『ダッシュとリリーの12日間』4

『The Twelve Days of Dash & Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2018年09月02日~2019年06月30日)


ダッシュはボリスの向こう側で、半分目を開けて横になっていた。ダッシュも今まさにクリスマスに欲しかったものを手に入れた、といった様子だった。彼のママは毎年恒例の休暇旅行に出かけていて、彼女はダッシュにパパの家に泊まるようにきつく言ったりはしなかったみたいで、ダッシュも両親に寝泊まりする場所のことで噓をつく必要はなかった。彼が最も欲しいもの、それは彼自身の居場所なのだ。そのうち、それも叶うでしょう。でもとりあえず今のところ、彼のすべては私のものなのよ。

私の胸はまだ張り裂けんばかりに高揚感でいっぱいだった。私はこの男の子を愛してる!彼も私を愛し返してくれる!彼は私にクッキーを焼いてくれた!ちょっと食べちゃったけど、具合が悪くなったりしてない!

彼の愛情を勝ち取るには、まだライバルがいるらしいとわかった。しかもかなりの強敵みたいだ。ダッシュの視線の先を追うと、オスカーの隣の本棚に行き当たった。彼は物欲しそうに、本棚に並ぶ背表紙をじっと見つめている。「おはよう」と言う代わりに、私は彼に聞いた。「どうしてそんなに本が好きなの?」べつに意地悪な質問をしたわけじゃなくて、私は本に嫉妬していたの。いろんな色の硬い背表紙が一つにまとめている...ページの間に、彼が夢中になるくらいの驚くべき不思議が挟まっているんだと思うと、私は純粋に興味があった。

ダッシュは言った。「僕が赤ん坊の頃から、ママが少なくとも週に一度は僕を図書館に連れて行ってくれたんだよ。そこの図書館員たちは、僕にとってメリー・ポピンズみたいだったな。いつも僕の気分に合う本を見つけてくれて、その時の僕がどんなことに悩んでいても、ぴったりの本を手渡してくれた。だから僕は新しい本を開くたびに、本の中に安息の場所を見つけられたんだ」

「現実逃避?」

「逃避といえば確かにそうだけど、逃げ出すというよりも、入って行くという感覚が強かったな。本の中の場所へ、そこがどこであれ、僕は冒険の旅をしていたんだ。知識や知恵が溢れた、あらゆる可能性を秘めた、魔法の世界をね」

私は愛しのダッシュが、ひねくれてる彼が、そんなストレートに内面をさらけ出して、神の教えに背くようなことを言ったから、自分の耳を疑ってしまった。私は床から上半身だけ起こすと、仰向けに寝そべっている彼の、輝きを放つ顔を見下ろした。(そしてダッシュの隣では、ボリスのくしゃっとつぶれた顔も同じように輝きを放っていて、私ってなんて幸運な女の子なんだろうと思った!)「あなた、魔法を信じるの?」と私はダッシュに聞いた。この二つの並んだ顔は、私のボーイフレンドと私の犬は、私の魔法がもたらしてくれたんだ。

「信じるよ」とダッシュは言った。それから彼は重々しく付け加えた。「僕が言ったこと、絶対誰にも言わないでくれ」

「聞いちゃったー!」とラングストンが高らかに声を上げた。彼はちょうどリビングルームを通って、キッチンへ向かうところだったのだ。彼は歌うようにメロディーに乗せて言った。「ダッシュは魔法を信じてる~。愛ってやつだな~!」

ベニーも私の兄に続いて、リビングルームに入ってきた。ダッシュと私が二人並んで床の上に寝そべっているのを見て、ベニーはラングストンのお尻に自分の腰を近づけ、くねくね腰を回しておどけて見せた。そして私に向かって、ベニーは言った。「ボーイフレンドと朝まで寝泊まり? マミーとパピーがまだコネチカットから帰ってきてなくてラッキー!ってことね」彼はダッシュに目をやってから、ラングストンに視線を戻すと、聞いた。「今すぐダッシュをボコボコにしちゃう? それとも後にする?」

「もうすっかりダッシュとは仲がいいんだよ」とラングストンはため息交じりに言った。

ノナエース!」とベニーが声を上げた。たぶんプエルトリコ語で、「そんなのあり得ない!」みたいな意味だと思う。

「愛ってやつかも」とラングストンがせせら笑いを浮かべて言った。

それに対してベニーが、「ふざけたこと言わないで!クリスマスプレゼントを渡すのはまだ早いでしょ?」と返した。

ラングストンは肩をすくめると、ダッシュの方を向いて言った。「君は僕たちに感謝しなきゃだな。君のガールフレンドの両親が帰ってきてからじゃなくて、今この場でプレゼントを渡すんだから。うちの両親の前でこの箱を開けたら、大変だぞ」

ダッシュは何も言わずに黙っていた。

「まったく恩知らずなやつだな」とラングストンは言った。

ベニーはクリスマスプレゼントが山積みされているところまで行くと、一つの箱を取り上げた。それはストランド書店のカラフルな包装紙に包まれたギフトボックスだった。彼はそれをダッシュにポイッと軽く投げる感じで手渡した。ダッシュが包み紙を開ける。それはどうやら、本がまとまって入ったボックスセットみたいだ。それでどうしてダッシュの顔がそんなに赤くなったのか、私にはわからなかった。彼が私にもはっきり見えるように、そのボックスセットを上に掲げた。それはD. H. ローレンスの全集だった。

フェリッツ・ナヴィダード!(メリークリスマス!)」とベニーが声を上げた。

私はD. H. ローレンスについてよく知らなかったから、なぜ私のボーイフレンドがそれを見て戸惑うくらい赤面してるのか、まだ理解できずにいた。(その後すぐにグーグルで検索したから、わかったけど。)「セクシーであれ、文学青年、ちゃんと避妊はしろよ、ダッシュ!」とラングストンが笑いながら言った。

「ニュージャージーのホーボーケンに引っ越しちゃう人に言われてもね」ダッシュが上手く切り返した。「セクシー、避妊、ホーボーケン。さて、この中で仲間外れの言葉はどれでしょう?」

ホーボーケン?」と私は叫んだ。聞いていられずに口をついて出た本能的な反応だった。ボリスが私の横で寝ていることを考慮に入れる間もなかった。私の大声に、ボリスがびっくりして飛び起き、この部屋の中で一番馴染みのないベニーに殴りかかるように飛びかかって、そのまま彼を床に押し倒してしまった。

「僕たちが引っ越す新しいアパートメントの場所、そういえば言ってなかったっけ?」とラングストンが私に聞いてきた。

「絶対わざと言わなかったのね」と私は彼を非難した。でも私にも同様に非があるわね。ラングストンに引っ越しちゃうって言われて、それで私は気が動転しちゃって、どこへ引っ越すのか聞くのを忘れてたわ。

ラングストンは言った。「マンハッタンとブルックリンは住むには家賃があまりにも高すぎるし、クイーンズ地区とブロンクス地区はダウンタウンからちょっと遠すぎるし」

ホーラ!(ちょっと!)」とベニーが声を上げた。「アユダメ!(助けて!)

「こっちに来なさい」と私がボリスに命じると、ボリスは羽交い締めにしていたベニーをようやく解放した。

「朝ご飯」とダッシュが言った。

「僕が軽く作ってやるよ」とラングストンが言った。「君の分もな」

「遠慮しておきます」とダッシュが答えて、私の手を取った。「僕たちはこれからミセス・バジルの家でモーニングデートをします。クリスマスの夜にミセス・バジルの家でやるパーティーのことで、色々話し合って計画を立てたいんですよ」ダッシュの表情には明らかに興奮の色が浮かんでいた。かつてはあんなにクリスマスを毛嫌いしていた人が、裏と表で全く色合いの違う葉っぱをひっくり返したみたいに、葉っぱじゃなくて、ヒイラギの木が新しく芽を出したみたいに、天からのギフトみたいに!あるいは、本の世界からヤドリギの魔法が飛び出してきたみたいに、変わった。ダッシュが私の手を引っ張り上げて、彼の顔の前まで持っていった。そして私の手のひらにそっとキスをした。もし彼がそう念じれば、きっと私の手のひらに落ちたキスは、キラキラと周りに飛び散って、砕け散ったキャンディーみたいに弾けるのだろう。

ダッシュは魔法を信じ、ダッシュはクリスマスが大好きで、ダッシュは私を愛してる!

私って実際すごく単純だから、胸いっぱいに溢れる愛と、朝食の約束ばかりに心を奪われていて、私の兄が人里離れたさびれた町、ホーボーケンに引っ越しちゃうことはもうどうでもよくなっていた。何はともあれ、ラングストンはもうすぐ行っちゃうのだから、私がとやかく気にしたって仕方ないのだ。それよりも私が本当に気がかりなのは、私がボーイフレンドと仲良くしてるのって、私の本当に大切な人、つまり80歳を超えてる大叔母さんが、ダッシュともっと多くの時間を過ごせるようにっていう策略めいた気持ちからかもしれないってこと。

ラングストンがダッシュに言った。「君がひねくれてた頃よりも今の君の方がずっといい」

ダッシュが返した。「あなたは僕のことをとことん嫌ってた」

「たしかに」とラングストンが応じた。


おじいちゃんの姿を見て、私の胸が少し痛んだ。私と家で暮らしていた時よりも元気そうに見えたからだ。「おじいちゃん元気そうね」と私はミセス・バジルにこっそり言った。朝食のためにミセス・バジルが応接室からダイニングルームへと私たちを案内している途中だった。おじいちゃんはダッシュと並んで、私たち二人の前を歩いていた。彼の歩みには弾力が戻り、私とダッシュに向かって挨拶した時の彼の目には、昔の彼の陽気でいたずらっぽい輝きが溢れていた。

ミセス・バジルは言った。「彼も神経をすり減らしていたのよ。あなたたちが親身になって彼の世話をすればするほどね。要するに彼はあなたたちの重荷になりたくなかったの。彼はずっとあなたたちに悪いなって思っていたのよ」

「重荷なんかじゃないわ!」と私は言って、私たちが介護していた時の姿勢を正当化しようとした。ミセス・バジルが唇に指を当てて、それをさえぎった。

「彼は私にも同じように思ってるのよ」と彼女は言った。「それにあなたは若いんだから、若者らしく自分のことだけ考えてればいいの。それでね、在宅介護の補助をしてくれる人を雇おうと思って、来週、応募してくれた人が何人かうちに来ることになってるの。面接して、おじいちゃんと相性の良い人を選ぶわ」

なんだか私がおじいちゃんの元気を奪っていたみたいに思えた。「でもそれなら私ができるわ」と私は言った。

「ええ、そうね、あなたならできるわ。でもね、あなたの家族はみんな、あなたに10代らしく、前みたいに若者の本分に専念してほしいのよ」

「犬の散歩屋さん?」

「あなたがそうしたければね」

きらびやかな朝食がダイニングテーブルの上にずらっと並べられていた。卵、ベーグル、コーヒー、ジュース、フルーツサラダ、そしてダッシュの大好物のヨーグルトもたっぷりとあった。私たちは腰を下ろすと、一目散に食べ物を口に運んだ。

ミセス・バジルが私に言った。「ベーグルにそのサーモンをのせて食べなさい、リリーベアちゃん。今朝、〈バーニー・グリーングラス〉から配達してもらったばかりなのよ。新鮮ですごく美味しいわ」

ミセス・バジルがテーブルの上の、かつて目がついていた調理済みのお肉を私に食べるように勧めるとき、だいたい私はそれを一切れ、丁寧にお皿にのせると、その上でくるくると回してみるだけで、決して食べない。今回もそれは同じで、私は言った。「もうリリーベアって呼ばないでちょうだい。それから私はベジタリアンなのよ」

「お魚も食べないの?」とミセス・バジルが聞いてきた。お肉が大好きな人たちって、私がベジタリアンだって言うと、どうしてこうも同じ質問ばかりしてくるの? 全く理解できないわ。もし彼女が次に、いったいどこでタンパク質を取ってるの? とか聞いてこようものなら、私はリリーベアの着ぐるみを脱ぎ捨てて恩知らずの娘みたいに、目の前のお皿を壁に投げつけてやろうかとも思った。それくらい、その種の質問にうんざりしてるってこと。

「お魚も食べないわ」と私はなるべく優しく声を出した。

「今までそんなこと言ってなかったじゃない」とミセス・バジルが言った。「こんなに美味しいのに、あなたの鈍感な舌には合わないってことね。あなたが食べないのなら、もったいないわ」

彼女はサーモンの一切れを、おじいちゃんのベーグルの上のサーモンに上乗せした。「うまい!」とおじいちゃんがそれをもぐもぐと嚙みながら言った。

「彼女はもう私たちのテディーベアではないんですって」とミセス・バジルがおじいちゃんに言った。二人とも悲しそうに首を横に振った。「あなたに影響を受けちゃったのかしら?」とミセス・バジルがダッシュに聞いた。

ダッシュは言った。「いや、そういうわけじゃないです。リリーは幼稚園の頃からずっとベジタリアンだったみたいですし」

ミセス・バジルがあえぐように声を発した。「みんなして私に黙っていたのね!」

私は彼女に百万回くらい話したことがあるし、彼女と一緒にベジタリアン向けのレストランにも何度か行ったことがある。彼女は優れた知性の持ち主だけど、―大叔母さんも年のせいで、おじいちゃんと同じように段々と忘れっぽくなっているのだ。それが気がかりだったから、その時に私は、もし両親がコネチカットに引っ越しちゃったら、ミセス・バジルの誘いに乗って彼女の家で暮らそうと決心した。そうすればおじいちゃんとも住めるし、きっと二人とも私を必要としてるから。ここは5階建てのタウンハウスで、私が加わっても有り余るほどの部屋があった。ボリスも一緒に加わってもね。階段がたくさんあるのがおじいちゃんにとって問題になりそうだけど、彼も階段を上り下りして、あちこちの部屋へと動き回っていた方が運動になると思えばいいわ。

ダッシュが言った。「このベーグル美味しいですね」

「そりゃそうよ」とミセス・バジルが言った。「ありきたりな炭水化物食品だって馬鹿にできないわ」

「それで、ここでやるクリスマスパーティーのことですけど、僕たちにお手伝いできることって?」とダッシュがミセス・バジルに尋ねた。

「当日来てくれればそれでいいのよ」と彼女は言った。そんなの決まってるじゃない、みたいな言い方だった。

「え、でも、何か手伝ってほしくて、こうして朝食に招いてくれたのかと。それに僕たちは喜んで何でも手伝いますし」とダッシュが申し出た。

「パーティーのお手伝いさんなら雇うからいいのよ、お坊っちゃん」彼女は彼を見てから、私を見て、それから再びダッシュを見据えた。「もう今は、ちゃんと愛なのね?」

「一周年記念なの!」と私は誇らしげに言った。冗談半分で始めた赤いモレスキンの挑戦状だったけど、私はノートに導かれるようにして、こんなに不可思議な男の子と出会えた。それから一年経つうちに、二人の絆はどんどん強まって、ついに正式に愛を宣言できたのだ。

「あのリストを渡してちょうだい」とミセス・バジルがおじいちゃんに言った。

おじいちゃんはポケットの中に手を入れると、折りたたまれた一枚の紙を取り出し、ミセス・バジルに渡した。彼女はその紙を広げ、しわしわの紙をテーブルの上でまっすぐに伸ばしてから、ダッシュにそれを手渡した。「もしあなたが正式にリリーとお付き合いするのなら、これを持ってなさい。上から重要度の高い順に大事なイベントが書かれたリストよ。私の家でやるクリスマスパーティーが一番上になってるわ、そりゃそうよ」

ダッシュがそのリストを手にすることになるとは、ちょっと信じがたかった。親戚の誰かが婚約したとき、つまり家族の一員になる見込みのある人にだけ、そのリストを渡すっていうのが我が家のならわしだったから。それから、ミセス・バジルの承認を得た証として、ウェディングギフトショップに会員登録することになる。

「ちょっとよくわかりません」とダッシュが言った。

「それは出席表だよ」とおじいちゃんが笑いながらダッシュに説明した。「せいぜい頑張って、皆勤賞を目指すんだな」

「そんなんじゃないわ」とミセス・バジルがたしなめるように訂正した。「それは単なるイベントのリストよ。あなたがうちの家族の仲間になるのなら、一緒に祝いましょうってこと。重要度の高い順に並んでるわけだけど、イベント名の横に星印がついてるものは、任意のイベントだから必ずしも出なくてもいいわ。それで、下に脚注がついてるものは、あなたの家族も一緒に参加してもいいイベントよ。ローテーションで年によって変わるんだけどね」

ダッシュはそのリストにざっと目を通してから、顔を上げ、いぶかしげに目を細めた。「カナダの感謝祭は脚注つきイベントなんですか?」

「カナダ人じゃなくたって祝ってもいいでしょ」とミセス・バジルが言った。

ダッシュは言った。「それを聞いたら、うちの父は喜ぶと思います。彼はカナダ人なんですよ」

食卓を囲んでいたみんなが一様にショックを受けたように、黙り込んでしまった。私はなんだか裏切られたような気持ちになって、食卓を覆っていた沈黙を破るように声を発した。「あなたのお父さんがカナダ人だなんて、一言も言ってなかったじゃない」

「何か問題ある?」とダッシュが聞いた。

「もちろんあるさ!」とおじいちゃんが返した。けれど、それは売り言葉に買い言葉みたいなもので、実際には問題などないことをみんな知っていた。

さらに驚いたことに、私たちはみんな、ダッシュのお父さんがどんな人なのかを知っていた。「でも、あなたのお父さんって」私は口から出かかったそれに続く言葉を、言っていいものかどうか思案した。うるさいとか、うざいとか、そういう言葉がお似合いよね。

ミセス・バジルが私の気持ちを察したのか、そのとげのある言葉を私の口の中に押しとどめるように、ぴしゃりと言った。「カナダ人だって全員が良い人ってわけじゃないのよ、リリー。そんなに考え込まなくたっていいわ。ダシール、カナダの感謝祭には、あなたは私たちの家族の一員として参加するのよ。あなたのお父さんが何か良からぬ動きを見せたら、彼を私のところに連れて来なさい」

「僕はこの家族が大好きです!」とダッシュが、ぱっと光を放つように顔をほころばせて言った。

ミセス・バジルと私は目配せし合って、心得顔でうなずき合った。ダッシュが心から私たちを好きだというのが伝わってきたからだ。カナダの感謝祭よりも、私たち家族の方が大事なんだって。

ダッシュの幸せに満ちた表情から溢れ出た喜びが、洪水のように私の心に流れ込んできた。そして再び私を溢れんばかりの幸福感で満たしてくれた。昨日あんなにいっぱい注ぎ込んでくれたばかりなのに。

私はクリスマスをこの手の中に収めることができた。みんなもそれに気づいてくれたみたいだ。もうダッシュをクリスマスの外側へ放り出すことはしない。二人でロマンチックな気分に浸っていよう。屋上から彼への愛を大声で叫びたくなった。ダッシュは半分カナダ人だってわかった今、私は具体的に誰の家の屋上から叫びたいのかわかっていた。

「ザンボーニさんはどうしてるの?」と私はおじいちゃんに聞いた。


おじいちゃんは女好き、というか、女性にもてるタイプだけど、心臓発作を起こして以来、新しいガールフレンドはまだできていない。男性の仲間たちとは今も強い絆で結ばれてるみたいで、彼は近くのイタリアン豚肉店で必ず週に一度は気の合う仲間と過ごしている。集まったみんなでエスプレッソを飲みながら、バックギャモンを楽しむのだ。私は子供の頃からずっと、おじいちゃんの友達は、彼らの本名ではなく、お店の名前で呼んでいた。餃子屋さんは、中華料理店の元オーナーで、コーヒーよりもお茶が好きな人。ボルシチさんは、ポーランド料理店の元オーナーで、自分のバックギャモンの能力を過信しているのか、どんどんお金を賭けるから、最終的には大量の25セント硬貨を失うことになる。(ズブロッカというバイソングラス・ウォッカも、彼はどんどんソーダ水に注いで飲んでるから、たぶんそのせいで余計に失うお金がかさんでいく。)それでザンボーニさんは、年は取ってるけど、まだ現役の不動産屋さんで、今はグルテンフリーの食生活を実践している。なのでバックギャモンのゲーム中、彼にパン類を差し出す人はいないんだけど、ザンボーニさんは、私が彼のために定期的に作ってあげるグルテンフリーのピーナッツバタークッキーには首ったけなの。私の作ったクッキーがすごく好きみたいで、「君には感謝してもしきれない」みたいなことをいつも言ってくれるから、つけこめそう、というか、彼の力は借りられそう。

私がザンボーニさんを指名したのは、アイススケート場を貸し切りたかったからなんだけど、彼はスケート場関連のビジネスには手を出していなかった。でも数年前、彼はマンハッタンの西端に新しい分譲マンションを建てたんだけど、そこから〈ハイライン〉を見下ろせるのよ。〈ハイライン〉の屋上は冬の間、公共のスケートリンクになるからね。個人的には、私はロックフェラーセンターやセントラルパークのウォルマンリンクに行って、アンドリュー・ジャクソンが描かれた20ドル札を支払って、ごった返した人たちの輪の中で、みんなとセッションしてるみたいに滑る方が好きなんだけど、世の中には、クリスマスにアイススケートを楽しもうと思ったら上から眺めるのが一番とか言って、100万ドルものお金を支払って、あのマンションを手に入れる人もいるのよね。ちょっと理解しがたいけど、クリスマスを特権的に独占してる気分にでも浸っているんでしょう。とはいえ、少なくとも今日だけは、彼らのそんな常識外の感覚が私にとって好都合なのよ。

私はダッシュにそこの住所を伝え、午後7時に待ち合わせましょうと言った。その前に午後は一人で、色々と細かい準備をする必要があった。招待状でしょ、食べ物やパフォーマーの手配でしょ、それから花火もね。


夜になって、ダッシュはザンボーニさんが所有している建物のロビーにやって来ると、開口一番こう言った。「そんな格好で寒くない?」たしかに空気はかなり冷え込んでいた。私はAラインのドレスの下に厚手のタイツを穿いていた。―赤のクラッシュベルベット生地のドレスで、ちょうどひざ上にかかるワンピースよ。スカートの裾に沿って人工の白いファーが付いてるの。ダンサーみたいに飾り帯を腰にきつく巻き付けてるし、胸元がV字にざっくり開いてるのよ。

「寒くないわ」と言って、私はダッシュにキスをした。言われてみれば少し寒かったけど、私の心は寒さも感じないほど、ぽかぽか温かかった。彼を見た瞬間に湧き上がるこの幸福感を、私を一気に押し流すこの感情を、私はいつか慣れっこになって、せき止められるようになるのかな? たぶん永久に無理ね。

次にダッシュはこう聞いてきた。「これからハイラインに行くの?」ハイラインはマンハッタンの中で、彼のお気に入りのスポットの一つだった。―ニューヨークのウエスト・サイドを走る高架鉄道の線路跡で、今は美しい庭園と公園エリアになっている。

「そんなところね」と私は言った。

私は彼の手を取って、手をつないだままエレベーターの前まで彼を連れて行った。「上」ボタンを押す前に、私は腰に巻いていた白い飾り帯をほどいた。「目隠ししてもいい?」と私はダッシュに聞いた。私たちのパーティーの幕開けが、彼にとってサプライズになるようにしたかった。

「なんか、そういうボンデージ・パーティーとかじゃないよね?」とダッシュが聞いてきた。彼はきっとD. H. ローレンス全集の中の一冊を読み始めたんだわ。あ、そうそう、ちゃんとググって調べたからね。

「ううん、そういうんじゃないけど、私にもそういう変態っぽいアイデアが思いつくって思ってくれてありがとう」

私はダッシュの目に飾り帯を巻き付けて、彼の頭の後ろで結んだ。それからカード・キーをセンサーにかざすと、エレベーターの扉が開き、私たちは建物の最上階へと上がっていった。

「これって、もしかして、サプライズパーティーとか?」上昇していくエレベーターの中で、ダッシュが不安そうに言った。「僕の誕生日は12月じゃないよ」

「そうね」

「わかった。屋上の庭園の茂みにみんなが隠れてて、急にわって飛び出してきて、僕をびびらせよう、みたいな? そういう肝試し的なことは好きだけど、何も高層ビルの屋上でやらなくても」

「リラックスして」

エレベーターが開き、私はダッシュの手を引いて、ステージみたいに一段高くなっていて、テーブルと椅子が並べられているエリアへ彼を連れていった。氷雪で作ったかまくらみたいに、頭上がへこんだドーム状になっている。音楽が騒々しく鳴り響き、パーティーはすでに盛り上がっていた。ブーマーとソフィアが手をつないでスケートしているのが見えた。エドガー・ティボーと彼のアーガイル柄のコートも見えた。彼はなんだかレッドブルを一ケース飲み干した直後みたいに荒々しく滑っている。他には、個人的にはよく知らないけど、来賓の皆さんもリンク上で滑っていた。中にはすいすいと軽やかにリンクを駆け巡る人もいたけれど、それ以上に、外側のリンクレールにすがりつくようにしている人が多かった。かまくらエリアには、皆さんの脱いだ靴やブーツが並んでいて、その近くには本がいっぱい詰め込まれたトートバッグがいくつも置かれていた。

私はダッシュの目を覆っていた飾り帯をほどいて言った。「見て。クリスマスの定番といえばアイススケートでしょ。あなたの大好きな人たちがみんな集まってるわ!」

ダッシュはリンクに目をやってから、私に目を戻した。「リンクにいる人たちの中で僕が知ってるのは、ブーマーとソフィアだけだね。あ、エドガーのやつもいたか」

私は言った。「他の人たちは図書館員の皆さんよ。私のいとこのマークがストランド書店で働いてるでしょ、その関係で図書館員のメーリングリストを知っていて、招待状を拡散してくれたの。今夜のあなたは文字通り、本にまつわる人たちに囲まれて、本づくしよ。どう?」

ダッシュは私のちょっと凝り過ぎたかもしれない企画に引き気味だったけれど、かまくらの向こう側の端にある軽食スタンドを見て、目を輝かせた。「あれってホットチョコレート専用のドリンクバー?」とダッシュが聞いた。

「そうよ!〈ジャックトレス・チョコレート〉にケータリングを頼んだの。普通のチョコレートもあるし、チョコチップクッキーをホットココアにのせても美味しいし、よりどりみどりよ」

「帰る頃にはみんな糖尿病になっちゃうね」

「そうなってほしいわ!そういうのが良いパーティーの証なのよ。ミセス・バジルがいつも言ってるわ。『参加した人たちが次の日具合が悪くなって寝込んじゃうくらいじゃないと、最高のパーティーとは言えない』って」

ダッシュは微笑んだ。それから眉をひそめて言った。「でも、これだけ準備するとなると、相当お金がかかったよね」

「ケータリング代だけよ。あとはパフォーマンスを頼んだから、その出演料ね。これくらいお安い御用よ」

自慢するのは好きじゃないけど、実は私は結構お金を貯め込んでいた。べつに安月給の教員をやっている両親からもらったわけではなくて、私が個人でやっている犬の散歩の仕事で貯めたお金よ。私の銀行口座には、小数点の前に5つも数字が並んでるの。(この前やっと桁が繰り上がったのよ!)そのお金は私の大学資金にするつもりだけど、クリスマスなんだから少しくらい使ってもいいでしょ。

「パフォーマンスって?」とダッシュが聞いた。

「すぐにわかるわ」と私は言って、彼にスケートシューズを手渡した。「さあ、これを履きましょ」

「正直に告白すると、実は僕、スケートが苦手なんだ」

「え、だってあなたは半分カナダ人でしょ!」

「僕がカナダ人の遺伝子から受け継いだものといえば、カナダ出身のロックバンド、アーケイド・ファイアをこよなく愛してることくらいかな」

私は自分のスケートシューズを履いてから、もたついているダッシュの靴ひもを締めてあげた。彼は立ち上がると、ふらふらしてよろけてしまった。私は彼の体を支えるようにして、二人寄り添ってリンクを目指した。「きっともうすぐ信じられない光景を目の当たりにするわ」と私は彼に予め言っておいた。

私は彼の手を握って、彼をリンクの上に導いた。彼は本当にスケートが下手だった。おっかなびっくりといった感じで、慎重すぎるほどゆっくりと、ぐらつきながら進んでいる。私は彼の手を軽く引くようにして、なんとかリンクの端までたどり着いた。そして彼の目に、そこからの眺めが映った。北の方角には、マンハッタンの高層ビル群が立ち並んでいた。その二大巨頭が、エンパイア・ステート・ビルディングとクライスラー・ビルディングだ。西の方には、ハドソン川と、(兄の新天地)ニュージャージーが見える。そして私たちの真下には、〈ハイライン〉が伸びていた。「素晴らしすぎる」とダッシュが言った。「高すぎて吐きそうだけど、吐いてもいいかなって思えるほど素晴らしいよ」

「メリークリスマス」と私は彼に言った。

私たちは見つめ合うと、キスをした。冷たい夜風が祝福するように顔をなでた。それから私たちはみんなの輪の中に加わって、スケートをした。そしてリンクを1周もしないうちに、パフォーマーが到着した。予定ではもっと遅い時間にパフォーマンスしてもらうつもりだったんだけど、天候が寒いを通り越して、凍えるような、もうすぐ雪か雨が降ってきそうな気配だったから、雪ならまだしも雨だと困るので、ダッシュが到着したらすぐに始めてほしいとエンターティナーのみなさんにメールしておいたのだ。

エドガー・ティボーがプロホッケー選手のような滑らかなスケーティングでリンクの中央に立った。私が彼をMCとして雇ったのよ。彼はパーティーの始まりを告げる花火に火をつけると、それを両手に持って、スピーチを始めた。「レディーたち、ジェントルメン、それから素敵な司書のみなさん、ようこそお越しくださいました。それでは、みんなで、スペシャルゲストを呼び込みましょう...ザ・ローケッツ!(The Rawkettes!)」

ザ・ローケッツはパンクロック・ダンスユニットで、私の大叔父さんにあたるカーミンおじさんの孫娘が中心となって始めたグループなの。彼女は本家本元のプロダンス集団、あのロケッツ(Rockette)のオーディションに何度も落ちた経験を活かして、彼女の才能に見合った形で、趣味として舞台活動をしていくことに決めたのよ。彼女のグループのダンサーたちは、元々SF好きの仲間でもあったから、ダンスユニットを結成してからしばらくは、『スタートレック』にちなんで、ザ・スポケッツというグループ名で、青い宇宙服をあしらったダンス衣装を着て練習に励んでいたんだけど、なかなか出演依頼が入らないということで、最近、新たな方向性に進むとかで、ザ・ローケッツに改名したの。このスケートパーティーが改名後の彼女たちにとって、最初のブッキングステージなのよ。もしかしたら、改名前も含めて初めてかもしれないけど。

「あれがケリー? いとこの?」とダッシュがステージの中央に立つ彼女を指差して聞いた。彼女が一団を率いるようにセンターで踊っている。みんなお揃いの『パンク』っぽいステージ衣装を着ていた。パンクといっても、シド・ヴィシャスというより、ジギー・スターダストっぽい感じで、1970年代に流行ったキラキラ光るスパンコールを散りばめた衣装を着て、顔にもゴールドのラメをたくさんつけている。私はミセス・バジルがこの場にいたら、すぐにでも伝えたかった。彼女の見立て通り、ダッシュにはあのリストを受け取る資格があるって!彼はあの集団の中から、カーミンおじさんの孫娘のケリーを見分けることができたし、ちゃんと「ケリー」って呼んだのよ。私たち家族の会話を聞いていて、ごっちゃになっていないの。つまり、「キャリー」は叔母さんで、「カーリー」はご近所さん、そしてケーリー・グラントは、カギかっこでくくる必要もなく、みなさんご存知、誰もが敬愛する映画俳優ね。

「そうよ!」と私は答えた。

エドガーが音楽のスイッチを入れ、合図を送ると、いとこのケリーと彼女が率いる一団が足並みを揃えて、自分たちでこの曲を解釈して振り付けたダンスを踊り始めた。流れ出した曲はダッシュの大好きな一曲、ザ・ディセンバリスツの『Calamity Song』だった。ディセンバー(12月)以外でもこのバンドの曲を聴くかといえば、私はそこまで好きじゃないけど、彼らの曲の歌詞って、意味を成していないところが好き。つまり、耳を風のように通り抜けていくところが大好き。Hetty Green / Queen of supply-side bonhomie bone-drab.

ダッシュが私を見て、「だよね!」と目で同意してくれた。私も彼を見て、「やっぱり、そうよね!」と目配せした。

私は自分で準備しておきながら自分で気づいて、はっと息をのんだ。ダッシュの大好きなもののオンパレードじゃない!〈ハイライン〉でしょ!司書さんたちでしょ!ホットチョコレートもあるし!それからザ・ディセンバリスツ!

その時、私が心配した通り、雨が降り始めた。シャーベット状のみぞれに近い雨だった。「さあ、今よ!」と私はケリーに向かって声を張り上げた。雨が本降りになる前に、ザ・ローケッツに急いで今夜のグランドフィナーレを挙行してもらいたかった。ダンサーたちがサンタのプレゼントが入っていそうなカバンをつかむと、それを持ってリンクを回り出した。その後に続いて司書さんたちもくねくねと滑り出した。私とダッシュも後に続き、ソフィアとブーマー、そしてエドガーもカバンを抱えて、みんなで中からキラキラ光るラメをリンクにまき散らしながら滑った。氷の上でクリスタルカラーが弾けるようにきらめく幻想的な光景に包まれて、その夜を締めくくりたかった。

しばしの間、そこは色とりどりのマジカルワールドと化した。まるでディズニーランドみたいだった。氷上がピンク、緑、紫、ゴールド、シルバーでまばゆく輝いていた。しかし、すぐに私は気づいてしまった。こんなにラメをまき散らしたら、どんどんけばけばしい空間になっちゃう。もっと透明に近い虹のように、柔らかいスノーフラワーのように、優しい世界になってほしい。

どうしてみんなが次々と崩れ落ちるように転んでるの? みぞれで滑ったのかしら? それともラメに足を取られたとか?

「このキラキラっていったい何なの?」と私はケリーに大声で聞いた。ケリーがスケートを滑らせ、ダッシュと私の間に割り込んできた。キラキラ、キラキラ、キラキラ、―どこもかしこも氷上でラメがまたたいていた。ザ・ローケッツのメンバーたちがフェアリーダスト(妖精の粉)をカバンからつかみ取っては、リンク上にまいている。

「手芸用品店で買ってきたのよ!」と彼女が答えた。「あなたが費用はかさんでもいいから豪華にしてって言うから、大量に買ったのよ」

私は氷の上のキラキラしたものを一握り拾い上げてみた。それはケリーが顔につけているような化粧品のラメではなかった。一つ一つが小石より小さな、細かいすりガラスの破片のようで、マーサ・スチュワートが手芸をする時に使っていそうな派手で高級感溢れる装飾品だった。フェアリーダストなんかじゃなかったのよ。何千、何万もの細かく鋭い、危険な兵器を氷上にまき散らしていたってことになる。それでドタバタとリンクの上で次から次へとスケーターが転倒するという事態に陥ったのだ。

ブーマーがもの凄い勢いで私たちのところへ滑り込んできた。「ヒャッホー」と叫びながら、彼は足元のキラキラにつまずいて激しく転倒してしまった。ダッシュが手を差し伸べて、ブーマーを抱きかかえようとしたとき、一人の司書がすぐ近くで転び、勢い余って彼女のスケート靴の刃がダッシュの顔面を直撃した。

「目が!」とダッシュが悲鳴を上げた。

「膝が!」と他の誰かが叫んだ。

「私の手首、折れたかも」と別の声も聞こえてきた。

目まぐるしい展開だった。ついさっきまでザ・ローケッツがパフォーマンスをしていて、その周りを司書さんたちが楽しそうに滑っていたかと思ったら、いつの間にか、緊急治療の現場と化していて、救急隊員がアイスリンクに運び入れた担架に負傷者を乗せている。スケート靴の刃で負傷した人が続出して、あちこちで切り傷から赤い血が流れていた。キラキラ光るリンクの上はカオス状態で、司書たちの大虐殺が行われたみたいだ。

ダッシュが担架に乗せられて運び出されていく。彼の負傷した目は血まみれのガーゼで覆われていた。彼の手にも切り傷ができていた。他のスケーターが彼の上にのしかかるように転んだ時に切ったのだ。私は彼に言った。「本当にごめんなさい、ダッシュ!すぐにあなたのお父さんに電話して、あなたが病院へ運ばれてるところだって知らせるわ」

「そんなことして、これ以上傷口にキラキラした塩を塗らないでくれよ、リリー」とダッシュが皮肉交じりに言った。

いとこのケリーが私に請求書を手渡してきた。「ちゃんと百ドル払ってちょうだいね」

史上最悪の気分だった。私のせいでこんなことになってしまった。図書館の司書さんたちを、―つまり、この世界で最も優しさに溢れている人たちをこんな目に遭わせてしまった。司書さんたちをねぎらうパーティーでもあったのに、彼女たちが次々と救急車に乗せられていく。そして、私はボーイフレンドに致命傷を負わせてしまったのだ。

この私が、クリスマスを愛していたはずのリリーが、クリスマスの息の根を止めてしまった。



11

ダッシュ

笛吹きを恐れるな


12月22日(月曜日)

クリスマス3日前の真夜中、病院の一室でうごめく生き物は...5、6人の司書たちだけだった。彼らは鎮痛剤が効いてくるのを待ちながら、痛みに悶えていた。

僕たちは「キラキラリンク殺人事件」の現場から、〈ニューヨーク長老派教会病院〉に一斉に運び込まれ、僕は彼らと同じ病室を分け合うことになった。司書たちの中に僕の知り合いは一人もいなかったけれど、彼らはみんな普段から一緒にいる仲間のようだった。―あのスケートイベントは、彼らが毎年クリスマス前にみんなでニューヨークの繁華街に繰り出して、羽を伸ばす恒例行事のおまけみたいなものだったのだ。そして病院に僕と一緒に幽閉されることになったわけだけど、本棚に囲まれた職務から完全に解放された、いわば〈オフ〉の司書たちと間近で接するのは、幻滅しそうでちょっと悩ましくもあり、でも目を見開いて注目してしまうほど興味深かった...とはいっても、片目しか開かなかったけれど。スケート靴の刃は僕の目に直接は当たらずに済んだんだけど、傷口が角膜のすぐ横まで来ているということで、医師の指示で完治するまでは片目に眼帯をしていることになった。眼帯を当てられる前に一度鏡で自分の目の具合を見たんだけど、なんだか眼球の中の血管一本一本がすべて破裂してしまったみたいに真っ赤になっていた。一年間まばたきするのを忘れてずっと起き続けていたら、こんな状態になるかもしれない。もしクリスマスの余興で演じるデーモン役を争うオーディションに僕が参加すれば、ぶっちぎりでデーモン役を勝ち取れるな、と鏡を見ながら思った。(眼帯をつけた状態なら、海賊役に抜てきされるだろう。)

僕の父から「今向かってる」とメールが来たんだけど、―それからもう2時間も経つから、いったいどの道を通って今向かってるのかと、その辺でナンパでもしている父の姿を思い浮かべてしまう。そうこうしている間にも、司書たちは、読み始めたらページをめくる手を止められない本みたいに、僕を惹きつけてやまない。

「『サンタは興奮を隠せない!』」と、ミシガン州カラマズー出身のケビンがメロディーをつけて言った。(彼は首を損傷したようでネックカラーを巻き、痛み止めのモルヒネを打たれていた。)「この歌にこんなに親近感が湧いたことは、今の今までなかったよ!」

「サンタはこの病室を模様替えして、クリスマスの飾り付けをするべきだな!」と、ロードアイランド州プロビデンス出身のジャックが付け加えた。(彼は肩を脱臼していた。)病院の味気ない内装に彼が憤るのも無理はないな、と彼の服装を見て思った。彼の感性に合わなかったのだろう。―彼はクランプス(悪魔)が前面に描かれた派手なセーターを着ていた。今まで見たことないほど緻密にクランプスが描かれている。それから、明るいネオンブルーのズボンを穿いていた。レギンスと呼んでもいいくらい足にピタッとしている。「部屋を飾り付けたら、サンタもウイスキーのダブルで乾杯したくなるだろう...」と言って、彼は〈マーク・ジェイコブス〉のブランドバッグに手を伸ばすと、その中から、魔法瓶、カクテルシェーカー、それからカクテルグラスを6つ取り出した。「じゃじゃーん!」

「俺の酒はトリプルにしてくれ!」とクリスが声を上げた。ニューヨーク出身の彼はジャックの連れのようだった。(彼はちょっとした打撲であざができた程度だったけれど、家に帰るより、ここで他のみんなとつるんでいたいらしい。)

「じゃあ、僕はダブルで」と僕は言ってみた。

室内がシンと静まり返って、司書たちが一斉に首を曲げて僕を見た。

「気の毒だけど、これを飲んだら君も司書の仲間入りだぞ。退屈な図書館業務が延々と続くんだ。毎日毎日、一般市民の皆さんのご要望にいちいちお応えするんだよ。ここ数年予算も削減されてるから、余計に大変だ」とクリスが親切に教えてくれた。「でも大丈夫だ。ダッシュ、君ならやれる!いつの日か、君は立派な司書になれるよ。俺たちは一目見れば、司書に向くタイプかどうかすぐにわかる。君は若いし、磨けば光る片目の原石だ!」

それから、みんなで僕のために乾杯してくれた。僕は怪我をしていて、もうすぐ父親と片目で対面しなければならないという状況だったけれど、僕の心は満たされていた。みんなに励まされて、ふわっと心が軽くなったような気がした。リリーの計画とはだいぶ成り行きが違ってしまったのだろうけど、きっとリリーはこういう気分を僕に味わってほしくて、今夜のイベントを用意してくれたのだろう。

僕は看護師が僕の横に残していった水の入った紙コップを上に掲げた。

「僕たちを結びつけてくれたキラキラに乾杯!」と僕は言った。「キラキラ光るものがすべてゴールドとは限らないけど、キラキラの方がゴールドよりも、ずっと楽しいことだってある。それを教えてくれたリリーにも乾杯。まあ、僕たちは重傷を負っちゃったわけだけど、彼女が頑張ってくれたおかげで、こうして絆が生まれたわけだし」

「リリーに!」と彼らも声を上げた。

ジャックが二杯目をグラスに注いでいるとき、僕の父親が病室に飛び込んできた。

「ここにいたのか!」と父は、まるで僕が彼に見つからないように、こそこそ隠れていたかのような口ぶりで言った。

「ずっとここにいたよ」と僕は返した。

彼の姿を一目見て、彼はパーティーの真っ最中に呼び出しの電話を受けたんだな、とわかった。(彼はスーツにネクタイといういで立ちで、彼がパーティーの時につける〈ボンベイ・サファイア〉のコロンの匂いを発散させていた。)そして、2時間以上経ってからのこのこやって来たということは、僕が病院に運ばれたという知らせは、彼にとって緊急を要する事態ではなかったのだろう。

「なんか、お祭り騒ぎの邪魔しちゃった?」と僕は聞いた。

「まあな」と父は答えた。 「フィラデルフィアにいたんだ」

それでこんなに時間がかかったのか、と僕は自分の誤りを認めた。一瞬、彼が必死の形相でタクシーに飛び乗り、息子が運び込まれた病院の名前を早口で運転手に告げている姿が頭をよぎった。心揺さぶる場面だ。

「行くぞ」と父がじれったい様子で言った。「リーザが車で待ってるんだ。早く荷物を持って」

やっぱり、そんなことだろうと思った。

僕が自分の荷物をまとめ始めると、父はもう部屋を出ようとドアに手をかけた。

「そんなに急がなくても」とジャックが言って、車輪付き担架の上に手に持っていたグラスを置いた。

「君は誰だ?」と父が聞いた。

「誰でもいいじゃないですか。それより、ちょっとだけ時間をもらって、説教じみたことを言わせてもらいますけど、何事にも標準的な順番ってあるじゃないですか。病院に担ぎ込まれた息子を迎えに来た親なら、開口一番『大丈夫か?』と言って、次に言い方を変えてまた大丈夫か聞いて、それからさらに息子の体を気遣う言葉をかけるのが筋なんじゃないですか?」

「彼の目の眼帯が見えない?」とクリスが割って入った。「ファッションでしてると思ったとか?

僕の父は短気で、何かをしろと言われるのを黙って聞いていることができない。父は母としょっちゅうこんなことを繰り返していた。父の防衛戦術は攻撃に打って出ることなのだ。

「お前は何様のつもりだ?」と父がふくれっ面で反撃した。

ケビンが父に向かって歩いて行き、飲み物を押し付けるように突き出した。勢い余って飲み物が父の洋服にピシャッと飛んだ。「私たちは図書館員なんですよ、お父さん。これだけは約束してください。そうしないと、この未来の図書館員を連れて行かせるわけにはいきません。いいですか、彼が家に戻ったら、ちゃんと彼の面倒を見ると私たちに約束してください」

首にネックカラーを巻いた図書館員と父が対峙して、にらみ合っているのはなんだか面白い光景だった。さらに面白いことに、他の図書館員たちも周りから父を非難するような目でにらみつけている。この部屋の中で悪者は父だけだと全員の意見が一致しているのがはっきりとわかった。僕はこれまでの人生でこういうことには慣れっこだったので、冷静になって本当に悪いのは父だけなのかと考えてみた。

「じゃあ、こうしましょう」と僕は病室にいるみんなに言った。「パパは先に待合室に行ってて、僕もすぐに行くから。そうだ、病院の人から予備の包帯をもらっておいてよ。毎日同じ包帯をしてるわけにもいかないでしょ、他で買うより病院でもらった方が安上がりだよ。それから、司書のみんなにも頼みがあって、メールアドレスを教えてくれないかな? みんなを招待したいパーティーがもう一つあるんだ。もしみんながクリスマスにまだこの街にいればだけど」

みんなが僕の頼みを聞いてくれて、僕の手帳の最後のページにさらさらとメールアドレスを書いてくれた。みんなが書き終わるまで待っている間に、リリーからメールが来た。

今どんな感じ? と彼女が聞いてきた。(僕たちはすでに、『本当にごめんなさい』『君のせいじゃないよ』的な長文メールを交わした後だった。)

今退院するところ、と僕は返信した。明日から遠近感のない世界が待ってるけど、覚悟はできてる。

困ったことがあったら何でも言って。とすぐに返ってきた。

そうするよ。と僕は返した。

しかし明日からの世界よりも、まず父親と過ごす今夜を切り抜ける方が大変そうだった。


僕が車に乗り込んだ時のリーザの第一声はこうだった。「あらまあ、かわいそうな坊や!」

心配してくれてるのはわかるけど、相変わらず残念な言葉のチョイス。

家に着くまでの間ずっと、彼女は僕の目のことで大騒ぎして、あれこれ心配の声を上げていた。アパートメントに到着する頃には、そんなやかましい彼女に父があからさまにいら立っていた。父のいら立ちが僕から彼女に向いたことで、僕はほっとして、解放感にほくそ笑んだ。

多くの点で、リーザは僕の期待にそぐわない継母だった。まず一つには、僕はもっと若い、僕の年齢に近い人が良かった。でもリーザは僕の実の母より1歳年上だった。―その事実は果てしなく僕の母を悩ませることになった。ユーザーが乗り換えた機種が新型なら納得いくことでも、それが自分と同じくらい年季の入った機種だったのだから、もやもやはつのるばかりなのだろう。(そんなたとえ話は子供に言うべきことじゃないのに、もやもやがつのりすぎたのか、僕が10歳の時、母は僕に話してしまった。継父が家にやって来る前の晩のことで、僕はげんなり暗い気持ちになったのを覚えている。)

さらに記憶をたどると、僕の性格がまだ定まっていない成長期に父親とリーザに連れられて多くのディナーパーティーに参加した。そのたびに父がもう新たに子供を作るつもりはないと触れ回っていたから、僕は子供ながらに、ほっと胸を撫で下ろした。僕の一人息子としての地位が守られたと思ったわけだ。しかし同時に、そもそも父は子供嫌いで、僕自身が望まれて生まれてきたわけではないのかもしれない、とも思えた。なぜなら、もし父が生まれてきた僕と至福の時間を過ごしていたら、もう一度それを経験したいと思うのではないか?(まあ、もっと複雑な感情の機微があるんだろうけど、僕は折に触れて、そういう思いに囚われていた。)

父親のアパートメントに入って、僕はまず自分の部屋に行ってみた。僕の部屋は、大体4分の1くらいが僕の寝るスペースで、残りの4分の3はヨガ道具だとか、ごちゃごちゃといろんなものが置かれている物置部屋だった。僕がここに来る時は、少なくとも50%の確率でリーザが僕の部屋を掃除してくれているんだけど、今回は不意打ちだったため、掃除はされていなかった。

「ごめんなさい」と彼女は言いながら、通常は僕の枕が置いてある場所からエクササイズボールをどかした。「あなたが望むなら、もっときれいなシーツをもってくるわ。あなたが最後にここに来た後に変えてはあるんだけど、―でも、あれからもう数ヶ月も経つわね」

ありがたいことに、彼女はそう言いながらも、僕があまりここに来なくなったことを非難するつもりはないようだった。だがそこに父親がやって来て、その事実を耳にしたことで、部屋の雰囲気が一変した。

「そうだぞ、俺が気づいていないとでも思ったか? ダシール。お前はここに寄り付かなくなったな」と彼がドアのところから言った。「この一年、来てもせいぜい数ヶ月に一度って感じだ、そうだろ? 俺の認識が間違ってなければ、お前がリリーと出会ってからだな。俺だって、10代のホルモン事情がどんなものかわかってるよ。だがな、家族は家族だろ。そろそろそういうことを自覚した方がいいぞ」

「まあ、まあ、いいじゃない」とリーザは言いながら、敷いてあった何枚かのヨガマットをくるくると巻いて両腕に抱え、クローゼットにしまった。「私たちはリリーが大好きよ」

「何度か会った印象だけでリリーが大好きっていうのもちょっとな」と父が返した。「思い出してみろ。―1年前、彼女はお前を刑務所行きにしただろ。そして今度はお前を病院送りだ。こんなことばかり続くと、リリーがお前にふさわしい子かどうか疑問に思わざるを得ない。この辺で彼女との交際を考え直した方がいい時期に来てるんじゃないか?」

「僕をからかってるの?」と僕は言った。

「そんなわけないだろ」

僕は片目で彼を見下すようににらみつけた。「父さんはリリーのこと何にも知らないくせに、っていうか、僕のことだって全然わかってないじゃないか。いっつも自信満々で言ってくるけど、父さんの意見なんて僕には、たわ言にしか聞こえないよ」

父の顔が真っ赤になった。「おい、ダシール、俺とやる気か?」

「そうじゃないよ」と僕は言って、首を振った。「もういいよ。これ以上何も言わないでほしい。父さんの判断なんか聞きたくないんだよ」

「俺はお前の父親だぞ!」

「そんなことわかってるよ!僕が何もわかってないみたいな扱いはもうやめてくれよ。それから、僕の話をしてたのに、いつの間にかリリーをけなしてるとか、そういうことはもうやめてほしい。ママは父さんと違って、リリーのことを悪く言ったりしない。どうしてこうも正反対なんだよ」

父が笑い声を上げた。「ああ、そういうことか。―お前の母親が入れ知恵したんだな。お前が言ったことは全部、あいつがお前に言ったことだろ」

「違うよ、父さん。僕が自分で考えたことだよ。何度も何度も繰り返し考えたんだ。僕だって、父さんは驚くだろうけど、自分でちゃんと僕なりの結論を導き出せるんだよ!」

「二人とも」とリーザが割って入ってきた。「ほら、今日はいろんなことが起こりすぎて大変だったでしょ。ダッシュはあんな目にあったんだから、もう休まないといけないわ。今夜のところはこの辺にしましょうよ、ね?」

「ごめんなさい」と僕は言った。「でも、もし父さんが僕にここにいてほしくないのなら、僕は今すぐママの家に帰るよ」

「だめよ、ダッシュ」とリーザが厳しい口調で言った。「あなたは今夜は一人でいちゃだめ。病院でどんな薬を打ってもらっていたとしても、そのうち薬が切れて目の傷が痛み出すわ。片目に包帯を巻いたまま寝るのだって、寝心地悪くてなかなか寝付けないわよ。今夜はあなたの世話ができる人のそばにいなくちゃだめ」

僕は黙って聞いていたけれど、一瞬、彼女の言い方が僕のママみたいだと思った。実際、ママがこの場にいたら、僕と同じことを思っただろう。

「リーザの言うことを聞きなさい」と父が言った。

「明日は学校ないんでしょ?」と彼女が続けた。「朝食にリリーを招待してよ。ジンジャーブレッドのパンケーキを作るわ」

「ジンジャーブレッドのパンケーキを注文するんだろ」と父が皮肉った。

「違うわ」とリーザが訂正した。「ちゃんと作るのよ。だって周りに食べてくれる人たちがいるんですもの。作り甲斐があるわ

「まったく、俺の出る幕ではないようだな」と父はむっとして言った。「じゃあな、また明日の朝に会おう、ダシール」

「彼はあなたを愛してるのよ」と、父がいなくなってからリーザが言った。

「それを僕に言うべき人はあなたじゃないでしょ」と僕は返した。

「そうね」

リーザが新しいシーツを取りに行っている間、僕はリリーにメッセージを送って、彼女を明日の朝食に招待した。もう遅い時間だったから、彼女がまだ起きているとは思わなかったんだけど、すぐに彼女から返信が来て、頭がビビッと興奮した。

「リリーもジンジャーブレッドのパンケーキを食べに来るってさ」と僕は、シーツを抱えて戻ってきたリーザに言いながら、シーツを受け取った。そして自分でベッドにシーツを敷いた。

「よかったわ!」と彼女は歓声を上げると、僕の部屋でヨガをしていることを償うみたいに聞いた。「あなたが寝る前に、他に何かしてほしいことある?」

なぜ僕の父と結婚したのか教えてほしい。と言いたかった。僕が間違ったことをした時は、父さんのせいにしないで、ちゃんと僕をしかってほしい。

「べつにないよ」と僕は彼女に言った。

それでも彼女はコップ一杯の水と、鎮痛薬の〈タイレノール〉を何錠か持ってきてベッドの脇に置いた。それから僕の頬におやすみのキスをして、一歩後ろへ下がってから、もう一度僕をじっと見つめてきた。

「眼帯姿もそんなに悪くないじゃない。私に言わせると、海賊というより賞金稼ぎのハンターって感じね。せっかくの機会だから、その眼帯をうまく利用しなさい」

僕は引き出しの奥に手を入れて、パジャマを引っ張り出した。

「それとダッシュ?」とリーザがドアに手をかけて言った。僕は振り向いて、彼女を見上げた。「あなたの判断は正しいわ。リリーを手放しちゃだめよ」

それから眠りにつくまで、長い、長い、幾分拷問のような時間を悶々と過ごした。父親との関係は切っても切れないとしても、どうしてリーザは血のつながっていない僕に優しくするのだろう? そんなことを考えていた。


12月23日(火曜日)

僕はリリーにジンジャーブレッドのパンケーキのことは伝えていなかったから、リリーも焼き立てほやほやのジンジャーブレッドのマフィンを持って来てしまった。それで僕が、たまたまリーザも作っちゃってさ、と言おうとしたところ、それよりも先に彼女が叫び声を上げた。「あなたの顔!」

「僕の顔が何?」と僕は聞いた。「これね、こうやって包帯を巻いてると中は見えないだろうけど、この下は凄い事になってるんだぞ。僕の目標は怪人になって、23歳までにオペラハウスに出没することなんだ」

「面白くないわ!」

「いや、面白いでしょ。こういう自虐ネタの場合、面白いかどうかを判断する決定権は僕にあると思うんだけど、違う?」

僕は身を乗り出して、彼女にキスしようとしたけれど、片目だけの視界ではうまく方向感覚がつかめず、唇の到達地点が少しずれてしまった。しかし彼女が唇をうまく動かして軌道を修正しながら、優しくいたわるように僕の唇を受け止めてくれた。

「これからの僕はアダム・ドライバーみたいになるかもしれないぞ」と僕は彼女を脅すような口調で言った。「面白半分でマスクをかぶってさ。っていうか、アダム・ドライバーって『スター・ウォーズ』のかっこいい悪役俳優だよ。って女子に言っても通じないよね」

「その俳優はわかるわ」とリリーが言うのを聞いて、ほらね!もう僕の怪我のことなんか全然考えてない!と僕は思った。

彼女がそのことに気づいて謝罪攻勢をかけてくる前に、僕は彼女をキッチンへ連れていった。そこではリーザが鉄板に向かっていて、父は『ウォール・ストリート・ジャーナル』に覆いかぶさるようにしていた。

「女子力が高い二人って考えることが似ちゃうのね!」と、リーザがリリーの持ってきたマフィンを見て、高らかに宣言した。

「最近のクリスマス料理といえば、なんでもかんでもジンジャーブレッドだな」と父が付け加えた。「誤解しないでくれよ。―パンプキンじゃなくて俺はむしろ嬉しいんだ。ただ、ジンジャーブレッドはもう独創的な発想とは言えなくなっちまったな。俺に言わせれば、それもこれも〈スターバックス〉のせいだ」

「わざわざ作ってきてくれて、どうもありがとね」とリーザは優しい口調で言いながら、マフィンを取り出すと、トレーの上に載せた。

数分後、出来立てのパンケーキも並べられた。リーザはパンケーキをジンジャーマンの形にしていた。(目の前に並んだ女子っぽいクッキーに僕はちょっと戸惑った。)その後にテーブルを覆ったのは、―僕の家族ではよくあることだけど、リリーの家族には全く馴染みのない―沈黙だった。時折、誰か一人がぽつりぽつりとパンケーキの美味しさを褒めた。父も「美味い」くらいは言ったけれど...それ以外の話題は誰からも出てこなかった。リリーは僕の目に巻かれた包帯をじっと見つめながら、食べている。リリーは恐ろしい空間に入り込んでしまったのかもしれない。父は食べながらも新聞を読むのをやめない。リーザは曖昧に微笑んでいる。リーザの耳元には見えない妖精がいて、何か面白いうわさ話でもささやいているのかもしれない。

リーザと父と僕で食事をする時はいつもこんな感じだなと思っていた。まだ両親が離婚する前、母と父と僕で食べていた時は、沈黙は休戦を意味した。でもここでは、沈黙は何も意味しない、ただの空虚だ。

僕たち二人はこんな風にならないようにしよう、と僕はリリーに言いたかった。

もしかしたら、それがリリーに伝わったのかもしれない。僕が彼女を見つめ返したら、彼女が瞳をぐるりと一周させたから、この雰囲気にあきれてるのかも。

僕も目をぐるっと回し返そうとして、この目でそれをやるのはまずい、と気づくのが一瞬遅れた。僕の網膜にアイスピックがグサッと突き刺さったかのような激痛が走った。

思わず僕は叫び声を上げたのだろう。リリーとリーザがすぐに「大丈夫?」と心配そうに聞いてきたということは、きっと僕は叫んだのだ。父はいら立ったように顔をしかめただけだったけれど。

「だ、大丈夫」と僕は彼らを安心させようとした。「今思い出したんだけど、―包帯を変えた方がいいかな」

「手伝うわ」と、リリーとリーザが同時に言った。

自分でできるよ、と僕は思った。

でもすぐに、やっぱりリリーにやってもらいたいな、と思い直した。

「ありがとう、リーザ」と僕は言った。「でも、そんなに大勢でやってもらわなくても大丈夫。リリーに手伝ってもらうよ」

僕たちは僕の部屋に行き、そこで僕は自分のリュックサックからガーゼとテープを取り出した。それから僕たちは洗面所に行った。僕自身はもう鏡で自分の目を見たくもなかったけれど、手近に鏡があった方が何かと便利だろうと思ったのだ。僕は自分で眼帯を外すと、医師が巻いた包帯をほどいていった。そこでリリーが僕を制して、言った。「ここに座って。私がやってあげるから」

僕は目を閉じた。彼女ができる限り慎重に僕の皮膚からテープをはがすのを肌で感じた。僕の目を覆っていたガーゼがゆるみ、どんどんゆるんでいって、そしてついに落下したのがわかった。リリーがはっと息を吞んだ。傷口や縫い合わせた跡が露わになったのだろう。―それでも彼女は何も言わずに作業を続けた。僕たちはここでも黙りこくっていた。そう、この沈黙の意味は、集中だ。彼女は手元に意識を集中する必要があったのだ。ただ、集中力を必要としたのは、彼女だけではなかった。僕はまるでバラバラになった僕の部品を、彼女が一つ一つ組み立て直してくれているような錯覚に囚われてしまった。僕の頭の側面に彼女の指が触れている間、僕はその感触に意識を集中せざるを得なかった。僕は彼女の呼吸を感じ、彼女の体の一番深いところから伝わってくる鼓動に、寄り添うように意識の波を合わせていた。彼女が新しいガーゼを僕の目にそっとかぶせた。そのままそれを押さえながら、包帯を優しく巻いていって、眼帯をはめる。僕の背中がポンと叩かれた。―ほら、終わったわよ。

僕は目を開けた。

「ちゃんと出来てるといいんだけど」とリリーが言った。

「僕が自分でやってたら、反対の目に包帯を巻いてたよ」

「よく見たらね...キラキラした破片がまだ残ってたわ。顔の側面の皮膚にめり込んでる感じ。取り除いた方がいいのか、放っておいた方がいいのか私には判断がつかないから、今度お医者さんに診てもらって」

「最先端のキラキラファッションってことで、僕の街の評判が上がるよ」と言って、僕は彼女を安心させようとした。「すでに流しのバラード歌手たちが、あちこちで僕のことを吹聴してくれてるよ。〈キラキラ・パイレーツ〉として名高い少年の、巧みな剣さばきの伝説をね」

「本当にご...」

「その言葉は言わないで!アンドリュー・カーネギーのせいじゃないのと同じくらい、君のせいでもないから。そもそもアンドリュー・カーネギーが潤沢な資金をばらまいて、あちこちに図書館を建てなければ、100年後のスケートリンクにあんなに大勢の図書館員が集まることもなかったし、彼らが不用意にキラキラをリンク上にばらまくこともなかったんだ。それはともかく、病院に運ばれるまでは、君が用意してくれたあの空間は、とても居心地が良かったよ。ザ・ローケッツのパフォーマンスには度肝を抜かれたね。―圧巻だった。抜かれた度肝を取り戻すのにひと苦労したくらいだよ」

そこで、リーザの甲高い声が聞こえてきた。「あなたたち、大丈夫? バスルームにいるの?」

父が昨夜、リリーの悪影響について言っていたことを思い出し、それを逆手に取って、「今シャンパン風呂に入っていて、リリーにスポンジで体を洗ってもらってるんだ」と叫びたかったけれど、そのジョークの意味を、リリーの気持ちを傷つけずに説明できる自信がなかったので、代わりに「全部順調だよ!」と叫んだ。それから僕はリリーの耳元でささやいた。「なるべく早く、人間に可能な最大限のスピードで、このアパートメントから出よう。っていうか人間のくくりも取っ払って、チーターやガゼルの素早さで出よう」

「本気で言ってるの?」と、リリーが僕の片目をのぞき込むようにして言った。

「なんで本気じゃないと思うの?」

「わからないけど、彼らはあなたにパンケーキを焼いてくれたし」

「彼らじゃなくて、僕にパンケーキを焼いてくれたのは彼女だよ。父さんがあんなに世間知らずだから、彼女は僕に責任を感じて、父さんの埋め合わせをするつもりでパンケーキを焼いてくれたんだ」

こういう場合、あなたのお父さんはそこまで世間知らずじゃないわ、とか否定するのも自然な受け答えに思えるけど、僕の父親は「こういう場合」には含まれなかったようだ。

「街が僕たちを手ぐすね引いて待ってるよ!」と僕は、黙っているリリーに言った。

「それじゃあ」と、彼女は僕のリュックサックに医療用具を戻しながら言った。「街を待たせておくのは悪いわね」

僕たちはキッチンへ行って、リーザにパンケーキのお礼を二人で各々十回ずつくらい伝えた。それに対して、リーザも「ほんとにもう食べないの?」と十回くらい聞き返してきた。

「もう行くのか?」と、新聞を読み終えたばかりの父が顔を上げて言った。

「クリスマスの買い物をするのに、あと2日しかないからね!」と、僕は意気揚々と言ってみたけれど、僕自身の耳にもなんだか白々しく響いた。

「そうか、それでクリスマスはどうするつもりだ? ここに来て俺たちと過ごすのか?」

「それはない」と言いそうになったけれど、リーザとリリーの手前、あからさまに否定するのは気が引けて、なんとか踏みとどまった。

「残念だけど、他に予定があるんだよ」と、僕はキッチンを出ようとしながら言った。

どんな予定だ?」と父がいぶかしげに聞いてきた。

ミセス・バジルのパーティーについて父に話したくはなかった。というのも、僕の父がリリーを招待することはないだろうというミセス・バジルの見立てで、僕は彼女のパーティーに招待されたのだ。その二人をかち合わせるのはまずい気がした。

「リリーと過ごすんだよ」と僕は答えた。なるようになれ。

「素敵!」とリーザが言った。

父が僕をにらみつけるように見てきた。リリーは家族じゃないぞ、と言いたげだ。

僕は父をにらみ返した。彼女は僕にとって、父さん以上に家族だよ、と目で訴えかけた。

キッチンを出る間際、僕はリーザの頬にキスをした。彼女は驚いた表情を見せた。―そういえば、リーザと僕は別れ際にそういうことをする間柄ではなかった。

「クリスマスが終わったらまた来るよ」と僕はリーザに言った。「約束する」

「私たちはいつでもここで待ってるわ!」と彼女が答えた。

父は椅子から立ち上がろうとしなかった。

「バイバイ、パパ」と僕は言った。

「バイ!」とリリーが同調した。

二人で外に出ると、僕はほっとひと安心して、午前中の空に向かって両腕を伸ばした。


「それで」とリリーが言った。少し歩いて大通りに出たところだった。「どこに行く? 私は3時に犬の散歩があるんだけど、それまでは、どこまででもあなたについて行くわ」

「じゃあ」と僕は言って、腕時計を確認した。「〈ソルティー・ピンプ〉でアイスクリームでも、と思ったけど、まだ10時前だからもう少ししないと開かないかな」

「そうね。アイスは後にしましょ。さっきコーヒーを飲んだばかりだけど、もっとカフェインを摂取するっていうのはどう?」

僕は首を横に振った。「これ以上コーヒー系を飲んだら、カフェインが僕の頭の中で暴れ出しちゃう」

「そうすると...」

「それじゃあ...」

これはニューヨークの面白いところでもあるんだけど、―ニューヨークっていう街は一日中歩き回ってもやることに事欠かないほど、たくさんのものが溢れていて、だからなのか、時々急に、いったい何をしたらいいのかわからなくなる瞬間に襲われるのだ。そういう時って自分でも可笑しいくらいもどかしいんだけど、この街のどこかに自分のやるべき何かがあることはわかっていながら、それが何なのかがわからないんだよね。

「何も計画を立ててないの」とリリーが申し訳なさそうに言った。「昨夜あんなことがあった後だから、もう計画を立てたりとかしない方がいいかなって思って」

「僕もノープランだけど、計画がないくらいで、世をはかなむほど絶望することはないよ」

「ラングストンとベニーの荷造りを手伝いに行くっていうのはどう?」

「それはちょっと、僕たち二人で行ったら色々とややこしくなりそうだし」

「それもそうね」

「やっぱり〈ソルティー・ピンプ〉に今から向かって、店が開いた瞬間にアイスクリームにありつくっていうのがいいかも」

「開店時間が10時だったかどうかもあやしいわ」

この街全体が僕たち二人の手の中にあって、何でも自由にできるはずなのに...

「聞こえる?」とリリーが聞いてきた。彼女が何のことを言っているのかすぐにはわからなかった。というのも僕は自分の思考に意識を集中していたからで、彼女の言葉に導かれるように意識を外の世界へ向けてみた。―すると僕にも聞こえてきた。

「バグパイプかな?」と僕は聞いた。

「そうね、この音はバグパイプだと思うわ」とリリーが答えた。

それから、一人のバグパイプを抱えた笛吹きが角から現れて、その説が証明された。その後に続くように、また一人、また一人と、続々とバグパイプ奏者が角を曲がってこちらに歩いてきた。ざっと数えてみると、11人ほどのバグパイプを奏でる音楽隊で、ジョニ・ミッチェルの『River』を演奏している。彼らの後ろには、歩行者たちが後を追うように歩いていた。歩行者たちは隊列を組んで行進するわけでもなく、彼らの演奏に導かれるように自然と集まった感じで、この音楽隊がどこへ向かっているのか見届けようとしているようだ。

時々は自分で計画を立てて、たまにはこうして偶然性に身を任せていると、計画の方が勝手に向こうからやって来ることもある。

特にニューヨークっていう街ではね。

「僕たちもついて行こうか?」と僕は、手を差し出して言った。手をつなぐとロマンチックなムードを演出できるのではないかと思ったし、それに、僕は視力が弱いので、あのどんどん膨れ上がっていく群衆に紛れ込んで、一人でちゃんと歩けるか不安だったから。

「そうしましょ」と彼女が答えた。手を握られた瞬間、僕たちの周りが、ふわっとロマンチックな世界へと様変わりした。ただ、手をつないだ彼女の意図としては、彼女も僕の視力が弱いことを知っているので、あのどんどん膨れ上がっていく群衆に紛れ込んだら、僕が一人でちゃんと歩けるか心配だったのかもしれない。

手をつなぎながら、僕たちは2番街を南へ下って行った。周りの人たちの会話が耳に入ってきて、どうやら誰も、このバグパイプ奏者たちが何者で、どこへ向かっているのか知らないらしいとわかった。憶測や仮説の類は、次々と耳に飛び込んできたけれど。

「消防団のバグパイプ隊だろうな」と、ある年配の紳士が言った。

「ニューヨーク市消防局がジョニ・ミッチェルを演奏するかしら?」と、彼の奥さんらしき女性が答えた。「彼女はカナダ人歌手でしょ」

しばらくの間、僕たちのすぐ前を、小洒落た服装をした男が二人並んで歩いていた。二人ともひげを生やしていて、少し興奮気味に話している。

「『トキメキを探せ!』的なイベントじゃないか?」と、カーディガンを着た痩せすぎの男が言った。

「『トキメキを探せ!』だったら、こんな昼間からやってないだろ」と、ピー・コートを着た乱れたヘアースタイルの男が返した。

「だからこその『トキメキを探せ!』なんだよ!昼間にあえてやることで、日光で見つけにくくして、俺らをけむに巻こうって魂胆だ!」と痩せた男が反論した。

僕には彼らが何のことを言っているのかわからなかったけれど、はっきりと僕にもわかったことは、バグパイプ隊の奏でる曲が、『Fairytale of New York(ニューヨークのおとぎ話)』に移り変わったことだった。―この曲は僕の知る限り、クリスマスソング史上、最高の曲だと思う。

「私たちってどこへ向かっていると思う?」とリリーが聞いてきた。

それが実存哲学的な質問ではないことはわかっていたけれど、僕はそういう意図も含まれているんだと思い込んだ。きっと僕は父親から逃れたくて、父親が僕の心に投げかけた不吉な気分から解放されたくて、リリーの質問をそう認識したのかもしれない。あるいは、リリーと僕が再び安息の地にたどり着けるかどうか、そういう問いかけにも思えた。もしくは、僕たちは盲目的に11人のバグパイプ隊の後について歩いているけれど、『ハーメルンの笛吹き男』みたいに、このままみんなで失踪してしまうのではないか、という恐れも想起された。11人のうちの目に入った1人が良い笛吹きに見えるからといって、あやしい笛吹きが紛れ込んでいないとも限らないのだから、警戒は常に必要だ。

ミッドタウンを歩いている間に、ますます多くの人々が僕たちに加わっていった。一瞬、嫌な予感がよぎった。ひょっとしてタイムズスクエアに向かっているのではないかと思ったのだ。この時期のタイムズスクエアは、文字通り観光客でごった返しているに違いない。そんなところには行きたくないと思っていると、僕たちの行列はタイムズスクエアを迂回するように通り過ぎてくれて、ほっとした。バグパイプ隊が演奏する曲に乗って、めくるめくように想像が溢れ、どこへ向かっているのだろうという思いが募っていった。

トンプキンス・スクエア公園にたどり着いた頃には、僕たちは少なくとも200人の行列を成していた。公園の中央広場でバグパイプ隊が立ち止まり、音楽がやんだ。先ほどの小洒落た二人組が辺りを見回しながら、他の音楽隊も現れるのではないかと話し合っている。しかし、このバグパイプ隊だけのワンマンショーが繰り広げられるようで、彼らはバグパイプを抱え直すと、次の曲を演奏する構えだ。

まだ正午にもなっていなかったけれど、彼らは『Silent Night(きよしこの夜)』の冒頭の旋律を厳かに吹き始めた。夜の闇に包まれているわけでもないのに、僕たちは全員、黙り込んで聴き入った。彼らが奏でる調べは僕らの心の奥深くまで、じんわりと沁み入るようだった。その曲は穏やかながらも、心をしんみりとさせる悲しみも漂っていて、歌い手はいなかったけれど、僕らはみんな頭の中で歌詞を思い浮かべ、各々に歌っていた。

All is calm, all is bright.(すべてが穏やかで、何もかもが輝いている。)

僕はクリスマスキャロルを聴いたり歌ったりする方ではないんだけど、クリスマスキャロルが流れるだけでこんなにも素敵な空間になるのなら、もう少し聖歌というものを重視してもいいかなと思った。聴いている僕たちは少しずつ不思議な感覚に包まれていった。じわっと感謝の念が心の内側から湧いてくるようでもあった。たとえその年が大変な一年だったとしても、毎年この時期に祝福する理由は必ずあるのだ。そんなことを思っていた。リリーも同じような気持ちでいてほしいと願っていた。

次の曲はクリスマスソングではなく、ヴァン・モリソンの『Into the Mystic(神秘の中へ)』が流れ出した。聴衆の中にはメロディーに合わせて歌い始めた人もいた。リリーのぽかんとした面持ちから、彼女の知らない曲だとわかったので、彼女の耳元で僕なりの低いキーで、そのセレナーデを歌ってあげた。「僕らは風が吹く前に生まれ、太陽よりもずっと若い。霧の中から汽笛が聞こえてきたら、あの船に乗って故郷に帰ろう。君にもさすらいのジプシー魂があるだろう」そう歌い聞かせながら、僕はリリーの琴線に触れたかった。彼女の心を揺さぶりたかった。

霧の中から段々と光が差し込むように、彼女の表情がほころび、笑顔に変わった。彼女の心の深いところからジプシー魂を引き出せたようだ。

その曲が終わる頃には、彼女も一緒になって歌っていた。次の曲はリリーも知っていたようで、サム・クックの『A Change is Gonna Come(もうすぐ変化が訪れる)』の熱を帯びた演奏が始まると、彼女はことさら声を大にして歌った。バグパイプの音色に導かれるように、次から次へと中央広場に人が集まってきて、即席の奇妙なコーラス隊が出来上がっていた。僕たちはみんなで声を一つにして歌っていた。これは僕にとって、70%オフのセールよりも心躍るプレゼントだった。ハリウッドでこしらえた虚像よりも胸を打ったし、父親が金額を書いてくれる小切手よりも嬉しかったし、テレビに映し出されるどんなコマーシャルよりも心に響いた。

僕はリリーの肩に僕の腕を回し、彼女は僕の腰に彼女の腕を回した。そして僕たちは、いわば一心同体となって、その歌を最後まで歌い切った。それから腕を大きく広げて、周りの人たちと一緒に大きな拍手を送った。11人のバグパイプ隊は僕たちに向かって一度お辞儀をしてから、蜃気楼のように光の中へと消えていった。

「こうしてみんなで歌えて、すごく幸せな気分だわ」とリリーが言った。

「そうだね、僕も同じ気分だよ」

「もうソルティー・ピンプが開いてる時間じゃないかしら?」とリリーがうながしてくれた。

僕は大喜びでうなずいた。それから僕たちはゲイの二人が始めたというアイス屋に向かった。そして、ソルティー・ピンプのバニラ(ドゥルセ・デ・レチェという液体キャラメルと、チョコレートディップのかかった、海の塩味アイス)と、アメリカン・グロブのバニラ(プレッツェルが載っていて、チョコレートディップのかかった、海の塩味アイス)を食べた。アイス屋を出た僕たちはマーサーストリートへ向かい、〈Think Coffee〉に入った。その店のピンク色の髪をしたバリスタは心が広い人で、12月の末だというのにバニラアイスが載ったソイラテを注文した僕に対して、驚くそぶりも見せずに笑顔で給仕してくれた。それでもまだ時間があったので、8番街に立ち寄って、ラングストンとベニーにクリスマスプレゼント兼引っ越し祝いを買うことにした。ビヨンセの体型に似た形のランプをリリーが選んだ。

(「なんでランプ?」と僕はリリーに聞いた。

「ニュージャージーって、あんまり電気が通ってなさそうだから」と彼女が答えた。ちょっと嫌味なギフトだなと思ったけれど、リリーがマライア・キャリーっぽいランプを選ばなかっただけ、まだましだと思うことにした。)

買い物を終えた頃には、僕の目が痛み出していた。リリーが犬の散歩に行く時間も迫っていたので、僕たちはそこで別れることにした。―別れるといっても、一時的にね。僕は母親のアパートメントに帰って、体を休めた。それから夜になって、リリーがピザを持ってやって来て、一緒にクリスマス映画を何本か見た。僕が『ラブ・アクチュアリー』を見るのは初めてだと言うと、彼女はショックを受けていた。実際に見てみたら、思っていたほど悪い映画ではなかったことに、僕はショックを受けた。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』を見て、これはクリスマス映画なのかハロウィーン映画なのか、という問題で僕たちはもめたけれど、何はともあれ、二人で楽しいひと時を過ごした。

映画が終わっても、僕たちは横たわったまま、数分間ぼんやりとテレビ画面を見つめていた。エンドロールが流れ、音が消え、画面が青くなる。

「こういう感じが好き」と僕は言った。「こういう風に二人とも自然体でいられるっていいよね。眼帯をしていなくても、きっと同じ気持ちだと思うよ」

リリーが僕の唇にキスをし、僕の眼帯にもキスをした。それから眼帯をしていない方のまぶたにも、彼女はそっと口づけた。

「私、そろそろ帰らなくちゃ。まだクリスマスプレゼントの包装が終わってないの」と言って、彼女は手を伸ばすと、バッグの中から赤いモレスキンのノートを取り出した。

「明日の指示が書いてあるから、明日まで開けちゃだめよ」と彼女が僕に告げた。

明日の朝まで絶対に開けないと僕は約束した。

彼女がアパートメントからいなくなると、すぐに寂しい気持ちに襲われた。でも大丈夫。僕たちの間に愛がある限り、彼女はちゃんと僕の隣に戻ってくる。愛ってそういうものだと思ってみると、不思議と安心感に包まれた。



12

リリー

タン タタンという軽快なリズムに乗ってやっかいなやつらがやって来る


12月24日(水曜日)

街中が一年で一番活気に溢れる日、ストランド書店も慌ただしくクリスマスの贈り物を探す人たちで賑わっているはずで、そんな中にボーイフレンドを一人置き去りにするなんて、私の計画にはなかったことだし、私がモレスキンに書いた今年の冒険ツアーには、それぞれの目的地で彼を立ち往生させる意図なんてなかったの。

「キラキラリンク殺人事件」の夜、すべてのごたごたが終わった後で、私は夜中に犬の散歩に出かけた。クリスマス休暇で家を空けている飼い主が多く、勤務予定表が立て込んでいたっていうのもあって、(ダッシュが流血するほどの重傷を負っているのはわかっていたんだけど、本当にごめんなさい!って気持ちで、)私は病院を後にした。それに、みんな怪我をしていたとはいえ、優しい図書館員たちと一緒だったから大丈夫かなって思ったの。だって彼らはあんなに上手に本を扱うことができるんですもの。私がそばにいなくても、きっと彼らがダッシュを上手に扱ってくれるって思ったから。

「行って」とダッシュも、犬の散歩に行かなくちゃと言う私をうながしてくれた。目の傷が糸で縫われ、ダッシュの状態もだいぶ落ち着いた後だった。「そうしてくれると僕も安心するよ。君が散歩を待ってる犬のことを心配してるんじゃないかって、僕も心配する必要がなくなるからね」

それから私は夜遅くまで犬の散歩をして、その日の予定をすべて終わらせた。家に帰った時には、私はぐったり疲れ果ててしまった。それでも私は眠れずに、この状況を好転させる名案はないかと考え続けた。もちろん罪の意識も感じていたし、ダッシュを盛大に喜ばせようと思って立てた大掛かりな計画について後悔もしたけれど、―でも、もうすぐクリスマスだと思うと、前を向いた方がいい気がしたの。私は素敵なクリスマスイブになるような、一日の行動計画を細かく考えて、それを赤いモレスキンのノートに書き込んだ。

ダッシュの愛らしい顔に重傷を負わせてしまったことに対して、謝罪の沼に溺れるように、どんどん深みにはまり込んでいくよりは、それを記念日に変えちゃうくらいの逆転の発想が必要だと、私は明け方まで考え続け、イブの一日が彼にとって、人生で最高の「海賊の日」になるようなプランを練ったんだけど、またしてもうまくいかなかった。

ごめんなさい。


午前10時。


ヨーホーホー 我らは海賊だ

パークスロープを抜けて行こう

スーパーヒーローショップで会おう

どんな軍艦でも撃沈してやろう


私たちが最初に立ち寄ることになるのは、スーパーヒーローグッズの専門店だった。その店の奥には秘密のドアがあって、その向こうでは放課後の危険な香り漂う学習指導が行われていて、ボランティアのチューターが子供たちに勉強を教えているという。私のスマホのロック画面はサンタの格好をしたダッシュの写真で、それも大好きな写真なんだけど、せっかくだからダッシュに海賊の衣装を着てもらって、その写真を待ち受け画像にしたくなっちゃったから、その店で待ち合わせすることにしたの。海賊だからってお店から強奪するわけじゃなくて、ちゃんとお金を払って海賊の衣装を一式揃えるわ。海賊の眼帯を彼の片目にかぶせて、大きな三角帽子を彼の頭に載せて、それから勇敢な剣士が着るみたいな白いフリルのシャツを着させて、その上に海賊船の船長っぽいガレオンコートを羽織わせるの。そうやってダッシュの全身を海賊風にコーディネートしながら、スーパーヒーローショップの店長に放課後の学習指導について尋ねることもできるでしょ。文学青年のダッシュがチューターのボランティアに申し込んで、ここで読み書きを教えたら、将来の図書館員の仕事のためにも良い経験になると思うし、キラキラ大虐殺みたいに誰かを傷つけるより、誰かの役に立った方がずっとましかなって。

モレスキンには、クリスマスイブの午前11時30分にスーパーヒーローショップで会いましょうと書いた。私はダッシュとの冒険に出航する前に、ボリスの世話をしなければならなかった。昨夜はボリスも一緒にミセス・バジルの家に連れて来て、おじいちゃんとも再会させて、そのままボリスもミセス・バジルの家に泊まったから、朝の散歩は近場で済ませるつもりだった。ミセス・バジルのタウンハウスの目と鼻の先にはグラマシー・パークがあるから、公園の中には入らずに、公園の周りを急ぎ足で回ろうと思っていた。そうすれば、ボリスは鼻をクンクンさせながら用を足せるし、私は散歩しながら、明日開けることになるたくさんのプレゼントについて考えたり、今日海賊になるボーイフレンドから奪う予定の、たくさんのキスを思い浮かべられる、はずだった。

私はボリスのリードをつかんで、ミセス・バジルのタウンハウスの玄関を開けた。すぐ目の前のグラマシー・パークをぐるりと一周しようと思いながら玄関を出たところで、公園の入り口付近から聖歌隊の歌声が聞こえてきた。玄関を開けたまま、そちらに目を向けてみると、中年の白人男性たちがビートボックスを織り交ぜながら、ヒップホップ風のリズムに乗せて、『リトル・ドラマー・ボーイ』を歌っていた。彼らの周りには多くの聴衆が集まっていて、拍手を送ったり、ビートに乗って腰を揺らしたりしている。そこで私はその四人組の合唱団を知っていると気づき、裏庭のテラスでまだ朝食を食べているおじいちゃんにこの歌声が聞こえなければいいな、と祈るように思った。

おじいちゃんはこの歌が嫌いなわけではなくて、このグループが大嫌いなのよ。

彼らは昨年イースト・ヴィレッジやロウアー・イースト・サイド辺りに出没したやっかいな一座だった。自分たちを〈カナージー孤児院カルテット〉と名乗るア・カペラ合唱団で、元々はそれぞれウォール街で人を騙してお金を稼いでいた詐欺師だったらしく、刑務所で服役中に出会った四人組だという。そして彼らは出所すると、サウス・ブルックリンに移り住み、ごろつきみたいな生活を再開させたんだけど、今は投資家を言葉巧みに騙すのではなく、観光客相手にパフォーマンスしながら、歌っていないメンバーが観光客の財布とか、スマホとか、買い物袋とか、その他貴重品を手当たり次第に盗んでいるのだ。

私が玄関をすぐに閉めなかったから、その歌声が家の奥まで聞こえてしまった。「ノー!」と、 おじいちゃんが叫ぶ声が廊下を伝って私の背中に届いた。彼は心臓を患っているにもかかわらず、全力を振り絞って杖と足を交互に動かし、怒涛の勢いで外に飛び出してきた。そして彼は玄関前の踏み段の上から、杖を合唱団に向かって振り回した。「このくずども!またやってるのか!警察だ!警察を呼べ!」

おじいちゃんがあまりに急に飛び出してきたので、5段ほどの踏み段の途中にいたボリスが驚いて、前の通りに向かって駆け出した。手に持っていたリースが引っ張られ、私もボリスに引きずられるように踏み段を転がり落ちた。「リリー!」と、地面に転げ落ちた私を見て、おじいちゃんが叫んだ。私は全然平気で、ちょっとしたあざが足とか腕にできた程度だったんだけど、おじいちゃんが私を助け上げようとして、階段を踏み外してしまった。

おじいちゃんが降ってきて、激しく地面に打ちつけられた。

すぐにミセス・バジルが911番に電話して、私はダッシュに電話した。


午前11時30分。

ダッシュに電話をかけると、ボイスメッセージにつながった。その時、彼はFラインの地下鉄に乗っていて、ブルックリンの地下で立ち往生していた。(Fラインは地元では「最悪な列車」として知られていて、乗れば必ず「最悪!」と口から漏れるほど、いっつも遅れるのよ。)その地下鉄がようやく地上に出たところで、私のメッセージを聞いた彼からメールが来た。私は彼に「モレスキンに書いた次の目的地で会いましょう」と伝えた。そうすれば、私はそれまで病院でおじいちゃんに付き添っていられるし、おじいちゃんもそれまでには退院できるかもしれないから。

私は怖くて現実を直視できず、どうしたらいいのかわからなかったの。

おじいちゃんが救急治療室で治療を受けた後、私はダッシュにメールで今の状況を知らせた。おじいちゃんは顔に包帯を巻かれてるけど、きっと大丈夫よ。次の目的地では会えるわ!ほんとにごめんなさい!

海賊になって毒舌さが増したダッシュから返信が来た。あー!サンタは包帯を巻かれて興奮を隠せたってこと? サンタっていうかおじいちゃんか。

私は笑った。笑うことで張り詰めていた顔の筋肉がゆるみ、顎までほぐれていくようで気持ち良かった。

おじいちゃんの顔はすっかり隠れてるわ。頬にいくつか青あざができてて、頭にこぶができてるのよ。と私はメッセージを打ち返した。でも彼はもうお腹が空いたって昼食を要求してるから、すっかり元気よ。ちゃんと胃の感覚はあるってことだからね!

すぐにダッシュから返信が来た。僕のことは気にしないで一緒にいてあげて。僕は今ブルックリンの〈パークスロープ〉にいて、スーパーヒーローショップに入ったところだけど、ませガキたちが僕の顔を見て目を丸くして怖がるから、僕は楽しい午前のひと時を過ごせてるよ。

子供たちに眼帯を見せつけてるの?

いや、眼帯を外して、子供たちの反応を見て楽しんでる。ちょっと間があって次のメッセージが来た。今お店から出るように注意されちゃったから、先に次の目的地に向かってるよ!


午後3時。


リッパーシティ号に乗って宝を探そう

海賊の宝が隠されたバーを襲撃しよう

マンハッタン島を一周しながらね

船上から愛してるって大声で叫ぼう

ヤッホー、大好きー!


私はすっかり時間の感覚を失って、どれくらい時間が経ったのかわからなかった。それに携帯の電波もむらがあって困った。どうして病院とか、地下鉄とか、映画館とか、一番電波が必要な場所に限って電波状況が悪いの?

たくさんの医師が病室に入って来ては出て行った。

両親が到着した。

サルおじさんとカーミンおじさん、二人の大伯父さんも到着した。

ベニーとラングストン、それから、いとこのマークもやって来た。

おじいちゃんの病室はこれからパーティーでも開かれるような混雑ぶりだった。実際、親戚たちは持参したプレゼントを包装紙で包み始めた。暇を持て余してというよりは、クリスマスが明日に迫っていて、一刻の猶予も許されない状況なんでしょう。

おじいちゃんの病室は個室だった。医師たちはおじいちゃんを数時間監視下に置いて、慎重に容態を見極めたいようだった。

誰も「なぜ?」とは聞かなかった。

私は海賊ツアー2番目の目的地である遊覧船に乗るためのチケットを、モレスキンに挟んでクリップで留めてダッシュに渡した。詩的な指示と一緒に。

なのに、私は出航の時間までにダッシュに会いに行くのを忘れちゃったの。

いいんだよ!とダッシュからメッセージが届いた。一人で船に乗ってハドソン川を眺めながら風に吹かれていると、傷ついた角膜が癒されるよ。

ごめんなさい。

謝らなくていいよ。今船内の海賊バーにいて、バーテンダーの仕事をやってみないかって誘われたところだよ。

海賊の眼帯をしてるから?

いや、しらふなのは僕だけだから。


午後6時。


大海原にゾクゾクしたわ!

さあ、ストランドに戻りましょう

興奮を沈めないといけないわ

恋人を横取りする人や、海に不慣れな船員や、いたずら好きな骨なし男たちについての本を見つけましょう

あの地下室にまた閉じ込められて、知恵を絞りましょう...


私はまたしても、そこに行けなかった。

私はメッセージを打った:ごめんなさい!また無理みたい!

謝らないで!イブの買い物客でひしめく喧騒から離れて、こうしてストランド書店で足止めされるのは本望だよ。ストランド書店は世界一リラックスできる場所だからね。こんな至福の時をくれるなんて、君は僕のことがほんとに好きなんだね!

もしかして、中古本売却カウンターに自分の本を持ち込む人たちに説教してるとか?

いや、今「私たちだってここにいる」というスローガンが掲げられたLGBTのセクションにいて、ソファに埋もれるように座って休んでる。こうしてメッセージを打ってないと寝ちゃいそうで、凄く幸せな気分だよ。だから謝らないでおくれ。おじいちゃんはどんな感じ?

おじいちゃんは寝ていて聞いていなかったけど、心臓専門の医師が私たちに言った。「彼を介護付集合住宅に住まわせることをお勧めします」

おじいちゃんが忌み嫌っている言葉、「特別養護老人ホーム」のマイルドな言い方ね。

ミセス・バジルが言った。「あり得ないわ。彼は私の家でちゃんと暮らせるし、彼の面倒は私が見るから大丈夫」

間抜け顔の医師が聞いた。「あなたの家には階段がありますか?」

ミセス・バジルは答えた。「5階建てのタウンハウスですからね。そりゃありますよ」

間抜け顔の医師が言った。「もし彼がもう一度階段から落ちたら、今度は大きな危険にさらされます。チェアリフトを備え付けるという方法もありますが、マンハッタンの古いブラウンストーンの家はそういう増改築には適さないんですよね」

「私が使ってる1階の部屋を彼に使ってもらうわ」

「24時間彼の介護をする覚悟ができていますか? 抗凝血薬は彼の様子を注意深く見ながら服用する必要があるんです。彼の顔を見てわかるように、彼は簡単にあざができてしまいますし、ちょっとしたことで心臓発作を起こす危険性があります。彼にとって階段の上り下りが一番リスクが高いんです。5階建てなら、なおさら危険ですね」

ママの顔が険しくなって、匙を投げてしまった。「私たちはいつかこういう日が来るってわかっていました。今決断するか、また先延ばしにするか、いずれにしても、また数ヶ月とか1年後には同じ選択を迫られるだけでしょう。それまでに彼の状態がもっと悪くなってしまう可能性もありますよね?」

私は口には出さなかったけれど、それがおじいちゃんにとって最良の選択肢だということもわかっていた。でも彼がどれだけ嫌がるかも想像できたから、彼が必死で抵抗する姿が目に浮かび、私の心は苦痛に押しつぶされそうだった。医師がそう勧めるのは、おじいちゃんの生活の質を押し広げ、良くしようという意図なんだけど、おじいちゃんは死刑宣告を言い渡されたように感じるはず。

私はミセス・バジルが当然、母の意見に反論するだろうと思ったんだけど、彼女はため息交じりに「そうね」とつぶやいた。

大伯父のカーミンおじさんが、「今年のクリスマスのナイトパーティーは取りやめしかないか?」と聞いた。50年間続いている我が家の恒例行事である。もし取りやめってことになれば、伝統をないがしろにするどころか、それはもう我が家にとって、世界の終わりに匹敵する!

「いいえ」とミセス・バジルが言った。「パーティーはやりましょう。むしろ今こそ、去年まで以上にお祝いしましょう」

その時、私はついカッとなってしまった。


午後7時。

カッとなるといった生易しい感じではなかったようで、私は頭を冷やしなさいと言われ、かんしゃく室と呼ばれる個室に押し込まれてしまった。そこは質素で心が落ち着くような病室だった。白いパッド入りのクッションが壁を覆っていて、かんしゃくを起こした人が暴れても怪我をしないように、という配慮なのだろう、ソファも柔らかく、硬い家具は一つも置いてなかった。大切な家族を失って嘆き悲しむ人が思う存分、感情を爆発させられる部屋のようだった。そうね、私の口からも当然のように汚い言葉が飛び出したわ。くそっ!

いったいこの状況はなんなのよ。

クリスマスなんてくだらないわ。

何もかも馬鹿みたい。くそっ。

少ししてミセス・バジルがやって来て、私に寄り添って慰めてくれた。今までも私がこういう感じになった時、私を落ち着かせることができたのは、おじいちゃんかミセス・バジルくらいだった。ただ、今回私の怒りを沸点まで高めたのは彼女自身だった。こんなに最悪なクリスマスだっていうのに、彼女がお祝いしましょうとか言い出したのよ。

私は金切り声を上げて、ありったけの大声で訴えかけた。「おじいちゃんを老人ホームなんかに入れないで!彼が口癖のように、わしがこの家を出る時は棺おけに入る時だって言ってるの、みんな知ってるでしょ」

ミセス・バジルは何も言わなかった。

「何か言ってよ!」と私は訴えた。

それでも彼女は何も言わなかった。

「お願い、何か言って」と私は静かに、哀願するように言った。

「施設に入れたら彼は傷つくでしょうね。でも彼と同じくらい私もつらいのよ」やっと彼女が口を開いてくれた。「それに今日集まった親戚みんなの意見が一致したの。今がその時なのよ」

「おじいちゃんの意見は一致してないわ」

「あなたも、あなたが思うほどおじいちゃんの気持ちをわかってるわけじゃないのよ。彼は怒りっぽいところがあるけど、でもね、彼は家族のために一番良いことを望んでるの。彼は重荷になりたくないのよ」

「彼は重荷なんかじゃないわ!どうしてそんなことが言えるの?」

「そうね。彼は重荷なんかじゃないわね。彼は私の兄だから、彼と一緒にこの人生を最後まで歩んで行きたいのはやまやまだけどね、でもこれ以上彼の状態が悪くなったら、彼自身も自分を重荷だって感じるでしょうね。もうすでにそのことが彼の心には重くのしかかっているのよ。そもそも彼が私の家に移って来たのも、そういう気持ちからなのよ。彼は口ではああいうことを言いながらも、もうすぐこういう日が来るってわかっていたの」

私は自分がとても愚かで、わがままで、いい加減な人間に思えてきた。おじいちゃんは彼が一番恐れている介護付き施設に入る運命だったってこと?―彼が心臓発作を起こして以来、私は彼につきっきりで、惜しみなく愛情を注ぎ込んできた。彼が施設に入るのをなんとか阻止しようと、実質的に私自身の生活の大半を投げうってきた。何のために?

去年のクリスマスシーズンは、おじいちゃんはまだ外出もできていて、私は素敵なボーイフレンドと親密な時間を過ごしていた。

素敵なボーイフレンド!そうだった。今日は一日中、私の指令に従って、彼は野生のガチョウを追い求めるような冒険をしてるんだった!

私は泣いた。ミセス・バジルは私を抱き寄せることもせずに、ただ横でそんな私を見守っていた。

「思う存分泣きなさい」とだけ彼女は言った。

「おばさんも一緒に泣いてもいいのよ」と私は鼻をすすりながら言った。

「私が泣いたって状況が悪くなるだけよ」と彼女は答えた。「元気を振り絞って、優しい笑みをたたえて、折り合いをつけていかないといけないの」

「何と折り合いをつけるの?」

「人生ね。ほろ苦く輝かしい人生よ」


午後9時。

ついに奇跡が起きた。

頭上から雪が降ってきた。大雪ではなく、柔らかくて軽い、甘いわたあめのような雪が、さらさらと舞い降りてきた。私は一人で通りを歩いていた。これからミセス・バジルの家に戻って、ボリスを散歩に連れていって、おじいちゃんの猫にも餌をあげるつもり。それから病院に戻る前にクライアントの家に寄って、ちゃんと犬の散歩の仕事もする。私の体をそっと包み込むように降ってくる雪の感触が、私の冷たい心を温めてくれた。私は天を仰ぎ、舌を突き出して雪を味わった。口の中で溶ける雪が、私の待ち望んでいた良い兆しに感じた。一年で最も心躍る日の前夜だった。正しいことは何もなく、当たり前のことも何一つ見当たらなかった。

ダッシュがミセス・バジルの家の前の踏み段に座っていた。ダッシュ!私のスマホのバッテリーは1時間前に切れていたので、それ以上謝罪のメッセージを送れずにいた。

彼は海賊の三角帽子をかぶっていて、眼帯には雪の結晶がぽつぽつと降りかかっていた。そしてボリスも彼の隣に腰を下ろしていた。踏み段に座るダッシュとボリス、私が今まで見た中で一番絵になる光景だった。

「あー」とダッシュが声を発すると、私の腕を引っ張って、彼の胸にうずめるように私を抱き締めた。「もうボリスの散歩は行ってきたし、グラントにも餌をあげたよ」と彼は私の耳元でささやいた。「それから君のクライアントリストを見て、今夜の散歩も全部済ませておいた」

ごめんなさい、という言葉はもう私の口からは出てこなかった。

「ほんとに愛してるわ」と私は言った。

それ以上私たちは何も言わず、ただ抱き合っていた。彼の胸に私の頬を押し当てると、彼は私の髪を優しく撫でてくれた。彼の裸の胸は、買ったばかりのガレオンコートで覆い隠されていたけれど。

彼のコートのポケットが膨らんでいて、一冊の本のようなものが入っているのを感じ取れた。きっとモレスキンだろうと思った。今日一日彼を虚しい冒険の旅へといざなったノートね。去年のクリスマス、ストランド書店の何百万冊(というか何十マイル)にも及ぶ本の中に挟んでおいた赤いノート、ちらっとノートを開いて中を覗き見た人は何人もいたでしょうけど、そこから先に進んでくれたのがダッシュだった。きっとそれにも何かしらの意味があったのでしょう。これから先、彼と私の間に何が起きるのか今はまだわからないけど、何が起きようと、きっと私は大丈夫な気がするし、どんなことが起ころうとも、このコート越しに感じるノートに彼が惹きつけられた事実は変わらない。それは彼と私が同類だってことを意味している。

そう、彼は家族なのだ。




藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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