『ダッシュとリリーの冒険の書』4

『Dash and Lily's Book of Dares』 by デイヴィッド・レヴィサン、レイチェル・コーン 訳 藍(2017年12月02日~2018年09月01日)


玄関に出てきたのは執事でもメイドでもなく、マダム・タッソー館で会った警備員の女性だった。

「あなたはあの時の!」と、僕は思わずつばを飛ばしながら言った。

その老婦人は僕の顔を時間をかけてじっくりと見てきた。

「そのブーツは私の」と、彼女が言い返した。

「そうなんです」と僕は言った。「これのことで」

彼女があの博物館で僕と会ったことを覚えているのかは不明だったけれど、彼女はドアをもうちょっと広く開けて、身振りで僕を中へ招き入れた。

僕はジャッキー・チェンの蝋人形に迎えられるのではないかと半分期待した。(言い換えると、僕は彼女が家でその手の仕事をしているのではないかと期待した。)しかし実際は蝋人形はなく、玄関から広がるロビーには骨董品がいくつも並んでいて、なんだか突然100年以上前の空間に足を踏み入れたみたいだった。そこには1940年代以後に作られた新しい物は一つもなかった。玄関扉の横には傘立てが置いてあって、たくさんの傘が収まっていた。―少なくとも1ダース以上はあったけれど、どの傘も木製の取っ手が高級そうにカーブを描いていた。

老婦人は傘立てをじろじろ見ている僕に目を止めた。

「あなたは一度も傘立てを見たことがないのかしら?」と、彼女がお高くとまった言い方で聞いた。

「僕はただ、一人で12本の傘が必要になる状況を想像していただけです。一本も傘を持っていない人がたくさんいる時に、こんなにも多くの傘を独占しているのは、まともだとはいえない気がします」

彼女は僕の発言に頷いてから、聞いてきた。「あなたの名前はなんていうの?」

「ダッシュです」と僕は彼女に名乗った。

「ダッシュ?」

「ダシールを短くしてダッシュです」と僕は説明した。

「じゃないかと思ったわ」と彼女はきっぱりと言った。

彼女は「客間」としか呼びようのない部屋に僕を案内した。カーテンの生地はとても厚く、家具はやたらと布で覆われ、なんだか部屋の片隅でシャーロック・ホームズと小説家のジェーン・オースティンが指相撲でもしているんじゃないかと期待してしまいそうな雰囲気だった。客間とはいっても、一般的な客間のイメージほど埃っぽくも煙たくもなく、すべての木製家具は図書館にあるカード目録の棚みたいな重みを感じるし、壁はワインに漬けたような色をしていた。膝丈ほどの彫刻が何体か部屋の隅や暖炉のそばに置いてあり、本棚にはカバーのかかっていない本がひしめき合い、こちらを見下ろしていた。それらの本のたたずまいは、口も利けないほど疲れ切っている老教授を思わせた。

僕はとても居心地が良い部屋だと感じた。

老婦人の手振りに促されて、僕は長椅子に腰を下ろした。息を吸い込むと、空気から資産家特有の匂いがした。

「リリーは家にいますか?」と僕は聞いた。

その女性は僕の向かい側に座ると、笑った。

「私がリリーじゃないって誰が言ったのかしら?」と彼女が聞き返した。

「えーと」と僕は言った。「僕の友達の何人かが実際にリリーに会ったんですけど、彼女が80歳だったら何か言ったんじゃないかと思うんです」

「80!」と、老婦人がショックを受けたふりをした。「言っておくけど、私は43歳から1歳たりとも年を取っていないのよ」

「お言葉ですが」と僕は言った。「あなたが43歳だとしたら、僕は胎児になってしまいます」

彼女は椅子にもたれかかると、購入を検討して品定めでもしているような目で僕を見てきた。彼女は髪を、後ろにお団子を作ってきつく束ねていた。彼女にじろじろ検査されるように見られて、僕もまさに彼女の髪みたいにピシッと身が引き締まる思いだった。

「まじめに聞いてるんです」と僕は言った。「リリーはどこですか?」

「まずあなたの目的を見定めないことには」と彼女は言った。「私の姪っ子とふらふら勝手気ままに付き合わせるわけにはいかないわね」

「ふらふらしたいとか、いちゃいちゃしたいとかそういうことは思っていません」と僕は答えた。「僕はただ彼女に会ってみたいだけなんです。顔を合わせてみたいんです。知ってると思いますが、僕たちは今まで—」

彼女は手を挙げて僕の発言をさえぎった。「あなたたちが書簡のやりとりをして楽しんでるのは承知してるわ。それはけっこうなことよ。―書簡の中身が健全である限りわね。いくつか質問したいんだけど、その前にお茶でも飲む?」

「どんなお茶を出してくれるのかによりますね」

「まあ遠慮深いこと! アールグレイがあったと思うわ」

僕は首を振った。「あれは鉛筆の削りくずみたいな味がします」

「レディグレイはどうかしら?」

「打ち首にされた国王から名前を取った飲み物は飲まないことにしてるんです。悪趣味な気がして」

「カモミールはどう?」

「チョウの羽を吸った方がましですね」

「緑茶は?」

「本気で言ってますか?」

彼女は頷いて同意を示した。「冗談よ」

「牛がいつ草を食(は)むのかご存知ですよね? オスの牛もスメの牛も何度も噛むんですよ。噛んで、噛んで、噛み尽くしたあとの葉っぱですからね、緑茶は牛とフレンチ・キスしてるみたいな味がするんです」

「じゃあ、ミントティーはいかが?」

「それしかないのなら」

「英国式の朝食よ」

僕は手を叩いた。「いいですね!」

老婦人は一向にお茶を取りに行く素振りを見せなかった。

「やっぱりお茶はやめとくわ」と彼女が言った。

「どうぞお構いなく」と僕は答えた。「ところで、このブーツはあなたに返しましょうか?」

僕が彼女にブーツを手渡すと、彼女はしばしそれを眺めてから、僕に返してきた。

「これは私がバトンガール時代に履いていたものなのよ」と彼女は言った。

「軍隊に入っていたんですか?」

「応援隊よ、ダッシュ。私は応援隊にいたの」

彼女の背後の本棚には、つぼがずらっと並んでいた。それらは装飾品だろうか? それとも彼女の親戚の遺骨が納められているのだろうか?

「それでお願いがあるんですけど」と僕は訊ねた。「つまり、リリーに会わせてもらえないかと」

彼女はあごに二本の指を当てて三角形を作った。「どうしましょうかね。あなたはおねしょする?」

「僕はお...?」

「おねしょよ。あなたはおねしょするのかって聞いてるの」

彼女がウインクしてきた。僕にもウインクを返してほしいのはわかったけれど、僕は返さなかった。

「いいえ、マダム。僕はベッドを濡らしません」

「ほんの少しも? たまにもしないの?」

「それが何の関係があるのかよくわかりませんね」

「あなたの正直さを測ってるのよ。あなたが最近ちゃんと読んだ定期刊行物は何かしら?」

『ヴォーグ』ですね。といっても、すべてを打ち明けると、母の家のトイレを使っていて、そこに置いてあったんです。かなり長い便通に耐えなければならなくて、わかりますよね、あれは一種のラマーズ法を必要としますよね?」

「あなたが一番好きな、魅力的な形容詞はどんな言葉?」

それは簡単な質問だった。「実は僕はfanciful(空想に満ちた)という言葉が大好きなんです」

「じゃあたとえば、私が1億ドルを持っているとして、あなたにそれを差し上げるとします。ただし、もしあなたがそれを受け取ると、中国で一人の男が自転車から落ちて死ぬとします。さてあなたはどうする?」

「中国にいるとかそういうことがなぜ重要なのか僕にはわかりませんね。その人がどこにいようと、もちろん、お金は受け取りません」

老婦人は頷いた。

「あなたはエイブラハム・リンカーンが同性愛者だったと思う?」

「はっきり言えるのは、僕は彼に言い寄られたことも口説かれたこともありません」

「あなたは美術館によく出掛ける人?」

「ローマ法王は教会によく出掛ける人ですか?」

「ジョージア・オキーフが描いた花を見た時、あなたの心に何が浮かんだ?」

「それって僕に女性の(ちつ)って言わせようとしてますよね? あ、今言ってしまいましたね。膣です」

「あなたは公共のバスから降りる時、何か特別なことをする?」

「運転手さんにお礼を言います」

「よろしい、良い心掛けね」と彼女は言った。「さて、―リリーとどうなりたいのか、あなたの目的を聞かせてちょうだい」

言葉に詰まってしまった。長すぎる沈黙が生まれてしまったかもしれない。率直に言って、僕は目的についてほとんど何も考えていなかった。彼女の質問に答えながら考えておかなければならなかったのだ。

「えーと」と僕は言った。「彼女をダンスパーティーに連れて行きたいわけでもないですし、一つのタピオカジュースに二人でスプーンを入れたいわけでも、あなたがそういうことを聞きたいのなら言いますが、重ね合わさったスプーンみたいにベッドに二人で入りたいわけでもありません。そういうイチャイチャすることに関しては、清廉潔白でありたいと決めています。僕の胸の内に根強く湧き起こる欲望が彼女に向けられることは今のところありません。僕たちが実際に会ってみて、どれくらい心を通わせるかにもよりますが。それに、僕にはびっくりするくらい信頼のおける助言者がいまして、僕が勝手に思い描く彼女のイメージで彼女を塗りつぶしてはいけないってアドバイスされたんです。そして僕の目的は、そのアドバイスに従うことです。しかし本当にそうでしょうか? ここに完全に未知の領域があります。神秘の大地です。それは一つの未来にもなりえます。愚かな行為にしかならないかもしれません。彼女があなたと似ているなら、僕たちはうまくやっていける予感がします」

「彼女は今、自分の色を見つけているところだと思うわ」と、その女性は僕に話した。「だから私に似ているかどうかについては何とも言えないわね。私にとって彼女は喜びをくれる子よ。時にはあきれてうんざりすることもあるけれど、大体は...」

「陽気な子ですか?」と僕は先回りして言った。

純粋な子ね。自分の希望で磨かれて光ってるわ」

僕はため息をついた。

「なんでため息なんかつくの?」と老婦人が聞いてきた。

「僕は細かいことにこだわり過ぎるんです」と僕は打ち明けた。「ついでなので言うと、ひねくれてはいないと思いますが、ちょっとやっかいなので、僕みたいな扱いにくい男と、そういう喜びをくれる純粋な子がうまく溶け合うとは思えません」

「私がどうして一度も結婚したことがないか知りたい?」

「それは僕がどうしても知りたいリストには入ってないです」と僕は正直に言った。

老婦人は僕をじっと見て目を合わせてきた。「聞いてちょうだい。私が一度も結婚しなかったのは、簡単に飽きちゃうからなの。それは私が持ってるダメな、自滅的な性格なのよ。簡単に興味を持っちゃう方がよっぽど良い性格ね」

「わかります」と僕は言った。でも僕はわかっていなかった。その時もわかっていなかったし、今もまだわかっていない。

僕はそれ以上何も言わずに部屋を見回して、こう考えた:僕が今までに行ったすべての場所の中で、ここが一番赤いノートにふさわしい気がする。この家こそ、赤いノートが僕を連れてきたかった場所なのではないか。

「ダッシュ」と老婦人が言った。シンプルな呼びかけだった。さっき僕が彼女のブーツを差し出したみたいに、彼女が手に持っていた僕の名前をポンと差し出してきた、そんな感じだった。

「はい?」と僕は言った。

「はい?」と彼女が繰り返した。

「時間は大丈夫ですか?」と僕は訊ねた。

彼女は椅子から立ち上がると、言った。「ちょっと電話をかけさせて」



12

(リリー)

12月26日


「あなたは今もアレチネズミを殺してるの?」と、私はエドガー・ティボーに訊ねた。

私たちはブラウンストーンの邸宅の前に立っていた。そこに住んでいる女の子とエドガーは一緒に学校に通っているらしく、今夜は中でパーティーが開かれていた。

外の通りから、リビングルームの窓越しにパーティーの様子をうかがうことができた。とても行儀の良いパーティーに見えた。10代のパーティーと聞いて思い浮かべるような野蛮な声も外の道まで聞こえてこない。二人の親らしき大人がリビングルームを歩き回っているのが見える。二人は銀のお盆を手に持ち、その上にはパック入りのジュースやマウンテンデューが載っていて、なるほど誰も奇声を上げないわけだと納得した。カーテンが開いているのも納得。

「このパーティーはつまらないから」とエドガー・ティボーが言った。「どこか違うところに行こう」

「私の質問に答えてないじゃない」と私は言った。「あなたは今もまだアレチネズミを殺してるの? エドガー・ティボー」

もし彼が私を馬鹿にしたような返答をしていたら、私たちの間で芽生えた和解への兆しは、その始まりと同じくらい唐突に終わりを告げていたでしょう。

「リリー」と、エドガー・ティボーが誠実さをにじませて言った。彼は私の手を取ると、彼の両手で私の手を包んだ。私の手は彼ににぎられて震え出し、手の平から汗がにじみ出てきた。「君のアレチネズミのことは本当にごめん。正直なところ、感覚を持った生き物を意識的に傷つけるなんて、俺は絶対にしないよ」彼は懺悔の印として、私の指の関節に彼の唇をそっとつけた。

私は偶然見かけたことがあって、エドガー・ティボーは小学1年でアレチネズミを殺すことからは卒業したみたいだけど、4年生になると路地裏で他の男の子たちと一緒に虫眼鏡を使って、手当たり次第ミミズや昆虫に太陽光を当てていたのを思い出した。

おじいちゃんの仲間が繰り返し私に言っていたことは本当みたいね:10代の男は信用できない。彼らの目的は純粋じゃない。

これは母なる自然の大いなる計画の一部に違いないわ。―男の子たちをたまらなく魅力的にしているのも自然の力だし、いじわるな言い方をすれば、彼らの目的が純粋かどうかはどうでもよくなってしまうくらい彼らは魅力的なのよ。

「それであなたはどこへ行きたいの?」と私はエドガーに訊ねた。「私は9時までに家に帰らなきゃいけないの。遅くなるとおじいちゃんがパニックになっちゃうから」

私はおじいちゃんに二度目の嘘をついた。私のサッカーチームがどうしようもなく連敗続きで、急きょ休日練習が招集された、と私は彼に話した。彼はあのメイベルという女性のことでふさぎ込んでいたから、だまされてくれた。そうじゃなかったら信じなかったと思う。

エドガー・ティボーが赤ちゃんみたいな甘えた声で答えた。「おじーちゃんが悪い子ちゃんに夜更かしさせちゃうんでちゅか?」

「あなた意地悪で言ってるの?」

「いや」と彼は言うと、真剣な顔になった。「君に敬意を表してるんだよ、リリー、君の門限にもね。不必要に赤ちゃん言葉になったりして驚かせちゃったね。そのお詫びと言ってはなんだけど、君が9時までに帰らなきゃなら映画館くらいしか行けないけど、映画なら十分見る時間はあるね。『おばあちゃんがトナカイにひかれちゃった』はもう見ちゃった?」

「まだ見てない」と私は言った。

私はこういう嘘をつくのが上手くなりつつある。


私は危険を受け入れようとしている。

私は再びトイレに入って、ひねくれ男子くんと心の交流をすることになった。映画館のトイレは前夜のミュージック・クラブのトイレよりは清潔だったし、夕方の上映時間ということで、映画館はよちよち歩きの幼児で溢れかえっていることもなかった。でもまた、いろんな感情が溢れ、居ても立っても居られなくなってしまった。私は赤いノートを書かずにはいられなかった。


危険は色々な形で迫りくる、と私は思う。ある人にとっては橋から飛び降りることや、険しい山に登ることがそれにあたるのかもしれない。また別の人にとってはドロドロの不倫や、バスに乗っている時にうるさい10代の若者がいて、それでもお構いなしの意地悪そうなバスの運転手に苦情を言うことが、危険につながることもあり得るでしょう。トランプゲームでいんちきをするとか、アレルギー持ちなのにピーナッツを食べるとか、危険は色々ね。

私にとって危険を冒すというのは、私の家族がかけてくれている保護マントを脱ぎ捨てて、自分の足で世界に踏み出すことなのよ。たとえ何が―あるいは誰が―待ち構えているのかわからなくてもね。あなたがこの計画に一役買ってくれたらいいのにな。でもあなたって危険な人なのかしら? なぜかそうは思えないわ。私はあなたが私の想像の産物にすぎないことを思い知らされるのが怖いの。

私はそろそろノートの外側で人生を経験しなくちゃいけない頃かな。


私が席に戻ると、エドガー・ティボーはスクリーン上の太ったおばあちゃんに大笑いしていた。私にはその映画は馬鹿馬鹿しくて見ていられず、スクリーンから視線をそらしたところ、私の目は彼の上腕二頭筋に釘付けになった。彼の腕にはある種の魔力を放つ筋肉がついていて、―分厚すぎず、貧弱すぎず、ちょうど良い太さの腕に、私はすっかり魅了されてしまった。

するとエドガーの腕の末端についている手がいたずらをし始めた。彼の視線は決してスクリーンからそれることはなかったけれど、彼の手がそっと私の太ももの上に降りてきたのだ。スクリーンでは、またトナカイが角を突き出しておばあちゃんをひいたところで、エドガーの口は、おばあちゃんに降りかかるおぞましい殺戮にばか笑いしていた。

私はその作戦の大胆さが信じられなかった。(トナカイとエドガー両方の作戦の大胆さがね。)私は危険を冒してもいいけれど、私たちはまだキスもしたことないのよ。(つまり、私とエドガーはまだキスしたことないの。私とトナカイっていう意味じゃないわ。動物は大好きだけど、そこまでじゃないわね。)

私はこれまでの人生でずっとファーストキスを待ち望んできたのよ。物事には順番ってものがあるじゃない。そういうのを全部すっ飛ばして台無しにしたくはないわ。

ちょっ、ちょっと」と、私はエドガー・ティボーに向かってうなるように言った。彼の手が私のスカートに刺繍されたプードルの上で円を描き始めたから、私は彼の手を取って肘掛けに戻したわ。その位置にあった方が、彼の上腕二頭筋を愛(め)でるのにちょうどいいのよ。


帰りのタクシーの後部座席で、エドガーが私のカーディガンのボタンを外してきたから、そのまま彼にカーディガンを脱がせてもらい、私は自分でスカートを下ろした。

私が家に着いた時、おじいちゃんが私を待ち構えている場合に備えて、私はカーディガンとスカートの下にサッカーのユニフォームを着ていたの。私はハンドバッグから水筒を取り出すと、汗をかいたように見せるために顔と髪を水で濡らした。

タクシーのメーターには6ドル50セントと午後8時55分という数字が表示されていた。タクシーが私の家の前の縁石に寄って停まった。

エドガーが私に向かって体を折り曲げてきた。私は何が起ころうとしているのかわかった。

私が経験する最初の本物のキスは末永く続く幸せな未来につながるものじゃないとだめ、なんていう思い込みはもうなかったし、素敵な王子様が現れるという幻想も信じていなかったけれど、ただ、それが臭いタクシーの後部座席で起こってほしいとも思わなかった。

エドガーが私の耳元でささやいた。「タクシーの料金なんだけど、君の分だけでいいから出せる? なんていうか今、金欠でさ、君に出してもらわないと、君が降りたあと俺が帰るタクシー代が足りなくなっちゃうんだ」彼の人差し指が私の首にさっと触れた。

私は彼を押しのけた。もっと彼に触ってほしかったけれど、お願いだから、タクシーの中じゃない場所でして!

私はエドガー・ティボーに5ドルを渡しながら、100万もの無言の呪いの言葉を彼に浴びせかけた。

エドガーの口が私の口の間近で動いていた。「次は俺が払うから」と彼はつぶやいた。私は顔をそむけて、頬を彼の方に向けた。

「君は俺に対してガードがかたいんだね、リリー?」と、エドガー・ティボーが言った。

彼のぴっちりしたセーターの下からつやつやした上腕二頭筋がチラッと見えたけれど、私は無視した。

「あなたは私のアレチネズミを殺したのよ」と、私は彼に思い出させた。

「俺は狩りが大好きなんだ、リリー」

「あっそ」

私はタクシーから出てドアを閉めた。

「あの狩り好きのトナカイみたいにね!」と、次の目的地に向かって動き出したタクシーの窓から、エドガーが私に向かって叫んだ。



12月27日


あなたはどこにいるの?

私ってトイレにこもると大体、ひねくれ男子くんとノートを通じて交流したくなるのよね。そういう運命みたい。

今日はアルファベット・シティの東11番街にあるアイリッシュ・パブのトイレにこもっていた。そこは昼間は家族連れでも気軽に入れるカフェで、夜になると飲み屋になるという形態のお店で、今はまだ昼間なので、おじいちゃんは安心して家でくつろぐことができる。

私はまたおじいちゃんに嘘をつくのは嫌だったので、本当のことを話した。―私がクリスマスに結成した聖歌隊のメンバーが再び集まることになって、12月27日は怒りっぽいアラインの20歳の誕生日だから、(アラインは菜食主義者のパンクガールなんだけどね、)みんなで『ハッピーバースデー』を歌ってあげるのよ、と。

ただ、一部を省いて話したの。私はエドガー・ティボーにもそのカフェで会いましょう、とメールしたんだけど、おじいちゃんはエドガー・ティボーもその誕生日会に来るのか?とは聞いてこなかったから話さなかった。嘘をついたわけじゃない。

アラインの20歳の誕生日ということで、聖歌隊のみんなは伝統的なクリスマスの讃美歌の代わりに、彼女が合法的にお酒を飲めることを祝して、いろんな〈酒宴の歌〉を歌うことにした。私がカフェに着いた時には、みんなはもうビールの4杯目を飲んでいるところで、『Mary McGregor / Well, she was a pretty whore(メアリー・マクレガー / そう、彼女は麗しの娼婦)』と合唱していた。エドガーはまだ来てなかった。卑猥な言葉がメロディーに乗って歌われているのを耳にして、私はすぐに、ちょっとトイレに行ってくる、と言って席を立った。そして、おなじみの赤いノートを開いて新たなメッセージを書こうとした。

けれど、何か書き残したことあったかしら?

私はひねくれ男子くんがすぐに私を認識できるように、今もまだ片足にはブーツ、もう片方の足にはスニーカーを履いていた。でも、もし〈危険〉が目の前に迫ってきたら、おそらく私は「赤いノートを渡しそこねた時にひねくれ男子くんとのことはすべて終わったんだ」と自分に言い聞かせて、エドガー・ティボーが私に敢闘賞として差し出してきた〈危険〉を受け入れることになるでしょう。それが一番起こりそうね。

私の携帯が鳴った。画面に表示された写真はダイカー・ハイツの一軒の家だった。クリスマスのために飾り付けられたおびただしい数の電球が神々しく連なり、綺麗な軌道を描いている。私は電話に出た。「ハッピークリスマス、の二日後だけどね、カーミンおじさん」私はクリスマスの日に彼から、このノートを受け取ったことを思い出した。そういえば、ひねくれ男子くんについてまだ何も聞いてなかったわ。「おじさんの家でノートを返してくれた男の子のことなんだけど、おじさんはその子をちょっとでも見た?」

「かもしれんな、リリーベア」と、カーミンおじさんは言った。「だがそのことでお前に電話したんじゃないんだ。おじいちゃんがフロリダから早々に帰ってきたそうじゃないか。フロリダで残念なことになったって聞いたが本当か?」

「本当よ。それで、その男の子のことなんだけど...」

「おじさんは彼のことは何も知らないよ、リリーちゃん。ただ、その子はおかしなことをしていったけどな。芝生の上に大きなくるみ割り人形を置いてるだろ、5メートル近くある巨大な兵隊だよ、わかるか?」

「犬のクリフォード大尉でしょ? わかるわ」

「そこに、お前の謎の友達が赤いノートを置いていったんだがな、もう一つ別の物も飾り付けるみたいに置いていったんだ。あんな目もあてられない不細工な人形は初めて見たな」

え? ひねくれ男子くんが人形を作ったの?

「それって初期のビートルズがマペット人形の映画用にイメチェンした感じ?」

カーミンおじさんは言った。「まあ、そうだな。イメージを悪くチェンジした感じだ」

別の人から着信があって私の携帯が鳴った。今度は画面にブラウンストーンの素敵な書斎で机に向かって座っているミセス・バジルの写真が表示された。私の大好きな写真よ。彼女が足を組んで、ティーカップを口に運んでいる写真。大叔母さんのアイダが電話をかけてくるなんて、何の用かしら? たぶん彼女もおじいちゃんのことを聞きたいのね。私は今、もっとずっと大事なことを考えなくちゃいけないの。―せっかく私がひねくれ男子くんのために腕を振るって作ってあげた、あの可愛らしい〈ひねくれ君人形〉を、彼は後先考えずにくるみ割り人形の下に置き去りにしていったのよ!

私はミセス・バジルからの電話を無視して、カーミンおじさんに言った。「そうなの、おじいちゃん落ち込んじゃってるのよ。だから彼に会いにきてあげて。ついでにおじいちゃんに、私がどこに行こうとしてるのか四六時中聞いてくるのはやめてって言っておいてくれる? それから今度この街に来た時に、その素敵なパペット人形を返してくれるかな?」

「『I love you, yeah yeah yeah(大好きだよ、もちろん、いいとも)』」と、カーミンおじさんはビートルズの曲に乗せて答えた。

「私は今忙しいのよ」と、私はカーミンおじさんに言った。

「『She’s got a ticket to ride(彼女は乗車券を手に持って行ってしまう)』」と、カーミンおじさんはビートルズの別の曲を歌い出した。「『But she don’t care!(だが彼女はお構いなしだ!)』」

「おじいちゃんに電話してあげて。おじいちゃんきっと喜ぶから。じゃあね、チュッ」私も、ひと言つけ加えずにはいられなかった。「『Good day, sunshine(いい日ね、こんなに晴れて)』」と、私もカーミンおじさんに歌い返した。

「『I feel good in a special way(特別な日みたいでいい気分だ)』」と、カーミンおじさんが続きを歌った。

そして、私たちの電話は幕を閉じた。ミセス・バジルが音声メッセージを残しているのがわかったけれど、なんだか聞く気にならなかった。ノートを介したやりとりが終わってしまった今となっては、悲しくてそれどころじゃなかった。ひねくれ男子くんを理想化して考えるのもやめなくちゃ。だって彼は私の〈ひねくれ君人形〉をポイっと手放したんだもの。ふん切りをつけて前に進む時ね。

私は最後のメッセージを書いて、ノートを閉じた。おそらくもう二度と開くことはないでしょう。

私はこんなにも深く、大切に可愛がられることを待ち望んでいる。


聖歌隊のみんなはお店の裏庭に出て、ガーデンテーブルを囲んでいた。12月も終わりに近づいてようやく冬らしくなった凍(こご)えるような冷たい空気の中で、みんなは寄り添うように身を寄せて、お酒にお湯を入れたホット・トディーを飲んでいた。

『I’m dreaming of a white Christmas(ホワイトクリスマスを夢見ている)』と、彼らは歌っていた。その歌は今の状況にしっくりきていた。―柔らかくて甘いメロディーが、今にも雪が降り出しそうな空気に溶け込み、世界がより静かに、より素敵に感じられた。私は満ち足りた気分になった。

私がトイレに行っている間に、エドガー・ティボーは到着したらしく、みんなの輪に加わっていた。みんなが『ホワイトクリスマス』を歌っている最中、エドガーは口を手で覆って、歌に合わせてビートボックスを奏でながら、ラップ調で『Go … snow … snow that Mary MacGregor ho(雪よ、降れ、降れ、マクレガー、ホー)』と、聖歌隊の歌にかぶせて歌っていた。私がテーブルに近づいてくるのを見ると、エドガーは転調するように即興で歌詞を変えて、歌の中に私の名前を入れ込んだ。『Just like the Lily-white one I used to know …(俺が知ってる昔のリリー・ホワイトに戻ったみたいだ...)』

その歌が終わると、怒(いか)れるアラインが言った。「ねえ、リリー。彼があなたの友達の、愛国主義者で帝国主義者のエドガー・ティボー?」

「はい?」と、私は聞き返した。アラインの口からエドガー・ティボーについて、汚い軽蔑の言葉が発せられる予感がして、私は帽子に付いているポンポンで耳を塞ぎたくなった。

「彼はちゃんとした男になったのよ。ほら声も低くなって、立派なバリトン歌手にもなったでしょ」

シーナー、アントワン、ロベルタ、そしてメルヴィンはグラスを上に掲げると、「エドガーに!」と言って、グラスをカチンと合わせた。

アラインがグラスを掲げながら言った。「私の誕生日よ!」

みんなはもう一度、乾杯し直した。「アラインに!」

エドガー・ティボーが『ハッピーバースデー』をスティーヴィー・ワンダー風に歌い出した。「ハッピーバースデー! ハッピーーーバーースデーィィィーー」と歌い上げながら、彼はテーブルをピアノに見立てて指を動かし、目を閉じ、ゆらゆらと首を上下させて歌う盲目の男を演じた。

アラインはこの時点ですっかり酔っぱらっていた。普段ならそういう差別的ともとれるパフォーマンスは彼女を怒り狂わせただろうけど、彼女は怒ることなく、声を張り上げた。「私の誕生日を国民の祝日にしてほしいわ」彼女は椅子から立ち上がると、みんなにとどろかせるようにこう宣言した。「みなさん、私があなたがたに今日一日お休みを差し上げるわ!」

クリスマスと新年に挟まれた今日はほとんどの人にとってすでに休日だということを、わざわざ指摘するのは思慮に欠ける気がして、やめた。

「何を飲んでるの?」と私はアラインに聞いた。

「キャンディーみたいに甘いのよ!」と彼女は言った。「ちょっと飲んでみて!」

私は面白半分に〈危険〉に手を出したくて、彼女の飲み物を一口飲んでみた。すると、本当にキャンディーみたいな味がした…というか、キャンディーより美味しかった! どうして聖歌隊のみんながクリスマス前の定期練習の時に、いつもフラスコ瓶に入ったペパーミントのお酒を回し飲みしているのか、やっとわかった。

美味しい。

エドガーの方に目をやると、彼は携帯電話を使って私の足の写真を撮っていた。つまり片足はバトンガールのブーツで、もう片方はスニーカーを履いている足の写真を。「君のもう片方のブーツを見つけるために、この写真を拡散してあげるよ」とエドガーは言って、『ゴシップガール』の登場人物みたいに画面の〈送信〉ボタンを押した。

聖歌隊のみんなが笑った。「リリーのブーツに!」再びグラスがカチン、カチンと鳴った。

私はもっと味わいたかった。もっと〈危険な香り〉に包まれたかった。

「私も乾杯して温まりたいわ」と私は言った。「誰かホット・トディーを一口飲ませてくれる人?」

私はメルヴィンのグラスに手を伸ばした。その拍子に私の肩にかかっていたバッグから赤いノートが落ちた。けれど、私は床に落ちたノートをそのまま放っておいた。

なんでわざわざ拾わなくちゃいけないの?


「リリィィー! リリィィー!」と、みんな(その時にはもう、その店にいた全員)が歓声を上げていた。

私はテーブルの上に乗って踊った。「『It’s! Been! A! Long! Cold!Lonely! Winter!(長く!寒い!寂しい!冬!だった!)』」と、ビートルズの曲をよりパンクっぽく、反抗的にこぶしを突き上げて歌った。

「『Here comes the sun(今ここに太陽が昇る)』」と、その店にいた数十人が歌い返してきた。

私が口にしたのは、ペパーミント・シュナップスを3口と、ホット・トディーを4口、シーナーの飲んでいた物を5口だった。シーナーが飲んでいたのはシャーリー・テンプル(ノンアルコールカクテル)だと思ったけど、違ったみたい!それらの飲み物は私をまぎれもなくパーティーガールに変えてしまった。私はすでにその変化を感じていた。

クリスマス以来、あまりにも多くのことが起きた。私がお店の床に放っておいたノートからすべては始まり、そして今、私は女の子から、〈女〉に変身したのだ。

私は嘘をつくようになった。アレチネズミを殺した男とイチャイチャするリリーベアになった。数種類のお酒をたったの6口ほど飲んだだけで、カーディガンの真珠のボタンを上から二つ外して、胸元を見せつけるメアリー・マクレガーになったのよ。

でも実際は、ただ酔っぱらって眠気と吐き気がする16歳のリリーが、(いつの間にかどんちゃん騒ぎになっていた)誕生日パーティーで羽目を外し、パーティーガールのリリーになって輪の中心で浮かれていただけだった。

冬の早い暗闇が訪れた。まだ6時だったけれど、辺りはもう暗かった。すぐに家に帰らなければ、おじいちゃんが私を探しに来るわ。でも、もしこの状態で家に帰れば、おじいちゃんは私がほのかに…ほんのちょっと…ほろ酔い気味だと気づいてしまう。私が注文したわけでもないし、それがお酒だとは知らずに飲んでしまっただけだけど、―ただ他の人が飲んでいた物を何口か飲ませてもらっただけなんだけど、まずいことになりそうだし、おじいちゃんはエドガー・ティボーのことも追及してくるかもしれない。どうしよう?

新たなグループがお店に入ってきた。彼らがこちらのテーブルに近づいてくるのを見て、私は歌うのも、テーブルの上で踊るのもやめなければいけないと思った。私はすでに頭が回らない状態だった。

時間は刻一刻と過ぎていく。私は椅子から飛び降りると、エドガーを引っ張って、ガーデンテラスの人目に付かない片隅に連れて行った。事情を説明して、私を家まで送ってほしいと頼むつもりだった。そうすれば問題ないはず。

私は彼にキスして欲しい気分になった。

このタイミングで雪が降り出せばいいのに、とも願った。ピリッとした夜の空気と灰色の空は、いつ雪が落ちてきてもおかしくない、そんな予感を醸し出していた。

スニーカーを履いている方の足が凄く、凄く冷たくて、私はブーツの片割れが返ってくることを望んだ。

「エドガー・ティボー」と、私はセクシーに響くようにささやいた。彼の温かくて、石のように固い体に私の体を押しつけた。私はわずかに口を開いて、近づいてくる彼の唇を待ち受けた。

これよ。

ついに。

待ち望んできたそれが私の目の前に迫っていた。目を閉じようとしたその時、視界の片隅に10代の男の子が立っているのに気づいた。私が欲しかった物を手に持っている。

私のブーツの片割れを。

エドガー・ティボーがその男の子の方を向いた。エドガーは困惑気味に、「ダッシュ?」と聞いた。

その少年は、―ダッシュというらしい少年は―、私を不思議そうに見ていた。

「あそこの床に赤いノートが落ちてたんだけど、あれって僕たちのノートだよね?」と、彼が私に聞いてきた。

この子が

「あなたの名前はダッシュ?」と私は言って、思わずげっぷが出た。私の口からもう一つ、珠玉の名言も飛び出した。「そうすると、もし私たちが結婚したら、私はミセス・ダッシュ!」

私は自ら発した台詞にお腹を抱えて笑ってしまった。

それから私は気を失って、よく覚えてないけど、きっとエドガー・ティボーの腕の中へ倒れ込んだ。



13

-ダッシュ-

12月27日


「どうやってリリーと知り合ったんだ?」と、ティボーが僕に聞いてきた。

「自分でもよくわからないんだけど」と僕は言った。「だけど、いったい僕は何を期待していたんだろう?」

ティボーは首を振った。「なんでもいいけどさ、この気取り屋。ここは飲み屋だし、何かお酒飲むだろ? それにしてもアラインはセクシーだよな、20歳になったばかりだし、みんなの注目の的だよ」

「僕はお酒は飲まないことにしてるんだ、今夜はね」と僕は言った。

「たしかこの店で出してるお茶は〈ロングアイランド〉だけじゃなかったかな、自分で確かめてくれ、友よ」

そうすると、おそらくリリーもお酒を飲んだのだろう。ティボーが眠り込んでしまった彼女の体を近くのベンチに横たえた。

「あなた私にキスしてるの?」と彼女がつぶやいた。

「そんなにはしてないよ」と彼はつぶやき返した。

僕は夜空をじっと見つめた。wasted(無駄な)という言葉を創った天才が夜空のどこかにいる気がして探した。女か男か知らないけど、その人は大絶賛に値する偉業をなしたのだ。―こんなに核心を突く言葉を発明してくれた。なんて無駄な女の子なんだ。なんて無駄な期待だったんだ。なんて無駄な夜なんだ。

この状況にふさわしい行動はさっさとこの場から逃げ出すことだろう。臆病者ならそうするだろうけど、僕は臆病者を克服したかったからね、邪念を断ち切り、その場にとどまったんだ。気づくと僕はリリーのスニーカーを脱がしていた。そして彼女の足を彼女のおばさんのブーツの中に滑り込ませた。

「やっと戻ってきたわ!」と彼女がつぶやいた。

「ほら大丈夫?」と僕はあえて気さくに言った。押しつぶされそうな落胆の気持ちを隠そうとしていた。彼女はちゃんと話を聞ける状態でもなかったけれど。

「大丈夫」と彼女は言った。だが、一向に動こうとしなかった。

「僕が家まで送っていくよ」と僕は彼女に言った。

彼女はしばらく手足をばたばたさせていたが、ようやく僕は、彼女が首を振って断っているのだとわかった。

「家はだめ。私、家には帰れない。帰ったらおじいちゃんに殺される」

「なるほど。殺人をおぜん立てするつもりはないから」と僕は言った。「君のおばさんの家に連れて行くよ」

「それいい考え、いい、凄くいいじゃない」

彼らの名誉のために言っておくと、その店にいたリリーの友人たちは彼女を心配していたし、二人だけで大丈夫か?とも聞いてくれた。ただ、ティボーに関しては逆で、彼はその日が誕生日の女の子を生まれたての姿にしようと必死で、僕たち二人が店を出るのも気づいていなかった。

「ショウジョウバエ」と、僕はふとその言葉を思い出して言った。

「なに?」とリリーが聞いた。

「どうして女の子って、ショウジョウバエの集中力が続く時間と同じくらい早いサイクルで、次の男を好きになるのかな?」

「なに?」

「その辺に飛んでるハエみたいに、男から男へ飛び移っていくじゃん」

「欲情してるんじゃない?」

「今は」と僕は彼女に言った。「そんな正直になる時じゃないよ」

それより、今はなんとかタクシーを拾わなければならない時だった。何台ものタクシーが停まりかけては、リリーが僕にもたれかかっているのを見ると、―たぶんリリーの姿は車がぶつかった後の道路標識のように曲がって見えたのだろう、―そのまま停まらずに通り過ぎて行った。やっと良心的な運転手がタクシーを停め、僕らを乗せてくれた。車内ではカントリーソングがラジオから流れていた。

「東22番街の、グラマシー・パークの近くまで」と僕は彼に言った。

リリーは僕の横で寝てしまうんだろうなと思った。しかし、毎度のことだけど、事態は予想よりひどいことになった。

「ごめんね」と彼女は言った。蛇口をひねって感情がどっと溢れ出ないようにしていたが、ぽろっと一つこぼれ落ちてしまった、そんな感じだった。「ほんとにごめんなさい。あー、私はなんてことをしてしまったの。わざとあれを落としたわけじゃないのよ、ダッシュ。そんなつもりじゃなかったの。―つまり、悪いのは私なの。あなたがあの店に来るなんて思わなかったし、私はあの時、あそこで、あー、なんてこと、ごめんなさい。ほんとに、ほんとにごめんね。もし今すぐにタクシーから降りたければそうしていいのよ、あなたの気持ちが痛いほどわかるわ。すべて私がしたことの報いだわ。全部私のせいよ。ごめんね。あなたは私を信頼してたのよね? 私も真剣だったのよ。ほんとに、ほんとに、ほんとうにごめんなさい」

「いいよ」と僕は彼女に言った。「べつにどうってことない」

そして不思議なことに、実際どうってことなかった。責めるべきは、淡い期待を抱いた僕の方だ。

「全然よくないわ。ほんと、ごめんなさい」彼女は前かがみになって、言った。「運転手さん、彼にごめんなさいって伝えてくれる? 私はこんなつもりじゃなかったのよ。誓って言えるわ」

「彼女がごめんなさいだってさ」と、運転手が僕に言った。バックミラー越しではあったけれど、彼の表情から十分同情の色がうかがえた。

リリーはシートに座り直した。「わかってくれた? 私はただ、ほんとに―」

それから僕は彼女の言葉を無視することにした。通りを歩く人々や過ぎ去る車を見つめていた。僕はタクシーの運転手にどこで曲がればいいか指示を始めた。もっとも、どこで曲がるかなんて彼は百も承知だとはわかっていたけれど、タクシーが目的地にたどり着くまで、僕はずっと彼女の言葉に耳を貸さずに指示を続けた。僕はタクシー代を払っている時も(彼女はさらに申し訳なさそうに謝っていたが)、リリーを慎重にタクシーから降ろす時も、家の前の何段かある踏み段を上がらせる時も、聞く耳を持たなかった。それはなかなか骨の折れる作業だった。―彼女の頭が降り口の上にぶつからないように彼女を外に出し、僕は彼女のスニーカーを片手で持ちながら、そのスニーカーを落とすことなく彼女を抱えるように玄関口の踏み段を上がった。

僕が玄関のベルを鳴らすよりも先に施錠が外れる音がして、僕はのけぞってしまった。リリーのおばさんは僕たちを一瞥すると、ひと言「あらまあ」と言った。どっとせきを切ったように、僕の口から謝罪やら弁明やらが飛び出した。リリーを抱えていなければ、今が立ち去り時だと捉えて逃げ出していたかもしれない。

「入りなさい」とおばさんは言って、僕たちを家の奥の寝室まで案内してくれた。おばさんと僕でリリーをベッドに座らせた。間近でリリーを見ると、彼女の目から涙が今にもこぼれ落ちそうだった。

「こんなことになるはずじゃなかったのよ」と彼女は僕に話した。「こんなつもりじゃ」

「わかってるよ」と僕は彼女に返した。「大丈夫だから」

「リリー」と彼女のおばさんが言った。「二段目の引き出しにパジャマがあるから着なさい。あなたが着替えてる間、ダッシュを部屋の外に連れ出しておくから。それから、おじいちゃんには電話して、あなたは私と一緒にいるから安全だって、何かあったわけじゃないって言っておくから。明日の朝、あなたがもっとよく考えられるようになったら、おじいちゃんに話す口実をちゃんと練りましょうね」

僕は部屋を出る前に最後にもう一度彼女を見たくなって振り返ってしまった。見なければよかった。ぼう然とベッドに座り込む彼女の姿は痛々しくて、息をのむほど―。彼女はどこか見知らぬ場所で目覚めたかのように座っていた。それでも自分が眠っているわけではなく、これは実際に起こっている現実なんだとわかっているようだった。

「本当に」と僕は言った。「大丈夫だから」

僕はポケットから赤いノートを取り出すと、洋服ダンスの上に置いた。

「私にはそれを開く資格はないわ!」と、彼女が抗議するように言った。

「そんなことないよ」と僕は彼女に優しく語りかけた。「君がいなかったら、ここに書かれている言葉は存在しないんだから、僕が書いた言葉もね」

廊下から僕らの様子をうかがっていたおばさんが、僕に手招きして部屋を出るようにうながした。彼女の部屋から十分離れた後に、おばさんは言った。「まあ、心配いらないわよ」

「すべてが馬鹿げてるんですよ」と僕は言った。「謝る必要なんかないって彼女に言っておいてくれますか。僕たち二人が勝手にまいた種なんです。僕は彼女の頭の中の男にはなれなかったし、彼女も僕の頭の中の彼女にはなれなかった。でもそれでいいんです。真面目にそう思います」

「自分でそう言ったらいいじゃない?」

「言いたくないんです」と僕は言った。「彼女が今ああいう状態だからじゃなくて、―普段はあんな感じじゃないんだろうなっていうのはわかります。でもノートに書くみたいに簡単じゃないんですよ。今それがわかりました」

僕は玄関に向かった。

「あなたに会えて良かったです」と僕は言った。「お茶ありがとうございました。一杯も出してくれなかったけど」

「どういたしまして」とおばさんは答えた。「また近いうちにいらっしゃい」

それに対してどう答えればいいのかわからなかった。僕はもうここに来るつもりはないことを、おばさんも知っている気がした。


通りに出ると、僕は誰かと話したくなった。でも誰と? こういう時、たまらなく誰かと話したくなる時、いつになく自分の世界が狭く感じる。ブーマーは100万年経っても僕が体感しているこの気持ちを理解してくれないだろうし、ヨーニーとダヴならわかってくれるかもしれないけど、彼らは恋愛モードの最中(さなか)でせっせとちちくりあっていて、お互いの木はよく見えても森全体を見渡せるかは疑わしい。プリヤはおかしなものでも見るように僕を見つめてくるだろう、たとえ電話でもそんな冷たい視線を感じる気がする。ソフィアは携帯電話を持っていない、アメリカにいる時は持たないことにしたらしい。

両親のどちらかに電話するっていうのは?

それは笑っちゃう考えだ。

僕は家に向かって歩き始めた。すると携帯電話が鳴った。

画面を見ると:

ティボーだった。

なんだか嫌な予感がして出たくなかったけれど、電話に出た。

「ダッシュ!」と彼は叫んだ。「お前たちどこにいるんだ?」

「リリーは家まで送ったよ、ティボー」

「彼女は大丈夫なのか?」

「君が心配してたって聞けば、きっと彼女は喜ぶだろうね」

「顔を上げたら、いつの間にかお前たちがいなくなってるからさ」

「僕だって、あの時どうしたらいいかわからなかったんだ」

「どういう意味だ?」

僕はため息をついた。「つまり、―要するに僕が理解できないのは、よくもまあ、あんなろくでもない真似をしておいて、涼しい顔をしていられるなってことだよ」

「そんな言い方はないじゃないか、ダッシュ」と、ティボーは実際傷ついたように言った。「俺は凄く心配してるんだ。だからこうして電話してるんだ。心配してるんだよ」

「まったく、そういうのをろくでもない態度っていうんだよ。―心配したい時に心配して、したくない時にはしない。君の心配がさっと引いていった後には、残された僕たちはてんてこまいだ」

「おい、お前は考えすぎだって」

「おい、君こそ何をわかってるって言うんだ? まあ、そうだね、君の言う通りかもしれない。君はあまり考えずに行動に移すからね。だから、いつでも君が主導権を握ることになる。そして僕は万年、君に振り回されるんだ」

「それで彼女は大丈夫なのか? 気が動転してるとか?」

「っていうか、それは君にとって重要なことなのかい?」

「そりゃそうさ! 彼女はうんと成長してたよ、ダッシュ。彼女はいかしてる、と思ったよ。少なくとも彼女が酔っぱらうまではね。彼女は一旦酔っぱらったら手をつけられない。彼女が近寄ってきただけで逃げ出したくなるね」

「ずいぶん騎士道精神にあふれることを言うね」

「おお、むかついてるみたいだね! お前ら二人は付き合ってるのか? 彼女は一度もお前のことは言わなかったけどな。もし知ってたら、誓って彼女に手を出そうとはしなかったね」

「もう一度言うよ、それだけ騎士道精神にあふれてたら、君はもうすぐナイトの爵位(しゃくい)に手が届く」

彼はため息をついた。「俺はただ、彼女が大丈夫かどうか確認したかっただけなんだ。それだけだよ。彼女に後で連絡するって言っておいてくれ。明日の朝、彼女がひどい気分じゃなければいいんだけどな。水をたくさん飲むように言ってくれ」

「自分で言えばいいじゃないか、ティボー」と僕は言った。

「彼女は電話に出ないんだ」

「なるほど。僕はもう彼女と一緒じゃないよ、ティボー。彼女を送って、一人で帰ってる途中なんだ」

「声が悲しそうだな、ダッシュ」

「携帯電話で嫌な会話をするとね、疲れがどっと押し寄せてくるんだよ、悲しみに匹敵するくらいにね。でもまあ、君が心配してることは評価する」

「俺たちはまだ店にいるから、お前が戻ってきたいなら」

「戻るという選択肢はないって僕は言われてきたから。不退転の決意で前に進むよ」

そして僕は電話を切った。生きることの疲れがどっと僕に覆いかぶさり、もう誰とも話したくなくなっていた。少なくともティボーとは話したくなかった。彼が言うように悲しみもあった。そして怒りも、それから混乱も、さらに失望...全部疲れる。

僕は歩き続けた。12月27日にしてはあまり寒くなく、年末の連休を利用してこの街にやって来た人々が大挙して屋外に出ていた。ソフィアが家族と一緒に滞在していると言っていた場所を思い出した。―48番街にあるベルヴェデーレ・ホテルに泊まっているらしい。僕はその方向に歩いていた。まだ数ブロック先のタイムズ・スクエアが夜空に輝きを放っていた。その光の中に僕は重い足取りで入っていった。クリスマスはもう終わったというのに、まだ大勢の観光客がたむろしている。でも僕はクリスマス前に感じたほどは嫌悪感を抱かなかった。特にタイムズ・スクエアでは、誰もがただここに立っているだけでうっとりしていた。その中に、僕みたいに疲れ切った魂を抱えた人が、少なくとも3人いた。その3人はネオンの圧倒的な明るさに驚いて、馬鹿みたいに顔を上げていた。僕は懸命に気持ちを強く保とうとしたけれど、そのような悲しげな喜びの表情を見ていたら、人間ってもろい存在だな、いとも簡単に涙が溢れ出すものなんだな、と思わずにはいられなかった。

僕はベルヴェデーレ・ホテルまでたどり着くと、館内に内線電話があるのに気づき、ソフィアの部屋にかけてみた。呼び出し音が6回鳴って、自動音声が流れ出したので受話器を置いた。僕はロビーに並べられたソファーの一つに腰を下ろした。べつに待っていたわけではない。―ただ他に行くところもなかっただけだ。ロビーは宿泊客でごった返し、外の街を歩き回ってきた人たちがせわしなくカウンターに向かい、何やら交渉して、中には踵(きびす)を返す者もいた。両親が観光で疲れ切った子供を引きずるようにして部屋に向かう。カップルがお互いのしたこと、あるいはしてくれなかったことについて文句を言い合っている。10代のように手をつないでいるカップルもいたけれど、彼らが10代だった頃から50年は経っているように見えた。クリスマスの音楽はもうロビーに流れていなかった。それがかえって、その空間に本物の安らぎを開花させていた。あるいは僕の心の中の空間に。もしかしたら目に映るすべてのものは、僕の心の中にあるのかもしれない。

僕はそれを書きとめたいと思った。リリーと共有したかった。たとえリリーが僕のつくった虚像にすぎないとしても、リリーという概念とそれを共有したかった。僕はロビーにあった小さなお土産屋に足を運ぶと、6枚のポストカードとペンを買った。それから再びソファーに座り、思考のおもむくままにまかせて書いた。今回は彼女に向けて書いたわけではない。誰に向けてもいない。それは水の流れに、あるいは血液が流れていくままに指をまかせただけである。


ポストカード1:ニューヨークからこんにちは!

ここで育った僕は、この街が観光客の目にどのように映っているのだろうといつも思う。がっかりしているんじゃないかな? 僕はこの街の住人として、ニューヨークはその名に恥じない街であると信じたい。建物は高くそびえ立っているし、摩天楼の輝きは眩しいくらいだ。どの街角にも、どの通りにもそれぞれの物語がある。でも実際に歩いてみると、ショックを受けるかもしれない。自分はその通りを流れる何百万もの物語の、たった一つに過ぎないと気づくからだ。頭上から煌々(こうこう)と降り注ぐネオンが自分に向けられているとは感じられずに、高い建物を見上げながら、心の深いところで、見えない星を渇望(かつぼう)するだけだ。


ポストカード2:ブロードウェイは僕の庭!

なぜ見知らぬ人に話しかけるのは、知ってる人に話しかけるよりもずっと簡単なのだろう? どうして僕たちは人とつながるために、人と距離を置くことが必要だと感じるのだろう? もし僕が「愛(いと)しのソフィアへ」とか、「親愛なるブーマーへ」とか、あるいは「リリーの大叔母さんへ」と、ポストカードの一番上に書けば、その下に続く言葉は自ずと変わるのではないか? もちろん変わるだろう。しかし問題は、「愛しのリリーへ」と書いた場合だ。それは「親愛なる自分へ」と書いた場合と何かが変わるのだろうか? ほんの少しの改編がなされるだけなのではないだろうか? それ以上でもそれ以下でもない、自分への手紙の改訂版だ。


ポストカード3:自由の女神

あなたを見上げ、僕は歌うよ。なんて心躍るワンフレーズなんだろう。


「ダッシュ?」

顔を上げると、そこにソフィアが立っていた。手に『ヘッダ・ガブラー』の演劇のプログラムを持っている。

「やあ、ソフィア。世間は狭いね!」

「ダッシュ...」

「つまり、狭いっていうのは、この瞬間に、この空間に二人が居合わせたことが嬉しいっていう意味だよ。厳密に会話的な決まり文句として言ったんだ」

「私は前からあなたのそういう厳密さっていいなって思ってたわ」

僕はロビーを見回して、彼女の両親の姿を探した。「ママとパパは一緒じゃないの?」と僕は聞いた。

「両親は飲みに行っちゃった。私だけ先に戻ってきたの」

「そうなんだ」

「そうよ」

僕は立ち上がらなかった。彼女も僕の隣に座ろうとはしなかった。僕たちはただ見つめ合っていた。しばらく見つめ合ってから、一瞬ためらって、また見つめ合った。これから二人の間に何が起ころうとしているのか、疑問の余地はなかった。どこへ向かおうとしているのか、迷うこともなかった。僕たちはそれをあえて言う必要さえなかった。



14

(リリー)

12月28日


Fan•ci•ful(空想に満ちた)形容詞(1627年頃発祥)1. 理屈や経験よりもむしろ空想や気ままな想像にゆだねられている状態。


ミセス・バジルによると、fancifulという言葉がひねくれ男子くん―つまりダッシュ―のお気に入りの形容詞みたい。たしかに、どうして彼が最初にストランド書店で赤いノートの誘いに乗ったのか、それで説明がつく。空想好きだから今までノートのやり取りを続けてくれたんでしょう。でも、それからしばらく経って、本当のリリーは彼の想像とは真逆の女の子だと知って、彼のfancifulな状態は薄れ、逆に彼をdour(気難しくて、不機嫌で、陰気な)状態にしてしまったんだわ。

私は彼になんて無駄な時間を...

私はひねくれ男子くん(つまりダッシュ!)とのつながりを自ら断ち切ってしまったんだけど、それでもfancifulが私のお気に入りの言葉になったし、その言葉の起源が1627年頃だっていうのもいいわね。その時の情景がはっきりと目に浮かぶわ。メアリー・ポッペンコック夫人が家に帰るのよ。古き良き時代のイギリス、テムズ川沿いののどかな村にあるわらぶき屋根の石造りの家に帰ると、彼女は夫にこう言うの。「ただいま、ブルース。私たちが住んでいるイングランド中部地方の、この緑豊かな村に雨が降った時に、雨漏りしないような屋根って素敵だと思わない?」ブルース・ポッペンコックはたぶんこんな感じで答えたのよ。「おお、メアリー。今日の君はなんてfancifulな考えを思い付くんだ」それに対してポッペンコック夫人はこう返したの。「あら、ブルース。あなた今、新しい言葉を作ったわ!今年は何年だったかしら? 1627年頃だったわね!そうだわ、その言葉を思い付いた年を、―正確に今年が1627年なのかはわからないけど、―その言葉と一緒に家の壁の石に彫って刻み込んでおきましょうよ!そうすれば誰も忘れないわ。fanciful!あなたってほんとに天才ね。私の父が私を無理やりあなたと結婚させてくれてよかったわ。あなたが毎年私を妊娠させるのも嬉しいわ」

私は辞書を本棚に戻した。戻した辞書の隣には『現代の詩人たち』のハードカバー版があった。ミセス・バジルはこういう辞典形式の参考図書が好きなのよ。彼女が銀のお盆を持って客間に戻ってきた。お盆の上にはとても濃いコーヒーが入っていることが匂いでわかるコーヒーポットが載っている。

「今回のことから何を学んだのかしら? リリー」と、ミセス・バジルがコーヒーをカップに注ぎながら聞いてきた。

「他の人たちが飲んでいるものを何口も飲ませてもらうと、ひどい目に遭うことがある」

「その通りよ」と、彼女は上から諭すように言った。「でももっと大事なことがあるんじゃない?」

「飲み物は混ぜるなってことね。もしペパーミント・シュナップスを飲むとしたら、ペパーミント・シュナップスだけを少しずつ飲むこと」

「もういいわ。ありがとう」

彼女の穏やかなものの言い方は、私の両親や祖父とはちょっと違って、私が一番尊敬している点なの。大叔母さんは状況に対して理性的に、現実的に反応するんだけど、両親や祖父ときたら、むやみやたらに、不必要きわまりないヒステリーを起こすのよ。

「おじいちゃんになんて話したの?」と私は訊ねた。

「あなたが昨夜、私のところに夕食を食べにやって来て、それで私が明日の朝、つまり今朝ね、家の前の歩道の雪かきをしてもらおうと思って、あなたに泊まるように言ったことにしたわ。まあ、実際そうしてもらおうと思ったから本当のことね。あなたは夕食も食べずに寝ていたけれど」

「雪?」私は厚いブロケード生地のカーテンを引っ張って、窓から家の前の道を見た。

雪だ!!!!!!!!!!

私は昨夜の、今にも雪が降り出しそうな空を忘れていた。ああ、私は情けないことに眠り込んでしまったのだ。いろんなお酒を何口も飲んで意識を失い、―ついでに、(言うなれば)いろんな希望まで失ってしまった。全部私のせいだ。

〈タウンハウス〉が建ち並ぶグラマシー通りの朝の風景は一面、雪で覆われていた。少なくとも5センチは積もっている。―大雪というほどではないけれど、いい感じの雪だるまを作るには十分だ。雪はまだ光り輝いていて降り積もって間もないように見えた。通りは白のブランケットをかぶり、停めてある車や歩道の手すりは綿帽子をかぶっていた。雪はまだ光沢を失ってはいなかったけれど、そのうち人々の足跡や、犬の黄色いマーキングや、車の排気ガスによって輝きを失うことになる。

あちこちに散らばっていた私の思考が、ぼんやりと一つのアイデアを浮かび上がらせた。

「裏庭で雪だるまを作ってもいい?」と、私はミセス・バジルに聞いた。

「いいわよ。まず玄関前の歩道から雪かきしてちょうだい。私のブーツの片一方が戻ってきてちょうどよかったじゃない、ね?」

私は大叔母さんの向かい側に座り、コーヒーをひと口すすった。

「コーヒーと一緒に、ホットケーキも出てくるの?」と私は訊ねた。

「あなたがどのくらいお腹空いてるのかわからなかったのよ」

「ペコペコよ!」

「あなたは起きたら頭痛いって言うと思ったわ」

「頭は痛いわ!でもお腹は別よ!」実際、頭はガンガンしていた。こめかみの辺りを軽くコンコン叩かれている気がして、そのノックが頭全体に大きな怒号となって響き渡っていた。でもきっと、ホットケーキにメープルシロップをたっぷりかけて食べれば、お腹も満たされて、頭痛も和らぐはず。昨夜夕食を抜いたから、その分を補うためにも食べなくちゃ。

軽い頭痛と空腹を感じながらも、私は内心かすかな満足感を抱(いだ)いていた。

私はやってのけた。私はとうとう〈危険〉を抱(かか)え込んだのだ。

その経験はひどい災難だったのかもしれないけど、それでも...一つの体験には違いないわ。

思い返すと、うっとりする。


「ダッシュ」と、私は積み重なったホットケーキにふりかけるようにつぶやいた。「ダッシュ、ダッシュ、ダッシュ」ホットケーキがバターとシロップを吸収している間に、私は彼の名前を自分の内側に取り込もうとした。実際のところ、彼がどんな感じの子だったのか、ぼんやりとしか覚えていない。私の記憶の中の彼はシャンパン色の霧(きり)に包まれ、甘く、ひらひらと、ぼやけていた。私が覚えているのは、彼はどちらかと言うと背の高い方だったこと、髪はきちんとしていて、クシでとかしたばかりに見えたこと、それから彼はジーンズを履き、ピーコートを着ていた。もしかしたら年代物の古着かもしれない。彼から男の子の匂いがしたけれど、ムカムカするような匂いではなく、いい匂いだった。

彼は私が今までに見たことのある目の中で一番青い目をしていた。長く黒いまつげが女の子みたいだった。

「ダシールを短縮してダッシュっていうらしいわね」と、ミセス・バジルが私にオレンジジュースの入ったコップを渡しながら言った。

「でしょうね」と私は言った。

「ええそうよ」

「彼と私の間には、本物の愛は生まれないだろうな」と、私は気づいたことを言った。

「本物の愛? ふんって感じ、鼻で笑っちゃうわ、そんなものハリウッド映画がねつ造した、ただの概念よ」

「あはは。おばさんがふんって言った」

「そんなもの、ふん、へんって笑い飛ばしちゃうわ」と彼女が付け加えた。

「ちょっとふざけるのはやめてよ」

「そうね、リリー」

私はため息まじりに言った。「結局、私は彼との関係を台無しにしちゃったのよ、そうでしょ?」

ミセス・バジルは言った。「まあ、あなたが彼に与えた最初の印象を払拭(ふっしょく)するのは難しいでしょうね。でもまだチャンスはあるわ。そのチャンスを引き寄せるのはあなたしかいないのよ」

「でも、どうやって引き寄せるの?」

「あなたなら何か思い付くはずよ。私はあなたを信頼してるわ」

「おばさんは彼が好きなのね」と、私はからかった。

ミセス・バジルが宣言するように言った。「あのダシールっていう子は軽蔑するような子じゃないわ。まあ、10代の男の子の典型って感じね。ちょっと細かいことにこだわりすぎる性格だから、周りの人が期待するほどの明るさはないけれど、でも彼にも魅力はあるわ。魅力と欠点ってどれも数珠つなぎのものなのよ。それに彼の欠点は、―許せる範囲の、あえて言えば、感心しちゃう欠点ね」

私には彼女が言ったことの意味がわからなかった。

「ってことは、彼にはもう一度狙うだけの価値があるってこと?」

「おやまあ、その質問は自分に向けるべきね。あなたにはその価値があるの?」

彼女に痛いところを突かれた。

ダッシュは、映画『コレイション』におけるホッチキスの活躍は超えないにしても、そのホッチキスと同等レベルの英雄っぷりを発揮してくれた。彼は私の片足のつま先が凍り付きそうだった時にブーツの片方を返してくれただけではなく、私の意識がもうろうとしている時にそのブーツを履かせてくれたし、私を家まで安全に送り届けてくれた。それにひきかえ私が彼にしたのは、彼の望みを打ち砕いたこと、だけ?

私は彼に謝りたいと心から望んだ。


私はアレチネズミを殺した問題児、エドガー・ティボーにメールした。


 どこに行けばダッシュに会えるの?


 ストーカーにでもなるつもりか?


 かもね。


 おそるべし。彼の母親がいる場所なら知ってるよ、東9丁目の大学界隈。


 どの建物?


 腕のいいストーカーなら聞くまでもないだろ。


私はエドガーにどうしても聞きたかった:昨夜、私たちはキスしたの?

私は自分の朝の唇を舐めてみた。私の口の中はホットケーキとシロップの味で満たされていて、ホットケーキとシロップ以外の甘美(かんび)なものが私の唇に触れたとは思えなかった。


 今夜も酔っぱらって我を忘れたいのかな?


エドガー・ティボーのそのメッセージを見て、私は突然思い出した。

ダッシュが酔っぱらって我を忘れた私を抱えて、救出するみたいに店から連れ出してくれた時、エドガーはアラインにしつこく言い寄っていた。


 1. いいえ、私はもう酔っぱらう遊びからは引退します。

 2. 特にあなたとは飲みません。それではごきげんよう。リリーより。


午後になって、私はミセス・バジルの家を出た。雪の上を歩いていると、ブーツの下で雪がザクザク音を立てた。グラマシー・パークの近くにあるミセス・バジルの家から、イースト・ヴィレッジにある私の家に帰る途中で、東9丁目にある大学に寄ろうとすると、少しは遠回りになるけれど、全くの逆方向というわけではない。それで私は大学の方向へ歩みを進めながら、冬の散歩を楽しんだ。私はクリスマスが好きなのと同じ理由で雪が好き。どちらも時間が止まったみたいにみんなを一つにまとめてくれるから。カップルたちが仲睦まじく通りをぶらぶら歩いている。子供たちがそりを引きながら、てくてく歩いている。犬たちが雪玉を追いかけている。みんなが今日という日の輝きに身をゆだね、それ以外に急ぐ用事なんてない様子で、その輝きをみんなと分かち合っている。いついかなる時に雪が降ってきても、みんなをそんな感じにしてくれるから好き。

東9丁目の大学のある敷地には、4つの角にそれぞれ異なる建物が立っている。まず私は一番手前の建物に近づいて行き、そして門番に訊ねた。「ダッシュはここにいますか?」

「なんで? 誰がそんなこと知りたがってる?」

「私が知りたいんです、どうしても」

「ダッシュっていう名前の人はここにはいないよ、俺の知ってる限りではな」

「じゃあ、どうしてあなたは、誰がそんなこと知りたがってるって聞いたの?」

「あんたがそのダッシュっていう彼の住所を知らないとして、どうしてあんたは彼を探してるのかな?」

私はバッグから保存用の小さなビニール袋に入った〈レープクーヘン・スパイス・クッキー〉を取り出すと、その門番に手渡した。「どうぞ召し上がってください」と私は言った。「メリー・12月28日」

私は次の建物に向かって、その敷地を歩いていった。次の建物には制服を着た門番はいなかった。中に入ると、ロビーの受付に男性が座っていた。彼の背後の廊下では、何人かの老人が歩行補助器を使ってゆっくり歩いている。「こんにちは!」と私は彼にあいさつした。「ダッシュはここにいるかなと思いまして」

「ダッシュって80歳の昔ナイトクラブで歌ってた歌手ですか?」

「絶対違います」

「それではここにはダッシュという人はいませんね、お嬢さん。ここは老人ホームなんですよ」

「目の見えない人もここで暮らしているんですか?」と私は訊ねた。

「どうして?」

私は彼に私の名刺を渡した。「私は盲目の人たちに読み聞かせをしたいと思っているんです。大学に願書を提出する時に書けるし、それに私はお年寄りが好きなんです」

「それは良い心がけですね。ではこの名刺は預かっておきましょう。何か機会があったら連絡しますよ」彼は私の名刺に目を落とすと、言った。「はじめまして。〈リリー・犬の散歩屋〉さん」

「こちらこそ!」

私はその建物を出ると、横の道路を歩いて3つめの建物に向かった。そこの門番は外に出て雪かきをしていた。「こんにちは!手伝いましょうか?」と私は彼に聞いた。

「結構」と彼は言って、あやしむような目で私を見た。「組合の決まりでね。助けは無用」

私はその門番にスターバックスのギフト券を1枚差し出した。犬の散歩のお客さんからクリスマス前に数枚もらったもので、そのうちの1枚をあげたのよ。「これで休憩時間にコーヒーを飲んでください」

「こりゃどうも! で、何の用だい?」

「ここにダッシュっていう子はいますか?」

「ダッシュ? 苗字は?」

「苗字はわからないんです。10代の男の子で、背は高い方で、夢見がちな青い目をしています。それからピーコートを着ています。この近くのストランド書店によく行くみたいだから、ストランド書店の手提げ袋を下げてるかもしれません」

「ちょっとわからんな」

「なんていうか...ひねくれてる感じの子です」

「ああ、その子なら、ほら、あの建物にいるよ」

その門番は4つめの角にある建物を指差した。

私はその建物に向かって歩いた。

「こんにちは」と、私はそこの門番に言った。その人は文芸誌『ニューヨーカー』を読んでいた。「ダッシュっていう子はここにいます、よね?」

その門番は読んでいた雑誌から目を上げると、「16Eの? 母親が精神科医の?」と言った。

「そうです」と私は言った。きっとそうなんだわ。

その門番は雑誌を閉じると、机の引き出しに押し込んだ。「そういえば彼は1時間ばかり前にここを通って出て行ったな。彼に伝言があるのなら伝えておきますよ」

私はバッグから小包を取り出した。「これを彼に渡してくれますか?」

「いいですよ」

「どうもありがとう」と私は言った。

ついでに私はその門番にも私の名刺を渡した。彼はそれをちらっと見ると、「この建物内はペット持ち込み禁止なんですよ」と言った。

「それは悲劇だわ」と私は言った。

だからダッシュはみんなに知れ渡るくらいひねくれちゃったんだわ。


ダッシュに渡してほしいと頼んだ小包はギフト・ボックスを包装紙で包んだもので、中には〈英国式朝食用ティー〉と、それから赤いノートも入れた。


親愛なるダッシュ:

このノートを通じてあなたと出会ったことは、私にとってとても意味のある出来事でした。特に今年のクリスマスは、お陰で有意義なものになりました。

でも私はその魔法を解いて、いつになく楽しい時間を台無しにしてしまいましたね。

本当にごめんなさい。

私が謝りたいのは、あなたが私と初めて会った時に私の酔っぱらった残念な姿をさらしてしまったことではありません。私が謝りたいのは、明らかにそのことよりも責任を感じているのは、私の愚かさのせいで、私たちの大きなチャンスをふいにしてしまったことです。あなたが私に実際に会ってみて、私に夢中になるほど恋に落ちるとは思っていないけど、でももっと違った状況で会っていたら、きっと何か素敵なことが起こったんじゃないかって思いたいのです。

私たちは友達になれたかもしれないって。

でももうゲームはおしまいね。それはわかってる。

けど、もしあなたが、(しらふの)リリーという友達が欲しいと今も思ってくれるのなら、私はあなたのガールフレンドになります。

あなたは特別で親切な人だって思えるから。私はそういう特別で親切な人たちと知り合いになることを目的として生きていきたいから。特に私と同い年くらいの男の子でそういう人がいたらいいわね。

〈ホッチキス〉みたいに現実の英雄になってくれてありがとう。

私の大叔母さんの家の庭にある雪だるまがあなたに会いたがっているわ。もしあなたにその気があるのならね。

                                      敬具

                                      リリー


追伸:あなたがエドガー・ティボーと知り合いだったからといって、私はあなたを責めるつもりはありません。そして、あなたも私に対して同様に思ってくれると嬉しいです。


勇気を振り絞って書いたその文章の下に、私は〈リリー・犬の散歩屋〉と書かれた名刺をホッチキスで留めた。ダッシュが私の申し出に応じて雪だるまに会いに来たり、私の名刺を見て電話をかけてくるという期待は抱いていなかったけど、もし彼がもう一度私に会いたいと思ってくれた時のために、せめて私の親戚たちを介することなく直接私に通じる手段を彼に示しておきたかった。

私はノートの次のページに、ミセス・バジルの書庫みたいな客間の本棚にあった『現代の詩人たち』の、あるページをコピーして、一部を切り抜いて、のりで貼り付けた。

マーク・ストランド

(詩人...名前の下にあれこれ書かれていた経歴はペンで線を引いて消した。)

我々は自分の人生の物語を読んでいる

まるで物語の中に自分がいるかのように、

あたかも自分がその物語を書いたかのように。



15

-ダッシュ-

12月28日


僕はソフィアの隣で目を覚ました。時間はわからないがまだ夜のようだった。彼女は僕に背を向けて寝ていたが、彼女の片手はなごり惜しそうに僕の方へ伸び、僕の片手の上に乗っていた。窓の方を見ると、ホテルのカーテンを取り囲むように光が室内に入り込み、朝の到来を告げていた。僕は彼女の手の感触と自分の呼吸を感じながら、自分は幸運だと思い、感謝の念がこみ上げてきた。窓の下の通りから壁をのぼってくるように車の走る音が聞こえ、それに混じって、きれぎれに人々の会話も聞こえてきた。僕は彼女の首筋に目をやると、彼女の髪の毛を片手で後ろに流して、そこにキスをした。彼女の体がわずかに動いて、僕はちょっとびくっとした。

僕たちは二人とも一晩中、服を着たままだった。寄り添って寝ていたわけだけど、それはセックスのためではなく、安らぎを得るための行為だった。初めて誰かと一緒に寝るという行為に足を踏み入れたわけだけど、それは僕がこれまでずっと想像してきたよりも、たやすい一歩だった。

コンコンコン。

ドンドンドン。

ノックの音がした。3回ずつドアが叩かれている。

男の声がした。「ソフィア? ¿Estás lista?(支度はできたか?)」

彼女は片手で僕の手をつかむと、ぎゅっと握りしめてきた。

「Un minuto(ちょっと待って)、パパ!」と彼女が声を張り上げた。

僕はとっさにベッドの下に隠れた。怒り狂った父親がホテルの部屋に怒鳴り込んでくるという、ありがちな展開に一応備えたのだ。ベッドの下で目を見張ったのは、ベルヴェデーレ・ホテルの従業員の掃除機のかけ方だった。ベッドの下にもかかわらず隅々まで綺麗に掃除機がかけられていた。お陰で僕はネズミにもダニにも襲われずに済んだ。

さらにドアがノックされて、ソフィアが入口に向かった。

遅かった。気づいた時には僕の靴が意気揚々と床の上にたたずんでいるのが見えた。ベッドの下から、めいっぱい手を伸ばせば届くかもしれない。その時、ソフィアの父親がドシドシと室内に入ってきてしまった。―彼はかなり大柄な男で、ざっくり言うとスクールバスの形をしていた。―僕はなんとか手を伸ばして靴をつかもうとした。するとソフィアの素足に蹴られ、僕の手はベッドの下に戻された。彼女は素早い身のこなしで続けて僕の靴も蹴った。―その靴が、狙いすましたみたいに僕の顔面を直撃した。急激な痛みに条件反射で声が出てしまったのだが、ソフィアが機転を利かせて、もうすぐ支度できるから!と大声を出して僕の声をかき消した。

彼女が昨日と同じ服を着ていることに気づけば、父親は何か言ったかもしれないが、彼は何も言わずにベッドに近づいてきた。そして僕が体の位置をずらす間もなく、彼は全体重を預けるようにベッドの上に、つまり僕の上に座ってきた。彼のどっしりとしたお尻がマットレスをへこませ、僕の頬にぴったりくっついた。

「¿Dónde está Mamá?(ママはどこにいるの?)」とソフィアが聞いた。彼女は靴を履こうとかがみ込んだ際に、鋭い目つきで僕をにらんだ。そこでじっとしてろという目だ。まるで僕が出ようと思えば今すぐ出られるとでも思っているみたいな目だ。僕はただ床にはりつけられていた。自分の靴に襲われて、おでこからは血が流れていた。

「En ell vestíbulo, esperando.(ママはロビーで待ってるよ)」

「¿Por qué no vas a esperar con ell a? Bajo en un segundo.(じゃあパパも先に下に行って、ちょっと待っててくれる?)」

二人がどういうやり取りをしているのかわからなかった。この状態で僕にできるのは、ただ祈ることだけだった。すると僕の顔の上の重みがどいてくれた。ソフィアの父親が立ち上がったのだ。彼の体重がベッドから床に移動して、突然ベッドの下の空間が、ダウンタウン辺りにあるアパートメントのロフトみたいなサイズ感になり、僕は動けるという理由だけで転げ回りたくなった。

父親が行ってしまうと、ソフィアもベッドの下に潜り込んできて、僕の横に寝そべった。

「楽しいモーニングコールだったよね、そう思わない?」と彼女が聞いた。それから彼女は僕の前髪を押しのけると、おでこをじっと見てきた。「あらやだ、怪我してるじゃない。どうしてこんなことになっちゃったの?」

「おでこをぶつけたんだよ」と僕は答えた。「職務上やむを得ない災害だったんだ、元カノとひと晩過ごすっていう職務だけどね」

「その職務って見返り大きいの?」

「そりゃ大きいよ」僕は彼女にキスしようとして、―またおでこをぶつけた。

「さあ出ましょう」とソフィアは言って、体を横にずらして僕から離れていった。「あなたはどこか安全な場所から外に出ないとね」

僕も彼女のあとに続いてベッドの下から這(は)い出た。それから洗面所に行って顔を洗い、身なりを整えた。その間、彼女は隣の部屋で着替えていた。僕は彼女の着替えている姿を鏡越しにこっそり見ていた。

「あなたから私が見えるってことは、私もあなたが見えるってことよ」と、ソフィアに指摘された。

「それが何か問題でも?」と僕は聞いた。

「そうね」彼女は着ていたシャツを頭の上に引っ張り上げながら言った。「問題ないわ」

僕は彼女の父親が下で彼女を待っていることを一瞬忘れかけた。彼女を抱きしめている時間はない。いくら彼女の姿にそそられ、抱きつきたい衝動に駆られていても、そんなことをしている場合ではなかった。

新しいシャツに着替えたソフィアが僕の方へ歩いて来て、洗面所の鏡を見ながら、彼女の顔を僕の顔の横に並べた。

「おはよう」と彼女は言った。

「おはよう」と僕も言った。

「前に私たちが付き合っていた時は、こんなに楽しいことなんてなかったよね?」と彼女が聞いた。

「そうだね」と僕は返した。「こんなに楽しいことなんてなかった」

彼女はまた自分の国に帰ってしまう。僕たちが遠距離恋愛なんてできるとは思えない。それに前に付き合っていた時、今みたいに振る舞えたとも思えない。だから過去を振り返って後悔しても仕方ない。そしてホテルの部屋で生じた関係は、ホテルから一歩出たとたんに終わるのが常なのだろう。何かが始まると同時に終わるということは、それは現在にしか存在していないことを意味するのだろう、と僕はなんとなく気づいてしまった。

それでもなお、僕はそれ以上の関係を望んだのだ。

「これからの計画を一緒に立てよう」と、僕は思い切って言った。

するとソフィアはほほえんで、「いいえ、成り行きに任せましょう」と言った。


外に出ると雪が降っていた。空気が静かな驚きに満ちていて、すべての通行人がその驚きを共有していた。僕は母親のアパートメントに向かって歩きながら、ゾクゾクするような幸福感や、自分でもよくわからない入り乱れた感情を抱いていた。―ソフィアとの関係を成り行きになんて任せたくはなかったけれど、でも同時に、彼女との関係から一歩ずつ離れて行く今のこの歩みを楽しんでもいた。母親の部屋に着くと、僕は鼻歌を歌いながら洗面所に行き、靴にやられたおでこの傷を確認してから、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、食べたかったヨーグルトを切らしていた。すぐに僕は暖かい服を着込み、縞(しま)模様のニット帽をかぶり、縞模様のマフラーを巻いて、縞模様の手袋をはめた。―雪が降るとできるこういう格好は、なんだか幼稚園児に戻ったみたいでワクワクする。しかも誰も変な格好だと思わないから気兼ねない。―僕は大学の敷地をぶらぶら歩き、ワシントン・スクエア公園を抜け、スーパーマーケット〈モートン・ウィリアムズ〉へ向かった。

行きは気分良かったのだが、スーパーからの帰り道、悪ガキたちにからまれた。僕が何か彼らを刺激するようなことをしたとは思えなかった。実際彼らを挑発するようなことは何一つしていないはずなんだけど、―彼らは気の向くままに悪さをしでかすし、そのターゲットも同様に気分次第で決めるのだ。

「敵だ!」と彼らの一人が叫び、次の瞬間には雪玉がいくつも飛んできて、僕はヨーグルトの入った袋をかばう間もなく、その攻撃をくらった。

犬やライオンのように、子供というのは危険に対して敏感なのだ。少しでも恐怖を感じたり、ちょっとでもむかついたりすると、標的に襲いかかってきて、息の根を止めるまで手をゆるめない。雪玉が僕の上半身や足や、手に持っていた買い物袋にどんどん投げつけられた。彼らは全員見知らぬ子供たちだった。―人数は9人か10人で、年齢は9歳か10歳くらいに見えた。「やっつけろ!」と彼らが叫んだ。「あそこのあいつだ!」と大声を上げている。僕は逃げも隠れもしなかったけれど、「逃がすな!」と叫んでいる。

望むところだと僕は思い、自分も雪玉を作ろうと前かがみになった。すると僕のお尻が彼らのかっこうの的となり、雪玉をお尻に浴びせられてしまった。

食料品が入ったビニール袋を片手で持ちながら雪玉を投げるのは至難の業だった。最初の何投かは誰にも命中することなく地面に落ちた。それを見て、9人か10人の、9歳か10歳くらいの悪ガキたちが僕を馬鹿にするように笑った。僕が1人に狙いを定めようとしたところ、4人に前後左右から取り囲まれて、再び雪玉の集中砲火を浴びた。「災難を求めて巡航する」という古代から伝わる言い回しがあるけれど、僕はまさにそんな状態だった。そうこうしている間に、年長らしい傲慢な態度の少年が一人でどこかに歩き去っていった。すると入れ替わるように別の攻撃的な、みんなより少し年上の少年がやって来て、鞄を落とすように置くと、リーダーっぽい少年のお尻を蹴った。僕はその様子を見ながらも、雪合戦を続けていた。まるでブーマーと一緒に校庭で雪を投げ合って遊んでいるみたいに笑いながら、僕は雪玉を投げ返していた。全部冬のせいにして、無我夢中で雪の球体を投げ続けた。ソフィアが横で見ていて、僕の応援をしてくれている、そんな妄想をしながら...

僕の投げた雪玉が、一人の少年の目に当たってしまった。

べつに目を狙ったわけではなかった。僕は彼をめがけて雪玉を投げただけなんだけど、―バシッ!と命中してしまい、彼が倒れた。他の子供たちは手に持っていた雪玉をとりあえずこちらに投げてから、彼に駆け寄って何が起こったのかを確かめた。

僕も彼に歩み寄って、顔を覗き込んで安否を確認した。脳震とうは起こしていないように見えた。目つきもしっかりしている。しかし周りの〈9か10の悪ガキたち〉の顔に復讐の色が広がっていった。それは可愛げのある表情ではなかった。中には携帯電話を取り出して写真を撮ったり、電話で母親に話している子供もいた。何人かは雪玉作りを再開していて、今度はわざわざ雪と砂利を一緒くたにして雪玉を作っている。

僕は駆け出した。5番街を走り抜け、8丁目通り沿いを走り、ベーカリーカフェ〈オー・ボン・パン〉に逃げ込んだ。中から様子をうかがっていると、小学生のギャングたちが店の前を通り過ぎていった。

母親の住む建物にたどり着くと、門番が僕に小包を渡してきた。僕は彼にお礼を言った。けれど彼の目の前で小包を開けるのはやめて、部屋に持ち帰った。というのも、この門番は住人に届いた雑誌の、10冊中1冊をかすめ取る、いわば「10分の1泥棒」として有名なのだ。だから、何か良い物が入っているかもしれない中身を彼には見せたくなかった。

ようやく部屋の中まで戻ったところで、携帯電話が鳴った。ブーマーからだった。

「やあ」と電話の向こうで彼は言った。「今日ってボクたち何か予定あったっけ?」

「ないと思うけど」

「じゃあ、予定立てようよ!」

「いいよ。何かしたいことある?」

「キミはちょっとした有名人になってるよ!今リンクを送るから見て!」

僕はブーツを脱いで、手袋を取って、マフラーを外して、帽子を横に置くと、僕のノートパソコンの前に直行した。そしてブーマーからのEメールを開いた。

「〈ワシントン・スクエアのママたち〉?」と、僕は再び携帯電話を耳に当てて聞いた。

「そう、それをクリックして!」

そのサイトは「ママさんブログ」のようで、トップページに大きな見出しが躍っていた:


深紅色レベルの非常事態発生!

公園に襲撃者現る

12月28日、午前11時28分投稿

by エリザベスベネット通信


深紅色レベルの非常事態宣言を発動します。若い男―10代後半から20代前半―が10分ほど前、一人の子供を襲撃しました。これらの写真をじっくり見てください。もしこの人物を見かけたら、すぐに警察に通報してください。この人物は(手に持っている袋から)モートン・ウィリアムズを利用していると思われます。最後の目撃情報は8丁目通りです。この人物は何の躊躇もなくあなたのお子さんに危害を加えます。警戒してください!!!


〈マクラーレンのベビーカー押し〉さんのコメント:

この種の人たちは射殺すべきよ。


〈ザックエフロン〉さんのコメント:

変質者


〈アルマーニを着るキリスト〉さんのコメント:

警戒レベルの色分けなんだけど、深紅色レベルと赤紫色レベルの違いを教えてくれない? 前からどう違うのか疑問だったのよ!


その投稿には写真も掲載されていて、どこからどう見ても僕の帽子とマフラーを身につけている人物が写っていた。

「なんでこれが僕だってわかったんだ?」と、僕はブーマーに聞いた。

「着てる服と、ヨーグルトの銘柄、あと、からっきしダメな雪投げの腕前を掛け合わせるとキミしかいないよ。―やっと最後に、あのガキンチョに命中したけどね」

「それで、なんで〈ワシントン・スクエアのママたち〉なんていうサイトなんか見てるんだ?」

「ママたちが悪口を言い合ってるのが面白くてね」とブーマーは言った。「前からブックマークしてたんだよ」

「じゃあ、深紅色の非常事態宣言を投稿した人を突き止めよう。今から来れる?」

「いいよ。なんか面白そうで、ちょっとワクワクする!」

僕は電話を切るとすぐに、小包(茶色の包装紙にくるまれ、ひもが巻かれていた)を開けた。中には赤いノートが入っていた。赤いモレスキンが僕の元に戻ってきたのだ。

ブーマーがここにやって来るのにそれほど時間はかからないことはわかっていた。それで僕は大急ぎでノートに取り掛かった。


私たちのノートをあなたに返せなくてごめんなさい。

 その記述を見て、なんだかずいぶん前のことのように感じた。


あなたはもう他人のような気がしないわ。

 逆に、他人のように感じる人ってどんな人?と彼女に聞きたかった。べつに意地悪とか当てつけで聞きたいんじゃなくて、僕はそこに何か違いがあるのか、その違いを本当の意味で知る方法はあるのかどうか知りたかったのだ。たとえば、他人だとは全く思っていない人に対しても、たまには他人のように感じてしまうこともあるんじゃないかな。


私が前から思っていた希望なんだけど、王子様がシンデレラを探し当てて、二人で豪華な馬車に乗り込んで走り去ったあと、何マイルか進んだところで彼女は彼の方を向いて、こう言うのよ。「この通りの先で私を降ろしてちょうだい、お願い。私はついにひどいいじめが続く生活から抜け出せたのよ。私は世界がどんなものなのか見てみたいの。わかってもらえる?

 たぶん王子はほっとしたんじゃないかな。彼は「誰と結婚するつもりなの?」って聞かれることにうんざりしていただろうからね。僕の予想だと、彼がしたいことっていうのは、自分の書庫に戻って、何百冊っていう本を読みふけることだろうから、やっとそれが可能になったわけだ。今まではみんながそれを邪魔し続けていただけなんだよ、「一人きりになろうなんて都合のいいこと考えてるんじゃないでしょうね」とか言われてね。


私もシンデレラみたいにあなたと踊りたかったのかもしれない。大胆なことを言わせてもらえばね。

 僕は思うんだけど:

 このやりとり自体がダンスじゃないかな? いろんな要素がダンスっぽくない? 僕たちは言葉を使って、すでに一緒に踊ってるんじゃない? 僕たちが話したり、口論したり、計画を立てたり、あるいは成り行きに任せたり、それってみんな、どこかしら創作ダンスっぽいよね。ずっとステップを踏んでる感もあるし。そして創作してない部分は、―つまり大部分は自然発生的でもあるね。フロアーに立ってから、その場で振り付けを考えながら、踊り続けるんだよ、音楽が終わるまでずっとね。


私は危険を受け入れようとしている。

 僕は危険じゃないよ。物語が危険なだけなんだ。僕たちが頭で作り上げるフィクションがね、特にそれが期待に変わる時が危険なんだ。


私はそろそろノートの外側で人生を経験しなくちゃいけない頃かな。

 でもわからない?―それってもう僕たちがしていることなんだって。


本当にごめんなさい。

 謝る必要なんてないし、もうゲームはおしまいねなんて言う必要もない。君ががっかりすると僕も悲しくなるよ。


それからマーク・ストランドについて:

我々は自分の人生の物語を読んでいる

まるで物語の中に自分がいるかのように、

あたかも自分がその物語を書いたかのように。


マーク・ストランドには特に有名な詩が三つあるけど、そのうちの一つがこれ:

草原の中で

僕は草原の中に欠落を生む存在だ


そして僕は4枚目のポストカードを取り出して書いた:


ポストカード4:大晦日のタイムズ・スクエア

草原の中で、僕は草原の中に欠落を生む存在だ。群衆の中で、僕は群衆の中に欠落を生む存在だ。夢の中で、僕は夢の中に欠落を生む存在だ。けれど僕はそんな欠落を生む存在として生きたくはない。そういうものが一切損なわれない状態のまま、僕は移ろいゆきたい。時々僕は肯定感に酔いしれるから。時々僕は言葉と存在の〈もつれ〉に驚愕するから。そして僕はその〈もつれ〉の一部でありたいと思う。「もうゲームはおしまいね」と君は言う。そこには、つっこみどころが二つあって、僕はどちらに異議を唱えたいのかわからない。―「もうおしまい」と君が言ったという事実に対してなのか、あるいは、「これはゲームだ」と君が言ったという事実に対してなのか、わからなくなる。僕たち二人の一方がノートを永久に抱え込んでしまえば、それはおしまいということだろうし、もしこのノートに意味が欠落しているのなら、これはゲームにすぎないのだろう。でも僕たちはもうすでに、ゲームなんて呼べないところまで来てしまった。


ポストカードは残り2枚になった。


ポストカード5:夜明けのエンパイア・ステート・ビルディング

僕たちは自分の人生の物語そのものだ。そして赤いノートは僕たちが物語を語るためにある。自分の人生の物語を、ありのままの真実を、あるいは可能な限り真実に近づけて語るためのものなんだ。僕はそんなノートをおしまいにしたくないし、君との関係も終わらせたくはない。だって、あんな浅はかな出会い方をして、ここまで親しくなったんだから。ささいな出来事にはけりをつけて、次の段階に進もう。でも今はまだ直接会わない方がいいと思う。会わないっていう自由もあるはずだから。代わりに言葉の逢瀬は続けよう。(次のポストカードを見て。)


最後のポストカードに〈次にノートを置いてほしい場所〉を書こうとした時、玄関のベルが鳴った。―ブーマーだ。僕は大慌てでいくつかの指示を書きなぐった。

「中にいる?」とブーマーが叫んだ。

「いないよ!」と僕は叫び返した。ノートのそれぞれのページにポストカードを1枚ずつセロハンテープで貼っていった。

「ほんとに?―中にいないの?」と、ブーマーがもう一度ノックしながら言った。

彼を電話で呼び寄せた時にはまだそのつもりはなかったのだが、今はブーマーに別の用事を頼もうと思っていた。リリーが作った雪だるまを見てみたいという気持ちも負けないくらいあったけれど、でも僕がまた彼女の大叔母さんと話し始めたら、あの家に再び足を踏み入れたら、僕はなんだかんだで結局長居することになるだろうし、それに直接会いに行くのでは、ノートの必要性がなくなってしまう。

「ブーマー、親友としてお願いがあるんだけど」と僕は言った。「僕のアポロになってくれないか?」

「でも、アポロ・シアターって黒人しか歌えないんじゃなかったっけ?」というのがブーマーの返答だった。

「宇宙船のアポロだよ。伝言係というか、使者になって、僕の代わりに行ってもらいたいところがあるんだ」

「べつに伝言係は嫌じゃないよ。リリーに関係すること?」

「そう、そのとおり」

ブーマーがほほえんだ。「やった。ボクは彼女が好き」

昨夜のティボーとの後味の悪いいざこざの後では、こんなに気持ちのいい笑顔を浮かべる男友達がいることに心が洗われる気分だった。

「なんていうか、ブーマー」

「何? ダッシュ」

「君のお陰で僕はまた人間を信頼できるようになったよ。最近思ってることがあって、人間は信頼できるって思わせてくれる人たちが周りにいること、それが何よりも、最高なんだって」

「ボクのこと?」

「そうだよ。それからソフィアや、ヨーニーや、ダヴや、そしてリリーもね」

「リリーも!」

「そう、リリーも」

僕は自分の人生の物語を書こうとしていた。大事なのは物語の筋書きじゃない。もっとずっと大事なのは登場人物の人間性なんだ。



16

(リリー)

12月29日


男っていう種属は全くわけがわからない。

ダッシュっていう子は彼のために作った雪だるまを一向に見に来ようとしない。だったら、もし誰かが私のために雪だるまを作ってくれたら見に行くけどな。は女性だからね。論理的なのよ。

ミセス・バジルが電話してきて、雪だるまが溶けちゃったって教えてくれた。何やってんのよ、ダッシュ。意味がわからないわ。女の子があなたのためだけに雪だるまを作ったっていうのに。〈レープクーヘン・スパイス・クッキー〉を雪だるまの目と鼻と口の形にしてまで作ったっていうのに。あなたは見逃した雪だるまがどんなに素敵なものだったのかさえ知らないのよ。でもミセス・バジルは、雪だるまは溶けるものなんだからそんなことを気にしても仕方ないって言った。「雪だるまが溶けちゃったら、また作ればいいのよ」だって。さすがレディーだわ。論理的。

支離滅裂なラングストンはインフルエンザから回復するとすぐに、ベニーと別れた。それには理由があって、ベニーが2週間プエルトリコにいるおばあちゃんに会いに行っちゃったから、だって。ラングストンとベニーの関係はまだ始まったばかりで、2週間の空白に耐えられるほどの固い絆はできあがっていない、というわけで話し合った結果、一旦完全に別れるということでお互いに納得したみたい。それでまたベニーが戻ってきたら、もう一度付き合おう、という約束を交わしたそうだけど、でも、もしどちらかが2週間の猶予期間に誰か素敵な人と出会ってしまったら、その人を追い求めてもお互いに口出ししないんだって。まったく私にはなにがなんだか意味不明。それって一見論理的に見えるけど、どうなのかしらね?―彼らってお互いに相応しい相手なのかしら? この件を見てもわかるように、男って馬鹿で、それでいて芝居がかってるのよね。

最もおかしな男といえば、おじいちゃんね。彼はクリスマスにフロリダまで行って、メイベルに結婚を申し込んで、断られちゃったわけ。それで、もう関係は終わったと思い込んで、ぷいっとニューヨークまでひたすら車を走らせてクリスマス当日に帰ってきたんだけど、そしたら、それからまだ4日しか経っていない12月29日、すっかり気持ちが変わったとか言って、またフロリダへ車を走らせて行っちゃった。

「メイベルとはなんとか仲直りできそうなんだ」と、おじいちゃんは朝食の席で私とラングストンに打ち明けた。「このあと数時間後にはここを発つ」まあ、おじいちゃんがメイベルとこれからも末永く内縁関係を続けていきたいというのなら、もちろん私はそういう関係を好ましく思ってないけれど、でもそれで年老いた男が幸せになるのなら、私もそういう関係に慣れていかないといけないかな。それに現実的な利点もあって、おじいちゃんが私たちの住む街から出て行ってくれれば、私は四六時中どこに行くのか聞かれなくて済む。特に今は私の周りの世界が色づき始め、〈リリーの詩〉にしたいことで溢れているから。

「どうやって仲直りするつもり?」とラングストンが聞いた。彼の顔はまだ青白く、声もかすれ、鼻もすすっていたけれど、スクランブル・エッグを二皿食べていたし、積み重なったトーストもジャムをつけてガツガツ食べていたから、具合は良くなったみたい。

「結婚しなければいかん、という風潮について、わしがどう考えるかってことだな」とおじいちゃんは言った。「その考えは時代遅れだな。メイベルとわしはお互いに専属の相手になろうって提案するつもりだ。指輪もなし、結婚式もなし、ただの...パートナーだな。わしは彼女の唯一のボーイフレンドってわけだ」

「ボーイフレンドっていえば、最近ボーイフレンドができた人がいるんだけど、おじいちゃん誰だと思う?」とラングストンが意地悪く聞いた。「リリーだよ!」

「できてない!」と私は言った、けど静かに言ったのよ、〈金切り声のリリー〉の口調ではなくね。

おじいちゃんが私の方を向いた。「お前はあと20年デートしてはいかん、リリーベア。だいいちお前の母親だって、わしはいまだにデートを許した覚えはないぞ。あいつはわしの目を盗んで、こそこそしてたみたいだがな」

ママの話題が出たことで、なんだかママに会いたくなった。痛切な気持ちだった。私はこの1週間もの凄く忙しくて、ノートのことや他にもいろんな災難に遭って、両親がいなくて寂しい気持ちを忘れていた。でも急に、今すぐ彼らに帰ってきてほしいと思った。帰ってきたら、どうしてフィジーに引っ越すことがそんなに良い考えなのか聞きたかったし、彼らの残念に日焼けした顔も見たかったし、いろんな話をして、一緒に笑って、両親とのんびり過ごしたかった。それに、もうそろそろいい加減クリスマス・プレゼントを開けたかった。

きっと彼らも、もうそろそろ私に会いたくなってる頃だろうな。きっと私に会いたくて会いたくて、寂しい想いをしてるんだろうな。でもそれは、私をクリスマスに置いてけぼりにした報いね。そして、私を世界の最果ての片隅にどうにかして連れて行こうなんてたくらむから、そんな想いをするのよ。私は満ち足りた気分でこの街に住んでるんだから。マンハッタン島という世界の中心地に相応しい、この街にね。

(でもひょっとしたら、新しい場所に住んでみるのも面白いかも。)

私の中ではっきりしていることがあって:この状況で子犬を要求することだけはゆずれない。親としての罪悪感も十分感じてるだろうし、私はこんなにも子犬を飼いたがってるって示せば、きっと飼える。そして私は単なる散歩屋から犬の所有者になって、人間としても成長するのよ。今度こそ、ペットの所有者としてうまく立ち振る舞ってみせるわ。

 メリークリスマス、リリー。

実際問題として、ウサギで妥協なんてありえない。


いとこのマークからメールを受け取った時、私はフィジーにある犬の保護施設のサイトを検索して、譲り受けるわんこちゃんを探そうとしていた。

 リリーベア:俺の同僚のマルクがさ、ニューヨーク北部の郊外の実家に帰らないといけなくなったんだ。彼の母親がエッグノッグの飲み過ぎで倒れたとかでね。それで犬の散歩屋の君に相談なんだけど、今って新規のお客はとってる? ボリスっていう彼の犬の世話をお願いしたいんだ。1日に2度、エサをあげて散歩に行ってほしいんだよ。ほんの1日か2日なんだけど。


いいわよ、と私は返信した。たしかに私は心のどこかで、マークのメールにダッシュの目撃情報とかが書かれていることを期待していた。でも、新しい犬を散歩させるのも十分気晴らしになるわね。


 本屋に寄れる? 彼の鍵を取りに来てほしいんだ。

 すぐ行くわ。


ストランド書店はいつも通りで、忙しなく動き回る人と立ち読みしている人が混在していた。私が店に着いた時にはマークは受付にいなかった。それで私は少し店内を見て回ることにした。まず最初に動物関連のコーナーに行った。でも私はすでにそこの本はほとんど読み尽くしていた。まあ、そんなに何度も子犬の写真を繰り返し見ていたら、写真を見ながら可愛いって言ってるだけじゃ物足りなくなって、実際に飼いたくなるわね。それから店内をあてもなくぶらぶら歩いていたら、いつの間にか地下のフロアに来ていた。店内で最も深い洞窟の底に潜り込んでしまったようで、壁に掲げられたプレートには、「セックスと性関連の本は左の棚から」と書いてある。その表示を見て、『ゲイのセックスの喜び(第三版)』のことを思い出した。そしたら恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを感じ、それを断ち切るように、J.D.サリンジャーのことを思い浮かべた。私は階段を駆け上がり地上階に戻ると、小説のコーナーへ向かった。そこにいた男の子を見て、私は目を丸くしてしまった。彼は『フラニーとゾーイー』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-』の間に、なじみのある赤いノートを差し込んでいたのだ。

「ブーマー?」と私は聞いた。

彼は驚いた表情を浮かべ、なんだか万引きでも見つかったかのような気まずい顔をした。ブーマーは差し込んだばかりの赤いノートを無造作に棚から引っ張り出した。その反動で『ナイン・ストーリーズ』のハードカバー版が何冊か床に音を立てて転がり落ちた。ブーマーは赤いノートを、まるで聖書でも守るように両腕でしっかりと胸に抱えた。

「リリー!ここでキミに会えるなんて思わなかった。つまり、なんていうか、キミに会いたかったけど、でも会えなくて、会えないことに慣れてきたと思ったら、こうしてキミが現れて、会えるなんて思ってなかったから、―」

私は両手を広げて差し出した。「そのノートって私宛てだよね?」と私は聞いた。私はブーマーからノートをひったくって、今すぐにでもそれを読みたかったけれど、なるべく冷静に、と心掛けながら話した。ああ、そうだわ、今思い出した、そんなものもあったわね。まあ、気が向いたら読みましょうかね、いつになるかわからないけど。私今すごーく忙しいから、ダッシュのことなんて考えてる暇ないし、ノートとかそんなものに構ってられないのよ。

「そっか!」とブーマーは言ったきり、一向にノートを渡す素振りを見せない。

「それもらってもいい?」と私は聞いた。

「だめ!」

「どうしてだめなの?」

「だって!キミは本棚に挟まってるノートを見つけなくちゃいけないんだ!ボクがここにいない時に!」

このノートのやりとりにそんなルールがあったなんて知らなかった。「じゃあ、こうしましょう。私は一旦ここから立ち去るから、あなたはその棚にもう一度ノートを差し込んでちょうだい。それであなたがここからいなくなったら、今度は私が戻ってきて、そのノートを見つけるから。それならいい?」

「オッケー!」




藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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