『サムとイルサのさよならパーティー』1

『Sam and Ilsa's Last Hurrah』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2019年06月30日~2020年01月25日) 校正 taa(2019年07月14日~2019年10月31日)


聴衆はファンタジーを欲し、要求してきます。私はほんの少しの間、その要求に応えようとします。日々の仕事や煩わしさを忘れて、この時間だけは楽しでもらおうとピアノを弾くわけです。派手なドレスを着て、金ピカに着飾るのもそのためです。少しの間、単調な日常から遠く離れて、良質な音楽の響く世界で、聴衆に夢を見させるのです。

                              リベラーチェ(ピアニスト)



招待状

概要:単調な日常はひとまず忘れましょう!ディナーパーティーを開催します。

主催者:サムとイルサ

日時:5月16日、午後8時

目的:女帝の豪邸で行われるディナーパーティーは今回が最後です!(賃金統制の関係で住めなくなっちゃうから!涙)

あと、リベラーチェ* の誕生日を祝う会も兼ねます。(こちらは喜ばしいことですね!)

場所:サムとイルサのおばあちゃんの家** (地図を添付します)

服装:キラキラに着飾ってきて!***


*リベラーチェが誰なのかわからなかったら、このパーティーにはご遠慮してもらわなくちゃならないかな。ただ、グーグル先生に聞いたらわかるかもね。

**心配しないで。女帝の家は街の外れにあるから、誰の目も気にすることなく、私たちはその晩、思う存分楽しめるわ!

***自分なりに趣向を凝らして!(リベラーチェの服装を参考にするといいかも)



1

イルサ


私の双子の兄は私たちのおばあちゃんの性生活にすごく興味があるみたい。

「俺の予想だと、最近女帝に恋人ができたな」と、サムは私に手を差し出して言った。「これを混ぜ合わせるから、へらを取って。早く」私の役割は、オペ中にメスを手渡す人みたいに、彼が要求する調理用具をすばやく手渡して、シェフの調理効率を最大限に引き出すこと。私はさっとへらを彼に手渡す。「これは卵焼き用のだろ。穴の開いてないやつだよ、イルサ」と彼は、見ればわかるだろみたいな顔で言う。そして、「見ればわかるだろ!」と実際に言った。

私は彼が手に持っているボウルに視線を落とす。チーズとほうれん草が山盛りに入っている。穴の開いてないへらだってかなり古いから、これだけの量をこねるのに耐えられるかあやしいものだ。私に決定権があれば、DIY精神なんか発揮させて、煩わしい料理なんかしてないで、さっさと〈ゼイバーズ〉に電話して、出来合いの料理を注文するんだけどな。ただ、サムってすごく料理が上手なのよ。働き者っていうか、まったく!こっちはありがた迷惑って感じ。もう30分も私をシェフの補佐としてこき使って、彼に従わないと料理にありつけないなんて理不尽ね。私の役目は、みんながあっと驚くような計画を立案することであって、彼の指示に従うことじゃないわ。いっそのこと、彼の双子の妹じゃなくて、彼の恋人にでもなったほうがましね。ただ、サムはゲイだけど。

私はサムに穴の開いてないへらを手渡す。「どうして女帝に恋人ができたって思うの?」

「彼女はこの6週間で3回もパリに行ってる」

「ファッションの買い付けでしょ。彼女は仕事で行ってるのよ」

「いや、最近の彼女はちょっと違うんだ。俺には感じるんだよ。そこはかとなく漂う...色気をな。お前は何も感じないのか? パリから帰って来ると、あんなに色めき立ってるじゃないか」

「いったいあなた、何に感じ入ってるのよ? 彼女は前から色気あるんだから、今さらそんなに。もしかしてあなた、彼女がこの週末パリに行くのに、ママとパパだけ連れて行って、自分は連れて行ってもらえなかったから怒ってるの?」私的には嬉しい事だった。女帝が遠出している間は、彼女のタウンハウスをこうして自由に使わせてもらえるから。女帝の居ぬ間に、私はお城の女王になれるってわけ。その間、サムは私だけの家来よ。

「そこなんだよ!彼女はどこに行くにも、ママとパパを連れて行ったことなんてなかっただろ。あの二人は中産階級のつまらない夫婦だぞ」

「それはそうかもしれないけど、私はママもパパも大好きよ」

「口答えするなよ」

「口答えするのが私なの。私以外の人間になれって言われても無理ね」

サムは吹き出すように笑って、それから片方の眉毛をつり上げて私を見据えた。「お前、少しも心配じゃないのか? 女帝は、いつもは鍵をかけて絶対に入れさせない彼女の寝室さえも自由に使っていいって言ったんだぞ。今まで何度も彼女のタウンハウスを借りて俺ら二人でディナーパーティーを開催してきたけど、寝室に入っちゃだめってことだけは厳格な決まりだったじゃないか」―ここでサムが女帝のギャングばりに凄みを利かせた声を真似た。―「『いいかい、10代の悪ガキを絶対に私の寝室に入れるんじゃないよ』」

「そうね、彼女はオーケストラの演奏を聴きに行った夜でさえ、私たちがデザートを食べてる頃にはいつも決まって帰って来るわね。私たちが羽目を外してないかとか、彼女がどこかにしまい込んだお酒を私たちが見つけ出してないかとか心配で、コンサートを早めに切り上げて帰って来るのよ。おばあちゃんは何でもかんでも仕切りたがる人だから、私たちが絶対に寝室には入らない、お酒も絶対に飲まないって言ったって全然信じない」私は今自分が言ったことを考え直して、ちょっと修正を加えた。「っていうか、私たちじゃなくて、私が言ったことね。彼女もサムは聖人ってわかってるから、サムがルールを破るはずないって思ってる」

「それは違うな。あの時のパーティーを思い出してみろ。ほら、#スタンタが女帝のヴィンテージもののクリスチャン・ディオールのガウンを見たがったろ?」

「あれはルールを破ったことにはならないわ。あなたはちゃんと女帝にメールして許可を取ってから、彼女の洋服部屋に入ったんですもの」

「#スタンタがビールを飲んじゃって!」

私はため息交じりに言った。「あれはスキャンダルだったわね」

理にかなったルール違反ってどういうことかしら? 2年前のパーティーでは、パーカーと私が女帝のブランデーコレクションを勝手に開けちゃって、最終的には彼女の寝室に鍵をかけて誰も入って来ないようにしてから、彼女のベッドの上でパーカーとイチャイチャしちゃった。悪い二人。でもブランデーがほどよく回って、最高だったわ!あの時、女帝はミラノまで買い付けに行ってたから、彼女がひょっこり帰って来る心配もしなくてよかった。イルサは恐れを知らないって両親に言われるけど、私だって女帝の逆鱗に触れたらどうなるかくらいわかってる。容赦のない怒りが噴出するでしょうね。それは私が彼女から受け継いだ性格の最たるものだから、十分承知よ。それから彼女と似てる点がもう一つあって、おばあちゃんも私も、大体どんな形の帽子をかぶっても、すっごく似合うの。

私は怒りっぽいこと以外で、もっと女帝みたいになれたらいいなって思う。誰かに恋い焦がれて失恋するより、誰かを夢中にさせておいて、つれなくあしらって胸が張り裂けるような悲しみを与えてやりたい。女帝みたいに、私もどんな状況でも中心に君臨して、世界を旅して回って、行く先々で奔放な情事を繰り広げるの。でも、ちゃんとホームとしてマンハッタンに大きなタウンハウスを持っていて、男を置き去りにして帰って来るのよ。(そんな私を小馬鹿にする両親の笑い声が聞こえるけど)女帝は、ひと目見れば彼女ってわかる派手な色のゆったりとしたカフタンを首からかぶるように着ていて、いつも大きくて目立つジュエリーを身につけてるけど、そこに関しては私の好みとは合わないわね。ディナーパーティーは別として、普段の私は、もっと落ち着いた色の服装が好きで、スキニージーンズに、すごく可愛くてタイトなシャツを組み合わせたりしてるの。

私に追随するようにサムもため息をついた。これは私たちが双子だっていう唯一の証かもしれない。同意の印としてのため息。「今回が俺たちの開く最後のパーティーになるなんてな。彼女がこの屋敷を出なければならないなんて信じられない」


ここまでは、校正も藍がやりました。

ここからは、taaさんに校正をお願いしています。


私と双子のサムは両親と一緒に、ここから数ブロック先にあるアパートに住んでいる。マンハッタンにたくさん建っている、味も素っ気もない狭苦しいアパートで、元はオフィス用のテナントだった部屋を三つ目の寝室に改装して、今はサムが使ってる。―よくあるパターンね。そこから女帝の住む屋敷にやって来ると、もう壮観!女帝っていうのは私たちのおばあちゃんで、おばあちゃんは、マンハッタンのアッパーウェストサイドにある豪華なタウンハウスに住んでいる。そこは往年の名女優バーバラ・スタンウィックがかつて住んでいた由緒ある建造物でもあるのよ。この屋敷には広々とした寝室が二つあって、ダイニングルームと書斎が一つずつある。書斎っていってもサムがピアノを弾いても近所迷惑にならないくらい大きな部屋で、窓からは街の摩天楼やハドソン川が一望できるの。私たちが両親と一緒に住んでる方のアパートの、使ってなかったオフィス用の部屋をサムの寝室に改装したって言ったけど、なんでサムだけそんなに特別扱いされてるかっていうと訳があって、実はサムって凄い人なの。女帝の邸宅にも余ってる寝室はあるんだけど、その部屋はサムの聖地みたいになってて、サムがピアノを習い始めてから今までに行ってきたリサイタルの写真だとか、サムが勝ち取った数々の音楽賞のトロフィーだとかが飾ってあるのよ。その部屋にはサムが選んで購入した世界一快適なベッドも置いてあって、ベッドにかかってる羽毛布団もサムが選んだんだけど、—あれだったら、女帝が手縫いでレース編みして綺麗な模様を織り込んだ布団の方がましって感じね。それはともかく何が言いたいかというと、サム!私はサムが大好き!っていうこと。

女帝は今まで立派なキャリアを積み重ねてきたわけだけど、収入面でいうとそんなに儲かる仕事をしてこなかったの。だから、マンハッタンのこれだけ大きな家に住み続けるには収入が追い付かなくなっちゃったってわけ。ニューヨークでこのくらいの家に住んでる富裕層と比べると、彼女は金銭面で余裕がなかったわ。それでも彼女はこれまでずっと、女王様みたいな暮らしを続けてきたのよ。女帝も昔は若かったっていうのもあるし、すぐに金欠になるくせに最先端のファッションを追いかけていたっていうからね。そして彼女の祖父母がまだ生きていた頃に、一家でこの賃金統制がかかったタウンハウスに引っ越してきたそうよ。それからずっと彼女はここに住み続けているの。そんなことをしていた人は彼女だけよ。この辺りには100棟くらい邸宅が建っていたらしいんだけど、唯一彼女の家だけがマンションに建て替えられることなく、今も残っているのよ。(ブルドッグみたいな彼女の顧問弁護士に感謝ね)この辺りに住んでいる人は99%金持ちなんだけど、貴重な1%がスタンウィック邸に住む女帝ってこと。

っていうか、もうすぐそれも過去形になっちゃうのね。女帝は20年間、買収提案に抵抗していたんだけど、とうとう宮殿を去ることに同意したの。預金通帳の残高の小数点の前に、一つだけ残っていたゼロがなくなって、ようやく金銭的和解をしたそうよ。彼女って実は宝くじに当たったかのような出来事が起こったことがあるのよ。5回結婚していて、彼女がブラジル人の剥製術師と離婚した時には、みんなが彼女の大勝利を確信したわ。彼女の人生で一番大きな棚ぼたで、まんまとあの剝製のヘラジカみたいな顔した変な男から大金を手に入れたのよ。そのお金でサムに赤ちゃん用のグランドピアノを買って、彼は天才ピアニストになったの。おまけに彼女はサムのために高級なオーブンも奮発したから、彼は天才シェフにもなったのよ。彼は女帝にとってかけがえのない孫なのよ。そんな彼が料理とピアノの腕を振るって、彼女の邸宅にやって来るお客さんをもてなすっていうのが今までの恒例行事だったの。今夜は、私が一人で独占しちゃうけどね。

女帝が私よりも彼を重視して特別扱いしてることに、ほんとは怒ってもいいんだろうけど、私自身もサムが私よりも優れた人だって認めているわ。彼には私が持っていないあらゆるものがある。忍耐強さ、優しさ、可愛げ、それから才能も。私が女帝だったとしても、彼を選ぶでしょうね。正直に言うと、サムが家族のスターでいてくれて、私はほっとしてるの。おかげで私は可愛げのないくそ女を演じていればいいわけだから。私にとってはこれがはまり役なのよ。お気に入りのジーンズに足を通すみたいに、するりとその役にはまったわ。

サムの顔を見ると、眉間にしわが寄って、おでこがきゅっと引き締まっている。パーティー前で興奮状態なんだとわかった。「スパイラライザーはどこ?」

「何それ?」

「生野菜を細長く、らせん状にカットする調理器具だよ。ズッキーニの中に細かく切った野菜を入れた方がいいかなと思って」

「それはやめて。あなたの料理は今ので完璧よ」

「ピカピカに光った銀食器をちゃんとテーブルに並べたのか?」

「もう並べたわ。凄く綺麗なテーブルよ。ナプキンだっておしゃれに折りたたんだんだから」

「ナプキンってあの—」

「そう、女帝がダブリンで買ってきた高級なやつ。手は止めなくていいから、そのまま料理を続けてて。わざわざダイニングルームまで見に行かなくても、ほんとにちゃんとやったから。テーブルメーキングも飾り付けも終わったし、厚紙でできたリベラーチェのパネルをテーブルの真ん中に置いたのよ。その方が、フラワーアレンジメントを飾るより見栄えがいいかなって思って」

「キャンドルは?」

「置いたわ」

「じゃあ、ビュッフェのテーブルに、デザートを入れるお皿と、フォークとスプーンを用意しておいて」

「用意したわ」

彼がダイニングルームの状況について、あれこれ確認して不安がってるから、これ以上彼が深く気にしすぎてしまう前に話題を変える必要があった。「それより、あなたが招待した人を教えてよ。ヒントだけでもいいから」今、サムの寝室(というか来客があった時に寝室として使ってもらってる部屋)には私の衣類が散らかっている。スパンコールのついたホルタートップとか、フェザーでふさふさした襟巻とか、チェック柄のポリエステルのベルボトムパンツとか、フラッパードレスとか。だって、パーティーに誰が来るのか、どんな人たちが集まるのかわからない状況で、そのパーティーにぴったりの衣装なんて選べるわけないでしょ?

「ヒントもだめだ。それがルールだろ。お前がゲストを三人呼んで、俺も三人呼ぶ。そうやってミックスさせれば、俺たち二人にとっても、俺たちが呼んだゲストにとっても、サプライズパーティーになるだろ」

「あなたはまたレイ・チャールズみたいな服装をするんでしょ?」私はもちろん兄のクラシックなスーツにネクタイ姿は大好きなんだけど、―でも彼っていっつも同じ服装なのよね。たまにはスパンコールのついたケープを羽織ったり、腕を広げるとビーズがじゃらじゃらと垂れさがるアメリカ国旗模様のレジャースーツを着たりしている兄も見てみたいのよ。一度でいいから思い切った挑戦をしてほしいの。そうすれば彼の中で何かが吹っ切れるかもしれないし。

「そうだよ」とサムは言う。「レイ・チャールズは盲目だったけど、俺はこうして目が見えるわけだから感謝しなくちゃな。安らかに眠れよ、レイ」それから彼は少しの間黙っていたが、再び口を開いた。「お前、KKはパーティーに呼んでないだろうな」

「呼ぶわけないじゃない」と私は言う。

ほんとはしっかりKKも呼んじゃったけどね!

私がパーティーに呼んだゲストは、まずカービー・キングスリー(KK)。彼女はお金持ちの家のお嬢様で、パーティー好きの女の子なんだけど、彼女は兄の次に、私の一番の親友なの。私は彼女が好きだけど、私以外はみんな彼女が好きじゃないみたい。でもカービーがいないパーティーなんて、パーティーって呼べないから。彼女はスタンウィック邸辺りにある集合住宅の最上階に住んでいるの。彼女の部屋からはニューヨークの絶景が広がっていて、セントラルパークからイースト・リバーまで一望できるのよ。ミッドタウン、アップタウン、ハドソン川って360°のパノラマビューを楽しめるんだから。もし彼女のペントハウスの天井をすべてガラス張りにして、望遠鏡を真っ直ぐ上に向けて覗けば、おそらく神様だって見えるわ。

次に私が呼んだのは、リー・チャン。彼女は私が所属している化学研究室での私のパートナーなの。彼女はボードゲームの達人で、会話も落語家並みに上手なの。パーティーに来るときは必ず、出身地の台湾の美味しいお菓子の詰め合わせを持って来てくれるのよ。すごく綺麗な箱に入っていて、どうぞって主催者の私に手渡してくれるの。彼女はすべてのパーティーに絶対外せないメンバーね。

それからフレデリック・ポダランスキー、別名フレディ。ワイルドカードっていうか要注意人物ね。彼はポーランドからの交換留学生で、アッパーイーストサイドでホームステイをしてるの。私とKKがセントラルパークでかっこいい男の子たちがバスケットボールをしてるのを見てたとき、彼と出会ったの。彼は背が高くて、ブロンドヘアーで、がっしりした体つきで、藍色の目をしてるの。性格は単純ね。フレディは私が探していた男の子だって確信してるわ。―つまり、私の兄を惹きつけておきながら、冷たく突き放して、兄の心を打ち砕いてくれる男の子だって思ってる。

私の兄はまだジュリアード音楽院の入試に落ちたショックから立ち直ってないの。サムは女帝の賃金統制がかかった宮殿からほんの数ブロックのところにある〈フィオレロ・ラガーディア音楽美術演劇学院〉に通っている。ジュリアードに落ちたショックで落ち込んでいた彼は、ニューヨークの学校だと「ジュリアードが近すぎて落ち着かねーよ!」とか言って、一旦はボストンのバークリー音楽大学に入学したの。全く新しい街で、新しい挑戦をするんだって張り切って出て行ったわ。バークリーだって名門の音楽学校だし!でも彼は一年で挫折しちゃった。次の年に彼はニューヨーク市立大学の音楽科に転校したの。家から近い方が落ち着いて演奏に集中できるって帰ってきたのよ。

サムはバークリーをやめるべきじゃなかったって私は思ってるけど、でも彼はほんとに心の底から、ジュリアードに行きたがってるから、そんなに行きたいのなら、その気持ちを大事にした方がいいわね。来年、彼はもう一度ジュリアードを受けるつもりなのよ。サムの実力からしたら落ちたのが不思議なくらいだから、きっと今度こそ合格するわ。そして入学したら、彼は自分の殻を突き破るのよ。安全地帯から抜け出して、間違いだらけの恋愛をするの。彼にはそうする必要があるのよ。彼が普段つるんでいるような退屈な男たちと付き合うのは止めて、彼には不釣り合いな男を好きになっちゃって、何も手につかないくらい心がかき乱される経験をするべきなのよ。誤解がないように言っておくけど、べつにフレディがサムより上だとか、そういうことじゃないの。(私の兄より上の人間なんてこの世にいないわ)そうじゃなくて、スポーツで例えると、二人は別のリーグに所属してるから、普段会うことがないっていう意味。私的に言うと、「めっちゃかっこいい男子なんだけど、そこまで頭はよくないから、最初はサムとラブラブになるんだけど、そのうち、サムはいい人すぎるし、頭良すぎるなって気づいて、私の兄をポイッと捨ててくれる男子」って感じね。そういう軽いノリのイケメンと、先のない気晴らしみたいな恋に溺れなくちゃいけないのよ。

フレディは必然的にサムを振ることになって、失恋の激しい痛みが彼を襲うことになるわ。まあでも、時が過ぎれば痛みも治るわ。苦痛はすべての偉人を偉大にする。これは歴史が証明してることね。サムも苦痛を経験すれば、歴史に名を残すほどの偉大な人物になれるはずだから、今夜のディナーパーティーで、私は彼に恋のショックを与えたいと思ってるの。サムがフレディを見た瞬間、サムの偉人への長い旅路が始まるのよ。最終目的地はパルテノン神殿ね。というか、恋に落ちるまでもなく、サムは考えすぎる性格でストレスを溜め込むタイプだから、どうせ一人で勝手に苦しみのつぼに落っこちることになるわ。孤独の苦しみに比べれば、失恋の苦しみなんて両手を広げて歓迎すべきでしょ。振られるまではラブラブに過ごせるわけだし、むしろ私に感謝しなくちゃね、サム。

実は、私もサムと同じ苦しみを経験していて、第一志望の大学に入れなかったの。行きたかった一流大学に全部落ちちゃったのよ!私が出願した大学は、フランスのソルボンヌ大学、東京大学、それからスコットランドのウィリアム王子とキャサリン妃の出会いの場になったあの素敵な大学にも申し込んだわ。でも、かすりもしなかった。まあ仕方ないわね、私はフランス語も日本語も話せないし、スコットランド英語だってろくに理解できない。っていうか、スコットランド人の話す英語を理解できるアメリカ人なんているの? 私は志望校のランクを下げて、ニューヨーク大学、スキッドモアカレッジ、フォーダム大学、これらニューヨークにある二流大学も受けたんだけど、どこにも入れなかった。でも入れなくて良かったわ。スタンウィック邸辺りに住んでいるたくさんのいたずらっ子たちのベビーシッターをして貯めたお金を、入学金に使わずに済んだから。それから、コネチカットのどこかにあるクイニピアック大学にも無駄に入学金を払わずに済んだわ。(入試の時に行ったけど、なんだか疲れちゃってあまり覚えてないの。両親に受けなさいって言われて半ば無理やり受けさせられただけだし)私が唯一受かった大学の名前は、ちょっと明かすことができないんだけど、両親はすっごく安心してくれた。もう秋になってたけど、入学式の直前に入学手続きを済ませたの。大学名は聞かないでちょうだい。

「お前は女帝に恋人なんかできてないって思うんだな?」とサムが言う。彼は彼女に精神的に依存してるから、私が彼から彼女の呪縛を解いてあげなくちゃ。さっきダイニングルームで準備をしてるとき、テーブルのリーフを広げようとして蝶つがいの部分を壊しちゃったんだけど、そのままにしておくの。女帝が見つけたら、カンカンに怒って彼を怒鳴りつけるわ。もちろん私も一緒に怒られるわけだけど、私は慣れっこだからなんてことないわ。でも聖人のサムは慣れてないから、相当ショックを受けるでしょうね。でも、ちゃんと祖母離れした方が健全でしょ。彼にとっても、彼女にとっても。今度海外旅行をしたとき、オーストリアかどこかの、伝統のあるフロイト大学だったかユング大学に行って、転入について色々聞いてみるつもり。私って精神分析の天才でしょ。将来その分野で大成功する予感しかないから。

「そんなことわかるわけないじゃない!」と私は言う。「クロワッサンを使って手当たり次第にフランス人の男とやってたって、私の知ったことじゃないわ!」

「フランス人の男はみんなクロワッサンを持ってるからな、そうだろ?」

ちょっと!あなた、フランス革命の何たるかを知らないの? 命、自由、そして何と言っても、パリッパリの完璧なクロワッサンのために戦ったのよ」

「トング」とサムが言う。

「フランス式の拷問道具?」

「そんなわけないだろ。早くそこのトングを取ってくれ。ラザニアを茹でてる鍋が噴きこぼれちゃうだろ」

私は彼にトングを手渡す。「イルサ、これは泡立て器だよ」彼が呆れた顔で手を伸ばす。私の横をすり抜けていった彼の手の先には、トングという名のへんてこな道具があった。「だから、俺は女帝にパリで恋人ができたんじゃないかって言ってるんだよ」

「っていうかあなた、ただ『恋人ができた』って言いたいだけでしょ」

「まったく。お前は俺のことを何でもお見通しだな」

実際女帝はパリで恋人ができたのかもしれないけど、彼女がパリへ行ったのはそれが目的ではない。彼女は私たちが知らないって思ってるだろうけど、私はちゃんと知っているわ。女帝は何でも隠したがるけど、彼女はインターネットに閲覧履歴があるなんて知りもしないの。履歴は定期的に消すべきなのにね。私たちのおばあちゃんが今パリに行ってるのは、パリに小さなアパートを買ったからで、彼女はそこに隠居する計画なのよ。小さなアトリエみたいな部屋で、私の寝室もサムの寝室もついてないわ。(私がこれを知ったとき、ついでに知りたくもなかった彼女の趣味まで知ることになってしまったのよ。彼女はずっと、競泳用のぴっちりした水着を穿いた、ほぼ裸のジェームズ・ボンドを演じてるショーン・コネリーの写真を見ているの。それから彼女は、歴代のボンド役者の中で一番胸毛が濃いショーン・コネリー風の俳優が演じてる『007』をオマージュしたポルノ作品が大好きみたい)(彼女の閲覧履歴で見たものを思い出すと、吐きそうになる)

彼女がパリに行った本当の目的をサムが知ったら、ショックを受けるでしょうね。でも、たまにパリまで会いに行けばいいわけだし、おばあちゃん家がパリなんて素敵じゃない? そして私が、サムを本当の意味で安全地帯から連れ出して、もっと広い世界へ放り出すの。女帝がこの屋敷を出て行ったあと、サムの輝かしい栄光の軌跡が飾られた寝室で私が住むことになるわ。この家の新しいオーナーが私を住み込みのベビーシッターとして雇ってくれることになってるのよ。あんな狭い部屋では収まりきれないほどに、サムには才能や潜在能力が溢れすぎているわ。まあ私にはあれくらいの部屋でちょうどいいけどね。

今夜は、私たち双子が主催して、この屋敷で行われる最後のディナーパーティー。ラザニアを食べて、お酒やホットチョコレートを飲んで、友達や初めて会う人たちと、私たちの門出をお祝いするのよ。今夜、私たちはみんなでリベラーチェみたいに着飾って、シャンデリアにキラキラと照らされながら、夢の世界で盛り上がるの。

明日になると私たちは平凡な日常に戻っていて、兄はいろんなショックが重なって苦痛に耐えていることでしょうね。



2

サム


ディナーパーティーが始まる1時間前までは気持ちに余裕もあるし、いつも楽しく準備してるんだ。でも、お客さんたちが到着するまで1時間を切ると、毎回事態は急変する。まだやらなくてはならないことが4時間分も残っているからだ。そこからはもう、激動の人生って感じで、窮屈な台所の中を踊っているかのように動き回り、ガスコンロにかけた鍋が噴きこぼれるのを気にしながら、テーブルもセッティングしなきゃいけないという慌ただしさだ。僕はすべてが完璧じゃないと気が済まないんだけど、完璧なんて不可能で、自分に対する無茶な要求だってこともわかってる。わかってはいても、すべてを完璧にこなさないと、僕の心の奥深くにはぬぐい切れないわだかまりのようなものが残る。完璧じゃなくたって、―と僕はいつも自分に言い聞かせる―それは僕のせいじゃないと。

イルサにはいつも感謝していて、今も彼女は僕に何か助言してくれるみたいなんだけど、どうせまた僕のファッションへのダメ出しだろう。

「どうしてあなた、あの黒いベルベットの服を着てないの? もうすぐみんな来ちゃうわよ。早くそのジーンズを脱いで着替えて」

僕が黒のベルベットをまだ着ていないのは、今から2分後くらいに粉砂糖をレモンタルトの上にパラパラと振りかけなければならないからで、それをイルサに説明し始めると2分くらいかかっちゃうから、代わりに「パーティー中に流す音楽のプレイリストを準備してきて。お前の好きな曲を好きな曲順で並べていいから」と言って、彼女を台所から追い出した。きっと、僕の気分は全面ガラス張りの建物みたいに彼女には透け透けに見えているから、僕が一人になりたいってことは伝わっただろう。でも、もう一つ理由があって、パーティーが始まってから、彼女がこの曲は好きじゃないとか言い出して曲を止めて切り替えたりするよりは、今のうちに彼女が好きなスイング音楽なんかをプレイリストに加えさせた方がいいと思ったんだ。

キッチンに一人でいると、段々と気分が落ち着いていくのを感じる。僕はこの空間が好きだ。僕の思考はキッチンに響く音と相性がいいみたいで、鍋の中で泡立つ音や、沸騰する音、それから冷蔵庫の音なんかにうまく溶け込んで、ここにいると、僕は小さなオーケストラの指揮者になれる気がするんだ。

そこに誰かが入って来ると、急に僕の指揮棒は乱れ出す。そして音たちに乱れが生じ、しっちゃかめっちゃかな演奏に成り下がってしまうのだ。

イルサが誰を招待したのかはわからないけど、大体察しはつく。さっきKKは呼んでないとか言ってたけど、どうせそのうち玄関のドアが、競馬のスタートゲートみたいに勢い良く開け放たれて、KKがお嬢様風を肩で吹かせながら入って来るのだろう。イルサはKKに逆らえないのだ。―KKはいつも最先端の流行の服を着ていて、イルサのファッションリーダー的存在で、ちょっと方向性はどうかと思うけど、KKは僕の妹のロールモデルなのだ。僕の個人的な意見を言わせてもらうと、あんなに裕福なお嬢様が、どうしていつも文句ばっかり言っているのか、僕には彼女の胸中がさっぱり理解できない。でも彼女自身が僕に好かれることを望んでいないのは、今までの経験からわかる。僕だけではなく、KKは誰からも好かれようとしていないのだ。彼女にはある種の力のようなものがみなぎっている。それは僕にもわかる。ただ、その力がいったい何の役に立つのかは、ちょっと僕にはわからないってだけ。

僕が呼んだゲストたちは、イルサの友達に比べれば、少しは人当たりが良い人達だと思う。というか、そうであってほしい。

まず一人目は、僕の親友のパーカー。イルサは彼を〈出禁リスト〉に入れてるんだけど、彼なしで最後のディナーパーティーを開くなんてあり得ないから、当然呼んだ。イルサからすると、彼は彼女を失意のどん底に落とした張本人みたいだけど、彼女は失恋を乗り越える必要があるし、だいたい、二人が別れたのは完全にイルサのせいなんだから、それで僕と彼の友情にひびが入るっていうのは、ちょっと納得いかない。

次に呼んだのはジェイソン。イルサの元カレを一人呼んだからには、僕の元恋人も一人呼ばないとバランスが悪くなると思って、彼を呼んだ。とはいえ、状況はイルサたちとは違って、ジェイソンと僕は別れた後もなんとか友人関係を保っている。彼は「僕はタフツ大学に行くから、君はバークリー音楽大学に行ってくれ。そうすれば、同じ町で一緒に大学時代を過ごせる!」と、二人の未来を計画してくれた。でも僕は、申し訳ないけど、そんな彼の言葉を否定してしまった。僕が「実はマンハッタンに残るつもりなんだ」と打ち明けると、彼は「話が違うじゃないか」と言って、激しくドアを押し開け、猛然と部屋を飛び出していったんだ。部屋の真ん中にぽつんと取り残された僕は、受け取ってもらえなかったプレゼントにでもなった気分で、無様に突っ立っていた。ジェイソンは僕のことを運命の相手だと言った言葉を撤回した。そして僕たちは別々の道を歩むことになった。今はそれぞれ、別の真実の愛、運命の人を探している。

今回僕が呼んだゲストの中で目玉というか、ワイルドカードは〈地下鉄の彼〉なんだけど、たぶんジェイソンとあんなことがあったから、僕は導かれるように彼と出会ったのだろう。ここ何ヶ月かの間、1番ラインの地下鉄でよく彼を見かけていた。ニューヨークのあちこちで彼の姿が目に入ってきたけれど、特にリンカーン・センター周辺で見かけることが多かった。時々彼はバイオリンのケースを持っていたんだ。僕はふと、頭の中でニューヨークの地図を思い描き、〈地下鉄の彼〉の足取りを勝手に空想していた。それからしばらくして、僕が彼のことを意識しているのと同じくらい、彼も僕の存在に気づいていることがわかった。

それでも、僕は彼に話しかけることによって、淡い空想が壊れてしまうことを恐れ、先週まで何も言えずにいた。しかしこの前、僕が地下鉄に乗り込んだら、ちょうど目の前に彼が立っていたのだ。絶好のチャンスだと思った。ポケットに入れておいたパーティーの招待状が、スマホのバイブレーションのように振動している気がした。だめ、だめ、そんなことしちゃだめ!と自分を制する声よりも先に手が出て、僕は彼に招待状を差し出し、「来てほしい」と言っていた。

「行く行かないの印をつけて送り返す選択肢の欄がないね」と、彼は招待状を一通り読み終えてから言った。

彼の僕を見つめる目は、頭のおかしな人を見る目ではあったものの、悪い印象はなく、温かみのあるまなざしだった。僕のことを、頭のおかしい勇敢なロマンティストだと思っているような目だった。

「後悔しかないよ」と僕は彼に言った。

「そっか」と彼はちょっとはにかんで言った。「僕は全く後悔なんかないけどね」

彼が降りる駅に地下鉄が着いたとき、僕は思い切って、「じゃあまた、パーティーで」と言ってみた。

「必ず行くよ」と彼は答えた。

それっきり終わってしまう予感もあった。それから彼を見かけてはいないし、今夜彼がパーティーに来てくれるのか確信も持てない。もし彼が姿を現したら、イルサはきっと、すかさず僕に彼の名前を聞いてくるだろう。

でも僕は彼の名前すら知らない。

そればかりか、僕は彼がベジタリアンなのかどうか、逆にお肉しか食べない人なのかどうかも知らない。あるいは、乳製品を受け付けない体質の人かもしれない。グルテンフリーの食生活をしているとか、もしかしたらケール野菜しか口にしないとか、それはちょっと行き過ぎた想像だけど、どうしても少しずつ想像がふくらんでしまう。

「ねえ、今夜のゲストは6人だけってことわかってる?」いつの間にかイルサがキッチンに戻っていて、そう聞いてきた。僕はゆで卵の白身と黄身を分けているところだった。イルサが着ている丈の短い派手なフラッパードレスを見たら、伝説の女優クララ・ボウでさえ口を閉じて、尊敬のまなざしでイルサを見つめる気がする。「こんなにたくさん作っても、少なくとも私が呼んだゲストは、これ全部は食べきれないわよ」

僕がキッチンから妹を追い出しても、家に僕たち二人しかいない場合、そんなに長く一人の時間を過ごすことはできない。べつに彼女が僕の料理してる姿を見るのが好きとかそういうわけではないし、もちろん彼女が助手役を気に入っているとかでもない。彼女は単に独りぼっちで部屋にいるのが大嫌いなのだ。

「俺はルドルフ・テートを招待したから」と僕は言う。「彼は少なくとも1人で6人前は食べるよ」

彼女に嫌味の一つでも言ってやりたかった。ルドルフ・テートはとてもよく食べる人なんだ。食べ方も外見も鳥みたいなんだけど、僕とひな鳥みたいな軽いデートを二回しただけで、僕の元からさっと羽ばたいていった。元々はイルサが紹介してくれた人なんだけど、全く共通点がないといっていいくらい合わなくて、デート中、僕はしどろもどろしっぱなしだった。イルサが紹介してくれる人はいつもそんな感じだから、ルドルフと別れたとき、僕は彼女に絶対にもう二度と、僕を誰かとくっつけようとしないでくれ、と念を押しておいた。彼との出会いは忘れもしない。僕が家に帰ると、クローゼットの前にイルサが立っていて、あなたにすごく、すっごく会いたがってる男子がいるのと言った。そして彼女がパッとクローゼットを開けたと思ったら、鳥みたいな男子が羽ばたくように飛び出してきたのだ。

「ほんとにルディを招待したのなら、私の耳に入ってるでしょうね」とイルサが言う。彼女はうわさ話のネットワークに揺るぎない自信を持っているのだ。「スタンタが、あなたと別れたルディにすかさずアプローチしたのよ。スタンタは何でもツイッターにつぶやく人だから、もしルディがあなたに誘われたのなら、嫉妬心を燃えたぎらせてツイートしまくってるでしょうね」

僕はスタンタともデートしたことがあるんだけど、ルドルフとのデートよりもひどい有り様だった。僕たちは夕食しながら会話していたんだけど、彼は視線をスマホに落としたまま、終始指を動かし、文字を打ち続けていた。僕は彼のツイートのネタになるようなことは言わないようにしようと、気をつけながら喋っていたんだ。そしたら彼が僕に対して抱いた印象を一方的にツイートされ、最終的に僕はなんと「#話してると眠くなる人」と名付けられた。彼との二度目のデートは断ったんだけど、その理由を彼が理解していないということに、僕は衝撃を受けた。というのも、彼のツイッターを覗いたら、彼は(56人の)フォロワーに向けて、「#話してると眠くなる人が#スタンタの魅力に気づかなかったという事実に、#スタンタは悶絶」とツイートしていたから。

僕はイルサの顔をじっと見て、表情から彼女がルドルフかスタンタを招待したかどうかを確かめる。どうやらどちらも招待していないようで、僕はほっと胸をなでおろす。でもそうすると...他に考えられる人は誰がいるかと思うと、再びちょっと不安になってきた。

僕はオーブンの中をチェックする。少なくともキッチンの中は、すべてが計画通りに進んでいるようだ。タイマーがカチカチと時を刻む音が耳に気持ちいい。僕はタルトに粉砂糖をまぶし、ウォルドーフ・サラダにもうひと工夫を加える。レモンジュースに浸したリンゴが、ちゃんと僕好みのきつね色になっていることを確認してから、サラダに混ぜる。もうそろそろエプロンを脱いで、パーティーの主催者モードに入る時間だ。わかっているけれど...僕はもう少しキッチンに残って、こうして過ごしていたい。ここにいる限り、気持ちがかき乱されることはないから。

「いよいよだな」と僕はイルサに言う。「僕たちの高校時代を締めくくる最後のディナーパーティーだ」

これからの人生、いろんなさよならが待ち受けているだろうけど、これが最初のお別れになる。僕は僕なりに今日まであれこれ考えて、みんなと別れる心の準備はできているつもりだ。ただ、それは卒業する準備ができているってだけで、人生に入れ代わり立ち代わりさよならが訪れるってことは、まだピンと来ない。

こんな気がめいるようなことをイルサに言えるわけがない。僕の妹は陰気なことが嫌いなのだ。僕はゲイかもしれないけど、彼女は天真爛漫に生きていて、楽天屋でそそっかしくて、家族の花でもあって、いつでも人生をパーティーみたいに華やいだものにしようと頑張っている。―つまり、僕とは正反対の二卵性双生児なのだ。

すごい豪華な料理の数々ね」と彼女は言う。少女が母親の靴を恐る恐る履いてみるような言い方だ。

祖母の靴と言った方が適切かもしれない。僕たちは二人とも祖母の靴を履いているって言っても過言ではないからね。見てよ、この煌めく創作料理の数々を!僕は祖母みたいに料理で輝こうとしているんだなって思うし、イルサの姿を見てよ!まばゆいばかりのフラッパードレスに身を包んで、祖母みたいに輝きたいのだろう。

「単調な日常は忘れようっていうコンセプトで作ったんだ」と僕は彼女に断言する。

「私たちがこのアパートにいる限り、単調な日常が入り込む隙はないわね」

「記憶に残る夜にしような」

彼女はうなずく。「歴史に残る夜になるわ」

僕は最後にもう一度、ひと通りチェックしていく。鍋を開け、ちゃんとボイルされていることを確かめ、醸成したコーヒーの香りを嗅ぎ、オーブンの中の焼き上がり具合をチェックする。あと10分しかない。僕は着替えるために自分の部屋に戻る。クローゼットのドアに僕の洋服が掛かっている。黒いスーツ、白のシャツ、濃紺のネクタイ。僕のいつものスタイルだ。これが一番しっくりくるし、他の服装だと僕はかっこがつかない。今夜はどうしてもかっこいい姿でいたいから。

自分でも知らず知らずのうちに、僕は希望を抱いていた。

彼が現れる確信なんて到底なかったけれど、名前も知らない彼が来てくれるのではないかと期待している自分がいた。

もちろんパーカーには、今夜地下鉄の彼を招待したことは話してある。たとえ瞬間的にであっても、僕だって勇気を振り絞って、一人で思い切ったことができるんだってパーカーに思ってほしくて、話したんだ。数ヶ月前からずっと、僕はパーカーから、早く〈地下鉄の彼〉に話しかけるように言われていた。パーカーが一緒に地下鉄に乗っていた僕をその場に残して、つかつかと〈地下鉄の彼〉に近づくと、「やあ、実は俺の友達がお前のこと好きだっていうんだよ」と、半ば強引に話しかけたこともある。そして先週、ついに僕は自ら行動を起こしたのだ。

今は、待つしかない。

お前はやればできる子なんだよ、とパーカーは僕に言う。僕はたまに、自分に自信が持てなくなると、彼の声を借りて、自分にそう言い聞かせている。

あと8分、僕はシャツのボタンを閉める。

あと6分、僕はネクタイを結ぶ。

あと5分、僕は―

僕は―

僕はこの部屋を出られない。僕には無理だ。できない。できるわけがない。イルサに具合が悪いって言おう。こんなこと、僕にできるはずないよ。これから何が起こるのか、それがどんなことであれ、僕はそれを望んでなんかいない。これは間違いのようなものだったんだ。いたずらで彼に招待状を渡しただけってことにしよう。キッチンに戻って一人で過ごそう。誰も入ってきて欲しくない。誰とも話したくなんかない。僕の体がひしひしとそう言っている。僕の体はシャットダウンしつつあって、「もう十分だよ、サム」と語りかけてくる。僕はやればできると信じ込もうとした。自分自身を騙そうとした。でも、僕が唯一優れている能力は、自分がいつ失敗するかを事前に察知することなんだ。その予知を無視するなんて不可能だ。僕はきっと失敗する。

あと4分。

僕には自分を含めて誰かを騙すなんてできない。

あと3分。

イルサが僕の名前を呼んでいる。僕は医者に言われた通りの手順で、気持ちを落ち着けようとする。ゆっくりと、深く息を吸い込んで、ふーっと息を吐きながら、自分を肯定する。僕はきっとやれる。彼が来ようが来まいが、どっちでもいいじゃないか。僕らのディナーパーティーがこれでおしまいになろうがなるまいが、イルサが喜んでくれようが喜んでくれまいが、べつにいいじゃないか。

あと2分、僕は鏡の中の自分に語りかける。

いつもよりかっこよくきまってるじゃないか。

今夜のパーティーのある時点で、僕はジャケットを脱ぐことになるだろうと思った。その時に手首が露わになっては困る。僕は神経質なまでに慎重なのだ。

僕はジャケットの下のシャツの袖を手首までしっかりと伸ばし、袖口のボタンを留める。いつまでも消えずに残っている手首の傷が見えなくなるまで。

あと1分。インターホンが鳴り響く。

最初のゲストがやって来た。



3

イルサ


ドアを開けるとすぐにわかった。

この子がワイルドカードの男子に違いない。

シャイな物腰、甘い顔つき、サムが今までに街で一目惚れしてきた数え切れないほどの少年たちと同類だったから、すぐにわかったわ。スターバックスの少年でしょ、AMCシアターの少年、〈プレタ・マンジェ〉の店員を好きになった時なんて、サムは毎日のようにサンドイッチを買いに行ってたし、ライブハウス〈ターミナル5〉の彼とか、スーパーマーケット〈トレーダー・ジョーズ〉の彼に一目惚れしたこともあったわね。

今、私の目の前に立っている彼が誰であろうと、どうせこういう子が来るんだろうと思って、私はフレディを招待したのよ。私たちのディナーパーティーには、色気を醸し出すようなホットガイが絶対に必要なの。フレディはバスケットコートでは単純な男子って感じだけど、東ヨーロッパ出身のフレディは恋愛に関しては気が変になるくらいの激情型だろうから、サムがのぼせ上がって、こういう素敵で、いかにも害がなさそうな男子と仲良くなろうとするのを邪魔して、ぶち壊してくれるはずよ。

ワイルドカードの男子は、サムが好きになってきた男子たちと同様に、背が高くてやせていた。そしてサム好みの黒いジーンズを穿いている。(派手さの欠片もない服装で来るなんて、―彼は招待状を読まなかったのかしら?)ワイルドカードの彼が今までの男子たちよりましな点は、彼の着ている白いTシャツの前面に二本足で立つおしゃれを気取った黒猫が描かれていることで、その猫は前足を器用に使ってバイオリンを弾いている。吹き出しに文字も書かれていて、その黒猫は、「ボクは前足でブルーグラス・ミュージックを奏でるんだ」と言っている。ワイルドカードの男子は引きこもりみたいに青白い肌をしていて、くしゃくしゃの赤毛を伸ばしていた。赤い髭も顎の下にだらしなく伸びていて、目は深い緑色をしている。赤とオレンジの中間みたいな色の髪の毛と黒いスキニージーンズのせいで、彼が逆さまに置いたカボチャみたいに見えてきた。でもワイルドカードの彼はすごくキュートで、にっこりと温かい笑顔を私に向けてきたから、私は彼の笑顔に疑いの目を向けないことにした。彼はバイオリンのケースを抱えている。

「こんばんは」と私は言う。「ようこそ。私はイルサ。あなたは...?」

「ヨハン!」と彼は小気味よく言った。「お招きいただき感謝します。ただ、おばあさまがこちらに住めなくなってしまうとのことで、お気の毒です!そのようなことが招待状に―」

私は割って入る。「あなたって面白いアクセントで話すのね。もしかしてオーストラリア人?」

「南アフリカ出身です」

「南アフリカもオーストラリアも同じようなところにあるんでしょ?」

「いや、全然違うと思うけど」

「故郷を離れてはるばるやって来たのね、ヨハン。なんでニューヨークに来たの?」

「ジュリアードでバイオリンを弾いてます」

「クラシック音楽?」

「学校ではそうですね。でも、心ではいつも、アメリカン・ブルーグラスを奏でてます」

背後からサムの声が聞こえてきた。「あれこれ聞くんじゃない、イルサ! 早く彼を中に入れて。彼は吸血鬼じゃないんだぞ」サムは私の背中にくっつくように立つと、私の耳元で、かなり大きな声でささやいた。「彼って吸血鬼なのかな?」

振り返ってサムを見ると、彼のお気に入りのスーツを着ている。サムは頬をほんのりとほてらせて、目を潤ませながら、照れくさそうに彼を見つめている。まったく! 希望とか、期待とか、そういう感情が全部顔からにじみ出てるじゃないの!こいつがポーカーでチャンピオンになることはいつになってもありえないな。

「ちゃんと赤い血が出る人間だと思うけど」と私はサムに言ってから、念のため、ヨハンに直接聞いてみた。「あなたって吸血鬼じゃないでしょ?」

「いや」とヨハンは言うと、私に向かってウインクして、「君の首はすごく魅力的だけど、血を吸ったりはしないよ」と言った。それからサムを見て、「君の首もね」と、サムにもウインクした。

なんて、気の利いた切り返し。いきなり一人目から、私好みのゲストだわ。

「どうぞ、入って」と私は言って、彼が通れるように、開けたドアを押さえていた。

ヨハンはバイオリンケースを手に持っていたけれど、私が見たところ、他には何も持っていないようだった。初めてのゲストは、主催者に手渡してくれるギフトを見れば、その人の人となりが色々とわかるものなのよ。(プレタ・マンジェの彼は、お店で売れ残ったクッキーを持って来てくれたわ。ターミナル5の彼は、花束を私に手渡してくれたし、スターバックスの少年は、ジンジャーブレッドのシロップをくれたわ)―最悪なのは、(トレーダー・ジョーズの彼みたいに)手ぶらでやって来る人なんだけど、ヨハンも「手ぶら組」に入ることになりそうね。もしかしたら、南アフリカにはパーティーに贈り物を持って行くっていう習慣がないのかもしれないわ。っていっても、私は贈り物をもらうためにパーティーを開いてるわけじゃないのよ。(でも、お願い、リー・チャン。また、あのほっぺがとろけるような台湾のチョコレートを持って来てちょうだい)

「このアパートって、ほんとに君のおばあさまが所有してるの?」玄関ホールからリビングルームまでヨハンを案内していると、彼が聞いてきた。このアパートは建物の角に位置していて、エンパイア・ステート・ビルディングも見えるし、南にはマンハッタンのミッドタウン、西にはハドソン川も見渡せる。「ぼくが知ってる人たちはみんな、汚い寮とか、ブッシュウィックにあるシェアハウスで窮屈に暮らしてるよ。ブッシュウィックって労働者階級の町なんでしょ」

「このアパートには、3世代に渡って僕たちの家族が暮らしてるんだ。昔はこの辺りも、こんなに馬鹿みたいな高級住宅地じゃなかったんだけどね」とサムが言う。なんだか彼は、いつもお腹を空かせた芸術家や、いろんな地域を移動しながら暮らす人たちの基準で女帝が生活していないことを謝罪しているように聞こえた。

「賃金統制の関係よ。昔から住んでる人は、土地とか建物が値上がりしても、昔のままの家賃で住んでいられるの。だから今までここに住めたのよ」と私は説明を付け加える。これでヨハンはわかってくれるでしょう。私たちはただ、成金の大金持ちたちに囲まれて暮らしているだけで、私たち家族はお金持ちでも何でもないっていうことを。

サムは賃金統制の話が大嫌いで、私がその話を初めて会ったばかりの人にすると、あからさまに嫌な顔をする。でも私的には、この話をすることで、手っ取り早く初めて会った人の性格をつかめるのよ。良い試金石になるっていうか、だいたい反応は二通りね。運がいいわね、というふうに喜んでくれるか、安い家賃でこんないいところにずっと住んでたなんてずるい、としかめっ面をするか。相手の性格は早く知るに越したことはないわ。まあそれはともかく、重要なことは、運は永遠には続かないってこと。

ヨハンが言う。「なるほど、賃金統制ってそういうことなんだね。前にも賃金統制について聞いたことがあったんだけど、都市伝説か何かだと思ってたよ」

「かなりレアケースではあるんだけど、都市伝説じゃないわ。でも、もうすべておしまい」と私は言って、リビングルームの奥の壁際に置いてある引っ越し屋さんのロゴが入った箱を指差した。「おばあちゃんが払ってる、この広いアパートの毎月の家賃はね、いびきをかくルームメイトとかネズミとかと一緒にあなたが住んでる、ちっちゃな寮の部屋よりも、だいぶ安いと思うわ」

「両方ともぼくの部屋にいるよ!」とヨハンが言う。

「何か飲み物でもどう?」とサムがヨハンに聞いて、話題を変えようとする。「えっと、ソーダ水と、ザクロジュースと、ジンジャーエールがあるけど...」

「ビールはある?」とヨハンが聞く。彼のアクセントだと、「ビーラー」みたいに聞こえる。それってどんな飲み物?

「ごめん」と聖人サムが言う。「アルコールは出さないって祖母と約束してるから」

「私が出してきてあげる」と私は言う。「ビールの銘柄は何がいい? サミュエル・アダムズ? それともシエラネヴァダ?」サムと私の間には暗黙の了解がある。サムが女帝の決めたルールをごねるように言いながら、こっちをうかがうように視線を泳がせたら、私の出番ってことだ。私からしたら、ルールを破ることなんてお茶の子さいさいだから。

「君の好きなもので」とヨハンが答えた。「ありがとう、イルサ」

私はキッチンに入って、しばらくサムとヨハンを二人きりにしてあげることにする。ここに初めて来たお客さんは、―特に都会に慣れていない人の場合―まず壮大な夜景を眺めてから、ちょっと古くなってるけどこの豪華なアパートの中を見て回りたいって思うはずだから。私が頑張ってやったパーティー用の飾り付けをヨハンが気に入ってくれるといいな。私はリビングの壁一面に、ど派手なキラキラ衣装を着たリベラーチェの写真を年代順に何枚もピン留めしたのよ。それからダイニングのテーブルの上のシャンデリアには、ディスコ風の小さなミラーボールをぶら下げたし、洗面所には女帝がアイルランドで買ってきた最高級のハンドタオルを用意したし、洗面所の化粧台の引き出しには、〈アドビル〉(お酒が飲めないお客さん用の薬)と、〈ペプト・ビスマス〉(サムの料理が口に合わなかった人用の胃腸薬)と、色とりどりのコンドーム(イチャイチャしたくなっちゃった人用)を入れておいたわ。

キッチンには固定電話があって、このアパートと建物のロビーをつないでるんだけど、その電話が、まるで1956年のような粗雑な響きで鳴り出した。その頃は誰も着信音が鳴る携帯電話なんて持っていなかったんでしょう。

「もしもし」と私は電話に出る。

「お客様がお見えになりましたのでお取次ぎします...」とドアマンが話し出した。

「いちいち電話をくれなくても大丈夫よ、バート。どんどん入ってもらって、上の階に上げちゃって。ありがとう!」

私は電話を切り、冷蔵庫からサミュエル・アダムズを2本、私とヨハンの分を取り出した。冷蔵庫の中に元々何本のビールがあったかを数えて、ちゃんと覚えておかなければならない。女帝が帰って来る前に、KKの家からくすねてきたビールで埋め合わせて、元通りの状態にするためよ、KKの両親はビールが家からなくなったって気づきもしないわ。彼らはKKが普段から寿司とチョコの棒アイスだけを食べて生きてることも知らないんだから。

お客さんを出迎えようと玄関に向かっていると、書斎からサムの弾くピアノの音が聞こえてきた。デューク・エリントンの『キスへの序曲』だ。その曲は奥の手で取っておいてよ、サムったら気が早いんだから。まだパーティーは始まってもいないのに!それにしても、なんて甘くて、希望に満ち溢れたメロディーなの。私もつられて胸躍る気分になるわ。今までで最高のディナーパーティーになりそう。そんな予感が胸の内に溢れてくる。

私はいつものように玄関のベルが鳴るまで待つことにする。本当はドアを開け放ち、上がってきたエレベーターから、お客さんたちがこの8階のフロアに降りてくるところを見たいんだけど、私はいつもその衝動を抑えながら玄関の内側で待っている。良い主催者っていうのは、待ってましたとばかりにお客さんを出迎えるんじゃなくて、余裕を持って待ち構えているものなのよ。私は玄関ホールの鏡に映る自分の姿を見つめる。深みのあるワインレッドの口紅を濃く塗りすぎた気がして、ティッシュをくわえて少し色を抑える。目の下に黒のコールで引いたアイシャドーを指でなぞって少しぼかす。それから、切ったばかりのボブヘアーの黒い前髪を整えるようになで下ろす。美容院で1920年代のショーガールみたいなレーザーカットのボブにしてもらったの。髪の両側の先端が、私のあごに届きそうなくらい尖ってるのよ。

私は次のゲストに願いを込める。ウィルソン・サラザール、どうかウィルソン・サラザールが来てくれますように。サムが呼んだ3人のうち、まず1人目のベールが明かされたわけだけど、ヨハンはもうすでに素晴らしい人だってわかったわ。残りの2人のうち1人は、ジェイソン・ゴールドスタイン=チャンでしょう。ジェイソンはサムにとって、安全パイというか、いつものメンバーって感じだからね。ジェイソンはサムの心安らぐ元カレという矛盾した存在なのよ。そうすると、サムのゲストは残り1人ってことになる。私はサムがついにウィルソン・サラザールを招待したんじゃないかって期待して、たまらなくなって生唾を飲み込む。彼はラガーディア芸術大学の4年生で、演劇科で一番才能があって、かっこいい俳優なのよ。去年の秋にはマクベスを演じて舞台上で殺されてたし、この春の「ウェスト・サイド・ストーリー」では、私の心が張り裂けそうになるくらい、観ているだけで切ない気持ちになったわ。

玄関のベルが鳴る。私は中指を人差し指の上に重ねて神頼みをする。ウィルソン・サラザールが目の前に現れることを願いながら、「ウエスト・サイド・ストーリー」の劇中歌『Tonight』をささやくように歌う。「Tonight, tonight / It all began tonight.(今夜、今夜/すべてが始まった今夜)」

目の前のドアが開く。

なんてこと!

「今日の君はすごく魅力的だね、イルサ」パーカー・ジョーダンが、赤いバラの茎の部分を歯で挟みながら、何の気兼ねもないといった表情で、そんな歯の浮くような台詞を言ってのけた。彼はスパンコールがちりばめられたマイケル・ジャクソン風の黒と白のタキシードを着ている。私たちが社交ダンスのパートナーだった頃、競技会で彼がいつも着ていたやつだ。彼は髪型を、テレビドラマ『ベル・エアの若き王子』の頃のウィル・スミスみたいに、横を刈り上げてハイトップにしていた。それは、私がいつも床屋さんに彼の髪型を「刈り上げてハイトップにして」って言っていたヘアスタイル。私たちが付き合っていた頃は嫌がってしなかったくせに、私が髪型をせがまなくなったとたんにこれだもん。でもまあ、願いが叶ったってことね。

私は彼の口から赤いバラを取り、振り向くと廊下に向かって放り投げた。「さあ、取って来なさい、パーカー!」と私は言う。

パーカーが笑って返す。「おい、イルサ。もうそんなことしないよ」

「あなた、来るの早すぎ」と私はパーカーに言う。

「何時に来ればよかった?」

「何時でも来ちゃだめ」

「じゃあ今でぴったりじゃん!」とパーカーが言う。

仕方なく彼をリビングルームまで案内しようとしたら、彼は図々しくも私を差し置いて、玄関ホールからすたすたと勝手に中に入り込み、ここには100万回来たことあるよ、とでも言わんばかりの慣れた様子で、リビングに向かって突き進む。私は玄関のドアを閉めてから、彼を追った。すると彼が私に茶色の紙袋を手渡してきた。「どうぞ。ママとパパからの差し入れだよ」彼の耳が書斎から聞こえてくるピアノの音色をとらえたようで、彼は耳を澄ましながら言う。「このジャズはエリントンだ。いきなりいい選曲だよ、サム」

私はパーカーの手から紙袋をひったくる。彼に「ありがとう」なんてまどろっこしくて言ってられない。後で直接彼の両親に、お礼のメールを送るからいいわ。紙袋の中を覗くと、パックが2つ重なって入っていた。私はすぐに中身はきっと、私の大好物のスイートポテトパイとレモンチェスパイだって、ピンと来た。パーカーの両親はヘルズキッチン地区でベジタリアン向けのソウルフードカフェを経営していて、メニューの中でその二つが私の大好物だって知ってるからね。

彼の両親が私の大好物のパイを届けてくれたってことは、もうあの動画のことは許してくれたってことでしょう。私はパーカーが私に別れ話をしてきた時、それを動画に撮ってSNSに載せちゃったのよ。そしたらすごい勢いで拡散されて、(少なくとも私たち二人の知り合いは全員あの動画を見たし、マンハッタン中の人に広まったんだけど、)当然彼の両親も見たらしくて、その動画をネットにアップした私に怒ってたみたいだから。サムの話によると、その動画のせいで、パーカーは街を歩くのも大変になったみたい。今までパーカーが振ってきた女の子たちが通りで彼を見かけるたびに、あの動画でパーカーが言った台詞を、パーカーに向かって浴びせるんですって。「君がどうこうってわけじゃないんだ。別れるのは俺のせいなんだ...」ってパーカーの真似して言ってから、「ふざけんな!」って鋭い声を上げて、パーカーの頬をひっぱたくらしいの。(ああ、いい気味。サムは何度もその場を見かけたらしくて、サムから目撃談を聞くたびにスカッとするわ。振られた女の子同士、一心同体になった気分!)

それから、パーカーが今夜ここにやって来たってことは、彼も私をもう許したってことでしょう。

私は、今夜パーカーを招待したサムをそんなにすぐに許すつもりはないけどね。サムは私が高校を正式に卒業するまでは、パーカーに会わないことにしてるって知ってて彼を呼んだのよ。綺麗なドレスを着て彼と踊るはずだったプロムパーティーが終わって、彼と南のビーチに行くはずだった卒業旅行のシーズンが終わって、卒業式が終わるまでは、なるべく彼のことを思い出さないように気をつけてたのに、急に彼が目の前に現れたら、台無しじゃない。

「君の両親から僕へのプレゼントはないの?」と、パーカーがせがむように言ってきたから、私は笑いそうになって、噴き出すのをこらえた。私の両親が彼にプレゼントなんてあり得ないわ。だって、私が彼と別れて一番ホッとしたのは、私の両親なんだから。私がどうこうってわけじゃなくて、パーカーのせいで、ずっと不安だったみたいね。

「うちの両親は今ね、〈ホーム・デポ〉に行ってるわ。工具売り場で斧を買うんですって。あなたのその突っ立った髪の毛をスパッと切り落とすのに、ちょうどいいオノをね」

「じゃあ、彼らに伝えてくれるかな。〈ホーム・デポ〉と提携してるクレジットカードを持ってるなら、250ドル以上の買い物をすれば金利はつかないって。そして、何でもくっつけるプラズマ溶接機を買った方がいいって。君のパパって、いつか高価な溶接機を購入して、君のそのやかましい口をくっつけて、開かなくすることをずっと夢見てたんじゃなかったっけ」

私の両親は〈ホーム・デポ〉がどこにあるかも知らないわ。

サムとヨハンが書斎から戻ってきて、サムがパーカーにヨハンを紹介する。

「君のこと、どこかで見たような」と、ヨハンがパーカーに言った。「どこだったかな? CMに出てたりする?」

きっと私がアップしてマンハッタン中に広まった動画のことだと思ったけど、口に出すわけにもいかず、私はなんとかテレパシーでヨハンに伝えようとした。「君がどうこうってわけじゃないんだ。別れたのは俺のせいなんだ...ふざけんな!」でも、ヨハンは私の無言のテレパシーを察知してくれず、すぐにサムが話題を変えてくれた。「イルサ、今夜は携帯の保管場所をどこにするか、もう決めた?」

4回前のディナーパーティーだったかしら、スタンタが一晩中、スタンタは退屈であくびが出ちゃう、とかなんとか、ずっとパーティーの様子をツイッターで実況中継していたの。だからそれから、私たち主催のパーティーでは携帯を触るのを禁止にしたわ。パーティーの質を無限に高めるためよ。今では、お客さんたちは料理の写真を撮ってインスタにアップするのはやめて、じっくり料理を味わって食べてるし、「@スタンウィックがかつて住んでいた屋敷」と、フェイスブックに今いる場所を載せることに必死になるのはやめて、スマホの画面ではなく、窓の外の景色を楽しんでるわ。お互いに目と目を合わせて、お喋りしながらね。

でも、今夜の私は気が変わったの。「今夜は携帯を保管場所に片付けないことにしましょ」パーカーがここにいるってことは、私はパーティーの間中、気の利いた会話でゲストたちを楽しませることができないかもしれないし、自分の部屋に駆け込んで、泣きながら夜を過ごすってことにもなりかねないから。そしたら私がいない間に、パーカーは一晩中あれこれ話し続けるでしょうね。彼がプロムパーティーに連れて行く(がさつな私ではない)素敵な女性についてとか、彼が合格した一流大学や二流大学についてとか。というのも、アイビー・リーグの大学が彼を欲しがらないわけないから。彼はドミニカ人とアフリカ系アメリカ人のハーフで、卒業式では卒業生代表としてスピーチすることになってる。ラクロスのスタープレイヤーでもあるし、社交ダンス大会では優勝したこともあるし(その時のパートナーは私だったんだけどね)、一等地にあるベジタリアン向けのベイキングカフェの跡取り息子でもあるのよ。

今夜、私は女帝になりきっておもてなしをするわ。すべてに気品が漂うように振る舞うの。ただ、なんでサムはパーカーを呼んだりなんかしたのかしら。すっごく裏切られた気分だわ。考えてもみてよ、サムが失恋して傷心しきってるとして、そこにサムの苦しみの原因であるその人を招待するかしら? 心が健全な私だったら、そんな傷口に塩を塗るみたいなこと絶対にしないわ!

「いや、携帯は片付けよう!」とヨハンが言った。「僕は前から携帯のないパーティーってどんな感じだろうって興味があったんだ。そうだ、僕のバイオリンケースにみんなの携帯をしまおうよ」そう言うと彼は、さっき玄関ホールのそばの廊下に置いたバイオリンケースを取りに行った。そして持ってきたバイオリンケースを開けながら、彼は私たちを見上げて、こう言った。「パーティーのお土産って何がいいのかわからなかったから、これに入れて、こんなキラキラしたものを持って来ちゃった」



4

サム


昔々あるところに、マーケティングの天才がいました。この商売上手の天才は、男の子たちが人形で遊んでいないことに気づき、男の子用の人形には何か斬新な名前が必要だと考え、「アクションフィギュア」という名前を編み出したのです。かくして、男の子たちも人形で遊ぶようになり、してやったりのこの天才は、自慢顔で一人ひそかに笑ったに違いありません。

そのアクションフィギュアを開発した天才が、ヨハンのバイオリンケースの中身を見たらどう思うだろうか。きっとその天才は、こういう意図で作ったわけではないはずだ。というのも、そこに入っていたのは、紛れもなくアクションフィギュアだったのだが、背丈も同じサイズ感で、材質も同じプラスチック製なのだろうが、

ただ、それらのアクションフィギュアはすべて、女性シンガーソングライターのドリー・パートンだったのだ。

おそらく胸のなめらかな曲線はバービー人形のものだろう。胸だけではなく、パッケージに包まれたすべての要素が、小柄でありつつも大きくも見え、そして肉感的な女性に仕上がっていた。

色とりどりの派手なコートに身を包んだドリーがいる。いたいけな貧しい少女から億万長者へと成り上がった天才歌手だ。

「I Will Always Love You」と歌い上げるドリーがいる。あの名曲は元々彼女の歌で、―ご存知のように、のちに天使の翼をまとったホイットニーが歌い継ぎ、あの微笑みとともに世界中に広まったのだ。

9時から5時の勤務が終わり、勝ち誇ったようにオフィスの机の上に立つドリーがいる。彼女の下には手足をロープで縛られた上司が縮こまっている。

そして、最後の一体は、アームレスリングをするドリー...対戦相手はあの人だった。

「これはシルヴェスター・スタローンなんだ」とヨハンが説明する。彼の声は木管楽器のようで、心地よく僕の耳に響いた。「映画『クラブ・ラインストーン』の時のスタローンだよ」

クラブ・ラインストーン。


ここまでは、taaさんが校正してくれました。


今までtaaさんにお金を払ってお願いしていたのですが、ぼくのお金が続かなくなってしまいました...涙←いくら払ってたの?←1回500円。←安っ!安すぎでしょ!!

それでも払えなくなってしまったので、

無料で校正してくれる人を募集します!

narumicolor@gmail.com

こちらのメールアドレスまでメールをください。

英語はできなくても大丈夫です。

女性言葉の語尾を「~だわ」に変えたりとか、そういう感じです。←でも報酬なしでしょ?笑


ここからは、藍の初訳です。


僕は啞然としたまま、言葉が出てこない。かろうじて、「君はハリウッドを作ったのかい? バイオリンケースの中に」と言えた。

「当然これがバイオリンケースだという考えにはぼくも賛成だよ。でも、そうだね。君がくれた招待状に、キラキラに着飾ってきてって書いてあったから、こういうことかと思って」

パーカーが僕を見て、目を丸くした。彼がよくやる驚いた時の合図だ。「マジかよ。白人っていうのは暇なとき、こんなことしてるのかよ」みたいな目をしている。でも、その表情から、パーカーが喜んでいるのがわかった。〈地下鉄の彼〉が、会ってすぐにがっかりってパターンじゃなかったから彼も嬉しいのだ。地下鉄で一目惚れした相手なんていうのは、たいていディナーに呼んだはいいけど、すぐに幻滅してそれっきりになってしまうものだから。イルサはなんだか悩まし気な表情をしていた。たぶんパーカーがすぐ近くにいるっていうのに、彼を突き落としてここから追い出すための「落とし戸」が床にないからだろう。あるいは、初対面の人にいきなりキラキラ度数の高い代物を出されて面食らっているのか。ポーカーでたとえると、最初から高い賭け金を目の前に置かれたみたいで、彼女はいったいいくらコインを積めばいいのか迷っているのかもしれない。

「さっき言ってたビールを取って来るね」と言って、イルサはキッチンへ行ってしまった。ちょうどヨハンが彼女の方を見て、「ドリー...」と言い出すタイミングだった。彼女がいなくなったあと、ヨハンはこう続けた。「ドリーにかぶせたかつらの髪の毛は、ユニコーンの涙から紡がれたんだ」と。

「俺もちょっと行って見てくるよ。彼女1人じゃ運べないかもしれないし」そう言って、パーカーも彼女の後を追った。

ヨハンがバイオリンケースを閉めようとするそぶりを見せたから、僕はありったけの思いをぶつけるように、大声で叫んだ。「だめ!閉めちゃだめ!」躁鬱病の興奮状態が爆発したみたいな無様な絶叫をしたのち、僕はさらに症状を悪化させたみたいに、ふらふらとピアノのところまで行くと...片腕を伸ばして、ピアノに載っていたすべての楽譜を払いのけた。バイオリンケースを置く場所を作るつもりだったのだが、なんだか映画『アマデウス』で晩年のモーツァルトが作曲部屋でやっていたのと同じ有り様になってしまった。結果として、「ゴルドベルク変奏曲」の楽譜が吹き飛び、はらはらと宙に舞い、ドビュッシーの楽譜が長椅子の下にひらりと滑り込み、ニコ・ミューリーの楽譜は重力に抗うように、ゆらゆらと女帝のお気に入りのライムグリーンのソファを目指した。

ヨハンは内心そんな僕の行動に驚いたのかもしれないが、彼は動揺の色を見せずに、ドリーのクローン人形を絶好のお立ち台に並べると、栄誉ある場所を授かったドリーの気持ちを代弁するかのように、軽くピアノを弾き始めた。ドリー・パートンが男性歌手とデュエットで歌い、ヒットした曲だった。その調べに僕は、頭の中で歌詞を乗せる。

Islands in the stream.(嵐の中の島々)

That is what we are. (なんだか私たちみたいね)

イルサがこの部屋にいれば、ピアノが奏でるメロディーに寄り添うように、声に出して歌っていただろう。

僕は―

僕は―

僕は彼から目をそらす。僕の人生に新しい人が入って来た。それはきっと新たな始まりをもたらしてくれる。そうはわかっていても、僕は僕のままなのだ。結局は彼も、いつかそのことに気づいてしまう。

「何か飲みたいんだっけ?」と僕は聞いてみる。

彼が僕の方を見る。僕が冗談でも言ったと思ったような目だ。それから彼は僕が冗談など言っていないことに気づいたようだった。

そうなのだ。僕が彼について知っていることといえば、彼がビールを飲みたがっているということくらいなのだ。

「もうすぐ飲めるよ」と僕は言って、視線を落とす。床に散らばったベートーベンの楽譜を拾い、くるくると巻き上げる。彼に謝りたい気持ちになった。

「さっきの君の演奏、すごく良かったよ」とヨハンが言った。

「僕が演奏してるとき、君が僕の真後ろに立ってる感じがすごく良かった」と、僕は言えない。「君にいい演奏を聴かせるという目的をしばし忘れて、僕は自分の演奏に陶酔しきってしまったよ」と言いたかった。

すごくシンプルなことだったんだ。彼がピアノを見ながら、弾いているのは誰って聞いたんだ。

「僕だよ」って、ただそう言えば良かった。

僕がやるべきことは、ピアノの前に座って、曲が自然と歌い出すのを待つことだけだった。

いや、そうじゃない。僕の指で強引に歌わせるべきなんだ。

「もうあきらめたんだ」気づくと、僕は声に出してそう言っていた。

この発言には僕のいろんな思いがつまっていた。大半は自分自身に対して言ったのだが、言葉の背後には、彼に向けて発した意味もあった。僕がどういう人間で、彼にそういう気持ちを抱いても仕方ないって、彼にそれとなく伝えようとしていた。

「いつ?」と彼が聞いてきた。

「数年前に」と僕は答える。実際はほんの7ヶ月前のことだったけれど、僕は自らピアノ教室をやめ、人前ではもう決して演奏しないと誓った。―あんな風に公の場で弾くことはもうないだろう。あんなに強烈なプレッシャーを感じながら弾くことは、―もう二度と。

「でも、きっと君はすべてをあきらめたわけではないんだね?」彼が床から楽譜を何枚か拾い上げながら言う。

「妙な話なんだけど、僕はあきらめたはずだったんだ。ただ、音楽の方が僕を手放してくれないんだよ」

「音楽からは、逃げられないってことだね?」

彼の言い方から、彼も何度か似たような経験をしたことがあるんだと思った。

僕はうなずく。もうステージでは弾いていない。だけど、音楽は僕の一番奥の大事な部分に、まだしっかりと根付いている。

彼が僕を見ている。聴衆のような好奇心に満ちた眼差しで見つめている。彼にとって、僕も〈地下鉄の彼〉だったのだろう。でもそれは過去のことで、今は違う。

今の僕は、まだ彼にとって何者でもない。

僕たちは、まだ不確定な存在なのだ。

玄関のベルが鳴り響き、新たなゲストの到着を告げる。僕は一瞬動きを止め、キッチンから人が出てくる気配がないか耳をそばだてる。何の動きもないようなので、僕はヨハンにちょっと失礼と言ってから、玄関に向かった。

彼を1人残して行くのは申し訳ない気がした。そんな馬鹿げた感情を抱くなんて、時期尚早すぎるのはわかっていたけれど、どうしようもない後ろめたさがあった。

玄関に着いてドアを開けると、立っていたのはイルサの友人のリーだった。彼女は気配り上手で、いつもセンスの良い服装をしている。

しかし今夜の彼女は、ふしだらなフランス人のメイドが着るような服としか呼びようのない格好をしていた。つまり僕が言いたいのは、ハロウィーンのコスチュームでよくあるフランス風のメイド服なんだけど、ただ、露出部分がかなり多めってこと。

彼女は僕の服装をチラッと見てから、僕の顔を見遣って、「コスチュームパーティーじゃないんですか?」と言った。

僕は首を振る。

「私ったら、どうしてコスチュームパーティーだと思ったのかしら?」と彼女が聞いてくる。

僕に聞かれても答えようがない。

「私はジャクソン・ハイツに住んでるの」

彼女が言いたいのは、ここからは遠すぎて着替えに帰ることはできないってこと。つまり、彼女は今夜ずっとこの格好でいることになる。

「それに私、あなたの妹の服は着られないわ」

彼女が言いたいのは、イルサの服は入らないってこと。つまり、彼女は今夜ずっとこの格好でいることになる。

「まあ、キラキラしてていいんじゃない」と僕は言ってみる。「昔のリベラーチェのパーティーでも、君と全く同じものを着ていた人が、毎回少なくとも3人はいたはずだよ」

彼女が気恥ずかしさを内面でなんとか肯定して折り合いをつけているのがわかった。僕にはそういうことができないから、うらやましい。

彼女が紙袋を持ち上げて見せた。「あなたの妹が大好きなチョコレートを持ってきたの」

僕は腕を後ろに向けて、言う。「彼女はキッチンにいるから、持って行ってあげて。きっと喜ぶよ」

リーは後ろに手をやると、もう一つ別の紙袋を取り出した。

「これはみんなに持ってきたの」

なんて気の利くゲストなんだ。

彼女が履いているパンプスは、いつもより少しヒールが高いように感じた。だからなのか、二つの紙袋を手に持った彼女は、玄関ホールから歩き出し、キッチンへ向かって方向転換するとき、若干ふらついたようだった。僕は彼女の背後でアパートメントのドアを閉める。

「パーカーもいるんだよ」と僕は彼女に言う。僕の発言を裏付けように、キッチンからグラスがパリンと割れる音がして、僕の妹が何やら罵声を飛ばしている。はっきりと聞こえたのは、「くそやろう」という汚い言葉だった。

「ちょっと今は、キッチンに行かないことにするわ」とリーが言った。「このチョコレートはすごく高級なのよ。誰かさんの顔に投げつけられたら、もったいないから」

「じゃあ、こちらへ」と僕は彼女を促す。

ピアノのある部屋に戻ると、楽譜はすべて、ピアノの上のヨハンのバイオリンケースの横に整然と積み上げられていて、グッゲンハイム美術館の上にそびえ立つオフィスタワーのようだった。

「ヨハン、こちらはリー。リー、こちらはヨハン」と僕は言う。

リーが彼の手を握りながら、尋ねる。「あなたたちはどうやって知り合ったの?」

「公共交通機関で」とヨハンは答えたが、それ以上の説明はしなかった。

キッチンからの騒音が、音楽業界では「咆哮」と呼ばれるレベルの音量まで達した。それを合図だと受け取ったのか、それに呼応するように玄関のベルが鳴った。

イルサが呼び鈴を口実にして、キッチンから出てくるだろうと思った。

しかし彼女は出てこなかった。

「ちょっと行ってくるよ」と僕は言う。リーかヨハンのどちらかが、代わりに行くと名乗り出てくれないかと思いながら。

どうせジェイソンだろうと思いながら僕は玄関まで行き、ドアを開けると、ジェイソンとは似ても似つかない、見知らぬ男が立っていた。熱さのスケールでいうと、ジェイソンは爆竹花火かもしれないが...この男は太陽だった。彼は服を着ていたが、まるで彼が裸みたいに、僕の体がゾクゾクと反応した。僕の視線は彼の力強い肩に向かい、そこからさらに上昇し、彼の顔に焦点を合わせる。

「ハロー」と僕は言ったつもりだった。でも、なんだか尻すぼみの声しか出てこなくて、語尾が伸びずに、「ヘル(地獄)」のようになってしまった。

彼の手を見ると、パーティーの招待状が握られていた。ということは、イルサが呼んだゲストの一人ということになる。

それから、彼のもう片方の手に僕の目は引き寄せられた。

なぜなら―

片手に靴下をはめていたから。

二つのボタンが緑色の目のように付いた白くて長いチューブソックスだった。

そして赤い糸で縫われた口があり、

茶色の毛糸で編まれた髪の毛も付いていた。

「ここで合ってるといいんだけど」と、その靴下がパクパクと口を動かして喋った。

その声は僕の心がざわつくほど、魅力的だった。英語は第二言語のようだったが...そんなことはどうでもよくなるくらい、〈セクシーな野獣〉のような声だった。

「なんて言った?」と僕は聞き返す。靴下のパペットを相手にするときは、十中八九、こう切り返すのが唯一の正解なのだ。

「イルサのパーティー会場で合ってます?」と靴下は続ける。僕は神々しい男の顔を見上げてみるが、彼の唇は動いていない。

そうです。イルサのパーティー会場ですよ」と僕は答える。僕が話しかけているのは、目の前の〈手〉ではない。僕はその向こう側から僕を見つめている熱い男に話しかけているのだ。彼の視線が熱すぎて、〈手〉と話しているとは到底思えない。「僕は彼女の兄で、サムっていいます」

「初めまして」と靴下が言って、握手を促すように小さな手を差し出してきた。靴下の中の彼の小指に違いない。

僕はその男を見つめて、「本気でやってるわけじゃないでしょ?」と目で訴えかけた。

彼は僕を見返してきて、「俺の選んだ生き方だよ。尊重してくれ」と目で答える。

僕は靴下越しに彼の小指と握手する。

「ボクはカスピ海のほとりからやって来たカスピアンっていうんだ」と靴下は言う。「彼はフレデリックっていって、バスケットボールをしていたとき、イルサと出会ったんだ。彼がバスケットコートにいるときは、ボクはどうしても彼のすぐそばにいられないから、ボクは彼女に会う機会を逃してしまった。でも、今こうして君に出会えて、ハッピーだよ」

「どうぞ」と僕は言う。「入って」

イルサの〈ワイルドカード〉は、ちょっとワイルドすぎだなと思った。これはきっと、イルサが想像していた以上にワイルドだな。

あるいは彼女は僕をからかってるのか。

まったくイルサってやつは。

彼に会ったら僕がどうなるか。

彼女はちゃんと把握してるんだ。

「なんて素敵な家なんだ」と、カスピアンがボタン製の目で辺りを見回しながら言った。

「どうもありがとう」と僕は言う。

イルサは僕をおちょくるために彼を呼んだのか?

答えはイエスであると同時に、ノーでもある。

つまり、これを一つの芸事と見ると、彼の腹話術の腕前は、おふざけレベルを超えているのだ。

「実はボクは、君がイルサのお兄さんだって前から知っていたんだ。君のことを彼女から色々聞いていたからね。すごく素敵なお兄さんだって」

いやいやいや、やめてくれ。もう十分だよ。

「彼女のさしがねだろ?」と僕はフレデリックを問い詰める。「イルサに言われて、こんなことしてるんだろ? それで、僕の反応をインターネットにアップして、みんなに晒すってやつだろ? カメラはどこだ?」

フレデリックが僕の顔を見据えて、にっこり甘く微笑んだ。

誰のさしがねでもないさ。これは俺が選んだ生き方なんだ。尊重してほしい。

「君って、彼女が言ってたよりもずっと可愛いね」とカスピアンが僕に言った。

まさにワイルド、カード。

僕は彼らを―というか彼を―どこへ連れて行けばいいのかわからなくなる。まっすぐキッチンへ? それとも一旦ピアノのある部屋へ?

「いったい全体、何なの?」と、抑揚のついた声が聞こえてきた。

6つの目が―そのうちの2つはボタン製だったが―いっせいに開けっ放しの玄関に向く。

「私はまだここに来て6秒だけど、もう退屈してるんですけど」と、KKがぶつくさ言い出した。

にわかには信じがたかったが、彼女もまた、フランス風のメイド服を着ていた。



5

イルサ


 「くそやろう!」と、私はパーカーに向かって金切り声を上げた。私が彼から今までに聞いた中で、最もいやらしくてばかばかしい、完全にあり得ない要求を彼がしてきたから、私は冷凍庫から冷えたビールグラスを取り出して、ツンと突っ立った彼のアフロヘアを狙って、テニスのサーブをするみたいに、グラスを投げ込んだ。彼が素早く頭を引っ込めて、かわす。何度も見たことがある光景だった。くるくると弧を描いたグラスが彼の背後のタイル張りの壁に当たって、パリンと砕け散る。パーカーと私がこのような喧嘩をするのは、すごく久しぶりだった。前は喧嘩の後に、割れたグラスを新品と買い替えていたんだけど、これと同じグラスがどこで売っていたのか、久しぶりすぎて思い出せない。願わくは、女帝が冷凍庫の中のドイツビールのグラスが3本に減っていることに気づかなければいいな。そして願わくは、前みたいに、私が興奮してパーカーのあそこに飛びつきたくならないといいけど。こういう風に何かを壊すと、体が熱くなっちゃって、すぐにしたくなっちゃうのよね。

「落ち着けよ。あぶねえな、まったく」と、パーカーが私に向かって言ってくる。でも彼は全然動じていない様子だったので、それがさらに私の神経を逆なでする。彼は食料貯蔵室まで歩いて行き、ほうきとちり取りを引っ張り出してきて、割れたグラスの破片をほうきで掃き出した。ああ、私が割ったグラスを彼が片付けているこの懐かしい感じ、やっぱり好きだわ。「それでお前はしたいの? したくないの?」

「したいわけないでしょ!」と私は宣言する。私のプライドがそう言わせたのよ。

でも内心はすごくしたかった。体が文字通り、うずくように欲していた。

「さあ、おいで。イルサ」と、彼が彼の中で最上級に甘い声をしぼり出して言った。彼は私がもう我慢できないほどしたいことを知っている。もし私が今、ボタンの付いたブラウスを着ていたら、パーカーのこの甘く私を丸め込むような誘い文句を聞いただけで、私の胸のところのボタンが弾け飛んでいたことでしょう。私の胸を急激に膨張させるくらい、彼の殺し文句は威力があるのよ。特に付き合っていた頃は強烈だったわ。「ほら、もう一度、あの頃を思い出してさ」

「どんな感じか忘れちゃったわ」と私は噓をつく。私はずいぶん長い間、あの感じを味わっていない。そうね、パーカーと私が別れてからご無沙汰って感じね。

パーカーと別れた後も、他の男子と付き合ったことは付き合ったし、KKとも一回だけしてみたことがあるけど、でも何か違うのよね。パーカーが私にしてくれたみたいには、誰もできなかったわ。まあ、KKとの時は、「イエーガー」っていうお酒をいっぱい飲んだら、体がほてってきちゃって、ああなっちゃったわけだけど。

パーカーは割れたグラスをゴミ箱に捨てると、私の後ろの張り付くように立った。そして、私のお尻に彼の硬くなった部分を軽く押し当てて、腰を回転させてきた。「もちろんお前は覚えてるさ」と彼が私の耳元でささやく。彼の吐息が導火線のように首筋をつたって、私の体中をゾクゾクさせる。彼が腕を私の腰に回し、すごく大胆に腰を動かす。私はもう抵抗できない。私は、私の腰から一瞬離れた彼の手を引き戻すように握り締めて、私の腰にあてがう。ああ、この感じ、こんなに簡単に戻って来るものなのね。二人の欲望が親密に重なり合う、心地良いリズム。私はこれが正しいことだと信じたい。実際にしてしまいたくて、たまらなくなる。

でも私は断念して、正しいことだと思うのをやめる。過去の想いが蘇る。私がどれだけ彼を愛していたかを思い出す。そして、彼がどれだけ私を愛していると私が思っていたかを思い出す。

私は彼から体を引き離し、振り向いて言った。「どうして今なの?」

「楽しいかなと思って」と彼は言う。彼の懇願するような声が一層トーンを高め、その頂上から性的魅力が自然と溢れ出てくるようだった。

「他にこういうことをする女の子はいないの?」

「お前みたいに俺を揺さぶる子はいないよ。わかってるくせに」

その通りね、私はわかってるわ。

その瞬間、パッとアイデアがひらめいた!ジャジャジャジャーン!と、私の天才さを告げる音も鳴り響く!私の発想力に自分でも舌を巻きそうになるけれど、私は平静を装って言った。「猫ちゃんたちを連れてくるわ。そうすれば、―」

「嫌だよ」と彼が遮ってくる。「猫は嫌だ。あいつらが登場すると、俺はいっつもドン引きっていうか、萎えるんだよ」

まあ、彼の言いたいことはわかる。

それでも私は言う。「猫ちゃんたちを連れてくるか、そうでなければ、イルサちゃんも、なしね」

彼は深く息を吸ってから、大きく吐きながら言う。「わかったよ。猫でいいよ」

「そうね、考えてみるわ」

と言いつつも、私の頭にはすでにパーカーの度肝を抜くような斬新な技の数々がはっきりと浮かんでいた。私たちが別れてからというもの、私はバレエ教室に通い出したり、リラックス・ヨガの教室に行ってみたり(あれは結局、ほとんどの時間がお昼寝タイムになっちゃったけど、まあ、忙しい日々の中で唯一の安らげる時間になったから、よしとするわ)、それからポールダンスにまで手を出したのよ。そういう努力が実を結んで、私は軟体を駆使した技のレパートリーを身につけたってわけ。パーカーの反応が見ものだわ。パートナーがそんなことをやってくるとは、彼は夢にも思わないでしょうから。だって、彼の潜在意識のレベルでさえ、そんなことが可能だなんて知るよしもないでしょうから、夢にも出てくるはずがないのよ。

「考えなくていいから、早く着替えて来いよ」とパーカーがけしかけてくる。彼は重々承知なのだ。私のショードレスは女帝のドレスルームにしまってあって、一旦着替えを済ませれば、後はもう考えることがなくなって、私がすっかり彼に夢中になるってことを。

私は着替えに行くつもりだけど、そんなに急いで行って数分で着替えを済ませたりはしない。じらせるだけじらして、パーカーが身をよじるほど、うんと期待を抱かせたい。その間に、あれがどんな感じだったかを思い出してほしいの。そんなにすぐには満足させてあげないわ。できるだけ長い時間、彼を待たせて、不安にさせるの。彼は欲望が切実なまでに求めていることを、達成できないかもしれないって焦るわ。そして焦れば焦るほど、彼は切迫して燃え上がるのよ。それが彼と付き合っていた頃からの、彼とのダンス前のルーティンで、その甲斐あって、彼との社交ダンスは輝かしい結果を残せたのよ。

私は自分が着ている、小さな銀のスパンコールがキラキラと光るフラッパードレスを見下ろす。1時間前はあんなにキュートに見えたのに、なんだかみすぼらしく思える。ディナーパーティの招待状に「キラキラに着飾ってきて」って書いた主催者の私自身が、その指示に従ってなかったなんて、自分でもあきれちゃう。この退屈な衣装はなんなの? こんなんじゃ、サムに私のコーディネートを頼んだみたいじゃない。私はいったい何を考えていたのかしら? 「単調な日常はひとまず忘れましょう」とか書いておきながら、私自身がこんな単調なドレスを着ていたなんて。やっぱり私にはパーカーが必要ってことね。今夜彼が来てくれなかったら、こんなつまらないドレスを着たままだったわ。私は衣装ケースの鍵を外して、猫たちを解放する。パーカーと私が別れて以来、ずっと女帝のクローゼットの奥に身を隠していた〈猫ちゃんドレス〉よ!今夜こそ着るべき時ね。キラキラが弾けるわ。さあ、着替えに行くのよ、イルサ!隠居生活を送っていた猫ちゃんたちが、ミャオーと興奮した声を発しながら出番を待ってるわ。

女帝は裁縫もすっごく上手で、ファッションで有名なガーメント地区の生地屋さんで私が買ってきた安い生地を使って、私のために信じられないほど素敵なAラインのカクテルドレスを仕立て上げてくれたの。オフホワイトの生地に〈アクセッサ・キャット〉と呼ばれる模様が施してあって、パステルカラーの猫ちゃんが何十匹も描かれているのよ。それぞれの猫ちゃんは思い思いのアクセサリーを身につけていてね、グレーと茶色のストライプのトラ猫は、輝く水色のメガネをかけているし、オレンジのマーブルキャットは、おしゃれな紫のスカーフを首に巻いているわ。それから黒猫はエメラルドグリーンのカウボーイハットをかぶっている。「もしもグレース・ケリー王妃が、自宅のお城に何十匹もの猫を飼っていたら」って、女帝がこの素晴らしく、凄みのあるドレスに命名してくれたわ。

これは私のお気に入りのダンス衣装でもあって、パーカーと私が社交ダンスの大会に出る時に、よく着ていたんだけど、彼が「毎回その衣装を見ていたら、猫アレルギーになっちゃったよ」って言い出して、私がこれを着るのを禁止されちゃったの。でも、今夜は夜が更けてから、このロウアー・イースト・サイドで彼と秘密のダンス対決をするのよ。引退した〈猫ちゃんドレス〉をもう一度スポットライトのもとに引っ張り出してきてほしいってパーカーが要求してきたってことは、それだけ勇敢な男だってことで、きっと前みたいに、彼は上手に猫ちゃんと私を手なずけることができるわ。

でも、もし彼の要求に私が上手く応えられなかったらどうしよう。以前の私と何の代わり映えもしないお決まりのイルサの反応って感じだったらまずいわ。私は成長しなくちゃいけないのよ。女帝もそう言ってたわ。(女帝も私自身も本当に成長できるのか半信半疑だったけれど、)今ようやく、その兆しが見えたわ。私は自分の殻を破って、今夜飛び立てる気がする。このダウンタウンで行われる真夜中の彼とのダンス対決は、きっと一晩限りの最後のスピンになるわ。決して真実の愛にはならないでしょうけど。

そうね。

今の段階では、まだ私には無理ね。パーカーに知らせなくちゃ。食欲が満たされてからでないと、あなたに夢中になれないわって。

パーカーがキッチンの調理台に手を伸ばし、さっきサムがレモンタルトに粉砂糖を振りかけるのに使っていたステンレス製のシェーカーを手に取る。彼はそれを私の頭の上で軽く振って、粉砂糖をほんの少し私の髪の毛に振りかけた。「今すぐ変身してくれ」と、パーカーが要求してくる。「そうすれば、お前は俺に夢中だ。頼むから、な、いいだろ?」

彼は私の頭にもうひと振り、粉砂糖を振りかけた。そのおこぼれが私のまぶたと鼻の上に落ちてくる。彼は人差し指を私の鼻に押し付けるようにして、鼻にかかった砂糖を振り払った。そして、その指を私の唇にくっつけた。私がどれほど飢えているかを、彼は重々承知なのだ。

私はパーカーの指についた砂糖をなめる。―美味しい!(砂糖も、それから彼の指も)―私はうっとりした表情を見せておいて、そのすきをついて、彼のもう片方の手からシェーカーを奪い取る。私はすかさず彼の頭に大量の粉砂糖を振りかけた。パーカーが必死でシェーカーを取り戻そうと、体をからめてくる。私たちがゲラゲラと笑いながら、シェーカーの支配権をめぐって争っていると、「私が来てあげたわよ」と、KKが自分で到着を宣言しながら、キッチンに入ってきた。

「いつまで食べ物でふざけ合ってるのよ!」と、KKが怒鳴った。「みんなビールが来るのを待ってるのよ!男にかまけてないで、ちゃんと主催者の務めを果たしなさい!」パーカーから体を離して、KKを見ると、彼女が着ているフランス風のメイド服に目が行って、じっと見入ってしまう。露出度をギリギリまで高めた感じではなく、そこまでふしだらな印象はない。普通にハロウィーンで昔から見かけるメイド服だった。昔といっても、リベラーチェのパーティーの写真に写っているような感じのメイド服ではない。

KKが私を指差して言う。「リビングルームに私と同じ服を着た、ずんぐりした女の子がいるのよ。どうにかしてちょうだい」彼女はパーカーと私の間に割って入ってきて、ぞんざいにひじで彼をつついた。「また、あんたか。おえっ」それから彼女は冷蔵庫の前まで行くと、中からライトビールを取り出し、ポンと栓を開け、ぐいと一口飲んでから、聞いた。「ねえ、なんか燃えてない?」

あたかもサムが隣の部屋で会話を聞いていたみたいに、すぐにキッチンに飛び込んできて、オーブンを開けた。「しまった!チーズが破裂して、こぼれたチーズがオーブンの底で焼け焦げてる」

「それってラザニア?」とKKが彼に聞く。

「そうだよ」と言いながら、サムがオーブンからトレイを引き出す。

「ってことは、あなた私がグルテンフリーで、乳製品も食べないってこと忘れてたわね」とKKが言う。

「忘れてなんかいないよ」とサムが言って、私の方を見た。「助けてくれ!」と、彼が切実な表情で頼んでくる。

彼の意図が私には瞬時にわかる。全員をキッチンから追い出してほしいのだ。ディナーパーティーを開くと、不思議とみんなキッチンに集まるという風習があるわけだけど、サムとしては、すべての準備が整うまでは誰もキッチンに入れたくないってわけ。彼の調理の邪魔にもなるし、彼が料理のことでコメントを受け付けてもいいと思えるまでは、途中段階の料理について、あれこれ言われたくないのよ。「これじゃあ、ディナーパーティーじゃなくて、キッチンパーティーだよな」と、よく彼は嘆いていた。

「みんな、リビングルームに行ってちょうだい!」と、オーブンの底で焦げたチーズのかすかな香りが漂う中で、私は声を張り上げる。

「靴下の人形がやって来たよ」と、サムが私に告げた。

「は?」私はそんなワイルドカードを呼んだ覚えはない。サムの元カレのジェイソン・ゴールドスタイン・チャンが到着したってことでしょ。ジェイソンはいつも袖の中とかに、何かしらおかしな手品を用意してくるから。―今回は靴下ってことね。

「見に行ってこいよ」とサムが言う。 彼が冷蔵庫からビールを何本か抜き取った。―冷蔵庫の中のアルコールに手をつけることはキッチン担当の彼の責任になるから、彼は苦渋の表情を浮かべている。ストレスを感じ始めている証拠だ。―彼はそのビールを私に手渡す。「早くみんなのところに行って、お客さんをもてなすんだよ、イルサ。全員をだぞ」

私はパーカーとKKを引き連れてキッチンを後にする。キッチンを出たところで、どこかから、げっぷと嘔吐の中間みたいな変な音が聞こえてきた。私はパーカーを見て、次にKKを見て、それから振り返ってサムを見た。けれど、誰も吐き気を催してる様子はない。ゴポゴポという音が段々と大きくなり、みんなが周りを見回して、音の出所を探ろうとする。そして、出所が自ら名乗り出るように、激しい音がした。

キッチンの流し台から、排水溝に溜まった汚物が小さな火山のように、噴き出した。

私はシェフではない。でも、もしシンクの排水溝が詰まって水が流れなくなったら、これ以上の調理は、不可能ではないとしても、難しくはなるだろう、と全く料理をしない私でもわかった。

「ちくしょう!」とサムが叫ぶ。

KKは「ハレルヤ!」と喜びの声を上げた。「あんたたちのパパってシェフなんでしょ。パパに電話して、台無しにしちゃったその料理の代わりに、何か適当に見繕って持って来てもらってよ。グルテン抜きの料理にしてって、ちゃんと言ってね。グルテンをばくばく食べて、まるまる太るような野蛮人にはなりたくないわ!」

サムが答える。「ごめんよ、KK。うちの両親は今週末、ノースダコタ州のウィートランドで毎年開催されてる〈グルテンをこよなく愛する炭水化物フェス〉に行ってるんだ。〈スバーロ・ピザ〉と〈パパ・ジョンズ・ピザ〉が今年の目玉で、朝食の定番シリアル〈キャプテンクランチ〉が、オープニングアクトで登場することになってる!」

KKが両手で耳を塞いだ。「やめて!両親がそんなグルテンまみれのフェスに行ってるだなんて、あんたの嘘を聞いてるだけで、太りそうだわ」KKは、私たちに両親が実在するとは思っていないみたいなんだけど、実際両親はいるわ。このスタンウィック邸にはめったに顔を出さないんだけどね。たぶん彼らがここを相続できないと知って、ここに来るとつらくなるんだと思うわ。それから、両親はKKが私の友達の中で一番好きじゃないって言うんだけど、それは褒め言葉として受け取っておくわ。いずれにしても、私の両親がKKとまったり時間を過ごすなんて、そんな機会は今後も訪れないでしょうね。

サムはポンとビール瓶を開けると、そのままぐびぐびとビールを喉の奥に流し込んだ。彼はパーティーではお酒を飲まない人なのに。「ストレスがたまる」とこぼして、彼がため息をつく。

私も一緒にため息をつく。そうすれば、彼のストレスが半減させるから。でもこれは喜ばしいことでもあった。

彼のこの行動は悪い兆候だ。

でも同時に、何か素晴らしいことが起こる予感もあった。

ついに私の兄も、自分自身の殻を破って、飛び立とうとしているのかもしれない。






〈登場人物〉

イルサ:大学生(大学名は言いたくないらしい)。精神分析の天才。

サム:イルサの双子の兄。天才ピアニストで天才シェフ。ジュリアード音楽院に落ち、一旦はバークリー音楽大学に入学するものの、翌年にはニューヨークに戻ってきて、今はニューヨーク市立大学の〈フィオレロ・ラガーディア音楽美術演劇学院〉に通っている。

☆どうやらぼくは誤訳をしていたようで...苦笑

「翌年にニューヨークに戻ってきた」のではなく、バークリー(ボストン)に行くのをやめて、ニューヨーク市立大学の音楽コースに行くことに決めたってことでしたm(__)m


〔イルサが招待した3人〕

カービー・キングスリー(KK):イルサの親友。お金持ちのお嬢様でパーティー好き。

リー・チャン:高校の化学の授業で実験をする時のイルサのパートナー。台湾出身。ボードゲームと会話の達人。

フレデリック・ポダランスキー(フレディ):ポーランドからの留学生。イルサがフレディをサムの恋人にしようと画策している。


〔サムが招待した3人〕

パーカー:イルサの元カレ。女帝が留守中に女帝の寝室でイチャイチャしたことがある。ただ現在は、イルサは彼を〈出禁リスト〉に入れている。

ジェイソン:サムの元カレ。ボストンにあるタフツ大学に通っている。

〈地下鉄の彼〉:サムが地下鉄で一目惚れした男子。


ルドルフ(ルディ):鳥に似ている。サムと二回デートしたことがある。

#(ハッシュタグ)スタンタ:なんでもツイートする。サムと一回だけデートしたことがある。





藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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