『ダッシュとリリーの12日間』3
『The Twelve Days of Dash & Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2018年09月02日~2019年06月30日)
私の口が開きかけ、愛してる、という言葉が出かかった時だった。ダッシュが一瞬、腰をふって踊るソフィアをちらっと見た。彼のその視線は、私が前からずっと私に向けてほしいと願っていたまなざしだった。まっすぐに視線の先にあるものを望む瞳。私はいつも嫉妬しないように心がけてきた。だけどソフィアは努力なんかしなくても綺麗で華やかだし、しかも彼女とダッシュは以前付き合っていたという事実もあって、私がどんなに嫉妬心を振り払おうとしても、うまくいくわけなかった。
だから私は彼よりも先にこう言ったの。「私たち、もう別れましょ」
7
ダッシュ
白鳥の歌
12月18日(木曜日)
そして僕は言った。「嫌だよ」
12月17日(水曜日)
リリーがスタテン島で何をしていたのかは謎だけど、彼女が無事に帰ってきたとラングストンからメールがあって、僕は彼女の携帯に「おかえり」とメールを送った。でもすぐには返事は来なかったから、僕はラングストンとのメールのやり取りを見返していた。すると、一人の名前が存在感を放って目に飛び込んできた。
エドガー・ティボー
なぜラングストンは彼について僕に聞いてきたのだろう?
リリーにとって彼は何なのだろう?
僕が初めてリリーと直接会った時、あの二人は抱き合っていたし、僕の彼女への愛情がまだ芽生えたばかりの頃、彼が彼女の愛情を横からかっさらおうとしていたことも知っている。
何より、彼は王様級のゲス野郎なのだ。
ラングストンに聞こうかとも思ったけれど、やっと彼を尊敬できるようになったばかりだし、せっかく僕たちの間に芽生えた信頼の念をさっそくはかりにかけるようで気が進まなかった。
いつだったか、前にリリーはぽろっと口が滑ったみたいにこんなことを言っていた。ティボーは裁判所から命じられて、彼女のおじいちゃんがリハビリに通っているコミュニティーセンターでボランティアをしている、と。それで僕は放課後、そこに行ってみることにした。
12月18日(木曜日)
「嫌だよって、どういう意味?」とリリーが聞いた。「どうだっていいでしょ?」
彼女が僕から体を引き離そうとした。
僕は彼女にしがみついた。
12月17日(水曜日)
ティボーは例によって、従業員なのに患者みたいに神出鬼没で、いい加減な仕事をしているようだった。僕が彼の居場所を尋ねると、看護師によってまちまちの答えが返ってきた。そのどれもが間違っていて、言われた場所に行ってみても彼は見当たらなかった。
最終的に、そんな僕をふびんに思ったのか、鮮やかなピンク色の杖を使って歩いていたサディーという女性が、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら僕に話しかけてきた。
「あの問題児を探してるのかい?」と彼女はガラガラ声で言った。
疑いようもなく彼のことを言っているとわかり、僕はそうですと答えた。
「じゃあ、36A室と36B室の間の従業員が使う用具部屋を見てみ。いつも彼はあそこでさぼってるんだよ。ただ扱いには気をつけな。―彼はぐらぐらしてすぐ口から抜け出ちゃう入れ歯みたいなものだからね。彼が自分から離れて行っちゃうのが嫌なら、さぼってることは黙って見逃してやりな」
ニヤニヤ・サディーは、まるで彼にふられたみたいな声で、そんな物言いをした。
その用具部屋へ向かう途中、車椅子が集まっている一角があり、中の様子をちらっと見ると、テレビのある談話室でたくさんの人たちが〈幸運のルーレット〉を見ていた。僕は車椅子を避けるように回り込んで、そこを通り抜けると、サディーが言っていた用具部屋を見つけた。ノックすべきかドアの前で少し迷っていると、中からいかがわしい音声が聞こえた。ティボーがいるに違いない。
僕は突入した。
僕が目にしたものは、度を超えたひどい有り様だった。ティボーはスマホでポルノ動画を見ていた。画面には二人の女性と、馬が一頭と、それからドナルド・トランプに不気味なほどそっくりな男が映っていて、それを見ながら彼はタバコも吸っていた。病床で使うおまるの中にタバコの灰を落としながら、足を用務員用の机の上に投げ出している。
「明らかにこれは規則違反だな。しかも複数の違反行為を同時進行で!」と僕は声を張って、僕の中のありったけの権威を振り絞って言った。ティボーはしまったという顔をして飛び上がり、すかさずスマホの電源を切った。
「いったい何の―!」と彼は叫んだところで、目の前にいるのが僕だとわかり、彼の表情からパニックの色がさっと引いていった。「ああ、ダッシュか。君の行方不明のガールフレンドが、俺と一緒にこの中にいるとでも思ったか?」
僕は彼のそういう遠回しに嫌みを言うみたいな物言いが好きじゃない。僕は正直にそう言ってから、こう付け加えた。「それに、彼女はもう行方不明じゃない」
「もう彼女に会ったのか?」と彼が言い返してきた。僕がはったりをかましてやろうとしたところ、彼はおまるの底にタバコを押し付けて火を消しながら、「どうせまだだろ」と言った。
僕が彼の頭蓋骨に言葉で強烈な一撃をぶち込んでやろうとしたところ、彼はドアを開けて、そそくさと出て行ってしまった。僕も廊下に出て彼を追いかけた。
「ああ、じゃあ君は会ってないんだ」と僕は彼の背中に向けて言ったけれど、彼は僕を完全に無視して、テレビの置いてある談話室に勢いよく入っていった。
「誰か困ってる人、助けが必要な人はいますか?」と彼はそこにいるお年寄りの人たちに聞いた。
「母音!母音を一つ教えてちょうだい!」と青い髪の女性がテレビを指差しながら叫んだ。
L□□□ □A□□□R、とテレビ画面に映し出されている。
「LOVE CASTER!」(愛を振りまく人!)と、その青い髪の女性は鳥がさえずるように言った。
「LOVE MASTER!」(愛の達人!)と車椅子の男性が声を上げた。
「LOVE WASHER!」(愛を洗い流す人!)とグレーのコーデュロイ素材のズボンを履いた男性も声を上げた。
車椅子の男が「いったいLOVE WASHERって何なんだ?」と嚙みつくように言った。
「ハハ」とコーデュロイの男は笑って、「あんたはもう遠い昔のことで覚えちゃいないだろうな?」と言い返した。
「なんで君はリリーとメールしてるんだ?」と僕はティボーに聞いた。「君にとって彼女は何なんだ?」
「なんで君はそれを彼女じゃなくて、俺に聞くんだ?」と彼が撃ち返してきた。
L□N□ □AN□□R
「LONG CANTER!」(長いトレーラー!)と青い髪の女が甲高い声を上げた。
「LONE CANTOR!」(孤独の先導者!)と車椅子の男が主張した。
「LONE MANGER!」(ぽつんと置かれた飼い葉おけ!)とコーデュロイの男は咳き込みながら言った。
ティボーはこちらを向くと、僕を見据えてガツンと言い放った。「あんたは救いようもなく最低なボーイフレンドだな!例えるなら、あんたは誰でも入れる大学ってことだ。ボーイフレンドの中で最低ランク、おまえは誰でも簡単に手に入るプレーン・ヨーグルトなんだよ」
「リリーが君にそう言ったのか?」
「そうだよ!」と彼は会心の笑みを浮かべて答えた。
12月18日(木曜日)
彼女がそんなことを言ったなんて信じられなかった。本気でそう言ったとは思えない。
私たち、もう別れましょ。
僕は混乱していた。
僕は動揺していた。
僕は怒っていた。
「君は何か誤解してる」と僕は彼女に言った。「君は何もかもを誤解してるよ」
12月17日(水曜日)
ティボーの笑みがあまりに輝きを放っていたため、彼ははったりをかましているだけだとわかった。
「彼女をそっとしておいてくれないか」と僕は警告した。「リリーにちょっかい出すな!」
「さもないと、何? さあ、おまえのボキャブラリーで俺の首を絞めてみろよ。渾身の機転を利かせて、言葉で殴ってこいよ」
急に部屋の中が凍り付いたように静まり返った。テレビ画面に目をやる。
LUNG CANC□R
ジーザス、なんてことを。答えがよりによって「肺がん」なんて。
「彼に決闘を申し出ろ!」と車椅子の男がやかましい鳥みたいに僕をけしかけた。
「そうだ!」とコーデュロイの男も、詰まらせた喉から声を絞り出すように言った。「そのずる賢いろくでなしの息の根を止めてやれ。そいつはいっつも俺のアップルソースを盗みやがるんだ」
「いいでしょう」と僕は彼らに言ってから、ティボーの方を向いて言った。「君に決闘を申し出る」
12月18日(木曜日)
「どうして誤解だって言えるのよ?」とリリーが叫んだ。みんなが僕たちに注目していた。それから彼女は突拍子もないことを言い出した。「それだってちっともクリスマスセーターじゃないし!」
12月17日(水曜日)
「で、どうやって決闘する気だ?」とティボーは、動揺している素振りもなく言った。
僕はお年寄りの人たちを再び見た。
「ピストルだろ」とミスター・コーデュロイが言った。「そりゃ、ピストルで早撃ちしかないだろ!」
青い髪のレディーはうなずくと、ゆっくり(とてもゆっくりと)椅子から立ち上がった。それから彼女はゆっくり(とーーーってもゆっくりと)角に置いてあった収納箱のところまで歩いていった。箱の中にはここを訪れたひ孫たちが遊べるようなおもちゃの類が入っていて、彼女はとーーーーーーってもゆっくりと中をあさり、底の方から二丁の水鉄砲を引っ張り出した。
それから彼女は簡易台所まで行って、水鉄砲の中にトマトジュースを入れた。
「この方が水よりはっきりわかるわ」と彼女が説明した。
僕たちはピストルを手渡された。車椅子の男がドアのところで見張っている。
「10歩な」とゴホゴホ男が僕たちに言った。
談話室は厳粛な空気に包まれ、僕たち二人は背中を合わせた。
青い髪のレディーがカウントを始めた。
1、2、3、4、5。
僕たちは一歩一歩離れていく。
6、7、8。
僕はリリーのために闘っているんだ。
9。
絶対に外すわけにはいかない。一発で決める。
10。
くるりと回転する。視界に彼が入ってきた瞬間、引き金を引いた。同時に彼も引いた。
僕たちは二人とも...弾が相手まで届かなかった。
誰もベッドに置いてあるバイアグラを僕たちのピストルには入れてくれなかったらしい。
「ああーーーーーー!」とティボーが叫びながら、僕の方へ猛進してきた。
「あーーーーーー!」と僕は叫びながら、逃げ出した。
僕は車椅子の男を押しのけて、廊下に出た。
ニヤニヤ・サディーが廊下をうろついていて、ピストルを手にした僕が前のめりに迫ってくるのを見て悲鳴を上げた。僕はティボーに離れた距離から撃ってきてほしかった。弾をすべて使い切ってほしかったのだが、至近距離で撃つつもりらしく、ひたすら追いかけてくる。
彼の獲物になんかなってたまるか。
「すべてはリリーのためなんだ!」と僕は大声で宣言し、僕の全身全霊で『スター・ウォーズ』に出てくる若きハン・ソロになりきって、銃を撃った。
僕の気合いが乗り移ったかのように、今度は勢いよくトマトジュースが飛び出てくれた。
ただ、撃つ前にかっこよくハン・ソロ・ポーズまできめたのがまずかったのか、ティボーは僕が撃ってくるのを警戒し、さっとかわされてしまった。
「そんなへなちょこに当たるかよ、腑抜け野郎!」と彼がわめきながら、撃ち返してきた。僕は左に身をかわし、右に振れ、彼の弾をよけた。
ちょうどそこで作業をしていたカレブという名の用務員が、空中に飛び交うブラッディ・マリーを目の当たりにして、実際の流血事件だと思い込み、悲鳴を上げた。彼の悲鳴に気を取られていたら、ティボーがまた撃ってきて、僕はとっさに食堂の受け皿を盾にした。それで弾は防げたものの、僕は自分の銃を落としてしまった。
ティボーは再び銃口をこちらに向けると、走って距離を詰めてきた。まずいと思った瞬間、彼が水たまりのように床にたまったブラッディ・マリーというか、トマトジュースに足を滑らせ、転んだ。
僕の魂の奥底、一番深いところから、僕はこんな決め台詞を引っ張り出してきた。「無様だな、あんたの負けだよ!」
ティボーが悲鳴を上げ、用務員のカレブも続けて悲鳴を上げた。ニヤニヤ・サディーがみんなを招集するように叫んだ。「ほら、ちゃんと見ておきな!」
僕は銃を構え、身をよじる彼に向けて、発射した。
彼の顔面に命中した。
彼が真っ赤に染まった時、僕もぬかるみに足を取られ、滑ってしまった。彼がすかさず僕の足をつかんできて、僕はぐらっとよろめき、倒れた。
でもなんとか彼の体の上に倒れ込むことができた。
「真面目な話」と僕は彼に覆いかぶさったまま、一旦息を落ち着けてから言った。「これで僕の勝ちだよな」
「わかった、参ったよ」とティボーが負けを認めた。「俺にどうしてほしい?」
「僕とリリーのために」と僕はうめくように言った。「パーティーを開いてくれ」
12月18日(木曜日)
「君は目の前にあるものの本質を見ようとしてない」と僕は彼女に言った。「まず第一に、これはクリスマスセーターだよ。派手じゃないからって、―キラキラしたラメが入ってないからって、悪党顔したトナカイがでかでかと描かれていないからって、―これがクリスマスセーターじゃないとは言えない。真実っていうのは、べつに自ら真実ですよってアピールしなくても、ただありのままに、真実でありさえすればいいんだ」
リリーはあっけにとられたような顔つきで言った。「あなた何言ってるの? なんでこんなことになってるのよ?」
さっきからずっと彼女に言おうとしていたことをやっと言える。
「リリー」と僕は言った。「これは予め用意されていたことなんだ」
「予め用意されていたこと?」とリリーはすっかり混乱しきった様子で聞き返してきた。
「神によってね!」とブーマーが声を上げた。「といっても映画『ピンク・フラミンゴ』に出てくるような、お下劣な神じゃないよ!」
「ブーマーが言いたいのはね」と僕は言った。「つまり、ここにいるみんなは君のために集まったってこと。まあ、ティボーの友達の中にはビールを飲みに来た人たちもいるみたいだけど、他のみんなは君に楽しい時間を過ごしてほしくて集まったんだ。いや、―ちょっと違うな。僕たちは君に楽しい時間を単に過ごしてほしいわけじゃなくて、楽しい時間を体感してほしいんだよ。実際、君は楽しんでるみたいだったし、―僕がそう思っただけで内心は楽しくなかったのならそう言ってほしいんだけど、―なのに突然、もう別れましょとか言い出して、全然そんな雰囲気じゃなかったよね」
僕は正しいことを言っているという確証がほしくてソフィアを見た。彼女はそっとうなずいてくれた。
リリーがティボーの方を向いた。「あなたも知ってて私を誘ったの?」
ティボーは手を左右に振って否定するように言った。「いや、拳銃を突き付けられて仕方なく。でもそれはともかく、トイレの個室にいるとき、メールをもらったんだよ。楽しい時間を用意してくれ、エドガーが頼りなんだって。まあ、俺も一応おまえの友達ではあるわけだから、おまえに楽しい時間を提供してあげたくなったんだ」
「ちゃんと僕がメールに書いたことを全部言わないと、今度はピストルじゃなくて、サーベルで決闘だぞ!」と僕は脅した。たぶん剣術の才能にはちょっと自信があったんだと思う。
「あなたたち決闘したの?」とリリーが聞いた。
「したよ。もしもう一度決闘するとしたら、―」
「それは言うな!」とティボーが叫んだ。
「―、サーベルで勝負だ」と僕は最後まで言い切って満足した。
「ダッシュ!」とブーマーが大声を上げた。「ピストルかサーベルかはどうでもいいよ!」
僕はリリーに向き直った。「そう。それはどうでもよくて、要するに、僕は本当に君と別れたくないってこと。実際僕が望んでるのは、別れるのとは正反対のことで、二人でそれをしたいと思ってる」
「別れるの正反対ってことは、お互いの体に突入だね!」とブーマーがうながすように言った。
リリーと僕は二人して、その言い回しにぞっと身震いした。リリーと一体感が生まれたみたいで、良い兆しだと思った。
12月19日(金曜日)
僕たちは公園で待ち合わせした。僕は学校に行かなければならなかったし、彼女は外出禁止中にこっそり家を抜け出す必要があったから、ようやく午後になって会うことができた。そして僕たちは公園内をぶらぶらと散歩することにした。
公園の奥の方へと歩いて行き、アヒルの住む池の近くまで来た。(ある意味で)僕たちを結び付けてくれた作家、サリンジャーの小説の一場面が頭に浮かんでいた。それで僕は彼女にこう言おうとした。前から不思議に思ってたんだけど、冬になるとアヒルはどこへ行っちゃうんだろうね、と。冬のこの時期にアヒルは一羽もいるはずないと思ったから。
でもそこには、白鳥がいた。ぽつんと一羽の白鳥がたたずんでいた。
12月18日(木曜日)
僕は腕時計を見て、「門限の時間が迫ってるよね」と前置きしてから、笑顔で言った。「でもあと一曲くらい踊る時間はあるよね?」
選曲はティボーに任せた。僕はそういうことには疎いから、この時期にぴったりの今一番ホットな曲を彼に頼んだ。『サンタは興奮を隠せない』というR&Bの曲が流れ始める。
大量の雪が彼女に降りかかって
サンタは興奮を隠せない
冷たい風に彼女の髪がなびいて
サンタは欲求を抑えられない
ティボーはにやにやと笑みを浮かべていた。クリスマスソングにしては際どい歌詞だとわかった。―悪魔にお膳立てを任せるものじゃないな、と思いながらも僕はめげずにリリーの体に腕を回した。―彼女のセーターはぴっちりと彼女の体を包み込んでいたから、なんだか体を保護している層が何もない生身の彼女に触れているようで、最高潮に向かってビートを刻む音楽に乗せて、僕の体もグルーヴを感じていた。
「この歌最低!」とリリーが言った。
「僕も同感だよ、今それを実感できるのは君と僕だけだよ!」と僕は断言した。
煙突をくぐり抜ければ
夢のホワイトクリスマスが待っている
サンタは興奮を隠せない
でも彼はまだそりに乗っている
12月19日(金曜日)
「君にも見えるよね?」と僕はつい聞いてしまったけれど、もちろんリリーにもその白鳥は見えていた。僕たちは息をひそめてそっと近づいた。今ではすっかり寒くなり、僕たちはしっかり手袋をはめていて、僕は手袋越しに彼女の手を握っていた。
「あの鳥どうしちゃったのかしら?」と彼女が聞いた。
「ちょっと迷ったのかな?」と僕は思いつきで言った。「それか、あの鳥もみんなみたいに五番街のバーグドルフ・デパートでウインドウショッピングをしたいのかもね」
その白鳥は僕たちに気づき、凍ってはいなかった池の水面をすうっと滑るように近づいてきて、冷めた目ながらも好奇心も見え隠れする瞳で、僕たちをじっと見つめてきた。
リリーは僕から手を離すと、自由になった手で写真を撮ろうとした。
しかし彼女がシャッターを押す前に、その鳥が歌い出したのだ。
12月18日(木曜日)
その曲が終わっても、僕はまだ彼女を抱いていた。でもそれもほんの束の間で、ティボーがわざとなのか次の曲を流してくれなかったから、静けさに気まずくなり体を離した。
「さっき言ったことは忘れて。撤回するわ」とリリーが言った。
でもなんだか、彼女の口ぶりには戸惑いがにじんでいた。
とにかく彼女がそう言うのだから、そのまま受け止めたけれど、
何かを撤回するとはどういうことか?
そう、撤回されたものはその人の内側に戻り、心のどこかでくすぶり続けるのだ。
12月19日(金曜日)
その白鳥は歌い始めた。それはガーガーというやかましい鳴き声ではなく、葬送曲のように悲しみに満ちたものでもなく、美しいメロディーだった。礼拝やミサで歌われる讃美歌のような、悲哀と歓喜の混ざり合った調べだった。
その鳥が歌い終えたとき、僕は思わず拍手した。けれど手袋をはめていたから、音は大して鳴らなかった。
リリーが心配そうな表情をしていた。
「どうしたの?」と僕は聞いた。
「この鳥死んじゃうのかしら。だって白鳥ってすごく美しい歌を歌ったら...もうすぐ死んじゃうんでしょ」
「それは単なることわざだよ」と僕は彼女を安心させた。
白鳥はそんな僕たちを無視するように振り返ると、池の奥の方へと行ってしまった。その鳥は飛び立つことなく、泳ぎを楽しむように水面を漂っていた。
12月20日(土曜日)
次の日の朝、リリーは再び姿を消してしまった。
8
リリー
リリー姫、知恵をしぼる
12月20日(土曜日)
君はまたどこへ行っちゃったんだよ、と兄からメッセージが来た。
私は返信しなかった。
僕は今夜はベニーの部屋に泊まるよ。新しいアパートメントのことで色々計画を立てるんだ。だから今回は君を探し回るつもりはないよ。
私はそれでも答えなかった。
僕はちゃんと君のことがわかってるんだ。君がこのメッセージを見てることもわかってる。
まったくもう、兄は私のストーカーなのよ。メッセージには動画も付いていた。iMessage上でストリーミング再生してみる。
こんなこと言うとうざがられるだろうけど、リリー・ベア。君は今、いたいけな少女からやんちゃな大人への境界線を渡ろうとしてるんだ。
それ? すべての大人がすべての10代に言う台詞。
兄はもうすぐ新しいアパートメントに引っ越して、自分の所帯を持とうとしてるから、平凡な大人の一人になっちゃったみたいね。
私はあきれて目をくるりと回すと、スマホの電源を切った。
それに私は自ら失踪したわけじゃない。
迷っちゃったのよ。
あと5日でクリスマスだというのに、胸がワクワク感でいっぱいになるはずなのに、私はどんよりとした陰鬱感に包まれていた。まだレープクーヘン・クッキーも作ってないし、ユニオンスクエアにこの時期限定で出店している簡易店舗を見て回ってもいないし、セントラルパークでアイススケートもしてないわ。―それらは私が毎年クリスマスシーズンにやっている10個の恒例行事のうち、お気に入り順で言うと、2位、6位、8位に当たるわけだけど、そういうのを一通りこなしてから、(もちろん1位の)12月25日に盛大に行われる〈プレゼント交換会〉を迎えるっていう流れがあるわけ。それなのにまだ欲しいものリストも作成してないし、そういえば、今年はまだ一度も聖歌隊に参加して街角で歌ってないわ。―私が募集を出して集めた聖歌隊なのに。
私がクリスマスを前にしてブルーな気分に沈んでるのを心配して、クリスマスセーターのパーティーを開いてくれたわけだけど、なんだかいっそう私を取り巻くブルーが色濃くなっちゃったみたい。
おじいちゃんは逃げ出すように彼の妹の家に猫を連れて出て行っちゃった。私は今まで通り私たちと一緒にいてって彼にすがりつくこともしないで、すんなり彼を見送ったわ。私がスタテン島に自ら失踪したとき、きっとおじいちゃんは心配してくれたでしょうけど、心配かけてごめんなさいって彼の許しを請うこともしなかった。この動物好きの私が、猫だけは置いていってとせがむこともしなかったのよ。
私はもう自分がどういう人間なのかもわからなくなっちゃった。
ダッシュは私が動物の苦しむ姿を見るのがどんなに嫌いかを知っている。それでも私は昨日あの池で、あの白鳥がどれほど取り乱していたかを彼に言わなかった。きっと人間の私たちが近づいてきたことに動揺していたのよ。彼にそう言わなかったのは、もしかしたら、その後こうして、私はそのことについて思い悩みたかったのかもしれない。あの後、私は公園での散歩の終わりに、「じゃあ、また、たぶんそのうち」とだけ言って、他には何も言わずに彼と別れた。それから連絡を取っていない。もうあやふやな気持ちのまま、ごまかしてはいられない。私は彼と距離を置くわ。
「君は何もかもを誤解してるよ」ダッシュの言葉が私の頭の中で、アニメ『アルビンとチップマンクス』に出てくる、あの意地悪な男の叫び声とともに繰り返し再生されていた。彼がアルビーーーンと、シマリスのアルビンを怒鳴りつけるシーンとともに。
「君は何もかもを誤解してるよ」
アルビーーーン!
「君は何もかもを誤解してるよ」
アルビーーーン!
お願い、頭の中のリリー、彼らを静かにさせて。
私はむしゃくしゃして、もう少しでラングストンに電話するところだった。私には犬がいるでしょって言ってやろうと思った。私が飼ってる犬もいるし、散歩させなきゃいけない犬たちもいるんだから、私が勝手にどこかへ逃げ出すわけないでしょって。人生で関わりのある人たちなら、私は無視することもあるけれど、毛の生えた動物に対する責任だけは絶対に放棄しないのよ。ボリスは今朝早くにもう散歩に連れて行ったわ。今朝は遠出して、ランドールズ・アイランド・パークまで連れて行ったのよ。あそこはリードを外して犬を遊ばせることができるから、ボリスもいっぱい走り回れるの。ただ、タクシー代が往復でかなりの高額になるのが玉に瑕なんだけどね。それもこれも、ニューヨーク市交通局が公共の乗り物にペットを連れて乗る際には、「キャリーバッグに入れて、かつ他の乗客をイライラさせないように運ぶ」っていう決まりを作ったからなのよ。ボリスもキャリーバッグにはなんとか入るんだけど、後半部分は無理ね。ボリスはどうしても人をイライラさせちゃうから。それでタクシーを使ったんだけど、行きの運転手さんも帰りの運転手さんもかなり不満そうだった。大きなボリスが乗り込んできて、ちょっとおならをしたり、座席にちょっとよだれを垂らしちゃったりしたから。あと、私がハンドバッグから出して運転手さんに手渡したお札が湿ってて、小銭が臭かったのも嫌がってた。タクシーの中でずっとボリスが私のハンドバッグの上に座ってたから、中身がそんなことになってたのよ。そんなわけで、ボリスは今朝の遠足でくたくただから、今日は一日中、私がいないことにも気づかずに寝てるでしょうね。それなのに、私の兄ったら、私が行き先を言わずに外出したってだけで、どうしてあんなに心配してるの?
それに真面目な話、私がいなくなって心配なら、犬の散歩のお客さんたちに連絡して聞けばいいのよ。私は今朝、今日は用事があってできませんって律義にメールを送ったんだから。ちゃんと責任を持って犬の散歩をしてくれる代わりの人たちのリストも付けてよ。そこまでしてる私が姿をくらますわけないじゃない。だいたい、失踪って意図せずして姿を消すことを言うのよ。たとえば、女の子が間違って幻覚作用のあるジンジャーブレッド・クッキーを食べちゃって、それはクッキーじゃなくてリアルな男性かもしれないけど、そうして意図的に昼間どこかへ行くようになって、そうこうしているうちに年齢的にも合法的に朝まで失踪するんでしょ。
問題は、おそらく私もその過程にいることで、本当は迷っちゃったわけでもなくて、意図的に昼間どこかへ行こうとしてるの。私はどうやら幻覚のとりこになっちゃったみたい。もっともっとワイルドな経験がしたくてたまらないの。人生を危険にさらして、ヤーナにどんどん出てきてもらって、リリーには引っ込んでてもらって。
私はため息をついた。私の吐いた白い息が電車の中の冷たい空気に溶け込んだ。凍り付くような寒い冬がついに訪れた。でもそれは意地悪な寒さだった。気温も1桁台で、寒さのため信号機に問題が発生したらしく、電車ものろのろと走っている。ほとんど暖房の効いていない車内にはそれほど多くはない人たちが乗っていて、ダウンコート越しに身を寄せ合うように座っている。マフラーを頭や首にしっかり巻き直したり、手袋をはめた手をしきりにこすり合わせたりしている。誰も何も言わずに、ただ歯をガタガタさせながら、小刻みに震えている。
そんな冷たい空気と同じくらい私の心は冷え切っていた。窓の外に目をやると、午後の太陽が明るい光線を放っていて、こんなことを言っている気がした。私はここよ。あなたの希望の光のオーナーよ。私が全権を握って光を操ってるんだから、私のさじ加減ひとつで放射する熱を弱めて、あなたを暖めてあげないことだってできるわ。ちょっと意地悪しちゃってね。しばらくはこの極寒と付き合っていたいから、雪に邪魔はさせないつもり。雪が降ってくると私たちの関係は終わっちゃうから、雪をブロックしてるのよ。冬は誰のものだと思う? 冬も私のものなのよ。大西洋岸の北東辺りに住む人間たちはよく知ってるでしょうね。羨ましいでしょ、あの辺の人たちは今も私の熱を存分に浴びてるから!
私は涙を流して泣きたかった。けれどこぼれた涙はすぐに凍ってしまい、頬を伝って流れてはくれなかった。ダッシュの言う通りね。私は何もかもを誤解していた。彼の心が全然読めていなかったし、彼を説き伏せて別れることもできなかったわ。私はノイローゼになりそうなほど頭がごちゃごちゃしていたから、お互いのためにもすんなり別れさせてって言えなかったのよ。そう言えないほど彼を愛してるからでもあるんだけど。
電車が次の駅のプラットフォームになだれ込んで停車した。最初私は幻でも見てるのかと思い、涙の水蒸気で曇ったメガネを外して、ティシュで拭いてからメガネをかけ直した。確かにメトロノース鉄道の駅の表示はプレザントビル(陽気な町)となっている。ここって本当に現実の駅? もしそうなら、どうしてサンタの大群がどっと電車に乗り込んできたの? しかもサンタたちは酔っ払っていて、騒がしく怒鳴り散らしている。いろんなサンタがいるわ。―男性も、女性も、若者も、お年寄りも、太った人も、瘦せた人も、白く長い髭をつけて完璧にサンタのコスチュームに身を包んだ人から、ほとんど裸同然でストリッパーみたいなサンタまでいた。さらに目を疑ったのは、サンタの一団に続いて、こちらも酔っ払った聖歌隊の一団が乗り込んできたこと。彼らはウイスキーのフラスコ瓶を回し飲みしながら、やかましくクリスマスキャロルを歌っている。彼らはビクトリア朝風の衣装で着飾っているけれど、彼らが歌っている曲は私も最近耳にしたばかりの、優美なビクトリア朝時代にはあり得なかったはずの、あの歌だった。
子供たちは泣いている
トナカイは横たわっている
奥さんだけが理由を知っている
そしてサンタは興奮を隠せない
もうこの歌はうんざりよ。アルビーーーンよりひどいわ。神を冒とくするのもいい加減にしてって感じ。でもキャッチーで頭に残っちゃう!
騒々しくひしめき合う乗客たちの背後から車掌さんがこの車両に入ってきて、声を張ってアナウンスした。「次の駅は、チャパクアです!」乗り込んできた乗客たちは一向に意に介さずといった様子だったため、車掌さんはさらに大きな声で言った。「この電車はマンハッタン行きだと思っている方は、反対側のホームへ向かってください」それでも誰も降りようとしない。車掌さんはもう一度声を張り上げた。「これはマンハッタンへ向かう電車ではありません。ニューヨークを北上して郊外へ向かうつもりがないなら、ただちに降りてください。最終案内です、これはワセイク行きです」サンタたちと歌い手たちが次々と空いている座席に座り込んだ。「やれやれ」と言いながら車掌さんは呆れ顔で、この車両を去った。
初老の男性が私の隣に座ってきた。聖歌隊の一人らしく、ビクトリア朝風の衣装を身にまとい、シルクハットをかぶっている。彼はそのシルクハットを軽く持ち上げると、私に会釈してきた。「メリークリスマス、お嬢ちゃん。俺は田舎のワセイクから来たワセイルだよ」彼の息からは田舎のテネシー州に本社があるジャック・ダニエルっぽい臭いがした。(高級なシナトラ・センチュリー限定版ではなくね。)
彼の名前のワセイルは「酔っ払い」っていう意味でもあるから、本名なのか私をからかっているのかはっきりしなかったけれど、ぐでんぐでんに酔っ払っている彼からまともな答えを引き出すのは無理そうだった。これだけ酔ってたら、さっき車掌さんがはっきりと明言していたことも耳に入ってないかもしれないので、私も再度言ってあげることにした。私はちょっと自分を見失っていたからといって、今日が〈サンタコン〉の日だってことくらいちゃんと気づいていたし、人の役にも立ちたかったから、ワセイクから来たワセイルさんに言ってあげたの。「今日はマンハッタンにサンタのコスチュームを着た人たちが大勢集まるんですよね。あなたもそこに行くつもりなら、反対側のホームですよ」
私のお隣さんは鼻で笑うように言った。「俺らはグランド・セントラル行きの電車に乗ってたんだよ。2、3時間前はな。そしたら、マウント・キスコ駅で電車から追い出されちまったんだ」
「でもここはプレザントビルですよ」
「だからなんだ? 俺らはさっきまであちこちのバーをはしごしてたんだよ。それで一旦はもう一度都(みやこ)を目指そうって決めたんだけどな。ちょっとした抗争が勃発しちまって、おじゃんさ。サンタ隊とコーラス隊の衝突だよ。―そういや、今年はギャング団同士の抗争が多かったな、お嬢ちゃんにこんな話しちゃまずいか。で、我らがワセイク団の総長が決めたんだ、今日のミッションは諦めておとなしく帰ろうってな」
「そうね、都に行ったはいいけど牢屋の中で目覚めることになるより、こうしてメトロノース鉄道の中で酔いつぶれた方がましね」
「おやおや、可愛くて賢くて、小生意気なお嬢ちゃんだな」と彼は言った。その言い方も表情も、騎士道精神あふれるビクトリア朝の英国紳士というよりは、いやらしくニヤニヤしたアイルランドの妖精レプラコーンみたいだった。
私たちの前の座席に座っていた黒ずくめのゴス・ファッションをした女性が急に立ち上がって頭を出し、こちらを向いた。唇にピアスをして、耳に大きな穴を開け、黒髪をつんつん立てている。彼女は私のお隣さんを𠮟責した。「いい加減にしろ、ワセイル(酔っ払い野郎)。子供にちょっかい出してんじゃねえ!」
「俺はちょっかいなんか出してねえよ!」とワセイルさんは憤慨した。
「出してるよ!」と、私たちの周りを取り囲んでいたサンタ隊の一団が声を上げた。
「私は子供じゃないのにな」と私はつぶやいた。
私はギャング団同士の抗争が手をつけられないほど広がっていくのを食い止めたかったから、しばらく封印してきた昔ながらの子供らしいリリーを久しぶりに登場させることにした。とうとうクリスマスのお祝いムードに抗うことをやめ、やっと昏迷状態を抜け出せる。もしこの窮地を切り抜ける方法があるとすれば、歌うしかないと思った。
私は歌った。我らは陽気に歌い歩く/緑のツリーの間をくぐって!
ゴス・ファッションのサンタが悪魔のような目で私をにらんできたけれど、すぐにビクトリア朝の聖歌隊が私の後を歌い継いでくれた。我らはめぐりめぐってここまで来た/ほらごらん、こんなに素敵な景色を!
なんていうか、車内の雰囲気ががらっと変わるのを感じた。さっきまでのお酒の臭いが充満していて、寒くて、ピリピリしていた空気が、お酒の臭いと寒さはそのままだったけれど、ほとんどお祭りムードといっていいくらい、ぱっと華やいだ。
少なくとも車内の半分の人たちが一緒に歌ってくれた。―多くのサンタたちも参加してくれた。愛と喜びがあなたに訪れて/歌い歩くみんなにも訪れて/神があなたを祝福して、そこのワセイル(酔っ払い)にも贈る/ハッピーニューイヤー!
ワセイクから来たワセイルさんが立ち上がって、まるで彼のために書かれたような歌詞が歌われたところで、お辞儀をした。
誰も3番以降の歌詞を知らないらしく、歌が途切れてしまった。ここは昔から「3番のリリー」って呼ばれてる私の出番ね、と思ったところで、ビクトリア朝風の豪華なドレスを着た女性が悲鳴を上げて、車内が静まり返った。彼女はあごの下で結ばれていたひもをほどき、派手な帽子を脱ぐとすかさず、背中に天使の羽を付けたぽっちゃりとしたサンタの赤ら顔をピシャリと、強烈にひっぱたいた。
「サンタは興奮を隠しなさいよ!」と、ビクトリア・レディーが天使の格好をした太ったサンタに向けて金切り声を上げた。
「やれ!やっちゃえ!」と酔っ払いたちがはやし立てた。
私は酔っ払いの人たちが好きだけど、でも私が好きなのは陽気な酔っ払いで、こういう喧嘩好きみたいな酔っ払いはちょっと。
私は早くママに会いたかった。
終点のワセイクに到着し、私は飛び出すように電車を降りた。ワセイクから来たワセイルさんも、サンタコンに向かうつもりで着飾った、陽気なサンタとは言えないサンタたちも、やかましい聖歌隊も、誰も私を追ってこなかった。というのも、彼らはカトナ駅で電車から追い出されちゃったから。
ママは駐車場で待っていた。レンタカーの中でぶるぶる震えながら私を待っていてくれた。「あなたの乗った電車は1時間も到着が遅れたわね」
「意地悪な寒さのせいでね、のろのろ運転だったの」と私は言った。「それと、酔っ払いサンタたちを電車から追い出すのに時間がかかったのよ」
「サンタコンって今日だっけ?」とママが言った。私はうなずく。「なら都会を離れるのが一番ね。この時期はみんな都会に集まるから、こっちは道も混んでないし。でもあれね、マンハッタンの通りを埋め尽くすサンタたちも最初は可愛いもんだったけど、今では厄介な人たちよね」
ママの足元を見ると、長くて厚いコートの下からカクテルドレスのすそがのぞいていた。おしゃれなハイヒールも履いている。彼女はここにいるよりもっと大事な、いなきゃいけない場所があるんだろうなと思った。でも私は実存的危機っていうか、存在意義を見失っちゃって、誰よりも彼女を必要としてるのよ。「あんな急に呼び出しちゃって、こうして会ってくれてありがとう。パパにもラングストンにも言ってないでしょ?」
ママは首を横に振っただけで、あえてはっきりと明言しなかった。彼女が嘘をついているのは私にもわかったし、私がわかってることも彼女はわかっているようだった。私が初めてブラをつけた時も、初潮の時もそうだった。ママは彼らには絶対に言ってないと私に誓っておきながら、実際はしっかりと言っていたから。ママは言った。「私はせいぜい1時間しか時間がないのよ。パパは今、学校に寄付をしてくれた人たちをもてなしてるから、あの場には私はいなくてもいいんだけどね。生徒と教職員を交えたパーティーが始まる時間には戻らないといけないの。まあ、その時間までに私が離婚したくなったら話は別だけど。というわけで、あなたが私と一緒にパーティーに行って、校長の娘として振る舞ってくれるなら連れていくけど、それが嫌なら1時間以内にあなたをマンハッタン行きの電車に乗せなきゃね」
「わかったわ」そっか、電車が遅れて寒い中待たせただけじゃなくて、こうして暗い顔した私と車の中で向き合ってたら、素敵なパーティードレスとか、綺麗に化粧した顔とかが無駄になっちゃうのか。「ママとっても綺麗」普段のママはヨガパンツにゆったりとしたシャツとか、そういうラフな格好を好んでして、とかしてない髪を後ろに持っていってお団子に束ねてる感じだから、こうしてマスカラをつけて口紅を塗って、髪の毛をブローしてふわっと広げると、なんだか、ワオ、ママってすごくいけてる!
「ありがとう。これあなたに買っておいたのよ」ママは紙のコーヒーカップを手渡してくれた。コーヒーが見えないほどクリームたっぷりで、その上にクッキーも載っていた。
「これコーヒー? このカップ冷たいわ」彼女はこんな私にも優しくしてくれる。私にはそんな資格はないのに、すごく優しくしてくれるから、私はわからなくなる。どうして私はこんなにめそめそふさぎ込んでるのだろう? 実存的危機とか言って、単に気まぐれにいじけてる理由がわからない。
「コーヒーのはずよ。あなたが乗った電車が到着する前にね、コーヒーの移動販売車がその通りの向こう側に停まってたの。これから電車に乗って都会に向かう人たちに、クリスマスをモチーフにした飲み物を売ってたわ。そのジンジャーブレッド・ラテは最後の二つだって言ってた。それで私が買った直後に店を閉めちゃったんだけどね」
「ママのは?」
「とっても美味しかったから、あっという間に飲んじゃった。1分もかからなかったんじゃないかしら。ヒッピーっぽいコーヒー通って感じの人が売ってたんだけどね、やっぱりああいうサスペンダーをしたひげ面の職人は違うわ。美味しいコーヒーの淹れ方を熟知してる」
「でも、なんか見た目はラテにしてはちょっと」と私は言って、うたぐり深くカップの中にたっぷりと落とされたクリームをのぞき込んだ。
「そんな顔してすねてないで、飲んでごらんなさい。〈ラテ〉だって思うからだめなのよ。アイスクリーム・シェイクだって思えば見た目通りでしょ。バニラアイスクリームとエスプレッソを混ぜて作った〈シェイク〉なのよ。麦芽入りチョコボールとか、ジンジャー・キャンディーも入ってるわ」
なら美味しいかも!私はまずクッキーをコーヒーに浸してから、一口かじってみた。「オーマイガー!これはもしかしたら、私が今までの人生で飲んだ最高のドリンクかも」そういえば、去年一度だけ内緒でペパーミント・パイみたいな味のお酒を飲んで酔っちゃったことがあったけど、あれ以上だわ。最高。このジンジャーブレッド・ラテは天にも昇る極上の味だわ。「やっぱりママはすごい。ママの言う通りね」
「それがあなたの笑顔だったかしら? もう長らくあなたがそういう顔するの見てないから忘れちゃった」
私はラテの残りをがぶがぶと一気に口に流し込んだ。アイスクリームをそんな一気に流し込んだら急激に頭が痛くなるかもなんて気にせずに、瞬く間にカップを空にし、私は唇をぺろりと舐めた。「そう、これが私の笑顔よ!」と私は言った。そして、精神的に落ち込んだ時の教訓に加えようと思った。私の気分は糖分をちゃんと注入すれば、曇天模様がぱっと晴れて有頂天になるのだ、と。
10代のホルモン事情はよく知らないけど、きっとホルモンたちも絶えず目をとがらせてたら、疲れちゃって糖分が必要なのね。
ママが言った。「私もね、そういう時に必要なのはジンジャーブレッド・ラテだって昔から知ってたら、コーヒーの移動販売車を追いかけ回してたわね」彼女は心配そうに車のダッシュボードの時間表示に目をやってから、真剣な表情で言った。「さて、いったいどうしたの? リリー。私は2時37分まで一緒にいられるから、何でも相談に乗るわ。私はあなたのことが心配なのよ」
「私も私のことが心配なの」
彼女は車のヒーターに手をかざして、それから彼女の温かい両手で私の冷たい頬を挟み込んだ。ほっと安心する感触だった。「話してごらんなさい、リリーちゃん。ラングストンがもうすぐ家を出て行っちゃうこと? それともパパと私がこっちに引っ越しちゃうこと? おじいちゃんのことかしら? 心臓発作を起こした人ってね、回復するまでは気分が落ち込んだり、怒りっぽくなったりするものなのよ。もう昔の彼とは違うんだから、わかってあげなさい。いい?」
「今言ったこと全部、私は頭にきてるけど、どれも違うわ」
「じゃあ、私たちはもうあなたの人生の中心ではなくなったってことね?」と彼女は優しく言った。
「まあ、そういうことかな」と私は認めた。
「ああ」とママが言った。「ダシールのことね」
ママは何でもわかっちゃうのだ。
「私は彼と別れようとしたんだけど、彼が嫌だって言ったの!」
「ほんと? ちょっとびっくりだわ」私は彼女が何にびっくりしたのかよくわからなかった。私が彼と別れようとしたこと? それとも彼が嫌だって言ったこと? 「あなたは彼になんて言ったの?」
「『私たち、もう別れましょ』って」
「なんかピンとこない言い方ね。そしたらダッシュはなんて?」
「嫌だよって。それから『君は何もかもを誤解してるよ』って言ってた。でも私が何を誤解してるのかは言わなかった」
「ちょっとよくわからないわ。そもそもどうしてあなたは彼と別れたいって思ったの? もちろん私たちの家族の男性陣は彼のことを嫌おうとしてるけど、でも彼らだって内心はそんなに嫌いじゃないのよ。それに私は彼って素敵だと思うわ。すごく熱心にあなたに尽くしてくれるでしょ」
「それが問題なのよ!」私の瞳の中にじわっと、冷たくてほろ苦い涙が湧き上がるのを感じた。涙で私の顔が凍り付いてしまっても構わないから、泣いてしまいたかった。「ダッシュはただ好きなだけなのよ。私は...愛してるのに」
「あら、かわいそうなリリーちゃん」ママは私の頬に流れた涙を拭った。そして私を引き寄せると、軽く抱き締めてくれた。「それを彼に言ったの?」
「うん。一度だけ。でもなんか、彼は聞いてないみたいだった。何も言い返してくれなかったし。愛が返ってこない人を愛するのってすごくつらいのね、ママ!」大声で思ってることを吐き出したら、なんかすっきりして、さっきまで曇り空だった私の気分に陽が射し始め、雲の切れ間から青空がのぞいた。まだ心に青あざは残っていたけれど。
「リリーちゃん、つらいのはわかるわ。でもね、考えてごらんなさい。『愛してる』って言葉で言うのって、そんなに大事なことかしら? お互いの関係を良くするのって言葉じゃなくて、行動でしょ」
「でもダッシュは言葉の人なのよ!」
ママの表情が曇った。それは私の言ったことが正しい証でもあった。「そうなのよね」と彼女は認めた。「でも彼だって、あなたが彼を想ってるようにあなたのことを想ってるかもしれないじゃない? もしかしたら彼はそんな気持ちがちゃんとあなたに伝わってるって思ってるのかもしれないわ。そういうのって周りの人にはわかるんだけどね」
彼女はただ私を慰めるためにそう言っているのだろう。優しく励ましてくれるのはありがたいけれど、彼女の話はちょっと的外れね。「そんなこと彼に聞けるわけないじゃない!」
「どうして? 彼はあなたのボーイフレンドでしょ。なんで聞けないのか私にはわからないわ」
一瞬考えて、私はとうとう真実にたどり着いてしまった。認めるしかなかった。「だって、そんなこと聞いたら、私が粘着質で、頭でごちゃごちゃ考えてばかりの気持ち悪い女だって彼にばれちゃうじゃない」
「私はあなたがそんな子だなんて言ったことないでしょ」
「言われなくても感じるのよ!前までは、ボーイフレンドができて気が変になっちゃった女の子たちを見て、お気の毒にって他人事みたいに思ってたけど、私もそんな女の子たちの一人になっちゃったのよ!彼氏に愛してるって言ってほしくてたまらない、ノイローゼ気味の女の子の仲間入りよ。彼の口からその言葉を聞かないと、自分の存在が崩れそうで気持ちが落ち着かないのよ。私はそんなの大っ嫌いなのに!」私はどうしちゃったっていうの? こんな風にママに内面をさらけ出したことなんて今まで一度もなかったのに。きっとあの酔っ払いサンタたちの影響だわ。彼らのせいで私までタガが外れたみたいに抑えが利かなくなっちゃったみたい。そこでママが笑ったから、「何もおかしなこと言ってないでしょ」と私はママを制した。
「そうね」とママは言うと、緩んだ唇をきゅっと結び直して、中立的で真剣そうな口元に戻した。「あのね、あなたの話聞いてたら思い出しちゃったのよ。私が初めてパパとデートした時のこと。それから彼に対して深い気持ちを抱くようになったんだけどね。でも2、3ヶ月付き合ったあたりで、自分でも不思議なくらい突然、私は彼に冷たく当たるようになってね、一度彼と別れたのよ。彼にあの家の中には入ってほしくなかったの」
「うちの家族はやっかいだから、彼氏なんて連れてきたら大ごとね」と私は言った。私にはもう一つ恐れていることがあった。私の家族と、それから彼の家族。
「そうなのよ」とママが追随した。「パパをうちのクリスマスパーティーに招待するまでかなり時間がかかったわ。やっと誘って、彼を叔母や叔父に一人ずつ紹介したんだけどね、いとこも次から次へと出てくるから彼は面食らってたわ。彼はいまだにあの時の、数にものを言わせた怒涛の攻撃で受けたショックから立ち直ってないみたい」
「ダッシュの家族は毒薬だから」
「だからって彼もそうってわけじゃないでしょ」
「わかってるけど、自分の両親がお互いに意地悪するのを見てるのって心がかき乱されるでしょ。もし彼も彼のパパみたいになっちゃったらどうしよう?」
「あなたに恋人ができることに私はまだ心の準備ができたわけじゃないけど、でもね、これだけは言えるわ。ダッシュは彼のパパに全くどこも似てないわよ。目の色を除いてわね」
「でもダッシュの目ってすごく綺麗なのよ!」私はまた泣きじゃくりそうになった。
「あなたは私に何を言ってほしいの? リリー。彼との仲を続けるように言ってほしいの? それとも彼との関係を断ち切るように?」
「私はダッシュにちゃんと言うべきことをわかってほしい。するべきことをしてほしいのよ!映画『コーギーとベス』を見に連れて行ってほしいの。そうすれば特別なクリスマスになるんだから。ただクリスマスツリーを届けてくれるんじゃなくて、そこで一旦時間を止めて、私と一緒にいるためだけに、ゆっくりしていってほしいの」もはやママに向かって話している感覚すらなくなっていた。私はまくしたてた。「私のことを大切に想ってるんだって行動で示そうとするのはやめて。ちゃんと私に向かって愛してるって言ってよ。そうじゃないなら、私と別れてよ。こんな惨めな気持ちのままでいるくらいなら別れたほうがましだわ。だってそうでしょ、私は私の気持ちの全部を捧げようとしてるのに、向こうは私のことをただのお花だと思ってるのよ。『ああ、なんて可愛らしいリリーの花が咲いているんだ。純粋で世間知らずで、そんなに花びらを広げちゃって。君を引っこ抜いて、地面に叩きつけて足で踏みつぶしても、君はニコニコ笑ってるんだろうね?』って」
ママが黙り込んでしまった。私は彼女が笑いを押し殺しているのかと思ったけれど、どうやら思いやりのある言葉をあれこれ探しているらしい。少なくとも、探している感じを醸し出そうとはしているらしい。しばらくしてやっと彼女が口を開いた。「まず第一に、ダッシュは超能力者じゃないんだから、あなたが心で望んでることを読み取ってって期待するのは無理があるわね。第二に、これはあなたが誰と付き合うことになってもいえることなんだけどね、そりゃ女の子が恋人に望むことのリストが長くなるのは当然だけど、そこにずらっと並んだすべての項目を自動的に叶えてくれる男なんて、そんな都合のいい男がいるわけないでしょ。男っていう種族はそういう風にはできていないんだから。もしそんな男があなたの前に現れたら、何か裏があるかもって警戒しなさい。第三に、あなたがそれほど彼に対して強い気持ちを抱いているのなら、それを正直に彼に打ち明けなさい。それがあなたの責任よ。待ってたってだめ。彼はあなたが言われるのを待ってる言葉なんて思いつきもしないんだから」
「でもダッシュが私と同じ気持ちじゃなかったらどうしよう?」
「リスクがあるのは当然よ。そういう瞬間をくぐり抜けてこそ、あなたは自分がなりたい自分になれるのよ。そこから抜け出すまでは視界も悪いし不快でしょうけど、そこでどんな自分になりたいのか、その方向性を決めるの。道を選ぶのはあなたよ。その結果傷つくことになったとしても、あなたは自分の気持ちと行動に責任を持つ人になる? それとも、心の中で望んでるだけでそれを求めようとしないから幸せをつかめない、そんな、いじけてるだけの人になるの?」
「なんか、どっちの道も最悪ね」
ママはもう笑いをこらえている様子はなく、とても真剣な顔つきで言った。「あなたを過保護に甘やかしすぎたかなって今になって思うわ。そのせいで、あなたは自分の心が傷つかないようにってすごく臆病になっちゃったみたいね」
「私は怖いの」
「よくわかるわ。突き詰めると、男女の情愛ほど恐ろしいものはないわ」
「ママ!」私はこれ以上ないってくらい、ひどく困惑してしまった。「私が言ってるのはそういうことじゃない!」
「私だってそういうことは言ってないわよ。いやらしい意味じゃなくて、相手を自分のことのように思う感情のことよ。本当の親密さってこと。あなたが心で感じていることを認めて、自分のありのままの姿をさらすのよ。心を開いて相手に自分の魂を見せるんだから、それほど怖いものは他にないでしょ。それで、私は感謝祭の翌日にはショッピング・モール〈ウッドベリー・コモン〉に行くことにしてるのよ。感謝祭の翌日は受難の金曜日でしょ。私はその怖さを経験から知ってるの」
彼女が何を言い出したのか、その意味を理解するまで私はしばらく言葉が出てこなかった。私が黙っていると、ママはさらに付け加えた。「あなたがそういうことじゃないとか言い出したから、―」
「私たちはまだホテルには行ってないわ!」と私は苛立ちで身をくねらせながら言った。「というか、彼ってママが作ったルールもしっかりと守るのよ。私たちが二人きりで私の部屋にいる時は、ちゃんとドアを開けっ放しにしておくの」
「それは私じゃなくて、パパが作ったルールよ。でも私はダッシュを責める気にはなれないわね。私がダッシュの立場だったとしても、あなたの寝室であなたの体をもてあそびたいとは思わないわ。だってドアの外側では親戚も入れたら1ダースにもなる家族たちが見張ってるのよ。しかも、あなたの手を握る以上のことをしたらすぐにでも、彼の首を絞めに部屋に飛び込んでくるような人たちよ」
ママが「もてあそぶ」という言葉を使ってダッシュと私の関係を言い表したことに正直、身もだえしそうになるほど不快感を覚えたけれど、同時にママの発言の後半部分が示唆していることに私は気を良くした。「じゃあ、私がドアを閉めてもダッシュはそのまま私の部屋に居続けられるかな?」
「もし彼に勇気があるならね。大丈夫。パパが作ったルールは私が撤回するわ。ダッシュはいい男よ。それにあなたもこうやって私と男女の親密さについて語り合えるようになったんだから、あなたは自分でベストな選択ができるわ。ちゃんと自分の気持ちに責任を持って、あなたと彼にとって一番いいタイミングを見計らって、彼にこういう話をするのよ。でもあなたの寝室じゃない方がダッシュも落ち着いて話ができるかもね。彼が寝室のドアを開けっ放しにしてるからって、あなたに対して欲求がないとか、そういうことじゃないのよ」
1時間が経った。2時37分発のマンハッタン行きの列車がはるか遠くから近づいてくる音が聞こえた。
「ほんとにこっちに引っ越しちゃうの?」と私はママに聞いた。
「まだ決まったわけじゃないんだけどね。でも期待してた以上で気に入っちゃった。まあ、将来が約束されたわけじゃない単なる大学講師としては、ロング・アイランドを横断して通勤することになるから、かなり酷なんだけどね。しかも長旅の後に相手にするのは、偉大な詩人たちが残した詩には大して興味のない、ただ現代詩の単位が欲しいだけの学部生だから、モチベーションも上がらないわ。いっそのこと大学を辞めて、ここで詩人にでもなろうかしら、っていってもどこからも給料は発生しないんだけど」
「でも家族が都会にいるじゃない」
「パパがこっちに住みたがってるの。私もあなたと同じってこと。リスクは承知で彼を選ぶってわけ。私たちみたいな年寄りでもね、こういう思い切った行動に出たくなるのよ」
「でもおじいちゃんがいるじゃない!」
ママはため息をついた。「彼はすごく分からず屋になっちゃったわ。彼にとって一番いいのは、生活支援付きの高齢者向け集合住宅に入ることなのよ。家族みんなそう思ってるわ。そこに入居すれば、彼の生活の質が上がるんだから」
私はあえぐように言った。「彼が今の発言を聞いたら、きっと怒り狂うわ!」
「わかってる。それが問題の最たる部分ね。彼にとって最善であるのはもちろんだけど、周りのみんなにとっても良いことなのに、それがわかってないのよ。私たちに必要以上に世話をさせたがって、もちろん私たちは彼を愛してるけど、度が過ぎたら誠実に世話もできなくなるわ。彼が倒れてからというもの、私たちは自分のそれぞれの人生を一旦停止させてたわけだけど、もうそろそろ自分の人生を取り戻してもいい頃だと思うの。そういう決断をするこっちだって苦しいのよ」
「私はどこへ行くことになるの?」
「あなたもここに引っ越してきて、パパの学校に通ってもいいわ。それともミセス・バジルの家に住まわせてもらって、夏の間だけ私たちのところに来て、こっちで一緒に夏を過ごすっていうのもありね。彼女がそう申し出てくれたのよ。あなたももう大人なんだから、自分がどうしたいのか自分でわかるでしょ。大丈夫、誰もあなたを見捨てたりしないから。みんな、あなたの生活環境が良くなるように、できることは何でもしてくれる。それがあなたの家族なのよ。もう二度と、こんなに素晴らしい家族から逃げ出そうなんて思っちゃだめ」
まだ話し合うことはいっぱいあったけれど、あと1分以内には車から出ないと電車に間に合わなくなりそうだったから、重要な問題に話をしぼることにした。
「私はまだ外出禁止なの?」
「そうよ」
「そうなの?」と言って、私は悲しげな顔をした。「リリーの気分は真っ逆さまに転落して、再びうつの沼に落っこちました」と言いたげな表情を作ってみた。
「いいわ、解除してあげる。それと、あなたがここまで何しに来たのか、私にはわかってるのよ」
「何?」
「ママに甘えたくなったのよね。リリー姫は知恵をしぼって、ここまでやって来て、ママからありったけの共感をしぼり取って行きました。さあ、家に帰りなさい。スイッチをオンにして、あなたのクリスマスを始めるのよ。そしてダッシュに話しなさい、―」
私は彼女の頬にキスをした。「バイバイ、ママ。ありがとう。愛してるわ」
私は車から飛び出すと、電車に向かってダッシュした。あの電車は、私をダッシュがいるところへ連れて行ってくれる。
電車に乗り込むと、私はすぐにスマホの電源をオンにした。私の心はときめいていた。ダッシュに伝えたいことがいっぱいあった。外出禁止が解けたこと、アパートメントには私しかいないこと、そして、ある男の子を愛してること。
最初に画面に表れたのはダッシュからのメールだった。彼の名前が目に飛び込んできた瞬間、私の胸は張り裂けそうに高鳴った。今度彼に会ったとき、勇気をふりしぼって話をしようと思った。そして、彼からのメッセージを読みながら、私の心は沼の奥底へと沈んでいった。君に喜んでもらおうと僕なりに力を尽くして頑張ったつもりだけど、だめだったみたいだね。君を喜ばせるのは不可能だなんて言いたくはないけど、君を喜ばせるのは不可能みたいだ。こうしてまた君が行方をくらますってことは、そういうことなんだろう。君が正しいって気づいたよ。僕たちは一旦別れよう。
9
ダッシュ
絡み合うには二人必要
12月20日(土曜日)
僕はメッセージを打つ指を止めて、少し考えてから続きを書いた。
そして23時間後に再び付き合い始めよう。きっちり23時間だ。それ以上でもなければ、それ以下でもない。
「計算合ってるかな?」と僕はミセス・バジルにスマホの画面を見せながら聞いた。
「大丈夫よ。さあ...もう一言付け加えて」
「わかってる!」
次の指示は追って送る。と僕は打った。
送信。
リリーから返事が来るんじゃないかと僕は画面を見つめて待っていた。
けれど彼女からの返信はなかった。
「うまくいくといいけど」と僕の口から本音がこぼれた。
ミセス・バジルはソファーに身を沈めて、僕を見上げている。手遅れになって、僕が後悔しないように心配してくれている、そんな表情だった。
「全身全霊でぶつからないとだめよ。いい、あなたのためにもう一度言うから、よく聞きなさい。あなたが持ってるありったけの力をぶつけるのよ」
「でも彼女を喜ばせるのは不可能だって、もうわかったっていうか」
「何でも物事を完璧にしたがる人っていうのは、どこまでいっても満足しないから、喜ばせるのは不可能でしょうね。でもね、だからといって諦めちゃだめ。そういう人は期待が大きいから思うように事が進まないってだけで、洞察力がないわけじゃないの。あなただってすべてを正しく認識してるわけじゃないし、これからも誤解するのよ、ダッシュ。リリーもそれはわかってる。肝心なのは、何度も挑戦すること」
「大事なのは気持ちっていうか、どれだけ考えるかってことですね」
「そういえば、あなたは自分の考えを数えてみたことある? 頭の中を巡ってる考えってとりとめがないから、集合させたり並ばせたりってなかなかできないものなのよ」
僕もソファーの背もたれに体を預けて、ため息でもつきたい気分だったけれど、僕はソファーの前に置かれた豪華な装飾が施された足のせ台にちょこんと座っていたから、背もたれに寄りかかるわけにもいかなかったし、ため息をついても芝居がかってるというか、目の前の話し相手に「自己陶酔に浸ってる」とでもレッテルを貼られるだけだろう。
ため息の代わりに僕は言った。「これが僕にとってラストチャンスになる気がする」その台詞が僕の口をついて出ると、ため息以上に自己陶酔に浸ってるように響いてしまった...けれど、メロドラマ風に気取ったわけではなくて、それが僕の本心だった。
「恋愛指南してあげるわ」とミセス・バジルが返した。「あなたはラストチャンスにかけるのよ。それで、もしうまくいかなかったら、もう一つ別のラストチャンスを自分でこしらえるの。それもだめだったら、また別のラストチャンスを用意するのよ。自分の中のラストチャンスが空っぽになるまで、次から次へとラストチャンスを出し続けなさい」
「でも、ラストチャンスがいっぱいあったとしても、本当の最後のチャンスがいつ来るかは実際、―」
「私は言葉の意味をどうこう言ってるわけじゃないの」とミセス・バジルが僕の発言をさえぎった。「私が言ってるのは心の在りようのことよ。まあ、今のあなたのレベルで私の話が理解できるとも思ってないけどね。―あなたはまだ恋愛に関しては苗木みたいなものだから。その点、私はセコイアの巨木よ。だから私のアドバイスにはしっかり耳を傾けて、栄養にするの」
「僕のはるか上空にそびえ立ってるんですね。いろんな経験をしてきて、年輪の数も違いすぎますね」
「そういうこと」
僕はオスマン帝国の王族の家具みたいな足のせ台から、すっと立ち上がった。「アドバイスありがとうございました」
ミセス・バジルもソファーから立ち上がった。「どういたしまして。さあ、これからが本番よ。さっそく仕事に取りかからないと、準備することがいっぱいあるんだから。23時間なんて長いようで、あっという間よ、ダッシュ。本棚から本が床に落ちる時間と同じ、一瞬よ」
僕はスマホに目をやった。まだ返信は来ていなかった。
ミセス・バジルが僕の腕に彼女の手を置いた。そっとではあったけれど、進むべき方向を決定してくれるような確かな感触が伝わってきた。
「彼女はきっと来るわ」とミセス・バジルは力強く言った。「彼女もあなたと同じ苗木なのよ。ラストチャンスはこれから何度も、ラスト、ラストって続いていくことにまだ気づいてないの。でもそれが若い時の恋愛の美しいところね。―二人で一緒に立派な大木になりなさい」
「もしこれがうまくいけばね」
「そうね、うまくいけば、ね」
12月21日(日曜日)
僕はストランド書店の前でラングストンと待ち合わせした。ストランド書店は僕とリリーの物語の起源といってもいい場所だった。そればかりか、世界最大の書店で文学作品の宝庫でもあるから、僕のような文学をこよなく愛する者にとって、ワンダーランドだった。これがラストチャンスになるとしたら最初の地点に戻りたかったし、1年前はあらゆる可能性を秘めていたファーストチャンスをもう一度蘇らせたかった。
ラングストンは両手で箱を抱えていた。それを持ち上げるようにして僕に見せながら、彼は言った。「これが必要なんだろ?」
彼の胸中はきっとつらいだろうと察した。その箱の中身は彼にとって、なくなったら心がえぐられるくらい大切なものだと知っていたから。
「マークがちゃんと見張ってるって約束してくれた」と僕は彼に言った。「それが落ちる唯一の場所は、リリーの手の中だからね」
「でもなんでジョーイじゃないとだめなんだ? この男の子の人形は僕が5年生のとき、友達のエリザベスからもらったもので、貴重な思い出の品なんだよ。ジョーイは今ではもう、かけがえのない存在なんだ」
「要するに、リリーがそれを見たとき、それがあなたのものだって気づくことが重要なんです。そうすれば、僕たちみんながこれに関わってるってわかるはずだから」
ラングストンは納得しつつも、ジョーイと離れるのはまだつらいようだった。ヤングアダルト向けの本の売り場にたどり着くまで、彼はジョーイの入った箱をしっかり抱いたまま手放さなかった。ラングストンのいとこであるマークが、しかめっ面で僕たちの方をにらんできた。
「なんで俺がお前たちの手助けをしなきゃなんだよ」とマークは咳と一緒に吐き出すように言った。「でもまあ、せっかくここにいるし、ついでだから手伝ってやるよ。なんも考えずにお気楽に仕事をしていたい俺としては、ちょっとわずらわしいけどな」
とはいえ、ラングストンがジョーイ・マッキンタイアという名の人形を、その人形が元々入っていたケースから引き出すのを見ると、マークも神妙な面持ちになった。
「元気でな」とラングストンがジョーイの耳元でささやいた。それからマークに向けて言った。「ちゃんとリリーに届くようにしてくれ」
僕はバッグから『ベイビー・ビバップ』という本を取り出し、そのカバーを外した。それから、赤いモレスキンのノートにそのカバーを巻き付けた。このノートからすべてが始まった。僕たちはすべてを最初の地点に戻すべきなんだ。
「ジョーイから目を離すんじゃないぞ」とラングストンがマークに再度指示した。
「そんなに愛してるのか、なんだかティンバーレイクの歌みたいだな」とマークはぼやいた。「べつにいいけどさ」
「そして彼女がやって来たらすぐに知らせてくれ」と僕も改めて彼に念を押した。
「もし彼女が来ればな」とマークは僕の発言を訂正するように、愉快げに「もし」を強調した。
「もし来れば」と僕は言い直した。
彼女は来てくれないのではないか、そればかりが頭に浮かんでいた。他にも準備しなきゃいけないことが山ほどあるというのに、時間は無情にも刻一刻と過ぎていった。
一旦別れようというメールを送ってから22時間57分後、僕はリリーに新たなメールを送った。
本棚の上のサンタの妖精のことは忘れてくれ。
すべてが始まった場所に行って、そこの本棚の中の新入りを探してほしい。
彼女からの返信を待っている時間はなかった。僕はもう最初のドミノを倒してしまったから、あとはただ、他のドミノがちゃんと連鎖して倒れてくれることを祈るばかりだった。
僕が次に向かったのはブーマーのところだった。彼がおそらく一番あやういドミノだったから。持ち場を放棄してどこかへ行ってしまう傾向が彼にはあるのだ。
オスカーの仲間たち、つまりツリーたちの数は見るからに減っていた。数日前のブーマーは道路脇のツリー置き場を受け持っていたけれど、もうお客さんの数も減ってきたのか、今はツタの絡まる仮設小屋の中にいた。それでも、彼の情熱はまだ衰えていないようだった。
「まだ3日あるから、まだ残ってる全員の家を見つけてあげるんだ!」とブーマーが僕に耳打ちしてきた。まるで彼がツリーのための孤児院を運営しているような口ぶりだ。
僕はバッグから正方形のタッパー容器を取り出すと、蓋を開けて中身をブーマーに見せた。
「おお!」と彼は叫び声を上げた。「香ばしい木くずだ」
僕は一瞬彼の顔を見つめて、本気で言ってるのか探った。
「木くずじゃないかな? 固まったトナカイのふん?」
僕はむせそうになった。
「面白い形だね。なんか、文字が書いてあるみたいに見える!」
「そうだよ」と僕は言った。「文字の形にしたんだ。これが手がかりになるように」
「でも、なんでトナカイのふんで手がかりを書いたんだ?」
「だから、トナカイのふんじゃない!僕が焼いたクッキーだよ」
ブーマーが吹き出すように笑い出した。遠慮したクスクス笑いではなく、ヒッヒッヒという生温い冷笑でもなく、肺から吹き出した笑い声はすぐさま大きくなり、爆笑の渦がブーマーの全身を包み込んだ。
「クッキー!」彼は話せるようになるまで十分呼吸を整えてから、言った。「これが...クッキー?...ボクはこんな不細工なクッキー初めて見た!」
「レープクーヘン・クッキーだよ!」と僕は大声を張り上げた。「少なくとも、レープクーヘン風のクッキーを作ったんだ!本場ドイツのニュルンベルク仕込みだよ!っていうか、マーサ・スチュワートのウェブサイト経由で見たレシピだけど、そのマーサの息がかかった主婦によると、14世紀まで遡る由緒正しき伝統のクッキーなんだ!」
ブーマーは息を落ち着けて、今度はまるで宗教的装飾品の入った箱の中を見るみたいに、そっとタッパーの中を見直した。「おお...なるほど」と彼は厳かに言った。「これは14世紀に作られたのか!」
「いや、これ自体は違うよ!」と僕はクッキーを指差した。―とは言ったものの、よく見ると、僕が作ったクッキーはどこかしらゴシック様式の模様っぽいなと、(ブーマーにではなく、自分自身に向かって)つぶやくように認めた。昨夜、僕は急いでこれを作りながら、いくつかの材料をレシピとは違うものにしなければならなかった。(だって、マーサとは違って、クルクル回る椅子を一回転させて手を伸ばせば、ちょうどナツメヤシの実が4つ置いてある、なんて奇跡みたいなことが僕の家のキッチンで起こるはずもなかったから。)というわけで、グルテンフリーの食品をこよなく愛する人が考案したパンみたいに仕上がったのだ。
「ボクは彼女にこれを食べさせるわけにはいかない」とブーマーが言った。「彼女は病気になっちゃうかもしれないし、そうじゃなくても、きっと彼女は怒るよ」
「べつに食べなくてもいいんだよ。読んでくれれば」と僕は言って、クッキーをタッパーの底にきちんと並べ直した。
「wam-bam-thank-you-ma'am!(手っ取り早くやらせてくれてありがとう!)」とブーマーが読み上げた。それから彼は付け加えた。「なんか〈h〉が足りない気がするんだけど、最初の〈wam〉には、〈where〉とか〈what〉みたいに〈h〉が要るんじゃない? そういえば、〈wherewolf〉(人狼)にも〈h〉要るっけ?」
「クッキーを焦がしちゃって、〈h〉の文字が読み取れなくなっちゃったんだ。それより、君が言う台詞をちゃんと覚えてる?」
「『リリー、clarification(説明)は必要?』」
「違う、―clarafication(クララフィケーション)だよ」
「clarification(クラリフィケーション)?」
「clar-A-fication(クラ『ラ』フィケーション)」
「clar-A-fication(クラ『ラ』フィケーション)」
「そう、ばっちり!それで彼女が必要って言ったら?」
「ボクは『くるみの中のそいつ(股間の玉)をかち割りたい!』って言う」
「違う。『決して割れない固いくるみだ!』だよ」
「『あんたのくるみ(頭)には笑っちまうぜ!』」
「『決して割れない固いくるみだ!』だってば」
「『君のくるみは相当固いね!(君は頭悪いね!)』」
「ブーマー、リリーに『君のくるみは相当固いね!』とだけは絶対に言うな。わかったか?」
「じゃあ、紙に書いてよ。そうすれば、ボクはそれを渡せばいいだけだから」
「いいね、そうしよう」
僕が美術道具専門店〈ブリック〉のレシートの裏にそれを書き留めたところで、僕の携帯が鳴った。
あのボーカルグループは終わった、とマークが書いてきた。メンバーの少年たちに栄光あれ。
どういう意味? と僕はすぐさま打ち返した。
ビーバーのことだよ、ボーカルグループのことじゃない、とマークが返した。
ポップミュージックを取り入れた意味深なやり取りだな、と、グループメッセージのやり取りにラングストンが割って入ってきた。ジョーイの方は順調か?
ジョーイはしっかりリリーの相手をしてるよ、とマークが答えた。赤いモレスキンもちゃんと見つけた。
僕はもの凄くほっとしている自分に驚いた。何かが起こり始めている。リリーと僕にとって必要な何かが、今ようやく動き始めたのだ。
「じゃあ、ブーマー、僕はもう行かなきゃ」と僕は言った。
「ああ、そっか、ダッシュ、ごめん。―ここにはトイレはないんだ」
「『もう行かなきゃ』ってもれそうとかそういうんじゃなくて、『他に行かなきゃいけない場所がある』ってことだよ」
「じゃあ、その場所にトイレあるといいね!」
「あるよ」と僕は彼に断言した。「そこにはいくつかある」
リリーの足どりを追う手だては僕にはなかったから、彼女がそこにたどり着いたとき、僕がいなければならないと思う場所に向かった。
ストランド書店からブーマーのいる地点にたどり着くまでに、リリーは三つの手がかりを一つずつ摘み取っていくことになる。
92番通りに行き、10番目と11番目のキャンドルを見ろ。
(92番通りの入り口に、7 本のキャンドルを立てる大きな燭台があるんだけど、その横に僕たちの友人、ダヴとヨーニーの二人が、キャンドルを二本ずつと手がかりを持って立っていてくれる。二人とも型破りな性格なのに正統派のユダヤ教徒なんだよね。)
ブーツの片一方が脱げた場所に舞い戻って...もう片方を探せ。
(ソフィアが人気クラブのオーナーに甘い言葉をささやいて、リリーが店の中に入れるように、まだ昼間のうちから店を開けてもらった。それからミセス・バジルに彼女のブーツの片一方を借りて、1年前、僕がリリーにメッセージを書き残したトイレの個室にそれを置いた。あのメッセージはこうだった。中折れ帽をかぶったかっこいい探偵風の人にノートを渡してね。そして今回、ソフィアが僕の筆跡を真似て、そのメッセージにこう付け足した。『子狐たち』は君に「ここは袋小路ではない」って知ってもらいたがっている。『子どもの時間』はもう終わったのかもしれないけれど、凍ったココアを飲む時間ならまだある。)
(幸運の連鎖が起こって、リリーは思わぬ出会いをすることになる。―というのも、アイスの載ったフローズン・ココアを飲めるマンハッタンで唯一の場所は、あそこしかないってニューヨーカーなら誰でも知ってるから。そこのテーブルで、リリーのおじいちゃんが待っていてくれる段取りだ。ソフィアが彼にメールして、「フローズン・ココアを買っておいて」って頼んでくれた。おじいちゃんにはリリーが話したいことはなんでも話に付き合ってあげてって、ただ、赤いノートのことだけは話さないようにって伝えてもらった。それから、お会計の伝票を持ってウェイターがやって来て、裏に次の手がかりが書かれたレシートを渡してくれる手はずだ。―もし一本の木が森の中に落ちてしまったら、その木の安否を確認しに、真っ先に森の中に入って行きそうな人は誰か?)
それはブーマーだと気づいてくれるはず。
そしてブーマーが彼女をブルックリンへと導いてくれるだろう。
僕が地下鉄を降りたところで、ブーマーからメッセージが来た。
良い知らせは、彼女が順調に次の目的地に向かったってこと。彼女はclarAficationも必要ないってさ。
僕は悪い知らせが打ち込まれるのを待った。
さらに待った。
たまらず僕はタイプした。悪い知らせは何?
あ、そうそう!悪い知らせは、ボクは彼女に食べちゃだめってきつく警告したんだけど、彼女がクッキーを一つ食べちゃったんだよね。
それ? そんなことについて思い悩んでいる時間はなかった。―べつにクッキーが上手く焼けなくたってどうってことない。何かの技術に秀でているとか、そういうことが僕たちの関係を支えているわけではないのだ。だから僕のパンを焼く腕前がどうしようもなく下手だって彼女にばれてしまっても大して気にはならなかった。それで僕は足を速めて、ブルックリン音楽アカデミー(通称、BAM)に向かった。そこでリリーの到着に備えた。
BAMで現在上映されているのは、『決して割れない固いくるみ』という演劇で、マーク・モリス率いるダンスグループが『くるみ割り人形』を現代風にアレンジした作品である。おなじみの『くるみ割り人形』の物語の舞台を、1970年代の風変わりな郊外の家庭に移している。見どころはたくさんあるけれど、目玉の一つは休日の陽気なパーティーがハチャメチャな乱痴気騒ぎへと変貌するシーンと、もう一つの目玉は、マリー(『くるみ割り人形』でいえばクララ)が、ねずみの王様に対峙して、身を守るものは懐中電灯しかないにもかかわらず、ねずみの王様を上手くやり込めるシーンである。
その舞台は、1970年代の家庭の日常を描いたシチュエーション・コメディーのアニメ版みたいだった。―すべてが実物よりもちょっとだけ大きめに作られていて、舞台上には一本のクリスマスツリーがあり、その下にはいくつものプレゼントが置かれていた。
その中の一つはリリーへのプレゼントだった。
これは今回の計画の中で最も手の込んだ演出だった。運良く、ミセス・バジルがBAMとつながっていたのだ。(「私は長年に渡って芸術界に貢献してきたからね、私が一言声をかければ、芸術家たちはすぐに手を差し伸べてくれるわ」と彼女は説明していた。)マリーを演じるダンサーのローレンが僕を劇場の中に入れてくれた。リリーがここに到着すると、くるみ割り人形の王子を演じるダンサーのデイヴィッドが彼女をステージ上へと招き上げることになっている。それから彼は舞台袖に消え、他の出演者たちも舞台裏で待機する。これは観客を入れない、通常とは違うリハーサルのようなもので、今回に限り、リリーがゲスト出演するというわけだ。
僕は観客のいないオペラハウスの一番高いバルコニー席に座った。ラングストンとソフィアとブーマーとミセス・バジルとダヴとヨーニー、みんなから一斉にメッセージが届いた。みんなそれぞれの場所から、今どんな状況なのかを知りたがっている。僕はざっと状況を説明してから、スマホの電源をオフにした。
かすかに扉の開く音が聞こえた。僕が座っている止まり木のような高い位置からだと、リリーの姿はすぐには見えなかった。―客席の間の通路をステージに向かって歩いてくる彼女の姿がやっと視界に入った。彼女は片手に赤いモレスキンを持ち、もう片方の手でジョーイ・マッキンタイアを抱えていた。ここからだと遠すぎて、彼女の表情までは読み取れない。
ツリーを照らすスポットライトが一つ光っていた。リリーは階段を伝って舞台に上がると、誰かいないかと周りを見回した。ツリーの周りに大きな光の輪を作っていたスポットライトが焦点を狭め、一つのプレゼントを照らし出した。リリーがそちらに向かって歩き出す。こじつけるようにして見れば、リリーがクリスマスの朝に起こされたばかりのクララに見えるかもしれない。よく考えれば彼女はもうすぐ大人になる年齢なので、クララとは違うかもしれないけれど、彼女の動作の節々に見て取れる、ライトに照らされた驚きの表情はクララと同じだった。それっていくら年を取っても、無くさなくてもいいものだから。
僕はプレゼントが入った箱をレープクーヘン・クッキーのレシピが書かれた紙で包んでおいた。そしてその包みを開けると、中にはまた箱が入っていて、その箱を『ベイビー・ビバップ』の中で僕が気に入った表現を書き留めた紙で包んだ。それから、その中にはまた箱があって、今度は〈FAOシュワルツ〉でおもちゃを買った時に取っておいた包装紙でくるんだ。その中にはさらに小さな箱があって、それは映画『コーギーとベス』の新聞広告でくるんだ。そして最後の一番小さな箱の蓋に、僕が手書きで彼女の名前を書いておいたのだ。
彼女がその箱を開けた。そして中の封筒を取り出し、ギフトカードを引く抜く。カードを開く。僕が書いたという印に僕のサインを入れた二語のメッセージを彼女が読んだ。すると、ギフトカードがするりと落ちて、彼女が視線を下に向ける。そのカードは元々どこにあったのかを確かめるように、視線で軌跡をたどった。
笑顔だ。
それから彼女はまるで、僕が彼女の笑顔を見ようとここに座っていることを最初から知っていたかのように、こちらを見上げた。確実に見つかると思った。見つかるのが悪いことなのかどうか考えあぐねている間にも、彼女の視線がバルコニー席のひさしの部分へと上昇してくる。その時、いくつもの照明が一斉に点灯し、ステージ上が光で満ち溢れた。チャイコフスキーの『くるみ割り人形』が流れ出す。リリーが慌てふためいた表情で後ずさり、ツリーにしがみつく。
雪の妖精たちが踊り始めた。
これはこのバレエの中で、僕のお気に入りのシーンだった。そしてリリーのお気に入りのシーンだということも知っていた。ダンサーたちが、見ているこちらも目が回りそうになるくらいクルクルと回転している。空中に舞う雪の動きを表現しているのだ。それから音楽も雪の妖精たちと一緒になって、うねるように音量を上げ...両腕を大きく広げたかのごとく、跳ねた...そこで雪が降ってきた。指の爪ほどの紙でできた無数の雪が、空中を舞いながら落ち、舞台上に降り積もる。
この雪が合図となって、僕はここを後にする予定だった。パズルの最後のピースをはめるために、先回りしておく必要があった。しかし僕はどうしても立ち上がったまま、動けなかった。リリーがどんな表情をしているのか、しっかりと確認せずにはいられなかった。―兄のかけがえのない人形を抱え、おじいちゃんと一緒に飲んだココアでお腹を満たし、友達や家族みんなに、ここまで導かれてきたリリーの顔を。もしこれで彼女をハッピーにできないようなら、おそらくもう二度と僕には不可能だろう。もしこれでも彼女を、彼女が沈んでしまった暗い場所から、色がひしめく明るい世界に引き戻すことができなければ、たぶんもう手遅れだということだ。
でも僕は間に合ったみたいだ。一番高いバルコニー席からでさえ、それがわかった。
煙突から忍び込んだサンタのように、僕はつま先を立てるような足どりでそっと劇場の外に出た。そしてスマホの電源をオンにして、グループメッセージにこう書き込んだ。
人生って素晴らしい。
僕はこの計画の最後の部分が最も難しいチャレンジになるだろうと予想はしていた。ただ、事前の見立てとはかなり違う様相で、事は進んだ。
僕はサンタが面倒な問題になるだろうと思っていたんだけど、蓋を開けてみると、あの妖精がやっかいだったのだ。
僕はメイシーズ・デパートの試着室で、リリーの大叔父さん、つまり、あの気色悪いサルおじさんと待ち合わせした。僕は普段外出する時に着るいつもの服装で、彼はサンタのコスチュームを着ていた。
「さっさと済ませてしまおう」と彼が言った。「君はあそこに出て行って、リリーとやるべきことをやって、そしたらすぐにここに戻って来るんだ、いいかい?」
「わかってます」と僕は彼に言いながら、自分でサンタの衣装を借りてくればよかったな、と悔やんだ。(昨夜僕は三ヶ所に電話をかけたんだけど、どこも品切れだったのだ。)「僕は隣の試着室で待ち構えているので、カーテン越しにその衣装を投げてください」
「ダメ、ダメ」と彼は言うと、肩や腰を揺らしながらサンタの上着を脱ぎ始めた。「ここでいいじゃないか、今すぐここで」
試着室は二人が一斉に着替えるには狭すぎて、僕はサンタのどぎつい汗の臭いにむせ返りそうになった。
僕は1年前このサンタとひと悶着あったので、彼がサンタの上着の下に何も着ていないことを知っていた。とはいえ、知っているのと実際にこの目で見るのとでは大違いである。リリーが彼に託した封筒を手に入れるために、サンタの大きくて毛深いお腹に触らなければならなかったあの感触と、丸々と太った実物のお腹を目の当たりにするのとでは、共通項が何もないと思えるくらい隔たりがあった。それは肌の色をした海から突如として姿を現した、毛むくじゃらのクジラのようだった。そればかりか、そこにはタトゥーが見えた。「その通り、ヴァージニア」と書かれている。ただ、その後に続いているはずの「ちゃんとサンタはいる」の部分は、お腹の肉が折りたたまれて見えなかった。
僕はサンタのコスチュームを受け取ると、頭にそれをかぶせるように着た。自分の目を覆ってしまいたかったというのもある。その衣装は僕にはかなり大きかったけれど、それで良かった。―僕が求めているのは正確さではなく、単にそれらしさだったから。頭からかぶった上着をしっかりと着てから、顔を上げると、サンタが赤いズボンを脱いでいた。赤と白のキャンディー柄のボクサーパンツが露わになっている。
サンタが僕の視線に気づいて、小声で聞いてきた。「こういうのが好きなのか?」
僕は彼の手からズボンをもぎ取って、急いでそれを穿こうとした。けれど急げば急ぐほど気持ちは焦り、僕の視線はキョロキョロとあちこちを泳ぎ、片足をズボンに入れて、もう片一方も入れようとしたとき、ぐらっとバランスを崩してしまった...僕はつんのめるように倒れ込み、気づくとサンタの胸の上に覆いかぶさっていた。
「ほっほっほー!」と彼が高らかに喜びの声を上げた。
「違う、違う、違うよ!」と僕は叫び返した。
僕はズボンを引っ張り上げて、上体を起こそうとしたけれど、なかなかすんなりとはいかなかった。僕が前かがみになって、スニーカーに引っかかったズボンの裾に手を伸ばそうとしたちょうどその時、試着室の扉がさっと開いたかと思うと、妖精が叫んだ。「いったい何をやってる? ここをどこだと思ってるんだ!?」
妖精ではなく、―妖精の格好をした従業員だった。
そしてただの従業員ではなく、サンタの右腕ともいえるあの男だった。
1年前僕たちは乱闘寸前のもみ合いになったのだ。こいつとまたここで対峙することになるとは。
「暴行だ!」と彼が叫んだ。「試着室4で暴行事件発生だ!」
「デズモンド」とサンタが言った。「落ち着きなさい」
「こいつがサンタの衣装を奪おうとしてるじゃないですか!」
「彼に貸しただけだ」
「そんなことは許されてません!」
僕はズボンをしっかりと穿き、上着のポケットに手を入れた。約束通り、中には付けひげが入っていた。
僕がサンタの帽子をつかもうとしたとき、その妖精が試着室の中に踏み込んできて、身をていして僕の邪魔をした。
「サンタ!」と彼がとがめるように鋭く言った。
「行け」とサンタが言った。
それは僕に向かって放たれた言葉だと一瞬で理解した。
「そりの下に予備の帽子がある」とサンタが付け加えた。
僕は瞬時に体の向きを変え、試着室を出ようとしたが、そのためには妖精のブロックをかいくぐらなければならなかった。
「こんな不正は許さない!」と彼が大声を上げた。「警備員!セキュリティー!」
リリーがもうすぐここに着いてしまう。僕は彼を押しのけてでも行かなければならない。僕は覚悟を決めた。―僕が妖精に向かって体当たりしようとしたその時、サンタが上半身裸のまま、両腕を伸ばし、妖精の肩をつかむと、彼を自身に引き寄せ、キスをした。
目の前に道が開け、僕は猛然と走り出した。
試着用の大きな鏡の前を通り過ぎるとき、僕は付けひげを装着した。僕にはかなり大きかったけれど、これで事足りるだろう。
「サンタ、あんたって人はいっつも!」試着室4の中からデズモンドの叫び声が聞こえてきたけれど、僕は僕の向かうべき場所へと急いだ。
ベニーがこの階のサンタ村で僕を待っていた。彼は今日のミッションの中で一番危険で、リスクを伴う役割を担うことになっている。これから10分間、彼はメイシーズにインターンとして雇われている従業員のふりをして、子供連れの親たちに、「只今こちらのサンタはトイレ休憩に入っておりますので、もし今すぐサンタに会いたいようでしたら、2階のサンタ村へ回ってください」と言うことになっている。彼はメイシーズのバッジさえ付けていなかったから、それらしいクリップボードを手に持ち、あとは彼の真剣な表情だけが命綱となる危険極まりない任務だった。(「クリップボードを手に持って、何かをチェックしてるふりをすれば、不思議と人々は何も言い返してこないものなんだよ」と彼は断言していた。「サンタの正体はアデルだって言われてるけど、君もアデルみたいにサンタの中の人になりなさい。お客さんたちは食い止めておくから」)
サルおじさんのサンタ・ステーションは〈そり〉をぐるっと回り込んだ裏手にあった。〈そり〉の下に手を伸ばしてみると、予備のサンタの衣装が、なんと一式揃っていた。僕はその中から帽子だけをつかんだ。そこには鏡がなかったので、僕はスマホを鏡代わりにして自分の姿を写し、身だしなみを整えた。そうしてスマホに注目していたら、声をかけられるまで僕の前に少年が立っていることに気づかなかった。「サンタさん、なんで自撮りしてるの?」
「わたしは坊やが来てくれるのを待っていたんだよ」と僕は言った。そう言いながら頭では、なんでこの少年はベニーの包囲網を突破できたんだ?と思っていた。
(答え:子供にクリップボードの魔術は通用しないから。)
何の躊躇もなく、その少年は僕の膝の上に乗っかってきて、僕の太ももの上に座った。
いいだろう、と僕は思った。やってやろうじゃないか。
「坊やの名前はなんていうのかな?」と僕は聞いた。
「マックス」
「坊やは今年いい子にしてたかな? それとも悪い子だったかな?」
彼は頭の中で計算している様子だった。つまり、どちらを答えればプレゼントにありつけるかを算段している表情だった。
「いい子」と彼がきっぱりと宣言した。
「よし。わたしはそれを聞けて満足じゃ。それでは楽しいクリスマスを過ごしなさい。メリークリスマス!」
しかし、マックスは僕の膝の上から全く降りようとしなかった。
「ぼくのクラスのタナーがね、あなたは本当はいないんだって言ってたよ」と彼が言った。
「わたしはちゃんとここにいるじゃないか」と僕は指摘した。でもなんだかしっくりこなかった。もし嘘を言っているとしたら、ごまかしやセールストークと同じだ。マックスに対して口から出まかせを言っている気分だった。
「いいかい、マックス」と僕は言った。「ちゃんと聞いて、―これだけは覚えておいてほしいんだ、―わたしが実際に北極に住んでいるのかどうかは重要なことじゃない。毎年クリスマスイブに君にプレゼントをあげているのはわたしなのかどうかも重要じゃない。そりゃ、タナーみたいな人は、わたしが架空の存在だって言うし、君がもっと大人に近づいたら、タナーみたいな人は、他のいろんなことが嘘っぱちだって言い出すよ。でもね、そんな時に使える魔法の言葉を教えてあげる。だから何? 彼らにそう言い返すだけでいいんだ。いいかい、夜寝る前にその日一日を振り返ってみて、今日のストーリーが本当だったかどうかはどうでもよくて、重要なのはどれだけそのストーリーに気持ちを注ぎ込んだかってこと。それを愛情っていうんだ。もし何かが架空の存在だとしたら、架空だとしても存在してるってことは、誰かがたっぷり時間をかけてそのストーリーを築き上げたんだよ。君がそのストーリーの中を生きていけるようにね。そういうストーリーを作り上げるのって、すごく大変な仕事なんだ。もちろん、そのストーリーが本当じゃないって気づく時が来るわけだけど、でもね、その背後にある、作った人の意図を考えてみてほしい。その気持ちは正真正銘の真実なんだ。その後ろには、たっぷりと愛情が溢れているんだよ。本物の愛情がね」
マックスの目は少しきょとんとしていた。僕が話し終えると、彼は目をぱちくりさせて聞いてきた。「じゃあ、プレゼントはどうなるの?」
「もらえるよ。君を愛してる人からちゃんともらえる。トナカイに乗ったどこかの気まぐれな男が、袋の中から適当に引っ張り出したプレゼントをもらうより、君のことをちゃんと考えてくれる人からもらった方がずっといいよ」
マックスはそれを聞いて満足そうだった。
ふと彼の背後に目をやると、女の子が立っていた。
もうリリーがここまでやって来ていたことに気づかなかった。それほどマックスとの会話に夢中だったのだ。
「あ、やあ」と僕は言った。
彼女の手にはジョーイも赤いモレスキンのノートも、メイシーズの12.21ドル(12月21日を記念した金額)のギフトカードも見当たらなかった。彼女が唯一手に持っていたのは一枚のカードで、そこに僕は彼女に向けて二語のメッセージを書いたのだ。
Happy Anniversary(僕たちの記念日を祝おう)と。
「さあ、行って」と僕はマックスに耳打ちした。彼はそれを合図にベニーが立っている方へと駆け出した。ベニーが彼を両親の元へ連れていってくれるだろう。
「こんにちは」と彼女が言った。
「こんにちは」と僕も言った。
「サンタの格好をしてるのね」と彼女は僕の衣装に目をやりながら言った。
「君を過去の人にするなんて、無理だよ」
「私のため?」
「もし君と出会っていなければ、まあ確実に、こんなところでこんな格好をすることもなかっただろうね」
リリーがスマホを取り出して、いたずらっぽく笑った。「ごめんね、どうしてもこれは」
彼女は僕にスマホを向けて写真を撮った。でも僕の方こそ、写真を撮りたい気分だった。―サンタの衣装を着た自分の写真を、ではなくて、サンタの衣装を着た僕を見つめる彼女を撮りたかったのだ。彼女はまるで僕が本物のサンタであるかのような、そう信じてる人みたいなキラキラした表情をしていたから。
「ハッピーアニバーサリー」と僕は、彼女が手に持っているカードに書いた二語のメッセージを直接伝えた。
「ハッピーアニバーサリー」
「さあ、おいで、お嬢さん。また次の子供がベニーの包囲網をかいくぐって来ちゃうかもしれないから、急がないと」
「私はあなたの膝の上に座るつもりはないわ」とリリーが言った。
僕はそりの形をしたベンチをパンパンと軽く叩いた。「ここが君のために用意した特等席だよ」
彼女はバッグを下に置くと、僕の隣に腰を下ろした。彼女はまだ少し息が切れているようだった。ここにたどり着くまでに走り回ったのだろう。
「それじゃあ」と僕は言った。「君の一年を教えてくれるかな」
それに反応して、彼女が泣き出してしまった。
これは予想外だったけれど、とても自然なことのようにも思えた。彼女の内側にずっと溜まっていた涙なのだろう。今日まで涙がこぼれるのをずっと我慢していたのかもしれない。僕は今サンタの格好をしていることに感謝した。おかげで自然と彼女を引き寄せることができたから。僕は彼女をゆったりとしたサンタの衣装で包むように抱きしめた。
「大丈夫だよ」と僕は彼女に言った。
彼女は首を横に振った。「ううん、大丈夫じゃないの」
僕は彼女のあごに手を添えると、僕の目を見るように彼女の顔の向きを変えた。ひげ越しに彼女の瞳が、僕の目の中をのぞき込んできた。
「いや、僕が言ってるのは、大丈夫じゃなくても大丈夫だってこと」
「ああ、そうね」
ひとりぼっちで空を飛び回ってるサンタって、なんて馬鹿なんだろうと思った。だって、こうして隣にいる誰かの鼓動を感じることもなく、彼は世界中を旅して回りたいってことでしょ?
「僕たちはちゃんと面と向かって話す必要がある」と僕は言った。「僕たちは常に外を走り回っていて、ずっとお互いを追いかけてる感じだけど、二人とも心のどこかでは帰るべき場所を知っているんだ。僕たちにとっての北極、みたいなものかな。たとえ実際には存在していなくても、僕たちが、それは存在してるって二人でその思いを共有すれば、ちゃんとそこにたどり着ける、そういう場所だよ。僕は君を愛してる。君が取り乱してるのを見ると、僕は気が変になるくらいつらいんだ。だからどうにかしたいけど、僕には無理だってこともわかってる。それでも僕はなんとか君の周りの世界を書き換えたい。そうすれば君自身がそれを修正していけるから。僕はストーリーを考え出したいんだ。その世界にいる人みんなが祝いたくなるようなストーリーをね。そうすれば、僕たちの周りの大好きな人たちは、誰も気を病むことがなくなる。僕たちの大好きなみんなは、ずっと悲しまなくていいんだ。アイスの載ったホットココアだって無限に出てくるよ。まあ、たぶん僕の力量だと、世界中の人々にサンタクロースを信じさせることは無理だろうね。でも、みんなに信じてもらえそうなことが一つだけある。僕たちって人生が魔法がかったものだって思い込みたがるからね。そうすると、その道すじで混乱してる様子の美女に出くわすことになる。つまりね、じっくり考えた結果、僕は一つの結論にたどり着いたんだ。現実っていうのは、とんでもなく退屈になりかねない。元々がそういうものなんだよ。放っておけば限りなくつまらないものになる。でもそれを回避する方法もあって、それはね、時々現実から抜け出して、完全に心を許せる誰かと、何のためらいもなく一緒に楽しめる人と過ごすことだ。そうすれば普段よりちょっとだけ人生が楽しくなる。僕の人生では、それが君なんだよ。君にちゃんとわかってもらうにはサンタの衣装を着る必要があったのかもしれない。それなら、サンタの格好くらいいくらでもするよ」
「でも、もし全部がただの絵空事だったとしたら? ただそういうふりをしてるだけとか」とリリーが聞いてきた。
「たぶんだけど、何かのふりをすると、本当の自分が何者なのかがよりよくわかると思うんだ。今の僕はサンタになりたい気分だよ。もっと言えば、サイコホラーの映画に出てくるサンタのふりをしたい。君の心理を追うためにね」
「サイコホラー?」
ちょうどその話に移ったタイミングで、僕たちのいるサンタ村の外で騒動が巻き起こった。あの妖精の大声がはっきりと聞こえてきたのだ。「店内に侵入者がいるぞ!」
僕はリリーを見据えて言った。「僕がさっき言ったこと覚えてる? っていっても色々言ったね。ストーリーを作るんだとか、君を愛してるとか、サンタの格好をすると君をハッピーにできるとか。全部本当の気持ちだけど、その前に僕はこうも言ったよね? 僕たちはそんなに走り回って追いかけっこをするべきじゃないって。でもそれについては訂正するよ。今こそ、追いかけっこにうってつけの時だ」
「このそりに乗って?」
「残念だけど、このそりは床にボルトで固定されてるよ。足を使ってここから脱出するしかないかもしれない。できそう?」
リリーは勢い良く立ち上がると、目の下の涙を拭い、そりのベンチから飛び降りた。「できるわ」
僕たちは非常口を見つけて、そこを通った。それから男性用トイレを見つけ、僕はサンタの衣装を脱ぎ捨てることにした。―サンタコンからの帰り道で、路頭に迷って家にたどり着けなくなり、家に通ずる橋とかトンネルとかを探し求めて、ふらふらとさまよい歩いてる人だと思われたくなかったのだ。サルおじさんの衣装を個室のドアの上に投げかけてから、それを写真に撮って、メールで彼に衣装の在りかを知らせた。
男性用トイレから飛び出すと、リリーが立っていて、赤いモレスキンのノートに何かを書き留めていた。彼女は顔を上げて僕を見ると、ノートを閉じた。
「行きますか?」と僕は聞いた。
「どこへ?」
「〈フィルム・フォーラム〉で7時から上映される『It's a Wonderful Life?』を観るっていうのはどうかな? 僕のカバンにはクッキーも入ってるし」
それを聞いて彼女が顔に浮かべた表情は、傑作だった。優しいリリーは考え込んでしまったのだ。僕が作った不味いクッキーを食べたくないって、どう僕に打ち明ければいいのかと。
「ルヴァンのクッキーだよ」と僕は付け加えた。「なんでそんな計算になるのか詳しくは知らないんだけど、ルヴァンのクッキーって、90パーセントが砂糖で、90パーセントがバター、それからたぶん6パーセントが小麦粉でできてるみたいだよ。言い換えると、僕たちは若いうちに、計算をはみ出るくらいの栄養を若い体が全部吸収できるうちに、できるだけたくさんルヴァンのクッキーを食べておくべきってことだね」
僕たちはヘラルド・スクエアに通ずる扉の前までたどり着いた。扉の向こうでは現実世界の34番通りが手招きしている。
「覚えておいて」と僕は彼女に言った。「すべては僕たちの意のままなんだ。僕たちがストーリーにこう進んでほしいって望む方向へ、僕たちのストーリーは思い通りに進んで行く。クリスマスだからね、現実世界の時間は止まってるんだよ。もし現実に戻りたければ、ちゃんと1月には戻れるから。今は、―この街全体が、僕たち二人で作り上げる不思議の国なんだ」
僕たちは扉の外へ飛び出して先を急ぐつもりだった。―しかしリリーがその場に立ち尽くしたまま動こうとしなかった。買い物客が次々と僕たちを押しのけるように通り過ぎて行く。
「ダッシュ?」と彼女が言った。「さっきあなたが言ったこと、本心? 二回も言ってたけど」
「ほんとに?」と僕は聞き返した。「『何のためらいもなく楽しめる』って二回も言っちゃった? 一回だったと思うけど」
彼女の表情が曇った。「私が言ってるのはそれじゃない」
僕は彼女の目をまっすぐに見つめた。
「しょうがないな、君が望むなら何度でも言ってあげるよ。せっかくだから、通行人のみなさんにも知ってもらおう」僕は、僕たちを押しのけるように行き交う人たちに向けて演説するように、声を張った。「みなさん、僕はリリーを愛しています。そこのご主人もご婦人も聞いてください。僕はこのリリーを愛しちゃったんです。リリーを愛してるんです。―リリー、愛してるよ。―リリー、大好きだ!僕はサンタの格好をした、リリーにくびったけのお馬鹿さんなんです!リリーを愛することが罪だとしたら、告発通り有罪にしてもらっても構わない!続けてもいい?」
リリーがうなずいた。
「みなさんがクリスマスを好きな気持ち以上に、僕はリリーが大好きなんです!ここメイシーズの社長さんは、みなさんがクリスマスの買い物をして落としていってくれるお金が大好きなんでしょうけど、僕はそれ以上にリリーが大好きなんです!好きすぎて、もうこの気持ちをそこのウインドーに飾ってもらいたいくらいです!リリーへの僕の愛は、先進諸国のGNPの合計よりも上を行くんです!僕はそれくらい―」
リリーが僕の腕に手を置いた。「もういいわ。やめて」
「僕たちは今、ちゃんと同じページにいるかな?」
「そうね、ちゃんといるわ」
「ここにはヤドリギのクリスマス飾りは見当たらないけど、というか、こんなにも人で溢れかえったデパートの入口のど真ん中なんだけど、ここでキスしてもいいかな?」
「うん」
そうして僕たちはその場で唇を重ねた。巨大なデパートメントストアの出入口の真ん中でいちゃつく、完全に厄介な10代のカップルってやつだ。でも不思議なことに、通り過ぎる人々に怪訝な目で見られても、くたばれ的な言葉を投げかけられても、ちっとも気にならなかった。
「ハッピーアニバーサリー」と僕は、唇を離して言った。
「ハッピーアニバーサリー」と彼女は言って、唇をつけてきた。
それから、僕たちは手をつないで、夜のとばりの中へと歩いていった。
クリスマスまでまだ4日も残っている。この4日間を僕たちの望むストーリーでいっぱいにしよう。
10
リリー
ペストリーバッグからほとばしる
12月22日(月曜日)
クリスマスなんかどうでもよくなっちゃった。だって私はもう欲しいものを手に入れたから。つまりダッシュをね。
朝の日差しのほのかな光が私の顔に降り注いでいた。でも目を開ける前に、私は私の胸の上で息づく彼の呼吸の波を味わうように感じていた。重力が彼の温かい体を私の体に押しつけてくる。
昨日は間違いなく、『スターウォーズ』シリーズの公開初日を除けば、私の人生で最高の日になった。ダッシュと私はお互いに愛を誓い合ったんですもの。昨夜ダッシュは私を家まで送ってくれて、そのまま私の家の暖炉のそばで二人寄り添いながら、私たちの子供みたいな美しいツリー、オスカーを眺めていた。私は彼をどれほど愛しているかを、とうとうと語った。「私はあなたのマイナー志向の本の趣味やムーディーな音楽の好みや、あのひどいクッキーさえも愛してるわ。あなたの優しさが大好きよ。クリスマスを好きになってくれて、余計にあなたのことが好きになったわ。あんなにクリスマス嫌いだったあなたが、私のために好みを変えてくれたんですもの」私は長い間ずっと胸の内に溜め込んできたものを、すべて語り尽くす必要があった。「私があなたを愛してるって、いつ気づいたの?」と私はダッシュに聞いた。
彼は言った。「はっきりとした瞬間とか区切りはないよ。そんながっかりした顔しないでほしいな。だんだんと気づいていったんだよ。君が僕の人生の中にいてくれることで、人生がすごく優しさに満ちて、輝き出したんだ。ソフィアが言ってたよ、僕が前より明るくなったって。君と知り合ってからの僕は幸せそうだってさ」
私はもうソフィアに嫉妬なんかしていなかった。少なくともダッシュのことでは、嫉妬心は湧かなかった。でもまだ、彼女のヨーロッパっぽい優雅さとか、アメリカ人とは違って、糖分の多い食べ物にそれほど依存していないところとかには、羨ましさはあったけれど。「ブーマーとソフィアにはもう話してあるの? あなたが私を愛してるってこと」
「そんなの言う必要なかったよ。明らかにみんな前から知ってたからね」
「私たちの記念日なのよね!あなたのそういうところが好きよ!記念日に愛の告白をしてくれるなんて!」
「君はもしかして、覚えてなかったの?」
「すっかり忘れてたわ」と私は白状した。12月に入ってからの私は過密スケジュールに追われて、つまり毎年クリスマスシーズンに立て続けにやってくる恒例行事にすっかり心を奪われていて、私自身の恋愛の記念日が、この時期に連続する重要なイベントの中に含まれているなんて思いもしなかった。「ねぇ、ニコラス・スパークスの本の中で、私たちみたいなカップルに一番ぴったりなのはどの本だと思う? やっぱり『The Notebook(きみに読む物語)』よね!」
ダッシュの夢を浮かべたような青い瞳が、一瞬で凍り付いたように灰色を帯びた。「冗談でもその作家の名前は出さないでくれ」
私は冗談で言ったつもりじゃなかったのにな。
私は聞いた。「もしかして私、喋りすぎて二人きりの時間を台無しにしてる?」
「うん。きっと無言でも会話できるよ」
それから私たちは言葉を交わすことなく、いっぱいいっぱいキスを交わした。いつの間にか私たちはリビングルームの床の上で眠り込んでいた。―洋服を着たまま、すっかり疲れ果てて。
そして今、目覚めるとお互いの匂いを楽しめるくらい体が密着している。よだれが私の腕に滴り落ちて、私は目をパチクリさせてしまった。現実の方が悪夢だわ!私が二つのスプーンみたいに重なり合っていたのは、ダッシュではなく、ボリスだった。目覚めてがっかり、私ってお馬鹿さんね。でも私は二年連続で幸運に恵まれたんだわ。今年、そして去年も、私は欲しいものを手に入れることができた。ダッシュと、一匹の犬。私の赤いモレスキンがもたらしてくれたのね。
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