『ダッシュとリリーの12日間』5
『The Twelve Days of Dash & Lily』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2018年09月02日~2019年06月30日)
13
ダッシュ
だって今日はクリスマスだから...
12月25日(木曜日)
ブーマーがしょんぼりしていた。
どうやらソフィアの家族がどうしてもクリスマスはスペインで過ごすと言って、ソフィアを連れて行ってしまい、ブーマーは一人取り残されたようだ。意気消沈した様子で、彼は僕の母親のアパートメントにやって来た。それで僕らは一緒に、ミセス・バジルの家で開かれるパーティーへ向かうことになった。
「心配することないよ」と僕は玄関のドアに鍵をかけながら言った。それから僕たちは二人並んで、勇んで戦場に向かうような足取りでアパートメントを後にした。「彼女はまばたきしてる間に帰って来るから」
「まばたきって一瞬だよね」とブーマーが返した。そして、これ見よがしにパチンとまばたきしてみせた。「ほら、一瞬でしょ?」
僕はまばたきするのにかかる平均時間の細かい数値を知っていたので、それを彼に言おうとしたら、間髪入れずに彼が続けた。
「でも、まばたきっていいことだよね? だって、もしまばたきしなかったら、ずっと何かを見つめてなくちゃならないし、そしたら目が痛くなっちゃう。それに、ダッシュがまばたきって言ったのは哲学的な意味でしょ? だったらたぶん、彼女はまばたきしてる間に帰って来る」
「いや、単なる喩えとして言っただけだよ」と僕は訂正した。
「違うよ」とブーマーが真顔で言い返した。「ボクは哲学的な話をしてるんだ。というか、あらゆる物事が哲学的だって言ってもいいね。君がまばたきするでしょ、それからまた目を開く。すべてがそんな感じで進んでるんだよ...まばたき一つ一つはそれぞれ微妙に違うけど、でも全部まばたきでしょ? 絶対に必要なことだよね」
僕はそれを聞いて、リリーと僕の関係に当てはめて考えてみた。―たぶんリリーと僕はつい先日までまばたきの期間を過ごしていたんだ。そしてたぶん、僕たちの目は再び開かれた。(少なくとも僕の片目は開かれた...それは喩えではなく、哲学的な意味でもなく、医学的な意味でだけど。)
僕はリリーへのクリスマスプレゼントを抱えていた。―インターネットで注文した買った最高級のクッキー用プレートで、彼女はこれを使えば美味しいクッキーを焼けるはずだ。それと、(母親の家に僕宛に送られてきた)父親からのクリスマスギフトの小切手を使って、ダウンタウンにあるフランス料理の専門学校で、彼女のためにベーキングレッスンを予約しておいた。
僕はそのクッキー用プレートを包装紙で包まずに、直接リボンを巻いた状態で持ち運んでいたから、ブーマーがこう言った時もそんなに驚かなかった。「リリーにそんな小さなそりを何枚か重ねてプレゼントするなんて、なんかしゃれてるね。雪が降ったらそのそりの出番だから、みんなでセントラルパークへ行かなくちゃ!」
「それで君はソフィアに何をプレゼントするんだい?」と僕は聞いた。
「彼女がこっちに帰って来たら、スペインが恋しくなるだろうと思って、インターネットでバルセロナの写真をかき集めたんだ。そしてそれをデジタルフレームに入れて、スライドショーで流せるようにした。プロジェクターも買ったから、彼女がバルセロナに帰りたいなって思ったとき、家にいながらそれを見て帰った気分を味わえる」
僕がソフィアにあげた最後のプレゼントは何だっただろう?―ガンドのテディベアだった気がする。ガールフレンドにおもちゃ屋で買った物ではないプレゼントをあげたのは、(そのプレゼントが皮肉めいていたかどうかは別として、)リリーが初めてだったから。
「ブーマーは凄いよ。こんなに長く彼女とうまく付き合えてるんだから。コツを教えてほしいな」と僕は彼に聞いた。僕の中には、こんなことを聞く自分にあきれる気持ちもあったけれど、それ以上にどうしても聞いてみたかったのだ。
「べつにコツなんかないと思うよ」とブーマーは言った。「ボクがソフィアと一緒にいるとき、ボクは彼女とうまく付き合おうとかそういうことは全然考えてないんだ。だからじゃないかな、それがうまく付き合うコツかも。家に帰って一人になると、寂しくなって心配になったりするけど、でもまた彼女と会えば嬉しい気持ちになれるから。その繰り返しが付き合うってことだと思う」
僕たちがミセス・バジルの家に着いた時には、すでに大勢の人でにぎわっていた。―何人かは知っている顔もあったけれど、大半は僕の知らない人たちだった。僕は図書館員たちに手を振った。彼らは手に持っていたグラスを持ち上げて、にっこり微笑んだ。僕はクッキー用プレートのような重いプレゼントを直接リリーに手渡したくはなかったので、名女優デイム・ジュディ・デンチの彫像が飾ってあったから、とりあえずその後ろにプレートを隠しておいた。
ブーマーはヨーニーを見つけると、跳ねるように近寄って、ハイと挨拶した。僕はリリーを探したけれど、リビングルームにも客間にも見当たらなかった。
僕はミセス・バジルに聞こうと階段を上りながら、でも「僕のガールフレンドを見ませんでしたか?」って聞くのもちょっと間抜けだなと思っていたら、幸いミセス・バジルは、僕がそう聞くまでもなく、開口一番こう言ってくれた。
「リリーなら私の兄、つまりリリーのおじいちゃんと一緒にキッチンにいるわ。彼女はね、もうリリーベアって呼ばれたくないんですって。私たち家族は愛情を込めてリリーベアって呼んでるのに。キッチンにいる二人に、出てきてみんなの輪に加わって、談笑しなさいって言ってきてちょうだい。パーティーっていうのはね、人の体みたいなものなのよ。きちんとした血液の循環がなければ、死体みたいに固まっちゃうの」
僕はキッチンに向かった。昨日リリーからおじいちゃんのことを色々聞いていたから、おじいちゃんはどんな様子なのかと少し心配だったけれど、彼をひと目見て安心した。キッチンに入ってきた僕を見つめる彼のまなざしが以前と同様に生き生きと輝いていたから。ただ、僕と握手しようと手を差し出す彼は、椅子から立ち上がることなく、座ったままだったけれど。
「おお、わしの大好きなロング・ダッシュ・シルバーじゃないか!」と彼はファーストフード店の名前をもじって、笑いながら言った。「リリーから聞いたよ。昨日は悪かったな...おい、そんな、タコとの戦いに負けたみたいな顔するなよ。タコに2、3発はくらわせてやったんだろ」
「4発はくらわせてやりましたけど、タコの足はまだ4本も残っていて、やられちゃいました。それで気分はどうですか?」
「バイオリンの弦並みにピンピンだよ!84年間弾き続けた弦だけどな、まだまだちゃんと音楽を鳴らせる!」そう言うと彼は、ゆっくりとではあったが、威厳をたたえたまま椅子から立ち上がった。「さて、わしは行くとするか。昨日のこともあるし、二人きりにさせてやらんとな。インガがその辺でカナッペだかクッキーだかを配ってるだろうから、そいつをもらいに、はるばる隣町まで長旅に出るとするか」
おじいちゃんが足を引きずるようにしてキッチンから出て行くのを見届けてから、リリーは言った。「私、すごく悲しいの」
「わかるよ」と僕は彼女に言った。「でもそうすることで彼の生活が改善するのなら、彼にとってはいいことだろうし、君が悲しむのはちょっと的外れかな」
彼女が若干身を引いて、怒ったように目を丸くした。それを見て僕は、僕の発言が彼女の耳にはひどく恐ろしい内容に聞こえたんだと気づいた。
とっさに僕は前のめりになって彼女に詰め寄った。「つまり僕が言いたいのは...彼とミセス・バジルはとても頭がいいよねってこと。君が口出ししなくても、ちゃんと彼らは正しい判断ができるよ」
それでもリリーの怒りは収まらないようだった。「つまりこういうことね、私は正しい判断ができないって言ってるのね?」
「ああ、違うよ!」
リリーは椅子から勢い良く立ち上がった。「悲しませてよ。私が悲しんだっていいじゃない。どうしてみんな、私の悲しみを奪おうとするの!?」
僕は慎重に言葉を選んで答えた。「リリー、悲しむのに誰かの許可は必要ないんじゃないかな。悲しかったら悲しめばいいし、嬉しかったら喜べばいい。スリルを感じたければ感じればいいし、しょんぼりしたければすればいい。ただ、ハッピーな時も悲しい時も、いつでも周りのみんなを視界の片隅にちゃんと入れておかないとね」
「もしかして、私があなたを無視してるって感じてたとしたら、ごめんなさい...」
「いや、そうじゃない!」
「なら、あなたこそ的外れね、ダッシュ。もう私の家には誰もいなくなっちゃうの。視界に入れたくても、みんなどこかへ行っちゃうのよ!」
「でも、みんなそのどこかにはいるんだから。みんなこれからも変わらず、君の周りにいるってことだよ」
「そんなの、わかってるけど、でも...」と彼女は何か言いたげに口ごもった。
僕は言葉尻を捕らえて、彼女の思いを引き出そうとした。「でも?」
「でも、私はそういうのが嫌いなの、わかる? すべてが変わっていくことはわかってるけど、私はそういう変化が嫌いなのよ。子供の頃は、クリスマス休暇が来ると嬉しくて、こういうのがずっと続くんだろうなって思ってた。毎年こんな素敵なクリスマスが訪れるんだって。何も変わらず、毎年みんなでお祝いできるんだって思ってたの。だからクリスマスは特別だった。でも、年を重ねるにつれて、思い出す過去が増えるに従って、段々とわかってきたの。そうね、毎年同じ言葉をかけ合って、みんなで同じ歌を歌ってお祝いすることは変わらないわね。でも少しずつ状況は違ってきてるって気づいたの。それに気づいたら、その変化に合わせて自分も変わっていかなきゃいけないって感じて。たぶん普段の何気ない日にはそういうことって気づかないから。たぶん今日みたいなクリスマスだからこそ、そういうことに気づくんだと思うわ。そういう状況の変化に対応できるように自分も変わっていかなきゃとは思ってるんだけど、でも、私にできるかどうか不安なの。たとえば私たちよ、ダッシュ。私たちの関係を考えてみて。まず、私たちが一緒にいる時、時間ってどういう風に流れているか考えてみて、いい? 私たちは今を生きてるわけでしょ。そして今、この瞬間は唯一無二の一瞬よね。―そういうことを知ってるかって言ってるんじゃなくて、実感として気づいてほしいの。すごく急激な変化が今、この瞬間にも起きてるんだって。私はそう思うの、っていうか、そう思ったの。大好きなボーイフレンドがいるってこと、そして私はそのボーイフレンドを愛してるってことも、そういう時間の流れと同じなのよ。そういう気持ちにはそこまで急激な変化は伴わないにしても、でもやっぱり何かがそこから失われていくってどうしても感じてしまう。そうでしょ? 誰かが去っていく時も同じよ。もう私の周りにはいなくなるの。もしかしたら、あなたは何かが失われても平気なのかもしれないわね、ダッシュ。あなたはそんなこと気にもしてないんでしょ。でも私はそういうことを大切にしたいのよ、ダッシュ。失われるのが嫌なの。だってすっごく愛おしく感じるんですもの。でも、私はどうしたらいいのかさっぱりわからないけど」
「僕だってわからないよ」と僕は告げた。「この数ヶ月間、僕はずっと状況が良くなるような、何か良い方法はないかって考えてきたんだ、リリー。そしてやっとみつけた唯一の答えを今、君に言うよ。それは、どうすることもできない物事っていうのがあるってこと。時間はその最たるものだね、時間を変えようとしたって無理だ。そして二つ目は、他の人の行動だよ。僕は父親が母親を壊すのをこの目で見たんだ。―父は母をこてんぱんに壊したよ。それから二人は結婚を解消した。僕が家族だって思ってきた唯一のつながりを二人は引き裂いたんだ。その時、僕は8歳だったけど、たとえ僕が18歳だったとしても、状況は変わらなかっただろうね。僕は自分を守ることしかできなかった。他に自分にできることはないかって必死で考えたけど、何もできなかったよ。そして僕は、僕の決められるようなことじゃないって諦めたんだ。今もそうだよ。僕は今も父親を変えることができずにいる。すごく変えたいって思ってるのに、できないんだ。今、君に打ち明けるよ。僕が父親を変えたい理由の一つは、もし彼を変えられたら、もし彼の間違っているところを変えることができたら、僕の中にある同じ部分を変えられるんじゃないかって思うから。怖くないかって聞かれたら、そりゃ怖いけど、自分がそれを望んでいるのかどうかもわからないけど、変えたいんだ」
「今まで一度もそういうこと話してくれなかったじゃない」
「わかってるよ!だから今言ってるんじゃないか。―だから今、僕の思いのすべてを打ち明けてるんだ。―さっきだって、僕の悪い部分が出ちゃったじゃないか。君のことを的外れだとか言った時、君が感じたことだよ。そういう面が僕の中にはあるから。君は時間の流れを止められないし、君の周りのみんながいつまでもずっと健康でいることもあり得ない。いついかなる時でも恋をしてずっと愛し続ける、なんてことも無理だよ。ただ、君と僕のことは、―僕たちの関係だけは、僕たちでなんとかできるんじゃないかな。僕たち次第でなんとかなる唯一のことだよ。時には君次第だって僕が感じることもあるだろうし、別の時には、僕次第だって君が感じることもあるかもしれない。でも僕らは一緒に前に進まなければならない。これからは前みたいに急激な変化は訪れないこともわかってる。―けど、それはこういうことだと思うんだ。単に今を一緒に生きてるんじゃなくて、過去、現在、そして未来を全部まとめて共有してるってことじゃないかな」
その時、リリーの表情が和らいだ。僕にはそう見えた。彼女は負けを認めたわけではなく、そもそも勝ち負けでもなく、彼女は僕のことを実感として理解してくれたんだと思う。僕も実感としてそう感じ取った。僕らはどうしてもっと早くこういう会話をしなかったんだろう?
おそらく今までの僕たちは、まだこういう会話をする心の準備ができていなかったんだ。
「ずるいじゃない」そうリリーは言うと、僕の近くに歩み寄り、体を寄せてきた。「大好きな人たちのことで、一つだけ望むとしたら何? 時間よね、一緒にいる時間。じゃあ、その大好きな気持ちがどう変化するのか、恐ろしいまでに教えてくれるものは何? それも時間ね。私たちが一番望むものと、私たちが一番恐れてるものが同じだなんて、なんかずるいわ。そして、時間は今もどんどん減っていってる。そんなずるい時間の中に...すべてがあるのね」
彼女が僕の体を包むように、そっと腕を回してきた。僕も彼女をそっと抱きしめ返した。僕たちはしばらくそのまま抱き合っていた。お手伝いさんのインガがその時キッチンに入ってこなければ、僕たちはいつまでもそうしていただろう。
「私は絶対に何も聞いてませんよ」と彼女が言った。その言い方から、彼女は絶対に聞いていたとわかった。「そろそろチーズパフが焼き上がる頃なのよ。オーブンからチーズパフを取り出さなきゃいけないの」
僕とリリーはキッチンを出ると、みんなのいるパーティールームへ向かった。廊下を歩きながら、僕は「ブーマーのまばたき理論」をリリーに話して聞かせた。リリーはそれを気に入ってくれた。
「私たちにとって、まばたき期間だったのね」と彼女が言った。
「そう」
「そして、今やっと私たちの目は開かれた」
「少なくとも片目は」
「片目はね」
「そして、それは避けて通れない」
「私たちはまたいつか、まばたきするわね」
「でも大丈夫」
「うん。まばたきした後って、前よりいろんなことがくっきり見えるから」
「たしかに」
僕たちはパーティー会場のドアを開けた。視界が広がり、友達、家族、見知らぬ人たちが視界に入ってきた。和気あいあいとした会話があちこちで鳴り響き、一つの音楽のように僕の耳を包んだ。―不思議な集まりが奏でる良質なオーケストラだった。
僕は彼女の手を取ろうと、手を伸ばした。すると先に彼女が僕の手をつかんだ。
「僕たちも入れてもらおう」と僕は言った。「すごくいいパーティーだね」
14
リリー
私の今をあげる
12月25日(木曜日)
不思議な気持ちだった。―まだ処理しきれていない悲しみは私の中に残っていたけれど、それでも私の人生で最高のクリスマスだと感じていた。
私の大好きな人たちが私の大好きな家に集まっている。今日は一年で一番大好きな日。笑って、喋って、プレゼントを贈り合って、食べて、エッグノッグを飲む日。
広いリビングルームを見回すと、部屋の一角にエドガー・ティボーの姿が見えた。そして彼を取り囲むように小学生くらいの子供たちが円を作って座っている。子供たちはうっとりした表情で熱心に彼の話に聞き入っていた。彼は手慣れた手つきでトランプを切ると、一枚ずつ子供たちにカードを配っていく。どうやらポーカーのやり方を教えているらしい。
「エドガー・ティボーもこのパーティーに招待したんだ?」とダッシュが私に聞いてきた。
「おじいちゃんが招待したの」
実際、おじいちゃんはこう言っていた。「エドガー・ティボーを招待しないのか? 仲間外れなんて、かわいそうじゃないか。あの不良少年とわしはな、老人センターでハイタッチを交わした仲なんだ。その時、わしの妹の家でクリスマスパーティーがあるから来るかって聞いたら、必ず行きます、薄着のギャルたちと暖炉を囲んで、ウイスキーの入ったフラスコ瓶を回し飲みしましょうって張り切ってたぞ」
私はおじいちゃんから聞いたエドガーの下品な発言を思い出して、ぞっと身ぶるいした。それでも私は自分が嘘をついたことに耐えきれず、すぐに今の発言を訂正した。「っていうか私が招待したの。おじいちゃんがかわいそうだって言ってたし、彼はクリスマスも独りぼっちみたいだったから」
「なるほどね」
「虐げられた人たちや、ろくでなしにだって心を開いてあげなくちゃ」と私はダッシュに言って、彼の手を優しく握った。「今日はそういう日でしょ」
「エドガーにも、家族のイベントリストを渡したとか?」
私はびっくりして唾を飛ばしそうになりながら言った。「まさか!」ダッシュは私の反応を軽くあしらうように身を寄せてきて、耳元でささやくように言った。「僕は君がまた、あのチャラチャラしたお調子者のエドガー・ティボーに惹かれるんじゃないかって心配した方がいいかな? 彼とキスするのはどんな感じだろう、とか想像してない?」ダッシュの顔を見ると、眼帯で隠れていない方のまゆ毛が高々と吊り上がっていて、唇がわずかに歪み、にやけているのがわかった。私をからかっているのだ。
「想像するわ」と私は白状した。「けど彼に限らず、下痢ぎみのオラウータンともイチャイチャするのはどんな感じだろうって想像するけどね」
「そんなこと聞くと、インガが作ってくれたカナッペを食べる気が失せるよ」
私は彼の唇にそっと私の唇を重ねた。「どう? これでまた食べる気になった?」
「なんか美味しい味だね」とダッシュが言った。「ジンジャーブレッド味のキスだ」
嬉しいこと言ってくれるじゃない。私が選んだボーイフレンドは私がときめく言葉をちゃんと心得ているのよ。言葉のギフトのお返しに、私も気の利いた言葉を返そうと頭をひねった。「エドガーってね、おべっか使いの使い手なのよ」
「何?」とダッシュが笑って耳を寄せてきた。
「彼ってね、おべっかを使われるのが好きだから、そうしてくれる人たちを周りに集めてるの。つまり、おべっかを使ってくれるようにお金を渡してるのよ。彼がお金持ちだって知ってるでしょ。公園のチェス仲間もそうだし、韓国人のパーティー仲間もそう、きっとあそこで床に座って彼を囲んでる、小学2年生くらいの小さなハスラーたちにもお金を渡してるわ」
「エドガーって、彼とつるんでくれってみんなにお金を渡してるってこと?」
「そう。あのアーガイル柄のズボンのポケットにはね、5ドル札の束が丸めて入れてあるのよ。いつでもさっと渡せるように」
「それでか。今やっとすべてが腑に落ちた」とダッシュが言った。
ミセス・バジルがソファの横に置いてあった足乗せ台の上に立って、シャンパングラスを掲げた。「親愛なるみなさん、お耳をお貸しください!」と彼女が声を張り上げた。通常、これほど多くの人たちが集まり、これだけお酒が出回っていたら、部屋が静かになるまでに何度か声を張り上げる必要がありそうなものだけど、ミセス・バジルは一度で全員の注意を引きつけてしまった。「まず初めに、今夜みなさんがこうして集まってくれたことに感謝します。それでは、メリークリスマス!」
「ハッピークワンザ!ミセス・オレガノ!」と、ブーマーがアフリカ系アメリカ人のお祝いの言葉を叫び返した。
ミセス・バジルはブーマーの方に顔を向けると、うなずいた。「どうもありがとう。あなたの返答は全く読めないわね」それから彼女は一人一人の顔を順に目で追うように、ぐるりと部屋を見回してから、最後に彼女の隣に座っているおじいちゃんに視線を向けた。「みなさんご存知の通り、今年は色々なことがあって、私たちにとって大変な一年でした。来年には、また新たな試練が待ち受けていることでしょう。だからこそ、今、みんなで感謝しましょう。みんなの友情に。みんなでこうしてお祝いできることに。それから私の隣に座っている―」
おじいちゃんが杖で彼女の足首を軽く叩いた。「早くわしにも話をさせてくれ!」
ミセス・バジルは足乗せ台から降りながら、「あなたはサディーみたいに暴力的にならないでちょうだい」と彼をたしなめた。
おじいちゃんは笑って立ち上がると、こう言った。「もう長年にわたって恒例となっていますが、このクリスマスパーティーの後半戦は、大人だけで歌って騒ぐ時間としましょう」
「歌って歌って、歌いまくろう!」と、彼のたくさんの姪っ子や甥っ子があちこちで声を上げた。
おじいちゃんは続けた。「はいはい、どんどん歌って盛り上がりましょう。そして、子供たちはもう疲れてる頃でしょうから、家に帰ってゆっくり休みましょう。それから、地下の部屋で映画を見ることもできますよ。映画を見ながら眠るというのもいいですね」
「『オズの魔法使い』がいいわ!」と、いとこのケリーが言った。
「『サウンド・オブ・ミュージック』が見たい!」と、いとこのマークが言った。
「『クリスマスのゲイたち』にしよう!」と、ラングストンが叫んだ。
「それはどんな映画なのかしら?」とミセス・バジルが、初めて聞いたクリスマス映画のタイトルにあきれたように目を丸くして聞いた。
「冗談」とラングストンは言った。「それはアフターパーティーのさらにアフターだな。夜中まで起きていられる人向けだ」
「それから、今年は特別なサプライズを用意しています」とおじいちゃんが言った。彼の温かなまなざしが私に注がれた。「リリー、わしを地下の部屋まで連れて行ってくれ。そこにわしからお前へのプレゼントがある。他にも映画を見たい人は、みんなついて来てくれ。映画を見たくないやつは、ついて来るなよ!騒ぐのはこの部屋だけだ。ここで引き続き、楽しく過ごしてくれ」おじいちゃんはエドガー・ティボーに目を向けると、杖を振った。「おい、今夜はギャンブルでもうけた金を全額、老人センターに寄付だぞ」
エドガーが笑い声を上げた。彼が裁判官以外の人からの命令に従うはずはない、と私は思った。しかし、おじいちゃんの凄みのある言い方に気圧されたようにパーティーの参加者たちが一斉にエドガー・ティボーを見つめると、彼にもおじいちゃんの本気が伝わったようで、彼は肩をすくめて言った。「しょうがねえな、わかったよ」それはクリスマスの奇跡だった!彼が心を開いたのよ!
何人かのいとこたちが地下の部屋へ移動を始め、ダッシュと私は二人でおじいちゃんの両脇を抱えるようにして階段まで連れていって、ゆっくりとおじいちゃんが階段を下りる手助けをした。「このこと知ってた?」と私はダッシュに聞いた。こんなに早くからパーティーを中断して映画を見るなんて、なんかちょっとおかしな気がしたけれど、これから見る映画は、おじいちゃんと彼の兄弟たちが子供の頃にみんなで見たホームムービーだったらいいなと思った。最近古い映画の復刻版がDVD化されて、たくさん発売されてるから。
「大がかりな策略だったりして」とダッシュが言った。
その地下の部屋は、アメフトやサッカーが盛り上がる季節になると、ミセス・バジルが親戚の男性陣に提供しているスポーツ観戦部屋だった。おしゃれなカウンターがついていて、大画面テレビが置かれている。(それはミセス・バジルのタウンハウスにある唯一のテレビで、他のどの部屋にもテレビは置かれていなかった。)私たちがその部屋に入った時にはすでにテレビはついていたけれど、まだ画面には何も映っていなかった。カウンターは映画館の売店のように準備されていて、ポップコーンメーカーがあり、ガラスケースの中には、M&M's、Milk Duds、Junior Mintsなどのチョコレートやキャンディーが並んでいた。そして壁一面の棚には、私のお気に入りのチョコ〈スノーキャップス〉が何十箱も積み上げられていて、全体としてクリスマスツリーを形作っていた。
さっきまで、いったい何を見るのかしら、としきりに考えていたけれど、その疑問は、テレビの横のブランケットが外された瞬間に吹き飛んだ。大きな厚紙でできた等身大パネルが露わになったのだ。それは私の大好きな映画で主演を演じた女優ヘレン・ミレンの切り抜きボードで、彼女が年老いて今にも倒れそうなエリザベス女王に扮しているものだった。彼女はシルクのスカーフを頭からかぶり、顎の下で結んでいた。そして、エリザベス女王が生涯をともにした愛犬のコーギーを抱きかかえていた。実写の彼女とCGの犬の見事な合成だった!
「どういうこと?」と私は金切り声を上げた。世界的に人気のボーイズグループが、一人の十代の女の子のために個人的なコンサートを開いてくれた時のような声量で、叫んだ。
「落ち着け、金切リリー!」と、ラングストンがそこに集まった人たちの中のどこかから、大声を飛ばした。
私の心臓はすごい速さで高鳴り、私はこの幸せな気持ちが絶頂に達して死ぬかもしれないと思った。「これってCGの犬でしょ? どういうこと?」と私はおじいちゃんに聞いた。
彼は言った。「わしの友人の〈電気屋さん〉だよ、お前も知ってるだろ。あいつが最新の映写機を用意してくれたんだ。CGだか、スクリーナーだか、わしにはよくわからんがな。あいつは〈パナビジョン〉の社長だし、今の時期は映画賞が立て続けにあって忙しいんだ。あいつは選考委員をいくつも掛け持ちして務めてるからな。映画館に宣伝用で置く切り抜きも用意してくれたよ。ただな、これは貴重な知的財産だって言ってたからな。もし悪党の手に渡ることにでもなったら、FBIを呼ばなくちゃならん。エドガー・ティボーにこれを見せたらいかんってことだ。誰も彼をこの部屋に連れてきちゃならん」
ママが言った。「この映画館の売店は私たちからのプレゼントよ、リリーちゃん」
ダッシュが言った。「〈スノーキャップス〉は僕が積み上げたんだ」
ラングストンは言った。「残念なツリーだな。なんだかうんちの山みたいだぞ」
世界には間違ってることがたくさんあるけれど、―戦争とか、地球温暖化とか、おじいちゃんが介護施設に移っちゃうこととか、家族がバラバラになって、私が今までずっと住んできた家はおそらく売られちゃうこととか、―色々間違ってることはあるけれど、それと同じくらいたくさん、正しいこともあるんだと思った。いがみ合っていた私の兄と私のボーイフレンドは、今では打ち解けて気さくに話してるし、パパは〈リーシーズ〉のピーナッツバターを、他のお客さんたちが手をつける前に一人で全部食べ尽くす気なのか、むしゃむしゃと食べてるし、ミセス・バジルはお客さんたちの海の中心でみんなにちやほやされてるし、ポップコーンの良い香りがするし、おじいちゃんは私に寄り添って、そっと肩を抱いてくれている。私の大好きな人たちが一つの部屋に集まって、女王と愛犬の映画を見ている。
私が思い描いていた夢の一日は、映画館を貸し切って、この映画をダッシュと二人きりで見ることだった。でも、この隠れ家の方がずっといいわ。なんだか魔女の集会みたいだし、ここに集まってる人たちは私の家来ってことね。みんなが私に敬礼してるわ。メリークリスマス、リリー女王陛下って。
私はその映画をすごく気に入ったし、パーティーもすごく楽しかった。
でも、私には優先すべきことがあった。
その貴重なCG映写機を使って立体的に映し出された87分の映画が終わったところで、私は席を立った。キュートなCG犬をもっと見ていたかったけれど、私が現実に飼っている愛犬の元へ急いで帰らなければならなかった。
ボリスの振る舞いは去年と比べると、この一年でだいぶ良くなったとはいえ、―まだ一ヶ月に一回か二回は誰かを床に押さえつけてしまうことがあり、大勢の人が集まるパーティーでうまく立ち振る舞えるほどの社交性はまだ身についていなかったので、クリスマスパーティーの間、ボリスは私のアパートメントで留守番をしていた。それで、ダッシュと私は映画が終わると、すぐにミセス・バジルの家を後にした。家に着くなり、私はボリスの野獣の毛に顔をうずめた。
それから、私たちはボリスを散歩に連れ出した。散歩の間中、私は映画の興奮冷めやらぬまま、ボリスに向かって、私がどれだけダッシュを愛しているか、さっきの映画を彼と一緒に見られて、バルモラル城を取り囲む深い森で彼と一緒に迷子になれて、どれだけ歓喜したかを語っていた。そしてアパートメントに戻ると、私はボーイフレンドと愛犬にクリスマスプレゼントを渡した。まず、私はボリスに嚙んでも大丈夫な犬用のおもちゃを与えた。すると、1分もしないうちにボリスはそのおもちゃを嚙みつぶしてしまった。それはドナルド・トランプを完璧に模した人形で、ボリスは彼のカツラを引きちぎり、胴体をバラバラにしてしまった。
「よくやった、ボリス」とダッシュが声をかけ、満足げなボリスの頭を撫でた。それからダッシュはしゃがみ込み、ボリスと同じ高さで目を合わせた。彼はできるだけ女王様っぽく、ヘレン・ミレンのイントネーションを真似て、映画『コーギーとベス』で印象的だった台詞を口にした。「いいかい、尊厳をもって嚙むんだよ、スクラムちゃん」
ダッシュにあげるクリスマスプレゼントは、私自身の尊厳を損なうことになるかもしれないものだった。でも、私は勇気を振り絞って計画を実行することにした。その前に私はまず、簡単に渡せる方のプレゼントを彼にあげることにした。私たちはオスカーの横に座っていたから、私は手を伸ばしてオスカーの下に用意しておいた最初のプレゼントを取り、ダッシュに手渡した。(手渡しながら、私はダッシュにチュッと軽くキスをした。―軽くじゃなかったかもしれないけど。)
そして、この前ダッシュからもらった12.21ドルのメイシーズ・デパートのギフトカードで買ったサンタの帽子を彼の頭にかぶせた。「当ててみて」と私は言った。
サンタの帽子をかぶったダッシュはプレゼントを持ち上げて、振ってみた。「塩を入れておく容器?」と彼が聞いた。形と大きさから、一冊の本だとわかるはずなのに、彼はこう続けた。「サンタってまだ柔らかくて暖かいものを持ってないみたいで、自分へのプレゼントに毛布みたいな生地のパジャマを頼んだって知ってる?」そこで彼はボリスを見て言った。「柔らかくて暖かいって君のことを言ってるわけじゃないよ。そういう映画があるってだけだよ。僕は『プランサー』が大好きなんだ。頼むから床に押し倒さないでくれよ」
ボリスはダッシュに飛びかからずに、彼の足首をなめた。
「開けてみて」と私は言った。
ダッシュは慎重にプレゼント用の包装紙を取り除き、彼の横にたたんで置いた。再利用するつもりらしい。私の彼氏は環境にも優しいのね。「本だ!」とダッシュが、新車をもらって興奮したみたいに叫んだ。「信じられない」
それから彼はその本に顔を近づけて、隅々まで見ていた。―それは『クリスマス・キャロル』だった。ただ、どこにでもある普通の本ではなかった。赤い表紙にタイトルが空押しで彫られていて、金箔でタイトルの文字が縁取られ、本の縁や背表紙も金箔で装飾されていた。「リリー!これってもしかして、初版本?」
「そうだといいんだけど!あなたにそれをプレゼントしたくて、でも約3万ドルもかかるって知って、ミセス・バジルに相談したら、もしあなたがこれからもずっと優雅な生活を送りたいのなら、節約しなくちゃだめよって言われて。だからこれは1843年に出版された初版本を正確に模したレプリカなの。本物じゃないけど、その分ほこりも少ないし、1世紀半前の病原菌がページの間に住んでるなんてこともないわ。それに、本物に比べたら、かなり手ごろな値段で買えたし」
ダッシュはその本を胸に抱き締めた。「すごく気に入ったよ!」
私は彼に寄りかかるように近づくと、眼帯の上から軽くキスをした。それから私は彼にもう一つのプレゼントを手渡した。「これはストランド書店のレア本のコーナーで衝動買いしたの」
彼は2つ目のプレゼントを開けた。「『宝島』だ!」と彼は叫んだ。「こっちは正真正銘の初版本よ。しかもイラスト付き」と私は誇らしげに言った。「私の大好きな海賊にあげようと思って」
「あぁーー!」と私の海賊が雄叫びを上げた。
「実は他にもプレゼントがあるの」と私は言った。
「本はもう十分だよ!」
「本じゃないわ。もう一つのプレゼントはね...ちょっと来て」
ここで私は勇気を振り絞る必要があった。私は彼が笑ったり茶化したりすることなく、ちゃんと向き合ってくれることを願った。私の最も無防備で、おそらく最もふしだらな姿をちゃんと見てくれることを。―私にとっては大きな挑戦だったのよ。
ダッシュには私の寝室の前で待っててもらって、私は先に部屋に入って着替えた。それから私はドアを少し開けて、さっき彼にあげた本の中の台詞を言った。「さあ、お入りなさい。もっとよく私のことを知るのよ!」
ダッシュの笑い声がドア越しに聞こえた。『クリスマス・キャロル』からの引用だとわかってくれたようだった。そして彼はゆっくりと慎重にドアを開けた。「なんでそんなにこそこそしてるの?」と彼が聞いてきた。
私は深く息を吸い込むと、覚悟を決めて、ドアを全開にした。彼の目に私の姿が映った。
彼がハッと鋭く息を飲んだ。―嫌悪感からではなく、驚いた表情を浮かべていた。
「プレゼントってリリー自身だ!」と彼が言った。
その通り!大、大、大正解!
それは派手なランジェリーではなかったけれど、ちょっと際どい感じの下着だった。私は老舗の婦人服専門店のホームページで注文して買った真っ赤な下着を身につけていた。ビクトリア朝っぽい雰囲気のあるゆったりとしたカプリパンツみたいな、膝下までかぎ針編みのレース模様が施された下着を穿き、腰ひもを巻いて、胸を控えめに隠す赤のコルセットを身につけていた。現代的な感覚からすると、ちょっと着込みすぎな気もしたけれど、リリー的には、裸も同然だった。私はメガネも外していたのよ。
「『クリスマス・キャロル』のミセス・クラチットがドレスを脱いだら、こんな感じじゃないかしら?」と私は頬を赤らめてダッシュに聞いた。どうして私は電灯のスイッチからこんなに離れて立ってるのかしら? すぐに電気を消さなくちゃ!
「ミセス・フェジウィッグの方が近いんじゃないかな。彼女は豪勢なパーティーを開いていたからね、ちょうど君みたいに」
「彼女も私みたいに図書館員たちに重傷を負わせちゃったとか?」
「ミセス・フェジもアイススケートをしていたら、そうかもね」
そこで気まずい沈黙が訪れた。私はその格好のまま、突っ立っていた。寝室のドアを挟んで見つめ合ったまま、私たちはこの状況をどうしたものかと思案に暮れていた。
「リリー、プレゼントありがとう」とダッシュが言った。
私の大好きな海賊は私の手を取ると、ぐっと私を引き寄せた。そして私の唇に彼の唇を重ねた。それから立て続けに何度もキスをした。ゆっくりと、唇の感触を確かめるようなキスをしてから、深く、お互いの中まで入り込んで、熱く、とろけるようなキスをし続けた。
彼は私を抱き締めたまま寝室の中へと入ってきた。私はダッシュの頭からサンタの帽子を取って、彼の髪に私の指をからめるように頭を撫でた。そして彼のおでこに何度もキスをした。彼の頬にもキスをして、それから彼の美しい唇に吸い寄せられた。「興奮を隠せないサンタになった気分だよ」とダッシュがつぶやいた。
その時、私の両親の声が玄関ホールから聞こえてきた。ママとパパが帰宅したのだ。お酒を飲んでご機嫌な様子で、笑い声を上げている。
「リリーの様子でも見てくるか?」とパパが聞いた。
「リリーはクリスマスの夜は毎年決まって、12時前に寝てるでしょ」とママが言った。「一日中興奮しっぱなしだったから、遅くまで起きてられないのよ」
二人がママとパパの寝室の方へよろめきながら向かう足音が聞こえた。
私は開けっ放しだったドアの方へ歩いていった。両親が帰宅したとなっては、ダッシュは私たちのラブラブな時間を切り上げて、今すぐ家に帰るのだろうと思った。
しかし、ダッシュは今まで一度も閉めたことがなかったドアを指差して、こう言ったのよ。「ドアを閉めて、リリー」
ドアを閉めてダッシュの元へ戻ると、1分もしないうちに、ノックもなくドアが再び開かれた。
パパがドアの隙間から、ダッシュの三角帽子を部屋に投げ込んで言った。「おやすみ、ジャック・スパロウ」
ダッシュは言った。「ジョニー・デップじゃないけど、どんな攻撃でも受けて立ちます」
「いい度胸だ」とパパが言った。「今すぐ家に帰りなさい」
私はダッシュを玄関ホールまで送っていき、彼におやすみのキスをした。
「真実の愛によってもたらされる最高のものって何かわかる?」と私は彼に聞いた。
「何?」とダッシュは言った。
「真実の愛よ」
彼は私にもう一度だけキスをして、海賊の三角帽子をかぶると、眼帯をつけていない方の目で私に向かってウインクした。それから颯爽と玄関を出て行った。
私は全然疲れていなかったので、ダッシュが私にプレゼントしてくれたピカピカのクッキーシートを取り出すと、キッチンへ向かった。今からクッキーを焼く練習を始めなくちゃ。
だって来年のクリスマスまで、あと364日しかないのよ!
〔訳者あとがき〕
「New York has everything.」(ニューヨークにはあらゆるものがある。)という言葉を、某K合塾の先生から聞いた時、ぼくは19歳だった。ダッシュとリリーは高校生最後の学年みたいだから、18歳くらいだろう。
当時のぼくはニューヨークなる街に思いをはせている場合ではなく、自分の身近な場所で繰り広げられる受験勉強や片想いの恋に精一杯だったわけだけど、その「New York has everything.」という言葉を聞いて以来、今までずっとニューヨークは気になる場所だった。その間、何度か引っ越ししたので「身近な場所」はその都度変わったけれど、自分の体とともに移り行く「身近な場所」を除けば、ニューヨークは常に一番惹かれる場所だった。
思えば、19歳からではなく、14歳くらいの時、『NO. NEW YORK』という曲が含まれたロックバンドのアルバムを何千回と繰り返し聴いていた頃から、ぼくは「ニューヨーク」なる場所を意識していたのかもしれない。そんなに大声で「ニューヨーク!ニューヨーク!」と熱唱するくらいだから、すごい場所に違いないと14歳のぼくの脳に刷り込まれたわけだ。
当時、そのK合塾の先生は「ニューヨークには犯罪が多い」ことを強調していたので、「everything」(あらゆるもの)は、ことさら良いものばかりではないのかもしれないが、それでもテレビやインターネットなどで見るニューヨークの街は、なんだか夢やロマンに満ち溢れたアミューズメントパーク的な様相でぼくを魅了し続けている。ぼくが一度も現実のニューヨークに行った経験がないことも、それに拍車をかけているのだろう。
『ダッシュとリリーの冒険の書』では、まだダッシュとリリーは面と向かって出会っていなかった。会ったことのない相手に思いをはせていると、どんどん妄想は膨れ上がり、脳内で勝手に「理想の相手」を創り上げてしまう、というのが『ダッシュとリリーの冒険の書』のテーマの一つだったと思う。
『ダッシュとリリーの12日間』では、実際にご対面した後の二人が、どうわかり合っていくのか、自分の思い通りになる脳内の理想の相手と、自分の思い通りにならない現実の相手とのギャップをどう埋めていくのか、ということがテーマの一つだったと思う。そして、100%完全には理解できなくても、お互いに相手のことをちゃんと見つめていきましょう!という結論だった気がする...笑
ぼくはダッシュとリリーの二人に思い入れがあるのはもちろんなんだけど、実はブーマーとエドガー・ティボーにも思い入れがあって、笑
たぶん現実のぼくはブーマーに近いと思うので、そんなブーマーが美人のソフィアと付き合っていることが、ぼくにとってすごく励みになったし、これからも「ブーマーを見習ってぼくも頑張るぞ!」と勇気を奮い立たせてくれる存在です。
そして、エドガー・ティボー。彼が自分とつるんでくれるようにお金を渡している、ということがわかって、ますます気になる存在になった。ぼくはギリギリで生活しているので、そんなお金はないけれど、もしぼくにお金があったら同じことをする予感がある...笑
ぼくはいわゆる「会社」で働いた経験がないので、これは想像だけど、「ビジネススマイル」という言葉があるように、たぶん上司や取引先の相手などに愛想を振りまくことも含めて通常業務なのだろう。
では、パーティーはどうかというと、ビジネスではないのに愛想良く振る舞って、談笑したりするという、よく考えてみると不思議な空間なのです!
ミセス・バジルが「パーティーは人の体みたいなものだから、血液がちゃんと流れてないとだめ」と言っていたように、お金の発生するビジネスではなくても、自分の気持ちを高ぶらせて、自ら血液となる努力が必要だということでしょう。
「真実の愛」というのもそういうことなんだと思う。損得勘定からではなく、相手を思いやる気持ちから真実の愛は生まれ、そうすることで自分にも真実の愛が返ってくる、ということを最後にリリーは言おうとしたのでしょう...
リリーの側からこの物語を見ると、性的なストーリーにも思えてくる。初めての相手を誰にしようか選び、少しエドガー・ティボーにも惹かれたけれど、結局ダッシュにして、ダッシュに決めたはいいけれど、初めての経験を前にして、不安や怖さから、あれこれ混乱したりしている...(のかもしれない。ぼくは選択肢のないもてない男なので、知らないけど。笑)
ぼくの感想の結論は、「濃密な一日」です。
昔々、「℃-ute」というアイドルグループがおりまして、笑
『大きな愛でもてなして』という曲の歌詞にこうあります。
「一日の間でも告白をしたり キスしたり OH YEAH OH YEAH 一日が大人より相当濃ゆいのです 相当長いのです」
ダッシュとリリーの一日も相当濃ゆいですね!特にぼくなんかの一日と比べた場合、驚愕の格差が浮き彫りになります!笑
「食べて、ぼーっと(テレビやパソコンの)画面を見つめて、ちょこっとこの小説を訳して、寝る」
はぁ、ぼくの一日って大概こんな感じなのです...汗
この10ヶ月間、数々の人生訓が散りばめられた『ダッシュとリリーの12日間』を訳していて、ぼく自身もいくつかの気づきや発見をしました。
たとえば、
「食べた後の1、2時間は、胃の消化に体内の血液のほとんどを持っていかれている感じで、つまり頭に血液が回ってきていない感じで、目の前の世界が談笑のないパーティーのようにぼんやりしてしまって、そんな状態で翻訳をしても、ちっともはかどらないから、1、2時間仮眠を取った方がいい」とか。笑
まあ、ぼくの気づきなんてこんな程度で、ダッシュやリリーが放つ人生訓とは雲泥の差なんですが、それでも気づいたことで、ぼくの生活は少し改善したかなと思う。
これからもぼくは一日のほとんどの時間をぼんやりと過ごして、頭がさえているほんの2、3時間に集中して翻訳する日々を過ごしていこうと思う。というか、もてないぼくには他に選択肢などないから。恋人がいれば、「恋人の家に行こうか!」という選択肢もあり得るのだけれど...泣
「訳者あとがき」でよくある記述。
その一、著者の略歴。
これはウィキペディアなどが充実している現代では必要ないでしょう。というか、ぼくみたいな、しょうもない人生を送っている人間が、ダッシュとリリーに命を吹き込んでくれた「偉大な二人の著者」について、とやかく言えるはずもありません。
その二、社会との相関関係。
たとえば、「この時代のこの国はこういう状況で、そんな空気感がこの作品を生んだ...」みたいなことです。
『ダッシュとリリーの12日間』は現代の話なので、同じ時代性をぼくたちも共有しているということで書く必要はないでしょう。
ぼくは日本人なので、「場所」については最初に書きました。
社会との関係でいうと、小説というものはその時代を写す鏡となるわけだけど、ごくまれにベクトルが逆方向へ振れることもある!つまり、小説の側から社会に向かって強い影響力を放つ作品も、数少ないながらもある、ということです。
『ダッシュとリリーの冒険の書』と『ダッシュとリリーの12日間』の中で何度も登場したサリンジャーも、そういう小説家でしょう。
そして、トルーマン・カポーティの名前は一度も出てこなかったと思いますが、意図的に『ティファニーで朝食を』に似せた表現を使っている箇所に、幾度となく出会いました。
『ダッシュとリリーの冒険の書』と『ダッシュとリリーの12日間』の中で何度も登場した「玄関前の踏み段」なるものを、映画『ティファニーで朝食を』で見てみましょう。
ニューヨークのマンハッタンに数多く建っているブラウンストーン(赤レンガ)のタウンハウスの玄関前には、このように何段かの階段があるのです。(ぼくは実際には見たことないけど...汗)
字幕の「見えないわ」というのは、お面をかぶっているから、段差が見えなくてつまずきそう、という意味です。実際、リリーのおじいちゃんは落ちちゃったわけです。
『ティファニーで朝食を』では、タウンハウスの階ごとに別々の住人が暮らしていたわけだけど、ミセス・バジルはタウンハウスを一軒丸ごと所有しているということでしょう。
そして踏み段を駆け上がって玄関に入ったら2秒でキス、というのが定番の流れなのかもしれません。(ぼくは手をつないで玄関に入ったことなどないので知りませんが...泣)
話がだいぶ逸れてしまいましたが、というか元々ぼくの話に本筋などないので、どれだけ逸れてもいいのですが、笑
まとめると、この翻訳はビジネスではないので、訳したからといってお金がもらえるわけでもなく、いつでも途中でやめられる状況だったので、「誰かが読んでくれているから」というのは、かなり大きなモチベーションになりました。毎回翻訳を始める際に目に入るアクセス数を見て、やる気を奮い立たせていました。なので、読んでくれた一人一人に感謝します。←これも言ってみたかったー!笑
最後に損得勘定の話。笑
この『ダッシュとリリーの冒険の書』と『ダッシュとリリーの12日間』を、もちろんぼくの訳で出版して頂ける出版社を募集します。お話だけでも構いませんので、こちらのメールアドレスまでご一報をお待ちしております。
hinataaienglish@gmail.com
そういえば、リリーもこうやって聖歌隊のメンバーを募集していたな!ぼくってダッシュとリリーに影響されまくりなのです...
あ、美味しそうなジンジャーブレッドクッキーとか、ホットチョコレート(ホットココア)とかについて書くの忘れた...笑
ストランド書店ほど大きくはないけれど、ぼくは日銭稼ぎの労働の帰りに、レンタルショップとつながった中型書店に立ち寄っては、サリンジャーやカポーティの本が並んでいる小さなコーナーの前に立ち、赤いモレスキンのノートか、あるいは青いコクヨのノートが挟まっていないかと、目をしばたたいて探しています。
本屋の片隅で目をぱちくりさせて、書棚の上から下までまんべんなく何かを探している人を見かけたら、それはぼくなので声をかけてください。
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