『ダッシュとリリーの冒険の書』2
『Dash and Lily's Book of Dares』 by デイヴィッド・レヴィサン、レイチェル・コーン 訳 藍(2017年12月02日~2018年09月01日)
僕らは空いている席を見つけて座ると(前寄りの席でちょっとスクリーンが見ずらいと思ったが、僕の左隣に座っていた鼻たれ小僧と僕の間にコートが置かれていて良い壁になっていた)、さっそくクッキーの缶に手を突っ込んだ。
「わお」と、僕は雪のように砂糖の粉がふりかかったチョコレート・クッキーを口に入れて言った。「このクッキーに〈甘さの王様〉の称号を与えたいな」
ブーマーは全6種類のクッキーをひと口ずつかじると、それぞれの味を吟味してから食べる順番を決めた。「ボクはこの茶色のクッキーと、この薄茶色のやつと、あと、この茶色っぽいのが好き。このミント味のやつは微妙。でもやっぱり、このレープクーヘン・スパイスの効いたクッキーが一番美味しい」
「なんて言った?」
「レープクーヘン・スパイスが効いてるやつだよ」彼は僕に見せるようにそれをつまみ上げた。「これだよ」
「君は言葉をでっち上げてるだろ。レープクーヘン・スパイスって何?なんだかキーブラー食品のマスコットの妖精とストリッパーを足して2で割ったみたいな響きだな。『ごきげんよう、あたしの名前はレープクーヘン・スパイスよ。あなたにあたしのクーーーッキーを見せてあげる』」
「ちょっと失礼だよ!」と、ブーマーが抗議してきた。まるで手に持っているクッキーがけなされて腹を立てたかのようだった。
「ごめん、ごめん」
映画の本編前のコマーシャルが始まった。80年代に全盛だった俳優たち(といっても超人気だったわけではない)が出演している犯罪映画を特集して放送するケーブルテレビ局のCMが流れ、ブーマーがその「掘り出しもの的な予告編」にうっとり見入っているすきに、僕はリリーが日記帳に書いた文章を読むことができた。ブーマーもこの金切り声のリリーの話を気に入るだろうなと思った。ただ、ブーマーは本気で彼女を気の毒に思うだろうなとも思った。実はこういう変な女の子というのはむしろ格好いいのだ、と僕はそのとき気がついた。段々と僕はリリーの感性もつかめてきた。「心の底から浮かんでくる超絶欲しいもの」という表現が僕のつぼにはまり、彼女のひねくれた、あまのじゃくなユーモアのセンスがわかってきたのだ。僕の中では、彼女はレープクーヘン・スパイスだった。つまり、皮肉屋で、ドイツ系で、セクシーで、風変わりな女の子だった。そして、なんと、その女の子はめちゃくちゃ美味しいクッキーを作ることができる。彼女の「あなたがクリスマスに欲しいものは何?」という問いに、単純に「このクッキーがもっと欲しい!」と答えたいほどだった。
でもそれはだめだ。彼女は僕にこざかしい答え方はしないでと注文をつけてきたのだから、僕が心の底から正直にそう答えたとしても、彼女はきっと僕が冗談を言っているか、あるいはもっと僕をいぶかって、こびを売っていると思うだろう。
皮肉な答えを封印しなければならないとなると、それは手ごわい問いだった。いわば、頭には「世界平和(world peace)」という綺麗な答えがあるにもかかわらず、僕は「世界のエンドウ豆(world peas)」と綺麗にスペルを変換しなければならないわけだ。僕はひとりぼっちだと涙を誘う切り札を出して、家族みんながまた一緒に過ごせるようになればいいな、と答えることもできたけれど、それは僕が最も望んでいないことだった。特に最近はもうそんなことは望まなくなっていた。
ほどなくして『コレイション』が僕らの目の前で始まった。面白いシーンがいくつもあったし、ディズニーが最近のディズニーの社内体質を嘆きつつも、社内一丸となって一つの映画を世に送り出したという皮肉はたしかに評価したいと思った。ただ、このラブストーリーの内容は物足りなかった。90年代の前半から中頃までのディズニー映画に登場する、はみ出るくらいに男勝りのヒロインたちと比べると、このヒロインは文字通りペラペラの真っ白な紙だった。たしかに、彼女は自分の体を折りたたんで自ら紙飛行機になり、恋人になったホッチキスを乗せて魔法の会議室を飛び回ったり、不運な用務員との最後のじゃんけん対決では、ある種の勇敢さも見せていた。それでも、ブーマーやホッチキスや観客の親子連れのほとんどが彼女にぞっこんになったようには、僕は彼女を好きになれなかった。
僕がクリスマスに本当に望んでいることは、僕のホッチキスにぴったり合う一枚の紙のような誰かを見つけることかもしれないと思った。ちょっと待てよ。逆にこの僕が紙のほうでもいいのではないか? ひょっとすると僕が追い求めているのはホッチキスなのかもしれない。すなわち、僕はあのかわいそうなマウスパッドなのかもしれない。あのマウスパッドは明らかにホッチキスに恋をしていたが、彼を振り向かせることはできなかった。今までに僕がデートまでこぎつけた女の子はみんな、〈鉛筆削り〉みたいな存在で僕は精神的に削られ続けた。ただソフィアだけは例外で、彼女は消し心地の良い〈消しゴム〉のようだった。
僕が個人的にクリスマスに望んでいるものは何なのか、そこに隠された意味を知るためにはマダム・タッソー館に足を運んでみるしかないと思った。有名人の蝋人形の写真を撮りまくる大勢の観光客を見れば、彼らが僕の願望を推し量る絶好の〈ものさし〉となって、その答えが見つかるかもしれないと思ったわけだ。
校外学習に行こうと言えばブーマーが乗り気になることはわかっていたので、スクリーンにホッチキスと紙の女の子が仲良くはしゃぎ回るエンドロールが(耳に快く響くセリーヌ・ディオンの『You Supply My Love』とともに)流れたあと、僕は劇場のロビーから42番街へとブーマーをなかば騙す形で連れ出した。
「なんでこんなに大勢の人がいるんだろう?」とブーマーが聞いてきた。僕らは人混みの中をかき分けながら縫うようになんとか前に進んでいた。
「クリスマスの買い物だよ」と僕は説明した。
「もう? プレゼントのお返しを買うには早すぎない?」
僕には彼の思考回路がどこをどう回っているのかさっぱりわからなかった。
僕はそれまでに一度だけマダム・タッソー館に行ったことがあった。去年、3人の友達と僕で行ったのだが、僕らはそれなりの有名人や歴史上の人物の蝋人形と一緒に、世界で一番みだらできわどい写真を撮ろうと試みたのだ。正直言って、あんなに多くの蝋人形の前にひざまずいて、エロいことをしている風の写真を撮るのはひやひやものだった。特にニコラス・ケイジの前にひざまずいた時には肝を冷やした。僕は元々、現実のニコラス・ケイジを目にするたびにビクついていたからね。そんな中で僕の友達のモナは、マダム・タッソー館で見学したことを学校に提出する自由研究に組み込もうとしていた。警備員たちは、僕らが蝋人形に物理的に触れない限りは僕らのことを気にしていないようだった。それで僕は前から思っていた仮説の一つを披露した。マダム・タッソーは実在した婦人で、彼女はテキサス州のパリという町の近くで蝋人形を相手にする売春宿を始めたんだ、と。モナはこの説をとても気に入ってくれたが、僕らはその根拠を見つけることができなかったので、その仮説が実際に学術的な研究対象へと変貌を遂げることはなかった。
モーガン・フリーマンの蝋人形が入り口を警備していた。これは因果応報というか、壮大なしっぺ返しではないかと思った。すなわち、大して才能のない俳優が自身の魂を売り渡して、出演しても何の社会的見返りもないハリウッドのアクション大作に出始めるたびに、その魂を売り渡した俳優の、いわば売却済みの表情が蝋で固められて、マダム・タッソー館の外に置かれるというわけだ。あるいはマダム・タッソー館の職員の思惑としては、モーガン・フリーマンはみんなに愛されているから、彼の蝋人形を外に置いておけば、館内に足を踏み入れる前に誰もがとりあえず一枚、彼と一緒に写真を撮りたくなるだろうと考えたのかもしれない。
奇妙なことに、その次に置かれていた二体の蝋人形はサミュエル・L・ジャクソンと、「ザ・ロック」としても知られるドウェイン・ジョンだった。僕はそれを見て、僕の〈売却済み〉理論に確信を持ったと同時に、マダム・タッソー館の人は意図的に三人の黒人の像をロビーに並べているのだろうかと思った。僕にはそれが不思議で仕方なかったのだが、ブーマーは気にも留めていないようだった。彼はまるで現実の有名人を目の当たりにしたかのようにはしゃぎ回り、誰かの像を見るたびに大喜びで歓声を上げていた。「わお、ハル・ベリーだよ!」
僕は入場料金のあまりの高さに悲鳴を上げたかった。これはノートに書いてリリーに言わなくちゃな、と思った。「僕に25ドルも払わせてリンカーン大統領の蝋人形に会わせたいのなら、この次はちゃんと日記帳にその費用を挟んでおいてくれないかな」と。
館内は完全におぞましい見世物小屋だった。前にここを訪れたときはがらがらで閑散としていたが、今はクリスマス休暇中ということで多くの家族連れでにぎわい、縁もゆかりもないだろう人物の蝋人形の周りにいろんな層の人々が集まっていた。僕が言いたいのは、ユマ・サーマンに人が群がるほどの価値があるかってこと。ジョン・ボン・ジョヴィにもそんな価値あるか?
正直言って、そこにいる間ずっと僕の気分は陰鬱だった。確かに蝋人形は生きているかのように精工だった。でも、まあ「蝋」と聞けば、「溶ける」と頭に浮かぶよね。ある種の永続性がある像も現実には存在するが、ここの像に永続性はない。それは単に蝋でできているから溶けるということではない。この建物の一角にはクローゼットがあって、その中には用なしになった人形がいっぱい詰まっているという事実を知っておかなければならない。一時期スポットライトが当たり、やがて当たらなくなった人たちだ。たとえば、イン・シンクのジャスティン・ティンバーレイク以外のメンバーのように。あるいはバックストリート・ボーイズとスパイス・ガールズの全メンバーのようにね。今さら『となりのサインフェルド』の出演者の彫像に人々は本気で喜んで群がっているのだろうか? キアヌ・リーブスが彼自身の蝋人形を見ようとここに立ち寄ったことがあったけれど、あれは人々が自分に関心を寄せていた良き時代を思い出すためだったのだろうか?
「見て、マイリー・サイラスだよ!」とブーマーが声を上げると、少なくとも10人ほどの10代前半の子供たちが彼について行った。そして、(たとえ実入りの良い時期だとしても)生きにくい思春期に蝋人形にされてしまったかわいそうな女の子をみんなでポカンと見つめていた。ただ、それはマイリー・サイラスには見えなかった。ちょっと何かがずれていて、マイリー・サイラスのいとこの落ち目のライリーが、着飾ってマイリーになりすましているみたいだった。彼女の後ろでは、ジョナス・ブラザーズがジャム・セッション中に凍り付いていた。〈忘れられた蝋人形たちのクローゼット〉が早くおいでと彼らに手招きしていることを教えてあげたほうがいいんじゃないかな?
もちろん僕はリンカーン大統領を見つける前に、僕がクリスマスに欲しいものは何なのかを考え、答えを見つける必要があった。
小さな馬。
無制限で使えるメトロカード。
リリーのサルおじさんに今後二度と子供たちと触れ合うような仕事はさせない、という約束。
おしゃれなライムグリーンのソファー。
新しい考える帽子。
真面目な答えが浮かんでくる気はしなかった。僕がクリスマスに本当に望んでいることは、クリスマス自体が消えてなくなることなのだ。たぶんリリーなら僕のそんな思いをわかってくれるだろう...いや、そんなこともないのかな。普段は挑戦的でとんがった女の子が、サンタのこととなると目を丸くするのを何度も見てきたから。べつに彼女を責めているわけでも、信じるのがいけないって言っているわけでもない。あの幻想を無傷のまま抱き続けるのは良いことだって思い込む必要があるからね。その幻想というのはサンタの存在を信じることではなくて、たった一日の祝日が人間を善意に導くっていう幻想だよ。
「ダッシュ?」
視線を上げると、プリヤがいた。彼女は少なくとも2人の弟を連れていた。
「やあ、プリヤ」
「例の彼女?」と、ブーマーがジャッキー・チェンの蝋人形に後ろ髪を引かれつつも彼女に目を向けて、僕に聞いてきた。僕はなんだか気まずくなった。
「いや、プリヤだよ」と僕は言った。「プリヤ、彼は僕の友達のブーマーだよ」
「あなたスウェーデンに行ってるんじゃなかったの?」とプリヤは言った。彼女は僕に対してイライラしているのか、それとも弟の一人が袖を引っ張っていることにイライラしているのか僕には判断がつきかねた。
「君はスウェーデンに行ってたの?」とブーマーが聞いた。
「いや」と僕は言った。「旅行に行く予定だったんだけど、土壇場で中止になったんだ。政情不安のためにね」
「スウェーデンの政情不安?」プリヤはあやしんでいる様子だった。
「そうだよ。まあ、どうして『ニューヨーク・タイムズ』が取り上げていないのか不思議だよね? 今スウェーデンでは国民の半数がストライキをしているんだ。皇太子が『長くつ下のピッピ』について言った、あの発言が原因だよ。つまり、クリスマスにミートボールとまぬけは出しちゃだめってことだね。ピンとこないかもしれないけど」
「それは悲しすぎる!」とブーマーは言った。
「それじゃ、この街にいるのなら」とプリヤが言った。「クリスマスの次の日に私の家でパーティーがあるんだけど来る? ソフィアも来るわよ」
「ソフィアも?」
「彼女がこの街に戻ってきてること知ってるでしょ? クリスマス休暇中はいるそうよ」
断言してもいいくらいだが、プリヤはこの状況を面白がっている様子だった。彼女の弟のちびたちも面白がっているようだった。
「もちろん知ってるよ」と僕は嘘をついた。「ただ、まあ僕はスウェーデンに行く予定だったからね。わかるよね、そういうことだよ」
「パーティーは6時からよ。気軽にお友達も連れていらっしゃい」弟たちがまた彼女の袖をグイッと引っ張りだした。「その時にまた会いましょう、待ってるわ」
「わかった」と僕は言った。「もちろん行くよ。ソフィア」
最後に思わず口をついて出てしまった名前が、プリヤの耳に届いたかどうかは微妙だった。彼女は走り出す弟たちに洋服を引っ張られながら、さっさとどこかへ行ってしまった。
「ボクはソフィアが好きだった」とブーマーが言った。
「わかるよ」と僕は彼に伝えた。「僕も同じ気持ちだったから」
リリーとの追跡ゲームの最中に、2回もプリヤと出くわすというのはちょっと妙な気もしたが、きっと単なる偶然だろうと自分に言い聞かせて、僕はその疑念を振り払った。プリヤまたはソフィアがリリーのしていることにどれくらい関わっているのかわからなかった。もちろん大がかりな悪ふざけという可能性もあるが、ソフィアと彼女の友達に関して言えば、常に現実的なものの見方をしていて、決しておどけていたずらをするような子たちではなかったはずだ。
自然な流れで次に頭に浮かんだのは、「僕はクリスマスにソフィアに会いたいのか?」という疑問だった。リボンのついた箱に入ったソフィアが、クリスマスツリーの下で僕を待っていて、僕がどれだけ素敵かを言い聞かせてくれる。なんてことを望んでいるのか?
いや、そうでもないな。
たしかに僕は彼女のことが好きだった。僕たちはお似合いの2人だったし、周りの友達(まあ、僕の友達というよりは彼女の友達)の間で理想のカップルだと噂になるほど、僕たちは一緒にいてしっくりくる仲だった。男4人女4人で一緒にデートすることになって、僕とソフィアは最後に加わった2人だった。僕らは2人でよく一緒にボードゲームをしたし、夜には寝る前にメールを送り合った。彼女がニューヨークに3年間しかいないというので、僕は彼女にありとあらゆるポップカルチャーについて説明してあげたし、逆に彼女は僕にスペインのことを色々話してくれた。ただ、野球にたとえると僕らは三塁までは行ったんだけど、そこで動けずに、ついに得点することはなかった。僕らはホームベースに向かって突っ込んでいけば、待ち構えているキャッチャーにタッチアウトにされてしまうと思い込み、まさに尻込みしていたのだ。
スペインに戻らなければならないという彼女の言葉を聞いたとき、(少し)ほっとした自分がいた。これからも連絡を取り合おうねと誓い合って、その誓いは1ヶ月くらい効力を発揮した。今の僕と彼女の関係は、お互いのSNSで近況を読み合うという、いわばオンライン上の友達である。
僕はクリスマスにソフィアよりも、もっと違った何かが欲しいと望んでいた。
それはリリーだろうか? そうとも言い切れなかった。間違っても、「僕がクリスマスに欲しいものは君だ」とだけは書くつもりはなかった。
「僕はクリスマスに何を望んでいるのですか?」と僕はアンジェリーナ・ジョリーに聞いてみた。彼女の厚い唇は閉じたままで答えてはくれなかった。
「僕がクリスマスに欲しいものは何ですか?」と、今度はシャーリーズ・セロンに聞いた。「ねえ、素敵なドレスだね」とも付け加えたのだが、彼女は黙ったまま返事をしてくれない。僕は彼女の胸の谷間をのぞき込み、「この胸は本物?」と聞いてみた。彼女はぴくりとも動かず、僕の頬をひっぱたいてもくれなかった。
とうとう僕は振り返ってブーマーに聞いた。
「僕はクリスマスに何を望んでいるんだろう?」
彼は一瞬考え込むような表情をしてから、言った。「世界平和?」
「役立たず!」
「じゃあ、君のAmazonの望むものチェストには何が入ってるの?」とブーマーが聞いた。
「僕の何?」
「ほら、ネット通販のAmazonだよ。君の望むものチェストだよ」
「欲しいものリストのこと?」
「そう、それ」
そして次の瞬間、ふいに僕は自分の欲しいものがわかった。前からずっと欲しかったものだ。でもそれはあまりにも非現実的だったので、欲しいものリストに入れることもなかったのだ。
僕はベンチに座りたかったのだが、近くにあった唯一のベンチにはすでにエリザベス・テイラーと、ヒュー・ジャックマンと、クラーク・ゲーブルが並んで腰を下ろしていて、バスを待っていた。
「ちょっと待っててくれないか」と僕はブーマーに言ってから、(2003年頃の)オジー・オズボーンと彼の家族たちの背後に潜り込んだ。モレスキンのノートに書き込むためだ。
このノートに気の利いた馬鹿げたこと(馬鹿げたこざかしいこと?)を書くのは禁止だよね。
真実を書けばいいんだよね?
僕がクリスマスに欲しいものは、OEDの完全版だよ。
君は僕みたいな言語オタクではないかもしれないので念のため:
O = Oxford
E = English
D = Dictionary
つまり、オックスフォード英語大辞典が欲しいんだ。
簡略版ではなく、CDに入っているやつでもなく(どうしてもCD版は嫌なんだ)、
全20巻あって、
22,000ページに、
600,000語が掲載されている辞書だよ。
まさに英語という言語が到達した最も偉大な本だと言えるね。
安くはないよ。千ドル近くすると思うから。まあ、本の値段にしては高すぎるよね。でも、なんともまあ、本当に素晴らしい本なんだよ。僕たちが使っているあらゆる言葉の完全な系譜なんだ。思いも寄らないほど崇高な言葉なんてないし、微細すぎて取るに足らない言葉もない。言葉はすべて等価なんだ。
心の底ではね、うすうす伝わっていると思うけど、僕は多くの人には理解しがたい謎めいた存在でありたいんだ。僕は誰もが使っている言葉で人々をまごつかせるのが大好きなんだよ。
では、君になぞなぞを出すね。
僕の名前は言葉と言葉をつなぐものだよ。
こんな風にもったいぶるなんて子供じみているのはわかってる。でも本心を言えば、謎は少しでも長く謎のままにしておきたいという気持ちもあるし、一つ強調しておきたいことがあって名前に関するなぞなぞを出したんだ。僕の両親は意図して僕の名前をつけたわけではないと思うけど(そして僕の父親はむしろ名前が指し示す方向とは逆方向に僕を行かせようとしているんだけど)、僕はまさに僕の名前によって気づかされたんだ。世の中にはスポーツをして肉体的な喜びを得る人もいれば、薬に頼る人もいて、異性を口説き落として性的な喜びを得る人もいる。そんな中で僕は「言葉」から人間としての喜びを得るように運命づけられているんだって気づいたんだ。言葉を読んだり書いたりすることによってね。
勘違いしないでほしいんだけど、仮に君がお金持ちの家のお嬢さんで、謎の孤独な少年(やけに「言葉」を推してくるやつ)にOEDをクリスマスプレゼントとして贈りたくなったとしても、僕はOEDを贈り物として手に入れたいとは思っていないんだ。欲しくてたまらない気持ちと同じくらい、ただでもらいたくはないんだよ。僕はそれを自分の力で手に入れたいんだ。少なくともそれを買えるだけのお金を(どうにかして、言葉を通して)稼ぎたい。その頃には僕は今よりもずっと特別な存在になってるはず。
以上が皮肉めいたことを忍び込ませないで書ける限界だね。それと、先に書くべきだったかもしれないけど、どうしても言わなければならないことがあって、君の作ったクッキーは嘘偽りなく美味しくて、ここにある蝋人形に食べさせたら何体か生き返るのではないかと思うくらいだよ。美味しいクッキーをありがとう。僕も以前ウィリアムズバーグにいた頃、4年生の調理実習でコーン・マフィンを作ったことがあるんだけど、野球ボールみたいなできあがりだった。まだどういう形でクッキーのお返しをしたらいいか決めてないけど、必ずお返しするから。
ちょっと言語オタクっぷりをアピールしすぎたかと不安になった...でもすぐに、ストランド書店の本の山の中に赤いモレスキンのノートを忍ばせておくような女の子なら理解してくれるだろうと思い直した。
それから試練が待っていた。例の任務である。
オズボーンの家族たちの肩越しに様子をうかがってみたところ(彼の家族は、少なくとも蝋人形の彼らは、驚くほど背が低かった)、ブーマーがオバマ大統領の拳に向かって自分の拳を突き出しているのが見えた。
リンカーン大統領は他の政治家たちの前に立ちはだかり、身をていして銃弾みたいな写真のフラッシュを浴びていた。彼の写真を撮りまくるヨーロッパから来たらしい観光客の一団が、彼を暗殺したジョン・ウィルクス・ブースよりも悪党であるかのようだった。リンカーン大統領の横には彼の妻のメアリー・トッドだと思われる人物が立っていた...と思ったら彼女が動いたので、僕はやっと彼女が例の警備員だと気づいた。探すように指示されていた女性である。彼女はあの愛撫好きのサルおじさんから髭をとった感じの女性で、彼女のほうが年上のように見えた。次々と出てくるリリーの親戚に、いったい彼女の言うことを聞く親戚は何人いるんだよ、と僕はいぶかった。
「ねえ、ブーマー」と僕は言った。「僕の代わりに〈FAOシュヴァルツ〉でやってほしいことがあるんだけど、頼んでもいい?」
「おもちゃ屋?」と彼は聞いた。
「いや、薬局」
彼はぽかんと僕を見ていた。
「冗談、おもちゃ屋だよ」
「やった!」
きっと彼のクリスマス・イブの予定はがら空きだろうなと思わずにはいられなかった...。
6
(リリー)
12月24日
クリスマス・イブの朝、目覚めた私が最初に感じたのは混じり気のないわくわく感だった。「やった!とうとうクリスマス・イブだわ。1年のうちで最高の日の前日ね!」しかし次の瞬間、私はみじめな現状を思い出してしまった。「なんてこと、せっかくの日を一緒に祝う人が誰もいないなんて!」どうして私は両親の25年遅れの新婚旅行に、行っておいで、と賛成してしまったんだろう? そんな見栄を張った思いやりはクリスマスの時期にはふさわしくなかったわ。
おじいちゃんが飼っているブチ猫のグラントは、おめでたい気分で目覚めたと思ったら出ばなをくじかれた私の気持ちをわかってくれているみたいだった。グラントは、寝ている私の首元に体を激しくこすりつけると、私の肩に頭をもたせかけた。それから彼独特のうなり声をのどの奥から出して、私の耳の中に直接訴えかけた。「さっさとベッドから出て、吾輩のエサを用意しろ、人間!」と。
ラングストンはベニーに取られてしまったので、私はおじいちゃんの部屋に置いてある「リリーの葉っぱ」と呼んでいる私用のソファーベッドで夜を過ごしていた。「リリーの葉っぱ」は背もたれの付いた長いソファーで、古代風の幾何学模様をあしらったアフガン織の布をかぶせてあって、天窓から日光が差し込む最上階の部屋に置いてあった。元々おじいちゃんが1階で食料雑貨店をしていたんだけど、老後の生活のためにお店は売ってしまって、その後、私の家族が3階に引っ越してきて、おじいちゃんとおばあちゃんはそこで私のママとおじさんたちを育てたってわけ。
おばあちゃんは私が生まれる直前に死んじゃったの。たぶんそれで私はおじいちゃんにとって特別な女の子なのよ。私の名前はおばあちゃんからもらったもので、ちょうどおじいちゃんが最上階の部屋に移った頃、私が下の階に届けられる形で生まれたの。つまり彼は一人のリリーを失いつつも、別のリリーを手に入れたってわけね。彼が言うには、毎日階段をのぼっていれば若さを保てるから、上の階の部屋を改装して、そこで独り身に戻った人生の晩年を過ごすことにしたんですって。
おじいちゃんがフロリダの別荘に行っている時は、私が猫のグラントの世話をすることになってるの。グラントはむっつりしていて気難しい猫だけど、でも近頃はラングストンよりは好きね。餌をあげるのを忘れたり、柔らかい毛で覆われた頭を必要以上に撫でたり、嫌がってるのにキスしたりしない限り、誰かさんと違ってグラントは私に冷たくしないから。グラントは私の生活空間の中で飼うことを許された私のペットとも言える存在なのよ。
私が小さかったとき、ホリーとホビーという名の拾ってきた猫を2匹飼っていたんだけど、突然いなくなっちゃったの。2匹とも猫の白血病で死んだのよ。当時は私だけ理解してなかったけどね。ホリーとホビーは「大学」に進学するから家を出たって言われたわ。だからもう会えないって。ホリーとホビーが「大学」に進学したのは、アレチネズミの事件があってからまだ2年しか経っていない頃だったから、たぶん本当の理由は私には言わないほうがいいって判断したんだと思う。でも、もしあのとき正直に話してくれていたら、周りのみんなにつらい思いをさせずに済んだとも思う。
8歳の私はおじいちゃんと一緒に、いとこのマークに会いに行ったの。彼はウィリアムズ大学の1年生で寮生活をしていたわ。私はその週末を丸々使って、「大学」の周りの路地を駆けずり回ったり、図書館の本棚の隙間という隙間をのぞき込んだりして、私の猫を探したのよ。それで結局マークが私に本当のことを打ち明けたわ。大学の広い食堂でね。それにしてもどうしてマークの大学の施設って、どこの大学もそうかもしれないけど、立派な建物ばかりなの? 空にそびえる大きな食堂だったわ。そこで〈金切り声のリリー事件〉の第2幕が始まったのよ。来年、私がウィリアムズ大学に出願しなかったことに大学側は胸をなでおろすでしょうね。
それ以来、何年もの間、私は事あるごとに子猫や、カメや、犬や、オウムや、トカゲを飼いたいってお願いしたけれど、すべて却下されたわ。それなのに私は両親がクリスマスに旅行に行くのを止めなかったのよ。罪悪感にさいなまれるのも嫌だしね。まったくもう、不当な扱いを受けているのは誰なのよ? と私は天窓の向こうに問いかけた。
特に祝日には私は自分のことを楽天家だと思いたいのに、今年のクリスマスにおちいった、この冷たくて悲惨な状況は否定したくてもできなかった。両親はフィジーに旅行に行ってしまって、ラングストンはベニーにぞっこんでべったりだし、おじいちゃんはフロリダで、いとこたちはマンハッタンから遠く離れた場所に散らばって暮らしている。12月24日といえば、1年で最もわくわくする日の最もわくわくする前日のはずなのに、ぽっかり穴の開いたつまらない日になりそうだった。
もし私に一緒に出かける女の子の友達でもいれば、こういう時に助かるんでしょうね。でも学校では無名の人物としてひっそり過ごすのが居心地いいの。サッカー場だけは別ね。あそこでは私はスーパースターなのよ。ただ、どうしてなのか不思議なんだけど、何試合も窮地を救ってきた私のゴールキーパーとしての腕は全然、私の人気につながらないの。そうね、みんな尊敬はしてくれているみたい。でも映画に誘われたり、放課後一緒に出かけたりすることは全くないわ。(私のパパは私の学校の副校長なのよ。私にとっては役に立つどころか迷惑なくらい。だって、たぶん私と仲良くするのはなにかとリスクがあるって思われてるのよ。)私の運動神経の良さと相まって、私が人付き合いに全く無関心なことが後押しして、私はサッカーチームのキャプテンに選ばれたんだわ。私は誰とも仲良くないってみんな知ってるから、誰とでもうまくやっていけるただ一人の人だったのよ。
クリスマス・イブの朝、私は来年の誓いとして、この心の空白を埋めることに取り組もうと決心した。金切り声は引っ込めて、フリルで愛想よく飾ったリリーになる計画よ。もっとフレンドリーな女の子になれば、またいつか特別な祝日に私の家族が私を見捨ててひとりぼっちになってしまっても、誰かしら支えになってくれるはずだわ。
私は今までクリスマスを一緒に過ごす特別な人のことなんて気にかけたこともなかった。
でも気づいたら、私のそばには赤いモレスキンのノートしかなかった。
そして、この〈ノートブック・ゲーム〉の「名無しくん」は私の興味を凄く刺激する存在で、「律儀に名前を伝えた私」の元にノートが返ってきたことをメールで知らされるたびに、体中に電気が走ったような胸の高まりを感じた。でも同時に彼は悩みの種でもあった。一人ではなく、二人でもなく、三人の親戚(ストランド書店のいとこのマーク、メイシーズ・デパートのサルおじさん、そしてマダム・タッソー館の大叔母さんのアイダ)がみんな一様に、ノートの謎の少年を「やかましい」とか「ひねくれている」という意味の「snarl」という言葉を使って言い表した。三人とも彼を「謎めいていて」、「不可解」だと思っているみたいで、名前のような簡単なことも言えない彼を怪しんでいた。それなのにどうして私はこのおかしなゲームのことで思い悩んでいるのか自分でも不思議だった。しかも誰も彼が格好いいかどうかについては何も言ってくれなかった。
あのアニメ映画『コレイション』に出てきたような理想的で純粋な愛の形に憧れるのはいけないことなのかしら? ああ、私はホッチキスを乗せて会議室を飛び回る、あの一枚の紙になりたくてしかたないわ。会議室の窓から摩天楼の素晴らしい景色を背中の彼に見せてあげるのよ。ついでにバラ色の年間売り上げの見通し表も見せてあげるわ。役員室の机には悪党のヒトデみたいな内線電話が置いてあって、それを避けて飛ぶのよ。クリストファー・ウォーケンが声を担当しているダンテという名の内線電話は、その会社の敵対的買収を密かにもくろんでいてね。ダンテに捕らえられて捕虜となった私を、あのホッチキスの英雄〈スウィングライン〉が救ってくれるの。内緒の妄想だけどね。なんだか私、ホッチキスでパチンって...とめられたいの。(私って下品かしら? 男に媚びすぎ? そんなつもりはないんだけどね。)
ひねくれ男子くんは私の妄想に出てくるようなホッチキスではないでしょうけど、私はひねくれ男子くんが好きかもしれない。たとえ彼が自分の名前も言えないほどのうぬぼれ屋だとしてもね。
彼がクリスマスにOEDを欲しがっているというのも好感が持てるわ。それってはたから見たら気持ち悪いことよね。実は私、その彼が欲しいものを彼に与える方法を知ってるのよ。彼に言ったらどんな反応をするかしらね。しかも無料でよ。でも、まず彼はそれを受けるにふさわしい男だって証明する必要があるわ。名前も明かせないような人なら、どうかしらね。
「僕の名前は言葉と言葉をつなぐものだよ。」
これっていったいどういう意味なの?!?!? 私はアインシュタインじゃないのよ、ひねくれ男子くん。もしかして、あなたって電車男?(アムトラック鉄道と地下鉄メトロノースをつなぐ人?)つまり車掌さん? それがあなたの名前なの?
「OED以外で僕がクリスマスに望んでいることがもう一つあって、君がクリスマスに心から望んでいることを僕に教えてほしいんだ。ただし物ではなくて、もっと感覚的なもので、お店では買えないような、可愛らしい箱に入れてギフト包装できないような何か。それをこのノートに書いてほしい。そしたらクリスマス・イブの正午に〈FAOシュヴァルツ〉に行って、『オリジナル人形を作ろう』のコーナーにいる働きバチに預けてほしい。幸運を祈るよ。(そうだね、天才小悪魔ちゃん、君をクリスマス・イブに〈FAOシュヴァルツ〉に行かせるのは、〈メイシーズ・デパート〉の仕返しだと思って構わないよ。)」
逆にひねくれ車掌くんは自分を運がいいと思うべきね。今年のクリスマスがこんなに最悪じゃなかったら、君なんか相手にしてないでしょうから。というのも、通常ならこの日の私は、(1) クリスマス・ソングを流して、それに合わせて歌いながら、翌日のクリスマス・ディナーのためにママと一緒に食材を切ったり、皮をむいたりしているか、(2) パパと一緒にいろんな人にあげるプレゼントを包装して、ツリーの周りに形よく積み上げているか、(3) ラングストンが明日の朝5時にちゃんと起きて私と一緒にプレゼントを開けられるように、彼の水筒に睡眠導入剤を入れて早めに寝かせるべきかどうかを考えているか、(4) おじいちゃんが私の編んだセーターを気に入ってくれるかどうか気にしているか(下手なりに毎年上達してきてるのよ。それにラングストンと違って、おじいちゃんは私の編んだセーターを着てくれるしね)、そして、(5) 明日の朝、私は新品の自転車をもらえるのかしら、それとも自転車と同じくらい豪華で素晴らしいプレゼントが私を待っているのかしらって、祈るような気持ちで期待に胸を膨らませているはずなのよ。
ひねくれ男子くんが私のことを「天才小悪魔ちゃん」と呼んでいる箇所を読み返して、私は身震いした。私は天才小悪魔なんかではないけれど、その呼び方はひっそりと私の心を打った。彼は私のことを考えているようだったから。ノートの中の私ではなく、ここに存在する「私」を。
私はグラントに餌をあげた後、植物に水をあげようと思い、おじいちゃんの部屋を歩いて、ガラス張りの扉の方へ向かった。その扉を開けると外は屋上庭園になっている。私はガラス扉の暖かい内側から、外の冷えた街を眺めた。北の方に、夜になるとクリスマス・カラーの赤と緑にライトアップされるはずのエンパイア・ステート・ビルディングが見える。そこから東へ目を向けると、ミッドタウンにあるクライスラー・ビルディングが見えた。その近くには、もし彼の挑戦を受けて立つとしたら行くことになる〈FAOシュヴァルツ〉がある。(もちろん私は行くつもりだった。いったい私は誰とゲームをしているのかしら? 金切り声のリリーともあろう者がどうしてこんなに躍起になって、マダム・タッソー館から私の元へ返ってきた、この赤いモレスキンのノートに書かれた指令を実行しようとしているのかしら? ありえないわね。)
私の古い寝袋が外の庭園に置いてあるのに気づいた。ラングストンと私がまだ凄く小さかった頃、一緒に入ってクリスマス・イブに体を寄せ合っていた寝袋だ。パパが独特の言い回しで、こう言ったのを覚えている。「しっかり寝袋のチャックをして、クリスマスの朝が来るまで、はやる気持ちを中に閉じ込めておきなさい。」ラングストンとベニーが寝袋の中で丸まっているのが見えた。その上にラングストンのベッドから持ってきたらしい青い掛け布団がかかっていた。
私は外へ出た。ちょうど彼らが目覚めたところだった。
「ハッピー・クリスマス・イブ!」と私は甲高い声で言った。「あなたたち二人は昨夜からここで寝てるの? あなたたちが部屋に入ってくる音はしなかったから、きっと外で凍えていたんでしょうね!さあ、今朝はたくさん朝食を作りましょうよ。そうね、卵を焼いて、トーストとパンケーキと...」
「オレンジ・ジュース」ラングストンが咳をした。「頼む、リリー、角の店まで行って僕らのために新鮮なオレンジ・ジュースを買ってきてくれないか」
ベニーも咳をした。「風邪に効くエキナセアもお願い!」
「真冬に外で寝るなんて、あんまり賢いとは言えないわね、でしょ?」と私は言った。
「昨夜は星空の下で寝るのもロマンチックだと思ったんだ」と、ラングストンはため息まじりに言って、くしゃみをした。そしてもう一度くしゃみをしてから、今度は痰の絡んだ大きな咳をした。「僕らにスープを作ってくれ、頼む、頼む、頼むよ、リリーベアちゃん」
どうやら私の兄が風邪を引いたことが最後の決め手となって、完全に今年のクリスマスは台無しになったようだ。クリスマスらしいクリスマスを過ごすという望みはもう全く残っていなかった。昨夜、彼はこのリリーベアの特別な誘いを断って、私とボグルをして過ごす代わりに、ボーイフレンドと一緒に外で寝ることを選んだんだから自業自得だと思った。まったく、彼が私を必要としていた時期には特別にボグルをしてあげたっていうのに。ラングストンの馬鹿、この危機は自分でなんとかしなさい。
「スープは自分で作りなさい」と私は二人に言った。「オレンジ・ジュースも自分で買ってきてね。私はミッドタウンまで行く用事があるのよ」私は振り向くと室内に戻ろうとした。たちの悪い風邪でも引けばいいのよ。まったくもう、馬鹿な二人。外出してクラブに行ったりせずに、家で私とボグルをやるのが一番だってことを彼らは思い知るべきよ。
「君は来年フィジーに行って苦労するだろうね。僕はマンハッタンに残って、角の食料雑貨店に何でも注文できるんだ。食べ物も飲み物も好きな時に宅配してもらえるんだよ!」とラングストンは声高に言った。
私はクルッと振り返った。「ちょっと、あなた今なんて言った?」
ラングストンは掛け布団を引っ張って頭にかぶせた。「なんでもない。気にしないで」と、彼は布団の下で言った。
彼のそんな態度から判断して、大事なことに違いなかった。
「いったい何の話なのよ、ラングストン?」と私は言った。もうすぐ〈金切り声のリリー〉になってパニックに陥りそうだった。
ベニーも掛け布団の下から頭を出した。そしてラングストンに話しかけた。「もう彼女に話してあげなよ。そこまで口を滑らせたのなら、中途半端にしないで全部言っちゃいな」
「何について口を滑らせたのよ、ラングストン?」私はほとんど泣き出しそうだった。でも私は新年の誓いとして金切り声は引っ込めると決めたのだ。新年まではまだ1週間あるけれど、いつかは始めなければならないし、まさに今が絶好の時だと感じた。だから私は震えながらも気持ちを強く保って立っていた―泣くもんか。
ラングストンが掛け布団の下から再び顔を出した。「ママとパパは新婚旅行をやり直すってことでフィジーに行ってるけど、目的はそれだけじゃないんだ。フィジーの全寮制の学校を訪問してるんだよ。その学校からパパに校長の依頼があったんだ。来年から2年間ね」
「ママとパパはフィジーなんかに住みたがらないわ!」私は息巻いた。「休暇を利用して旅行に行くなら楽園でしょうね。でも人の住むところじゃないわ」
「フィジーにはたくさんの人が住んでるよ、リリー。それにその学校は親が外交官みたいな仕事をしている子供たちのための学校なんだ。親の勤務地がインドネシアとかミクロネシアとか...」
「ネシア、ネシア言わないで!」と私は言った。「どうして外交官の親が子供をフィジーの馬鹿な学校に通わせたりするわけ?」
「聞くところによると、かなり立派な学校らしいよ。勤務地の地元の学校には子供を通わせたくないけれど、かと言ってアメリカとかイギリスの遠く離れた学校に通わせて単身赴任するのも嫌という親には、絶好の選択肢になってるらしい」
「私は行かないから」と私は宣言した。
ラングストンは言った。「ママにとっても良い機会なんだよ。長期有給休暇を取って、フィジーで自分の研究と本の執筆に打ち込むことができるからね」
「私は行かないから」と私は繰り返した。「私はマンハッタンでの暮らしが好きなのよ。ここでずっとおじいちゃんと暮らすわ」
ラングストンはまた掛け布団を頭までかぶってしまった。
その様子からすると、その話にはまだ続きがあるってことだ。
「なんなのよ?!?!?」と私は迫った。今度は何を言われるのかと内心怯えていた。
「おじいちゃんは新しいおばあちゃんになる人にプロポーズするんだよ。フロリダで」
彼女はみんなに紹介されたがっているみたいだから言うけど、その女性はフロリダに住んでいるおじいちゃんの恋人で、彼女のせいでおじいちゃんはクリスマスに私たちを見捨ててフロリダに行ってしまったのよ。私は言った。「彼女の名前はメイベルよ!私が彼女を新しいおばあちゃんと呼ぶことはこれからもないわ!」
「好きに呼べばいいさ。でももうすぐ彼女はおじいちゃんの妻になるだろうね。そしてそうなったら、僕の予想では、おじいちゃんはずっと向こうに住むよ」
「あなたの言うことなんか信じない」
ラングストンが体を起こしたので、彼の顔が見えた。生気のない顔をしていたが、彼は痛々しいほど誠実だった。「きっとそうなるよ」
「なんで誰も私に教えてくれなかったの?」
「みんな君を守ろうとしてるんだ。はっきりと物事が決まるまでは君に心配をかけたくないんだよ」
こんな風に〈金切り声のリリー〉は生まれたんだわ。必死になって私を「守ろう」とする人たちが生んだのよ。
「ちゃんと守れよ!」と、私はラングストンに向かって中指を突き立てて叫んだ。
「ほら、金切り声のリリーだ!」と彼は注意した。「君らしくないよ」
「私らしいって何?」と私は問いかけた。
私は屋上庭園から嵐のように室内に戻ると、年老いたグラントをどなりつけた。とばっちりを受けたグラントは朝食を食べ終えて、自分の手を舐めているところだった。それでも私の嵐は収まらず、階段を駆け下りて、「私」のアパートの「私」の部屋に駆け込んだ。マンハッタンは「私」の街なのよ。「誰も私をフィジーに行かせることはできないわ」と、私は出かけるために着替えながらつぶやいた。
こんなにも悲惨なクリスマスになってしまって私の思考は停止していた。何も考えられなかった。もうたくさんだった。
私の手元に赤いモレスキンのノートがあることに救われるような思いだった。このノートには秘密を打ち明けて何でも書けるから。そして、このノートは逆側からひねくれ男子くんが読んでくれている―ひょっとしたら私のことを気にかけている―そう思うと、今すぐにでもペンを走らせて彼の質問に答えたかった。ひねくれ男子くんが指示してきたミッドタウンへ向かうために、私はアスター・プレイス駅のベンチに座って地下鉄を待ちながら、時間を持て余していた。なかなか来ないことで有名な6番ホームの電車は、いつものように全く姿を現す気配はない。
そこで私は書き始めた:
私がクリスマスに望んでいるのは信じることよ。
希望なんて持っても無駄だという証拠なら溢れているけれど、それでも私は希望を持つことには意味があると信じたい。私は今アスター・プレイス駅のホームのベンチでこれを書いているんだけど、私が座っているベンチから1メートルも離れていないところで、ホームレスの男性が汚い毛布をかぶって寝ているの。アップタウン寄りのホームよ。線路の向こうのダウンタウン寄りにはKマートの前に出る入口が見えるわ。それがどうした?って聞かれても困るんだけど、私があなたに向けてこれを書き始めたら彼が視界に入ってね、そしたら書き進められなくなっちゃったの。それで私はKマートまで走って行って、スニッカーズがたくさん入った「お徳用パック」をひと袋買ってきて、彼の毛布の下にそっと滑り込ませたのよ。でも余計に悲しくなっちゃった。だって彼の靴はボロボロで、汚い体から臭いもするし、きっとスニッカーズをひと袋あげたところで、この人の人生は大して変わらないだろうなって思っちゃったの、つきつめて考えるとね。彼を取り巻くいろんな問題はひと袋のスニッカーズでは太刀打ちできないほど膨大なのよ。時々私は頭に浮かぶこういう考えをどう処理したらいいかわからなくなるの。たとえば、ここニューヨークでは、特にこのクリスマスの時期は、ビシッとスーツを着た男性や派手な洋服を身にまとった女性をたくさん見かけるけれど、でもそれと同じくらい多くの苦しんでいる人たちも目にするわ。このホームを歩く人たちは、まるでこの男性が存在していないかのように彼を無視しているし、私はどうしてこんな事が起きているのかわからない。おかしいのは私じゃないって信じたいし、私は期待しているのよ。もうすぐ彼は目覚めて、そこに社会福祉士がやって来て、彼を避難施設に連れて行くの。そして彼は温かいシャワーを浴びて、食事をして、ベッドで寝て、それから社会福祉士の助けを借りて仕事とアパートを見つけて...わかる? 乗り越えなければならないことがありすぎね。こういうことが起こること―または誰かが現れること―を期待するのは、たぶん無駄なのよね。
私は頭の中で自分の信じていることについて、あるいはただの思い込みかもしれないけれど、そういうことをごちゃごちゃ考えているとね、自分では処理しきれなくなっちゃうの。頭の中がいろんな情報でいっぱいになるの、しかも嫌な情報ばっかり。
でもね、あらゆる科学的証拠があり得ないと示していても、私は希望を持ちたいんだって心から感じるの。私は地球温暖化がなくなることを望んでいるし、誰もホームレスにならないことを望んでいるし、苦しみがこの世からなくなることを望んでいるのよ。私の希望は無駄ではないって信じたいわ。
それから私は自分が悪い人ではないと信じたい。というのも、このような徳量寛大(OED的な言葉でしょ?)なことを望みながらも、内心では完全に自己中心的なことを期待していたりするからね。
つまり私は、ただ私のためだけに存在している人がどこかにいるって信じたいし、私もその誰かのためだけに存在しているんだって信じたい。
『フラニーとゾーイー』を思い出して。(おそらくあなたはこの本を読んだことがあって、しかもあなたがストランド書店でこのモレスキンのノートを見つけた場所から判断すると、あなたの愛読書なんじゃないかしら?)あれは1950年代の話だけど、フラニーがどうしてあのような、ちょっと常軌を逸したみたいな女の子になったのかを思い出してほしいのよ。彼女は誰かに教え込まれた宗教的な祈りの中に、人生の意味が隠されているんだって考えた。そして、あれこれ考えているうちに少し錯乱しちゃったのよ。そうでしょ? 兄のゾーイーも彼女の母親も、フラニーの頭の中で何が進行していたのか理解できなかったけれど、私には手に取るようにわかるわ。私も彼女と同じように、祈りの中で人生の意味が提示されるという考えに惹かれるでしょうし、祈り続ければいつかは人生の意味にたどり着けるかしらとか、あれこれ考えて、それは私の理解の及ばない、手の届かない境地だと思ってしまったら、おそらく私も取り乱すでしょうね。(それから、もし私がフラニーならね、私も素敵なビンテージものの洋服を着ようとするでしょうけど、でも私もああいうレーンみたいなボーイフレンドを欲しがるかっていうことに関しては疑わしいわ。彼はエール大学の学生で、ちょっと嫌味な男だけど、彼と一緒に街を歩くとみんなが羨ましがるような人よね。私はもっと...なんていうか...不可解な人と付き合いたいわ。)本の最後の方で、ゾーイーがフラニーに電話をかけて、彼らの兄であるバディのふりをしながら彼女を励まそうとする場面があるけれど、そこにこういう一節があるわ。「フラニーは鳴っている電話の方へ歩きながら、『一歩ずつ若返っていた。』なぜなら彼女はあちら側の世界にたどり着こうとしていたからだ。」彼女は元気になっていくんでしょうね。少なくとも私はそういう意味だと解釈したわ。
私が望んでいるのはそういうことよ。希望と信念を持って、先を見据えて歩きながら、一歩ずつ若返っていきたいの。
お祈りはしてもしなくても、あらゆる反証の材料が揃っていたとしても、私は誰でもそういうたった一人の特別な人を見つけることが可能だって信じたい。一緒にクリスマスを過ごしたり、一緒に歳を取ったり、セントラル・パークを歩きながら馬鹿話ができる人よ。他の人を判断するときに、前置きが長い人や、なかなかピリオドを打たない長い台詞を延々とまくし立てる人は嫌ね。つまり、相手が口にした言葉の語源とかを持ち出すような気取り屋ではない人がいいわ。(私の言葉の選び方から私がどんな人かわかったでしょ? そうね、時々私も自分の言葉に驚くことがあるわ。)
信念よ。それが私のクリスマスの望み。「Belief(信念)」って辞書で調べてみて。たぶんこの言葉には私が知っている以上の意味があるんでしょうね。あなたならそれを私に説明することができそうね?
私は地下鉄がホームに入ってきたときもまだノートを書き続けていた。車内に乗り込んでからも書き続け、ちょうど電車がレキシントン・アベニュー/59丁目駅に到着したとき、書き終えた。私と一緒に大勢の人が電車を降りて、ブルーミングデール百貨店に入っていくか、そうでなければ外の通りへと出て行った。私は考えないと決めたことについては考えまいと意識を集中していた。
私は歩きながら、一歩ずつ変化していた。
ただ、私はもうそのことについて考えていなかったけれど。
私はブルーミングデールズ百貨店を横目に〈FAOシュヴァルツ〉の方へまっすぐに歩いて行き、そこで、ひねくれ男子くんが「仕返し」と書いていた意味に気づかされた。〈FAOシュヴァルツ〉の前の通りで私を出迎えてくれたのは「行列」だった。―店内に入ろうとする人たちが並んでいるのだ!私は入口にたどり着くまでに20分も待たなければならなかった。
でもなんといっても、私はクリスマスが大好きなのよ。ほんとにほんとに、本当に大好きで、クリスマスの買い物に来た200万人もの人々がごった返すの中に押し込まれたとしても平気よ、全然何ともなかったわ。店内に入った瞬間から店を出るまでずっと、あらゆるものが愛おしかった。スピーカーから流れるジングルベルや、店内に大々的に並べられた色とりどりのおもちゃに私の胸は高鳴ったわ。通路から通路へと歩きながら、目の前に次々と色々なフロアが現れる様は楽しくて、胸が躍り出すようだった。きっとひねくれ男子くんはすでに私のことをよくわかっているんだわ。彼がクリスマスの時期に、こんなに素晴らしい綺麗な物で溢れている唯一の場所ともいえる〈FAOシュヴァルツ〉に私を送り込んだということは、彼はおそらく精神的なレベルまで私を理解しているのよ。ひねくれ男子くんも私と同じくらいクリスマスが大好きなんだわ。
私は案内係のいるカウンターに行って、「オリジナル人形を作ろうのコーナーはどこですか?」と聞いた。
「申し訳ございません」と、その案内係は言った。「人形のコーナーはクリスマス期間は休ませてもらっていまして、実は『コレイション』のフィギュアを飾るために、そのスペースが必要になりまして」
「あの紙とホッチキスのフィギュアもあるんですか?」と私は聞いた。どうして私はサンタにお願いする〈欲しいものリスト〉の中に『コレイション』のフィギュアを入れなかったのかしら?
「それがですね、ここだけの話ですよ。運が良ければ、3番街の〈オフィス・マックス〉に行けば、フレデリコとダンテのフィギュアがまだ残っているかもしれません。その二つはこの店では発売初日に売り切れてしまったんです。私から聞いたって言わないでくださいね」
「あの、聞きたいんですけど」と私は言った。「今日この店に人形作りのコーナーがあるはずなんです。モレスキンにそう書いてあるから」
「何とおっしゃったのですか?」
「なんでもないわ」私はため息をついた。
私はキャンディー売り場とアイスクリームの売店とバービー人形のコーナーを通り過ぎて、2階に上がり、モデルガンやレゴブロックで作った戦場のジオラマが並んだ男子向けのおもちゃ売り場を通って、買い物客と商品が織りなす迷宮をくぐり抜けて、ついに『コレイション』のグッズコーナーにたどり着いた。「すみません」と私はそこにいた店員に言った。「ここに人形作りのコーナーはありますか?」
「あるわけないじゃない」と彼女は吐き捨てるように言った。「あれは4月のイベントよ」何当たり前のこと言ってるの? そんなことも知らないの? と軽蔑しているような口ぶりだった。
「それは失礼!」と私は言った。誰か彼女を来年フィジーに島流しにして、と私は願っていた。
私は諦めて店を出ようとした。モレスキンのノートに書かれていたことを信じた私がいけなかったのだ。その時、肩をポンと叩かれた。振り向くと、大学生くらいの歳の女の子が立っていた。『ハリー・ポッター』に出てくるハーマイオニーみたいな服装をしている。きっとお店の従業員だろうと思った。
「あなたが人形作りのコーナーを探してる子?」と彼女が聞いてきた。
「私ですか?」と私は言った。こういう風に疑問形で答えたのは、ハーマイオニーが私の任務を知っていることを、私は期待しているのか疑問だったからだと思う。それしか理由が思いつかないわ。私は前からハーマイオニーに憤りを感じていたの。というのも、私は彼女になりたくてたまらないというのに、彼女は自分の価値に気づいてなくて、どれほど恵まれた存在なのかをわかっていないみたいだったから。羨ましいことに彼女はホグワーツ魔法魔術学校で暮らすことになって、ハリーの友達になって、ロンとキスをするのよ。私がロンとキスするはずだったのに。
「私と一緒に来て」と、ハーマイオニーがやや命令口調で言った。ハーマイオニーみたいなおしゃれな女の子を無視して立ち去るのはおろかな行為に思え、私は彼女についていった。店の奥へ奥へと進み、店内で一番暗い一角にたどり着くと、そこには〈シリーパティー〉や〈ボグル〉のような、もう誰にも見向きもされなくなったおもちゃが置かれていた。彼女はキリンのぬいぐるみがいくつも並べられた巨大な棚の前で立ち止まると、その棚の後ろの壁を軽く叩いた。すると突然、その壁が開いたのだ。それは人目に付かないようにキリンでカモフラージュされたドアだったというわけね。(OED的に言うと、「キリンフラージュ」かしら?)
私はハーマイオニーの後に続いて中に入った。そこは物置部屋みたいな小さな部屋で、作業台が一つあり、その上にマペット人形の頭やパーツ(目、鼻、メガネ、シャツ、髪など)がきちんと整理されて載っていた。そのトランプ用テーブルみたいな作業台の向こう側には、チワワが人間になったみたいな10代の少年が座っていた。―小柄なのにやけに堂々としている印象だった。―彼はどうやら私を待っていたらしい。
「君が例の彼女か!」と、彼は私を指差しながら言った。「思ってた感じと全然違うじゃん!まあ、君がどんな子なのか想像しようとはしなかったけど」彼は声もチワワみたいで、ブルブル震えてはいたが、同時に快活さもひしひしと伝わってきて、どことなく愛嬌もあった。
私は母に常日頃から、人を指差すのは失礼に当たると教え込まれてきた。
でも今、母は彼女自身の気持ちを改める旅に出ていてフィジーにいる。よって怒られる心配はないと思い、私はその少年を指差し返して、「私がその私よ!」と言い返した。
ハーマイオニーが私たちに向かって、シッと静かにするようにうながした。「目立たないように小声で話してちょうだい!あなたたちにこの部屋を貸せるのは15分だけよ」彼女は私を怪しむようにじっと見てきた。「あなたタバコは吸わないわよね?」
「もちろん吸わないわ!」と私は言った。
「何かしようと思わないで。この物置部屋は飛行機のトイレと同じだと思ってね。さあ話を始めなさい。でも煙探知器とか他の機器が見張っていることは忘れないで」
その少年が言った。「テロ対策だ!厳戒態勢だ!」
「黙って、ブーマー」とハーマイオニーは言った。「彼女を怖がらせないで」
「君はボクをブーマーと呼ぶほどボクのことを知らないじゃないか」と、ブーマー(というらしい少年)は言った。「ボクの名前はジョンだよ」
「私は『ブーマー』だって聞いたからそう呼んだのよ、ブーマー」とハーマイオニーは言った。
「ブーマー」と私はさえぎった。「どうして私はここに連れてこられたの?」
「君は誰かに渡したいノートを持ってるんじゃない?」と彼が聞いてきた。
「かもしれないわね。その人の名前はなんていうの?」と私は聞いた。
「それは機密情報なんだ!」とブーマーは言った。
「ほんとに?」私はため息をついた。
「本当だよ!」と彼は言った。
私はハーマイオニーの顔を見た。女同士の連帯感が生まれるのを期待したのだが、彼女は私に向かって首を振った。「だめよ」と彼女は言った。「私から聞き出そうとしても無駄よ」
「じゃあ、この状況はいったい何なの?」と私は聞いた。
「君のオリジナルのマペット人形を作ろうのコーナーだよ!」とブーマーが言った。「君のために用意したんだ。君の特別な友達が、君のために準備したんだよ」
今のところ、本当に最悪な一日だった。一時は何か良いことが起こりそうな予感もあったけれど、私はこんな遊びを続けたいのかわからなくなった。今までの人生で一度もタバコを吸いたいなんて思ったことはないけれど、突然タバコに火をつけたくなった。そうすれば火災報知器が作動して、この状況から抜け出せるかもしれないから。
考えたくないことが多すぎるのよ。そういうことをすべて考えないようにしていたら疲れてしまった。私は家に帰りたくなった。帰ったら兄のことは無視して、『若草の頃』を見るのよ。そして、可愛らしいマーガレット・オブライエンが雪だるまを叩き壊すシーンで泣くの(あそこが一番好き)。私はフィジーのこともフロリダのことも、他のどんなことも―誰のことも―考えたくなかった。「ブーマー」がひねくれ男子くんの名前を明かさないのなら、あるいは彼について名前以外のことも一切言わないつもりなら、私はここにいていったい何になるの?
私が何かここにいる理由になるようなものを求めているのを察したかのように、ブーマーが〈スノーキャップス〉をひと箱渡してきた。私は映画を見ながらこれを食べるのが大好きだった。「君の友達が」とブーマーは言った。「彼が君に渡してほしいって。とりあえずのプレゼントだって。他のプレゼントも用意してるみたいだけど、もしかしたらね」
いいわ、いいわ、いいわよ、私はこのゲームを続けるわ。(ひねくれ男子くんが私にチョコをくれたのよ!あー、私は彼が大好きかもしれない!)
私は作業台の前に座った。私はひねくれ男子くんがどんな顔をしているのか思い浮かべ、それに似せてパペット人形を作ることに決めた。私は青の頭と胴体を選んで、その上に黒の髪の毛をかぶせて初期のビートルズの髪型っぽく整えてから、バディ・ホリーみたいな黒のメガネ(私のメガネに似てないこともないけど)をつけて、紫のボウリングシャツを着させた。それからピンクの毛で覆われたゴルフボールみたいな鼻をくっつけた。『セサミストリート』のグローバーみたいにね。最後に赤のフェルトを、ひねくれている感じの唇の形に切って、口の位置に貼り付けた。
私は10歳の頃を思い出していた。―といってもそんなに前のことでもないんだけど、―当時の私は〈アメリカンガール〉の店内にある美容院に行くのが大好きで、人形の髪をアレンジしてもらいによく行っていた。そしてある時、私は店長に自分でアメリカンガール人形をデザインしてもいいですか?と訊ねたの。私の頭にはすでにイメージができていたわ。―ラションダ・ジョーンズっていう名前の12歳の女の子で、1978年頃にイリノイ州のスコーキーで生まれて、ローラースケートダンスの大会で優勝経験があるのよ。私は彼女の経歴も、どんな洋服を好んで着るかも、すでに何もかもイメージできていた。でも私が店長に、〈アメリカンガール〉宮殿の中でラションダを作りたいから手伝ってくれますか?って聞いたら、私が何かとてもいけないことを言ったみたいな目で私を見てきたの。そうね、まるで私が小さな革命家で、〈マテル〉、〈ハズブロ〉、〈ディズニー〉、〈ミルトン・ブラッドリー〉といった大きなおもちゃ屋のそれぞれの本店を同時に爆破してもいいですか?って丁寧に訊ねたみたいな表情だったわ。
たとえ彼の名前が機密情報だとしても、私はひねくれ男子くんに抱きつきたかった。だって彼は無意識だろうけど、私の秘密の夢を叶えてくれたんですもの。―おもちゃのメッカともいえる場所で私のオリジナル人形を作るという夢を叶えてくれたのよ。
「あなたはサッカーをやってるの?」とハーマイオニーが私に聞いてきた。彼女は私が人形作りに使わなかった洋服をたたんでしまっていた。彼女のたたみ方がその道の達人みたいに手慣れていたので、彼女は〈GAP〉の店員で、一時的にこの店に借り出されているのではないかと思ったりした。
「やってるわ」と私は言った。
「だと思った」と彼女は言った。「私は今大学1年だけど、昨年私が高3だったとき、私の高校があなたの高校と試合をしたことがあったと思う。あなたのこと覚えてるわ。あなたのチームはそんなに強くなかったけど、あなたはかなり力強いキーパーだった。他の選手がプレーよりもリップグロスの光り具合を気にしているというのに、あなたは他の選手のことなんかお構いなしって感じで、必死でシュートを止めていたわ。あなたはキャプテンでしょ? 私もキャプテンだったのよ」
ハーマイオニーにどこの高校でサッカーをしていたのか聞こうとしたら、先に彼女がこんなことを言ってきた。「あなたはソフィアとは違うタイプの子ね。でも、あなたのほうが見た目は面白いわ。そのトナカイ柄のカーディガンの下に着てるのは、あなたの学校の制服のシャツ? 変な格好ね。ソフィアはもっとずっと華やかな洋服を着ているわ。スペイン出身の子よ。あなたもカタルーニャ語を話せるの?」
「No(いいえ)」
私はカタルーニャ語で「No」と言ったのだが、その言葉は英語でも同じように聞こえるので、ハーマイオニーは気づかなかった。
私はフィジーでは何語が話されているんだろうと思ったりもした。
「時間よ、おしまい!」とハーマイオニーが言った。
私はそのマペット人形を目の前に掲げると、「そなたに〈ひねくれ君〉という洗礼名をさずけるわ」と人形に向かって言った。私は〈ひねくれ君〉をブーマーという名の少年に手渡した。「これを〈名無しの彼〉に渡してちょうだい」それから赤いモレスキンのノートも渡した。「これもお願い。でも、このノートは読まないでね、ブーマー。個人的なことが書いてあるから」
「読まないよ!」とブーマーは約束した。
「彼は読むと思うけどな」とハーマイオニーがつぶやいた。
私には聞きたいことがいくつもあった。
どうして彼は私に名前を教えないのか?
彼はどんな外見をしているのか?
いったいソフィアって誰なのか、そしてなぜ彼女はカタルーニャ語を話すのか?
私はここで何をやっているのか? とも聞きたかった。
もしひねくれ男子くんがこの〈二人のゲーム〉を続けようとするなら、きっとノートにそれらの答えを書いてくれるだろうと思った。
今年はおじいちゃんがいないから、私の大好きなクリスマス・スポットに連れて行ってもらえない。―ブルックリンにあるダイカー・ハイツという住宅街なんだけど、そこに並ぶ家々が毎年この時期になると、ものすごーーーく度が過ぎるくらいに、ど派手にライトアップされるのよ。きっと宇宙からも見えるんじゃないかしら。―仕方ないから今年はせめて、ひねくれ男子くんにそこに行ってもらって、彼から今年のダイカー・ハイツはどんなだったかを聞こうと思ってね、もうノートに彼をけしかけて、そこに行かせるようなことを書いたわ。ちゃんと通りの名前と、ヒントも書いたわ、「くるみ割り人形の家」ってね。
私はノートに書いた指示に付け足したいことを思いついて、ブーマーからノートを取り戻そうとした。
「ちょっと!」と彼は言って、私のモレスキンのノートなのに、体を張って邪魔してきた。
「それは私のよ」
「あなたのじゃないでしょ」とハーマイオニーも言った。「あなたはただそれを届けるだけでしょ、ブーマー」
サッカーのキャプテン同士お互いに目配せした。
「ちょっと書き足したいだけよ」と私はブーマーに言って、そっとブーマーの手からノートを引き抜こうとしたのだが、彼は放そうとしなかった。「ちゃんと返すから、約束する」
「約束する?」と彼は言った。
「『約束する』って言ったでしょ!」と私は言った。
ハーマイオニーも「ほら、『約束する』って言ってるんだから」と言った。
「約束する?」とブーマーが繰り返した。
どうして彼の名前がジョンからブーマーになったのか、なんとなくわかり始めていた。
ハーマイオニーがブーマーからノートを奪い取って、私に渡してくれた。「さあ急いで。彼が騒ぎ出す前にちゃんと返してあげて。彼と約束したんだから」
私はすばやく「くるみ割り人形の家」という言葉の後に、一行指示を付け足した。
必ず〈ひねくれ君人形〉も連れて行ってね。じゃなかったら行かなくていいわ。
7
-ダッシュ-
12月24日/12月25日
ブーマーは僕に何も話してくれなかった。
「彼女は背が高かった?」
彼は首を振った。
「じゃあ低かった?」
「言わないよ。―君には何も言わない」
「可愛い?」
「だから言わないって」
「とてつもなく地味?」
「どういう意味かわかるけど、言わないよ」
「ブロンドの前髪が顔にかかっていて彼女の目が見えなかったとか?」
「いや―ちょっと待って、ボクを引っ掛けて聞き出そうとしてるよね? ボクに言えるのは、彼女が君にこれを渡してほしいって言ってたってことだけ」
ノートに添えられて渡されたのは...マペット人形?
「なんかミス・ピギーが仲良しの動物とセックスして、」と僕は言った。「生まれた子供みたいだな」
「ちょっと!」とブーマーが叫んだ。「君がそんなこと言うから、ボクの目にはそういう風にしか見えなくなっちゃったよ!」
僕は時計を見た。
「君はもう帰ったほうがいいんじゃないか、もうそろそろクリスマス・イブのディナーが出来上がる頃だろ」と僕は言った。
「君のママとジョバンニも、もうすぐ帰ってきちゃう?」と彼は聞いた。
僕は頷いた。
「クリスマス・ハグ!」と彼が大声で叫ぶと、僕の体はすぐに〈クリスマス・ハグ〉としか呼びようのない抱擁に包まれた。
こうされていると僕の心がざわついて、体がほてった感じになることはわかっていた。でも僕はクリスマスだから特別に胸が騒いでいるわけではない。べつに変な意味ではなく、―僕は最後のひとしぼりまでしぼり出そうとするかのようにギュッとブーマーを抱きしめた。僕がまたこのアパートで一人きりになる心の準備ができるまで、そうしていた。
「じゃあ、次に君に会うのはクリスマスの翌日のパーティーだね?」とブーマーが聞いてきた。「パーティーは27日?」
「26日だよ」
「書いとかなくちゃ」
彼は玄関脇にあったペンをつかむと、自分の腕に「26日」と書いた。
「26日に何があるのか書いておかなくていいの?」と僕は聞いた。
「それは大丈夫。忘れない。君のガールフレンドのパーティーだからね!」
ガールフレンドではないと訂正することもできたけれど、どうせまた訂正することになるだけだとわかっていたのでやめた。
ブーマーがアパートから出て行くのを見送ったあと、しばらく僕は静けさにひたっていた。クリスマス・イブだというのに、僕にはどこにも行く場所がなかった。僕は靴を脱ぎ捨て、それからズボンも脱ぎ捨てた。なんだか脱ぐのが楽しくなってきて、僕はシャツも脱いで、そして下着も脱いでしまった。僕は裸で部屋から部屋へと歩き回った。血液や羊水には包まれていなかったけれど、生まれた日のように素っ裸だった。妙な気分だった。―前から一人きりで過ごす時間はたっぷりあったというのに、裸で歩き回ったのはこれが初めてだった。少し肌寒かったけれど、どこからか楽しい気持ちも湧いてきた。窓からご近所さんたちに手を振った。裸でヨーグルトも食べた。母親のCDの中から『マンマ・ミーア』のサウンドトラックを引き抜いて再生ボタンを押すと、ちょっとくるくる回ってみた。そのままの勢いで軽くモップがけもした。
その時、僕はノートのことを思い出した。裸でモレスキンを開くのはいけないことのような気がして、僕は下着に足を通し、シャツを羽織って(ボタンは外したままだったけど)、ズボンもはいた。
どうやらリリーは尊敬に値する子みたいだった。
彼女が書いた文章に僕はガツンとやられてしまったのだ。特に彼女がフラニーについて書いている部分にグッときた。僕は前からフラニーにめっぽう弱かったから。サリンジャーの作品に出てくる登場人物は大体そうだけど、あのようなろくでもないことが次々とフラニーに降りかかってこなければ、彼女もあんなにハチャメチャな子にはならなかったと思う。つまり、彼女がレーンとうまくいくなんてことは誰も望んでいないんだよ。彼はガツガツしてないってだけで、嫌なやつには違いないんだから。それでも彼女がレーンと同じエール大学に進学するというのなら、あんな大学燃やしてしまえばいいのにって思う。
僕はリリーとフラニーを混同し始めていることに気づいた。ただ、リリーはレーンみたいな人を好きにはならないようで、だとすると、彼女が好きになるのはどんな人だろうか...イメージが湧かなかった。レーンと僕が似ているのかどうかもさっぱりわからなかった。
「僕らはみんな間違ったことばかり信じているんだ。」と僕は、ブーマーが腕に日付を書いたペンを使って、ノートに書いた。「僕はそのことに凄く苛立ちを覚えるんだよ。信念が欠けていることにではなく、間違ったことを信じてしまうことに苛立つんだ。君は〈意味〉を知りたがっているみたいだね? まあ、意味なんてそこらじゅうに転がっているよね。ただ僕らはみんな、それらの意味を取り違えるのがとんでもなく得意なんだよ。」
そこで書くのをやめたかったのが、どうにもペンが止まらなかった。
「〈意味〉は祈りの中で君に降りかかってくるように説明されるものでもないし、僕も君にそれを説明することはできない。でも説明できないのは、僕がそこら辺にいる人のように無教養で、希望的にものごとを見ていて、そういうわずらわしいことはわざと見ないようにしているからではないよ。そもそも〈意味〉っていうのは説明できないものなんだと思う。それは自分の力で理解しなければならないんだ。それはきっと読み書きを覚えるのと同じで、まず文字を覚えて、次にその文字がどんな音を発するのかを知り、そしてそれを実際に声に出してみる。わかりきったことだけど、『c-a-t』の三つの文字を合わせると、cat(猫)になり、『d-o-g』は、dog(犬)になる。そのあと、さらなる飛躍をしなければならない。つまり、その言葉、その音、その『cat』を、頭の中で現実の猫と結び付ける必要がある。『dog』は現実の犬と結び付けるんだ。その飛躍、その理解こそが〈意味〉へと導いてくれる。そして、人生の大半の時間を僕らはみんな、ただものごとを発音しながら、その〈意味〉を探っているだけなんだ。僕たちは文章をたくさん知っているし、それを声に出して言うこともできる。僕たちは色々な考えを知っているし、それを言葉で表明することもできる。僕たちは様々な祈り方を知っているし、祈る時に口にする言葉も、その語順も心得ている。でも、それは単なる字面(じづら)に過ぎないんだよ。
僕が悲観的なことを書いているように感じたとしたら、それは本意ではないよ。子供が『c-a-t』の意味にある時ふと気づくように、僕らもそれぞれの言葉の背後に息づいている真の意味を見つけられるはずだと僕は思っている。子供の頃に言葉を覚えた時の、あの瞬間の記憶があればどんなにいいだろうと思う。つまり、僕の頭の中で文字と単語がつながった瞬間、それから単語が実際のものごとと結び付いた瞬間を思い出せればいいのになって思う。きっとそれは、とほうもない啓示がもたらされた瞬間だったはずなんだ。でも僕らはその瞬間を言い表す言葉を持ち合わせていない。僕らはまだ、その未知なる言葉を見つけていないからね。見つけた瞬間に驚くべきことが起こるはずで、たとえば、王国へとつながる鍵を見つけて、その鍵を差し込んでみると、いとも簡単に扉が開く、みたいなことが起こるんだと思う。」
僕の手がちょっと震え出した。というのも、僕は自分の内側からこんな考えが湧き上がってくるなんて思ってもみなかったから。そうなのだ、僕の手にはノートがあり、そしてノートに書いたことを伝える相手がいる。だからこそ、こういう考えが表面に浮かび上がってきたのだ。
手が震えた理由は他にもあった。―「私はただ私のためだけに存在している人がどこかにいるって信じたいし、私もその誰かのためだけに存在しているんだって信じたい。」最初僕はこの言葉にそれほど関心を持たなかった、ということを認めなければならない。それ以外の部分が圧倒的に大きなことに思えたから。でも、彼女のこの考えを頭から完全に消し去ってしまいたくはないと、どこかで惹かれている自分もいた。要するに、僕らはみんなプラトンにだまされていて運命の人がいると思い込まされているんだ、という僕が前から思っていたことを、僕はリリーには言いたくなかったのだ。もしかしたら彼女が僕の運命の人かもしれない、という思いが頭の片隅でちらついていた。
書くことが多すぎて、考えもまとまらないし、僕は急ぎすぎているんだと思った。僕はノートを置いて、アパートの中を歩き回った。この世には無益な人たちや浮浪児たちが溢れている。ごまをする者も回し者もたくさんいる。―そういう人たちのせいで言葉が間違った使い方をされ、話し言葉も書き言葉もすべてうさんくさく思えてしまう。それで僕はこの時、リリーについて得体の知れない不穏なイメージを抱いたのかもしれない。―僕たちがやっているゲームで必要なことはお互いを信頼することなのに。
誰かに面と向かって噓をつくのはかなり難しい。
しかし、
面と向かって本当のことを話すのはもっと難しい。
言葉が僕をすり抜けていった。何を書けば彼女の心をつかむことができるのかわからなかった。それで僕は日記帳を下に置いて、彼女が僕に指示してきた場所について考えを巡らせた(ダイカー・ハイツがどこにあるのか見当もつかなかったけれど)。それから日記帳と一緒に渡された不気味な人形のことも考えてみた。「必ず〈ひねくれ君人形〉も連れて行ってね。」と彼女は書いてきた。僕は「連れて行ってね(do bring)」という言葉の響きが気に入った。なんだか喜劇の台詞みたいだったから。
「彼女はどんな子か教えてくれる?」と僕は〈ひねくれ君〉に聞いてみた。
彼はただ口を曲げて見返してくるだけだった。使えないやつだ。
僕の携帯電話が鳴った。―母親からで、パパと一緒に過ごすクリスマス・イブはどう?と聞かれた。僕は快適だよと答えてから母親に、ジョバンニと楽しくクリスマス・イブらしいディナーを食べてる?と聞いた。彼女はくすくす笑って、七面鳥は作らなかったのよ、でも楽しく過ごしてるわ、と言った。僕は母親のこの笑い方が好きだった。―僕に言わせれば、子供はもっと注意深く親の笑い声に耳を傾けたほうがいい。―そろそろ母親が、ジョバンニに受話器を渡すから形だけあいさつして、とか言い出しそうな予感がしたので、そうなる前に電話を切ってもらった。僕の父親はクリスマスの当日にならないと電話してこないことはわかっていた。―彼はゴリラでもそうする必要性を知覚できるくらい明らかに必要だと思わない限り、電話してこないのだ。
母親についた嘘が、もしも本当のことだとしたら今頃どうなっているだろうと想像してみた。―すなわち、僕がカリフォルニアのどこかの「ヨガ静養所」で父親とリーザと一緒にいるとしたら。個人的には、ヨガは距離を置きたいものであって、進んでやりたいものではない。よって僕のヨガに対するイメージは、僕が足を組んで膝の上に本を広げて読んでいる横で、他のみんなは〈翼を広げたダチョウ〉のポーズをしている、というものだ。父親とリーザが付き合い始めてから2年かそこらになるけれど、その間にたった一度だけ父親とリーザと僕の三人で休暇旅行に出掛けたことがある。重複した意味の言葉を二つ並べた「スパ・リゾート」なる場所に行ったのだが、僕はたまたま、泥パックをした二人がキスしているところを目撃してしまった。そういうことはこれまでの人生でうんざりするほどあった。3回か4回はあったと思う。
母がジョバンニと一緒に出掛けてしまうまで、母と僕はクリスマスツリーの飾り付けをしていた。クリスマス自体は好きではないけれど、僕はツリーからはかなりの満足感を得ていた。―毎年、母と僕はお互いの子供の頃の思い出の品を次々とツリーの枝に飾り付けていった。僕は何も言わなかったけれど、ジョバンニにはツリーの飾り付けをする資格が少しもないことを母はわかってくれていた。―それは母と僕だけの作業だった。母が子供の頃、僕のひいおばあちゃんが母のために、人形の家用の手のひらサイズのロッキングチェアを作ってくれたらしく、母はそれにリボンを付けてツリーの枝にぶら下げた。それから、僕が赤ん坊の頃から使っている古いタオルも、ツリーの上に落ちないように飾り付けた。そのタオルに描かれたライオンは相変わらず森の木陰からこちらをじっと見つめていた。毎年僕らは何かを付け加えていき、そして今年、僕は幼少期のとっておきの思い出の品を飾り付けて、母を笑わせた。―それは僕の父方のおじいちゃんに会いに行く途中の飛行機の中で、母親がぐびぐび飲み干してしまったカナディアンクラブ・ウィスキーの小さなボトルだった。僕はそのボトルを旅の間、(自分でもあきれてしまうが)ずっと握りしめていた。
このおかしな話をノートに書いて、リリーという名の知り合ったばかりの女の子に伝えたい気分になった。
でも僕はノートをそのまま放っておいた。シャツのボタンをして、靴を履いて、謎のダイカー・ハイツに足を向けることも、しようと思えばできたけれど、今年のクリスマス・イブの自分へのプレゼントは、世の中から完全に距離を置くことなのだ。僕はテレビもつけず、友達に電話をかけることもなく、メールをチェックすることもなく、窓の外さえ見なかった。僕はただ孤独にふけっていた。リリーが彼女のためだけに存在する人がいると信じたいのなら、僕も僕のためだけに存在する人がいると信じたいと思った。僕は自分で夕食を作り、ゆっくりと時間をかけて味をかみしめるように食べた。僕は『フラニーとゾーイー』を本棚から引き抜くと、登場人物たちとの再会を楽しんだ。それから僕は本棚とタンゴを踊るかのように、本を引き抜き、本の中へ沈み込み、再び浮かび上がる、ということを繰り返した。―マリエ・ハウの詩を読み、ジョン・チーヴァーの短編小説を読んだ。E・B・ホワイトの古いエッセイを読み、『白鳥のトランペット』を開いて、その中の一節を読んだ。僕は母の部屋に行き、本を手に取ると、母が犬の耳みたいに隅を折っているページを開いた。―母はいつも気に入った一文を見つけると折り目をつけるのだ。僕は本を開くたびに、そのページのどの一文が母の胸を打ったのか見つけ出さなければならなかった。J.R.モーリンガーの『テンダー・バー』の202ページに折り目がついていた。母が感銘を受けたのは、そのページに載っていたローガン・パーソール・スミスの名言、「決して達成できないとわかっていても、不屈の精神で完璧さを追い求めることは、たとえそれが古いピアノを連打するような無駄な試みにすぎないとしても、この無益な惑星に住む我々の人生に意味を与えてくれる唯一の行為なのだ。」という言葉だろうか? それとも、その数行下にあるもっとシンプルな言葉、「周りにどれだけの人がいるかに関係なく孤独は訪れる。」だろうか? リチャード・イェーツの『レボリューショナリー・ロード』の折ってあるページを開いた。母が惹かれた一節は、「彼は立ち並ぶ古風な建物の優美なたたずまいに目を奪われ、夜の街灯に照らされた木々の柔らかい緑色が優しく辺りに広がっていく様に見惚れていた。」だろうか? それとも、「その場所に立っていると、彼は手を伸ばせば届きそうなところに英知が舞っているような感覚に包まれた。神の恵みが通りの角で待ち伏せしているような言うに言われぬ感覚だった。だが彼は果てしなく続く憂鬱な街路を歩き続け、くたくたになってしまった。生き方を知っている人はみな、他の人が知りたがる生きる秘訣をこっそり心の中にしまい込み、教えてはくれないのだ。」だろうか? アン・エンライトの『一族の集まり』の82ページにも折り目がついていた。母が気に入ったのは、「あれから17年も経ってしまった今となってはもう遅いけれど、私がブルックリンにいた頃から今でもマイケル・ワイスを愛していると思わせるのは、セックスではなく、セックスの記憶でもない。あの頃、私が彼に恋人として認められようとどれだけ迫っても、彼は私を恋人として認めてくれなかった。そのことが彼を忘れられなくしている。彼は私をちゃんと抱いてくれなかったから。ただ会うだけで、いつも途中までしかしてくれなかったから。」という箇所か、あるいは、「今の私なら心づもりができていると思う。私の心は満たさせる準備ができていると思う。」かな?
僕は何時間もこんなことをし続けた。僕は一言も発しなかったが、自分が黙り込んでいるという意識はなかった。僕自身の内側から発せられる声が、その響きこそが、僕の必要としたすべてだった。
気分は祝日ムードだったけれど、それはキリストとか、暦の上での日付だとか、世界中で他の誰もが祝っていることとは無関係の感情だった。
僕は寝る前にいつもの決まり事をやろうと思い、―ベッドの横に置いてある(悲しいことに簡略版の)辞書を開くと、自分の好みに合う言葉を探し始めた。
『液化性の』、形容詞。 1. 液体になる; 溶ける。
2. 液化しやすい。
「液化性の」と、僕は声に出さずにつぶやいて、その言葉とともに眠ろうとした。
うとうとし始めた頃、やっと僕は自分がしていたことに気づいた。
適当に本を開きながらも、僕は結局「リリー」が書いた数ページに立ち戻っていたのだ。
僕はサンタをもてなすためのミルクもクッキーも用意していなかった。ここには煙突もないし、暖炉さえない。僕はサンタに欲しいものリストを渡してないし、僕がいい子だったことを示す証明書も受け取っていない。それでも翌日のお昼ごろ目覚めると、母からのプレゼントがじっと僕を待っていてくれた。
僕はツリーの下でプレゼントを一つずつ開封していった。そうやって僕がツリーの下で開封していく姿を毎年母は嬉しそうに見ていたから。母に見られながらプレゼントを開けている時間は、なんだか後ろめたいようなひと時だった。―その10分程度のそわそわした気分を振り払うように、僕も母にプレゼントを渡したことを思い出す。包装紙の下には特に驚くようなものは入っていなかった。―僕が欲しかった本がたくさんと、一つか二つ気を利かせたんだろうなと思われる小物があって、あとは、そんなに悪くない青いセーターが入っていた。
「ありがとう、ママ」と、僕は誰もいない空間につぶやいた。電話をしようにも、彼女のいるところはまだ朝早い時間なのだ。
プレゼントの中にあった本を読み始めると、僕はすぐに我を忘れ、電話が鳴るまで本の中に没頭していた。
「ダシール?」と、父はかしこまった調子で言った。まるで母の部屋にいた他の誰かが、僕の声を真似て電話に出たとでも思ったかのようだった。
「そうだよ、父さん?」
「リーザと私からメリークリスマスの言葉を贈るよ」
「ありがとう、父さん。僕からも二人に贈るよ」
[気まずい沈黙]
[さらに気まずい空気]
「ママがお前に迷惑をかけてなければいいんだが」
ああ、父さん、僕は父さんが〈仲良し家族〉を演じ始めるときが大好きなんだ。
「ママにこう言われたんだ。暖炉の灰を掃除してから、お姉ちゃんを手伝ってクリスマスパーティーの準備をしなさいって」
「ダシール、クリスマスくらいはそういう態度は引っ込めたらどうだ?」
「メリークリスマス、父さん。プレゼントもありがとう」
「プレゼントってなんだ?」
「あ、ごめん。―あれは全部ママからのプレゼントだったね?」
「ダシール...」
「そろそろ切らなくちゃ。ジンジャーブレッドマン・クッキーを焼いてるから」
「待ってくれ。―リーザが君にメリークリスマスを言いたいそうだ」
「煙がもくもく上がってるから、本当に行かなくちゃ」
「そうか、メリークリスマス」
「うん、父さん。メリークリスマス」
会話がぎくしゃくしてしまった責任は、僕にあるとしても 8分の1くらいだろうなと思った。そもそも電話に出たことがいけなかったのだ。でも電話に出てしまえば、それで済むと思ったんだ。そして今まさに、―それで済んでしまった。僕は赤いノートに引き寄せられ、むしゃくしゃした気分をノートに書いて発散しようとした。―でもそうしなかったのは、リリーに僕の気持ちをぶつけたくないと思ったからだ。まだそうする時期ではない、と。そんなことをノートに書いても、みっともないだけだろうし、それにもう起こってしまったことで、僕だってどうにもできないのに、リリーが何かできるとも思えなかった。
まだ5時だったけれど、外はすでに暗くなっていた。僕はダイカー・ハイツへ向かうべき時が来たと思った。
どうやらDラインの地下鉄に乗る必要があるみたいで、Dラインは短い距離しか乗ったことがなかったので、今までで最長距離を乗ることになりそうだった。この前まで殺気立った群衆で溢れかえっていたというのに、クリスマス当日の街は閑散としていた。開いているのはATMと、教会と、中華料理店と、映画館くらいだった。それ以外の建物はすべて真っ暗で、休眠しながらクリスマスをやり過ごそうとしているようだった。地下鉄も空洞化してしまったみたいで、―ホームにも人々はまばらで、車内に乗り込んでみても、座席に座っている乗客が若干いる程度だった。まあ、クリスマスならではという情景も見ることができた。―小さな女の子たちがドレスを着て嬉しそうにしていたし、小さなスーツに無理やり押し込まれたかのような小さな男の子たちもいた。いつもなら敵意に満ちた眼差しと目が合うこともあるけれど、今日はなんだか、にこやかな瞳とよく目が合った。観光客で賑わう場所を別にすれば、ガイドブックを開いている人は見当たらなかったし、聞こえてくる会話もすべて小声で交わされていた。僕はマンハッタンからブルックリンに入るまで本を読んでいた。その時、Dラインの地下鉄が地上に出た。僕はとっさに振り向いて窓の外を見た。エンジン音を響かせながら走る電車の窓から、しばらく外を眺めていた。家族が住んでいるはずの家々の窓が現れては消えていった。
僕はまだどうやって〈くるみ割り人形の家〉を見つけたらいいのかわかっていなかったけれど、地下鉄が目的の駅に着いたとき、ある考えが頭に浮かんだ。その駅だけ不自然なくらい多くの乗客が僕と一緒に地下鉄を降りたのだ。みんな同じ方向に向かっているようだった。―家族連れが多く、手をつなぐカップルもいたし、巡礼に来たらしいお年寄りの人たちもいた。僕はその群衆に付いて行ったというわけだ。
最初に空中に異変を感じた。タイムズ・スクエアにいるような感じで、電光の輪が辺りに漂っている。ただ、ここはタイムズ・スクエアから遠く離れた場所なので、そんなことは有り得ないと思っていると...電気で光る家々が見えてきた。一軒通り過ぎるごとに、家を照らし出す電球の数が多くなっていくようだった。どの家も素人がクリスマスの飾り付けをしたというようなレベルではない。それはもう、芝生と住宅を取り巻く素晴らしい、目を見張る超大作だった。見渡す限り、すべての家が電球に取り囲まれていた。あらゆる色の電球が、あらゆる形に光っていた。トナカイとサンタとそりの輪郭を形作り、リボンの付いた箱や、おもちゃのテディベアや、人間よりも大きな人形、―それらすべてがクリスマス用の電球で数珠(じゅず)つなぎに形作られていた。もし聖母マリアとヨセフが飼い葉桶にこんな感じで火を灯したのなら、ローマのどこにいてもその光を見ることができたはずだ。
僕はその光を眺めながら、矛盾した感情を抱いていた。一方では、電気の驚くべき乱用だと思った。アメリカ的クリスマスが奨励している独創的な無駄使いの証である、と。ただ、もう一方では、地区全体がこんな風にライトアップされているのを見るのは爽快だった。光がコミュニティーを一つにまとめている感じがしたからだ。たとえば、同じ地区に住む全員が同じ日に懐中電灯を手に持って外に出て、懐中電灯を上にかざしながら地区のパーティーをしている、といったイメージに近い。子供たちが歩き回っては立ち止まり、光る家を眺めていた。まるで近所の人たちが突然、巧妙な魔法の使い手にでもなってしまったかのように、子供たちは目を丸くしていた。光る家を取り囲むようにして、光の数と同じくらいの会話が巻き起こっていた。―僕はどの会話にも参加していなかったけれど、話し声に囲まれているだけで嬉しかった。
〈くるみ割り人形の家〉は簡単に見つかった。―少なくとも5メートル近くはある2体の「くるみ割り人形」が、空に向かって仁王立ちして門扉を見張っていたのだ。その横では、「ねずみの王様」が祝賀ムードをぶち壊そうとし、「クララ」は夜通し踊っていた。僕はクララの手の中に巻物がないかと探し、無数の電球が垂れ下がるプレゼントの箱の天辺にカードがないかと探した。その時、地面に置いてあった、ある物が目に入った。―それは光がまだら模様に当たったバスケットボールほどの大きさのクルミだった。表面はひび割れていて、ちょうど手を入れられる割れ目があった。
その中にメモが入っていて、簡潔でわかりやすいメッセージが書かれていた。
あなたが見たものを私に教えて。
それで僕は道の縁石に座り、先ほど感じた矛盾について、つまり無駄と喜びについてノートに書いた。それから僕は、この特別な通りの熱狂よりも、品揃え豊富な本棚が静かに陳列されている方が好きだ、と彼女に向けて書いた。一方が間違っていて、もう一方が正しいというわけではなく、―これは単なる好みの問題なんだ、と。僕はクリスマスが終わってくれて嬉しいとも書いたし、その理由も彼女に伝えた。他に何か書くことはないかと周りを見回して、あらゆるものを見ようとした。そうやって僕が見たものを彼女に教えた。3才くらいの子供が楽しみすぎて疲れたのか、あくびをしていた。地下鉄から一緒だったお年寄りの夫婦がついに目的の地にたどり着いたようだった。―あの夫婦は長年ここに通っているのだろうと想像した。そして、今彼らの目の前に立ち並ぶ家々と、過去に見た家々を同時に見ているに違いないと思った。きっと二人の会話は、どちらから話し始めるにしても、「あの時を思い出して」という言葉から始まるのだろう。
それから僕は彼女に「僕が見なかったこと」も伝えた。すなわち、僕は君に会えなかった、と。
君が1メートル先に立っていてもおかしくないと思ったよ。―クララのダンスパートナーとして君がクララの横に立っているとか、通りの向こうから君が、飛び立とうとしているトナカイのルドルフの写真を撮っているとか、そういうことを期待したんだ。もしかしたら僕は地下鉄で君の隣に座ったのかもしれないし、駅の回転式改札口を通り抜けた際に君とすれ違ったのかもしれない。でも、実際には君がここにいてもいなくても、君はちゃんとここにいるんだと思う。―だって、今書いている言葉は君に向けたものであって、もし君がここにいないのであれば、これらの言葉も存在していないことになる、とも言えるからね。このノートって奇妙な再生機器だね。―音楽が再生されるまで、どんな曲が鳴り響くのか、書いている本人にもわからないんだから。
君が僕の名前を知りたがっている、ということはわかってるよ。でも、もし君に僕の名前を、ファーストネームだけでも教えるとね、君はネットでその名前を検索できるし、そうすると不正確で不完全な僕に関する情報を色々見つけてしまいかねないからね。(もし僕の名前がジョンとかマイケルなら、何の問題もないんだけど。)そして、たとえ君が絶対に検索しないって言い張ったとしても、誘惑は常に君のそばを付きまとうことになるからね。だから僕は君と微妙な距離を保ちたいと思っている。そうすれば、君は他の人の雑音に惑わされることなく、僕を知っていくことができるから。君も同意してくれるといいんだけどな。
次に君にしてほしいこと(あるいは、してほしくないこと)をリストにして書いたけれど、それには時間的制約があるんだ。―つまり、まさに今夜、君にそれを実行してもらいたいと思っている。というのも、毎月のように名前を変えるクラブ(僕は彼女にそのクラブの住所を教えた)で、これから朝まで続くイベントが開催されるんだ。そのイベントは、(この時期にぴったりの)〈ハヌカー祭の第7夜〉がテーマになっていて、まず前座で演奏するのは、たしか「ユダヤの炎」というバンドで、(あるいはエゼキアルか、アリエルというバンドだったかもしれないけど、)その後、大体午前2時から、ゲイのユダヤ人のダンスポップ/インディーズ/パンク・バンドが演奏することになっている。バンド名は〈お馬鹿な先生、ユダヤ人をからかっているのかい〉というんだ。前座のバンドとメインのバンドの演奏の合間に、トイレに行って僕が書いたメッセージを探してほしい。
クラブで朝まで過ごすことは僕には似つかわしくないので、僕は1回か2回電話をかけて、この計画がちゃんと進んでいるか確認しなければならないな、と思った。僕は素早くモレスキンのノートをクルミの中に滑り込ませると、背負っていたリュックから〈ひねくれ君人形〉を取り出した。
「ほら見てごらん、見える?」と、僕はひねくれ君に聞いた。
そして僕は2体のクルミ割り人形の間に、ひねくれ君を小さな守衛として置いてから、そこを立ち去った。
8
(リリー)
12月25日
今年のクリスマスは自分に対して心地良いルールを課すことにした。つまり今日は1日中、動物(生きている動物とぬいぐるみの動物)たちとだけ話すことに決めた。まあ必要に応じて、厳選した人間とも話してもいいけれど、両親とラングストンは選考から除外する。それから赤いモレスキンのノートの中でひねくれ男子くんとも話そうと思う。―彼が私にノートを返してくれればね。
私がやっと文字の読み書きを覚えた頃、両親が私にホワイトボードを買ってくれたんだけど、私は今もそれを部屋にしまってあるのよ。両親としては、私がイライラしたとき、性悪女の彼女が、つまり〈金切り声のリリー〉が金切り声を上げることでうっぷんを晴らすのではなくて、私が、つまり〈リリー〉がそのホワイトボードに思ったことを書くことで、感情を発散させてほしいって思ったみたいね。要するにホワイトボードが私の心を癒す治療的ツールになってくれるだろうって。
それでクリスマスの朝、両親がビデオ通話をかけてきたから、私はそのホワイトボードを引っ張り出してきたのよ。コンピューターの画面に映った二人が一瞬、誰だかわからなかったわ。裏切り者のお二人さんはとても健康そうで、肌も黄金色(こがねいろ)に焼けて、くつろいでいて、クリスマスらしさの欠片(かけら)も見当たらなかった。
「メリークリスマス、愛(いと)しいリリー!」とママが言った。ママは「小別荘」というのかなんというのか、とにかくそのバルコニーに座っていた。彼女の輪郭を包むように後ろには海が広がっていて、ママは1週間前にマンハッタンを出発した時より、10歳も若返ったように見えた。
するとパパのテカった顔がスクリーンの外からのっそりとママの横に現れて、海の眺めをさえぎられた。
「メリークリスマス、愛しのリリー!」と彼は言った。
私はホワイトボードに文字を書きなぐり、二人が見えるようにそれを掲(かか)げて、スクリーンに映し出した。「メリークリスマス、お二人さん」と。
ママもパパもホワイトボードを見て、眉をひそめた。
「あらまあ」とママが言った。
「おいおい」とパパも言った。「今日のリリーベアちゃんはちょっとご機嫌斜めかな? パパたちは去年のクリスマスから、ちゃんと君にこの記念旅行について話してきたじゃないか、パパたちがいなくても今年のクリスマスは大丈夫よって言ってなかったかい?」
私はホワイトボードに書いた文字を消して、今度はこう書いた:「ラングストンが全寮制の学校の仕事のことを教えてくれたわ。」
二人の表情に影が差した。
「ラングストンに代わってちょうだい!」と、ママが声を張り上げた。
「彼は今風邪で寝込んでるわ。」と私は書いた。
パパが「彼の体温は何度?」と聞いてきたから、
「101」と書いた。
ママの苛立った顔が心配そうな表情に変わった。「かわいそうな子ね、今日はクリスマスだっていうのに。私たちが家に帰る元日までプレゼントは開けないように言っておいてよかったわ。病気で寝込んでるときに開けても全然楽しくないものね?」
私は首を振った。「お二人さんはフィジーに行くわけ?」
パパは言った。「まだ何も決めてないんだ。パパたちが帰ったら家族みんなで話し合おう」
すかさず私は文字を消して、再び書きなぐった。
「私が怒ってるのは何も話してくれなかったからよ。」
ママは言った。「ごめんね、リリーベアちゃん。あなたが怒るようなことが実際に起こるまでは、あなたを動揺させたくなかったのよ」
「どうせ私は怒るってこと?」
書いたり消したりしていたら、手が疲れてしまった。意固地にならずに声を出してしまおうか、とも思いかけた。
パパは言った。「クリスマスなんだし、もちろん君を怒らせようなんて思ってないよ。家族みんなで話し合って決めよう―」
ママがパパの話をさえぎった。「冷凍庫にいくらかチキンスープが入ってるわ!電子レンジで解凍してラングストンに食べさせてあげて」
「ラングストンは風邪引いて当然なのよ」と書きかけたけれど、私は途中で消して書き直した。「わかったわ。彼にスープを作ってあげる」
ママは言った。「もし彼の体温がまだ上がるようなら、ラングストンを病院に連れて行ってあげて。リリー、できる?」
ついに私の声が解き放たれ、「もちろんそれくらいできるわよ!」と、私はピシャリと言い放った。まったくもう、私を何歳だと思ってるの? まだ11歳だとでも思ってるのかしら?
ホワイトボードと、それから私の決心の両方が、裏切り者の「声」に怒り狂っていた。
パパは言った。「ごめんな、クリスマスが甘く素敵な日にならなくてごめん。新年にはこの埋め合わせをちゃんとするから。今日はラングストンのことを頼むよ。それから今夜は大叔母さんのアイダの家に行って、美味しいクリスマス・ディナーをごちそうになりなさい。そうすれば君の気分も良くなるから、わかった?」
「沈黙」が返り咲いて、私は頭を上下させ、うなずいた。
ママが言った。「一人の時間は何してたの? リリーちゃん」
ノートのことをママに話す気は全くなかった。それはフィジーのことで怒っているからではなくて、今年のクリスマスを振り返ってみて今のところ、ノートのことが、そして彼のことが、一番ましな出来事に思えたからだった。私はノートにまつわることをすべて自分の中にしまっておきたかった。
兄の部屋からうめき声が聞こえた。「リリィィィィィィィー…」
私はホワイトボードに書くよりもタイプしたほうが手っ取り早いと思い、画面上で両親にメッセージを打ち込んだ。
「ラングストンが病床から私を呼んでるから行ってあげるわ。メリークリスマス、ママもパパも大好きよ。フィジーには行かないことにしましょうね」
「私たちもリリーが大好きよ!」と、二人は画面の向こう側の世界で甲高い声を上げた。
私は通話を切って、兄の部屋へ向かった。途中で洗面所に立ち寄って、非常用の道具が一式入っている箱から使い捨てのマスクと手袋を引き抜いて、口と手を覆った。私まで風邪を引くわけにはいかないわ。赤いノートが私の元へ返ってくるかもしれないっていうのに、風邪なんか引くもんですか。
0コメント