『ダッシュとリリーの12日間』1
『The Twelve Days of Dash & Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2018年09月02日~)
1
ダッシュ
ヤマウズラ鳥のツリーになる洋ナシの実
12月13日(土曜日)
僕とリリーが付き合い始めてもうすぐ一年になる。これまで僕はなんとか彼女の兄に気に入られようと、あれこれ試みたつもりだけど、どうしても彼は僕を信頼してくれないというか、僕とリリーは不釣り合いで、僕と付き合うことは彼女にとって良くないと思っているのだ。だから彼女の兄から僕と二人きりでランチを食べたいと誘われたのは、ちょっとした衝撃だった。
送る相手間違ってませんか? と僕は彼に返信した。
そんなにつんつんしないで。じゃあ話はその時に。と彼からメールが返ってきた。
なぜ彼が僕と会いたがっているのか、何について話したいのか、実はなんとなくわかっていた。僕の邪推だと頭から振り払おうとしても、それに拮抗する力でまとわりついてくる嫌な予感があった。
彼は僕を誤解している。でも彼の誤解ではないこともあって、たしかに一つ問題があったのだ。
この一年は結構大変だった。
最初の頃はまだ順調だった。順調すぎて、最高!とか超嬉しい!とか、そういう庶民が口にする言葉を僕も多用してしまったほどだった。というのも、去年のクリスマスから今年の初めにかけての期間が、毎年恒例の大量消費からの停滞期という流れから外れ、特別なものを僕にもたらしてくれたからだ。新年の幕開けとともに、僕の目の前にはリリーが、―キラキラ輝く、信頼に値するリリーがいた。彼女という存在は、あの慈悲深い太った男(赤い衣装に身を包み、ターボエンジンを装着したそりに乗ってプレゼントを配って回る男)の存在に信憑性を与えてくれたし、〈時の神〉が新しい年を告げ、さあ、今年もしっかり生きろ!と頭ごなしに言ってきたときも、彼女のおかげで〈時の神〉に感謝したい気持ちだった。僕が元々持っている皮肉なものの見方に対してさえ、僕自身が少し懐疑的になるくらい、彼女は僕を変えてくれたのだ。僕たちの大好きな書店、ストランド書店の地下にある貴重な本の保管室で、僕たちはイチャイチャしながら新年を迎えた。今年は良いことがたくさん起こりそうだという予感があった。
そしてその予感は、一定期間は正しかった。
彼女は僕の仲間たちと会い、良い関係を築いていた。
僕も彼女の、次から次へととめどなく登場する親戚のみなさんとまずまずうまくやっていた。
彼女は僕の両親(とそれぞれのパートナー)とも会った。暗い雲に覆われたような息子が太陽のような女の子を家に連れてきたことに、両親ともに驚き困惑していた。とはいえ彼らがケチをつけるはずもなく、むしろ神の思し召しでも感じたかのように、まるでニューヨークきっての人気店で特上のベーグルを買えたみたいに、あるいは、50ブロックもの区間を赤信号に引っかかることなくタクシーが進んだみたいに、もしくは、ウディ・アレンが監督した多くの映画の中から、5本に1本しかない〈当たり〉の作品を引き当てたみたいに、ちょっと興奮ぎみに彼女をもてなしていた。
僕は彼女の大好きなおじいちゃんにも会った。彼は握手したときの僕の手の感触を気に入ったようで、握手すれば大体どんな男なのかわかる、と言っていた。初対面で気に入られたとはいえ、油断はできなかった。なにしろ彼女のおじいちゃんは、両目を爛々と光らせながら50年前に観戦した野球の試合を、まるで昨日のことのように事細かに話す人だったから。
リリーの兄のラングストンはさらに手ごわい存在だった。たいてい彼は僕たちを放っておいたし、僕も彼のことは気にしなかった。べつに僕は彼女の兄と一緒にいるためにリリーと付き合っているわけではない。僕がリリーと付き合っているのは、リリーと一緒にいるためなのだから。
そして僕とリリーはいつも一緒にいた。僕たちは同じ学校に通っているわけではないし、それほど近所に暮らしているわけでもない。それで僕たちはマンハッタンで待ち合わせて、そこで遊んでいた。霜が降りたセントラル・パークではしゃぎ回り、シンク・コーヒーでひと休みしてから、IFCに行って、そこで上映していたあらゆる映画を見まくった。僕はニューヨーク公共図書館の大好きなコーナーに彼女を連れて行き、逆に彼女は僕の手を引き、〈ルヴァン〉に連れて行ってくれた。そこで彼女のお気に入りのデザートを一緒に食べた...とはいえ、店内のすべてのデザートが彼女のお気に入りみたいだったけれど。
マンハッタンの街はそうやってはしゃぎ回る僕たちのことなど全く気にしていない様子だった。
1月から2月になり、寒さが街の骨の髄まで浸透し始め、笑顔を作ることさえ容易ではなくなった。空から降ってくるときは魅惑的だった雪も、道端に積もり凍り付き、長くそこに留まり続けるうちにありがたくない存在になっていった。僕たちは重ね着をして街を歩くようになり、街の肌触りをじかに感じられなくなった。
それでもリリーは、―リリーにはそんなことはお構いなしだった。リリー自身が手袋であり、ホットチョコレートであり、地上から浮かび宙を舞う雪の天使だったのだ。彼女は自分で冬が大好きだと言っていたけれど、僕には彼女に嫌いな季節があるとも思えなかった。僕は彼女のそんな熱意を真摯に受け止めようとした。けれど心の受け皿を変えるのはなかなか困難だった。僕の内側にある暖炉のようなものは、元々自身の懺悔のために、いわば身を焼くために心の中に築き上げたものであって、暖を取るためではない。だからリリーがそうやって彼女自身の内側から発する熱で幸せになれることが、僕には不思議で仕方なかった。しかしそういう彼女こそ、僕が恋に落ちた人なのだ。僕は疑問に思うのはやめて、むしろ彼女の暖炉に取り込まれて過ごそうと思った。
それから季節が変わり、5月になった。
僕はリリーへの誕生日プレゼントとして赤いセーターを編んでいたんだけど、彼女の誕生日の2日前になっても完成するめどが立たず、親友のブーマーを呼び出して手伝ってもらうことにした。いくらYouTubeを見ても半日で赤いセーターを編み上げる方法など教えてくれなかったから、ブーマーと二人でひたすら編み続けていた。携帯電話が何度も鳴ったみたいだけど、僕は編み物に集中していて聞こえなかったし、かすかに鳴っている気配がしても、僕の両手は塞がっていて出られなかった。2時間ほど経ってから携帯を見たら、大量のメッセージが届いていた。
そうして僕は彼女の大好きなおじいちゃんが軽い心臓発作で倒れたことを知ったのだ。聞いたところによると、心臓発作を起こしたタイミングが悪く、彼はアパートメントの上の階の自室に戻る途中に、つまり階段を上っているときに発作に襲われたらしい。彼は倒れ、階段を転がり落ちた。かろうじて意識はあったものの、リリーが帰宅して発見するまで、彼は少なくとも30分間そこに倒れていた。彼女はすぐに救急車を呼び、10分程度で救急車は到着したけれど、彼女には果てしなく長い10分間だった。彼女が見守る中、救急隊によっておじいちゃんは階段を下ろされた。救急車の中、彼女が見守っている横で救急隊はおじいちゃんに蘇生術を施した。そして病院の待合室で彼女が待っている間(そこでは見守ることはかなわなかった)、おじいちゃんは生死の境をさまよい、なんとか持ちこたえて、こちら側に生還した。
その時、彼女の両親は外国にいた。ラングストンは大学で授業を受けていて、授業中携帯を見ることは禁止されていた。僕は彼女を驚かせようと編み物に励んでいたので、彼女からの電話に気付かなかった。結果、彼女は〈ニューヨーク長老派教会病院〉の待合室で一人ぼっちだった。彼女にとってかげないのない存在であるおじいちゃんを失いかけながら、彼女は自分の中の生命力の輝きまでも失いかけていた。いつか失うことになるとは夢にも思っていなかったはずの輝きを。
おじいちゃんはなんとか生き延びたけれど、回復するにはかなりの時間が必要だった。彼は助かったけれど、回復までの道のりはかなりの苦痛を伴うものだった。彼が回復したのは、リリーが彼を支えたからに他ならない。しかし同時に彼女の心身に大きな負担がのしかかった。もちろん彼を死なせてしまうことは辛いことだろうけど、彼が苦しみ続けるのを、彼の心が折れそうになるのを、そばで見続けることもまた、ほとんど同程度に辛いことだった。
彼女の両親が帰国した。ラングストンは大学を休学してもいいと申し出た。僕も付き添ってもいいと言った。でもそれは彼女のやるべきことだった。おじいちゃんは彼女が責任をもって面倒を見ると彼女は言い張った。彼女には他の選択肢は考えられなかった。そしておじいちゃんも苦痛に喘いでいて、彼女にものが言える状態ではなかった。なにも僕はおじいちゃんのせいだと言っているわけではなくて、―というか誰のせいでもないんだけど、リリーは僕がもう一度人生にしっかり足をつけて歩けるようにしてくれた人だから、彼女は僕を生命力の溢れる世界に連れ戻してくれた人だから、また前みたいにそういう人になってほしかった。彼女の内側からほとばしる命の輝きを感じられなくなってさえも、そう願った。
事態が悪くなっていくとき、一番傷つくのはいつも、信念を持って行動している人なんだ。そういう状況にあっても彼女は何も話そうとしなかったし、僕も彼女にその状況を違う角度から見せてあげるだけの言葉を持ち合わせていなかった。彼女が僕に心の拠り所になってほしいと言ったから、僕は気を良くして彼女を支えようとした。でも僕は椅子や柱のような、ただそこにあって受動的に支えるタイプの人間だから、自分以外の人が立ち上がるのを積極的にサポートすることなどできなかった。そうこうしているうちに彼女のおじいちゃんは手術したり、手術したことによる合併症を患ったり、理学療法を試したりして入退院を繰り返した。彼女と僕が一緒に過ごす時間は少なくなっていった。二人で街をあてもなく歩いて過ごすことも少なくなり、お互いの考えていることにあれこれ思いをはせることも少なくなった。
試験期間は瞬く間に過ぎ去り、―夏休みに入った。リリーはおじいちゃんがリハビリのために通っている病院でボランティアの仕事を始めた。それはおじいちゃんともっと多くの時間を過ごすためでもあったけれど、おじいちゃんのように手助けを必要としている他の患者さんたちにも手を差し伸べたいという気持ちからだった。僕は後ろめたい気持ちになった。というのも彼女が病院でボランティアをしている間、僕は母親と母親のパートナーと一緒にモントリオールへ旅行に行き、その旅行から帰ってくると、今度は父親と父親のパートナーと一緒にパリまで小旅行に行っていたのだから。父親は「母親とモントリオールに行ったのなら俺はパリに連れて行く」という、単なる母親への対抗意識で僕をパリまで連れて行ったのだ。僕は「なんでパリになんか連れてきたんだよ」と父親に怒鳴りながら、なんて僕は子供なのだろうと実感し呆れた。その旅行中ずっと僕は父親の元を離れ、リリーの待つ国に帰りたいと思っていた。
夏休みが終わり新しい学年が始まると、状況はだいぶ良くなった。彼女のおじいちゃんは再び歩けるようになり、「わしのことはもういいから、お前はお前のために生きろ」と言ってリリーを追い払うようになった。僕はそれでリリーは安心しただろうと思ったし、彼女もほっとした素振りを見せてはいた。でも彼女はまだ心のどこかで怖がっているようだった。それでも僕は彼女のそんな気持ちを問い詰めることはせずに、僕も彼女と一緒になって、すべては順調だというふりをした。そう思っていれば、水路が切り替わって水の流れが変わるように、そのうち〈半分嘘〉が〈半分以上真実〉になり、そして最後にはすべてが本当にうまくいく気がした。
僕たちはまた元に戻ったんだと思い込むことはたやすかった。実際学校生活は絶好調で仲間たちに囲まれ楽しく過ごしていた。僕たちは有り余るほどの時間を手にし、再びぶらぶらと街を練り歩いたり、逆に街の喧騒から離れて静かに過ごしたりした。彼女の内面には僕の手の届かない領域があったけれど、僕が触れることのできる部分もたくさんあった。たとえば、彼女は犬を連れている人を見ると、「ほら、飼い主って飼い犬に似てるでしょ」と言って笑ったし、一緒に見ていたテレビ番組で、レストランが有罪判決を受けるぎりぎりのところで持ちこたえて名誉を回復したときには涙を流した。彼女の内側にはそういう部分があるのだ。それから彼女はいつ僕が訪ねてきてもいいように、彼女の部屋に純植物性のマシュマロを一袋常備してくれていた。僕が一度彼女に、それが凄く好きだと言ったからだ。
僕たちの間に亀裂が見え始めたのは、クリスマスが近づいてきた頃だった。
以前の僕はクリスマスシーズンになると気持ちがしぼんでしまい、なんだか自分が手のひらサイズのギフトカードと同じくらいちっぽけに、あるいはギフトカードに書かれた言葉くらい無味乾燥な存在になった気がした。この時期になると、通りが観光客でごった返して血流が鈍った血管のようになることにうんざりしていたし、普段の小気味よく脈打つような街の音が、観光客の薄っぺらな会話、お決まりの常套句でかき消されるのも耳障りだった。大概の人はクリスマスまでになんとか買い物を済ませようとクリスマスまでの日にちをカウントダウンしているけれど、僕の場合はさっさとクリスマスを終わらせたくてカウントダウンしていた。クリスマスが終われば、殺風景にはなるけれど真の意味での冬がやっと始まるから。
僕の心にはおもちゃの兵隊の内部みたいな空きスペースはなく、リリーの入り込む余地はないはずだった。それなのにリリーが強引に入り込んできて、しかもクリスマスまでも僕の心の中に運び入れてしまった。
とはいえ、誤解しないでほしいんだけど、―毎年年末になると口先だけ慈悲深くなって、年が明けるとそんな慈悲の心も、めくられた12月のカレンダーとともにすっかり忘れてしまうような人たちを、今でも僕はかなりうさんくさいと思っている。リリーの場合はそうではなくて、彼女は一年中優しさを身にまとっているからこそ、それが彼女の一部になって、しっくり似合っているのだ。そして僕もようやく、周りの人たちがまとう優しさのようなものが見えるようになってきた。―僕は〈ル・パン・コティディアン〉でラングストンを待ちながら、周りの人たちをぼんやり観察している。お互いを見つめ合っているカップルが何組かいて、その中には、彼らのまなざしから末永く続きそうな寛容さが溢れているカップルもいる。子供を見つめる親のまなざしは(たとえ子供をしかっているときでも)、ほとんどが思いやりに満ちている。そう、僕はリリーがまとっている優しさの一片一片をそこかしこに見ているのだ。最近リリー自身はそれをどこかに置き忘れてしまった様子だけど。
そう感じているのは僕だけではないことが判明した。ラングストンが僕の向かいの席に座り、開口一番こう言ったからだ。「わかるだろ、本当は君とランチなんか食べたくないんだ、でもなんとかしないといけないんだよ。今すぐに何か手を打たなきゃならない」
「何かあったんですか?」と僕は聞いた。
「クリスマスまであと12日しかない、そうだろ?」
僕は頷いた。今日は12月13日だから、たしかにそうなる。
「12日後にはクリスマスが来てしまうっていうのに、なんていうか、我が家にはぽっかり大きな穴が開いている。どうしてだと思う?」
「シロアリ?」
「冗談を言いに来たわけじゃないんだ。僕たちのアパートメントにぽっかりできた空白のスペース、そこにあるべきはずのクリスマスツリーがないんだよ。普段のリリーなら、11月の感謝祭で食べきれなかったごちそうがまだ残ってるうちから、焦ってツリーを買いに走るんだ。―それが彼女のモットーだから。つまり、この街では良い物はすぐに誰かに取られてしまう。ぐずぐずしてると、クリスマスを祝うには物足りないようなツリーしか残ってないんだ。だから毎年我が家には12月に入る前からツリーが立っていて、それからリリーはたっぷり2週間かけて飾り付けをする。そして14日には毎年恒例の点灯式を家族みんなで執り行うしきたりになっている。―リリーは7歳の頃から毎年やってるから手慣れたものだし、彼女がさぞ当たり前のように準備してるから誰も疑問に思わない。今では当然やるべき我が家の伝統行事として定着してるんだ。なのに今年は何もない。ツリーがないんだよ。飾り付けの道具はまだ箱にしまったままだっていうのに、点灯式は明日に迫っている。ミセス・バジルは明日のための料理をすでに発注してしまった。―そして僕はミセス・バジルに、実は点灯式で点灯するツリーがないんですよ、とは言えない」
ミセス・バジルに言えないと怖がっている彼の気持ちが僕には理解できた。彼らの大叔母さんのことをみんなはミセス・バジルと呼んでいるんだけど、その大叔母さんが彼らのアパートメントのドアを開けた瞬間に、鼻を利かせてツリーがないことを察知し、あからさまに嫌な顔をする姿が目に浮かんだ。ミセス・バジルはやるべきことをやらないと目くじらを立てる人だから。
「じゃあ、ツリーを買ってくればいいんじゃない?」と僕は聞いた。
ラングストンは僕の愚かさに呆れたという様子で、彼のおでこをピシャリと叩いた。「わかってないな、それはリリーの仕事なんだよ!リリーが毎年楽しみにしてることだから、もしリリー以外の誰かがツリーを買ってくれば、リリーはツリーを準備しないんだねって彼女に言ってるみたいなものだし、そんなことしたら彼女はもっと気分を悪くするよ」
「ああ、なるほど、そういうことね」と僕は言った。
ウエイトレスがやって来て、僕たちは二人ともパン類の軽食を注文した。―お互いにしっかりとした食事を頼んでも、食べ終わるまでの時間をもたせるだけの話題がないことに思い当たったのだろう。
注文が済むと、僕は話を続けた。「彼女にはツリーのことを聞いたんですか? つまり、今年はツリーを買わないの?って」
「聞いたよ」とラングストンが言った。「単刀直入に聞いた。―『おい、ツリーは買ってこないのか?』って、そしたら彼女はなんて答えたと思う? 『今はそういう気分じゃないの』だって」
「なんか全然リリーらしくないな」
「そうなんだよ!だからまずい状況だと思った。早急に何か手を打たなきゃまずいって。それで君にメールしたんだ」
「でも僕にどうしろと?」
「彼女は君に何か言ってなかったか?」
ラングストンとの会話がなんとなく打ち解けてきたとはいえ、僕は彼にありのままを話すつもりはなかった。つまり、リリーと僕は感謝祭から数週間たいした話をしていないなどとは口が滑っても言いたくなかった。僕たちは時々美術館に行ったり、一緒に食事したりしていた。時にはキスしたり、軽くイチャイチャすることもあった。―といっても、CBS(お堅いテレビ局)で流せないようなことまではしなかった。まだ一応付き合ってはいたけれど、僕たちの関係はかなり表面的なものになってしまったと感じていた。
それは僕のせいだと思っていたので、そんなことを言い出すのは自分の恥をさらすようで嫌だったし、それに、ラングストンに言っても彼の不安をあおるだけだと思った。僕自身がもっと早く危機を察して、何か手を打つべきだったのだ。
それで踏み込んだ話はやめて、僕は「いえ、ツリーのことは何も聞いてないです」とだけ答えた。
「ってことは、彼女は君をツリーの点灯式に招待してないってことか?」
僕は首を振った。「今初めて聞きました」
「そんなことだろうと思った。たぶん明日の点灯式に参加するのは、毎年参加してる親戚のみんなだけだろうな。普通ならリリーが招待状を配って回るんだけど、今年はそんな気分じゃないみたいだし」
「やっぱり何か手を打たないとまずいですね」
「まあな、でもいったいどうすればいいんだ? 勝手にツリーを買ってくるのは彼女に対する裏切り行為っぽくなるし」
僕は少し考えて、ひらめいた。
「裏技があるって言ったらどうします?」と僕は言った。
ラングストンが首をかしげて、僕をじっと見つめてきた。「裏技?」
「僕が彼女にツリーをあげるんです。プレゼントとして。僕から彼女へのクリスマスプレゼントの一つとして。彼女は僕がその伝統行事のことを知ってるとは思ってないでしょ。僕が何も知らずにしゃしゃり出てきた感じにすれば、うまくごまかせます」
ラングストンはそのアイデアに賛同したくないようだった。それは僕を認めることにもなるからだろう。しかし少し考えて、迷いを吹っ切ったように、一瞬彼の目がキラリと光った。
「それでいこう。彼女にはクリスマスを12日間毎日祝おうって提案するんだ」と彼が言った。「明日はその始まりを祝して」
「クリスマスのあとの12日間じゃないですよね?」
ラングストンは「厳密に言えばな」と言って、僕のつっこみを軽くあしらった。
僕はそう簡単にうまくいくか不安だったけれど、やってみる価値はあると思った。
「よし」と僕は言った。「じゃあ、僕がツリーを持っていくから、驚いたふりをしてください。ここでの会話はなかったことにしましょう、それでいいですね?」
「わかった」注文した二人分のパンが到着し、僕たちはそれにかぶりついた。そして70秒ほどで、二人とも食べ終えてしまった。ラングストンが財布を取り出そうとした。―ここは僕が払いますと言おうとしたら、彼が20ドル札を数枚テーブルに置いて、僕の方へ滑らせてきた。
「そんな出どころもわからないような金はいりません!」と僕は大声を張り上げた。どうやらレストランでよく見る光景にしては、ちょっとばかり声が大きすぎたみたいだ。
「急にどうした?」
「僕が払いますよ」と僕は言い直して、目の前の彼のお金を押し戻した。
「いや、わかってくれよ。立派なツリーにしてほしいんだ。一番立派なツリーを選んでくれ」
「大丈夫」と僕は彼に請け合った。そして僕はニューヨークで昔からまかり通っている、お金に負けないくらい信頼のおける言葉を口にした。「知り合いにその筋の人間がいるから」
ニューヨークの住人が自分で森に行ってツリーを手に入れるのは不可能に近い。よって毎年12月になると、大量のツリーがどっとニューヨークに押し寄せてくる。それまで雑貨店の店先に飾ってあった鉢植えの花が、首をもたげたモミの木の襲撃を受け、一気に街が様変わりする。あらゆる空き地に根のないツリーが運び込まれ、即席の販売所があちこちに出来上がる。中には夜明け近くまでやっている販売所もある。誰かが午前2時に急に居ても立っても居られなくなり、自分の部屋に飾るツリーを買いに来るかもしれないからだ。
そういうぽっと現れたモミの木屋の中には、いかつい男たちが取り仕切っている店もある。普段は薬物の注射器(needle)を裏取引している連中が、この時期だけ針葉樹(needle)を売っているような感じだ。フランネル生地のチェックの服を着た男が切り盛りしている販売所もある。ニューヨーク北部の自然豊かな地域から初めて都会に出てきたように見える。やれやれ、大都会で一発当てよう!って勇んでやって来たのだろう。多くの店で見かけるのが学生のアルバイトである。短期のバイトの中でも特に短期集中のこのバイトは、すぐにお金が欲しい学生にはうってつけである。今年は、僕の親友のブーマーも、そういうモミの木屋で働いていた。
たしかに、ブーマーがこの仕事を始めてから、彼の考え方にもいくらか変化は見て取れた。それまで彼は『スヌーピーのメリークリスマス』の見過ぎで、クリスマスツリーにする低木を選ぶときは、なよなよした、どうしようもない感じの木が最も望ましいと信じ込んでいた。しっかり自立した、毒気のありそうな木を持ち帰って家に入れるより、貧弱な木を世話する方がクリスマス精神にのっとっているからだという。さらに彼はクリスマスが終わったら、クリスマスツリーは植え直すものだとも考えていた。そういう考えなのだから、なかなか話してもらちが明かなかった。
幸いにも、ブーマーは明瞭さに欠けているとはいえ、それを補っても有り余るほどの誠実さがあるので、彼が働いている22丁目の販売所は口コミで人が集まるようになった。彼が木の妖精の格好をして、お客さんを招き入れているのだ。彼は卒業まであと1年というところで全寮制の高校を辞めたんだけど、マンハッタンに帰ってきて、こうして認められたことで今は幸せを感じているのではないかと思う。ブーマーはすでに僕の母と父の、それぞれのアパートメントに飾るツリーの選定を手伝ってくれた。(母がかなり立派な方を取った。)リリーのために最高のツリーを選ぶという僕に課せられた任務も、彼は大喜びで手伝ってくれるだろうと思った。にもかかわらず、僕は彼の店に近づくにつれ、なんだか気が重くなった。気がかりなのはブーマーというより...むしろソフィアだった。
ブーマーが思い切って全寮制の高校を辞めたことも驚きだったけれど、夏休みが明けて新学年が始まってから、他にもいくつかサプライズがあった。僕の元カノのソフィアが家族と一緒にニューヨークに戻ってきたことも、それなりに驚きだった。彼女がもうバルセロナを離れることはないと断言していたから面食らっただけで、べつに「元カノが戻ってきたら、ややこしいことになる」とか心配したわけではない。―ソフィアと最後に会ったとき、僕たちはほぼ問題なく、すっきりした仲になれたから、彼女とまた会えることが純粋に嬉しかった。しかし、超びっくりしたのはその後の展開だった。ソフィアがブーマーと親しく遊ぶようになり...二人でデートを重ねるうちに仲を深めていき...さらに仲良くなった二人は、なんと付き合っているのだ。そんなことってある? と僕が頭を抱えて必死で理解しようとしているうちに、二人はラブラブになっていた。それって、僕の中では、世界一高価で高級なチーズを溶かして、ただのハンバーガーに挟んで食べるみたいなことだった。僕はどちらも大好きだけれど、それぞれに対する好きの種類が違うので、その二人が一緒にいるのを見ると、頭が痛くなった。
最も避けたかったのは、ブーマーの働く店にひょっこり顔を出してみたら、ちょうどソフィアも彼の店に立ち寄っていたという事態だ。あの二人はここぞとばかりに仲睦まじい様子を見せつけてきて、幸せオーラを大都会の隅々にまで届くくらい全開にするのが目に見えていた。あの二人は蜜月期の真っ只中なのだ。けど僕はと言えば、そんな幸福な時期は過ぎて、月が満ち欠けするような不安定な時期に突入してしまったので、それをはたから見るのは避けたかった。気持ちのやり場に困るのだ。
だからブーマーがソフィアと一緒にいなかったことに、いくぶんほっとした。彼は家族連れの相手をしていた。その家族は両親と子供が、5人か、6人か、7人くらいいた。―子供たちが元気に走り回っていたから、ぱっと見には正確な人数はわからなかった。
「これこそお客さんのような家族のためにあるようなツリーですよ」と彼は両親に話していた。まるでツリー自身がかねてからその家族の食卓を飾りたいと思っていて、それをこっそりブーマーにささやき、彼がそのツリーの熱い思いを代弁しているかのようだった。
「ちょっと大きすぎないかしら」と母親が、おそらく針のように細いモミの木の葉っぱが部屋の床一面に散らばるのを思い浮かべながら言った。
「はい、心が広いツリーですから」とブーマーが答えた。「だからこそ、心の広いお客さんには、ぐっと惹きつけられるものがあるんですよ」
「たしかに」と父親が言った。「不思議と惹かれるものがあるな」
売買は成立した。父親がクレジットカードをカードリーダーに通している最中、ブーマーは僕が見ているのに気づいて、こちらに手を振ってきた。僕はその家族が行ってしまうまで待った。子供たちの一人を踏んづけてしまいそうで怖かったからだ。
「凄いじゃないか、彼らをあんなに夢中にさせる(pine)なんて」と、僕は彼に近寄ってから言った。
ブーマーは混乱しているようだった。「俳優のクリス・パインのこと言ってるの? 彼はハンサムだけど、でも彼らをあの俳優みたいにした覚えはないけど」
「あのツリーを好きにさせたってことだよ」
「ああ!クリス・パインがツリー役するとか? それってなんか合ってる!そういえば彼って、木でできてるみたいな顔つきしてるし!べつに悪い意味じゃなくて」
こういう回りくどい話って、ブーマーの思考回路では自然な流れだし、べつに彼は話が脱線しているとは思っていない。だからソフィアがあれだけ長い時間彼と一緒にいて、ずっとまっすぐ彼と向き合っていられることに感心する。彼女以外にはたぶん無理だろう。
「リリーのためにツリーが欲しいんだ。とびっきり特別なやつ」
「リリーにツリーを買ってあげるの?」
「そう。プレゼントとして」
「そういうの好き!どこで買うつもり?」
「ここかな?」
「おお!そうこなくっちゃ!」
彼は周りを見回した。そしてあちこち見回しながら、あやしげにぶつぶつ何かつぶやいていた。オスカー、オスカー、オスカーみたいなことを。
「オスカーって君の同僚?」と僕は聞いた。
「ツリーって同僚のうちに入るのかな? つまり、ここのツリーはみんな、一日中ボクと一緒にいるから...それにボクたちはとっても楽しい会話をしてるからさ...」
「オスカーってツリー?」
「彼は完璧なツリーだよ」
「ここのツリーって、みんな名前があるの?」
「それは仲間うちだけの秘密っていうか、そこまでは言えない。そんなこと聞いて、ボクたちの世界にずかずか踏み込んでこないで」
彼は少なくとも1ダースのツリーを脇にどかしながら奥へ進み、オスカーを引っ張り出してきた。彼(というかそれ)は、僕には他のツリーと同じように見えた。
「これがそう?」と僕は聞いた。
「待って、待って...」
ブーマーはツリー置き場からそのツリーを引きずって、道端の縁石のところまで運んでいった。そのツリーは彼より1メートル近くも大きかったけれど、彼はまるで魔法のつえでも持っているかのように、すいすいと運んでいった。僕にはなじみのない気遣いでそのツリーを扱いながら、彼はツリー台にその根元を入れ、そっと立たせた。すると、不思議なことが起こった。―オスカーが腕を広げ、街灯の下にいた僕を手招きして呼び寄せたのだ。
ブーマーは正しかった。求めていたのはこのツリーだった。
「これにするよ」と僕は言った。
「でしょ」とブーマーが答えた。「贈り物だから包装する?」
僕は彼にリボンだけ巻いてもらうことにした。
10代の少年が一人でタクシーをつかまえるだけでも結構大変なのに、クリスマスツリーを牽引して運んでくれるタクシーをつかまえるとなると、ほとんど不可能である。それで僕はブーマーのシフトが終わるまでにいくつか買い物を済ませ、それから彼と二人で台車を押して、イースト・ビレッジにあるリリーのアパートメントへ向かった。
この一年、僕はリリーの家にそんなに足しげく通ったというわけではない。リリーは、おじいちゃんのことは気にしないで来ていいのよ、と言ってくれたけれど、でも僕という余計な分子が入り込むことで、彼女の家の中をさらに混乱させてしまうと思ったから、なるべく遠慮した。彼女の両親は近年まれに見るほど家にいて、彼女と過ごしているようだった。―ただ、両親が近くにいればリリーの負担はかなり軽減されるはずなんだけど、かえって彼女が世話しなければならない身内が二人増えたという印象を受けた。
ドアを開けたのはラングストンだった。そしてツリーを運んできた僕とブーマーを見た瞬間、彼が「ワオ!ワオ!ワオー!」と大声を上げた。僕はてっきりリリーが家にいるから、彼女の耳に届くように大げさに声を張り上げているのだろうと思った。けれどそれから、彼女とおじいちゃんは定期検診で病院に行っていると彼が告げた。両親も今日は土曜日だから外出中だという。どうして社交的な人たちはこうも土曜日に家にいないのだろう? というわけで、そこには3人しかいなかった...あとオスカー。
僕たちはリビングルームの一段高くなっている場所にオスカーを立てた。僕はあえて気づかないふりをしていたけれど、室内の雰囲気は覇気がなく、まるでアパートメント自体がこの一ヶ月くらいずっと咳き込んでいて、埃と色あせた空気を吐き出し続けていたような感じだった。その空気感を通して、ここの家族が最近どんな様子で過ごしていたかが伝わってきた。おじいちゃんが倒れて使いものにならなくなり、リリーもおじいちゃんにつきっきりで家のことまで手が回らなかったのだろう。この家をずっと見守り、しっかり管理してきたのは、おじいちゃんとリリーだったのだから。
オスカーが誇らしげに立っている横で、僕は背負っていたリュックからとっておきの物を取り出した。反対されなきゃいいけど、と思いながら。
「何やってる?」と、ラングストンがオスカーの枝の周りにひもを巻き付けながら聞いた。
「それって小さな七面鳥?」とブーマーが割って入った。「それを飾ると、プリマス・ロックにあるツリーみたいになるかな?」
「ヤマウズラ鳥だよ」と僕は、鳥の形をした木彫りの像を掲げながら説明した。真ん中に大きな穴が開いていて、巻いたナプキンを挟んでおける。「厳密に言えば、ヤマウズラ鳥の形をしたナプキンリング。あの店にはヤマウズラ鳥の装飾品は、このナプキンリングしかなかったんだ。店の名前はちょっと僕の口からは言えないんだけど」(その店の名前は〈クリスマスの思い出-Memory-〉っていうんだけど、その名前を発音すると、メントスを口に入れたままコーラを飲みたくなっちゃう。あの店に入ると、どうしても〈クリスマスのおっぱい-Mammary-〉が頭に浮かんできちゃうのだ。)「クリスマスを12日間祝うのなら、ちゃんと『クリスマスの12日間』の歌詞にあるようにしなきゃって思ってさ。リリーは何を飾り付けても自由だけど、ヤマウズラ鳥が止まってるツリーにはしたい。そしてツリーのてっぺんには...洋ナシを飾るんだ!」
僕はリュックから、その果物を引っ張り出した。歓迎されると思ったけれど、二人の表情は取り出した洋ナシの形以上に、ゆがんでいた。
「そんなもの、ツリーのてっぺんに飾れないだろ」とラングストンが言った。「おかしな見栄えになるし、それに1日か2日で腐っちゃうよ」
「でも洋ナシじゃないとだめだよ!だってヤマウズラ鳥が止まってるツリーなんだから!」と僕は言い張った。
「そういうことね」とラングストンが言った。一方、ブーマーはその歌を知らないようで、ウケる!とでも言わんばかりに爆笑した。
「もっといいアイデアでもあるのかよ?」と僕は挑戦的に言った。
ラングストンが一瞬考えてから、「ある」と答えた。彼は壁の近くまで歩いていくと、壁に飾ってあった小さな写真を取り外した。「これがある」
彼が僕にその写真を見せてきた。それは半世紀以上前に撮られた写真だったけれど、すぐにおじいちゃんだとわかった。
「おじいちゃんと一緒に写ってるのは、君のおばあちゃん?」
「そう。おじいちゃんの最愛の人、人生の伴侶だよ。二人は洋ナシ(pear)じゃないけど、発音は同じ、二人で一組(pair)」
ヤマウズラ鳥のツリーになる一組の恋人。うん、素晴らしい。
それをいざ取り付けるとなると、結構手間取った。―僕とラングストンが色々な枝に写真を取り付けてみて、しっくりくる枝を探している間、ブーマーはオスカーに「じっとしてて」と言い聞かせていた。やっと僕たちはツリーの頂上近くの枝に、一組のカップルが写る写真を落ち着かせた。その下では鳥たちが静かにこちらを眺めている。
それから5分ほどして、玄関のドアが開いた。リリーとおじいちゃんが帰ってきたようだ。僕が知り合いになったのは、彼女のおじいちゃんが倒れる数ヶ月前のことで、それほど長い付き合いではないんだけど、それでもおじいちゃんがどんどん小さくなっていくのがわかったし、まだ関係の浅い僕でも、その姿を見るのはつらかった。―もしかして病院やリハビリ・センターに行ってるんじゃなくて、どこかの洗濯機に放り込まれて不必要なほど長時間洗われてるから、毎回戻ってくるたびに縮んでいってるんじゃないか?
それでも彼の握手は健在だった。彼は僕を見ると、手を差し出してきた。「元気か? ダッシュ」そして彼は僕の手を握りしめたまま、激しく腕を振った。
リリーは僕に、いったいここで何やってるの? とは聞いてこなかったけれど、明らかにその質問が、彼女の疲れの色が見える目に浮かんでいた。
「医者はなんて?」とラングストンが聞いた。
「葬儀屋よりはずっとましだったな!」とおじいちゃんが答えた。僕は前にも彼がそのジョークを口にするのを聞いたことがあった。ということは、リリーはそれをもう200回くらい聞いているのだろう。聞くたびにつらいに違いない。
「葬儀屋よりましってことは、その葬儀屋って口臭いとか?」と、ブーマーが廊下に乱入してきて聞いた。
「ブーマー!」とリリーが言った。今度は、彼女はあからさまに混乱していた。「いったいここで何やってるの?」
それをさえぎったのはラングストンだった。「僕もびっくりしたんだけどさ、君のロミオっていうか彼氏が、だいぶ早いんだけどクリスマスプレゼントを持ってきてくれたんだ」
「こっち」と僕は言って、リリーの手を取った。「目を閉じて。見せてあげるから」
僕の手を握り返すリリーの手の感触は、おじいちゃんのものとはだいぶ違った。以前は僕たちが手をつなぐと、電気が走ったようにお互いの手が脈打つのを感じたけれど、今はもっと落ち着いた、そっと触れているだけの、それでいて心地よい感触だった。
僕が彼女を導いて廊下を歩いている間、彼女はずっと目を閉じていた。そして僕たちがリビングルームに入ったところで、僕は彼女に「開けていいよ」と言い、彼女は目を開いた。
「紹介するよ。オスカーっていうんだ」と僕は言った。「彼が君へのクリスマス初日のプレゼントだよ」
「ヤマウズラ鳥のツリーになる一組のカップル!」とブーマーが叫んだ。
リリーは状況を理解し、驚いた表情を見せた。あるいは彼女のリアクションが薄かったのは、疲れのせいかもしれない。でも少しすると、彼女の中で何かがはじけたように、彼女がぱっと笑顔になった。
「こんなことしてくれなくても....」と彼女が話し始めた。
「したかったんだよ!」と僕はすかさず言った。「ほんとに、どうしてもしたかったんだ!」
「それで、その一組のカップルはどこだ?」とおじいちゃんが聞いた。それから彼は写真を見ると、目に涙を浮かべた。「ああ、これは、わしらじゃないか」
リリーもその写真を見た。彼女も目をうるませたけれど、その表情は内省的なものだった。正直言って、彼女が胸中で何を思っているのか見当もつかなかった。ちらっとラングストンに目をやると、彼もまたリリーの心を読むようにじっと彼女を見つめていた。そして彼も僕と同様に、すぐには答えが見つからないようだった。
「楽しいクリスマスの初日を!」と僕は言った。
彼女が首を横に振って、「今日はまだクリスマスじゃないわ」とつぶやいた。
「今年は特別だよ」と僕は言った。「僕たちにとっては、今日からクリスマス」
ラングストンが「さあ、飾り付けよう」と言うと、ブーマーが手を挙げて名乗り出た。同時におじいちゃんも装飾品の入った箱を取りに行こうとしたけれど、それに気づいたリリーがパチンと目を覚ましたように、おじいちゃんのところに駆け寄った。―そしておじいちゃんをリビングのソファまで腕を引いて連れていくと、「おじいちゃんは、今年は監督として見ててちょうだい」と言った。おじいちゃんは納得いかない様子だったけれど、あまり逆らってもリリーの気持ちを傷つけるだけだと思ったのだろう。彼はおとなしくソファに座った。彼女のために。
装飾品の箱が次々とリビングに運び込まれ、僕はそろそろ帰る頃合いだなと思った。これは家族の伝統行事であって、僕も家族の一員だ、みたいなふりをしてここに居続けても、自分の演技をしらじらしく感じるだけだろうし、それに、リリーも同じように楽しそうな演技をしているところを見たくなかった。おそらく彼女は周りの期待に応えようと無理して楽しそうに振る舞うだろう。彼女はラングストンやおじいちゃんや、いつ帰ってきてもいいように両親のためにも、幸せそうにツリーの飾り付けをするだろう。そこに僕もいれば、彼女は、僕のためにも、と思うかもしれない。しかし僕は彼女に、彼女自身のために、楽しんでほしかった。去年のこの時期に彼女が感じたクリスマスの神秘を、また存分に感じてほしかった。でもそれは完璧なツリーだけでは無理だろう。奇跡でも起きない限り叶わないかもしれない。
12日。
僕たちには12日ある。
僕はこれまでずっとクリスマスを避けるように生きてきた。でも今年は違う。今年のクリスマスに僕が一番望んでいるのは、リリーをもう一度心の底からハッピーにすることだ。
2
リリー
二羽のキジバト(別の人にプレゼントしたセーター)
12月13日(土曜日)
私は地球温暖化に怒ってる。原因はわかりきってるのにみんな何もしようとしないからっていうのもあるけど、私が何より頭にくるのは、温暖化のせいでクリスマスが台無しになること。一年の中でこの時期は、歯がガタガタするほど寒くなって、コートとかマフラーとか手袋が手放せなくなる季節のはずでしょ。外では、吐く息が白く見えるほど冷えきった空気が雪を降らせ、降ってきた雪が歩道を白く包むはずだし、家の中では、家族みんなが燃え盛る暖炉のそばでホットチョコレートを飲んだり、ペットに体をぴったりくっつけてぽかぽか暖まるのが定番のはず。鳥肌が立つほどのピリッとした寒さこそ、先頭を切ってクリスマスの到来を告げる最高の旗振り役なのよ。そういう寒さを肌で感じたら、クリスマスソングやごちそうの季節が来たなって思うし、私はクッキーを大量に作り始めるし、大好きな人たちと集まろうっていう気にもなるわ。そういうのって全部、この季節の寒さがもたらしてくれる大切な贈り物なの。なのに今年はどうしたっていうの? もうすぐクリスマスだっていうのに、気温は20度くらいの穏やかな気候だし、クリスマスの買い物をする人たちの中には半袖を着てる人がいるし、アイス・ペパーミントラテ(私は吐き気がするから無理だけど)を飲んでる人もいるし、トンプキンス・スクエア公園にはタンクトップを着てフリスビーで遊んでる人までいるのよ。しかもどこを狙って投げたのか、フリスビーが犬の散歩をしてる人の頭にあやうくぶつかりそうだったし、きっと投げた人も、気候が春の日みたいにのどかだから、気もそぞろなのね。今年は寒さもクリスマスを招き入れたくないみたいだし、私も寒さがやる気を出すまでは、一年のうちで最高の時期だけど、あまり浮かれないようにする。
外が思うように寒くなってくれないから、代わりに私が家の中に寒さをもたらすことにした。ダッシュのせいではないけれど、彼に冷たく当たっちゃった。
「帰らなきゃいけないなら、さっさと帰って」と私はそっけなく言った。そっけなく。それってダッシュっぽい言葉ね。―あいまいで、よそよそしくて、知らん顔してる感じ。私がそんな言葉を知ってること自体、なんか変ね。私にはやらなきゃいけないことが山ほどあって、目先のことだけであたふたしてるっていうのに、SAT(大学入試)の勉強もしなきゃいけないのよ。私の口の中は、まさにamaroidal(苦虫を嚙みつぶしたよう)だわ。(というか、SATの受験者って、amaroidalなんて言葉まで覚えて、大学に入る準備をしなくちゃいけないの? いや、そんなはずないわ。そんな言葉覚えるだけ無駄。完全に時間の無駄。絶対に私は両親の期待になんか応えてやらない。志望校に合格する確率を上げるためとかいって、そんな言葉まで私の語彙に加えるのは絶対に嫌。)
「君は僕にここにいてほしくないってことだね?」とダッシュが聞いてきた。彼の目は、これ以上ここに引き止めないでくれと訴えかけているようだった。やつれたおじいちゃんや兄のラングストンと一緒にいたくないのかもしれない。私の兄がダッシュを歓迎することはなくて、せいぜい無視してるか、最悪の場合はあからさまに彼に向かって失礼なことを言い出すから。私はラングストンとダッシュがいがみ合っているのを残念に思っている。ただ、どこかしら二人はそんな関係を楽しんでる気がしないこともない。もしクイズ番組『ジェパディ!』で〈リリー〉がテーマになったとしたら、答えが「リリーはそれについて何もわかってない」となり、それに対応する質問は「人間のオスはどんな種族?」となるでしょうね。
「私はあなたがしたいことをしてほしいだけよ」と私は答えた。けれど内心ではこう思っていた。ここにいて、ダッシュ。お願い。こんな素敵なクリスマスツリーをプレゼントしてくれてありがとう。自分でも気づかなかったけど、まさに私が必要としていたものだわ。―もうすぐクリスマスだものね。それをあなたから贈られるなんて感激しちゃう。今の私にはやらなくちゃいけないことが山積みだけど、だからといって、あなたが私と一緒にツリーの飾り付けをすること以上に望んでることなんてないわ。飾り付けが嫌ならソファに座っててもいいのよ。私がツリーを幻惑するくらいキラキラに飾り立てるのを見ててちょうだい。「ツリーを飾ったりするのって、キリスト教が他の宗教のしきたりからかすめ取ったものなんだよな」とか、ひねくれたこと言ってていいから。お願い、私のそばにいて。
「このツリー気に入ってくれた?」とダッシュは聞いてきたけれど、すでにピーコートを羽織ってボタンをかけ始めていた。こんなに暖かい日にピーコートって暑すぎない? と言おうとしたら、ダッシュがポケットから携帯電話を取り出して画面を見つめた。その目は、私と一緒にいるここより、もっと素敵な場所へといざなうメールが届いていて、それを見つめているようでもあった。
「気に入らないわけないでしょ?」と私は言った。惜しみない感謝の言葉が出かかったけれど、それは胸のうちにしまっておいた。ダッシュが「じゃ帰るね」と言うのを、私はツリーに飾る装飾品を仕分けようと、装飾品の入った箱を開けながら聞いていた。ダッシュがそう言った時にちょうど私が開けたその箱は、彼が今年の初めに私にくれた贈り物の箱だった。あれは1月19日のことで、小説家のパトリシア・ハイスミスの誕生日を祝うと言って、ダッシュがストランド書店で買ってきて、私にくれたものだ。箱の中には、赤と金色のプレート型のオーナメントが一枚入っていて、そのプレートには俳優のマット・デイモンの白黒写真がプリントされている。パトリシア・ハイスミスの小説が原作の映画『リプリー』で、主役の殺人鬼を演じたのがマット・デイモンなんだけど、ダッシュはストランド書店で、その文学史に名をはせた連続殺人鬼の顔が描かれたプレートを見かけて、気に入ったんでしょう。ただ、それをガールフレンドにプレゼントして反応を見て楽しもうなんて、ダッシュ以外の誰も思わないでしょうけどね。まあ、それをもらった私は、ダッシュがもっと愛おしくなっちゃったわけだけど。(そこに描かれていたのが文学史上の有名人だったからよ。連続殺人鬼だったからじゃないわ。)
2月になって、私はその贈り物の箱をクリスマスの装飾品を保管しておく大きめの箱の中に入れておいた。―ダッシュと私がクリスマスツリーにそのオーナメントを飾る頃になっても、まだ付き合っていてほしいという願いを込めて、幸せの吐息を吹きかけてしまっておいたのだ。そして私たちはまだ付き合ってるわけだけど、私たちの関係は、もしかしたらephemeral(うたかたの)夢だったのかもしれない。(ついにSAT用に覚えた言葉を実際に使っちゃった。)付き合ってるっていう実感が湧かなくなって、義務感っていうか、どうにかここまで付き合ってきたんだし、私たちの関係が始まったのも去年のこの時期だったから、とりあえずクリスマスの時期が終わるまでは様子を見てみようっていう感じ。付き合い始めた頃は、正しいことをしてるっていう実感もあって、しっくりくる相手だなって感じていたんだけど、最近は...お互いにそういうふりをしてるだけみたいで、最初の判断は間違っていたのかもしれない。
「オスカーに優しくしてやってね」とブーマーが言った。そして彼はツリーに向かって軍隊式の敬礼をした。
「オスカーって誰?」と私は聞いた。
「このツリーだよ!」とブーマーは、わかりきったこと聞くなよという顔をして答えた。私がその名前を知らなかったことでオスカーが気を悪くしたとでも言いたげだった。「さあ行こう、ダッシュ、予告編に間に合わなくなっちゃうよ」
「お前たち、どこへ行くんだ? そこは歩いて行けるところか?」と、おじいちゃんがやや投げやりな口調で聞いた。おじいちゃんは心臓発作で倒れて以来、家の中に引きこもりがちでほとんど外出していなかった。彼はせいぜい1ブロックを歩くのが精一杯で、2ブロック以上歩くスタミナはもう残っていなかった。それで誰かが家に来るたびに、外でどんなことをしたのか根掘り葉掘り聞くようになった。おじいちゃんは翼を広げて飛び回っていた人だから、行動を制限されることに慣れてないのよ。
おじいちゃんはブーマーとダッシュにこう言うべきだったわ。お前たち、こんなに見事なツリーを持ってきておいてだな、ツリー(というかオスカー)の飾り付けを手伝わずにさっさと退散するなんて、礼儀がなってないだろ? まったく最近の若いもんはどうなってんだ? 気も利かんし、どうしようもないな。って言ってほしかった。
「僕たちはこれから映画を見に行くんですよ。あと20分で始まっちゃうんです」とダッシュが答えた。彼の表情にはこれっぽっちも罪悪感は見受けられなかった。私を誘わなかったという事実があるにもかかわらずよ。
「なんていう映画?」と私は聞いた。もし私が死ぬほど見たがっていた映画を、ダッシュが私抜きで見ようとしているのなら、彼と私はもう結び付いていないという最終的な判断材料になりそうだし、そしたら正式に別れた方がよさそうね。私はクリスマス休暇までの日にちを指折り数えていたの。そしたら『コーギーとベス』を見に行けるから。私は休暇中、時間を見つけては映画館に通うつもりよ。時間が許せば、少なくとも5回は見たいわ。ヘレン・ミレンが100歳近いエリザベス女王を演じていて、彼女のそばにはいつでもコーギー犬がいるの。その犬はCGらしいけど、素晴らしく自然な動きをするのよ。でも、一緒に花火を見てる時に花火の打ち上げが失敗しちゃって、びっくりしたコーギーが逃げちゃうの。そして体の弱いエリザベス女王が補助歩行器を使って、あのうっとりするほど気高いバルモラル城の敷地のどこかにいるコーギーを探すんだけど、その過程でいくつもの冒険が繰り広げられるってわけ。きっと女王とコーギーの両方にとっての冒険よ。もう、わくわくしちゃう!お願いだから、私もその冒険に参加させてって感じ。絶対何度も見るわ。アイマックスの巨大スクリーンでも見るし、3Dでも見なくちゃね!なんでこんなに詳しく内容を知ってるかって? 予告編を繰り返し見たからよ。あの数分間の予告編だけで、私にとって今年一番の大好きな映画になるって確信したわ。でもね、最初の一回目はダッシュが誘ってくれるんじゃないかって期待してたの。夜の映画館でのデートが私へのクリスマスプレゼントじゃないかって。単にその映画を見るだけじゃなくて、―彼と一緒に過ごす時間が素敵なプレゼントだって。
「ボクたちは『いたずら猫とネズミ』を見るんだ!」と、ブーマーがいつもの調子でおじいちゃんに言った。ブーマーってごく普通のありふれた情報でも、びっくりマーク付きで話すのよね。
私に向かってダッシュが言った。「君は見たくないんじゃないかと思って、君の分のチケットも買おうかって聞かなかったんだ」ダッシュは正しかった。私はすでにその映画を見ていたし、もう一度見たいとも思わなかった。『いたずら猫とネズミ』は、屋根裏に住んでるスピード狂のネズミが、その家の住人が寝静まった夜中に、マッチ箱ほどの大きさのミニカーに乗ってドラッグレースを繰り広げるっていうピクサー映画なんだけど、私には目新しさはなく、何かの焼き直しにしか思えなかった。でも、エドガー・ティボーはその映画が大好きみたいだったけど。
私はダッシュに『いたずら猫とネズミ』はもう見てしまったとは言わなかった。一緒に見に行ったのがエドガー・ティボーだったから言いづらかった。私がエドガーと仲良くしてることは、べつに大きな秘密ってわけでもないんだけど。―ダッシュはエドガーが私のおじいちゃんの通ってるリハビリ・センターで私と一緒にボランティアで働いてることを知ってるから。(彼の場合は純粋なボランティアではなく、裁判所からの命令なんだけど。)ただ、勤務時間が終わったあと、たまに彼と二人で出かけてることは、なんだか言いそびれていた。大体はコーヒーを飲むだけなんだけど、この前初めてカフェ以外の場所に行ってしまった。自分でもどうして、映画を見に行こうという彼の誘いに乗ったのかわからない。私はエドガー・ティボーがそんなに好きってわけでもない。まあ、子供の時に私のペットのアレチネズミが死んだのは彼の責任だし、あんな不良は嫌いになっても不思議じゃないんだけど、そのわりにはそこそこ好きかもしれない。ただ彼は信頼の置けない人だから、なんとかならないかなって思ってる。たぶんエドガーは、私が密かに計画してるリハビリの対象者なの。もちろんおじいちゃんが私にとって最優先で、たった一人の大切な人なんだけど、隙間時間を使って、エドガーもなんとか良い人間に変えてあげたいなって思う。蝋人形を作るみたいには簡単にいかないことはわかってるけど、彼に対して恋愛感情を抱いていない女の子と、(彼も友達以上には見られていないことを承知の上で、)一緒に映画を見ることが彼の心に良い影響をもたらすかもしれないのなら、私も手助けしてあげたいなって思った。それに私はこの数ヶ月忙しすぎたから、ちょっと息抜きも必要だって自分に言い聞かせたの。暗い映画館でぼんやり過ごすのも悪くないなって。たとえそれが興味のない映画で、ほんのわずかしか興味の湧かない人と一緒でもね。もしダッシュと映画を見ていたら、私は上映中、もうそろそろキスしてくるかな? どうしたの? 早くって、そんなことばかり考えて、ずっとそわそわしていたと思うけど、隣にいたのはエドガーだったから、彼が食べてるポップコーン代まで私に払えって言ってこないでしょうね?って、ずっと気が気じゃなかったわ。
「映画楽しんでね」と、私はなるべく陽気に、一緒に行けなくても悔しくなんかないという潔さを醸し出しつつ言った。ダッシュに対して冷たい態度を取ろうと思っても、いつも長くは続かない。そしてダッシュが私を置いて行ってしまうと思うと、なんだか、おとぎ話みたいに素敵な贈り物をくれたと思ったら、喜びが沸点に達する前に取り上げられちゃったって感じで、胸がちくちく痛んだ。
「わかった、楽しむ!」とブーマーは言いながら、はやる気持ちを抑えられないといった様子で、後ろ向きのままドアに向かって勢いよく進んだ。その拍子に彼の体がサイドテーブルに激しくぶつかり、テーブルの上に置いてあった電気スタンドが床に落ちた。大事には至らず、電球が割れただけだったけれど、―パリンという音が私の部屋でうたた寝していた野獣(私のペットの犬)の耳にまで届いてしまったようで、ボリスがリビングルームに駆けつけてきた。そしてすかさずブーマーに飛びかかると、彼を床に押さえつけた。
「こっち来なさい!」と私はボリスに命じた。ボリスはブルマスティフという種類の犬なんだけど、犬種的にも活発な犬ではないし、巨体のわりには意外にも室内暮らしに適していた。ブルマスティフは基本的に番犬だし、―とりわけボリスは思いやりのある犬だから、見知らぬ侵入者を押さえつけはするけれど、傷つけようとはしないのよ。でもブーマーはそのことを知らないから、かなり怯えていた。まあ私でも、60キロもある犬にのしかかられたら、ブーマーと同じような顔をするでしょうけどね。「こっちおいで!」と私はもう一度言った。
ボリスはブーマーの上から降りると、私の足元にやって来て座り込んだ。私が無事だとわかって安心したようだった。しかしこの騒ぎによって、家族の中で最も小さな、毛で覆われたメンバーが眠りから目覚めたようで、彼(典型的な怠け者の猫)が遅れてリビングルームにやって来た。ドアのところで中の様子をうかがって、この場所は安全なのか見定めている。おじいちゃんが一人で生活できなくなって、最上階から私たちの住む3階に移ってきたんだけど、そのときに彼の飼い猫のグラントも一緒についてきたってわけ。グラントは自分の名前に恥じぬよう、ボリスに向かってグラントした(うなり声を上げた)。仮にボリスが二本足でまっすぐに立ったら、大人の女性に匹敵するほどの大きさになるんだけど、みじめにもボリスは、たったの5キロしかない、おじいちゃんの飼い猫を怖がっていた。かわいそうにボリスは立ち上がると、前足を私の肩にもたれさせるようにじゃれついてきて、クンクン鳴いて甘えてきた。しわくちゃの顔を私の顔に近づけて、「ボクを守って、ママ!」とでも言い出しそうな表情で私を見つめている。私はボリスの濡れた鼻にチュッと軽く口づけて言った。「よしよし、坊や。大丈夫よ」
私たちの住むアパートメントは、これだけの人間と動物が一緒に暮らすには本当に狭くて、我が家はまるで血なまぐさい動物園みたいなんだけど、この状態を受け入れる以外に選択肢はないの。つまり、おじいちゃんにとってもそれがいいと思うのよ。かつてはたくましい体にものをいわせ、街を遊び回っていたおじいちゃんだけど、今では一日に一度階段を上り下りするのがやっとという感じで、日によっては全く動けない日もあるし、この3階のフロアから外に出られない状態なの。でも家族みんなで協力し合えばなんとかなると思う。親戚の人たちや介護士の人たちが次から次へと家に出入りして、おじいちゃんと一緒に過ごす時間を作ってくれるし、そうすることでおじいちゃんが一番恐れているシナリオを避けられるのなら、―つまり介護施設に移らなくて済むのなら、私はこの動物園状態に大賛成よ。そういうところってなんか温かみが感じられないし。おじいちゃんはよく冗談めかして言うのよ。わしが家の外に出る唯一の方法は、あの箱(介護施設)に移ることだなって、そして四六時中ベッドで途方に暮れてるしかないなって。
ラングストンがキッチンからリビングルームに入ってきて、「ここで何があったんだ?」と聞いた。それを合図として、ダッシュがとうとうここから出て行く決意をしたようだった。
ダッシュがラングストンに言った。「お茶とクッキーありがとう。これから持ってきてくれるんだと思うけど」
ラングストンが返した。「どういたしまして。もう帰っちゃうんだ? それは好都合だ!」ラングストンはわざわざ玄関まで出て行って、ドアを開けた。ブーマーは戸惑いつつも立ち上がって玄関へ向かったけれど、ダッシュは少しの間ためらっていた。彼は私に「じゃあね」のキスをしたそうだったけれど、思い直したみたいで、代わりにボリスの頭をなでた。ボリスは私を裏切って、ダッシュの手を舐めた。
私は少し心が痛んだけれど、ピーコートを着た、ありえないほどかっこいい彼氏が、私の犬に優しくしているのを見ていたら、逆に私の心はとろけそうになった。「明日の夜、うちでツリーの点灯式があるんだけど」と私はダッシュに言った。「来る?」明日は12月14日だった!点灯式の日だ!ダッシュが我が家のリビングルームに文字通りドスンとツリーを置くまで、どうして私はこんな重要な日をすっかり無視していたのかしら? 今年の点灯式は祝い事というより、仕方なくやる決まり事のように感じていたのかもしれない。
「絶対行くよ」とダッシュが言った。グラントはダッシュが私の誘いを受け入れたことなど全く意に介していない様子で、再びボリスにちょっかいを出そうとした。寄ってくるグラントから逃げるようにボリスが駆け出し、―そのまま、壁に沿って高く積み上げてあった本の山につっこんだ。
それを見て、おじいちゃんが叫んだ。「グラント、こっちに戻って来なさい!」それからボリスがほえ始め、ラングストンがダッシュをせかした。「さあ、早く行け!」
ブーマーとダッシュは出て行った。
ダッシュはここを立ち去ることができてほっとしただろうな、と思った。
我が家はいつもせわしない。うるさくて、にぎやかで、毛むくじゃらのペットもいて、たくさんの人間がごった返している。
ダッシュは静かな、きちっと整った場所が好きで、一人で本を読んでいたいタイプなの。彼自身の家族と一緒に過ごすのもあんまり好きじゃないみたい。それに彼は猫アレルギーなんだけど、たまに私に対してもアレルギー体質なんじゃないかって疑ってしまう。
12月14日(日曜日)
一年前、私の生活は今とはまるで違っていた。おじいちゃんもフロリダまで車で行ったり来たりできるくらい元気だった。フロリダにはおじいちゃんが所有している高齢者向けの複合型住宅があるんだけど、その一室におじいちゃんのガールフレンドが住んでいたの。その頃の私はペットもいなければ、まだボーイフレンドもいなかった。それに私は悲しみというものがどんなものなのか、本当の意味では理解していなかった。
おじいちゃんのガールフレンドが今年の春にがんで亡くなったの。そしてそのすぐ後、彼の心臓は限界に近づき、音を上げた。おじいちゃんが倒れているのを見たとき、深刻な事態だっていうのはわかったけれど、私はパニックですべてを把握することはできなかった。とにかく必死で救急車を呼んで、果てしなく長い時間救急車を待って、私も救急車に乗り込んで病院に行った。それから家族全員に電話して、起きたことを知らせたの。次の日になって、おじいちゃんの容体が安定してきて、やっと私は事の重大さに気づいたわ。私は少しでも何か食べなくちゃと思って、病院の食堂に行ってランチをつまむ程度に食べてから、おじいちゃんの病室の前まで戻って来たところで、窓越しに私の大好きなミセス・バジル(おじいちゃんの妹)が中にいるのが見えた。彼女は背の高いレディーで、いつもは威風堂々とした存在感を放っていて、オーダーメイドのスーツを完璧に着こなし、高価な宝石を身につけ、顔のメイクもばっちりきまってるのよ。それが普段の彼女なんだけど、おじいちゃんが寝ているベッドの横に座り、彼の手を握りしめている彼女は、大粒の涙をこぼしていたの。病室に入った私を見つめる彼女の目から、滝のように流れ落ちたマスカラが、唇まで達していた。
ミセス・バジルが泣いている姿を見るのは初めてだった。彼女が凄く小さく見えた。私は胃の中に鋭い痛みを感じ、胸が締め付けられた。私はコップに飲み物が半分しか入っていなくても、半分も入ってるって思うタイプだし、―要するにいつでも物事の明るい面だけを見る女の子だから、その鋭い痛みが私の体と心をむしばむように膨れ上がっていくのを否定しようとしたんだけど、彼女が悲嘆に暮れる姿を目の当たりにしたら、私の中にも一気に悲しみの頂(いただき)がそびえ立った。突然、おじいちゃんの死がリアルすぎるくらい現実味を帯び、彼がいつか死んでしまった時に感じる気持ちが、まだ起こっていないこととは思えないほど、ありありと胸中に湧き上がった。
ミセス・バジルがおじいちゃんの手を彼女の顔に当てて、いっそう激しく泣いたから、私は一瞬おじいちゃんが死んでしまったのではないかと恐れた。それから彼の手が息を吹き返したように彼女の頬を軽く叩いて、彼女の顔から笑みがこぼれた。私はその様子を見て、しばらくは大丈夫そうね、と安堵した。―変わらないものなんてないから、この先どうなるかなんてわからないけれど。
それが私が初めて入り込んだ悲しみの領域、その第一ステージだった。
第二ステージは次の日にやって来たんだけど、それはさらに上を行くものだった。
単純に親切心から発したことが、あらゆるものを一変させてしまうこともあるなんて、それまで思いも寄らなかったわ。
ダッシュが病院にいた私を訪ねてきた。そのとき私は食堂にいて、支払いを済ませ席にはついていたんだけど、ほとんど食べることができずにいた。―私の頭の中ではいろんなことがばらばらにはね回っていて、目の前のちょっと固くなったチーズサンドイッチとサラダ揚げを見ても食欲がわかなかった。病院ではフライドポテトの代わりにサラダ揚げが出されるらしく、健康志向って意地悪なのね、とか思っていた。きっとダッシュは電話越しの私の声から、私が疲れている、―あるいは私がお腹を空かせていると感じ取ったんでしょう。私に近づいてくる彼は、私のお気に入りのお店〈ジョンズ〉のピザを手に持っていた。(ミッドタウンにある〈ジョンズ〉じゃなくて、グリニッチ・ヴィレッジのお店よ!)あそこのピザは私にとって究極の食べ物で、心まで穏やかにしてくれるの。たとえ病院まで持ってくる間にパイ生地が冷たくなっていたとしても、それを見た瞬間に、私の心はこれ以上ないってくらい温かくなったわ。―しかもそれを持ってきてくれたのがダッシュだったからなおさらね。
それで気持ちが高まって、つい「私はあなたがとっても好きよ」って言っちゃった。私は彼の背中に腕を回し、彼の首元に顔をうずめながら、キスマークで首を埋め尽くす勢いで何度もキスをした。彼は笑って言った。「たった一枚のピザでこれだけのご褒美がもらえるって知ってたら、もっと早く買ってきたのに」
彼は「僕も君が好きだよ」とは言ってくれなかった。
「好き」という言葉が私の口から出るまでは自分でも気づかなかったんだけど、私は単に彼がピザを買ってきてくれたから「好き」って言ったわけじゃないの。
私がダッシュに「とっても好き」って言ったのは、こういう意味なのよ:あなたの優しいところと、ちょっとひねくれてるところが好き。それから、あなたがお店のレジでお父さん名義のクレジットカードを差し出しながら、「恩は人から人へと巡るものだから」と言って、ちょっと多すぎなんじゃない?って思うくらいのチップを店員さんにあげるところも好き。私はあなたが本を読んでいる時の表情が好きだし、―なんだか夢見心地で満ち足りていて、別世界に旅行中っていう顔をしてるから、―それに、あなたが私にニコラス・スパークスの小説なんか読むなって、さりげなくほのめかすのも好きよ。私は興味本位でニコラス・スパークスの小説を一冊読んでみたんだけど、そしたら気に入っちゃって、さらに何冊か彼の本を読んじゃったわ。そんな私の行動にあなたはすっかり混乱しちゃって、あからさまに頭にきたっていう顔をしてたわね。そういう直情型のところも好きよ。何冊か読んでしまった今となっては、私はすっかりニコラス・スパークスの小説のとりこよ。私はあなたと文学について、上流気取りであれこれ言い合うのが好きだし、たとえあなた自身は「大衆に迎合した、うわべだけ取り繕ったような、使い捨てのロマンス小説」を好きじゃなくても、少なくとも、そういう小説が好きな人は(あなたの恋人も含めて)大勢いるってことを、あなたはちゃんと理解しているのも好き。私は大好きな大叔母さんとほとんど変わらないか、それ以上にあなたのことが好きなの。あなたが私の人生に入り込んできてから、私の人生はいっそう明るく、素敵に、面白くなったんだからね。昔々のおとぎ話の出来事みたいに思えるけれど、あなたが赤いノートの呼びかけに応えてくれたから、私はあなたがとっても好きなのよ。
おじいちゃんは一命をとりとめたけれど、私の一部分はあの日死んでしまったような気がした。本当の意味で誰かを好きになることの喜びを知っても、ひとたび孤独を経験すると、たちまち喜びの炎ってしぼんでいくものなのね。
ダッシュは「好き」という言葉をいまだに言い返してこない。
私もそれ以上その言葉を口にはしなかった。
べつにダッシュを責めてるわけじゃないの、―本当よ。彼は素敵だし、魅力的よ。私の目にはそう映ってるわ。彼も私のことが好きだってわかってる。凄く実感あるの。時々、そんな私の溢れる想いに触れて、彼が驚いた表情をするから、そんなにびっくりしないでって思うけど。
「私はあなたがとっても好きよ」その言葉はまぎれもなく、私の体の全細胞で感じた本物の気持ちが溢れ出たものだった。しかし何の返答もなく時間が経過すると、私はダッシュから少し距離を置こうとしていた。私には彼が感じていない気持ちを無理に実感させることはできないし、そうしようとして私自身が傷つくのも嫌だったから、私の彼への愛情はとりあえず、コンロの奥のバーナーに移して弱火でコトコト煮込んでおくことにした。そしたら彼に対してもっと気楽に接することができて、彼に多くを期待しなくなるかなって思ったから。
実際問題として、私が忙しすぎるというのもあった。ダッシュと過ごす時間がほとんど取れなくなって、次第に会えないつらさも薄れていった。積極的に恋愛から撤退しようとしたわけではなくて、自然消滅へと向かっていったという感じ。学校がない日は、家で受験勉強をしているか、SATのための予備校に行っているか、サッカーの練習か試合に行っていた。もちろん、おじいちゃんをリハビリセンターや医者との面談に連れて行ったり、彼の仲間たちの元へ雑談をしに連れて行ったりしながらよ。食料品の買い出しに行って、料理も私がするの。最近ママとパパは新しい学校の仕事があって忙しいから。二人とも今はもう海外で働いてるわけではないんだけど、海外にいるのとさほど変わらないわね。ママは急に欠員ができたからと頼まれて、ロングアイランドのへき地にある公立大学で、社会人向けの現代文の講座を受け持ってるの。非常勤なんだけど、演奏会に向かうミュージシャンみたいに張り切ってるわ。パパはコネチカット州のどこだか、神のみぞ知る場所にある全寮制の学校で校長をやっていて、ニューヨークからそこまで通ってるわ。ラングストンは一応、おじいちゃんがやっていた仕事を手分けしてやってくれるけど、家事に関して言えば、いかにも都会で育った男って感じで無能っぷりを発揮してる。(見てるとじれったくなって、ののしりたくなっちゃう。)それから、私がやってる犬の散歩代行業もあるわ。私が提供してるサービスは凄く需要があってね、今ではミセス・バジルが私のことをリリーベアと呼ぶのをやめて、実業家のリリーって呼ぶほどになったのよ。他にもやらなくちゃいけない細々としたことがあって、その隙間にダッシュと会う時間を見つけようとしてると、なんだか喜びよりも義務感の方が強い気がしてきちゃう。
私は押しつぶされそうなの。
お子様のリリーベアちゃんはもう遠い思い出ね。この一年で、とても若い16歳から、とても年老いた17歳へと、一気に年を取った気分だわ。
とにかく私は大忙しだったわけ。それで、今日の点灯式でダッシュにセーターをプレゼントしようと思って大急ぎで刺しゅうしたんだけど、とんでもなく下手な出来栄えになっちゃったの。そのセーターに取り掛かったのは今年の初めだったんだけど、おじいちゃんが倒れちゃって、それからは手つかずの状態だった。半年以上もほったらかしてあったセーターを取り出して、急いで仕上げてみたはいいけれど、その見栄えの悪さに、私はため息をついた。兄が横で笑っていた。
「そんなには悪くないでしょ? ラングストン」と私は聞いた。
「まあ...」と彼は長すぎるくらいのためを作ってから言った。「いいんじゃない?」彼はそのエメラルドグリーンのセーターを頭からかぶって着ると、だぶだぶの袖を引っ張って見せた。「でもさ、ダッシュは僕と同じくらいのサイズだろうから、このセーターはかなり大きいんじゃないかな。君が毎年クリスマスに大量のクッキーをダッシュに食べさせて、どんどん太らせるつもりならわかるけど」
そのセーターは数年前のクリスマスに、パパにプレゼントしたものだった。大きい人用のお店〈ビッグ&トール〉で買ったものなんだけど、パパは一度も着てくれず、箱にしまったままだったの。私はそのセーターをダッシュへのプレゼントに再利用したわけだけど、ワッペンは私のオリジナルなのよ。雪の結晶の模様が入った赤い布に、私がカラフルな糸を針で縫い込んでいって、「一本の枝に止まっている二羽のキジバト」を刺しゅうしたんだから。左のキジバトのお腹には「DASH」の文字を入れて、右のキジバトには「LILY」って入れたの。
実際に兄が着てみると、そのビジュアルは私の目にもおそまつに映った。私はキジバトのワッペンを取り外して、帽子かマフラーか、何か他のものにそのワッペンを縫い付けなくちゃと思った。私の縫い方のせいじゃなくて、キジバトがセーターみたいなメインの洋服には似つかわしくないのよ。たとえキジバトの名称が、turtledove(亀みたいなハト)っていう可愛らしいペットもどきの名前でもね。私はキジバトが優しげな、猫が喉を鳴らしてるみたいな声で鳴くハトだと知って、とてもがっかりしたわ。私はすべての動物を愛する主義だからキジバトも可愛いと思いたいけれど、私はニューヨークの住人でもあるから知ってるの:ハトは可愛くない。ただ迷惑なだけ。
こんな風に私がクリスマスを象徴する鳥をけなして、日頃のうっぷんを晴らしてるのは、まだクリスマスの季節が来たという実感がないからよ。私はラングストンに言った。「そうね、ちょっとひどいわね。これじゃあ、ダッシュに渡せないわ」
「いや、むしろこれをダッシュにあげてくれよ」と、ラングストンがにやけながら頼んできた。
玄関のベルが鳴った。私は言った。「早くセーターを脱いで、ラングストン。お客さんが来ちゃったわ」
私は玄関の鏡で身だしなみをチェックして、私自身がプレゼントみたいに見えるといいけど、と思いながら髪をなでつけた。私はお気に入りのクリスマス用の服装をしていた。前面にトナカイが刺しゅうされている緑のフェルト生地のスカートをはいて、サンタクロースの絵の周りにアルファベットでDON’T STOP BELIEVIN’ (信じることをやめないで)と書かれた赤のトレーナーを着ていた。ごちそうはすでに準備され、オスカーの豊かな枝々の周りにはコードでつながったライトが巻かれ、動物たちは、お客さんに気を遣って、私の寝室に閉じ込めておいた。クリスマスが始まろうとしている。魔法みたいなことが起きる予感。
玄関を開けたらダッシュの父親はいるだろうか、と私は思った。ダッシュと彼のパパがもっと一緒に過ごせば、お互いのことをもっと好きになるはずだし、クリスマスの始まりを祝して、小規模なパーティーだけど、この点灯式に一緒に参加すれば、二人の仲を深める良い機会になるんじゃないかと思ったの。昨夜、私はまず彼のママに招待状をメールで送ったんだけど、ちょうど同じ時間帯にクライアントとの面談が入ってるからって断られた。それで今朝になって、代わりにダッシュのパパを招待しようと思い付いたってわけ。
けれど思いもかけないことに、実際に玄関のドアを開けてみると、ダッシュが彼のママとパパに挟まれて立っていた。「ばったり誰に会ったと思う?」とダッシュが聞いてきた。
ダッシュは子供の頃、両親の離婚調停中に裁判所まで出向いて証言したんだけど、それ以来、彼の両親は一緒に暮らしていないはず。
ダッシュはパーティーにふさわしい浮かれた顔をしていなかった。彼の両親も冷たい表情をしていた。
ついに、クリスマスにぴったりの寒さがやって来たみたい。
3
ダッシュ
尻に敷かれて
12月14日(日曜日)
もしリリーの体を最新にして最高精度のレントゲン装置で撮影したとしても、そしてそのレントゲン写真を、全世界からかき集めた顕微鏡の中で最強のものを使って解析したとしても、彼女の体のどこにも、骨の髄まで探しても、悪意の欠片も見つからないだろう。それはわかってるし、この問題の本質は無知から生じたちょっとした間違いであって、意図的な暴挙ではないし、悪ふざけでもない。そして、彼女に宇宙的なスケールの過ちを犯したことを自覚させる術もない。
とはいえ、マジかよ、と無性に腹が立って仕方ない。
僕が母親の家からリリーの家に向かおうとしたところ、ママが大声で聞いてきた。「どこへ行くの? 私も一緒に行くわ!」
僕は一瞬まずいなと思ったけれど、そうだな、と思い直した。ママとリリーは普段から仲がいいし、それは僕も嬉しい。リリーが幅広くいろんな人をツリーの点灯式に呼ぼうとしてることは素晴らしいし、そうだな、ママも連れて行こう。
母親が「そんな服装で行く気なの?」と言ってきた時も、僕は気をわずらわせるのをやめ、母の指示通りにネクタイを締めた。僕が思春期に入り、母とのお出掛けを〈すべきことリスト〉から除外して以来、母と並んで外を歩くのは、おそらくこれが初めてだった。それでも僕は母との会話を上手くこなそうとした。僕たちは地下鉄に揺られながら、母がやっている読書会で今月読んでいる本について喋ったりした。僕がアン・パチェットの小説は全く読んだことがないからわからないと言うと、僕たちは他の話題へと移っていった。たとえば、母親が恋人(僕の義理の父)とニューヨークから抜け出して新年を過ごす予定だと言ったから、僕はここに残るよ、と返したり、まずまず楽しいひと時だった。
しかし、僕たちがリリーの家のある駅で地下鉄を降り、階段を上り切ったところで、ママが僕の腕をギュッとつかんで言った。「無理。ありえないわ。―無理よ」
僕は最初こう思った。なんて偶然なんだ。今日の午後パパはあちこち歩いただろうけど、たまたま彼がここを歩いてる時に、ちょうど僕たちが通りかかるなんて。
それから彼がプレゼントらしき物を手に持っているのに気づいた。―これから始まる午後の時間が、完膚なきまでにめちゃくちゃにされるのではないかという考えがよぎった。
同じ考えが母の脳裏にも駆け巡ったようだった。
「ひょっとしてリリーが...そんなことするなんて、ね?」と彼女が聞いた。
困ったことに、僕には何とも言えなかった。僕も母もそれはあり得ることだと思ったのだ。
「ああ、ダメよ」ママは深い息継ぎを挟みながら、ひと言ひと言をしぼり出すように言った。「ダメ、絶対、無理」
世の中には両親の離婚を経験し、それを機に家族ががれき同然となって、悲しんでいる子供たちがたくさんいることはわかっている。でも僕はそういう子供たちと同じ気持ちになったことは一度もない。ぼんやり物事のうわべだけを見ている人でさえ、僕の両親を見れば、二人の関係はお互いの最悪な面を引き出すだけのものだとわかっただろう。―僕はむしろ物事の裏側まで見ようとする人だから、そんなことは一目瞭然だった。物事がばらばらに崩れたとき、僕は9歳だった。僕は両親がお互いの前でどのように振る舞っているのか、二人の一挙手一投足を、フルタイムの仕事のように朝から晩まで観察していた。二人とも力を振りしぼって武装している気でいたけれど、実際はただ自分の弱さが拡張されたものにしがみついているだけだった。母からはパニックと怒りがシーソーのように代わりばんこに発せられた。父からは傲慢さともっともらしい憤りが渦巻くように噴出した。僕はどちらにも肩入れしなかったけれど、結局いつも父のはちゃめちゃな意地の悪さが目に余り、気持ち的には母寄りにならざるを得なかった。離婚してからは、父の竜巻が母の生活をかき乱すことはほとんどなかったのだけれど。
リリーは僕の両親に対する気持ちを知っていたし、僕が二人の間に広く非武装地帯を作っていることも知っていた。そうすることで父の側から絶え間なく繰り出される攻撃が、母の側まで届かないようにしていたのだ。それが母を傷つけない唯一の方法だったから。
しかし今、母は攻撃をくらったような顔をしていた。ただ前方に彼の姿が目に入っただけで、彼女は負傷してしまった。
「どういうことなのか、ちょっと僕にはわからないな」と僕は彼女に言った。
「わかったわ」と彼女は言い、一瞬動きを止めてから、覚悟を決めたかのように、前に向かって歩き出した。そして父を追うように進んでいった。
「無理について行くことないよ」と僕は彼女に言った。「ほんとに。僕がリリーに説明するからさ。リリーもわかってくれるよ」
ママが僕にほほえみかけた。「私たちはね、テロリストに屈するわけにはいかないのよ、ダッシュ。あなたの父親が同じ場所に行こうとしているのだとしても、私はツリーの点灯式に行くわ」
彼女は気持ちに勢いがついたのか、歩くペースを上げ、リリーの家があるブロックに着く頃には、僕たちは父のほんの1メートル後ろを歩いていた。彼らしいといえば彼らしいが、それでも父は振り返らなかった。
「パパ」と僕はついに声をかけた。リリーのアパートメントの正面玄関の踏み段に、彼が足をかけたところだった。
彼は振り向いて、まず僕を見た。そして「父親の顔」を意識的に作った。(その表情が彼に似合ったためしはない。)それから彼は僕の隣に目を移し、正真正銘のサプライズの光線ともいうべき視線を発した。
「おお」と彼が言った。
「そうね」とママが返した。「おおってなるわね」
僕たちは顔を突き合わせた鶏のように、しばらく立ち話をした。全く気持ちのこもっていない社交辞令のあと、ママはパパの新しい(年齢的には新しいとはいえない)妻の様子を尋ね、逆にパパはママの新しい(年齢的には新しいとはいえない)夫の様子を尋ねた。なんだか異次元にでも迷い込んだ気がした。―というのも、二人とも普段新しいパートナーを呼んでいる感じとはまるで違う声色で、それぞれの名前を口にしていたからだ。僕は途方に暮れてしまった。―子供の頃から何度も味わった感覚だった。こんな気持ちにはもう二度と触れたくないと思っていたのに。
パパが手に持っているプレゼントは包装紙に包まれていた。―たぶん新しい妻がくるんで持たせたものだろう。あるいはお店の人か。いずれにしても、僕がパパから毎年もらっているプレゼントよりは手が込んでいた。ここ数年、僕はパパから小切手を渡されて、何でも好きなものを買っていた。小切手には、パパの代わりに新しい妻が書いたとわかる誕生日カードも添えられていた。
まだリリーが玄関に出てきていないうちから、ママとパパはお互いにちくちく嫌味を言い出した。―パパが「お前がここに来るなんて聞いてないぞ」と言うと、ママが「あら、どうして来ちゃいけないの?」と返した。放っておくと、いつまでもいがみ合っていそうだったので、僕が「黙って」と促した。家の中にはリリーの親戚が一堂に会しているはずだった。そして、僕の遺伝子の供給源がこんなに問題だらけだと、リリー家の人たちに悟られることだけは、なんとしても避けたかった。
リリーがドアを開けて顔を出した。僕は「彼女は何も知らなかったんだ。彼女は何も知らなかったんだ。彼女は何も知らなかったんだ。」と内心でつぶやきながら、大声を張り上げたい気持ちを抑え、ただ「ばったり誰に会ったと思う?」と聞いてみた。
もし僕の彼女がリリー以外だったら、僕の皮肉を利かした攻撃に対して、ひねった答えで応戦してきたかもしれない。悪魔的な精霊クランプスにでも出くわしたの? とか。あるいはリリーっぽい答えだと、『クリスマス・キャロル』のスクルージにばったり会った? とか。もしくはユダヤの英雄マカバイか? まあ、リリーがそんなへんてこなことを言うはずもなかった。彼女は「コートを預かりましょうか?」と聞いてきた。ただ、僕たちは誰もコートを着ていなかったのだけれど。
父はそれには答えず、リリーにプレゼントを差し出して、「君へのプレゼントだよ。可愛いお嬢ちゃん」と言った。
「私だって、何か持ってきたでしょうね」と母がすかさず口を挟んだ。「ダッシュがそういうパーティーだって教えてくれればね」
父が笑って、「こいつってそういうところあるよな!」とリリーに向かって言った。まるで僕がパーティーの種類を見分けることにいかに疎いかを、彼女まで熟知していると父は思っているみたいな口ぶりだった。
「全然そういうパーティーじゃないのよ」とリリーは言った。「でも、どうもありがとう」
そして父は、例によって、「じゃあ、そういうパーティーじゃないのなら、返してもらっても構わないよ」と言って、腕を突き出すと、彼女からプレゼントを奪い取ろうとした。それから手を引っ込めて、再び笑った。「おいおい、単なるジョークだよ。みんな揃ってそんな顔しちゃって」と彼は言った。笑っているのは彼だけだと、やっと気づいたらしい。
「私はちょっとこれを部屋に置いてくるわ」とリリーが言った。彼女の口ぶりから、僕も彼女の部屋までついて来い、という意味だとわかったけれど、ママをここに放っておくわけにはいかなかった。
「家に上がらせてもらって、とりあえず僕は両親をリビングルームにいるみんなに紹介するよ」と僕は言った。
「ああ、そうね。私もすぐリビングに行くわ」
ピンと張りつめた一触即発の状況にいるとき、元カノだけはその込み入った状況に巻き込みたくないと思うものだろうけど、この場合は違った。リビングルームに入って、ソフィアの姿が目に入ったとき、僕は感謝の念に包まれたのだ。助かった。彼女と僕の母は以前から気の合う仲だったから、母のことは彼女に任せよう。
「ほら、ソフィアに挨拶して」僕は母を連れて彼女のいる方へ歩いていった。「ソフィアがバルセロナから戻ってきたって言ったよね? せっかくだからさ、バルセロナにある100年以上前から建設中の、あの大聖堂はもう完成したのかって、彼女に聞いてみたらどう?」
「お久しぶりです!」ソフィアが僕と母を見て満面の笑みを浮かべた。そして彼女の目が僕からのSOSのサインを受け取ってくれた。「ちょうどよかった。私、知らない人ばかりで困ってたの。―ブーマーはまだ来てないし、リリーは飾り付けとかで走り回ってるし。知ってる顔が来てくれてほっとしたわ」
母が笑顔を返した。「そりゃ私が来るなんて思わないわね」
「すぐ戻るから」と僕は言った。僕にはまだ不発弾の処理が残っていた。父をなんとかなだめすかさなければならない。
父はラングストンに話しかけていた。父が何を話しているのか聞くまでもなく、父から発せられるひと言ひと言によって、ラングストンが僕の家系をどん底まで低く評価していくことは目に見えていた。
「...そんなつもりはないんだけどな、そんなにきざに見えるか。ちょっと場違いな気もしたんだけどさ、呼ばれちゃって、まったく俺はサンタかってな」
「リリーがお父さんを招待したんですよね」とラングストンが父に返した。「彼女もお父さんがサンタだとは思ってないと思いますよ」
父はその返答に一瞬とまどい、そのすきをついて、ラングストンが「そういえばトナカイのことで、ある人に相談しに行かなくちゃ」と言って、そそくさとリビングルームから逃げ出した。父はすぐに次の話し相手という名の人質を探し求めて、うろうろし出した。
「パパ」と僕は言った。「こっち来て」
この部屋に野生のロバ並みの父をうまく手なずけられる人がいるとすれば、それはミセス・バジルだろう。彼女はリビングのソファのいつもの定位置に陣取って、この戦況を見守っていた。―ということは僕がひと言も説明しなくても、彼女はすべてを見通す勢いで、すでにこの状況を把握しているだろう。彼女がばか者どもには容赦しないことは前から知っていた。むしろ嬉々としてお仕置きしてくれるはずだ。
「パパに紹介したい人がいるんだ」と僕は父に言った。「こちらがリリーの叔母さん」
父の視線が彼女に向いた。でも大して気にも留めずに視線をそらして、今にも立ち去ろうという構えだ。外の道を歩いていて、年配の婦人とすれ違った時とさほど変わらない。
「それじゃあ」と、ミセス・バジルが父を見つめながら言った。好奇の目と、どう始末しようかしら?という邪険な目が混在していた。「あなたがこの放蕩息子のお父様?」
父はその言葉を耳にして少し背筋を伸ばした。「いかにも、こいつはだめなやつで。まあ、こいつの母親に聞いた話を総合すると、だめなやつなんでしょうね」
「なるほど。―あなたもそうとう道楽が過ぎるようですね!あなたがたが熊手で雪かきしてるのを見るたびにね、シャベルを使えばいいのにって思っていたのよ」
「ちょっとおっしゃってる意味がよく...」
「あなたのような紳士にはわからないでしょうね。まあいいわ。私の隣に座ったらいかが? あなたを遠目に見てるのも、隣に座ってお喋りするのも、どちらも大して嬉しくはないけど、隣にどうぞ。リリーはこのお祝いをすごく大事にしてるのよ。私が見るところ、今この部屋でこのお祝いの席を台無しにする可能性が高い人はあなたよ。私の隣に座っていれば、その心配はないわ」
ミセス・バジルはソファの彼女の隣を手で叩いて、座るように促したけれど、その手つきはソファに魔法をかけているようでもあった。そうすることで彼が座ってもソファが汚染されなくなるのかもしれない。
「べつに俺は好きでここに来たわけじゃないんですよ」と彼はぼそぼそとつぶやいた。僕はあやうく彼を気の毒に思いそうになったけれど、なんとか気持ちを持ち直した。
「このパーティーに参加していれば、あなたの評判も高まるわ」とミセス・バジルが父の気持ちに寄り添うように言った。「あなたは喋れば喋るほど評判が落ちるみたいだから、おとなしくここに座って、みんなを見ていましょう」
力なく、父はうなだれるように従った。
「あなたのお父様にリンゴジュースを持って来てちょうだい」とミセス・バジルが僕に指示した。
「ダブルで頼む」とパパが言った。
「リンゴ酒じゃないわ。ノンアルコールのリンゴジュースよ」とミセス・バジルが父の要望を却下した。
「じゃあ、―そのノンアルコールをダブルで」と父が返した。それでようやく彼はわずかながらも彼女の信頼を得たようだった。
僕は急いで飲み物を取りに行くと、―〈WORLD’S GREATEST FATHER〉(世界一偉大なお父さん)とは書かれていないマグカップを二つ選び、父に手渡した。それから僕は、まだ戻って来ていないリリーを探しに行った。
まずキッチンをチェックしたが、そこには彼女のお父さんがいるだけだった。彼はなんだか、どの電気器具が電子レンジだったかを思い出そうとしているかのようだった。それから僕は廊下を走って、トイレのドアに鍵がかかっていないかどうか確かめたけれど、鍵はかかっていなかった。
僕が彼女の部屋に近づいて行っても、静かだった。―とても静かだったから、彼女は部屋にいないのだろうと思った。しかし中を覗き込んでみると、彼女はそこにいた。一人きりで座っていた。何かを探している様子でもない。携帯電話をチェックしているわけでもない。音楽プレーヤーの休日のプレイリストを今の気分に合わせて変更しているとかでもなかった。彼女はベッドの端にちょこんと座って、世界の片隅をじっと見つめ、物思いにふけっていた。もし僕が彼女の名前を呼べば、その瞬間にハッとして、消えてなくなるようなことを彼女は考えているようだった。彼女はどこか異次元の世界に逃げ込んだ放浪者のような顔をしていた。そんな彼女を見ると僕の心はざわついたけれど、僕は彼女の一人の時間を邪魔していいものかどうか迷った。誰かの助けを心の内で叫び求めるような孤独もあるけれど、今の彼女はそっと一人にしておいてほしいように見えた。
僕はそっとみんなのいるリビングルームに戻ろうとした。しかし僕が後ずさった瞬間、彼女は異次元空間から抜け出したようにこちらを向いて、ドアに手をかけている僕を見た。おそらく僕がここにいることを、彼女は僕がドアを開けた時から知っていたのだろう。でも僕には彼女が何を考えていたのかまでは、たぶん思い及ばなかった。
「ダッシュ」と彼女が言った。まるで僕たちが二人とも名前を忘れてしまって、お互いが誰なのかを確認し合う必要があるみたいに。
「パーティーだよね?」と僕は返した。「何か手伝うことある?」
リリーは首を横に振った。「もう全部準備できてるわ。それにパーティーじゃなくて、ただのツリーの点灯式よ」
僕の父があげたプレゼントが彼女の机の上にあったけれど、まだ包装紙にくるまれたままだった。僕はそれを手に取ると、振ってみた。中で何かが転がった。
「うーん、少なくとも小切手じゃないみたいだね」と僕は言った。「まあ少なくともちょっと考える必要があるね。パパか、誰か中身を知ってる人に聞かないとわからないかな」もっと激しく振ってみた。「壊れないものだといいけど」
「やめて」とリリーが言った。
僕は手を止めた。
「私もあなたにプレゼントがあるの」と彼女が言った。「今すぐ開けなくてもいいのよ。それに、もし気に入らなければ着なくてもいいのよ。ずっとしまったままでいいわ。私はただ、―なんていうか、あなたにあげたいなって思っただけなの。でもあなたには着なきゃいけない義務はないわ」
「革のミニスカートでもくれるの?」と僕は聞いた。「僕のために牛を一頭殺して、その牛革でミニスカートを作ってくれたんだね!」
彼女の表情がホラー映画の登場人物のようになったので、僕の予想が当たってしまったのかと思い、僕もきっとホラー映画の登場人物のような表情を浮かべた。それで少しリリーの心がなごんだようだった。
「このセーターの製作中、いかなる牛も傷つけておりません」と彼女が僕に断言した。
そして僕は、あー、セーターなのかと思った。
リリーがセーターを編めるはずない、と思ったわけではない。むしろリリーなら、心に思い描いたものをなんでも形にすることができると思う。それが5段重ねの巨大なケーキでも、マクラメ編みで聖母マリアを形作った編み物であっても。でもセーターは...ニューヨークで暮らす僕は、セーターと複雑な関係にあるのだ。外にいる時は極寒から身を守ってくれるセーターはありがたいけれど、室内では? 気温が急上昇して30度を超えたら? 汗が噴き出して、セーター地獄だ。
リリーは上が本棚になっている棚のところまで行くと、下の台に置いてあったティッシュペーパーのような紙でくるまれた包みを手に取った。そして「どうぞ」と言って、僕にそれを差し出してきた。
僕はそれを手に持ったまま、クリネックス・ティッシュと普通のA4紙の間に、どんな激しい夜の交わりがあって、このような包装紙として使われる薄葉紙が誕生したのだろう?と思いを巡らせた。それからその紙をびりびりと破くと、中からセーターが顔をのぞかせた。
まず気づいたのは、その大きさだった。―XLを通り越して、少なくともXが二つ付きそうな大きさだ。もし大きなトナカイが何かの拍子に身を隠す必要に迫られたとしても、このセーターの下に十分隠れられそうである。それから僕はセーターを広げ、そのセーターがクリスマス感丸出しであることに気づいた。―リリーがそのセーターをクリスマス・プレゼントとしてくれたのはわかっていたけれど、まさか前面にでかでかとクリスマスっぽくデコレーションをほどこしたセーターだとは思ってもみなかった。雪の結晶の模様はなんだか、前の晩にちょっと飲み過ぎたクモが、酔っぱらったままフラフラと糸を張ったみたいだった。その上に二羽の鳥がいた。ハトだ、と僕は思った。ハトのお腹には僕たちの名前が入っていた。リリーのハトは口にオリーブの小枝を一本くわえている。僕のハトはコソコソとリリーのハトの後ろに隠れようとしているみたいだ。
「おー、リリー」と僕は言った。「つまり、ワオーってことだけど」
彼女はこれを作るのに多大な時間を費やしたに違いないと思った。それで僕は言った。「これってすごく時間がかかったよね!」
今彼女が着ているサンタ感を前面に押し出した服装と凄くマッチしていると思ったから、僕は言った。「僕たちってお似合いだね!」
この一年が彼女にとって大変な一年だったことを知っているから、僕は自分の中にあるありったけの陽気さをかき集めて言った。「今すぐ着るよ!」
彼女は、今すぐ着なくていいよ、と謙遜する言葉を並べ始めた。それでも僕はセーターに首を突っ込んで、どこまで本気かわからない彼女の話をセーター越しに聞き流しながら、なんとか首を通す穴を見つけ、顔を出した。そして水面に浮上したように息をした。遠目に見たら、僕は気狂いミトンに見えたに違いない。
「気に入った!」と僕は袖をまくりながら言った。それでやっと素手で空気をつかむことができた。
「気に入ったなんて、そんなはずないわ」とリリーが言った。「着なくていいって言ったでしょ。それに、それって誰にでも言うお世辞でしょ」
「違うよ」と僕は言った。「お世辞なんかじゃないよ。僕は誰かにセーターを編んでもらったことなんて、ただの一度もないんだから。両親にもないし、おばあちゃんにもおじいちゃんにも、フロリダで時間を持て余している大叔母さんたちにだって、あんなに暇そうなのにセーターなんて編んでもらったことない。友達にもそんなことしてくれる人は一人もいないから、このセーターは僕にとって特別だよ」
「私が編んだわけじゃないの。私はただ...既製品にそれを縫い付けただけ」
「なら、なおさら良かった!その方が毛糸がほつれてるところが少ないだろうし!まぶしいくらい素敵だよ!」
僕は感嘆符(エクスクラメーション)付きの台詞を吐きすぎて、(エクス)クラマト・ジュースの広告塔にでもなった気がした。―口当たりがいいとは言い難いトマトジュースだ。―それで僕はテンションを下げた。
「本当だよ」と僕は言って手を伸ばすと、彼女の手を取った。そして瞳の中の誠意を見てほしくて、彼女をまっすぐに見つめた。「これは僕が今までにもらったプレゼントの中でも最高レベルだよ。これを着ていれば誇らしい気分になれる。〈ダッシュとリリーの誇り〉だね」
昔々のことだけど、この言葉を口にすると彼女が笑顔になったんだけどな。以前だったら、こう言うだけで彼女を幸せにできたのに。
あの頃の二人に戻りたい。
「本当に着なくてもいいのよ」と彼女が再び言った。
「わかったよ」
彼女がもう一度同じ台詞を言う前に、今はまだ僕のひたいに留まっている汗が、ひたいの下まで流れ落ちてくる前に、僕はドアに向かって歩き出した。それから振り返って、「君も来る?」と聞いてみた。「きっと僕のママも君と話したがってると思うから。それに君のお父さんがキッチンでちょっと、なんか迷ってた」と付け加えた。
リリーがこちらを向いて、やっと僕に焦点を合わせてくれた。「パパが? キッチンで? あり得ないわ。―つまり、彼はおつまみが欲しい時にしかキッチンには入らないのよ」彼女は立ち上がって、前に一歩踏み出した。「彼が何か手伝おうとしてるのなら、彼を止めなくちゃ。キッチンにママもいた? ママはもっと最悪よ」
「いや、君のママは見てない」と僕は彼女に断言した。
僕たちは廊下を歩いてキッチンへ向かった。しかし行ってみると、もう誰もいなかった。
「パパは何も壊したりしてないみたいね」と、リリーがざっとキッチンを見て回ってから結論づけた。「そういえば、―あなたの両親のことだけど、関係を悪くしちゃったとしたらごめんなさい。なんだか私、いろんな人を呼ばなくちゃって、それはいいことなんだって思い込んでたみたい。正直に言うと、自分が何を考えていたのかわからないの。混乱してたっていうか、こうなったらいいなってことばかり考えていて、当然こうなるだろうなっていう視点が抜けていたのかも。最近私はそんなことばかりやってるのよ。余計なことしちゃったわね」
「大丈夫だよ」と僕は彼女に請け合った。―けれど、どうにも本当っぽく聞こえなかった。僕たちは二人とも全然大丈夫じゃないことに気づいていたから。それで僕は言い直した。「きっと今はもう大丈夫だと思う。最初のショックも徐々にやわらいでいるだろうし、二人はリビングルームの別サイドにいるはずだから。ミセス・バジルが僕のパパを食い止めてくれているんだ。それができる人がいるとすれば、彼女しかいないからね」
僕たちがリビングルームに行ってみると、僕が言った通りの様子だった。ブーマーがすでに来ていて、ソフィアと僕のママと三人でにぎやかに喋っている。ブーマーの手は彼女の(僕のママのではなく、ソフィアの)背中に置かれていた。付き合いたてのカップルがよくやる、〈俺たちは深いところで結び付いているんだ〉とみんなに見せつけるポーズだ。僕がソフィアと付き合っていた頃、僕がああやって彼女の背中に手を当てていたら、おそらく彼女は「私を下に見てるでしょ」とか言いながら、僕の手を払いのけたと思う。でも彼女はブーマーにそうされることは気に入っているようだった。あるいは、なんとも思っていないようだった。それほどまでに、彼が触ってくることは、彼女にとってごく自然なことになっているらしい。
僕のママがそれに気づいた。ママがソフィアの背中に置かれたブーマーの手を見ている。ママの視線を見て、僕はママの気持ちが手に取るようにわかった。彼女は夫(僕の義理の父)を出張から連れ戻し、この場に連れてきて、同じように自分の背中に手を置いてもらいたがっているのだ。
一方、ミセス・バジルはチッという舌打ちを挟んだ言い回しで僕の父をねじ伏せていた。にもかかわらず、父が彼女との会話を楽しんでいるように見えて、僕はなんだかむしずが走った。
部屋の雰囲気が僕のセーターを受け入れる方向へガラッと変わるのに気づいた。僕を見て、にやけた人が確実に何人かいたんだけど、笑いに転じる瞬間、彼らの目にリリーが映り、別の考えが顔に浮かんだ笑みをかき消したのだ。―つまり、僕の隣にリリーが立っているという大きな文脈で考えてみると、このセーターは彼女が作ったものに違いないと気づいたのだろう。それゆえに、―唯一それだけの理由で、―笑い声はリリーの耳に届く前に、かき消された。誰も彼女に不穏な空気を感じさせたくないようだった。彼女にはみんなに愛されていることだけを感じてほしいのだ。もっとも、俯瞰して見れば、彼女のおじいちゃんの目には、その状況全体が滑稽に映っているようだったけれど。
リリーはそんなことには全く気づいていなかったと思う。リリーの関心事はツリーに移っていて、ツリーの真ん中辺りの枝につるしてあったろうそく立ての位置を直していた。「そろそろ時間ね」と彼女が、僕に言ったというよりは、むしろ彼女自身に向かって言った。彼女はごった返す人たちの中からラングストンを見つけると、二人で目配せし合って、何やら無言の会話をしていた。そしてラングストンのボーイフレンドのベニーが彼を軽く抱き締めてから、ラングストンがみんなの前に歩み出た。
「みなさん、こちらに注目してください」と彼が大声で言った。そこは疑似的な聖なる場所となり、その場にいたすべての生き物が沈黙した。少なくとも20人はいたと思う。―彼女のいとこたち、遠い親戚たち、家族の友達なのに親戚と同等の地位を得た人たち(なんだか中流階級なのにナイトの称号を得た人たちみたいだ)、そういう人たちに交じって、僕がリリーの人生の中に連れ込んだ4人もいた。―僕の両親とブーマーとソフィアだ。この儀式に初めて参加するのは僕たちだけらしい。他の人たちはみんな彼女の親族で、僕たちはお客さんだった。
ラングストンが続けた。「みなさんご存知でしょうが、今年は少しばかり大変な一年でした」
「勝手なこと言うんじゃない!」とおじいちゃんが怒鳴った。
ラングストンが苦笑いした。「でもみんなここに揃いました。それが一番重要なことなんです。毎年こうやってみんなが集まることができれば、それ以上の望みはありません。じゃあ、僕が長く話してもあれなんで、リリーに代わります」
僕はリリーがこの部屋の人たちのぬくもりを感じ取っていることを期待した。一堂に会した彼女の親族がみんなでいっせいに温かい眼差しを彼女に向けていたから。しかし彼女はまだ心ここにあらずといった様子で、「そういうことは言わないでほしかったわ、ラングストン」と話し始めた。「つまり、今年一年がどうとか、そういうことで私たちは集まったわけじゃないのよ」
気まずい沈黙があとに続いた。それからブーマーが叫んだ。「ボクたちはツリーに火をつけるために集まったんだよ。炎で燃え上がらせるために!」
何人かがクスクス笑って、ソフィアが彼に耳打ちするように、点灯式の意味を教えた。
「それではみなさん、ツリーの周りをぐるりと囲んでください。そしたら始めます」とリリーが言った。「今年初めて参加する人もいるので一応説明します。まず一人一人キャンドルを持ちます。それから順番に隣の人のキャンドルに火をともしていきます。おじいちゃんまで火が回ったら、おじいちゃんがツリーのキャンドルに火をともします。そして私が電球のスイッチを入れて、ツリーをライトアップします。あ、このツリーはダッシュとブーマーからのプレゼントです。二人ともどうもありがとう」
「頼んだよ、オスカー!」と、僕たち二人のどちらかが声援を送った。
みんながオスカーって誰だろう?みたいな顔で部屋を見回した。もちろん彼は名前を呼ばれても、お辞儀をしたりはしない。
僕のママの様子を見てみると、彼女は渾身の愛想笑いを浮かべていた。
首を回してパパの方を見ると、彼は若干戸惑っているように見えた。
「さあ、みなさん」とラングストンが大声で言った。「ツリーが寂しがっています。輪を作って囲んであげましょう」
みんながツリーの周りにゆがんだ円を作った。ごちゃごちゃした輪の中に僕も入っていったら、結局僕はソフィアと僕のママの間に収まり、ママを挟んでブーマーが並んだ。それから、やかましく喋りまくっているリリーのいとこらしき人を避けるように、僕の父がブーマーの隣に歩み寄った。リリーはみんなに赤や緑や白のキャンドルを配ってから、部屋の隅に行って電気を消すと、音響機器を操作して、『ホワイトクリスマス』を流した。ビング・クロスビーが才能をいかんなく発揮して歌い上げる中、リリーはキャンドルに火をともし、彼女の母親のキャンドルに自分のキャンドルをくっつけて、炎が移って安定するまで動きを止めた。炎を受け取った母親はリリーの父親に向かって同様のことをした。炎のリレーが始まった。誰もひと言も喋らなかった。僕たちは炎の行方を目で追いながら、自分たちのところまで順番が回ってくるのを待ち構えていた。おじいちゃんが椅子から立ち上がって輪に加わるのに、ちょっとばかり手間取っていたけれど、おじいちゃんの番が来てラングストンに炎を移す時は、しっかりとした手つきだった。ラングストンが自分の芯とベニーの芯をくっつけ合って、なまめかしく炎を移したあと、ベニーがくるりとつま先で旋回して、ソフィアと対面した。ソフィアはにっこりほほえんで、両手ですくうように炎を譲り受け、振り返ってそれを僕に引き継ごうとした。
ブーマーは今まで一度もガールフレンドがいたことはなかったんだけど、だからなのか、ソフィアから炎を受け取るのはボーイフレンドである自分の使命だという、はっきりとした啓示を受けたのだろう。彼が僕の背後から飛び込むように、僕とソフィアの間に割り込んできた。ソフィアは儀式の流れを中断させたくないという気持ちから、彼の望み通りに彼のキャンドルに彼女のキャンドルをくっつけた。僕はそれを見届けて、ブーマーが小躍りするようにこちらを振り向き、体をゆすりながら僕に炎を移すのをじっと見守った。僕の手元に届くまで生き延びてくれ、と消え入りそうにゆらめく炎に僕は小声で声援を送っていた。ブーマーが僕のキャンドルに炎を移し終わり、振り返ってママの顔を見ると、彼女はひどく打ちひしがれた表情をしていた。ブーマーがママと僕を飛び越えたことで、ママをパパの隣に押しやったのだ。そして誰かがさりげなく順番を入れ替えるには、もう手遅れだった。
大丈夫、と僕は自分自身に言い聞かせた。両親は二人とも大人だ。きっと大人の振る舞いをしてくれる。
母親の手がぶるぶると震えていたから、キャンドルが彼女の手から落ちるのではないかと心配になった。彼女の手が落ち着くまで僕は三回挑戦して、やっと炎を移すことができた。
「大丈夫だよ」と僕はママにささやいた。「ママは立派にやってる」
彼女がかすかにうなずいた。きっと僕にしか認識できないくらいのささやかなうなずきだった。それから彼女は振り返ると、彼女の元夫に向かってキャンドルを差し出した。
一瞬、僕は何事もなく済むと思った。次の瞬間、二人のキャンドルが触れ合い、他のみんなと同じように炎が移された。その間、母親は手元のキャンドルに視線を落としていたけれど、父親は母親の顔を見ていた。
それから、父が口を開いた。
母は父を見ていなかったから、その台詞が彼の口から放たれたとき、全くの無防備だった。父が言った。「まいったな、お前がまた俺の恋心に火をつけちまった」その言葉はすさまじい衝撃で彼女のむき出しの心を直撃した。彼女がたじろぐように後ずさり、彼女の手からキャンドルがするりと落ちた。そして彼女が彼をろくでなし呼ばわりした瞬間、ツリーの下に置きっぱなしにされていた日曜版の新聞の紙面に炎が落下したのだ。彼が部屋中のみんなに向かって、こいつ昔から冗談が通じないやつだったんだよ、とか言っている間に、床で炎がボッと燃え上がった。
みんなが反応するものだと思った。というか、たぶん反応したんだろうけど、口論中の元夫婦以外で一番近くにいたのは僕だったから、僕が真っ先に炎に近寄った。消さなきゃ、と僕は思った。とにかく消さなきゃ。僕はこの混乱のまさに火元である新聞とキャンドルの上に、お腹から飛び込んだ。お腹で炎をもみ消そうとしたんだけど、お腹から床に滑り込みながら、これっておろかな反応だったな、という考えが浮かんだ。自分自身に炎が燃え移る嫌な予感がしたのだ。しかしこの消化方法は功を奏してくれた。お腹をこすりつけることで酸素が抜けたらしく、僕はなんとか父親が引き起こした火事を鎮火した。
僕は意識のどこかでリリーが金切り声を上げるのを聞いていた。ラングストンの叫び声も聞こえた。それから、炎を窒息させた僕の息の根を止める勢いでブーマーが空中から乗っかってきた。「目を閉じて!」と誰かが叫んだ。慌てて僕が目を閉じると、僕の上のブーマーもろとも泡状の化学物質を浴びせかけられた。
誰もがしばし黙り込んだ。それから:
「もう目を開けても大丈夫よ」
目を開けてみると、ミセス・バジルがかなり大きな消火器を抱えて、僕とブーマーの真上に立っていた。僕たちは泡まみれだった。
僕の母が僕の横にひざまずいた。「大丈夫?」
僕はうなずいて、あごをカーペットにめり込ませた。
「ブーマー」と僕の母が優しく言った。「あなたはこの子が大好きなのね。でもこの子つぶれちゃいそうよ」
まさに僕はつぶれちゃいそうだった!
ベニーとラングストンが二人でブーマーを抱え上げ、ラングストンが僕に手を伸ばした。僕は彼の手をつかみ、立ち上がると、彼が言った。「ああ、これはひどいな」
僕は怪我でもしたのか? 自分では気づかなかったけど、そんなにひどい火傷でも負った?
違った。僕自身は無事だった。
けれど、僕はセーターを台無しにしてしまったのだ。
視線を落とすと、溶けたろうそくの染みと、大きな焦げ跡が見えた。僕のハトは焼け焦げたマシュマロみたいだった。リリーのハトは快調に大空を飛んでいたら太陽に近づきすぎてしまったみたいだ。そして雪の結晶はなんだか、急激な溶解を起こしたみたいにぐしゃっとなっていた。
僕は視線を上げて、リリーを見た。彼女の瞳の中に凝縮された感情がひしひしと伝わってきた。彼女は泣きたいけれど、涙を必死でこらえているのだ。いっそ泣いてしまった方が楽だろうに。
「ごめんなさい」と僕は彼女に言った。
「いいのよ」と彼女は言った。「大したことじゃないわ」
急にみんなが話し出した。暗くしてあった部屋の明かりがつけられた。僕の母が深呼吸をしながら気持ちを落ち着けていた。そして僕の父は...
父の姿はすでになかった。
ミセス・バジルが、〈勇者の証〉としての不慮の火傷がどこかにないか、体をちゃんと調べるように迫ってきた。ベニーがリンゴジュースをカップに注いで、みんなに配り出した。みんなは手に持っていたキャンドルの炎を吹き消すと、床の新聞が置かれていた場所にそれを置いた。リリーがカチッとスイッチを入れて、ツリーの電球を点灯させた。けれど、「オー」とも「アー」とも歓声を上げる者は誰一人いなかった。
その場の雰囲気をどう立て直せばいいのか、僕にはさっぱりわからなかった。
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