『ダッシュとリリーの12日間』2
『The Twelve Days of Dash & Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2018年09月02日~2019年06月30日)
僕たちはみんなで寄り添って場を盛り上げ、リリーのアパートメントを陽気なざわめきで再び満たそうとした。けれど、その試みはどこかしら、別種の不穏なざわめきを必死でかき消そうとしているようでもあった。―僕たちのパーティーにひっそりと忍び込んでいた怪しげな空気があって、僕たちがどんなに笑い飛ばすように追い出そうとしても、その招かれざる空気はかたくなに居座り続けた。
僕はもうしばらくここに残って、リリーの片付けを手伝うつもりだった。―手伝いながら今日の出来事について面白おかしく話して、それを喜劇に変えてしまいたかった。これから先いつまでも悲劇として引きずらないように。しかし、リリーのいとこたちが自宅のあるそれぞれの地区へと帰っていき、ソフィアとブーマーが夕方のデートへと繰り出していくと、すかさずリリーが近寄ってきて、「あなたもそろそろ、ママを連れて帰った方がいいわ」と僕に引導を渡した。それはもっともだと思ったけれど、でも同時に、僕が一緒にいてあげるべきなのは、ママよりもむしろリリーの方ではないかと心配になった。
その想いは、ママと一緒にリリーの家を離れるとますます大きくなった。そして間もなくママから、今日の事は何も話したくないから、それには触れないでという無言のメッセージをはっきりと感受した。僕たちが地下鉄の駅を出て、家に向かって歩いていると、僕の携帯がブンブン振動した。画面を見ると、父親からのメールだった。
わるかったな、先に帰っちゃって。それが一番いいと思ったんだ。
返信するのはやめておいた。
それが一番いいと思ったんだ。
12月15日(月曜日)
僕はそのパーティーのあと夜遅く、リリーの状態が気になってメールを送った。
返信はなかった。
翌日も、僕は学校生活を送りながら何度か彼女にメールを送った。最初は状況を聞く感じのメールだったけれど、しだいに、彼女が早まった真似をしていないかという気持ちに駆られ、文面も変わっていった。
何の返信もないなんて、彼女らしくないからだ。
僕は「放課後どこかで待ち合わせして話せないかな?」というメールを送り、電話もして、同様の台詞をメッセージとして残した。
何もない。
その夜の終わりまで、すべての鳥たちは静かにたたずんでいた。
4
リリー
群れからはぐれた甘えん坊の鳥
12月16日(火曜日)
クリスマスまでまだ一週間以上あるというのに、すでにめちゃくちゃ。普段の私はこんな乱暴な言葉は大嫌いで使わないようにしてるんだけど、でも何もかも嫌気がして、もうむかつく。
私は両親が言い争っている声で目を覚ました。しかも、かなりの大声で怒鳴り合っている。ボリスが私のベッドの下でうずくまり、前足で目を隠しながら、隣の部屋から聞こえてくる怒声にクンクン怯えていた。
ママ:「私はコネチカットには引っ越しません!」
パパ:「俺に失業してほしいってことだな? 俺はお前の父親のために、あんなにいい仕事を辞めて、フィジーから戻って来たっていうのに」
ママ:「あなた、あの仕事にうんざりしてたじゃない!フィジーも嫌いだったくせに!」
パパ:「フィジーを嫌ってたのはお前だろ!お前があんなに帰りたいって言わなかったら、俺はあんなに早く辞めたりしなかった」
ママ:「私の父親が心臓発作を起こしたのよ!あんなに遠くにいられるわけないじゃない!」
パパ:「お前の父親には4人も兄弟がいるし、お前の兄貴だっている。孫も姪も甥もいて、彼の世話をする人ならザクザク出てくるお宝並みに、いくらでもいるだろ。まあ、お前の兄貴は、助けが必要なら手を貸すとか言っておきながら、メイン州の、あの快適な山小屋から一向に出てこないけどな」
ママ:「あなたは私の家族が嫌いなのね!」
パパ:「嫌いなわけないだろ。よくもまあ、そんなことが言えるな? 俺はお前と結婚してから26年間、ずっとお前の家族のそばにいたんだ。何の疑問も持たずに、半径8キロ以内から出たことなかったんだ。やっとフィジーに行って、夢のような数ヶ月を―」私はそれ以上聞きたくなくて、耳を塞いだ。パパの台詞がラップ調になってきたのもあって、聞く気が失せた。
ママ(の金切り声):「私はコネチカットなんか行かないわ!」
(汚らしい罵声もその金切り声には混じっていたけれど、私の耳はそれをマイルドな表現に修正した。)
ちょうどその時、私の携帯の画面がうざい光を放った。見るとダッシュからのメールだった。ほんとにごめんなさい。せっかくのセーターだったのに!君は大丈夫?
大丈夫なわけないじゃない。コネチカット?!?!あんな遠くの地で暮らすってこと? そんなの考えられない。もちろん校長先生は、その寄宿学校の敷地内で暮らすのが望ましいのはわかってるわ。でもパパを雇った学校がそれでもいいって言ったんでしょ、ニューヨークに住みながら毎日通勤できるのなら、それでも構わないって。それで彼は片道2時間も電車に揺られてるわけだけどね。けど彼は電車の中でも仕事ができるみたい。(といっても、おじいちゃんと私がパパからそう聞かされたのは、両親がフィジーから帰ってきた直後だったから、もしかしたらありのままの真実ではなかったのかも。つまり、おじいちゃんが回復するめどが立つまで、なんとか乗り切ろうという意図で言った、ささやかな嘘だったのかもしれない。)
前から両親の争いは何度も目にしてきたけれど、それは「争い」といっても、よくある老人のいがみ合いみたいなもので、近くにラングストンや私の気配を察すれば、両親はお互いにシーッと言い合って、私たちに聞こえないように声をひそめる程度のものだった。なのに今回はどうしたっていうの? あからさまに大声を張り上げて、家族史に残りそうなスケールで、ちょっと怖い。
この間の夜の出来事がなければ、こんな言い争いは起きなかったでしょうね。ダッシュの両親が私の両親に機能不全を感染させて、私の両親までお互いの存在を軽くあしらうようになっちゃったんだわ。それもこれも、ダッシュの両親を二人そろって招待した私のせいだって言う人もいるかもしれないわね。けど実際悪いのは彼らでしょ。私は彼のママを招待したわ。そしたら彼女が断ってきたから、代わりに彼のパパを呼んでも何の問題もないって思ったのよ。善意の一環としてね。このバカバカしいクリスマスシーズンはそういう善意を示す時期のはずでしょ。ってことは、一旦行けないって言ったのに、結局やって来たダッシュのママのせいね。ママを連れてきたダッシュのせいでもあるし、誘いに乗ってのこのこやって来たダッシュのパパのせいでもあるわ。たまにはダッシュに対して父親らしいところを示そうとしたんでしょう、普段は全然ダッシュに協力的じゃないみたいだから。それからダッシュの過ちとしては、ママを連れてツリーの点灯式に来る途中、街中でばったりパパに会ったとき、何もせずにそのままうちに向かったことね。混ぜ合わせたら何も良いことは起こらないって、ダッシュは気づくべきだったのよ。あの人たちは毒薬なんだから。どうりで息子のダッシュがあんなにひねくれてるわけね。
でも今は、ひねくれてるのは私の方みたいだけど。「うるさい!」と私は叫んだ。私は壁の向こう側でバカバカしい喧嘩を繰り広げているママとパパに向かって、携帯電話を投げつけた。壁にぶつかった携帯は、せっかくのセーターがどうとか、バカバカしい謝罪メールを映したまま、転がった。
あの焼け焦げてめちゃくちゃになったセーターは、愚かな猫でも上に乗って寝ようとはしないでしょうね。きっとあのセーターは、私とダッシュの間に生じたあらゆる間違った物事の象徴なんだわ。どんなに善意を前面に押し出して、一生懸命頑張っても、必ずしもおとぎ話みたいなハッピーエンドにはつながらないってことね。
それにおとぎ話なんて現実じゃないし。あらゆることがバカバカしくなって、ついにおとぎ話さえもくだらなく思えるわ。まさにたわごとね。何もかもがうざい!
携帯が壁にぶつかった鈍い音とともに、両親は声のボリュームを低く落としたけれど、口論はまだ続いていた。時折、抑えきれずに高まった感情とともに、部分的に音量も上がり、「あなたのせいよ!」とか、「いったいどれだけの人間が、この結婚に関わってると思ってるんだ?」という台詞が聞こえてきた。
私はベッドから出たくなかったけれど、このまま家にいて、このくだらないののしり合いを聞いているのも嫌だった。コネチカット?!? そこって、ニューヘイブン・スタイルのピザ以外に何か取りえあるの?
私の寝室のドアが開いた。「入ってもいい?」とラングストンがささやいた。
「まずノックしてくれる?」と、私はイライラして言った。私の兄は私がノックしないで彼の部屋に入ったら、もしも彼のボーイフレンドがそこにいて、彼らが秘め事の最中だったらどうするんだって心配して怒り狂うくせに、私の部屋にはノックして入ってきたためしはない。それは私の寝室で秘め事が繰り広げられているなんてあり得ないって彼が思ってるからで、それってなんだかむかつく憶測だけど、当たってるから余計にむかつく。私の家族は私にボーイフレンドがいることを一応認めてはいるけれど、それはただ、ダッシュが内向きな性格で、本好きだし危険はないだろうって思われてるだけで、最近私たちはそんなに会ってないし、たまに彼が私の部屋に来るときも、ドアは開けておかないといけない決まりだし、それに私は今もまだ、夜は外出禁止なの。
ラングストンはなんだかにやけていた。「ハハッ」と彼は言って、後ろ手で私の寝室のドアを閉めると、私のベッドに飛び乗ってきた。彼はもう早朝の授業に出かけたものだと思っていたのに、彼はまだパジャマを着ていた。なんか子供の頃のクリスマスの朝みたいだ。私たち二人はパジャマを着たまま私のベッドで身を寄せ合って、両親が部屋に入って来るのを待っていた。それから両親に導かれて、プレゼントの置いてある部屋の外へと出て行くのだ。私のベッドでラングストンと私は聞き耳を立てて、隣の部屋から聞こえてくる両親のささいな口喧嘩を盗み聞きしていた。それがクリスマスの朝の恒例行事だった。でも当時の「口喧嘩」は、カラッと乾いたじゃれ合いみたいなもので、二人のうちのどちらかがプレゼントの包装はすべて終わったと言ったのに、まだ終わってなかったとか、二人のうちのどちらかがコーヒーは前日に買ったと言ったのに、実は買ってなかったとか。ああ、あの頃は古き良き時代だった。「コネチカット」という、未来に暗い影をもたらしそうな、いまいましい言葉が登場する前の、人生がまだ屈託のない輝きに満ちていた時代。
ああ神様、私はプレゼントが大好き。赤と白の霜みたいな砂糖が降りかかった、焼き立てのクリスマス・スコーンも一緒に出てきたら最高。コーヒーはなくても全然構わない。時々、私ってこんなにもクリスマスが大好きなんだなっていう実感がじんわり心に降ってきて、胸がはじけそうに高鳴り、それから何もかもがむかつく今年の状況に、胸が締め付けられそうに苦しくなる。どんなにみんなが私をなだめすかして背中を押してくれても、どうしても私はクリスマスムードに入り込めないの。
もしかしたら、そうやってみんなが優しく私の背中を押すから、私はそこに入って行けないのかもしれない。こういう感情って自然発生的じゃないとだめなの。無理して陽気なふりをしても、あとには最悪な気分が待ってるだけだから。私がクリスマスを実感するには、自身の内側から湧き出るような、裏表のない感情が必要なのよ。
「何が起きてるの?」と私はラングストンに聞いた。
「何が起きてるかは、かなり明らかじゃないか!」と彼は答えたけれど、冗談めかした感じはなく、真剣すぎるくらいの表情だった。
「離婚するってこと?」と私は言った。あれだけ大声でののしり合っていたことから推測すると、そういうことかなと思った。それから、ダッシュに聴力検査を受けた方がいいよって勧めようかな、とも考えた。あのハチャメチャな両親の口喧嘩を彼は幼い頃からうんざりするほど聞いてきたのだろうから、何か耳に損傷があっても不思議じゃない。でもすぐに、それはないわね、と思い直した。ダッシュのことだから、彼らが言い争っている間、おそらくヘッドフォンをして、本の世界にのめり込んでいたんでしょう。少年時代からあんな感じだったはずだから。
「それはないな」とラングストンが言った。「ちょっとしたいざこざだろ」
「あなたとベニーがいつもしてるようなこと?」私の兄と彼のボーイフレンドは、大体二ヶ月に一度のペースで関係をこじらせている。そのたびに携帯のボタンを猛烈な勢いで押して、泣き顔の絵文字やハートマークを散りばめた5千通ものメールを送り合い、ロビンが歌う甘いラブソングを流し、そうしてまた、お互いの存在なしでは生きられない状態に戻るのだ。
「君に言っておかなきゃいけないことがあるんだ」とラングストンが言い出した。
「やっぱり離婚するのね!」と私は大声を上げた。
「うるさい、もっと声を落として。もちろん彼らは離婚なんてしないよ。彼らは僕のことでもめてたんだ。君には今から話すけど、両親には昨夜話したから。そしたら彼らの導火線に火がついちゃったみたいで、いつの間にか他の問題とごっちゃになって、あんな言い争いに発展してたんだ」
私はあえぎながら言った。「あなた、ガンなの? それで、コネチカットじゃないと治療できないのね!」天の神様、どうしてそんなに残酷なの? なぜ? なぜ私の兄が? まだ大学も卒業してないっていうのに。こんなに早く彼を天に召さないで。
「ちょっと黙っててもらえないかな? 最後まで話を聞け。僕はガンじゃない。それにもしそうだったとしても、なんで治療のためにコネチカットに行くんだ? 都会の方が医療も充実してるだろ」
「たしかに!」
「とりあえず聞いてくれ、リリー...君にはママやパパからじゃなくて、僕の口から話したいんだ。僕はこの家を出るつもりだ。ベニーと一緒に暮らす。もうアパートメントも見つけた」
私は笑った。「今は冗談を話す時じゃないわ、ラングストン」
「冗談なんかじゃない」と私の兄は言った。裏切り者、ダッシュみたいだ。すべては順調だってふりしちゃって、現状はどう見てもめちゃくちゃじゃないか。
世界ではもっとずっとひどいことが起こっているのは百も承知だけれど、私は生まれてからずっとこのイースト・ビレッジのアパートメントで暮らしてきたわけだし、この建物とここの人たちこそが私の世界のすべてなのよ。それなのに、私の世界が終わりに近づくのをひしひしと感じる。兄が出て行こうとしている。それから、私にはまだ話してこないけど、ミセス・バジルがおじいちゃんを彼女のところに呼び寄せて、一緒に暮らそうと提案しているみたい。そうなれば、私の両親は安心してこの街を離れられる。ただ、そのためには私を説得する必要がある。―まだ上手い口実を思いついていないから、言ってこないんだわ。下手なことを言えば、私の心が壊れて、どうにかなっちゃうかもしれないって心配してるのね。(おかしいわね、みんなしてそんなジレンマを抱え込んじゃって、私にひと言も相談しないで。おかしくて、頭にくる。)
私の愛してやまない世界が壊れかけている。私の馴染みの世界が色あせていき、たぶん、ダッシュと私の関係も崩れかけている。ダッシュは私の気持ちに寄り添おうとしてくれる。その熱意は伝わってくるけれど、彼が必死になればなるほど、私は彼から遠ざかっていく気がする。彼にはもっと肩の力を抜いてほしい。でもどっちが正解かなんて、私にもわからない。ふと見ると、ボリスが「終わったよ」みたいな顔をして私を見ていた。ボリスは私の気持ちがわかるのか、ダッシュに贈った焼け焦げたセーターをびりびりに引き裂いてくれたようだ。ボリスの足元の、ダメになったセーターを見ても何とも思わなかった。むしろ嬉しいくらいだった。きっぱりとけじめをつけて、そのセーターを葬り去るには絶好の機会に思えた。
両親は口論のあと、遅刻を承知で仕事に出かけた。私の部屋に立ち寄ることなく、いってきますのひと言もない。朝から両親のせいで私の一日が台無しになったっていうのに、謝罪の言葉もない。ラングストンも、新しいアパートメントに入れる新しい家具を探しに、リサイクルショップ巡りに出かけてしまった。彼が私よりボーイフレンドを選んで、私を見捨てると告げられ、私はこんなにも胸が痛むほど傷ついたっていうのに、慰めの言葉もない。おじいちゃんはまだ寝ている。おそらく、お昼近くになってから訪問看護師が彼の様子を診に来るまで目覚めないでしょう。
気が進まなかったけれど、私は制服に着替えて学校に出かける支度をした。もう学校は始まっている時間だったけれど、ママに遅刻の理由を書いてもらってもいない。 私はボリスにキスをして、「私が帰ってくるまでずっと昼寝しててちょうだい」と言い聞かせた。それから、「おじいちゃんを診に来る看護師さんを床に押さえつけちゃダメよ」と念を押した。たしか彼女はバッグに痴漢撃退用の催涙スプレーを入れていたから、急に押さえつけられるのは嫌いってことでしょう。私が家を出ようとしたとき、携帯の画面が光り、エドガー・ティボーの番号が表示された。FaceTimeを使って電話してきたようだ。
「どうしたの?」と私は電話に出て、ベッドに座り込んだ。エドガーの顔が携帯の画面に映し出された。彼の顔は汗ばんでいるように見えた。髪の毛も乱れている。おそらく彼が昨年から入っているクラブのチームメイトと一晩中遊び回っていたんでしょう。彼にとっては、はしゃぎ回った夜の終わりかもしれないけれど、私にとってはもう一日が始まっているのよ。寝起きから最悪の一日になっちゃったわけだけど。
「やあ!リリー!ラーメンを至急頼む」
「どういうこと?」彼の背後には、道端でたむろしているクラブの少年たちが見えた。楽しそうに笑い合っているけれど、通行人の邪魔でしょう。
「俺たちは今すぐラーメンにありつきたいんだ。胃にたまったアルコールをラーメンに吸い取ってもらわなきゃならない。カラオケのあとコリア・タウンに行ってみたんだけど、どのラーメン屋もこんな朝っぱらから開いてないんだよ」
彼は私が手を差し伸べる価値もない男だけれど、まだ学校に行く気がしなかったから、彼をはねつけて、一方的に電話を切るようなことはしなかった。「今どこにいるの?」
「さあね、俺がそんなこと知ってると思うか?」
「ちょっとカメラをあなたの顔から離して、周囲に向けてみて。通りの名前が書かれた標識があるでしょ」
彼がよくする表情を見せた。無精ひげの生えた顔で、琥珀色のオオカミみたいな目を誘惑するように細め、歯並びのいい口を横いっぱいに広げてニヤリとした。いつもの、あの間抜けな顔だ。
携帯の画面がぐらつき、まず彼の足元が映った。黒と白のサドルシューズを履いている。ピンクと黒のタータンチェックのズボンもチラッと見えた。(そのスタイルをエドガー・ティボーは気に入っているようで、映画『ボールズ・ボールズ』の都会版だと解説していた。)それからカメラが地面に落ち、再び持ち上げられると、ついさっきおしっこをかけられたばかりのようにテカった消火栓をとらえた。映像はさらに上昇し、ついに街路標識に行き当たった。バワリー通りとカナル・ストリートの交差点だ。
私はとっさに脳内フードマップを作動させて、頭の中で食べ物屋さんを巡った。そして言った。「バワリー通りとペル・ストリートの交差点辺りに、ニューヨークきってのラーメン街があるわ。あそこならこの時間からでもやってるはずよ」この酒飲み通の情報は、そこが兄とベニーの行きつけのスポットだから知っていた。一晩中踊り明かした後にぴったりのお店らしい。―彼らの関係が良好な時に限るわけだけど。
「俺には絶対たどり着けないよ」とエドガー・ティボーが泣きついてきた。「頼む、来てくれ」
「お店の地図が載ったリンクを送るから。私は学校に行かなくちゃなのよ」私はため息をついた。「行きたくなくてもね」
「じゃあ無理か」とエドガーは言い捨てると、私に有無も言わせず電話を切った。
今回に限っては、エドガーの言う通りだった。私はいつだってそういう良い子ちゃんなのだ。良い成績を取って、みんなの世話を焼こうとして、授業もサッカーの練習もさぼったことないし、予約が入ってる犬の散歩もすっぽかしたことない。SATの受験に向けて予備校だって通ってるし、ボランティア活動もやっている。ピザやベーグルのような炭水化物もたくさん食べるけど、チーズの量が多いと思えば、なるべくその上に野菜をのせて食べるようにしてるし。タバコは吸わないし、お酒も飲まないし、もちろんドラッグもやらないし、ダッシュとの付き合いだって、羽目を外すようなことまではやってないし。「F」で始まる言葉だって言ったことないし。
「ファック!」と私は叫んだ。ワオ、気持ちいい。気持ちよくて繰り返した。「ファック、ファック、ファーック!」ボリスが再び前足で耳を塞いで、私から目を背けた。
私はすかさず携帯を操作して、午後に犬の散歩の予約が入っているお客さん数人に、体調が悪いので今日の散歩はお休みさせてもらいます、とメッセージを送った。私の代わりに犬の散歩に行ってくれそうな人たちのコンタクト情報も添えた。それから私は携帯電話をベッドの上に投げつけた。これでもう誰も私に、メッセージも、メールも、電話も、FaceTimeもしてこない。私につきまとってくる人はいなくなる。これでもう私は今日、なりたい自分になれる。誰にも邪魔されることなく、電子機器の介入もなく、どんな自分にだってなれる。この強気な気持ちが引いていってしまう前に、私は急いでアパートメントを出た。携帯なしで街をぶらぶらするのは勇気がいるけれど、なんだか昔に戻ったみたいだ。
特にどこへ行こうというあてもなく、私はただ歩いていた。マンハッタンのストリートを自分の足でひたすら歩き回っていると、不思議とやる気や発想が湧いてくるので、私は以前から好んでそうしている。そこかしこに視覚に訴えるものがあり、街は臭覚を刺激する匂いで満ち溢れていた。(それらは心地よいものばかりではないけれど、この時期は特別で、澄んだ空気も吸い込めるし、ロースト・カシューナッツや、ジンジャーブレッド・ラテの美味しそうな香りも漂ってくる。)今日のような晴れて暖かい日には、自分が浮かれた気分にじんわりと包まれていくのを食い止めるのは不可能だった。12月にこんなに暖かいのは腹立たしいことのはずなのに、不思議と腹も立たない。そんな気分に拍車をかけるような、華やかなクリスマスの装飾に囲まれて街を歩いていると、周りの見知らぬ通行人たちがみんな仲間に思えてきて、私は高揚感にすっかり包まれてしまった。
正確を期すなら、高揚感にすっかり包まれたというのは言いすぎで、私はそう思うことに決めたと言うべきね。そう思い込めばきっと、私のすさんだ心にもクリスマスの陽気な気分が吹き込んでくるはずだから。
「そんな甘えん坊の鳥みたいにめそめそするなよ」と、今朝ラングストンが私に言った。彼が引っ越しちゃうって言って、そんなの、心の準備ができてないわって言いながら、私が泣き出した時だ。もし両親が年長の雛鳥の巣立ちを口実に、年少の雛鳥をコネチカットに連れ去るつもりなら、なおさら心の準備なんてできてないわ。まったく!甘えん坊の鳥だなんて。ラングストンは私をからかう時、たまにそう呼んでくる。きっかけはリビングルームの炉棚の上に飾ってある額に入った写真で、そこにはクリスマスツリーの前で5歳の私を抱えたおじいちゃんが写っている。おじいちゃんの隣には彼の妹のミセス・バジルがいて、反対側には彼の弟で双子の大叔父さんたち(サルおじさんとカーミンおじさん)が立っている。その写真の中で兄弟たちはビールを手に持ち、口を開けている。でも彼らが大きく口を開けているのは、ビールを飲もうとしているからではなくて、彼らの大切な雛鳥にクリスマスの聖歌を歌って聞かせているからだ。ラングストンは親戚の人たちがまた私を甘やかしてると感じていらつくと、(私は親戚の中で一番年下だし、彼らに一番元気を与える存在だって言われるから甘やかされるのも仕方ないんだけど、)そういう時はいつだって、その4人の兄弟が小さな女の子を囲んでセレナーデを奏でている写真に目をやってから、ラングストンは『クリスマスの12日間』を歌い出す。そして歌詞の「4羽の甘く歌う鳥が」のところを、「4羽の甘やかし鳥が」に変えて声を張って歌い上げるのだ。まったく、それってどんな鳥よ。馬鹿馬鹿しいっていうか、ファック!
私は過保護に育てられた甘えん坊の鳥だってことくらい自覚してるけど、そんな過去の自分を乗り越えて、進化したいのよ。誕生日にみんなからお金をもらえなくなるほどは成長しなくてもいいんだけど、とにかく、ある程度は自立した方が健全でしょ。
私はイースト・ビレッジから西へ向かって歩いていた。気づくとかなり遠くまで来ていて、7番街と14番ストリートの交差点で、ふと1番ラインの地下鉄の駅が目に入った。天からの何らかの意図を持った啓示のように感じ、私は自分がどこへ行きたいのかはっきりとわかった。私は1番ラインの地下鉄のダウンタウン方面行きに軽い足取りで飛び乗った。終点のサウス・フェリー駅まで行って、そこで〈スタテン島フェリー〉に乗るのよ。
おじいちゃんたち「甘やかし鳥」は4人兄弟というわけではなくて、もう一人、はみ出し者の大叔父さんがいて、ロッコおじさんっていうんだけど、彼はあまり愛想が良くないから、どうしても必要な場合を除いては、誰も彼に連絡を取ろうとしないの。彼はすごく遠くの、マンハッタン島の外側にある、スタテン島として知られている地区に住んでいる。どっちも大差ないくらい遠いんだから、どうせだったらスタテン島じゃなくて、彼もコネチカットに住めばいいのに。ロッコおじさんのことを好きな人は誰もいない。そしてその気持ちはお互い様らしい。私は前から、彼を好きになることは自分の使命だと思うようにしてきた。誰も好きじゃないなら、誰かが好きになってあげなきゃいけないから。そうじゃなかったら、世界には希望なんてなくなっちゃう。そして私は気づいたんだけど、クリスマスの陽気な気分を自分の内側から引き出す最良の方法は、知り合いの中で一番気難しい人と会って、ちょっとでも一緒に過ごすことなのよ。そうすれば、いつも不機嫌そうなおじさんも必然的に浮かれた気分になるはず。だってそういうのって、二人の間でバランスを取る方向へ影響し合うものなんじゃないかな。たぶん同じような理由で、私はダッシュを愛してる、―というか、ダッシュのことがすごく好きなんだと思う。
この「リリーの一日限りの逃避行」にダッシュも連れてくればよかったかな。でも最近の私たちって、何かを一緒にすると、ことごとく災難に見舞われるのよね。こうしてたった1羽で群れからはぐれるみたいに、スタテン島へ行く方がおそらく無難ね。
私のママはスタテン島フェリーに乗ることを「女の傷心クルーズ」と呼んでいるんだけど、その理由が私にもやっとわかったわ。メトロカードを機械にかざすだけで、低料金で壮大な船旅を堪能できるのよ。船が先に進むと、私は二つの川が一つに収束して広がっていく光景に目を奪われ、青空を背景にした高層ビル群に圧倒された。太陽とともに私の気分もどんどん上がっていくのを感じた。私は自由の女神に向かって、ハローと大きく手を振った。そしていつものように、その自由を掲げたレディーのことを心配した。彼女の片腕はへとへとに疲れているはずだから、たまには腕を変えて、たいまつを持っている手を休ませてあげればいいのに。というか、きっと彼女のあの腕は筋肉隆々なのね。彼女には手を出さない方が身のためよ。たいていの男は返り討ちにされちゃうから。
私は一人きりで一日を過ごすことを存分に楽しんでいる自分に驚いた。自分でも驚くほど私はめったに一人で行動しないから、こういう時間が欲しかったのかもしれない。「甘やかし鳥たち」が私を甘やかしてきたのは、おそらく正しい行為だったんでしょう。私はこんなにも光り輝く存在なんですもの。少なくとも今日のような日には、心がすっきり晴れ晴れするわ。私に罠をかけようと電話してくる人はいないし、何の責任もない。ただ自分の考えと、目の前で水が織り成す神秘的な光景に没頭していられる。これってほとんどクリスマスじゃない!私は自分の内側から自然と湧き出てくるような興奮を感じていた。そして、かつてママがクリスマスの時期になると、よく私たちに読んで聞かせてくれた、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩の一節を思い出した。
すべての祝日の中で最も神聖なのがこの時期
我々一人ひとりが俗世から遠く離れて沈黙に沈み
心の内でひそやかに祝おうではないか
感情の大波が押し寄せて心の川が決壊しても
雲一つない幸せな日々が終わりを告げようとしても
暗闇から突如として喜びが湧き出すだろう
灰から炎が噴き出すように、煌めく欲望がほとばしるだろう
吹きすさぶ風に乗ってツバメの歌声が降りてくるように
遠ざかる船の帆の輝きのように白く
空中を浮遊しながら消えていく雲のように白く
小川に浮かぶ最も白いユリの花(リリー)のように白い
心の内にある優しい記憶たちは、―おとぎ話だ
我々はどこにあるのか知らない、魔法をかけられた土地の
夢の中の風景のように素敵な
フェリーがスタテン島に到着すると、私はS62のバスに乗って、この島で最も重要な目的地である〈ジョー&パット〉に立ち寄った。おじいちゃんが教えてくれたピザ屋さんで、そこで完璧なスライス・ピザを食べてから、私は歩いてガソリンスタンドのある交差点に向かった。そこには自動車の修理場もあって、それがロッコおじさんが経営しているお店だ。私はおじいちゃんとミセス・バジルが〈Yelp〉に書き込まれたロッコおじさんのお店の評判を読みながら笑っているところを、後ろから覗き込んで見たことがある。「またぼったくられた」という言葉は店の評価を書き込む時によく使う表現なんだけど、それは同時に「他のお店には行かない」というお客さんの宣言でもある。ロッコおじさんほど腕のいい仕事をしてくれるお店は他にはないからだ。たとえ彼が修理費をかなり盛って請求するとしてもね。
ロッコおじさんは自動車修理場の外に置かれた椅子に座っていた。整備士の作業服を着て葉巻を吸っている。ただ、彼のそばにあるガスポンプに貼られた「この敷地内での喫煙は厳禁」という表示が不釣り合いに目に入ってきたけれど。
「こんにちは、ロッコおじさん!」と私は声をかけた。彼は顔をくしゃっとしかめて、私が誰かを認識しようとした。
暖かい日だったけれど、私はどうしてもかぶらずにはいられなくて、両耳から赤いポンポンが垂れたお気に入りのニット帽をかぶっていた。彼はたぶんその帽子を見て、ようやく私だとわかったんだと思う。私は毎年11月29日にはその帽子をかぶっていたから。その日はおじいちゃんと彼の兄弟が揃ってスタテン島にある彼らの母親のお墓参りをする日、つまり命日で、ロッコおじさんもその日はみんなと顔を合わせるのだ。感謝祭に続く毎年恒例のスタテン島への小旅行は、私にとってクリスマスシーズンの到来を告げる大事な行事だったのに、今年はお墓参りに行かなかった。覚えてさえいないのか、誰も言い出さなかった。
ロッコおじさんが眉をひそめて、「誰か死んだか?」と私に聞いた。
「死んでないけど、おじいちゃんが大変な年だった」と私は答えた。
「ふっ、そうか」とロッコおじさんは苦笑交じりに言った。「じゃあ何しに来た?」
「べつに」
「道すがらガソリンが切れたか、満タンにはしてやるが、安くはせんぞ」
「そうじゃない!」と言いながら、私はすっかり浮かれた気分になっていた。「メリークリスマス!」
やっとクリスマスシーズンが始まってくれた。
私はスタテン島フェリーのターミナルに戻ろうと、S62のバス停に向かって歩いていた。すると通りの角のお店から、ジンジャーや、シナモンや、砂糖の甘い香りが漂ってきて、私はうっとり引き寄せられた。そのお店の窓は紙で覆われていて、ドアには「テナント募集」という貼り紙があった。今はパン屋さんは営業していないようだったけれど、ドアは開いているし、私はたまらず入ってしまった。その匂いにやられたのだ。
中には、シルバーに光った長テーブルがたぶん1ダースくらい置かれていて、それぞれのテーブルにはいくつものジンジャーブレッド・ハウスが、様々な制作段階の状態で並べられていた。半分完成した教会や、まだ屋根のないお城、壁をつければ完成の小さな妖精の家もある。材料置き場になっているテーブルの上には、ガムドロップ・グミや、M&Mや、キャンディー・ケインや、ペパーミント・キャンディーといった、よりどりみどりのキャンディーが何袋も重なるように置かれていて、ボトル入りの食品用着色料もあるし、グラハム・クラッカーも数箱用意されている。ボウルにはアイシングのクリームも入ってるし、ペンチや絵筆や型取り紙といった工具も一式揃っていて、私の手が使いたくてうずうずした。そこは天国だった。私はまだ人生をかけてやりたいことが見つかっていないけれど、はっきりわかっているのは、ジンジャーブレッド・ハウス作りという競技の世界に一生をささげるのも悪くないかなってこと。(私の高校の進路指導の先生は、そんな選択肢は現実的じゃないって夢をぶち壊すようなことを言っていたけれど、彼が間違っていることを証明してやる!)
パン職人の白いエプロンを着た若い女性が、尖った先からクリームが出てくるペストリーバッグを手に持って、ジンジャーブレッド・クッキーが並べられたテーブルの向こう側に立っていた。彼女は私を見て、ほっとしたように大きなため息をついた。「神様に感謝だわ!大学の就職課の人が昨日学生をよこすって言ってたけど、結局誰も来なかったのよ。今日は必ず誰かを派遣しますって約束してくれたけど、あなたがプラット大学の学生さんね?」
「そうです」と私は言った。そういうことにしておこう、来年入るかもしれないし。
彼女は私にエプロンを手渡した。「あなたの名前は?」
なぜかわからないけど、私はとっさの思いつきで「ヤナ(Jana)」と名乗った。そしてそう言った瞬間、それをちょっと変えるだけで、私の新たな偽のアイデンティティーは見違えるように良くなることに気づき、真ん中に「h」を入れて、「ヤーナ(Jahna)」と言い直した。
「オッケー、ヤーナって伸ばすのね」と彼女は言った。「私はミスーラ。みんなはミスって呼んでるわ」
「はい、奥様」と私は言った。
「独身のミスよ」彼女はすべてのテーブルをざっと見渡した。「あなたは、そうね、何からやってもらおうかしら。私は明日までここを借りてるだけなのよ。明日までの注文だから、これ全部それまでに仕上げないといけないの。この一週間ずっと働きづめで、24時間ここでこれを作ってるんだけどね。寝るのもここよ」彼女は部屋の隅に置かれた布団を指差した。ジンジャーブレッド・ハウス職人って、こんなに取りつかれたみたいに働かなきゃならないなんて、今まで思いもしなかったわ。私は将来の職業について考え直し、お菓子作りは生涯をかけて追及する対象からは外して、人生の側道をゆっくり走る趣味にしておくことにした。
「私は何をしたらいいですか?」この職業体験って、大学に願書を出す時に書いてもいいのかしら?
「あなたの専攻は何?」
「フード・アートです」と私は言った。ヤーナはかっこいい女の子なのよ。
「素晴らしいわ」とミスが言った。「じゃあ教会の窓をやってもらってもいい? あそこのテーブルにステンドグラスの窓があるから、色を塗ってほしいの。もう輪郭は描いたから、その線に沿って塗るだけよ」
「はい、わかりました!」と私は声を張り上げた。そう言った瞬間、ヤーナはクールだからこんな大声出さないわ、と気づいた。「つまり、なんていうか、了解しました」
「明日の朝まで徹夜になるかもしれないわよ」とミスが言った。
「問題ありません」と私は言った。ヤーナはアートに貪欲な学生だから、クリスマス休暇に電車でバーモント州の実家に帰るのは遅らせて、作品作りに精を出すのよ。彼女はバーモント出身だけど、大学3年生の時にフランスに留学した可能性もあるわね。ってことは、さりげなくクールに洗練された女の子って感じにしなくちゃ。ディズニーランドに初めて行って、馬鹿みたいにキャーキャーはしゃぐ10歳くらいの女の子とはかけ離れた存在ってことね。(実際のリリーはそんな感じで、初めてマジック・キングダムに入った時のビデオを見返すたびに、画面の中の自分と一緒に今もキャーキャーわめいているのだけれど。)ヤーナは深夜に及ぶ仕事を快く承諾しちゃったけれど、リリーは心配していなかった。きっと本物のプラット大学の学生がそのうちやって来るだろうし、そしたら、ヤーナはこの仕事から解放されるだろうから。ミスも「何かの手違いね」とか言って笑ってくれるだろうし、私は「あらやだ、あなたもこの仕事に申し込んでいたなんて」とか言って、「じゃあ、仕方ないわね、どうぞ」ってその学生にこの場をゆずって、私はさっさと家に帰ればいいのよ。
ミスが言った。「あなたのその洋服、素敵ね。ビーティ―ダブルユー」一瞬何を言っているのかわからなかったけれど、彼女は略語が好きらしい。「btw」は「by the way(ところで)」だと気づいた。「それってヴィンテージ?」
これは私の趣味じゃなくて、学校のダサい制服なんだけどな、と思いながら自分の姿を見下ろしてから、ヤーナになりきって、「ティーワイ」と言った。「ty」は、Thank you(ありがとう)という意味だ。「ワイイーエス(Yes)、ヴィンテージです!」
その後、ミスはあまり話し好きではないことがわかった。彼女は行動で示すタイプらしい。彼女はいわば、ジンジャーブレッド・ハウス製造マシーンで、可憐な手つきで砂糖衣をまき散らし、ガムドロップをポンポンと置いていくのだ。それでもなんとか聞き出した話によると、彼女はフリーランスのパン職人で、今年はカスタムメイドのジンジャーブレッド・ハウスの注文に追われて、大忙しで手が回らなくなっているという。でも、忙しいっていいものなんだな。私は黙々と作業をしながら、ダッシュが本を読んでいる間ってこんな感じなんだろうな、と思った。大好きなことをしながら、「独立して生きているんだ」という感覚に酔いしれて、その日の午後、私はずっとジンジャーブレッド・ハウスの飾り付けをしていた。それは私が想像しうる、ほぼパーフェクトな一日の過ごし方だった。
夕食の時間になっても本物のプラットの学生さんは現れなかった。私はすっかりお腹が空いてしまい、休憩をもらって再び〈ジョー&パット〉に行ってピザを食べた。食べながら、このまま残りの仕事をほったらかして、帰ってしまおうかとも考えた。私の家族もそろそろ、私がどこへ行っちゃったのかと心配し始める頃だろうし、私はミスにひと言言ってから帰ろうと思い、ピザを食べ終えると、ミスの分のスライス・ピザを数枚買い足した。ピザがあれば、ヤーナがミスに「夜は働けません」と告げるとき、ミスが受ける衝撃を、ピザがクッション代わりになって和らげてくれるはず。
戻ってみると、ミスが床にペタンと座り込んでいた。疲れ切った様子だった。私は彼女にピザの箱を手渡した。「あなたってほんとに天使ね、ヤーナ」と彼女が言った。「あなたは今日、文字通り私を救ってくれたわ」彼女は受け取ったピザをがつがつと食べ、ぺろりと平らげると、こう言った。「奥の部屋見たい? ほんとに手伝ってほしいのはそこにあるの。金のなる木っていうのかな、ヒット商品よ」
「Oui!(はい!)」とヤーナはフランス語で言った。「J'adore les moneymakers.(私も金のなる木は大好きよ)」リリーは家に帰らなきゃと内心焦っていたけれど、好奇心旺盛なヤーナは奥にあるものが何なのかを知りたくて仕方がなかった。ヤーナはフランス語も副専攻科目として学んでいるはずだし、フランス語を学べば、プラット大学を卒業した後の選択肢も広がって、いろんな職業に就くことができるわ。〈ル・コルドン・ブルー〉でお菓子作りを専門的に学ぶことだってできるし。Oui!(いいね!)素晴らしい未来設計だわ!
ミスが言った。「あなたはいい腕してるわ。あんなに綺麗に教会を仕上げてくれたしね。あなたって信心深い宗教家とか、そういうんじゃないでしょ? 裏にあるものを見て、あなたが気を悪くしないか心配なのよ。裏にもジンジャーブレッド・クッキーがあるんだけど、成人向けっていうか、わかるかな、すっぽんぽんの、あなたが見るとショックを受けちゃうかな」
「問題ありません」と私は言った。「私は処女ってわけじゃないし、ハハハ!」リリーは処女だった。しかしヤーナは大学3年生の時に留学先で18世紀フランス文学の教授と狂おしいほどの情事を繰り広げた経験があった。それは誰にも言えない秘密の関係だった。ヤーナは今では、20歳も年が離れた彼との不倫を後悔していたけれど、思い出すだけで声が出ちゃうほど、セックスは素晴らしかった。l'amour(愛し合った)あとのシャンパンと、チョコレートに浸した苺の美味しさが忘れられない。
ヤーナなら奥の部屋で見たものについて、それがどうしたの?って感じで平然としていたかもしれない。でもリリーはショックのあまり、目を大きく見開いてしまった。「成人向け」という言葉は誇張でもなんでもなく、この目でこんな姿のジンジャーブレッド・クッキーを見たのは、どんなに記憶をたどっても、正真正銘初めてだった。裸の男と女が、色々な形の...
「カーマスートラ・クッキーっていうのよ」とミスが言った。「主要な体位はすべて取り揃えてるわ」
「その名前知ってます。古代インドの性愛書ですよね」と、ヤーナは高鳴る鼓動に乗せて早口で言った。
「彼らにはちゃんと、乱交パーティーを執り行う館(やかた)もあるのよ!」とミスは笑いながら言って、完成品のジンジャーブレッド・ハウスを指差した。なんだか、いかがわしい紳士クラブみたいな飾り付けだった。屋根には〈ライブ・ヌード〉という白い文字がアイシングで綴られ、その両サイドにはレッド・ホット・キャンディーが赤い電球代わりに並べられていた。
リリーはごくりと唾を飲み込んだ。代わりにヤーナが言った。「凄いわ。見事な形に仕上がってますね」嘘をついたつもりはなかった。ジンジャーブレッドの恋人たちは心底愛し合っているように見えたし、絡み合う彼らの恍惚の表情を見ていたら、私もそんな情熱的な快楽を味わってみたくなった。いつかね。
私は居ても立っても居られなくなってしまった。今すぐ家に帰って、ベッドの上にあるはずの携帯電話を取り戻し、ダッシュに電話したい。そして最近のいざこざはすべてなかったことにして、彼に会って、彼に触れて、ジンジャーとシナモンと砂糖を彼にふりかけて、それから彼の匂いをかいで、彼にキスしたい。
「そう?」とミスが言った。「完成までに2、3週間かかったのよ。体位をね、ちょうどいい感じの絡み具合にするのが難しくてね」
「そんなに苦労したようには思えない自然な曲線ですね」とヤーナは言った。
「サンキュー!あなたは今日一日あんなに一生懸命頑張ってくれたし、あなたになら、一番楽しい作業を任せられるわ」彼女は私に青いクリームが入ったペストリーバッグを手渡した。それから、まだ何も装飾を施していない裸の女性のジンジャーブレッドが並べられた、いくつかのトレイを指差した。
「この女の子たちって、その紳士クラブで働く子たちですか?」と、ヤーナは当然そういうことなんだろうな、と思いながらミスに聞いてみた。
「まさか!」とミスは言った。「この子たちは王室の姫たちよ」彼女は一枚の紙を持ち上げると、トレイの向こう側の壁にピンで留めた。その紙には、長い髪を編んで垂らした肉感的な二人の女の子が、口には出せないようなことをして快楽にふける絵が描かれていた。「こんな感じに仕上げてちょうだい。プリンセスたちよ」
「エルサとアナじゃないのよ!」とリリーは叫び声を上げた。もう限界だった。なんとしても今すぐ家に帰りたい。目の前の絵が記憶から跡形もなく消え去るまで、もう二度と『アナと雪の女王』は見られないと思った。
「そう?」とミスがまた言った。「なんとなく似てるかしらね、アナ雪は大人気よね!」
リリーは逃げ出したくてたまらなかった。オービーヴィーエス、obvs(明らかに)、これ以上ここにはいられない。携帯が恋しい。そして家も。それからママも。そんな私の気持ちはお構いなしといった感じで、ミスが言った。「男性ストリッパーを味わいたい?」
「え、あ、はい」とヤーナは言った。
ミスが私にウインクした。「これは特別なクッキーよ」
私は裸の男性をひと口かじってみた。おー、この男の子、とても美味しい。口に入れる前に予想した味とは少し違ったけれど。
「何か特別な材料でも使ってるんですか?」と私は聞いた。
「そう?」とミスがもう一度言った。
ヤーナはその特別な材料が何なのか、なんとなくわかっていたけれど、リリーにはわからなかった。ヤーナは「わかるわ」みたいな顔をして頷きながら食べていた。そして「凄いわ」と再び言った。
そのクッキーが思いのほか美味しくて、もう1個食べたくなった。そしてそれを食べ終えると、さらにもう1個、と次から次へと食べてしまった。
すると私はとてもリラックスした気分になり、幸福感に包まれ、あれほど帰りたかった気持ちもすっかり消えてしまった。それから私は突発的な空腹感に襲われ、もっとピザが食べたくなった。チョコブラウニーでもいいから、何かを口に入れたかった。目の前にミスが描いたジンジャーブレッド・クッキーの図面があって、その絵の中でエルサとアナが内に秘めていた自身の芸術的可能性を開花させていた。クッキーに仕込まれたアルコールに酔っていたんでしょう。ヤーナが、性的な絵が芸術的なわけないじゃない、と否定してくれた。リリーはディズニー好きで処女のおしとやかな女の子だからね。
ヤーナは仕事に取り掛かった。
12月17日(水曜日)
パン屋さんの作業場の窓を覆う紙の、破れた穴から太陽光がなだれ込んできて、ヤーナは布団の上でゆったりと目覚めた。しかし壁にかかった時計を見て、パニックに陥ったのはリリーだった。午前11時15分、マジで? どうしよう? ファッ...(ク!)
ミスは床の上で眠っていた。
昨晩眠りに落ちた記憶がない。なぜ家に帰らなかったのかと記憶を掘り起こしている場合でもなかった。
私は勢いよくドアの外に飛び出して、フェリーのターミナルまでの道のりをひたすら走った。途中ベーグルの美味しそうな香りがしたけれど、立ち止まるわけにはいかなかった。危機を察知するメーターが最大値まで振り切れていて、嫌な予感が頭を駆け巡っていた。―帰ったら完全にまずい状況が待っている。あるいは『ホーム・アローン』みたいに家族が家を空けていて、私がいなくなったことに誰も気づいていなかった、なんてこともあり得るか。
その可能性への答えが、フェリーの待合室のテレビ画面に映っていた。そのテレビは地元の情報に特化したケーブルテレビ局〈ニューヨーク・ワン〉にチャンネルが合わされていて、音声はオフだったけれど、画面には私の写真が映っていた。写真の私も両耳から赤いポンポンが垂れたニット帽をかぶっている。それから昨年撮られた、ある出来事の映像が流された。街の人たちみんなに携帯で撮影された、あの事件の映像だ。画面にヘッドラインが流れる。「10代の赤ちゃんキャッチャーが行方不明」
5
ダッシュ
黄金の指輪をそこにはめて
12月17日(水曜日)
僕がラングストンからメールを受け取ったのは、火曜日の夜8時頃だった。
リリーは君と一緒か?
僕は「一緒じゃない」と返信した。
すると彼が聞いてきた。リリーがどこにいるか知ってるか?
僕は「知らない」と返信した。
それから僕はリリーにメールしてみた。「君は今どこにいるの?」
彼女の携帯から返ってきた返信には、こう書かれていた。リリーが携帯を家に置いていかなければ、僕がわざわざお前にメールすると思うか?
それでようやく僕は、リリーがいなくなってしまったとか、そういう事態なんだと気づいた。
通常、10代の若者が夜間外出禁止を破っても、取り立てて騒ぐことではない。そういうのは誰もが経験する単なる通過儀礼にすぎない。けれどリリーの場合、今まで一度も門限を破って大人ぶったことをしようという素振りさえ見せたことはないし、それにもし彼女が一晩家に帰らなければ、おじいちゃんがどれほど心配するか、彼女なら真っ先にそう考えるはずだ。
だから僕たちは心配だった。
僕は僕の友達や彼女の友達に電話をかけまくったけれど、彼女を見かけたという人はいなかった。ラングストンが定期的に状況を知らせてくれた。親戚の人たちには連絡網みたいに電話を回してもらっているという。
夜の11時になっても、彼女からの連絡はなかった。
真夜中を過ぎても、何の音沙汰もない。
エドガー・ティボーって誰だ? とラングストンからメールが来た。
「嫌味なやつだよ」と僕は返信して、「なんで?」と付け加えた。
そいつがリリーの居場所を知ってるんじゃないか?
「なんで?」
なんとなく、直感だよ。
僕にはなんだか、違和感があった。エドガー・ティボーとリリーは今もまだ連絡を取り合っているっていうのか? そうは思いたくなかったけれど、彼女の携帯を手に持つラングストンがそう聞いてくるってことは、そういうことになってしまう。
時系列順に整理してみる。
12:30:連絡なし。
1:00:連絡なし。
眠れそうになかった。僕はうとうと浅い眠りをさまよいながら、1時間置きに届くラングストンからのメールを気に掛けていた。
2:00:連絡なし。
3:00:警察に知らせた。
4:00:あちこちの病院に電話をかけた。
5:00:連絡なし。
6:00:目撃情報あり!スタテン島だ。
6:01:すぐラングストンにメールを返した。じゃあ今すぐ僕たちもスタテン島に行くんだね?
6:01:30:もちろん。
僕は急いで着替えると、寝ていた母親を起こして事情を説明し、今日は学校を休むと言って、アパートメントを飛び出し、ダウンタウン方面に走った。それから地下鉄に乗ってフェリー乗り場に向かいながら、僕はずっと、こんなことになったのは絶対僕のせいだと考えていた。僕がもっとましなボーイフレンドだったら、恋人が失踪するなんて、そんな事態は避けられただろう。僕がもっとましなボーイフレンドだったら、どこかへ消えたいなんて、恋人をそんな気持ちにはさせなかっただろう。彼女のクリスマスツリーの点灯式を台無しに燃やしたりしなかっただろうし、彼女が予測できない行動を取ったとしても、彼女の気持ちは予測できたはずだ。
どこにいるんだよ、リリー? 僕は考え続けていた。
「全部僕のせいなんだ」
僕に向かってそう言ったラングストンは、心底落ち込んでいる様子だった。彼もまた僕と同様に責任を感じているようだった。
「どういうことですか?」と僕は聞いた。僕たちは〈スタテン島フェリー〉のデッキの上に立っていた。とはいえ、時間も早すぎるから寒すぎて、デッキの上に立っているのは結構しんどかったけれど。フェリーが波止場から離れ、水面を突き進んでいく。遠ざかっていく〈バッテリー・パーク〉を尻目に、僕たちは自分自身にバッテリーを入れ直す気持ちだった。フェリー乗り場は、フェリーを降りてこれからマンハッタンの高層ビル群へと仕事に向かう人たちでごった返していたけれど、この時間にスタテン島へ向かう人はそれほど多くなかった。僕たちは周りの世界を巻き戻すみたいに、流れとは逆方向に進んでいた。
初めラングストンは僕の質問に答えるつもりはないのかと思った。―沈黙の時間が続いた。沈黙ではなく僕たちは何か会話を交わしていたのかもしれない、そう疑いたくなるほどの長い沈黙だった。あるいはそれは単に、リリーがいなくなったことによる錯乱状態の中で、僕が勝手に脳内会話を繰り広げていただけかもしれない。するとラングストンが右手を持ち上げ、小指にはめているゴールドの指輪を見せてきた。
「ベニーと僕はこれからのことを真剣に考えようって決めたんだ。つまり一緒に暮らすことにした。一緒に暮らすってことは、今まで人生のほとんどを過ごしてきたあの家を出るってことだ。昨日リリーにそう言ったんだよ。彼女はうまく飲み込めないようだった。まあ、それは予想していたことだけど...その予想が外れてほしいってどこかで期待してもいたんだ。彼女は理解してくれるかもって。でも、そりゃそうだよな、彼女が理解するわけないよな?」
「それって要するに、彼女は末永く続いていくような関係に身を置いたことがないから、理解できないって意味ですか? つまり、あなたとベニーの関係とは違って、僕とリリーの関係はそうじゃないから?」
ラングストンは首を横に振った。「べつに僕はいつもいつも君に嫌味を言ってるわけじゃない。なんでもかんでも自分に悪いように取るなよ」
「それは違う。なんでもかんでも自分に悪いように受け取ってるわけじゃない。20分以内に同じようなことを言ったら、そりゃ、なんでもかんでもって認めるけど」
ラングストンは僕から視線を逸らして、口笛で何かの曲を吹きながら、水に囲まれた世界を見渡した。なんだか自由の女神も彼に共感して、僕の発言のくだらなさにあきれているようだった。
「不思議なんだけどさ」と、彼はまだアッパー・ニューヨーク湾を見つめながら言った。「リリーも君と同じくらいあれこれ考えて、神経をピリピリとがらせてるんだよ。僕の周りでそういう人はリリーだけだよ。考えるって君の大好きなこと、だよな? 考えるって、そりゃ楽しい時もあるけどさ、でも疲れちゃうだろ、ずっと考えてたら」
リリーと僕には共通点がある、そうラングストンが認めるのは彼らしくないように思えたけれど、とりあえず僕に対する好意的な発言だと受け取ることにした。同時にそれ以上、その点を掘り下げて聞くのもやめておいた。
僕もラングストンの視線を追うように、朝の日差しを反射して水面がきらめく景色を眺めた。エリス島が見える。ダウンタウンの岸辺に腰かけている巨人のような高層ビルが遠ざかっていく。生まれてからずっとマンハッタンで暮らしていると、マンハッタン島から離れる時はいつでも、自身が引き裂かれるような気分になる。最初は自由を手に入れた解放感でいっぱいになるけれど、少し時間が経つと精神がバランスを取るかのように、自分の全人生を置いてきてしまった、という喪失感が重くのしかかってくるのだ。遠ざかる今までの人生を見つめるような気持ちで、そんなことを考えていた。
リリーに隣にいてほしかった。それは意味のない思考だということもわかっていた。もし彼女が今僕の隣にいたら、僕はこうして彼女を探していないことになる。―でも同時に、それは完璧な意味を含んでいる気もした。僕は彼女と人生の最高の瞬間を共有したい。彼女は僕にとってそういう存在なんだ。そう痛切に感じさせてくれた、気づきの瞬間だった。
ラングストンはいったい誰のことを考えているのだろう。ベニーのことだろうか、リリーのことだろうか、あるいは誰のことも考えていないのかもしれない。僕は今この時をリリーとは分かち合えていないけれど、彼と分かち合っているんだ。少なくともこうして二人で話していれば、この感情を彼と共有できるはずだと思った。この瞬間を経験している僕の心と、同じ瞬間を経験している彼の心に、もうすぐ橋が架かる予感がした。
「変なこと言ってもいいですか?」と僕は、吹き付ける風に声がかき消されないように、少し声を張って言った。「僕は今日初めて、この〈スタテン島フェリー〉に乗ったんですよ。前から乗りたいとは思っていたんですけど、なかなか機会がなくて、用もないのにわざわざ乗るのも気が引けて。小学5年生くらいのときに、一度遠足で別のフェリーに乗って、自由の女神を見たことはあるんですけど、―でもそれ以外では地上から離れたことがなくて、こうして水上にいるのは、なんか不思議な気持ちです」
「僕はスタテン島で、ある男の子と付き合ってたことがある」とラングストンが返した。「最初のデートで彼の両親に会った。そして2回目のデートも彼の両親が一緒だった。それから3回目も。だから僕はスタテン島って聞くと、家族から離れたがらない男の子を思い出す。スタテン島ってそういう、家族の絆が強い土地柄なんじゃないかとさえ思う。残念ながら、4回目のデートが回って来る頃には、僕が彼の家族から距離を置きたくなっていた」
「彼と別れるとき、何か思い切ったことをやっちゃった、とかですか? たとえば、そうだな、その家のクリスマスツリーを燃やしちゃったとか?」
ラングストンは笑ってくれなかった。「そんな馬鹿な真似するやつは、どこの狂人だ?」
「恋に狂った人ならやりかねませんよね?」
やっと彼が笑ってくれた...といってもほんのちょっと笑みを浮かべただけだったけれど。「それはあり得る。なかなか面白い観点だ」
「好きになっちゃうと、火をつけちゃうんですよね、恋心に―」
「―火をつけるべきじゃない人に、なぜかつけてしまう」
「たしかに」
それっきり沈黙が訪れた。風が強まり、フェリーが通った波の軌跡が増していく。今ではすっかり遠ざかった自由の女神は、もはや僕たちに愛想を振りまいてはいない。むしろ、一人で生きていく決意をした女性の表情に見える。彼女はインターネットで知り合った男を待っているかのようだ。生の彼女を初めて見た男の第一声は、こうだろう。「プロフィール写真ではもっと小さく見えた」
ラングストンはフェリーが近づきつつある島の方へと視線を投げかけた。「さっきの質問に答えると、ツリーを燃やしたりはしなかったし、彼の家にも火をつけてない。ただ、彼の恋心にも火をつけられなかった。僕は彼に連絡するのをやめて、そっと火を消すように、マンハッタンに戻ったんだ。きっと彼は近くに住む素敵な男の子を見つけたよ。僕の想像だけど、毎週日曜日の5時にはお互いの家族が集まって、みんなでディナーを食べてるよ」
僕はどうしても、―聞かずにはいられなかった。「それって家族の特徴ですか? どこかへ自ら失踪するっていうか」
ようやく彼が僕の顔を見返してきた。「そういう面はある。でもこれだけはわかってほしい。―家族の中でリリーだけは違うんだ。僕たちの中でリリーは一番出来がいいんだよ」
「その点は僕も同じ意見です、って言っても気を悪くしないでくださいね。まあ、実際彼女も自ら失踪しちゃったみたいだけど」
スタテン島がはっきりと僕たちの眼前に現れた。島に建つ家々や、なだらかな丘は、僕たちが後にしてきた土地の景色とは対照的だった。もっと長い船旅になると思っていたけれど、そういえばスタテン島も同じニューヨーク市内だったと思い出した。僕たちが得た情報が正しければ、リリーにぐっと近づいたことになる。でもまだ彼女の姿が見えたわけじゃない。
「全部僕のせいなんです」気づけば僕はラングストンにそう言っていた。
彼は手すりに寄り掛かって、両手をコートのポケットに突っ込んだ。「それはどういう意味だ?」
「僕はまだ彼女に近づけていないんです。彼女の心に近づいて、そっと寄り添えなかったら、どうしたって結局彼女はどこかへ行っちゃう」
汽笛が鳴り響いた。彼が何かを言いかけたけれど、どんな返答もかき消してしまうほどの爆音だった。フェリーのエンジンが止まりかけて、ガクンガクンと音を立てている。まるで二の足を踏んでいるみたいだ。それからフェリーが波止場に吸い込まれるように停止した。
「よし行こう」とラングストンが言った。
僕はラングストンの後を追って厚板の上に降り、ターミナルへと入っていった。そして外に出るドアのところで、僕は彼に聞いた。「ここを出たら、その道をどっち?」
「正直言って、わからない」
それは僕が望んでいた返答ではなかった。僕は彼がかなり綿密な計画を立てているものだと思っていた。地図を出して目星を付けた数か所を線で結んで、その線に沿って近隣を探し歩きながら、道行く善良な市民のみなさんに聞き込みをするとか、そう勝手に思い込んでいた」
「じゃあ、彼女を最後に見かけたのは?」と僕は聞いた。
「僕のおじだよ。はぐれ者のおじさんが彼の自動車修理場で見かけた。でもそれからかなり時間が経ってるし、それにスタテン島って君が思ってるよりずっと広いんだよ。ここではほとんどの人が車を持ってる」
「車?」
「真面目な話、みんな車で移動するんだ」
「じゃあ、僕たちはどうすれば? タクシーであちこち行って、彼女を探し回るってこと?」
「さあな。っていうか、僕たちにも探せる場所があることはある。探したい場所って言った方がいいかな。とにかく、彼女がこの島で何をやっているにせよ、そこを探すのが一番いいと思う。彼女がどこにいるのかわからないわけだし、僕たちが二人で手分けして闇雲にあちこち探し回っても、彼女が見つかるとは到底思えない。そんなことをしても、僕たちが道に迷うのが関の山だろう」
「じゃあ、どうするの?」
「まず僕たち自身の気分を良くするのが先決ってことだよ。それが男ってもんだろ」
僕はため息をついた。スタテン島をさまよい歩きながら、一人の女の子を探す自分を想像してみた。考えれば考えるほど、途方に暮れてしまう。それは干し草の山の中に落ちた一本の針を探すみたいなものだ、―と思ったけれど、僕たちはその干し草の山でさえ、まだ見つけられていなかった。
「彼女は戻ってくるよ」とラングストンが続けた。「きっと彼女は家に帰ろうとする。そしたらフェリーに乗ろうとするはずだから、彼女がフェリーに乗り込んでくるまで、僕たちはフェリーの上で待っているべきなんだ。そうすれば自ずと彼女が見つかる」
「でも彼女が誘拐されていたら? 彼女が今にも僕たちに助けを求めていたらどうする?」
「君の探偵ライセンスを最後に更新したのはいつだい? シャーロック・ホームズくん。僕たちはこの不慣れな地で手がかりを見つけて犯人を追跡できるほど、シャーロックでいえば、バスカヴィルの犬ほど、鼻が利くとは思えない。それに僕の体中の細胞が言ってるんだ、血を分けた兄弟の直感でわかるんだよ、リリーは10代を狙った誘拐事件に巻き込まれたわけじゃないって。彼女はこの島をぶらぶら歩き回っていて、どこかに迷い込んじゃったんだろう。僕たちに見つけてほしいって彼女が望んでいるのかはわからないけど、僕たちが彼女を見つけようとしていたってことを、彼女に知らせることにもなるんだ。だからもう一度フェリーに乗ろう」
アナウンスが流れた:フェリーが再びマンハッタン島へ出発いたします。
「よし乗ろう」と僕は言った。
僕たちは特に何も話すことなく、湾を3往復した。そして4往復目に入り、デッキの上で風を浴びることの新鮮さもすっかり失われ、気づくと僕たちは中のベンチに座っていた。初めのうち、僕は船内の乗客たちをキョロキョロと観察して過ごしていた。マンハッタンへ向かう便には、いつものルーティーンをこなしているといった感じの人々がどっと船内になだれ込んできた。彼らは新聞を広げると、毎日の船旅で刻み込まれた体内時計に従って、お決まりのコーナーを読み、ねじれたドーナツを口に運び、時間を計って食べていたかのようにドーナツの最後の一切れを口の中に放り込むと、さっと立ち上がってフェリーを降りていった。一方、スタテン島へ向かう便の乗客は、なんとなく僕とラングストンと似通った印象、つまり通勤客ではない人たちが多いようだった。―ふらっと日常から離れて小旅行に出かけるといった感じの人とか、ちょっとイライラしている様子の人もいた。その中に、さっきから僕たちと同じように湾を行ったり来たりしている50代くらいの一人の男性がいた。彼は氷河が溶けるスピードか、もしくは読書に無我夢中の子供並みの速いペースで、ジョナサン・フランゼンの小説のページをめくっている。僕がぼんやりと彼の姿を見ていたら、ある時点で彼が目を上げ、僕を睨んできた。僕はハッとして、あなたのことを見ていたわけではありませんよ、という風に目をそらしたけれど...遅かった。彼はまだ僕を睨んでいる。その目がなんだか怖かったから、それからというもの、僕はじろじろと誰かを観察するのは控えている。
気づけば僕はラングストンが小指にはめている指輪を見つめていた。彼とベニーが同棲することについて考えてみた。その一歩はかなり思い切った決断だったはずだ。ラングストンが僕の視線に気づいて、眉をつり上げた。
「何かきっかけでも?」と僕は彼に聞いてみた。「つまり、大きな一歩を踏み出す準備ができたなっていう実感に至った理由というか、何かあったんですか?」
どうせ「お前には関係ない」とか、「お前に話してもわかりっこない」とか、そういうことを言われて突っぱねられるだろうなと思っていたら、彼が真剣な目つきで僕を見てきて言った。「べつに準備がどうとかそういうことじゃないんだ。―つまり、そんな大それた考えがあってのことじゃない。準備なんていつまで待ってもできないよ。そこに行ってみたら、十分準備ができていたんだなってあとから気づくだけだ。僕たちだって、一緒に住もうって決意したんじゃなくて、成り行きだよ。―お互いの家を交互に泊まり歩いているうちに、これって一緒に生活してるみたいなものだし、だったら一緒に住んじゃった方が手っ取り早いなって気づいただけだ。
「でも彼のこと愛してるんでしょ? つまり、―その指輪って」
ラングストンがほほえんで、その指輪をいじくり始めた。小指の上から下まで指輪をクルクルと行ったり来たりさせている。なんだか指輪が抜け落ちないかと確かめているみたいだ。
「もちろん愛してるよ。何も不安なんかないってくらい、愛するのを怖がるのはもうやめようって思えるくらい愛してるかもしれない。僕たちはそういう想いに至ったんだ。―毎朝一緒に目覚めて、一緒に一日を始める。そりゃ生きてれば、うまい具合に進んでいかない日だってある。いろんなことに気まぐれに翻弄されるし、ひどい目にも遭う。だけど、そういう一貫してない日々の中でも、僕たちはお互いにとって常に変わらぬ存在だってわかったんだ。僕は彼がいないと生きていけないって心から思うし、彼がいなかったら生きていたいとさえ思わない。―そう心から思った時が、一歩を踏み出す時だろ?」
僕は納得した...そしてもっと知りたくなった。「でもどうやったらそう心から思えるんですか? そこまでの想いに至るって、どうやったら?」
ラングストンは指輪から手を離し、背中を反ってシートに身を預けた。「君とリリーのことを言ってるのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「たぶんじゃなくて、そうです...僕とリリーもそこまで行けるとは思うんです。わかりますよね? どうにかすれば、いつかはたどり着ける気がするんですけど、でもかなり近づいたかなっていう地点まで来ると、お互いおじけづいちゃうんですよね。相手がどうこうっていうんじゃなくて、二人とも自分自身に対して踏ん切りがつかない感じなんです。僕とリリーは相性が良くないとか、一緒にいてもうまくやっていけないとか、僕が考えてるのはそういうことじゃなくて、―僕が、リリーにとってふさわしい相手なのかどうかってことです。僕は彼女にとって、なるべく明るい居場所になりたいんですよ。二人で一緒にいると本当に明るい空間になる時も、たまにはあるんですけど、でも大体は、ただの空間です。ぽっかり空いたすごく大きな、僕はただの空間なんです」
「電球がたまにしか光らないってわけか」
「まあ、新しい電球が見つかれば」
「いいんだよ、―そのままで。明るすぎたらまぶしくってしょうがないだろ」
慰めにもならなかった。そんなことを言われても、ピンと来ない。僕はもはや自分の発言の意味さえ見失っていた。なんだか落ち着かなかった。いつもならリリーのことを話してると、ある意味で彼女が近くにいる気がしてくるんだけど、彼女のことを考えるだけで彼女を身近に感じるはずなのに、今はその心の装置が作動してくれなかった。
「ピンと来ませんね」と僕は言った。
「なにが?」
説明するのも面倒でイライラしてきた。―たぶん僕のそういうイライラを、彼も感じ取っていたんじゃないかな? 「ここでこうして待ちながら、話しています。考えています。そういうことが全部、なんかピンと来ないんですよ。彼女は彼女がやりたいことをやっていて、家に帰りたくなったら帰ってくるでしょう。そして最終的に彼女が僕と一緒にいたいと思えば、彼女は僕と一緒にいることにするでしょうね」
「で、君も彼女と一緒にいたいんだろ?」
「もちろん」
「その気持ちは彼女に伝わってるのか?」
「兄から見て、どう思います?」
「さあな」
まったくもう、と僕は思った。太鼓判を押してくれるんじゃないのかよ。僕にはそんな励ましを受ける資格もないのに、大丈夫だって後押しされるんじゃないかと期待しただけ馬鹿だった。
ラングストンが続けた。「まあ、パラドックスっていうか、難しいよな。その人についてどんどん知っていけばいくほど、もちろんそれくらい好きだから知りたいって思うわけだけど、―そのうち知らない部分、どうしても知りようもない部分の存在を感じるようになっていく。僕はベニーがいつも食べてるシリアルの銘柄を知ってるし、彼のお気に入りの靴下も、彼が映画のどういうシーンで泣くか、―それがどんな映画であっても、あ、このシーンで泣くなってわかるんだ。彼のネクタイの結び方も知ってるし、彼がいとこたちをそれぞれなんていうニックネームで呼んでるかも知ってる。彼が経験した中で3番目にひどい失恋も知ってるし、7番目も、10番目にひどい失恋も知ってる。10番目にひどいって、もうひどくもなんともない部類だけどな。でもたまに、彼が急に不可解な深い穴の中に落ちてしまったみたいに、見えなくなるんだ。彼のことがわからなくなる。僕が彼はこんなの好きじゃないよなって思うようなものを、彼が好んだり、こんなの彼には必要ないよなって思う何かを彼がしきりに望んだり、逆に彼が好きそうなことを嫌がったり、それで僕は怖くなるんだ。僕たちの関係の基盤がゆらぐっていうか、僕が知ってる彼のあらゆる要素はすべて間違っているんじゃないかって、そんな気がしてゾッとふるえる」
「そういう時はどうするんですか?」と僕は聞いた。ほんとに、ほんとに知りたくて仕方がなかった。彼の他にこんなことを話してくれる人はいなかった。僕の友達は誰もその地点まで到達していないし、僕の両親は一度は到達したんだろうけど、そこから真っ逆さまに落っこちてしまった。
「待つんだよ」とラングストンが言った。「自分にこう言い聞かせるんだ。すべてを知る必要なんかないんだって。お互い、自分以外には知られることはない大切な部屋が心のどこかにあるんだって。僕は頭の中で、彼についての凝り固まった考えを解きほぐしていく。そうすると、彼がまた見えるようになるんだ」
「リリーが見えなくなったとか、わからなくなったとか、そういうんじゃないんです。ただ彼女が...そこにいないっていうか、前より近くにいないっていうか」
ラングストンがため息をついた。「じゃあ、まだまだ先は長いな」
「そんなことわかってますよ。僕は全然まだまだなんです」
「言っただろ、自分の気分を良くするのが先決だって。自分で自分の気分を悪くしてどうするんだ」
「自分の気分を良くするって、あなたもそんなに得意じゃないですよね」
「まあ、僕も心配しすぎるからな。ベニーと僕が一緒に暮らすって決めたとき、一番つらかったのは、リリーがどう受け止めるかを考えてみたときだった。それで僕はもう少しでベニーにノーって言いそうになった。―正直言って、リリーがいるから同棲は無理だって思ったんだ。でもベニーがさ、―ベニーがこんなことを言ってくれたんだよ。今君が家を出ることは彼女のためにもなるんじゃないか?って。彼のその的を射た言葉のおかげでわかったんだ。リリーは今自分の進むべき道を探していて、彼女もまた、僕たちの住むアパートメントや家族の枠を超えて、いつかは独り立ちしなきゃいけないんだってわかったんだよ。まあ、そうなったらそうなったで、僕は彼女が自分の人生を歩んで行くのを受け入れたくない気持ちになるんだろうけど。それは僕が家を出て行くという事実を彼女が受け入れようとしないのと同じだ。だけど、もし僕たちがいつまでも独り立ちしなかったら、僕たちは一生同じ場所に居続けることになる」
僕は彼のその発言をなるべく距離を保って客観的に聞いていた。彼の言う、リリーが自分の人生を歩むということが、つまりは彼女が僕と一緒に暮らすということを指していて、それを受け入れるかどうかの話だと思いそうになったから、自分を制したのだ。ラングストンは彼とリリーのことを話しているのであって、僕とリリーの話をしているのではない。
「学校に行かなきゃ」と僕はラングストンに言っていた。
彼に「何言ってんだ」と抗議されたくもあり、すんなり受け入れてほしくもあった。
「そうだな、それがいい」と彼が言った。「こうしてここで待ってるだけだから、四つも目は要らない、僕の二つだけで十分だ。彼女が見つかったら、ちゃんと君も必死になって探してたって伝えとく」
その日から僕の中で何かが変わった。その日以前なら、彼がリリーにそんなことを言うはずないって、僕への当てつけとしか思えなかっただろうけど、なぜかすんなり彼の言葉を彼の本心として受け入れることができた。
でも本末転倒だよな、やっとリリーの兄と心を通わせて、彼を味方につけても、リリーがいなくなってしまったんだから。
僕はそういうことは考えないようにしようと努めた。
けれど、思考はなかなか思うように進んでくれなかった。
次にフェリーが充電するように〈バッテリー・パーク〉につながれたとき、僕は降りた。そして再び出港するフェリーを見送った。離れていくデッキの上にラングストンの姿が見えた。
僕は彼にうなずいた。
彼もうなずき返した。
しばらくするとフェリーは見えなくなり、あとに残ったのは波だけだった。
こういう時は学校をサボってしまうのが普通かもしれない。今日一日休みを取って、家に帰って寝直すとか、そういう考えも頭をよぎったけれど、僕はみんなが冬休みの計画について喋っているガヤガヤとした教室の中に紛れ込みたかった。その方が気が紛れると思ったし、一日中授業を受けていれば、時間もひとっ飛びで過ぎてくれる、と。
少なくともそう思うように自分に言い聞かせながら、僕は学校へ向かった。しかし学校に着いてみると、そこは思っていたような場所ではなかった。僕はうつむき、携帯を繰り返しチェックしていた。すでにリリーの失踪がニュースになっていて、周りの人たちが次から次へと僕に心配の言葉を浴びせかけてきた。なんだか彼らの不安な気持ちを僕に向かって吐き出しているみたいだった。友人たちが何かできることはないかと聞いてくる。友人たちが、うつむく僕に「話したくないのか?」と聞いてくる。友人たちが僕に彼女の居場所を訝しげに聞いてくる。まるで僕がそれを秘密にしているかのような聞き方だ。そして自分になら話してくれると期待しているらしい。他の誰にも打ち明けなくても、自分にだけは話してくれる、みんながみんなそう思っているみたいだ。
僕の父から電話が入った。
彼が心配するなんて、珍しいこともあるものだ、と僕は思った。
けれど電話に出てみると、一瞬でもそう思った僕が馬鹿だった。彼の電話はリリーとは全く関係がなかったのだ。
「リーザがさ、クリスマスはお前も俺たちと一緒に過ごすのか、ちゃんと確認しろってうるさいんだよ」と彼は言った。「人数がはっきりしないと予約できないんだとさ」
予約? 初耳だった。いったい彼らは何を計画しているのだろう?
「パパ、何の話をしてるのかわからないよ」と僕は彼に言った。「それと電話じゃなくてメールにしてくれないかな? 親って普通子供にメールするでしょ」
「あれ、言わなかったか?」
「じゃあ、リリーの家のパーティーで言おうとしてたんじゃないの? あんなことしでかして、さっさと逃げ出しちゃって」
ちょっと言い過ぎた気もしたけれど、構わない。たまには好き勝手にものを言える人になりたかった。
「おい、口の利き方に気をつけろよ、ダッシュ」
「パパから譲り受けた口の利き方だよ」と僕は言い返した。
そう言い捨てて電話を切った。
すっきりするかと思ったけれど、べつにいい気分にはならなかった。彼がこんなことで黙るはずがない。むしろ彼のエンジンに油を注ぎ、発奮材料を与えただけだろう。
ガールフレンドがどこかに行っちゃったんだよ、そう僕は言えたはずだ。
俺に何か力になれることはないか? そう彼は聞けたはずだ。
しかし、二人とも根源的にそんなことは言えないたちなのだ。
家族が空けた心の隙間は友達が埋めてくれる、少なくともそういう格言があることは知っていた。3時間目と4時間目の間の休み時間、廊下にいたソフィアとブーマーが僕を呼び止めた。二人の顔を見たらピリピリしていた気分がホッと和んで、二人に感謝したい気持ちになった。
「私たちもニュース聞いたよ」とソフィアが言った。「私たちにできること、何かある?」
「そうだ」とブーマーが提案した。「化学の授業があるから、あのアンバーっていう女の子に話してみるよ。彼女ならみんなに拡散してくれるんじゃないかな」
「それはちょっとうまくいくとは思えないわ」とソフィアが言った。「でもいい考えね」
「君にそう言われて嬉しいよ」とブーマーは言った。それから僕の顔を見て、彼は気まずそうに表情を陰らせた。「いや、べつにそんなに嬉しくはないかな。うん、誓って全然嬉しくない」
「きっと彼女はすぐに戻ってくるよ」と僕は彼に力を込めて言った。「たぶん彼女はスペースっていうか、心の空間みたいなものが必要だったんだ」
「それじゃあ、彼女はプラネタリウムにいるね!」
「あ、それはあり得る。さすがブーマー。彼女の兄にメールして、プラネタリウムを確認するように言ってみる」
僕の発言にブーマーは嬉しそうに表情をほころばせ、それからまた、僕の前であまり嬉しそうにするのを遠慮するように顔を引き締めた。でも彼は真剣な表情を作るのがあまり上手じゃない。すると彼は「もうすぐ国語の授業が始まる、―もう行かなきゃ!」と言って、廊下をぴょんぴょん飛び跳ねるように去っていった。
ソフィアが振り向いて彼の後ろ姿を見送っている。彼女のブーマーを見守るような視線は、彼に嫉妬してしまうくらい、優しさに満ちていた。
僕はリリーにも同じような視線を送れていただろうか? それって意識してできるようなことだろうか? 自分でも気づくことなく、呼吸をするようなレベルで、ふと気づくとしていた、みたいな行動なのかもしれない。
「彼女はスタテン島に行ったんだ」と僕はソフィアに話していた。「僕は彼女を探そうとしたけれど、フェリーに乗っただけで、帰ってきちゃったんだ」
「みんなそんなものよ」とソフィアが慰めてくれた。「スタテン島に住んでるわけじゃないんだし、仕方ないわ」
僕はかつてソフィアのボーイフレンドだった。僕は彼女にとって良いボーイフレンドだったかどうかを聞きたくなった。彼女と僕は結局うまくいかなかった。そんな僕が誰かとうまく付き合えると思うか、みたいなことを聞きたかったんだけれど、どう聞けばいいのか、言葉が出てこなかった。
でもソフィアはそんな僕の思いを察してくれたに違いない。彼女は僕の目を見て、こう言ってくれた。「彼女がどこにいても、何をしていても、―それはあなたがどうこうってことじゃなくて、彼女自身の問題なのよ。流れに身を任せて、あなたはそっと待つしかないの。時々ね、私もそうだけど、すぐに見つけてほしくない時もあるから。女の子がそうやって距離を置くってことは、そういうことなのよ、ちょっと時間を置いてから見つけてってこと」
「君はどこかへ消えちゃうなんてことはしなかったよね」と僕は指摘した。
「たぶんしたわ」と彼女が返した。「今もたまにしてる」
その時、チャイムが鳴った。
「彼女はあなたから去っていったわけじゃないわよ」とソフィアは去り際に言った。「もし彼女があなたと別れたいなら、あなたはそう気づくはずよ」
しかし僕には自信がなかった。僕がただ気づいていないだけじゃないのか。
ついに、もうすぐお昼という時間になって、ラングストンからメールが届いた。
彼女が見つかった。無事だし、元気だよ。
彼女が携帯電話を持っていないことはわかっていた。ラングストンは彼女の携帯を持っていったのだろうか?(僕は彼に聞きもしなかった。)でも僕はとにかくすぐに彼女にメールを打った。彼女がいつ家に帰って携帯を手に取っても、すぐ目に入るように、メッセージを送っておいた。
おかえり、と僕は書いた。君がいなくて寂しかった。
それから僕は彼女からの返信を待った。
6
リリー
腰をふりふり踊るガチョウ
12月17日(水曜日)
フェリーに乗り込んでみたら、すでに兄が乗っていて、私を待っていた。でもなぜかわからないんだけど、彼の姿を見ても、私は少しも驚かなかった。
ラングストンは私を引き寄せると、軽くハグした。それから力を強め、窒息するかと思うくらい私を抱き締めた。「もう二度と、僕たちにこんな恐ろしい思いはさせるな」と彼は言った。
フェリーが私たちをマンハッタンに送り返すべく出港すると、兄は携帯電話を取り出し、FaceTimeを使って両親に電話した。
「どこにいたの?」とママが金切り声を上げた。画面に映る彼女は、一晩中起きていたような顔をしていた。
「ちょっと休憩が必要だったのよ」と私は言った。べつに誇れるようなことでもないんだけど、私は完全に噓つきモードに入った。一般的な10代の子がどんな感じなのかわからないけれど、どうやら噓をつくことは、ホルモンの領域的にどうしてもしてしまう行為のように感じた。そして周りの大人はみんな、もう子供じゃないんだからしっかりしなさい、みたいなことを言っておきながら、いざ大人の領域に片足を突っ込んでみると、カンカンに怒るものなのね。「ロッコおじさんのところに行ってたのよ。彼のパニック・ルームっていうか、あの小部屋に入り込んだら寝ちゃって、部屋の中には光が入ってこなくて真っ暗だったから、つい30分前まで起きなかったの。心配させちゃって、ごめんなさい」
その嘘には前例があった。毎年スタテン島にお墓参りに行っていて、度々家族の誰かがロッコおじさんといさかいを起こしていた。そんないがみ合いを聞きたくなくて、私は墓地から2ブロックほど離れた彼の自動車修理場の地下にある、冷戦時代に造られた秘密の避難部屋に隠れていたことがあった。
それともこう言った方が良かった? 私、なんだか自分がわからなくなっちゃって、色々混乱しちゃって、学校に行く気がしなくて、それでスタテン島に行ったの。そしたらそこで新しいアイデンティティーっていうか、新しい自分を見つけることができて、―ヤーナっていうんだけどね。みんな彼女を気に入ると思うわ。私よりずっとかっこいいのよ。―そしたらね、誘われるように、ちょっと不思議なジンジャーブレッド・ハウス作りを手伝うことになってね、ちょっとだけ男性ストリッパーのクッキーを食べたのよ。そんなにたくさん食べたつもりはなかったんだけど、ヤーナったら、なんだかふしだらになっちゃって、アナ雪をモチーフにしたジンジャーブレッド・クッキーをね、ヤーナはクッキー製造マシーンになったみたいに作り始めたの。そしたら気を失っちゃって、たぶん男性ストリッパーのクッキーに入っていた秘密の材料が魔法をかけて、私を溶かしたんだと思う。それでね、目覚めたら、つまんない元のリリーに戻ってたの。それがほんの1時間前のことよ。
嘘でも避難部屋にいたって言っておけば、「リリーがまたおかしなことしてたのよ。あの子にもう一度セラピーを受けさせた方がいいかしら?」って両親が話し合うくらいで済むでしょうけど、もし真実を言えば、私はただちに精神療養施設に送られちゃうわ。
「もう二度と、絶対こんなことはやめてくれ」とパパが言った。「一晩中おまえを心配してたら、一気に10歳も年を取った気分だよ」
ママの顔を見ると、怒りと疲労の色がくっきりと浮かんでいた。でもよく見ると、それらを包み込むような穏やかな色、ほっとしたような表情もうっすらと感じ取れた。「ほんとに心配したんだからね」とママが言った。「でもね、私はあなたが無事だってわかってたのよ。直感でわかるの。私の母が亡くなった時も、私のいとこのローレンスがあんなひどい交通事故に遭った時も、おじいちゃんが倒れた時だって、私は電話が来る前にわかったのよ。何か大変なことが起きたって。でもね、昨夜はそういう不吉な予感はなかったから、あなたは私みたいにパニックになって、ふらっとどこかへ行きたくなったんだってわかったの。あなたがどこにいようと、元気だって確信してたわ」
つまらないことにケチをつけるタイミングじゃなかったみたいだけど、私は言ってしまった。「ケーブルテレビの〈ニューヨーク・ワン〉にまで知らせるって、ちょっとやりすぎだと思わない?」
パパが言った。「テレビ局の人たちがおまえを気に入っててな。赤ちゃんキャッチの一件から、おまえの映像を流すと視聴率が上がるとかで」
私は指摘した。「それは気に入ってるとかじゃなくて、単なるご都合主義だから」
ママが言った。「日の出までは待ったのよ。でもあなたから何の連絡もないから、テレビ局に知らせてテレビで流してもらえば、あなたがどこに隠れていても、近くにいる誰かが見つけてくれるんじゃないかと思って。そしたら思った通り、ロッコおじさんがテレビを見て電話をくれたのよ。昨日島であなたを見たって」
「もういい」と私は言った。
「ちょっと、あなたは文句を言えるような立場じゃないでしょ」とママが言った。
「おまえが家に帰ってきたら、今回の件について話し合わないとな」とパパが言った。「家族会議を開くぞ」
私は言った。「ごめんなさい。本当に」
ラングストンの携帯の画面から二人の顔が消え、通話が切れた。ラングストンが言った。「僕はこのフェリーに乗って、行ったり来たり5往復もして、君を待ってたんだぞ」
彼は私に「ありがとう」って言ってほしいみたいだったけれど、私はあえて言わなかった。彼が私たち家族を置いて家から出て行こうとしていることに腹が立っていたから。彼がベニーと幸せをつかんだことを祝福してあげたい気持ちはあったけれど、どうしようもなく私自身が寂しかったから。彼らは未来へ羽ばたく準備ができているのに、私はできていないから。
私が何も言わずに黙っていたら、ラングストンが付け加えた。「ダッシュも僕と一緒にフェリーに乗ったんだ。彼も何往復かここで君を待っていた。彼も本当に心配してたよ」
「そう」としか私は言えなかった。ダッシュが心配してたっていっても、それってクリスマスツリーの贈り物みたいなものでしょ。表向きを取り繕っただけの、「心配してました」って示すための心配でしょ。私のためにここで待っていたっていう事実は一応残しておいて、さっさと船から降りちゃったのね。冷たい人っていうか、よくわからない人ね。なんでそんなにかっこつける必要があるの? どうしてそんなに思いやりを示そうとするの? そうしないと私を好きな気持ちが消えちゃうとか?
ダッシュは私にとって、それくらいもやもやとした存在だった。私の人生にはもっと切迫した心配事が色々あった。たとえば、もし私の家族がみんなばらばらになっちゃったら、私はいったいどこへ送られ、どこで暮らすことになるのかしら? とか。
「彼はなかなかしっかりしたやつだよ」とラングストンが言い放った。私の首がくるっと360度一回転しそうになるほど、私はびっくりして彼を見た。
「え、じゃあダッシュのことが好きになっちゃったの?」と私は、信じられない、といった表情で聞いた。
「いや、そこまでじゃなくて、許容範囲ってことだよ」と彼は答えた。
私がこの世界について知っていたすべての常識が揺らぎ、ぐるりと大転換しようとしていた。私は混乱し、怖くもあった。それでもたしかに私は、人生という船がこれから進むべき新たな方向に広がる謎に満ちた未来に、ぞくぞくするような興奮を覚えていた。私は言った。「私もあなたとベニーが新しいアパートメントで幸せに暮らすことは、許容範囲よ。認めたわけじゃないけど、まあ一応、応援するわ」
「それはまさに、君とダッシュが付き合ってることに対して僕が感じてることだよ」ラングストンはそこで少し間を置いてからこう続けた。「彼は本当に君のことを気にかけてるよ」
私は思った。それが問題なのよ。私は愛してるのに、ダッシュは気にかけてる。心が痛いわ。
「だったらなんで彼は今ここにいないの?」と私は言ってみた。
「学校に行かなきゃって言ってたよ。最近の君は学校なんかどうでもいいって思ってるんだろ、彼は君よりも学校のことを真剣に考えてるようだな」と兄はいたずらっぽくニヤニヤと私を見てから、こう聞いてきた。「で、本当はどこにいたんだ?」
「ジンジャーブレッド・ハウスを作りながら、乱交パーティーをする館(やかた)」
ラングストンが言った。「そういう下品な冗談は君には似合わないよ、リリー。言いたくないなら、いいや」
家に帰ってみると、ママとパパが慌てふためいて旅行の準備をしていた。コネチカットへ1週間出かけるという。今学期の仕事の締めくくりに、パパの学校のクリスマスパーティーに二人で参加するらしい。ママも隣にいれば、校長先生の仕事がどんなものなのか体験できるし、校長先生用の宿舎も自分の目で視察できる。つまり、彼らは年が明けたら全寮制学校の敷地内に引っ越すことを見越しているのだ。
家族会議はニューヨーカーの手早さで、ちゃちゃっと済まされた。
学校からの懲罰は、私が無断で学校をサボったということで、学校の規則として、私が休んだ2日間に行われた課題などを後から提出することは認めない、つまりその間の課題はすべて0点として私の成績に反映される、というものだった。さらに、クリスマス休暇まであと2日学校があるんだけど、私はその2日間自宅謹慎になった。それは私には全く理解できないことだった。だって「懲罰」とか言っておきながら、逆にプレゼントみたいだったから。追加で2日も学校を休めるなんて! 課題を後から提出できないからなんだっていうの? 私にはやりたいことが山ほどあるから、2日間を有意義に使うわ。クッキーを焼くでしょ、犬の散歩をするでしょ、クリスマスプレゼントを作るでしょ、他にも学校に行くより面白いことをいっぱいやるわ。
ただ、両親からの懲罰で、犬の散歩の仕事以外では、クリスマスまで外出禁止になっちゃった。
私は両親から外出禁止令を受けるのは初めてだったから、それが何を意味するのか実際のところ、よくわかっていなかった。たぶん両親もよくわからずに外出禁止令を出したんだと思う。だって彼らが街を離れる直前にそう宣言されても、彼らには私がそれをちゃんと守っているかどうかを確かめるのは実質不可能でしょ。(私はあえてそんなつまらない指摘はしなかったけれど。)
白状すると、私は両親に一晩眠れない夜を過ごさせちゃったわけだけど、そんなに悪いとは思っていなかった。私はマンハッタンの女の子だから、心配事なんて二の次よ。コネチカットへ脱走しようとしているお二人さんには、じめじめとした心配事がお似合いでしょうけど。
だけど、おじいちゃんには心配の種を与えるわけにはいかなかった。彼は言った。「わしはしばらく妹のところで世話になるよ。ここは騒がしすぎるからな。おまえももうわしをわざわざ病院まで、予約の時間を気にしながら連れていく必要もなくなる」
「私がそうしたいのよ、おじいちゃん!」と私は言った。
すると彼は杖を使ってズボンのすそを持ち上げた。彼のすねにできたあざが露わになった。「見えるか?」と彼は杖でそこを指しながら私に聞いた。
「どうしたの?」と私は聞き返した。
「おまえがリハビリセンターのボランティアを休んだからだよ! おまえは506号室のサディーに読み聞かせをすることになっていたんだろ、おまえが一向に現れないから、彼女は怒り狂って、わしを蹴ったんだ」
「そんなことがあったなんて。おじいちゃん、ごめんなさい」
「おまえはわしの幸運の女神なんだから、おまえがそばにいないと、わしはいくらルーレットを回しても、からっきし当たりゃしないんだ」
「ごめんなさい、おじいちゃん」
「ほら、リハビリセンターでも老いぼれどもがみんなで見てるだろ、あの〈幸運のルーレット〉っていうクイズ番組がわしは大嫌いなんだよ! ただな、おまえがわしらと一緒に見てくれれば、なんとか許容できる」
「ごめんなさい、おじいちゃん」
私にそんな力が? 私ってどんなモンスターなの?
おじいちゃんは私の目を見ずに言った。「おまえは外出禁止だからな」それだけ言うと、彼は立ち上がって杖をしっかりとつかみ、足を引きずりながら私から離れていった。
私に背を向けた彼の後ろ姿を見ることが、私にとって何よりも一番こたえる懲罰だった。心がズタズタに引き裂かれるような、想像を絶する罰だった。
外出禁止令が下され、一時的に牢屋となった私の部屋に戻り、再会を果たした携帯電話を開くと、ダッシュからメールが届いていた。おかえり。君がいなくて寂しかった。
私も寂しかった、と返信した。
そのまま携帯を握り締めながら、私は眠りに落ちた。私の犬とおじいちゃんの猫が寄り添って、私の体を温めてくれた。そのぬくもりが、私をきつく抱き締める生身のダッシュが発する熱ならいいのに、と思った。メールじゃなくて、耳元でささやいてほしかった。けれど、何も言ってはくれなかった。
12月18日(木曜日)
エドガー・ティボーがトンプキンス・スクエア公園で、彼の定位置ともいえるテーブル付きのベンチに座ってチェスをやっていた。私は今日散歩することになっている犬たちを一斉に連れて、公園まで散歩にやって来た。彼のチェスの相手はこの公園のチャンピオンで、シリルという年配の紳士だった。シリルは灰色の髪をねじって編み込んだ、ラスタファリアンやレゲエの人がよくする髪型をしている。今年の春に行われたチェスのトーナメントの決勝戦でエドガーに勝って、奪い取ったチャンピオンの証であるベレー帽を、そのドレッドヘアーの上にかぶっている。
エドガーが言った。「おう、久しぶりだな、リリー。いったいどこにいたんだ? 今週はここにも来ないし、老人センターにも顔を出さなかったじゃないか」
「君と君が連れてくる犬たちがいないから、公園がいつもと違う雰囲気だったよ」とシリルが、チェス盤のルークが並んだ列を凝視したまま言った。
「うんち製造マシーンたちが来なくて、臭いはましになったけどな」とエドガーは言うと、ボリスをなじるように見遣った。「ああ、俺はおまえをにらんでるぜ、バディー」
私はいったいエドガーをどうしたいのか、わからなくなる。彼の首を絞めたいのか、それとも彼を更生させたいのか。
「私の犬にそんな荒っぽい口の利き方しないで、お願い」と私はエドガーに言った。ボリスも「そうだ」と追随するように吠えた。
「今夜俺んちでパーティーをやるから来る?」とエドガーが私に聞いてきた。
「どんなパーティー?」と私は聞き返した。
「毎年恒例のクリスマスセーターを着て集まるパーティーだよ」
「あなた毎年クリスマスセーターのパーティーやってるの?」
「今年はやる。今両親が香港に行ってて、家を俺一人で独占してるんだ。俺のクリスマス・セーターのコレクションもちょうどクリーニングから返ってきたし、パーティーの準備万端だよ」
「ダッシュも連れていっていい?」と私はエドガーに聞いた。
「じゃないと、おまえも来ない?」
「まあね」
エドガーはため息をついた。「ったくしょうがねえな、勝手に誰でも好きなやつを連れてこいよ。ただし、BYOBだぞ」
「BYOBって何?」と私は聞いた。
「Bring Your Own Boob!(各自おバカさん持参だな!)」とシリルが笑いながら言った。
「たしかに、彼女は連れてくるよ」とエドガーが言った。「おバカさんの名前はダッシュっていうんだ。ダッシュにBring Your Own Beer(各自ビール持参)って言っておいてくれ」
「ダッシュはお酒なんか飲まないと思うわ」
「まあ、彼は飲まないだろうな。神が彼に禁じてるんだろ。俺も祈っとくよ、彼がそのうち、お酒の虜になりませんようにってね」
「君と出会うまではリリーはすごくいい子だったんだ」とラングストンがダッシュに言った。ダッシュは私を迎えに私の家にやって来たところだった。私は外出禁止中だけど、これから二人でパーティーに出かけるのよ。大丈夫。両親の留守中、家のことを任されてるのはラングストンだから。ラングストンが家を仕切ろうとすると何をやってもうまくいかない、という彼の安定の実績もさることながら、彼には私に長年にわたる借りがあるからね。ラングストンが高校生の時、彼は何度も夜間外出禁止を破って、こっそり家を抜け出して、ボーイフレンドと一緒に夜を過ごしていたんだけど、そのたびに私は彼をかばってあげたのよ。
「去年のクリスマス、彼女に赤いノートのアイデアを提案して、彼女を良からぬ道へと導き、堕落した女にさせたのは誰なんでしょうね」とダッシュが言った。
ラングストンは私の顔を見て、ダッシュを指差しながら、「今のは極上の皮肉のつもりかい?」と私に聞いた。それから彼はダッシュに向かって、こう言った。「夜中の12時までにリリーを家に送り届けてくれれば、それまでなら彼女と好きなことしてていいぞ」
ダッシュと私は二人して顔を赤らめ、急いでドアの外に出た。「ボリスの世話お願いね」と私は兄に言った。
家の前の通りに出ると、ダッシュが私の手を握ってきて、私たちは手をつないで歩き出した。「じゃあ、エドガー・ティボーの家に行くってこと?」と彼は言った。「本気?」彼はこうは言わなかった。もっといい計画があるんだ。今夜は君にとっておきのサプライズがあるんだよ。君が見たがっていた映画『コーギーとベス』を一緒に見ようと思って、映画館を貸し切ったんだ。僕たち二人っきりで広い映画館を独占してさ、バラの花びらで覆われた、ど真ん中の特等席に座ろうよ。それからドーナツ・タワー・ケーキも注文してあるんだ。タワーの天辺からチョコレートが滴り落ちてるケーキが映画館で僕たちを待ってるよ!二人っきりで思う存分、タワーを丸ごと食べちゃおう!
私は言った。「エドガーはおじいちゃんが通ってるリハビリセンターで、罰則として働いてるのよ。それに私が犬の散歩で公園に行くと、いつも彼を見かけるの。彼はあそこで暮らしてるようなものね」
「友達ってこと?」
「そうなるのかな?」と私は答えた。
「僕はちょっと混乱してる。なぜ君はそう言ってくれなかったんだろうって」彼はこうは言わなかった。僕はすごく頭に来てる。君はエドガーと友達だなんて一言も言わなかったじゃないか!君が彼と仲良くつるんでるところを想像すると、僕は頭がおかしくなりそうだよ!エドガー・ティボーはブランド物のアーガイル柄のズボンを履いてる、女に手の早い一流のプレイボーイだってみんな知ってるよ。ってことは、僕は彼に決闘を申し出ないとじゃないか、君の愛情を勝ち取るために!
「なにか問題ある?」と私は聞いてみた。お願い、問題あるって言って!
ダッシュは肩をすくめた。「べつにないかな」男の子って絶対言ってほしいことを言わないのよね。それが私が今までの人生で学んだ、おそらく唯一の教訓よ。「でも、エドガー・ティボーの家じゃなくて、君の叔母さんの家に行くっていう選択肢もあるよ。ミセス・バジルがメールで僕たちを夕食に誘ってくれたんだ。そのあと、ミセス・バジルと君のおじいちゃんとみんなで〈カード・アゲンスト・ヒューマニティー〉をやろうって」
「え、あなた大叔母さんとメールしてるの?」
「うん、なにか問題ある?」
私は肩をすくめた。「べつにないかな」それから私はこう言った。「カード・アゲンスト・ヒューマニティーって、質問カードに対して一番そぐわない解答カードを出すっていう不謹慎なゲームなのよ」私はミセス・バジルにあのゲームを一緒にやろうと誘われたことは今まで一度もなかった。
「知ってるよ。だから僕はあのゲームが大好きなんだ」
ついに、良い子のリリーは私の奥に引っ込んだ。
ようこそ、やんちゃなリリー。とっても楽しい気分だわ。
やんちゃなリリーは黒のタイツと黒のミニスカートを穿いて、太ももまで達する黒いブーツを履き、ショート丈の(そうよ、おへそが見えるくらい丈の短い)クリスマスセーターを着たの。赤と金色と緑のセーターで、ちょうど胸を隠すようにキラキラした刺しゅうが二つ施されてるのよ。セーターがちっちゃくて胸がきつきつなんだけどね。
「ラングストンは君がその格好をしてるの見た?」私がコートを脱ぐと、ダッシュがそう聞いてきた。私たちはエドガー・ティボーのタウンハウスの前に立っていて、玄関のベルを鳴らしたところだった。
「こういうの好き?」と私は聞いた。セクシーに言ったつもりだったんだけど、声が上ずって、性に貪欲な女性みたいになっちゃった。(やんちゃなリリーがセクシーな口調を身につけるにはまだまだ練習が必要みたいね。生まれた時から付き合ってきた〈金切り声のリリー〉は私の中でまだまだ健在みたい。)
「やっと君がクリスマスの気分になってくれたみたいで僕も嬉しいよ」とダッシュが言った。
「あなたのセーターはどんなの?」と私は彼に聞いた。
彼はコートの前を開いて、見せてくれた。―緑色の無地のポロセーターに、その首元に襟が覗く白いオックスフォードシャツ。
「それってクリスマスセーターっぽくないわ」と私は言った。
「もっとよく見てごらんよ」と言うと、彼はセーターの首元に折り込まれていたオックスフォードシャツの襟を引っ張り出した。私が顔を近づけてよく見ると、白い襟を横切るようにダッシュの手書きで、『クリスマス・キャロル』の冒頭の一節が書かれていた。赤と金色のペンで一文字ずつ色を代えて、「この物語の始まりの時点で、マーレイはすでに死んでいた」と。
ドアが開いた時、私の顔はダッシュの首元から彼の体を覗き込んでいるような格好だった。ドアの内側でエドガーが声を張って公表するように言った。「ラブラブ鳥のつがいはもう公然とイチャイチャしてるのかい? まだエッグノッグも飲んでないっていうのに」
ダッシュは私から体を引き離すと、コートの前を閉めた。「僕は公然とイチャイチャなんてしないよ、エドガー」
エドガーはダッシュに向かってウィンクした。「まあ、君はしないだろうな。ようこそ、パーティーは好きだろ」彼は私を見ると、視線を上下させて言った。「そのセーター凄くいいよ、キラキラリリー」
エドガーはイエス・キリストが描かれたセーターを着ていた。イエス・キリストが逆さまのペペロニ・ピザの形をしたバースデーハットをかぶっている。そして神に選ばれし者の胸には、BIRTHDAY BOYという文字が書かれていた。視線を落とすと、エドガーはピンクとグレーのアーガイル柄のズボンを穿き、黒と白のサドルシューズを履いている。その上下の組み合わせは控えめに言ってもミスマッチで、いつも公園にいるエドガーが自分の家にいるのと同じくらい違和感があった。
彼の両親は、テレビドラマ『1パーセントの1パーセント』みたいなヘッジファンドを経営していて、何億とかもの凄い額のお金はあるけれど、息子と過ごす時間は全くないらしい。ミセス・バジルもタウンハウスに住んでるけど、彼女の家はひと昔前の家みたいな匂いがして、美術品とか家具とかが混然と置いてあって、居心地の良い空間って感じがする。それに対してエドガーの家は、建築雑誌に載ってるモデルハウスみたいに簡素で、ミニマリストの家みたいに家具も最小限しかなくて、100万ドルとかしそうな絵画があちこちの壁に飾ってあって、この空間にいるのが怖くなるくらい、冷たい雰囲気だった。
「キラキラリリー?」とダッシュが私の耳元でささやいた。私たちは大理石の階段を上って、2階のフロアーに向かっていた。「凄い家だね」
「君の友人たちは一足先に来てるよ」とエドガーが言った。「愉快な人たちだね。ほらあそこ、ああ、彼らはもうエッグノッグを飲んじゃったみたいだね」
客間の中央にはブーマーとソフィアがいた。二人はガチョウが描かれた、お揃いのクリスマスセーターを着ている。そして、どこにあるのかわからないスピーカーから打ち鳴らされるヒップホップに合わせて、ハチャメチャに踊っていた。二人は笑顔で見つめ合い、軽くキスを交わしたりしながら、腰をふりふりさせて踊っている。お尻が床につきそうなほど低い姿勢になったところで二人のお尻がぶつかり合った。すごく楽しそうで、しかもお互い安心しきっている。ひと目見ただけで、彼らは心を通わせているのがわかった。ダッシュと私もあんな風になれたらいいのに、と思った。ただ腰をふりふりさせるためだけに、腰をふって踊る。誰が見てたって気にしない。というか、彼らは他の人なんか眼中にない二人の世界に没頭していて、文字通り、お互いに夢中なのだ。
「君もエッグノッグ飲む?」とエドガーがダッシュに聞いた。「父親のビンテージもののジャック・ダニエル入りだけどな。シナトラ・センチュリー限定版だぞ」
「あたし、飲む!」とやんちゃなリリーは言って、私の恋人(ダニエルじゃなくて、ダシールね)の若さ溢れる青い瞳の中を覗き込んだ。二人が混ざり合い溶け合って、一緒にやんちゃになれるように、と願いながら。つまり、二人で泡立ったグラスをカチッと合わせて、それからシナトラ・センチュリー限定版の味がする熱いキスを1回交わすのよ。20回でもいいけど。
「いや、僕は遠慮しとく」とダッシュが言った。まったくもう、のろってやる、なんてね。
赤ん坊が甘えるような声でエドガーがダッシュに聞いた。「ちっちゃい坊やはプレーン・ヨーグルトにしまちゅか?」
ダッシュは鼻の側面を触りながら、エドガーに言い返した。「君は霜の妖精に鼻をつねられたのかな?」
エドガーの顔を見ると、鼻水が垂れているようには見えなかったけれど、エドガーは信じ込み、アーガイルのズボンのポケットからハンカチを引っ張り出して、鼻をかんだ。それから彼は言った。「あとで、コマ回しゲーム〈ドレイデル〉をやらないかい? 君たちが勝ったら、ロバート・マザーウェルの絵の下でイチャイチャしていいよ。その絵は両親のベッドルームに飾ってあるんだけどな。ハハ、意味わかった?」
そう言い残すと、パーティーの主催者はエッグノッグを取りに行ってしまった。残されたダッシュと私は部屋の中を観察した。パーティーは宴たけなわといった感じで盛り上がっていた。―ただ、参加者は12人ほどしかいなくて、それもざっくばらんなというか、通常は一緒に集まらないような顔ぶれが並んでいた。私、ダッシュ、腰をふりふり踊るブーマーとソフィア、それからシリル。彼はイザベラ・フォンタナの腰に手を当てて、激しく踊っている。イザベラは料理本の元編集者で、私の犬の散歩のお客さんでもあるのよ。彼女は最近、股関節置換手術をしたばかりだから、もうちょっとおとなしくしてればいいのに。他には、サンバを踊る韓国人の酔っぱらった男の子たちがいた。彼らは私がエドガーからラーメンの緊急要請をFaceTimeで受けたとき、画面に映っていた子たちだとわかった。そういえばあれがきっかけで、私はスタテン島へ自分探しの旅に出かけたんだった。パーティーの参加者の年齢は大体17歳から70歳までと幅広く、みんな思い思いのクリスマスセーターを着ていた。雪だるま、天使、サンタ、妖精、トナカイ、クリスマスの猫たちがそれぞれのセーターの前面に描かれている。エドガーは壁に背中をつけて立っていた。彼の前にはパーティー・テーブルがあり、2羽のガチョウがキスをしている氷の彫刻が、このパーティーの象徴としてテーブルの中心に置かれていた。そして彼は、この相容れない感じの奇妙な集団を、それぞれが着ているてんでばらばらのセーターを、いとおしそうに眺めていた。ここは彼の家だというのに、なんだか彼は独りぼっちに見えた。私はこんなに孤独な彼を家の外で見たことがなかった。彼はまるで王国のない王子のようだった。
「どこか二人きりになれる場所に行きたいんだけど」とダッシュが私に言った。「落ち着いて話ができるところがいいな。君に伝えたい大事な話があるんだ」
とうとうその時が来た、と私は思った。ダッシュは私に別れを告げようとしているのだ。この気まずい、袋小路に迷い込んで行き場を失ったような関係に終止符を打つために。
「私たちも踊らない?」と私は、別れる前に最後にもう一度彼にしがみつきたくて聞いた。
『Let it Snow』のR&Bバージョンが流れ始めた。ささやくような優しい歌声がフロアーに響き渡る。さあ、うちにおいでよ、ツリーの飾り付けを手伝っておくれ/僕の両腕で君を包んであげたいんだ。
「お願い」と私はダッシュに頼んだ。最後に彼と踊って、彼の両腕に包み込まれる瞬間を覚えておきたかった。
それでも彼は突っ立ったまま、かたくなに動こうとしなかったけれど、二人の間に不快な空気が充満したところで、ブーマーとソフィアが私たちをフロアーの中央に引っ張り出してくれた。そして彼らはスローダンスを踊り始めた。それから彼らに先導されるように、ダッシュが私の腰に両腕を回し、私も彼の肩に両腕を回して、私たちは踊り出した。
私はめまいがするほど舞い上がっていた。ダッシュはこういうのが好きじゃないって知っていたけれど、それでもこうして寄り添うように踊ってくれる彼が、私は大好きだった。彼の体に私の体を押しつけると、私の心臓が喜びで激しく高鳴り出した。もっとぎゅっと押しつければ、彼の心臓が私の心臓と呼応して、競い合うように脈打つのを感じることができそうだった。彼の体にしがみついていると、とっても心地良くて、私は絶対に彼を手放したくないと思った。愛してる、そう彼に言おうと思った。―勇気を振り絞って、不安な気持ちや、そんなこと言えないよっていう声は振り払って、ちゃんと言おう。手遅れになる前に。
「あなたに言わなきゃいけないことがあるの」と私はダッシュの耳元でささやいた。
「僕も君に言わなきゃいけないことがあるんだ」と彼が言った。
言わなきゃ。ちゃんと言わなきゃ。
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