『ティファニーで朝食を』2
『ティファニーで朝食を』 by トルーマン・カポーティ 訳 藍(2017年07月22日~2017年11月25日)
ある日の夕方のことだった。5番街方面に向かうバスを待っていると、道の反対側でタクシーが停まるのに気づいた。タクシーから一人の若い女の子が降りて、彼女が42丁目通りの公共図書館の階段を駆け上がっていくのが見えた。彼女が図書館の中に入ってから、やっと僕は彼女が誰であるかを認識した。気づくのが遅れたのは無理もない。なにしろホリーと図書館というのは、なかなか結びつかない組み合わせだったのだから。
僕は好奇心に駆られて、図書館の入口にある二頭のライオンの像の間を抜けた。君を見かけてあとをつけてきたと認めるべきか、それとも偶然を装うべきかと、頭の中で緊急会議を繰り広げていた。
結局、僕はどちらもやめて、一般閲覧室の彼女が座っている席からテーブルをいくつか隔てたところに身を隠した。彼女はサングラスをかけたまま、書棚から集めてきた本を机の上に砦のように積み上げていた。
ホリーは次々と本を変え、大急ぎでページをめくっていたが、時折、あるページで手を止め、眉間にしわを寄せて、そのページを見つめていた。まるで上下逆さまに印刷されたページを眺めているかのようだった。
彼女は紙の上に鉛筆をかざしていた。本の内容に興味を引かれているようには見えなかったのだが、それでも時々、まるで無理に面白いことを見つけ出したかのように、何かをがむしゃらに走り書きしていた。彼女のそんな姿を見ていたら、僕は学校で知り合いだったミルドレッド・グロスマンという勉強好きの女の子を思い出した。
ミルドレッドは湿った髪をして、テカテカ光ったメガネをかけ、汚れた指で蛙を解剖し、ストライキのピケを張っている人たちにコーヒーを運んでいた。また、彼女は単に星の質量を計算するためだけに、精彩を欠いた瞳で星空を見上げていた。
ミルドレッドとホリーでは天と地ほどの違いがあったのだが、僕の頭の中で二人はシャム双生児のように繋がっていた。二人を一体に縫い合わせる思考の糸はこのようなものだった。通常、性格というのは頻繁に形を変えるものだし、肉体も数年に一度は完全に分解され、改変される。望むと望まざるとにかかわらず、僕たちが変化するのは自然なことなのだ。それなのに、この二人は全く変わろうとしない。これこそがミルドレッド・グロスマンとホリー・ゴライトリーに共通している点だ。二人が決して変わろうとしないのは、あまりにも早い時期に性格が決められてしまったせいだろう。突然、大金が転がり込んできた人間と同様に、ある時点で内面のバランスが崩れ、一人は頭でっかちの現実主義者になり、もう一人は偏った夢想家になったのだ。将来、この二人がレストランで向き合っている姿を想像した。ミルドレッドは栄養学的な観点からメニューを見つめ、いつまでも悩んでいる。ホリーはそこに載っているすべての料理を食べたいと、いつまでも悩んでいる。二人はずっと変わらないだろう。二人とも、すぐ左手には崖があることなど気づいていないかのような確固とした足取りで、人生の道を通り抜け、そして人生から出て行くのだ。
そのようなことを深く考えていたら、僕は自分がどこにいるのかを忘れてしまった。はっと我に返ると、自分が図書館の薄暗がりの中にいて跳び上がりそうになる。そして、改めて驚きの念をもって図書館にいるホリーを見つめた。
時計の針が7時を回ると、ホリーは口紅を塗り直し、スカーフを巻き、イヤリングをつけ、図書館に適していると彼女が思う外見から、レストランで仲間と食事するのにふさわしいと彼女が考える外見へと、さっそうと変身した。
彼女が出て行ったあと、僕は彼女の座っていた席にさりげなく近づいた。彼女が読んでいた本がそこに残されていて、僕はそれがどんな本なのかを知りたかったのだ。『サンダーバードが空を舞う南部』、『ブラジルの影』、『ラテン・アメリカの政治的精神』などの本が置かれていた。
クリスマス・イブにホリーとマグはパーティーを開いた。早めに来てツリーの飾り付けを手伝ってちょうだい、と僕はホリーに頼まれた。あんなに大きなツリーをどうやって部屋に運び入れたのか、いまだに定かではないが、ツリーの先端は天井に当たって折れ曲がり、下の方の枝は両側の壁につくほど広がっていた。そういえば、ロックフェラー・プラザでクリスマスの時期に見る巨大な木に似ていなくもなかった。それに、それこそロックフェラーのような大富豪でなければ、その巨大な木に満足に飾り付けをするのは無理だった。というのも、玉飾りやぴかぴか光る糸飾りをいくらつけても、雪が溶けるようにすぐに木の枝に吸い込まれてしまうのだ。
ホリーはちょっとウールワースまで行って、風船をいくつか盗んでくるわね、と言って出て行った。そして、実際に持ち帰ってきた風船を飾り付けると、ツリーはまずまずの見栄えになった。僕たちは飾り付けの出来栄えに乾杯した。すると、ホリーが「寝室に来てちょうだい。あなたにプレゼントがあるのよ」と言った。
僕も彼女にプレゼントを持ってきていた。それは小さな物でポケットに入れていたのだが、ベッドの上に置かれ、赤いリボンを巻かれた美しい鳥かごを見た時、ポケットの中のプレゼントがいっそう小さく感じられた。
「ちょっとホリー! こんな大それたもの、もらえないよ!」
「そうね、大それたものよね。でも、あなたはこれを欲しがっていたわよね」
「お金のことだよ! たしか350ドルだったよね!」
彼女は肩をすくめた。「それくらいのお金なら、2、3回余計にお化粧室に行けばもらえるわ。でも約束してほしいのよ。絶対この中に生き物を入れないって約束してほしいの」
僕は彼女にキスしようとしたが、彼女は片手を前に出して押しとどめると、「それちょうだい」と言って、僕のポケットのふくらみを軽く叩いた。
「大したものじゃないから、がっかりさせちゃうかも」実際それは大したものではなく、ただの聖クリストファーのメダルだった。ただ、少なくともそれはティファニーで購入したものだった。
ホリーは物を大事にしまっておくような女の子ではないし、きっと今はもう、あんなメダルは失くしてしまっただろう。スーツケースに入れたままとか、どこかのホテルに泊まった時に引き出しの中に置き忘れたりして。
でも、その鳥かごは今もまだ僕の手元にある。僕はその鳥かごを持って、ニューオーリンズにも、ナンタケットにも行ったし、それを手に提げて、ヨーロッパ中を旅し、モロッコや西インド諸島にも行った。それでも、それをプレゼントしてくれたのはホリーだということを思い出すことはめったになかった。ある時点で、そのことを忘れようと心に決めたからだ。
僕らは一度、大きな仲たがいをした。僕らは激しく言い合いになったのだが、二人が起こした台風の渦の中でぐるぐる回っていたのは、その鳥かごであり、O.J.バーマンであり、僕の短編小説だった。僕はそれが掲載された大学の文芸誌を一部、彼女に手渡していた。
それは2月のことだった。ホリーはラスティーとマグとホセ・イバラ・イェーガーを引き連れて、避寒を兼ねた冬の旅行に出掛けた。僕たちが口論したのは、彼女がその旅行から帰ってきた直後だった。彼女の肌は褐色に焼けていて、髪の毛も日光を存分に浴びて、お化けみたいに白っぽく変色していた。彼女は旅を満喫してきたのだ。
「あのね、まず私たちは船に乗ってキー・ウェストに向かったのよ。そしたらラスティーが船員の人たちに腹を立てちゃって、逆だったかしら? とにかく、彼は残りの人生をずっと背骨固定器をつけて過ごすはめになったのよ。親友のマグも病院に運ばれちゃったわ。彼女は重度の日焼けよ。かなりひどかったわ。肌が水ぶくれになっちゃってね、シトロネラ油を体に塗りたくられて、凄い匂いだったわ。近くにいるだけで我慢できないくらい。それで二人を病院に残して、ホセと私だけでハバナに行ったのよ。ホセが言うには、ハバナよりリオの方が素晴らしい街らしいけど、私はもう、ハバナのためならすぐに財布を開くくらい、ハバナがお気に入りの街になったわ。私たちを案内してくれたガイドが魅力的な人だったのよ。彼は黒人でね、中国人の血もちょっと混じってるって言ってたわ。私は黒人も中国人もあんまり好きじゃないんだけど、混ざり合うとね、これがなかなか素敵な男だったわ。だからね、彼がテーブルの下で私のひざを触ってきたから、そのまま触らせてあげたのよ。正直言って、彼は全然退屈な人じゃなかったわ。でも、ある夜にね、彼がポルノ映画に連れて行ってくれたんだけど、それで、どうなったと思う? なんと彼がその映画に出演していたのよ。もちろん、キー・ウェストに戻ったら、マグは疑ってきたわ。私がホセと寝たはずだって。ラスティーも疑ってたけど、彼はそういうことは気にしないタイプなのよ。彼はただあれこれ聞きたいだけなの。とにかく、私がマグと心を通わせて話をするまでは、かなりピリピリした雰囲気だったわ」
僕らはリビングルームで話していたのだが、もうすぐ3月だというのに、まだ巨大なクリスマス・ツリーが部屋の大部分を占めていた。茶色くなった葉っぱからは何の香りもしなくなり、風船は年老いた乳牛の乳房のようにしぼんでいた。その部屋には家具らしきものが一つ加わっていた。それは軍隊用の簡易ベッドだった。ホリーは南国風の肌の色を保とうと、簡易ベッドの上に日焼け用の青白い光を放つライトをかざして、そこに寝そべっていた。
「それで君はマグを納得させたのかい?」
「私がホセと寝なかったってこと? 当然、彼女は納得したわ。私はレズビアンなのって言ったのよ。わかるでしょ、こんなことを打ち明けるのは本当に辛いんだけど、みたいな言い方でね」
「彼女がそんなこと信じるわけがない」
「彼女が信じてないわけないじゃない。なぜ彼女がこの簡易ベッドを買ってきたと思ってるの? こういうことは私に任せてちょうだい。相手に精神的なショックを与えることにかけては、私の右に出る者はいないわ。ねえ、お願い、ダーリン、背中にオイルを塗ってくれないかしら」
僕が彼女の背中にオイルを塗っている最中、彼女は言った。「O.J.バーマンが今この街にいるのよ。それでね、あなたの小説が載ってる雑誌を彼に渡したの。彼、凄く感心していたわ。あなたには援助するだけの価値があるって思ったかもしれないわね。でもね、あなたは方向性が間違ってるって言ってた。黒人と子供の話なんて、そんなの誰が興味持つのよ」
「まあ、たしかにバーマンさん向きではないね」
「あら、私も彼と同じ意見よ。私は二回もあの話を読んだわ。ちびっ子と黒ん坊。あとは、そよぐ木の葉とか自然描写ばっかり。そんなの何の意味もないわ」
彼女の背中にオイルを塗っていた僕の手が、なんだか短気を起こしそうだった。僕の手が彼女の肌を離れ、高くかかげられ、そこから彼女のお尻めがけて振り下ろされたがっていた。
「たとえば、どんな小説が」僕は落ち着いて言った。「意味のあるものなのかな? 君の意見を聞かせてくれないか?」
「『嵐が丘』ね」と、彼女はためらいなく言った。僕の手の彼女を叩きたいという衝動がコントロールを失いつつあった。
「でも、それは理不尽だよ。天才が書いた名作と比べられても」
「そうね、名作よね。私の自由奔放で素敵なキャシー。もう涙がずっと止まらないんですもの。私は『嵐が丘』を十回も見たわ」
僕は「ああ」と、あからさまにほっとして言った。「なるほどね」僕はみっともないほどにうわずった声を出していた。「映画のことか」
彼女の背中の筋肉が急にこわばるのを感じた。まるで日光を浴びて温かくなった石を触っているかのようだ。
「みんな誰かに優越感を持たずにはいられないのよね」と彼女は言った。「でも、そういう風に上からものを言うのなら、あなたが私よりも優れている証拠を示してほしいわね」
「べつに僕は君と自分を比べているわけじゃないし、バーマンと比べてるわけでもない。だから僕の方が優れているなんて思ってない。僕たちは望んでいるものが違うんだよ」
「あなたはお金を稼ぎたくないの?」
「今のところ、そこまでは考えてないよ」
「なんだかあなたの小説みたいね。結末もわからずに書いてるって感じ。あのね、教えておいてあげるわ。お金は稼いでおいた方がいいわよ。あなたの想像力を形にするにはお金がかかるのよ。あなたに鳥かごを買ってあげるような人はそんなにいないわよ」
「ごめん」
「私をぶてば、もっとそういう気持ちになるわ。さっきあなたはそうしたいと思ったわよね。手から伝わってきたのよ。そしてあなたは今もそうしたがっているわ」
たしかに僕はひどくそうしたい衝動に駆られていた。オイルの瓶の蓋を閉める手が震え、同時に僕の心も震えていた。
「いや、そんなことしないよ。そうしても後悔はしないと思うけどね。僕のためにあんな高価な鳥かごを買って、君のお金を無駄に使わせてしまったことだけは悪かったと思ってる。ラスティー・トローラーにお金をねだるのも大変だね」
彼女は簡易ベッドの上で身を起こした。日焼け用の青白いライトに照らされて、彼女の顔も、裸の胸も、冷たそうに見えた。
「ここからドアまで4秒くらいかかるはずだけど、2秒でこの部屋から出て行ってちょうだい」
僕はホリーの部屋を出ると階段を駆け上がり、自分の部屋から鳥かごを持ってきて、それを彼女の部屋の前に置いた。これで終わりだ。
これで終わっただろうと翌朝までは思っていた。翌朝、仕事に出掛けようと外に出ると、その鳥かごが歩道のゴミ缶の上に置かれ、ゴミ収集車を待っていた。僕はおずおずとそれを拾い上げると、再び自分の部屋に運び入れた。その行為はなんだか負けを認めているようでもあったが、ホリー・ゴライトリーを僕の人生から完全に追い出してしまおうという決心に揺るぎはなかった。
彼女は「卑しい自己顕示家」であり、「時間の浪費者」であり、「全くの偽者」だと思うことに決めたのだ。二度と話なんかしたくない。
そして僕は実際に、それほど長い間というわけではないが、彼女と話をしなかった。階段で鉢合わせした時には足元に視線を落としてすれ違った。彼女がジョー・ベルの店に入ってくれば、僕は入れ違いに店を出た。
ある時、一階に住んでいるソプラノ歌手であり、ローラースケートをこよなく愛するサフィア・スパネッラ婦人が、ミス・ゴライトリーをアパートから立ち退かせようと、住人たちの署名を求めて、嘆願書を回した。スパネッラ婦人が言うには、彼女は「道徳的に好ましくない」上に、「一晩中パーティーを開き、近隣住民の安全と安眠をおびやかしている」ということだった。僕は署名するのは断ったが、内心ではスパネッラ婦人が不満を言うのも無理はないと思っていた。
しかし、署名は思うように集まらず、彼女の計画は頓挫した。そして、4月が5月に近づくにつれて、開け放たれた窓から、夜になっても温かな春の空気が入り込むようになり、パーティーは騒々しく活気づいていった。大音量のレコードプレーヤーの音や、マティーニに酔った人の笑い声が、2階の部屋から漏れ聞こえてきた。
ホリーを訪ねてくる人々の中にうさんくさい連中を見かけることは珍しくもなく、逆によくあることだったのだが、春も終わりに近づいたある日、アパートの玄関を通ろうとしたら、かなりあやしい男がホリーの郵便受けを吟味するように見つめていた。
50代前半と思しき男で、外気にさらされてきたような、こわ張った顔をして、生気を失った灰色の目をしていた。汗が染みついた灰色の帽子をかぶり、安っぽい夏用のスーツを着ていた。その薄い青色をしたスーツは、その男のひょろ長い体にはだぶだぶで、だらしなく垂れ下がっていた。靴は茶色で真新しかった。
ホリーの部屋のベルを鳴らすつもりはないようだった。ゆっくりと、まるで点字でも読むかのように、彼女の名刺の浮き彫りになった文字を指でなぞり続けていた。
その日の夕方、夕食を取りに外出すると、僕はまたその男を見かけた。彼は道の向こう側から木に寄りかかって、ホリーの部屋の窓をじっと見上げていた。不吉な憶測が僕の頭をよぎった。あの男は探偵なのだろうか? あるいは、シンシン刑務所にいる彼女の友人、サリー・トマトと何か関係のある暗黒街の手先だろうか? そんなことを考えていると、僕の中で再びホリーを愛おしく思う気持ちが大きくなっていった。
僕たちのいがみ合いは一旦中断して、見張られているから気をつけるように、と彼女に忠告してあげた方がいいと思った。
僕はマディソン・アベニューの79丁目にあるハンバーグ・ヘブンに行こうと思い、東へ向かって歩き始めたのだが、その時、男の注意が僕に向けられるのを感じた。ほどなくして、僕は後ろを振り返ることもなく、彼にあとをつけられていることに気づいた。なぜなら彼はずっと口笛を吹いていたからだ。それもありきたりの曲ではなく、ホリーが時々ギターを弾きながら歌っていた、あの悲しげな大草原のメロディーだった。「眠りたくない、死になくもない、ただ大空の大草原を旅していたい」
その口笛は、僕がパーク・アベニューを渡り、マディソン・アベニューを歩いている時もずっと聞こえていた。途中で、信号が変わるのを待っている間、視界の片隅でその男の様子を窺うと、彼は身を屈めて、みすぼらしいポメラニアンを撫でていた。
「いい犬を連れていますねえ」と、彼は犬の飼い主に言った。彼の声はしゃがれていて、田舎なまりの間延びした話し方だった。
ハンバーグ・ヘブンは空いていた。にもかかわらず、その男は長いカウンター席の僕の真横に座った。彼からタバコと汗の匂いがした。
彼はコーヒーを注文したが、コーヒーが運ばれてきても手をつけずに、つまようじを嚙みながら、僕たち二人の姿を映している壁鏡を通して、僕をじっと見ていた。
「あの」と、僕は鏡に映った彼に向かって話しかけた。「何かご用ですか?」
それでも彼は動じる素振りを見せなかった。むしろ、そう聞かれてほっとしたようだった。「実は君に」と彼は言った。「頼みがあるんだ」
彼は財布を取り出した。それは彼のがさがさの手のように、ぼろぼろにすり切れていて、今にもばらばらになりそうな札入れだった。
そして、財布と同様にしわくちゃで、ひびが入ったピンぼけの写真を彼は僕に手渡してきた。その写真には7人の人物が写っていた。飾り気のない木造家屋の、床板が歪んでいるような縁側に寄り添うように7人が立っている。彼以外はみんな子供だった。彼はぽっちゃりした金髪の少女の腰に手を回している。その少女は目に手をかざして日差しを遮っている。
「これが私だよ」と言って、彼は自分の姿を指差した。「これが彼女だ…」彼はそのぽっちゃりした女の子を指で叩いた。
「そしてここに写っているのが」と彼は言って、亜麻色の髪をしたひょろっと背の高い少年を指し示した。「あの子の兄のフレッドだ」
僕はもう一度、「あの子」を見た。そしてよく見ると、たしかに、目を細めている、頬がぽちゃっと丸いその子には、ホリーの芽生えの兆しがあった。
同時に、その男が誰なのか見当がついた。「あなたはホリーのお父さんですね」
彼は驚いたように目をしばたたき、眉をひそめた。「彼女の名前はホリーじゃない。彼女はルラメー・バーンズっていうんだ。前はな」と言って、彼は口の中でつまようじの位置を変えた。「私と結婚するまではってことだ。私は彼女の夫で、ドク・ゴライトリーだ。馬の医者、獣医をしている。農業も少しやっている。テキサスのチューリップ畑の近くでな。おい、君、何がおかしいんだ?」
本気で笑ったわけではなく、神経がひきつるように敏感に反応してしまったのだ。僕は水を一口飲んだのだが、むせてしまい、彼が背中を叩いてくれた。
「これは笑いごとじゃないんだよ、君。私はすっかり疲れてしまった。この5年間ずっと妻を探していたからね。フレッドから手紙をもらって、彼女の居場所がわかると、すぐに長距離バスのチケットを買ったよ。ルラメーは夫の私と子供たちの待つ家に戻るべきなんだ」
「子供たち?」
「この子たちは彼女の子供だ」と、彼はほとんど叫ぶみたいに言った。この子たちというのは、写真の残りの4人の幼い顔、つまり、二人の裸足の少女と、二人のつなぎの服を着た少年のことを言っているのだ。
なるほど、やはり、この男は気が狂っているのだ。「でも、ホリーがこの子たちの母親なわけないじゃないですか。みんな彼女より年上だし、体も大きいし」
「いいかい、君」と、彼は諭すような声で言った。「この子たちが彼女の腹から生まれたと言っているんじゃない。この子たちを産んだ、かけがえのない母親、かけがえのない女性は、1936年の7月4日、独立記念日にこの世を去った。イエスよ、彼女の魂に安らぎを与え給え。あれは日照り続きの年だった。私がルラメーと結婚したのは、1938年の12月で、彼女は14歳になろうとしていた。普通の人間だったら、14歳では、まだ分別もつかないだろうが、ルラメーは並外れた女だった。彼女は自分がしようとしていることをちゃんと理解した上で、私の妻に、そして私の子供たちの母親になると約束したんだ。あの子があんな風に出て行ってしまって、私たちはすっかり悲しみに暮れたよ」
彼は冷たくなったコーヒーを一口すすると、探るような真剣な目つきで僕を見つめてきた。「それで、君、私をまだ疑っているのか? それとも私の言っていることを信じるか?」
僕は信じた。あまりに突拍子もない話だったので、かえって真実味があったし、それに、O.J.バーマンの話にも合致していた。バーマンはホリーとカリフォルニアで初めて会った時のことを話し、「彼女が山岳地帯出身だろうが、オクラホマ出身だろうが、どこ出身だろうと、知るよしもない」と言っていた。彼女がテキサスのチューリップ畑から来た幼な妻だとわからなかったとしても、バーマンを責めることはできない。
「あの子があんな風に出て行ってしまって、私たちはすっかり悲しみに暮れたよ」と、その獣医はもう一度言った。「あの子が出て行く理由なんてどこにもなかったんだ。家事はすべて娘たちがやっていた。ルラメーは髪を洗ったり、鏡の前でおめかししたりして、ただのんびりしていればよかったんだ。うちには牛もいるし、菜園もあるし、鶏や豚もいるからな。あの子はいい意味で太っていったよ。彼女の兄も大男になるまで成長した。二人がうちにやって来た時とは見違えるほどになったんだ。二人を家の中に入れたのは長女のネリーだった。ネリーがある朝、私のところにやって来て、『パパ、野生児みたいな子供を二人、台所に閉じ込めたわ。家の外で牛乳と七面鳥の卵を盗んでいるところを私が捕まえたのよ』と言った。それがルラメーとフレッドだった。まあ、君みたいなのは、あんなに哀れな姿の人間を見たことはないだろうな。肋骨が全部浮き出ていて、足は弱々しくて、ろくに立ってもいられなかった。歯はぐらぐらで、トウモロコシのおかゆすら嚙めない状態だった。こういうことらしい。二人の母親が結核で死んで、父親も同じ病気で死んだ。それで、子供たちが大勢いたんだが、みんな散り散りになって、それぞれ意地の悪い連中に引き取られた。ルラメーと兄の二人は、チューリップ畑の百マイルほど東に住んでいる、けちで無責任な家族に引き取られ、そこで暮らしていた。彼女があの家から逃げ出すには、それだけの理由があったんだ。ただ、我が家から逃げ出す理由は全くなかった。あの子の家だったんだからな」
彼はカウンターに両肘をつき、閉じた瞼を指先でおさえながら、ため息をついた。
「彼女はふくよかに肉がつき、本当に綺麗な女になった。元気も出てきた。鳥のカケスのようによく喋ったよ。どんな話題でも、あの子は何か賢いことを言った。ラジオで耳にする意見よりも気が利いていた。気づくと彼女を好きになっていて、私は彼女にあげる花を摘んでいた。彼女のためにカラスを一羽飼い慣らして、彼女の名前を言えるように教え込んだ。彼女にギターの弾き方も教えた。ただ彼女を見ているだけで、目から涙がじわっと溢れてきたよ。彼女にプロポーズした夜、私は赤ん坊のように泣いた。そしたら彼女は、『どうして泣くのよ、ドク? もちろん結婚するわ。私はまだ一度も結婚したことないから』と言ったんだ。私は思わず笑ってしまったよ。それから彼女をぎゅっと抱きしめた。『まだ一度も結婚したことないから』だとよ」彼はクスクスと笑いながら、少しの間、つまようじを嚙んでいた。
「あの子が幸せじゃなかったなんて言わせないよ!」と、彼は挑んでくるように言った。「家族みんなで彼女を可愛がったんだ。彼女は指一本上げる必要はなかった。指を動かすのはパイを食べる時と、髪をとかす時、あとは郵便で雑誌を取り寄せる時くらいだった。我が家に届いた雑誌の総額は100ドルは下らないだろうな。私が思うには、ああいう雑誌が原因で彼女は出て行ったんだ。見せびらかすような写真を見て、夢みたいな話を読んで、そのうち彼女はふらふらと出歩くようになった。毎日少しずつ遠くまで出掛けていったよ。1マイル歩いて、帰ってきた。次の日は2マイル歩いて、帰ってきた。ある日、彼女はそのまま歩き続けて、帰ってこなかった」彼は再び両手で目を覆った。彼の息づかいが荒々しく不規則になった。
「彼女のために飼っていたカラスは狂乱したように飛んでいったよ。夏の間中、そのカラスの声が聞こえてきた。庭でも、菜園でも、森の中でも。夏の間ずっと、あのいまいましい鳥は呼び続けていた。ルラメー、ルラメーってな」
彼は背中を丸めたまま、じっとしていた。まるで遠い昔の夏の音に耳を澄ましているようだった。
僕は二人分の伝票をレジに持っていった。僕がお金を払っていると、彼もレジまでやって来た。僕たちは一緒に店を出て、パーク・アベニューに向かって並んで歩いた。風が強く、肌寒い夜だった。通りに並ぶ店のしゃれた天幕が風にはためいていた。
しばらく沈黙が続いたが、やがて僕は言った。「でも、彼女のお兄さんはどうしたんですか? 彼は家を出なかったんですか?」
「ああ、出なかったよ」と彼は言って、咳払いをした。「フレッドは軍隊に連れて行かれるまで、ずっと私たちと一緒にいた。いい子だよ。馬の世話が上手なんだ。ルラメーがどんな考えにとりつかれてしまったのか、フレッドにはわからなかった。どうして彼女が兄と夫と子供たちを置いて出て行ったのか、彼は不思議がっていたよ。軍隊に入ってからは、彼女からフレッドのところに手紙が来るようになったみたいだけどな。先日、彼は手紙で彼女の住所を私に教えてくれたんだ。それで彼女を連れ戻しに来た。彼は妹がしたことを申し訳なく思っているんだよ。彼女だって家に帰りたがっているはずだ」
彼は僕に同意を求めているようだった。僕は彼に、「ホリーは、というか、ルラメーは昔とは多少変わったと思いますよ」と言った。
「聞いてくれ、君」と彼は言った。僕たちはアパートの玄関に近づいていた。「頼みがあると言っただろ。私はあの子を驚かせたくないし、怖がらせたくもないんだ。だから遠くから様子を窺っていた。私を助けると思って、私がここにいることを彼女に知らせてほしい」
ミセス・ゴライトリーと彼女の夫を引き合わせることを思うと、なんだか愉快な気分になった。そして、明かりのついた彼女の部屋の窓を見上げながら、彼女の友人たちもいるといいなと思った。このテキサスからやって来た男と、マグやラスティーやホセが握手しているところを想像したら、さらに愉快な気分になった。
しかし、ドク・ゴライトリーの誇らしげで真剣な目つきと、汗の染みついた帽子を見たら、そんなことを期待した自分が恥ずかしくなった。彼は僕のあとについてアパートの中に入った。そして彼は階段の下で待っていることにして、身なりを整えた。
「服装はこれで大丈夫か?」と、彼はスーツの袖を払ったり、ネクタイを締め直したりしながら小声で言った。
ホリーは一人だった。彼女はすぐにドアを開けた。実際、彼女は出掛けるところだったのだ。光沢のある白いダンス用のパンプスを履き、大量に香水をつけている。これから彼女は宴(うたげ)に繰り出すのだろう。
「あら、お馬鹿さんじゃない」と彼女は言って、おどけたようにハンドバッグで僕を軽く叩いた。
「私、今急いでいるのよ。仲直りしている時間はないわ。明日、仲直りの印に一服しましょう。いいわね?」
「いいとも、ルラメー。君が明日もまだこの辺りにいるのならね」
彼女はサングラスを取ると、目を細めてじっと僕を見つめた。彼女の目は、まるで粉々に割れたプリズムのようだった。青や灰色や緑の点が、砕け散った光の破片のように目の中に散らばっていた。
「あの子があなたにその名前を教えたのね」と、彼女は小さな、震えるような声で言った。
「ああ、お願い。あの子はどこなの?」彼女は僕の脇をすり抜けて廊下に出た。
「フレッド!」彼女は階段の下に向かって叫んだ。「フレッド! どこにいるの? ダーリン」
ドク・ゴライトリーが階段を上がってくる足音が聞こえた。手すりの上に彼の頭が現れると、ホリーは後ずさりした。彼を怖がっているというよりは、がっかりして自分の殻の中へと引っ込んでいくように見えた。
それから彼は彼女の前に立ち、どうしていいかわからない様子で照れくさそうにしていた。
「おお、ルラメー」と彼は口を開いたが、そこでためらった。彼を見つめるホリーの目がうつろで、彼が誰なのかわからないみたいだったからだ。
「なんてことだ、ハニー」と彼は言った。「まともに食べさせてもらっていないのか? こんなにやせてしまって。お前に初めて会った時みたいじゃないか。目の周りにこんなにもくまができてしまって」
ホリーは手を差し出し、彼の顔に触れた。彼の顎が、そこに生えた無精ひげが、現実にそこにあることを指で確かめていた。
「ハロー、ドク」と彼女は優しく言って、彼の頬にキスをした。
「ハロー、ドク」と彼女は嬉しそうに繰り返した。彼は肋骨が折れるのではないかと思うほど、きつく彼女を抱きしめると、そのまま宙に持ち上げた。
彼はほっとしたような笑い声を上げながら、全身を揺すっていた。「ああ、ルラメー。天にも昇るような気持ちだ」
僕は上の階の自分の部屋に戻ろうと、二人の脇をどうにかすり抜けたのだが、二人とも僕のことなど眼中になかった。サフィア・スパネッラ婦人がドアを開けて、「うるさいのよ! この恥さらし。売春ならどこかよそでやってちょうだい」と叫んだのだが、二人はそれにも気づいていないようだった。
「彼と離婚? もちろん離婚なんてしてないわ。私はまだ14歳だったのよ、まったくもう、そんな結婚、法的に無効に決まってるじゃない」ホリーは空になったマティーニのグラスを指で軽く叩いた。「同じの二つおかわりよ、ダーリン、ベルさん」
僕たちはジョー・ベルのバーで座っていたのだが、彼はしぶしぶといった様子で、その注文を受けた。「お前たち、こんなに早い時間からそんなに飲んで」と、彼はタムズ胃腸薬を嚙みながら、苦言を呈した。
カウンターの後ろにかけてあるマホガニー材でできた黒い時計によると、まだお昼前だったが、彼は僕たちにすでに三杯ずつお酒を差し出していた。
「でも今日は日曜日よ、ベルさん。日曜日は時計の針もゆっくり進むのよ。それにね、私は昨日からまだベッドに入っていないの」と彼女は彼に言ってから、「寝るわけにはいかなかったのよ」と、僕にそっと打ち明けた。
ホリーは顔を赤くして、後ろめたいことでもしたかのように視線をそらした。彼女と知り合ってから初めて、ホリーは自分を正当化する必要性を感じているようだった。
「あのね、寝てなんかいられなかったの。ドクは私のことを本当に愛しているのよ、知ってるでしょ。そして私も彼のことが大好きよ。あなたの目には彼は年を取っていて、みすぼらしく見えたかもしれないわね。でも、あなたは知らないでしょうけど、彼は凄く優しいのよ。鳥とか子供たちとか、そういうかよわいものに対して思いやりがあるの。誰からであっても思いやりを受けたら、その恩を忘れちゃいけないわ。お祈りする時には、私はいつもドクのことを思っているわ。ニヤニヤするのはやめてちょうだい!」彼女はタバコをもみ消しながら強い口調で言った。「私だってお祈りくらいするわよ」
「ニヤニヤなんかしてないよ。微笑んでいるんだ。君みたいなびっくりするような素晴らしい人に会ったのは初めてだから」
「自分でもそう思うわ」と彼女は言った。午前中の光の中で、青ざめ、かなり傷ついているように見えた彼女の顔が、明るさを取り戻した。彼女は乱れた髪をなでつけた。いろんな色が混じった髪がシャンプーのCMみたいにちらちら光った。
「きっと私、ひどい顔をしているわ。でも誰だってそうなるでしょ? 私たちはバスの停留所で朝までうろうろしていたんだから。バスが出発する最後の最後まで、ドクは私が彼と一緒に帰るものだと思っていたわ。私は繰り返し彼に言ったんだけどね。ドク、私はもう14歳ではないし、今はもうルラメーでもないのよって。でもね、気づいてぞっとしちゃったんだけど、(バス停で二人きりで立っている時に気づいたんだけどね、)私は今でもルラメーなのよ。私は今でも七面鳥の卵を盗んだり、イバラの茂みを駆け抜けたりしているの。今はそれを嫌な赤色の気分って呼んでいるだけなんだわ」
ジョー・ベルは僕たちの前に作りたてのマティーニをそっけなく差し出した。
「野生の生き物を好きになってはだめよ、ベルさん」と、ホリーは彼に忠告した。「それがドクの過ちだったのよ。彼はいつも野生の生き物を家に連れ帰ってきたわ。翼の傷ついたタカとかね。足が折れた大人のオオヤマネコを連れてきたこともあったわ。でも、野生動物に情を移してはだめなのよ。愛情を注げば注ぐほど、その野生動物は回復して強くなっていくわ。やがてすっかりたくましくなって、森に逃げるように戻っていくのよ。鳥だったら、木の枝にとまれるようになって、それからもっと高い木に上がれるようになって、いつしか空へ飛び立ってしまう。結局そうなってしまうのよ、ベルさん。もし野生の生き物に愛情を抱いてしまったらね。最後には空を見上げて途方に暮れることになるわ」
「彼女は酔ってるね」と、ジョー・ベルは僕に告げた。
「ほろ酔い程度よ」と、ホリーは酔っていることを認めた。「でもドクは私の言いたいことをわかってくれたわ。私は彼にとても丁寧に説明したの。そしたら彼はちゃんと理解してくれた。私たちは握手をして、お互いに抱き締め合って、彼は私の幸運を祈ってくれたわ」彼女は時計をちらっと見た。「彼は今頃、ブルーマウンテンズ辺りね」
「彼女は何の話をしているんだい?」と、ジョー・ベルは僕に訊ねた。
ホリーはマティーニを持ち上げると、「ドクの幸運も祈ってあげましょうよ」と言って、僕のグラスに彼女のグラスを合わせた。
「あなたの幸せを祈っているわ、本当よ、親愛なるドク。それにね、空の上で暮らすより、空を見上げている方がましなのよ。空なんて何もないし、漠然としすぎているわ。空の国では雷が鳴り響いてね、生き物はみんな消えてしまうの」
「トローラー、4度目の結婚。」僕がその見出しを目にしたのは、ブルックリン辺りで地下鉄に乗っている時だった。その大見出しが掲載された新聞は他の乗客が手にしていたもので、僕が目で追えた部分にはこう書かれていた。「ラザフォード・ラスティー・トローラーは大富豪の遊び人でナチの支持者だとして、しばしば批判の的になってきたが、昨日、グリニッジで挙式を行うために飛び立った。お相手は美しい-」それ以上は読みたくもなかった。ホリーはあいつと結婚してしまったのか。ああ、もう、このまま地下鉄に飛び込んで車輪の下敷きになってしまいたい。
実はその見出しを目にする前から、僕は地下鉄に飛び込みたい衝動に駆られていた。理由は色々あった。ホリーとはジョー・ベルのバーで一緒に酔っ払った日曜日以来、一度も会っていなかった。それからの数週間というもの、僕は嫌な赤色をした気分にさいなまれていたのだ。
まず初めに僕は仕事を首になった。それは当然の報いで、笑ってしまうような不始末をしでかした結果なのだが、あまりに込み入った話なので、詳細を書くことはやめにする。
さらに、徴兵委員会が僕に興味を示してくるのが不快だった。せっかく小さな町での軍事的統制を敷かれた生活から逃れてきたばかりだというのに、またしても規律づくめの生活に入るのかと思うと絶望的な気分になった。
いつ徴兵されるかわからない身でもあり、僕には特別な職歴もなかったから、新たに仕事を見つけることはできそうもなかった。
ブルックリン辺りを走る地下鉄の中で、僕はそんなことを考えていた。今では廃刊になっているが、『PM』紙を発行していた新聞社の面接を受けてきた帰りだった。そこの編集者が面接官だったのだが、手応えはまるでなかった。そういった状況に都会の夏の暑さも相まって、僕の精神は無気力状態に陥っていた。
だから、僕は地下鉄に飛び込んでしまおうと、かなり本気で思っていたのだ。その見出しを見たことで、飛び込みたいという願望はさらに強くなった。ホリーがあの〈まぬけな胎児〉と結婚してしまうのなら、いっそのこと、世の中にはびこる害悪が一気に押し寄せてきて、僕を踏みつけてしまえばいい。
そこで、当然の疑問が湧き上がった。こんなにも激しく気持ちを揺さぶられるのは、僕自身が少しでもホリーに恋をしていたからなのだろうか?
たしかに少しは彼女に恋をしていた。それは僕がかつて、僕の母親の世話をしていた黒人の家政婦に恋をしていたのと同じような気持ちである。あるいは、郵便配達の巡回に一緒に回らせてくれた郵便配達員に僕が抱いた恋心や、マッケンドリック家の家族全員に対して抱いていた気持ちと似たような感情である。そういう種類の恋心からも、胸の内に嫉妬心は湧き上がるものなのだ。
地下鉄が僕のアパートの最寄り駅に着くと、僕は新聞を買った。そして、あの文章を最後まで読み、ラスティーの結婚相手が「美しい人気モデルでアーカンソー州山間部出身のマーガレット・サッチャー・フィッツヒュー・ワイルドウッド」だと知った。マグだった!
僕はほっとして、なんだか気が抜けて足に力が入らなくなってしまい、駅からアパートまでタクシーに乗った。サフィア・スパネッラ婦人が廊下で僕を待ち構えていた。怒った目つきで、両手を固く握り合わせている。
「急いで」と彼女は言った。「警察を呼んできてちょうだい。あの女が誰かを殺そうとしているのよ! 誰かがあの女を殺そうとしているのよ!」
それらしい音が聞こえた。まるでホリーの部屋に放たれた数頭の虎が暴れているかのようだ。グラスが割れる音や、何かが裂ける音、物が落ちる音、それから家具がひっくり返される音がした。
しかし、騒然とした物音は聞こえるが、言い争う声は全く聞こえない。そのことが不自然さを醸し出していた。
「走って」スパネッラ婦人は僕の背中を押しながら、金切り声を上げた。「警察に殺人事件だと言って!」
僕は走ったのだが、向かった先は上の階のホリーの部屋だった。ドアをドンドンと叩いたことで変化が表れた。激しい物音が収まっていき、やがてぴたりとやんだのだ。
だが、中に入れてほしいと頼んでも返事がない。それで僕は体当たりしてドアを突き破ろうと試みたのだが、ただ肩に打撲傷を負っただけだった。
すると階段下から、スパネッラ婦人が誰かに警察を呼びに行くように命じている声が聞こえた。新たに誰かが来たらしい。
「うるさい」と、その誰かは彼女に言った。「そこをどけ」
それはホセ・イバラ・イェーガーだった。いつもの抜け目ないブラジル人の外交官とはほど遠い様子で、汗をかき、怯えているようにも見える。彼は僕にも脇に寄るように指図してきた。そして彼自身が持っていた鍵を使ってドアを開けた。
「こっちです、入ってください。ドクター・ゴールドマン」と、彼は後ろについてきていた男に手招きしながら言った。
誰にも入るなと言われなかったので、僕も二人のあとについて部屋に入ってみると、部屋の中はめちゃくちゃに破壊されていた。あのクリスマス・ツリーがついに取り壊されていた。文字通り、バラバラにされていた。枯れて茶色くなったいくつもの枝が床に散らばっている。床には引き裂かれた本や、割れた電球や、折られたレコードも散乱していた。
冷蔵庫の中までも空っぽにされ、中身が部屋中にばらまかれていた。生卵が壁をつたって垂れている。そして、そのような残骸の真ん中で、ホリーの名無しの猫が、床に水たまりのようにたまった牛乳を平然となめていた。
寝室に行ってみると、割れた香水の瓶から立ち込める匂いで、うっと息がつまった。床に落ちていたホリーのサングラスを踏みつけてしまったのだが、僕が踏む前からすでにレンズは割れていて、フレームは真っ二つに折れていたようだった。
おそらくメガネをかけていないからだと思うが、ベッドで体をこわばらせているホリーは何も見えていないかのようにホセを見つめていた。彼女の脈を取っている医者のことも見えていないようだった。その医者は、「ずいぶん疲れているようですね、お嬢さん。とても疲れているね。眠りたいでしょう? お眠りなさい」と優しく低い声で言った。
ホリーは自分の額を手でこすった。切れた指から流れる血が彼女の額についた。
「眠るわ」彼女はそう言うと、疲れ切ってすねる子供のようにすすり泣いた。「彼は私を眠らせてくれた唯一の人だったわ。寒い夜に抱きつかせてくれたの。メキシコで素敵な場所を見たわ。馬がいて。海のそばで」
「馬がいて、海のそばで」と、その医者は子守歌を歌うように言いながら、黒いケースから皮下注射器を取り出した。ホセは注射針を見て気分が悪くなったのか、顔を背けた。
「彼女の病はただの悲嘆ですか?」と彼は訊ねたのだが、彼の喋る英語は拙いので、意図せずして皮肉のこもった質問になった。「彼女はただ嘆き悲しんでいるだけですよね?」
「ほら、少しも痛くなかったでしょう?」と、その医者はしたり顔で、ホリーの腕に脱脂綿の切れ端を軽く当てながら訊ねた。
彼女は我に返ったかのように、しっかりとしたまなざしで、その医者を見つめた。
「全身が痛いの。私のメガネはどこ?」しかしメガネは必要なかった。彼女の目はそのまま自然と閉じていった。
「彼女はただ嘆き悲しんでいるだけですよね?」と、ホセはしつこく聞いた。
「すまないが」その医者は彼に対してかなり無愛想だった。「この患者さんと私の二人だけにしてもらえませんかね」
ホセはリビングルームに引っ込んだのだが、そこで、スパネッラ婦人がつま先立ちで聞き耳を立てている姿を見て、彼は箍(たが)が外れたようにかっとなった。
「私にさわらないで! 警察を呼びますよ」と、彼女が脅し文句を口にしても、彼はひるむことなくポルトガル語で彼女をののしって、ドアの外に追い出した。
彼は僕までも追い出そうと考えた。というか、彼の表情から僕を追い出そうとしているように感じたのだが、考え直したのか、彼は一杯飲みませんかと僕を誘ってきた。割れていないボトルを一つだけ見つけることができた。それはドライ・ベルモットのボトルだった。
「心配なんです」と、彼は心の内を話した。「これがスキャンダルになるのではと心配なんです。彼女はすべてを壊しました。狂ったように暴れました。私はスキャンダルだけは避けなければならないんです。私の仕事はスキャンダルに弱いんです。私の名前にも傷がついてしまいます」
これがスキャンダルになる理由は見当たらないと僕が言うと、彼は元気を取り戻したようだった。自分の所有物を破壊しても、おそらく、それは個人の自由だろう。
「これはただ嘆き悲しんだ結果なんです」と、彼はきっぱりと宣言した。「悲しい知らせが訪れて、まず最初に彼女は飲んでいたお酒のグラスを投げました。それからお酒のボトル、本、電灯を次々と投げました。それで私は怖くなって、急いで医者を連れてきたんです」
「でも、どうして?」と、僕は理由を知りたくて訊ねた。「どうしてラスティーのことで彼女がそんなに怒るんだい? もしも僕が彼女の立場だったら、ラスティーをお祝いしてあげるけどな」
「ラスティー?」
僕はまだ新聞を手に持っていたので、ホセにその見出しを見せた。
「ああ、そのことですか」と、彼は軽くあしらうように歯を見せて笑った。
「私たちはラスティーとマグの二人が結婚して本当に良かったと思っているんです。そのことを知って、私たちは笑ってしまいましたよ。二人は私たちが心を痛めていると思っているでしょうけど、私たちはずっと、あの二人が駆け落ちでもしてくれればいいのに、と思っていたんですよ。実を言うと、ちょうど私たちがそのことで笑っている時に、悲しい知らせが届いたんです」
彼の目は床の上に散らばった紙くずを探していた。それから彼は丸められた黄色い紙を拾い上げた。「これです」と彼は言った。
それはテキサスのチューリップ畑から届いた電報だった。「フレッドが海外で従軍中に戦死したとの知らせあり。君の夫である私も子供たちも、大切な家族を失ったことを悲しんでいる。詳しくは電報の後に手紙を送る。愛している。ドクより」
一度だけ例外はあったけれど、ホリーはもう二度と兄の話をしなくなった。さらに言えば、彼女は僕をフレッドと呼ぶこともやめてしまった。
6月、7月、温かい時期を通して、ホリーは春の訪れも、春が過ぎ去ったことにも気づかない冬眠中の動物のように、ずっと引きこもっていた。彼女の髪は黒い部分が増え、体重も増えていった。彼女は服装にもあまり気を配らなくなった。大きめのレインコートを羽織り、その下には何も身に着けずに、デリカテッセンまで食料品を買いに急ぎ足で通っていた。
ホセが彼女の部屋に引っ越してきて、郵便受けのマグ・ワイルドウッドの名前が彼に名前に変わった。とはいえ、ホリーは大体いつも一人だった。ホセは週に3日、ワシントンに滞在していたからだ。彼がいない間、彼女は誰も部屋に入れなかったし、めったに部屋から出なかった。毎週木曜日だけは、欠かさずシンシン刑務所のあるオシニングまで出掛けていた。
だからといって、彼女が人生に興味を失ったというわけではない。それどころか、彼女は以前にも増して満ち足りているようで、総じて以前より幸せそうだった。ホリーらしくないのだが、突然家事に没頭するようになり、その結果、ホリーらしくない買い物をすることになった。
パーク・バーネット・オークションで、彼女は〈猟犬に追い詰められた鹿〉の描かれた壁掛けを購入した。それから、ウィリアム・ランドルフ・ハーストが所有していたゴシック風の安楽椅子を二つ揃いで購入したのだが、安楽というわりには気分の滅入るような椅子だった。
彼女は『現代叢書』を全巻揃えて、クラシック・レコードを複数の棚がいっぱいになるほど買い集め、メトロポリタン美術館で数え切れないほどの複製美術品を買い漁った。(その中には、まねき猫の彫像も含まれていたのだが、ホリーの猫はそれを忌み嫌い、フーッとうなり声を上げると、結局すぐに壊してしまった。)そして、ウェアリング社製のミキサーと圧力鍋と料理本を何冊も買い揃えた。
彼女は毎日午後になると、狭い台所をせわしなく動き回り、食材をこぼしながら、主婦業に励んでいた。
「ホセがね、私の料理は〈コロニー〉で出されるものより美味しいって言ってくれたの。ほんとに、私にこんなに料理の才能があったなんて、誰も夢にも思わなかったでしょうね。ひと月前まではスクランブルエッグも作れなかったのよ」
彼女はそう言ったが、実際は今でもまだ作れなかった。ステーキや普通のサラダといった簡単な料理は彼女には向いていないようだった。
その代わりに、彼女がホセに作ってあげたものは、時々は僕にも作ってくれたものは、風変わりなスープ(ブランデー漬けの黒ガメのスープをアボカドをくりぬいた中に注いだもの)や、暴君ネロを思わせる斬新な料理(ザクロと柿の実を中に詰めたキジの丸焼き)や、あやしげな珍料理(チョコレートソースをかけたチキンとサフランライス)だった。「東インドの名物料理なのよ、あなた」と言っていた。
スイーツに関しては、戦時中で砂糖とクリームが不足していたために、彼女の料理の発想力は抑えられてしまったのだが、それでも一度、〈タバコ・タピオカ〉なるものをこしらえたことがある。ただ、詳細な説明はしない方がいいだろう。
彼女がポルトガル語を話せるようになろうと試みたことについても詳しくは語らないでおこう。彼女にとっても辛い経験だったと思うが、僕にとっても、それはうんざりするような経験だった。というのも、彼女の部屋を訪れると、いつでもレコードプレーヤーの上でリンガフォン(語学教材)のレコードが回っていて、ポルトガル語が延々と流れていたのだから。
彼女は何かと言うと、「私たちが結婚したら」とか、「私たちがリオに引っ越したら」と言っていたが、ホセはまだ彼女に結婚を申し込んではいなかったし、彼女もそれは認めた。
「でも、結局、彼は私が妊娠していることを知っているのよ。そうよ、私、妊娠してるのよ、ダーリン。だって、6週間も生理が来ないんですもの。なぜあなたがそんなに驚くのかわからないわ。私は驚かなかったわ。ほんの少しもよ。むしろ嬉しかったの。子供は少なくとも9人は欲しいわ。きっと何人かは黒っぽい子が生まれるわ。だって、ホセってちょっぴり黒みがかってるじゃない、ねえ、あなたもそう思うでしょ? それは私が望んでいることなの。明るい緑色の綺麗な目をした黒人の赤ん坊ほど美しいものはないわ。笑わないで聞いてほしいんだけど、私ね、彼のために、ホセのためにね、処女だったらよかったなって思うの。私がもの凄くたくさんの男と寝てきたって言う人もいるけど、それは違うのよ。そういうことを言うやつらを非難することもできないんだけどね。私自身がいつも、そういう派手なことばかり言ってきたから。本当よ。この前、夜中に数えてみたんだけど、今までに付き合った恋人は、たったの11人だったわ。13歳より前の話は人数に入れてないわよ。だってそんな付き合い、数に入らないでしょ。11人よ。それだけで、私は娼婦になるかしら? マグ・ワイルドウッドを見てごらんなさいよ。ハニー・タッカーやローズ・エレン・ウォードを見てみなさいよ。彼女たちは手のひらをパチンと叩くみたいに、男をとっかえひっかえしてるから、今ではパチパチって拍手喝采みたいにもの凄い人数になってるわ。もちろん、娼婦に対して文句はないのよ。ただね、これだけは言いたいの。口では正直そうなことを言う娼婦もいるけど、彼女たちはみんな心の中では正直じゃないのよ。つまりね、男と寝て、お金をもらっておいて、その男を、少なくとも好きになろうともしないなんて、おかしいと思うの。私はそういう気持ちなしで男と寝たことはないわ。ベニー・シャクレットも、他の嫌なやつらもみんな好きになろうとしてきたのよ。一種の自己催眠をかけるのよ。あのほんとに嫌な連中にもそれなりに魅力があるんだって思い込むの。実際のところ、ドクを除いては、あなたがドクを数に入れたいのならドク以外では、ホセが私にとって最初の偽りのないロマンスの相手なのよ。まあ、彼が私の理想の相手だっていうわけでもないんだけどね。彼は小さな嘘をつくし、周りの人がどう思うかを気にするし、1日に50回もシャワーを浴びるし、男の人はいくらか匂っていた方がいいと思うけどね。彼は潔癖すぎるし、私の理想の男としては、びくびくしすぎているわ。彼って、いつも背中を向けて服を脱ぐのよ。食事の時はくちゃくちゃうるさいし、それから、彼が走っているところを見るのは好きじゃないわ。走ってる時の彼ってね、可笑しな顔してるのよ。もしも生きている男の中から誰でも好きに選んでいいなら、指をパチンと鳴らして、こっちへいらっしゃいって呼び寄せてもいいのなら、私はホセは選ばないわね。インドのネルー首相とか、私の理想に近いわね。ウェンデル・ウィルキーも悪くないわね。女優のガルボとなら、私はいつでも一緒になるわ。変かしら? 相手が男だろうと女だろうと、自由に結婚できるべきよ。ねえ、聞いて、もしあなたが競走馬のマンノウォーと結婚したいと言い出しても、私はあなたの気持ちを尊重するわ。真面目に言っているのよ。愛は、どんな愛でも許されるべきなのよ。私は心からそう思うわ。今やっと、愛がどんなものなのか、はっきりとわかったの。だって私、ほんとにホセを愛しているのよ。もし彼にタバコをやめてほしいと言われたら、やめてもいいわ。彼は凄く優しいのよ、あの嫌な赤色の気分を笑って吹き飛ばしてくれるの。といっても、前ほどはそういう気分になることもなくなったんだけどね。たまによ、今でもたまになるんだけど、それでも、前みたいに鎮静剤のセコナールを飲んだり、自分の体を引きずるようにティファニーに行ったりするほど、ひどいことにはならないわ。彼のスーツをクリーニングに出したり、キノコ料理を作ったりすれば、気が晴れて、それだけで満ち足りた気持ちになるの。あとね、星占いの本も捨ててしまったわ。全く馬鹿らしかったわ、プラネタリウムの星の数と同じくらいのお金を星占いにつぎ込んできたのよ。つまらない答えだけど、結局、善い行いをすれば、善いことが起こるってことなのよ。善い行いというか、つまり、正直でいるってことね。法律的に正直でいるということではないのよ。私はお墓を掘り返して、死体の目の上に載っている25セント硬貨を盗むことだってあるでしょう。それでその日が楽しくなると思えば、そうするでしょうね。そういうことではなくて、自分自身に正直であるかどうかが重要なのよ。卑怯者や、詐欺師や、人の気持ちをだます人や、娼婦、そういったものにならなければ、あとは正直でいさえすればいいの。心が正直でなくなるくらいなら、癌になった方がましだわ。信心ぶるってことではないのよ。もっと現実的な問題なの。癌になると助からないかもしれないわね。でもね、不正直な人は絶対に救われないのよ。ああ、そろそろ、この話はやめましょう。あなた、私のギターを取ってちょうだい。最高に完璧なポルトガル語で、あなたにファドを歌ってあげるわ」
季節は巡り、夏が終わって、再び秋が訪れようとしていたが、その辺りの数週間のことは記憶の中でかすんでいる。おそらく、言葉でよりも沈黙で意思疎通をすることが日常的になるほどに、僕たちは甘く親密な関係まで、お互いの理解を深めたということだろう。一緒にいても緊張しなくなり、落ち着きのないお喋りもなくなり、友情をもっと華やかにして、表面的な意味で、さらにドラマチックな瞬間を生み出そうというような気ぜわしさもなくなり、それらに取って代わるようにして、優しく親密な静けさが訪れたのだ。
頻繁に、といっても彼が街の外に出掛けている時に限るが、(僕は彼に対して敵対心を抱くようになり、めったに彼の名前を口にすることはなくなっていた。)僕とホリーは夕方から夜までずっと一緒に過ごした。その間、僕らは百の言葉も交わさなかった。
一度、僕らはチャイナタウンまで延々と歩いた。そこで夕食にチャーメンを食べて、紙のちょうちんをいくつか買い、線香をひと箱万引きし、それから、ぶらぶらとブルックリン・ブリッジを歩いて渡った。橋の上から海に向かって進む船を眺めていた。燃え上がるように明かりのともった高層ビル群の間を何隻かの船が通り抜けていった。
彼女は言った。「ずっと先のことだけど、いつか何年も何年も経ったらね、あの船のどれかに乗って、私はここに戻ってくるのよ。私と、9人のブラジル人の子供たちと一緒にね。だって、そうよ、その子たちにこの景色を見せてあげなくちゃ。この光、この川。私はニューヨークが大好きだわ。この街は私のものではないけれど、でもね、街路樹や大通りや家や、とにかく、そういうものは当然、私の一部になっているはずよ。だって私もニューヨークの一部なんですもの」
そこで僕は言った。「黙ってくれないか」
僕は一人取り残されたようで腹が立ったのだ。港のドックにぽつんと残されたタグボートのような気持ちだった。そして、彼女は行き先の約束された豪華客船に乗って出港していくのだ。汽笛が鳴り響き、空中に紙テープが舞っている中を。
そんな風に日々が過ぎていった。彼女との終わりつつある日々は、僕の記憶の中で、ぼんやりと靄(もや)がかかり、すべてが秋の落ち葉のように風に舞っている。そして、僕が今までに経験したどんな一日とも違う、あの日が巡ってきた。
その日は9月30日で、偶然にも僕の誕生日だったのだが、だからといって、その日に降りかかってきた一連の出来事に僕の誕生日が関与しているわけではない。僕はただ、家族からお祝いのお金か何かが届くのではないかと、午前中にやってくる郵便配達員を心待ちにしていた。実際、僕は階段を降りて、郵便配達員を待っていた。
もし僕がそうやって玄関をうろうろしていなかったら、ホリーに乗馬に誘われることもなかっただろう。ということは、彼女が僕の命を救ってくれる、なんてことにもならなかっただろう。
「ねえ行こうよ」と、彼女は郵便配達員を待っている僕を見て声をかけてきた。「馬に乗って、公園をゆっくり回りましょうよ」
彼女はウィンドブレーカーを着て、ブルージーンズにテニスシューズという格好だった。彼女はまだお腹が平らであることを示すように、ぽんぽんとお腹を叩いた。
「お腹の子供を流産させるために乗馬に行くなんて思わないでね。そういうことじゃなくて、メイベル・ミネルバっていう私の大好きな馬がいるのよ。年を取った馬だし、メイベル・ミネルバにさよならも言わずにブラジルには行けないわ」
「さよなら?」
「来週の土曜日なんだけどね。ホセがチケットを買ってくれたのよ」
やや現実感が薄れていく中で、僕は彼女に導かれるままに通りに出た。
「私たちはマイアミで飛行機を乗り継ぐの。それから海を越えて、アンデス山脈を越えるのよ。タクシー!」
アンデス山脈を越えるのか。タクシーに乗って、セントラル・パークを通り過ぎている間、なんだか僕も飛んでいる気分になった。頂上に雪の積もった危険地帯の上空を僕は一人きりでふらふらと飛んでいた。
「でも、そんなのだめだよ。だって、そんなことしてどうするんだよ。なんていうか、そんなの。みんなを残して逃げるみたいに行っちゃうなんて、そんなのほんとにだめだよ」
「私がいなくなっても誰も寂しがらないと思うわ。私には友達なんていないんだから」
「僕がいるじゃないか。君がいなくなると僕が寂しい。ジョー・ベルだってきっとそうだよ。他にも、そういう人はいっぱいいるよ。ほら、サリー・トマトさんも悲しむよ」
「サリーおじさんのことは大好きだったわ」と彼女は言って、ため息をついた。「あなたは気づいてるかしら? 私はもう1ヶ月も彼に会いに行っていないのよ。私はここを離れることになったって彼に話したの。彼は天使のように優しかったわ。本当に」そこで彼女は眉をひそめた。「私がこの国を離れるって言ったら、彼は喜んでいるみたいだったわ。それが一番いいって彼は言ってくれた。遅かれ早かれ、問題になるだろうからって。私が彼の本当の姪じゃないってことがばれたらね。あの太った弁護士のオショーネシーの話を前にしたでしょ、そのオショーネシーが500ドルを送ってきたの。現金でよ。サリーからの結婚祝いだって」
僕は嫌味の一つでも言ってやりたくなった。「僕からの結婚祝いも楽しみにしていてね。もしも、本当に彼と結婚できるのならね」
彼女は笑った。「彼はちゃんと結婚してくれるわ。教会で式を挙げるの。彼の親族が来てくれることになっていてね。だから、私たちはリオに行くまで結婚式を挙げないのよ」
「君がすでに結婚しているってことを彼は知ってるの?」
「ちょっとあなたどうしたっていうの? 今日という日を台無しにするつもり? せっかくこんなに晴れて気持ちのいい日なのに。そんな話はよしてちょうだい!」
「でも、君が結婚している可能性はかなり高いと思うけど…」
「あり得ないわ。言ったでしょ、あれは法的な結婚じゃないのよ。全くあり得ない」
彼女は鼻をこすってから、横目で僕をにらむように見てきた。
「そのことを生きてる誰かに言ってごらんなさい、ダーリン。そしたら、あなたをつま先からぶらさげて、体をバラして豚の餌にしてやるわ」
厩舎(きゅうしゃ)は、(今ではテレビスタジオになっていると思うが、)ウェストサイドの66丁目にあった。ホリーは背中が湾曲した年老いた黒と白の雌馬を僕に選んでくれた。
「心配いらないわ、彼女の背中はゆりかごより安全なのよ」
その言葉は僕が安心感を得るのに必要な言葉だった。というのも、子供の頃、お祭りで10セントを出してポニーに乗ったことが僕の唯一の乗馬体験だったからだ。
ホリーは僕が鞍(くら)にまたがるのを手助けしてくれた。それから彼女は銀白色の馬に乗り、僕を先導するように歩き出した。僕らは車の往来するセントラルパークの西側の通りを並足で横切った。そして、落ち葉でまだら模様に覆われた乗馬道に入った。そよ風が吹き落とした木の葉が辺りを舞っている。
「わかったでしょ?」と彼女は叫んだ。「気持ちいいわ!」
そして急に僕も夢見心地になった。落ち葉の赤や黄色の光の中で、ホリーの髪のいろんな色がゆらめいているのを見ていたら、突然、彼女が愛おしくなった。僕自身のことなど、自分を哀れむような絶望感など忘れて、彼女が幸せだと思う結婚が、もうすぐ彼女に訪れようとしている、それだけで僕は満足だった。
徐々に僕らの乗る馬は早足になった。風が波のように打ち寄せてきて、僕らの顔に水しぶきのように風が当たる。僕らは日向と日陰のプールを出たり入ったりした。
そして喜びが、生きているだけでいいという興奮が、破裂する小さなダイナマイトのように僕の体を揺さぶった。
でもそれはつかの間の至福だった。次の瞬間には、悲劇の仮面をかぶった喜劇が待ち構えていた。
突然のことだった。ジャングルで待ち伏せしていた未開民族のように、黒人の少年の一団が道端の低木の植え込みの中から飛び出してきたのだ。野次を飛ばし、悪態をつきながら、彼らはこちらに石を投げ、細い木の枝で僕の乗る馬の尻を叩いてきた。僕が乗っていた黒と白の雌馬は後ろ足で立ち上がると、ヒヒーンといななき、綱渡りをする曲芸師のようにぐらつき、それから青い稲妻のごとく道を駆け出した。その衝撃で僕の両足はあぶみから外れ、体が宙に浮きそうになった。
馬の蹄(ひづめ)が地面の砂利を蹴散らし、火花が散った。空が傾きながら流れていった。木々や、少年たちが模型のヨットを浮かべている池や、道端に建つ彫像が、もの凄い勢いで過ぎ去っていった。
猛然と近づいてくる馬を見て、子守りをしていた女たちが慌てて子供たちに駆け寄り、道端によけさせた。男たちや、浮浪者や、いろんな人たちが叫んでいた。「手綱を引け!」とか、「どうどう!」とか、「飛び降りろ!」とか。
そういう周りの声を思い出したのは、後になってからだった。その時の僕は、ただホリーだけを意識していた。彼女がカウボーイのように馬を走らせ、僕を追ってくるのがわかった。なかなか追いつくことはできなかったが、後ろから大声で何度も何度も僕を励ましてくれた。
さらに先へ進み、馬は公園を横切り、5番街に飛び出した。お昼時で交通量が多く、行き交うタクシーやバスが一斉にキーと音を立てて脇に逸れた。デューク・マンションを過ぎ、フリック美術館の横を駆け抜け、ピエール・ホテルとプラザ・ホテルも通り過ぎた。
ついにホリーの馬が僕の馬に追いついた。さらに、一人の騎馬警官もその追跡に加わって、僕の暴走する馬を二頭の馬で両脇から挟み込んだ。そうしてとうとう、僕の馬は体から湯気を立てながら足を止めた。それから、僕はやっとの思いで手を離し、馬の背中からずり落ちた。
地面に転げ落ちた僕は自力で立ち上がったものの、自分がいったいどこにいるのかもわからないまま、そこに突っ立っていた。周りに人だかりができていた。その警官はむっとしながら手帳に書き込みをしていたが、やがて僕に同情してくれたようで、歯を見せて笑うと、僕たちの馬は厩舎に戻すように手配しておくと言ってくれた。
ホリーがタクシーを停めて、二人で乗り込んだ。「ダーリン。気分はどう?」
「いい気分だよ」
「でもあなた、脈が全然ないわよ」と、彼女は僕の手首に触れながら言った。
「じゃあ、僕はもう死んでいるんだね」
「ちょっと、馬鹿言わないで。真面目な話なのよ。私を見て」
困ったことに、彼女の顔がよく見えなかった。というよりも、ホリーの顔が三重に重なって見えた。彼女の汗にまみれた顔は青ざめ、心配そうに僕を見ていた。僕はそんな彼女に感激しながらも、なんだか気恥ずかしかった。
「正直言って、なんともないんだよ。ただ恥ずかしいだけで」
「ほんとになんともないの? お願い、正直に言ってちょうだい。あなたは死ぬかもしれなかったのよ」
「でも僕は死んでないよ。ありがとう。僕の命を救ってくれて。君は素晴らしいよ。特別な人だ。僕は君を愛してる」
「もう馬鹿ね」彼女は僕の頬にキスをした。すると彼女の顔が四重になって、そのまま僕は死んだように気を失ってしまった。
その日の夕方、ホリーの写真が『ジャーナル・アメリカン』の夕刊の一面に載った。翌日の朝刊では、『デイリー・ニュース』と『デイリー・ミラー』の両紙も彼女の写真を一面に掲載した。
その記事は暴走した馬とは何の関係もなかった。それは全く別の件に関するもので、次のような見出しが目に飛び込んできた。「プレイガール、麻薬スキャンダルで逮捕」(ジャーナル・アメリカン)、「麻薬運び屋の女優が逮捕される」(デイリー・ニュース)、「麻薬組織が摘発され、魅惑の美女が捕まる」(デイリー・ミラー)。
それらの中で、『デイリー・ニュース』が最も人目を引く写真を掲載していた。ホリーが二人の大柄な警官に両腕をつかまれ、警察本部に入っていく姿が写っている。両脇の警官は一人が男性で、もう一人は女性だった。
こんな惨めな状況では、彼女の服装さえもが、(ホリーはまだ乗馬用の格好で、ウィンドブレーカーとブルージーンズ姿だったのだが、)彼女をギャングの情婦みたいに見せていた。サングラスも、乱れた髪も、むっつりした口元から落ちそうにくわえているピカユーンのタバコも、そんなちんぴらみたいな印象を弱めてはいなかった。
その写真の下にはこう書かれていた。「20歳のホリー・ゴライトリーは、美しき新進女優にしてナイトクラブの花としても有名だが、ギャングのサルバトーレ・サリー・トマトが絡む国際的な麻薬の密輸及び密売事件の重要人物として、地検に嫌疑をかけられた。パトリック・コナー刑事とシーラ・フェツォネッティ刑事(写真左と右)が彼女を67分署に連行している。三面の詳細記事を参照せよ」
三面を開くと、オリバー・ファーザー・オショーネシーと名指しされた(ソフト帽で顔を隠している)男の写真が大きく載っていた。その記事は三段に渡る長いもので、ある程度省略するが、ホリーに関連する部分は次のような内容だった。
「ナイトクラブの常連客たちは今日、魅惑の美女ホリー・ゴライトリーの逮捕を受けて驚きを隠せずにいた。20歳の彼女はハリウッドで将来を嘱望(しょくぼう)された若手女優で、ニューヨークのナイトクラブ界隈では広く名前を知られている。同時に警察は午後2時、オリバー・オショーネシー(52歳)を逮捕した。彼は西49丁目通りのホテル・シーボードに長期滞在しており、マディソン・アベニューのハンバーグ・ヘブンから出てきたところを取り押さえられた。二人は地方検事フランク・L・ドノバンの申し立てにより、国際的な麻薬密輸組織の重要人物として嫌疑をかけられた。その組織を指揮していたのは悪名高きマフィアの総統サルバトーレ・サリー・トマトで、彼は現在、政治家への贈賄の罪により、シンシン刑務所で5年の刑に服している...
オショーネシーは、犯罪仲間の間ではファーザーやパードレなど様々な名前で知られている元聖職者で、複数の前科があるのだが、最初の犯罪歴は1934年まで遡り、ロード・アイランド州で〈修道院〉という名前の偽の精神病院を経営した罪で、2年の刑に服した。
ミス・ゴライトリーに前科はなく、彼女は上品なイーストサイド地区に建つ豪華なアパートの自室で逮捕された...
今のところ、地方検事局は正式な声明を何ら出していないが、確かな情報筋によると、この金髪の美しい女優は、少し前まで大富豪のラザフォード・トローラーと親密な関係にあり、服役中のトマトと、彼の第一の補佐役であるオショーネシーとの間の、いわば連絡係を務めていた...
ミス・ゴライトリーはトマトの親戚を装い、シンシン刑務所を毎週訪れていたと言われている。そして、面会の際にトマトは彼女に口頭で暗号文を伝え、それを彼女がオショーネシーに伝えていた。
トマトは1874年生まれで、シチリア島のチェファル出身らしいが、彼はこの連絡網を通して、メキシコ、キューバ、シチリア島、タンジール、テレラン、ダカールといった世界中に散らばる麻薬シンジケートの拠点に向けて、直接指示を出し続けることができた。しかし、地方検事局はこれらの嫌疑について詳細を述べることを拒否し、まだ嫌疑の立証も始めていない...
逮捕の情報を聞きつけた多くの記者たちが東67分署に押し寄せ、告発された二人が取り調べのために到着するのを待ち構えていた。オショーネシーは大柄な赤毛の男だったが、彼はコメントを拒み、一人のカメラマンの股間を蹴り上げた。
一方、ミス・ゴライトリーは華奢(きゃしゃ)な体で、ひときわ目を引く美人であり、スラックスに革のジャケットという少年のような服装だったが、彼女は比較的平然としていた。
『これがいったいどういうことなのか、私に聞かないでちょうだい』と、彼女は記者たちに言った。それから彼女は、『だって私にもわかりませんのよ、みなさん』とフランス語で言ってみせた。『そうよ、私はサリー・トマトさんに面会に行っていました。毎週彼に会いに行っていましたよ。それのどこがいけないのかしら? 彼は神を信じているし、私も同じよ』...」
それから、「自らの薬物依存を認める」という小見出しの下にはこう書かれていた。
「あなた自身は麻薬の常用者なのかと記者に訊ねられると、ミス・ゴライトリーは微笑んだ。『マリファナならちょっと吸ってみたことがあるわ。ブランデーの半分も害がないのよ。しかも安いし。でも残念ながら、私はブランデーの方が好きだわ。いいえ、トマトさんから薬物の話を聞いたことは一度もありません。彼を責め立てるひどい人たちに対して、私は激しく怒りを覚えます。彼は思いやりがあって、信仰心の厚い、素敵なおじいさんなのよ』」
この記事には特に大きな間違いが一つあった。彼女は「豪華なアパートの自室」で逮捕されたわけではなかった。それは僕の部屋の浴室で起こったことなのだ。僕は熱湯にエプソム塩を入れた浴槽に浸かって、乗馬の痛みを癒していた。ホリーは気の利く看護婦のように浴槽のへりに座って、スローンの塗り薬を手に持ち、僕がお風呂から上がるのを待っていた。彼女は塗り薬を僕の体にすり込んでから、僕をベッドに寝かしつけようとしていたのだ。
僕の部屋のドアがノックされた。ドアには鍵がかかっていなかったので、ホリーは「入って」と声を上げた。
入ってきたのはサフィア・スパネッラ婦人で、彼女の後ろには二人の私服警官がいた。そのうちの一人は女性で、黄色い髪を太めの三つ編みに編んで、頭に巻きつけていた。
「ほら、ここにいますよ。お尋ね者の女が!」と、スパネッラ婦人は声高に言って、浴室に入ってくると、まずホリーを指差し、それから僕の裸体に向かって指を差してきた。「ほら見なさい。なんてふしだらな女なの」
男性刑事はスパネッラ婦人の発言を聞き、その状況に戸惑っているようだったが、女性刑事のほうは毅然と対処することを楽しむような顔をしていた。彼女はホリーの肩にぽんと手を載せると、驚くほど子供っぽい可愛らしい声で言った。「さあ、行きましょう、おねえさん。行くところがあるのよ」
すると、ホリーが彼女に冷たく言い放った。「そのいまいましい手を肩からどかしてちょうだい。あなた、つまらない女ね、いい歳して、よだれを垂らしてるみたいな声出して、このレズ女」
それを聞いて、その女性はかっとなり、ホリーの頬をもの凄い勢いで、ぴしゃりと叩いた。その勢いで、ホリーの首がねじれ、手に持っていた塗り薬の瓶が吹き飛び、タイルの床に落ちて粉々に割れた。僕は慌てて浴槽から飛び出し、瓶の破片を踏みつけて、騒ぎを大きくしてしまった。僕は両足の親指をあやうく切断するところだった。
僕は素っ裸のまま、血だらけの足跡を床につけながら、事の成り行きを見届けようと廊下までついていった。
「忘れないで」と、ホリーは二人の刑事に背中を押されるように階段を下りながら、なんとか僕の方に振り返って言った。「お願い、猫に餌をあげてちょうだい」
当然、僕はスパネッラ婦人が何らかの苦情を申し立てたのだろうと思って疑わなかった。彼女はそれまでも何度か警察にホリーに関する苦情を訴えていたからだ。この一件がそんなに恐ろしい次元の話だとは、夕方になってジョー・ベルが新聞を振り回しながら、僕の部屋にやってくるまでは思ってもみなかった。
彼はひどく動揺していて、まともに喋れない状態だった。それで僕がその記事を読んでいる間、彼は両手のこぶしを打ち合わせながら、部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。
それから彼は言った。「その記事、本当だと思うか? 彼女はそんな、ろくでもない犯罪に関わっていたのか?」
「まあ、本当のことだね」
彼はタムズ胃腸薬を口に放り込むと、僕をにらみつけながら、まるで僕の骨を嚙み砕いているみたいに、それを嚙んだ。
「おい、見損なったぞ。お前は彼女の友達じゃなかったのか? なんてひどいやつだ!」
「ちょっと待って。なにも彼女がそうと知りつつ、そんなことに関わっていたとは言ってないよ。彼女は知らなかったんだ。でも関わった。知らずにそうしていたんだよ。メッセージを運んで、手を貸すことになった...」
彼は言った。「よくそんなに冷静でいられるな。いいか、彼女は10年むしょ暮らしになるかもしれないんだぞ。もっと長いかもな」彼は僕から新聞をひったくった。「君は彼女の友人たちを知ってるだろ。金持ち連中だよ。これから一緒に俺の店まで来てくれ。そいつらに電話をかけるんだよ。俺たちの姫は、俺には雇えないような金のかかるまともな弁護士が必要になるだろうからな」
全身がひりひり痛く、ぶるぶる震えて、僕は自力で着替えることができずに、ジョー・ベルに手を貸してもらわなければならなかった。
店に着くと、彼は電話ボックスに僕を立たせ、マティーニを大グラスに注いで持ってきた。それと、小銭がいっぱい入ったブランデーグラスも押しつけてきた。でも僕は誰に連絡したらいいのか思いつかなかった。
ホセはワシントンだし、ワシントンのどこに電話すれば、彼と連絡を取れるのかなんて知るよしもない。ラスティー・トローラー? あんな奴に連絡したらだめだ!とはいえ、他に僕が知ってる彼女の友達は誰がいる? ひょっとしたら彼女が、友達なんて一人もいないわ、と言っていたのは本当のことだったのかもしれない。
僕は長距離番号案内で、O.J.バーマンの番号を教えてもらい、ビバリーヒルズのクレストビューの5-6958に電話をかけた。
電話に出た人が、ミスター・バーマンは今マッサージ中で声をかけられないから、悪いけど、また後でかけ直してほしい、と言った。
ジョー・ベルは激怒して、どうして生死に関わることだと言わないんだと僕を責めた。そして、ラスティーに電話をかけてみろと僕に言ってきた。
最初に電話に出たのはミスター・トローラーの執事だった。彼が言うには、トローラー夫妻はただ今夕食を取っておられますので、伝言を承ります、とのことだった。僕の横にいたジョー・ベルが受話器に向かって叫んだ。「これは緊急なんだよ、ミスター。生死に関わるんだ」
そうして、かつてマグ・ワイルドウッドだった女性が電話口に出てきて、僕は彼女と話すことになった。というか、彼女の発言をただ聞くことになった。
「あなた気でも狂ったの?」と、彼女は強い口調で言った。「夫と私は、私たちの名前と、あのむ、む、むかつく、だ、だ、堕落女とを結びつけようとする人は誰であっても、断固として訴えるわよ。彼女が盛りのついた雌犬みたいに道徳心の欠片も持ち合わせていない、ま、麻薬中毒者だってことくらい、初めからわかっていたのよ。牢屋が彼女にはお似合いだわ。私の夫も千パーセント同じ意見よ。私たちは相手が誰でも確実に訴えるわ...」
電話を切ると、僕はテキサスのチューリップ畑の辺りに住むドクのことを思い出した。でも、それはだめだ。ホリーはそんなことを望まないだろう。もし彼に電話したら、僕は彼女に本気で殺されてしまう。
僕はもう一度カリフォルニアに電話をかけてみたが、回線が混んでいてなかなか繋がらなかった。何度もかけ直したが、話し中は続いた。
O.J.バーマンがやっと電話口に出た時には、僕はすでにマティーニのグラスを何杯も空にしていて、僕が彼に電話をかけた理由を、彼から教えてもらわなければならなかった。
「あの子のことだろう? そのことなら知ってるよ。すでにイギー・フィテルスタインに頼んである。イギーはニューヨークで一番の敏腕弁護士だ。イギーにはこう言ってある。穏便に済ませてくれ。請求書は俺宛に送ってくれればいいが、俺の名前は表に出すなってな。まあ、俺はあの子に借りのようなものがあるんだよ。具体的に何かを借りたってわけじゃないんだ。結局、君もそうしたくなるよ。あの子はいかれてるし、まやかしだ。でも、本物のまやかしなんだよ。わかるだろう? とにかく、1万ドルの保釈金が支払われるまで拘留されているだけだ。心配しなくていい。イギーは今夜にもあの子を釈放させる。もう今頃、あの子が部屋に戻っていたとしても俺は驚かないよ」
しかし、ホリーは夜になっても帰ってこなかった。翌朝、猫に餌をあげようと彼女の部屋に行ってみたが、彼女はまだ戻っていなかった。彼女の部屋の鍵を持っていなかったので、僕は非常階段を使って、窓から彼女の寝室に入り込んだ。
猫は寝室にいた。そして、そこには猫以外にも、一人の男がいたのだ。なにやらスーツケースの上に屈み込んでいる。僕たちは二人ともお互いのことを泥棒だと思い、怪訝(けげん)な目で見つめ合った。僕は窓から寝室に足を踏み入れたところだった。
彼は端正な顔をしていて、髪にもつやがあり、ホセに似ていた。その上、彼が荷造りしているスーツケースの中には、ホセがホリーの部屋に置いていた衣類が入っていた。その見覚えがある靴やスーツを、彼女はいつも大慌てで修理屋やクリーニング屋に持ち運んでいた。
それで僕は、そういうことかと思いつつ聞いた。「イバラ・イェーガーさんに頼まれたんですね?」
「私は従兄弟です」と、彼は用心深い笑みを浮かべながら、かろうじて理解できるアクセントで言った。
「ホセは今どこにいるんですか?」
彼は頭の中で別の言語に訳そうとしているかのように、僕の質問をおうむ返しに繰り返した。
「ああ、彼女がどこにいるかってことですね! 彼女は待っています」そう言うと、彼は僕のことなどお構いなく、再びホセに命じられた作業に取り掛かった。
なるほど、あの外交官は逃げようとしているのだ。まあ、僕は驚かなかったし、ほんの少しも残念に思わなかった。それでも、ホリーの心を踏みにじる行為だとは思った。
「彼は馬の鞭で打たれるべきだね」
その従兄弟はくすくす笑ったので、僕の言いたいことが伝わったらしい。彼はスーツケースを閉じると、手紙を差し出してきた。
「私の従兄弟は、これをこの友達の部屋に置いてくるように私に頼みました。あなたに頼んでもいいですか?」
封筒にはこう走り書きしてあった。「ミス・H・ゴライトリー様。使いの者に託す」
僕はホリーのベッドに腰を下ろすと、ホリーの猫を膝の上に乗せて抱き締めた。そして、ホリーをかわいそうに思い、彼女が感じるはずの悲しみを僕はひとしきり嚙み締めた。
「わかりました。僕が渡しておきます」
そして僕は彼女にそれを渡した。内心は少しも渡したくなかったのだけれど、手紙をそのまま破り捨ててしまうような勇気はなかったし、ホリーが、ひょっとしてあなた、ホセのこと何か知ってる?と、とてもためらいがちに聞いてきた時に、ポケットに手紙をしまい込んだまま黙っていられるほどの意志の強さも僕にはなかった。
その機会は二日後の午前中に訪れた。消毒薬とおまるの臭いが漂う病室で、僕は彼女のベッド脇に座っていた。逮捕された日の夜からずっと彼女はそこにいたらしい。
ピカユーンのタバコのカートンボックスと、秋に咲くスミレの花輪を持って、そっと彼女のベッドに近づくと、「あら、ダーリン」と言って、彼女は僕を歓迎してくれた。「お腹の子供を亡くしてしまったの」
彼女は12歳にもなっていない子供のように見えた。淡いバニラ色の髪は後ろでしっかり束ねられ、さすがにサングラスはかけておらず、彼女の目は雨水みたいに透明だった。一見すると、それほど具合が悪いようには見えなかった。
でも実際、彼女の具合はかなり悪かった。「まったくもう、私は死ぬところだったのよ。冗談抜きで、あの太った女に殺されそうになったんだから。あの女が嵐のようにぺちゃくちゃ喋りまくっていたの。あの太った女のことはまだ話してなかったわよね。兄が死ぬまでは、私自身もそんな女の存在には気づいていなかったのよ。彼が死んだことをすぐには理解できなかった。フレッドはどこへ行ったのか、彼が死んだっていうのはどういうことなのか、私は理解できずに途方に暮れていた。そんな時に、あの女を見たのよ。あの女が私の部屋にいて、私のすぐそばで、フレッドを腕に抱えてあやしていた。あの太った嫌な赤色をした女がロッキングチェアに座って、フレッドを膝に載せて椅子を揺すりながら、金管楽器を吹くみたいに笑っていたの。まったく馬鹿にしてるわ!でもね、私たちの前には、あなたの前にも突然訪れるのよ。こういうピエロみたいな女が、私やあなたをあざ笑ってやろうと待ち構えているの。これでわかったでしょ? あの女のせいで私はおかしくなって、部屋の中をめちゃくちゃにしたのよ」
O.J.バーマンが雇った弁護士以外では、僕だけが彼女との面会を許されていた。彼女の病室には他にも入院患者がいた。彼女たちは三つ子のようにそっくりな三人組で、不親切な感じは受けなかったが、僕のことをじろじろと品定めするように見ては、何やらひそひそとイタリア語で話し合っていた。
「彼女たちはあなたが私の元凶だと思っているのよ、ダーリン。私にこんな辛い思いをさせた男だって」と、ホリーは説明してくれた。
それなら事情をちゃんと説明したらどうだろうかと提案してみたが、彼女は、「そんなことできないわ。彼女たちは英語が喋れないのよ。それに、せっかく彼女たちがあれこれ人のことを詮索して楽しんでるのに、そんなことしたら台無しじゃない」と答えた。
彼女がホセのことを聞いてきたのはその時だった。その手紙を見た瞬間に彼女は目を細め、唇を曲げて小さな笑みを作ったが、それはどことなく険しい微笑みで、彼女の年齢が一気に高まった気がした。
「ダーリン」と、彼女は僕に指図した。「そこの引き出しから、私のハンドバッグを取ってちょうだい。女の子が口紅も塗らないで、こういう手紙を読むわけにはいかないわ」
コンパクトの鏡を見ながら、彼女はおしろいをパタパタはたいて、12歳の少女の面影をすっかり覆い隠してしまった。彼女はチューブ型の口紅で唇の形を整えると、別のチューブを手に取って、頬に色をつけた。それから、ペンシル型のアイライナーで目元にラインを引き、まぶたを青っぽくして、4711のオーデコロンを襟元に振りかけた。両耳に真珠のイヤリングをつけ、サングラスもかけた。そんな風に身だしなみを整え、指をかざし、はげかかったマニキュアを見つめて落胆した後、彼女は手紙の封をびりっと切った。
そして、無表情に近い微笑みを浮かべながら、彼女は手紙の文面に目を走らせた。読み進むにつれて、そんな小さな微笑みも徐々に消え、表情がこわばっていった。
やがて彼女はピカユーンのタバコが欲しいと言った。タバコの煙を吐き出すと、「ひどい味ね。でも最高だわ」と言って、彼女は僕に手紙をぽいと渡してきた。「たぶんその手紙、つまらないロマンス小説でも書く時に使えるわよ。一人で黙って読んでないで、声に出して読んでちょうだい。自分の耳で聞いてみたいのよ」
その手紙はこう始まっていた。「いとしい君へ...」
ホリーはすぐに僕が読むのを遮って、彼の筆跡についてどう思うか聞いてきた。
特に何とも思わなかったので、しっかりとしていて、とても読みやすいし、風変わりな感じもない字だね、と答えた。
「まさに彼そのものだわ。ボタンをきっちり上までとめて、息がつまりそうな感じ」と、彼女は打ち明けるように言った。「続けて」
「いとしい君へ。君が他の人とは違っていることを知りつつも、私は君を愛していた。でも、私の絶望も想像してみてほしい。私のような信条と仕事を持つ男が、妻にしたいと望む女性からは、かけ離れた野蛮な行動を君がしていたと公になって、それを知った時の私の気持ちを想像してほしい。君が今置かれている状況を思うと、私もとても辛い。君が浴びせられている非難に上乗せして、私も君を責めようという気持ちは少しもない。だから君も、できれば私を責めようという気持ちにはならないでほしい。私は自分の家柄や名前を守らなければならない。そういった世間の評判が絡んでくると、私は卑怯者になる。私のことは忘れてほしい。美しい君。私はもうここにはいない。故郷に帰るよ。でも心では、いつでも君と君の子供に神のご加護があることを祈っている。特別な神のお慈悲を君に。-ホセ」
「どう思う?」
「ある意味、とても正直だね。胸にぐっと迫ってきたよ」
「ぐっと迫る? そんなの馬鹿げたたわごとよ!」
「だってさ、彼は自分のことを卑怯者だと言ってるわけだし、彼の立場に立ってみれば、彼の気持ちもわかるんじゃないかな...」
しかし、ホリーは彼の気持ちもわかると認める気はなかった。ただ、彼女の顔が、化粧をして取り繕ってはいるものの、そんなことは百も承知よ、と告白していた。
「そうね、彼は根っからの卑怯者ではないわね。ラスティーやベニー・シャクレットみたいな、とんでもなく下品な卑怯者ではないわ。でも、ああ、もう、なんてことなの」と言って、彼女はわめき散らす赤ん坊のように、握りこぶしを無理に口に押し込もうとした。「私は彼を愛していたのよ。あの卑怯者を」
三人のイタリア人女性は恋人の危機を想像し、ホリーの嘆きの原因を彼女たちの思うままに解釈し、僕に向かって舌打ちした。僕はなんだか嬉しかった。ホリーが僕に好意を抱いていると誰かに思われるなんて光栄だった。
僕がもう一本タバコを勧めると、彼女は落ち着いた。彼女はタバコの煙を吸い込むと、こう言った。「あなたに感謝してるのよ、坊や。あなたが馬に乗るのがあんなに下手くそでよかったわ。私がカラミティー・ジェーンばりに馬を走らせて、あなたを追いかけるなんて真似しなければ、私は未婚の母のための寮にでも入って、食べ物を恵んでもらう羽目になっていたわね。あんなに激しく動いたから、流産しちゃったのよ。でもね、ほら、あのレズ刑事にひっぱたかれたでしょ、そのせいで流産したんだって言って、警察署全体を脅してやったわ。そうね、私は不法逮捕も含めて、いくつかの件で警察を訴えることができるわね」
それまで僕たちは彼女を待ち受けている厳しい試練について話すのを避けてきたのだが、彼女が冗談めかして逮捕について言及したことに僕は啞然としつつ、そんな彼女が痛々しくもあった。それほど彼女には、自分の前に暗い現実が横たわっていることを認識するだけの余裕がないのだ。
「いいかい、ホリー」と、僕は強くて分別を持った親戚のおじさんのように振る舞おうとして言った。
「いいかい、ホリー。笑い話では済まないんだよ。僕らはちゃんと今後の計画を練らないといけないんだ」
「あなたは若すぎて、何を言っても、さまになってないのよ。小物すぎるわ。それに、あなたにどんな関係があるって言うの?」
「関係はないけど、君は僕の友達だから、心配なんだよ。君がこれからどうするつもりなのか知りたいんだ」
彼女は鼻をこすると、天井をじっと見上げて考えをまとめた。
「今日は水曜日よね? そうね、土曜日までぐっすり寝て、ゆっくり休むことにするわ。土曜日の朝になったら、そっとここから抜け出して銀行に行くわ。それから一旦アパートに戻って、ネグリジェを二着ほどと、私のお気に入りのマンボシェの洋服も持って、そしたら、アイドルワイルド空港に向かうの。あなたもよく知ってるように、私はれっきとした正規の予約搭乗券を持っているからね。そうね、あなたが私の友達だって言うのなら、空港まで手を振りに来てもいいわよ。ちょっと、首を横に振るのはやめてちょうだい」
「ホリー、ホリー、そんなことしちゃだめだよ」
「どうしてだめなの? もしかして私が慌ててホセを追いかけようとしているとでも思ってるわけ? そんなわけないじゃない。私にとって、彼はもう冥界の住人よ。私の調査では、彼は天国には行けないでしょうけどね。ただね、せっかくちゃんとした航空券があるんだから、無駄にすべきじゃないと思うの。すでに支払い済みなのよ。それにね、私、ブラジルに一度も行ったことないの」
「まったく、この病院は君にどんな薬を飲ませているんだ? 君は刑事告訴されているんだってわかってないの? もし保釈中に国外逃亡しようとして捕まったら、君はもう刑務所から出られなくなる。たとえうまく逃げられたとしても、もう二度と故郷には戻れない」
「まあ、それは残念ね。でも、故郷っていうのは自分が気楽にくつろげる場所のことよ。私はまだそういう場所を探しているところなの」
「そんな馬鹿な事を考えたらだめだよ、ホリー。君は無罪なんだから、逃げないで最後まで頑張ってよ」
彼女は「フレーフレー、頑張って」と言うと、僕の顔にタバコの煙を吹きかけた。
しかし、彼女の胸にも迫るものがあったようで、彼女の瞳孔が広がった。僕と同じものを見ているのだ。鉄格子の部屋、硬く冷たい廊下、ゆっくりと閉まる扉、そんな惨めな未来が見えたに違いない。
「ちょっと、やめてよ」と彼女は言って、タバコをもみ消した。「私があいつらに捕まるわけないでしょ。あなたさえ黙っていてくれればね。いい、私を見くびらないでね、ダーリン」
彼女は僕の手の上に彼女の手を重ねると、突然握りしめてきた。彼女の誠実さが手を通して伝わってきた。
「私にはあまり選択の余地はないのよ。弁護士とも話し合ったわ。あ、リオに行くなんて彼には言ってないわよ。彼に言ったりしたら、警察に告げ口されるわ。私に逃げられたら、O.J.が払った保釈金は言うまでもなく、彼の弁護士料も失うことになるんだからね。O.J.の気持ちには感謝してるわ。でもね、一度、西海岸にいた頃、彼がポーカーの一発勝負で勝てるように、そっと相手の手を教えてあげたのよ。彼、あの時、1万ドル以上儲けたわ。だから、これでおあいこね。それより、あいつらの本当の目的はね、警察が望んでいることはね、私の襟元をひっつかんだりした後で、サリーを有罪にするために私を州側の証言台に立たせようとしているのよ。誰も私を起訴しようなんて思っていないの。そんな証拠は微塵もないんだから当然よ。そうね、私は骨の髄まで腐っているかもしれないわね。それでも、私は友達の不利になるような証言は絶対にしないわ。たとえ私が証言することで、彼が慈悲深いシスター・ケニーに麻薬を飲ませたことを立証できるとしても、私は証言しないわね。私の判断基準は、その人が私をどう扱ったかなのよ。もちろん、サリーおじさんは私にすべてを正直に話していたわけではないわ。ちょっとは私を利用したんでしょう。それでもやっぱりサリーはなかなかいい人よ。警察が彼を押さえつけるのを手助けするくらいなら、あの太った女にひっつかまれて、あの世に連れ去られる方がましよ」
彼女は顔の上にかざしたコンパクトの鏡を傾け、曲げた小指で口紅をならしながら言った。「それに正直言ってね、それだけじゃないのよ。スポットライトの色合い一つで、女優の顔色は台無しになっちゃう、みたいなことね。たとえ私が陪審員からパープルハートとかの名誉ある勲章をもらってもね、この界隈では、私はこれから先、うまく立ち振る舞えなくなるわ。ナイトクラブのラ・ルーからペローナズ・バー・アンド・グリルまで立ち入り禁止のテープが張られてしまう。本当よ。私は葬儀屋のフランク・E・キャンベルさんみたいに疫病神扱いされるのよ。私みたいに特殊な魅力で生きてきた女にとっては、それはもう破滅なのよ。坊やに私の言っている意味がわかるかしら? ええ、そうよ、ローズランド辺りに引っ込んで、ウェストサイドの田舎者たちと戯れて、ぶざまに生きていくなんて考えられないわ。一方で、あの抜け目のないトローラー夫人は気取ってお尻を振りながら、ティファニーに出入りしているのよ。そんなの耐えられないわ。そんな屈辱を受け入れるくらいなら、いつでもあの太った女のお世話になるわ」
看護婦が足音を立てずにそっと病室に入ってきて、もう面会時間は終わりですよ、と告げた。ホリーは文句を言いかけたが、口に体温計を差し込まれて黙らされてしまった。
しかし、僕が帰ろうとすると、彼女は口から体温計を抜いて言った。「お願いがあるんだけど、ダーリン。『ニューヨーク・タイムズ』でも、どこの新聞社でもいいんだけど、電話をかけて、ブラジルで最も裕福な50人のリストを手に入れてほしいのよ。私は本気で言ってるのよ。人種とか肌の色には関係なく、最も裕福な50人よ。もう一つお願いがあるんだけど、私の部屋を探して、あなたがくれたあのメダルを見つけてほしいの。聖クリストファーのよ。旅行にはあれが必要でしょ」
金曜日の夜は空が赤く、稲妻も光っていた。そして土曜日になった。彼女が出発する日だというのに、激しく雨が降りしきり、土砂降りに打たれて街が揺れていた。サメが空中を泳げそうなほどの雨だったが、飛行機がその中を突っ切って飛ぶのは無理そうだった。しかし、僕が内心では喜びながら、この天気では飛行機は飛びそうもないよ、といくら言っても、ホリーは準備を続けた。というか実を言うと、大変な作業の大部分をやったのは僕だった。彼女はアパートには近づかない方が賢明だと判断して僕に任せたのだ。
まさに彼女の予想通り、アパートは見張られていた。警察か記者か、それとも正体不明の利害関係者なのか、一人の時もあれば、数人の時もあったが、男が玄関口の踏み段の前をうろついていた。そんな中、彼女は病院を抜け出して銀行に行き、その足でジョー・ベルのバーへ向かった。
「彼女は誰にもあとをつけられていないそうだ」と、ジョー・ベルが僕の部屋にやって来て言った。ホリーがなるべく早く僕に会いたがっているらしく、30分以内にこれらの物を持って店に来てくれ、と言われた。
「彼女の装飾品と、彼女のギター。それから歯ブラシとかの洗面用具。それと、100年物のブランデーもだ。ブランデーのボトルが汚れた服の入った洗濯カゴの底に隠してあるそうだ。ああ、そうだ、猫もだ。彼女は猫も連れてきてほしいと言っている。ただ」と彼は言った。「そもそもこんなことに手を貸していいものかどうか。彼女の気持ちには背くが、彼女を守ってやるべきじゃないのかな。俺としては、警察に話した方がいい気もする。それか店に戻って、彼女に酒をどんどん飲ませて酔っ払わせて、計画をやめさせられればいいのだが」
僕は滑って転びそうになりながら非常階段を上ったり下りたりして、ホリーの部屋と僕の部屋を行き来した。風が吹きすさび、横殴りの雨に息が切れ、骨まで濡れた。(おまけに骨に達するまで猫に爪を立てられた。こんな悪天候の日に外へ連れ出されるなんて、猫もお気に召すはずがない。)それでも僕は迅速にして、一流の手際の良さで、彼女の逃走用の荷物をかき集めた。聖クリストファーのメダルも見つけた。
色々なものが僕の部屋の床にピラミッドのように積み上げられた。積み重なったブラジャーやダンスシューズや、そういう美しいものに胸が締めつけられそうになりながら、僕はそれらをホリーの唯一のスーツケースに詰め込んだ。
スーツケースに入り切らないものがひと山残り、仕方なく食料品店の紙袋に小分けして入れた。猫をどうやって運べばいいか悩んだ結果、枕カバーに詰め込むように入れて運ぶことにした。
理由はともかくとして、僕は一度、ニューオーリンズからミシシッピー州のナンシーまで、500マイル弱の道のりを歩いたことがあるのだが、その時の旅路でさえ、ジョー・ベルのバーまでの移動に比べたら、のんきな散歩みたいなものだった。
ギターの中に雨水が溢れ、雨が紙袋をぐしょぐしょにした。紙袋は破れ、そこから香水が歩道にこぼれ落ち、真珠が側溝の中に転がり落ちた。風に煽られ、猫に引っかかれた。猫は叫び続けていたが、猫以上に僕は怖がっていた。僕はホセに負けないくらいの臆病者なのだ。暴風雨で周りがよく見えないが、僕を罠にはめようと待ち構えている連中が通りのあちこちにいる気がした。無法者に手を貸したとして、僕を投獄しようとしているのだ。
その無法者は言った。「遅かったじゃない、坊や。ブランデーは持ってきてくれた?」
猫を解放してやると、猫は軽い身のこなしで彼女の肩に飛び乗った。猫の尻尾がラプソディー風の音楽を指揮しているかのように振られていた。
ホリーもまた、船出を祝う『ウンパッパ』か何かの浮かれたメロディーに心を奪われているようだった。
ブランデーのコルク栓を抜きながら彼女は言った。「これは嫁入り道具の一つとして持っていくつもりだったのよ。毎年結婚記念日に二人で乾杯して飲もうと思っていたの。まったく、収納箱まで買わなくてよかったわ。ねえ、ベルさん、グラスを三つお願い」
「グラスは二つでいいだろう」と彼は彼女に言った。「俺は君の馬鹿げた行為を祝うつもりはない」
彼女が甘い声を出せば出すほど(「もう、ベルさんったら。女の子がいなくなるなんて、めったにあることじゃないわよ。そんな子がいたら、祝杯をあげるのが礼儀ってものじゃない?」)、ますます彼は無愛想になっていった。
「俺には関係のないことだ。地獄でもどこでも勝手に行けばいい。これ以上、手を貸すつもりはない」
彼はそう言ったが、それは不正確な発言だった。というのも、彼がそう言った直後、運転手付きのリムジンがバーの前に停まったのだ。
その車に最初に気づいたのはホリーだった。彼女はブランデーのグラスを置き、眉をつり上げた。まるで地方検事が自らやって来て、リムジンから降り立つのを待ち構えているかのようだった。
僕もそう思った。ジョー・ベルの顔が赤くなったのを見て、本当に警察を呼んだのかよ、と思わずにはいられなかった。でもその時、彼が耳まで真っ赤にして告げた。「なんてことはない。〈キャリー・キャデラックス〉に電話して、車を一台呼んだだけだ。空港まで乗っていくといい」彼は僕たちに背を向けると、花瓶の生け花をいじり始めた。
ホリーは言った。「親切なのね。ありがとう、ベルさん。ねえ、こっちを見て」
彼はこちらを見ずに、花をつかんで花瓶から引き抜くと、それを後ろ手に彼女に向けて投げた。花は彼女の脇に逸れ、床にばらばらと散らばった。
「さよなら」と彼は言った。そして彼は吐き気でも催したかのように、慌てて男性用トイレに駆け込んだ。ドアをロックする音が僕らの耳に届いた。
〈キャリー〉の運転手は気が利く愛想のいい人で、僕らが大急ぎで荷造りした荷物を極めて丁重に受け取ると、小降りになってきた雨の中、リムジンの向きを軽快に変え、アップタウン方面へ走り出した。ホリーは病院に着替えの洋服がなかったため、まだ乗馬用の格好をしていたのだが、車の中でそれを脱ぎ、すらりとした黒のドレスにどうにか着替えた。その間も運転手は石のように無表情だった。
僕らは話をしなかった。話し出せば口論になることは目に見えていたし、それにホリーはなんだか上の空で会話どころではなさそうだった。彼女は歌を口ずさみ、ブランデーを一口飲んでは、ひっきりなしに前屈みになって窓の外をじっと見つめていた。まるでどこか特定の場所でも探しているかのようだった。あるいは、彼女がずっと覚えておきたい思い出の場所を最後に目に焼き付けようとしているのだと僕は思った。
しかし、そのどちらでもなかった。「ここで停めて」と、彼女が運転手に命じて、僕らを乗せた車はスパニッシュ・ハーレム地区の道端に停まった。野蛮で、派手で、陰鬱な雰囲気が漂うその地区には、映画スターや聖母マリアのポスターがあちこちに貼られていた。歩道には果物の皮が散らかり、くしゃくしゃになった新聞紙が風に吹かれて舞っていた。風はまだ音を立てて吹いていたが、雨はやみ、上空では雲が裂け、ところどころに青空がのぞいていた。
ホリーは車から降りたのだが、彼女は猫を抱いたままだった。あやすように揺すり、猫の頭をかきながら、彼女は猫に語りかけた。
「あなたはどう思う? この辺りがあなたみたいなたくましい男にはお似合いじゃないかしら。ゴミ缶もあるし、ネズミもたくさんいるし、一緒につるんで歩く猫仲間もいっぱいいるわよ。さあ、行きなさい」
彼女はそう言うと、猫を地面に降ろした。猫はそこから動くことなく、悪党のような顔を上に向け、海賊のような黄色い目で彼女を不思議そうに見上げていた。すると、彼女が足を踏み鳴らした。「さっさと行きなさいって言ったのよ!」
猫は頭を彼女の足にすり寄せてきた。
「早く行けって言ったでしょ!」と、彼女は叫んだ。それから車に飛び乗り、ドアをバタンと閉め、「出して」と運転手に言った。「さあ、早く行って」
僕は啞然としていた。「ちょっと、なんてことを。君はなんてひどい女なんだ」
車が一ブロックほど進んでから、やっと彼女は反応した。「言ったでしょ、私とあの猫はある日、川のほとりで出会ったの。ただそれだけなのよ。お互いに独立して生きているの。将来の約束を交わしたことなんて一度もないわ。ただの一度もよ...」そう言ったところで、彼女は声をつまらせた。ひくひくと震えながら、彼女の顔はみるみるうちに病的に青白くなった。
車は赤信号で停まっていた。その時、彼女はドアを開け、来た道を戻るように走り出した。そして僕も彼女のあとを追って走った。
しかし、猫はさっき彼女が置き去りにしてきた通りの角にはもういなかった。辺りを見回しても、猫は一匹もいない。酔っ払いが立ち小便をしているだけだ。そこに二人の黒人の修道女が子供たちを引き連れて歩いてきた。子供たちは一列になって可愛らしい声で歌っていた。
そのうちに他の子供たちがそれぞれの家の玄関から出てきた。女性たちも何事かと窓から身を乗り出すようにして顔を出した。ホリーはキョロキョロしながら、その周辺を行ったり来たりして駆けずり回っていた。「猫ちゃん、どこにいるの? 私はここよ、猫ちゃん」と、彼女は祈るように繰り返していた。
彼女が猫を探し回っていると、あばた面した少年が年老いた雄猫の首筋をつかんでぶら下げながら、やって来た。「おねえさん、可愛い猫ちゃんが欲しいんだろ? 1ドルでいいよ」
リムジンは僕らを追ってきて、近くに停まっていた。そこで僕はホリーの手を引いて車に向かった。彼女はすんなりついてきた。ドアの前で彼女は立ち止まり、振り返ると、僕の肩越しを見た。僕の後ろには少年もいたが、彼女はもっと遠くを見つめていた。少年はまだ猫の値段交渉をしていた。(「50セントでいいよ。しょうがないな、25セントでどうだい? 25セントなら、安いもんだろ」)
彼女の体は震えていた。僕の腕をしっかり握っていないと、立っていられないようだった。「ああ、神様。私たちはお互いに相手のものだった。あの子は私のものだったのよ」
その時、僕は彼女に約束した。僕がここに戻ってきて、君の猫を見つけるから、と言った。「僕が猫の世話もちゃんとするから。約束する」
彼女は微笑んだが、それは初めて見る悲しげな微笑みだった。
「でも、私はどうすればいいの?」彼女は囁くようにそう言うと、再び体を震わせた。「とても怖いのよ、坊や。そうよ、とうとうこんなことになってしまったわ。永遠に同じようなことを繰り返すのよ。捨ててしまうまでは自分のものだってわからないものね。あの嫌な赤色の気分も大したことじゃないわ。あの太った女もべつにどうでもいい。でも、こんなことを繰り返すだけの人生なら、口がからからに乾いて、人生に唾を吐くこともできないわ」
彼女は車に乗り込むと、シートに深くもたれかかった。「ごめんなさいね、運転手さん。さあ行きましょう」
「トマトの連れの美女、行方不明」、「麻薬スキャンダルの女優、ギャングの世界で消された?」という見出しが並んだ。
しかしほどなくして、「逃亡中のプレイガール、リオへ飛ぶ」という記事が出た。どうやらアメリカの当局は彼女を連れ戻そうとはしなかったようで、その件はすぐに下火になり、時々ゴシップ欄で見かける程度になった。新聞に載った新たな話としては、サリー・トマトがクリスマスの日にシンシン刑務所内で心臓発作により亡くなったという記事が出て、一緒にホリーの名前も取り上げられていたが、それが最後だった。
月日が流れ、冬が過ぎても、ホリーからは何の便りもなかった。ブラウンストーンのアパートの大家は、ホリーが部屋に残していった家財道具を全て売り払った。白いサテン生地のシーツがかかったベッドや、壁掛けや、彼女が大切にしていたゴシック風の椅子も売られてしまった。
その部屋に新たな住人がやって来た。クウェインタンス・スミスという男で、彼もまた、ホリーに負けないくらい大勢の男性客を部屋に招き入れ、騒がしくしていた。ただ、今回はスパネッラ婦人は文句を言わなかった。というのも、彼女はその若い男に惚れ込み、彼がお客に殴られて目の周りにあざをつくると、いつでも彼女はフィレミニョンを彼に焼いてあげるのだった。
そして春になって、やっと彼女からハガキが届いた。鉛筆で走り書きされた文章の最後には、口紅のキスマークが名前の代わりについていた。
「ブラジルはほんとにけがらわしいところだったけど、ブエノスアイレスは最高よ。ティファニーほど素敵じゃないけど、それに近いわ。すっごく素敵なお金持ちの紳士と仲良くなったの。それは愛なのかって? そう思うわ。とにかく、今はどこか住む場所を探しているところよ。(その人には奥さんと、7人の子供がいるからね。)住所が決まったら、またハガキで知らせるわ。千の優しさを込めて」
でも、彼女はどこかに落ち着く場所を見つけたんだとしても、住所の書かれたハガキが送られてくることはなかった。それは僕を悲しくさせた。彼女に返事を書いて知らせたいことがたくさんあったから。
まず、僕の小説が二つも売れたよ。それから、トローラー夫婦が離婚調停中だと新聞で読んだ。それと、ブラウンストーンのアパートを出ていくことにした。だって君の幽霊が出るからね。
でも何より君に伝えたいのは猫のことだよ。僕は君との約束を守って、あの猫を見つけたんだ。何週間も毎日、仕事帰りにあのスパニッシュ・ハーレムの辺りを歩き回ってね。何度も似たような猫を見かけた。トラ猫が視界を横切ると、はっとしてね、でもよく見ると、あの猫じゃなかった。
そしたら、ある日、あれは冷え込んではいたけれど晴れていた、冬の日曜日の午後だった。ある家の窓辺に置かれた鉢植えの間に、あの猫が座っていたんだ。清潔そうなレースのカーテンがかかった窓辺の室内にだよ。暖かそうな部屋を背にしていた。
どんな名前をつけてもらったんだろうと想像した。今ではあの猫にも名前があるはずだからね。あの猫は自分が落ち着ける場所にやっとたどり着いたんだ。ホリーも、アフリカの小屋でもどこでもいいから、そういう場所にたどり着いていることを僕は願っているよ。
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