんなに時間はかかりませんよ。お湯が沸騰するよりも早く済みます」とウィルは、今日という日の重大さを見誤ったまま明るく言った。「あなただけで、お一人でよろしかったですか?」と彼は言って、大きな革財布を開けると、すかすかの中から3枚の紙を取り出した。
「そうです、僕一人です」
「よかった、なら問題ありません。じゃあ、このXのところにサインしていただければ、それで完了です」と彼は言って、トムがサインするために膝の上に書類を置くのを見ていた。「あとここですね、メンテナンスに関するものです」と彼が指差す。「そして、これが鍵用の書類です。2セットでよかったですよね?」
トムはうなずきながら、ちょっと頭がくらっとした。そのプロセスのあまりの速さと、心のこもっていない様についていけない。だいたい不動産業者なんてそんなものだ。お客にとって引っ越しは人生の一大事なのに、どいつもこいつもその重大さをわかっていない。〈アルダー不動産〉のウィル・マーサーも、その点では例外ではなかった。
「じゃあ、3枚ともサインが終わりましたら、私の方でもサインをして、控えをお渡しします」
鍵は2つとも、キッチンの窓辺、淡いブルーのタイルの上に置いてあった。そのすぐ脇のタイルが大きくひび割れている。今はもうないが、常に緑の葉っぱをぐったりさせていたバジルの鉢植えを置いて、エズミーが隠していたひび割れだ。
彼は鍵をウィルに手渡した。
「ありがとうございまーす」とウィルが元気よく言った。「今度ここに入居することになったのは、素敵なカップルですよ。ジャックとスーズ。スペルはOが二つで、スーーズ(Sooz)」
トムはウィルの乗りについていけないまま、ぎこちない笑顔で応えた。ウィルはなぜか、トムが早くここを出て行くのを今か今かと待っているように見えた。
「少し時間が必要ですか? この場所に別れを告げたりとか」
「いや」トムはちょっと間を置いてから言った。「大丈夫です」そう言って、キッチンから出て行こうと背を向けた。
「あ、これを忘れないでくださいね」と言って、ウィルが箒(ほうき)とちりとりを手に取った。「みなさんいつも何か忘れていくんですよ」
トムはウィルに礼を言って握手をし、最後のダンボール箱を抱えて、外の車まで持って行った。彼はダンボール箱の中から白い靴箱だけを取り出すと、それを〈トランジット〉の運転席に持ち込んだ。エズミーの箱だ。本当は家の中で目を通すつもりだったのだが、せっかちなウィルの早い到着のせいで、その計画はおじゃんになった。
中には、ライブのチケット、写真、安っぽい休日の思い出の品、絵葉書、そんなものが山積みになっていた。その時は「記念に!」と思って取っておいたのだろうが、今ではその時の記憶もおぼろげで、詳細までは思い出せない。エズミーも、同じようなものを箱いっぱいに入れていたのだ。最も基本的なレベルで言えば、こんなものを取っておいても何の役にも立たないし、どれもくだらないガラクタばかりだ。―そうは言っても、捨てるなんてできやしない。
トムはゲームセンターのメダルの束を片側に押しやると、お目当てのものを見つけた。メモ用紙の薄い束だ。エズミーのカバンの底で何ヶ月も揺られていたため、角が少し擦り切れている。表紙にエズミーの筆跡で、文字と時計の絵が描かれていた。二人の人生を新たな局面に導いたものだ。これによって言い争ったり、認め合ったりもした。このエズミーが考案したゲームで、僕らは10年間を見直し、再評価したのだ。
彼はそこに刻まれた瞬間瞬間に思いを馳せながら、それをパラパラとめくり始めた。それぞれの出来事には時刻まで書かれているが、エズミーは時刻に関してどれほどこだわっていたのだろう。
トムは一応まともな記憶力を持っていたが、あの惨(みじ)めなキャンプで、テントが水圧にとうとう耐え切れず、二人の頭上で崩れ始めたのが、正確に午前4時だったかどうか、そこまでは確信が持てなかった。エズミーに聞けば確証を得られるかもしれない、と思ったが、あの時の詳細な記憶が次々と蘇るだけで、今さら正確な時刻までは判明しないだろう。
気づけば、僕はストックウェルで二人が出会った夜のことを思い出していた。アリの部屋にスーパーヒーローが大集合した仮装パーティーだ。仮装の指示を無視したのは僕とエズミーだけだった。彼女は単に仮装なんてしたくなかっただけだが、僕の場合、仮装なんてしたら、またスイッチが入って、自分が大変なところまで行っちゃうんじゃないかって心配だったからだ。あの時、ぐずぐずしている僕の背中をアナベルが執拗に押してくれたんだっけ。「さっさと話しかけてこい」って。
エズミー、だよね?
そうです。えっと、あなたはトム?
僕たちが初めて交わした会話が思い出される。あの時、スーパーヒーローの靴について、僕がくだらない冗談を言ったんだ。
この彼女との出会いのシーンが、24の思い出の1つ目に来るな、と直感的に思った。このゲームのルールでは、時間をずらしてあと23個か、と記憶を巡らせてみる。他に何が加わるだろう?
簡単にぴったりはまる時間帯もあるはずだ。なかなか目ぼしい思い出が見当たらない時間帯もあるかもしれない。結局のところ、一緒に暮らすというのは、幸せな時間だけでは定義できないのだろう。それと同じくらい重要なのは、二人で困難に立ち向かっていくことで、そうやって長い年月を共に過ごしていくうちに、堅い殻が形成されていくのだ。僕のうつ病の再発。彼女の父、タマスの死。海岸でのプロポーズ。リバプールでのあの夜。
関係が進行中に、二人の関係を定義するような瞬間瞬間を数値化して、その軽重(けいちょう)を判断することは可能なのかどうか、疑問に思った。それとも、一旦区切りをつけて別れた後でなければ、それぞれの出来事を解析できないのだろうか。
そしてまた、エズミーはそのことを知っていたのかもしれない、と思った。彼女はこのゲームで、二人の関係にけじめをつけようとしたのだろうか?
一瞬、メモ用紙の束を両手でひねりつぶし、窓から投げ捨ててしまいたくなった。けれど、僕はそれを上着のポケットにしまった。エディンバラに持っていって、机の一番上の引き出しに入れておこう。僕たちが持っていたもの、そして僕たちが失ったものを、これを一目見るだけで、いつでも思い出せるから。
最後にもう一度、二人で暮らした家を目に焼き付けてから、僕は車にキーを突っ込んで回した。ラジオも同時について、ちょうど〈ドライブタイム〉が6時のニュースを流す時間だったが、なぜか今日は、子供がつたない声でニュースを読み上げていた。音楽を求めてラジオ局を変えてから、ギアをドライブに入れ、走り出した。
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〔チャプター 23の感想〕
引っ越しの自由とか、移動の自由が日本で認められてから、まだ100年も経っていないことを思うと、衝撃を受ける。
藍もトムと同じくらいの回数(細かく数えると5回くらいかな)、引っ越したことがある。
何万年単位とか何千年単位で考えるのは、なかなか想像が及ばないので、(1192作ろう)鎌倉幕府辺りから考えても、自由だー!って叫びたくなるくらい、藍は自由を享受しているんだな!!
ロンドンからエディンバラまで、650キロ離れているらしいけど、東京から札幌までの距離は約820キロで、東京から青森までの距離は約710キロだそうで、それより近いので、一人で車でもなんとか行けそうですね。頑張れ、トム!(ちなみに、レスターは結構近くて、日本で言うと群馬くらいです🗾)
藍も経験あるけど、車の一人旅って結構つらいんですよね。最初は優雅にラジオなんか聞いちゃって余裕ぶっこいてるんだけど、同じ姿勢で何時間も動けないってのがつらい...しかも車内だから風も感じないし...徐々に枯れていく野草になった気分🥀←どんな気分だよ!笑
でも、いったん離れてみるってのもいいかもしれないね。離れてわかるお互いの存在の不可欠さ、みたいな!笑
藍も今はそういう期間なのかな~って思ってる。←君の場合は永遠だけどね!爆笑
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チャプター 24
午後11時~真夜中
1日でめぐる僕らの人生 — ついに完成
2018年6月 — バルセロナ
トムは〈ランブラ・カタルーニャ通り〉の北側にあるベンチの一つに腰を下ろした。彼の周囲では、レストランが次々とシャッターを下ろし始め、閉店間際に食事にやって来た人を追い払ったり、いつまでも店内でぐずぐずしているお客を追い出しているところだった。それでもバルセロナの街はまだ賑わっていた。観光客はバーからバーへとはしごしたり、ホテルへ戻ろうとゆったり夜の街を散歩したりしていた。道端で露店を構える商人は、大方バッタものだろうが、「メッシ 10」と背中に書かれたTシャツを威勢よく売っている。地元住民たちは自室の窓から、そんな街の風景を見下ろしている。
彼はカバンの中に手を入れて、手紙が入ったクッション封筒と、ノートを取り出した。それから、カバンの底に大切にしまっておいた〈メモ用紙の束〉をゆっくりと取り出す。引っ越してからずっと机の引き出しにしまっておいたものだ。今日この束は、このゲームを考案した人のもとへ戻るのだ。
1日でめぐる私たちの人生。あの小さな時計が24個描かれている。しわくちゃのA5の便箋に、彼女の筆跡で書き込まれたゲームの紹介文。
端が擦り切れたメモ用紙の束を手にした。一枚一枚ゆっくりとめくっていく。ちゃんと24枚ある。24時間分だ。
次にノート。これは後から僕が買ったものだ。真っ赤な革製のノートには、断片しか覚えていなかった会話から記憶をたどり寄せて書いた思い出や、彼女が僕に話したことなどが何ページにもわたって書き込まれている。1時間ごとに書かれた二人の時間、選ばれし24の出来事だ。―僕の記憶が許す限り、完璧に仕上げたつもりだ。
たまに浮かんだメロディーを楽譜に書き起こすことを除けば、僕がここ数年で手書きで書いたものは、おそらくこれだけだった。そして今、ようやく時間ができたので、僕はその書き込みを読み直し始めた。
これでいいのか? これで全部か? これが決定版か? これをまとめ上げるのに数ヶ月を要した。付け足しや削除の連続で、何ページも引きちぎり紙くずにしてしまった。今目の前にあるリストとは異なる24の出来事を連ねたリスト、いわば別バージョンの人生もあったのだ。
追加しようと思った出来事のほとんどは、幸せな時間だった。しかし、そのようなリストは不誠実なものになるだろう。―自分にも、彼女にも、二人にとって不誠実だ。
よし、これしかない。これらの出来事が起こった時間については、多かれ少なかれ正確であると確信していた。そして今日の午前中、バルセロナのゴシック地区のカフェで、それぞれの時間に関連するメモを参照しながら、最終編纂(へんさん)をしたのだ。僕はエズミー・サイモンとの生活を再現し、追体験することに深い喜びと、胸を突く哀愁を覚えていた。
しかし、ゲームはまだ終わっていない。完成まで、枠がまだ1時間分残っている。
僕は時計を確認した。付き合い始めて11回目の記念日まで、あと20分。
僕は時間をつぶすために、カバンの中から彼女の手紙を取り出した。ウェスト・ハムステッドにある二人の共同住宅を出てから半年ほど経った1月末、この手紙が郵便受けに入っていた。僕はエディンバラのシャーロット広場近くに、ジョージ王朝様式の古いタウンハウスを借りたのだが、その1ルームのアパートに届いたものだ。
この手紙を見つけた時のことを思い出した。僕が借りたタウンハウスは4部屋あり、つまり4人の住人が住んでいるのが、郵便受けは共有で、雑然と郵便物が投げ込まれた箱から、自分宛ての手紙を探さなければならない。その中から彼女の筆跡が目に飛び込んできた時の、最初の衝撃。次に封筒の中には何が入っているのだろう、と胸騒ぎがした。
そして、その中身が何であるかを知った時の苦い悲しみが蘇ってきた。
僕はそれを狭いキッチン(兼リビング兼ダイニング)に持ち帰り、スコットランドの雨が、がたつく窓を激しく打ちつける中、座って読み始めた。
親愛なるトムへ
あなたは私に理由を聞いた。なぜ私たちは続けられなかったのか。なぜ私はそれを乗り越えることができなかったのか。
あの時、私は十分に答えることができなかったし、自分がどう感じているかを言葉にすることもできなかった。わかっていたのは、あなたに対して抱いていた感情が間違っていたということ。私たちを「私たち」たらしめていたものの大部分が、あの日死んでしまったということ。そして、一度失ったものは、もう二度と取り戻せないと思った。
今、少し距離を置いてみて、私は正しかったと思う。あの時はお互いつらかったけど、私たちは最善の選択をしたの。楽な方に流されるんじゃなくてね。
今なら、なぜもう終わりだと思ったのか、その理由も伝えられる。
私たちを結びつけていた何かが常にあった。今にして思えば、その何かは正直さだったんでしょう。あなたは自分の過去や、あなたがどういう人間かということを私に話すのに、少し時間を要することもあったわね。でも、あなたが私に隠し事をしていたなんて、私は一瞬たりとも思ったことはないわ。だけどあなたは隠してた。こうして書いてみると、そんなの大したことじゃないって思えるかもしれないね。でも、考えれば考えるほど、それが私たちの絆だったことに気づかされるの。それがなくなった時、私たちも離れ離れになったのよ。他に選択肢はなかったの、トム。本当に残念に思ってるけど、愛だけでは十分ではないこともある。愛だけでいいじゃないかって私たちがどんなに望んでもね。
というか、私はこれを悲しい手紙にはしたくない。あなたのいいところもいっぱい書いてあげたい。あなたが前に進み、良い人生を歩んでいくことを願ってる。あなたにはその資格があるんだから。
よく聞いて、トム・マーレイ。あなたは素晴らしい人よ。優しくて、面白くて、温かい心を持ってるわ。ちょっとだらしなくて、がたが来てる感は否めないけど、それも全体としてみれば、可愛げがあっていいじゃない。それに、見た目もそれなりに悪くないし。
10年間、あなたは私をとても幸せにしてくれた。それが途絶えた時はすごく悲しかったけど、10年というのはとても長い時間よ! 10年といえば、ワールドカップが2回と半分。スーパームーンが6回。銀行の休業日が80回。つまり、あなたはすっごく長い間、私を幸せにしてくれた。日曜日がずっと続いてたみたいに楽しかったわ。(色々ググって調べたのわかっちゃった?笑)
私が言いたいのは、偶然に誰かを幸せにすることはないってこと。あなたが素晴らしい人だったから、そうなったのよ。途中で終わったからといって、その事実は何一つ変わらない。
ペンを置く前に、もう一言だけ言わせて。あの日、コッツウォルズに10周年記念旅行に行った時、もうダメだってわかった時、あなたは私に、「私があなたの生きる理由だ」って言った。それで私は怒って、動揺しちゃったけど、今から考えると、あの時、私はこう返すべきだった。「トム、あなたの生きる理由は『あなた自身』よ」って。
自分のために生きて。
いつでもそのことを忘れないで。
そして幸せになってね。満足するの。それから、また恋をして。こんなこと言いたくないけど、あなたはその気になれば結婚だってできる!(それは気が早いかしら?笑)
会いたい。
愛してる。
エズミーより😘
僕は深く息を吸い込むと、手紙を折り畳んでカバンに戻した。初めてこれを読んだ時、僕は1時間くらい泣きながら、ソファに横になって何度もこれを読み返した。彼女の言葉をほとんど空で覚えてしまうほどに何度も繰り返し。それ以来、僕はこの手紙を100回以上読み返している。読み返すたび失恋の痛みに打ちひしがれたが、それも徐々に薄れ、ふさわしい返事をあれこれ考えられるくらいにはなった。ただ、考えてはみても、いっこうに適切な言葉は浮かばず、途中で紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てることの連続だった。いつしかゴミ箱は、エズミーに宛てた手紙の書きかけでいっぱいになった。どれもうまく書けなかった。どのような言葉の組み合わせも、納得いかなかった。
今朝、早起きした僕はジョアン・ミロ公園を走り、Airbnbで借りた部屋に戻って、ようやく彼女に返事を書くことができたのだ。なんとか間に合った。
時計を見ると、午前0時までまだ数分残っていた。僕は封筒から手紙を取り出し、最後にもう一度目を通してから、それを赤いノートの〈午後11時~真夜中〉の欄に書き写した。
エズミーへ
手紙を送ってくれてありがとう。そして、返事が遅くなってごめんなさい。実を言うと、長い間、言葉が見つからなかったんだ。
それから、手紙という形式では正しい返事にはどうしたってならないことに気づいた。
だから、僕は別のことをします。
今日、―僕はここに座って自分の下手くそな字を読んでいるわけだけど、―今日は僕らが付き合い始めて11回目の記念日なんだ。ちょうど1年前、君がこの〈メモ用紙の束〉と、「1日でめぐる私たちの人生」というゲームをくれた。僕が見たことも、やったこともないゲームだった。
そして、僕はついにそれを完成したよ、エズ。
この封筒の中に24の出来事の詳細な記録が入ってる。僕の汚い字で読みにくいかもしれないけど、『1日でめぐる僕らの人生』だ。僕たちの11年間(ここ重要!!)が詰まってる。いいことも、悪いことも、楽しいことも、つらいことも全部詰め込んだ。エズミー・サイモンが考案して、トム・マーレイがついに完成させた共作だ。
僕はふさわしい24個の思い出を選んだつもりだけど、君はそうは思わないかもしれない。いずれにしても、これをやって、つまり君が考案したゲームをやっていて、気づかされたよ。僕らの結末だけを見れば、僕は君に謝らなければならない。でもそれと同時に、別のことを言わなければならないって。
ありがとう、エズミー。
すべての幸福な瞬間に感謝してる。君の優しさにありがとう。君のおかげで、僕は自分が好きになれたんだ。二人で共有した時間は、すべて特別だったって思うよ。陳腐に聞こえるかもしれないけど、(っていうか、たぶん陳腐だけど、笑)君は僕をより良い人間にしてくれた。僕たちの間に何が起ころうとも、これからも変わらず僕は君を愛してる。
君の手紙には、僕が前に進み、良い人生を歩んでいくことを願ってるって書いてあったね。僕はちゃんと前に進んでるよ。実は今年、僕は大学に入り直したんだ(前とは別の大学にね)。15年の時を戻して、学生に戻ったよ。ちゃんと資格を取って、音楽の先生になるつもり。もう、くだらない作曲の下請けはやらないし、ライブの巡業も卒業した。トム・マーレイは成長しつつあるんだ。(ようやくね。笑)
それはいいとして、僕が元気でやってることを知ってほしい。僕は満足してる。毎週カウンセラーにも会ってるし、必要だと思えば、人と話すようにしてる。自分がどういう人間かってことを受け入れつつあるよ。持ってないものを望んでも仕方ないしね。君に会わなければ、僕がこんな心境に達することはなかった。
君はこう言うかもしれないね、僕がたどったかもしれない道なんて100万もあるって。1日1日、というか、1分ごとに違う選択肢があるんだって。もっと君と話したかったし、もっと君と時間を共有したかった。もっといろいろ一緒にできたはずだね。でも僕は後悔しないよ、エズ。一つだけ、後悔というか、これからも心の奥底で思い続けるだろうなってことがあって。
僕らが出会った夜、というか明け方、アリのパーティの後で、僕らは夜道を並んで歩いて、君を玄関まで送った。あの時、すべてを話してしまうつもりだったんだ。すべてをね。ほとんど口から出かかったんだけど、話さなかった。あの時話していたら、僕らはどうなっただろうって考えてる。
それでも同じだったかもしれないし、違う翌日が訪れ、違う10年になったかもしれない。けど、あの日にしても、10年後にしても、ふられるのは僕の方で、ふるのは君。それだけは確かだよ、逆はない。
とにかく、あと言い残したことは、僕は君を愛してる。これからもずっと愛し続けるよ。君が幸福で、生き生きとしていて、素敵なままでいることを願ってる。エズミー・サイモンが存在することで、世界は良い場所になるんだ。
愛してる。
トムより😘
もうすぐ1時間が経とうとしていた。
僕は〈メモ用紙の束〉を封筒に入れた。そして赤いノートを閉じると、表紙に大きくこう書いた。1日でめぐる僕らの人生 — ついに完成。それも一緒に中に入れ、封筒のフラップを閉じた。彼女は一字一句読んでくれるだろう。でもそれで、彼女はどう思うだろう? そのことについて彼女と語り合いたくてたまらない気持ちと、そんなこと知りたくもない気持ちが、自分の中でせめぎ合っていた。
セットしておいた手首の時計が震えたところで、僕はベンチから立ち上がり、封筒を広場の向かいにある郵便ポストまで持っていき、切手と、エズミーの新しい住所を最後にもう一度確認してから、ポストの中に押し込んだ。彼女はロンドンのダリッジという、ピムリコよりもさらに南へ下った場所に引っ越していた。
時計に目を落とすと、ちょうど日付が変わった。
新たな1日が始まったのだ。
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〔チャプター 24の感想〕
トムはこのゲーム(小説)を使って、エズミーと再び始めようとしてるんですね! なんてかっこいいんだ!!←かっこいいか? ださくね!爆笑
〔エピローグの感想〕
やっぱり川辺は春から夏にかけてがいいよね!
エピローグは一気に11年、時が戻って、出会ったばかりのトムとエズミーが、街路灯に照らされながら、真夜中の川辺で寄り添うシーンが描かれていて、キュンキュンした💙💖
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エピローグ
二人で歩いた帰り道
2007年6月 — ストックウェル、ロンドン
二人は夜が明ける前の街路を歩いていた。1日のうちで気温が最も下がる時間帯ではあるが、街には昼間の熱気の名残がそこはかとなく感じられた。灰色の車道も歩道も、街路灯のオレンジ色の光に照らされ、街全体がまだ息をしている印象を受ける。夜行バスからサウス・ランベス・ロードに、数人の女の子が転がり落ちるように降りてきた。ハイヒールを履き、露出感のある洋服を着ていて、かなり酔っ払っている様子だ。笑いながら、クラパム方面へよろめくように歩き出す。スポーツタイプの自転車に乗ったサイクリストが、北へ向かって猛スピードで通り過ぎた。キツネのつがいが、ストックウェル終戦記念碑の周りに忍び寄った。が、そこにはすでにデート中のキツネのカップルがいたようで、「邪魔すんなよ!」的なことを言われたのか、驚いたように逃げ出した。
「さっき会ったばかりであれだけど、トム・マーレイ、あなたのことを全部教えて」と、彼女が言った。
「全部って、ひと言では無理でしょ。まず何を知りたい?」
「何歳?」
「25」
「私は26。年齢はいい感じね。じゃあ、履歴書的にいうと、次は学歴かな。最終の学校、大学名とか、行ってなければ高校でもいいけど。あとは仕事と、それから、そうね、2000年以降で、どこかに休暇旅行に行ったとか、そういう話。それぞれ1ポイントずつね」
「ポイント?」と僕は、彼女の方をさっと振り向いて言った。
「そう、これはゲームなの。自分のことを何か言うごとに、1ポイント加算されていくゲーム」
「ゲーム? ポイントにはどんな意味があるの?」
「やっていくうちにわかってくるわ」
「ちょっと待ってよ」と僕は言った。「いきなりゲームとか言われても、ちょっと考える時間がないと。じゃあ、君が先に何か言って」
「いいわ。私が先攻ね」とエズミーは言いながら、歩道に落ちていた、誰かの食べかけのケバブをスキップするように飛び越えた。「じゃあ、まず高校。私はレスターの近くのナイトンってところにある、キング・リチャード・グラマー高校を卒業した」
「僕はベンジャミン・ブリテン高校。ローストフトにある」
「ローストフトって、イギリスで最も東にある町でしょ?」
「正解」
「二人とも1ポイントずつ加点ね。次は大学。私はオックスフォード。言語学を学んで、それからロンドン大学で、小児言語療法の修士号を取ったの」
「ふぁ、すげえ、そいつはすげえや。マジで言ってる?」
「ええそうよ。私はとんでもなく賢いのよ」と彼女は大袈裟に言って、肩で風を切るような仕草をした。
「オックスフォードの連中なんか、話したこともないな。あれだろ? 『今何読んでる?』『経済学なんちゃらを読んでるところだよ』みたいな。ふざけたことを抜かしてるやからだろ?」
「そうだけど、私はあの人たちとはあんまり関わってこなかったから。私もぞわぞわって鳥肌が立つから、避けてたの。避けられてたのかな? それはそれとして、あなたの言葉遣いについて、少し話し合った方がいいかもしれない。言葉のチョイスが古臭い。『やから』って、60代じゃないんだから、もっと若者らしい言葉を選ぶべきね。それに、もっとシャキッとした方がいいわ。驚きを表現するのに、『ふぁ』って何?」
「あ、それは『ファッキン、ヘル』って言おうとしんだけど、このシチュエーションでそれはまずいかなって、すんでのところで止めたから、腑抜けた感じになっちゃった...」
「このシチュエーションって、今はどんなシチュエーションなの? 私の知らない事態が進行中なのかしら?」
僕は少したじろいだ。「君は人を小馬鹿にするのが好きみたいだね」と言って、彼女の方を見る。街路灯の下を通り過ぎる時、エズミーの顔が一瞬照らされた。
「ええ好きよ。あなたが汚い言葉を避けたってことも知ってたし。このシチュエーションを考えて、でしょ?」と、彼女はクスクスと嘲笑するように言った。「それはともかく。次はあなたの番よ」
「ああ、ハートフォードシャーで音楽を学んだ。あまり楽しくなかったな。寮に入ったんだけど、エポキシ樹脂の大きな塊だったよ。ツタに覆われてるわけでもないし、情緒もない。半分はガラス張りで太陽を眩しく反射していて、あと半分は、1970年代に建てられたアスベストとビニール樹脂の味気ない壁」
「じゃあ、あなたはミュージシャンなんだ? それだと減点されるかもしれない。マットの後だから、私はもうミュージシャンはダメって決めたばかりなの。ツアーとか、その他もろもろを考えるとね」
「でも、僕はどちらかというと、あまり動き回らない感じのミュージシャンだよ」
「それってどんなミュージシャン? 私にはさっぱりわからないわ」
「ちょっと子供に教えたりしてる。あとは、カバーバンドを2つほど掛け持ちでやってる。でも、僕が本当にやりたいのは、映画とか、そういう映像作品のために作曲することなんだ」
「いいじゃない。動き回らないミュージシャンなら、まあ大丈夫ね。減点は0.5ポイントにしておく」
「それはどうも、ご親切に。っていうか、点数ってそういうあれ?」
「あなただって、こういうシチュエーションとか言い出したじゃない。とにかく、次は―」
「ちょっと待って」と僕は、エズミーが次の、いわば〈メンタルカード〉を切るのを制して言った。「1つ言っておきたいことがあるんだ」
しかしそう言っておきながら、なかなか言葉は出てこなかった。黙ったまましばらく歩くと、地下鉄のヴォクソール駅が近づいてきた。駅前はバスターミナルとか、横断歩道とか、自転車専用道路とかが入り組んでいる。これ以上このゲームを続けると、自分のことや最近再び起きてしまったあのことを話さなければならなくなる。それだけは避けたかった。そのためには、エズミーの人生のダイヤルを戻し、彼女を彼女たらしめているものに、スポットライトを当てることが先決だと思った。僕を僕たらしめている過去のあれこれに、光を当てるわけにはいかない。ふと足元を見ると、二人の足音にびっくりしたように、ネズミが舗道から排水溝に逃げ込んだ。僕のたくさんある恐怖症の一つは、ネズミなんだ。僕は思わず、彼女の手を握りしめた。
「ネズミが怖いんだ? 知れてよかった」と彼女が言った。「私にプラス1ポイント」
僕は苦笑いを浮かべながら、言った。「それより、君の大学時代のことをもっと知りたいな。クラブとか、サークルとか、そういうの全部」
「話すようなことはあまりないかな、ほんとに。面白い人たちとは何人か会ったよ。一人は時々テレビに出てる」
「誰?」
「ローラ・サトクリフ。彼女は『テレグラフ』紙のコラムで政治について書いてる。ガッチガチの保守党員だけど、いい子よ。あなたが政治とか明日の新聞に載りそうな話題の討論番組を見る人だったら、彼女を見たことがあるんじゃないかしら。金髪できれいな子。怒鳴りがちだけどね」
「ああ、彼女なら知ってるよ」と僕は言った。ローラ・サトクリフの顔がすぐに頭に浮かび、〈ニュースナイト〉を見ながら、画面の中の彼女に向かって思わず言ってしまった言葉まで蘇ってきた。「それで、他には?」
「あとはなんだろ。大学のワイン会に参加した。でも、あれって参加するのにお金がかかるから、続かなかったけど。読書会にも何回か参加したわ。それと演劇」
「〈フットライツ〉だ! あそこ出身の芸能人多いよね」と僕は感心して言った。
「それはケンブリッジ大学。マイナス1ポイント」
「やっちゃった。一番しちゃいけない間違いだった?」
「私にはそういう対抗心とかないから、全然いいけど。ちょっと言わせてもらうと、〈フットライツ〉は劇団というより、なんていうのかな、コメディアンになりたい男の子とか、くだらないパネルショーのゲストとしてテレビに出たいみたいな、タレント志望の子たちの集まりよ。私が参加してたのは、小さいけど劇団。演劇好きの素人が集まって、『セールスマンの死』とか、『真面目が肝心』とか、王道の演劇をやってたの。ある年、エディンバラまで遠征して公演をやったんだけど、そこで、最も恐ろしい言葉を学んだわ。『女の一人芝居を見に来て』って、まさかお客もいないなんて」
「コメディーかな? 君も喜劇役者だったの?」
「王道だって言ってるでしょ! それがなぜかコメディーになっちゃうのよね。観客を集めるのに四苦八苦してる5万といる役者志望の一人ね。端っこで一人倒れたって誰も気づかない。『森で木が一本倒れました。さて音はしたでしょうか?』に通じるところがあるわね」
「観客がいないところで芝居をしたら、それは本当に起こったことなのだろうか?」
「まさにそれ」と彼女が言った。「でも、大学時代の思い出といったら、それくらいなのよね、ほんとに。次は仕事の話をしましょ」
僕らはテムズ川に架かるヴォクソール橋にさしかかった。腕時計を見ると、午前3時45分になるところだった。散発的ではあったが、この時間になっても交通の往来は途絶えていない。夜行バス、黒塗りのタクシー、自転車が、僕らの横を通り過ぎていった。お酒の瓶や缶を手に持ったまま歩く若者たちは、それぞれ数人のグループを形成している。一人で歩くスーツ姿の男は、よろめき、つまずきそうになりながらも、手に持ったケバブを口に運ぶ。彼は飲み過ぎて朝帰りしたことを後悔しながら、この週末を過ごすことになりそうだ。
橋の真ん中まで来ると、エズミーが立ち止まり、東の方に顔を向けた。キュウリみたいな形の〈ガーキン・ビルディング〉が夜空を突き刺すように聳え立っている。いくつものクレーンが、ロンドンの古くなってきた口の部分に新しい歯を差し込むみたいに、この時間も稼働を止めることなく新たなビルを建設中だ。
「じゃあね、別の質問を思いついたわ。あなたは今ポイント的に劣勢なんだから、頑張って答えてね。この話ならきっとあなたも共感できるはず」と彼女は言った。「私がロンドンに引っ越してきた時、一時的な滞在になるはずだったの。1年とか。オックスフォードに戻るつもりだったから。あっちで仕事が見つかれば、もっと短くなるかなって思ってた」
「それでどうなったの?」
「あなたもこの街に丸め込まれちゃって、ずるずるとここで暮らしてるんでしょ? ここにはまともな仕事があって、給料もそれなりの金額をもらえるし、ルームシェアにも慣れちゃう。だんだんとこれが当たり前だと思うようになる。この間実家に帰ったら、レスターに〈プレタ・マンジェ〉がないことにイラッときちゃった。この便利さに慣れきってるのよね。ロンドンに来てもう4年」
「言いたいことはわかるよ。ルームシェア以外はね」
「一人暮らし?」
「そう、狭いワンルームだけどね。大したところじゃないけど、大家さんには恵まれたかな。毎年家賃を値上げするような人じゃなくてよかった」
「そっか、オッケー。1ポイントあげる」
「ありがとう。それで僕は今何点?」
「今、マイナスからちょうどゼロに戻ったところね」
僕らはしばらく黙ったまま、静かなテムズ川を見つめていた。こげ茶色の水面がビルの灯りを照らして、ゆるやかにまたたいている。それから、エズミーがゆっくりと僕の首元に顔をうずめた。肩から胸にかけてのくぼみに彼女の吐息を感じて、僕は上腕で彼女の後頭部を包んだ。
「そうは言っても、とてもきれいな景色を見せてくれるよね? この街って」
「時々ね」
「このゲーム、まだ続けたい?」
「べつに」と僕が言うと、エズミーが体を離した。唇を彼女の唇へ持っていきかけた瞬間、彼女が僕の手を取り、橋の向こう岸まで僕を導くように歩きだした。
橋を渡り切り〈ミルバンク〉に到着すると、彼女は僕の手を離した。僕はちょっとがっかりしつつも、あまり彼女の気持ちを読みすぎないようにしようと思った。
「もうすぐ私の家に着くわ」と彼女が言った。「こうなるとあれね、私たちは休日返上で、ボーナスラウンドに突入しないとだね」
「それはどんなラウンド?」
「それぞれ興味深い事実を1つずつ言うの。秘密を打ち明ける必要はないけど、わかりきったことはダメ。たとえば、『私の髪色は茶色で、靴のサイズは26.5』とか、そういうのは無しね」
「わかった」と僕は言ったが、少し不安になってきた。僕の最も興味深い事実といえば、お酒にまつわるあれこれで、最近ぶり返したばかりだから記憶もまだ生々しかった。そんなこと、出会ったばかりの彼女に言えるはずがない。
「じゃあ、君から」と僕はとっさに、彼女から質問を投げかけられる前に言った。
「いいわ。じゃあね、私がハンガリー人であるという事実はどう? 両親は二人ともブダペスト出身なのよ」
「それは興味深いね。ハンガリーなまりはないみたいだけど」
「まったくないわ。私はレスターで育って、10歳になるまでハンガリーを訪れたことはなかったし、子供時代を通して両親以外のハンガリー人に会ったことないの。イマジナリーフレンドでさえこっちの言葉を喋ってたわ」
「なるほど」
「育った環境はそんなだから、ぱっと見はわからないんだけど、根はハンガリー人なのよ。ママもパパも、ハンガリーの伝統とかあんまり気にしないけど。クリスマスと建国記念日くらいかな」
「それはいつ?」
「8月の中旬よ。毎年花火を2、3発打ち上げて、ハンガリーっぽい料理を食べるだけなんだけどね」とエズミーは言うと、こっちよ、と角を曲がった。僕らは〈デントン通り〉に入った。白い漆喰(しっくい)で塗り固められた瀟洒(しょうしゃ)な邸宅が並んでいる。門から玄関まで、白と黒のチェック模様のおしゃれな小道が続いている家もある。そんな中、立派な3階建ての邸宅にさしかかった時、彼女が、ここよ、と言った。最上階を除いて、すべての電気が消えていた。
「こんなすごいところに住んでるの?」と、僕はちょっと驚きながら言った。
「ええそうよ、見た目ほど中は豪華じゃないけどね。私の部屋は2階よ。この建物自体は昔はそこそこの大きさの邸宅だったみたいだけど、今は階ごとにかなり手狭な3つのアパートに分けられてる。それより、あなたはまだ興味深い事実を話してないじゃない」
「言うつもりはないよ」と僕は言った。「今度また会った時に話す」
エズミーが大げさにショックと怒りをあらわにした。
「マイナス100万ポイントね。まったくもう」
「だって賞品が何なのかさえわからないんだから」
「賞品の箱を開けてみたら、気に入るかもしれないでしょ? っていうか、今度また会った時って、もう次のデートをもくろんでるのね」
「そうじゃないけど―」
「興味深い事実と引き換えみたいな、そういうずるい誘い方じゃなかったら、イエスって言ったんだけどな」
「それは聞けてよかったけど。でもやっぱり」
門のところまで来て、エズミーが立ち止まった。屋根付き玄関の柱に「34」と書かれたシールが貼られているが、めくれて剥がれそうになっている。彼女は踏み段を一段上がると、振り返って僕を見た。僕は思わず視線をそらし、自分の靴を見た。自分の内側で何かが燃えているのを感じた。この女性が自分にとって、とてつもなく重要な存在になる。そんな予感がした。彼女に対して正直でありたい、という本能的な欲求もあった。隠し事なんてしないで真摯に始めれば、二人の関係はずっと続いていくはずだ。
「それじゃあ、トム・マーレイ、これでおしまいね」と彼女が言った。「私に電話番号を教えておいた方がいいんじゃない―」
「君に話しておきたいことがあるんだ」と僕は、彼女の発言を遮って言った。
「何?」
それを話す心の準備はできていた。アルコール依存症であること、そこから抜け出そうと頑張ってはいたんだけど、つい2ヶ月前も、自殺未遂の騒ぎを起こして病院に担ぎ込まれたこと。ちゃんと言わなくちゃ、と思った。顔を上げると、エズミーの笑顔が目に飛び込んできた。キスは後回しでいい。今こそ言わなきゃいけない、もっと重大なことがあるじゃないか。それさえ話してしまえば、あとは何年も、何ヶ月も、何日も、何時間も、僕らの前には広がっている。キスだって何だっていくらでもできるのだから。
「どうしたの?」と、エズミーが微笑みながら首をかしげた。
「やっぱ、いいや」と僕は言っていた。「今じゃなくても大丈夫」
「本当に?」
「うん、何でもないんだ。今度会った時に話すよ」
「じゃあ、私たちはまた会うんだね?」
「そうしよう」と僕は言った。「明日なんてどうかな?」
「明日って今日のこと?」
「あ、もう朝か。じゃあ今日の昼間」
「私が忙しかったら?」
「そしたら予定を変更しよう」と僕は言った。「それが予定の素晴らしいところだよ」
エズミーは怪しむように目を細めたが、まだ笑顔だった。
「いいわ。今回はあなたの勝ち。納得させられちゃった。それで昼間の計画は?」
「公園がいい。今と違って明るい世界で、二人とも目が覚めてる状態でさ」
「いいね」
「よしきた」と僕は言った。そしてキスを期待して、彼女を見つめた。
「じゃあ、今はキスはやめとくね」と彼女は言った。
エズミー・サイモンは僕の手を握りしめ、「おやすみ、トム」と言い残し、くるっと背を向けた。それから数歩進んで、黒い扉を開けて中に入っていった。一瞬見えた廊下には自転車が数台置かれ、壁には色々なピザ屋のメニューがべたべたと貼られていた。
これからカムデンまで長い道のりを一人で歩かなければならないというのに、自然と頬がゆるみ、笑みがこぼれ落ちた。今夜起こったこと、彼女が言った言葉の一つ一つを記憶しようと、しばらく彼女の家の前で突っ立っていた。2階の寝室の窓からエズミーが見ていることには、まったく気づいていなかった。
〔訳者あとがき〕
長かったー!笑
翻訳期間(2020年9月7日~2022年4月5日)1年7ヶ月という最長飛行になった。翼(心)が折れそうになったり、ぐらんぐらんと上昇や下降を繰り返した1年半だったけど、なんとか完飛行できて、ほっと一息。
やっぱり人間(というか藍だけかもしれないけど、)時期ごとに調子がめぐるんだよね! 太平洋を見渡せそうなくらい頭がクリアーで、どこまででも飛べそうなくらい活力がみなぎってる時期は、1週間で4分の1くらい訳せちゃうんだけど、(そのペースでいけば、1ヶ月で全部訳せちゃう計算なんだけど、)人間そんな単純ではなくて、曇天の下、半径50センチの世界しか見えない感じで、ずぶ濡れの小動物みたいに震えて縮こまってるだけの時期もあるから...
大学入試とかも、調子のいい時期にぶつかるかっていう運もあるよね。
〈トムの人生〉
小学生時代 アナベル(当時は男子で今は女性)と出会う。
中学生時代 ニールと出会う。
高校時代 地理教師の娘と乳繰り合う。
大学時代 1年くらい寮生活を経験。酒を飲んでるつもりが酒に飲まれ、自殺未遂。
ローストフトの実家で2年くらい過ごす。
22歳 ロンドンで一人暮らしを始める。
24歳 また酒にやられる。
25歳 エズミーと出会う。
35歳 エズミーと別れる。
36歳 別の大学に入り直し、音楽の教師を目指す。
36歳『1日でめぐる僕らの人生』をエズミーに送る。
〈エズミーの人生〉
レスター近辺で高校まで過ごす。
オックスフォード大学で言語学を専攻。
ロンドン大学で小児言語療法の修士号を取得。
25歳 ドラマーと付き合うが、ライブの遠征でほとんど帰ってこないから寂しい。
26歳 トムと出会う。
36歳 トムと別れる。
37歳『1日でめぐる僕らの人生』がトムから送られてくる。
〈藍の人生〉
37歳 ニートになる。
38歳 アルバイトをしながら、翻訳を始める。
47歳『1日でめぐる僕らの人生』を訳し終える。
同じ作家の『帰る道すがら』(タイトルを『帰り道にて』に変えようかな?)を2022年9月7日までに訳し終えれば、2作合計で2年になるから、ちょうどいい!!←知らねーよ!笑
藍の好きな作家、サリンジャーの短編に『For Esme』という小説があって、エズミー(Esme)の名前をそこから取ったのか、それはどちらでもいいのですが、笑
最後に相手の幸せを祈る感じの手紙の応酬とかは、『ティファニーで朝食を』っぽくて、藍らしいというか、自分で言うのも何ですが、翻訳する作品の「引き」だけはいいな~と、しみじみ思います。笑(女性の「引き」は知りませんが...泣)
『1日でめぐる僕らの人生』(24時間順)
プロローグ 10周年記念前夜のゲーム(2017年6月20日)
午前
0時 ハッピー・ニューイヤー!なんて気分じゃない!(チャプター 13 2015年1月)
1時 一人で物思いにふける(チャプター 14 2015年2月)
2時 僕らが出会った夜(チャプター 1 2007年6月21日)
3時 キャンプ旅行(チャプター 8 2012年8月)
4時 あのホテルの部屋(チャプター 19 2017年2月)
5時 僕らが出会う2ヶ月前、ベッドの中で(チャプター 10 2007年4月)
6時 古いアルバムをめくると、昔の君がいた(チャプター 11 2013年12月)
7時 僕らのファーストデート、それとも二度目?(チャプター 2 2007年6月)
8時 二人で一つの家庭を築くということ(チャプター 4 2009年4月)
9時 死にゆく男の願い(チャプター 15 2015年11月)
10時 病院内の一番哀しい場所(チャプター 17 2017年1月)
11時 僕らの10周年記念日(チャプター 22 2017年6月21日)
午後
0時 話すべき時ではない(チャプター 21 2017年4月)
1時 サプライズ・パーティー(チャプター 9 2011年5月)
2時 君のことをもっと知っていく(チャプター 7 2010年3月)
3時 やっと1マイル(1年)、まだまだ先は長そうだ(チャプター 6 2008年6月)
4時 自制が利かなくなった日(チャプター 20 2017年2月)
5時 引っ越しの日(チャプター 23 2017年8月)
6時 二人で過ごす初めてのクリスマスは秘訣に満ちて(チャプター 5 2007年12月)
7時 君に聞くべきじゃなかったこと(チャプター 16 2016年9月)
8時 僕らの10周年記念日の前夜(チャプター 18 2017年6月20日)
9時 最高の自分自身を(チャプター 3 2007年10月)
10時 君の気持ちを変えられなかった夜(チャプター 12 2014年7月)
11時 1日でめぐる僕らの人生 — ついに完成(チャプター 24 2018年6月)
エピローグ(チャプター 1 の続き 2007年6月21日午前3時)
『1日でめぐる藍の人生』
午前
0時
1時
2時
3時
4時
5時
6時
7時
8時 高校生の時、川辺でふられた。←スピッツの『ロビンソン』を聴きながら待ち伏せしたの?笑←B'zの『Break through』だったかな。←壁を突き破ろうとしたんだ! そしたら逆に...爆笑
9時 大学生の時、駅の改札付近でふられた。←堂々と大学で言えよ!笑
10時
11時
午後
0時
1時
2時 パレードを見ながらレナちゃんとキスをした😘 in ディズニーシー←見ながらはキスできないだろ!笑笑
3時 レナちゃんと漫才を見た。in ルミネ座ヨシモト
4時
5時
6時
7時
8時
9時
10時
11時
24個って多いな! こんなの埋まるわけねーだろ!!笑←しょぼい人生だね(号泣)
小説の試金石を書いておくと、
①読み手をつかんで離さないプロット(筋)かどうか。
②読んでいて気持ちいい文章(文体)かどうか。
③読者の想像力をかき立て、幻(まぼろし)を視せる力(幻視力)があるかどうか。
④社会や世界に訴えかけるテーマ(『1日でめぐる僕らの人生』では結婚という制度云々)があるかどうか。
⑤人間のうちに潜む悪を描けているか(しかも単に露悪的に描くのではなく、その奥にある善っぽい微かな光まで漂わせているか)。
⑥同じジャンルの過去作を踏まえているかどうか。(芥川賞とかはこれが結構重要で、村上春樹なんかは、アメリカ文学を踏まえちゃった(笑)から、芥川賞を取れなかったんです。)
他にも神話性とか、普遍性のあるなしとかあるんですが、
藍的には「キュンキュンするかどうか」だけが試金石なんです!笑
で、『1日でめぐる僕らの人生』はキュンキュンしました💙💖
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