『サムとイルサのさよならパーティー』3

『Sam and Ilsa's Last Hurrah』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2019年06月30日~2020年01月25日)


11

イルサ


「どうしたの?」とリーが私に聞いてきた。私は屋上に出るドアを開けたところだった。「ドアを開けたとたん、雷が落ちてきて、あなたのビッチな心臓を貫いたとか?」

私は笑った。リーも通用口を通って、私に続いて屋上に出た。私は屋上の隅にある物置小屋に行って、中から厚手の毛布を取って来た。そして、それをウッドデッキにかぶせて座れるようにした。ウッドデッキはひさしのついたあずまやの下にあって、ひさしの上にはびしょ濡れの葉っぱがいくつもくっついていた。ひさしから雨水がしたたり落ちている。でも嵐はすでに過ぎ去り、雨自体は止んでいた。周囲には、息をのむような摩天楼の絶景がくっきりと浮かび上がっている。湿気を帯びた新鮮な夜気が、私の頭の中に巣食った邪念も浄化してくれるかと期待したけれど、そこまでは無理みたいだった。

私たちは(ほとんど)湿り気のない毛布の上に並んで腰を下ろす。私は言った。「突発的なものよ。ランダムに雷に打たれたって感じ。兄がリビングに戻ってきて、彼があの表情で私を見てきたから、いたたまれなくなっちゃったの。何も間違ってないよって言ってるみたいな、彼らしい笑顔よ。実際は何もかもが間違ってるっていうのに。サムの馬鹿みたいに優しい表情を見たら、急にサムが憎らしくなったの。突発的な嵐に見舞われたみたいなものね」

「彼と一緒にいると、よくそういうことってあるの?」

「よくってことはないけど、一旦嵐に見舞われると、猛烈な暴風雨になるわ」リーはいつも極上のチョコレートを持って来てくれるし、彼女には敬意を持って接する必要があるわね。実際よりも良く思われようとか、飾った発言はできない。私は本心を打ち明けることにする。「雷に私のビッチな心を突然打たれたとかじゃないわ。常に私の中には、そういう邪念がひそんでいるの」

「信じられないわ。それはたぶん、心がビッチなんじゃなくて、表面的にビッチなふりをしてるだけよ」そう言ってくれる彼女も、私の中にひそんでいる別の貪欲な邪念―甘いものへの飽くなき欲求―についてはよくわかっているらしく、彼女は手に持っていたハンドバッグを開けると、中からチョコレートの箱を引き出した。きっと私を追いかけてくる時に、つかみ取るようにして持って来てくれたんだわ。彼女はその箱を開けると、私の前に差し出した。私はその中から、私の好きなモカ味っぽいチョコを選んで、つまむ。もし中に気持ち悪いレモンフィリングとかが入っていたら、(いったい誰がチョコレートの中にそんなものを入れようなんて考案したの?)半分かじっただけで箱に戻したくなるだろうけど、たぐいまれに心がきれいなリー・チャンには敬意を表さなくちゃだから、そんなことできない。

一口かじってみる。モカだ! 私は気を良くし、さらに心の内を打ち明ける。「あなたの言ったこと間違ってるわ。私は元々ビッチな心を持って生まれたの。良いDNAは全部サムが取ったのよ」

「ビッチな心って言っても、あなたの命を奪うほど邪悪じゃないでしょ? 共存して生きていけるわ」

「それこそ私が恐れていることなのよ。私は生き残りたくないの。黙示録にあるような世界の終末が訪れたとき、私は真っ先に死にたいの」

「そうとも思えないわね」とリーが言う。「大西洋の海水が溢れて、ブルックリンを飲み込んで、マンハッタンまで押し寄せてきたとして、私の知ってるイルサは、きっとエンパイアステートビルの頂上に立って、船員に向けて色目を使って船を引き寄せて、その船に積まれている救命用のゴムボートを、水面で助けを求める人たちに投げているわ」

「どうかしらね。私は高所恐怖症なのよ」私たちはスタンウィック邸の19階フロアの上にいた。実際は18階建てなんだけど、マンハッタンの古い建物のほとんどには、不吉な数字の「13階フロア」が存在しないから。先人たちはここに住む住人たちの魂に直接、迷信を擦り込む方法を知っていたってことね。何世代にも渡って、ゴーストストーリーが耳打ちされてきたのよ。18階にしろ19階にしろ、―私はこの高さで快適には暮らせない。でも、たまにこうして屋上に来て、恐怖心に立ち向かうのもいいのよね。それで恐怖心を打ち負かせるわけではないんだけど、そのせめぎ合ってる感覚が好きなの。「私はここに来たら、いつもこのあずまやの下に座るの。だって屋上の中央にあるから。端っこなんて歩いたらもう、足が震えて、気が動転しちゃうわ」

「私も端を歩いたら、どうかしちゃいそう!」とリーが言う。 「で、私たちってこんな高いところで、いったい何をしてるのかしらね?」

「私の場合は、女帝のマンションへの出入りが禁止されちゃった時、ここに上って来るのが好きなの。何年か前にね、このスタンウィック邸が分譲マンションとして売りに出されることになったんだけど、賃金統制を放棄したくない人たち、つまり立ち退きに応じないおばあちゃんたちは、屋上への出入りが禁止されちゃったの」

「ひどい話ね」

「それが不動産っていうものよ。って女帝が言ってた」

「でもあなた、この屋上デッキに出る扉の鍵を持ってるみたいじゃない。さっきあなたが鍵を差し込んで開けてるのを見たわ」

「女帝が、屋上の植木とかを手入れする造園業者の人と恋仲になったのよ。彼が彼女のためにこっそり合鍵を作ってくれたの」

「あなたのおばあちゃんって、問題解決プログラムの人間版っていうか、さきがけね」

「なんでそういうこと言うの?」

「このゆったりしたムームードレスを着てるからかな。すごく快適だから、気持ちも開放的になって何でも言えちゃう。うぬぼれてるって思われたくはないけど、このドレス、私にすごく似合ってると思うのよね」

「うん、似合ってる。それも女帝の手作りなのよ。彼女は裁縫に関しても、奇跡の腕を持ってるの。どんな布でもファッショナブルで、見違えるようなドレスに仕上げちゃうから、毎回驚かされるわ」

「そんなに才能があるのに、どうして彼女は自分で起業したりしなかったのかしら?」

「起業したわ。昔の話だけど、彼女の兄と一緒に衣料品店を立ち上げたの。でも倒産しちゃった。二人の間に何があったのかは知らないけど、二人の関係は最悪なの。女帝は、サムと私が生まれる前から今までずっと、お兄さんと話もしてないのよ」

「あらまあ」と言ったきり、リーは黙り込んでしまった。その沈黙は、私の恐れていることが彼女に伝わったことを物語っている。サムと私も、いつか女帝とお兄さんみたいな関係になるのではないか。名前さえ口にしない関係の兄と妹。お互いに死んだものと思って、無関心に生きる元パートナー。

二人の確執はビジネスの失敗だけが原因ではなかった。この賃金統制のかかった安く住めるマンションをめぐって二人は争ったのだ。元々は彼らの祖父母に賃貸されたマンションなんだけど、どっちが権利を譲り受けるか骨肉の争いを繰り広げた結果、女帝が勝ち、お互いに口も利かない、顔を合わせもしない関係になったらしい。

私は口を開く。「サムと私はそんな関係にはならないわ。私は年の離れた兄と妹がどんなものなのか知らないし、っていうか、双子の関係もさっぱりわかってないけどね。本当に同じ子宮の中で一緒に過ごしていたのかって信じられないくらいよ。おそらく彼はのらりくらりと大人しくしていたんでしょうね。中からお腹を蹴ったりしてママを困らせていたのは、きっと私の方ね。胎児の記憶までさかのぼっても、私はサムが憎らしいのよ」

過ぎ去った嵐は、風の尾ひれを残していった。屋上に吹きすさぶ風は冷たかった。紫のムームーを着たメリー・ポピンズみたいに優しいリーは、ハンドバッグから長めのショールを引っ張り出すと、私に片端を手渡して、私たちは肩からショールにくるまった。ハーフタイム中に円陣を組んで作戦会議でもしているみたいだ。「どうして彼がそんなに憎らしいの?」

「わかんないわよ!」私は怒鳴りはしなかったけれど、それに近い声を上げた。肌は寒かったけれど、体内では血が沸き立つようだった。

とは言ったものの、なんとなくわかっていた。

サムが憎らしいのは、彼がパーカーを今夜のパーティーに招待したから。私がパーカーを見た瞬間、どんなに私の心が傷つくのかを知ってて呼んだの。パーカーはもう過去のことは忘れて前を見ているからってことで呼んだんでしょうけど、私はまだ引きずってるのよ。サムと私でパーカーの気持ちを奪い合うみたいな闘いはもうこりごりだわ。サムとパーカーの友情の方が強いから、サムが勝つに決まってるんですもの。それをサムが当然のように思って、パーカーと仲良くしてるのも憎らしいわ。私はパーカーへの想いを断ち切ったつもりでいても、サムを通じてパーカーを思い出しちゃうのよ。―サムのスマホをちらっと覗けば、パーカーとやり取りしてるし、隣の部屋からサムとパーカーの楽しそうな笑い声が聞こえてくるし、彼らは私が隣の部屋にいるって気づいていないんでしょうけど。この女帝の家で行われる最後のディナーパーティーに彼を招待したのは、完全にサムの確信犯ね。そうやってサムが私にパーカーの影をちらつかせてこなければ、もっと簡単に私の気持ちは彼から吹っ切れたのに。―サムは残酷なのよ。パーカーがどっち陣営につくか、常に試してるんだから。そんな三つ巴の争いしたって誰も得しないのに。責任がサムにあることを証明できないのはわかってるけど、私はサムに責任を取ってほしい。

彼が憎らしいのは、女帝とママとパパが、愛情に関しては私たちを二人とも同じように愛しているんでしょうけど、好きかどうかで言えば、私より彼の方が好きだから。

彼が憎らしいのは、誕生日を毎年一緒に祝わなければならないから。

彼が憎らしいのは、サムがピアノのレッスンを受けて、私はダンスのレッスンだったから。彼はバークリーみたいな世界有数の音楽大学に合格するくらいすごい才能があって、私は全然ダメダメで、毎回レッスンから帰った後はベッドに突っ伏してへこんでいた。ダンスで有名な大学に入れるほどの才能なんて全くなかったし、私はさっさとやめちゃったわ。サムはバークリーに合格はしたんだけど、―入学を辞退したのよね。

彼が憎らしいのは、私たちは同じ子宮から生まれてきたっていうのに、全然違う人生を歩んでいるから。彼はたとえ何かドジを踏んでも、実質的な影響を受けることなく、白人男性の特権をまとってこれからものらりくらりと生きていくのよ。私は本音を隠さず自分の気持ちに正直に突き進むだけだから、私の心はどんどんビッチになっていくでしょうね。

彼が憎らしいのは、彼は何かに心が傷ついても、全部胸の内に秘めておくから。私は何か嫌な事があれば、彼を頼って彼に相談するのよ。なのにどうして彼は彼の問題を私に打ち明けてくれないの?

憎らしいのは、こういうことすべてにちゃんとした理由がないから。私はただ、怖いの。そして何もかもが変わって行く、たぶん良くない方向へ。

「きっとあなたはわかってるんでしょうね」とリーが言う。

「そうね。あなたの言う事はいつも正しいわ。私が彼を憎らしいと思うのはね、何か嫌な事があると、サムは流れに身を任せる感じで切り抜けちゃうからよ。私の場合は、カッとして居ても立っても居られなくなって、とにかく何か行動に出るのに、彼はそんな時でも平然と落ち着き払っているの。上辺だけ何でもないふりをしているのがバレバレなのに、本心を隠そうとするのよ。彼はどこか頭のネジが外れてるのよね」

「平然と穏やかでいるなら、何も気にすることないんじゃない? それって彼の良いところじゃないかしら?」

「彼が穏やかでいればいるほど、私のビッチさが浮き彫りになるからよ」

「自分でそんなこと言わないで。そんな単純なことではないでしょ」

もちろん単純な問題じゃないわ。私はいついかなる時でも、この不安感を胸に抱えて生きてるの。自分を演じることで、不安な気持ちを外に吐き出しているんですって。少なくとも、私がかかっているセラピストが言うにはね」

「あなたも処方されてるかもしれないけど、そういうのに効く薬があるわ。私はそれを飲んで、気持ちを落ち着けてるの。すごく効くわ」彼女は笑って言う。「って言っても、雷の時は全く効かないんだけど、―少なくとも私の場合はね」

ささやくように私は言う。「怖いわ」

「薬が?」

「そういうのを飲むと、私が変わっちゃう気がして。私の世界にフィルターがかかるっていうか、どんよりした曇り空みたいな絵の具で塗り替えられちゃう」

「私はそういう風には感じていないわ。今でも時々パニックになることもあるけど、前よりはずっとまし。薬を飲み始めてからは、うまく不安をコントロールできてる気がする。前はね、不安に襲われると、身動きが取れなくなっていたの。でも今は、少なくとも何とか対処しようとはするわ。薬を飲んでも何も状況は変わらないけど、屋上の端っこを少し広げてくれる感じかな。あなたが飛び降りても落ちないように」リーはそっと私の腕をさすった。彼女が私のすさんだ心を癒してくれている。「大丈夫よ」

それでもまだ、私の心は痛んだ。私はサムの元カレが大嫌いだし、サムが次から次へとキュートな男の子を好きになっていくのも、いけ好かない。私はパーカーだけにこだわってるっていうのに、彼はハーレムみたいに何人もの男子を周りにはべらせて、いい気なものだわ。時々私は、パーカーへの自分の気持ちがわからなくなる。自分の気持ちにまっすぐ向き合ってみると、パーカーにこだわってるというよりは、パーカーが私をふったという事実に、あの時の心の痛みにこだわってるのよね。「ジェイソン・ゴールドスタイン・チャンが、私はひどい女だって言ったの。その時、サムは私をかばおうともしなかったわ」

「ジェイソンは、KKもひどい女だって言ってたわね。彼女は実際そうだけど」

「私はKKのことが好きっていうか、好きなところもあるんだけど、それってやばいかな?」

「やばくはないけど、なんかイライラする」

私は少し笑ってしまった。最後の説明がツボに入ったというか、そう言うかなと思ったところだったから。「なんでイライラするの?」と私はあえてリーに聞いてみる。

「だって、私はもっとあなたと一緒に過ごしたいのよ。それなのにKKがあなたを独占しちゃうから」

「そっか、その問題はどうしたらいいんだろう」私は必死に抑えようとしたけれど、私の口元からぽろぽろと、笑みの切れ端がこぼれ落ちるのを感じた。「じゃあ、あなたも、私たちみたいにひどい女になってみるっていうのはどう?」

「そうね、なってみようかしら。じゃあ手始めに下に戻って、ドリー人形を何体か踏みつぶしましょ。それから、カスピアンを靴の中に突っ込むの。靴下は靴に入るって決まってるんだから。そしてサムを指差して、こう言うの。あんなくそまずいラザニア作ってんじゃねえよ

「わお、リーって野獣ね。私にはそこまで思いつかなかったわ」

「私たちはもっと一緒に過ごして、もっとお互いのこと知るべきね」

たしかに。でも、どうしてあなたはクイーンズ地区なんかに住んでるの?」

「クイーンズ行きの電車があるから」

「けど...すごく遠いわ」

「もう4年間、高校からずっとクイーンズからマンハッタンまで通ってるのよ。大学でも同じことを続けるだけだから、なんてことないわ」

「あなたが住んでるところって、インド料理が美味しいって聞いたわ」

「そうね」

沸き立っていた体内の血が鎮まっていくのを感じた。高鳴っていた心臓の鼓動もスローダウンしつつある。私は言う。「私には不安を抑える薬は必要ないみたい。あなたがそばにいてくれれば、私は大丈夫そう。またビッチな心が暴れ出したら、そばにいてね」

「不思議なんだけどね、あなたの心を落ち着けてると、私の心まで癒されるのよ。あなたの役に立ってるって思うと、私自身の不安感は完全に消えちゃうの」

「あら、ビッチな心を慰めてくれたのって、無償の使命感に駆られてとかじゃなかったの?」

「まあ、完全に無償ってわけじゃないわね」

「どっちでもいいわ。とにかくありがとう」チョコレートとショールと、それからリーのぬくもりに感謝した。「やっぱり屋上っていいわ、静かだし」

私たちは顔を近づけて、しばらく見つめ合っていた。そしてお互いの体に引き込まれるように、自然と抱き合う。それからふいに、リーの唇が私の唇に重なった。今までにしたキスの中で最も予期せぬ、そして最も甘いキスだった。柔らかいリーの唇から、私の全身に熱いものがぞくぞくと広がっていく。くらくらする頭で、これ以上気持ちのいいキスは、今後も経験できないかもしれないな、と思った。彼女の吐く息から、さっき彼女が食べたペパーミント風味のチョコレートの香りがした。

彼女が体を引き離す。「ごめんなさい! これはなんて言うか...してもよかった?」

「ちょっとびっくりしたけど。でも素敵なキスだった」

「本当?」

「うん」私はリー・チャンのことを深く知る前に、私の兄をちゃんと理解する必要がある。リーは、私が思っていた以上にやばい人みたいだし、彼女の魅力にはまり込む前に、身を引かなきゃ。私は顔をかすかにそむけて、もうこれ以上唇の関係を続けるつもりはないことを示そうとする。―それでもすぐそばにお互いの唇はあって、彼女が私たちのそういう関係に未来はないって気づいてくれるかは微妙な距離。―そうだ。「サムはまだ知らないんだけどね、私は今度、マディ・ホーグのお守り役をやることになってるの。ホーグ家が女帝のマンションの所有者になったら、私はここに住み込んで働くのよ」

「重大発表があるってそのことだったの? で、まだサムに言ってないわけ? 心配しなくても彼は怒らないと思うわ。あなたがここに住むのなら、彼は喜ぶはず」

「それが問題なのよ。私は彼に怒ってほしいの。カンカンに、怒らせたい」

「だったら彼にちゃんと話して、二人でとことん話し合いなさい」

「私たちは、女帝とお兄さんみたいな関係にはなりたくないの」

リーが私の目の中をじっと見つめてきて、言った。「大地震みたいな一大事があなたの人生に起こったら、その後どうなると思う?」

「すべてが変わってしまう」

「そうね。でもあなた自身は変わらないわ。あなたはそれが起こる前と同じ人のままよ。サムも変わらない。あなたの性格や心は今のまま、変える必要ないの。たとえ周りの環境が変化してもね。重要なのは、その時にどう対処するかってこと。大地震の後は、いろんなものが降りかかってくるでしょうけど、対応力で乗り切るのよ」

まあそうでしょうね、と軽く受け流すこともできるけれど、たしかに理にかなったことを言っている。「私はひどい人じゃなくて、もっといい人になりたい」と私は本心を言った。

リーが私の手を取って、そっと包み込むように握った。友達以上恋人未満の感触。どっちにも傾きそうな、危ういぬくもりが伝わってきた。「あなたの恐れていることに立ち向かうのよ。大丈夫。私もついてるから」と彼女は言って、私の手を握ったまま立ち上がる。私もつられて立ち上がると、肩からショールが落ちた。間近で見る彼女の髪は、今まで気づかなかったほどになめらかそうだった。絹のような黒髪がセクシーな曲線を描いて、ムームーの下に入り込んでいる。彼女も間近で私を観察しながら、私のドレスにたくさん描かれた猫ちゃんの中の1匹を指差して、言った。「カスピアンが言ってた通りだわ! ジェラルディンは本当に虚ろな目をしてる」

「今夜のパーティーの参加者の中で、あなたのお気に入りはカスピアン?」

「もちろん違うわ。私のお気に入りは、あなたよ」

彼女は私の手をしっかりと握りしめ、エレベーターの中へと私を連れ戻した。

女帝のアパートメントに戻ってみると、サムとイルサの最後のディナーパーティーは、最悪の展開になっていた。

サムがピアノを弾いていて、ヨハンが寄り添うようにバイオリンで伴奏している。あのバイオリンはたしか、女帝の3番目の夫(あのインチキ男!)がここに置いて行ったものだ。パーカーはマイクを口に当てて感傷的に歌っている。一方、カスピアンとKKとフレディが、ソファで仲良くいちゃついている。ジェイソンはサムにちょっかいを出したいのか、すっかり酔っ払った様子でふらふらとうろついている。

パーティーは良いムードで進行中じゃないか。

私がいなかったにもかかわらず。

てっきりみんなが私のことを心配してるんじゃないかって思っていたのに。私はグランドピアノまでつかつかと歩み寄り、鍵盤の上を軽やかに跳びはねるサムの指に、鍵盤カバーを叩き付けてやろうとしたのだが、間一髪のところでリーが私の腕を引き止めた。

音楽が途絶え、陽気な空気が一瞬止まり、みんなの視線が私とリーに向く。

リーが言う。「さあ、盛り上がっていきましょう。弾き続けて、サム」



12

サム


べつにお酒を飲むことについてとやかく言うつもりはないけれど、友達がめったやたらに飲んでいるのを間近で見るのは、楽しいとは言えない。

僕はピアノにすがるように指を動かす。弾き続けてさえいれば、誰も「全然飲んでないじゃないか」とか言って、僕にお酒を勧めてこないから。僕は陽気なリズムを刻み続ける。―ガーシュウィンとか、ラグタイムの曲を連ねてゆく。

誰も聞いていないことは薄々気づいている。

彼らは女帝がお酒をしまっているキャビネットを襲撃中だから。実際はキャビネットというより、クローゼット並みの広いスペースなんだけど、そこに女帝のコレクションが並べられていて、イルサがその中から適当に見繕って、みんなに分け与えている。さながら彼女がフローレンス・ナイチンゲールに見えなくもない。外では強風が吹き荒れている夜の女神だ。

僕はそれを横目に弾き続ける。弾くのを止めたら、僕が「そんなことしちゃまずいよ」とか言う役目を担わなきゃいけない。そんな役回りはもうこりごりだ。

誰か他にその役を引き受けてくれる人はいないだろうか。

誰かこの部屋に入って来てくれないだろうか。

僕の願いはむなしく、誰も入って来ない。

ヨハンがバイオリンを弾きながら、イルサにジン・トニックを作ってほしいと頼んでいる。ジェイソンは、マラソンの後のゲータレードのように、ウイスキーをがぶ飲みしている。あえてKKたちのいる方は見ないようにする。そこで何が繰り広げられているのか知りたくもないから。パーカーは窓の下枠のところにビールを7本並べている。リーはお酒を飲んでいないみたいだ。イルサも今は飲んでいない。ただ、女帝のコレクションからの略奪品をみんなに一通り配り終わったら、イルサも飲み始めるのではないか。

僕はヨハンにこのまま僕のそばでバイオリンを弾いていてほしいと願う。彼の伴奏はとっても気持ちいい。僕たちは一言も言葉を交わすことなく、息がぴったり合っている。彼のストリングスと、僕の鍵盤が奏でる振動が、重なり合って宙に舞う。

しかし今、ヨハンはイルサが言ったことに対して笑っている。

僕は負けじとピアノの音を強める。他の音が彼の耳に入らなくなるくらいに。

そんなの無理だ。

たぶんこれが、僕が人前でピアノを弾かなくなった理由なんだろう。周りにたくさんの人がいる中で弾いても、僕にはみんなをうっとりさせて、演奏に惹き込むことはできない。

そうして僕は自分以外の人に向けて弾くのをやめた。

でも、それが直接の原因ってわけじゃない。実際のきっかけはオーディションだった。僕は昔から行きたかったジュリアードの入試に落ちたんだ。ジュリアードはニューヨークで最高の音楽大学だし、この街に誇りを持ってるニューヨーカーとしては、この国で一番の音楽大学だと思ってる。準備は万全だったし、直前のリハーサルもノーミスで完璧に弾けた。しかし、控え室で自分の名前が呼ばれるのを待っていると、水かさが増えていくように、僕がこれから挑もうとしていることの重みがどんどん増していって、息苦しくなった。すっかり動揺してしまった僕は、試験室に入るように、と自分の名前が呼ばれている声も耳に入って来なかった。何度か名前を呼ばれ、ようやく我に返った僕は、慌てふためきながら演奏に突入した。今こそ輝くチャンスなんだと自分に言い聞かせていたら、頭の中で言葉ばかりが大きく鳴り響き、肝心の音楽は全然聞こえてこなかった。そして僕はミスった。大したミスではなかったけれど、僕を焦らせるには十分だった。なんとか立て直そうとバタバタもがいているうちに、演奏は終わった。ミスタッチの回数自体はそれほど多くなかったし、よく最後まで弾ききったと自分を納得させていたんだけど、―ジュリアードが求める水準はそんな程度ではなかった。

家に帰って、僕はそのことを胸の内に秘めておくことができず、すべてをイルサに打ち明けた。

彼女の反応? 彼女は僕にこう言った。「プレッシャーに耐えられないんだったら、プレッシャーの中に身を置かなきゃいいのよ」

彼女らしいアドバイスだなと思ったけれど、彼女のばっさり斬るような言葉に、僕の気持ちをつなぎとめていた一条の光は、その風圧だけでフッと消えた。

「リクエストしてもいいか?」

肩越しに聞こえた声は、ジェイソンのものだった。彼の酒臭い息が吹きかかってくる。もうだいぶ深いところまで酔っ払っているようだ。

「もちろん」と僕は返す。

「『How Can You Mend a Broken Heart?』(失恋のこの痛み、どうしてくれるんだ?)を弾いてくれないか?」

僕は首を振る。「その曲は知らない」

「じゃあ、『Guess I’ll Hang My Tears Out to Dry』(この涙が乾くまで、もうすぐだから)はどうだ?」

彼の選曲のテーマから、何が言いたいのかが伝わってくる。僕は言う。「ジェイソン、やめてくれ」

彼がピアノの側面を平手でバンと叩いて、「しけてんな」と言った。「しょうがない。『You Belong to Me』(あなたは私のもの)で手を打つよ。―スタンダードバージョンでも、テイラー・スウィフトバージョンでも、どっちでもいい」

「テイラー・スウィフトの曲は『You Belong with Me』(あなたは私とつながっている)だと思うけど」

「知らねえよ。お前は俺のものなんだよ」

僕はジャズのスタンダード『Smoke Gets in Your Eyes』(煙が目に沁みる)を弾いていたから、彼のリクエストには応えず、そのまま『Smoke Gets in Your Eyes』を弾き続ける。

「ジェイソン、君は相当酔ってるね」と僕は彼の顔をチラッと見る。

「お前はしらふみたいだな。つまんねえやつだ

「お二人さんの間に何か問題でも?」とヨハンが滑り込むように割って入ってきた。

「いや、なんでもないよ」と僕は返す。

「あんたが飛んで来るまでは問題なかったんだけどな」と、ジェイソンが吐き捨てるように言った。

「それはどういう意味?」とヨハンが聞き返す。

「そのままの意味だよ。感じたまま受け取ってもらってかまわない」とジェイソンが答える。「つまり、あんたが問題だって言ってんの。ぽっと出のくせして。そんな簡単に、サムをさらって行けると思ったら大間違いなんだよ。もっとじっくり時間をかけて、せいぜい頑張んな」

「いや、僕は誰にもどこにも、さらわれるつもりはないよ」と僕は指摘する。僕は二人のはざまで気持ちが速り、指の動きもつられて速まる。あからさまにミスタッチをしてしまうが、僕は弾き続ける。

ヨハンがジェイソンの手から、ラベルに〈Maker’s Mark〉と書かれたウイスキーのボトルを取り上げようとする。

「ほら」とヨハンが言う。「それをぼくによこせ。君は代わりにコーヒーでも飲んだほうがいい」

しかし、ジェイソンは抵抗して放そうとしない。二人はボトルを両側から握りしめて、引っ張り合っている。「彼女だろ? イルサがあんたを俺たちのところに送り込んだんだな。イルサ、俺はお前が大っ嫌いなんだ!

「お互いさまよ!」とイルサが叫び返した。

ジェイソンが急に力を抜いて、ボトルを手放した。勢い余ったウイスキーのボトルが、ヨハンがもう片方の手で持っていたジントニックのグラスにぶつかった。カシャンというグラスの割れる音がしたかと思うと、さらにくぐもった破裂音が続いた。ボトルとグラスが絨毯に落ちて割れたのだ。

「まったく!」と僕は叫び、演奏を中止して、ピアノの椅子から飛び降りる。「まだ他にも何か問題が起きそうなことある? 先に教えといて」

僕は返事を待たずに、急いでキッチンへ向かった。さっきの追加でペーパータオルと、それからほうきとちりとりを取って来るつもりだった。廊下に出た瞬間、ステレオから爆音でラップが流れ出した。僕がピアノの演奏を中止して、まだ2秒ほどしか経っていない。ケーキ1個分の価値しかないドレイクのラップが廊下まで鳴り響く。そういえば、さっきリーがステレオのそばで操作ボタンをいじっていた。リーはケーキが大好きだし、この曲を流したくて、僕が演奏をやめるのを待ち構えていたってことか。

僕がリビングに戻ると、ヨハンとジェイソンはまだお互いの体を小突き合っていた。下に落ちたグラスとお酒はほったらかしだ。絨毯に染みたお酒の臭いを隠すには、世界中の〈アルトイズ・キャンディー〉を集めて、この部屋に敷き詰めなくてはならないってのに。

「やめてくれ!」と僕は叫ぶ。なぜ誰も二人の仲裁に入ろうとしないのか不思議だった。二人が僕のために争ってるとか言ってるのではなく、一般的に言って、こういういがみ合いは良くない。イルサは何食わぬ顔で、リーのためにカクテルを作っている。

ヨハンは小競り合いをやめて体を離そうとしたが、ジェイソンはしつこくヨハンのパーソナルスペースに居残ろうとする。

パーカーが僕の手から、ほうきとペーパータオルとちりとりを取った。

「サムはジェイソンをどうにかしてくれ。こぼれたお酒は俺が片付けるから」と彼は言う。

こぼれたどころじゃないだろ、と僕は言い返したかった。これを元通りの状態に、きれいにするのは、絶対に無理だ。

すでに染みができている。

僕たちが残した汚点になってしまう。

しかし、ジェイソンをここから追い出さなければ、彼はさらに〈Maker’s Mark〉(染み作り)のウイスキーを持ち出して、もっと多くの染みを作ることになるのが目に見えていた。それで僕は彼の袖を引っ張り、ヨハンから引き離そうとする。

「なんだよ?」とジェイソンが怒鳴る。

「タイムアウトっていうか、一旦休憩しよう」と僕は彼に告げる。「ちょっとついて来て」

僕が強く袖を引っ張ると、彼はよろめくように転んだ。ちょうどKKが笑い声を上げたけれど、転んだジェイソンを見て笑ったのかは不明だ。見れば、カスピアンが指先というか顎の先を使って、KKをくすぐっていたから。

「どこへ行くって言うんだ?」とジェイソンが聞いてくる。

「僕の部屋だよ」と僕は答える。キッチンなんかに行ったら、それこそお酒に囲まれることになる。

「マジかーー。よく覚えてるよ、あの部屋

彼が覚えていることは、僕が覚えていることと同じではないと断言できる。それが原因で、彼と別れるのが大変だったんだ。彼が覚えているのは、キスとかセックスとか、そういう表面的なことで、僕がどれだけ孤独を感じていたのか、そういうことを彼は全く感知してくれなかった。彼がそばにいる時でも満たされない気持ちを抱え、僕はずっと、何かが足りない、と思い続けていた。そんなことを思っても不安感は消えなかったし、入り組んだ自意識の揺れは、どんどん僕の内側へと向かって行った。時には彼の存在が気を紛らわせてくれて、恐怖心が和らぐこともあったけれど...それは一時的なしのぎでしかないこともわかっていた。彼が帰るとすぐに、―というか彼が帰る前からすでに、―僕の心は、コンパスの針が北極を指すように、最悪のシナリオを探す方向へと向かい、ひどいことになりそうな火種を考え続けていた。

「君がこんなにたくさんお酒を飲むなんて、僕は初めて見たよ」と僕は彼を肩に抱き、廊下を歩きながら言った。「新境地を切り拓こうとか?」

「これから大学に入るからな、予行練習だよ!」と彼は答える。

意図的かどうかはわからないけれど、彼のその発言で、僕たちが別れ話をした時の場面が思い出された。僕が彼に、もう関係を終わらせよう、と言った時のことを彼も思い出しているようだ。彼が秋にボストンに行くから、一緒に行こうと言ったのに、僕はここに残ると言った。彼と別々の場所で暮らしたいから、なんて直接的なことは言わなかったけれど、彼はそう受け止めただろう。彼が僕の本当の気持ちに気づいていないとか、内面を打ち明けても仕方ないなと思ったし、僕が勝手に不安や物足りなさを感じていただけだから、それを彼にぶつけるのはフェアじゃない気がした。彼を内側に入れようとしなかったのは、僕の方なんだ。だから内面を理解してくれないとか、彼を責めることはできない。代わりに、僕は全部ボストンのせいにすることにした。

彼は僕の部屋に入るなり、一目散に本棚に直行した。「よし」と彼は言い、ネイサン・イングランドの短編小説集を本棚から引き抜いた。「これは俺があげたやつだよな」

僕はうなずく。

「サムにプレゼントしようって買って来たんだ。あの夜のこと覚えてるか?」

僕は覚えていなかったけれど、うん、とうなずいた。

彼はしばしの間、愛おしそうな眼差しをページのはざまに落としながら、その本をペラペラとめくっていた。まるで僕たちの歴史が書かれた本を眺めるみたいに。それから彼はそれを本棚に戻し、今度は僕をじっと見つめてきた。

「なんで俺をここに呼んだ?」と彼が聞いてくる。

「正直に言うと、あれ以上リビングを汚してほしくなかったから。ここに連れて来て何かしようっていう下心はないよ。単にインテリアを守りたかっただけ」

彼は頭を振る。「そうじゃない。この部屋じゃなくて、なんで俺を今夜のパーティーに呼んだんだ? ゲストリストから俺の名前は外されたんじゃなかったのか?」

「君に会いたかったからだよ」

ブッブゥーーーー」とジェイソンが、不正解の電子音を真似て、うなり声を上げた。「もう一度チャンスをやろう」

もう一度チャンス?

「君を招待したのは...もうすぐ、僕たちは離れ離れになっちゃうし、―」

ブッブゥーーーー。それじゃない」

「え?―だって、もうすぐ君はボストンに行っちゃうんだろ?」

ブッブゥーーーー

「どういうこと?」

ブッブゥーーーー

僕は段々とじれったくなってきて、「いったい何を言わせたいんだよ?」と少し声を荒げる。

「お前が俺をこのパーティーに呼んだ理由を言わせたいだけだよ」

「だからもう言ったじゃないか! 君に会いたかったからだって」

ブッブゥーーーー

「君は僕の友達だからだよ」

ブッブゥーーーー

「もうやめてくれ!」

ブッブゥーーーー

「君にそばにいて欲しかったから」

ブッブゥーーーー。正直に言え」

「正直に言ってるよ!」

ブッブゥーーーー。これがラストチャンスだ。お前はどうして俺を呼んだ?」と彼が叫んだ。

「むしゃくしゃしてたからだよ!」と僕は叫び返した。「これでいいかい? 僕はむかついてたんだ

ピンポン、ピンポン、ピンポーン!

「でも、君に会いたかったっていうのも本当だよ!」

「だめ、だめ。―もう取り繕ってもだめだよ。お前はむかついてたんだ。だから俺をここに呼んだ。そうすれば、むかつきが少しはおさまると思ったか? それは俺に対してフェアな行為か? 傷心パーティーに呼んでおいて、俺はお前をいい気分にさせる役割か?」

いや、傷心パーティーに呼んだつもりはないよ」

「お前は俺をふっただろうが!」

「関係がうまくいかなくなっただけだよ!」

「うまくいってただろ! 俺はいろんなことに立ち向かって、うまくいかせようとしてた」

僕の番が回ってきた。今度は僕がうなり声で彼を問い詰める番だ。「それがうまくいってなかったって言うんだよ!」

「たしかに、お前の妹とはうまくいってなかったな。彼女は俺たちの関係を終わらせようとしていた。でも、サム、お前は俺のことなんかそっちのけで、イルサの肩を持ってばかりだったな」

まあたしかに、イルサはジェイソンのことを退屈な安全パイだって見なして、うんざりしていたところはあった。僕とジェイソンが付き合ってるのを知っててなお、彼女は僕を他の男子たちに売り込もうとあれこれ画策していた。毎日のように彼と別れるように言われたし、朝、寝起きでトイレに入ると、鏡にポストイットが貼り付けてあって、こう書かれていたこともあった。今日はあなたがもっと素敵なボーイフレンドと出会う日になるわ!

でも、イルサが原因で僕は彼と別れたわけではない。

「それは違うよ」と僕はジェイソンに、今になって告げる。「イルサは一切関係ない」

ジェイソンが笑う。「はい、出ました。お前はいつでもそれだ。気づいているのかどうかは知らないが、お前の心の支えは、ハイヒールを履かない、身長165センチの妹だ」

「僕はちゃんと自分一人で考えられるよ、そうだろ?」

彼が僕に近づいてきて、軽くハグしてきた。僕は抵抗もしないし、かといって抱き締め返すこともしない。これが僕たちの関係なんだ。一つの行為に対してお互いに違うことを思っている。彼はこうすることで僕の支えになっていると思い込み、対して僕は、なんだかぎこちなく感じている。

「自分で鎖を切るんだよ」と、彼が僕の耳元で囁く。

そんなこと、―

そんなこと言ったって、―

そんな簡単にできることじゃ。

そう耳元で囁くってことは、彼には何か考えがあるのだろう。

イルサとつながった鎖を断ち切って、代わりに彼とつながれってことでもない気がするし。

というか、僕はもうすでに、誰ともつながってないじゃないか。

彼に抱かれながら、僕の思考はそこにとどまらず、別の世界へ向かう。彼や、イルサや、他の誰かと僕をつなぎとめていたはずの鎖。目を閉じてよく見ると、昔読んだ『ガリバー旅行記』の絵本の中に僕がいる。僕は何百もの様々なロープでぐるぐる巻きにされている最中だ。周りにはたくさんの小人たちがいて、僕の体をあちこちから縛っている。イルサが一部の小人たちに指示を出しているが、他の箇所を見ると、僕が普段気にかけている友人たちも、僕をもっと縛り上げるように、と小人に指示を出している。もっと良く見ると、見知らぬ人たちまで、ロープをくくり付ける杭を打ったりして、僕の縛り上げに参加しているではないか。そういえば、僕は普段から見知らぬ人たちのことも気にかけていた。ニュースを見るたびに、世界がどんどん悪い方向へと向かっている気がして。そうやって、ロープが次から次へと巻かれ、僕は地面に横倒しのまま、完全に張り付けにされた。それでもまだ僕を恐れているのか、さらにロープを持ち寄って来る人たちもいる。僕は少し抵抗してみたけれど、諦めて力を抜いた。ロープを切ろうとすると、なぜか自分の手首を切ってしまうからだ。僕はそんなこと望んでもいないのに。

ジェイソンは僕のこんな思いを全く知らない。イルサなら、きっと僕を一目見ただけで、すべてをわかってくれるだろう。パーカーは、僕の気持ちを理解してくれていると思う瞬間もあれば、なんだか彼自身の人生について思索にふけっている様子で、僕のことまで気が回らないといった時もあって、まちまちだ。

ジェイソンが段々と抱き締める力を強める。

「もうすぐ離れ離れになるなんて寂しいよ」と彼が言う。「これができなくなるのもつらい」

そのままの体勢でかなりの時間が経ち、ようやく彼は僕が抱き締め返していないことに気づいたようだった。それでも彼はそのことに気づいていない風を装って、あたかも二人が同時に力を緩めたみたいに、僕から体を引き離した。

「これから先、高校時代を振り返るとき、ここが俺の思い出の場所になる」と彼は言う。「ここでお前と一緒に過ごした時間を繰り返し思い出すだろうな。この先もずっとお前と、宇宙の中心にいたかった。わかってくれるか?」

「ここが宇宙の中心とは到底言えないよ」と僕は指摘する。

「お前らにとってはそうだろ!」と彼が返す。「お前とイルサにとっては!」

「前まではね。でも、もうすぐそうじゃなくなる。君が大学に行って、しばらくしてここに戻ってきたら、もうここはすっかり別の場所になってるよ。だから今のうちに、この家にもさよならを言っておいて」

ジェイソンが今にも泣きそうな表情をしている。それを見て僕は思う。ここは君にとって、泣くほど意味のある場所じゃないだろ。すると、彼がこう言ったから、彼は僕の気持ちを推し量って、悲しんでくれているんだと納得した。「ああ、サム―かわいそうに」

ひとしきり僕のために悲しんだ後、彼は彼自身の悲しみにもう一度目を向けた。

「お前はこれから先ずっと、俺の最初のボーイフレンドだからな」と彼は言い、再び抱擁を始めようとする。

僕は前に手を突き出して、これ以上の体の接触を拒む。

「僕は君の最初のボーイフレンドじゃなかったよね」と、僕は彼の記憶を突く。

彼は僕の手を取って、その手を彼の腰の側面に当てる。

「でも、本気度で言うと、お前が初めて本気になった相手だ」

彼は真剣な眼差しで僕を見つめながら、そう言った。思わず、僕は目をそらしてしまう。リビングから楽しそうな歓声が聞こえてきたけれど、何が起きているのかまでは、わからない。

ジェイソンはさらに体を寄せてくる。「俺たちにはまだ、あと数週間あるから...な」と彼がつぶやく。

「でも、もうしないよ」と、僕は身を引いて彼から距離を置き、きっぱりと言う。「ほんとに、もうしない」

またこの感覚だ。相手を傷つけているという実感がふつふつと湧いてきて、居ても立っても居られなくなる。人は一度誰かを傷つけると、相手がその痛みに無感覚、無関心になるまで、何度でも繰り返し傷つけ続けなければならない宿命なのかもしれない。今夜ジェイソンをパーティーに招待したのは、彼をこうして傷つけるためじゃないし、この会話はもう何ヶ月も前に終わっているはずだ。でも僕は今、はっきりとわかる。これから先何年もずっと、僕たちはこの種のせめぎ合いを続けるのだ、と。

「もうしない理由を言ってくれ」と彼が言う。

根本的な終止符を打つことはできなくても、とりあえず目先の問題を解決したかったから、僕は言った。「ヨハンが好きだから。彼とうまくやっていけるか、色々と試してるところだから」

これは終止符どころか、逆に火に油だったかもしれない。ジェイソンが噴き出すように笑い出し、後ろに転げるように尻餅をついた。

「ヨハン? #スタンタの後釜を狙う気か? あのツイッター中毒と、この間まで付き合ってたの知ってるのか?」

「知らなかったんだけど、さっき知った」

「マジかよ。びっくり発言の連続だな。お前、誰に手を出そうとしてるのかわかってるのか? ヨハンがスタンに何したか知ってて言ってるのか?」

「たぶん彼のツイッターで、僕も読んだことあるんだろうけど」

思いっきり読んでるよ、サム! わからないか? ヨハンは#暴君だよ!」

僕はぼんやりと彼を見つめていた。

「発音はほぼ同じだけど、」と彼はさらに明確にする。「スペルをちょっと変えて、わざとエロい意味を際立たせてた#暴君(TheDicktator)だよ」

「なんとなく、君の言ってることわかる気もするけど」

「おい、しっかりしろ、サム! #スタンタは、#暴君について、何ヶ月もツイッターで不満をぶちまけてただろ。

#ThePassiveAggressiveOlympics?(#受け手と攻め手のオリンピックか?)とか、

#TheDevilAteAllMyPringles?(#悪魔が俺のプリングルズを全部食べた?)とか、

#Couldn’tBreakHisHeartBecauseHeNeverHadOne?(#彼の心を打ち砕くことができない。彼は一度も本気になってくれなかったから?)とかさ。当然お前の目にも入って来てただろ?」

僕は首を振る。

「あれがヨハンだったんだよ。#暴君がヨハンで、彼は、言うなれば、飛行禁止区域を飛んでる飛行機みたいなものだ。付き合っちゃいけない相手と、#スタンタは付き合ってたんだよ。スタンの心にそっと灯りをともしたどころじゃない。―ヨハンはスタンに火炎放射器から炎を浴びせたんだ

「火炎放射器なんて大袈裟だよ。っていうか、恋の炎はいくら燃え上がったっていいじゃないか」

「そんなことはわかってるよ!」今度はジェイソンが首を振る番だ。「ただな、俺はお前が知ってると思ってたんだ。そのうち、#スタンタもここにやって来て、そうだな、Facebook Liveとかで実況中継を始めて、ヨハンを巻き込んで糖蜜みたいな甘ったるい時間を垂れ流すとか」

「なんか、さっきヨハンから聞いた説明と、ちょっと食い違ってる気がするんだけど」

「そりゃ、ヨハンは嘘つきだからな!」

「ヨハンはスタンの身勝手さに振り回されてたって言ってたよ」

「そんなの嘘に決まってるだろ!」

「どうして嘘だって言える? 君はそこにいたわけ?」

「いるわけないだろ。#スタンタがヨハンを友達に紹介しようとしても、ヨハンは#暴君だからな、それを許さなかったんだ。そうじゃなかったら、そんなに長い間俺たちに知られることなく、二人が付き合っていられたと思うか?」

「それはたぶん、スタンがちゃんと秘密を守っていたからじゃない?」と僕は主張した。

「馬鹿言え。#スタンタが秘密を隠し通せたことなんて、今までにあったか?!? よく考えてみろ。スタンは芝居がかったところはあるにせよ、嘘つきじゃないだろ」ジェイソンはポケットからスマホを取り出した。「ほら、これでもお前は俺を信じないって言うのか? #スタンタがこの数週間、なんてツイートしてるかを見れば、俺が言ってることが本当だってわかるよ」

「この数週間?」と僕は返す。「彼らはもっと前に別れたんじゃなかったの?」

「お前は失恋ってものを知らないんだな...ふった方はすぐに忘れてもな、―ふられた方はいつまで経っても、昨日のことのように思い返すものなんだよ」

ジェイソンの考え方は偏ってる。僕は自分自身に繰り返し言い聞かせなければならない。ジェイソンの見方は偏ってる。

彼は続ける。「お前は本当に、どれだけ彼を知ってるって言うんだ?」それから彼は再び体を寄せてきた。「俺の方が、お前のことをもっとずっと知ってるよ」

ブッブゥーーーー!」と僕は叫び、胸の前で腕を固く組んだ。一度言ってみたら、なんだか気持ちよくなって、何度も言ってしまった。「ブッブゥーーーー!ブッブゥーーーー!ブッブッブゥーーーーーーーー!

これは元カレを撃退するのに効果てきめんだった。ただ刺激が強すぎたのか、彼は青ざめた顔をして、よろめくように尻餅をついてしまった。それから彼はゆっくりと体勢を立て直したのだが...表情は青ざめたままだった。

「ちくしょう」と彼は言ったきり、口をつぐんでしまった。突然、彼が口を押さえるようにして、部屋を飛び出した。

「トイレに行って! キッチンの流しはだめ!」と僕は叫びながら、彼の後を追う。ギリギリ間に合ったみたいで、僕がトイレに着くと、彼は便器に顔を埋めるような体勢だった。そして、何度かオエッと言ってから、一気にゲロを便器の中に吐き出した。

「大丈夫か、ジェイソン」と僕は優しく声をかけ、彼の横に膝をついて寄り添った。彼は髪の毛がないので、ゲロがかからないように髪を押さえておく必要もなく、僕はただ横で見守っていた。そして彼が全部吐き終わるのを見届けてから、ウエットティッシュを手渡した。

「気分よく酔えなかったな」と彼がうめくように言う。

僕は彼の背中を軽く叩くと、トイレの水を流して、彼にタオルを差し出した。彼が僕の肩にしなだれかかってきて、僕はそのまま彼を受け止める。

「ヨハンはあくどいやつだよ」と彼がつぶやく。

「ああ、きっと全部ヨハンのせいなんだろうね。彼が今、ブードゥー人形に君の顔写真を貼り付けて、その喉元に針を打ち込んでるせいだ」

「あいつは暴君なんだよ!」

「わかったよ」

「今夜ここで、もう一回パーティーをし直さないと、俺は帰れないぞ」とジェイソンが言う。

「わかった、わかった」と僕は彼に言う。「今夜が最後だからね。もうこれっきり。それでおしまい」

そう言いながら、僕は不思議な気分に包まれた。僕はいったい何のことを言っているか、靄がかかったようにわからなくなる。

「今夜が最後なんてな。お前とここを切り離して考えるなんて無理だ」ジェイソンがドシンと倒れ込むように腰を下ろして、トイレの壁にもたれかかった。「この要塞と切り離して、お前を想像するのは難しいよ」

「ここは要塞じゃなくて、ただのマンションだよ」

「しかしお前ら二人は、ここを要塞にしちまった。そして二人とも、ここを去る気はないんだろ」

僕は言い返そうとしたが、ジェイソンが手を振って僕を黙らせた。

「いいんだ、いいんだ」と彼は続ける。「俺に話させてくれ。サムとイルサの周りには常に、なんこう...なんこうふ...」

「難攻不落?」

「それ! 難攻不落のとりでがあって、周りのみんなは、お前が合格したバークリーに行ったほうがいいと思っているのに、らちが明かない。そうだろ?」

これもまた違う。「そんなことない」と僕は言い返す。「君がタフツ大学に行くから、僕と一緒にいたいからって、僕までボストンの学校に行かなきゃいけない理由はない」

「サム、お前は本当に嫌味なやつだな! ちゃんと俺の話を聞け。俺がお前と一緒にいたいとか、そんな話をしてるんじゃない。バークリーは一流大学だろ。超がつくほど一流の音楽大学だろ。でも、お前はいざそこに出陣する時が来たら、コホコホ咳き込んだふりをして、行けません、と泣き言を言い出した。ちょっと違うな。咳き込んだふりじゃない。お前は自分で自分の首を絞めたんだ。なぜなら、お前はお前ら二人の要塞から出たくないからだ。お前ら二人に共通してるのはな、出口を見つけられないってことだ。お前らのすぐ目の前にある扉が、正しい出口だっていうのに」

ジェイソンがこんな風に僕に話してくれたのは初めてだった。というか、今まで誰も僕にこういう話をしてくれなかった。

「むかむかする!」と彼はうめき声を上げながら、再びトイレに顔を埋めた。何度かオエッとえずくが、口からは何も出てこない。

「思わせぶりな誤報だったみたいだな」と言い、彼は壁に寄りかかって座り直した。彼のまぶたはとろんと垂れ下がり、眠そうだ。「聞け」と彼は言う。「もう二度と、お前とよりを戻したいとか、そういう話はしない。俺とお前は近くにいるべきだとは思ってるが、重要なのはそこじゃない。肝心なのは、お前が外に飛び出せるかどうかだ。お前は外の世界に羽ばたく必要があるんだよ。もし今飛び出さなかったら、これから先もお前はずっと、この中に留まったままだ。酔っ払った元カレだって、それくらいはわかるんだよ」

「まあ、とりあえず今夜は僕はどこにも行かないよ」と僕は言い、彼の襟が汚れていたので、拭いてあげた。

彼は微笑んで、「かたじけない」と言い、それからそっと目を閉じた。

「おい、ちょっと」と僕は声をかける。「トイレは睡眠に最適の場所じゃないだろ」

「いいんだ、いいんだ」

僕は彼を抱きかかえるように起こし、僕の部屋のベッドまで連れて行った。彼は、砂の詰まったメイシーズ・パレードの巨大風船がくずおれるように、ベッドに倒れ込んだ。

彼は枕に顔を埋めた瞬間に眠り込んだ様子だったが、僕が電気を消して、忍び足で部屋を出ようとすると、僕の背中に向かって、もう一言、口を開いた。

「またお前の演奏を聴けて、最高の夜だった」と彼は僕に言う。「もう他人のために弾かないなんて、そんなの馬鹿げてるよ」

僕は彼に感謝した。その通りだな、僕は馬鹿だった。そう思ったら、なんだか力が抜けた。



13

イルサ


お決まりのパターン。

スパイダーマンが街のどこかで発生した危機を瞬時に察知する秘密道具を、サムも持ってるんじゃないかと疑うくらい、私が険悪なムードを醸し出した瞬間にそれを察知して、彼は気弱なイケメン気取りで、ニコニコしながらそそくさと逃げ出すのよ。性差がいろんな違いを生むのよね。同性の双子だったらよかったなって思う。そしたら生理の周期も同じだから、生理前にイライラしてビッチ化するのもわかってくれるし、きっと迅速かつ効果的にイライラを解消できるんでしょうね。つまり、サムみたいに逃げないで、姉妹で喧嘩してくれるはず。叫び合って、取っ組み合って、髪の毛を引っ張り合って、とことんやり合ったら、お互いにスッキリして、また仲良しこよしに戻るの。そして次の周期まで、親友のような双子でいるのよ。

サムのアヒルみたいにひょこひょこと逃げ出す作戦は、もう古いのよね。

私はサムに挑みかかる心の準備ができていたのに、彼はそれをビビッと感じて、ジェイソンと寝室に逃げ込んでしまった。

エロジェイソン・ゴールドスタイン・チャンめ。

私をないがしろにして、二人でよろしくやろうなんて。

なんでそんなにジェイソンに冷たく当たるのかって、彼のことを知らない人は思うでしょうから、理由を列挙するわ。


1. 彼はケチくさい。ジェイソンがサムを「サプライズ・デート」に誘って、ファイアーアイランドに行ったことがあるんだけど、サムに自分の分の電車賃を払わせたのよ。まあ、ランチ代はジェイソンが出したみたいだけど、それにしたって駅で買った味も素っ気もないサンドイッチだったんですって。彼がサムを引っ張って行ったファイアーアイランドは楽園みたいに綺麗な海岸が広がっていて、海を眺めながらランチを食べられる素敵なレストランがあるっていうのに。彼だってお金がなかったわけじゃないのよ。何しろジェイソンは12歳の時に自分でウェブサイトのデザイン会社を立ち上げて、その頃から収入を得ていたんですもの。彼は#身の程知らずのうざいやり手

2. 彼は変な臭いがする。自分の不安感をかき消すために、魔除けみたいに安いコロンを体に振りかけているのよ。

3. 彼はお年寄りへの礼儀がなってない。ジェイソンが私に食ってかかるのは気にしないけど、私の両親や女帝に対して礼儀を欠いた態度を取るのは許せない。それをしていいのは、私だけなのよ。私は後で謝り倒せばいいって心得ているからね。私たち家族の夕食にやって来て、〈不安感かき消しオーデコロン〉をぷんぷんまき散らすって、いったいどんなボーイフレンドよ?って感じ。―さらに彼は、おばあちゃんに向かって、このアパートメントはこういう風に飾り付けるともっと見栄えが良くなりますよとか、講釈を垂れ始めるの。それから自分がどれだけ数学の天才かっていう自慢に入るのよ。サムや私を大学へ進学させるにはこれだけの金額が必要になりますって計算を始めて、副業でもなさったらどうですか?とか言い出すわけ。そんなことをボーイフレンドの両親に言うなんて、どんな神経してるのかしら? 彼はまさに鼻につく存在ね。

4. 彼はミュージカル『ザナドゥ』の劇中歌の歌詞をすべて暗記してるのよ。

5. 今の#4は取り消すわ。それはジェイソンの唯一まともな特質かもしれないわね。


私の乳房は張っていて重く感じ、胃はキリキリとけいれんしている。生理前特有の張り詰めた気分が敵対心を強め、周りの誰かに冷たく当たりたくなっているんでしょうけど、―でもだからと言って、私が指摘した点が、まるっきり的外れってことにはならないわ。

「私にビールをちょうだい」と私はパーカーに向かって叫んだ。彼は私に未開封のビール瓶をひょいと寄越した。私はそれを開けると、瓶から直接ごくごくと、途切れることなく最後まで飲み干した。プファーと息を吐いて、ようやくパーティーに参加している気分になれた。なんてったって私がメインのパーティーなんですもの、楽しまなくちゃ。

誰もがほろ酔い気分で楽しい時間を過ごしている。サムの料理でこうなっていればよかったんだけど、それは叶わなかったから、信頼感抜群のアルコール類の力を借りて、やっとパーティーが華やいだわ。ヨハンはバイオリンで、プリンスの『She’s Always in My Hair』(彼女はいつも俺の髪の毛の中にいる(別れてしまってもいつも一緒さ))を奏でている。その調べに乗せて、パーカーが情感を歌詞に込めるように歌っている。歌いながら彼は、私に向かって渾身のセクシースマイルを投げかけてきて、私の胸がキュンと疼いた。KKとフレディはスローダンスを踊っている。カスピアンがKKのうなじの辺りに気持ちよさそうに頬ずりしている。リーは彼女にとってのいこいの場に腰を埋めている。彼女はいつも持って来ている編み物袋を取り出して、とっても綺麗な緑がかった青色の毛糸で、セーターの袖の部分を優雅に編んでいる。

パーカーはプリンスの曲を歌い続ける。「Whenever my hopes and dreams / Are aimed in the wrong direction(俺の夢や希望はいつだって / あさっての方向を向いちまう)」私がリクエストした曲だ。どうして2年も歌ってくれなかったのかわからないけれど、今やっと聴けた。ただ、かなり音程が外れている!

パーカーは、人差し指を私に向けてクイックイッと動かしている。こっちに来て一緒に歌おう、と誘っているのだ。

「やめときなさい、イルサ!」とKKが私に呼びかける。「またそうやって、彼の甘い歌声の罠に落ちる気? プリンス・トラップよ

あれは高校2年生の時だった。サムと私の誕生日パーティーでカラオケに行ったんだけど、きっかけはパーカーが歌ったプリンスの『パープルレイン』だった。それを聴いた私は、心のボタンが次々と外れるようにメロメロになって、その夜晩く、私は着ていた洋服のボタンを全部外すことになった。

私は肩をすくめて、「やめとく」とパーカーの誘いを断ると、グイッともう一口ビールを飲んだ。「わかったわ、KK」と私は言う。

もし私がひどい女よりも、いい女になりたいのなら、パーカーとの関係を見直すべきなんでしょう。彼に腹を立てるのをやめ、彼を求めるのもやめ、彼ともう一度付き合いたいと願った分だけ彼に傷つけられたと思うのも、もうよそう。心を解き放つのよ、イルサ。(ジェイソンの嫌なところ#6. ジェイソンは『アナと雪の女王』をこよなく愛しているんだけど、ところかまわず「Let it go」って歌い出すの。恥ずかし気もなく全開でよ。そういうのって、みんなみたいにこっそりと、浴室でシャワーを浴びながらとか、一人でやってちょうだいって感じ。)(しかも、アナ雪のエルサ(Elsa)は、私―イルサ(Ilsa)より、アルファベット的に4つも上なのよ)

歌が終わった。「この建物のロビーの向こう側に、誰も住んでいない空き部屋があるんだけど、行ってみない?」と私はみんなに提案する。KK以外のみんなが歓声を上げた。KKはみんなと一緒になって熱狂する、みたいなことを決して自分に許さないのだ。十分にアルコールも摂取したところだし、大した夜景は見えない味気ないワンルームの部屋だけど、今から空き部屋に忍び込むことは、みんなにも魅力的に響いたようだった。もちろん、KKを除く。

「つまんないわ」と彼女が湿っぽく愚痴る。

カスピアンが全身を使って彼女の頬骨をさすりながら、「そんなこと言わないで」と囁く。

「つまんなくないわ」と私は彼女に言う。「今夜が、あなたの人生で3本の指に入る魅惑の夜になるわ」

私はみんなを見渡して、言った。「さあ、行きましょ」

リー、パーカー、ヨハン、KK、フレディ、カスピアンが続々と立ち上がって、リビングのドアへと向かう。「バイオリンを持って行ったら?」と私はヨハンに言う。「いつインスピレーションが降ってくるかわからないでしょ」

私たちは女帝のアパートメントを出て、ロビーに出た。パーカーが「今から俺たちは、バーグマン氏の部屋に行くんだろ?」と聞いてきた。

「そうよ」と私は返す。

「とうとう彼は引っ越しちゃったか?」とパーカーが聞いてくる。バーグマンさんは、このスタンウィック邸に女帝よりも長く住んでいた、いわゆる「独身主義者」だった。

「あなたの言う『引っ越し』が、クイーンズ地区のフラッシングにあるマウント・ヘブロン墓地への引っ越しを意味しているのなら、そうね」と私は答える。「バーグマンさんは引っ越しちゃったわ」

パーカーは胸の前で十字を切ると、言った。「安らかなれ、ミスター・バーグマン。彼はいいおじさんだったな。毎年、年末のハヌカーの時期になると、俺とサムに映画の無料チケットをくれるんだよ。彼の実家から2枚送られてきたんだけど、私は行かないからって。なんか彼は、『画面に映ってる人物』を見るのが好きじゃない、とか言ってたな。彼の家族もそこは気を利かせて、生のオペラのチケットを送ってあげればよかったんだよ」

私は今になって、無性に腹が立ってきた。サムったら、あの気難しいバーグマンさんから、ただで映画のチケットをもらっていたなんて。

女帝の部屋の向かい側にある玄関前まで来た。私は泥棒みたいに鍵をこじ開けるなんてできないし、そんなことするつもりもない。単にドアノブを握って回すと、すんなりドアが開く。今朝、この建物の管理をしている人たちが、バーグマンさんの部屋を掃除し終えたばかりだと私は知っていた。どうせ鍵をかけていないだろうと思っていたら、案の定だった。彼らは自分たちがたまに休憩できる静かな隠れ家が必要なのだ。不動産の仲介人がバーグマンさんの部屋に目をつけて、売りに出されるまで、ここはそういう部屋になる。

私たちは中に足を踏み入れる。電気のスイッチを見つけて、カチャカチャと押してみるが、電気はつかない。天井の照明には電球がはまっていなかった。廊下から入り込むわずかな光を頼りに、パーカーが床に置かれていたスタンド型の小さなライトを見つけた。彼がスタンドライトのスイッチを入れると、部屋がぼんやりと明るくなった。私は玄関のドアを閉める。

サムとイルサのディナーパーティーの最大の見せ場は、サムがリビングルームに戻ってきたシーンになるわね。彼が招待したゲストたちを、私がさらって行ったことを知った彼はどんな顔をするかしら? ジェイソン・ゴールドスタイン・チャンを除く優良なゲストたちよ。サムがジェイソンと何をやってるのか知らないけど、のこのこと自分の部屋を出て来て、もぬけの殻になったリビングを見て、彼なしでもみんな凄く楽しい時間を過ごせるんだって思い知るわ。さっき私が味わった気分のお返しよ。

私は子供の頃に、この部屋の中を覗き込もうとしたのを思い出した。私が女帝の部屋の玄関の前で、彼女が私たちを中に入れてくれるのを待っていたら、バーグマンさんが部屋から出て来て、エレベーターへと歩いて行った。私は彼がドアを開け閉めしている一瞬の隙に、チラッと中を覗き込んだんだけど、その時はもっと大きな部屋だと思った。今、薄暗いライトに浮かび上がった部屋は、家具類が一つもないのに、思った以上にこじんまりとしている。「残念な眺めね」とリーが言った。彼女は窓際に立って、スタンウィック邸の片翼から、隣のビルとの隙間しか見えない通風孔のような窓の外を眺めている。

こんなじめじめした部屋で過ごしていたら、バーグマンさんがフレンドリーじゃなくなるのも無理ないわね。(って言っても、可愛い男の子たちにはフレンドリーだったみたいだけど。)「彼はたぶん50年くらい、あまり日光を浴びてなかったんだろうな」とパーカーが、いつものように私の心を読んで言った。

生きることが怖いのは、死ぬのを恐れているからよ」とヨハンが抑揚をつけて言う。

「深いね」とパーカーが言う。

「ドリー・パートンの曲だよ」とヨハンが返した。

「キッチンが見たいわ」とリーが言う。メインルームとつながる形で奥まった小部屋のようなキッチンがあり、彼女はそこへ入って行く。

「バーグマン氏が冷蔵庫にビールか何かを残してないかな」と言って、パーカーがリーに続く。

KKは言う。「知らなかったわ。アパートメント全体がこんなに狭いなんてこと、あり得るんだ。私の寝室より小さいじゃない。なんだか息苦しくて、窒息しそう」

「女帝のアパートメントに戻りましょう」とカスピアンが提案する。

KKが玄関の外へと駆け出した。フレディ兼カスピアンも彼女のお尻を追いかけて後に続く。「空気! 空気がないと死んじゃうよ!」

私はヨハンの方を向く。ついに彼と二人きりになれた。「あなたの意図が知りたいの? 私の兄をどうするつもり?」と私は聞く。

「そそられる」とヨハンが言った。そそられるなんて、そんな言葉がぽろりとこぼれ落ちて来るなんて、私はますますこの男性が好きになっちゃう。ヨハンは、言うなれば二人組コメディ・デュオ〈フライト・オブ・ザ・コンコルズ〉の3人目のメンバーって感じね。その素質は十分にあるわ。赤道のはるか南からやって来た、かっこよくて、ニューヨーカーに憧れを抱きつつも、困惑ぎみな彼。

私は唇がけいれんを起こした感じで、指で自分の唇の端をさする。ゴホンと大きく咳をして、心の声が漏れてるわよ、とヨハンに知らせたかった。「じゃあ...まずはサムとお話してちょうだい。わかるでしょ...彼はそういう話題になると居心地が悪くなって、あなたから逃げ出すわ。いきなり、そそられるんだ、とか言い出したら、サムは気兼ねなくあなたにお別れを言うわよ。お元気でって」

ヨハンは元々肌が白い上に、部屋がとても暗いので、私がそう言ったことで、彼は気まずい表情をしているのか判断がつかなかったけれど、彼がぎこちなく足を動かしているのを見て、私の意図がしっかり伝わったとわかった。彼は囁く。「ぼくはさっき彼にキスしようとしたんだ。でも唇が合わさる直前に、彼はのけぞってかわした。君が今言った通りだったよ」

もう? オーケー。言った通りだったでしょ!

私の任務は一旦終了ね。

もう兄に対するいら立ちは、ほとんど収まったわ。昔ながらの作戦で兄に仕返ししてやりたかっただけなのよね。性病とかの心配をしてアドバイスしているふりをして、本当は二人をくっつけたくなかったの。私自身のために。

パーカーとリーが奥の小部屋から戻って来た。パーカーは〈エンシュア〉を一缶、手に持っている。「ビールはなかった」と彼が言う。

「でもプロテイン・ドリンクがいっぱい入ってたわ!」とリーが付け加える。

ヨハンがバイオリンを構えた。「君たち二人は、社交ダンスの大会に出てたって聞いたけど」と彼が私とパーカーに言う。

「昔の話ね」と私は返す。

「俺たちはもう一度チャンピオンになるんだ」とパーカーが言う。「今夜晩くに、な? イルサ」

「どれくらいの腕前なのか、見せてよ」とヨハンが言う。

「ちょうどここが完璧なダンスフロアじゃない」とリーが言って、寄木張りのフローリングを指差した。家具のない板の間は、思う存分足を滑らせて踊れそうだった。

ヨハンが弾き始める。タンゴ調の曲だ。

パーカーが私の腰に腕を伸ばして、定位置に誘う。私は躊躇した。また、あの感覚に飲み込まれるように、元の鞘に戻りたくはなかった。

落ち着いて! 久しぶりにパーカーが馴染みのある立ち位置につくのを見て、私は気づく。これはダンス以上の何かではないわ。ダンスに集中すれば、他の感情に飲み込まれることはないはず。

サムといつも一緒だった幼い頃からずっと、サムは常に男の子たちに囲まれていた。彼を慕って寄って来る男の子を切らした時期なんてない。彼の人生って革命の連続だな、と私は時々思ったりした。彼を誘うふしだらなメッセージが次々届き、彼をもっと知りたいと願う可愛い男の子たちが絶え間なく押し寄せた。私に逆に、そんなこと全くない人生を送ってきた。男の子たちのほとんどは私を怖がるから。でも、パーカーはそうじゃなかった。私は徐々に、男の子の中でただ一人、パーカーだけに夢中になっていった。文字通り、クレイジーなほど夢中に。

ついに、私は思い至った。私は踊れる。もう一度パーカーと友達になれる。もう彼との恋愛関係は終わっているんですもの。いつくしみは感じるわ。でも色恋からの愛じゃない

「今晩はもう、ダンスホールに出かける気分じゃないわ」と私はパーカーに打ち明けてから、彼の腕の中へと足を踏み入れた。

「そうだろうなって感じてたよ。じゃあ、今ここで思い切り踊ろう」とパーカーが言う。「これっきりのラストダンスだ」

私は彼の手の上に私の手を乗せる。彼が腕を私の腰に巻き付けてくる。気持ちいいし、しっくりくる。もう二度とする必要がないからこその、清々しい感触だった。

私たちは踊り始める。



14

サム


念のためジェイソンの枕元にゴミ箱を置いてきた方が良かったな、と思い返し、僕はもう一度前かがみの姿勢で、そっと寝室に入って行った。彼はすでにいびきをかいていて、夢の中を忘却へと落ちて行っているのだろう。夢から醒めた後は、今夜のことを覚えているかあやしいものだ。

僕は再び部屋を出て廊下を歩きながら、やけに静かだな、と不思議に感じていたのだが、リビングも、それからキッチンも、がらんと静まり返っているのを目の当たりにして、立ち尽くしてしまう。

みんなは僕を置いて、どこかへ行ってしまった、らしい。

驚きの次に僕が感じたこと―

それは―

安堵感だった。

おそらくイルサはみんなを引き連れて、屋上に行ったのだろう。僕たちが主催のパーティーは大体いつも、締めくくりに屋上に行くのが定番だった。

僕も彼らを追って屋上へ、

行った方がいいだろうな。

でもなんだか、気が向かない。

僕は代わりにリビングをきれいにすることにした。まず絨毯の染みから取り掛かる。―パーカーが一応モップで拭いた感じはあったけれど、十分にはほど遠い。こぼしたバーボンが疫病のように広がりを見せるのは食い止めたみたいだけど、〈Maker’s Mark〉のウイスキーの染みは、「染み作り」という異名があるだけあって、落とせていない。僕は絨毯用掃除機を持って来て、できる限り、染みを落とした。それからお酒のボトルを集め、空いたお皿を重ね、グラスも一纏めにする。グラスにはまだ飲みかけのお酒が残っていて、誰かに次の一口を吸われるのを待っているようだ。僕を誘惑しているようなお酒から、目を逸らす。―皿洗いに集中すれば、余計なことを考えなくて済む。そうすれば、自分の考えを掌握できるはずだ。一つ一つ、目の前の作業をこなしていく。そうしてさえいれば、頭の中が段々と整っていくから。

僕を取り巻く壁はそんなに厚くない。人生が進んで行く足音はちゃんと聞こえる。だが、僕と人生の間に、少し距離があるのも確かだ。

疲れた。

すべてのキャップをボトルにはめ直す。すべてのボトルをキャビネットに戻す。氷が入っている容器の中を確認する。―氷は半分ほど残っていたが、それを流しに全部捨てる。容器にお湯を入れて、底や壁面にくっついた氷を素早く溶かす。

僕はいったい何をやっているんだ?

おそらく僕は、要塞の内側に留まっているのだろう。

ジェイソンの言葉にいらいらしているのは、彼が言ったことが全くの的外れってわけじゃないからだ。

ヨハンが一人でここに残って、僕を待っていてくれたらよかったのに。でも、彼がそうしなかったのは、当然だろう。パーカーがひとっ走りして、僕の様子を見に来てくれればよかったのに。でも、彼がそうしなかったのも、納得できる。イルサがメモを残すなりして、パーティーをどこでやっているのか知らせてくれればよかったのに。イルサのことだ、たぶん僕がどう思うかも折り込み済みだろう。メモを残さなかったこと自体が、彼女からのメッセージってことか?

考えれば、彼女のメッセージを読み取れそうな気もしたけれど、考える気力がなかった。

ロビーの向こうから音楽が聞こえてきた。バーグマンさんがパーティーをしているのだろう。ん? 待てよ。―あのバーグマンさんがパーティーなんて開くわけない。それに彼は熱心なユダヤ教徒だ。夜中に騒がしくすること自体、彼の主義に反するだろう。ということは、二つのうちのどちらかだ。彼の親戚たちは、そんなにユダヤ教の教えに忠実ではないのか、もしくは、イルサが彼のアパートメントに押し入って、乗っ取ってしまったかだ。

そういうことか、と僕は思う。彼女はそれを実行したんだ。ゲストのみんなをかっさらって、会場を移し、正式にイルサが主催のパーティーをし直しているってわけか。

あれこれ考えているうちに、いつの間にか洗い物が終わっていた

僕はお皿を一枚ずつ、ざっと洗い流してから食器洗浄機に入れていく、という作業を無意識でやっていた。洗浄が終わり、お皿を乾かすために一枚ずつ取り出していく。いつもならこれはイルサの役回りなのだが、今は僕が乾かし役も務めるしかない。

僕は両手でお皿を掴んでいる。でも心の中で掴んでいるのは、「終わった」という言葉だ。僕はいろんな意味で終わっているのかもしれない。お皿よりも、もろく壊れやすい僕の心は、そんな一言の扱いを誤っただけで、パリンと音を立てて割れてしまいそうだ。心の中で言葉を掌握し、操るのは難しい。僕の言葉のはずなのに。

僕は新たにコーヒーポットにお湯を注ぎ、コーヒーを淹れ、お皿に一口サイズのプチフールケーキを載せる。

単調な日常を忘れて楽しむことをうたった僕とイルサのパーティーだけど、イルサはいつもパーティーの締めくくりを大事にしていた。後味の良いパーティーになることを心がけ、ゲストが何か少しでも人間的に大きくなれて、気持ち良くさよならを言って家路につける。そしてその後も、それぞれのゲストが胸のうちで心地良い余韻に浸れるような、そんなパーティーをイルサはいつも望んでいた。このアパートメントで行われる最後のさよならパーティーでも、今それを実践しているのだろう。

僕も家に帰ろうと思えば、帰れる。厳密に言えば、この女帝のアパートメントは、僕の家ではない。でも自分自身に正直になってみると、(というか、自分に正直にならない理由もないのだが、)さらに厳密に言えば、僕がマイホームと呼べるのは、向こうの家より、むしろこちらの家だ。このアパートメントで、僕の人生は展開してきたと言っても過言ではない。逃げ込み寺が、いつの間にか終の棲家のようになっていた。

キッチンを見渡す。僕はここで、何度も至福の時を過ごし、そして僕はここで、何度も悲しい思いをして泣いた。

それこそまさに、ここがマイホームだったという証だ。

そして僕は―

僕は―

僕はここを出なければならない。

ここを出て行くのは僕たちの方なんだけど、なんだか逆に、僕はこのアパートメントに見捨てられた気がしている。ここで巻き起こった僕の人生が、もうすぐどこかへ行ってしまう。僕をぽつんと置き去りにして。

しかし今―

今こそ考える時なんだ。巣立つということについて真剣に。

僕は今まで外側に逃げ道を探したことは一度もなかった。これまでずっと、悲しいことの連続だったけれど、―僕は自分の内側に、何かスイッチが入っていない部分があるんだと思っていた。僕を取り巻く人生と上手に付き合えない不活性な何かが自分の中にあるはずだと、内側ばかりを探っていた。イルサは僕を良い子ちゃんだってなじってくる。間違ったことをせず、無理をしない手堅い生き方をしてるって。でも本当にそうだろうか? 僕にはそれしか道がなかったんだ。他に抜け道なんて見当たらなかった。たしかに扉はいくつも見えてはいたけれど、どの扉にも鍵がかかっていると思い込んでいた。開きっこないと思っていたから、ドアノブを握って回してみることさえ、僕は一度もしなかった。

ちょっと違うな。僕は少し思考の論理展開を誤ったみたいだ。

僕は今までずっと、良い人生を送ってきたように思える。でもよくよく考えてみると、良い人生なんて言えるものではなかった。僕は常に指が震えるような面持ちで生きてきた。一音符でも間違えたら、すべてが台無しになってしまうとびくびくしながら、慎重に進んできた。そんな生き方が良い人生なんて言えるはずがない。

そうじゃない―

というか―

さっきから僕は一人で何をつぶやいているんだろう?

僕はいったい何をごちゃごちゃと考えているんだ?

僕はキッチンを出て、リビングルームに戻る。ソファの上の枕の位置を直し、KKが椅子に座る時にひっぺ返したブランケットを椅子にかけ直す。ほとんどすべてのものが元の定位置に落ち着く。

キャビネットに並んだお酒のボトルをすべて叩き割ってしまおうか? その方が、きちんと元通りに戻すよりずっと簡単だ。照明も次々に叩き割って、世界に向かって「ファッーク!」と叫び、この家の中をめちゃくちゃに破壊してしまえばいい。―実は試しにやってみたことがあって、破壊している最中はそれなりに気持ちよかった。でも一通り壊し終えたあと、僕は壊れた物たちの真ん中で立ち尽くし、巨大な虚無感に襲われた。一瞬の解放感は僕をどこへも連れて行ってくれなかったのだ。それは解決策にならない。

腹いせに自分自身の体を傷つけてみたこともあった。その道も突破口にはつながっていないと学んだ。

けれど、きれいな部屋だって、解決口につながっている保証はない。

ロビーを通して聞こえてくる音楽が、ますます大きくなっていく。会話をしている声も聞こえるが、言葉までは聞き取れない。僕はソファの上に倒れ込むことならできるかもしれない。両親の家に帰って、僕の部屋とも呼べない僕の部屋で寝てしまおうか。表面レベルでは、僕は疲れ切っている。立っていられないほど、へとへとだ。でも僕の内側には、タコ糸で僕の体を引っ張り上げるような力が、まだ残っている。最後まで見届けるんだと促している。ほら、出口を見つけるんだよ、その向こうに何があっても。

僕は自分自身に言い聞かせる:疲れてるんだろ...でも、まだやるべきことが残ってるよ。

僕は自分自身に言い聞かせる:悲しいんだろ...でも、まだやるべきことがあるじゃないか。

僕は部屋の中を見回す。―すべてが整然としている。僕はダイニングルームに行き、テーブルの上にきれいなナプキンを敷き、その上にフォークを並べていった。シュガーボウルと人工甘味料も用意する。コーヒーがいい感じに焙煎された頃合いを見て、コーヒーポットを、女帝が長らくコーヒーを出す時に使ってきたカートに載せる。

準備完了。それから、やるべきことをもう一つ思い付く。ちょっとした味付けだ。グランドフィナーレを迎えるにあたって、ちょっとしたおまじない。

慎重に手を伸ばし、女帝がガラス製の棚の上にインテリアの一部のように載せている細長いシャンパングラスを手に取る。どのグラスも紙のように薄く、空気のように透き通っている。手に持つだけで割れてしまいそうで、緊張感が全身を貫く。―というか、緊張感を得るために、こうして手に持ってみたのだ。

僕はどうしても緊張してしまう性格なので、だったら、緊張しても大丈夫なように、緊張感に慣れるしかない。

僕は緊張感を体に馴染ませるように、シャンパングラスをテーブルに一つ一つ慎重に並べていく。すべて並べ終えて眺めると、シャンデリアがテーブル全体に広がったような壮観になった。

よし、いい感じ。僕はいくぶん満足感を得る。

このままの状態で留めておきたい気持ちが胸の内で湧き起こる。周りに誰もいない状況で、僕は見事に左右対称の模様を完成させた。こういう誰も見ていない条件下なら、緊張感は分散し、僕の指は震えずに済む。僕と、きれいにおめかししたダイニングテーブルの一対一なら。僕と、僕の内側の―

僕の中の僕の―

要塞。

違う。僕は自分に言い聞かせる。

扉を探すんだ。

きっと鍵はかかってない。

僕はロビーを横切って、バーグマンさんのアパートメントに入る。薄明かりの中、パーカーとイルサがタンゴを踊っていた。体を絡めるように情熱的にステップを踏んでいる。その横で、リーが編み物をしている。彼女は手を軽やかに動かしながらも、目は二人のダンスに釘付けといった様子で見入っている。KKは、本名バーグストロム氏の引き出しを次々と開けて、家宅捜索をしているようだ。フレデリックとカスピアンは、バーグマンさんが残したフラン・レボヴィッツのエッセイ本をめくって、覗き込んでいる。ヨハンは、僕が入って来てただ一人、こっちを向いてくれた。彼は微笑み、椅子の上で腰をずらす。僕のためにスペースを開けてくれたのだ。

「コーヒーとプチフールを用意したから。それから乾杯用にシャンパンも」と僕はみんなに伝える。「もし誰か、興味のある人がいたら、僕たちのダイニングテーブルに戻って来て。シャンパンのコルク栓を5分後にポンッと抜くから」

そう言い放つと、僕はさっさと振り向いて、反応が誰かから返ってくる前にその部屋を出た。まっすぐに女帝のマンションに入り、キッチンへと向かう。

それから1分間ほど、音楽は聞こえ続けた。その後、音楽が止み、続いてみんながロビーを歩いて戻って来る音が聞こえた。ほとんど全員がダイニングルームに直行したようだ。彼らが席につく時、シャンパングラスが倒れたりしないかと、心配が一瞬よぎったが、振り払う。

「何か手伝うことあるか?」と言いながら、パーカーがキッチンに顔を出した。

「いっぱいあるよ」と僕は微笑んで答える。

彼が僕の目の前まで近づいてきた。

「何も言わずにいなくなってごめん」と彼が言う。「お前も連れて行こうかとも思ったんだけど、またジェイソンと過去のある時点までさかのぼって、にっちもさっちも行かない状況になってると思ったから。で、進展はあったのか?」

「過去はもう手放したよ。これからは未来に向かって、手を伸ばすことにした」

パーカーが眉をつり上げる。「おお、マジか?」

僕はうなずく。

「何か計画はあるのか?」

「まあ、漠然とはあるけど、具体的にはまだ自分でもはっきりとしない」と僕は彼に告げる。「で、君はどうなんだ? イルサとまたダンスパートナー復活?」

彼は笑う。「俺たちはタンゴと相性がいいな、とは思った。けど、パートナー復活はないんじゃないかな。やっぱり俺を愛してくれる人と踊らないとさ、のちのち語り草にもならないからな。そして今夜、踊りながら感じたよ。彼女は俺のことを愛してないって。まあ、当然の成り行きというか、これが一番いいエンディングだよ。最悪の関係から脱して、少しはましな関係で終われたんだから。―お前たちも、そういうことだろ?」

「どうかな?」

パーカーが僕を冷めた目つきで見据えた。「いいか、要はこういうことだ。お前は俺たちより、ひどい別れ方をしたんだろう。たぶんイルサより、お前は深刻な痛みを抱えているんだろう。でも、もう過ぎ去ったことだ。青臭い時代の土産物ってことだよ。それをいつまでもうずくまって、大事に抱えてても仕方ないだろって言ってるんだ。まあ、俺はお前の妹とお互いにいがみ合うことで忙しかったから、お前のことを考えてやる余裕はなかった。―俺と彼女が二人で協力すれば、お前の手を引っ張って立ち上がらせることもできたかもしれない。でも二人別々では、無理だった。そういえば、お前とこういう話をしたことはなかったな。いや、べつに今ここで語り合おうって言ってるわけじゃない。―ただなんとなく、バーグマン氏の部屋で彼女と踊って、ここに戻ってきてお前の顔を見たら、そんなことを思ったんだ」

「青臭い時代」と僕は言う。今まで誰かが、このような言い方で僕に説明してくれたことは一度もなかった。パーカーとこういう真面目な話をするのも初めてだ。

「そうだよ」

僕はそこから抜け出すことができずにいる。もっと詳しく知りたかった。僕は聞く。「僕の青臭い時代について、君は何を知ってるの?」

パーカーは少しの間、考えを整理するように黙り込んでから、慎重に話を続けた。「サム、お前が思ってる以上に、イルサと俺は知ってるよ。でも、どうやって話を持ち出せばいいのか、きっかけがつかめなかった。お前が自分の体を傷つけてることも俺たちは知ってたよ。けど...それについて話し出すのは、お前からじゃないと駄目だと思ったんだ。何かを秘密にして隠しておきたい時は誰にでもある。でも、その何かを自分の外側にぶちまける権利があるのは、周りの人たちじゃないからな。それに、お前がそういうことについてイルサには話してるんじゃないかと、俺は勝手に思い込んでいた。たぶんイルサも同じだったんだろうな、お前が俺には話してるんじゃないかって。俺とイルサはお互いに口も利かなかったし、ノートを交換してお互いの考えを見比べる、みたいなこともしなかったからな。すれ違いってやつだ。今になってようやく同じ飛行機に乗れたっていうか、少なくとも同じ搭乗口の前まではたどり着けた。今まではお互い、全然違う方向に進んでいたからな、お前もそう思うだろ?」

どうやら僕が思い描いてきた僕の過去を、今になってすっかり書き直さなければならないようだ。知っているのは女帝だけだと思っていたのに、イルサもパーカーも知っていたなんて。女帝は僕を息抜きに連れ出してくれた唯一の人だった。彼女は嘘をついて、急に小旅行に行きたくなったから、僕を連れてロンドンまでちょっと出かけて来る、と言って家を出た。―実際は、このマンションから離れたマンハッタンの「ショッピング街」で、好きなだけ「衝動買い」をさせてくれた。

僕は本気で、みんながそれを信じたと思っていた。

特にイルサは信じたと。

ダイニングから、シャンパンの到来を待ち望む大合唱が沸き起こった。「シャンパン! シャンパーン! シャンパーン!」

「僕はここを出なきゃならない」と僕は目の前の親友に話す。彼は実際は、それほど僕のことを知らない。彼にはもっといろんなことを打ち明けるべきだった。

「みんな待ってるしな。じゃあ、俺がシャンパンのボトルを持つよ」と彼が申し出る。

僕は首を振る。「いや、今のこの状況のことじゃない。僕はもうすぐここを出て、どこか住む場所を探さなくちゃ。生きていく場所を」

あの笑顔がもう一度目の前に咲いた。「だったら、そんなの簡単だよ」と彼が言う。「俺と一緒にカリフォルニアに行こう」

「それもいいかもな。ただ、名立たるスタンフォード大学が、今の卒業シーズンになって、入学願書を受け付けてくれればいいけど」

「シャンパーン! シャンパーン!」(イルサの声が抜きん出て大きく聞こえたかと思うと、負けじとKKも声を張り上げる。)

「今持って行くぞー!」とパーカーが雄叫びを上げた。

僕は冷蔵庫まで行って、シャンパンのボトルを2本取り出した。―女帝は常にシャンパンを4本冷蔵庫に待機させている。急なお祝い事や、急な慰めの会がいつ生じても、あるいは同時に生じても対応できるように。彼女が帰ってきたら、シャンパンが消えていることに気づくだろう。僕は彼女に説明しなきゃならない。でもきっと、彼女はわかってくれる。

「俺は真剣に、カリフォルニアに一緒に行こうって言ってるんだ」とパーカーが、僕からボトルを受け取りながら言った。僕は空いた手でコーヒーカートを押して、キッチンを出る。

「君が真剣だっていうのはわかってる」と僕は言う。それが僕の言える回答のすべてだった。

僕たちはダイニングルームに向かう。パーカーは僕を先に歩かせ、ボディーガードのように僕の背後にぴったりとついてきた。ダイニングに入ると、KKが「遅いよ!」と叫んだ。

僕は彼女を黙殺する。―これは長年にわたる鍛錬の末、修得した技だ。鋭い視線で彼女を瞬殺した後、僕はイルサを見る。彼女は好奇の混じった眼差しで、パーカーが手に持つシャンパンを見て、ちょっと戸惑っている様子だ。―このパーティーの計画に、シャンパンをふるまうことは入っていなかったから。

「コーヒーが欲しい人?」と僕は聞く。

「カフェイン抜きはある?」とカスピアンが聞き返してくる。

「カフェイン抜きなんて、そんなのコーヒーじゃない!」と、イルサと僕は同時に答えた。

「この二人はカフェインマニアなんだ」とパーカーが説明する。

「いいから、早くシャンパン」とKKが命令口調で急かす。

「君が主催のパーティーじゃないだろ」と僕は彼女に言う。

「まあまあ、お兄ちゃん」とイルサが僕をなだめるように割って入った。「まず乾杯して、シャンパンを一口飲んでから、その後で、カフェインとスイーツを味わいましょ」

「シャンパーン! シャンパーン!」とカスピアンが再び煽り始めたが、誰も追随して声を上げる者はいなかった。靴下はしょんぼりと、しな垂れてしまう。

僕はテーブルを囲む面々を見回す。全員がシャンパンを飲みたそうな顔をしている。

僕はみんなを丁重にもてなすホストになろうと決めた。

「じゃあ、シャンパンにしよう」と僕は言う。「誰か、シャンパンの栓を抜く名誉にあずかりたい人?」

僕はシャンパンの栓を抜く時の、ポンッという音にいつもびっくりするくらい、びびりだから無理だ。イルサはコルク栓を抜くのが下手すぎて駄目だ。

「ぼくがやろうか」とヨハンが志願する。

彼が難なく最初のボトルを開けて、みんなのグラスにシャンパンを注いでいくのを見守っていると、KKのグラスに注ぐ時、勢い余ってちょっと溢れ、こぼしてしまう。彼が今にもKKに襲われるんじゃないかと、びくついている様子に、僕はますます彼のことが好きになる。

彼に見惚れながら部分的に火照った僕を、内側からもう一人の僕がなだめる。おい、サム。落ち着け。

それから僕は気を紛らわすように、女帝との会話を思い出していた。彼女は僕に、「誰かのために一つの場所に留まっていても、何にもならないのよ」と言った。彼女自身のことを言っていたんだと思う。―彼女は僕のために、というか僕とイルサのために今までここに留まっていたんだ。そうじゃなかったら、何年も前に彼女はパリに移り住んでいたはずだ。―彼女が僕に、「二人だけの秘密よ」と念を押してから、パリに引っ越すつもりだと打ち明けてくれた時、彼女はあえて、僕とイルサが大学に進学するまで待っている、とは言わなかった。でも僕にはわかったし、同じように、僕がそのことに感謝している気持ちも、彼女に伝わっていただろう。特に感謝の言葉を口にしなくても。たとえ僕が大学に進学しても、この街を出て行くつもりがなかったとしても。

女帝は僕を巣から追い出すような真似はしない。でももうすぐ彼女は黙って巣を取り上げてしまうから、僕は結局すぐ近くに、また新しい巣を作る羽目になる。それなら、そうすればいい気もする。

だけど―

考え込んでしまう。僕はまた巣を作りたいのだろうか?

作るべきなのかどうかさえ、もはや確信が持てない。

「サム、あなたが乾杯の挨拶をするんでしょ?」とイルサが聞いてきた。彼女はみんなが手に持っているグラスを指差す。みんなグラスを掲げる準備万端といった様子だ。

「ああ」と僕は言って、深呼吸をした。緊張感が湧き出す前に、―僕はさっと行動に移す。僕がグラスを高らかに掲げると、みんながその動作を真似た。

「巣立ちの時に! 乾杯!」と僕は言う。

「巣立ちの時に! 乾杯!」と、ほとんど全員が声を上げた。

しかしイルサの口は動いていなかった。

それってどういう意味? と彼女がきょとんとした目で僕に訴えかけている。

彼女は理解していない。

もう他のみんなはすでにシャンパンを飲み始めていたが、僕はもっとはっきり言おうと、もう一度グラスを持ち上げた。

「僕はこのマンションから巣立って行くわけだけど、―ニューヨークの街からも巣立って行くことにしたよ。自分の要塞というか、居心地のいい安全地帯から抜け出て、世界を見つけに行くんだ」

僕は細長いシャンパングラスを口につけ、グイッと一気に飲み干した。パーカーが、よくぞ言ったと拍手しようとして、手に持っていたシャンパングラスから、シャンパンが飛び散った。ヨハンは興味津々といった感じの眼差しでこっちを見ている。KKはあやしむような目つきだ。フレデリックの目には何の感情も見えないが、隣のカスピアンは僕を応援してくれているみたいだし、リーも好意的に受け止めてくれたようだ。

ただ、イルサはまだシャンパングラスに口をつけようともしない。

「あなた、いったい何のこと言ってるの?」と言って、彼女は手に持っていたグラスを置いた。

「僕はたぶん、カリフォルニアに行く」と僕は告げる。

KKが甲高い声を上げる。「ちょっと、カリフォルニアのどこへ行くのよ? そんな大雑把な言い方しないでちょうだい。北カリフォルニアと南カリフォルニアは、全く違う場所よ。ロサンゼルスに行かないのなら、そうね、たとえば、実際はニューヨーク州のロチェスターに行くのに、『ニューヨークに行く』って言ってるようなものよ」

「それって、いつ決めたの?」とイルサが聞いてくる。

「2分前かな?」と僕は答える。

もっと僕の門出を喜んでよ、と僕は彼女に言いたくなる。笑顔で送り出してよ、と。

「それって、あれね、計画というより、衝動的な気の迷いって感じね」と彼女が言う。

「素晴らしい考えだとぼくは思うよ!」とヨハンが褒め称えるように言った。僕はちょっと混乱して、顔が引きつってしまう。彼が僕の背中を押してくれるのは嬉しい反面、彼が住んでるこの街から遠く離れた場所に行くって言ってるのに、そんなに熱狂的に喜ばれると、悲しくもなる。

「ボクは南カリフォルニアよりも、北カリフォルニアが好きだな」とカスピアンが手を挙げる。

「私も」とリーが賛成の声を上げる。

「まあ、あんたたちはそうでしょうね。―あんたたちは二人ともなんちゃってニューヨーカーだから」とKKが凄みを利かせて、食ってかかる言い方をする。彼女の憤りは底なしだ。

「ってことは、お前は違う意見か?」とパーカーがKKに尋ねる。

「あたしはここニューヨークで、時間を潰しながらチャンスを待つわ」とKKが答える。

「誰もカリフォルニアに行かないで」とイルサが懇願するように言った。

「俺はもう決まってるから、絶対行くよ」とパーカーが指摘する。

「あなたはいいのよ

パーカーが参りましたと言わんばかりに両手を上げた。「了解。でもさ、これって俺に関係あるんだけどな」

イルサは、両手を上げて降参している彼に向かって、さらに撃った。「いい、あなたはこれには何の関係もないのよ。わかった? 彼の気の迷いの原因は、あなたじゃないの。いいわね?」

「わおっ!」とパーカーが驚きの声を上げる。「お前の兄想いは凄いな。告白してるみたいなものだぞ」

「お兄ちゃんはどこにも行かないの! 私たちはみんな、それくらいわかってるんだから」

「ぼくはわかってないよ」とヨハンが言う。

「ボクもわからない」とカスピアンも同調する。

「あんたたち二人はなんにも知らないんだから、いいの」とイルサが言う。

「その言い方、ビッチっぽくていいわ」とKKが手を叩いて笑った。

「イルサ、―」とリーが話し始めようとする。

「僕はどうかな?」と僕はすかさず割り込んだ。「僕は僕自身のことわかってるのかな?」

「もういいわ」とイルサが言った。それから彼女はシャンパングラスを掲げる。「今度は私が乾杯の挨拶をする番よ」






〈キャラクター紹介 part 2〉


サム:一人称は「僕」。イルサと二人きりの時はやや強気で「俺」

イルサ:一人称は「私」


ドリー・パートン:『I will always love you』などを歌っていた往年のシンガーソングライター。ヨハンが好きすぎて、ドリーのフィギュアを何体も作り、バイオリンケースに入れて持ってきた。

バーバラ・スタンウィック:無声映画時代の名女優。女帝が長年住んできたマンションは、昔スタンウィックが最上階に住んでいたことから、「スタンウィック邸」と呼ばれている。彼女の亡霊の目撃情報あり。


カービー・キングスリー(KK):「スタンウィック邸」の最上階に住んでいる。父親が銀行家でお金持ち。フレディ(カスピアン)とラブラブな感じ。一人称は「あたし」

リー・チャン:たまに予知夢を見る。イルサのことが好き。一人称は「私」

フレデリック・ポダランスキー(フレディ):イルサがフレディをサムの恋人にしようと招待したのだが、フレディはKKを気に入ってしまった。一人称は「俺」

カスピアン:フレディが達人技で操る靴下の人形。一人称は「ボク」


パーカー:イルサの元カレで元ダンスパートナー。サムの幼なじみで親友。一人称は「俺」

ジェイソン:サムの元カレ。イルサと敵対関係にある。一人称は「俺」

ヨハン:サムが地下鉄で一目惚れした〈地下鉄の彼〉。南アフリカ出身の白人で、サムが落ちたジュリアード音楽院に通っている。ツイッター好きの#スタンタの元カレだったことが判明。ジェイソンが言うには、ヨハンは嘘つき。女帝の元夫のバイオリンを弾いて、イルサとパーカーのラストダンスの伴奏をした。一人称は「ぼく」


マデリーン・ホーグ(マディ):女帝のアパートメントの隣に住んでいる家族の7歳の娘。もうすぐ女帝のアパートメントは彼女の家族のものになり、女帝が出て行ったあと、リビングルームの壁を取り壊して、ひとつづきにする計画。イルサは現在もホーグ家で子守役として働いているが、女帝が出て行ったあとは、現在のゲスト用の寝室(兼サムの部屋)に住み込んで、働く予定。

バーグストロム(バーグマン):最近亡くなった独身主義者で熱心なユダヤ教徒。女帝のアパートメントのロビーを挟んで向かいの狭い部屋に住んでいた。イルサには無愛想だったが、サムとパーカーには映画のチケットをあげていた。訳者(藍)に一番近いキャラクター。笑


女帝:サムとイルサのおばあちゃん。登場はしないが、サムとイルサの言及を通じてキャラが立ち、亡霊のように存在感あり。

サムとイルサの両親:言及も少なく、存在感は薄い。KKが思っているように、すでに存在していないのかもしれない...(急にホラー。笑)





藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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