『ダッシュとリリーの冒険の書』5
『Dash and Lily's Book of Dares』 by デイヴィッド・レヴィサン、レイチェル・コーン 訳 藍(2017年12月02日~2018年09月01日)
私は振り向いて、それを実行に移そうとした。するとブーマーが私の背中に呼びかけた。
「リリー!」
「はい?」
「〈マックスブレナー〉のこと言い忘れた!そこの道の向こうにあるでしょ!」
ブーマーはストランド書店から1ブロックばかり歩いたところにあるレストランの名前を口にした。『チャーリーとチョコレート工場』を彷彿とさせる店内で、メニューもチョコレートを中心に据えた奇抜で華やかなお店である。人気の観光スポットなのはわかるけど、良くも悪くも、マダム・タッソー館と大差ない感じがする。
「チョコレート・ピザを一緒に食べたいの?」と私はブーマーに聞いた。
「うん!」
「じゃあ、10分後にそこで会いましょう」と私は言いながら離れていった。
「ボクが見てない時を見計らってノートを取りに来てね!」とブーマーが言った。ダッシュみたいな一見すると根暗な人と、ブーマーみたいな熱しやすい極めて刺激的な人が親友だというのが、私には謎であり、同時に興味深かった。ダッシュがブーマーの人柄の独特な価値をわかっている証拠かもしれないな、とも思った。
「見てない時ね」と私は叫び返した。
私はいとこのマークも誘って、〈マックスブレナー〉に行った。もう成人しているマークを連れて行けば、お勘定は彼が払ってくれるだろうと思ったから。もっと言えば、後日彼がおじいちゃんにレシートを見せて代金を請求するだろうことも計算済み。
ブーマーと私はチョコレート・ピザを注文した。―温かくて薄いピザの形をしたスイーツで、「ソース」として、とろとろに溶かしたチョコレートに包まれている。その上に溶かしたマシュマロと、ヘーゼルナッツのキャンディーチップがふりかかっていて、それが普通のピザみたいに三角形に切り分けてある。マークは〈チョコレート注射器〉を注文した。それは名前から受ける印象通りのスイーツで、―プラスチックの注射器にチョコレートが詰まっていて、口の中に直接注入して食べることもできる。
「ボクたちのピザを分けてあげたのに!」と、ブーマーが〈チョコレート注射器〉を注文したマークに言った。「みんなで一つのスイーツを分かち合ったほうが、一緒に糖分を摂取したなっていう楽しい思い出になるのに」
「ありがとう。でも今炭水化物を控えてるんだ」とマークは言った。「俺は一人でチョコレートを口に撃ち込んでるよ。ピザ生地は要らない。これ以上腰回りに脂肪がつくのはごめんだね」ウエイトレスが行ってしまうと、マークはブーマーの方に向き直って、真剣な表情で言った。「さて、俺たちに全部話してもらおうか、お前のいかれた友達のダッシュについて」
「ダッシュはいかれてないよ!凄くまともだよ、ほんとに!」
「何か悪さしたことない?」とマークが聞いた。
「ないよ!深紅色の非常事態を除けば」
「深紅色の何?」と、マークと私は同時に言った。
ブーマーは携帯電話を取り出すと、画面に〈ワシントン・スクエアのママたち〉というウェブサイトを表示させた。
マークと私はそこに投稿されていた「深紅色レベルの非常事態発生!」という記事をざっと読んでから、載っていた写真をじっくりと見た。
「彼はヨーグルトなんか食べるのか?」とマークが聞いた。「10代の男のくせに?」
「ダッシュは乳製品には目がないよ!」とブーマーは言った。「ヨーグルトも大好きだし、クリーム入りの食べ物なら何でも好き。特にチーズ入りスパニッシュオムレツなんて彼の大好物だよ」
マークは私の方を向いて、慰めるように言った。「リリー、君はかわいそうだけど、これでダッシュはまともじゃないってわかっただろ?」
「ダッシュは絶対まともだよ!」とブーマーが宣言した。「彼にはソフィアっていう凄く綺麗な彼女がいたし、たぶん今もまだソフィアへの気持ちがくすぶってるんじゃないかな。それに中1の時のことなんだけど、〈ボトル回しゲーム〉をやって、ボクの番になって、ボクがボトルを回したらダッシュを指しちゃったんだけど、でもダッシュはボクに絶対キスさせなかったよ」
「何の証明にもなってない」とマークがつぶやいた。
ソフィア? ソフィア?
私は「ちょっとトイレ」と言って席を立った。
今はまだ直接会わない方がいいと思う。会わないっていう自由もあるはずだから。
そして最後のポストカードを見たんだけど、ダッシュは私をからかっているとしか思えなかった。
ポストカード6:メトロポリタン美術館
そこで過去と出会った(met)。そしてMEET(会う)の過去形/mēt/ 1 a:何かの存在と出くわす:FIND(見つける)b:特定の時間、特定の場所に集合する。c:何かと遭遇する、誰かとばったり会う:JOIN(結び付く)d:目の前の何かを認識するに至る...
「あなた大丈夫? リリー?」と、トイレの隣の洗面台から声がした。ちょうどダッシュが書いた不可解なメッセージ(ほらね、男って全く意味不明でしょ)を読み終えたところだった。
赤いノートを閉じて顔を上げると、鏡にアリス・ギャンブルが映っていた。同じ学校の女の子で、サッカークラブのチームメイトでもある。
「あら、アリス、こんにちは」と私は言った。「こんなところで何やってるの?」そう聞きながらも、どうせ彼女はすぐにぷいっと振り向いて、鏡の前に突っ立っている私を残したまま行ってしまうのだろうと思っていた。学校で私は彼女が属している「いけてるグループ」には入っていないから、彼女が私と立ち話するとは思えなかった。しかし今は休暇中でここは学校ではないからなのか、彼女は立ち去らなかった。
「私、そこの角を曲がったところに住んでるのよ」とアリスが言った。「私には二人の妹がいて、彼女たちは双子なんだけどね、彼女たちがこの店を凄く気に入ってるの。それで、おじいちゃんとおばあちゃんがこの街に来るとね、いつもみんなでここに来るのよ。仕方ないから私もついてきたの」
「男子って意味わかんないよね」と私は彼女に言ってみた。
「たしかに!」とアリスは言った。妹や祖父母の話より興味のある話題なのか、顔をほころばせている。彼女は赤いノートをちらっと見ると、目を輝かせて聞いてきた。「誰か気になる男子でもいるの?」
「もうわからなくなっちゃった!」私は本当にわからなかった。最後のポストカードに書かれたメッセージは「また会おう」という意味なのか、それとも「ノートを通してやりとりしよう」と言っているのか理解できなかったし、私は自分がどうしてこんなに気にしているのかもわからなくなっていた。特に私以外の女の子、ソフィアっていう子が彼の頭の中にいるのかどうかが気がかりだった。
「じゃあさ、明日コーヒーでも飲みながらゆっくり話そうよ。どういう状況なのか聞かせて、そして一緒に対策を考えよ、ね?」とアリスが提案した。
「そんなにおじいちゃんたちと一緒にいたくないの?」アリスが私とカフェで男子について長々と続くガールズトークをしたがっているのはなんだか不思議だったので、彼女は家にいたくない切実な問題を抱えているのだろうと思った。
アリスは言った。「うちのおじいちゃんたちはとってもいい人たちなんだけどね、うちのアパートメントって狭くてさ、休日にたくさん人が来ると息が詰まるのよ。それで外に出掛けたくなるの。でもよかったわ、こうして、あなたと仲良くなれて」
「それ本気で言ってる?」と私は聞いた。ひょっとしたら、今までも私にこういう誘いって来ていたのかもしれない。私が〈金切り声のリリー〉のマントをまとって、そういうのを寄せ付けないオーラを放っていて、ただ気づかなかっただけかも。
「本気よ、よろしくね!」とアリスは言った。
「こちらこそ、よろしくね!」と私も言った。
私たちは明日カフェで会う約束をしたのよ。
誰がダッシュなんか必要とするっていうの?
私にはもうダッシュなんて、要らない。
テーブルに戻ると、いとこのマークが大きなプラスチックの注射器から直接自分の口にチョコレートを注入しているところだった。「美味い!」と、彼は口の中でクチャクチャ音を立てながら叫んだ。
「でもこの店のチョコレートって、たぶんフェアトレードのカカオを使ってないよ!」と、ブーマーが講釈した。「外国で子供が安い賃金で働かせられてるんだよ」
「お前の意見なんか聞いたか?」とマークが言った。
「ボクは思ったこと言うよ!」とブーマーは言い返した。「キミに聞かれなくてもね!」
私にはブーマーに意見を聞きたいことがあった。「私が作った〈ひねくれ君人形〉のことなんだけど、あれダッシュは気に入った?」
「あんまりかな!なんかミス・ピギーが仲良しの動物とセックスして生まれた子供みたいだって言ってた」
「おい!俺のまぶたの」とマークが言った。けれど間違って目にチョコレートを撃ち込んだわけではなかった。「まぶたの裏で思い浮かべるだけで気持ち悪いよ。10代の考えることじゃないだろ、そんな変態みたいなこと」マークはチョコレートの注射器をテーブルに置いた。「お前の発言で食欲が失せたよ、ブーマー」
「ママも同じこといっつも言うよ!」とブーマーは言って、私の方を向いた。「キミの親戚もボクの家族と同じなんだね!」
「それはどうかな」とマークが言った。
かわいそうな私の〈ひねくれ君〉。私はフェルトでできた小さな恋人を取り戻そうと心に誓った。ダッシュがしてくれなかったのなら、私が〈ひねくれ君〉に居心地の良いおうちを用意してあげるわ。
「そのダッシュってやつ」とマークは続けた。「悪いけど、リリー、俺はあいつが好きじゃない」
「彼のこと知ってるの?」とブーマーが聞いた。
「知ってるよ、好き嫌いを判断するには十分なくらいね」とマークは答えた。
「ダッシュはいいやつだよ、ほんとに」とブーマーが語り出した。「ダッシュのママは彼のことを凝り性だって言うけど、まあそういう面もあることはあるけど、でもほんとに、彼はいい人だよ。いい例がある!彼の両親は離婚しちゃったんだ。絶交して、もうお互いに口も利かない関係になってさ。考えてみて、それって普通のことじゃないよね? たぶん彼は話しちゃだめって言うと思うけど、彼は子供の時、両親の親権争いに巻き込まれて大変だったんだ。父親が母親に嫌がらせをするためだけに独占的な親権を主張してさ、ダッシュは何度も弁護士とか裁判官とか社会福祉士とかと話をするために、あちこちに行かなくちゃならなかったんだ。それって酷だよね。もしそんなごたごたに巻き込まれたら、普通あんなにいい人間にはなれない。でも彼は必死で友好的な性格になろうとした。それって凄くかっこいいことだよね? ダッシュはなんでも自分で解決するのが当たり前っていう少年になって、ずっと一人でやってきたんだよ!彼は友達に対して忠誠心があるんだ。彼くらい忠誠心のある友達は普通持てない。彼の信頼を得るのは結構大変だけど、でも一旦彼の信頼を勝ち取ったら、彼は友達のために何でもしてくれる。どんなことでも彼に頼ることができる。時々彼は一匹狼っぽく振る舞うこともあるけど、でもそれは彼が虎視眈々と獲物を狙っている悪党ってわけじゃなくて、彼は一人の世界にこもって自分と対話するのが好きなんだ。そういう居心地の良い時間が彼には必要なんだよ。それって何も悪いことじゃないと思うけどね」
私はさっきまで〈ひねくれ君〉のことで頭にきていたというのに、ダッシュをかばうブーマーの熱のこもった弁護を聞いていたら、ほろっと心を動かされてしまった。でもマークは肩をすくめて、「ちぇっ」と言った。
私はマークに聞いた。「あなたが彼を嫌ってるのって、最初からいけ好かないやつだって決めつけてるか、あるいはおじいちゃんと同じで、あなたも私に新しい友達を作ってほしくないのよ、男の子の友達を、そうでしょ?」
「ボクもリリーの新しい友達だよ、男子だし」とブーマーが冷静に言った。「でもマークはボクのこと好きだよね?」
「ちぇっ」とマークはもう一度言った。答えは明らかだった。つまり、ダッシュにしろブーマーにしろ基準は同じで、マークは私が興味を持ちそうな人は嫌いで、私が好きにならなそうな人ならべつに構わないのだ。
頻繫に散歩が必要な〈ボリス〉という犬は、頻繫に全力疾走せずにはいられない馬のポニーのように大きな犬だった。ボリスは頭の位置が私の腰よりも上に来る「ブルマスティフ」という大型犬の若いオスで、もの凄い力で文字通り私を引っ張りながら、ワシントン・スクエア公園を歩いていた。私はボリスに引っ張られながらも、なんとか公園に生えている木に私が作ったポスターを貼った。そのポスターの真ん中には「深紅色レベルの非常事態宣言」の写真を載せて、このようなメッセージも書いた:WANTED(お尋ね者)―この10代の少年は、変質者ではなく、不良少年でもなく、ただのヨーグルト好きの少年です。WANTED(探してください)―彼に会えばそれがわかります。
しかし、そのポスターを貼るまでもなかった。
それを貼ってから5分もしないうちに、ボリスが吠え出したからそちらを見たら、10代の少年が私に近づいてくるではないか。私はちょうど、今までに見た中で一番大きな犬の糞(ふん)をスコップで掬っているところだった。
「リリー?」
私は特大の糞をビニール袋に詰めてから顔を上げた。
もちろん、
その少年はダッシュだった。
こんなに絶妙なタイミングで私の前に現れる人が他にいるかしら? 初めて会った時は私が酔っぱらってるところだったし、今度は、今にも戦闘モードで飛びかかってきそうなポニーみたいな大型犬の糞を片付けてるところ。
まったく、
これだから私はボーイフレンドができないのよね。
「こんにちは」と私は言った。なるべくさりげなく、と声の出し方に気を遣ったつもりだったんだけど、実際に飛び出した私の声はうわずってかなり甲高く響き、〈金切り声のリリー〉っぽくなってしまった。
「ここで何やってるの?」とダッシュが聞いてきた。彼は私とボリスから1メートル近く距離を取っている。「なんでそんなにたくさん鍵を持ってるの?」彼は私のハンドバッグに留めてあった鍵用の大きなリングを指差した。そのリングに犬の散歩のお客さんから預かった鍵をかけてぶら下げてるってわけ。「集合住宅の管理人さんでもやってるの?」
「代行で犬の散歩をしてるのよ!」と、私はボリスの吠える声に負けじと叫んだ。
「なるほど!」と、ダッシュも叫び返した。「でも犬が君の散歩をしてるみたいだけど!」
ボリスが急に後ろに向かって走り出し、彼から遠ざかるように私を引っ張っていった。ダッシュは私たちに駆け寄ってきたものの、―すぐそばまでは近寄ってこなかった。この余興の一座には加わりたくないみたいだった。
「あなたはここで何やってるの?」と私はダッシュに聞いた。
「ヨーグルトを切らしちゃって」とダッシュは言った。「もっと買ってこようと思って」
「ついでにあなたの名誉も取り戻そうってわけ?」
「まいったな、君も深紅色の非常事態のこと知ってるんだ?」
「知らないわけないじゃない」と私は言った。
彼はさっき私が貼ったポスターをまだ見ていないようだった。あれが彼の目に触れる前に、なんとかはがせないものかしら?
私はボリスのリードをグイッと引っ張って進行方向を変えた。ワシントン・スクエアのアーチを離れ、公園の中をダウンタウン方向へ進もうと思った。不思議なことに進行方向を変えた瞬間に、進路に何か原因があるのか、ボリスはおとなしくなった。全速力で走り出そうとする荒々しい態度を一変させ、ゆるやかな足取りに切り替えてくれた。
こういう時、一般的な男子ならどういう行動をとるか私なりに考えてみた。そして、逃げるだろうなと思った。ダッシュに特化して考えてみても、どうせ彼は私とは逆方向に駆け出し、そのままいなくなってしまうのだろう、と。
予想に反して、彼は私のあとについてきた。「どこ行くの?」と彼が聞いてきた。
「知らないわよ」
「一緒に行ってもいい?」
それ本気?
私は言った。「べつに構わないけど、どこに行ったらいいと思う?」
「とりあえずぶらぶらして、成り行きに任せよう」とダッシュは言った。
17
-ダッシュ-
12月29日
かなり気まずい雰囲気だった。これから何かが起こりそうな予感と、どうせ何も起こらないだろうという気持ちの間で二人とも揺らいでいた。
「で、どっちに行ったらいいかな?」とリリーが聞いてきた。
「さあ、―君はどっちに行きたいの?」
「どっちでも」
「僕が決めていいの?」
大概の人がそうだと思うけど、彼女もしらふの方が格段に魅力的だった。今の彼女からは愛嬌が感じられた。―愛嬌といっても間の抜けた感じではなく、賢そうな愛嬌があった。
「〈ハイライン〉でも行こうか」と僕は言った。
「ボリスがいるからだめよ」
ああ、ボリスがいたんだ。ボリスは僕らの散歩に付き合いながら、しびれを切らしているようだった。
「犬の散歩をする時の決まったルートってあるの?」と僕は聞いてみた。
「あるけど、そのルートをたどる必要ないわ」
行き詰まり。完全に手詰まりの状態にはまり込んでしまった。彼女はちらっと僕の顔色をうかがった。僕もちらちらと彼女を見ていた。ちらちら、ちらちら、お互いに視線を投げ掛け合っていた。
ついに、決断を下した者がいた。
でもそれは僕でもリリーでもなかった。
突然、人間には聴こえないオーケストラがチャイコフスキーの序曲『1812年』を演奏し始めたのか、そしてそれを合図にワシントン・スクエア公園のリスたちが一斉に行進を始め、さらにリスたちが体に香水でも塗ってそれをボリスが嗅ぎ付けのか、挑発の発信元は不明だが、とにかく突然ボリスが弾丸のように駆け出したのだ。リリーはバランスを崩して、雪がシャーベット状に解けている路面に足を取られ、ひっくり返ってしまった。糞の入ったビニール袋が宙を飛び、リリーは転びながら、「くそったれ!」と、けたたましい声を上げた。―その汚い言葉を実際この耳で聞くのは初めてだったから、なんだか可笑しみがこみ上げてきた。
彼女は優雅さの欠片もなく転んだのだが、怪我はしなかった。糞の入った袋が上から降ってきて、あやうく彼女のこめかみに当たり跳ね上がるところを、彼女はすんでのところで身をひるがえしてかわした。その拍子に彼女はボリスのリードを手放さなければならず、とっさに僕がそのリードに手を伸ばし、つかんだ。それが運の尽きだった。僕は体ごと持っていかれる衝撃を感じ、ウォータースキーさながらに舗道を滑っていった。
「犬を止めて!」とリリーが叫んだ。まるでどこかにボタンが付いていて、僕がそれを押せば犬の電源が落ちて止まるみたいな言い方だった。ボタンを押す代わりに、僕は自分の体を重しにして突進する犬を止めようとしたが、無駄だった。
ボリスの視線の先を見ると、ターゲットがいた。それはママたちの一団で、ベビーカーを押す母親や子連れの母親がたむろしていた。ボリスはそこを目掛けて突っ走っていった。その一団の中でも最も無防備な少年にボリスが照準を絞ったのがわかり、僕はぞっとした。―その少年は片目に眼帯をしていて、オート麦の細長いパンをムシャムシャと食べていた。
「よせ、ボリス。やめろ!」と僕は叫んだ。
だがボリスは僕の体重も指図もお構いなしに我が道を進んだ。その少年は犬が迫ってくるのを見て、キャーと悲鳴を上げた。僕の耳を貫いたその悲鳴は、はっきり言って少年には似つかわしくない、彼の半分くらいの歳の女の子が出すような金切り声だった。彼の母親が彼を危険地帯から避難させようとしたが間に合わず、ボリスは猛スピードで彼にぶつかり、彼は跳ね飛ばされた。僕は無様に引きずられていた。
「ほんとごめん」と、僕はボリスを静止させようとリードを引っ張りながら言った。公衆の面前でアメリカンフットボールのラインバッカーと綱引きをしているような感覚だった。
「こいつだよ!」と、その少年がキンキン声で叫んだ。「こいつに目をやられたんだ!」
「間違いない?」と母親と思しき女性が聞いた。
その少年は眼帯を取って僕を見てきたのだが、露わになったのは痛めているとは到底思えない、ぱっちりした目だった。
「こいつだよ。絶対」と彼は言った。
別の女性が近寄ってきた。手には「WANTED」と書かれ、僕の顔写真が載っているポスターらしき紙を持っている。
「深紅色レベルの非常事態よ!」と、その女性が辺りにとどろかせるように叫んだ。「黄色レベルから格上げよ!」
近くで赤ん坊をベビーカーから降ろそうとしていた別の母親が、一旦降ろすのをやめ、口に指をあてて口笛を吹き鳴らした。―短く4回、口笛の音が鳴り響いた。想像するに「深紅色レベルは4回」とママたちの間で決まっているのだろう。
しかし口笛を吹き鳴らしたのは賢明な判断ではなかった。ボリスがその音に反応し、そちらに振り向き、突撃したのだ。
その女性はすばやく横にジャンプしてよけたが、ベビーカーはそこに置かれたままだった。僕は自分の体を地面になげうって、全体重をかけた。が、ボリスは混乱したまま、ベビーカーに突っ込んでいって、中にいた赤ん坊が弾け飛んだ。スローモーションだった。赤ん坊が空中を飛んでいた。あどけない顔に不穏な表情が浮かび上がった。
目を閉じてしまいたかった。今さら手を伸ばしても赤ん坊には届かない。僕にできることは何もなかった。そこにいた全員が金縛りにあったかのように静止していた。ボリスさえも動きを止めて、赤ん坊の行方を見ていた。
視界の片隅に、動く者があった。一筋の叫び声も聞こえた。それから、とびっきり華麗な光景が繰り広げられた。リリーが空中を飛んでいた。髪をなびかせ、両手を伸ばし、なりふり構わず、ただ自分のすべきことに集中していた。助走をつけた跳躍。これこそまさに、正真正銘の跳躍だった。彼女の表情に動揺の色はない。やり遂げようという意志しかなかった。彼女は赤ん坊の下に体を滑り込ませ、その子をキャッチしたのだ。彼女の腕の中に吸い込まれた赤ん坊は、うめき声を上げて泣き出した。
「ああ、神様」と僕はつぶやいた。こんなに呆然と何かを見守ったのは初めての経験だった。
周りから割れんばかりの拍手喝采が沸き起こるのを待った。けれど、リリーが起き上がり、赤ん坊を抱えたまま数歩進んだところで、僕の後ろにいた母親が叫んだ。「赤ちゃん泥棒よ!彼女を捕まえて!」
ママたちも通りすがりの人たちも一斉に携帯電話を取り出した。輪になって、深紅色の非常事態をメールで拡散する人や、警察に電話する人の役割分担を話し合っているママたちもいた。一方、リリーに目を向けると、彼女はまだ自分の成し遂げた偉業の余韻に浸っていて、周りの騒ぎには気づいていないようだった。彼女は赤ん坊をしっかり抱え、トラウマになりそうな飛行を経験した赤ん坊を落ち着かせようと、あやしていた。
僕は地面から起き上がろうとしたのだが、突然背中にもの凄い重力が加わった。
「あなたは逃がさないわよ」と、一人の母親が僕の上にまたがって、お尻で僕を押さえつけながら言った。「これは市民による現行犯逮捕だからね」
さらに二人の母親と眼帯をした少年が乗っかってきた。僕はボリスのリードを手放しそうになったけれど、幸いにも、ボリスはもう今日は十分楽しんだのか、すでに興奮は収まっていて、今は誰にともなく何かを命令するように、ただ吠えていた。
「警察が来たぞ!」と誰かが叫んだ。
赤ん坊の母親がリリーに駆け寄ったが、リリーはその人が赤ん坊の母親だとは思っていないのか、「ちょっと待って」と言って、赤ん坊を泣き止ませようとあやし続けた。その母親はリリーにお礼を言っているように僕には思えたのだが、―次の瞬間には、何人かのママたちが飛びつくようにリリーを取り囲み、彼女の動きを封じ込めてしまった。
「ニュース番組の『デイトライン』で見たことあるわ」と、威勢のいいママたちの一人が言っていた。「相手の注意をそらしておいて、赤ちゃんを盗むのよ。白昼堂々とね!」
「そんなばかな!」と僕は叫んだ。眼帯少年が僕の尾てい骨の上で飛び跳ね出した。
二人の警官が到着した。警官はすぐにママたちに取り囲まれ、あることないこと、いろんな話を聞かされていた。真相は遥か彼方に追いやられてしまった。リリーは赤ん坊を引き渡しながら混乱しているように見えた。―彼女は正しいことをしなかったっけ? 警官が彼女に僕は知り合いなのかと聞いた。彼女はもちろん知ってると答えた。
「ほら、やっぱり!」と、ママたちの一人が得意そうに言った。「共犯者よ!」
地面は冷たく、解けた雪でぬかるんでいた。僕のどこも悪くない内臓のいくつかが、ママたちの重みに耐えきれず破裂しそうだった。この状態から抜け出すために、やってもいない罪を白状しそうだった。
僕たちは逮捕されるのか、されないのか、はっきりしなかった。
「とりあえず一緒に来て」と警官の一人が言った。嫌です、断りますと言うのは適切な答えだとは思えなかった。
手錠はかけられなかったけれど、パトカーまで連行され、僕たちはボリスと一緒に後部座席に押し込まれた。パトカーの中でやっと、(外ではママたちが復讐をけしかけ、その中心で、宙を舞った赤ん坊の母親が懸命にその子の無事を確かめていたから、)やっと僕は彼女と言葉を交わす機会を与えられた。
「ナイスキャッチ」と僕は彼女に言った。
「ありがとう」と彼女は言ったけれど、ショックを抱え込んだ表情で窓の外を見つめていた。
「華麗だった。本当に。今までに見た中で最も華麗なものの一つだったよ」
彼女が僕の顔をまじまじと見た。見つめ合うのは初めてのような気がした。息が止まったかのように僕たちはしばし見つめ合っていた。胸の鼓動が高鳴った。パトカーが公園から走り出しサイレンを鳴らしたが、胸の高鳴りはサイレンのせいではなかった。
「私たちがどこへ向かってるのかわかるよね」と彼女が言った。
「運命って奇妙な筋書きを考えるものだね」と僕は頷きながら言った。
リリーにはニューヨーク市の五つの区すべてに親戚がいたけれど、残念ながら警察関係者は一人もいなかった。
彼女は僕に聞こえる声で親戚の名前を一人ずつ挙げていって、この窮地から僕らを救い出してくれそうな人を割り出そうとした。
「マレイおじさんは捕まって起訴されちゃったから、私たちが必要としてる人とは真逆ね。大叔母さんのミセス・バジルは一時期ニューヨークの地区検察局の誰かと付き合ってたみたいだけど...でも、いい別れ方をしたとは思えないわ。私のいとこの中に一人、CIAに入った人がいるんだけど、具体的に誰なのかは言っちゃいけないことになってるのよ。言えないのってほんとイライラする!」
ありがたいことに、僕たちは独房に閉じ込められることはなく、取調室みたいな部屋に連れて行かれた。ただ、誰も僕らを取り調べようとはしなかった。もしかしたら鏡の向こうから僕らを観察していて、僕ら二人が何か自供めいた会話をするのを待っているのかもしれない。
窮地に陥っているにもかかわらず、リリーがこの状況を好意的に受け止めていることに僕は驚いた。彼女はちっちゃなことにこだわる臆病な小動物とはかけ離れた女の子だった。―逆に僕の方が身柄を拘束されたことで、ざわざわと胸騒ぎがして落ち着かなかった。僕らは二人とも身柄を引き取りに来てくれる両親が現在この街にいなかったのだが、その事実に対して警察官は誰一人として驚いていないようだった。結局リリーは彼女の兄に電話し、僕はブーマーに電話した。その時たまたまヨーニーとダヴもブーマーと一緒にいた。
「どのニュースにも出てるよ!」とブーマーが教えてくれた。「キミたちのことをヒーローだって言う人もいるし、犯罪者呼ばわりする人もいる。動画もネットに出回ってるし、6時のニュースでもキミたちのことが取り上げられるんじゃないかな」
僕は自分の目で事の成り行きを見たわけではなかったので、そんなことを言われても実感が湧かなかった。
リリーと僕は黙秘権があるとか弁護士を付けられるとか、そういうことを何も読み聞かせられてはいなかったから、たぶんまだ何かの罪で起訴されたわけではないのだろうと思っていた。
一方、ボリスはお腹を空かせていた。
「わかった、わかった」とリリーは、愚痴をこぼすようにうなっているボリスをなだめた。「あなたの飼い主が今インターネットを使える環境にいないといいんだけどね」
僕は何か気持ちが楽になるような話題はないものかとあれこれ考えた。もしかして君の名前って花の名前から取ったの? 犬の散歩の代行ってどのくらいやってるの? 警官の誰も僕たちに向かって警棒を振りかざさなかったから、ほっとしなかった?
「あなたって意外と無口なのね」と彼女は言った。僕たちは取調室のテーブルを挟んで向き合って座っていた。彼女は上着のポケットから赤いノートを取り出した。「ノートにだったら思ってること書ける? 書き終わったら見せて」
「ペン持ってる?」と僕は聞いた。
彼女は首を振った。「バッグの中だわ。バッグは警察官に取られちゃった」
「じゃあ、口頭で話すしかないね」と僕は言った。
「黙秘権を行使するっていう手もあるわ」
「こういうところに来たのって初めてだよね?」と僕は聞いた。
リリーは頷いた。「あなたも?」
「一度母親が父親を引き取りに行かなくちゃならなくて、家には僕の面倒をみる人が誰もいなかったから僕もついていったことがある。7歳か8歳だった。最初母親がちょっとした事故だって言ってたから、父親はどこかトイレがない場所でおしっこをもらしちゃったんだろうって僕は思ってた。あとで『風紀を乱す迷惑行為をした』って聞かされた。―起訴はされなかったから過去の新聞を見ても載ってないし、詳細はわからない」
「大変だったのね」とリリーは言った。
「まあね。でも当時はそういうことが当たり前に思えてた。両親はそのすぐ後に離婚しちゃったし」
ボリスが吠え出した。
「ボリスも離婚なんて嫌いだってさ」と僕は代弁した。
「ボリスのおやつもバッグの中なのよ」とリリーがため息をついた。
1分か2分くらい、彼女は目を閉じていた。ただそこに座って、一切合切を沖に流して頭を空っぽにして、存在を消そうとしているようだった。僕の存在も消えてしまっても構わないと思った。彼女が休息を必要としているのなら、僕はこころよくそれを彼女に差し出そう、と。
「ほら、ボリス」と僕は言って、野獣のような犬と仲良くなろうとした。ボリスはおずおずと僕を見ると、そっぽを向いて床を舐め始めた。
「私はあなたに会うのが不安だったんだと思う」と、リリーが長い沈黙を破って口を開いた。目はまだ閉じたままだった。
「僕も同じようなものだよ」僕は彼女を安心させようとした。「僕は自分が書いた言葉に見合うような生き方をしていないって気づいたんだ。もともと君は僕の言葉を通して僕のことを知ったからね、君をがっかりさせちゃうことが、すごーくたくさんある」
彼女は目を開いた。「そんなことないわ。初めて会った時だって―」
「―君は本当の君じゃなかったからね。君はあんな感じの子だって僕に思われたと思った?」
「思ったわ。でもあの時の私は我を忘れていて、たぶん誰か別の人間が私の体に乗り移っていて、なかなか彼女を追い出せなかった」
「あの時の彼女より今の君、つまり犬の散歩屋で、赤ちゃんキャッチャーで、正直者のリリーのほうが僕は好きだよ」と僕は言った。「あくまでも僕の価値判断によるとね」
そう言って、この表現は新たな疑問を呼び起こすことに気が付いた。いったい価値判断って何だろう?
「あの時のもう一人のリリーが私たちを刑務所行きにしたってことになるのかな」とリリーが指摘した。
「そういえば、君は危険を望んでたんだよね? そして実際こうして、ボリスが僕らを刑務所という危険地帯に連れてきた。あるいは僕らを刑務所に送り込んだのは赤いノートかもしれない。っていうか、赤いノートで誰かと出会おうなんて凄いアイデアだね」
「あれは兄が考えたのよ」とリリーはあっさり言った。「ごめんね」
「でも、ずっとノートを書いてたのは君だろ?」
リリーは頷いた。「それがどれだけ価値のあることなのかわからないけど」
僕は彼女の真横まで自分の椅子を引っ張っていって、取調室のテーブルに向かって二人並ぶ形で座り直した。
「それは間違いなく価値があるよ」と僕は言った。「大ありだよ。僕たちはお互いのことをまだよくわかってないからね、そうでしょ? 実を言うと、―僕たちはずっとノートをやり取りする関係でいたほうがいいって思ってたんだ。90歳になるまでずっとページを埋めていくわけだよ。でもそれって明らかに、最初のノートの趣旨と違ってきちゃうよね。あまのじゃくみたいなことを考えて、僕はいったい何がしたいんだろう?」
リリーが顔を赤らめて、一人二役を演じ始めた。「『それで君は最初のデートで何をしたのかな? リリー』『えーとね、警察署まで行って、プラスチックのカップで水を2杯飲んだわ』『なんてロマンチックなデートなんだ』『そうね、たしかにロマンチックだったわ』」
「『じゃあ、2回目のデートは何したの?』」と僕もあとに続いた。「『えっとね、銀行強盗でもしようかって話してたんだけど、結局普通の銀行はやめて、精子バンクを襲うことにしたんだ。でも待合室にいたママになる予定の人たちに絡まれちゃってさ、なんかガミガミ怒られちゃって、それで僕らは警察署に逆戻りだよ』『ワクワクしちゃう展開ね』『まあ、たしかにワクワクしたね。こういうことって続くからさ、僕がデートを思い出そうとする時は逮捕記録を調べればいいってわけ』」
「『彼女のどんなところに惹かれたの?』」と彼女が聞いた。
「『えっとね』」と、僕は架空の質問者に向かって答えた。「『まず挙げなければならないのは、彼女の赤ん坊のキャッチの仕方だね。あれは見事だったよ、本当に。で、君はどうなんだい? どうしてこの男は釣り上げる価値があるわって思ったのかな?』」
「『私はリードを絶対に手放さない男が大好きなの、たとえそれで破滅へと引きずり込まれてもね』」
「うまい!」と僕は言った。「お見事!」
僕はリリーを喜ばせようと思って褒めたんだけど、彼女はため息をついて、うなだれるように背中を椅子にもたせかけた。
「どうしたの?」と僕は聞いた。
「ソフィアのことは?」と彼女が言った。
「ソフィア?」
「そう、ブーマーが言ってた」
「ああ、ブーマー」
「彼女が好きなの?」
僕は首を振った。「好きも何も、彼女はスペインに住んでるんだ」
リリーは笑った。「あなたって噓をつかずに話をはぐらかすのがうまいのね」
「そういうわけじゃないよ」と僕は言った。「ソフィアは素晴らしい女の子だと思う。正直に言って、彼女と付き合ってた時と比べて今のほうが20倍くらい彼女が好きだよ。でも恋愛となると、未来につながっていかなくちゃだめ。そしてソフィアと僕には未来がない。僕たちは現在を一緒に楽しく過ごしたってだけ、それがすべて」
「本当に恋愛には未来がないとだめって思ってるの?」
「絶対なくちゃだめ」
「そうね」とリリーは言った。「賛成」
「だよね」と僕も椅子にもたれながら、彼女の調子に合わせて言った。「賛成」
「私が言ったこと真似しないでよ」と彼女は言いながら、僕の腕をピシャリと叩いた。
「私が言ったこと真似しないでよ」と僕は笑顔でつぶやいた。
「あなたってバカみたい」と彼女は言ったけれど、むしろ彼女のその言い方からバカさが溢れ出ていた。
「君こそバカみたい」と僕は断定口調で言った。
「リリーは誰よりも素晴らしい女の子です」
僕は彼女に身を寄せた。「リリーは誰よりも素晴らしい女の子だよ」
しばしの間、僕たちはどこにいるのか忘れていたんだと思う。
それから警察官が戻ってきて、僕たちは現状を思い出した。
「さて」と、黒人のホワイト巡査は言った。「君たちに喜ばしい知らせがある。昼過ぎの君たちの行動を映した動画がYouTubeにいくつも上がってるんだが、なんとすでに20万回も再生されてる。それから、君たちは360度ありとあらゆる角度から写真も撮られた。―あの広場に立ってるジョージ・ワシントンの彫像さえもポケットからiPhoneを取り出して、君たちの写真を撮って友人たちにメールで送ったとか、送ってないとかいう話だ」
「私たちがすべての映像を詳しく検証したところ」と、今度は白人女性のブラック巡査が言った。「一つの結論に達しました。あなたたちの中でやましいところがあったのは」
「わかってます、お巡りさん」と僕は話に割って入った。「全部僕が悪いんです。本当に、彼女は何も関係ありません」
「いいえ、違います」とリリーが異議を唱えた。「あのポスターを貼ったのは私なんです。冗談のつもりだったんです。でもママさんたちがあれを見て、ちょっと燃え上がっちゃったみたいで」
「真剣に言ってるんだ」と僕はリリーの方を向いて言った。「君は成り行き上、仕方なくそうしただけであって、お巡りさんが捕まえたいのは僕なんだよ」
「いいえ、ママさんたちが赤ちゃん泥棒だって思ってるのは私よ。でも信じて、私には赤ちゃんが欲しいなんて気持ちはないの」
「君たち二人には何ら非はない」とホワイト巡査が割り込んだ。
ブラック巡査がボリスを指差した。「もし過ちを犯した者がいるとすれば、それは四つんばいで座ってるあなたよ」
ボリスは気がとがめたのか、背中をもぞもぞ動かした。
ホワイト巡査が僕を見た。「〈片目のジョニー〉に関して言えば、我々が見たところ彼はどこも怪我してなかった。まあ、雪合戦をしていて君が投げた雪玉が彼に当たってしまったんだろうが、―当たった雪玉を投げたのが君だったのかどうかは証明のしようもないし、―被害もなければ、違法行為でもない」
「じゃあ、私たちはもう自由の身ってこと?」とリリーが聞いた。
ブラック巡査が頷いた。「あなたたちの仲間が部屋の外で待ってるわ」
ブラック巡査は冗談を言ったわけではなく、部屋を出るとそこにはブーマーが立っていた。一緒にヨーニーとダヴもいて、さらにソフィアとプリヤまで僕を待っていてくれた。そしてロビーの片隅にはリリーの親族が一堂に会していて、その輪の中心にミセス・バジルがいた。
「ほら見て!」とブーマーが言って、プリントアウトしてきたらしい二枚の紙を掲げた。一枚は『ニューヨーク・ポスト』のウェブサイトの記事で、もう一枚は『デイリー・ニュース』のものだった。
二枚とも、リリーの腕の中に赤ん坊が落下する、まばゆいばかりの瞬間をとらえた写真が載っていて、
〈私たちのヒーロー!〉と『デイリー・ニュース』は大見出しを打ち、
〈赤ちゃん泥棒!〉と『ニューヨーク・ポスト』は声高らかに宣言していた。
「外にはたくさん記者が来てるわ」とミセス・バジルが教えてくれた。「ああいう人たちって大体いかがわしいのよね」
ブラック巡査が僕たち二人の顔を交互に見た。
「それで、―あなたたちは有名人になりたいの?」
リリーと僕はお互いの顔を見やった。
答えは至極はっきりしていた。
「いいえ」と僕は言った。
「絶対に嫌です」とリリーが付け加えた。
「じゃ裏口ね!」とブラック巡査が言った。「ついて来て」
迎えに来てくれた人たちの輪の中に吸い込まれるように、リリーと僕はお互いを見失って離れ離れになった。ソフィアが「大丈夫?」と僕を気遣ってくれた。ブーマーはリリーと僕がついに会えたことに熱狂していた。他のみんなはすべてを理解しようと、ただ静観していた。
リリーと僕はさよならを言い合う間もなく、ドアが開くと、ブラック巡査に急ぐよう促された。記者たちはすぐに察して裏口に回って来るらしい。
彼女は彼女の身内と一緒に家路につき、僕は僕の仲間とともに別方向に歩いていった。
歩きながら、僕はポケットが少し重いことに気づいた。
いつの間に? リリーがノートを滑り込ませたのだ。
18
(リリー)
12月30日
そのニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、フィジーにも届いてしまった。
私は両親に気づかれないように、パソコンのスピーカーを断続的にミュートにしていた。ビデオ通話の画面に、表情からガミガミわめいているのがわかる両親が映っている。時折り、私は音声をオンにして彼らの長い説教を断片的に聞いていた。
「何やってるのよ、リリー、いったいいつになったら、あなたはちゃんと一人で―」
ミュート。
彼らの両手は地球儀を必死で回しているみたいに目まぐるしく回転している。一方、私の両手は新しく始めた編み物に集中していた。
「このダッシュって子は誰なんだ? おじいちゃんは知ってるのか?―」
ミュート。
画面の向こう側でママとパパは怒鳴り散らしながら、同時に大急ぎで荷造りもしていた。
「飛行機に遅れちゃうわ!間に合うようにあなたも祈ってちょうだい。いったい何回あなたに電話したと思ってるの?―」
ミュート。
パパは自分の携帯電話に電話がかかってきたらしく、それに出ると何やら叫んでいた。ママはコンピューター画面をのぞき込んできた。
「こんな時にラングストンはいったいどこにいるの?―」
ミュート。
私は編み物を黙々と続けていた:ボリスのために囚人服をあしらった縞模様のセーターを編んであげるのよ。視線を上げると、ママが人差し指で私を呼ぶ仕草をしていた。
ミュート解除。
「もう一つ、リリー!」こちらをのぞき込むママの顔はスクリーンぎりぎりまで接近している。今まで気づかなかったけれど、ママはとてもきめ細やかな肌をしていて、素敵に年を取りそうな予感を醸し出していた。
「何? ママ」ママの背後にはホテルのベッドに腰を下ろして、携帯電話を耳に当てているパパが見える。パパはまた電話をかけてきた誰かに、また手をぐるぐる回しながら、また状況を説明しているようだった。
「あれは素晴らしいキャッチだったわ、リリーちゃん」
その時、おじいちゃんは高速道路をひた走り、デラウェア州の料金所に差し掛かったところだった。(彼によると、デラウェア州には高速道路業界で一番お金を集める料金所があるという。)そこに、私のニュース記事を見たボルシチ屋さんから電話がかかってきて、次いでカレー屋さんとカノーリ屋さんからも電話があり、「あきれて物も言えない」とか言われたおじいちゃんは、車の中であやうく心臓発作を起こしそうになった。彼は一旦気持ちを落ち着かせるためにマクドナルドに行ってビッグマックを食べ、それからラングストンに電話をかけた。おじいちゃんがラングストンに私の面倒を見るように頼んでフロリダへ向けて家を出てから、まだ数時間しか経っていないというのに、私を囚人に、しかも世界的な有名人にしてしまったことに対して、ラングストンを叱りつけた。そして彼は来た道を引き返してマンハッタンに戻り、家に着くと、ちょうどラングストンやミセス・バジルが警察署から私を連れて帰ってきたところだった。
「お前は両親が帰ってきて、この騒ぎが収まるまで外出禁止だ!」と、おじいちゃんが甲高い声で私を怒鳴りつけた。それから、かわいそうなボリスを指差して言った。「その厄介な犬は上の階に上げるな、わしの猫に近づけるな!」ボリスは大声で吠え、おじいちゃんにも飛びかかる構えを見せた。
「お座り、ボリス」と私はその野獣に言って聞かせた。
ボリスは床にドスンと座り込むと、私の足の甲に頭を載せてきた。そして低いうなり声をおじいちゃんに向けて発した。
「ボリスと私は外出禁止に従うつもりはないわ」と私はおじいちゃんに言った。
「それはちょっとひどいわ、アーサー」とミセス・バジルも同調してくれた。「リリーは何も悪いことしてないのよ。大きな誤解が生まれただけなの。彼女は赤ちゃんを救ったのよ!車を盗んで面白半分に乗り回したとか、そういうんじゃないの」
「常識的に考えてだな、若い娘が『ニューヨーク・ポスト』みたいなタブロイド紙の表紙に載ったら、ろくなことにならない!」とおじいちゃんは大声でまくし立てて、私を指差した。「外出禁止!」
「自分の部屋に行ってなさい、リリーベア」とミセス・バジルが私の耳元でささやいた。「あとは私に任せなさい。そのポニーは連れて行ってちょうだい」
「お願い、ダッシュのことはおじいちゃんに言わないで」と私はささやき返した。
「それは無理な相談ね」と彼女は大きな声で言った。
両親とおじいちゃんからさんざん小言を聞かされた結果、私は厳密には外出禁止にならずに済んだんだけど、元旦にはママとパパがフィジーから帰ってくるからそれまではおとなしくしていなさいと言われ、快く従うことにした。しばらく家でくつろぎながら、頭を冷やすのが望ましいみたい。
べつに私がそうしたいって望んでるわけではなくて、記者の人たちとは話しちゃだめって言われてるし、くだらないことは全部シュレッダーにかけて忘れるのが一番だから。雑誌『ピープル』の表紙に私がどんな感じで載るのかなんて考えても仕方ないけれど、雑誌に独占的に売り込めば、私の大学の学費だっていっぺんに払えちゃうくらいのお金が入ってくるかもしれない。そしてトーク番組の『オプラ・ウィンフリー・ショー』にも呼ばれるかしら。でもオプラが最初に話しかけるのはどうせ私のママで、私には話を振ってくれないのよね。はっきり言って家族のみんなが望んでるのは、〈有名になった私〉に消えてほしいってこと。あるいは一刻も早くいかがわしい雑誌にスキャンダルを暴かれればいいのよ。そしたらいろんなタブロイド紙に載って、〈リリー・犬の散歩屋〉からは卒業ね。
私は精神衛生上よくない気がして、自分の名前をグーグルで検索するのはやめておいた。
親族の年配の人たちによく言われるんだけど、この世の中には信頼できる人はそう多くないし、特に自分と関わりのない人を信用してはいけないって。今回のことがすっかり忘れ去られてしまうまで、家族の温かい愛情に包まれて、じっとしているのがよさそうね。
一つだけ確かなことがあって:犬はいつでも信頼できるってこと。
ボリスはダッシュを気に入ったみたい。
動物の扱い方を見れば、その人の人柄がわかるのよね。ダッシュは危機に直面しても、躊躇なくボリスのリードをつかんだ。彼は確かに正々堂々とした男だったわ。(まあ、深紅色レベルの警戒をしたママさんたちには押さえつけられて這いつくばっていたけれど。)
ブーマーもダッシュが好きなのよね、ブーマーってなんとなく犬っぽいし、
犬の直観っていつも正しいから、
ダッシュは好きになっても間違いない人ってことね。
私の前にはありとあらゆる可能性が広がっているんだわ。ダッシュでしょ、ボリスでしょ。いつ何が起こってもいいように心をオープンにしておかないとね。たとえ私が起こってほしいと望むことが現実にならなくても、世界には望みがないってことにはならないんだわ。だって、ふとした瞬間に何か思いがけない凄いことが起こるかもしれないじゃない。
よって、ボリスに対する私の判決は疑いの余地なく:ボリスも釣り上げる価値あり。
ボリスの飼い主はマルクといって、ストランド書店で働いてる私のいとこのマークの同僚なんだけど、マルクはペット禁止のワンルームマンションでボリスを飼っていたみたい。そのマンションの管理会社は遠隔地にあり、しかも住み込みの管理人さんも大家さんもいないということで、今まではボリスを規則に反してかくまっていても見つかることはなかったんだけど、今やボリスはネットで論争の的になるくらい有名になってしまった。(『ニューヨーク・ポスト』のオンラインアンケートによると、64%の人がボリスは社会にとって脅威であると回答し、31%の人がボリスは自分の力の強さに気づいていないだけでボリスも被害者であると回答し、5%の人が口には出して言えないような方法で殺すべきだと回答した。)というわけで、マルクはボリスを「家」に連れて帰ることができない。
でもいいの。私の会社が預かった犬だし、社長として私はボリスに私の家を提供するって決めたから。ボリスは私が世話を始めてから24時間もしないうちにいろんなことを覚えたわ。「お座り」とか、「ついて来なさい」とか、食卓では食べ物をねだらないで「待て」とか、あと「それを落とせ」も覚えたのよ。(それっていうのはおじいちゃんの靴のことで、すぐ咥えて嚙もうとするの。)きっとそもそもの原因はボリスの飼い主にあって、ちゃんと面倒を見てあげなかったのね。社会の立派な一員として心身ともに健康に暮らすためのしつけをしていなかったのよ。それにインターネットによると、マルクは犬の糞をスコップで掬うような信頼のおける飼い主ではなく、単に女の子と出会うための手駒としてボリスを連れていたみたい。もっと神経に障ったのは、マルクとメールでやり取りしていたら、「好きなだけボリスを飼ってていいよ」とか言ってきたこと。手のかかるやっかいな犬なんだって。明らかにマルクは最初から、ボリスを飼う資格が全くなかったのよ。
ボリスと私は刑務所で夜をともに過ごした仲だから、末永く連れ添う絆が生まれたの。まあ、警察署の取調室で数時間過ごしただけなんだけど(それに、とっても素敵な男の子も一緒だったんだけど)、似たようなものよね。ボリスの家は今はここだから、ママやパパや他の家族にはボリスと一緒に暮らすことに慣れてもらわないとね。家族は家族の面倒を見るものだし、ボリスはもう家族の一員なんだから。
私の会社の危機管理チームというか、私の相談に乗ってくれるメンバーは、蓋を開けてみるとアリス・ギャンブルだけでなく、彼女が連れて来たヘザー・ウォンとナイキシャ・ジョンソンも加わることになった。みんな同じサッカークラブのチームメイトよ。
私たちは私の部屋に集まってお喋りしていた。アリスが言った。「それでね、リリー。私たちは前からあなたのことを知ってはいたんだけど、本当の意味であなたを知っていたとはいえないわね、そうでしょ? それで、あなたのおじいちゃんがこうして私たちをパジャマパーティーに招いてくれて、あなたを外出させないっていう理由らしいけど―」
「パジャマパーティーは私のアイデアなのよ」と私は口を挟んだ。「ただ、タイミングよくおじいちゃんが私の携帯を隠しちゃったから、私からあなたに連絡できなかったの」
「あなたの携帯はどこに行っちゃったの?」とアリスが聞いた。
「クッキーの瓶の中よ。バレバレなの。隠そうとさえしてないみたい」
アリスは笑った。「私と他の女の子たち、みんなであなたのために素敵なものを作ったのよ」彼女は私のノートパソコンの前に座って、YouTubeを開くと、ある動画を呼び出した。「あなたは一部の中傷攻撃から身を守るためにもネットにはアクセスしないほうがいいでしょ、それであなたのためにと思って私たちがアップしたの、あなたがサッカーをしてる姿をね」
「どういうこと?」と私は言った。
ナイキシャが言った。「あなたはめっちゃ凄いゴールキーパーだからね!じゃなかったら、あんな風に赤ちゃんをキャッチできないでしょ? 生まれ持ったゴールキーパーの本能が赤ちゃんをキャッチさせたのよ。ゴールキーパーは赤ちゃんを盗もうなんてしない!守ろうとしちゃうのよ」
ヘザーが「見て」と言って、そのYouTubeの動画を再生した。
それは私のチームメイトが編集して作ってくれた動画だった。スパイス・ガールズの『Stop』が流れ、次々に私の写真が映し出された。短く切り取られた動画も次々と流れた。ゴールキーパーをしている私だった。―走り、喉の奥から大声を上げ、ボールを蹴り、飛び跳ね、ジャンプし、空中に舞い上がる私が映っていた。
知らなかった、私ってこんなに上手い選手だったんだ。
私のチームメイトがそれに気づいて私を撮っていたことも全然知らなかった。私のことなんて気にもしていないと思っていた。
もしかしたら、みんなをチームメイトだと思っていなかったのは私のほうだったのかもしれない。ひょっとしたら、友達関係が停滞していた最大の原因は私だったのかも。
よく言われることだけど、「team」(チーム)のスペルに「i」(私)はないのね。
その動画が終わると、まるで試合後にみんなで勝利を分かち合うみたいに、3人の女の子が私を取り囲んだ。それはピッチ上では一度もやったことのない行為だった。そこは私の寝室だったけれど、初めて味わった一体感に思わず熱いものがこみ上げてきて、私は泣いていた。―みんなを困惑させるような号泣ではなく、心の深いところからじんわり湧き出てくる喜びと感謝の涙だった。
「びっくりしちゃった。みんな、ありがとう」と、私は泣きじゃくりながらもなんとか言葉にした。
「私たちがBGMに『Stop』を選んだのはね、あなたがいつもやってることだからよ。―あなたは相手チームが得点するのをいつもストップしてるでしょ」とヘザーが言った。「それに赤ちゃんが路面にぶつかるのもストップしたしね」
ナイキシャが言った。「それと、スパイス・ガールズのメンバーと結婚したベッカムへの祝福にもなるわ」
「たしかに」と、アリスと私は同時に言った。
ヘザーは言った。「この動画にはもうたくさんのコメントも来てるのよ。―今のところ、845人からコメントが来てる、こんなにあったら全部は読めないわね。あなたの名誉を守ろうと思ってこの動画を上げたんだけど、アップしてすぐに私がざっと読んだ限りでは、あなたに結婚の申し込みが5人から来てたわ。今はもっと増えてるんじゃない。だってほら、再生回数だって95,223回に跳ね上がってるし、―と思ったら今、95,225回にまた上がったわ。ほら、プロポーズもあるし、いかがわしい下品な誘いもあるわよ。あと、複数の大学のサッカーチームからオファーも来てる、スカウトの人がうちのチームの入団テストを受けてみないかって」
ボリスが部屋の隅に置いた新しい犬用のベッドの上から吠えた。ボリスも「いいね」って言ったみたいだった。
12月31日
「ベニーと僕はまた元の鞘に戻ったよ」とラングストンがランチを食べながら報告した。一緒にパジャマパーティーをした女の子たちはそれぞれの家に帰宅した後だった。大晦日だから、みんな家に帰って家族とパーティーの準備をするのよ。おじいちゃんは上の階でメイベルと電話で話し込んでいる。なんとかして―1月中に!―メイベルをフロリダのマイアミからニューヨークに呼び寄せようと必死で説得してるみたい。そうすればおじいちゃんは、ほんの数日のうちに、車を走らせてフロリダに行ったと思ったら、とんぼ返りしてニューヨークに帰って来て、それからまたフロリダへ向かったと思ったら、Uターンしてニューヨークに引き返す、なんてことをしなくて済むから。
男って優柔不断で、自分でも何がしたいのかよくわかってないのよね。
「ほんの何日か離れただけで、あなたとベニーはもう耐えられないんでしょ?」と私は兄に聞いた。
「それはたしかにそうだけど、でもさ、わかってると思うけど、君のために赤いノートを仕掛けてあげたのは、僕とベニーなんだからな。僕とベニーは運命の赤い糸で結ばれてるんだ」
「そしてあなたたちはお互いに距離を置いてみて、寂しいって思い知ったのよね!もう他の人に目移りすることなく、お互いの特別な存在になろうって決めたんでしょ?」
「僕はまだそこまでは決めてない」とラングストンは言った。「けど大晦日の今夜、プエルトリコにいる彼と秘密のスカイプ・デートをするんだ。部屋に入ってくるなよ。君の面倒は見れないし、君のバカ騒ぎにも構ってられない」
「キモい。っていうか、私の面倒なんて見たことないじゃん」
「わかってるよ。けど僕を信頼してくれ、何が起きても、僕が残りの一生をかけて償うっていうか、文句を言われ続けてあげるから」
「大変な役回りを担ってくれてありがとう、お兄ちゃん。楽しいお喋りだったわ」と言ったものの、まだ赤いノートのことで、その始まりをめぐって何かが引っかかっていた。「ラングストン?」と私は言った。
「何? 有名人のリリーベア。あ、セレブ・ベア!これからはそう呼ぶことにするよ」
そのくだらないあだ名は無視して、私は聞いた。「彼が本当に好きなのはあなただったら、どうする?」
「彼って? どういう意味?」
「ダッシュのことよ。赤いノートを見つけてくれた彼。あれはあなたの考えだったでしょ。最初のメッセージは、私が手書きで書いたものだけど、その言葉とアイデアはあなたのものでしょ。ダッシュが大晦日にデートに誘ってる人は、彼の想像上の私で、それはあなたが創り出した人物が基になってるんじゃないかな?」
「だから何? そうだとしてもいいじゃないか。ずっとノートを書き続けてきたのは君なんだし、ずっと冒険してきたのも君だろ。それが何に化けるのか、ちゃんと自分の目で確かめな!僕は寝室でゴホゴホ寝込んでいて、ボーイフレンドとも間違って別れちゃったけど、その間、君は外の世界で、あのノートを片手に君自身の運命を切り拓いてきたんだから!」
彼は肝心なところがわかっていなかった。
「でも、ラングストン。もしもだよ...ダッシュが私を好きにならなかったらどうする? 私よ、この私。彼の頭の中の私じゃなくて」
「好きにならなかったら、ならなかったでべつにいいんじゃない?」
私は兄が私の援護に回り、「絶対彼は君のことを好きになるから大丈夫だよ」とか宣言してくれるものと期待していた。「なに?」と、私は不愉快な気分で言った。
「要するに、ダッシュが君のことを知って、それで君を好きにならなかったらってことだろ。それが何か問題でも?」
「私はそのリスクを負いたいのかどうかわからないの」振られ、傷つくリスクがあった。かつてラングストンが心に傷を負ったように。
「恩恵はリスクの中にあるんだよ。君はいつまでもおじいちゃんの厳重すぎるほど分厚いマントの中に隠れてはいられない。少しの間でいいから、そのマントから出て、成長した自分を試してみるんだ。ちょうどママとパパは旅行中だし、今は赤いノートだけが頼りだ。君の気持ち次第ってことだよ。ダッシュがどんな空想をしてるのか自分で確かめるんだ。そして君がその空想に入り込んでいくんだよ。リスクを負うんだ」
兄の言うことを信じたい気持ちは大きかった。でもその気持ちと同じくらい大きくて、押しつぶされそうな怖さも同時に感じていた。「今までの全部が夢みたいな絵空事だったらどうしよう? 私とダッシュはお互いの時間を無駄につぶし合っていたってこと?」
「確かめもしないでわかるわけないだろ?」そう言うと、ラングストンは彼の名前の由来である詩人の言葉を引用した。「ラングストン・ヒューズが『夢は先延ばしにしたら諦めたのと同じだ』って言ってる」
「あなたはもう彼を乗り越えたの?」と私は聞いた。
ラングストンは私の言った「彼」がベニーのことではないとわかったみたいだった。私が言及したのは、ラングストンの心を打ち砕いて、見るも無残な姿にした初恋相手のことだった。
「まあ、どうやっても僕が彼を乗り越えることは今後もないね」とラングストンは言った。
「そんな答えじゃ納得できない」
「納得できないのは君が間違って解釈してるからだよ。僕はお涙ちょうだいみたいな芝居がかったことを言ってるんじゃない。つまり、僕は彼を本当に愛していたんだと思う。その気持ちはとても大きかったからね。胸が張り裂けそうで、苦しさもあった。彼に対する気持ちが僕という人間を変えたんだ。もうそれ以前の僕に戻ることはない。君の兄であることが僕の人間としての成長に影響するのと同じだよ。人は影響し合って変わっていく。僕たちの人生っていうのはね、重要な意味を持つ人と関わると、その人が心に刻み込まれていくんだ、後々までずっと残る印とともにね。この目に見える物理的な世界では、彼らはそばに居続けることもあるし、どこか遠くへ行ってしまうこともある。でも心の中にはずっと居座り続けるんだよ。だって彼らが心の一部になって人格を形成していくんだから。乗り越えるなんて無理」
私の心はダッシュをまるごと受け入れたかった。あるいはダッシュに踏みにじられたかった。もしくは、ダッシュをそっくり受容してから、ないがしろにされたかった。疑いようもなく、そんなことまで望む気持ちが胸の内に湧いていた。リスクを負わなければ、恩恵が何なのかもわからないってことね。
テーブルの下ではボリスが私の足首を舐めていた。私は言った。「ボリスも居座り続けてるわ、だってもう私の心に印を残したからね。ママとパパの心にも印を刻み込んでくれるといいんだけど」
「元旦まで君には内緒ってことだったんだけどさ、セレブ・ベア。なんとママとパパからのクリスマスプレゼントは、ずっと君が待ち望んでたペットの許可だよ。またペットを飼ってもいいってさ」
「ほんとに? でもフィジーに引っ越したらどうするの?」
「ママとパパが何かいい方法を考えるよ。それに彼らが本当に引っ越すって決めてもね、このアパートメントはそのままにしておくみたいだからさ、僕はここに住み続けて、ニューヨーク大学に通うんだ。たぶん彼らも一年じゅうフィジーに住むつもりじゃないと思うよ。―学校が開いてる期間だけじゃないかな。もし君も彼らと一緒に行くことになって、ボリスがフィジーの税関を抜けられないなんてことになったら、君の留守中は僕がボリスの世話をするよ。それが僕から君へのクリスマスプレゼントってことでどう?」
「あなたはベニーとイチャイチャするのに忙しくて、今年は私に何も用意してないんでしょ?」
「まあね、今年は年明けにクリスマスプレゼントを渡すっていう変則的な事情もあったからさ。じゃあ、こういうのはどう? 君が僕のためにセーターを編んでくれてるのは知ってるけど、それから大量のクッキーも焼いてくれてるみたいだけど、セーターもクッキーも要らないからさ、おじいちゃんに話をつけてくれないかな? 君の最近のごたごたのことでおじいちゃんが僕に説教してくるのが目に見えてるんだよ、ついでに僕のことまであれこれ口出ししてくるに決まってる。だから僕を責めないように君からおじいちゃんに言ってくれたら、お返しにボリスの面倒を見るよ」
「いいわ」と私は同意した。「私はちゃんとルールを守る女の子なのよ」
「ルールと言えばさ...リリー、たしか君の外出禁止令は解かれるんだろ? じゃあ、君は新年に向けて何をするつもり? 今夜はダシールくんが君をエスコートして街のお祭りにでも繰り出すのかな?」
私はため息をついて首を振った。もう認めざるを得なかった。「彼から何の連絡もないの。電話もメールもないし、ノートも警察署で彼に渡したっきり返ってこないのよ」
私は勢いよく椅子から立ち上がった。自分の部屋に戻って、かわいそうな自分を慰めながら、こっそり大量のチョコレートをバクバク食べるつもりだった。
しようと思えば、ダッシュにパソコンからメールを送ることも、携帯電話でメッセージを打つことも、(電話することさえ、―それはちょっとあれだけど、)できることはわかっていた。でもそういうことをするのは、私たちの関係の成り立ちを考えると、やりすぎのような気がした。なにしろ私たちは赤いノートで出会ったのだ。ノートからも、ダッシュはプライバシーを重視して孤独を楽しんでる男の子っていう印象を受けたから、それは尊重してあげないとな、と思った。
彼の方から私に連絡してくるべきだわ。
そうでしょ?
それとも彼から連絡がないということ自体が、私に関する何かしらのメッセージになっているってこと?
もしかしたら彼は私を好きじゃないのかもしれない。少なくとも彼を好きになり始めている私ほどは好きじゃないのかも。私はあのソフィアっていう女の子みたいに綺麗じゃないし、あんなに周りの興味を引きつける感じでもない。一方でダッシュのかっこいい顔は、昼間でも私が目を閉じればすぐに、蜃気楼のように浮かび上がってくる。
報われない片思いね。
恋しいっていうのかしら、私だけこんな思いをしてるのは不公平よね。でも彼がそばにいないのが寂しいっていうよりも(まだどんな人なのかあんまり知らないし)、彼とのつながりである赤いノートが私の手元にないのが寂しいんだわ。彼は彼で今頃、びっくりするような方法で私にコンタクトを取ろうと、何か方法を考えてるとか、もうそれを実行中かもしれないし、うん、きっとそうよ。
ダッシュについて夢想しながら、私はベッドに横になっていた。またボリスに力強く舐めてもらって元気をもらおうと、ベッドから足を降ろしてみたけれど、ボリスはそこにいなかった。ボリスもどこかへ行っちゃった。
玄関のベルが大きな音を立てて、アパートメントの中に鳴り響いた。私は飛び起きると、廊下に駆け出て玄関へ向かった。「はーい、どなた?」と、私はドアの向こう側に言った。
「あなたの大好きな大叔母さんよ。ボリスを散歩させようと思って連れ出したんだけど、鍵を中に忘れちゃったの」
ボリス!
ボリスがいなくなってから20分、私の心はもう少しで壊れそうだった。やっぱりボリスはダッシュっていう男の子みたいに私を無視したりしない。
私はドアを開けて、ミセス・バジルとボリスを中へ入れた。
足元を見ると、ボリスが私の注意を引きたいのか、前足を不器用に動かして私の足首をさすっている。
ボリスが口にくわえているのは、犬用の骨でも、郵便配達員の上着でもなかった。歯の間に挟まれ、よだれまみれになっているのは、赤いリボンを巻かれた赤いノートだった。ボリスが私にそれを差し出していた。
19
-ダッシュ-
12月30日
僕は釈放されたあと、迎えに来てくれたみんなと一緒に僕の母のアパートメントに戻った。僕たちはみんなアドレナリン全開といった感じで浮かれ、飛び跳ねていた。―僕が解放されたことでみんなに興奮がもたらされ、周りの世界が巨大なトランポリンに変貌を遂げたかのようだった。
玄関のドアを開けて部屋に入ると、すかさずヨーニーとダヴが冷蔵庫をあさりだした。そして中に入っている物を見て不満げな表情をした。
「ヌードル・プディング?」とヨーニーが聞いた。
「そう、ママが僕に作ってくれるんだ」と僕は彼らに説明した。「いつでも食べられるように常に入ってる」
プリヤはトイレに行き、ブーマーは携帯でメールをチェックしている。僕が自分の寝室に入ると、ソフィアも入ってきた。いやらしいことをしようという意図ではなく、単に寝室の様子が見たかったらしい。
「あんまり変わってないね」と彼女が部屋を見回して言った。そして壁に画鋲で留めてある、僕がお気に入りの名言を書いている紙をじっと見つめた。
「ちょっとは変わったよ」と僕は言った。「壁の名言もいくつか新しいものが増えたし、本棚には新しい本が何冊か増えた。何本かの鉛筆は付いてる消しゴムがなくなっちゃったし、ベッドのシーツは毎週替えてる」
「たとえ何も変わってないように見えても―」
「―物事は常に変わっている。往々にして少しずつだけど、そういう風に人生は進んでゆくんだと思う」
ソフィアは頷いた。「なんか私たちが人生を語ってるのって可笑しいわね。そういう風に人生は進んでゆく」
「そういう風に人生は進んでゆくってなんか青くさかったね」
「じゃあ、たまにはそういう風に進む先の未来が見えることもあるのかしら? そうね、たとえば、赤ちゃんをキャッチする未来とか」
僕は彼女の顔をじっと見て、そこに皮肉とか当てつけとか、あるいは悲しみの色が混じっていないか確かめた。―というより彼女の表情の中に悲しみや悔しさの影を探していた。しかし彼女は面白がっているようにしか見えなかった。
僕はベッドに腰を下ろすと、両手で頭を抱えた。それから、このポーズはあまりにも芝居がかっているな、と自分でも思いながら彼女を見上げた。
「自分でもほんとに、自分の気持ちがよくわからないんだ」と僕は打ち明けた。
彼女は僕の真正面に立ったまま、僕を見下ろしている。
「力になってあげたいけど」と彼女は言った。「でも私にできることはなさそうね」
そういえば、僕たちは以前もここで向き合っていた。なんだかずいぶん昔のことに思える。あの頃僕たちは付き合っていた。付き合っていたといっても、おとぎ話に出てくるような付き合い方だったし、僕の彼女への気持ちもさざ波程度だった。それでも僕は彼女を愛することが可能だという素振りを見せていた。おとぎ話の王子様にでもなろうとしていたのだろう。しかし今はもう、そんな素振りを見せようなんて気持ちはこれっぽっちもないし、僕たちは愛し合ってもいない。ただ、今の僕は彼女のことが、心に高波が立つほど好きだ。
「僕たちもさ、長い付き合いだし、この辺でお互いのことをちゃんと考えてみない?」と僕は彼女に提案した。
彼女は笑った。「それってつまり、私たちの失敗とか過ちを話し合って、何か教訓を引き出しましょうみたいなこと?」
「そう」と僕は言った。「きっと何かにつながるよ」
僕たちは何か新しい関係性に移る必要があると思った。キスはアウトだし、ハグも軽率な行為だという気がした。それで僕は彼女に片手を差し出し、彼女は僕の手を握った。それから僕たちは寝室を出て、仲間たちの輪に加わった。
僕はどうしてもリリーが今何をしているのか考えてしまった。彼女がどのようなことに思いをめぐらせ、何を感じているのかが気になった。もちろん気にしたところで、実際のことはわからないわけだし、頭が混乱するだけだったけれど、でもそれは悪い混乱ではなかった。僕はもう一度彼女に会いたかった。今までも会いたいという気持ちはあったけれど、その気持ちがこんなにも高まったのは初めてだった。
ノートブックは僕の手元にあった。それなのに僕は何を書いたらいいのか、適切な言葉が見つからなかった。
母親から電話があって、何か変わったことはないかと様子を聞かれた。彼女がくつろいでいるスパ・リゾートにはインターネット環境はないし、彼女は家以外でテレビをつけるようなタイプでもない。それで僕は何も説明しなくて済んだ。僕はただ、何人かの友達と一緒にいると言った。みんな行儀よくしてるよ、と。
父親のことも書いておくと、彼は携帯で5分置きにニュースをチェックするようなタイプだから、おそらく『ニューヨーク・ポスト』の見出しも見ているし、関連する写真も何枚か目には入っているだろうなと思った。ただ、そこに写っているのが自分の息子だとは気づいていないのだ。
夜遅くまでみんなでジョン・ヒューズの映画を何本か立て続けに見たあと、ブーマー、ソフィア、プリヤ、ヨーニー、ダヴの5人にその場に残ってもらって、僕は母親が仕事で使っている部屋からホワイトボードをリビングルームに運び入れた。
「みんなが帰る前にちょっとだけ時間をもらって」と僕は彼らに向かって話し始めた。「愛についてのシンポジウムを開きたいと思います」
僕は赤のマーカーを手に取って(愛は赤でしょ?)、ホワイトボードに「愛」と書いた。
「さあ始めましょう。愛についてです」と僕は言いながらペンを走らせ、その文字をハートマークで囲んだ。心臓の左心室とかの話ではなく、目には見えないものの話をしようとしていた。
「この愛は原始の状態で、その理想を掲げながら存在しています。しかしそれから...言葉が登場します」
僕は「言葉」という文字を何度も繰り返し書いた。ホワイトボードがその文字でいっぱいになるまで書き続け、「愛」という文字は埋もれてしまった。
「そして感情」
僕は「感情」という言葉を同様に、すでに書いた文字の上から縦横無尽に書きなぐった。
「さらに期待、歴史、思考。ブーマー、ちょっと手伝って」
僕たちはこれら三つの言葉を少なくとも20回ずつホワイトボードに書いた。
で、どうなったか?
まったくの判読不能。「愛」が見えなくなってしまったばかりか、何もかもが意味を持たないものになっていた。
「これだよ」と、僕はホワイトボードを持ち上げるような勢いで言った。「僕たちが今直面している状態はこれなんだよ」
プリヤは困った表情をしていた。―僕が言ったことに困っているというよりも、僕という人間に対して困っているようだった。ソフィアは依然として面白がっている様子だった。ヨーニーとダヴはくっついて丸まっていた。ブーマーはマーカーを手に持ったままホワイトボードを見つめ、そこから何かをはじき出そうとしていた。
彼が手を挙げた。
「何? ブーマー」と僕は聞いた。
「君の話を聞いてて思ったんだけど、君は愛の中にいるのか、いないのか、もしいるのなら、こんな感じになるってことだよね」
「まあ趣旨としては合ってる」
「でもだよ、もしそんなに簡単に割り切れる問題じゃなかったらどうなる?」
「君の話の趣旨が見えない」
「つまりだよ、愛がそんなに簡単な問題じゃなかったらどうなるのか? もし君が愛の中にも外にもいなかったらってこと。要するにさ、違う次元ってないのかな? ここに書かれているようなものが、言葉とか期待とか何でもいいんだけど、その愛の上には来ない次元だよ。たとえば、地図を思い浮かべてみて。すべては重なり合うことなく並んでいて、空を飛んで上から見下ろしたら、―ほら凄い景色が広がった」
僕はホワイトボードに目をやった。「君の地図は僕のよりきれいなんだと思う」と僕は言った。「でも、しかるべき二人がしかるべき時に衝突すると、こんな感じにならない? つまり、めちゃくちゃに」
ソフィアが含み笑いをした。
「何?」と僕は彼女に聞いた。
「しかるべき二人が、しかるべき時にっていうのは間違った考えよ、ダッシュ」と彼女は言った。
「たしかに」とブーマーが同意した。
「どういう意味で彼女は言ったんだい?」と僕は彼に聞いた。
「私が言いたいのは、」とソフィアが答えた。「しかるべき人とか、そうじゃない人とか、しかるべき時とか、そうじゃない時とか、そういうことを言い出すのは責任逃れのずるい発言なのよ。そういうことを言う人って自分が運命にもてあそばれてると思ってるのよね。私たちはみんな現実という名のロマンチックな舞台の登場人物で、観客席では神が笑いながら観劇してるって思い込んでるのよ。でもね、この世界は簡単に二つで割り切れないことばかりなの。そう、あなたのことを言ってるのよ。あなたはそんなに顔が青ざめて疲労の色が浮き出るまで、別の時だったら、あるいは他の誰かとだったら、何か違うことが起きて、うまくことが運んだかもしれないって必死で考えたんでしょ。でもそうやって頭で考えてるだけだと、どうなるかわかるでしょ? あなたから離れていっちゃうのよ」
「顔が青ざめてる?」と僕は聞いた。
「うん」
「お前にはノートがあるだろ?」とダヴが割って入った。
「なくしてなければいいけど」とヨーニーが続けた。
「あるよ」と僕は言った。
「じゃあ、あなたは何を待ってるのかしら?」とソフィアが聞いてきた。
「君たちが帰るのを?」と僕は言った。
「よし」とソフィアは言った。「あなたにはノートを書くっていう宿題があるからね。書かないとどうなるかわかってる? あなた次第ってことよ、運命のせいにしない」
それでも僕はまだ何を書けばいいのかわからなかった。枕元にノートを開いたまま、いつしか眠りに落ちるまで天井を見つめていた。僕の横でノートも天井を見つめていた。もしかしたらリリーも。
12月31日
翌朝、朝食を食べながら壮大なアイデアを思い付いた。
僕はすぐにブーマーに電話した。
「頼みがあるんだけど」と僕は彼に言った。
「今度は誰?」と彼は聞いた。
「君の叔母さんはニューヨークにいる?」
「ボクの叔母さん?」
僕は彼にそのアイデアを話した。
「キミはボクの叔母さんとデートしたいの?」と彼が聞いてきた。
僕はもう一度、彼に僕のアイデアを伝えた。
「ああ」と彼は言った。「それなら問題ないね」
前もってネタをばらしたくないので、まだ詳しくは書けないんだけど、待ち合わせの時間と場所は伝えた。午後になり、良い頃合いになってから僕はミセス・バジルの家へ向かった。すると彼女の家に着く前に、ボリスを連れて近所を散歩している彼女に出くわした。
「あなたの両親はあなたを自由に外出させてるの?」と、ミセス・バジルがあやしむような目で僕を見てきた。
「そんなところです」と僕は言葉をにごした。
そして僕は彼女にノートを差し出した。
「彼女が次の冒険に乗り気だといいんだけど」と僕は言った。
「あなたなら意味がわかると思うけど」と前置きして、ミセス・バジルは格言を口にした。「人生は味気ないものなのよ。だから私たちは常に色々なスパイスを使わなければならないの」
彼女はノートに手を伸ばしたが、ボリスが彼女よりも先にノートをくわえてしまった。
「バッド・ガール!」と、彼女がボリスをしかった。
「きっとボリスはオスですよ」と僕は言った。
「あら、知ってるわ」とミセス・バジルは僕に断言した。「私はただこの子を混乱させたいだけよ」
それから、僕の未来をくわえたボリスとともに彼女は歩き去っていった。
5時にやって来たリリーを見た瞬間、彼女が僕を見てほんのわずかにがっかりしたのがわかった。
「ほら、見て」と、彼女は目を輝かせてロックフェラーセンター・スケートリンクの方を指差した。「スケーターがあんなにいっぱい。みんなセーターを着て滑ってるわ。きっと50州すべてから集まった人々よ」
僕は彼女を目の前にして、体内で血液がぐるぐる循環するような高ぶりを覚えた。無理もない、これが僕たちが交わす初めての、犬やママさんたちが口を挟んでくる心配のない、ごく普通の会話なのだから。それに僕は文字を書いて交わす会話ならそれなりに得意なんだけど、あるいは現実離れした状況でアドレナリンがほとばしっていればうまく話せるかもしれないけれど、ごく普通の会話は不得手だった。僕は彼女を好きになりたいし、彼女にも僕を好きになってほしかった。この短い期間で立て続けに起こったことが僕の内側に大きな波をもたらしたのだ。僕がいくら必死でオールをこいでも、自分の力で舵を切れるとは思えないほどの感情の大波を。
あなた次第ってことよ、運命のせいにしない。
その通り。でもね、リリー次第でもあるんだよ。
それが最大の難関なんだ。
僕の言った決まり文句が陳腐だったせいもあるけれど、彼女の反応が素っ気ない感じだったので僕は傷ついたふりをした。「君はリンクの上を滑りたくないの?」と僕は口をとがらせて言った。「凄くロマンチックだと思うけどな。きっと映画の登場人物になった気分を味わえるよ。それにプロメテウスも僕たちを見守ってるし。ほら、火を掲げるプロメテウスが氷のリンクに舞い降りるなんて、最高のシチュエーションだと思わない? そもそもプロメテウスは僕たちのために火を天国から盗んでくれたわけだけど、―火を受け止めるために氷のリンクが必要になったんだよ、つまりスケートリンクがあるのはプロメテウスのおかげ。それじゃあ、まずはリンクの上の人混みにまみれて、つっかえつっかえ滑り終えたら、そのあとタイムズ・スクエアに行こう。あそこも200万人くらいの人でごった返してるからね、どのトイレも行列でこれから7時間はトイレに行けないよ。さあ、君もそうしたいでしょ」
彼女の服装はユーモアに満ちていた。彼女は目的に合ったドレスを着ようと、あれこれ家で試したのだろうなと思った。でも結局目的を見失って、自分の好きな格好をすることにしたのだろう。僕はその独自性に関心したし、それから彼女の口からぽろっとこぼれた彼女の考えにも共感した。彼女も、群衆に囲まれていれば孤独ではないという単純な思考について、それは違うと思っているらしい。
「それが嫌なら...」と僕は言った。「プランBにしてもいいよ」
「プランBにする」と彼女は即答した。
「君はびっくりしたい? それとも期待通りの展開がいい?」
「なら」と彼女は言った。「もちろんびっくりしたいわ」
僕たちはスケートをするのはやめて、黄金の指輪の上に浮かぶプロメテウスの彫像から遠ざかった。三歩ほど進んだところで、リリーが立ち止まった。
「わかってると思うけど」と彼女が言った。「今のは噓よ。私は期待通りの方がずっと好き」
それで僕は彼女に話した。
彼女が僕の腕をぴしゃりと叩いた。
「それなら、いいわ」と彼女が言った。
「それなら」と僕も言った。「いいよね」
「あなたが言ってること、ちょっと信じられない...もう一回言って」
そこで僕はもう一度同じことを言ってから、ポケットから鍵を取り出して、彼女の目の前でそれをぶらぶらと揺らした。
ブーマーの叔母さんは有名人である。ここに名前を書くわけにはいかないけれど、彼女の名前は誰もが知っている。彼女は自分の雑誌を持っているし、あるケーブルテレビ局も実質彼女が抱えている。家庭用品を扱う大手チェーン店も彼女の事業の一つだし、彼女が経営するキッチン・スタジオは世界的に有名である。それで、そこの鍵を僕が手に持っているというわけだ。
僕は室内のすべての明かりをつけた。僕たちはニューヨークで最も華やかなクッキング・パレスの中にいた。
「さあ、君は何を作りたい?」と僕はリリーに聞いた。
「何かの冗談でしょ」と彼女が言った。「ここにあるものって触ってもいいの?」
「テレビ局の見学ツアーじゃないよ」と僕は彼女に断言した。「見てごらん、なんでも揃ってる。君は一流のクッキー職人だからね、一流の調理器具を使わなくっちゃ」
あらゆるサイズの鍋やフライパンが赤銅色に光っていた。アメリカの税関が輸入を許可したあらゆる調味料も並べられていた。甘いものからしょっぱいもの、辛いものから甘酸っぱいものまで、すべての味覚に応えるべく。
リリーは湧き上がる喜びを抑えきれず、笑みがこぼれていた。彼女はほんの少しの間黙って立っていたが、どんな選択肢があるのか確かめるように引き出しを開け始めた。
「そこに秘密のクローゼットがあるよ」と僕は言って、人目に付きづらい扉を指差した。
リリーはすぐにそこへ行き、その扉を開けた。
「わあ!」と彼女が叫び声を上げた。
子供の頃から僕とブーマーはたまにここに来ていた。僕たちにとってここは最も魔法を感じる場所だった。今僕は8歳に戻ったような気がした。リリーも8歳みたいな表情をしていた。子供に戻った僕たちは、福引で超豪華な景品を当ててしまい、目を丸くして立ち尽くしている、そんな気分だった。
「こんなにたくさん〈ライスクリスピー〉の箱が並んでるの初めて見たわ」とリリーが言った。
「ちゃんとマシュマロもいろんな種類揃ってるし、クリスピーに入れる食材も色々あるよ」
そう、見事なまでに手入れが行き届いている生け花が飾ってあるにもかかわらず、一応ワインも各種取り揃えてあるにもかかわらず、ブーマーの叔母さんのお気に入りは〈ライスクリスピー〉を使ったおやつで、彼女の人生の目標はそのレシピを完璧にすることなのだ。
僕はリリーにそう説明した。
「それじゃあ、これにしましょう」と彼女は言った。
〈ライスクリスピー〉はキッチンを汚さずに調理できるように工夫された食品で、小麦粉をまぶしたり、ふるいにかけたりする必要もなければ、焼く必要もない。
それなのにリリーと僕はやらかしてしまった。
まず僕たちはクリスピーに食材を入れ込む作業に手こずった。ピーナッツバターからドライチェリーに至るまであれこれ試し、ポテトチップスを入れるという荒技にも挑戦した。僕はリリーにイニシアチブを取らせ、彼女の指示に従うことにした。それによって彼女の中の料理人としての血が騒いだようだった。ただ、そうしてる間にあちこちでマシュマロが溶けてしまい、あたふたした僕たちは勢い余って、積み重ねてあった〈ライスクリスピー〉の箱をひっくり返してしまった。中のライスクリスピーが飛び散って、僕たちの髪の毛や靴の中に、―僕の下着の中にも(きっと彼女の下着の中にも)入り込んだ。
でもそんなことはどうでもよかった。
リリーは几帳面なのだろうと思っていた。―チェックリストを用意し、その項目を順番にクリアしていく、そういうタイプの調理人なのだろうと。しかし驚いたことに、―喜ばしいことでもあったけれど、―彼女は全然そんな感じではなかった。むしろ衝動的で、直観的で、気まぐれも混じっているような女の子だった。ただ、彼女のまなざしには真剣さがにじんでいて、このクッキングはちゃんと仕上げたいようだった。と同時に、どこか遊びを楽しんでいる感もあり、それは結局のところ、これは遊びだと彼女が思っているからなのだろう。
「あーん」とリリーが言って、〈オレオクリスピー〉を僕に食べさせてくれた。
「うまい!」と僕は顔をほころばせて、お返しに〈バナナクレームクリスピー〉を彼女に食べさせた。
「おいしい!」と彼女も言って、今度は〈プラムとブリーチーズのクリスピー〉を鍋から掬ってお互いに食べさせ合った。このプラムとブリーチーズの組み合わせは僕の口には合わなかったけれど。
彼女に見とれていたら彼女に気づかれてしまった。
「どうしたの?」と彼女が聞いてきた。
「君の明るさって」と、僕は自分でも何を言っているのかよくわからずに言った。「周りの人の心を平和にするよね」
「そう?」と彼女は言った。「私もあなたにおもてなしがあるわ」
僕たちが作った色々なクリスピーの入った鍋があちこちに置いてあった。
「君の親戚のみなさん全員に配っても余るんじゃないかな」と僕は彼女に言った。「ちょっと作りすぎたかな」
彼女は首を振った。「違う、おやつのおもてなしじゃなくて、秘密の計画を立てたのはあなただけじゃないってこと」
「どういうこと?」と僕は聞いた。
「それじゃあね、あなたはびっくりしたい? それとも期待通りがいい?」
「期待通り」と僕は言った。それから、彼女が何か言おうと口を開きかけたので、僕は大慌てで訂正した。「いや違う違う、―やっぱりびっくりしたい」
「わかったわ」と彼女は言って、悪だくみでもしているみたいにほほえんだ。「じゃあ片付けましょう。作ったクリスピーはパックに詰めて、キッチンをきれいにして、そしたらそこへ向かいましょう」
「どこか赤ん坊をキャッチできる場所へ?」と僕は言ってみた。
「言葉を見つけられるところ」と、彼女はいたずらっぽく付け加えただけで、それ以上は何も言おうとしなかった。
僕はどんなサプライズなのだろうと心の準備をした。
20
(リリー)
12月31日
こんな風に想像してみて。
あなたはブーマーという友達から、彼の有名な叔母さんのクッキング・スタジオの鍵を借りられなかったかもしれない。
でもあなたは大喜びでその鍵を使って宝箱を開けた。
あーん、うまいって、おいしいとこ取りのダッシュね。
では、もう一つ別の選択肢が与えられたとします。ミセス・バジルというニックネームの大叔母さんの家を訪ねて、「マークという名前のいとこから鍵を借りたいんだけど、おばさんから彼に電話して、なんとか熱弁を振るって頼んでほしい」って頼み込むの。その鍵はクッキング・スタジオとは全く違う種類の王国への鍵よ。
さて、あなたならどうする?
答えは明らかね。
あなたはその王国への鍵を手にするでしょう。
「卑怯だぞ、リリー」と私のいとこのマークが言った。私たちはストランド書店の正面玄関前に立っていた。「この次はお前が自分で俺に言ってこいよ」
「私が頼んだってどうせ嫌だって言うでしょ」
「まあな。まったく、俺が大叔母さんのアイダにめっぽう弱いことにつけ込みやがって」マークはダッシュをまじまじと見て警戒するように指差した。「それからお前!店の中でおかしなことするなよ、わかったか?」
ダッシュは言った。「いや、君の言うそのおかしなことが何を意味しているのかさっぱりわからないな、そもそも僕はなぜここにいるのかもわかってないんだからね」
マークは鼻で笑った。「学者ぶったキモいやつだ」
「褒めてくれてありがとう!」とダッシュは明るく言った。
マークは正面玄関の鍵を開け、店の中に私たちを入れてくれた。大晦日の午後11時だった。ブロードウェイに沿って浮かれた人々の流れができていた。数ブロック離れたユニオンスクエアから大声を上げる人々のお祭り騒ぎが聞こえてきた。
書店は数時間前に閉店していて、店内は静かだった。
私たちのために、私たち二人だけのために、大晦日の夜に店を開けてくれたのよ。
大事なのは人脈ね。
言い換えると、大事なのは、いとこに電話して「あなたが大学に入ったとき、学費を出してあげたのは誰かしら?」と恩着せがましく言いながら、「リリーベアのためにちょっとお願いがあるの」と頼んでくれる大叔母さんがいることね。
ダッシュと私がストランド書店の中に入ると、マークは私たちの背後でドアの閉め、鍵をかけた。それから彼は言った。「上の人に頼んだらこう言われたよ。お前たち二人にストランド書店のTシャツを着せて、ストランド・バッグを持たせて、広告用の写真を撮らせてくれれば、特別に中に入れてもいいって。タブロイド紙がお前らのことをすっかり忘れてしまう前に、お前らの名声に乗っかるつもりなんだよ」
「無理」と、ダッシュと私は同時に言った。
マークは目をくるりと回して、あきれた表情をした。「お前たちはまだ子供だな。考えてもみろ、すべては施しだろ」
それから彼は私たちが考えを変えるのを期待するように、間を開けた。
数秒待ってから、彼は両手を挙げて諦めてくれた。
マークは私の方を向いて、「リリー、ここを出るときはちゃんと鍵をかけろよ」と言い、次にダッシュに向かって言った。「お前、このかけがえのないベイビー・ガールに何かしようとしたら、―」
「私を子供扱いしないで!」つい〈金切り声のリリー〉が出てしまった。
おっと失礼。
冷静に、私は付け加えた。「マーク、私たちは大丈夫よ。ありがとう。さあ行って。ハッピーニューイヤー」
「広告写真のことなんだけど、気持ちは変わらない?」
「無理」と、ダッシュと私はもう一度宣言した。
「お前ら赤ちゃん泥棒のくせに」とマークがつぶやいた。
「明日の夕食にはうちに来るんでしょ? 新年だけどクリスマスパーティーよ」と私はマークに聞いた。「ママとパパが午前中には帰ってくるわ」
「行くよ」とマークは言うと、前かがみになって私の頬にキスした。「じゃあな、リリー」
私も彼の頬にキスを返した。「それじゃあ、気をつけて。あなたもおじいちゃんみたいなガミガミ老人にならないように気をつけてね」
「ここまでやってあげたんだから、俺にもそろそろ運が向いてくるかな」とマークは言った。
それから彼はストランド書店の正面玄関の鍵を再び開けて、大晦日の夜の中へ戻っていった。
ダッシュと私は書店の中に残り、お互いに見つめ合った。
本好きにとってこの街で最も神聖な場所で、私たちは二人きりだった。大晦日の夜、この街で一番大きな期待を秘めながら。
「さて、どうする?」とダッシュがほほえみながら聞いてきた。「もう一度踊る?」
クッキング・スタジオからユニオンスクエアやストランド書店のある地区まで地下鉄に乗ったんだけど、私たちの乗った車両ではたまたまメキシコ人の音楽隊が〈マリアッチ〉という音楽を演奏していたの。すべての楽器が揃った5人組編成のバンドで、これぞメキシカンという伝統衣装を着ていたわ。ハンサムな髭を生やした歌い手が〈ソンブレロ〉という大きな麦わら帽子をかぶって、素敵なラブソングを歌っていた。というか私はラブソングだと思ったの。スペイン語で歌っていたから確証はないんだけどね(自分へのメモ:スペイン語を学ぶぞ!)。でもね、近くに座っていた二組のカップルがそれぞれ別々にイチャイチャし始めたんだけど、それがちょうど歌が美しく盛り上がったところだったから、きっと歌詞が凄くロマンチックだったんだと思う。そのとき、その音楽隊の寄付集めの帽子が乗客の間に回されていたんだけど、そこに小銭を入れたくなかったからじゃないと思うけどな。
ダッシュはその寄付集めの帽子に1ドルを投げ入れた。
私は思い切って賭け金を引き上げた。「私と一緒に踊ってくれたら、5ドルにするわ」ダッシュは私を大晦日のデートに誘ってくれた。だからせめて恩返しがしたいと思って、彼に一緒に踊ろうって言ったのよ。でもすでに怖じ気づいているようだった。
「ここで?」とダッシュが屈辱を受けたような顔で聞いてきた。
「ここでよ!」と私は言った。「さあ勇気を出して」
ダッシュは首を振った。彼の頬が明るい深紅色に変わった。
角の席で崩れるように座っていた飲んだくれが大声で叫んだ。「さっさとそのお嬢ちゃんと踊ってやれ、この役立たず!」
ダッシュは私を見て、肩をすくめた。「じゃあ5ドル払って、お嬢さん」と彼が言った。
私はその音楽隊の帽子に5ドル札を落とした。バンドは新たに活気づいたように演奏した。車内はお祭り騒ぎとなり、乗客の期待は最高潮に達した。誰かが隣の人に言った。「あれって赤ちゃん泥棒じゃない?」
「赤ちゃんキャッチャーだよ!」とダッシュがかばってくれた。そして彼は私に両手を差し出した。
私は彼を試すつもりで言ってみただけで、実際に応えてくれるとは思っていなかった。私はダッシュに体を寄せて耳元でささやいた。「私のダンスはひどいわよ」
「僕もだよ」と、彼も私の耳の中に注ぎ込むように言った。
「さっさと踊れ!」と、さっきの飲んだくれが要求してきた。
乗客たちは手を叩いて歓声を上げ、私たちを囃し立てた。バンドの演奏はより激しく勢いを増し、歌声もさらに大きくなった。
地下鉄が〈14丁目通りユニオンスクエア駅〉に到着し、
扉が開いた。
私はダッシュの肩に腕を回していた。彼も私の腰に手を当てていた。
私たちはそのまま〈ポルカ〉のステップで地下鉄を降りた。
扉が閉まり、
私たちはそれぞれの手を相手の体から離した。
私たちはストランド書店の地下にある特別な保管室のドアの前に立っていた。
「中に何があるか当てたい?」と私はダッシュに聞いた。
「たぶんもうわかったよ。この中には赤いノートが切れた時に補充する新しい赤いノートがたくさんあるんじゃないかな、そして君は僕たちがこれからもノートを埋めていくことを望んでいて、たとえば、ニコラス・スパークスの作品について書き合って、相手が書いた手掛かりを頼りにお互いの心を読み合いたいとか?」
「誰?」と私は聞いた。お願い、ふさぎ込むような暗い詩人の名前はもう出さないで。私にはついていけないわ。
「ニコラス・スパークスが誰か知らないの?」とダッシュが聞いた。
私は首を振った。
「ならニコラス・スパークスについて調べちゃだめだよ」と彼は言った。
私はドアの横のフックに掛かっていた保管室の鍵を手に取った。
「目を閉じて」と私は言った。
地下室は寒くて、ダッシュに目を閉じてもらう必要はないほど暗く、どこに何があるのかよく見えなかった。ただ、たくさんの本が保管されていることは、かびっぽくも、とてもいい匂いが充満していることでわかった。それでも何かサプライズ的な要素を醸し出した方がいいかなと思って目を閉じてもらったの。それと、彼が目を閉じているすきに、私は胸の谷間に挟まっているライスクリスピーの粒を取りたかったのよ。
ダッシュは目を閉じた。
私は鍵を回してドアを開けた。
「もうちょっとだけ目を閉じてて」と私は頼んだ。
私はマシュマロがブラにくっついてそこにとどまっていたライスクリスピーの残り一粒をすばやく取り除いた。そしてハンドバッグからろうそくを引き出すと、火を付けた。
寒くてかびの匂いがする室内に灯りがともった。
私はダッシュの手を取って、中に導いた。
彼の目はまだ閉じられていた。その間に私はメガネを外した。改めて考えてみると、―わかんないけど、―外した方がセクシーかな?と思ったの。
私たちの背後でドアがひとりでに閉まった。
「じゃ目を開けて。これはあなたにあげるプレゼントじゃないの。ただのご対面よ」
ダッシュは目を開けた。
彼は私がメガネを外したことに気付かなかった。(あるいは私の視力が低すぎて、彼の反応を見分けられなかったのかもしれない。)
「嘘だろ!」とダッシュが叫んだ。薄ら灯りの中でぼんやりとしか見えなくても、彼には説明は不要だった。セメントの壁を背に製本された何巻もの本が積み上げられていた。彼はそれに触れようと駆け寄った。「オックスフォード英語辞典の完全版だ!アー、ワオ、ウオー、オー、ワオー!」ダッシュは無我夢中だった。まるでドーナツに目がないアニメのホーマー・シンプソンがドーナツを目の前にした時のように、わかりやすい至福のひと時だった。「ウーン...ドーナッツ」
ハッピーニューイヤー。
こんなおかしなことを書くのは明らかにのろけてるみたいで気が引けるんだけど、若いダシールには、なんていうか...爽やかさというか、颯爽とダッシュして駆けていくような雰囲気があるのよ。彼がかぶっている中折れのフェドーラ帽のことを言っているわけじゃなくて、彼の着ている青いシャツが彼の藍色の目にとてもよく合っているって言いたいわけでもなくて、それよりも彼の顔の作りがね、かっこよさと甘さを掛け合わせたみたいで、若いけど賢そうな、抜け目ない感じもあるけど優しそうな、爽やかな顔つきなの。
私にはこういうことはよくあるからどうってことないわ、みたいなクールさを醸し出したかったんだけど、できなかった。「気に入った? ねぇ気に入った?」と、私は世界一美味しいカップケーキを味見している5歳児の熱意で聞いてしまった。
「くっそ気に入った」とダッシュは答えた。そして帽子を取り、感謝の意を示すように私に向かって頭を下げた。
おや。汚い言葉、―爽やかじゃないわ。
彼は「すっごく気に入った」と言ったのよ、そういうことにしよう。
私たちは床に座り込んで、手に取った辞書をめくってみた。
「私は言葉の語源が好きでね」と私はダッシュに話した。「どういうことが起こって、その言葉が発生したのかを想像するのが好きなの」
赤いノートが私のハンドバッグから顔をのぞかせていた。ダッシュはそのノートをつかむと、OEDの「R」の巻から言葉を一つ選び出して、赤いノートにそれを書き込んだ。
「この言葉の語源はどうかな?」と彼が聞いてきた。
彼が書いた言葉は「revel」だった。私はダッシュのひざの上に置かれた「R」の巻を手に取ると、その言葉の項目を読み上げた。「えーと」と私は言った。「Revel。1300年頃発生、『騒々しいお祭り騒ぎ』他の意味は? 動詞としては『浮かれ楽しむ、ごちそうを食べる』、1325年頃発生」
ダッシュが赤いノートに書いた「revel」の横に、私はその言葉が生まれた状況を想像して書いた。ほら、たくさんお食べ、子豚ちゃん。新年のお祝いよ!そうして私たちはかわいそうな罪のない豚を殺してベーコンにして、朝食の席で楽しみながら食べるのよ!それがR-E-V-E-Lね。
ダッシュはそれを読んでくすくす笑った。「じゃあ今度は君が言葉を選んで」
私は「E」の巻を開くと、目に入ってきた言葉を適当に選んで、「epigynous」と書いた。
私は意味もわからずにその言葉をノートに書き写したあと、その意味を読んでみた。Epigynous (i-pi-jә-nәs):リンゴやキュウリやスイセンなどの花の内側にある、胚珠をつつんでいる子房の先端、または先端近くの受粉するための部分。その形容詞形。
こんな思わせぶりな言葉を私は選んじゃったの?
私はみだらな尻軽女(trollop)だってダッシュに思われちゃったかも。
だったらいっそのこと、その言葉「trollop」を選べばよかったわ。
気まずさを吹き飛ばすようにダッシュの携帯電話が鳴ってくれた。
お互いにほっとしたんじゃないかしら。
「もしもし、父さん」とダッシュが電話に出た。彼が前かがみになって肩をすぼめた瞬間、彼の爽やかさもしおれてしまった気がした。彼の声が慎重で控えめになった。なんか...無理に心を開いているみたいな話し方、それが私の感じた彼が父親と話す時の印象だった。「まあ、新年を迎える時は毎年こんな感じだから。酒と女かな」それに対して父親が何か言ってから、「ああ、そう、あのこと聞いたんだ? おかしな話でしょ...」父親が何か言ってから、「いや、父さんの弁護士とは話したくない」父親が何か言ってから、「うん知ってる、明日の夜には家に戻るんでしょ」父親が何か言ってから、「楽しみだよ。父さんと人生について語り合うこと以上に楽しみなことなんてないよ」
私がこんなに大胆になるなんて自分でも不思議だったけれど、ダッシュの父親に対する一貫した重い物腰に私はしびれを切らしてしまった。私は小指を彼の小指に近づけ、安らぎを求めるように、そっとくっつけてみた。そしたら磁石のように、彼の小指が私の小指にしがみついてきて指と指が絡み合った。
私はその磁石みたいな密着感がすっごく好き。
「さて、その言葉についてだけど」とダッシュが父親との電話を終えた後に言った。「Epigynousだっけ?」
私は跳び上がって、気まずくならないような言葉が載ってそうな別の本を急いで探した。そして『都会人がこっそり使う用語辞典』なる本があったので、それを手に取り、適当にページをめくった。
「ランニング・ラテ」と私は大きめの声で言った。「意味は『コーヒーを飲むために寄り道して遅刻すること』」
ダッシュがまた赤いノートに何かを書き始めた。
ごめんなさい。僕はランニング・ラテのため(コーヒーを飲むために寄り道しているので)、あなたのバル・ミツバー(ユダヤ人の男子が13歳になる時に行われる儀式)に遅れます。
私もペンを取って書き加えた。あなたのタキシードにコーヒーをこぼしてしまったことも、ごめんなさい!
ダッシュが腕時計を見た。「もうすぐ12時だね」
私の胚珠をつつんでいる子房の辺りがうずいた。ダッシュは私が彼をこの保管室に連れ込んだのは、年が明けた瞬間にキスをするという、恐ろしい(あるいは素敵な?)儀式をするためだって思ってるのかな?
もし私たちがこの部屋にあんまり長くいたら、ダッシュは私が全く経験がないってことを知るかもしれない。私が彼としたくてたまらない色々なことに全然慣れてないってことを知られちゃう。
「あなたに言わなくちゃいけないことがあるの」と私は静かに言った。私は自分が何をしているのかわかってないけど、どうか私を笑わないで。迷惑かもしれないけど、お願い優しくして、そっと私を押し倒して。
「何?」
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