『サムとイルサのさよならパーティー』4
『Sam and Ilsa's Last Hurrah』 by レイチェル・コーン、デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2019年06月30日~2020年01月25日)
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イルサ
乾杯の挨拶をしたい気持ちがある一方で、私は怖かった。
サムは、女帝がコレクションしている19世紀製のバカラ・クリスタルのシャンパングラスを取り出していた。彼女がキャビネットの一番上の棚に並べている観賞用のフルートグラスで、女帝の誕生日以外、めったに取り出すことはない。(彼女の誕生日は2月29日だから4年に1度しか来ないんだけどね。)金で縁取りされたクリスタル・ゴブレットは、私たちの家族の歴史にとって非常に重要な品である。女帝の曾祖母と彼女の妹がアメリカに持ち込んだ物で、その姉妹は、20世紀初めに東ヨーロッパで行われた民族大虐殺から逃れてきたんだけど、その際に、スカートの中に隠して持ってきたっていうから凄いわ。女帝が最も大事にしている貴重なグラスよ。
もちろん、その聖杯伝説は嘘でしょうね。実際、8本のクリスタル製のシャンパングラスを姉妹2人で分けたら、1人4本ずつ。それをスカートの裏地に挟み込むようにして、山を登ったりしながら、割らずに逃げ通せるなんて、ね。歩くたびにグラス同士がカチャカチャぶつかって、その辺に潜んでいるかもしれない兵士の耳に聞こえたらどうしようって、それだけで神経をすり減らして、ストレスで死んじゃうわ。
私の先祖ですもの、驚異的なスキルでそれを成し遂げたっていう可能性も十分にあるわ。ただ、ちょっと出来過ぎてるというか、ストーリーに穴があるなと思ったの。それに女帝は、彼女の祖母からこのグラスを受け継いだ後、『サウンド・オブ・ミュージック』を繰り返し何度も観てるのよ。彼女って昔から、事実とフィクションの境界線があいまいなところがあるから。まあ、そういうところも、私が女帝を尊敬してやまない特質の一つではあるんだけど。
とはいえ、彼女の最大の特徴は怒りっぽいことで、―私は過去最大級に怖くてたまらない。ちょっとしたことでチクチク嫌味を言われるくらいなら、なんてことないわ。たとえば、女帝が帰って来て、彼女が保存しておいたお酒がすっかり飲み干されていることに気づき、見れば、ペルシャ絨毯にお酒をこぼした染みができている、とか。もっとレベルを上げて、サムがみんなにふるまっちゃったお酒が、彼女のコレクションの中で最上のシャンパンだった、とか。それはもの凄く高価な本物のフランスワインで、まばたきしてる間に過ぎ去る閏日に、彼女が自分の誕生日を祝ってちょこっと飲んだり、あるいは大晦日に他のお酒を飲みすぎちゃって、元日に「二日酔い醒まし」としてちょびっと飲んだり、そうやって彼女が少しずつ大切に飲んでいるもので、そのワインがすっかり空になっていたら、彼女はそれなりに怒りを爆発させるでしょう。怒りの矛先はいつも私に向かうわけだけど、そのレベルならまだ、私もなんとかやり過ごせる自信がある。でも、このシャンパングラスを誰かが割ってしまったら、と思うと、私は怖くて仕方ない。他に替えがきかない代物だから。ディナーテーブルを取り囲む酔っ払いたちの誰かが1本でも割ってしまったら、女帝の核爆弾級の怒りが落ちてくる。そんなもの、私には受け止められないし、受け止め役を引き受ける気もさらさらないわ。
私は18年間、サムが問題を起こしたり、私の友達がどんちゃん騒ぎをした後の、怒られ役をいつでも務めてきたわけだけど、―今回ばかりは、もしそんなことが起こっても、私は責任を取るつもりは一切ない。このグラスを取り出したのはサムだし、1本でも何かあったら、それはサムのせいよ。
っていうか、彼がカリフォルニアに行くなんて、そんなの誰も信じないわ!
私は乾杯の挨拶をしようと、この聖なるゴブレットを掲げたわけだけど、その神聖さが怖すぎて、握る手が震えてしまう。ちょっと力を抜いたり、手が滑っただけでも命取りになるから、否が応でも手に力が入ってしまう。「太陽が光り輝く州に行っても、サムの未来が希望に満ちたものでありますように!」とは言ったものの、握り締めているグラスに意識を全部持って行かれて頭が真っ白になり、この後、何を言ったらいいのかわからなくなる。
私が少しの間黙っていると、カスピアンが言った。「太陽が光り輝く州ってカリフォルニアのこと? だったら太陽じゃなくて金、ゴールデンステートって言ってよ」
ああ、バスケのチームのことか。靴下くんはバスケ好きだったんだっけ。
「ゴールデンステートね!」私は続ける。「そして、干ばつで干上がる州、車ばっかりで排気ガスが立ち込めるステート、―」
「それは南カリフォルニアの問題よ」とKKが口を挟む。「サムはもっと北の方で暮らす自分の姿を思い描いてるんじゃない?」と彼女は笑う。「どうせすぐに嫌気が差すでしょうけどね、サム」と彼女はサムに話を振った。「北カリフォルニアはあなたが暮らしていけるようなところじゃないわ」
サムは言う。「KK、君がそう言ってくれて、ますます自然溢れる北カリフォルニアに行きたくなったよ。これが心の琴線に触れたって言うのかな、今、心のベルがキュンと鳴った」
リーが言う。「私はサンフランシスコの〈ベイエリア〉が、どうして北カリフォルニアと呼ばれているのか、よくわからないの。地図を見ると、あの辺りって、北というより真ん中でしょ」
ヨハンが同調する。「たしかに! ぼくはシスキユー郡にハイキングに行ったことがあるんだけど、あそこは真の北カリフォルニアって感じだったな。北カリフォルニアの本場と〈ベイエリア〉は、全くの別世界だよ。別の国って言ってもいいくらい」
パーカーが歌い始める。「I left my heart in San Fran―(私の心にはいつでも、あの時のサンフランシスコが―)」
「ちょっと、今は歌うのやめてもらってもいい?」と私は言う。私の挨拶中に失礼すぎでしょ。見れば、みんなはグラスを掲げたまま、私が乾杯!って言うのを今か今かと待っている。うざったい挨拶をさっさと終わらせようとしているらしい。
テーブルを取り囲む邪魔しい達が、しんと静まり返った。グラスを持ち上げたまま、一斉に私を見る。私が何か深いことを言うのではないか、とみんなして期待する表情を向けてくる。(私はサムに言いたいことがあるだけなのよ。祝福じゃなくて、嫌味だけどね。)私は言う。「サム! 眩しすぎる太陽の下では、さぞかし快適な暮らしが待っていることでしょう―」
「ほら、また。あなたがイメージしてるのは、南カリフォルニアなのよ」とKKが言う。さっきから彼女は論点がずれてるのよね。黙らせるために殺そうかしら。
「It never rains in Southern California(南カリフォルニアでは雨なんて降らないはずなのに)」とパーカーが別の曲を歌い出す。
「イルサの挨拶を聞きましょ。聞かないと終わらないでしょ」とリーが言う。「腕が痛くなってきちゃった」
「早くシャンパンを飲みたいよ。喉がカラカラだよ」とカスピアンが言う。
私は深く息を吸ってから、もう一度乾杯の挨拶をし直す。「マンハッタン島を離れたら10日間も生きていけないサムのために―」
今度はサムが茶々を入れてきた。「それは7年前の話だよ。タイコンデロガ砦にキャンプに行ったんだけど、骨折しちゃって! どうしても帰らざるを得なかったんだ!」
あの程度の怪我だったら、絶対最終日まで残れたはず。それなのに彼は私を置いて、そそくさと帰っちゃったのよ。それから5日間、私は蚊に刺されながら、かごを織ったりして、思春期直前のレズビアンの女の子たちに囲まれて過ごしたのよ。大体みんな、年上の世話係の女の子たちに憧れを抱いていたわ。
私は彼を無視して続ける。「カリフォルニアに夢を抱きながらも、リンカーンセンターを中心に半径20ブロックの範囲内でしか生きていけず、そこから一歩でも出ると、じんましんが出ちゃうサムに」
「乾杯ね?」とリーが言って、掲げていたグラスを傾け、シャンパンを口の中に注ぎ込んだ。
「乾杯!」と他のみんなも続いて、グラスを口に運ぶ。サムだけは黙ったまま目を細め、私をじっと見つめていた。それから彼もシャンパンを飲む。それを見て、私も飲んだ。
「極上のシャンパンだね!」とカスピアンが声を大にして言った。
「ほんとに? あなたにシャンパンを味わう舌ってついてたっけ?」とリーが聞いて、フレディに目を向ける。
KKが唇を舐めた。「ああ、最高。イルサが親の家の冷蔵庫からパクって来る〈トレーダー・ジョーズ〉とかで買った安物とは、格が違うわ」
「うちの親が冷蔵庫に保管してあるワインも、スーパーとかで売ってる安物じゃないよ」とサムがKKに言う。
KKが私を見て言う。「じゃあ、イルサといつも飲んでたやつも、高級ワイン?」私は頷く。KKがハッと息をのんで、サムをにらみつけた。「そんなこと、わざわざ知らせてくれちゃって」
「勘弁してくれよ。せっかくの気分が台無しになるじゃないか」とサムが返す。「怒るほどのことでもないだろ」
たしかにシャンパンは美味しかったけれど、私は落ち着いて味わうことができなかった。サムも私と同様に気持ちがそわそわしている様子で、グラスを置くと、私に聞いてきた。「それで、僕がカリフォルニアでは生きていけないって思う理由は何?」
私は答える。「ちゃんと計画を立てて、しっかり心の準備もできてから行けば、まあ生きてはいけるんじゃない? でも、一時の気まぐれで行ったって、ね? 無理に決まってるでしょ。生きていけるかどうかの以前に...たどり着けないんじゃない。っていうか、行きたい気持ちもすぐに冷めるわ。その程度の小さなことなのよ、そうでしょ?」
「冷めないし、大きなことだよ」とサムが返してくる。
「じゃあ、好きにすれば。あなたの空想を邪魔するつもりはないわ」と私は兄に言う。「ファンタジーがそんなに大事なら、行ってらっしゃい」
「大きなことだって言ったのは、イルサのことだよ」とサムが言う。「君が僕のことをわかっていないっていうのが、大きなことなんだ。場所はどこだっていいんだよ。それより、僕にはどこへも行けないって君が思ってることが」
「Whoomp, there it is(ウーーン、それは言えてる)」とパーカーが歌う。
私以上にサムのことをわかってる人なんていないでしょ。彼は何をむきになってるの? 彼も月経前なの?
「もちろん、行けるんじゃない?」と私は言う。「飛行機もあるし、電車もあるし、車でだって行けるでしょ。私がちゃんと計画を立ててって言ったのは、交通手段のことじゃないわ」
「こっちだって、そんなこと言ってないよ」とサムが言い返す。「僕が言ってるのは、君が僕を居心地のいいっていうか、都合のいい巣の中に閉じ込めてるってことだよ。勝手に僕はこういう人間だって、君の頭の中で作り上げた虚像の巣の中にね。本当の僕を知ろうともしないで。僕はちゃんとカリフォルニアに移り住めるよ。ここではない場所っていう以外は特別な理由がなくても、そこで何が僕を待ち受けているのか見当もつかなくてもね」
「カリフォルニアがそういう場所だっていう考えは、なんか、フェリシティとは逆の考え方だね」とヨハンが言う。
「フェリシティって誰?」と、テーブルを囲むみんなが一斉につっこみを入れた。
ヨハンが答える。「君たちアメリカ人は、自分たちの国のポップカルチャーなのに知らないんだね。外国人のぼくの方が詳しいってどういうこと? フェリシティっていう女の子が主人公のドラマだよ。彼女はカリフォルニア州パロアルト出身で、高校時代から好きだった男子がいて、彼を追いかけてニューヨークの大学に行くんだ」
「ストーカーっぽい」とKKが言う。「あたしはそういうの好きだけど」
ヨハンは言う。「ぼくはそのドラマを見て、ニューヨークの大学に行きたくなったんだ。それだけが理由じゃないけど、一つのきっかけだね」
「ってことは、君も高校時代から好きだった男子を追いかけて?」とパーカーが聞く。
「男子というか、これまでの人生とは全く違う体験を追い求めて、ここにやって来たんだ!」とヨハンが歓喜の声を上げた。彼の顔は、お酒を結構飲んだため、赤く火照っている。彼は人差し指と親指で架空の指揮棒をつまむようにして、マエストロさながらに腕を振り上げ、叫んだ。「音楽を追いかけて! 夜の遊びを追い求めて! 危険な遊びを!」
「ピザを追い求めて!」とカスピアンが言う。
「炭水化物のことは言わないでちょうだい。あなたったらそうやって、すぐグイグイ割り込むんだから」とKKが言う。さっきの停電の時、暗闇でグイグイ割り込まれたことを言っているのかしら? KKが皮肉めかして、二重の意味を込めるとも思えないけど。
「炭水化物と言えば、さっきあなたの年下の友達、隣の子が持って来てくれたクッキーはどこ?」とリーが聞いてくる。私は〈ジャンクトランク・クッキー〉が入った缶を取って来て、テーブルの中央に置き、ふたを開けた。まず自分が食べる用に一つ取ってから、その缶をリーに渡す。彼女はクッキーを取り出し、一口かじった。「これは、なんていうか、おぞましい見た目とは裏腹に、私が今までに食べた最高のクッキーかもしれない」
彼女はその缶をパーカーに手渡す。彼はそれを受け取ると、クッキーを一つ取り出して、かじった。「すぐには何とも言えないな。なんか危険な味がする、病みつきになりそうなやばい味」
彼はその缶をサムに回し、サムがそれをすぐにヨハンに回した。「今夜は僕は遠慮しとく。糖分の取り過ぎで、糖尿病が悪化して失神するといけないから」とサムは言う。
ヨハンにはサムみたいな気の迷いはないようで、彼はすかさずクッキーを口に入れた。「これってポテトチップスも入ってない?」
私は言う。「ええ、入ってるわ。それからチョコチップ・クッキーと、バタースコッチ・チップと、モルトミルクボールと、ピーナッツと、それにプレッツェルも―」
「やめてくれ」とヨハンが言う。「このクッキーを食べ終わったら歯が全部抜けてる、なんて悪夢を見させないでくれ」
「ジェイソンはサムの部屋で寝てるんでしょうけど、彼の魂が抜けてないといいわね」と私は言う。「このクッキーを食べさせて、彼の息の根を止めちゃったとか」
「やめろ!」
サムが声を荒げて絶叫した。私はぽかんと彼を見つめる。聖人のサムが、そんな言い方をするなんて信じられない。
「やめろって何を?」と私は彼に聞く。
「ジェイソンのことを悪く言うのはやめろ。僕に干渉するのはやめろってことだよ」
「干渉?」私はあっけに取られて、目を丸くする。「私が何を言ったって、どうせあなたはジェイソンと、したいことをするでしょ」
「だから、何も言わないでくれるか? 君の意見は胸にしまって、僕には僕の人生を生きさせてくれないか? 僕が好きになった人が、どうしようもないやつだったとしても、僕はそれを自分で確かめたいんだ。君の助けは要らないんだよ、イルサ」
彼は私の助けが必要に決まってるじゃない。私は彼より、8分早くこの世に生まれたんだから。うぶで世間知らずのサムより、私はほんのちょっとだけ、世の中のことを知ってるはずよ。
「いいわ」と私は言う。
ほんとはよくないけど。
私の胸が痛んだのは、私がサムのことをわかってないってサムが思っていたことよりも、私が何か言うたびにそんなに彼の心が傷ついていたのなら、そう言ってくれればよかったのに、彼が胸の内を打ち明けるほどには私を信頼していなかったってこと。そのことに私は裏切られたと感じ、胸の痛みが増した。彼が何も話してくれなかったことは、私が妹失格だって突き付けられたようなものだ。私は、彼が私の助けを必要としているかどうかを聞くことさえできなかった。勇気がなかったのね。女帝もそんなことを彼に聞いたりはしないでしょうけど。―彼女の場合、聞く前に行動に移して、彼を助けちゃうのよね。サムと女帝は、あうんの呼吸で共鳴し合う名コンビだから。サムと私は双子なのに、以心伝心も働かないし、つい同じことをしちゃうみたいなシンクロニシティもない。私たちはただ、同じ子宮から出て来て、同じ(二つの)マンションで育てられたってだけ。マンションは同じだけど、部屋は彼の方が良い部屋を与えられたのよ。―この女帝のマンションでもそうだし、それから彼女の心の中でもね。
「誰かがひそかに胸の内で憤りを募らせているね」とカスピアン教授が心理分析を披露する。
「君の秘訣を教えてくれないかな?」とヨハンがカスピアンに尋ねる。イライラしている様子なのはサムなんだけど、ヨハンはサムからみんなの注意をそらしてあげようとしているみたいだ。「ぼくが聞きたいことわかるよね? カスプ、君が女の子を簡単に手なずけちゃう秘訣だよ。いつの間に仲良くなってたんだい?」―ヨハンはKKをチラッと見る。―「どうやって、なんていうか、合意を得るんだ? 何か特別なスキルがあるとか―」
「それはセコンドっていうか、裏方のなせる技だろ?」とパーカーが指を動かして、操り主を指し示しながら言った。
フレディとカスピアン以外の全員が口を大きく開けて笑った。カスピアンはそもそも口が縫い合わされているから、笑えないのかもしれないけれど、フレディの表情には、殺意がにじみ出ているような、暴動を起こそうとしているような不穏なかげりが見えた。そこでKKが彼の誇りを取り戻そうと、声を上げた。「信じて。カスピアンとフレディには秘訣も秘密もないのよ。ちゃんとすべての手順を踏んだわ」そう言うと、彼女は私を見遣った。KKのあの表情、彼女が私をいともたやすく裏切る時にする顔だ。「サム、秘密があるのは誰なのか、ご存知? それはイルサよ。彼女に聞いてごらんなさい。あなたがカリフォルニアのどこかに移り住んでいる頃、イルサはどこで暮らすつもりかって。とは言っても、あなたはカリフォルニアのことをなーんにもわかってないみたいだから、決心がつかないんでしょうけど」
サムが言う。「君が言ってるのは、ホーグ家がこのアパートメントを引き継いだあと、イルサがマディの世話係として、僕の部屋に住むっていうイルサの計画のこと?」
「あなた知ってたの?」と私は言う。やっぱりというべきか、彼は知っていたのだ。いつでもそうだ。誰も口には出さない家族の秘密を、彼はいつの間にか共有している。女帝があやしいわね。女帝が一番いいゲストルームをサムに与えたのだって、彼女がサムを一番大事な子だと思っているからであって、私はその他の家族の一員に過ぎないのよ。
サムは言う。「もちろん知ってたよ! ずっと君が言ってくれるのを待ってたんだ。それなのに君は、いつものやり口だ。ひそかにボードをゆすって波を立てて、だんだんと揺れを大きくしていって、ボードが旋回してみんなが慌てふためいたところで、実はって言い出す作戦だろ」
「イルサが子守なんて、そんなの馬鹿げてるわ」とリーが言う。「よく考えてごらんなさい。そんな、あなたが望んでもいない仕事をして時間を無駄に使うなんて、しかも、あなたがよく知ってる場所でなんて、そんなのつまんないでしょ」
「じゃあ、私は何をしたらいいわけ?」と私は彼女に聞いてみる。
パーカーが口を出してくる。「大学に行けよ。それか、放浪の旅に出ろ。羨ましかったサムの部屋を最終的に自分のものにしたいんだろうけど、それだけのために、ここに残ったってしょうがないだろ」
それだけのためじゃないし。
ほんとにそれだけじゃない?
私はなぜここに残ろうとしているんだろう?
KKが言う。「あたしはこれからも、この後先考えない子にとことん付き合ってあげるけど、そんなベタな意地を張って、自分の人生を棒に振るのはやめなさい、イルサ」
「でも、後先考えずに突っ走るのがイルサなんだよ」とサムが言う。「みんな知ってるだろうけど」
「うるさい!」今回ばかりは、私の頭の中で導火線がプチンと切れる音がした。「子守のどこが、人生を棒に振る仕事なのよ!」
リーが言う。「たしかに子守は立派な仕事よ。ただね、あなたの年齢で、人生のこの時期にやる仕事かしら?」
ヨハンも言う。「その仕事を本当に必要としてる人が他にいるはずだよ。君がそれをやることで、その人から仕事を奪うことになるんじゃないかな」
みんなで寄ってたかってボコボコにされている気分になった。そんな私を優しくなだめるように、リーが言った。「そんな簡単に、自分に見切りをつけたらだめよ」
「他に何をやったらいいかわからないの」と私は正直に打ち明けた。
私は自分自身について言ったつもりだったんだけど、なんだかリーは、もっと広い世界の大きな問題として受け取ったようで、こう返された。「これからは恐ろしい時代になっていくわ。とにかく行動すること。立ち上がるのよ。立ち向かうの。どんどん表に出て行きなさい。スタンウィック邸のお金持ち連中から、おこぼれを恵んでもらって生きていこうなんて、そんなつまらないこと考えてないで、もっと大きな夢を見なさい」
「ちょっと!」とKKがすかさず問い詰める。「それはあたしへの当てつけ? あたしもここの住人なんですけど」
「もちろんそうよ」とリーは平然と返す。「それより、イルサ、あなたはどんな人になりたいの?」
「たぶんね、君はパーカーとサムと一緒に、カリフォルニアに行くべきだよ」とヨハンが提案する。
「だめ」と、パーカーとサムが二人して声を上げた。
「ただ」とパーカーが私を見て、付け加える。「俺は君に感謝しなきゃいけないことがあるんだ。スタンフォード大学の学費に、5千ドルの奨学金をもらえたから」
「それってなんで?」と私は尋ねる。
「俺たちの最高のダンスが認められたからじゃないか?」と彼が答える。
「メレンゲ・ダンス」と私は言う。
「そう、それ。大学の奨学金ガイドブックっていうのがあって、そんなガイドブックが存在することすらほとんど誰も知らないだろうけど、中身は小難しい用語がずらっと並んでるんだ。わかりにくいったらありゃしない」
「あっそ」と私は言う。大学に関する分厚いガイドブックが何冊もあるのは知ってるけど、そのうちの1冊だって私は開いたことないし、あんなの読む気もしないわ。大学に進学するのに必要な手続きとか面倒くさいことは全部、親に任せっきりだったから。
そんなんじゃだめ、イルサ。
パーカーが言う。「〈ニューヨーク市メレンゲ協会〉が奨学金制度のスポンサーになってるんだ。それで彼らのお眼鏡にかなって、俺が選ばれたってわけ」
「どうやって選ばれたの?」と私は聞く。「メレンゲについての小論文を書いたとか?」
パーカーは答える。「そう、メレンゲについての小論文を書いたんだ」
私は冗談のつもりで聞いたんだけど。
「恥を忍んで書いたよ! でも決定的な要因になったのは、ビデオのほうだった。大会での俺たちの雄姿を提出したんだ。君と一緒に数々の大会に出たけど、君のおかげで俺は輝けた。うちの親も君に感謝してるよ。何しろ、毎年5千ドルも節約できるんだから」
「すごいじゃない、パーカー。あなたは奨学金を受けるに値するわ」と私は本心を言った。
彼との別れは、だいぶ痛みは引いたとはいえ、まだ胸の内でくすぶっている。サムは親友と私の別れを知って、板挟みになった感じで戸惑っていた。もちろん、サムは私を責めた。責められるのはいつも、後先考えないビッチの私って決まっている。でもサムは知らないし、知る必要もない。パーカーと私が別れた理由は、二人だけの秘密にしてある。
あの時、生理が一週間遅れていて、私はパーカーにそう話した。彼はいつものように親身になってくれた。彼は薬局に行って、検査薬を買ってきて、私に手渡した。私はその検査棒におしっこをかけた。私の心は震え上がり、結果が出るまでの時間をただ待っているのがいたたまれなくなった。私はパーカーにお願いして、二人でセントラルパークに行ってアイススケートをした。あの日は冬で、雪が降っていた。なにもかもが魔法にかかったようだった。私は永遠にパーカーの腕の中にもたれていたかった。
二人で家に帰って、私の寝室で結果を見た。ポジティブだった。妊娠していたというのに、どういうわけか、パニックになることはなく、私はどこかしらほっとしていた。恐れていたことが現実になったわけだけど、今までに私の身に起きたことの中で最悪という感じはなかった。たぶん逆に、最高の瞬間だったんだと思う。そのポジティブを示す棒が、私に未来をくれる気がした。私にはパーカーを束縛したいなんて気持ちは全くなかったし、彼には大学に行って、夢を実現させてほしいと今も願ってやまない。だけど、これから先、私たちに何が起ころうとも、私はあの時の彼の表情を思い出してしまうんだわ。
パーカーは黒人だから、顔色の変化はそんなに目立たないんだけど、あの日の午後、彼は確かに青ざめていた。「君が決めることだよ」と、口ではそう言ってくれたけれど、彼がどちらを望んでいるのか、はっきりと伝わってきた。
それから3日間、私たちは誰にも言わずに縮こまっていた。私の中で気持ちが固まるまでは、家族に打ち明けたくなかった。私たちは〈プランド・ペアレントフッド〉に行って、相談に乗ってもらった。家族に話す前にそこに行くことで、私たちがどれだけ責任感を抱いているかを示したかった。
そこで受けた検査では、今度はネガティブだった。医者は、薬局で買った検査薬が誤ってポジティブを示したのだろうと説明してくれた。検査薬の箱に書いてある時間内に、結果を見なければいけなかったらしい。その時間が待ち遠しくて、私たちはアイススケートに行ってしまった。検査棒にかけた尿が乾いて、試験紙に蒸発ラインが浮かび上がることは、珍しいことではないと医者は言った。推奨時間が過ぎた後に検査結果を見た人が、尿の蒸発ラインを妊娠を示すラインだと混同することは、よくあるそうだ。
それから一週間後、パーカーから別れ話が出て、私たちは別れた。彼はそのような深刻な関係に身を置く覚悟はまだできていなかった。私も覚悟はできていなかったけれど、―私は覚悟より先に行動しちゃうタイプだから、妊娠していたら産んでいたでしょう。
サムがグラスを持ち上げて、「パーカーと彼が勝ち取ったメレンゲの奨学金に、乾杯!」と言った。
それに合わせて、みんなもグラスを掲げ、パーカーに向けて「乾杯!」と言った後、グラスに口をつけて、もう一口すすった。KKだけは乾杯とは言わずに、それでもシャンパンをごくごくと喉に流し込んだ。
すると、サムが空になったグラスを持ち上げた。
彼の表情から、私は彼の気持ちを読み取る。—
—何かをためらっている表情だ。
私は—
ああ、神様、私はどうしたらいいの?—
ただ—
—私は怖くて、もどかしくて、混乱している。
サムが意を決したように目を細める。—
—そして彼は、女帝が何より大事にしている家宝を、手吹きで作られた貴重なクリスタル・シャンパングラスを、壁に向かって思いきり投げつけた。
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サム
だって、もううんざりなんだよ。女帝が僕を大のお気に入りだって思ってることに。―女帝だけじゃない。イルサも僕を大事な子だって思ってることにもううんざりだから。だって、今日でおさらばだから。だって、今夜で終わりだから。だって、どうせいつか壊れるものを大事にしていることに嫌気が差したから。だって、この衝動の本質を底まで見てみたかったから。だって、みんながどういう顔をするのか見てみたかったから。だって、僕の中でずっとくすぶっていたことを吐き出したかったから。そうすれば、僕が今までどんなことを胸の内に秘めていたのか、みんなに知らしめることができるから。だって、女帝がパリにイルサを連れて行かないみたいだから。女帝が僕に、パリのことはイルサに言っちゃだめって言ったから。そして僕は女帝の言いつけに従ってしまうから。だって、僕は本当にカリフォルニアに行きたいのか、自分でもよくわからないから。今までの僕とは違うんだってことをみんなに信じさせたいってだけで、僕はカリフォルニアに行くって言ってるのかもしれないから。だって、さよならパーティーの締めに飲み干したグラスを壁に投げつけるのって、お祭りって感じがするから。もう現状には戻らないっていう決意表明になると思ったから。だって、イルサが僕を精神的に病んでる人みたいに見てるから。しかも実際、僕の精神はねじ曲がってるから。僕はイルサと僕の関係を二人で一人みたいに思ってるふしがある。僕が心配しない役を取れば、彼女が心配する役を務めてくれるって、僕はイルサに負んぶに抱っこの状態なんだ。だから、そうじゃないんだって、それを覆したかったから。それに、これって地球の彼方からこっそり持ち込んだものでしょ、そんなものを何十年もばれないようにびくびくしながら隠しておいたって心労が溜まるだけだよね? だって、こうすればパーカーが笑ってくれると思ったから。だって、ヨハンはどうせそのうち僕を怖がって逃げて行くから、だったら、さっさと彼を怖がらせたかったから。だって、僕が何かを達成しても、イルサはどうでもいい感じで、それは良かったわね、みたいに言うから。
グラスを壁に投げつけた直後の心境は、不思議と落ち着いていた。もっと恐れおののく気持ちになると思ったし、後悔の念に駆られて、グラスを元通りにしようと急いで破片を寄せ集めにかかると思った。
でも僕はそうはせず、ぽかんと僕に注目しているみんなに向かって、質問を投げかけた。
「君たちならどうやって抜け出す?」と僕は尋ねる。「要塞から抜け出す方法を教えてくれないかな?」
イルサはショック状態で固まったまま、僕を凝視している。彼女が口火を切るは無理そうだった。率先して最初の1打を放ったのはヨハンだった。
「わかってると思うけど」と彼は言う。「これはぼくの場合ってことだから。ぼくが経験したことが、そのまま誰にも当てはまるわけじゃないし、正しい方法があるとか、間違った方法があるとか言うつもりもない。それでもよければ話すけど...えっとね、ぼくの場合は、いつも頭に目的地を思い描いていたかな。―そこにたどり着けるチケットをどうやったら手に入れられるか、いくら貯めればいいのかを考えるんだ。もちろん実際にお金の計算をするわけじゃないけど、―というか、そこにはお金の計算も含まれるわけだけど、もっと広い意味で道筋を思い描くんだ。行き詰まってる場所から、行きたい場所へ連れて行ってくれる乗り物は何なのかを考えるんだよ。誤解しないでほしいんだけど、―行き詰ってるっていうのは、何も親や友達に縛られてるって意味じゃない。ぼくは周りのみんなが大好きだったよ。みんな親身になってぼくのことを考えてくれたからね。だけど、ぼくは抜け出したかった。ニューヨークに行きたい気持ちの方がずっと大きかったんだ。そして、そこへぼくを連れて行ってくれるチケットは、音楽だって気づいたんだ。その時、ぼくはまだ12歳とか13歳くらいだったけど、音楽を頑張ればニューヨークに行けるって確信した。家族や友達より音楽が好きだったかというと、そこまでじゃなかったけど、―幼心に長く付き合っていくものだとはわかったよ。人生を通して愛情を深め合いながら、音楽とともに旅して行くんだろうなって」
そう言われてみれば、僕も音楽に対して、以前同じような感情を抱いていた。我を忘れるくらい音楽にのめり込んでいく感覚が大好きだった。―でも、それって現実からの逃げだよなって思った時から、僕の中で何かが変わった。我を忘れないように自制をかけ始めたんだ。逃げの道具に使うなんて、音楽に対して失礼だと思ったし、自分に対してもフェアじゃないと思った。
ヨハンは続ける。「ぼくは自分に言い聞かせたよ。抜け出すっていうのは、逃げるわけじゃないって。それに昔とは違って今は電子機器もあるからね。ぼくは故郷を離れて、地球を半周してここまで来たんだよ。わかる? でも毎日電話できるし、ぼくが望めば、毎日ビデオ通話だってできる。大事なポイントはね、『ぼくが望めば』ってところだよ。自分で選択できるんだ。ぼくは抜け出したけど、完全には抜け出していない。つながりたいと思えば、いつでもつながれる」ヨハンが少し間を置いた。「これは君への答えになってないね。どうやって要塞から抜け出すか、だよね? ぼくの場合は、いつでも必要な時に家に帰れるって自分に言い聞かせること。それから長く付き合っていける愛すべき何かを見つけること。他の誰かになろうとしてみるっていうのもありだね。べつに過去の自分に背を向けるって意味じゃないよ。窮屈な自分という殻に囚われすぎないってこと。心を広げる感じで、新たな風を入れるんだ。そうすると、ずいぶん呼吸もしやすくなるはずだよ。ぼくの故郷ケープタウンから、ここニューヨークシティまではるばるやって来なければ、心は広がらないのかって言われれば、ケープタウンに残っていても可能だったでしょう。方法なんていくつもあって、チケットだってたくさんある。ぼくが握り締めたのが、このチケットだったんだ。ぼくは手放さないよ。夢を追いかけてここまで来たんだし、手に持っている限りチケットは有効だからね。だから君も夢を追いかけたらいいと思う」
「そういうのって素敵ね」とリーが言う。「でもね、夢を追いかけるって、実は自分を煙に巻くのに最適な方法なのよ!」
「どういう意味?」とヨハンが聞く。僕も同じことを聞こうと思ったところ、先を越された。
「そうね、考えてみてほしいの。夢を追うってみんな言うけど、夢は自分の外側にあって、それを追いかけなさいって言ってるように聞こえるのよ。実際はそうじゃなくて、頭の中で考えていることに従えってことでしょ。―でも、そんな直接的な言い方はできないわよね。自分の考えに信頼を置けるかどうかもあやしいし。それでみんな、夢を追えって言うんだけど、―そこには見事なほど、すっかり抜け落ちてる前提があるのよ。想像してみて。夢っていうのは私たちの内側にあるものなの。宇宙から降り注ぐ光みたいな夢を、心の受信アンテナで察知するようなものじゃないでしょ。―夢って完全に自分の心から湧き出てくるものなのよ。だから、夢を追いかけようって自分に言い聞かせるのって、自分の気持ちに従ってもいいよって言ってるのと同じなの。自分の気持ちに従う、大いに結構ね。―それじゃあ、一つ例を挙げるわね」
彼女はイルサの顔を見た。「私の場合、夢を見るっていうのは、あなたのことを考えることなのよ、イルサ。あなたともっと仲良くなりたいなって本気で思ってる。今までの私たちの関係より、もっとずっと素敵な関係を築きたいって。その夢を追いかけた結果、私はあなたにキスしちゃったの。本心を言えば、私の中にはいつでもあなたにキスしたい気持ちがあって、ついに、その気持ちに突き動かされちゃった。自分でも抑えられなかったわ。勝手に扉が開いちゃった感じ。でも、開いた扉に入って行くかどうかは、―私たち次第よね」彼女の視線が僕に戻ってきた。「どうやって抜け出すかでしょ? そのうち自然に扉が開くから、そこから抜け出ればいいの。頑張らなくても自然に開くから大丈夫」
彼女がもう一度イルサを見る。僕もつられてイルサを見る。二人はキスをしてるのか? また僕の中で意見が割れた。それなら応援しよう、と思う一方で、僕と同じ領域にイルサも足を踏み入れるっていうのは、正直止めたい気持ちもあった。
「自然にって、ちょっとふさわしい言葉じゃない気がするな」とカスピアンが言う。「もちろん、自然に変化していく人もいるけどさ、それって全ての人ができることじゃないよ」
「あなたも〈人〉の部類に入るわけ?」とKKが聞く。「だとしたら、お値打ちものね」
カスピアンは彼女を無視して、ボタンでできた目を僕に向けた。
「君はこっそり手を貸してくれる仲間を見つけないとだね。抜け出すって結構...大変なんだよ。周りの人って、この子はこういう子だって簡単に決めつけちゃうところがあるからさ、周りの期待に外れたことをすると、うちの母さんみたいに混乱しちゃうんだ。あるいは、うちの父さんみたいに、激怒する。ボクの生い立ちを話すのは結構、つらいよ。なにせ、こんな立派なマンションで育ったわけじゃないからね」
「タンスの引き出しの中で育ったとか?」KKはどうにも抑えが効かないらしい。
「そのだらしのない口を開くな!」とカスピアンがKKに向かって怒鳴った。それから彼は僕たちの方に向き直って、言った。「謝るよ。彼女と関わりを持ったのは、いろんな意味で間違いだった。なんて言うか、ボクが育った家はもっとずっと...質素だったんだ。ボクの父は建物の清掃員で、母は100円ショップでレジをやってる。当然、両親はボクも働いて家計を助けてくれると期待した。ボクは働いたよ。家にお金も入れた。でもね、ある時気づいたんだ。この状況って...なんか違うよなって。両親はわかってくれなかったよ。何度か父さんに掛け合ってみたけど、取り合ってもらえなかった。ボクは何年もそんな状況から抜け出したいって思っていたんだ。でもさ、抜け出すって大変なんだよ。お金もいるし、ボクはまだ中学生だったから、お金なんてあるはずもない。っていうか、今だって、そんなにないんだけど」
彼はそこで一息入れてから、続けた。「けど母さんがいてくれたから、―母さんがこっそり手を貸してくれたんだ。秘密の仲間って感じかな。こそこそ隠れて、情報をもらってさ、―内通っていうのかな、家を出る準備を着々と進めてくれた。抜け出すには、ちゃんと秘密を守ってくれる口の堅い同志が必要なんだよ。あそこがボクのいた要塞に他ならないね。君ならわかってくれると思うけど」
僕は頷く。
「君は一人じゃないよ、サム。世の中には、まるっきり一人って人もいる。ボクも最初は一人ぼっちだと思ってた。でも周りをよく見たら、そうじゃないってわかったんだ。君はすでに仲間がこんなにいるじゃないか。中には、理解するのに時間がかかりそうな人も混じってはいるけど、ごく一部に」―そう言うと、彼はKKを見遣った。―「時間をかけてもわからないかもしれないね。君のことをわかってくれない人は放っておいて、前に進めばいいんだよ」
「あたしは全然わからないわ」とKKが言う。「ってことは、あたしを除け者にするってことかしら?」
カスピアンが大きく頷く。「その通り」
KKがため息をついた。「靴下に足蹴りされるみたいに、見捨てられるなんてね! まあいいわ、そのうちこうなることはわかってたし」彼女がイルサを睨み付けた。「さてと、―あたしもあなたとそういうこと、したことあったわよね。あなたはどうなの? 幸せ? なわけないか」
「ふられた腹いせに、私に八つ当たりしないでよね」とイルサがきっぱりした口調で返す。
「あら、どうして?―あなたの大切なお兄ちゃまがお尋ねなさってるのよ。応えてあげないなんて、そんなの失礼でしょ」
イルサは何も応える必要ないって言おうとしたんだけど、その前にKKの荒々しい声がほとばしる。
「しょうがないわね! みんな興味深いこと言ってるなって聞いてたけど、みんなの話を聞いていて、あたしがどう思ったかわかる? 抜け出すって馬鹿じゃないのって思ったのよ。だってそうでしょ、抜け出すもなにも、みんな好きな時に好きな場所へ行けるじゃない」
「おお、天からの啓示のようだ! 目から鱗が落ちたよ」とパーカーが割って入る。「おそらく君が、そのことに気づいた歴史上初めての人、かもしれない」
「あたしが言いたいのはね、サム。問題はここじゃなくて、―問題はあなたなのよ。あなたが欲しいものを言ってごらんなさい。あたしはこの街で必要なものは何でも手に入るわ。どこへも行く必要ないの」
「そりゃ、お前はお金があるからだろ」とパーカーが指摘する。
「そうよ、あたしはお金持ちだからよ」
「他のみんなはどうすればいいんだよ?」とパーカーが聞く。
「そうね、もっとお金を稼げばいいんじゃないかしら」
「そんなの何のアドバイスにもならない」とパーカーが言う。
「私、思ったんだけど」とリーが間に入る。「どうしてみんな自分の要塞から抜け出したいって、そんなに頻繁に思うのかわかったんだけど、そうしないと、ここが全世界だって簡単に思い込んじゃうからよ」
「なあに?」とKKが何も知らない子供みたいな言い方で言う。「ここが全世界じゃないの?」
「壁を作ろう!」とパーカーが言う。「それがいい! 安全地帯の周りに壁を作ってしまえば、もう二度と抜け出したいなんて思わなくなるから! 自分自身と自分が最も恐れているものの間に壁を作るんだよ。そうすれば、見たくないものを見なくて済むだろ。そうだ、内側に壁を作るっていう手もある。表に出てきたらまずいって最も恐れている自分をそこに閉じ込めてしまうんだ。―そうやって壁を作ってしまえば、嫌なものは目に入らなくなる! 自分の好きな友達だけを囲って、お気楽に過ごしていける。―KK、お前の狙いはそれだろ。―ただ、そううまくはいかないよな、みんなすぐに抜け穴を見つけちゃう、だろ?」
KKはいつもの調子で反撃を開始しなかった。彼を笑い飛ばしもせず、弾が切れたかのように、黙って彼を睨んでいる。痛いところを突かれたのかもしれない。KKは援護射撃を求めるように、イルサの方を見た。
パーカーが振り返って、僕を見る。「これは君にとってチャンスなんだ」と彼が言う。「自分の道を切り拓くんだよ。こんなチャンス、今まで一度もなかっただろ。君の目の前には白紙の未来が広がっている。勇気を振り絞って、踏み出すんだ。さっきできたじゃないか、そのグラスを壁に投げつけたみたいにさ。―君は18歳で、まだ見ぬ世界へ突き進むんだ。割れたグラスは元には戻せないけど、君は引き返すことだってできる。ちょっと進んでみて、なんかこの道は合わないなと思えば、また違う道を探せばいい。とにかくここから出発することが肝心だ。あとは即興演奏みたいに、帳尻を合わせながら進めばいいんだ。家を出なければ、演奏自体が始まらないってことだよ」
グラスのことは言わないでほしかった。グラスはもう元には戻せないんだよな。後悔の念がふつふつと胸の内で湧き上がる。
僕はイルサの方を向く。「君はどう思う? この問題に関して、君の考えを聞かせてほしい」
今のイルサの頭の中には、凄くたくさんの考えが駆け巡っている。僕はそう感じたから、今だと思って、彼女の意見を聞いた。彼女が黙っているのは、決して上の空で他のことを考えているからじゃない。むしろ真剣に議論に参加し、いろんなことを考えているからこその沈黙なんだ。それが僕にはわかったし、彼女の考えていることを知りたかった。それから、彼女にも抜け道を見つけてほしいというのもある。僕と同じ抜け道じゃなくたっていい。―というか、違う道を歩むことになるだろう。それはわかってる。でもとにかく、彼女も一緒に巣立たなくちゃ。
「あなたは私に巣立ち方を教えてもらいたいの?」と彼女が聞いてくる。
「そうだよ」
彼女は首を振る。「そんなこと、私が知ってると思う? サム。私が家を出る時はいつだって、あなたと一緒だったじゃない」
衝動的に、そんなことない、と言い返したかったけれど、思い返してみると...いつも一緒だった場面しか思い浮かばない。例外は、キャンプで僕が先に帰っちゃった時くらいだな。―ということは、僕たちはお互いに手と手を取り合って、この要塞の外へ出ていたのか? 僕に関して言えば、一人で遠出したことも1回か2回あった。―でも女帝は、イルサが一人で出かけることは絶対に許さなかった。(僕には一人旅が「救い」になると思ったのだろう。)ニューヨーク市内を遠足みたいに見て回った時も、女帝はイルサの付き人として僕も同行させた。ある時、市内のクラブで(僕の好きな)ルーファス・ウェインライトのライブがあって、イルサを連れて行ったことがあった。アーサー・ラッセルのチェロ曲を彼なりに解釈して、歌詞をつけて歌っていた。ライブの途中、男女共用トイレに入ったとき、個室の壁に書かれたイルサからのメッセージを見つけた。サム、なんかすごく遠くまで来た気がする。ヒューストンとかまで来ちゃったみたい。早くアップタウンに帰って、ピザでも取りましょ。僕が彼の歌に心酔しているのを横で見て、彼女は直接言えなかったのだ。別の時、イルサがクイーンズ地区に行って、クリスマスの壮大な飾り付けをしている家々を見たいと言った。それなのに、僕は家でディナーパーティーをやった方がいいよと提案した。みんなにクリスマスの飾りを持ち寄ってもらって、自分たちで飾り付けをしようと言って、彼女を納得させた。イルサはライブに付き合ってくれたのに、僕はクイーンズ地区は遠いし、外は寒いという理由で、彼女の気持ちをないがしろにしてしまった。
マディが口を滑らせて、イルサが住み込みのお手伝いさんになると言ったとき、最初僕は羨ましかった。―マディと長い時間一緒に過ごせていいなとか思ったわけではなくて、イルサがここに留まる術を見つけたことを羨んだ。でも、それについて考えれば考えるほど、なんだか気が重くなっていった。イルサを呼びつけて、「過去にしがみついてると、未来を犠牲にすることになるぞ」と言ってやりたかった。だけどその時、僕は同じことをイルサに言われたら...と想像した。僕はうまく反論できる自信がなかった。音楽を勉強するためにマンハッタンに残るんだよって言えば、それらしく聞こえるかもしれない。でも実際は、他に行くところも思いつかないから、僕はマンハッタンに留まろうとしているだけなんだ...そんなことを考えていたら、イルサを非難するのは得策ではないと思えてきた。
このさよならパーティーを開こうと思ったのは、最後にみんなでパーッと騒いだら、ここを出る覚悟ができるかもしれないと、心のどこかで期待したからだ。自分でも気づかなかったけれど、たぶん僕がジェイソンを招待したのは、過去へさよならを言うためだったのだろう。それから、僕がパーカーを招待したのは、イルサにも過去へさよならを言ってほしかったからだろう。そしてヨハンを招待したのは、何かしら未来の兆しが見えるかもしれないと思ったからだ。ただ...そんなに単純でもないな。ただの靴下がカスピアンに変身する姿が体現している。―物事は、そこに込める感情に比例して、単純にも複雑にもなるんだ。
「僕たちは新たな世界への扉の前にいるんだ」と僕はイルサに言う。「向こう側に広がっているはずの、今とは違う景色を見たくないか?」なんか、これから二人で死後の世界へ行こうって言ってるみたいだな、と不安になって、具体的に言い直す。「僕はこのアパートメントが好きだよ。―本当に、心から、狂おしいほど大好きだよ。僕たちはここを豪華絢爛なお城みたいに使ってきた。多くの人ができることじゃない。女帝がそうさせてくれたから、やってこれたんだ。何度もディナーパーティーを開いて、僕たちはこの世界にいるんだって粋がってきた。だけど、いつまでも虚勢を張ってここに留まっていることが、答えになるとは思えない。君もそうは思わないか?」
17
イルサ
「私たちはどこへ行けばいいの?」と私は聞き返す。
サムが女帝の神聖なフルートグラスを割ってしまったからには、私たち兄妹はこの街から逃げ出す以外に選択肢はないでしょう。彼まで壊れちゃって、私たちは二人して見境のない双子ってこと? 女帝は、もちろん私を問い詰めるでしょうね。でも、結局は裏でサムと私を平等に𠮟って、私だけを責めたことの埋め合わせはしてくれる。ただ、女帝の憤りが収まることは、おそらく永遠にないわ。彼女って一旦何かにつかみかかったら、それはもうしつこいのよ。長きに渡って恨み続けるわ。彼女は実の兄と、それこそ何十年も口を利いていないんだから。サムと私が生まれる前からずっとよ。そういうのを頑固者って呼ぶのかもしれないけど、私に言わせれば、よくもまあ、そこまで熱心に憎めるわねって感心しちゃう。
「一緒に行くべきじゃないよ」とサムが言って、私は間髪入れずに「わかってるわ」と返した。私も、一緒に同じ場所へ行くのは良くないと思っている。正直に言って、私はちゃんと覚悟もできている。今夜が明ければ、明日からすごく長い期間、兄と遠く離れて暮らすことになっても平気。私たち二人のために、それがいいのよね。
1月の誕生日だけは一緒に過ごしたいわ。今まで18回も一緒に誕生日を祝ってきたんですもの。あれは11歳の誕生日だった。両親の勧めで、私たちはこれからずっとこの日だけは一緒にお祝いするって契約したの。両親が契約書を作ってくれて、二人でそれに署名したわ。―その契約書は額縁に入れて、両親の家のキッチンの壁に今でも飾ってあるのよ。―親の目から見ても、サムと私が誕生日だけは仲良くしているように見えたんでしょうね。実際それ以外の日は年がら年中、つまらないことで罵り合っていたから。契約書には、ケーキは一人一つずつ与えること、これから生涯に渡って、現実にどんな問題が起ころうとも、約束の日には必ず兄妹のもとに駆けつけることって書かれている。私もできるだけ長く、二人一緒の誕生日が続けばいいなと思っている。ただ、契約書のこの部分は何とかならないかしら? 毎年誕生日には二人仲良くセントラル・パークに1月のホッキョクグマを見に行って、サムと私が短パンとTシャツとスニーカーだけでボート乗り場の周りを走り回ることって。
「誕生日だけは一緒に過ごそう」とサムが言った。想いが通じて、私はすぐにまた彼が大好きになる。「僕たちはどこへ行ったらいいか、あの帽子に聞いてみるっていうのはどう? イルサ」
「帽子があったわね! そうしましょう!」と私は言って、椅子から跳び上がり、玄関ホールへ向かった。そしてコート類をかけてある小部屋から、頭の先が尖った長くて黒い帽子を取り出した。その間にサムはキッチンに行ったようで、インデックス・カードとペンを人数分手に持ち、私たちは同時にダイニングテーブルに戻って来た。さらにサムの手には、新たにシャンパンボトルも握られている。
「それってカクテルベースのシャンパンでしょ? あたし好きじゃないのよね」とKKがぼやく。
「女帝はカクテルベースかどうかなんて気にして買ってないよ」とサムが返す。「僕は女帝の大切なシャンパングラスを故意に割っちゃったから、そのお詫びとして、今度はシャンパンのグレードを落として、Cランクのボトルを冷蔵庫から持って来たんだ」ちょっとしゃっくりしながら彼は言う。いい感じで酔いが回っている様子だ。「カリフォルニア・ブリュのシャンパンだよ」
両親がワイン愛好家のパーカーが、驚いたように言う。「女帝は冷蔵庫に国内もののシャンパンも入れてるのか?」
サムが答える。「そうだね。でも、たまにしか出さない。彼女の顧問弁護士が来た時とか、あとは、スタンウィック邸の管理組合の人が来た時に出す用みたい」彼が私を見る。「帽子の説明はイルサがする? それとも僕がしようか?」
KKがしゃしゃり出てくる。「あたしが説明するわ。あんたたちだと話が長くなるから。ある年のハロウィーンのことでした。サムがハリー・ポッターで、イルサは組み分け帽子に扮しました。組み分け帽子ってハリーポッターの登場人物ね。そして、その時の帽子を取っておいて、家族パーティーでゲームをする時に使うようになりました。〈世界旅行〉っていう、すごろくみたいなボードゲームで、アニメの『ドーラといっしょに大冒険』みたいな、子供向けのしょうもないやつよ。実際はどこにも行かないんだけど、気分だけは世界中を冒険しながら旅して回るっていう空想ゲーム。すべては魔法の帽子の思し召しでね」
「ギュッと濃縮した熱い説明ありがとう、KK」とサムが言う。「ゲームのやり方も君が説明する? それとも、そんなにしょうもないゲームなら、僕の部屋に行って寝ててもいいよ。ジェイソンも添い寝仲間ができて喜ぶと思うから」
KKは、その提案を鼻であしらうように一蹴した。私もそれだけはお断りだわ。それから彼女は言う。「あたしはここに残るわ。もし女帝が今にも帰って来て、その時にいなかったら、修羅場を見逃すことになっちゃうじゃない。あんたが彼女のグラスにしたことを見たら、女帝はどうなるでしょうね、サム」ああ、それを言っちゃうんだ。親愛なるKK、あなたを敬愛する理由はどこにも見当たらないけど、私が慕ってあげなかったら、誰もあなたに見向きもしなくなっちゃう。KKはインデックス・カードにペンを添えて、テーブルを囲むみんなに配りながら言う。「いい? この緑のカードにどこでもいいから、場所の名前を書くのよ。そしてピンクのカードには、そこで手に入れたいものを書くの」
ヨハンが言う。「なんか、〈マッド・リブス〉みたいなゲームだね。カードで運命づけられちゃうみたいだけど」
「パステルカラーの淡い運命だから」とパーカーが、ピンクと緑のカードを見ながら言う。
「ペイストリーの運命、パン屋さんになる運命ってことね!」とリーが言う。「うちの両親は私を医者にさせたいんだけど、私はパン屋さんになりたいの。親は耳も貸してくれないから、とりあえず今は親に従って、将来的にはパン屋さんを開きたいなって思ってる。ねえ、ここに職業を書いてもいい?」
「素晴らしい考えだね」とサムが言う。「だけど、それはだめ。その場所にちなんだものとか、その場所でしかできないことを見つけようっていうコンセプトのゲームだからね。それに、自分が書いたものが誰に当たるかわからないんだ」
リーが少し眉を寄せる。
「でも、リーはすごく上手にパンを焼く職人さんになると思うけどな」と私はフォローする。「それから、場所の名前は、世界地図に載ってる現実の場所にしてね」
サムが続ける。「つまり、こういうのはだめ。歌のタイトルから取った『敗れた夢が転がった大通り』とか、『遠い遠い銀河の彼方』とか、『サロメ嬢の脇の下』とか、わかった? KK」
私は言う。「手に入れたいものは、大体なんでもOKなんだけど、―」
カスピアンが言う。「そんなに制限があったら、なんでもOKってことにはならないよ」
彼の頬をぴしゃっと平手打ちしようかとも思ったんだけど、靴下がふにゃって曲がるだけで、手ごたえがなさそうだったのでやめた。
私は続ける。「スマホとかパソコンとかの電子機器以外なら、何を書いてもOKよ」
「私が腕にはめてるウェアラブルの〈フィットビット〉は?」とリーが聞く。
「それってどういう腕時計?」とサムが聞く。
「腕にはめて行ってもいい?」とリーが言う。
「あんたね、実際にどこかに行くわけじゃないのよ。座ってるだけなのに、歩いた歩数計ってどうするのよ?」とKKが言う。「いいんじゃないの、書きなさいよ。フィットビット:ムームードレスにぴったりのアクセサリーで、腕にはめてるだけで瘦せるリストバンド。目指すは夢のランウェイって」
私は答える。「フィットビットは堂々と腕にはめてて。だけど、魔法の帽子に入れるカードには書かないで。テクノロジーが導く選択肢はなるべく少なくしたいの」
「あ!」とヨハンが紙にペンを落としながら言った。「いいこと思いついた」
私も自分のチョイスを紙に書く。―パリと野良猫。(私のドレスに描かれている虚ろな瞳のジェラルディンが、パリの道端に佇む姿が浮かんだから)
「このジェルペン、夢のような書き心地だわ」とリーが言う。「手がすごく気持ちいい。性的興奮に近いかも」
サムが言う。「女帝はペンの収集家なんだ。それは彼女のお気に入りの一つで、東京のオフィス用品店で買って来たものだよ。彼女は東京にもよく行くからね。そのたびに何十本も、違うスタイルのペンを持ち帰って来るんだ」
「なんてこと!」とリーが声を上げる。「ちょうど今、私の行きたい場所として、東京って書いたのに。他の場所にしなくちゃじゃない」
そのまま東京にしておいても問題なかったと思うけど、そうやって声に出して宣言しちゃったら、もう無理ね。リーは書いたばかりの単語に横線を引くと、もう片方の手で見えないように隠しながら、空きスペースに別の地名を書いている。
みんなすっかり酔っているからなのか、それとも、みんなすっかりカスピアンに慣れきってしまったのか、そこまでの器用さを持ち合わせていないカスピアンに代わって、フレディが文字を書いているのを見ても、誰もつっこみを入れない。みんな優しいな、と一瞬思ったけれど、フレディが、くだらないジョークでも言えるものなら言ってみろ的な目を、チラチラと周りに振りまいているからだとわかった。
みんなが各々選んだ地名と物を書き終わったところで、私は帽子を抱えながらテーブルを回った。次々とインデックス・カードが帽子の中に落ちていく。「最初に引きたい人?」
カスピアンが体全身を空中に突き上げる形でアピールした。私は彼に歩み寄る。フレディが空いている手を帽子の中に突っ込んだ。
「緑のカードとピンクのカードを一枚ずつ取ってね。もし自分が書いたものを引いちゃったら、それは帽子に戻して引き直して」
引いたカードを見た瞬間、カスピアンがうめき声を上げた。「これはどっちもボクが書いたものじゃない。こんなのボクが書くはずないよ」
「何を引いたの? カスプ」とKKが彼に聞く。
「北朝鮮と、肉厚のパストラミ・サンドイッチ。で、ボクはこれをどうすればいいわけ?」
「ニューヨークのデリカテッセンでパストラミを買って来て、北朝鮮の抑圧されてる人たちに配るのよ」とリー・チャンが言う。「明らかに、ヒューマニズムに基づく人道的なことをせよっていう思し召しね」
「パペットニズムに基づく人形的なことじゃなくて?」とヨハンがカスピアンに視線を向けながら言う。
「っていうか、その国の人たちはプロレタリアートだろ?」とパーカーがさらに言い換える。
「うるさい」とカスピアンが声を荒げる。「ボクは北朝鮮なんか行きたくないんだよ」
「その前に靴下パペットが一人でパスポートを取れるかな―」とパーカーが言う。
「黙れ!」とカスピアンが、シーッと口に指を当てたつもりのジェスチャーをする。
「彼は『靴下パペット』って呼ばれるのが好きじゃないのよ」とKKが言う。
「黙れ!」とカスピアンが繰り返して、今度はKKに向かって、シーッのしぐさをする。
「卑下しないでっていうか、自分を嫌うのはやめてさ」とヨハンがカスピアンに助言した。「自分のアイデンティティを受け入れようよ」
「靴下を受け入れても、中身は空っぽだしね」とKKが言う。
このゲームは、こんな集中砲火を意図したものではなかったはず。私は次の人に移って、カスピアンを矢面から解放してあげることにした。「北朝鮮から出ましょう。大勢の恵まれない人たちが、パストラミ・サンドイッチを待ち望んでいるでしょうけど。そして、カスピアン、あなたがサンドイッチを分け与えれば、あなたは神として、彼らの目に映るでしょうけどね」そう言ってから、私は帽子を次の人に差し出した。KKがピンクのカードと緑のカードを引く。
「おお、マイアミ!」と彼女が叫んだ。
「よく見て」とサムが言う。どういうわけかサムは、このゲームでカードにどう書けば、KKの興味をそそるかを心得ていて、あえてKKに選ばせるように書いているふしがある。
KKがカードの下隅を見ると、もう一つ単語が書かれている。「マイアミ...オハイオ?」彼女はカードをサムの前へ放り投げる。「何よ、これ? フロリダのマイアミビーチかと思って喜んだら、オハイオのマイアミ?」
「オハイオにあるマイアミ大学だよ」とサムがしたり顔で答える。KKはもう一方のカードを見る。「今度はメトロノームですって。そんなもの現実にあったかしら?」
「あるでしょ」とヨハンが言う。「そのカードもよく見て」
KKはカードに顔を近づけて見る。「ねじまき式メトロノーム? ちょっと、あなたがでっち上げた想像の産物じゃないでしょうね。風力発電の風車を回すのにメトロカードが必要ってこと?」
ヨハンとサムが笑った。サムは言う。「それはミュージシャンがテンポを保つために使う道具だよ」
KKが言う。「それってどこで使うわけ?」
パーカーが答える。「オハイオ州立マイアミ大学のタイムトラベル研究室で使ってるらしい。トップシークレットだけどな」
「タイムトラベルですって!」とKKが興奮気味に言う。「ちょうど今、私たちが話してることと関係あるじゃない。じゃあ今度は、どこへ行くかじゃなくて、いつの時代に行くかも組み分け帽子に聞きましょ」
「あなたはどの時代に行きたいわけ?」とリーがKKに聞く。
KKはためらう様子も見せず、即答する。「魔女狩りが行われていた時代のセイラムに行って、魔女裁判を見たいわ」
テーブルの周りにしばしの間、沈黙が訪れた。みんな彼女の意図を咀嚼するのに時間がかかっている様子だ。仕方ない。「なんで?」と私は聞く。
「セイラムの魔女裁判の絵を見たんだけど、彼女たちが被ってた帽子が素敵だったの」とKKが答える。「小さめの白い帽子で、あごの下でリボン結びしてるのよ。すごく実用的だし、超かわいいわ」
もう次の人に移るしか彼女を止める術はないわね。私はヨハンの前に立つ。彼が帽子に手を沈めて、カードを引き抜いた。
「ノバスコシア。そして野良猫」
「ジェラディン!」とカスピアンが興奮した猫みたいな声を出して、「それって君が書いたんでしょ」と私の方を見た。カスピアンに超能力も備わったらしい。
ヨハンが言う。「正直言って、ノバスコシアってどこにあるのか、ぼくにはわからないな。小説の中に出てきそうな地名だけど」
リーが返す。「ある意味、小説の中の地名でもあるわ。『赤毛のアン』シリーズの舞台になった場所だからね」と彼女は歌うように言う。「あのシリーズは人類史上、最高傑作だわ!」
サムがヨハンに聞く。「君はアメリカ人だって思われようとしてる?」
「全く!そんな気持ちはないよ!」とヨハンが大声で答えた。
「カナダはすぐ北の隣国だからね。カナダの地名くらい知らないと、アメリカ人じゃないってすぐにばれる」とパーカーがヨハンに言う。
「ってことは、ノバスコシアってカナダの地名?」とヨハンが聞く。
「その通り」と、みんなが声を上げた。
ヨハンは言う。「じゃあ、ぼくはそこで野良猫と一緒に楽しく過ごすよ。その猫はぼくにとって、音楽の女神かもしれない。猫が跳ね回ってる中で、ぼくはたくさんのメロディーを作曲するんだ。バイオリンケースの中で気持ちよさそうに昼寝してる猫を横目に、路上で演奏もするよ。究極に愛らしい寝顔に、道行く人たちが立ち止まってくれる。それでぼくの奏でるメロディーに引き込めば、何ドルかコインを投げ入れてくれるってわけ」
「なんか、猫をバイオリンケースに入れて外出するのって、ドリー人形と付き合ってるのに、こっそり浮気するみたいだね」とカスピアンが指摘する。
ヨハンが返す。「大丈夫。ドリーはきっと野良猫を住まわせることに賛成してくれるよ。猫がぼくの相手をしてる間、彼女は作曲に専念できるし」
「今度は俺の番だな」とパーカーが言う。
私は彼のところに行き、彼がカードを2枚引いた。
「ブータン...それから、スランケット? スランケットって何?」
リーが言う。「あれ最高なのよ! 長いブランケットっていうか、パジャマみたいなものね。全身をすっぽり包み込んでくれるの。ファスナーで締めることもできて中は快適、着心地抜群よ」
「ブータンってどこ?」とカスピアンが聞く。
「インドの近くかな?」とパーカーが首をかしげて、確認するようにリーを見た。彼女がアジア人だからというよりは、彼女がこの部屋の中で一番賢い人だからだと思う。
しかし、リーは肩をすくめた。「名前は聞いたことあるけど、詳しくは知らないわ」
私たちに詳しい情報を教えてくれたのは、KKだった。「そうよ。ブータンはインドの近く、ヒマラヤ山脈の高地にある国で、ネパールとチベットの国境辺りね。仏教の王国で、修道院とか砦がたくさんあって、山と谷が入り組んだ地形は目を見張るほどの絶景よ。贈り物としてスランケットを持って行くといいわ。あそこの人たちはすごく貧しいんだけど、世界で一番優しい人たちなのよ。彼らにとっては贅沢品だけど、西洋の物なら喜んで使ってくれる。スランケットのポケットに鉛筆をたくさん詰めて贈れば、子供たちも喜ぶわ。―あの子のキラキラした満面の笑みが目に浮かぶわ。鉛筆を贈るだけなんだから簡単でしょ」
再び、テーブルの周りに沈黙が訪れた。今度は彼女が示した意外な慈悲の心を咀嚼するのに時間がかかっている様子だ。「君はブータンに行ったことがあるのかい?」とサムが彼女に尋ねる。
「あるわ」とKKは答える。「私はリハビリに行ってるってことにしてるの。うちの両親は周りの人たちにそう言ってるはずよ。だけど実際は、私は魂の探求に行ってるの。それからね、あそこで山登りすると、ふくらはぎが鍛えられて、自分でもうっとりするくらい脚線美になれるのよ」
「たまに思うんだけど、君ってお気楽に生きてるよね」とサムがKKに言う。
「うるさい、ボケ」と彼女が言い返した。
サムが魔法の帽子に手をうずめる。「僕が今から行く場所は...プラハ! そして持って行く物は...ボウリングのボール? ボウリングは大好きだけど、あの重い球を持ったまま、プラハの街を歩いてボウリング場を探し回るのか。一緒にボウリングをしてくれる人も見つけないと―」
「カスピアンと一緒にボウリングをすればいいじゃない」とKKが言う。「きっと見事な投球を見せてくれるわ」
「逆に、球に押しつぶされちゃうかも」とヨハンが言い足す。
「それが狙いよ」とKKが言う。
「ボクの右側に座るこの怪物は、もはや人間の情というものを持ち合わせていない」とカスピアンがKKを指して言う。
「あたしの左側のこの怪物は、靴下人形のボケには、最初から人間の情なんてないってことを、感覚だって微々たるものだってことを思い出した方がいいわね」
「もっとシャンパンちょうだい」と言って、パーカーがグラスを持ち上げる。「こうして飲んでれば、じきにここにいる全員の感覚がなくなるよ」
サムが彼のグラスにシャンパンを注いでいる間に、私はリーのそばに歩み寄って、帽子を差し出す。彼女がカードを引いた。「カリフォルニアのサン・ホアン・バティスタ。そして、一輪車。サン・ホアン・バティスタってどこかしら?」
サムが言う。「中央カリフォルニアだよ。中央で合ってるよね? KK。あそこでヒッチコック監督の映画『めまい』の重要なシーンがいくつも撮影されたんだ。教会の多いミッションタウンだね」
「それより重要なのは、」とパーカーが言う。「カリフォルニアのギルロイが目と鼻の先にあるってこと。ギルロイっていえば世界一のニンニクの聖地だからな。あの辺りは香ばしくて甘い匂いに包まれているんだ。一度行ったら、また行きたくなること間違いなし」
「ペンシルベニア州のハーシーよりいい匂い? そこにはチョコレート工場があって、町全体がココアの香りに満ちてるんでしょ?」とヨハンが尋ねる。
「そりゃ、ギルロイの方がいい匂いだよ!」とパーカーが言う。「今までに食べた極旨のパスタが全種類並んでるような匂いがするんだ」
「あたしの前で炭水化物の話はしないでちょうだい!」とKKが叫んだ。けど、誰も取り合おうとはしない。
「じゃあ、私はサン・ホアン・バティスタからギルロイまで、一輪車に乗って行くわ!」とリーが嬉々として言った。「きっとギルロイに着く頃には、すっごくカロリーを消費してるでしょうから、思う存分スパゲッティを食べられるわ。めっちゃニンニクを載せて食べるわよ。ああ、私、この〈世界旅行〉っていうゲームが気に入っちゃった」
私のお気に入りのゲームを彼女も気に入ってくれた。ますます彼女が好きになっちゃう。
さてと、残るは私だけね。私は自分の席に戻り腰を下ろしてから、中に残っている2枚のカードを取り出した。「アンダルシア、そして編み糸」なるほど。最初のカードはパーカーが書いたものに違いないわ。そして、2枚目のカードはリーが書いたものでしょう。この組み合わせで、魔法の帽子は私にどんなメッセージを伝えようとしているのかしら?
「アンダルシアって実在の場所じゃないでしょ」とKKが言う。「誰かさんが適当に作った地名ね。妖精の国みたいな響きだし」
「アンダルシアは実在するよ」とパーカーが言う。「スペインの最南端にあって、海の向こうはアフリカ大陸のモロッコだよ。アンダルシアはフラメンコダンスの発祥の地なんだ」そう言うと、彼が私を見て、にっこりと笑顔を投げかけてきた。ああ、その笑顔で見られたら、私はまたとろけちゃいそう。「イルサのフラメンコは最高なんだ」
私は社交ダンスの大会ではそんなに抜きん出たダンサーではなかったけど、私が最高に私を表現できたのは、フラメンコを踊っている時だった。フラメンコは、官能的でパワーがみなぎっていて、何といっても女性が主役のダンスだからね。サムが言う。「それ、悪くない考えだよ、イルサ。しばらくスペインに行ってさ、君が愛してやまない芸術、フラメンコを学んで来たらいいよ!」
リーが言う。「それとも来月、夏休みに入ったら、私と一緒に台湾に来る? 編み物留学っていうのはどう?」
台湾! なに、その編み物留学って? 私みたいな人がじっと縮こまって編み物なんて、そんな姿を誰が想像できるっていうの?
ヨハンが聞く。「台湾って編み物の学校で有名だったんだ?」
リーが答える。「いいえ。でも私のひいおばあちゃんが編み物の家元で、編み物教室をやってるのよ。私は毎年夏休みに彼女の家に行って、数週間みっちり編み物を習ってるの。だからイルサも一緒に行きましょ。マンハッタンの外側の世界にはどんなものがあるのか、自分の目で確かめるのよ。あなたが全く知らない異国の地に、思い切って足を踏み入れるの。そして、マフラーの編み方を習いましょ」
マンハッタンは、それ自体で完結している巨大な宇宙みたいなものだから、私は旅行でさえ外に出ようなんて考えたこともなかったし、ましてやどこか他の場所で生活するなんて。いや、それは違うわ。真剣に考えてみたことはある。ただ、―具体的にその望みを実現するにはどうしたらいいのか、現実的な構想を巡らせたことはなかった。つまり、私をどこか他の場所へ連れて行ってくれそうな外国の大学にいくつも応募してはみた。だけどそれって、実際に行くつもりのない、ただのはったりだったの。私ができた精一杯の思い切った行為だったんでしょうね。気まぐれってわけじゃなくて、私はこの地にすっかり根ざしてしまったみたい。安全策ばっかり取ってるサムを私は非難してきたけど、もっとよく自分自身の内面も見た方がいいわね。
「私は飛行機代を払えないわ」と私は言う。ベビーシッターをしてお金を貯めてきたとはいえ、そこまでの貯金はない。
「きっとママとパパがかなりのマイルを貯めてるよ。女帝も頻繁に外国に行ってるから、イルサにマイルを譲ってくれるんじゃないかな」とサムが言う。「だけど、もし君とリーが、なんて言うか、友達以上の関係になろうとしているのなら、衝動的に彼女の実家を訪ねるっていうのは、結果として賢明な判断にならないかもしれないよ」
賢明な判断って、私が今までに賢明な判断なんてしたことあった?
っていうか、リー・チャンと私は友達以上の関係なの?
私たちの唇は重なったけど、ほんの一瞬の出来事だった。
だけど、その一瞬が私の知ってるすべてを一変させてしまった気がする。私自身も知らなかった別の自分が顔を出したような。
でも、私は急にレズビアンになったとかでもないと思う。
私は自分で思っていたほど、性的に真っ直ぐではなかったんでしょう。
このパーティーが始まる前、まだ外が明るかった時よりも、私は自分を開放したっていうか、心の受け皿が広くなったのね。
その時突然、ピアノの鍵盤が無造作に叩かれる音がした。私たちは首や腰を回して、そのずさんな音階が聞こえてくる方を振り返る。ジェイソンが、サムのピアノにもたれかかるようにして、鍵盤を叩いていた。彼が顔を上げて、こちらを向く。サムに演奏を命じていいのは私だけだって、ジェイソンは知ってるくせに、あえて言った。「この曲を弾いてくれ、サム」
18
サム
ジェイソンが(ひどい)演奏に歌詞を乗せて歌い出す。「キスはただのキス、ため息もため息でしかない、時が流れても、根本的なことはそのまま。」映画『カサブランカ』の曲だ。僕へのメッセージか? 僕たちはキスも、そしてため息もついてきた。振り返ってみると、キスはいつもわかりやすかった。ラブストーリーの定番だし、キスはロマンスを加速させる。だけど、ため息はいつでも僕を戸惑わせた。彼のため息は、喜びの吐息なのか、それとも失望の吐露なのか? どちらがより根本に近いのだろう?
僕はジェイソンの指にきつく叩かれている鍵盤を彼から解放してあげようと立ち上がるが、同時にヨハンも立ち上がって、「踊ろう」と僕を誘ってきた。
みんなが注目しているし、ジェイソンの手前、僕はイエスとは言えない。だけど、もう一方の理由から、ノーとも言えない。
どうしたらいいのかわからずに黙っていると、ヨハンが僕の手を取った。彼に連れられるように、僕は砕け散ったグラスの破片をまたぐ。僕が(壁との共同制作で)手がけた『割れたシャンパングラス』だ。するとヨハンが、モロッコのカサブランカで過ごす最後の夜のように、僕の体に腕を回してきた。ナイトクラブにいる誰もが、僕たちがこれから何をするのか見守っているようだ。最初、僕は段ボールでできた等身大パネルのように固まっていた。気もそぞろで落ち着かなかった。でも次第に、僕は音楽に合わせて、体を動かしてみる。演奏は相変わらず下手だったけれど、音楽に身を委ねるように、僕は自身の体をヨハンにあずけ、踊り出す。
寄りかかる彼の肩越しに、イルサがリーに手を差し出すのが見えた。リーがその手を取って立ち上がると、すぐに二人も踊り出す。それからパーカーが、きっとKKを困らせるためだろうけど、フレデリックに手を差し出した。そしてカスピアンが、こちらもKKへの当てつけだろうけど、パーカーの誘いを受け入れ、手を取った。
ジェイソンはもう歌っていない。僕たちはみんな頭の中で歌詞をつないでいる。こうしていれば、他の言葉が入り込む余地はない。言葉を交わす代わりに、僕たちは指先や体の動きに意識を委ね、ステップを踏み、腰を揺らす。
この曲は長い曲ではない。演奏が終わったので、僕は動きを止め、腕時計に目を遣る。もう夜中の12時を過ぎていた。
ヨハンが僕に言う。「これからもこういうこと、定期的にやろうよ」
それもいいかもね、と僕は思う。これもまた根本的なことの一つなのだろう。世界には葛藤やパニックが満ち溢れ、四方八方から欲求をかき立てられる。だけど、こうして二人寄り添うように、古き良き歌に合わせて踊っていれば、しばし世界に平穏が訪れる。―今までベールに包まれていた大事なことが、ふわっと目の前に立ち現れたようだ。これは後退ではなく、はっきりと前に進んだ実感があった。
鍵盤の執拗な要求に耐え切れなくなったのか、ジェイソンは椅子から立ち上がると、ピアノを離れ、レコードプレーヤーの方へ向かう。彼がスイッチを入れると、レコードの針がレコード盤にすっと落ちる。エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングが「やっと私たちの出番が来たわね」と言わんばかりに、ジャズの定番『The Nearness of You(あなたのそばに)』を歌い出し、トランペットを吹き鳴らした。
「なかなか、いい夜だったね」とヨハンが言う。―その言い方は、もうそろそろお開きにしよう、とみんなが思うような雰囲気にしたいみたいだ。
「そういえば、君にまだ屋上からの夜景を見せてなかったね」と僕は彼を誘う。
「それいいね、見たい」と彼が応える。「じゃあ、素晴らしい夜景を見に屋上へ繰り出しましょう」
パーカーとフレデリックがレコードを近くで聴こうと、ジェイソンのいるリビングへ行った。一方、KKはぽつんとダイニングの椅子に座ったまま、ふくれっ面をしている。即席のダンスホールに残っているのはイルサとリーだけで、二人はお互いのそば(Nearness)から離れようとしない。そのままそっとしておいて、僕とヨハンは部屋を出ることにした。
「ちょっと屋上に行ってくるよ」と僕はパーカーに告げる。「すぐ戻って来るから」
ジェイソンは気に入らないようだったが、不満を抑え黙っている。カスピアンが応援口調で、楽しんで来てね、と言った。
「ちゃんと要塞を抜け出ような」とパーカーが檄を飛ばす。
そうだ、と僕は思い出して、キッチンへ向かった。ヨハンは、そんなにお腹空いてないよ、と僕の背中に言ったけれど、いいから、ちょっと待ってて、と返して、僕は買い物袋を取って来た。玄関を出てエレベーターに向かうと、エラとルイの歌声が段々と消えてゆく。歌声は消えても、彼らの熱い精神は消えずに、僕らとともにエレベーターに乗り込んだ。
ロマンチックな気分にならなきゃ。僕たちはキスをするために屋上に来たんだ。ため息をつきに来たわけじゃない。だけど―
そんな気分にはなれなかった。
ただ時が過ぎてゆくことだけが感じられる。
この夜の根本的な真理にたどり着かなきゃいけないことはわかっている。
ただ、ヨハンを好きだと思う気持ちとは裏腹に、僕が見つけなきゃならない真理が彼だとは思えない。
「素敵な眺めだね」と彼が言う。幸いにも、彼は真夜中の摩天楼に釘付けで、僕を見ていない。
「悪くないでしょ」と僕は返して、袋からシャボン玉用の液体が入ったペットボトルを2本取り出す。ジェイソンが主催者への手土産に持って来てくれたものだ。1本をヨハンに手渡した。
「ああ」と、彼は僕のやりたいことを察して顔をほころばせる。
僕たちは蓋を開けて、ペットボトルに吹き棒を差す。夜にシャボン玉を吹くのは奇妙に感じられた。シャボン玉は夜の闇に溶け込んでほとんど見えない。―だけど、ちゃんとそこにあることを僕たちは知っている。
僕はマンハッタンの街路をめがけて、シャボン玉を吹き飛ばした。ヨハンの方を見ると、彼はシャボン玉に注目していなかった。―彼はじっと僕を見つめている。
夜の闇を吹き飛ばす目力があった。ヨハンが別人になったかのようだ。
「君はすべてを残して、ここを去る覚悟ができているのか?」と言って、彼は両腕を広げ、ニューヨークの街を包み込むジェスチャーをした。夜の街は、そんなジェスチャーには目もくれず無表情だ。
僕は彼に言う。「僕はずっと、君みたいにニューヨークに初めてやって来る人たちが羨ましかった。僕とは違って、この街のいろんなことが新鮮で、驚きに満ちているんだろうなって。ここが途方もなく桁外れの街だっていうのはわかってる。だけど、僕にはずっと日常の風景でしかなかった。言ってる意味わかるよね? こういう高層マンションに住んでるとね、―慣れちゃうんだよ。高地で暮らす人は肺が鍛えられるって言うけど、この街で暮らしてるとね、全身の組織が街の空気に順応しちゃう。全臓器がこの街仕様にチューニングされちゃうんだ。僕は他の場所のことは知らないからね。他の場所で暮らす方法も知らない。だけど、たぶん今だって思う。今を逃すと、この街が生涯に渡って僕の知ってる唯一の場所になってしまう気がする。僕と同い年くらいの若者たちが、みんな必死になってこの街にたどり着こうと頑張ってるのは、―十分過ぎるくらい理解してる。でも僕には、逆のベクトルが必要なんだと思う」
「どうして?」とヨハンは聞くと、吹き棒をくわえ、僕の方へシャボン玉を飛ばした。泡のパレードが迫ってくる。異議の唱えようという意図ではなく、好奇心から聞いたんだろう。
僕は自分の吹き棒で、シャボン玉の一つを受け止めた。「今までの人生ずっと、イルサと僕はこのストーリーの中で暮らしてきたんだ。悪くないストーリーだよ。むしろ上出来の物語だね。でもね、―いつも同じお話で、代わり映えがしない。それに、18歳はまだ若すぎて、自分のストーリーの決定版を書けるような歳じゃないから。もし18歳で自分のストーリーを書き上げたと感じたら、それは錯覚だよ。誰かが書いたストーリーを自分の物語だと思い込んでる。―少なくとも、部分的には誰かの受け売りだよ。君もドラマを見て、ニューヨークに行きたくなったって言ってたじゃないか。―君は、なんていうか、19時間飛行機に乗って、この街にやって来たんだよね? 君がそれまで一緒に過ごしてきた人たちから遠く離れて、昼と夜の時間帯も逆の、地球の反対側で暮らしてる」
「ぼくは巣を飛び立ったんだ」とヨハンが笑みを浮かべて言った。シャボン玉が一つ、まだ僕たちの間で漂っていた。
「そうだね。―君は巣を飛び立った。君は自分のキャラクターまでは変えてないかもしれないけど、巣立つことで、君のストーリーを変えたんだ。はっきりとね。そして僕も、―僕だって、そうする必要がある。そう思わない?」
彼はさらにシャボン玉を飛ばそうとしたけれど、棒の先で泡が弾けて、輪を描いて消えた。彼はもう一度、吹き棒を液体に浸す。今度は、泡の列が弧を描いて、かすかに煌めいた。
「やってみたらいいよ、自分の人生なんだし」と彼は言う。「結局失敗だったって後悔することになるかもしれないけどさ。君もすぐにわかるよ、知らない場所で一人暮らしをしてるとね、ふと強烈な寂しさに襲われることがあるんだ。ああ、こんなに遠くまで来なければよかったって。この街は大好きだよ。だけど、ぼくは起きてる時間の半分くらい、間違った選択をしたかもしれない、ああしておけばこうなっていたかもって、人生のバリエーションばかりを考えて過ごしてる。これから先もそれは変わらないだろうね、そういうバリエーションも人生の一部だから。でも、君が言ったように、ぼくは人生のこの段階で落ち着いてしまうよりも、外へ飛び出して冒険する方を選んだ。ちゃんと、冒険のお供っていうか、一緒に持ってきたものもたくさんあるよ。音楽でしょ、今まで練習してきた譜面とか、それからドリーもね」
「この街には同性愛の匂いがしたんだろうね」と僕は言ってみる。彼に向かって、お返しにシャボン玉を吹きかける。泡の一つが彼の髪に埋もれるように消えた。
「そうだね、同性愛の匂いがした。ぼくのそういう資質が根を生やせる土壌っていうか、生きていける酸素をくれる場所を求めて、この街にやって来たっていう面もある」
「ここはドリーが望んでいた街でもある」
「たしかに」
僕たちはまだ触れ合っていない。だけど、いつそうなってもおかしくない雰囲気はあった。
「君にキスしたい」と僕は打ち明けた。「でも、したくない気持ちもある。一旦キスし始めてしまったら、そのうち必ず、キスをやめなければいけないから」
「ぼくもまさに同じ気持ちだよ。もし君がこの街に残って、ぼくたちが付き合い始めたら、そのうち必ずっていうか、いつかたぶん、ぼくは君以外の相手を見つけてしまうから。でも君はこの街を出る気でいる。なら君自身の気持ちに従った方がいいし、それに、ぼくは君を引き留める要因にはなりたくないからね」
「そこまで気を回すなよ」と僕は言う。「僕らはまだ、そこまで大人じゃないだろ?」
彼が笑った。「いえてる」それから彼は身を乗り出してきて、僕にキスする。僕も彼にキスを返す。一瞬の口づけだ。手にシャボン玉用の液体を握りしめながら男の子とキスをしたのは、生まれて初めての経験だった。
「わかったよ、そこまで大人じゃない」と彼は言う。「ぼくは単に我慢できなかっただけ。気持ちに抗うこともできただろうけど、そこまで大人じゃなかった。大人になるためにも飛び出そう」
「新しい時代へ」と僕は言う。
「そう、新しい時代へ」と彼が同意を示す。
僕は無意識に、ため息をついていた。喜びの吐息ではなく、失望感がため息となってこぼれたわけでもなかった。酸素の薄い高層マンションの屋上で、僕は息苦しさを覚え、空気を大きく吸い込み、吐き出していた。こういう瞬間に、単に呼吸をして生きているだけの存在なんだな、と気づかされる。
僕は周りの建物をぐるりと見回す。ヨハンも僕につられて、ニューヨークの摩天楼を見渡す。爽快だった。暗闇の中にこんなにもたくさんの光が灯り、僕たちを囲んでいる。見る角度によって、光は様々な形に変化する。震え上がるような怖い気持ちもあったけれど、それ以上にすがすがしかった。
この摩天楼から離れて、新たに暮らす場所にも、すがすがしい気持ちになれるものがあるといいな、と想像を巡らせた。
女帝がパリの新居から窓の外を眺めているところを想像する。この夜景とは似て非なるものを見ているのだろう。慣れ親しんだ景色のようでいて、よく見るとどこか違う。通りから聞こえてくる街のざわめきも、耳をすませば、根本を流れる音楽は違っているはずだ。
イルサはここに残るのだろうか? 女帝も僕もいなくなった後のイルサを想像してみる。それは―
ああ、そんな彼女を思い浮かべると胸が痛くなる。
KKはここに居るだろうけど。
というか、KKと一緒だと余計に心配だ。
ヨハンの口から吹き棒が突き出ている。彼は夜の闇の中へとシャボン玉を吹き出した。まるで映画『カサブランカ』で、ハンフリー・ボガートがニヒルにたばこの煙を吹き出すようだ。
「黙り込んじゃって、何を考えているんだい?」と彼が聞く。
「ちょっと妹が心配で」
「妹のことも、君のこともよく知らないけど、なんとなく感じたのは、―たぶん君たちは、ちゃんと話し合った方がいいんじゃないかな? 君の選択は君が決めたことだから、そうすればいいけど、―彼女もそれに乗っかりたいなら、連れて行くっていうのも有りだよ。ぼくは友達を連れて来なくて失敗したんだ。ぼくの実体験から言って、あとから妹を取り戻そうとするより、今一緒に連れて行く方が断然楽だよ」
「失う前に知れて良かったよ」と僕は言って、妹を恋人みたいに言ってるな、と気まずくなり、慌てて付け加える。「君のことも知れて良かったよ」
「ぼくもだよ」と彼は言う。「これでさよならじゃないから、いい? ぼくたちはたくさん地下鉄を乗り継いで、ようやくめぐり逢えた。―まだ、ここが終点ってわけじゃないから」
僕は彼を軽く抱き締める。彼も軽く抱き締め返す。気をゆるめれば、簡単にその先の行為へ進みそうだったけれど、こらえた。僕たちはキスとため息の間で、どちら側にも倒れないように、上手くバランスを取って抱き合っていた。根本的にいい感じだ。
「たぶんもうそろそろ、ぼくは帰らなくちゃ」と彼は言うと、僕たちを取り囲む摩天楼を最後にもう一度見遣った。
「たぶんもうそろそろ、僕とイルサも答えを見つけなくちゃ」と僕は言う。「ゲストのみんなには帰ってもらって、二人で話し合うよ」
「幸運を祈るよ、うまく見つかるといいね。それと、もしかして彼女には、帰ってほしくないゲストが少なくとも一人いるんじゃないかな」
リーのことを言っているのだろう。彼がKKやパーカーではなく、リーの話をしてくれて、なんだかほっとした。
「屋上から下りる前に、前からやってみたかったことがあるんだ」と彼は言って、説明を始めた。反対する理由は何もなかった。それからしばしの間、僕たちは我を忘れて、シャボン玉を吹きまくった。できるだけ多くの泡を空中にまき散らし、夜空に浮かべた。シャボン玉が空間を埋め尽くしたところで、僕たちはそこを走り抜ける。ホーホーと二人して歓喜の遠吠えを上げながら。
ようやく気が済んで、僕たちは下の階へ下りていった。部屋に戻るまでの間、泡まみれの状態で、これからも長い付き合いにしていこう、とりあえず来週もまた会おうか、と連続メロドラマみたいなことを話した。女帝のアパートメントに戻ると、エラとルイはまだ歌っていた。レコード盤はひっくり返され、彼らの歌う曲目は違っていたけど。ダイニングルームでは、パーカーがほうきを手に持ち、床に散らばったグラスの破片やパン屑を掃いている。フレデリックとカスピアンはテーブルの上を拭いている。他の人たちは見当たらなかった。
僕の視線に気づいて、パーカーが説明する。「ジェイソンはすぐに限界に達して、バタンと床に倒れちゃったんだ。―俺は彼を抱きかかえて、お前の寝室までなんとか運ぼうとしたんだけど、お前が割ったシャンパングラスのことを話したら、彼はオエッと胃の中のものを吐き出しそうになって、―ここにいるのが怖いって、女帝が帰ってきてそのことを知る前に帰るって。だからタクシーを呼んで、ちゃんと帰した。リーとイルサは、女帝の立ち入り禁止の寝室に仲良く入っていったよ。―だけど、ぶっちゃけあの感じだと、ベッドで何かしようっていうよりは、誰にも聞かれずに二人っきりで話したいってことだと思う。もうそろそろお開きだなと感じて、フレディと俺は掃除を始めた。KKは1分くらいそこに座って俺らを眺めてたけど、退屈極まりなくなったんだろうな。もう我慢できないとか言って、そそくさと自分のアパートメントに帰って行ったよ。もちろん彼女の家では、こういう掃除とかは全部家政婦がやってくれるんだろうけど。彼女がまた、頃合いを見て戻ってくるかどうかはわからない」
「後片付けはしなくていいよ」と僕は言う。見れば、ヨハンもコーヒーカップを集め始めている。「ほんとに、いいんだ。僕には長年にわたる蓄積で、片付けの順番みたいなものがあって、そのままの状態にしておいてくれた方が、むしろありがたい」
彼らは、みんなでやった方が早いとか言い返してきたけれど、僕は1分ほどかけて、これは一つのシステムで、それが乱されると余計に時間がかかると反論した。ようやくパーカーが折れて、手を止めてくれた。僕は金庫を取りに行って、中からみんなのスマホを取り出した。―幸運にも、暗証番号は僕のパパの誕生日になっていた。家族の誕生日を試していって、4回目の挑戦で開いたってわけ。
「じゃあ、みんなでちゃんと部屋を乱したってことだね?」とヨハンが聞いてくる。僕はみんなにスマホを返しながら、また上手いこと言ってるな、と思う。誰もすぐにはピンと来ていないようだったけれど。
僕は頷く。「そうだね。帰ってゆっくり眠ってくれ」
「お前をちゃんとカリフォルニアに連れて行くからな、覚悟しておけよ。もうすでに俺の寮の部屋に置こうと、ピアノを注文しちゃったんだ。だからお前にはそれを弾いてもらわなくちゃ困るんだよ」
僕は彼にハグする。「まあ、行くかもしれないから。また会おう」
「それまでに、妹に俺のブロックを解除するように言ってくれ。ダンスのことで彼女にお礼がしたいって。俺のことが心底憎い状態は脱したみたいだから」
「一字一句そのまま彼女に言った方がいい?」
「いや、ダンスのことだけでいいや」
「わかった。さっそく伝えるよ」
「ボクもそろそろお暇させてもらうよ」とカスピアンが言う。彼もハグしてほしいのかと思って、ちょっと心配になったけれど、彼は来た時みたいに、フレデリックの小指を腕のように差し出してきて、僕たちは握手した。「このパーティーがどんなものになるのか予想もつかなかったけど、ボクは声を大にして言いたい。まさに期待以上のものを得られたよ。君のこれからの旅路に幸運を祈ってる。ボクも後ろの彼も、言ってくれれば何でも手を貸すから、連絡待ってる」
「連絡する」と僕は彼に言う。
「ありがとう」とカスピアンが付け加える。「ボクたち二人を仲間に入れてくれて」
「どういたしまして」と僕は、フレデリックの目を見て言った。それから、カスピアンを見て、もう一度繰り返す。カスピアンが頷く。
ヨハンはすでにバイオリンケースを手に持っていて、明らかに他の三人と一緒に帰ろうとしている様子だ。
「君のおかげで、単調な日常から抜け出せたよ。素晴らしいひと時だった」と僕は彼に言う。
「古い炎はいつまでも君を照らしてはいられないから、帰るよ」と、彼はドリー・パートンの歌の歌詞で返した。
彼を見送るのは悲しかった。―みんなが玄関を出て行くのを見送るのは、本当に悲しかった。でも僕はわかっていた。パーティーという交響曲はもう終わりなのだ。優雅なフェルマータで幕を閉じよう。
彼らが出て行って、ドアが閉じた。アパートメントはなんだか、夕方ゲストがやって来る前よりも、空っぽになってしまったようだった。まだ一人残っているのはわかっていたけれど、女帝の寝室は防音がしっかりしているから、僕はまるっきり一人になった気分で、ダイニングテーブルの上を片付けた。それからコーヒー沸かし器が載った台車をキッチンに押して行って、残りのコーヒーをシンクに流して空にした。今夜しでかしてしまったすべてを、僕は元に戻そうとしている。そして僕は気づく。「元に戻す」という行為も、前に進むことの一形態なのだ、と。
僕はこれからどうしようかと考えている。でもあまり考え過ぎないようにしよう。―これから僕たちがどうするのか、ちゃんとイルサと話し合うまでは。
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