『ダッシュとリリーの冒険の書』3
『Dash and Lily's Book of Dares』 by デイヴィッド・レヴィサン、レイチェル・コーン 訳 藍(2017年12月02日~2018年09月01日)
私はラングストンの部屋に入って、彼のベッドの横に座った。ベニーは自分のアパートで休むことにしたみたいで昨日帰宅した。帰ってくれた彼に私は感謝していた。クリスマスに1人ではなく2人の病人の世話をすることになったらと思うと、取り乱している自分の姿が浮かんだ。ラングストンは私が数時間前にベッドの脇に置いておいたオレンジ・ジュースにも塩振りクラッカーにも手を付けていなかった。さっき彼がこの部屋から私を「リリィィィィィィィー…」と呼んだ時間は大体、いつものクリスマスの朝なら、二人で一緒にプレゼントの包装紙を破いて開けている時間だった。
「僕に本を読んでくれないか?」とラングストンが言った。「頼むよ」
今日はラングストンと話すつもりはなかったけれど、読み聞かせてあげるくらいならいいかなと思い、私は昨夜、彼に途中まで読み聞かせていた『クリスマス・キャロル』を手に取って、昨日の続きから声に出して読み始めた。「『病気や悲しみが感染することはよく知られているが、笑いやユーモアこそ、この世で一番避けがたく感染するものであり、それはこの世界をつかさどる公正で公平な、尊き摂理なのだ。』」
「そこ凄くいいね」とラングストンが言った。「そこに下線を引いて、そのページを折っておいてくれる?」私は言われた通りにした。兄の本にはあちこちに下線が引いてあるけれど、彼がそれらの何に惹かれたのか私には知るよしもない。家にある本を開くと、必ずと言っていいほど、ラングストンが何やら書き込んだページに行き当たるので、たまにうんざりする。ラングストンの書き込みは素晴らしいものも、思い上がったたわごともあったけれど、私は彼のそういったコメントを目に入れることなく、私自身が自発的にその文章について何を思うのかが知りたかった。でもその一方で、時々彼のメモを見つけては読み返し、その箇所がなぜ彼の興味をそそり、彼にインスピレーションを与えたのかを解読しようと試みて面白がっていた。それは兄の脳内に入り込む素敵な通路だったのだ。
ラングストンの携帯にメールが届いたらしく着信音が鳴った。「ベニー!」と彼は言って、携帯をつかんだ。ラングストンは親指を高速で動かし、返信していた。『クリスマス・キャロル』を書いたディケンズさんとそれを読む私の出番は、とりあえず終わったらしい。
私は彼の部屋を出た。
ラングストンは私にプレゼント交換をしようとは話を持ち掛けてこなかった。両親にプレゼント交換は新年まで待つように言われていたけれど、もし兄に頼まれれば、ズルして今日交換してもよかったのに。
自分の部屋に戻ってみると、私の携帯に着信があったようで、5件も音声が録音されていた。おじいちゃんから2件と、いとこのマークから1件、サルおじさんから1件、それから大叔母さんのアイダからも1件入っていた。携帯電話がクリスマスのメリーゴーランドのように、ひっきりなしに鳴っていたようだ。
私はどのメッセージも聞かずに、携帯の電源をオフにした。今日はストライキを決行すると決めたのだ。
去年、私は両親に、今年のクリスマスは年が明けてからお祝いしても構わないって言ったけれど、本気で言ったわけではないし、あんな見え見えの強がりをどうして両親はわかってくれなかったのかしら?
今朝は家族と一緒にプレゼントを開けて、豪華な朝食を食べながら笑ったり歌ったりする、そういう本式のクリスマスの朝じゃないといけないのよ。
けれど、私にはもう一つ、それ以上に望んでいることがあると気づき、自分でも驚いてしまった。
私は赤いノートが戻ってくることを待ち望んでいた。
特にすることもなく、一緒に出掛ける相手もいなかったので、私はベッドに横になって、ひねくれ男子くんは今どんなクリスマスを過ごしているのかと思いを巡らせた。きっと彼はチェルシー辺りにある、おしゃれな芸術家が住むようなロフト付きの部屋に住んでいて、とってもイケてるママと、ママの新しいイケメンの恋人と一緒に暮らしているんだわ。そうね、彼らは左右非対称な髪型をしていて、たぶんドイツ語で会話しているんじゃないかしら? 七面鳥をオーブンで焼いている間、ホットアップルサイダーを飲んだり、私があげたレープクーヘン・スパイス・クッキーを食べたりしながら、クリスマスの団らんを楽しんでいるのよね。私の想像はどんどん広がっていった。ひねくれ男子くんはママとママの新しい恋人にトランペットを吹いて聴かせるのよ。ベレー帽なんかをかぶっちゃってね。突然、彼が帽子をかぶった音楽の神童であってほしいという願望が私の中に生まれた。その曲は彼が二人へのクリスマス・プレゼントとして作曲したもので、演奏が終わると二人はドイツ語で、「ダンケ(ありがとう)!ダンケ(ありがとう)!」って泣きながら言うの。その曲は完璧で美しく、彼の演奏は絶妙だったから、近くで座って聴き入っていたひねくれ君人形も、布でできた手を叩いてしまったくらい。ピノキオが甘いトランペットの調べに命を吹き返したってわけね。
私はひねくれ男子くんと直接話すことも、彼のクリスマスがどんな風に進行中なのかを聞くこともできないので、外出用の洋服に着替えてトンプキンス・スクエア・パークまで散歩に出掛けることにした。その公園で見かける犬は大体、私の顔なじみなのよ。アレチネズミの件と猫の件があって、私はペットに愛着を持ちすぎちゃうからって、両親がペットは何も飼わない方がいいってずいぶん前に決めたの。でも近所の家の犬を、飼い主にお小遣いをもらって私が代わりに散歩に連れていくっていう仕事なら、してもいいことになっているのよ。両親かおじいちゃんの知り合いの家に限るけどね。この妥協案はこの2年くらいうまく機能していて、私はいろんな犬と有意義な時間を過ごせているし、もし私が自分の犬を一匹飼っていたとしたら得られるはずの充実感よりも、今の充実感の方がきっと大きいわ。それに私の財布も充実してるしね。
天気はクリスマスのわりには異様なくらい晴れていて暖かかった。なんだか12月というより、6月のような空気だった。でも天候以外にも、クリスマスには似つかわしくない気配をどこかしら感じていた。私はベンチに座って、人々が犬を連れて歩くのを眺めていた。そして、私の知らない犬にも「ハイ、わんちゃん!」と甘い声をかけ、私の知っている犬にも「ハイ、わんちゃん!」と、子犬のような声を出して話しかけた。私は顔なじみの犬の頭を撫でると、骨の形をした犬用のビスケットを与えた。それは私が昨夜、クリスマスらしく焼き上げるために赤と緑の着色料を使って焼いたビスケットだった。私は必要以上に人間には話しかけなかったけれど、彼らの会話に耳を澄ましていたら、今年のクリスマスは近所の人たちにとっては、私のクリスマスみたいに最悪ではないことがわかった。彼らが着ている真新しいセーターや帽子や、新しい腕時計や指輪が目につき、新型テレビやノートパソコンについて話す会話が耳に入ってきた。
しかし、私の頭はひねくれ男子くんのことでいっぱいだった。私は彼が両親に囲まれている姿を想像した。彼がクリスマスに望む理想の両親、子供に愛情を注ぐ両親に挟まれながら、想像上の彼はプレゼントを開けていた。中には雰囲気のある黒のタートルネックのセーターや、怒(いか)れる若者が書いた怒れる小説や、スキー用品が入っていた。というのも、いつか私と彼が一緒にスキーに行く日が来るかもしれないからね。私はスキーの滑り方も知らないんだけど、そう思いたくなっちゃったんだから仕方ないじゃない。ただ、彼がもらったプレゼントの中にはカタロニア語の辞書だけはないわ。
ひねくれ男子くんはもうダイカー・ハイツに行ったかしら? 私は携帯電話の電源を切って、そのまま家に置いてきてしまったので、それを確かめるには大叔母さんのアイダの家に行くしかなかった。彼女は今日私が話してもいい人のリストに入っていた。
大叔母さんのアイダはグラマシー・パークの近くの東22番街にある高級な〈タウンハウス〉に住んでいる。4人いる私の家族は小さな狭苦しいイースト・ヴィレッジのアパートに(ペットなしで、うぅー…)住んでいる。両親は二人とも学術関係の仕事をしているから、彼らの給料ではこの程度のところにしか住めないの。というか、ここだっておじいちゃんがこの建物を所有しているから住めているわけだけどね。しかも、私たち家族が4人で住んでいるアパートと大叔母さんのアイダの家の1階が大体同じくらいの広さで、彼女はそこを独り占めしているのよ。彼女は一度も結婚したことがないし、子供もいないわ。彼女は若い頃、信じられないほど成功したアート・ギャラリーのオーナーだったの。自分の力でマンハッタンに自分の家を買えるくらい裕福になったのよ。(ただ、おじいちゃんがいつも言っていることによると、彼女はニューヨークが経済的混乱のさなかにあった時にその家を買ったんですって。前の入居者がどうしてもその家を手放したくて、大叔母さんのアイダは実質ただ同然でその家を手に入れたらしいわ。ラッキーレディーね!)彼女は高級住宅地にある豪邸に住んでいるからといって、お高くとまったレディーというわけでもないんだけどね。実際、彼女はお金持ちなのに、まだ週に1日マダム・タッソー館で働いているし、彼女には全く気取った感じはないわ。彼女は何かやることが必要なのよって言っていた。有名人たちとの近所付き合いも好きみたいね。彼女は誰も見ていないときに華やかな人たちの間で起こっていることについての暴露本を書いているんじゃないかと、私は密かに思っているの。
ラングストンと私は大叔母さんのアイダを「ミセス・バジル」と呼んでいる。私たちが子供だった頃に大好きだった本、『ミセス・バジル・フランクヴァイラーのおかしな事件簿』から取ったのよ。あの本に出てくるミセス・バジルはお金持ちの老婦人で、主人公の姉と弟をニューヨークのメトロポリタン美術館での宝探しに引きずり込むんだけど、大叔母さんのミセス・バジルは、私たちが子供だった頃、学校が休みで両親が働いている日には、ラングストンと私を美術館での冒険に連れ出してくれたわ。そういう日の旅の締めくくりは決まって巨大なアイスクリーム・サンデーだった。姪と甥に夕食の代わりにアイスクリームを食べさせてくれる大叔母さんなんて、素晴らしいと思わない? 私的には最高の大叔母さんよ。
ミセス・バジルこと大叔母さんのアイダは、彼女の〈タウンハウス〉に着いた私を大きなクリスマス・ハグで包み込んだ。私は彼女の体からいつも漂っている口紅と高級そうな香水の香りがたまらなく好きだった。パジャマのような部屋着でのんびり過ごすべきクリスマス当日でさえ、彼女は常に上品な婦人服を着ているのだ。
「いらっしゃい、リリーベアちゃん」とミセス・バジルは言った。「あら、私がワシントン・アーヴィング高校でバトンガールをしていた時の懐かしいブーツじゃない」
彼女がもう一度ハグしてきたので私は彼女に身を預けた。私は彼女のハグがとっても好き。「そうなの」と、私は顔をうずめている彼女の肩に愛着を感じながら頷いた。「このブーツは古いドレスとかが入っているトランクの中で見つけたの。最初は私には大きいかなと思ったんだけど、厚手のタイツをはいてみたら、今は履き心地いいわ。新たに私のお気に入りのブーツになったわ」
「ブーツの房飾りにあなたが付け加えた金のティンセルが素敵ね」と彼女は言った。「新年になる前に私を放してくれるかしら?」
しぶしぶながら私は彼女の体に回していた腕を放した。
「ここではそのブーツは脱いでちょうだい」と彼女が言った。「そのブーツの底には金具が付いてるでしょ、板張りの床を傷つけたくないのよ」
「ディナーの食材は何?」と私は訊ねた。
ミセス・バジルはクリスマス・ディナーに大勢のお客さんを招いて、大量の料理でもてなすことをしきたりにしているのだ。
「いつものよ」と彼女は言った。
「手伝うことある?」と私は訊ねた。
「じゃあ、こっちに来てくれる?」と彼女は言って、キッチンの方へ向かった。
でも私は彼女に付いて行かなかった。
彼女は振り返って、「どうしたの? リリー」と聞いてきた。
「彼からノートは返ってきた?」
「まだよ、リリーちゃん。でもきっと返ってくるわ」
「彼の外見はどんな感じだった?」と、私は再び彼女に聞いてみた。
「自分の目で確かめなさい」と彼女は言った。ひねくれていることを除けば、ひねくれ男子くんは総じて怪物みたいな感じではないはず。だって、もし彼が怪物なら、私が書いた最新の彼へのメッセージに関連してミセス・バジルが協力してくれるなんて有り得ないから。
キッチンへと私たちは向かった。
ミセス・バジルと私は6時までお手伝いさんたちと一緒に、歌いながら大邸宅に見合うだけの豪勢な料理の支度をしていたんだけど、私はずっと「彼がノートを返してくれなかったらどうするのよ?」と金切り声を上げたくて仕方なかった。でもそうしなかったのは、大叔母さんがあまり心配しているようには見えなかったからで、むしろ彼女は彼を信頼しきっているようだったから、なんだか私まで信頼するべきだと思えてきた。
ついに夜の7時になって、(ひょっとしたら今までの人生で一番ながーーーく待ったかもしれないけれど、)親戚の〈ダイカー・ハイツ派遣団〉が帰ってきた。カーミンおじさんと彼の妻と賑(にぎ)やかな子供たちがプレゼントを抱えて入ってきたのだ。
私はもらったプレゼントを開けようとはしなかった。カーミンおじさんはまだ私のことを8歳だと思っていて、〈アメリカンガール人形〉に付けるアクセサリー類を毎年くれるのだ。たしかに私はまだ〈アメリカンガール人形〉が大好きには違いないけれど、ギフト用の包装紙に包まれた箱の中身が謎に満ちていてわくわくするという感じではない。それで私は彼に訊ねた。「あれ持ってる?」
カーミンおじさんは「高くつくぞ」と言って、私に彼の頬を近づけてきた。私は彼の頬にクリスマスのキスをした。キスという料金を支払ったことで、彼はプレゼントが入った〈お楽しみ袋〉から赤いノートを引っ張り出して、私に手渡してくれた。
突然、私は今すぐノートに書かれている最新の内容を吸い込んで体内に取り込まないことには、これ以上1秒たりとも生きていける気がしなくなった。どうしても一人になる必要があったのだ。
「みんな、バイバイ!」と、私は陽気な声を上げた。
「リリー!」と、ミセス・バジルが声を荒げた。「あなた、まさか帰ろうなんて思ってるんじゃないでしょうね?」
「言うの忘れてたけど、今日は誰とも話さないつもりなのよ!私は一応ストライキ中なの!だから今日はみんなと仲良くできないわ!それにラングストンが風邪で寝込んでるから彼の面倒も見ないと」私は彼女に投げキッスを送って、「ムチュッ!」と大袈裟に言った。
彼女は首を振った。「この子ったら」と、彼女はカーミンおじさんの方を向いて言った。「おかしな子なのよ」彼女は手をふわりと宙に上げると、私に投げキッスを返してきた。「あなたがここに招待した聖歌隊の友達がもうすぐ来るんでしょ? 彼らになんて言ったらいいの?」
「メリークリスマスって言っといて!」と、私は叫びながら彼女の家を出た。
帰宅してみると、ラングストンはまた眠っていた。私は彼のコップに水をつぎ足して、解熱剤の〈タイレノール〉を何錠かベッド脇に置くと、自分の部屋にそそくさと入り、ひっそりとノートを読んだ。
やっと私はこれを手に入れた。―私がずっと欲しくて、でもなかなか手に入らなかったクリスマス・プレゼント、彼の言葉を。
私は今まで生きてきた中で誰かをこんなにも待ち焦(こ)がれた経験はなかった。ペットにもこれに匹敵する感情を抱いたことはなかった。
彼が一人きりでクリスマスを過ごしているというのは、なんだか不思議に思えた…そればかりか、彼は一人のクリスマスが好きみたいで、誰にもそんな彼をかわいそうだとは思われたくないようだった。
私も生まれて初めて、ほぼ一人きりでクリスマスを過ごしていた。
私には自分をあわれむような感情はあった。
でもそれほど嫌な気持ちではないなと実感していた。
これからはもっと熱心に孤独というものに向き合ってみようと思った。また公園を一人で散歩して、犬の頭を撫でて、犬におやつをあげることができるのであれば、孤独もそんなに悪くない。
「クリスマスには何をもらった?」と、彼はノートの中で私に聞いてきた。
私は答えを書き込んだ。
今年のクリスマスはプレゼント交換をしなかったのよ。私たちは年明けに交換することになってるの。(話せば長い話になるから、ひょっとしたらあなたも私に直接会って聞きたいんじゃないかしら?)
でも私はノートにメッセージを書くことに集中できなかった。私はノートの中に入り込んで生きてみたいのであって、ノートに何かを書きたいわけじゃないのだ。
ひねくれ男子くんは私のことをどんな女の子だと思ってるのかしら? 私を真夜中のミュージック・クラブに送り込もうとするなんて。
私の両親はそんなところに私を行かせたりはしない。
けれど今、行っちゃだめと言う両親はここにはいない。
私は再びノートに書き始めた。私はあなたが書いていること好きよ。あなたにはまだ名前がないけれど、あなたは私の新しい友達? 私たちの関係は何なのかしら? 友達であってほしいわ。というか友達ではなかったら、クリスマスの夜の午前2時に、―クリスマスではなくても夜中の2時に誰かのために外出しようか、なんて思い悩んでいないでしょうね。暗闇が怖いとか、そういうことではなくて…私はそんなに外出自体しないの。そういうタイプの10代なのよ。わかってくれる?
10代の子がどういう行動をすることになっているのか、私にはわからないの。10代の過ごし方っていう取扱説明書はあるのかしら? 私にもすでに気まぐれな肉体が備わっているとは思うけど、私はそんなに自分の体を見せつけたいとは思わない。そういうことよりも、私の体は知り合いの人たちへの「愛」で満たされていると感じることが多いの。―私がトンプキンス・スクエア・パークで一緒に散歩している犬たちに対しても、「愛」が私の中で膨れ上がっていくのよ。まるで私自身が巨大な風船みたいに膨れ上がって、どこかへ飛んで行けるような気分ね。そう、私の胸は愛情でいっぱいなのよ。
でも同年代の子たちとは、昔からそんなに心を通わせることはなかったの。中学1年生のとき、両親が私を学校のサッカーチームに入れたのは無理やりにでも同い年の女の子たちと交流させるためだったんだけど、でも結果として、私はサッカーがかなり得意なんだということがわかっただけで、社交性に関しては才能がなかったわ。心配しないで。―私は誰からも話しかけられないような根っからの変人ってわけじゃないのよ。一応他の女の子たちは話しかけてくるわ。ただ、しばらく話してるとね、なんていうか、「は? この子何言ってるの?」みたいな顔して、みんな私から離れて別のグループに移っていくの。社交性のある子たちのグループって、きっと私にはわからない隠語というか、秘密の言葉で会話しているんだわ。そして私はまた一人でサッカーボールを蹴ったり、大好きな犬たちや小説の中の登場人物たちと架空の会話を繰り広げることになるのよ。私はそれで満足だからいいんだけどね。みんなそれぞれってことね。
私は変わった女の子だって思われても気にしないわ。むしろその方がほっとするかもしれない。でもね、サッカーの「言語」に関しては、とても流暢に喋れるのよ。そこがスポーツの良いところね。たとえ一緒に試合をしている全員がそれぞれ全く違う言葉を話しているとしても、フィールド上では、あるいはコート上では、それがどんなスポーツであっても、動きやパスや得点といった「言語」はすべて同じなのよ。万国共通ってことね。
あなたはスポーツは好き? あなたがスポーツ好きなタイプだとは思えないけどね。わかったわ!あなたの名前はベッカムじゃないかしら?
今夜あなたにこのノートを返すかどうか、まだわからないわ。あなたの指令を受け入れられるか、はっきりしないの。今両親がいないから外出できなくもないんだけど、私は一度も夜中のミュージック・クラブなんて行ったことはないし、真夜中に一人で外出したこともないのよ。しかもマンハッタンの中心地でしょ? びっくりだわ。あなたは私をかなり信頼してるのね。それはありがたいけど、私がその信頼に応えられるかはわからないわ。
私は書くのをやめて仮眠を取った。ひねくれ男子くんの指示を受け入れるだけの気力が残っているのか不確かだったけれど、もし行くのなら、まず休む必要があった。
私はひねくれ男子くんの夢を見た。夢の中で、ラッパーのエミネムそっくりな顔をしたひねくれ男子くんが、「My name is…(僕の名前は…)」と繰り返し、ラップのリズムに乗せて歌いながら、赤いノートをこちらに向けて掲(かか)げ、様々な名前が書かれたページをめくっていた。
僕の名前は…イプシランティ。
僕の名前は…エゼキエル。
僕の名前は…マンデラ。
僕の名前は…ヤオ・ミン。
午前1時にアラームが鳴り出した。
ひねくれ男子くんが私の潜在意識にも浸入してきたのだ。その夢は明らかな兆しとして、もう抗(あらが)えないほどに私が彼に惹きつけられていることを示唆していた。
私はラングストンの様子をちらっと見てから(彼は気を失ったように寝ていた)、私が持っている洋服の中で一番クリスマス・パーティーにぴったりの、金色にきらめくベルベット生地のミニのワンピースに着替えた。去年のクリスマスにこのドレスを着た時よりも、私の胸とお尻が大きくなっていることに気づいて、私は驚いてしまった。でもどのくらい体の線が浮き上がっているのかは気にしないことにした。おそらくクラブは暗いだろうし、誰も私なんか気にも留めないだろう。私は仕上げに赤のタイツを履き、その上にミセス・バジルのバトンガール時代の、金色のティンセルが光る房飾り付きのブーツを履いた。そして、両耳のところからポンポンが垂れ下がっている赤いニット帽をかぶり、ブロンドの前髪をニット帽から引っ張り出して斜めに垂れ流し、片目を覆い隠して今夜は少しミステリアスに見えるようにした。家を出た私は口笛を吹いてタクシーを呼び止めた。
ひねくれ男子くんは私にある種の魔法をかけたに違いないわ。だって、この私が真夜中にこっそり家を抜け出して、ほかならぬクリスマスの夜に、ロウアー・イースト・サイドにあるはずの、いかがわしいクラブに向かっているんですもの。ノートのやり取りを始める前の〈リリー〉なら、こんな挑戦を受けて立つはずないわ。けれど、どういうわけか、モレスキンのノートが私のバッグの中にあって、そこには私たち二人の考えとか手掛かりとか、私たちが刻み込んできたお互いへのメッセージが書かれていると思うと、なんだか不思議と安心した。私はこの冒険を、道に迷って途方に暮れることもなく、兄に電話して助けを呼ぶこともなく、自分の力だけで実行しているのだ。今夜、真夜中の向こう側で何が私を待っているのかさっぱりわからなかったけれど、私はちっとも怖くなかった。
「メリークリスマス。あたしになにか悩み事を言ってちょうだい」
クラブの中に入ろうとしたとき、扉の前に立っていたクラブの用心棒らしきオカマがそう要求してきた。感謝祭より前の私なら戸惑っていただろうけど、数週間前に私が結成した聖歌隊にシーナーという女装している男性が入ってきたので、私はそのシステムを心得ていた。
シーナーは、今ダウンタウンのクラブシーンで「ニューハーフの次に来る波」として注目されているらしい〈ドラゴン・レディー〉(drag-on lady)の誇り高き一員なんだけど、そのシーナーの説明によると、〈ドラゴン・レディー〉というのは、単に女装している男性ではなく、発音が似ているからといってdragon(竜)でもなく、「あなたの悩みを引き受けるオカマ」のことらしい。
それで私は、とても大きな体の上に金糸のドレスを羽織り、顔には竜のマスクをしている用心棒に向かって、悩みを打ち明けた。「クリスマスなのに私はプレゼントを一つももらってないの」
「シスター、ここでやってるのはハヌーカーの祭りだよ。あんたのクリスマス・プレゼントのことなんてどうでもいいわよ。ほら、もっとちょうだい。あんたが引きずってる悩み事は何?」
「このクラブの中に私を探している人がいるかもしれないし、いないかもしれない。私はその人の名前も顔も知らないんだけど」
「つまんないわね」
扉はぴくりとも動かず、閉まったままだった。
私は〈ドラゴン・レディー〉に近寄ると、耳打ちするように囁いた。「私はまだ一度もキスをされたことがないの。挨拶のキスじゃなくて、恋愛のキスはないの」
〈ドラゴン・レディー〉が目を見開いた。「あんた真面目に言ってるの? そんなおっぱいしてるのに?」
ちょっと!私の神経を逆なでするつもり?
私は両手で胸を隠すと、逃げ出す体勢に入った。
「あんた真面目なのね!」と、〈ドラゴン・レディー〉が言って、ついに私のために扉を開けてくれた。「さあ、早くお入りなさい!成功を祈ってるわよ!」
私は両腕で胸を覆い隠しながらクラブの中に入っていった。中は踊り狂う人たちで溢れていた。誰もが叫び声を上げ、激しくぶつかり合いながら踊っていた。ビールみたいな、嘔吐物みたいな臭いが漂っていて、そこは私が想像できる地獄に限りなく近い場所だった。すぐに私は店の外に戻りたくなった。店の前で〈ドラゴン・レディー〉とお喋りしながら、店にやって来る人たちの悩みを聞いて夜を明かしたくなった。
ひねくれ男子くんはどういうつもりなの? 私をこんなゴミ溜めみたいなところに送り込むなんて。これって途方もなく大掛かりないたずらかしら?
率直に言って、私は怖くなった。
私が学校で、唇にグロスを塗った16歳の女の子たちの輪の中に入ってお喋りすることに怖気づいていたのはなんだったのかしら? このクラブの手に負えそうもない恐ろしい集団に比べたら、彼女たちのグループなんて子供の遊びだったわ。
さあ、ごらんになって。[劇的なドラムロール、ドルルルルルルル、ジャン!]パンク好きのいかれた人たちよ。
私がだんとつで一番年下のようだった。ざっと見た感じだと、一人でいるのも私だけだった。そしてハヌーカーのお祭りだというのに、誰もそれらしい服装をしていなかった。お祭りにふさわしいドレスを着ているのは私だけで、みんなスキニージーンズに安っぽいTシャツといった格好だった。10代の女の子たちと同様に、クラブに集まったいかれた人たちも、顔に退屈そうな表情を浮かべながら「隣の人より自分の方がイケてるだろ」と主張しているようだった。ただ、私が知っている10代の子たちとは違って、彼らの中には私に数学の宿題を写させてと頼んできたり、サッカーの試合に助っ人として入ってと頼んできたりする人は一人もいないだろうなと思った。いかれた人たちは私を見ると、すぐに冷笑を浮かべ、鼻であしらうように「仲間ではないな」と私を切り捨てた。それは私にとってありがたいことだと言えなくもなかったけれど。
私は家に帰りたくなった。安心できるベッドの上に戻りたかった。ぬいぐるみの動物たちの元へ、これまでの人生で出会ってきた私の知っている人たちの元へ帰りたかった。私はここにいる誰にも言いたいことはなかったし、誰も私に話しかけてこないで、と切(せつ)に祈りつつ、こんなライオンの巣穴みたいな危険な場所に私を放り込んだひねくれ男子くんを恨み始めていた。私が彼に振り下ろしたパンチで一番強烈だったのはマダム・タッソー館だったけれど、でも蝋人形は私が横を通り過ぎても、「あの子の格好は何? タップ用のブーツなんてあるんだ?」とか、隣の蝋人形と言い合って、私を評価したりはしないと思うわ。
ああ、とはいえ...この音楽は...。ユダヤ教のハシド派を名乗る若者たちのパンクバンドがステージに上がって(ギターが一人、ベースも一人、トランペットが数人と、バイオリンも数人いて、不思議なことにドラマーがいなかった)、彼らが爆音を鳴らし始めた。そのとき、私はひねくれ男子くんの計画の中心的なねらいを理解した。
そのバンドの演奏スタイルは私が以前聴いたことのあるものだった。私のいとこの一人がユダヤ人のミュージシャンと結婚した際の結婚披露宴で、バンドが演奏していたユダヤ伝統のクレズマー音楽と同じ感じだった。ラングストンの言葉を借りると、パンクとジャズをユダヤ教的に融合した音楽らしい。
今クラブで演奏されている音楽を私がたとえるなら、ユダヤ教のホーラー・ダンスを踊りながら、マルディグラ・パレードでパンクバンドの〈グリーン・デイ〉が演奏している、といった感じかしら? ギターとベースが音の基盤を作り、その上にバイオリンのリフ演奏とトランペットが乗っかって、バンドのメンバーたちが笑い声を上げたと思ったら、次の瞬間には嘆き悲しむような歌声に変わる、といった音楽だった。
私はそんなおどけた気狂いピエロたちの演奏が凄く気に入った。胸を守っていたはずの私の両腕は自然と解き放たれていた。もう体を動かさずにはいられなかった!私は腰を振って踊り出した。誰に何を思われても構わないと思った。周りでみんなが激しく踊っている中で、私も髪を振り乱してグルグル回っていた。〈ホッピング〉の遊具に乗っている時みたいに、ピョンピョン飛び跳ねていた。ブーツの金具を床に打ちつけて、私も音楽の一部と化していた。もう人の目なんか全然気にならなかった。
明らかに、荒々しく踊るいかれた人たちと私は音楽について同じ気持ちを共有していた。私たちはみんなで一緒になって、〈パンク・ホーラー・ダンス〉の渦の中にいた。たぶんクレズマー音楽は、サッカーのように世界共通語なのだ。私は自分でも信じられないほど、おもいっきり楽しんでいた。
ひねくれ男子くんは私に、私がクリスマス・プレゼントとしてお願いしたものをくれたんだと気づいた。希望と信念をくれたんだ。こんな冒険を私が一人で実現できるなんて思ってもみなかった。私がずっと望んできたものが今、私の手の中にあって、私はそれを凄く気に入っている。もうだいぶ前から始まっていたんだわ。ノートが叶えてくれたんだわ。
そのバンドの演奏が終わると、私は寂しくなった。けれど、私は次のメッセージを探さなければならなかったから、心拍数が下がっていくのを感じて、演奏が終わってくれてよかったという気持ちにもなった。
出番を終えたそのバンドがステージを降りたあと、私は指示通りにトイレに向かった。
ちょっと言わせてもらうけど、もし今後の人生でまたいつかあのトイレに入らなければならない事態になったら、今度は漂白剤の〈クロロックス〉を持っていくわ。
私は洗面台からペーパータオルを取ると、それを便座の上に敷いてから座った。こんなトイレを使うなんてあり得ないと思いながら横に目をやると、間仕切りの壁が書き込みで埋め尽くされていた。―落書きとか引用句とか、恋人や友達や元恋人や嫌いな人へのメッセージが一面に書きなぐられていたのだ。それは嘆きの壁を彷彿とさせた。―心にわだかまったものをみんなにぶちまけられて嘆いている壁。こんなに不潔で臭くなければ、美術館の一角を占める空間芸術をも兼ねることができそうな壁だった。―そう思えるほど多くの言葉や感情が、芸術的にも見えるくらい多様な字体で、マジックペンや、色々な色のペンや、アイライナーや、マニキュア液や、ジェルペンや、〈シャーピー〉で書かれていた。
私が一番親しみを感じたのはこの走り書きだった。
「だって私は全然イケてないから勇気が出ないのよ」
それを見て私は思った。「よかったわね、イケてなくて勇気が出ない人。とにかくあなたはこのクラブにたどり着いたんだから。それだけでもう半分人生勝ったも同然じゃないかしら?」
私はその人に何が起こったのだろうと思いを巡らせ、その人が赤いノートを見つけられる場所にノートを置いて行けないかと考えてみた。
それから私は黒のマジックペンで書かれたこの落書きにも惹かれた。
「癒しだったわ。もう取り返しがつかないわね。ごめんね、ニック。私にもう一度キスしてくれる?」
なぜこの落書きに惹かれたのかというと、私はこのクリスマスの悪夢のような〈ホーラー・ナイト〉に踊り狂って、汗をしたたり落としながら臭いトイレの汚い便座に座っていたら、突然〈誰かさん〉とキスしたくてたまらなくなったの。こんな風に誰かを求めたことは今まで一度もなかった。それはもう空想の話ではなくなっていて、求めれば実現するという「希望と信念」に私の中で変換されていた。
(実際、私はまだロマンチックなキスをしたことがなかった。〈ドラゴン・レディー〉に嘘をついたわけではないし、背伸びしても仕方ない。そのことをノートに書いてひねくれ男子くんに告白すべきだろうか? 包み隠さず打ち明けて公平な機会を与えれば、彼は立候補してくれるかしら? そんなことないのかなぁ)
トイレの壁には彼のメッセージを見つけるのは不可能だと思えるくらいたくさんのメッセージが書かれていた。けれど、私は見覚えのある筆跡を見つけた。それは「癒しのキス」を求めるメッセージの数行下に書かれていた。彼はまず下地として白の線を引き、その上に青と黒のペンで、一語ずつ青と黒の文字が交互に並ぶようにメッセージを書いていた。―きっとそれはハヌーカーの色使いなのだろう。そんな書き方をするひねくれ男子くんは密かにロマンチックな人なのかもしれない。あるいはユダヤ教徒なのかな?
そこにはこう書かれていた。
「中折れ帽をかぶったかっこいい探偵風の人にノートを渡してね」
そのメッセージに圧倒され、私は感極まってしまった。
ひねくれ男子くんはここにいるの?
それとも、またブーマーという子に会うことになるの?
私はトイレを出て、再びクラブの中に足を踏み入れた。照明が乏しく薄暗い上に、みんな黒のジーンズに黒のTシャツという格好だったため見つけにくかったけれど、私はついに、お酒を飲むカウンターの片隅に中折れ帽をかぶった二人の男性を見つけた。一人は中折れ帽の上に、ユダヤ教徒がかぶるヤムルカという小さな帽子を載せてピンで留めていた。そして二人ともサングラスをかけていた。ヤムルカをかぶっていない方の男が前かがみになって、靴底に貼り付いたガムをクリップで削り落としていた。(クリップを使っていたんだと思う。お願いだから、指の爪でガムを削り落としていたなんて言わないでね。―汚らしい。)
薄暗いクラブの中で、彼らの顔を見分けるのは不可能だった。
私はノートを引っ張り出してから思い直して、人違いの可能性を考えて念のためにノートをハンドバッグにしまった。彼らで合っているのであれば、彼らの方から「やあ、ノートを受け取りに来たよ」とか私に言ってくるはずじゃないかしら?
そんなことは一切言わずに、彼らはパンク好き特有のギラギラした鋭い視線を私に刺してきた。
私はパニックで立ちすくんでしまった。
そこにいることが苦痛に感じ、私はクラブから出ようと全速力で駆け出した。
そのとき、腹立たしいことにブーツが片方脱げてしまった。本当よ。タイツの上に靴下を履くのを怠ったから大きすぎるブーツがしっくりきてなかったの。インディーズバンドとゲイとユダヤ教徒の舞踏会で、私は金切り声を上げるシンデレラのように、脱げてしまったブーツを片方残したまま、そこを出た。
ブーツを取りに戻るなんて考えられなかった。
タクシーが自宅の前で停まり、運転手にお金を払おうと財布を取り出したとき、私はあることに気づいた。
私は探偵風の人に、ブーツの片一方は置いてきたけれど、肝心のノートを渡さなかったのよ。
ノートはまだハンドバッグの中にあった。
私はひねくれ男子くんが私を探し出す手掛かりを一つも残してこなかったの。
9
-ダッシュ-
12月26日
朝の8時に僕は叩き起こされた。誰かが玄関のドアをドンドン叩いていたのだ。僕はよろめきながら玄関に行き、目を細めてのぞき穴をのぞいた。すると、中折れ帽を斜めにかぶったダヴとヨーニーがこちらをじっと見つめていた。
「やあ、おはよう」と僕はドアを開けて言った。「君たちにしては少し早くない?」
「昨夜からまだ寝てないんだよ!」とダヴが言った。「俺たちはレッドブルとダイエットコーラで気分アゲアゲなんだよ、言ってる意味わかる? つまりそういうこと」
「ちょっとここで寝かせてくれないかな?」とヨーニーが聞いてきた。「今すぐ横になりたいんだ。もう2分も立っていられそうもない」
「もちろん追い払ったりなんてしないよ」と僕は言った。「ライブはどうだった?」
「お前も来ればよかったのに」とダヴが言った。「〈お馬鹿な先生〉は最高だったよ。『キミに逢えたら』に出てきたゲイ・バンドには及ばないにしても、〈オズラエル〉の18倍は良かったな。それとお前に言わなくちゃならないことがあって、お前の彼女が踊りまくってたぞ、この色男」
僕はほほえんだ。「ほんとに?」
「ああ、ホーラーダンスでホーって!」と、ダヴが雄たけびを上げた。
ヨーニーが首を振った。「いや、もっとフレーフレーって感じだったよ。彼女はチアリーダーみたいに両手を上げて踊ってた」
ダヴが手に持っていたブーツらしき物でヨーニーの肩を叩いた。
「このあま、こっち向いて言えよ!」と、ダヴが声を張り上げた。
「今夜は誰も物騒なことは望んでないよ」と、ヨーニーがつぶやいた。
僕は二人の間に割って入った。「ちょっと二人とも落ち着いて!それより僕に何か渡すものはない?」
「あるよ」とダヴは言って、ブーツを上に掲げた。「これ」
「それは何?」と僕は聞いた。
ダヴは気が抜けたような顔で僕を見た。「何って、うーん、そうだな…」
ヨーニーが言った。「ノートはなかったよ。というか、彼女はダヴにノートを渡そうとしたんだけど、結局ノートを持ったまま逃げ出しちゃったんだ。で、そのときにブーツが脱げちゃって。どうしてそんなことが起きたんだろうね―足がブーツから抜けるなんて物理の法則に反してる気もするから、ひょっとしたら彼女はわざとブーツを置いていったのかもしれない。君に渡してほしいってことかも」
「シンデレラだな!」とダヴが叫んだ。「休もうぜ!」
「そうしよう」とヨーニーが続いた。「もうそろそろ寝ないと。ねぐらに潜り込んでもいいかい?」
「母親の部屋を使っていいよ」と僕は言って、ダヴからブーツを受け取ると、中を見た。
「ノートは入ってないよ」とヨーニーが言った。「オレも同じことを思ってね。クラブの床も探してみたけどなかった。床を見て回るのはあんまり楽しい作業じゃなかったね。真面目なことを言うと、もしブーツからノートが抜け落ちたのだとしたら、そんなに遠くまで飛んでないだろうし、―ブーツが落ちた辺りにあったはずだよ」
「うわ、床まで探してくれたんだ、ごめん。というか、ありがとう」僕は彼らを母の部屋に案内した。母のベッドを貸すのはちょっと気がとがめたけれど、そのベッドはジョバンニのベッドでもあったから、僕はジョバンニにさりげなく、こう言おうと思いついて得意な気分になった。「このベッドでクラブ帰りのいかれたユダヤ人のゲイのカップルが洞窟(どうくつ)探検したんだよ」ってね。
ヨーニーがダヴを支えているすきに僕はベッドカバーを外した。というのも前に一度、ダヴの体内から、飲んだレッドブルがすべて寝床に流れ出るのを目撃したことがあったから。
「何時に起こせばいい?」と僕は聞いた。
「君は今夜プリヤのパーティーに行くんだろ?」とヨーニーが言った。
僕は頷いた。
「じゃあ、その少し前に起こして」
大事な物を扱うように、ヨーニーは自分の帽子をそっと脱ぐと、ダヴの帽子も取った。僕は二人に、もう朝が始まってはいたけれど、「おやすみ」と言って部屋を出た。
僕はそのブーツをじっくり調べながら、あれこれ考えてみた。表面の革に秘密のメッセージが刻み込まれているのではないかと探し、中敷きを外して靴底にメモがないかと確かめた。僕はブーツに向かって質問を投げかけながら、ブーツに付いたティンセルを指でいじっていた。そして、リリーにまんまと一杯食わされたな、と思った。
もし彼女が何もメッセージを残していないのであれば、お手上げだ。僕は「マジかよ。もうおしまいだ」と思うしかない。しかし、ブーツが一つの手掛かりであることには違いなかった。そして、まだ手掛かりがあるのなら、ミステリーはまだ手つかずのまま残されているということになる。
僕は今まで歩んできた道筋をたどってみることにした。メイシーズ・デパートはクリスマスの翌日の〈ボクシング・デー〉には早い時間から営業していることを知っていたので、僕はすぐに電話した…そして受話器を持ったまま、15分も待たされた。
やっと、ちょっといら立った声の女性店員が電話口に出た。「メイシーズです。―どういったご用件でしょうか?」
「もしもし」と僕は言った。「そちらにまだサンタはいるかなと思いまして」
「お客様、本日はクリスマスの翌日でございます」
「それはわかってるんですけど、―なんとかしてサンタに連絡取れないですか?」
「お客様、只今たいへん混雑しておりまして、そういったことはお受けできかねます」
「いや、そういうことではないんです。―4日前にサンタをやっていた男性にちょっと聞きたいことがあるんです」
「お客様のサンタと話したいという願いはわかります。それは素晴らしいことですが、本日は一年で一番忙しい日でして、私は他の電話に出なければなりませんので。―サンタにお手紙を書くというのはどうでしょう? 住所を教えましょうか?」
「北極のどこかですか?」と、僕は予想して言った。
「おっしゃる通りでございます。それでは良い一日をお過ごしください。失礼いたします」
そして彼女は電話を切った。
もちろん、ストランド書店はクリスマスの翌日とはいえ、そんな早い時間には開いてなくて、僕は9時30分まで待って、ようやく書店員と話すことができた。
「もしもし」と僕は言った。「そちらにマークはいるかなと思いまして」
「マーク?」と、男性店員が面倒くさそうな声で聞き返してきた。
「はい。受付で働いてる人です」
「マークという名前の従業員は20人くらいいるんですよ。もっと詳しい特徴を言ってくれませんか?」
「黒髪で、メガネをかけていて、皮肉っぽくて無関心を気取っていて、だらしない感じ」
「それでは絞り込めませんね」
「彼は他の店員よりちょっと体重が重い感じです」
「ああ、わかったかもしれません。そのマークなら今日は休みです。えーと、あ、彼は明日ならいますよ」
「彼の苗字を教えてもらえますか?」
「すみませんね」と、その男は愉快そうに言った。「個人情報は教えられないんですよ。ストーカーとかいますからね。もし彼に伝えたいことがあるようでしたら、私の方から明日伝えておきますが」
「いや、いいです」
「だと思いました」
家にいても、それ以上進展は見込めなかった。一応、明日になれば彼に連絡を取れそうだということだけはわかったけれど。
最後の手段として、僕はダヴとヨーニーを母の部屋に残したまま、払いたくはなかったけれど25ドルの入場料を支払って、蝋でできている有名人たちに会いに行った。しかし、あの女性警備員はどこにも見当たらなかった。まるで『ベイウォッチ』の出演者たちの蝋人形と一緒に、彼女も裏の物置部屋に運ばれてしまったかのように跡形もなく消えていた。
仕方なく家に戻った僕は、とにかくリリーに向けてメッセージを書いてみた。
「残念だけど、君の方が一枚上手なのかもしれない。今書いているこの言葉もどこにも届かないからね。聞かれてもいないのに質問に答えるのは難しいし、結局中途半端なところで終わってしまうのなら、今までの積み重ねも水の泡だね」
僕は書くのをやめた。ノートがないと今までのようには書けなかった。会話をしているという感じではなくなって、しんと静まり返った空間に向かって一人で喋っているみたいだった。
彼女が踊っている姿を見に行けばよかったなと後悔した。クラブで踊る彼女が目に浮かんだ。そうやって彼女と出会うことになったはずの夜を想った。
僕はマンハッタン中のすべての「リリー」を調べることもできるだろうし、ブルックリン中のすべての「リリー」の家の玄関まで押し掛けることもできるかもしれない。ニューヨークのスタテン島の「リリー」を探しまくって、ブロンクス区の「リリー」を片っ端から当たってみて、とうとうクイーンズ区で、王妃を見つけ出すみたいに、「リリー」を探し当てることができるかもしれない。でも、そういう見つけ方は何か違うような気がした。干し草の山の中から一本の針を見つけ出すのとはわけが違う。彼女は針ではない。僕たちは人間なのだから、人間にふさわしい出会い方があるはずだ。
母親の寝室からダヴとヨーニーが寝ている音(ダヴのいびきとヨーニーの寝言)が聞こえてきた。僕はブーマーが今日のパーティーのことを忘れているだろうと思って、彼に電話した。そのとき、僕はパーティーに誰が来るのかを思い出した。
ソフィアが来る。彼女がニューヨークに戻って来ることを僕に言わなかったのは不思議だった。いや、それほど不思議でもないのかもしれない。僕たちは想像しうる限り最も簡単な別れ方をした。―というか、別れたという感じでもなく、ただ離れただけだ。彼女がスペインに帰ることになって、それでも僕たちが付き合い続けるとは誰も思わなかった。僕たちの愛はただ単に好きという感情だったのだ。ごくありふれた好みの問題であって、シェイクスピアの作品に出てくるような愛ではない。ただ、それでも僕は彼女に対して愛着を抱いていた。―「愛着」、それは僕の中で賞賛や感傷や感謝や懐かしさといった感情がほどよく混ざり合った、心地良い気持ちだった。
僕はソフィアとの会話は避けられないだろうなと思い、心の準備をした。きっとぎこちなく言葉を交わし、お互いにほほえみ合うことになるだろうと思った。それは言い換えれば、あの頃の僕らへの回帰だった。僕らの間に化学反応みたいな激しい感情のぶつかり合いはなかった。あの頃の穏やかな空気がゆるやかに蘇ってきた。プリヤの家でもソフィアの送別会をしたことを今でも覚えている。そのときにはもう、二人の間では離れ離れになることについての話は済んでいた。けれど、僕はまだソフィアのボーイフレンドとしてみんなに認識されていて、彼女に隣に立って、たくさんのさよならの言葉を聞いた。その結果、僕はみんなより少しだけ深く、その「さよなら」を心に刻み込むことになった。ほとんどの人が帰っていなくなった頃、僕の中で彼女への愛着が溢れるくらい大きくなった。―それは単に彼女が好きということではなくて、彼女を含めたみんなと過ごした時間への愛着だった。そして僕は、僕自身が必ずしも望まなかった彼女との未来を愛おしく思った。
「あなた悲しそうね」とソフィアが僕に言った。僕たちはプリヤの寝室で二人きりだった。ベッドの上にはコートが2、3着しか残っていなかったので、リビングルームにいるのは数人だけになったのだろう。
「君は凄く疲れてるみたいだね」と僕は彼女に言った。「あれだけの人にさよならを言えば疲れるよね」
彼女は頷いてから、そうね、と言った。―それが彼女のいつもの答え方で、僕はそれについて一度も指摘したことはないけれど、前から気づいてはいた。彼女は頷いてから、少し間をおいて、そうね、と繰り返すように言うのだ。断るときも一度首を振ってから改めて、いいえ、と言う人だった。
そのとき、もしかしたら僕は彼女を抱き締めることができたかもしれないし、彼女にキスすることもできたかもしれない。でも、もうすぐ彼女はいなくなると思うと、体が動かなかった。代わりに「君に会えなくなると寂しいよ」という言葉が口をついて出て、彼女を驚かし、僕自身も驚いてしまった。
その瞬間、現在という時間が希薄になるほど未来をリアルに感じたのだ。彼女はまだその部屋の僕の目の前にいるというのに、彼女の存在が消えつつあるのをひしひしと感じていた。
「私もあなたに会えなくなると寂しいわ」と彼女は言った。それから彼女は付け加えるように、「みんなに会えなくなると寂しいわ」と言って、その愛おしい瞬間から、二人だけの空間から、一人でするりと抜け出ていった。
僕たちは(少なくとも僕の知る限りでは)お互いに嘘をついたことはなかったけれど、心の内をさらけ出して何でも話すという間柄でもなかった。むしろ事実に語らせるというか、気持ちよりも事実を優先させるのだ。「私も中華料理を食べたい気分なんだけど、家に帰って宿題をしなくちゃだから帰るわ。映画は凄く楽しかった。それと私の家族がスペインに帰ることになったから、私たちもたぶん離れ離れになるんじゃないかしら」
僕たちは毎日メールを送り合おうなんて誓わなかったし、実際毎日メールを送り合うこともなかった。僕たちは忠誠を誓い合うほどの関係ではなかったし、お互いに新しい恋人は作らないことにしようとは約束しなかった。時々、僕は写真でしか見ることのできない異国の地で暮らす彼女の姿を思い浮かべた。愛着以上の理由はなかったけれど、僕は彼女の人生に留まり続けようと、時々メールを送り、彼女からの返信を読んで彼女の近況を知った。僕はメールに彼女との共通の友達について書いたけれど、それはすでに彼女も知っていることだった。逆に彼女はスペインでの友人について教えてくれたけれど、それは僕にとって知る必要のないことだった。まず僕は彼女に、いつニューヨークに戻ってくるのか聞いた。それに対して彼女は、長期休暇には行けるかもしれない、と答えた気もするけれど、僕はそのことを忘れてしまった。僕たちが海をへだてて暮らしているから忘れたのではなく、僕たちの間には前から壁のようなものがあったのだ。おそらく、僕たちが付き合っていた4ヶ月の間に彼女が僕について知った以上のことを、たったの5日間しか続かなかったメールでの不毛なやり取りを通して、彼女は知ることになったんだと思う。
たぶん問題は距離ではなく、その距離をどうとらえるかが問題なんだと僕は思った。
ダヴとヨーニーと僕は6時30分過ぎにブーマーの家に着いた。するとブーマーがプロボクサーみたいな格好で出てきた。
「これが〈ボクシング・デー〉にぴったりの服装だと思ってね!」と彼は言った。
「仮装パーティーじゃないんだよ、ブーマー」と僕は指摘した。「〈ボクシング・デー〉だからって、箱(ボックス)にプレゼントを入れて持っていく必要もないんだ」
「たまにダッシュって、せっかく楽しんでる人から楽しみを奪うようなことを言うよね」と、ブーマーはため息交じりに言った。「そんなつまらないこと言ってなんになるのさ? なんにもならないよ」彼は家の中に引っ込むと、大きな熱帯魚のマンタが描かれたTシャツとジーンズを持って再び出てきた。そしてボクサーパンツの上からジーンズを穿いた。
僕らは歩道を歩きながら、みんなでどん底から這い上がるロッキーの真似をして、ボクサーになった気分で空中にむやみにパンチを繰り出していた。そのとき、老婦人が食料品の入った手押し車を押しながら前からやって来て、その手押し車の端にブーマーの腕がぶつかり、老婦人がつんのめる形で手押し車もろとも倒れてしまった。
ダヴとヨーニーが老婦人と手押し車を起こしている一方で、ブーマーは「ごめんなさい!ボクの力がこんなに強いなんて知らなかったんです!」と繰り返し言っていた。
幸いにも、プリヤの家はそんなに遠くなかった。インターホンを押して、中からの返事を待っている間に、ダヴが「おい、あのブーツ持ってきたか?」と聞いてきた。
ブーツは持ってこなかった。でも、どんなブーツだったかは詳細に記憶していた。もしここに来る途中で、ブーツを片方しか履いていない女の子を見かけていたら、そのブーツを見て、すぐに同じ物かどうか判別できただろう。
「ブーツって?」とブーマーが聞いた。
「リリーのだよ」とダヴが説明した。
「リリーに会ったの!」と、ブーマーが興奮ではち切れんばかりの大声を出した。
「いや、僕は会ってない」と僕は返した。
「リリーって誰?」とプリヤが聞いた。いつの間にか玄関口に出てきていたのだ。
「女の子だよ!」とブーマーが答えた。
「いや、正確には女の子じゃないんだ」と僕は訂正した。
プリヤは眉をひそめた。「正確には女の子じゃない女の子?」
「彼女はドラァグ・クイーン、女装してる男」とダヴが言った。
「リリーはスイレンの葉っぱ」と、ヨーニーが割って入った。「彼女は環境にやさしく生きようとする緑の葉っぱなんだ。『環境にやさしく生きるのは難しい』からね、それを思うと、いつでも泣けてくるよ」
「泣けるな」とダヴも言った。
「じゃあ、ダッシュは彼女のブーツを持ってるんだね!」とブーマーが言った。
「久しぶり、ダッシュ」
その声に振り向くと、プリヤの肩越しに、玄関のほのかな明かりに照らされた、彼女がいた。
「久しぶり、ソフィア」
今こそ、ブーマーが何か言って茶化してくれるのではないかと期待したけれど、彼は黙り込んでしまった。誰も口を開いてくれなかった。
「あなたと再会できて嬉しいわ」
「そうだね、僕もまた君に会えて嬉しいよ」
僕たち二人の離れ離れだった時間が、お互いのひと言ひと言の間に降り注いでくるようだった。玄関口の踏み段をへだてて見つめ合う僕たちの間に、数ヶ月分の空白が降り積もっていった。ソフィアの髪は前より長く、肌は前より少し焼けていた。そして、他にも何かが違っていた。僕はそれがなんなのか、はっきりとはわからなかった。彼女の瞳の中の何かが違っていたんだと思う。彼女の僕を見る目が、その視線が、以前とはどこか違っていた。
「入って」とプリヤが言った。「もう来てる人もいるのよ」
僕には違和感があった。―僕が期待していた遠慮がちなソフィアとは様子が違っていた。僕たちが付き合っていた頃の彼女は、僕を待ってから、僕の一歩後ろを歩く感じだったのだ。けれど今の彼女は僕を待つこともなく率先して家の中へと入っていった。ソフィア、プリヤ、ブーマー、ダヴ、ヨーニーの順で、一番最後に僕も家の中に入った。
中の様子は落ち着いていて、お酒を飲んで浮かれ騒ぐようなパーティーではなかった。プリヤの両親は、娘が家でパーティーを開くときに家を空けて出掛けるようなタイプではないし、娘が口にする一番刺激の強い飲み物は砂糖入りソーダにすべきだという考えの持ち主で、しかもソーダでさえ、ほどほどにしなさいと言うのである。
「あなたが今日来れることになって凄く嬉しいわ」と、プリヤが僕に向かって言った。「あなたがスウェーデンに行かなくてよかった。あなたが来れなかったら、きっとソフィアはがっかりしたわ」
プリヤがそんなことをわざわざ僕に言うのは不自然だったので、僕はすぐにその言葉の裏には何か他の意味があるんだろうなと察した。きっとソフィアはがっかりしたわ。それは彼女が凄く僕に会いたがっていたという意味だろうか? もしも僕が今日姿を見せなければ、彼女は打ちひしがれていたということだろうか? そもそもプリヤがパーティーを開こうと思い立った理由はソフィアと僕を会わせるためなのだろうか?
それはちょっと飛躍のしすぎだとは思うけれど、僕は再びソフィアを見たとき、彼女の別の顔を見た気がした。ソフィアは横にいるダヴの発言に笑っていたけれど、目だけは僕を見ていた。まるで彼が邪魔で、僕と話したがっているかのようだった。彼女は僕に目配せすると、キッチンのカウンターの方へと顔を動かして合図した。僕は彼女と話すためにキッチンへ移動した。
「ファンタにする? フレスカにする? それともダイエットコーラ?」と僕は聞いた。
「ファンタにするわ」と彼女が言った。
「ファンタ-スティック(素晴らしい)」と僕は返した。
僕が氷を入れてソーダを注いでいると、彼女は言った。「それで、元気してた?」
「うん」と僕は言った。「忙しくしてたよ。知ってるよね?」
「いいえ、知らないわ」と、彼女は僕の手からプラスチックのカップを受け取ると言った。「話して」
彼女の声には少し挑戦的な響きがあった。
「えーとね」と、僕は自分のカップにフレスカを注ぎながら言った。「スウェーデンに行くはずだったんだけど、土壇場で取りやめになっちゃって」
「そうみたいね、プリヤに聞いたわ」
「このソーダは炭酸が強すぎない?」僕は泡が溢れてこぼれそうなカップを指差した。「この泡が落ち着いた頃には、きっとデミタスコーヒー並みに少なくなってるよ。ってことは、僕は一晩中このソーダを注ぎ続けることになるね」
僕がカップに口をつけて、一口飲んだ瞬間にソフィアが言った。「あなたがゲイのセックスの喜びについて調べてるってプリヤが教えてくれたわ」
フレスカが、僕の、鼻から、ちょっと出た。
ひとしきり咳き込んだあと、僕は言った。「どうせフランスのピアニズムのことは彼女から聞いてないんだろ? 彼女はそれを完全に省いて君に話したんだよ」
「あなたはフランス人のペニスについて調べてるの?」
「ピアニズムだよ。まったくもう、君はヨーロッパで何を教わってきたんだよ?」
これは冗談で言ったつもりだったんだけど、僕の口から出た言葉は冗談としてソフィアの耳に届かなかったようで、彼女はむっとしてしまった。アメリカ人の女の子なら腹を立てても、人生そういうこともあるよね、みたいにとらえて流すところを、ヨーロッパの女の子っていつもそこに内に秘めた殺意みたいな感情を付け足そうとするんだよね。少なくとも僕の限られた経験においてはだけど。
「誓って言えるんだけど」と僕は彼女に話した。「ゲイのセックスは美しいし、喜びにも満ちていると思うよ。だけど、僕自身はそれを特別楽しい行為だとは思ってないし、それに、その喜びについて調べたのは、もっと大きな視野に立った探究の一環なんだ」
ソフィアはいたずらっぽく僕を見て言った。「なるほどね」
「いつからそんないたずらっぽい表情をするようになったの?」と僕は聞いた。「声も小悪魔っぽいというか、前はそんな感じじゃなかったのに。そういうのって凄く魅力的だけど、僕が知ってるソフィアじゃない」
「ベッドルームに行きましょ」と彼女が返した。
「なに?」
彼女は僕の背後を指差した。振り向くと、5、6人がソーダを飲もうと並んでいた。
「私たち邪魔になってるから」と彼女が言った。「それと、あなたにプレゼントもあるのよ」
寝室までの道のりはすんなりとはいかなかった。僕たちが一歩進むごとに、誰かがソフィアを呼び止めて、ニューヨークに戻って来てくれて嬉しいと伝えたり、スペインはどう?と聞いたり、その髪型素敵ね、と言ったりした。僕は彼女のボーイフレンドの位置に返り咲いていいものかどうか、ためらいながら横に立っていた。そうしているのは気まずくて、僕がかつて彼女のボーイフレンドだった時と同じくらい居心地が悪かった。
しばらくみんなと談笑していたソフィアは、寝室へ行こうという計画を断念したように見えた。それで僕はもう一杯フレスカを飲もうと再びカウンターへ向かおうとしたのだが、その時、彼女が僕の袖を引っ張ってキッチンから僕を連れ出したのだ。
プリヤの寝室のドアは閉まっていた。そっとドアを開けて中を見ると、ダヴとヨーニーがイチャイチャしていた。
「お前ら!」と僕は叫んだ。
ダヴとヨーニーはすばやく上着のボタンを留め直すと、頭に載せていたヤムルカの上から中折れ帽をさっとかぶった。
「ごめん」とヨーニーが言った。
「俺たちは…する時間がなかったんだよ」とダヴが続けた。
「君たちは一日中一緒にベッドにいたじゃないか!」
「ああ、ただ俺たちはへばってたからな」とダヴが言った。
「完全にヘトヘトだったよ」とヨーニーも同調した。
「それに―」
「―君のママのベッドだったし」
二人は僕たちをかき分けるように、ドアから出て行った。
「スペインで色々あったの?」と僕はソフィアに聞いた。
「まあ、スペイン人はカトリックだからね」
彼女は、たぶん彼女自身のバッグだと思うけど、寝室に置いてあったバッグに近寄ると、中から本を取り出した。
「これ」と彼女は言った。「あなたに渡そうと思って」
「僕は君にプレゼントをもってこなかったんだ」と僕は早口で喋った。「なんていうか、君がニューヨークに戻って来るって知らなかったし、それに―」
「いいのよ。そんなに慌てなくても、そう思ってくれるだけで嬉しいわ」
そう言ってくれて、僕はすっかり安心した。
ソフィアはほほえんで、本を手渡してきた。表紙には「ロルカ!」とでかでかと書かれていた。一目瞭然、それが本のタイトルだった。『ロルカ!』さりげなさの欠片もない!僕は親指でパラパラとその本をめくってみた。
「ああ、これは」と僕は言った。「詩集だね!しかも僕にはわからない言語だ!」
「どうせあなたは本屋さんに行って翻訳版を買って、それを私に見せて読んだよって言うのよね」
「あちゃ、一本取られた。まさにそうしようと思ったところだよ」
「でもそれは本当に、私の心にすごく響く本なの。彼は素敵な作家だし、あなたも彼を気に入ると思うわ」
「君にスペイン語のレッスンをしてもらわなくちゃだね」
彼女は笑った。「あなたが英語のレッスンをしてくれたみたいに?」
「なんで笑うの?」
彼女は首を振った。「ううん、あなたが英語を教えてくれた時間は甘くて楽しい時間だったわ。ただし、上から目線だったけどね」
「上から目線だった?」
彼女は僕の話し方を真似し始めた。―大して似てはいなかったけれど、僕の声を真似しているんだなということはわかった。「『なに、君はピザ・ベーグルがどういうものか知らないの? 語源という言葉の語源を説明してあげようか? すべて玲瓏(れいろう)?―つまり、わかった?』」
「そんなこと言ってないよ。僕はそんな言い方してない」
「そうかもしれないけど、そういう風に感じたの、私にはね」
「だったら」と僕は言った。「その時に言ってくれればよかったのに」
「そうね。でも『何か言う』のは私のすることではないと思ってたし、あなたが進んで色々説明してくれるのを聞いてるのが好きだったのよ。それに、私にはまだまだたくさん教えてもらわなくちゃならないことがあるって思ってたし」
「それで今は?」
「もうそんなにないわね」
「どうして?」
「ほんとに知りたいの?」
「うん」
ソフィアはため息をついて、ベッドに座った。
「恋をしたの。でも、うまくいかなかったわ」
僕は彼女の隣に座った。
「この数ヶ月の間に?」
彼女は頷いた。「そうよ、数ヶ月の間に始まって終わっちゃったわ」
「君は何も言ってくれなかったじゃないか…」
「メールで? そうね、書かなかったわね。私があなたとメールしてることも彼は嫌がっていたから、あなたに彼のことを話すなんて到底できなかったわ」
「僕ってそんなに脅威だったの?」
彼女は肩をすくめた。「私は最初、あなたのことをちょっと誇張して話しちゃったの。彼に嫉妬させようと思ってね。嫉妬させることはできたんだけど、その分私のことをもっと深く愛してほしかったのに、そうはならなかったみたい」
「だからニューヨークに戻って来ることを僕に言わなかったってこと?」
彼女は首を振った。「違うわ。先週になって来ることになったからよ。すごくニューヨークが恋しいって両親を説得して、やっとクリスマス休暇に連れてきてもらったの」
「でも本当は、君は彼から離れたかったのかい?」
「そういうことじゃないわ。私は久しぶりにみんなに会いたいなって思っただけよ。ところで、あなたはどうなの? 誰かに恋してないの?」
「それがわからないんだ」
「ああ。じゃあ誰かいるのね。ゲイのセックスの喜び?」
「まあ」と僕は言った。「そうなんだけど、君が思ってるようなことじゃない」
それで僕は彼女に話した。ノートについて、そしてリリーについて話した。話しながら僕は時々彼女の表情をうかがった。僕は部屋を見回したり、自分の手を見たり、彼女から視線を外したりしながら話した。それは一度に話すにはあまりにも多くの情報を含んでいたため、ソフィアの気持ちは途中で離れてしまった。それでも僕はリリーへの親近感をなんとかソフィアの中に生み出そうとしていた。
「ああ、なるほどね」と、ソフィアは僕が話し終えると言った。「あなたはついに頭の中にその女の子を生み出したってわけね」
「どういう意味?」
「つまりね、だいたい男って頭の中にそういう女の子を連れて歩いてるのよ。そうであってほしいと望む理想の彼女をね。あなたが世界で一番好きになるような人よ。そして実際、目の前にいる女の子を常に頭の中の彼女と比べて、物差しで測ってるのよ。だから、その赤いノートの彼女も、―納得がいくわ。あなたが一度も彼女に会ったことがないのなら、彼女は物差しで測られることもないし、彼女はあなたの頭の中で理想の彼女になれるわね」
「なんだか僕が実際に彼女と知り合いになることを望んでいない、みたいな言い方だね」
「もちろん、あなたは彼女と知り合いになりたいんでしょう。でも同時に、あなたはすでに彼女のことを知ってると思いたいのよ。自分は一瞬にして彼女のことがわかるんだって。そういうおとぎ話なのよ」
「おとぎ話?」
ソフィアは僕に向かってほほえんだ。「おとぎ話って女の子のためだけにあると思ってるでしょ? ヒントをあげるわ。―おとぎ話の作者を思い浮かべてみて。女性ばかりではないでしょ。おとぎ話って男性の誇大妄想でもあるのよ。彼女が理想の女性であるかを知るためには、一度一緒に踊ってみればいいの。塔から聴こえる彼女の歌声だけでわかるのよ。あるいは彼女の寝顔を見るだけでね。だからあなたもすぐにわかったのよ。あなたの頭の中で、―ああ、僕の目の前で眠り、踊り、歌う彼女こそ求めていた人だって。そうね、もちろん女の子も王子様を求めてるわ。でも男の子だって同じようにお姫様を求めてるのよ。そして男の子って、そんなにじっくり求愛期間をとることなく、すぐに付き合いたいって思うのよね」
彼女は僕のふとももの上に彼女の手を置いて、ぎゅっと握ってきた。「わかる? ダッシュ、―私はあなたの頭の中の理想の彼女ではないし、あなたも私の頭の中の理想の彼氏ではないのよ。そのことはお互いにわかってると思うけど、彼女でも彼氏でも、そういう架空の存在を現実に求め出したら、かなりやっかいなことになるわ。私はカルロスとそれをしちゃったのよ。ひどい失敗だったわ。自分が何をしているのかよく考えてみて。あなたがそうであってほしいと望むような人なんて現実にはいないのよ。そして、あなたがその人のことを知らなければ知らないほど、その相手が女の子であれ男の子であれ、ますます頭の中でその人を理想の恋人と混同していくのよ」
「都合が良すぎる考えってことだね」と僕は言った。
ソフィアは頷いた。「そう。そんな夢みたいな考えにすがってちゃだめ」
10
(リリー)
12月26日
「お前は外出禁止だ」
おじいちゃんが真剣な眼差しで私を見つめてきたから、私は我慢しきれずに吹き出してしまった。
おじいちゃんってお小遣いや自転車をくれたり、ハグをしてくれたりする存在であって、孫にお仕置きなんてするはずないわ!そんなのみんな知ってる常識よね。
予期せぬことに、おじいちゃんがフロリダからはるばる丸一日車を運転して、ニューヨークに帰ってきたのよ!そして帰宅するとすぐに私と兄の様子を確認したらしい。ところが、兄がベッドで毛布にくるまり、鼻をかんだティッシュの海に埋もれて、気を失ったように寝ているだけだった。兄のことは心配だったけれど、それよりも、おじいちゃんの大切なリリーベアが見当たらない。最上階の〈リリーパッド〉で寝ているかもしれないと探してみたけれど、私の家族が住んでいる建物のどの階にもいなかった。
幸いにも、おじいちゃんが私の不在を認識してから数分しか経っていない午前3時30分頃、私は家に着いた。そのわずかな時間にも、彼は建物内のあらゆるクローゼットや戸棚を探し回り、心臓発作を起こす寸前だったみたい。おじいちゃんが警察や私の両親に電話したり、自分のパニックを世界的なパニックまで押し広げようと親戚中に電話しまくる、といった行動に出る前に、夜のクラブシーンを経験してまだ息もつけないほど興奮冷めやらぬ赤ら顔の私が、軽やかな足どりで玄関に入ってきた、というわけ。
おじいちゃんがそんな私を見て言った最初の言葉は、「どこに行ってたんだ?」ではなかった。それは二番目に聞かれたことで、最初の言葉は、「なんでお前はブーツを片一方しか履いてないんだ? おや、その片足だけ履いてるブーツは、わしの妹が高校時代にバトンガールをしてた時のブーツじゃないか?」だった。彼はキッチンから顔を出して、そう言った。彼が四つんばいになっていたところを見ると、どうやら私が流し台の下に隠れているに違いないと思い付いたところらしかった。
「おじいちゃん!」と私は大声を上げた。私は彼の元に走り寄ると、クリスマス翌日のキスを浴びせかけた。私はおじいちゃんに会えた喜びと、夜遊びしたことによる高揚感にひたっていた。探偵風の二人に大叔母さんのブーツを片方ささげただけで、ひねくれ男子くんにノートを返さずにその夜を終えてしまったというのに、私は浮足立っていた。
でも、おじいちゃんは私の愛情のこもったキスを受け入れようとはせずに、頬を私からそらすと、「お前は外出禁止だ」というお決まりのお説教を始めた。ただ、私が彼の発言に怖がる素振りを見せなかったため、彼は顔をしかめて詰め寄ってきた。「どこに行ってたんだ? もう朝の4時だぞ!」
「3時30分」と私は彼の誤りを指摘した。「まだ朝の3時30分だよ」
「おやおや、君は今大変な状況なんですよ、お嬢さん」と彼は言った。
私はくすくす笑った。
「真面目に言ってるんだ!」と彼が言った。「ちゃんと説明しなさい」
えっと、私は全く見ず知らずの人とノートでやり取りしていて、私が心の奥で感じてることや考えてることを彼に伝えて、それから、彼が私に行くようにけしかけてきた色々な謎の場所にのこのこ行っていたら…。
だめ、そんなこと言えるわけない。
生まれて初めて、私はおじいちゃんに嘘をついた。
「サッカーのチームメイトの友達がパーティーを開いたの。ハヌカーを祝うパーティーだったんだけど、そこで彼女のバンドが演奏するって言うから、聴きに行ってたの」
「その音楽は朝の4時に家に帰れとでも歌ってるのか?」
「3時30分」と私は再び言った。「なんていうか、宗教的なことなのよ。そのバンドはクリスマスの夜中の12時を過ぎないと演奏できないことになってるの」
「そうか」と、おじいちゃんは疑いの目で私を見てきた。「君には夜間外出禁止令が出ていなかったかな? お嬢さん」
その呪いの言葉が一度ならず二度も彼の口から発せられた。お嬢さんという愛情を示すかのような恐ろしい呼称は、私を恐怖でおののかせるはずだった。しかし、私は夜の冒険の余韻で頭がくらくらしていたから、そこまで気が回らなかった。
「夜間外出禁止はクリスマス休暇中は一旦解除されるんでしょ」と私は言った。「道路の片側駐車禁止みたいなものじゃない」
「ラングストン!」と、おじいちゃんが叫んだ。「こっちへ来なさい!」
2、3分後に、やっと兄がうなだれて掛け布団を引きずりながらキッチンに入ってきた。昏睡状態から目覚めたばかりという顔だった。
「おじいちゃん!」と、ラングストンはゼーゼー息をしながらも、驚いていた。「どうして家に帰ってきてるの?」ラングストンはきっと病気になってほっとしているんだろうなと思った。もし彼が病気ではなかったら、ベニーはこの家に泊まっただろうし、まだそういうロマンチックなことで仲良く夜を明かすことは、権威ある大人からちゃんと了承を得ていないから、ラングストンも私みたいに窮地に陥ることになったはずよ。
「わしのことはどうでもいい」と、おじいちゃんは言った。「お前はリリーがクリスマスの夜に友達の音楽を聴きに行ってもいいと言ったのか?」
ラングストンと私は、あうんの呼吸で目配せし合った:二人だけの秘密は内緒のままにしておいてね、秘密よ。私はまぶたを上下に動かして、そう彼に合図した。それは子供の頃からの私たちの間のひそかな暗号だった。それでラングストンはどう言ってほしいのか察してくれた。
「そうなんだ」と、ラングストンは咳をした。「僕は具合が悪かったから、せっかくのクリスマスだし、リリーに一人で外に行って楽しんでこいって言ったんだよ。アッパー・ウエスト・サイドにある赤レンガ造りの建物の地下だったかな、そこでそのバンドがライブするって言うから、僕が配車サービスを手配して彼女を一人で行かせたんだ。帰りも配車サービスに頼んでおいたから、安心安全だったんだよ、おじいちゃん」
病人のくせに頭が回るじゃない。たまに私は兄のことが愛おしくなる。
おじいちゃんは疑わしげに私たち二人を交互に見た。兄妹の仕掛けたわなにハマって、けむに巻かれているのか、はっきりしない様子だった。
「寝なさい」と、おじいちゃんがうなるように言った。「二人とも、朝起きたらまた改めて話すからな」
「というか、なんでおじいちゃんは帰ってきたの?」と私は聞いた。
「気にするな。早く寝なさい」
私はクレズマー音楽に酔いしれた後でなかなか寝付けなかったので、寝るのは諦めてノートを書くことにした。
私たちのノートをあなたに返せなくてごめんなさい。あんな簡単な任務だったのにね、しくじっちゃった。どうして私は今あなたに向けてこれを書いているんでしょうね、どうやってあなたにこれを返せばいいかさっぱりわからないというのに、不思議ね。きっとあなたには信頼できる何かがあるから、―というか、このノートが私の中に信念を植え付けてくれるからだと思う。
今夜あなたもあのクラブにいたの? 最初、あの探偵風の二人の男の子のどちらかがあなたかもしれないと思ったわ。でもすぐにそれはありえないと思い直したの。一つには、あの二人はノリノリすぎる気がしたから。といっても、あなたが惨めな人だって想像してるわけじゃないのよ。だけど、あなたがあんな風にニヤニヤしながら見てくるタイプだとも思えないの。それに、もしあなたが私の近くにいたのなら、肌感覚というか、気配を感じ取ってわかった気がするのよね。それともう一つ、私はまだあなたのイメージをつかめていないけれど(私があなたの顔を思い描こうとすると、いつもあなたは赤いモレスキンのノートを掲げて顔を隠してしまうのよ)、それでも、あなたがこめかみのところから髪を巻いて垂れ下げているとはどうしても思えないわ。ただの直感よ。(だけど、もしあなたがそういう髪型をしているのなら、私もたまには髪を編み込んでみようかしら?)
それで、私はあなたの友達にノートではなく、ブーツを片方だけ置いてきちゃったの。もしかしたら、あの二人は全然関係のない赤の他人だったのかもしれないけれど。
あなたはもう他人のような気がしないわ。
あなたが私を探してくれているかもしれないから、いつでも私だとわかるように、これからはブーツのもう片方を履いて過ごすことにするね。
シンデレラもまぬけな子だったのよね。彼女は舞踏会の会場に脱げたガラスの靴を片方残したまま、いじわるな継母の家に急いで帰ったのよ。私が思うには、彼女はもう片方のガラスの靴を履いて過ごした方がよかったんじゃないかな。いつもそれを履いていれば、王子様はもっと簡単に彼女を見つけられたんじゃないかしら。それから私が前から思っていた希望なんだけど、王子様がシンデレラを探し当てて、二人で豪華な馬車に乗り込んで走り去ったあと、何マイルか進んだところで彼女は彼の方を向いて、こう言うのよ。「この通りの先で私を降ろしてちょうだい、お願い。私はついにひどいいじめが続く生活から抜け出せたのよ。私は世界がどんなものなのか見てみたいの。わかってもらえる? リュックサックを背負って、ヨーロッパやアジアを渡り歩いてみようと思ってるの。私自身の生き方を見つけたら、王子、あなたのところにきっと戻ってくるから。とにかく、私を見つけてくれてありがとう!あなたは最高に素敵よ。それと、このガラスの靴はあなたが持っていてちょうだい。私がこれを履き続けていたら、そのうち足の指にまめができちゃうわ」
私もシンデレラみたいにあなたと踊りたかったのかもしれない。大胆なことを言わせてもらえばね。
午後になって、おじいちゃんがコーヒー仲間に会いに出掛けると言い出した。外は雨もみぞれも降っていなかったし、クリスマス翌日の憂鬱な気分もおじいちゃんを引き留めることはできなかった。
おじいちゃんが心の支えを必要としている気がしたので、私も付き添うことにした。
おじいちゃんは毎年冬になると暖かいフロリダの別荘に行くんだけど、おじいちゃんが所有している雑居ビルの一室で暮らしているメイベルに、クリスマス当日、つまり昨日、彼はプロポーズしたらしい。私は前からメイベルが気に入らなかった。彼女はいつも私と兄に、「おばあちゃんと呼んで」と言ってくるし、それ以外にも、義理の祖母になろうとする彼女の愚行は挙げればきりがない。ここに書き出してみると、(1) 彼女の部屋のリビングルームに置いてあるお菓子はいつもしけっている。(2) 私は化粧が好きじゃないのに、彼女は私に口紅や頬紅を塗ろうとしてくる。 (3) 彼女は料理が下手くそ。(4) 彼女が作ったベジタリアン向けのラザニアは、すりおろしたズッキーニのせいで接着剤みたいな味がする。しかも彼女は必ず、「あなたのために作ったのよ、肉を食べないなんて困った子ね」と言ってくる。その台詞は耳にたこ。(5) 彼女といると、なんだか吐き気がする。(6) 彼女の作ったラザニアもそう。(7) そしてリビングルームのお菓子も同じ。
びっくりしたんだけど、メイベルはおじいちゃんのプロポーズを断ったのよ!私のクリスマスも午前中は最悪だったけれど、おじいちゃんのクリスマスに比べれば、まだましだったってことね。おじいちゃんがメイベルに指輪をプレゼントしたら、彼女は独身生活が好きだから、おじいちゃんとは冬を一緒に過ごす関係のままでいたいって言ったみたい。でも彼女は一年の残りの季節には他の男と会ってるのよ!まあ、おじいちゃんも冬以外は他の女と会ってるけどね。彼女は指輪のお金を払い戻してもらうように言ったらしい。そのお金でどこか豪華なリゾートにでも連れて行って、と。
おじいちゃんは彼女がプロポーズを断るなんて夢にも思わなかったから、彼女の返答について論理的に考える余裕はなく、失恋した人にはありがちな行動だけど、そそくさと逃げるように数時間後にはニューヨークへ向けて車を走らせていた。失意のどん底にいた彼に追い打ちをかけるように、帰宅してみると、彼の大切なリリーベアが夜の街に繰り出して浮かれ騒いでいた。彼にとっては、24時間のうちに全世界がひっくり返ったような衝撃を受けたことでしょう。
まあ、年寄りには良い刺激になったと思うけどね。
けれど、おじいちゃんが心底落ち込んでいるようだったから、私は彼を放っておけなくて、午後になっておじいちゃんがコーヒーを飲みに出掛ける際、私も彼のそばに付き添って出掛けることにした。彼のコーヒー仲間はみんな近所に住んでいて、すでに現役の年齢は過ぎているけれど、かつて何らかのお店を経営していた人たちだった。私のママが赤ん坊だった頃から、おじいちゃんとよく一緒にコーヒーを飲む仲だったみたい。彼らはおじいちゃんのクリスマスの災難について聞くと、あれこれ意見を言って彼を慰めた。おじいちゃんの仲間って大体、音節の多い長ったらしい言いにくい名前をしているから、ラングストンと私は彼らを本名ではなく、彼らがやっていたお店で区別して呼んでいた。
円卓を囲んで繰り広げられた、メイベルをめぐる討論会はこんな感じで進んだ:
カノーリ屋さんがおじいちゃんに言った。「アーサー、しばらく彼女に考える時間を作ってやったほうがいい。そのうち彼女も考え直して会いに来る」
餃子屋さんは言った。「あんたは男らしいよ、アーサー!その女性とは縁がなかったんだ、もっといい人が現れるさ!」
ボルシチ屋さんはため息まじりに言った。「昨日はあんたみたいなキリスト教徒にとっては聖なる日だろ、そんな日に結婚のプロポーズを断るような女があんたの心を満たしてくれるとでも言うのか? アーサー。俺はそうは思わんな」
カレー屋さんが声を大にして言った。「俺がお前にいい女を見つけてやるって!」
「彼にはここニューヨークに他にもたくさん女友達がいるのよ」と私は言って、みんなにその事実を思い出してもらった。そして、ためらいながらも「ただ、彼は本気でメイベルと結婚したいみたいだけど」と言った。本当はそんなこと口にするのも嫌だったんだけどね。
私はその嫌な台詞を〈リリーチーノ〉を飲みながら言った。でも不思議と、むせて咳き込むこともなく美味しく飲めた。〈リリーチーノ〉というのは、カノーリ屋さんの義理の息子さんが好意で私のために特別に淹れてくれるカプチーノのことで、泡立てたミルクの上に細かく刻まれたチョコレートが載ってるの。カノーリ屋さんはもう引退して、今は息子さんがこのベーカリーを経営してるのよ。
いつもは快活でやる気に満ちているおじいちゃんが、がらにもなく意気消沈しているように見えて、私はなんだかやるせない気持ちだった。
「この子!」と、おじいちゃんが隣に座っている私を指差しながら周りのみんなに言った。「この子が何をしたかわかるか? 昨晩パーティーに行ったんだ!門限を破って朝までだぞ!わしが帰ってみると、リリーベアがどこにも見当たらないから、うろたえたよ。ふられて最低だったわしのクリスマスがなんてことないって思えたくらいだ。そしたら数分後にひょっこり帰ってきたんだ。―朝の4時だぞ!―この世には何の悩みもないって顔してたよ」
「3時30分」と、私は再び明言した。
餃子屋さんが言った。「そのパーティーには男もいたのか?」
ボルシチ屋さんは言った。「アーサー、こんな子供をそんな夜中に外出させてもいいと思ってるのか? そこには男がいるかもしれないっていうのに」
カノーリ屋さんが言った。「俺がそいつをぶっ殺してやるからな、もしも...」
カレー屋さんが私の方に向き直って言った。「若いお嬢ちゃんはそんなことしちゃ...」
「私、犬の散歩に行く時間だ!」と私は言った。これ以上、コーヒーを飲みながら身の上話に明け暮れるおじさま方に囲まれていたら、彼らはみんなで共謀して、私が30歳になるまで男の子を遠ざけようと、私を部屋に閉じ込めかねないわ。
くどくどけちをつけてくる立派なみなさんをよそに、私はそのお店を出ると、大好きな犬の散歩をするために依頼主の家へ向かった。
私は大好きな二匹の犬を連れて公園に行った。―〈ローラ〉というパグとチワワを親に持つ小型犬と、〈デュード〉というチョコレート色をした大きなラブラドール・レトリバーよ。この二匹は本気で愛し合ってるの。お互いのお尻の匂いをしきりにクンクン嗅いでるんだから、きっと本物の愛ね。
私は携帯電話を取り出すと、おじいちゃんに電話した。
「おじいちゃんは妥協するってことを覚えたほうがいいわね」と私は言った。
「どういうことだ?」と彼は言った。
「最初デュードはローラが大嫌いだったのよ。彼女は小さくて可愛いし、みんなの注目の的だからね。でも彼は彼女と仲良く遊ぶことを覚えたの。そしたら彼も注目を集めるようになったわ。デュードは妥協したの。だからおじいちゃんもそうすべきよ。メイベルにプロポーズを断られたからって、それくらいのことで彼女と別れるべきじゃないわ!」
私はそういう風に誰かに歩み寄った経験もないし、余計なお世話だったわね。
「わしは16歳の女の子から恋愛指南をされなければいかんのか?」と、おじいちゃんが言った。
「そうよ」と言って、私はすかさず電話を切った。私にはそのようなアドバイスをする資格が全くないことを指摘されそうだったから。
私はそろそろ〈優しいリリーちゃん〉でいることをおしまいにして、かけひき上手な戦略家にならないといけないわ。
たとえば、
もし来年の9月に(ラングストンが言うには、パパが新しい仕事を引き受けると、来年の9月からその仕事は始まるらしい)、私がどうしてもフィジーに行かなければならないのなら、私は子犬を飼いたいと要求するつもり。私はこの状況から親としての罪悪感を掘り起こせそうだと気づいたの。そして、それを私の動物王国の利益になるように利用する計画よ。
犬のための広場でローラがデュードを追いかけ回している間、私はベンチに座っていた。すると、隣のベンチから10代の少年がこちらを見ているのに気づいた。アーガイル柄のベレー帽を後ろに傾けてかぶっている彼は、私のことを知っているかのように、目を細めて私を見ている。「リリー?」と彼が聞いてきた。
私はもっとよく彼の顔を見た。
「エドガー・ティボー!」と、私はうなるように声を上げた。
彼がこちらのベンチに向かって歩いてくる。なんでエドガー・ティボーが私のことを覚えてるのよ? そして、よくもまあ、私に近寄ってこれるわね。41番小学校での私の小学生ライフをあんな生き地獄みたいな日々にしてくれたっていうのに。
というか、
なんであのエドガー・ティボーがここ数年でこんなに…背が高くなってるの? そして…かっこよくなってるのよ?
エドガー・ティボーが言った。「最初君だってわからなかったけど、その変なブーツを片足だけ履いてるし、もう片方にはぼろぼろのコンバースを履いてるし、それに、その赤いポンポンが付いた帽子に見覚えがあったから、これはもう君しかいないって思ったんだ。最近どう?」
最近どう? そんなになれなれしく聞いてくるわけ? 彼は私のことを知りたいの? 彼は私の人生をめちゃくちゃにしなかったとでも言うつもり? 私のアレチネズミを殺さなかったとでも?
エドガー・ティボーが私の隣に座った。彼の目は(深緑色で、どちらかと言えば綺麗な目だったけれど)少しかすみがかっていた。ひょっとしたら〈ピース〉のタバコでも吸っているのかもしれない。あるいは私と仲直りしたいのかも。
「私はサッカーチームのキャプテンをしてるのよ」と私は告げた。
私は男の子とどうやって話したらいいのかわからない。面と向かってだと無理。たぶんそんなだから、潜在的に私の中にあるロマンチックな表現欲を、依存的にノートにぶつけるようになったんだと思う。
エドガーは私のおかしな返答を笑った。でも、いじわるな笑い方ではなく、感心しているような響きを伴う笑いだった。「そりゃ君はそうだよね。昔のまんまのリリーだ。君がかけてるその黒縁メガネも小学校の時と同じみたいだし」
「あなたは高校を退学になったって聞いたけど、なんか共謀して悪いことをたくらんだとかで」
「停学になっただけだよ。実際、休暇をもらったみたいだったな。それより、さっきからずっと俺のことをじろじろ見てるけど、今度は俺が君をチェックする番だ」エドガー・ティボーが私にもたれかかるように前のめりになって、私の耳元でささやいた。「君は可愛くなったね、って誰かに言われたことない? まあ、標準的な可愛い子とはちょっと違うけど」
褒められているのか、けなされているのか私はわからなかった。
ただ、私の耳の中に入ってくる彼の吐息にゾクッとした。体中がしびれるような初めて味わう感覚だった。
「あなた、ここで何してるのよ?」と私は彼に訊ねた。くだらない会話をして気持ちを紛らわせる必要があった。何か話さないと、どんどんふしだらな考えが浮かんできそうだった。頭の中で私はエドガー・ティボーの周りをぐるぐる回っていた…彼のシャツを脱がそうとしていた。私の顔が熱くなって赤くなるのがわかった。それでもなんとか下品なことは言わずに済んだ。「他のみんなみたいにクリスマス旅行には出掛けなかったの?」
「両親は俺を置いてコロラドにスキーしに行っちゃったよ。両親は俺のことでカンカンなんだ」
「あら、それは大変ね」
「いや、わざと怒らせたんだよ。中産階級の偽善者ぶった親がいない一週間はパラダイスだからな」
エドガー・ティボーが話してるの? 私は彼の顔をじっと見つめたまま目をそらすことができなくなった。ほんの数年の間に、こんなにがらっとかっこよく変わるなんて、いったいどうやったらありえるの?
私は言った。「あなたがかぶってるベレー帽って女物じゃない?」
「そう?」とエドガーは言った。「いい帽子だろ」彼が嬉しそうに首をかしげた。「俺は女の子が好きなんだよ。女物の帽子もな」彼が手を伸ばして私の帽子を取ろうとした。「かぶってもいい?」
エドガー・ティボーは明らかにこの数年で内面も成長していた。私の帽子をかぶってもいいか聞くだけの礼儀を身につけていた。小学生の彼がこの場にいたら、許可など求めずに私の頭から帽子をひったくって、ふざけて犬たちに向かって投げるくらいのことはしていたでしょう。
私は彼が帽子を取れるように頭を差し出した。彼は私のポンポンの付いた赤い帽子をかぶり、それから彼のベレー帽を私の頭にかぶせた。
私の頭を覆う彼のベレー帽は温かくて、なんだか...いけないことをしているみたいだった。でも好きな感触だった。
「今夜俺と一緒にパーティーに行かないかい?」と、エドガーが聞いてきた。
「たぶんおじいちゃんがだめって言うわ!」と、私は思わず言ってしまった。
「だから?」とエドガーは言った。
そうなのよ!
明らかに、今こそ男の子と恋の冒険をする時だった。将来、誰かに恋愛のアドバイスをする時に、実体験を伴った重みのあるアドバイスができるような、そういう恋をするチャンスだった。
私がこのトンプキンス・スクエア・パークに着いた時は、ひねくれ男子くんのことで頭がいっぱいだった。それなのにいつしか私の目の前には、ノートの中の人物ではない、生身のエドガー・ティボーがいた。
かけひき上手な戦略家の秘訣は、妥協するタイミングを心得ておくことよね。
たとえば、
もし私がどうしてもフィジーに引っ越さなければならないのなら、私は子犬を要求するけれど、
まあ、妥協してウサギでもよしとしましょう。
11
-ダッシュ-
12月27日
それで僕は再びストランド書店に足を踏み入れていた。
昨夜のパーティーはそんなに遅い時間にならずにお開きになった。―プリヤの家で開かれるパーティーはいつもそうだけど、今回もシンデレラが帰らなければならない時間よりもだいぶ前に立ち消えになった。ソフィアと僕はその晩ほとんどの時間を同じ空間で過ごしたけれど、一旦寝室から出ると、僕たちは談笑の輪に加わり、二人きりで話すのはやめて、みんなの中の二人としてお喋りしていた。ヨーニーとダヴは彼らの友達のマシューが詩を朗読するのを見に行くと言って、プリヤの家を出て行った。そしてティボーは一度も姿を見せなかった。僕はそのうちまたソフィアと二人きりに近い状態になれるかもしれないと、ぐずぐず居残っていたんだけど、ブーマーがマウンテンデューを13杯くらい飲んでしまって、今にも彼の頭で天井に穴を開けそうな勢いで騒ぎ出してしまったから、そろそろお開きだね、ということになって、ソフィアが年明けまではニューヨークにいると言うので、僕は「じゃあ、それまでにまた会おう」と提案し、彼女が「そうね、そうしましょう」と返して、僕たちはプリヤの家を後にした。
そして翌日の午前11時、僕はこの本屋に舞い戻ってきたというわけだ。興味をそそる本の山が無言の叫び声を上げて僕を呼んでいる気がしたけれど、僕はマークを見つけて、必要ならば色々問いたださなければならないから、書棚を見ないように歩いた。脇の下に女物のブーツを抱えて歩く僕の姿は、なんだか『オズの魔法使い』に出てくる西の悪い魔女が溶けたあと、残ったブーツだけを運んでいる人みたいだ。
受付に座っていた男はやせていて金髪で、メガネをかけていてツイードの服を着ていた。要するに、僕が探している男ではなかった。
「こんにちは」と僕は言った。「マークはいますか?」
その男は膝の上に置いて読んでいたサラマーゴの小説からかろうじて顔を上げた。
「ああ」と彼は言った。「君が例のストーカーか?」
「僕は彼に聞きたいことがあるだけです。それでストーカーとは言わないでしょう」
その男はようやく僕を真正面から見据えて言った。「聞きたいことによるんじゃないですか? つまり、ストーカーにも聞きたいことはあるでしょうから」
「そうですね」と僕は認めた。「でもストーカーが聞きたいことって、『どうして僕を愛してくれないの?』とか、『なぜ僕は君のそばで死ねないの?』とか、そんな感じですよね? 僕が聞きたいのはそういうことじゃなくて、『このブーツについて知ってることを教えてほしい』みたいなことなんです」
「私にはお役に立てるかどうか」
「ここは受付ですよね? あなたにはお客の僕に知ってることを伝える義務があるんじゃないんですか?」
その男はため息をついた。「わかりました。彼は棚入れをしてますよ。案内しますからちょっと待ってください、もうすぐこの章を読み終えますから、いいですか?」
僕はあまり心を込めずに、彼に礼を言った。
ストランド書店は「18マイルにもなる本」を取り揃えていることを売り文句にしている。ただ、僕にはどうやって計算したのかさっぱりわからない。すべての本を一冊ずつ積み重ねていくと18マイルの高さになるのだろうか? それとも本を横に並べていくと、マンハッタンから始まって、18マイル離れた場所、たとえばニュージャージー州のショートヒルズまで架かる本の橋ができあがるということだろうか? あるいは店内の書棚の長さが18マイルもあるというのだろうか? まったくもってミステリーだけど、僕らは本屋のその言葉をそのまま受け入れるしかない。もし本屋でさえ信頼できないとしたら、何も信頼できなくなってしまうから。
測定方法がなんであれ、はっきりしていることはストランド書店にはたくさんの通路があって、それぞれの通路に書棚が立ち並んでいるということだ。というわけで、僕は細い通路を出たり入ったりしながら、くねくねと書棚の間を歩いていくことになった。—文句を言っているお客や、文句を言いたげなお客を避けながら、はしごや、あちこちに積み上げられた〈本塚〉をよけながら進んでいくと、やっと軍事史のコーナーでマークを見つけた。彼は南北戦争に関する写真入りの重そうな歴史書を一冊抱えていて、少し前かがみになっていた。そのような作業をしていること以外は、彼の外見も物腰も最初に会った時とさほど変わらなかった。
「マーク!」と、僕は休日にばったり会った友達同士みたいな口調で言った。まるで遊廓の待合室で、同じサークルに所属していていつも食事を共にしている友人と出くわしてしまったみたいに。
彼は一瞬僕を見ると、すぐに棚に目を戻した。
「クリスマスは楽しんだ?」と僕は続けた。「クリスマス期間を楽しんでる?」
彼はウィンストン・チャーチルの回想録を振り上げると、非難するように僕に向けてきた。その本の表紙に写る二重顎の首相が、突然始まった口論の審判のように平然とこちらを見ていた。
「何が望みなの?」とマークが聞いてきた。「あんたに何も話すつもりはないよ」
僕は脇の下に挟んでいたブーツを、チャーチルの顔の上に載せた。
「これが誰のブーツか教えてほしい」
彼(チャーチルではなく、マーク)が、その靴を見た瞬間に驚くのが見て取れた。―そればかりか、その所有者の身元を知っているのに隠そうとしていることも、彼の表情から読み取れた。
それでも彼は頑固に意地を張った。本当にみじめな人間にしかできないような意地の張り方だった。
「なんであんたに教えなきゃならないの?」と、彼はあからさまに不機嫌な口調で言った。
「もし教えてくれるなら、もう君につきまとったりしない」と僕は言った。「でも教えてくれないのなら、その辺にあるはずのゴーストライターが書いたジェイムズ・パタースンのロマンス小説を棚から引き抜いて、君が折れるまでその本を音読しながら、君がこの店内のどこに行こうとつきまとうよ。『ダフニーとハロルドの甘い三ヶ月』を読んでほしい? それとも『シンディーとジョンの永遠に続く愛の家』がいい? まあ、どちらにしても君の正気は第1章を読み終えるまでもたないよ。そしたら君の街の評判もがた落ちだね。といっても、それらの本は各章がとても、とっても短いんだけどね」
彼はまだ挑戦的な表情をしていたが、その下におびえも見えた。
「あんたは卑劣(ひれつ)だな」と彼は言った。「自覚はあるのか?」
僕は頷いた。もっとも僕自身は、「卑劣」という言葉は民族大虐殺とかに使う言葉だと思っているけれど。
彼は続けた。「教えてもいいけど、もし彼女に会ってみて、あんたが気に入らなかったとしても、もう俺に電話してきたり、こうして会いにきたりしないか?」
それはリリーに対して失礼な言い方だと思ったけれど、僕は胸の内で湧き起こる憤りを抑えた。
「もう電話しないよ」と、僕は平静を装って言った。「ストランド書店から出入り禁止をくらうのだけは絶対に嫌だし、約束する、君があの受付に座っている時は本の照会とかを頼まない。それからもし君がレジに立っていたとしても、レジに行くタイミングをうまく見計らって、君が僕の相手をしなくても済むようにするから。それで満足かい?」
「そんなにごちゃごちゃわめく必要ないだろ」とマークが言った。
「わめいてはいない」と僕は指摘した。「似ても似つかない。もし君が本を売る業界で成功しようと思ってるのなら教えておいてあげるけど、『わめき声』と『的を射た軽妙な言葉』を区別できるようにならないとだめだよ。その二つは全然違うんだから」
僕はペンを取り出すと、腕の内側を彼に向けて差し出した。
「住所をここに書いてくれ、それで僕たちの関係は終わりにしよう」
彼はペンを受け取ると、僕の肌にちょっと強めにペンを押しつけながら、僕の腕に東22番街の住所を書いた。
「どうもありがとう」と、僕はブーツを取り戻して言った。「ストランド社長に君は立派な店員だって口添えしておくよ!」
その通路から抜け出ようとした時、アメリカ海軍の災難に関する学術書が砲丸投げの球みたいに飛んできて、僕の頭をかすめた。ドスンと床に落ちたその本を横目に僕は立ち去った。投げた人が棚に戻すべきだ。
認めるけど、僕の心のどこかに腕を洗いたい気持ちがあった。でもそれはマークの手書きだから洗って消したいんじゃなくて、(それは鶏が引っかいたみたいな下手くそな字で、本屋の店員というよりも死刑囚が書いたんじゃないかと思うくらいだったけれど、)僕が消したい気持ちに駆られたのは、彼の筆跡ではなく、それが伝えている中身だった。それはまさにリリーに会うための「鍵」だったから...僕はその鍵を鍵穴に差し込んでいいものかどうか判断がつかなかった。
ソフィアの言葉が消えることなく僕の頭にこびりついていた:リリーはあなたの頭の中の理想の女の子でしょ? だとしたら、当然あなたをがっかりさせることはないわね。
そうじゃない。僕は自信を奮い起こすように自分に言い聞かせた。赤いモレスキンに書かれた言葉は頭の中の理想の彼女が書いたものじゃない。そのまま信頼できる言葉なんだ。書かれていること以上の何かを生み出してるわけじゃない。
玄関に立っていた僕は呼び鈴を鳴らした。そのチャイムがブラウンストーン(赤茶色のレンガ造り)の壁の向こうで鳴り響くのが聞こえた。その響きは、きっと使用人が玄関に出てくるんだろうなと予感させる裕福そうな音色だった。少なくとも1分間、何の応答もなかった。僕は抱えていたブーツを逆の腕に移し替えて、もう一度呼び鈴を鳴らそうかと頭の中で会議を繰り広げた。そして僕には珍しいことだけど、せっかちに物事を進めたがる気持ちよりも礼儀正しさが勝(まさ)った。地団駄を踏みつつも心の施錠をうまく管理していたら、僕の自制心は報われて、中から応答があったのだ。
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