『サムとイルサのさよならパーティー』2
『Sam and Ilsa's Last Hurrah』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2019年06月30日~2020年01月25日)
6
サム
深く息を吸って。
僕は深呼吸しなくちゃ。
ゆっくり。
息を。
吐き出すんだ。
問題は水だけだ。水なんか必要ない。干ばつで水不足に陥ったロサンゼルスにいると思えばいいだけだ。
料理はもうすべて出来ている。冷蔵庫の中に、それから食器棚にもボトルに入った水があるし、使った食器はすぐに洗う必要はない。
すべては。
ちゃんと。
コントロール。
可能なのだ。
ただ。
僕の気持ち。
それだけが。
どうしても。
コントロール。
できない。
僕はもう一口ビールを飲む。ビールが喉を通り過ぎる瞬間、苦さに顔をしかめてしまう。僕がビールを飲んでいる理由、それはビールが好きじゃないからだ。これは罰としての麦芽なんだ。こういう時だけ飲んでいれば、余計に欲しくなったりしないだろう。
ロビーにいるバートに助けを求めて電話してみるが、彼はドアマンだから持ち場を離れることができない。バートが「只今、ジェイソンさんがそちらに向かってエレベーターに乗られました」と言ってくる。バートはいつからジェイソンの名前を知っていたのだろう。ジェイソンと僕が付き合っていたとき、ジェイソンがしょっちゅうここを訪れていた頃から、バートは彼の名前を知っていたのだろうか。あるいは、久しぶりすぎて、バートがジェイソンに名前を聞いたのかもしれない。
流し台は陥没して使い物にならなくなってしまった。僕の心にもはっきりと穴が開いて、絶望がドバドバと流れ出てくるようだ。でもまだラザニアはなんとかなりそうだ。僕は気を落ち着けながら、他の料理もテーブルに並べる。ジェイソンの足音が廊下から聞こえてきて、その慣れ親しんだステップに完璧に歩調を合わせながら、僕は玄関へと向かう。そしてまさに彼がベルに指を重ねようとした瞬間、ドアを開けた。
彼が目を丸くして飛び跳ねる。「びびったな~、もう」と彼が言う。
彼が「もうお前の顔なんか見たくない」と小声で言った気がして、僕はなんと答えればいいのかわからなくなる。
彼が僕を不思議そうに見つめている。「何を思い出してるのか知らないけど、俺はもう大丈夫だよ」と彼が言った。
僕の心は突然凍り付いたように固まってしまった。「こんなこと考えちゃだめだ」という言葉が、振り払っても振り払ってもとめどなく頭に溢れてきて、僕の心に真っ白なスペースがなくなるまで、埋め尽くす。
ジェイソンの顔を見ると、いつも思い出してしまう。たとえそれが、どちらかといえば正しい選択だったとしても、僕は彼にひどいことをしてしまったのだ。
「ごめん」と僕は言う。
「だから、もう大丈夫だって」と言って、彼が買い物袋を差し出してくる。「何を持ってきたらいいかわからなくてさ、それに食べ物はお前がすべて準備してると思ったから、俺は泡を持ってきたんだ」
一瞬、シャンパンのことを言っているのかと思ったけれど、買い物袋の中を見ると、シャボン玉を吹く液体の入ったペットボトルが10本ほど入っていた。
「みんな泡が大好きだからな、だろ?」と彼が言う。
僕の心に、セントラルパークの光景が広がる。息を吹くと、空中にいくつもの泡が舞い飛ぶ。彼が笑う。近くで敷物に座っていた一人の子供が、文庫本サイズまで大きく膨れ上がった一つの泡を追いかけて走り出す。セントラルパークの広大な芝生の上では、オーケストラが演奏している。
僕はハッピーだ。
僕はハッピーになろうと努める。
僕はこんなにハッピーなんだよと示そうとするが、自分でもどこか無理をしている感が否めない。
僕はハッピーなんだって彼に思ってほしい。
でも彼がどう思っているのかはわからない。
この記憶のどのバージョンが本当のことなのか、僕には判断がつかない。唯一確信を持って言えることは、シャボン玉を追いかけていた小さな子供は、疑いようもなくハッピーだったということだけだ。
おそらく実際は、シャボン玉は文庫本よりも小さかったのだろうけど。
そうだ、あの時...
「サム?」
まずい。悪い癖が。
僕はにっこりと微笑む。スマイルですべての考えを隠してしまえ。「ごめん。流しの配管に問題が発生しちゃってね。ちょっと面食らっちゃったというか。まあ入って」
「その流し見てもいい?」
「もちろん」
僕たちはキッチンに入り、二人並んで流しを見下ろす。
「排水管が詰まってるんだな」とジェイソンが診断を下す。
「えっと...まあそうかなとは僕も」
「排水口クリーナーの溶液ある? 〈ドラノ〉とか」
「いや、僕はドライビールなんて全然飲んでないよ」
もちろん冗談で言ったつもりだった。おかしいでしょ。ハハハって笑っちゃうよね! もしジェイソンが僕のことを知らない他人だったら、きっと彼も笑っていたと思うんだ。
でも彼は笑ってくれなかった。
こんなこと考えちゃだめだ。こんなこと考えちゃだめだ。こんなこと考えちゃだめなんだ。
「みんなのところに行こうよ」と僕は言う。「君に会わせたい人もいるし」
こんなこと。
どうして僕はジェイソンと〈地下鉄の彼〉を引き合わせようとしているのだろう? 僕の脳裏に、その結果起こり得る可能性がよぎる。
二人が付き合うことになってしまう。
〈地下鉄の彼〉と僕がいちゃついていたら、ジェイソンはどう思うか、僕はそればかりが気になって、引け目を感じてしまうだろう。
〈地下鉄の彼〉は、僕がジェイソンにとってどれほどひどいボーイフレンドだったかに気づいて、僕とは関わりたくないと思うだろう。
結局、二人とも僕を永遠に嫌うことになるんだ。
僕が頭に思い浮かべることができた可能性は、これだけだった。
「っていうか、ずっと二人でキッチンにいてもいいけど!一晩中ね!」と僕は付け加えた。
「いや、それは遠慮しとくよ。君の妹に話したいことが一つか二つあるんだ。今晩のうちにね」
「話したいことって何?」
ジェイソンは心の内側に鍵をかけて僕を入れまいとする、あの表情をして見せた。「君と僕がうまくいかなかったのは、君の妹に僕たちの関係を認めてもらって、応援してもらわなかったからなんだよ。それに、結局は彼女が勝つとしても、僕は彼女にもっと食ってかかって、勝負を挑むべきだったんだ。君からこのパーティーの招待状を受け取ったとき、これは絶好のチャンスだと思った。実は僕は、ちょっと早いけど、2週間後にボストンに引っ越すんだ。大学が始まるのは秋だけど、夏休み期間にインターンシップで職業体験をするからね。つまり、今夜が僕の引退試合ってことになる。手加減なしで、本気で戦うつもりだよ」
つい僕は笑ってしまう。完全に気が触れたみたいな、引きつった笑いが抑えられない。
「本当に」と僕は言う。「そんなことする必要はないよ。あのね、今夜はボクシングの試合じゃなくて、ディナーパーティーなんだから、ゲストとして場をわきまえてもらわなくちゃ」
「サム、君が君の人生でこれまでにしてきたことはすべて、君の妹がしたことに対する後付けというか、補完する行為だったんだ。彼女が強気に出れば、君は弱い人になる、みたいなことだよ。―そうすることで、君は自分の心に免罪符を与えていたんだ。君自身の人生なのに、そうやって君は責任から逃れていたんだよ。彼女は責任を取らない。そして君も責任を回避する。周りのみんなは罪深い傍観者として、そんな君たちを見てるんだ」
「だからなんだっていうんだよ?」と僕は叫ぶ。引き出しを勢い良く開け放ち、引き出しの中に僕は片手を突っ込んだ。「そんなに僕を痛めつけたかったら、思いっきりこの引き出しを閉めたらどうだい? そんなねちねちと、まどろっこしいいたぶり方じゃなくて、―もっと直接、僕に苦痛を感じさせてくれよ」
僕はいったい何をやっているんだ? 何を言っているのか自分でもわからない。本当に彼に引き出しを思いっきり閉めてもらいたいっていうのか? なんだかイルサみたいにメロドラマじみてるな、と思った。いつもは僕が彼女に「そんな芝居がかった真似するなよ」ってたしなめてるっていうのに。
「そんなことはやめな」とジェイソンが優しく言って、そっと手を差し出してきた。そして引き出しから僕の片手を抜き取ろうとする。彼が僕の手を握っているという実感が脳に伝わってくる前に、僕はさっと手を引き離した。
「手を差し伸べるのはやめてくれ」と僕は彼に言う。「流し台の修理もいいから、ただゲストとして振る舞ってほしい。礼儀正しく、みんなと仲良くしてほしいんだ。パーカーもいるし、他にもお客さんがいるから、みんなのところに行って、談笑していてくれ」
「君の妹は、君がパーカーを呼んだって知ってたのか?」
「いやまったく。サプライズで呼んだんだ!」
「じゃあ、二人の様子でも見に行ってみるか」
彼はあえて僕も一緒にリビングルームに行くかどうか聞いてこない。ただ彼は僕に一緒に来てほしいという素振りを見せている。それは賢い選択で、おそらく聞かれていたら、僕は「行かない」と言っていただろう。
「ほら、これ」と僕は彼に言う。「運ぶのを手伝ってくれないか」
「この刻んだ野菜をリビングルームに持って行くのか?」
「クルディテ(生野菜)っていうフランス料理だけど、リベルテ(自由)とフラタニテ(博愛)の精神も一緒に頼むよ」
「なるほど。このパーティーでは、その3つから好きなものを選んで堪能できるってことか」
僕たちはキッチンを後にし、リビングルームに顔を出した。パーカーがすでに女帝専用のバーカウンターに腰かけて、女帝のウォッカに口づけながらよろしくやっていたが、それは見なかったことにする。
「わあ、素晴らしいわ」とKKがうめき声を上げた。「マッドハッターさんとティーポットさんが、白ウサギの大好物を届けてくれるなんて、まるで不思議の国ね」
「あなたにお会いできて、恐ろしいよ、KK」と、ジェイソンが手に持ったトレイを下ろしながら言った。
「イルサはどこ?」と僕は聞く。
「着替えだよ」とパーカーが答える。
KKが鼻先で笑う。「バカバカしいわね。メヒョウが何に着替えたって、中身は何も変わらないわよ」
〈地下鉄の彼〉がジェイソンに近寄ってきて、手を差し出しながら自分の名前を伝える。ジェイソンがその手を握って、自分の名前を伝え返す。二人が名前の次に何を言い出すのか、僕はその間を二人に与えずに、慌てて割って入った。「そうだ、二人に会わせたい人たちがいるんだった。フレデリックとカスピアン」
その二人が一歩前に歩み出てきて、カスピアンが小指を差し出し、握手を求めた。
「こりゃ傑作だ」と、ジェイソンが笑いながら手を伸ばし、小指ではなくカスピアンの顔を握りしめる。ジェイソンはカスピアンを単なる手だとみなしているようで、握ったカスピアンを大きく振った。
フレデリックの口は閉じたままだったが、カスピアンが叫んだ。「手を放せ! キサマはボクを窒息させる気か!」
KKが大きく口を開けて爆笑した。リーはなんだか落ち着かない様子だ。たぶん彼女が着ているフランス人風のメイド服が、KKの隣にいると、フランス系カナダ人風に見えるからだろう。パーカーが僕の顔の前にグラスを差し出して、ウォッカを勧めてくる。ジェイソンがカスピアンから手を放して、彼を解放した。
「おお、こりゃ失礼」とジェイソンが謝る。
「あんた、彼の顔を鷲づかみするんだもん!」とKKが高笑いする。「まったく、どんなモンスターなのよ?」
フレデリックが靴下の中で腕をめいっぱいに伸ばすと、カスピアンがシャキッと姿勢を良くし、息を吹き返した。二人そろって、ふてくされた表情だ。
カスピアンの口が適切な位置に戻ると、彼は再び口をパクパクと動かして言った。「仕方ないな、許してあげるよ」
〈地下鉄の彼〉が何気なく会話に入ってきて、するりと話題を変えたのだが、それは僕にとって好ましくない方向転換だった。彼はジェイソンの方を向くと、こう切り出した。「ところで君は、サムとイルサとどういう関係?」
「ああ、サムはね、僕の心を叩き壊したんだ。そしてその時に使ったハンマーが、実はイルサのものだったってわけ。そんな関係だけど、君は?」
〈地下鉄の彼〉が目をぱちくりとしばたたいた。「ぼくたちは乗り物で、一緒に旅行した仲かな」
リーが前に足を踏み出して、スティック状に切ったセロリを手に取る。
「私があんたに言ったこと覚えてないわけ?」とKKがぴしゃりと言う。「私の3メートル以内に近づかないで!」
KKはこの建物の上の階に住んでいるから、もちろんすぐに着替えに帰れるし、それに彼女は家にお手伝いさんがいるほど裕福だから、先にメールしておけば、彼女がクローゼットに着くまでには新しい衣装が用意されていることだろう。
リーが惨めさと殺意の入り混じった表情をしている。
「なんかいい感じじゃないか!」とパーカーがご機嫌な声を上げた。「サムとイルサが主催のパーティーで、こんなに盛り上がるなんて珍しくない? 特にKKがこんなに機嫌良く愛嬌をふりまいてるなんて!」
「ハニー、それは私じゃなくて、あんただろが!」とKKが叫び返す。
「そんなにぎゃあぎゃあとわめきたいならさ、何か新しいネタを提供しろよ。いつもいつも同じ調子でまくし立ててるだけじゃ、誰も見向きもしなくなるぞ。お前にも創造力があるだろ、言い回しを工夫して、その意地悪さにどんどん磨きをかけていくんだよ。そうじゃなかったら、お前はただの馬鹿女だぞ」
「あ~、退屈であくびが出ちゃう、何も聞こえないわ」とKKが言い返す。
助けてくれ、と僕は思う。それから僕はテレパシーでそれを周りに発信する。助けてくれ。助けてくれ。誰か僕を助けてくれ。
僕はそのメッセージをパーカーに向けて飛ばした。僕の直感が彼を指名したからだ。しかし彼は気づく様子なく、リーにお酒を飲ませようとしている。「そのドレス素敵だよ」と、パーカーがリーの着ているメイド服を褒めた。意図的に「ドレス」と呼ぶことで、彼女の機嫌を良くしようとしているようだ。
僕の「助けてくれ」は方向転換を余儀なくされ、急旋回して、ジェイソンの方へ向かった。僕はそこで一旦テレパシーのスイッチを切る。ジェイソンはやめて、〈地下鉄の彼〉に狙いを定めて再び発信した。彼は僕のメッセージを受け取ってくれたようで、彼から受信通知が届いたみたいに、それがひしひしと伝わってきた。でも僕は彼に背を向けて、彼と完全につながるのを拒否する。僕を助けてくれなんて、彼に頼めるわけないよ。彼にそんな義務など全くないのだから。
「僕はポテトチップスでも食べるとするかな」と僕は誰にともなくつぶやく。「キッチンから持ってくるよ」
でも僕はキッチンに向かわず、ゲスト用の寝室へと向かった。ドアが閉まっている。
いつものように、僕はノックする。
「そんなにせかさないで、ヘンタイ!」とイルサが中から怒鳴った。2秒後、彼女がドアを開け放つ。0.00001秒間、僕は彼女の目の中に、何かを純粋に待ち望んでいるような、スリルに満ちた色を見て取った。すかさず彼女はそれをベールに包むように隠してしまう。
「誰がノックしてると思った?」と僕は聞く。
「シークレットサービス」
「いったいどうした?」と僕は彼女の姿を見下ろす。「なんで猫ドレスを着てるんだ? 今夜は衣装変更があるなんて言ってなかったじゃないか。パーティーのプログラムに衣装変更は組み込んでないぞ」
「ただ猫ちゃんを着たくなっちゃっただけよ。女の子はゴロゴロ喉を鳴らす猫ちゃんと同じなのよ。したくなったことをしたっていいでしょ?」
「パーカーがそれを着るように頼んだってことか?」
「あなたが何のことを言ってるのかわからないわ」
「前から思ってたけど、彼はお前にとってマタタビなんだよ。お前を興奮させる。少しは免疫ができたのかと思ってたんだけど、全然できてなかったみたいだな」
「うるさいわね。いいから背中のファスナーを上げてちょうだい」
僕は部屋に足を踏み入れると、後ろを向いたイルサの背中のファスナーを上げてやった。彼女の耳元で猫のイヤリングが揺れている。足元を見れば、靴まで猫柄だ。これは兄として注意しないといけないなと思った。そんな猫ずくめでは、今夜のパーティーが「ファンシーなファッション」のつどいではなく、猫雑誌『キャット・ファンシー』の撮影会みたいじゃないか。招待状の趣旨から甚だしく逸脱している。
「そういうことを言う時には、言い方に気をつけてよね。―ちゃんとみんな聞く耳を持ってるんだから」とイルサが言い返す。僕は最初、彼女がパーティーのゲストたちのことを言っているのかと思ったけれど、どうやら彼女が着ているドレスに描かれた猫たちのことを言っているようだ。「あなたが寝静まったら、全員で爪を立てて、あなたの顔を引っかきに行くわよ」
「それは大変だ。事前に教えてくれてありがとう。おかげで今夜寝静まった後に見る悪夢がすでに決まったよ!」と僕は茶化す。
「っていうか、何しに来たのよ? なんでみんなのところにいないの?」
「決まってるじゃないか、お前がファスナーを上げるのに手こずってると思ったからだよ」
「ごまかさないで! ちゃんと答えて。どうしてみんなのところにいたくないの?」
「ジェイソンがいるからだよ。彼は僕の元カレという地位を利用して、言いたい放題なんだ。彼が何を言っても、橋の下を流れる激流みたいに眺めていればいいと思ってたんだけど、彼が降らす雨はピリピリとした酸性で、橋自体が溶け出しそうなんだ」
「彼を招待したのはあなた自身でしょ。私じゃないわ」
「べつに愚痴ってるわけじゃないんだけど、なんていうか、もっと...ましな関係を保てるかなと思ってたんだ」
イルサがため息をつく。「でもまあ、夜も始まったばかりだし、夜が更けていけば、きっとジェイソンも口数が少なくなるわ。ピリピリ感なんて泡のように消えるってこと。彼が無害な水だってわかって、あなたも安心するはずよ」
もう二度とこの種の会話はしたくないなと思った。
「もう戻らなきゃ」と僕は言う。今頃、僕とイルサがいないのをいいことに、KKが祝祭を仕切り出しているに違いないから。
「先に行ってて。その前にやっぱり背中のファスナーを下げてちょうだい。それでパーカーに私が呼んでるって言ってきて。ファスナーを上げてほしいって」
「イルサ...」
「じゃあ、ファスナーは下げなくていいわ。―とにかく彼に私がファスナーのことで呼んでるって言ってきて。ほら早く行って」
イルサがパーカーと仲直りしたらしいことに、僕はほっと胸をなでおろすべきなんだろう。彼女も薄々気づいているだろうけど、僕は前からパーカーみたいな親友が欲しいと思っていたし、二人には仲良くしてほしかったのだ。その方が僕も生きやすくなるだろうし、他にも色々と好都合だから。
けれど今の僕は、二人がよりを戻すことは良い事なのか、疑念を持ち始めていた。
彼女から任務を言い渡されたからには、ここでぐずぐずしていても何も得られないことは明白だった。それで僕はピアノのある部屋へと戻った。
「ポテトチップスはどうしたの?」と、すかさずKKが聞いてきた。「こっちにあるはずだってイルサが」
というか、KKの優雅な人生にポテトチップスなんて登場したことがあるのだろうか?
「何か手伝うことある?」とリーが聞いてくる。
「パーカー、妹がドレスのことで何か手伝ってほしいって」
パーカーが方眉を上げた。「それはリクエスト? それとも強制?」
「どっちでもあるし、どっちでもない感じかな」
彼はお酒を手に持つと、「どっちにしろ、これを持って行かないと始まらない気がするから」と言って、廊下に出て行った。
「バカバカしい」とジェイソンがつぶやく。
「あなたたちだって、似たような関係でしょ」とKKが達観したように言う。
「えへん」と咳払いしてみんなの注目を引きつけたのは、カスピアンだった。「ボクがポテトチップスを探すのを手伝ってあげようか?」
「あなたって食べ物を食べられるわけ?」とKKが聞く。
「そりゃ、ね」と僕はフレデリックの顔を見て言ったのだが、彼が「カスピアンに聞いてくれ」というしぐさをしたので、彼が腕にはめている靴下を見て言い直した。「パクパクって食べるよね。こっちおいで」
僕はカスピアンを連れてキッチンに向かった。僕はようやく食料貯蔵庫の中に〈ケトル・チップス〉が一袋入っているのを見つけた。その間、カスピアンはじっと流し台を見つめていた。
「レンチがあれば、ボクが直してあげるよ」と彼が言う。
「僕の曲がった性格も直してくれる?」と僕は返す。カスピアンがきょとんと不思議そうに僕を見つめてきて、僕はドキッとしてしまう。「冗談」と僕は説明して、洗濯室から工具箱を持って来る。そこで僕は戸惑ってしまう。レンチをカスピアンの口にくわえさせるのが正解か、それともフレデリックの空いている方の手に差し出すのが正解か...間違ったことをするのが怖くて、結局僕は箱ごと流し台の横に置いた。
「作業を始める前に1つだけ確認したいことがあるんだ」とカスピアンが言う。「もうわかっちゃったけど、一応確認しておく。―君の妹がボクをこのパーティーに呼んだ理由をね」
「いいよ」と僕は答えるけど、正直言って、なんでイルサが彼を招待したのか僕にはまだピンと来ていない。
「正直に言ってほしいんだけど、―イルサはボクを彼女の友達と引き合わせて、つまり、くっつけようとしてるんでしょ?」
彼女の友達か。
しばしの間、彼女の友達とは誰のことを言っているのかわからなかったけれど、その時、別の部屋から電動のこぎりのような、耳をつんざくKKの声が聞こえてきて、フレデリックの表情が変わった。なるほど、と腑に落ちる。彼にはKKの声が音楽のように滑らかに変換されて聞こえているのだ。
そっか、KKか。
フレデリックは、僕の妹が彼とKKをくっつけるために自分を呼んだと思っているのだ。
そして彼は、まんざらでもないらしい。
7
イルサ
今でも昨日のことのように覚えている。女帝がサムと私を初めてディナーパーティーに参加させてくれたとき、私たちは8歳だった。パーティーまでの数週間、私たちは女帝からパーティーでの適切なエチケットというものを、びしびしと手厳しく叩き込まれた。
1. 知り合いだけの内輪のパーティーにならないように、見知らぬ人も招待すること。さまざまなバックグラウンドのゲストを招待して、混ぜ合わせるのがポイントよ。できれば、ちょっと偏屈な人で、自分が偏屈だって気づいていない人がいるといいわね。そうすると、パーティーの会話が生き生きとにぎわうから。
2. ゲスト一人ひとりが歓迎されてるって感じることが大切。実際はそうじゃなくてもいいから、この部屋の中で自分が一番愉快な人だって、みんなに思わせるの。
3. おいしい料理でもてなすのはもちろんだけど、創作料理の傑作を作ろうとしてはだめ。そんなことをしたら逆に引かれちゃうわ。みんなが食べたことあって、間違いなく美味しいって言う王道の料理を提供するの。パーティーはスフレの新作を考案する会じゃないのよ。
4. たとえ料理が口に合わなくても、それですべてが損なわれるわけじゃないわ。がっかりして枯れそうな気分も、上質なワインが満たしてくれるから。
5. ゲストが手に持つグラスは常にいっぱいに保つこと。常によ。
6. 食後のデザートはコース料理の中で最も重要なのよ。絶対にしくじらないこと。
ただ、今になってわかったこともあって、女帝の教えには次の項目が欠けていた。
1. 靴下の人形と、どう話せばいいのか。
2. 靴下の人形は、どんな料理でもてなせばいいのか。
3. 靴下の人形の前で、どうやって笑いをこらえればいいのか。
とはいえ、この場に女帝がいたら、カスピアンのゲストとしての振る舞いを見て大いに喜んだことでしょう。彼自身にとってはなんてことないのかもしれないけれど、カスピアンがいつの間にかパーティーの主役に躍り出ていることに、この場にいた誰もが驚いていた。
リー・チャンが女帝の寝室から、女帝の部屋着を着て戻って来た。―丈が長くてゆったりした、ナス色のハワイアンドレスを見て、カスピアンが褒めたたえるように、「スミレの花がパッと咲いたね」と言った。
リー・チャンが顔を赤らめる。「ありがとう! あなたの言った通りね。こっちの方がずっと居心地いいわ」彼女はKKをにらみつけると、勝ち誇ったようにグラスに口をつけて、マティーニを啜った。
なるほどね。カスピアンがリー・チャンに女帝の洋服を借りたらどう?とか提案したってことか。それでリー・チャンは気後れすることなく過ごせるようになったってわけね。でもKKだって、それでメイド服を着る権利を独占できたわけだから、双方が得をする見事な提案だったことになるわね。まあ、どうでもいいけど。
それよりも気がかりなのは、私自身がカスピアンとか、ヨハンが持って来たドリー・パートンのアクションフィギュアとかに、催眠をかけられたように段々と引き込まれていることだ。よく見ると、ドリー人形の中に、貧相な犬を連れ沿っているものが一体あった。足がひょろ長くて、片目が黒ぶちになっている。あて布をしたのかもしれない。「これって誰のつもりなの?」と私は、ドリーと彼女が連れている犬を交互に指差しながら、ヨハンに聞いた。
ヨハンが答える。「あ、その犬はね、クラッカー・ジャックって呼んでる。ほら、同じ名前のポップコーンとキャラメルのお菓子があるでしょ、あの袋の犬をイメージしたんだ」
「あなたって人形に名前をつけるんだ?」と私は面食らって言った。
カスピアンがドリー・パートンの曲『クラッカー・ジャック』を歌い出す。「He wasn’t much to look at / But he looked all right to me(彼はそんなにかっこよくないけど、彼って私にすごくぴったりだったの)」彼の音程は完璧で、美しいメロディーを奏でていた。その場にいた全員が自然と拍手する。
それから、パーカーがカスピアン越しに手を伸ばして、コーヒーテーブルの上のお皿からプレッツェルをつかみ、口に入れた。テーブルの周りにみんなが集まって来て、サムが食事を持って来るのを待った。(ディナーを待ってる時間って永遠みたいに長いのよね!)それにひきかえ、甘い歌のお時間はすぐに色あせてしまう。パーカーがむしゃむしゃと前菜のプレッツェルを食べ終え、もう一つ取ろうとして、カスピアン...というか靴下にぶつかってしまった。カスピアンはあからさまに触られるのを嫌がって、(セリーナ・ウィリアムズにサーブされて)物凄い勢いで飛んできたテニスボールにぺしゃんこに押しつぶされた鳥みたいな、短く甲高い悲鳴を上げた。カスピアンの金切り声は鋭く耳に突き刺さる聞くに堪えない雑音で、先ほどのドリーの曲を奏でていた滑らかな歌声はどこかに消え失せてしまった。おぞましい戦慄の叫びに、パーカーがびっくりして飛び上がり、横にいたジェイソンのひじを小突き、その勢いで、ジェイソンが手に持っていたグラスから飛び出た飲み物が、KKのぱっくり開いた胸元を直撃した。KKがジェイソンの頬をひっぱたく。続けてパーカーの頬もひっぱたいた。すかさずカスピアンが、「彼らのせいじゃないよ、原因はボクだよ!」と宣言して、その場を収めてくれた。
みんなが笑っている。パーカーも笑っている。―サムの話では、パーカーはこういう冗談が大嫌いなはずなのに。
KKはカスピアンを見てから、鋭い視線を私に投げかけた。目がこう言っている。「この男は誰? っていうか、この頭のおかしい男は誰? こんな変人が、いつどこで私の人生に登場したって言うの?」
KKと私がセントラルパークでバスケをしているセクシーな男を引っかけようと物色していると、私たちの目は、肌の色は白くて不健康そうだったけれど、イケメンでブロンドヘアーのフレディを射止めた。もっともフレディにカスピアンっていう友達がいるなんて知るよしもなかったわ。バスケとか他のことをしてフレディの両手がふさがっている時は、カスピアンは昼寝をしているってことかしら? 私たちはフレディの話を完全に信じ切っていたわ。彼は独特なアクセントの舌っ足らずな英語で、ポーランドからの交換留学生だって言ってた。ポーランドの労働組合の名前〈SOLIDARNOSC〉が赤文字で印刷された白いTシャツを着ていて、タイムアウトでバスケを一時中断すると、冷たそうな紫色の野菜ジュースをごくごくと飲んで体を冷やしていた。彼は元共産主義国家のポーランドで礼儀正しく育てられ、ドリブルの上手いプレーヤーだったという。もう引退してしばらく経つということだったけれど、その片鱗は彼のぎこちないプレーの中に垣間見えた気がしたわ。彼の喋り方も装いも私たちには、いかにもポーランドって感じがしたし、フレディならサムの餌にうってつけだって思ったの。東ヨーロッパっぽいアクセント、合格。スポーツ万能って感じに見えるけれど、プレー自体はいまいちってところもいいわね。左翼っぽいTシャツを着て弱者の味方みたいなアピールをしているのもサム好みって感じだし、健康的な野菜ジュースを飲んでるのも、最高。
って思ったけど、引っかかったのは私たちの方だったってわけね。
そうなのよ! カスピアンは何の欠点もないアメリカ人の英語で喋っているのよ。(この発音はニューオーリンズか、ニュージャージーね。女帝によると、この二つの地域は全く同じアクセントらしいから。)生粋のアメリカ育ちではないとしても、彼の英語は完璧なほど流暢だった。ところで、彼はさっきからしきりにKKの胸の谷間を見てるの。残念だけど、彼はゲイでもなかったってことね。フレディの青い目は冷めたように微動だにしなかったけれど、カスピアンの緑のボタンでできた目が、じろじろとKKのセクシーなメイド服をいやらしい目つきで見詰めていた。もし赤い糸で刺しゅうされた彼の緩んだ口元に、液体を出す機能が備わっていたら、どばどばとよだれが垂れているでしょうね。
あやうくカスピアンの術中にはまりそうなところで、私はハッと目が覚めた。カスピアンが私に向かって叫んだ。「ジェラルディン、キミなんだろ、ボクにはわかるよ。そんな姿になってしまったなんて! 見損なったよ!」
みんなが一斉に私を見る。彼は明らかに私に向かってそう言ったのに、私には意味がさっぱりわからない。「ジェラルディンって誰?」と私はカスピアンに聞く。彼の相方の靴下人形がもう一人いるってことだろうと薄々思った。この場に女帝がいないことを残念に思う。彼女はこれまでに数多くのディナーパーティーをこのアパートメントで開催してきたわけだけど、こんなに面白いゲストを招いたことはなかったでしょうから。私たち家族はもうすぐここを出て行かなければならないから、もうここで女帝が彼に会うことはない。
そんなの決まってるじゃないか、みたいな言い方で、カスピアンが「キミのドレスの青い猫のことだよ」と言った。
私は指差しながら答える。「私のドレスには何匹か青い猫がいるわ。こういう模様なのよ」
「ジェラルディン!」カスピアンが、舞台『キャッツ』の台詞っぽく言う。「その虚ろな瞳! 彼女がボクを悩ませるんだ」
パーティーの掟の何条だったかしら? ちゃんと偏屈なゲストがここにいるわ。女帝がこの場にいれば、さぞかし喜んだことでしょうね。
他のみんなが黙り込んでしまった。その理由は容易に推測できる。エキセントリックと気狂いの境界線をみんな必死で探しながら、面白がったらいいのか、怖がったらいいのか、決めかねているのだ。サムがキッチンからやって来て、私たちは境界線を引けずじまいに、あやふやな状態でその件は先送りされた。サムはなんだか汗をかいて、取り乱している様子で、ラザニアをディナーテーブルの上に置いた。「やっとできたよ。待たせちゃって悪かったね。流し台のことで手間取っちゃって。でも、カスピアンがレンチで直してくれたから、なんとかなったよ。ありがとう」私たちは前のめりになって、四方からサムが作った料理を目で吟味する。カリカリに焼き上がったラザニアから蒸気が立ち込める。その上で茶色がかったチーズがごぽごぽと泡立っている。「ごめん、ちょっと焦がしちゃった」とサムが付け加えた。
私はほくそ笑む。何が可笑しいかって、今夜ジェイソン・ゴールドスタイン・チャンは、大好きなサムのラザニアを美味しくいただくことができないから。彼が口の中を火傷して、消化不良でお腹を壊したりしたら、面白い展開になるわ。ジェイソンはもうサムを信用しなくなるかもしれない。サムのラザニアを嫌いになるだけかしら。
パーカーが慰めるようにサムの背中を叩いて言う。「美味しそうじゃないか」
サラダはすでにテーブルの上に載っている。カスピアンが身を乗り出して、サラダの匂いを嗅ごうとする。(彼には鼻がないから)無理なはずなのに、彼はクンクンと匂いを嗅ぐ音を出している。フレディの顔を見たけど、鼻も口も一切動いていないから凄い。カスピアンが言う。「この匂いは...マヨネーズかな?」
もちろんみんな、鼻がないのにどうやって匂いがわかるんだよってつっこみたい感じだったけれど、紳士的なサムがまっすぐにカスピアンを見て、「ドレッシングの中にマヨネーズも入ってるよ」と答えた。「ウォルドーフサラダっていうんだ」
「せっかくだから、レタスとか生野菜の上に直接缶からラードをかけてもらってもいい?」とカスピアンが尖った口調で言う。
「ちょっと!」と私は我慢できずに口を挟んだ。これ以上カスピアンをつけあがらせるわけにはいかない。どうして彼は突然そんなに横暴に振る舞うようになったのかしら? 体内の糖分が足りなくなったの? それとも今日の分の精神安定剤を飲み忘れてきたとか? あ、そっか、彼は靴下の人形だったわね。なるほどね、どうりでテンションがちぐはぐに上がったり下がったりするはずだわ。
KKがさっそく携帯で電話している。「寿司の盛り合わせを大皿で注文したわ」
リー・チャンが言う。「ピザも注文した方がいいかしら? なんていうか、ラザニアも美味しそうなんだけど、それだけじゃ足りないかなって思って」彼女の表情には、サムの料理は絶対に食べたくないという嫌悪感が浮かんでいた。今夜のサムはどうしちゃったのかしら? 全然調子が出ないみたい。いつもだったら彼の料理は傑作ぞろいなのよ。―サムの料理の腕前は名人級なんだから。きっと今夜は不安がつのって、サムの体から天才シェフの魂が抜けちゃったのね。彼自身は懸命にそれを認めまいとして、不安を押し殺そうと奮闘してるみたいだけど。
サムがため息をつく。私もため息をつく。これ以上空気も読まずに食べ物を注文するとか言い出す人がいれば、私が首を絞めてやるわ。(KKには私は何もできないけど、まあお寿司の盛り合わせが届けば、彼女も少しは機嫌良くなってごねなくなるだろうし、KKはいいけど、他のみんなは私の兄のお手製のラザニアをちゃんと美味しく召し上がらなきゃだめ)
私があえて言わなくても、私の気持ちを察してくれて、代弁してくれる人が私のそばにいる。この部屋の中で一番背が高くて、一番強くて、一番渋い声の男、パーカーが言ってくれた。「みんなでこのラザニアを美味しく食べようぜ。頑張って美味しく平らげよう」
私はあえて彼を見ないようにする。私の心臓の激しい高鳴りをパーカーに悟られたくなかった。私は表情を作って、精一杯のポーカーフェースを装った。
ヨハンがあの名曲を歌い出した。「And I / will always love you.(私は今もこれからもずっとあなたを愛してる)」
ようやく全員そろってディナーテーブルの席についたところで、玄関のベルが鳴った。KKが席を立ち、玄関に向かって駆け出す。お寿司の盛り合わせが到着したとみんなが思ったんだけど、やって来たゲストはお寿司の宅配でも、私たちが招待した人でもなかった。飛び入りのゲストは隣の部屋に住んでいるマデリーン・ホーグといって、私はマディって呼んでるんだけど、私がベビーシッターをやって稼がせてもらっている家庭の7歳の娘さんだった。彼女は駆け込むようにリビングに入ってくると、お皿に載ったクッキーをテーブルの上に置いた。「差し入れよ、イルサ! お手伝いさんと私であなたの大好物のクッキーを作ったのよ。ここでの最後のパーティーだって聞いたから!」マディの家にはパラグアイ出身の住み込みの料理人の女性がいて、マディ専属のスペイン語の家庭教師と、マディ専属のピラティスのインストラクターも兼ねてるから、彼女はその乳母のような人に何でも手伝ってもらえるの。彼女はこのスタンウィック邸で自由気ままに人生を謳歌してるってわけ。スペイン語で言うと、la Buena vida(素晴らしき人生)って感じかな。
私はそのクッキーに鼻を近づけて、匂いを嗅いでみた。率直に言って、世界の歴史上最も体に悪いクッキーだ。歯医者さんの待合室で何気なく開いた雑誌『ピープル』に、このクッキーのレシピが載っていたのよ。きっと歯医者のシーガル先生は、このクッキーに詰め込まれた材料を良しとしないでしょうね。(でも、もしかしたら逆に、彼女は食べていいって言うかもしれないわ。そうして虫歯になれば、彼女の歯科医院はつぶれなくて済むから)これは〈ジャンクトランク・クッキー〉って呼ばれていて、チョコチップ・クッキーに似てるんだけど、中にバタースコッチ・チップと、モルトミルクボールと、ピーナッツと、ポテトチップスと、それにプレッツェルが追加されてるのよ。私が科学者だったら、かつてこれほど美味しくて、しかもこれ以上に健康を害する恐れのあるクッキーのレシピがあったかどうか、すぐに調査を開始するわね。そう、マディの言う通り、これは私の大好物なの。
「ありがとう、マディ。いつも気が利くわね、大好きよ」と私は言う。クッキーは食後の方がいいと思って、一旦クッキーをコーヒーテーブルの方へ持って行ってから、私は再びダイニングテーブルにつくと、両手を広げてマディを呼び込んだ。すかさず彼女が私の膝の上に飛び乗ってくる。
彼女がいつもの定位置についたところで、呆気にとられたようにぽかんとその様子を見ていたみんなに彼女を紹介する。「彼女はマディっていって、隣のアパートメントに住んでるのよ。彼女の両親が私たちのこのアパートメントを買ったから、私たち家族が出て行ったあと、リビングルームの壁を取り壊して、こことひとつづきにするんだって。マディ、こちらがみんなよ」
数ヶ月以内にリフォーム工事を済ませた後は、マディの甘美で贅沢な生活がさらに快適になるわ。しかも、彼女の乳母はパラグアイに帰って、私が彼女のお守り役を勤めることになってるから、彼女は大喜びなの。私は女帝がゲスト用の寝室として使っている部屋で暮らすのよ。今はサムの栄光の歴史が飾ってあるけど、あそこがマディの子守部屋になるってわけ。彼女の世話をしていない時は私の一人部屋になるのよ。マディになら色々見られちゃってもいいわ。彼女もその辺は心得ているから、きっと内緒にしてくれるでしょう。でも、まだこのことをサムに打ち明ける時じゃないわ。この最後のディナーパーティーをやって、女帝が引っ越して、それから何週間かしたら、サムや家族のみんなに私の新しい仕事のことを発表することにしてるの。私たち家族はこのアパートメントにみそぎも済ませていないし、こういう事は何よりタイミングが重要なのよ。家族のみんなはまだ、私が夏の終わりには、秋から始まる大学のためにクイニピアックだかどこだかに行くと思い込んでるみたいだし。
「初めまして、マディ」とみんなが言う。KKだけはぶすっとむくれた表情で、「寿司が届いたと思ったら、とんだダミーちゃんが届いたわ」と言った。マディはクスクスと笑っている。KKに何か言い返したらもっと面倒なことになると察したのでしょう。彼女はちゃんと心得ているから。
マディーがサムに言う。「あなたのラザニア、いつも通りすっごく美味しそう」お調子者で大嘘つき、まさに私にぴったりの妹分でしょ。「それから、お手伝いさんが余分にクッキーを作ってくれたから、お家に帰る時に、あなたたちの両親にも持って行ってあげて」と言うマディを私は誇らしげに見守る。私の妹分はこういうクッキーを渡す時の上品なマナーを私から学んだのだ。
「うちの両親は今週末はラスベガスに行ってていないんだ。〈リベラーチェをこよなく愛する会〉っていうフェスに参加してる」とパーカーがジョークを飛ばす。「そのクッキーは家に持って帰って、僕が自分で食べてもいいかな?」
「もちろん!」とマディが答える。
「こういうクッキーを食べてると太っちゃうぞ、マディ」とカスピアンが皮肉っぽく言った。ちょっとこの発言はいただけないわね。そりゃマディはちょっとふっくらしてるけど、彼女の両親がピラティスのインストラクターを雇ってからは、これでもだいぶ瘦せたのよ。
「Don't be a dick(意地悪はよせ)、カスピアン」とジェイソンがカスピアンに言う。
マディはジェイソンを見てから、私の顔を見て、小声で「dick(おちんちん)だって」と私に耳打ちした。それから彼女はカスピアンを見ると、靴下の人形がディナーテーブルを囲んでいるという状況を飲み込もうとして、「彼はどなた?」と聞いた。
「キミの今夜の夢のお供だよ。悪夢だけどな」とカスピアンが急に真顔になって恐ろしい声を出した。すると今度は赤ちゃん声で、「おしっこ漏れちゃうぞ、うんちもだぞー」と付け加える。
ヨハンが立ち上がって、「もうお前には我慢できない」と言うと、フレディがヨハンの意図に気づく前に、フレディの手から靴下を引っこ抜いてしまった。「今夜はもう、カスピアンには退場してもらう」
ヨハンはカスピアンを持ってリビングを出ると、アパートメントの奥へと向かった。「どこへ持って行く気だ?」とフレディが悲痛の叫び声を上げる。麻酔も打たずにスパッと切断された腕の痛みを耐えているようでもある。
フレディがヨハンを追いかけて駆け出した。バタバタと廊下を駆ける音に続いて、おそらく南アフリカの言葉混じりに、「このいかれた人形をトイレに流してやる」みたいな言葉が聞こえてきた。
私はアフリカ語は話せないけど、カスピアンが女帝の家のトイレでもうすぐ最期の時を迎えるってことは、はっきりとわかった。
トイレが詰まらないといいけど。
かわいそうなカスピアン...
8
サム
悪い方向へ進む可能性を秘めた物事について考えていると、どうしても結局は悪い方向へ進んでしまう。なので何事にもとらわれず、心配しないことが一番なんだけど、そうもいかないから、リスクを避ける方法をあれこれ考えていたんだと自分を納得させるしかない。
ヨハンはこの家のトイレの場所を知らないから、一瞬立ち止まって、どのドアを開ければ玉座が待ち構えているのかと、キョロキョロしている。それから廊下に並んだドアを手当たり次第に開け始めた。その間にフレデリックが追いつき、ヨハンにタックルをしかけた。―僕は5歩ほど遅れて、彼の追撃を見ていた。ヨハンは体を反転させてよけようとしたけれど、間に合わず、二人が団子状態になって廊下に転がった。
「やめろ!」と僕は叫ぶ。「二人とも、そんなことはやめてくれ」
フレデリックが手を伸ばしてカスピアンを取り戻そうとする。直接カスピアンをつかむのかと思ったら、そうはせずに、ヨハンの手首をチョークホールドみたいに締めつけた。ヨハンが耐えきれずにカスピアンを手放すことを狙っているようだ。それから、この取り戻し方は理にかなっていると僕は気づいた。―直接カスピアンをつかんで引っ張っていたら、綱引きの果てに、カスピアンの命が奪われてしまうかもしれない。
「まじでやめてくれ!」と僕は声を大にして言った。しかし二人とも僕の言葉を聞いてくれない。僕は戦術を切り替えて、名前を叫んだ。「ヨハン!」
やっと彼が僕の方を向いてくれた。彼がまっすぐに僕を見ている。その隙をついて、フレデリックがヨハンのお腹に、拳を一発めり込ませた。
「よせ!」と僕は声を張り上げて、自分でも何をしようとしているのか自覚はなかったけれど、体が勝手に動き出していた。僕は二人の間に割って入ると、なんとか二人を引き離そうと、もがいた。―離れたフレデリックが正気を取り戻し、尻餅をついた。ヨハンは僕の体の下にいて、汗ばんでいた。彼の乱れた息遣いを感じる。―カスピアンはまだ彼の手に握られていて、クシャッとなったままだった。
「彼を僕に渡してくれないか」と僕は言う。
〈地下鉄の彼〉が首を横に振る。彼はもう〈地下鉄の彼〉ではないのだと思った。彼はこのアパートメントの中で、ただの見知らぬ人だった。急に僕は悲しくなる。
彼が言う。「思い付きで...好き勝手に喋ることがだめって言ってるわけじゃないんだ。この靴下だって最初は和気あいあいと喋ってたじゃないか。でも、意地悪く人に当たり出したらだめ。そういう悪口は現実の人間からうんざりするほど聞いてるからね、人形までそれをし出したらアウトだよ」
僕はフレデリックの顔を見て、彼がどういう反応をするかうかがった。彼は何も言わずに手を差し出した。―カスピアンをはめない方の手を差し出しながら、カスピアンを返してくれと懇願している。
「ほら、彼に返してあげなよ」と僕は促す。「きっと今からは行儀よくしてくれるよ」
「君はどっちの味方なんだ?」とヨハンが訊ねる。
そして僕は率直に言った。「この場合は、カスピアン」
「なるほどね」
彼はカスピアンを僕に差し出した。まるでこれが僕に手渡す最初で最後のプレゼントであるかのような渡し方だ。僕は空いている方の手を彼に差し出したが、彼は僕の手を握ることなく、自力で立ち上がった。
「ぼくはただ、何か役に立つことがしたかっただけなんだ」とヨハンが僕に向かって言う。「君はぼくに感謝してくれると思ったんだけど」
「その気持ちには感謝してるよ」と僕は返す。「ただ、それはフレデリックの...」
「...おかしな趣味?」
「そんな言い方は良くないよ」
「わかったよ、もう口出しはしない。ごめん。ぼくはそろそろ帰ったほうがよさそうだな?」
いや。
そうじゃないんだ...
なんていうか、僕は...
「帰らないで! 僕は君にここにいてほしい」
「じゃあ、ぼくはみんなのいるテーブルに戻ってるよ。君たちはここでもう少し、人形との涙の再会でも演じててくれ」
もしイルサがこういう皮肉っぽいことを言っていたら、もっととげのある言い方をしただろうし、―考えたくもないが、KKだったら、獰猛な野獣のように暴言を吐いていただろう。しかしヨハンの言い方は弱々しく悲し気だった。―彼は傷ついているのだ。そっか、僕だけではなく、彼も気づいてしまったのだ。〈二人が乗り合わせた地下鉄〉がすでに脱線してしまったことに。
僕は何かドリー・パートンの曲でも口ずさんで彼を元気づけようとしたけれど、一向にどの曲も浮かんでこなかった。僕の頭は
「僕も後からすぐに行くよ」と僕は言った。
「わかった」と彼は言って振り向くと、廊下に僕を残して行ってしまった。僕は手に持ったカスピアンと目を合わせる。
「はい、これ」と僕がフレデリックに言うと、彼は僕の手から靴下を取って、元通りに片腕にはめた。
「どうもありがとう」と、カスピアンがしっとりと言った。
フレデリックは僕が怒り出すのを身構えて待っている感じだ。いろんなことを彼がぶち壊しにしたと責任を感じているのだ。たしかに、僕とヨハンの地下鉄を脱線させたのは、彼かもしれない。でも、こんなに簡単に壊れるような関係なら、最初から築く価値もないだろう。知らないけど。
「全然いいよ」と僕は彼に言う。―カスピアンではなく、フレデリックの顔を見て言った。
「危ないところだった」とカスピアンが自身の危機を振り返った。フレデリックがうなずいている。
僕はまだフレデリックの目を見つめていた。「もっと行儀よくしてもらわないと困るよ」と僕は言う。「ペラペラと何でもかんでも口にするのはやめてくれないか。ヨハンのした行為が正しいって言ってるわけじゃないけど、―でも、あの場にいたみんなが、ヨハンと同じ気持ちだったんだ。あ、もしかしたら、KKは違うかもしれないけど」
彼女の名前を口にした瞬間、フレデリックが顔を赤らめて、僕から視線をそらした。
「まさか」と僕は言ってみる。「もしかして君はKKのことが好き、なわけないか」
フレデリックもカスピアンも否定してこない。
僕はさらに追い打ちをかける。「君は彼女の心臓を射止めようとして、彼女のはらわたをくすぐるような真似をしていたとか? 毒っ気を吐いて、彼女の気を引こうと!?」
カスピアンがうなずく。
「戦略としてまずかったかな?」と彼が聞いてくる。
「まずいどころじゃないね。KK以外のみんなはもちろん受け入れないけど、―たぶんKKはもっと受け入れないと思う。彼女は自分に似てる人を好まないんだ。―彼女の亜流みたいなことしたって逆効果だよ。ここはニューヨークなんだし、―彼女にしてみたら、そんな男は掃いて捨てるほどいるからね。KKの心の内を教えてあげよっか。そんなにもったいぶって言うほどのことでもないんだけど、彼女はそんなに性悪ってわけじゃなくて、まあ口は悪いけど、それもお決まりのワンパターンだって彼女自身わかってて言ってるんだよ。みんながまた言ってるって呆れてることも彼女は知ってて、自分の役割を全うしてるんだ。君もそれくらいにならないとだめだね。あの部屋の中心で、みんなの興味を一身に集めてるって思い込んで演じていれば、周りのことなんか気にならなくなる。本気を出せよ、―君が本気を出せば彼女の亜流なんかじゃなくて、彼女を超えられるはずだよ。最初の方はいい感じだったじゃないか、みんな君に惹きつけられてた。君が彼女に迎合して、彼女のレベルに合わせにいっちゃったから」
「全部台無しにしちゃったかな?」
「いや、そこまでじゃないよ。彼女はまだ帰ってないからね」
「君のことを言ってるんだよ。君たちの関係とか台無しにしちゃったみたいだね」
さっきのヨハンの傷ついた表情が脳裏に浮かび、僕は頭を振ってかき消す。
「なんてことないよ」と僕は言う。しかし、その言葉はむなしく廊下に響き、誰にも届かずにポトリと落ちた。
カスピアンはもう僕を見ていなかった。視線を落として、床をじっと見つめている。それから、はっと気づく...フレデリックがカスピアンをはめた手をだらんと下げているのだ。
「味方になってくれてありがとう」と、彼―フレデリックが言った。フレデリックのままでそれを言うのは、彼にとって苦行に近いんだろうな、と僕には瞬時にわかる。
「全然いいよ」と僕は彼に伝える。それから僕は手を伸ばし、カスピアンのあごの辺りを持って、彼を動かした。彼がまた僕の目を見てくれた。「まだ君ほどは彼のことを正確にはわかってないけど...僕も彼のことがなんとなくわかるんだ。似た者同士、お互いに味方になってかばい合わないと、だよね? 周りにはこういうことを全く理解してくれない人が溢れてるから」
今夜、僕はすでにいろんな失敗をしでかした。でも不思議と、失敗して良かったなって感じている。それ以上何も言うことはなかった。
「みんなのところに戻ろう」と僕は二人に言った。
イルサが上手くその場を取り仕切って、僕が作ったラザニアを食べるように促してくれたようで、みんな黙々とラザニアを食べていた。―あるいは、この時点ではまだ様子見というか、みんな気楽に喋るのは気が引けて、ラザニアを口にしていれば話さなくて済むということかもしれない。いずれにせよ、夕食は滞りなく進んでいて、みんなの胃袋の中に快調に消費されていた。
「マディはどこ?」と僕は聞く。
「鷹が窓から翼を広げてさっそうと入って来てね、彼女を連れ去っちゃった」とKKが答える。
「でも心配しなくても」とパーカーがすかさず付け加える。「彼女のクッキーはちゃんとここにある」
僕はヨハンに目を向ける。ヨハンと目が合ったけれど、彼はほんの1秒で目をそらした。それから僕はイルサを見た。彼女は「すべてをわかってるわ」という顔をしている。
「ほら」とイルサがラザニアを僕に差し出してきた。「自分で作ったご馳走を食べそこなったなんて、それじゃパーティーの主催者失格よ」
僕は席につく。フレデリックが僕に遅れて入ってきた。彼はまだ立ったままだ。
「ちょっといいかな」とカスピアンが言う。「みんなに聞いてもらいたいんだ」
「どうぞどうぞ!」とKKが巻き舌気味に早口で言う。「なんでも言ってちょうだい、靴下ちゃん」
フレデリックが深呼吸してから、カスピアンが声を発した。
「ボクはこのパーティーをめちゃくちゃにするつもりはなかったし、クッキーを持ってきてくれたあの子を、怖がらせてここから追い払うつもりもなかったんだ。こういうディナーに招待されるのは初めてだったから、なんていうか、どういう風に振る舞えばいいのか探りさぐりで、間違えちゃったんだ。でも今はもうちゃんとわかったから、ああいうことはもう二度と起こさないよ」
「いいから座って」とイルサが言う。「こういうことはよくあるっていうか、パーティーに付き物だから」
パーカーとジェイソンがそれを聞いて、二人とも眉を上げた...でも、どちらも何も言わない。
「さあ、お食べ」とKKがフレデリックのお皿を取り、その上にいくつかお寿司を載せた。それから、ちょっと考える仕草をして、巻き寿司を一つだけお皿の端に寄せた。―おそらく、カスピアンのためだろう。
「ありがとう」とカスピアンがつぶやくように言って、フレデリックが腰を下ろす。
KKが独演会を開始した。彼女がいかに苦労してこのお寿司にありついたかについて、とうとうと語り出した。少なくとも10店舗のお寿司屋さんに電話して、この時間にちゃんとしたカリフォルニア巻きを作って、宅配してくれるお店をやっと見つけたそうだ。この時間ってまだそんなに遅くないけど、と思ったけれど、彼女はカリフォルニア巻きはカリフォルニア時間じゃないと、とかなんとか言っていた。あまり興味のない話ってなかなか頭に入ってこないものだなと思いながら、周りを見ると、みんな一様に彼女の会話は上の空といった表情で、もぐもぐとラザニアを口に入れていた。
彼女のモノローグが終わると、ジェイソンがそのバトンを受け取った。
「これ、すごく美味しいよ」と、彼は手に持ったフォークでラザニアを指しながら言った。「ありがとう、イルサ」
イルサは一瞬困惑した表情をして、「わかってるでしょ、このラザニアは私が作ったんじゃないわ、ジェイソン」と言う。
「じゃあ、このサラダ超上手い! 君が作ったサラダのレシピは完璧だよ、イルサ」
彼女が怪訝な眼差しで彼を見つめる。
「ちょっとからかってるの?―もういいわ。サムはね、素晴らしく腕のいいシェフなのよ。私の助けなんて要らないの」
「そうかな、君はいつでもサムを助けてるんじゃないかな? 人生の一大事でも生活のささいな事でも、どんな状況でも彼は君に意見を聞いて、それを参考にしてるよね。料理のこともそうだし、サムのボーイフレンドのこと、サムの将来について、サムの人生そのものを君は手助けしてるんだよ。―君がサムに手渡せる唯一の調味料、それは君の意見、君がどう思うかってことだよね? まあ、君の香辛料にはちょっと毒っ気が混じってるけど」
僕は彼の発言をさえぎって言った。「ジェイソン。僕が君を招待したのはそんなことを言わせるためじゃない」
イルサが僕を制するような手振りをしながら言った。「いいのよ、べつに。あなたがジェイソンを私に紹介してくれてから、もう何ヶ月も経つけど、―ジェイソンがあなたの人生とか、あなたの家族、つまり私たちについて、すごく詳しい専門家になったんだなって感心しちゃうわ!」
「パターンを見つけ出すだけさ。大きな椅子に座って足を組んで、セラピスト気取りであごに手なんか当てちゃってさ、そこに見え隠れする一定の法則を見つけ出すんだよ。新聞に載ってる数独みたいにね」
「馬鹿言わないで。イルサは日曜版に載ってるクロスワードよ」とKKが助け舟を出すように言ってから、「私はたまたまクロスワードが得意なんだけどね」と付け加えた。
その時突然、みんなを黙らせるかのような轟音が窓の外から聞こえてきた。
「雷か?」とジェイソンが聞く。
「それか、爆撃かも」とパーカーが言う。
彼は冗談で言ったわけではなかった。
続けてもう一発、すさまじい破裂音が鳴り響いた。
「神様が咳払いをしてるみたい」とリーが言う。
すぐに横殴りの激しい雨が集中砲火のように、開けっ放しの窓からなだれ込んできた。そこから吹き込む猛烈な風がテーブルクロスをまくし立て、さながら亡霊のように、白い布をゆらめかせた。
「ただの夏の嵐よ」とイルサが言う。「なんてことないわ」僕は立ち上がって窓を閉めようとした。けれどイルサが僕に言う。「閉めないで、そのままがいいわ。なんかこういうのって、気分よくて好き」
僕は雨が入るのを心配している。カーペットが濡れるし、床の木の部分が歪んでしまうかもしれない。でも僕は内心の動揺を誰にも悟られたくなくて、平静を装いつつ、席に戻った。
「この降りようだと、街が水浸しになるのも時間の問題ね」とリーが言う。
「ちょっと、それってどういうこと?」KKは腹立たしい様子だ。街が水浸しになると、彼女だけが困るとでも思っているのだろうか。
「今夜ってわけじゃないわ。もしかすると数年後にそうなるかもって話。だって海の水面が上昇してるのよ。いつかは街に水が溢れるわ。そしたらここに住む人はみんな、どこか新しい場所に引っ越さないとね。私にはわかるのよ」
「君にはわかるのかい?」とジェイソンが聞く。
「そういう風に言うと変に聞こえるわね。でも、私にはちょっとだけそういう能力があるの。神のお告げっていうか、少なくとも何かを暗示している夢を昔からたまに見るのよ。ハリケーン・サンディがやって来た後は、前よりも頻繁に予知夢を見るようになったわ。道路に大量の水が流れ込んできて、みんなが必死に逃げまどって、そんな夢を見た朝は、いつだって悲しい気持ちになるの。そして段々と腹立たしい気持ちになってくる」
「あら、私は最上階に住んでるから安心ね。神に感謝しなくちゃ!」とKKが口笛を吹くように言った。
「安心じゃないだろ。この建物の電気とか水はどこから来てると思ってるんだ? 排水管はどこにつながってる?―まさか空か?」とパーカーが聞く。
僕は身震いする。
「私は怖がらせようと思って言ってるわけじゃないのよ」とリーが続ける。「どうせ避けられないことなら、見て見ぬふりをしててもしょうがないわ。ちゃんと話し合った方がいいと思うの。少なくとも、ボートに乗って逃げ出すとか、何か対策はあるはずよ」
「うまく行くといいけど」と僕は言う。声に出して言ったつもりはなかった。つまり、みんなにではなく、自分自身に対して言ったつもりだったんだけど、気づくと僕ははっきりと声に出してそう言っていた。
「どういう意味?」とヨハンが聞いてくる。
「なんでもない」と僕は答える。「気にしないで」
「だめ」とイルサが言う。「ちゃんと話して」
君はまた僕を窮地に追い込もうとしてる。これはちゃんと声に出さずに言えたらしい。でもみんなが僕を見ている。
僕は―
僕は―
「僕はよくわからないんだけど、話し合って解決策が生まれるものなのかな。つまり、何かが僕を悩ませていたとして、僕はそれについて考える。考えて、考えて、考え抜いて、それでも僕は、その状況を変える言葉を見つけることができない。なんか考える前よりも、路頭に迷い込んでしまうだけなんだ」
「考えましょうなんて私は言ってないわ」とリーが言う。「私は話し合いましょうって言ってるの」
「何が違うの?」と僕は聞く。
それに答えたのはカスピアンだった。「違いはね、キミが何か言葉を発するとき、その部屋にキミ以外の誰かがいるかどうかってことだよ。誰かがいれば、その人が何かキミの理解を助けてくれるようなことを言ってくれるし、逆にキミもその人に助言ができるし、お互いにその悩み事の理解が深まっていって、希望が開ける」
「ぼくが育った家庭は、考えばかり溢れていて、話し合うことはめったになかった」とヨハンが言った。「間違いないよ、その二つは全然違う」
「俺が育ったアパートメントは逆に、やかましいほど話し合いばっかりで、考えることなんてほとんどなかったな」とジェイソンが言う。「少なくとも両親が離婚するまでは、なんにも考えてなかった。両方を経験した俺から言わせると、その二つはどっちも楽しくない」
イルサはまだリーをじっと見つめたままだ。
「希望はあると思う?」とイルサがリーに聞く。「つまり、未来に」
リーが本物の預言者っぽく見えたのは、彼女が着ている女帝のふわっとゆったりしたカフタン風ドレスのせいかもしれない。あるいは、僕たちの周りに吹き込んでくる不気味な雨と風のせいだろうか。彼女が何か答えを持っている気がした。
「もちろん希望はあるわ」と彼女が言う。「いつだって希望はあるのよ。私たちは無限に希望を受け入れることができるんだけど、心に鍵をかけちゃって、受け入れようとしないだけなの」
「じゃあ、もうすぐ沈もうとしてるタイタニック号のデッキで、俺らは椅子を並べ替えてるだけじゃないってことか?」とパーカーが聞く。
「それはちょっと的外れな質問ね」とリーが答える。「私が注目したいのは椅子じゃないし、誰もデッキに並べられた椅子なんて関心ないわ。私が言いたいのはね、―事故が起きた時のことじゃないの。それよりずっと前、タイタニック号が出航する時に、救命ボートをいくつ積むか決めた時のことよ。それこそ私たちにとって、いろんな意味で必要なことだし、―私たちにできる唯一のことでもあるわね。なるべくたくさんの救命ボートを積むのよ」
そういうことか、と僕は自分一人では思いつかなかった答えに突き当たる。僕の恐怖心の理由がわかった気がした。もうすぐ僕はこの街で大学に行くことになる。つまり出航するわけだけど、僕にとっての救命ボートは、たぶんイルサだけだ。でもイルサのボートは沈んでしまうだろう。それはイルサのせいじゃなくて、僕が乗ったら彼女には重すぎて沈んでしまうのだ。だから僕はもっとたくさんの救命ボートを積まなくちゃいけない。周りを見れば、この部屋には救命ボートになってくれそうな人たちがたくさんいるじゃないか。それでも僕の恐怖心は消えない。本当に僕はこの曲がった性格を直したいと思う。相反する思考に両側から頭を引っ張られているようだ。将来なんて僕には大きすぎて変えられないって思う一方で、僕はほんの小さなミスが命取りになり、将来に取り返しのつかない汚点を残すとも感じているのだから、どんなボートだって救いようがないよね?
「キミは未来について細かいこともわかるの?」とカスピアンがリーに訊ねる。
「預言と予言は違うのよ」と彼女が答える。「ごめんなさい」
カスピアンが頭を横に振る。「いや、いや、そうじゃないよ、―ボクはなにも自分の未来が知りたいわけじゃなくて」
「私にはあんたがトイレの排水管に流される未来が見えるわ」とKKが靴下に向かって告げた。「あんたが毛糸で編まれて誕生した瞬間から、その未来は決まっていたのよ」
「それは言い過ぎだよ」と僕は彼女に言う。
KKが笑って言った。「あなたいつから、こんな靴下の味方になったわけ?」
「カスピアンは靴下なんかじゃない」
「じゃあ、何なのよ? 彼も預言者だとか言うわけ?」
「カスピアンはカスピアンだよ」僕はなぜ彼女に向かって叫んでいるのか、自分でもわからないまま続けた。「もし君が他のみんなと同じように彼を扱わないなら、君は今すぐエレベーターを上がって、自分のアパートメントに帰ってもいいんだよ。そしたら好きなだけ寿司を注文できるじゃないか」
KKの目がキラッときらめいた。「私は何も彼だけ特別扱いしてないわ。私は他のみんなにも同じように冷たく当たってるじゃない、そうでしょ?」
イルサが当然のように彼女を援護する。「彼女の言う通りね」
ジェイソンがこれ見よがしにため息をついてから、KKを見て言った。「お前はほんとに嫌味なやつだな」それからイルサの方を振り向くと、言った。「イルサも彼女とどっこいどっこいだな」
「それ以上言うな」と僕は彼を制する。
「なんでイルサをかばおうとするんだ?」と彼が返してくる。
その答えは何千とあるはずなんだけど、今は一つも思い浮かばない。
待っても浮かんで来る気配さえない。
「じゃあ、なんであなたは今でもサムが好きなの?」とイルサが代わりにジェイソンに言い返してくれた。
「イルサ、よせよ」とパーカーが、テディベアのぬいぐるみか何かを見せながら赤ちゃんをあやすみたいな声で言った。
「ほんっとにラザニアって好き」
すぐには誰が言ったのかわからなかったけれど、次の瞬間ヨハンだと気づいた。
彼が続ける。
「ぼくが子供の頃、母がラザニアでこういうことをやってくれたんだ。―母は麺をアルファベットみたいにくねらせて、ぼくたちにメッセージを書いてくれたんだよ。ラザニアを食べ進むと、下の層にそのメッセージが現れるんだ。だから、ぼくたちは慎重に食べ進まなくちゃいけなかった。すごくすごく慎重にね。いつもの夕食は大急ぎでがっついて食べるんだけど、―なにせ4人兄弟なものだから、急がないと食べそこねちゃう。―でもラザニアの時だけは特別で、ぼくたちがラザニアを食べてるところを見たら、きっと恐竜の化石でも発掘してるんじゃないかって思ったはずだよ。時々母は、ぼくたち兄弟に1文字ずつアルファベットを書くってことをやった。そういう時は、みんなが食べ終わるまで待たないと母からのメッセージがわからなかったんだ。さっきも会話のない家庭だったって言ったけど、―本当にお堅い厳格な家だったんだ。すべてが軍隊みたいな精密さで回っていた。だから母がこういうことをする時は、なんていうか...うまく言えないけど、地下でこっそり秘密の集会を開いてるみたいな、そんな気分だったよ。だからね、ラザニアを食べると、いつも当時のことを思い出して懐かしい気分になる」
最初、彼がなぜこんなことを言い出したのかわからなかったけれど、がやがやと収拾がつかなくなりそうだったみんなを黙らせて、ラザニアに集中させようって意図なんだなと気づいて、僕はなんだか彼に...感謝の念が湧いてきた。
「うちのママも寿司でそれをやってくれたわ」とKKが話に乗ってきた。「寿司職人に醬油でメッセージを書かせるの。海苔巻きをはがすと、それが現れるのよ。『金持ちにたかれ』とか、『銀行家を引き摺り下ろせ』とかね。よく考えてみると、ママがそんなパンクの歌詞みたいなメッセージを書かせるわけないわね。もちろん、冗談よ」
誰も笑わない時はいつもそうするように、KKは舌を突き出しておどけて見せた。それから彼女はこう言った。「その話はいいわ。ちょうど静かになったところで、私の大親友のイルサから、何か重大発表があるらしいわよ...」
9
イルサ
優しいサムがなんか、かわいそう。このテーブルでサムは一人だけ落ち着き払っている。でもきっと、いつもみたいに内心すごく葛藤していて、落ち着こうって頑張っているんだわ。
KKは血に飢えているというか、こんな感じで常に攻撃対象を探していて、チャンスと見れば、すかさず相手を切ろうとするのよね。まあ、実際ナイフを持ち出すわけじゃないし、本当に靴下をトイレに流しちゃうとかでもないんだけど、せっかちというか、短期間で一気に利益を上げようとして、賭け金を急激につり上げるみたいに、サーベルにありったけのエネルギーを溜めて、ひと振りで全員を叩き切ろうとするところがあるの。彼女は「ションダランド」でやってるドラマとか、『ゲーム・オブ・スローンズ』の見すぎなのよね。許してあげて。
彼女は私が重大発表をすると言って話を振ってきたけど、私が秋からどんな生活を始めようとしているか、彼女の目の前でみんなに話してほしいってことでしょう。そうすれば、ここがKKの大好きな修羅場と化すから。私が女帝のこの屋敷の、サムが大事にしているあの部屋に引っ越すと言えば、サムは嘆き悲しむでしょうし、なんでそんな大事なことを今までずっと黙っていたんだとか言って、ブチ切れるでしょうね。ジェイソンはほくそ笑みながら、私が大好きな兄からこっぴどく嫌われる様子を眺めて悦に入るわ。パーカーは彼の親友のサムが私のせいで取り乱しているのを見て、私の心配よりサムがかわいそう、みたいな顔をするのよ。ヨハンは大切なドーリー人形を私たちが武器として相手に投げつけるんじゃないかって心配して、そそくさとバイオリンケースにしまいだすの。そしてリー・チャンは、そんな状況にストレスを感じてヤケ食いに走って、サムがみんなで分けようとデザートに用意したレモン・タルトを、丸々全部食べ尽くしちゃうわ。
私はKKの誘いに乗らないことにした。私だって、CrackleとかFireとかテレビ画面で見られるようになった動画サービスに負けないくらい速いペースで進化しているのよ。向こうの都合じゃなくて私が見たい時にテレビも見るし、私は私自身の心の準備が整ってから、サムに話すわ。KKの都合じゃなくてね。
まあ、発表ならあるわ。「みんな、スマホをしまってちょうだい」私はこれをもっと早く、みんながここに到着した時に言うべきだった。嵐がどんどん激しさを増しているのが、女帝の家の巨大なパノラマのような窓越しにわかった。今夜これから夜更けにかけて、大変なことになりそうな気配がひしひしと伝わってくる。スマホをしまえば、マンハッタンの摩天楼の上空に轟く稲光の写真をインスタグラムにアップできなくなるし、不運にもこんな時に外を歩いていた人が突風にあおられる姿を窓から激写することもできなくなる。もっと言えば、サムのラザニアのスナップ写真を撮ることもできないわけだけど、今日の料理の出来栄えは芳しくないし、やっぱりスマホは完全にしまった方がいいわね。そうすれば、失敗しちゃった料理とはいえ、みんなで美味しく食べて、ラザニアも救われるわ。
「嫌よ」とKKが言う。「絶対に無理」
彼女が私の手の届かないところに逃げようとしたから、私はすばやく立ち上がって、彼女の手からスマホをつかみ取った。「おりこうさんね。大好きよ、KK」と私は言いながら、彼女の頭のてっぺんにキスをした。KKは銀行家の娘でお金持ちなんだけど、親に放って置かれて育った寂しい子なのよ。彼女の魅力がわかって、彼女をこんなに愛らしいと思えるのは私しかいない。そう思ってたんだけど、どうやら他にも、彼女を愛らしいと感じる人が現れたみたいね。
女帝の教えにもあったわ。他の家族をディナーに招待する時は、テーブルの近くに携帯電話を持ち込んではいけませんって。それで女帝は玄関ホールに小さな金庫を用意しておいて、そこに携帯を入れてもらっていたの。私はそれを思い出して、その金庫を玄関ホールに取りに行った。それからディナーテーブルに戻って来ると、私はその金庫を持って、「みんな、この中にスマホを入れてちょうだい」と言いながら、テーブルの周りを順番に回っていった。まず最初に私はKKのスマホを中に入れる。
「その中にこれを入れたらさ、返ってくる時に最新機種になってたりするかな?」とヨハンが聞いた。「ぼくのは5年くらい前の古い機種なんだよ」と言いながら、それを入れる。
「ジェイソンが交換してくれるんじゃないかしら」と私は答える。
私はジェイソンに鋭い視線を投げかける。ジェイソンがにらみ返してきた。それでも渋々といった感じで、最新のiPhoneを箱の中に預けた。彼はハイテクには目がないタイプで、最新機種が発売される前日の夜から、Appleのお店の前に並ぶの。それから一晩中、まるでトライアスロンの競技でも進行中みたいに、SNSに状況を投稿し続けるのよ。そして朝方には、歩道に這いつくばっている写真をアップするんだけど、文字通り、何もしてないのよね。
カスピアンのところに来ると、彼が言った。「ボクはスマホを持っていません」
「文字を打ち込む指先の器用さがないんだろ?」とジェイソンが聞く。まったく、しらっと自分の凄さをアピールしてるんだわ。彼は子供の頃、親にせがんで連れて行ってもらった地域のお祭りで、タイピングの早打ちを競うイベントに参加して優勝したことがあるらしいから。
「ボクは直接面と向かって話す方が好きだからだよ!」とカスピアンが答える。でもフレディはスマホを持っているようで、箱の中にポイッとそれを投げ入れた。
私は他のみんなからもスマホを回収すると、金庫に鍵をかけ、玄関ホールに戻して来た。
「デザートの時間にする?」とサムが聞く。
「女帝のシャンパン・コレクションの時間がいいわ」とKKが言う。
「それいいね。賛成」とパーカーが手を挙げる。
サムがキッチンへ向かい、私はダイニングテーブルからリビングルームの方へみんなを誘導した。窓の外では雷鳴が轟いている。雲の上で神が大きな岩を使ってジャグリングをしながら、この街の住人を脅しているかのようだ。マンハッタンに岩を次々と落として、黙示録にあるような世界の終わりを見せてあげようか、と。
雷の音が大きくなるにつれて、リー・チャンの顔色がどんどん青ざめていく。「雷はおそろしいわ」
私は彼女を窓に面していない方の壁際に置いてある、女帝のお気に入りの最高に座り心地が良い椅子に座らせた。「デザートを食べたら、サムがみんなにピアノを弾いてくれるわ。そしたら、外からの雑音はかき消されるから。サムと私が10歳になった時の誕生日のことを今でも覚えているわ。女帝のこの家でディナーパーティーをしたの。彼のピアノの腕前がどんどん上達している時期だった。あの時も窓の外で怖いくらいに雷が鳴り響いていたんだけど、サムがピアノの前に座って、ざわめき立っていたみんなの心を和らげようと、心地良い曲を弾いてくれたのよ。って言っても、私は彼の演奏に集中してじっとしていられなくて、ピアノの周りで側転とか、とんぼ返りとかを始めちゃったんだけどね。そしたら、着地に失敗しちゃって、床にドシンと尻餅をついちゃったの。その衝撃でピアノも揺れて、鍵盤カバーっていうのかしら、―ほら、ピアノを使ってない時に鍵盤を覆う蓋みたいなのがあるでしょ、―あれが演奏中に閉じちゃって、サムの指が挟まれちゃったのよ。幸い、大怪我に至らずには済んだんだけど、―内出血して爪の内側に青あざができたくらいかな。―でも私は女帝の部屋に連れて行かれて、反省してなさいってパーティーの間中ずっと閉じ込められてたの。イルサのケーキはおあずけよって。
今夜はちゃんと、行儀良く彼の演奏を聴くわ。
パーカーが言う。「今夜のサムの演奏は今までで最高のものになるぞ。甘くて優しい極上の音を聴かせてくれるよ」私は彼を見遣って、目配せする。私たちのテレパシー的つながりがまだ機能するか確かめてみた。通じた! パーカーがリー・チャンの座っている椅子のそばまで来て、床に腰を下ろしてくれた。嵐で困惑している彼女を安心させようとしているのだ。私はジェイソン以外の他のみんなにも、同じようにテレパシーを送ってみた。
「誰かコーヒーを飲みたい人いる? お茶がいい人は誰?」とジェイソンがみんなに聞いた。彼は私の方を向くと、「こういうのは主催者のお前がゲストのみんなに聞いて、出すものだろ、イルサ」と言った。
KKが女帝の高級な漆塗りのチャイニーズ・キャビネットに手を伸ばす。「誰もお茶には関心ないわ、ジェイソン」
「ぼくはお茶がいいな」とヨハンが言う。
私は返す。「キッチンにサムがいるから、彼にお茶の場所を聞けば教えてくれるわ」本来なら、私がキッチンに取りに行って、彼にお茶を入れてあげるべきなんでしょうけど、そうね、私はダメな主催者なのよ。ヨハンがクチコミサイトのYelpに、〈イルサは最悪の主催者〉とかって書き込まなければいいんだけど、まあその心配はないわね。私は気まぐれなのよ。最初はヨハンいいかもって思ったけど、今は断然、私のお気に入りのゲストはカスピアンね。ヨハンは自分でお茶を入れて、まずいお茶でも飲んでてちょうだい。
KKがキャビネットからブランデーのボトルを1本取り出した。私たちが前回のディナーパーティーの締めくくりとして飲んでから、誰も手をつけていないブランデーだ。「さあ、今からパーティーの本番よ」とKKが言って、女帝のブランデーグラスを次々と取り出し、横長のソファの前にあるコーヒーテーブルの上に並べ出した。ジェイソンとフレディがそこに腰を下ろす。ジェイソンがソファの一方の端に座り、もう一方の端にフレディが座って肘を肘掛けに載せる。その上でカスピアンは直立のまま、だらんと休んでいる。「飲む人?」と、グラスにブランデーを注ぎながら彼女が訊ねた。
パーカーが真っ先に手を上げて、私の手も追随するように上がった。リー・チャンとカスピアンは迷っているのか、手を上げたり下げたりしている。「量はシングルにする? ダブルで二人分飲んじゃう?」とKKがフレディとカスピアンのコンビに聞く。
「ダブルで」とカスピアンが答えた。
彼女がみんなのグラスにお酒をついでいると、サムがリビングルームに入ってきた。「ジャジャーン!」と彼は口でファンファーレを真似て、コーヒーテーブルの一方の端にレモンタルトを置いた。みんなが感心するように見守っている。「デザートはレモンタルトにしたんだ」
「緑じゃないか!」とカスピアンが声を上げた。「この色はレモンじゃなくて、ライムのタルトじゃない?」
サムはしゅんとしょげた表情をして言った。「今日の午前中、スーパーマーケットの〈フェアウェイ〉に買い物に行って、食材を見て回ってたとき、レモンはそんなに新鮮には見えなかったけど、そこまで悪くないかなと思って買ったんだけど」
「すごく美味そう」とパーカーが言って、みんなに「なっ、美味そうだよな」と促すような視線を送った。
公平に見て、タルトは緑ではなかったけれど、正直なところ、レモンっぽくもなかった。
「すごくいい感じ」とリー・チャンが賛成した。
「美味しそうだわ」と私も言う。
「早く切り分けてくれ、もう待てない」とジェイソンが言う。
「アレルギーなんだよね」とカスピアンが甲高い声を上げた。
「マジか」とKKが言った。
突然、空が割れたかのような激しい落雷があり、みんなの背筋が凍り付いた。カスピアンが彼独特の金切り声で叫んだ。リー・チャンはおびえている様子だ。「こんなのなんでもないよ」と、パーカーがみんなの気分を落ち着かせようとする。
しかし、なんでもなくはなかった。直後に家の電気がすべて消えてしまった。私たちは真っ暗なリビングルームに取り残されたように座っていた。―外の街路灯や他の建物からの光も入って来ない。窓の外に視線を向けると、暗闇の中、車のライトだけがかすかにうごめているのがわかった。停電になったのは私たちのいる建物だけではないのだ。暗闇に包まれながら、この後どうなってしまうのか、頭の中で懐中電灯を照らすように思い浮かべた。真夜中にダウンタウンで予定されているダンスコンテストに、パーカーと出かける自分を想像してみる。おかしなことに、全然その姿がイメージできない。パーカーと踊りたくないわけではないんだけど、ダンスの腕前をアピールすることに必要性を感じられないのだ。
サムがボーイスカウト時代を思い出したのか、真っ先に声を上げた。「みんな、このままここで座って待ってて。たしか女帝の衣装部屋に防災用品が一式入ったボックスがあったはずだから、僕が取って来るよ」彼が廊下を玄関ホールの方へ歩いていく音が聞こえた。たしかに彼なら目隠ししても、女帝のアパートメントの中を難なく歩き回れるでしょう。―実際、彼が家具にぶつかる音もしなかったし、花瓶とか、他のこまごまとした装飾品が床に落っこちる音もしなかった。玄関ホールにたどり着いたらしい彼が大声を上げた。「イルサ、女帝の金庫の暗証番号は何番? 小さな懐中電灯は見つけたけど、光が弱くてちらついてるんだ。―たぶん電池がもうすぐ切れちゃう。でも、この明かりで金庫を開けて、みんなのスマホを取り出せば、スマホを懐中電灯代わりに使えるだろ」
「0-1-1-8よ!」と私は叫び返す。玄関ホールからぼんやりと、今にも消え入りそうな光が届いた。
「僕たちの誕生日ってことか、なるほど!」とサムが叫ぶ。1月18日は私たちの誕生日。「イルサ、ほんとにその番号で合ってるのか? 開かないぞ」
「絶対に合ってるわ。女帝があのディナーパーティーのあと、番号を変えてなければね。あの時パパがこっそり金庫からスマホを取り出して、バスケットボールの試合経過をチェックしたら、女帝が怒っちゃったでしょ」
「彼女が変更したんだな。馬鹿なパパのせいだ! なんでほんの1時間くらい、バスケなんか無視できなかったんだよ?」
「ほら、3月の全米大学選手権の準決勝だったじゃない!」と私はサムの記憶を促す。「シラキュース大学の試合でさ」
「その時期は男からスマホを取り上げちゃ駄目だな」とパーカーが抑揚をつけて言った。
「たしかに」とカスピアンかフレディが言った。どちらが言ったのか私には判別できなかった。
「やばい。懐中電灯が切れた」と言うサムの声が届く。
「怖いわ」とリー・チャンが言う。
私はカーペットの上に腰を下ろすと、パーカーのセクシーな匂いを頼りに、彼の隣にいるはずのリー・チャンのそばまで、カーペットを這うように進む。私のひざがパーカーのひざにぶつかった。ひざを通じて全身にトキメキがほとばしる。そのまま力が抜けて、よろめくように彼にもたれかかりそうになる。
「大丈夫よ」と私はリー・チャンに言う。「きっと電気はすぐに復旧するわ」
しかし雲の上の女神は執念深いようで、もう一発、ピカッと窓の外が光ったかと思うと、轟音が鼓膜を激しく揺らした。さっきの稲妻が予行練習だったかのような本気さを感じた。稲光がリー・チャンの恐怖におびえる表情を浮かび上がらせる。パーカーにも彼女の表情が見えたようで、彼が言った。「心配しないで。イルサも俺も、ちゃんとここに、君のすぐそばにいるから。俺たちが君の救命ボートになるから」
カスピアンが言う。「母なる自然は、ただエネルギーを放出しているだけなんだ。軽度の地震のようなものだよ。それって良いことだって、知ってるよね? そうやって少しずつエネルギーを放出することで、大規模な地震とかが起こらないようにしてるんだ」
「チョコレートってどこかにある?」とリー・チャンが聞く。「私には気を紛らわすものが必要みたい」
「僕がチョコレートを取ってあげるよ」とサムが答える。「たしかサイドテーブルに置いたと思う。ほら、やっぱりここにあった。ジェイソン、これをリー・チャンに渡して」
ジェイソンがチョコレートの箱を私に向けて、バスケのゴールを狙うみたいに、投げた。彼のシュートは見事に命中し、私の耳に当たって、ひざの間に落ちてきた。私はそれをリー・チャンに手渡す。
サムがリビングルームを横切って、再び窓の近くまで歩いて行く気配がした。「かつてここに住んでいたスタンウィック女史が、この建物を守ってくれているんだ。彼女が何も起こさせない。ここにいれば、僕たちは安全だよ」
「どうしてそんなことがわかるの?」とリー・チャンが聞く。
「また、サムとイルサのゴーストストーリーネタかよ」とジェイソンが愚痴る。
サムと私はこの話をするのが大好きなのよ。私は話し出す。「名女優だったスタンウィックはね、元々この建物に住んでいたの。それでここは彼女の名前にちなんで、スタンウィック邸って呼ばれてるのよ。彼女はここの最上階のペントハウスで暮らしていたの。今はKKがそこに住んでるわね」
「彼女がこの建物を守ってくれているんだよ」とサムが言う。
私はリー・チャンに、この建物の歴代の住人たちの証言をまじえて、みんなが彼女の保護の元で暮らしてきたことを伝えようとした。スタンウィック女史の亡霊が、この建物を火災や竜巻やハリケーンから守ってくれているということを話そうとしたんだけど、ここの住人の一人であるKKには別の考えがあるみたいで、KKが言った。「彼女って寝てる時におならをするのよ。本当よ。彼女が昔暮らしていた部屋で寝てる私が言うんだから、間違いないわ」
サムが彼女の発言を無視して言う。「スタンウィック女史の本名は、エセル・マエ・スタンウィックっていって、彼女には恋人がいたんだけど、生涯結婚することはなかった。彼にはすでに妻がいたからね」
私は言う。「その女たらしの彼は、建設会社の社長でね。彼がこの建物を建てて、彼女の名前から、ここをスタンウィック邸って名付けたのよ。当時はここニューヨークで映画産業が始まったばかりで、彼女はサイレント映画の女優だったの。映画業界はのちにカリフォルニアのハリウッドに移るんだけど、元はここから始まったのよ。彼女はサイレント映画でいつも、イギリス人の上流階級の貴婦人を演じていたわ」
サムが言う。「もっとも、実際の彼女は、すぐそこのシープスヘッド湾のほとりで育ったんだ。彼女の発言を聞けばわかるよ。ブルックリン訛りがきついからね」
「そこに関しては本当ね」とKKが言う。「彼女の亡霊がたまに出没して、昔を懐かしむように鼻歌まじりに廊下を歩いているんだけど、」と、―ここでKKは昔のブルックリン訛りを強調したアクセントに切り替えて言った。「いったい何様のつもりなの? ここの主にでもなった気でうろついてるけど、あんたはここに住まわせてもらっていただけの、ただの成り上がりでしょ?」
「助けて!」と、キッチンから叫び声が聞こえた。
「ヨハンだ!」とサムが言う。「彼がキッチンにいるのを忘れてた。誰か彼を助けに行ってあげないと」
「お前しかいないだろ、勇敢なサム剣士の出番だ」とパーカーが言う。そう言いながら、暗闇の中で、パーカーの手が私の手をぎゅっと握りしめてきた。私もそれを望んでいたところだったから、テレパシーが通じたってことね。ちょっと変態っぽい望みだけど、お互い様ね。彼が握りしめる手の力を強めると、私の心は締め付けられるように息苦しくなる。
「みんな静かにしていてくれないかしら?」とリー・チャンが頼むように言った。「この停電が終わるまで」
「俺たちが喋ってると落ち着かない?」とパーカーが聞く。
「落ち着かないわ。雷と同じくらい、私の耳に響くの。喋り声に圧倒されちゃって、私の意識が全部そっちに持って行かれるの。太刀打ちしなくちゃって思っちゃうのよ。なんとかして聞こえてくる声を制圧しなくちゃっていう気分になっちゃうの。本当は聞き流したいんだけど」
「じゃあ、みんな静かに黙っていることにしよう」とカスピアンが特徴的な声で言った。
静けさが暗闇を支配すると、なぜ彼女がこの状況を好むのかがよくわかった。外から聞こえてくる激しい雨のリズムは、うっとりしそうになるくらい魅惑的で、普段の街の騒音は一切聞こえない。普段の下から突き上げてくるような車のクラクションや人々が叫び合っているようなざわめきは、全て消えていた。停電と、しつこいまでに落ちてくる雨が、街をきれいに、―空気まで浄化しているかのようだ。なんだかこの「沈黙」が、一人の見知らぬゲストに思えてきた。―このパーティーに呼んだつもりはなかったし、沈黙なんてパーティーには必要ないって思っていたけれど、今はこの沈黙に感謝したい気分だった。ゲストとしての評価値は急上昇ね。
私たちのロマンチックな沈黙が、ジェイソンの耳障りな声でぶち壊された。「サムとヨハンは暗いキッチンで、黙って何やってるんだ?」
その時、パッと部屋の明かりが灯った。
KKがいつの間にかソファに腰を下ろしていて、隣のフレディの口と、彼女の口が重ね合わされている。そしてカスピアンが、彼女の体のある場所に入り込んでいた。普通の靴下では絶対に入り込めない領域だって私は断言できるけど、そこに差し込まれていた。
10
サム
僕は自分の目が愛おしい。
目の凄い能力に嫉妬するほどだ。僕が目に対して指令を出さなくても、勝手に調整機能が働く。
周りが暗くなった直後から、じわじわと周りの世界を自分の手中に収めるように、闇の濃度を薄めていく。
僕はヨハンを救うためにキッチンへ向かっている。彼の声を追い求めるように、でも焦らずに一歩一歩慎重に前へ進む。僕が一歩進むごとに、暗闇が背後で二の足を踏んでいるようだ。振り返らずに進んでいると、完全なる闇が段々と灰色を帯びてくる。気持ちも少しずつ落ち着いてきて、闇の中を進む航海の舵取りがしやすくなる。
僕が恐れているのは暗闇自体ではなく、暗闇の中で装飾品の花瓶とかを倒してしまったり、僕自身が怪我をしたり、あるいは、暗闇の中で自分がどこにいるのかわからなくなったり、闇の中から突然現れた誰かに襲われたりすること、そういったことが次々と頭に浮かぶから恐怖なのだ。
「ハロー?」とヨハンが叫ぶ。
「もうすぐそこにたどり着くよ」と僕は叫び返す。「ドアを開けるから、ドアから少し離れてて」
キッチンの扉を内側に押し開ける。彼にぶつかることはなかった。
「サム?」
オーブンの時刻表示も消えている。冷蔵庫は何か別種の、ただ置いてあるだけの大きな家具と化していた。ナイフが出しっぱなしだったことを思い出したけれど、どこに置いたのか思い出せない。
「君が見えたよ」と僕は言う。彼がカウンターに立っている姿が、暗い斑点のようにぼんやりと見えた。こんな状況でさえ、彼は僕の注目の的だ。彼が洋服を着ているのかも、彼の肌と洋服の境目も判別できないというのに、僕の目に彼は魅力的に映る。「僕はここだよ。こんなことになっちゃってごめん。みんなヒステリーを起こしたみたいに賑やかだから、君は呆気にとられたよね」
暗闇の静けさをさらに深めるような間があった。それから彼が、「告白しなければならないことがあるんだ」と言った。
僕は彼に近づく。「何?」
「賑やかなみんなを避けるために、ぼくはここに居残っていたのかもしれない」
「そっか」
「そして、ここから助けを呼べば、きっと君が応えて、助けに来てくれると思ったから」
さっきの輪郭しかわからなかった影とは違って、彼が実体として目の前にいる。なんだかおとぎ話みたいだ。僕たちは少年に頃に戻って、二つの影絵が重なり合うように、間近で話している。
「もちろん君が呼べば、応えるのは僕だろうね」と僕は言う。「っていうか、そういう役割はいっつも僕なんだよ」
僕は無意識に突き放すような言い方をしていた。彼の前でそんな言い方をする自分にあきれる。
「みんな生き生きしてるなって思った」と彼が言う。「躍動してるというか、ぼくの観察した限りでは、そう見えた」
彼が片足を広げるように動かして、僕の足の側面に触れた。僕はそれに気づいていないふりをする。その時、ふと別のことに気づいた。彼はこの2時間ばかりの間に、僕という人間を把握してしまったのだ。彼が僕や、イルサや、僕たちの人生のすべてについて、もうわかっちゃったよ、と思っていることが、軽く触れ合う足からひしひしと伝わってきた。
そして実際その通りだろう。彼は僕のすべてを把握したのだ、と僕も思う。
「僕たちはいつもあんな感じなんだよね」と僕は説明するけれど、まったく何の説明にもなっていない。
「いいんだ。べつにぼくは、彼女がそのドアを開けて、ここに入って来ることを期待していたわけじゃないし」
ちゃんと聞くべきだ。僕は彼からこういう話を聞きたかったはずだ。この瞬間に身をゆだね、暗闇を利用して彼の胸に寄りかかってしまおうか、とも思う。
でも僕は―
僕は―
彼は僕の何が間違っているのかを指摘できないし、何も間違っていないって僕に言うこともできない。何も言ってこないのは、彼が僕にキスしたいと思っているからだ。
僕は少し後ずさりする。澄んだ彼の目に映る僕が、ちょっとぼやけて見えるくらいまで離れる。
「僕は君に応えたかったんだ」と僕は彼に伝える。
「わかってるよ。優しいね」彼はカウンターに寄りかかるのをやめて、僕に近づいてきた。「君はとても優しいよ」
「いや、違うんだ。―そういう意味じゃない。君が助けを求めたとき、応えたかったっていう意味だよ。彼女が君のところに行こうとしないから仕方なく僕が代わりに、とかじゃなくて、君が生き生きしてるって言ってたみんなに、行けって指図されたから来た、とかでもなくて、たとえ彼女が君を助けに行くって言っていたとしても、僕は自分が行くって名乗り出ていたと思うよ。ちゃんと伝わったかな? まだはっきりしない? 僕ははっきりさせたいから。これだけははっきりさせとかないといけないって本当に思う。僕と彼女は独立していて、僕が君を気遣っているのは、彼女が君を気にかけないから、その穴埋めをしているわけじゃないってこと。もし実際、彼女が君を気にかけていないんだとしたら、―彼女には他に気にかけなくちゃならないことがいっぱいあるからだと思う。正直言って、これは本当にそうなんだ」
ああ、神よ。僕はいったい何を言っているんだ。彼はこんなことを聞きたいわけじゃない!
彼の手が僕の肩の真下に触れた。わかったよ、と言うような、少なくともわかろうとしてくれているような手の置き方だった。
「大丈夫だよ」と彼が僕に言う。
「いや」と僕は答える。「そんな簡単に片づくことじゃない。ひと言で済まさないでほしい」
彼が僕の腕に触れている手を肘の辺りまで下げた。「ぼくに話をさせてくれないかな、いい?」
完全に嫌われた、と僕は思う。彼は僕を嫌っているんだ。
彼は続ける。「君の言いたいことはわかるよ。ぼくにも同じような経験があるからね。―ぼくは一年近く、ある男性と付き合っていたんだけど、彼はぼくたちが完全に補完し合わないといけないって思っていたみたい。彼が意地悪くなる時は、ぼくが聖人になって、彼がパーティーの盛り上げ役をやる時は、ぼくは盛り下げ役、みたいな感じで演じ分けるっていうのかな、彼が社交担当を務める時は、ぼくはプライベート担当ってさ、馬鹿みたいだけど、ぼくはそういう役割分担をずっとこなしてた。そうしていれば、だいたいの事は上手く行くって思ってたから。補完し合うことで...他のいろんなことが上手く回り出すんだよ」
僕は耳を塞いでしまいたかった。こういうのって苦手だ。僕の知らない人を僕の部屋に、彼が勝手に連れて来たみたいで、そういう時って無視するわけにもいかないし。
でも、ただ突っ立っているわけにもいかない。彼は何か重要なことを僕に話している。それに対して、僕は何か返さなくちゃ。
「それで、どうなったの?」と僕は聞く。いくつか思い付いた中で、これが一番無難な返しだと思った。
「それが可笑しいんだけどね」
「僕たちのこのディナーパーティー以上に可笑しいことなんてあるわけないよ」と、僕はハードルを下げてあげる。
「本当に馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうんだけどさ、っていうか、よくあることかもしれないけど、ほんの些細なことがきっかけで、それがとてつもなく大きな問題に発展しちゃった、みたいな。ぼくが彼と別れた理由、本当に知りたい?」
「うん」と僕は頷く。もちろん、少しためらいもあった。彼が元カレについて、たっぷりと時間を使って話すというのは、僕にとって悪い兆候だから。
ヨハンがため息をついた。「彼のスマホがきっかけで別れたんだ」
そこで彼は何かを思い出すように間を置いた。電話で別れ話をしたってことか、それともスマホがもっと重要な役割を果たしたってことか。「続けて」と僕は促す。
ヨハンは少し後ずさって、さっきまで立っていた辺りに戻ると、後ろ手でキッチンカウンターを探して、再び寄りかかった。それでも僕たちの距離はまだ近いと感じていた。
「そう、ぼくは彼の部屋にいて、演奏会のリハーサルをした後、二人でソファに座ってくつろいでいたんだ。テレビで〈ドラァグクイーン・コンテスト〉なんかを見ていた。二人で寄り添うように肩をくっつけて、居心地は良かったよ。そしたら彼が、『スマホを取ってくれないか』って言ったんだ。ぼくは彼にどこにあるのって聞いた。そしたら、彼が『寝室にあるから取って来てくれ』って言うから、ぼくは彼に自分で取りに行けるでしょ、みたいに返したら、彼はこう言ってきた。『それはお前の仕事だ』って。一瞬冗談かと思ったけど、冗談ではなかった。彼はぼくに対してどれくらい力を持っているか試しているんだってわかった。―ぼくに言うことを聞かせられるかっていうゲームみたいなものだよ。普段なら、ぼくは『いいよ』って言って、彼のスマホを取って来て、ゲームはおしまい、ってなるんだけど。でもその時のぼくは、嫌だって拒んだんだ。―それで彼を傷つけてしまった。彼は心から傷ついた様子だった。ぼくは、なんでこんな簡単な要求に応えてあげなかったんだろうって悔やんだよ。そしたら彼が、『お前は俺の役に立つのが好きなんだろ!』って言ったんだ。―一字一句そのままじゃないけど、そんなようなことを言われた。だから、ぼくは言い返したんだ。『スタン、はっきり言って、今は好きじゃない』」
「スタン?」と僕は聞く。
「そう、彼の名前。―ぼくはてっきり、彼が自分でその憎らしいスマホを取りに行って、ツイートかメールか、何がしたかったのか知らないけど、スマホをいじりながら戻って来て、ごめんとか言って、ぼくたちの関係を元通りに修復してくれると思った。でも違った。そして、ここがこの話の最も美しいところなんだけど、彼がぼくのことを自分勝手だって言ったんだ。笑っちゃうよね。もちろんぼくは言い返したよ。『どの口が言ってるんだよ。君がその形容詞を持ち出したら、もうおしまいだね』って。そこからはずるずると滑り落ちるように」
彼の話がハイライトを迎えたとき、パッと家のライトが点灯した。一瞬、僕たちは盲目状態になって、それから目がだんだんと明るさに馴染んでいった。話の途中で出てきた名前がスポットライトに浮かび上がるように、気にかかっていた。
「スタンって、ツイッター好きの?」と僕は聞く。
ヨハンが頷く。「そう、そのスタン・ボール。彼は君と同じ学校だよね?」
「でも彼は...彼がツイッターで君のことをつぶやいたことは一度もないけど」
「それが唯一、彼がしてくれた自分勝手ではないことだね! ぼくが彼に言ったんだ。彼の生活の実況中継みたいなツイートの中にぼくを含めたら、すぐに過去に流されるツイートみたいに、ぼくも消えるよって。それで彼はぼくのことをつぶやけなかったんだよ。ぼくたちが別れるまでね」
キッチンが元の生命力を回復していた。冷蔵庫の呼吸音も聞こえたし、オーブンの時刻表示もまばたきしていた。カチカチと時計が再び回り出したように、周りの空間が元の現実世界に戻りつつあった。
ヨハンが続ける。「たしか彼はここに来たことがあるって言ってた気がする。最近彼と連絡を取ってないから、ここでばったり会うかなと思ってたんだけど」
ヨハンが全くの他人ではなかったことに僕は戸惑う。べつにいいじゃないか、と自分に言い聞かせる。むしろ、共通の知り合いがいたことを喜ばしく思うべきだ。ただ、その知り合いが、よりにもよって#スタンタか。なんだかスタンタに、僕とヨハンの恋物語を台無しにされた気分だった。地下鉄でたまたま運命の人に出会ったという素晴らしいストーリーが破たんしてしまった。それでもたまたまには違いないが、もう運命の出会いだとは思えなかった。
電気が戻ったというのに、リビングルームがやけに静かなことに気づいた。―可能性は二つだ。状況が一段落して落ち着き払っているのか、それとも、カオス状態がブラックホールと化したか。
僕は思わずにはいられない。リビングで壊滅的な何かが起こったのだろうか。それとも今まさに、破壊力のある何かが起こりつつあるのだろうか。そうだとすると、僕が仲裁に入らなければ、収集のつかない事態に陥ってしまいかねない。
「僕たちもあっちに戻って、みんなの状況を確認した方がいいと思う」と僕はヨハンに言う。
彼はがっかりした様子だった。混乱している表情にも見えた。あるいは、いら立っているのか。
たぶん重要なことは、僕には彼の気持ちがぼやけて見えないってことだ。
たぶん重要なことは、僕には目のような自動調整能力がないってことだ。
たぶん重要なことは、そう、僕はいつも応えてあげる人だけれど、でも僕がそれにふさわしい人だっていう保証は、どこにもないってことだ。
僕が唯一得意なのは、間違っててもいいから、困難な道のりを乗り越えてでも、とにかく駆けつけてあげることみたいだ。―ヨハンと僕がリビングルームに駆けつけてみると、妙に静かな雰囲気の中を混乱の余韻が舞っているようだった。フレデリックとKKが不愛想な表情で、ソファに恋人のようにくっついて座っていた。リーは目を閉じながら、深く息を吸って、ふーっとゆっくり吐き出していた。パーカーは何やらニヤニヤと面白がっている様子で、逆にジェイソンはつまらなそうな顔をしていた。そしてイルサは―
イルサの顔は―
イルサの表情は―
空虚だった。ライトはすでに点灯しているというのに、彼女だけはまだヒューズが抜かれているかのように、ぼんやりしている。
調整機能に不具合か?
外からは激しい雨の音がひっきりなしに聞こえていて、僕たちの注意を引きつけようとしているかのようだ。この部屋自体が呼吸をしているように感じられ、その息はいくぶん酒臭かった。
「いったいどうしたんだ?」と僕は聞く。
イルサが一瞬我に返りかけたが、―まだ完全にこちらに戻っては来なかった。
答えてくれたのは、パーカーだった。「電気が消えてるすきに、KKがソファでセサミストリートごっこに夢中になってたんだよ」
KKが立ち上がって、フランス風メイド服の乱れを整えた。「真っ暗だったから、男性の近くにいたほうが安心だと思ったのよ。それに、一人二役って興味があったし、1回で2回分楽しめるっていうか、―これだけは言わせて、特別な意味はないのよ」
フレデリックは彼女の説明を聞いて、岩を投げつけられたようにへこんでしまった。カスピアンは無表情で黙っている。
「窓の隙間から雨が入り込んでるわ」とリーが言った。
彼女は窓ガラスがきちんとフレームにはまっていない接合部を指差している。そこから薄い雨のしぶきが入り込み、壁をつたって床に流れ込んでいた。
「なんで今まで誰も気づかなかったの!?」と僕は叫び、ペーパータオルを取りにキッチンに駆け戻った。そして再びリビングに戻ってくると、スイッチを最強に入れた掃除機ロボットのように、僕は懸命に床を拭き出した。座っていたリーが脇へよけて、掃除スペースを空けてくれた。
「ぼくも手伝おうか?」とヨハンが申し出た。
「大丈夫! 一人でやれる!」と僕は言いながら、床に雨の染み跡がついてしまわないだろうかと心配になる。もしかしたら、フローリングが歪んでしまうかもしれない...
「全然大丈夫じゃなさそうだけど」とイルサが言った。彼女の方を振り返ると、僕がヨハンと一緒にここに戻ってから、彼女は全く動いていないことに気づいた。
「これくらい問題ないよ」と僕は彼女に言う。窓とフレームの隙間をペーパータオルでふさいで、ビニールテープを貼って、雨水が入り込まないように密封すれば、きっと大丈夫。
「私が言ってるのはそのことじゃない」とイルサが窓を指して言った。そして、その指を部屋全体に向けて、大きく回しながら言い放った。「私はこっちが問題だって言ってるの」
「俺たちへのお褒めの言葉かな、ありがとう」とパーカーがおどけて見せる。
「あたしはちっとも問題なんて感じてないわ」とKKがあしらうように言う。
ジェイソンは微妙な感じで息を吹き出した。笑ったのか、もしかすると、憤りのため息を吐き出したのかもしれない。
「何を言ってる? どういうことか、ちゃんと説明してくれよ」と僕は言う。今回に限っては、本当にイルサの意図するところがわからなかった。
「私が言ってるのはね、いったい何のためにこのパーティーをやってるのかってことよ。みんながここにこうして集まってるのは、どうして? せっかくみんなで集まって楽しもうとしてるのに、なんでこんなふざけた茶番にしかならないの? 単調な日常から遠く離れることが目的だったはずなのに、こんなの、単調な日常のバージョン違いでしかないわ。みんなもっと、いつもの自分からはみ出すくらい、キラキラ輝こうとしてよ。―なんかみんな煮え切らない感じでさ、サムはうわべだけ愛想よく振る舞おうとしてるみたいだけど、内心くよくよしてるのが丸わかりだし、私はサムに同情するのも疲れちゃったわ。KKのご機嫌をうかがって、KKが望むことを望む時にしてあげるのも、もううんざり。パーカーは私が誰かとやり合ってるとき、どっちの味方なのかよくわからない顔してるし、いったいどっち陣営なのか、はっきりしてちょうだいって感じ。ジェイソンはなんだか裁判官みたいに全部お見通しだよって顔して、実際は私のこと何にも知らないくせに、いちいち知った風なこと言ってくるし、カスピアンは出オチがどれくらい長持ちするのかわかってないし、ヨハンは遊びと本気の区別がついてない。わかってないって言えば、フレデリックもはき違えてるわ。私が彼を呼んだのは、サム、あなたの世界を揺さぶってほしかったからなのよ。―これじゃ、私の計画がめちゃくちゃじゃない」
「かわいそうなイルサ」と、ジェイソンがすすり泣く真似をする。見れば彼の手には、お酒のボトルが握られている。
「サムのラザニアを食べて、そんなに気持ちがむかむかしちゃったのね」とKKが言う。「たしかにあれはひどかったわ」
僕は窓の隙間にペーパータオルを詰めてから、妹のそばへ歩み寄った。「そっか」と僕は声をかける。「色々気を回して大変だったね。少し横になった方がいいんじゃない? 僕らはデザートを食べるけど、君は寝室に行って...」
僕は声をかけただけで、彼女の手を引こうともしなかったのだが、彼女は「触らないで」と言わんばかりに僕をはねのけた。
「横になんてなりたくないわ! あなたは私の親じゃないでしょ、サム―あなたは私の兄よ。私ったら何を言ってるのかしらね。―ちょっと一人になってくるわ。心配しないで。横になりたいわけじゃないけど、少し一人になりたいの」
今度は彼女の気持ちを理解できたけれど、気づくと僕は「行っちゃうのか?」と聞いていた。
「うん。ごめんね」
それから彼女は、家の鍵とか財布とかを取りに行くことなく、コートも持たずにすたすたと部屋を出て、廊下を歩いて行くと、そのままアパートメントの玄関を出て行った。玄関のドアが開く音が聞こえ、彼女が出て行ったあと、バタンとドアが閉まった。
「彼女を連れ戻しに行ってくる」とパーカーが言う。
「いや」と僕は彼を制する。「僕が行くよ」
「一人にさせてあげなよ。彼女は溜まったうっぷんを外で吐き出したいんだから」とKKが忠告する。「ちゃんと戻ってくるわよ。どこにも行く場所なんてないでしょうし」
「良い友達を持ったな!」とジェイソンが感想を述べる。「君は彼女みたいな親友がいてラッキーだ! 要するに、彼女は君みたいな親友がいてラッキーだってこと!」
それでもパーカーは出かけようとした。しかし、そこにリーが体を張って立ちふさがった。
「だめ」と彼女は両手を広げて言った。「私が行く」
パーカーがぶつぶつと文句を言い始めたが、リーがピシャリとそれを遮って、彼を黙らせた。
「私だけなのよ! さっきの彼女の熱のこもった演説を思い出してみて。次々と名前を挙げて、不満をぶつけていったけど、私だけ標的にされなかったのよ。あなたもサムも気づかなかったでしょうけど、私にはわかったの。ここは私の出番なのよ」
「あたしじゃ役不足ってこと?」とKKが聞く。
リーはKKの全身をざっと眺めてから、言った。「あなたはここに残って、私が私の友達を探しに行ってる間、自分自身にその質問を問いかけてみたらどうかしら?」
そう言い残すと、彼女は出て行った。再び玄関のドアが開いて、バタンと閉まる音が、僕たちのいるリビングルームまで聞こえてきた。
「誰かお酒飲みたい人?」とジェイソンがボトルを掲げる。
カスピアンがソファの隣の空きスペースをポンポンと叩いて、KKがそのラブシートに戻った。
僕は視線を横にスライドさせ、パーカーのところで止める。
「俺を見るなよ!」と彼が言う。「俺は暗闇で何もしなかったよ!」
さらに視線をスライドさせ、ヨハンを見た。
彼はにっこり微笑んで、僕に聞いてきた。「デザートの時間でしょ?」
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