『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』1

『My Almost Flawless Tokyo Dream Life』 by レイチェル・コーン 訳 藍(2020年01月26日~)



9月

チャプター 1


頭を引っ込めてじっとしてるのよ。黙って我慢していれば、10分もすれば終わるから。

「イージー! イージー! 楽勝!」と、スクールバスの後ろの方に座っている男の子たちが、リズムに乗せて声を上げた。私の名前はエル・ゾエルナー(Elle Zoellner)。イニシャルは、EZ(イージー)。―つまり、簡単(easy)ってわけ。こんなありがちないじめの標的に「簡単に」なっちゃうんだから、私って不運を持って生まれたようなものね。

シャープペンが飛んできて、私の首に当たり、背後の床に転がり落ちた。レドモンドの声が私の耳に届く。「あちゃー、落ちちゃったよ。クモの巣みたいなもじゃもじゃヘヤーに引っかかると思ったんだけどな」ふっ、もじゃもじゃヘアーはあなたの方でしょ。私の髪の毛はたしかに縮れてるけど、髪の毛に一週間分の汚れが溜まっててギトギトだから、中に何が投げ込まれたって、科学的に滑り落ちちゃうのよ。一週間に一回しかシャワーを浴びられないっていうルールのせいなんだけどね。

今日は私の16歳の誕生日。16歳っていったら、普通の女の子なら、運転免許が取れるわ、とか、新しいお洋服を買ってもらいましょ、とか、門限が遅くなるわって喜ぶところでしょうけど、私の望みはただ一つ、清潔になりたい。今年は曜日にも見放されたわ。よりによって誕生日が火曜日で、一番ギトギトの日なんて。水曜日がシャワーの日なのよ。

もちろん、水曜日以外はシャワー室に立ち入り禁止だってことを、今の#3の里親は、私の担当の社会福祉士さんに内緒にしている。今回が3度目の里親の家なのよ。私がスマホを持っていれば、彼らの会話をこっそり録音できるんだけど、わざわざそんな面倒なことしても仕方ないかもね。そんなことしたら、私はもっとひどい里親のいる家へ移されちゃうかもしれないし。最初に養子に入った#1(シラミ)の家と、次の#2(ダニ)の住む家は、かゆくてどうにもならずに社会福祉士さんに頼み込んで、次の家に移してもらったんだけど、今の#3(意地悪で嘘つきの夫婦)の家は今までで最悪。だけど、#4の家でいったい何が起こるのか、考えたくもないわ。

あなたの知ってる悪魔は、まだ見ぬ悪魔に比べたら、まだましなのよ。ママはいつも私にそう言っていた。ママは児童養護施設で育ったから、実感として知っていたんでしょうね。彼女は私のために良い暮らしをしようと頑張ってくれたわ。2年前に交通事故に遭うまでは、ママは仕事も順調だった。私たちは小さいながらも居心地のいい家で、仲睦まじく暮らしていたの。笑い声が絶えなくて、猫を一匹飼ってたわ。でも、交通事故の後、ママは働けなくなっちゃって、あの野獣が家に転がり込んできて、我が物顔で居座っちゃったの。会うことも話すこともできない野獣のせいで、どんどん生活がすさんでいって、私のママは今、刑務所暮らしってわけ。

ママはちゃんとカレンダーをチェックしてるかしら? 今日は私の素敵な(そんなに素敵でもないけど)16歳の誕生日だって思い出してくれたかな? スマホがあれば、きっとレジーからEメールとか、メッセージとか、GIFがどんどん届いて、開くたびに私へのハッピーバースデーがキラキラ光るんでしょうけど。レジーとはYMCAで知り合って親友になったのよ。同じ水泳チームで一緒に泳いだ仲なの。彼はアメリカ大陸の反対側にある「少年の家」から今も出られずにいて、彼もスマホを持ってないの。引き取り手がいないのかしらね? 彼も里親制度の被害者なのよ。―彼は被害者っていう言葉を嫌うんだけどね。「君は生き延びたんだよ」って彼はよく私に言ってたわ。彼の母親も私のママと同じように、薬物中毒だった。でも彼の母親は刑務所に入ることなく、フェンタニルの過剰摂取で死んじゃったの。私の置かれた状況は悲惨だけど、私の母はまだ生きてるんだから、私はめいっぱい感謝しなきゃね。私たちはすごくラッキーだってわかってる。ママが引き起こした問題は、刑務所につながっていたんだから、お墓じゃなくてね。

「ほら、匂い爆弾さん! 先輩たちがあなたの名前を呼んでるんだから、振り向きなさいよ」次に私をからかってきたのは、ジャシンダ・ズボルフスキーだった。彼女はスクールバスでは私の2列後ろの席、そして教室でも私の2列後ろの席に座っていて、毎日必ず私の着てる古着が臭いだとか、そんなことばっかり言ってくるのよ。

私の隣に座っている貧相な少年。―私は彼の名前さえ知らない。ガリガリにやせていて、12歳くらいに見えるから新入生でしょうね。―彼はそっと腰を滑らせて、窓の方へ遠ざかった。賢明な判断ね。彼も私と一緒にみんなからおとしめられる理由はないもの。それから彼は鼻にしわを寄せて、こそこそと私にだけ聞こえる声で言った。「体育館のロッカールームにシャワーがあるの知ってるよね?」生意気なちび助ね。

そんなこと知ってるわよ。あんな人目の多いロッカールームで自分自身をさらす、―つまり裸になるくらいなら、臭いままの方がましだっての。

「この中にミックスナッツに飢えてる人はいませんか?」と、男子の声がバス中に響き渡る。―きっとレドモンドの友達の一人ね。―いろんな人種が混ざってる感じの私の外見をけなしてるみたいだけど、ナッツみたいに頭の中が空っぽなのはあんたたちの方でしょ。私の血筋を知りたいなら、そう聞けばいいじゃない。私の母方の祖先は多種多様で、アイルランド人、ドイツ人、アフリカ系アメリカ人、アメリカ先住民の血が母には流れてるんだけど、私の目と頬骨の形を見れば、私の生物学上の父は日本人だってわかるわ。私は彼に一度も会ったことなくて、名前さえ知らないんだけど、ママは「ミスター・トーキョー」って呼んでた。彼はたぶん他の人と結婚してるんだと思う。ママはそういう男とばかり付き合ってきたのよ。既婚男性が好きすぎることが、彼女の最大の弱点だったの。まあ、薬が彼女の弱点になる前の話だけど。で、懲りずに既婚男性と環状道路をドライブ中に、後ろから大型車に追突されちゃったの。運転していた彼は死んだわ。ママは脊髄を損傷して重体だったんだけど、なんとか一命はとりとめた。その時に、脊髄の痛みが和らぐからと勧められ、手を出した薬に、いつしか身も心も乗っ取られていったの。そう、さっき「会うことも話すこともできない野獣」って言ったのは、麻薬のことなの。こうなったのは全部、交通事故で死んだ既婚男性のせいだと思ってる。

シャープペンよりもはるかに大きな物体が私の後頭部にぶつかった。初めそれが何なのか、はっきりとはわからなかったけれど、次の瞬間にもう一つ飛んできて、今度は私の頭の外れ、肩をさっとかすめて私の膝の上に落ちた。石鹼だった。

バスの後方から新たな合唱が湧き起こった。「匂い爆弾! 匂い爆弾!」

ハッピーバースデー、エル・ゾエルナー。


・・・


あれは14歳の誕生日だった。すべてがめちゃくちゃになる少し前の話。YMCAの水泳チームの練習でレジーと競泳したの。彼を打ち負かして誕生日を祝おうって気合を入れたわ。50メートルをクロールで、私はがむしゃらに泳ぎ切り、2.5秒も差をつけて彼に圧勝した。彼は風邪をひいていて、―体調が万全ではなかったんだけど、―とにかく、私は勝ったのよ! その後、彼も一緒に私の家で豪華なディナーを食べたわ。その日は特別にごちそうだった。ステーキとマッシュポテトをむさぼるように食べて、レジーとママが私のために「ハッピーバースデー」を歌ってくれた。〈セイフウェイ〉のケーキも美味しかったし、私の愛猫のハッフルパフは、私の指先についた生クリームを舐めてた。あれはたぶん私にとって、最後の完璧な日だった。日々の暮らしがきちんとしていた時期の良き思い出。

その10ヶ月後くらいに、ハフが行方不明になっちゃって、そしたら数時間後に、近所の人がハフの死体を私のもとに届けてくれた。その頃にはもう、母と野獣は仲良しこよしの状態だったから、小さいながらも最高に居心地の良かったあの一軒家も、お金を工面するために売り払わなくちゃならなくて、母と私とハフは薄汚いアパートに移り住んでいたの。ママは仕事を辞めちゃったから、「次にやるべきこと」が見つかるまでには時間が必要だった。そして見つけた次の仕事は、インターネットで薬を売ることだった。毎日のように、見知らぬ怖そうな人が私たちのアパートにやって来たわ。ある日、私が学校へ行っているとき、ママは誰かに薬を売って、そのままアパートのドアを開けっ放しにしちゃったの。―薬でもうろうとして、世界にもやがかかっていたんだと思う。その隙にハッフルパフが抜け出して、外の世界をうろうろしていたら、車にひかれちゃったのよ。私はろくに嘆き悲しむこともできなかった。その頃にはすっかり、野獣がママの生活を支配していて、―その影響は私の生活にまで及んでいたから、私は泣こうとしても涙が出てこないし、誰かのせいにしようとしても無駄だって諦めてた。

人生は良い状態から始まって、少し上向きかけてきたかなと思ったところで急激に方向転換し、もの凄い速さで悲惨な、耐え難い谷底へと転がり落ちていく。そんな人生のバスに乗ったまま、私は啞然としている他なかった。次のバス停に到着するたびに、前より人生は悪化していくようで、この下り坂のスパイラルはどこまでも残酷なんだ、と坂道を谷底まで下りきってから、ようやく気づくんでしょうね。これ以上ひどくなることなんてあり得る? もちろん、あり得るでしょう。実際、もっとひどいことになっちゃうのよね。18歳になるまでは逃げ道はないし、それまであと2年もあるなんて、長い道のりね。今はただ身を潜めて、できるだけ縮こまって、それまでなんとか生き延びるしかないわ。一生懸命勉強して、自分の道を切り拓くのよ。そしてそこを登って行くの。

バスが止まった。レドモンドが降りるバス停だ。この瞬間が一日で一番最高。―だってレドモンドから解放されるから。いつもの私なら、バスの一番前の目立たない席で、さらに小さく縮こまって、彼が横を通り過ぎるのをじっと待つんだけど、急に私は我慢ならなくなった。彼の意地悪さは私の周りで突出していて、憎らしい悪ガキなのよ。だからレドモンドがバスの出口に向かって、私の横を通過するタイミングを見計らって、私は通路に片足をひょいと出した。彼が気躓いて、激しく転ぶ。その拍子に、床に頭を打った。彼は起き上がろうと手を伸ばして、あたふたしている。バスに乗っていた他の子たちから、どっと笑い声が上がった。彼の表情はカンカンに怒っている。まるで火の玉の絵文字が彼の頭を取り囲んでいるようだ。抑えきれずに私の顔から、にやりと笑みがこぼれる。それを見て、さらに怒りに駆られた様子のレドモンドは、バスの踏み段を降りる前に、私を睨み付け、捨て台詞を残してから出て行った。「笑いたければ笑えよ、イージー。お前はゴミだからな。誰もお前のことなんか、見向きもするもんか」

私の心臓が恥ずかしさで激しく高鳴った。彼の捨て台詞は炎上し、バス内を笑いの炎に包み込む。

それでもやった甲斐はあったわ。私は嫌われ者の臭いスカンクかもしれないけど、会心の一撃をくらわせることができた。私は清々しい満足感に包まれながら、バスを降りられる。これでもっと嫌われたでしょうけど、むしろ伝説になっていいじゃない。

誰も誕生日プレゼントをくれないのなら、こうして自分でご褒美を作っちゃえばいいのよ。


・・・


5分後、バスは馴染みの通りに入り、前方から不気味なオーラを放つ里親#3の家がだんだんと迫ってきた。私はメリーランド州のグリーンベルトの辺りで育ったんだけど、#3の家も、私が育った平屋のレンガ造りの家に外観は似ていた。だけど、グリーンベルトの馴染みの通りの方が、100万倍良かったわ。子供たちが道端で遊んでいて、手入れの行き届いた芝生が並び、色とりどりの花壇や、白いピケット・フェンスが目を喜ばせた。近所の人たちもみんな顔馴染みで、気楽に声をかけてくれたわ。一方、こっちの通りは、なんだかホラー映画の中に迷い込んだみたいで、近所の人たちも無愛想なの。どの家も無秩序状態というか、庭には芝生なんかなくて、土がむき出しだったり、草がぼうぼうに生えてたり、鋼鉄ワイヤのフェンス越しに大きな犬が吠えてきたり、車庫への私道におんぼろの車が停まってたり、住んでる人たちもみんな気難しそうなのよ。里親#3の隣人たちの傲慢な歩き方を見ると、レドモンドを思い出すわ。―不機嫌で、周りに当たり散らす気満々な感じ。

そういう辺りの雰囲気のせいだと思うけど、一応「私の家」ということになっている家の前に停まっていた高級車が、一段とファンシーに、蜃気楼のように輝いて見えた。それは黒いメルセデスベンツで、白い手袋をした運転手さんらしき人が、後部座席のドアの横に立ち、誰かが出てくるのを待っている様子だ。さらに奇妙なことに、運転手さんの横には、私を担当している社会福祉士さんも立っている。彼女はメイベル・アンダーソンという名前なんだけど、彼女はいつもだったら、あちこち凹んでて、座席カバーにいくつも穴が開いてる古いトヨタカローラに乗ってくるのよ。ブレーキ音がキーキーと甲高い音で鳴るから、彼女が来たってすぐにわかるの。それに彼女が訪問することになってるのは金曜日で、火曜日じゃないわ。

バスに乗った子供たちが、よく見える側の窓にいっせいに押し寄せて、みんなして窓に顔を押し付けるように見ている。誰かが宝くじにでも当たったのかしら?

バスが止まり、運転手さんがバスのドアを開けた。私は不信感を抱きながらも、バスの踏み段から通りへ降りた。バスが走り去る。私がメイベルに近づいていくと、白い手袋をした運転手さんがメルセデスベンツの後部座席のドアを開けた。中から現れたのは、マサシ・アラキ(荒木雅史)だった。驚きで、私の胸から心臓がぽろりと落ちそうになる。亡霊を見るようだった。まだ幸せに満ちていたあの頃からやって来た亡霊を。

マサおじさん、まだママが野獣と出会う前、私はそう呼んでいた。ママはレストランで働いていたんだけど、マサおじさんはそこの常連客だったの。彼は季節に応じて、私を水泳やアイススケートに連れて行ってくれた。その帰りにはいつも、ピザとかアイスクリームをごちそうしてくれたわ。お金のことは気にせずに好きなだけ食べなさいって。ある時、思い切ってママに、彼が私のお父さん?って聞いたことがあるんだけど、「まさか、そんなわけないじゃない」って言って、話題を変えられちゃった。マサおじさんはワシントンDCにある日本大使館に勤めていたんだけど、何年か前に、スイスのジュネーブに転勤になったみたい。毎年私に絵はがきを送ってくれてたから、それにそう書いてあったんだけど、ママが前の家を売らなくちゃならなくなって、借金取りに追われてる身だったから新しい住所を登録するわけにもいかなくて、彼からの便りも届かなくなっちゃったの。

「どういうこと?」と私はメイベルに聞いた。

「あなたに良い知らせを持って来たのよ」とメイベルは言った。「こちらの紳士が説明なさってくださるわ」

マサおじさんが近づいてきて、お辞儀をした。それを見て、私は彼が本物だと実感した。アメリカ人のおじさんだったら、私を見るなりハグしてくるところでしょうけど、彼はいつもそうやってお辞儀をしていたから。「大きくなったな!」と言って、彼はにっこりと満面の笑みを浮かべた。まるで私と最後に会ってから、今まで一度もひどい目になど遭わなかったかのような笑顔だ。「もうほとんど私と同じ背丈じゃないか」

「いったいこんなところで何してるのよ?」と私は聞いた。

「悪態をつく必要はないのよ」とメイベルは言った。彼女はいつだって、同じテンションで取り合ってくれない。特に私の発言は軽く受け流すのよ。

いつか彼女をぎゃふんと言わせてやる。

彼がスーツの上着のポケットから、すべすべとした白いリボンの巻かれた青い手帳のようなものを取り出した。アメリカ合衆国のパスポートだった。それを私に差し出してくる。「私がここに来たのは、君を日本に連れて行くためだ。君は東京でお父さんと暮らすんだよ。誕生日おめでとう!」



チャプター 2


「私のお父さんを知ってるの?」と私はなるべく平静を保って尋ねたけれど、体の内側では、いろんな感情が渦を巻いて、心臓や、胃や、脳や、細胞の一つひとつに至るまで、ぐるぐると駆け巡っていた。

「知ってるとも」とマサおじさんは言った。「彼は君のことをとっても知りたがってる」

「これって何かの冗談?」

「こういう深刻な問題で冗談なんて言うわけないだろ」とマサおじさんは言った。

「うーん、そこは冗談にしちゃってよ。父親と暮らすなんて、私にとっては、考えるだけでも冗談みたいなものなんだから。っていうかその人は、今の今までずーっとどこで何してたのよ。私の人生に顔さえ見せなかった人と一緒に暮らす? そんな馬鹿な話に私が乗るとでもお思い?」

メイベルは決して笑みを浮かべることも、眉をひそめることもしなかった。まるで感情をいっさい顔に出さずに一日を過ごし切ることが、彼女の唯一の使命みたいだ。彼女はきびきびとした口調で言った。「ルールを思い出しなさい、エル。溜まったうっぷんを発散するのは自由だけど、失礼な言葉遣いは許しませんよ」

「私は行かないわ」と私はメイベルに向かって言った。「あなたが何を言ったって、私は行かないから」

「私は無理にあなたを東京に行かせるつもりはないわ。それはあなたが決めることよ」とメイベルは言った。

私はこんな馬鹿げた状況から逃れようと、家から遠ざかる方向へ通りを歩き始めた。私の人生はいつまで経っても、こんなくだらないことばっかりなのね? それでもマサおじさんが追いかけてきて、私を追い越すとこちらを振り向き、私の行く手を塞ぐように、再びお辞儀をした。「私の話を聞いてくれ、エル」

私は里親#3の家を見遣る。リビングルームの窓のブラインドが薄気味悪く、うっすらと開いていた。水曜日以外お湯を使わせてくれない里親が、明らかにこちらを覗っている。

「君のお父さんは、君が東京に来て、一緒に暮らしてくれることを切に望んでおられるんだ」と、マサおじさんはとても格式ばった言い方をした。なんだか彼がその私の「お父さん」の執事であるかのように。

「どうせ私をからかってるんでしょ。あなたにだって中学生の時から会ってないし、―っていうか、私の人生はあの頃から、地獄に向かって真っ逆さまなのよ。―今になってのこのことやって来て、お父さんと暮らすですって? あなたは私のお父さんを知ってるなんて、一度も言わなかったじゃない。馬鹿げてるわ。あり得ない。そんなの...だって...」私は興奮して、唾を飛ばしながらまくし立てた。言いたいことがとめどなく溢れてきて、口が追いつかない。「その彼は、どうして急に私の人生に割って入ろうなんて思ったの?...っていうか、その人が直接、招待状を持って来ればよくない?」

レジーの父親は軍隊で大活躍したヒーローだったんだけど、レジーがまだ5歳の時、中東の森林で、潜んでいた敵に不意打ちされて死んじゃったの。レジーは父親の写真とか、勲章のメダルとか、手紙を持っていて見せてくれたわ。レジーのパパは本物だったのよ。ちゃんと実在したの。あまりにも早くレジーを置いて逝っちゃったけど、彼は息子を愛していた。レジーはその証拠を全部手元に持ってるし、―彼には思い出だってある。私はといえば、「ミスター・トーキョー」についていくら聞いても、ママは話をはぐらかすだけだった。その話をするとつらくなるから、と言ってすぐに話題を変えちゃうの。私は自分に父親がいるなんて考えたこともなかったわ。テレビの中の女の子たちには、みんなお父さんがいたけど、そういうのは私とは違う世界に住む人たちの話なんだって思ってた。パパなんて、ハリウッドが捏造した幻想に過ぎないんだって。

メイベルも追いかけてきて、私たちに追いついた。彼女は言った。「私の認識だと、あなたのお父さんは、今までは事情があってあなたの人生に関与できなかったんだけど、ようやく余裕ができたのよ」

「彼の名前はなんていうの?」と私は聞いた。

メイベルはいつも持ち歩いている手帳をぺらぺらとめくると、挟んであった用紙を見つめて言った。「ケンジ・タカハラ(高原健二)」私の本当の父親は誰なのかって、こんなに長い年月考え続けた後では、自分がその答えに近づきつつあることがにわかには信じられない。しかも、私が目の敵にしてきた社会福祉士の人に言われても、そんなのファンタジーの登場人物の名前にしか思えない。

「その、ケンジ・タカハラっていう人が私の父親だなんて、それを急に信じろってこと?」と私は聞いた。「あのね、いい加減にしてよね。行方知れずの血のつながった父親っていうのは、急に空から降ってくるものじゃないでしょ」

マサおじさんが空を見上げた。彼が私の発言をどう受け取ったのかは覚えていない、というより、私にはわからない。彼の英語は素晴らしいけど、彼の母語ではないから、時々ひねった言い回しをすると、伝わってない感じなのよね。「私と一緒に来てくれ」とマサおじさんが言った。「見せてあげるよ」

彼に言われるままに、彼の後について高級車の方へ戻った。彼は後部座席のドアを開けると、ビジネスバッグを取り出し、中から何枚か書類を引き抜き、そのうちの一枚を私に差し出した。「これが君の出生証明書だ。君の父親の名前もここに書いてある。ほら、ケンジ・タカハラって」

たしかに、それはメリーランド州が発行した出生証明書だった。私の名前と生年月日が記載されている。母:ブランディ・ゾエルナー。父:ケンジ・タカハラ。

マサおじさんは他の書類も私の目の前に差し出してきて、もっとよく調べるように促した。「見えるか? これが君の母親の署名だ。君が日本に行って、父親と暮らすことに正式に同意したんだよ。で、これが飛行機のチケット」

「待って。今なんて言った? あなたは私のママに会ったの? いつ?」

マサおじさんは応えた。「私は彼女に会ってないよ。弁護士を通して彼女と連絡を取り合ってるんだ」彼はメイベルの顔を見て、お辞儀した。「君のお母さんがこの書類に署名するとき、彼女が立ち会ってくれたんだよ」

3ヶ月前にママがジェサップ矯正施設に入ってから、私はママに会っていなかった。毎週メイベルは、お母さんに会いに行ってもいいのよ、と選択権を与えてくれたけど、私は毎週断っていた。心の準備もできていなかったし、腹立たしくて会いに行く気になんてならなかった。もちろん、ママが生きていてくれるだけで有り難い気持ちにもなるけど、―でも彼女の中毒のせいで、彼女の人生だけじゃなくて、私の人生も滅茶苦茶になっちゃったのよ。刑務所生活が大変なのはわかるわ。―それはそれはつらい毎日でしょうね。だけど、彼女に面と向かって会ったら、私自身の生活も大変だってことがママに伝わっちゃう。ママがいなくなって、里親の家でつらい目に遭ってるって、ママが実感すると思うと、私の心もさいなまれて、会えない。全部ママのせいよ。

私は責めるようにメイベルを見た。「なんで今までそういうことを何も言わなかったの?」

メイベルは言った。「まだちゃんと決まるまでは話さないようにって言われてたのよ。あなたに話してから、やっぱりその話はなくなりましたってなったら、あなたをとってもがっかりさせちゃうでしょ」

「あんたの言うことなんか信じない」私は誰に対して言っているのかわからなくなる。メイベル? マサおじさん? それとも、この腐った世界全体?

「じゃあ、自分でお母さんに会って確かめなさい」とメイベルが言って、腕時計を見た。「彼女はあなたに会いたがってるわ。今度はちゃんとあなたを連れてくるって彼女に請け合っちゃったのよ。面会時間は午後4時まで。今ここを出発すれば、十分余裕をもってジェサップに着くわ」

「私が嫌だって言ったら?」と私はメイベルに聞いた。

メイベルが里親#3の家の方を見た。ブラインドが突然閉まった。

運転手さんが車のドアを開けた状態で、私たちが乗り込むのを待っている。

メイベルが堂々と高級車に足を踏み入れた。

刑務所へ直行するのね、っていうか私はまだ、行くって言ってないんだけど。



チャプター 3


「どうやったら囚人服さえもそんなになまめかしく着こなせるの?」

ママを一目見たら自制心を失くして怒りをぶつけてしまうと思ったけれど、そんなことはなく、私の目からうるうると熱いものがこみ上げてきて、全身が喜びでいっぱいに満たされた。面会室に入ってきた彼女は、野獣になる前の本当のママだった。酔いが醒めたような表情で、顔には色が戻っていた。髪の毛も清潔に洗ってあり、元々細いヒップラインが少しふっくらと肉づいていた。私のママがかつてどれほど美しかったかを思い出した。

彼女は私にハグすることは許されなかったけれど、彼女の満面の笑みは私の胸の奥まで届き、私の心をぎゅっとつかんで離さなかった。

「刑務所はリハビリ施設より安くていいわ」と彼女は言いながら、テーブル越しに私と向かい合わせで座った。「ベティフォード・クリニックっていう薬物専門の治療施設があるんだけどね、おしゃれな施設だって聞いたから申し込んだんだけど、裁判官にノーって言われちゃった」私は笑わなかった。面白いジョークだとは思ったけれど、もしリハビリ施設に入ることになれば、必要なお金を払うのは私だから。ママが言った。「元気にしてた? 神様に感謝だわ。ようやくあなたに会えて、ほんとに嬉しいわ」

言いたいことは山ほどあった。―溢れるほどありすぎたから、私はシンプルに一言でまとめることにした。「こんなに臭くてごめんなさい」

「あなたを引き取ったあの里親と同じにおいね。謝るのは私の方よ、ごめんね」私は泣かないって決めていたんだけど、どうしてもこらえきれなくなって、泣きじゃくりそうになった。ママは私の表情からそれを感じ取り、―彼女も同じように泣きそうだったのかもしれないけど、力強くあの言葉を言い放った。「ゾエルナー家の女は強いのよ」

「私たちはどんな時でも強くいなくちゃね。わかってる。思い出したわ」現実は厳しくて、なかなかそうもいかないけれど、ママの口からその言葉を聞いただけで、私の気持ちがすっと落ち着いた。正常だった頃の彼女の言い方そのままだったから。「それで、なんか今になって、私の本当の父親のことを話す気になったんでしょ?」

「そのことよ!」とママが言った。長年言い出せずに胸のうちに秘めてきたことを、ついに私に打ち明けられることが嬉しいみたいだ。

「ケンジ・タカハラ? その人はママの何?」

「嘘をつくつもりはなかったのよ。私は若い頃はね、男たちの注目の的だったの」彼女は微笑みながら、私がその話に興味を持ったかどうかを窺うように私の顔を覗き込んできた。たしかに面白そうな話だった。彼女は昔から私の感情を手玉に取るのが上手いのよ。話の上手い昔のママが戻ってきて、過去の自慢話を再び聞けることに、思わず私の顔もほころんでしまう。「私は19歳の時、ワシントンD.C.のファンシーなレストランでウェイトレスとして働いていたの。私は育ちが悪いから上品さはなかったんだけど、美人だったのよ。そこで彼と出会ったの。彼は留学生で、ジョージタウン大学で国際問題か何かを学んでいた。正直に言って、私がそれまでに出会った男の中で最高にかっこよかったわ。彼はロンドンのブティックで特注してあつらえた最高級ブランドのスーツを着ていたの、まだ学生の身分でよ! 私たちはお互いに一目惚れして、激しく恋に落ちたわ」

「彼を愛してたの?」これって、私の人生で最も衝撃的なニュースかもしれない。私はずっと、既婚男性との不倫でできた子供だと思っていたから。もしくは、一晩だけの行きずりの関係とか、あるいは、もっとひどい目に遭ってできちゃったとか。

「私は彼に夢中だったわ。ずっと彼と一緒にいて、人生で最高に楽しい時期だった」

「どうして今まで何も話してくれなかったの?」

何もってことはないでしょ。その話をするとつらくなるからって話したじゃない。それは噓じゃないわ。あなたが18歳になったら、あなたが世の中に羽ばたいていく年齢になったら、ちゃんと話すつもりだったのよ」

「なんか、すごく自分勝手な言いぐさね」

「そんなの、あなたが一番よく知ってるじゃない」

私たちの隣に座っていた看守が腕時計に目を遣った。元々少ない面会時間が刻一刻と過ぎ去ってゆく。「それで、ママと彼の関係はどうなったの?」

「妊娠しちゃって、私は感激したんだけど、彼はパニックに陥っちゃったの」

私はこの話を聞いている自分が信じられない。―しかもよりにもよって、刑務所で聞くことになるなんて。私はそのストーリーに引き込まれ、くぎづけになっていた。もっと聞きたい。「なんで?」

「彼は日本でも有数の良家の出身だったのよ。彼はワシントンD.C.に残って私と暮らすって、結婚も考えてるって言ってくれたんだけど、彼の家族から、そんなことしたら縁を切るぞって脅されちゃったの」

「それで、ママはどうしたの?」

「私だって馬鹿じゃないわ。弁護士を立てて、交渉に挑んだ。私は最善を尽くして、彼を自由の身にする代わりに、彼から和解金を得たのよ。彼の家族が、あのグリーンベルトの家を私の名義で買ってくれたの。私はすぐにあそこに移り住んで、あなたと幸せな14年間を過ごせたのよ、楽しかったでしょ?」

「もちろん。最終的に麻薬中毒のつけが回って、売り払うはめになっちゃったけどね」

ママはうなだれるように頭を下げた。そして「わかってるわ」と静かに言った。「少なくとも、ウェイトレスの収入だけであなたを育てられたんだから、よしとしましょ」

「まだママがちゃんと働いてた頃は、そうね」野獣以外のことで彼女に不満は、正直何もなかった。私を女手一つで育ててくれたんだから、やっぱりゾエルナー家の女は強い、でしょ? 「それで、そのケンジっていう男はどうなったの?」

「彼は家族から言われた通りにしたわ。東京に帰って、私たちの人生には関与しない道を選んだの」

「『道を選んだ』って言えば聞こえはいいけど、要するに『捨てられた』ってことでしょ?」

「まあ否定はしないわ。だけど、物事っていうのは移り変わるの。事情が変わって、あなたのためにドアを開けてくれたのよ。彼のところへ行きなさい」

「ママは事情が変わったことをどうやって知ったの?」

「自分が牢屋に入るってわかって、ワシントンの日本大使館を通してマサに連絡を取ったのよ。こんなことになっちゃったって、私の状況を知らせたの。彼はケンジの親友だったから」

新たな事実を知らされて、また衝撃が全身に走る。「マサおじさん」って親戚みたいに呼んでたのに、彼はそれだけ私の人生の一部だったのに、こんな大事なことを私に内緒にしていたなんて。そしたら、一体誰を信じろっていうの? ママが私の怒った表情を見て言った。「マサを責めないでちょうだい。私たちに親切に手を差し伸べてくれたのは彼だけなのよ。ずっと気にかけてくれてたのを、あなたも知ってるでしょ。あなたが日本に行ってケンジと暮らすっていうのも、彼が全部お膳立てしてくれたんだから」

「でも、なんで今?」

「そんなの決まってるじゃない。あなたの里親暮らしが不憫だからでしょ?」

「違う。そうじゃなくて、前は父親になりたくなかったんでしょ。それなのに、なんで今になって、父親になりたくなったの?」

「マサに聞いた話では、前はタイミングが良くなかったみたいね。今になってようやく、あなたが父親の人生の一部になるタイミングが来たのよ」

「なんで?」と私はもう一度聞いた。

「私にだって彼の心のうちまでわかるわけないでしょ?」と言ったママは、動揺していた。「チャンスが訪れたんだから、それだけで喜びなさい」

チャンス? 地球の反対側で見ず知らずの人と暮らすことが? チャンスだなんて、そんなクソみたいなことよく言えたわね、ママ? もし私が行きたくないって言ったら?」

「行きなさい! 彼と一緒に暮らすことが、今のあなたにとって最善の選択なんだから」私は首を横に振った。私はまだ納得していなかった。ママは付け加えた。「あなたがこのまま里親の世話になってると、悪夢が現実になったみたいで、私も安心して眠れないのよ」

「ってことは、ママのためってことね?」

あなたのためよ!」と、ママが怒鳴り声を上げた。「それで、あのタオルは結局どうなったの?」

それはどこからともなく降って湧いたような質問だったけれど、私にはその質問がどこへ着地しようとしているのかわかった。私が一時保護ということでメリーランド州の施設に入ることになって、自分のものを荷物に詰めているとき、お気に入りのタオルも持っていくってママに言ったんだけど、ママは高価なものを持ってると盗まれるからやめておきなさいって言った。それはママが私たちの家用のタオルとして買ってくれた青い高級タオルで、ビロードみたいにすべすべした肌触りが手放せない心地良さだったの。ママ目当てで通っていたレストランのお客さんに思いもよらぬ大金をチップとしてもらった日の帰りに、ママが買ってきたすべすべタオル。

私はママをにらみつけて、それから負けを認めた。「里親の魔女に取られちゃったわ。元々彼女のものだったのを私が盗んだとか、言いがかりをつけられて」

「そんなことだろうと思っていたのよ、まったく」ママの表情が悔しそうにゆがんだ。タオルの話題になって、強いはずのママがとうとう泣くかもしれないと思った。「そんなさもしい人たちと、まだ一緒に暮らしたいって言うの?」

「私は自分がどうしたいのかわからないのよ」と私はぴしゃりと言った。「私が知ってるつもりだった人生のあらゆることが、この何時間かの間にがらりと一変しちゃったからね」

「このチャンスをつかみなさい。私みたいになっちゃだめよ、エル」とママは懇願するように言うと、片手を上げて、彼女が着ている囚人服を指し示した。

面会室のスピーカーからアナウンスが入り、面会時間の終わりを告げられた。

待って! まだ来たばっかりなんですけど! ママと私の父親の話をもっと聞きたいのに、まださわりだけしか聞いてないじゃない。それに私自身の生活のことも、タオルを取られたっていうクソみたいな話しかしてないし。イライラがつのって叫び出したかった。ママの手を引いて、一緒に駆け出し、この場所から連れ出してしまいたい。

ママが立ち上がった。「こんな場所早く出たいわ。こんなに可愛い私のベイビーにハグすることもできないんだからね。東京に行くって言ってちょうだい、エル。そしたら私はようやく、安心して眠れるから」

私は胸を撃ち抜かれた。

「行くわ」と言って、その瞬間、私は胸のうちでついに決心した。

ママの顔にほろ苦い安堵感が広がった。「ケンジに会ったら言っといて。あなたの正義のヒーロー気取りなところが大っ嫌いって。他にも嫌いなところがありすぎるけど、―こんなに可愛い女の子を独り占めできるなんて、あなたが羨ましいわって」

私はママに向かって首を横に振った。そして、優しく微笑みかけながら言った。「それは彼には言わないでおく」

ママも微笑み返して、看守に面会室から連れ出されながら、私に向かって投げキッスをくれた。うっすらと涙を浮べているようだった。「ハッピーバースデー、世界で一番可愛いエル。愛してるわ」

「私も愛してるわ、クレイジーママ」

彼女は背中を向け、面会室から出て行った。看守に冗談でも言ったのか、ドアの向こうから彼女の笑い声が聞こえてきて安心した。それから私の目からどっと涙が溢れ出し、ママに涙を見られなくてよかった、と思った。


・・・


メイベルは外の駐車場で待っていた。ベンチに座って書類に何やら書き込みをしている。一方、マサおじさんは、近くにアイドリングしながら停めてあったメルセデスベンツの中で時間を潰していた。

「それで?」とメイベルが私に聞いてきた。

言うことは決まっていたけれど、自分がこんな台詞を口にするなんて信じられなかった。私がずっと知りたかった父親に会えるチャンスが巡ってきた。もう里親#3の家には二度と戻らない。#4の家が歴代の家よりさらにひどいことになるのか、この目で確かめることもない。私は言った。「行くわ」

「里親の家はちょうど空港に向かう途中にあるから寄れるって運転手さんが言ってたわ。時間に余裕もあるから、里親の家に寄って、あなたのものを荷物に詰めてきなさい」

里親との暮らしで私が最初に学んだことは、私にとって最も大事なものは四六時中、肌身離さず持っていなきゃいけないってこと。だから私が本当に大切なものは全部、メルセデスベンツの座席に置いてある私のリュックの中の、スクールバインダーの中にちゃんと収めて、ジップで安全に閉じてある。私の大事なものは昔の懐かしい写真よ。―ママと、レジーと、ハッフルパフの写真。

「寄らなくていいわ」と私は言った。「私のものなんか全部燃やされたって、構うもんですか」



チャプター 4


豪華なメルセデスベンツに乗って街の通りを走っているだけで、すでにここ3ヶ月分くらいの私の生活を上回る喜びが溢れてきた。向かっているだけでこんなに楽しいのなら、日本での生活はどうなっちゃうんだろう、と思いをはせる。

ちょっとハチャメチャな急展開だと思ったけれど、―ママが言ったように、チャンスだと受け止めることにした。未知なる世界を怖がっていても仕方ないしね。それに、また里親のところに戻ったら、ママをがっかりさせちゃうし。18歳になって、自立して自分の道を歩んで行けるようになるまでは、ケンジっていう人のところで、(大人しく)物分かりのいい娘でいよう。

「それで、そのケンジ・タカハラっていう人とはどうやって知り合ったの?」と私はマサおじさんに聞いた。私たちはメイベルを彼女のオフィスで降ろしたあと、ダレス空港に向かって、ラッシュアワーで混雑しているワシントンD.C.の街中をゆっくりと進んでいた。

「『その』ケンジ・タカハラじゃないだろ」とマサおじさんが言った。「彼は君の父親なんだから」

「そうね。私のお父さんと」そう言ってみて、『私の』と『お父さん』の二つの言葉の組み合わせが、私の口にしっくりこない。私の中では、永遠にくっつくことのない単語同士だったから。「いつから友達同士だったの?」

「彼はただの友達じゃなくて、いとこ同士なんだよ。彼の父親と私の母親が、兄妹なんだ。だから、ある意味、私は君の、実のおじさんってことになるね」

マサおじさんが優しくて、私を快く受け入れようとしているのはわかるけど、いきなり「実のおじさん」とか言われても、私はそう簡単には受け入れられない。私が会ったこともない「私のお父さん」のところに連れて行くだなんて、まだ怪しいし、しかも、実際日本に行ったところで、私は日本語を話せないのよ。でもまあ、マサおじさんが私を下に見ることなく、対等に扱ってくれているのは伝わってくるし、昔は彼を全面的に信頼していたわけだから、あの頃の気持ちに戻ってもいいかな。これから始まる私の新しい世界では、彼が唯一の知り合いになるでしょうし、私の前の世界を思い出させてくれる唯一の人になるはずだから。私は彼から見たママの話を聞きたかった。

「じゃあ、ママとは最初どうやって知り合ったの?」

「私もケンジと一緒に、君のママが働いてたレストランによく行ってたんだよ。そこでケンジと彼女が出会って付き合い出した。結局ケンジは東京に帰っちゃったんだけど、その後も私は君のママと連絡を取り合ってたんだ」

「彼はそのこと知ってたの?」

「そりゃ知ってたよ。彼に連絡を取ってくれって頼まれたんだから。彼は君のことを知りたがってたからね」

「だったら、私に会いにくればよかったじゃない。なんて男なの」

ひねった言い回しと同様に、皮肉もマサおじさんには通じないことがある。「そうだね。彼は男だよ」とマサおじさんは返した。私の発言をそのまま受け取った彼の返しは面白かったけれど、私はほったらかしにされた気分で、笑えなかった。

「どうして彼は自分で直接、私に会いに来なかったの?」

「ケンジの父親に決定権があったんだよ。父親がファミリービジネスの社長だったんだ。父親の命令で、ケンジは日本に帰って、東京の大学を卒業した。君たちとは連絡を取るなって父親に言われてたんだ」

ってことは、おじいちゃんはクソってことね。ストライク 1。この分だと、タカハラファミリーはすぐに三振ね。

私は言った。「ケンジ・タカハラは命令に背いて、こっちに残ることもできたでしょ」

「彼はまだ若かったし、彼の頭に降ってきたんだ」

「は?」私は混乱して、聞き返す。

「英語の言い回しだからわかるだろ、彼には手に負えない状況だったんだよ」

「ああ、それを言うなら、彼の頭を超えていた、ね」

マサおじさんが笑みを浮かべた。「それそれ。君は昔から私の英語の先生だったな、覚えてるか?」

私は言った。「覚えてるわ。あなたは父親のいない私によく会いに来てくれた。っていうか、私も父親なしで育ったんだから、彼だって父親に反抗して、こっちに残れたでしょ。いくら若くて、状況が彼の頭を超えていたとしても」

「それは日本のやり方じゃないんだ。親に反抗するのは良くないとされてる」

ストライク 2。これでは、日本に行く前に三振しちゃうわ。

「じゃあ、どうして今なの? なんで今になって、急に私を呼び寄せようなんて思ったわけ?」

「彼の父親が昨年亡くなったんだ。それで、ケンジが後を継いで、ファミリービジネスのボスになった。決定権が彼に移ったんだよ。彼は去年から君たちを探してたんだけど、君たちは行方知れずで、住所の変更記録も残ってなかった」

「ママが携帯電話の番号を変えちゃったの。引っ越し先の住所も登録しなかった。ママにはすっごく借金があったから」

「タイミング的にばっちりだったよ。彼が君たちを探してるタイミングで、彼女から私に連絡があったんだ」

「でも、ママから連絡するまで私たちを見つけられないなんて、彼はa deadbeat(怠け者)なの?」

マサおじさんはスマホに「deadbeat」と入力して、意味を検索した。「彼は怠け者ってわけじゃないよ」とマサおじさんは、眉をひそめながら言った。

「彼は結婚してるの? 私の他にも子供がいるとか?」

「結婚もしてないし、子供もいない」

「彼の会社って何の会社なの?」

「不動産会社だよ。社名もそのまま〈タカハラ〉で、日本では有数の同族会社なんだ」

奇妙を超えて奇妙な誕生日、私はもう一度、打ちのめされた気分になった。私のお父さんが私の人生にひょっこり顔を出そうとしているらしいけど、私はその事実をまだ受け入れられずにいる。彼はどういう人で、どこ出身で、何をしてるのか...とか...もっと色々と聞きたい気持ちはあったけれど、一旦休憩が必要だった。胸が苦しいくらいにいっぱいだったから、軽い話題に変えようと、メルセデスベンツの窓の外を眺めた。メリーランド州のどんよりとした灰色の空が流れてゆく。「向こうの気候はどんな感じ?」

「夏は蒸し暑くて、冬は寒くて、春は桜が美しいよ」

「ここと同じね」

ってことは、ここでの生活と同じくらいクソってことじゃない。

ストライク 3。もう三振しちゃった。




チャプター 5


たぶん私だけじゃなくて、16歳になると、人生は急速に動き出すんだと思う。

私の場合、16歳になった途端に見知らぬ父親がいるとわかり、突然、今までずっと暮らしてきたメリーランド州を出ることになり、あれよあれよという間に、私は初めて空港という場所に足を踏み入れた。セキュリティーチェックのためのクソ長い行列を横目に、ファーストクラスとビジネスクラス専用の短い列に並ばされる。こちらの列はチェック自体も手早いのか、すぐにセキュリティーを通過できた。そしてもうすぐ、私は初めて飛行機に乗る。このクレイジーな16歳の誕生日を超える誕生日なんて、この先訪れるのかしら?

マサおじさんに連れられて、「国際ファーストクラス」の乗客専用の豪華な待合室に入る。まだ自分の国を出ていないというのに、さっそくよそ者になった気分だ。そのプライベートラウンジにいる人たちは全員お金持ちのようで、おしゃれな服装でめかし込み、優雅にくつろいでいる。この人たちは、汚れ一つなく磨かれたガラス張りのオアシスみたいな空間で、一日中窓の外を飛行機が離陸したり、着陸したりするのを眺めて暮らしているのではないかと思えてくる。目を移すとビュッフェがあり、無料で食べ物を食べられるらしい。日本語と英語の新聞や雑誌もずらりと並んでいた。ラウンジにいる大部分の人たちは、見た目も日本人のようで、言葉も日本語が飛び交っていた。壁に掛かったモニターには、バンクーバー、パリ、ロンドン、リオデジャネイロ、北京、メキシコシティなどの都市名とともに、今後のターミナルの出発時刻が表示されている。私はメリーランド州の外側の世界さえ想像したことも、そんなになかったというのに、この人たちはみんな、ここから地球の隅々に飛び立っていくのだ。しかもその時刻が来るのを当たり前のように、何気なく待っている。私はこんなにドキドキしているというのに。

私とマサおじさんの向かいに日本人の老夫婦が座っていて、お茶を飲んでいた。その婦人の方が、なんだか私を非難するような目でじっと見ていることに気づいた。私は彼女と目が合うたびに、気持ちがひるんで、彼女の手元のティーカップに視線を落としてしまう。彼女は隣の夫に日本語で何やら話している。―チラッチラッとこっちを見ているし、どうやら私のことを話しているらしい。「ハーフ」という日本語が何度も耳に入ってきた。

私はこんなにダサい自分を、飛行機に一度も乗ったことがない自分を、ブランケットの下に隠してしまいたい気持ちだった。マサおじさんは私の横で、私の気持ちなんて知らずに、パソコンを開いて作業している。

ハーフって何?」と私はマサおじさんの耳元でささやくように聞いた。

彼は作業を中断し、顔を上げた。「何? 聞こえなかった」

私は声量を上げて、とっさに質問を変えることにした。「ケンジ・タカハラに電話してもいい?」

「だめ。今、日本はこれから仕事が始まる時間だから。それに電話しても彼の秘書が出るだけだよ。彼と電話で話したいなら、予約しなくちゃ」

「べつに話したいわけじゃないし」

「話したいから聞いたんじゃないのか」

「彼ってどんな感じの外見なの?」純粋に好奇心が他のもやもやした感情を吹き飛ばしてしまった。「スマホに彼の写真とか入ってる?」

「いや、入ってない」

「オンラインで彼のプロフィール画像を見ることってできる?」

「彼の護衛を担当してるセキュリティ班からの忠告で、彼はオンラインでは見立たないようにしてるんだよ。フェイスブックもインスタも、他のSNSもやってない」

父親に秘書がいることにはそれほど興味を引かれなかったけれど、護衛されてるって聞いて、思わず目を見開いてしまう。セキュリティ班がついてるって、彼は何者?

「じゃあ、彼の名前をググってみよう」

「やってみたらいいよ。でも『ケンジ・タカハラ』って、日本ではすごく一般的な名前なんだ。たぶん君のお父さんは見つけられないんじゃないかな」

「なんか、あれね、あなたとそのセキュリティ班が、なんとかして私が彼の顔を見るのを阻止してるみたい」

マサおじさんは笑って、ようやく私を真正面から見据えた。私の前に彼のパソコンを差し出してくる。「どうぞ、試してみたらいいよ」

私はグーグルの検索ボックスに『ケンジ・タカハラ』と入力した。マサおじさんが言ったように、同名のヒットが数多くあり、どれが私のお父さんに関する記事なのか引き当てられない。グーグルの画像検索のページも開いてみたけれど、画面にはケンジ・タカハラという男性の写真が洪水のように大量に押し寄せてきた。

「この中にいる?」と聞いて、私はパソコンの画面を彼の方に向けた。

彼がその中の一つの写真を指差した。スーツを着て、建設用の安全帽子をかぶった男が写っていた。空き地でリボンのついたテープにはさみを入れている。「これが彼だよ。新しいホテルの着工式の日だね」

「この写真だと彼の顔がほとんど見えないわ」

「なら、セキュリティ班はちゃんと仕事してるってことだな」

そのセキュリティ班が彼の写真をオンライン上から消してるってことか、だとすると、これ以上検索を続けてもエネルギーと時間の無駄だなと思った。でも、せっかくパソコンでオンラインにアクセスしてることだし、私にとっては貴重な機会だから、有効活用することにした。『ケンジ・タカハラ』の検索ページを閉じると、私は自分のGmailアカウントにログインして、レジーにメールを書いて送信した。

ねえ聞いて。こんなこと言ったら驚くでしょうけど、信じられないことが起きてるのよ! 私は今空港にいるんだけど、日本行きの便を待っていて、日本で私のパパと住むことになったの。今日パパがいるってわかったばかりで、そのまま空港に来ちゃったから、あなたに会って、さよならを言えなくてごめんね! 返信に、あなたが少年の家のコンピューターを使える時間帯を書いてちょうだい。そしたら、その時間に私もアクセスするから、ビデオチャットしましょう。その時は、私は日本にいることになるけどね! 好きよ、エルより。PS―これは冗談じゃないのよ!サヨナラ!(日本語よ。サヨナラの意味を調べてみて)

「彼女が来た」とマサおじさんが言って、椅子から立ち上がった。見れば、若い日本人の女性が近づいてくる。彼女はお辞儀をして、書類の入ったファイルを彼に手渡した。

マサおじさんが私に言った。「エル、こちらはエミコ・カツラ(桂恵美子)さん。彼女は東京で君のお父さんのアシスタントをしてるんだ。君の件でこっちに来て、色々な手続きを手伝ってくれた。彼女も同じ飛行機に乗って、一緒に帰るんだ」

エミコ・カツラは私にもお辞儀をした。私もお辞儀を返した方がいいかしら? お茶会の日取りも決めた方がいい? 彼女は30代前半くらいに見えた。清潔感のある白いオックスフォードブラウスに、紺のタイトスカートを穿き、すらっとした体形が際立っている。チェリーみたいに真っ赤なピンヒールの靴が目立ち、小さな装飾の付いたブレスレットが彼女の腕できらりと光った。耳たぶのピアスはダイヤモンドかしら。こんなに高いハイヒールをかつかつと鳴らして歩く人を私は初めて見たわ。髪は長くてさらさらなグラデーションヘアーで、―頭頂部は黒っぽくて、下の方へいくにつれ、蜂蜜色になっている。そして全体的に、くるみ色の縦メッシュが素敵に入っている。―『I Woke Up Like This(目覚めたらこんな素敵なことに)』を歌っていた時のビヨンセみたいだった。

「そのペンダントには写真が入ってるの?」と私は言って、胸元に煌めく金のネックレスに付いているペンダントを指差した。私にもそういうペンダントがあれば、ママと、レジーと、ハッフルパフの写真を入れられるのに。そうすれば、私からそのネックレスを奪おうとするやつは、文字通り私と戦って、私の首からもぎ取らないとだから、安心だわ。

「ええ、入ってるわ」エミコはそのペンダントを開くと、小さな結婚式の写真を見せてくれた。旦那さんはエミコと年齢は大体同じくらいだったけれど、なんだか退屈な男性に見えた。スタイリッシュな彼女と全然釣り合っていない。「結婚式の日に撮ったのよ」

「素敵」と私は言った。

「ちょっと買い物してきたの。これをあなたにと思って」

私はマサおじさんのパソコンを彼の前に返してから、エミコが差し出すバッグを受け取った。それはルイ・ヴィトンのダッフルバッグだった。持った瞬間、偽物ではないと確信した。そのスベスベした感触、高級なお店の匂い、絶対本物だわ。バッグを鑑定するみたいにあちこち触ってみる。エミコとマサおじさんは日本語で何やら話し始めた。バッグを開けてみると、中には新品の洋服がぎっしり詰まっていた。―ブラウス、セーター、ジーンズ、靴下、下着、全部私のサイズだった。〈ジェームス・パース〉のTシャツを持ち上げて、顔に当ててみた。子猫のハッフルパフがかつて私の頬にしていたように頬をこすりつけてみると、目が点になる。Tシャツがこんなに柔らかいものだとは思いもしなかったわ。Tシャツをダッフルバッグに戻したところで、ルイ・ヴィトンの化粧品バッグの存在に気づき、開けてみると中には、ヘアブラシと歯磨き粉、それに生理用品まで入っていた。これは誕生日プレゼントって感じじゃないわ。過去のベスト3のクリスマスプレゼントが合わさって、一気に空から降ってきたみたい。ケンジ・タカハラって、やばいことしてるの?

「気に入ってくれるといいんだけど、しばらくはそれで我慢してね」とエミコは言った。「あなたの好みがわからなかったから、なるべく無難なチョイスにしたの」

「オーケーよ」と、私は胸のうちの動揺を隠して平然と言った。「ありがとう」私の好みは〈オールドネイビー〉の在庫一掃セールのコーナーなんだけど、真新しい豪華な洋服にすっかり感激しちゃったなんて、彼女に悟られたくなかった。「着替えられるトイレとかある?」

エミコは言った。「そこの受付で聞けば、フロント係が案内してくれるわ。もし飛行機を待ってる間リラックスしたいなら、スパ施設もあるわよ。搭乗時間まで、まだ1時間くらいあるから」

「その施設ってシャワーついてる? 温かいお湯が出る?」と私は聞いた。冗談めかしてね。

「もちろんよ」とエミコが言った。

黙れ! もちろんじゃない家もあるのよ!

「まじで? じゃあ、そこでシャワー浴びて来てもいい?」

「ええ。フロント係がバスローブとかスリッパとか、必要なものは何でも渡してくれるわ」

「マッサージが必要かも」と私は、またしても冗談めかして言ってみた。

エミコは応えた。「それもフロント係が予約を取ってくれるわ」

「待って、本気で言ってる?」私はマッサージなんて一度も受けたことないわ。見ず知らずの他人が私の体を触るの? そんなの、無理よ。だけど、ここではマッサージが現実の選択肢としてあり、冗談ではないみたいだから、可笑しくて笑っちゃう。だって、ここは空港よ。

マサおじさんが言った。「私のクレジットカードがフロントデスクに登録されてるから、君が好きなサービスは、言えば何でも受けられる。エミコと私はそこのバーエリアで仕事してるから、済んだら声をかけてくれ」


・・・


新しい目標ができたわ。私は国際空港のファーストクラス・ラウンジに住みたい。

スパエリアのシャワー室は、広々とした、白のタイル張りの「個室」で、天井の中央にシャワーヘッドがついていた。スイッチを入れたら、キラキラ輝く雨が降ってきて、温かい雨に打たれると、自然と顔がにやけちゃう。―激しい雨でもないし、水圧が弱すぎることもない、まさにちょうどいい気持ち良さだ。ラベンダーの甘い香りが染み込むボディソープで全身を泡々にしてから、もう一度雨に打たれたら、私自身が浄化していくようで、里親#3の家の匂いがすっかり流れ落ちた。アルガンオイルのシャンプーとコンディショナーで髪を洗ったら、髪が軽くなって、滑らかな手触りで、なんだか生まれ変わったみたい。

シャワーの後、私は白いタオルがいっぱい詰まった棚からタオルを一つ取った。(一回のシャワーでこんなに沢山のタオルを使う人なんているの?)タオルは信じられないほど柔らかくて、吸水性が凄かった。―このタオルに包まれて眠りたいと思った。シャワー室ごと持って行くわけにはいかないので、私の体を拭いたタオルを丸めて、ルイ・ヴィトンのダッフルバッグに詰め込んだ。東京のタオルはごわごわかもしれないから。それから私はもっといいことを思い付いた。一枚だけだと誰かに盗まれた場合困るから、念のため、もう一枚乾いたタオルをバッグに詰めた。

スパエリアから出て、ラウンジのメインエリアに再び入った私は、さっきまでの私とはまるで別人になったようだった。すっきりリフレッシュして、生まれ変わった、タオル泥棒。後ろめたさはないけれど。ラウンジの奥のバーエリアにエミコとマサおじさんの姿が見えた。でも二人は仕事に集中しているみたいだったから、ラウンジの他の場所をうろうろしてみることにした。無料のソーダとティーが出てくる機械、バーチャルリアリティゲームができる卵型のポッド、いろんなクッキーが食べられるスナックビュッフェ、それからマッサージチェアもあった。見知らぬ人の手に触られるのは嫌だけど、椅子ならいいかと思って、ドシンと腰を下ろし、リクライニングを倒してみる。そしてスイッチを入れると、おあー。なにこれ。振動が私の全身の筋肉をぶるぶると解きほぐしていく。素晴らしいを超えて、気持ちいい...

「搭乗時間よ」天国みたいな椅子の上でいつの間にか寝ちゃったみたいで、気づくと、目の前にエミコが立っていた。「何か読みたいものある?」と言って、彼女は抱えていたファッション雑誌やビジネス雑誌を見せてくれた。

「ハーバード・ビジネス・スクールの同窓会誌はちょっと私には興味ないかな。でもありがとう。ハーバードに行ってたの?」

皮肉を込めて聞いたつもりだったんだけど、彼女は真摯に答えてくれた。「ハーバードの大学院でMBAを取ったのよ」彼女は日本の大学を卒業した後、ハーバードの大学院に行ったという。だけど、ハーバードを出てて、アシスタントなんてしてるの? もったいないというか、たぶん彼女はそんなに優秀じゃないのね。

「行かなきゃいけない?」と私は聞いた。「私、ここが気に入っちゃった。今まで生きてきた中で最高の場所って言ってもいいくらい」

マサおじさんが言った。「そう思うのは、まだ東京に行ったことがないからだよ」彼は手を差し出してきて、私をマッサージチェアから引っ張り上げた。私はしぶしぶ立ち上がる。でもいいわ。少なくともタオルは手に入れたから。タオルを使えばいつでも、ファーストクラス・ラウンジという名の聖域を思い出せる。


・・・


私たちの名前がまず呼ばれ、最初に搭乗するように言われた。マサおじさんとエミコの行動をつぶさに見ながら、なるべく何気なく振る舞おうとした。こんなこといつもやってることよ、といった雰囲気を醸し出そうとしたんだけど、実際のところ、私は怖くて震えていた。窓の外に目を遣ると、舗装された滑走路にとてつもなく大きな物体が待機していた。こんなに大きな鉄の塊が、人を運んで広い太平洋を渡り切れるの? そんなの、無理よ。海の真ん中で、落っこちるわ。

搭乗口で待っていた日本人のキャビンアテンダントは、ディズニー映画に出てくるお姫様のようだった。ANAと書かれた制服を着ていて、小柄な体に、さらさらな黒髪、完璧なメイク、そしてキラキラ輝く笑顔で出迎えてくれた。搭乗するとき、彼女はエミコとマサおじさんに日本語で話しかけていた。でもどういうわけか私には英語で話しかけてきた。「あなたの席は、二人の席から通路を挟んで真横になります」と彼女は言って、ジェスチャーで通路を進むように促した。エミコとマサおじさんが通路から手を伸ばして、頭上にある荷物棚に手提げかばんを入れていた。私はベッドくらいの広さがあるプライベート席を通り過ぎて、トイレの横を進むと、座席がずらっと並んでいた。右側に3つ、中央に3つ、左側にも3つずつ、席が均等に敷き詰められている。私は自分のチケットを見て、どの席が私の席かしら、と調べようとしたところで、肩を叩かれた。振り向くと、「こちらにお戻りください」とキャビンアテンダントに言われた。私は彼女の後について、前方の広々としたプライベート席の方へ戻った。飛行機の後ろ側の座席は窮屈そうで寮の部屋みたいだったけれど、それに比べて、こちらの座席は大邸宅のように感じた。「こちらの2-Aがあなたの座席になります」

「まじで? ここに私が座るの?」

彼女は私のチケットを指差して、「はい、ファーストクラスですから」と言った。

オーケー、レディー、あなたのおっしゃる通りにするわ。ファーストクラスのチケットが、飛行機の他の客室とは完全に別の空間を意味しているとは思いもしなかった。次の搭乗客の一団が乗り込んできて、ファーストクラスの客室を通り過ぎて行く。私は彼らの視線を感じながら、パーティションで仕切られた座席に入り込んだ。座席を引っ張るとベッドのようになった。私専用のテレビ画面もついている。画面にはいろんな映画のタイトルが映し出されていて、私がずっと見たかった映画が全部そろっている感じだ。それから、―なにこのヘッドフォン。こんなクリアーな音初めて聴いたわ。ノイズキャンセラーヘッドフォンっていうのか。飛行中ずっとこれをつけてていいのね。しかも無料で!

マサおじさんは私から通路を挟んで中央のポッドに座っていて、エミコはその向こう、彼の隣に座っていた。全部同じ形のプライベート・ポッドで、2番の列には4席しかなかった。でもさっき見たエコノミー席には、同じくらいのスペースなのに、1列に9席も並んでいた。

「誰かがこの席を必要なら、代わってあげてもいいわ」と私はマサおじさんに言った。私たちが前方で快適な甘い時間を過ごしている間、ほとんどの乗客はすし詰め状態で長いフライトを耐え忍ぶなんて、フェアじゃない気がしたから。私は飛行機に乗れるだけで、(怖さもあるけど)こんなにもワクワクしてるんだから、エコノミー席だってOKよ。私が今まで暮らしてきた環境に比べたら、断然まし。(このヘッドフォンは持ってエコノミー席に行くけどね)

「馬鹿なことを言うな」とマサおじさんが言った。「そこは君の席なんだから」

ふう。本気で席を交換したいなんて思ってないわよ。

ヘッドフォンを付け直して、サウンドシステムをオンにしたところで、男性の声でアナウンスがあった。搭乗が完了したのでまもなく離陸します、と最初に英語で、次に日本語で告げた。飛行機がゲートからバックし動き出すと、テレビのモニターに安全に関するビデオが再生された。酸素マスクの使い方や、座席の下に空気を入れると膨らむゴムボートがあることなどが示された。

どういうこと?!?! なんでそんな情報を知っておく必要があるの?

これって海のはるか上空を飛ぶジェット旅客機でしょ? ゴムボートって海の水面に浮かぶものでしょ?

私の心臓が激しく高鳴り出す。機長が機内放送に割り込んできて、まもなく離陸するので乗務員も座席につくように、と指示した。私は座席の両側の手すりをぎゅっと握り締める。おでこから玉のような汗が噴き出すのを感じた。この時が来てしまった。もう後戻りできない。飛行機はどんどん前に進み、みるみるうちにスピードを上げていく。それから、こんなのなんてことないといった感じで、巨大な鉄の塊が地面から浮いた。直後、私たちは空中にいた。

なんて驚異的で、神秘的なの! こんなに怖くて、しかも同時に畏怖の念を感じたことなんて今まで一度もなかったわ。おえっと吐きたかったけれど、同時に、歓声を上げたい気持ちに包まれた。

窓の外をみると、真下にワシントンD.C.を中心としたエリアが見えた。私の故郷がどんどん遠ざかっていく。くだらないことばかりだったけど、私が唯一知っている場所。きっと懐かしくなる日も来るでしょう。私が帰るまで、ママとレジーをよろしくね。私は小さくなっていく街に語りかけた。そして祈る。今度はうまくいきますように。



チャプター 6


さて。

ここはどこかというと、ケンジ・タカハラの家へ向かう車の中。成田国際空港でまたしてもお抱えの運転手さんが車の横で待っていて、開けてくれた高級車に乗り込んだの。フライト中はずっと寝ちゃった。見たい映画はいっぱいあったんだけど、一つも見れず終いだった。でもぐっすり眠れたおかげで、今はぱっちり目が冴えて、頭は聞きたいことで溢れている。日本は左側通行みたいで、車が道路の左側を走ってるから、じっと前を見て対向車が右側から向かって来るのを見ると、めまいがした。それで会話をして気を紛らわす必要があったし、それに聞きたいことが500万くらいあった。マサおじさんとエミコは、彼らから説明してきてもよさそうなことを放置したまま何も言ってこないので、仕方なく私から聞いた。「どうしてケンジ・タカハラは空港まで私たちを迎えに来なかったの?」

「今は朝の4時なのよ」とエミコが言った。日にちを確認すると、私たちがワシントンD.C.を飛び立ってから、一気に二日経っていることがわかった。太平洋を飛び越えるって、タイムマシーンに乗ったみたい。

マサおじさんが言った。「成田は車で来るには遠すぎるから、彼は来なかったんだよ。君が彼に会いに行けばいいさ」

「なんか、ものぐさって感じね」と私はつぶやいた。

「ものぐさじゃなくて、効率を考えてのことだよ」とマサおじさんが言った。

「ここで彼と暮らすんでしょ、彼に聞きたいことがいっぱいあるんだけど」

エミコが言った。「あなたのためにガイドノートを用意したのよ。今すぐ見たい?」

「もちろん」と私はつぶやいた。マサおじさんとエミコが私の質問の多くに答えられることはわかっていた。だけど私は、ケンジ・タカハラに答えてほしかった。

マサおじさんが後部座席のライトをつけてくれた。エミコが書類鞄から白の3リング・バインダーを取り出し、渡してくれた。バインダーの透明な表紙の内側には、エル・ゾエルナー:日本と書かれた紙が挟まっていた。バインダーを開くと、セクションごとに「エチケット」、「Tak-Luxxe」、「ICS」、「食事」、「交通手段」というラベルが付いて、区分けされていた。それぞれのセクションには、パンフレットとプリントがいっぱい詰まっている。プリントはすべてラミネート加工の上質な紙で、パンフレットはリングバインダーに付属のビニールシートに挟まっている。難攻不落って感じね。これ全部読み通すのに1週間以上かかりそう。「食事? 食事をするのにエチケットのガイドなんて必要なの?

マサおじさんが言った。「日本では食事の習慣が違うから。箸の持ち方とか、スープの飲み方とか、知っておく必要があるんだ」

「日本式の食べ方なら、なんとなく知ってるわ」と私は言った。(実際に箸を使ったことはないけど)

「食事のマナーだけじゃないわ。他にも日本の習慣について色々、そのバインダーに入れておいたから慣れていってね」とエミコが言った。「たとえば、日本では数字の4は不吉だとされてるから、あまり使わないのよ」

4が不吉と何の関係があるの? 適当に不吉な数字を選んだって感じね」

エミコが言った。「私たちの習慣はあなたたちから見たら奇妙に思えるものよ、それはお互い様。だけど、エチケットは日本人の生活の基盤となるものの一つだから、マナーは大切。日本人はきっちりとした、秩序だった生活様式に誇りを持ってるの。マナーを守って生活することが秩序をもたらすのよ」

私はエチケットのセクションを開いて、そこに書かれていることの一つを読んでみた。「家の中では靴を脱がなければなりません? 自分の家で? それとも他の人の家で?」

エミコは言った。「家に入るとき、玄関で靴を脱ぐのが日本の習慣よ。―アメリカの家でいうと、玄関ホールとかの入り口ね。そこで靴を脱いで、靴は外向きに並べて置くの」

「靴を脱いじゃったら、何を履けばいいの? 足が冷たかったらどうするの?」まだ飛行機から日本の地に降り立ったばかりだというのに、私はすでにパニックになりそうだった。この新しい世界に順応できる自信がまるでない。

エミコが答えた。「靴下を履くか、玄関にスリッパが用意されてるから、それを履けばいいのよ」

「スリッパがなかったら?」

エミコが返した。「必ず置いてあるわ。それが日本の風習だから」

「だけど、もしそこが畳の間だったら、靴下だけで上がらないとだめ。スリッパも脱がなくちゃ」とマサおじさんが言った。

畳の間がどういう部屋なのか、私にはよくわからなかった。私はガイドノートのページをめくった。お辞儀について書かれたイラスト入りのページで手を止める。なんと、お辞儀だけで3ページにもわたって書かれていた! お辞儀についてこんなにいっぱい知っておくべきことがあるの? 「私にはちょっと、お辞儀の仕方はわからないかな」と言った。こんなに細かくて長ったらしい説明、読む気しないわという意味を込めたんだけど、伝わるかしら。

「大丈夫。君は外国人だから、そこまで厳格なお辞儀は期待されないよ」とマサおじさんが言った。「これだけは覚えておいて。お辞儀っていうのは礼儀正しい挨拶なんだ。あるいは、ありがとうって言う代わりにお辞儀してもいいし」

「日本人にハグしちゃだめよ」とエミコが言った。「ハグはアメリカ人の習慣だけど、残念ながら、ここではその習慣はないの」

なんか私が彼女にハグしたい、みたいな言い方ね。誰があんたになんかハグするもんですか。次から次へとおかしなルールを言ってきて、私は不安で発作を起こしそうなのよ。

「彼女の新しい学校について話しておいた方がいいかな」とマサおじさんがエミコに言ったから、私は恐怖で青ざめてしまった。私のびくついた表情をマサおじさんは見て取ったようで、怪訝な顔をしていた。

そうか、学校があったんだ。学校のことなんてすっかり忘れてたわ。「こっちでも学校に行かないといけないの? 私は日本語を話せないわ」

マサおじさんが答えた。「君が行くのはインターナショナルスクールで、授業も英語だから大丈夫。世界中から日本に来てる子供たちのための学校だよ。みんな君みたいな、海外在住者だから」

「海外在住者って?」

「駐在員とか、自分の国を離れて外国で暮らしてる人たちってこと」

エミコが言った。「ICSっていうラベルが貼ってあるセクションを見て」私はガイドノートのICSセクションを開いた。そこにはパンフレットが挟まっていて、〈International Collegiate School Tokyo〉と書かれていた。私立学校のようで、写真にはお揃いの制服を着た子供たちが、緑の芝生の上で整列して立っている。彼らの後ろにはいくつもの国旗が掲げられていて、一番上に日本の国旗があり、その下にアメリカやイギリスなどのさまざまな国の旗がたなびいていた。「そのパンフレットはワシントンの大使館にあったもので、古いパンフレットなんだけどね。ICSは世界中にある学校だから、アメリカ人の親がどこに赴任しても、子供をICSに通わせれば、アメリカ式の教育が受けられるのよ」

「私が日本式の教育を受けられるほど、頭が良くないからってこと?」

この女性には皮肉とか冗談が通じないのかもしれない。彼女は真顔で答えた。「日本式の教育はとても厳しいわ。かなり頑張らないと、ついていけないかも」

オーケー、彼女は単に私を馬鹿にしてるのね。「私、学校の制服って嫌い」私はパンフレットの写真に再び目を向けて、お揃いの制服に身を包んだ子供たちを指差した。「こんな、みんなと同じ制服なんて着たくない」

エミコが言った。「日本ではね、子供は家族の代表みたいなところがあるの。あなたが制服を着るのを拒んだりしたら、あなたのお父さんの評判が悪くなるのよ。あなたのお父さんはみんなに尊敬されてる人なんだから、恥をかかせちゃだめ。ちゃんとルールに従っていれば、意に反して誰かの機嫌を損ねることもないから。これはそのためのガイドノートなのよ」

この会話全体が不愉快極まりないってことに気づかないのかしら? ケンジ・タカハラっていう男はいったい何を求めて私を呼び寄せたの?―娘? それとも従順な女芸者?

風景が都会っぽくなってきたから、エミコのエチケット談義は無視して窓の外に集中することにした。高くて幅の細いマンションらしき建物や、逆に低くて幅の広い建物、倉庫などがひしめき合っている。街の中心地に近づくと、建物が放つ光が明るさを増した。こんなに凝縮された空間に、これほど多くの建物が密集していることが信じられなかった。車は永遠に続くかのような高速道路をひた走る。建物はどんどん高くなり、街の明かりが空に向かって弾けるように光り輝く。その風景はとても活き活きしていた。退屈なワシントンD.C.には超高層ビルなんてなかったから、テレビでニューヨークの摩天楼を見たことはあったけど、この目でじかに高層ビル群を見るのは初めてだった。まだ暗い早朝の街に、無数の高層ビルがまたたくように光を放ちながら、垂直に空に向かってそびえ立っている。多くの高層ビルは正面に電子広告を掲げていた。若い日本人の女性が優しく微笑みながら化粧品を披露している。別のビルの広告には、ビジネスマンらしき男性が映っていて、彼の頭の後ろから巨大な白猫がひょっこり顔を覗かせた。下には日本語で何やらメッセージが表示された。意味はわからないけど、ピンクと赤でカラーリングされた文字は、何かハッピーなスローガンに見えた。車がその横を通り過ぎて行く。

ちょっと待って。猫好きの私の興味を強く引きつけた。

「あの広告は何の広告?」と私は聞いた。

マサおじさんが答えた。「あれは政治の広告だよ。あの人は国会議員に立候補してるんだ」

「じゃ、後ろの猫は何?」そう言われれば、ビジネスマンではなく政治家に見えなくもないけど、猫の意味がわからない。

エミコが言った。「日本では猫は崇められてるのよ。いろんなお店の入り口にああいう猫の置物が飾られてるから、街を歩く時、気をつけて見てごらん。〈招き猫〉って呼ばれてるの。こうやって手招きしてたでしょ。お客さんとか、幸運とか、福を呼び寄せる猫なのよ」

さっきまで聞いていた日本の習慣はすべてが好きではなかったけど、猫ちゃんを崇める国なら、好きになれる見込みがあるわ。

車は高架高速道路を出て、街の一般道に降りた。まだ夜明け前だというのに、たくさんの車やバイクが列を成していて、急に速度が遅くなる。横の歩道には歩行者もいっぱい見えた。だけど、高層マンションと高層ビルが立ち並んでいるだけで、一軒家の民家は見当たらない。「ケンジ・タカハラはどこに住んでるの?」

「『Tak-Luxxe』っていうラベルの付いたタブを開いて」とエミコがまたしても命令口調で言った。ちょっと神様、彼女が私に命令するのを禁止して。

ガイドノートの『Tak-Luxxe』のタブを開いてみると、英語で書かれた旅行パンフレットだった。Tak-Luxxe(タック・ラグゼ)は、高級ホテル兼住居施設の名称らしい。東京の港区と呼ばれる場所にある55階建ての〈ハーモニータワー〉の、上の方の階、最上階までをTak-Luxxeが占めているという。Tak-Luxxeはアジアで名高い高級ホテルブランドで、世界中から違いのわかる旅行者が集う、通好みの豪華なスイートホテルだと銘打たれていた。屋上のスカイデッキプール、趣ある庭園、それから、寿司バー、パティスリー、シャンパンバー、日本式ステーキハウスといったレストランの写真も載っている。「素敵!」パンフレットを一通り見終えて、私は言った。「でも、私が住む場所と、この豪華なホテルが何か関係あるの?」

マサおじさんが言った。「君はそこに住むんだよ」

ホテルに?」やっぱり騙されてるんだわ。こんな豪華なホテルに住むなんて、あまりに現実離れしてるから、わかったわ。これはあれね、私みたいな田舎者を、こういう豪華なパンフレットで釣って、一旦喜ばせておいてから、娼婦にするとか、工場で奴隷みたいにこき使うとか、そういうやつね。私は完全な田舎者ってわけじゃないのよ、それくらい知ってるんだから。人身売買ってやつでしょ、若い女の子が連れ去られてるって聞いたことあるわ。「実際に住む家だったら、こんな旅行パンフレットに載ってるわけないじゃない。私は誘拐されたの?」

マサおじさんは声を上げて笑ったけど、私には何がそんなに可笑しいのかわからなかった。

エミコが言った。「もし『誘拐』が、富裕層の限られた人しか住むことができない建物で暮らすことを強要される、という意味なら、そうね、私も誘拐されたいわ」

マサおじさんが続けた。「Tak-Luxxeは〈タカハラ〉の家業なんだよ。アジアのあちこちで高級ホテルを経営していて、中でもTak-Luxxe Tokyoは、旗が立つ電車なんだ」

一瞬、彼の言った英語に戸惑ったけど、すぐに理解した。「それを言うなら電車じゃなくて、船ね。拠点となる場所ってことでしょ?」

「そう、旗が立つ船! 君のお父さんは、そこの49階のペントハウスに住んでるんだ」

私はその言葉を嚙み締める:49階のペントハウス。私は建物のそんな高い階まで上ったことすらないし、そんなところに住むなんてとんでもないわ。めまいでくらくらするんじゃないかしら? だけど、私は14時間のフライトを生き延びて、2日後にタイムトラベルできた。もしかしたら私には、今まで気づかなかっただけで、凄いことをやってのける超能力があるのかもしれない。

パンフレットに載っていたのと同じ〈ハーモニータワー〉が目の前に近づいてきた。車が脇道の控えめな入り口に吸い込まれるように入っていった。Tak-Luxxeと書かれた制服を着たベルボーイがすぐに車のドアを開けてくれた。車から降りると、エミコとマサおじさんは、ベルボーイたちとお辞儀を交わしていた。ベルボーイが車から荷物を降ろし、真鍮が煌めく手押しカートに荷物を乗せた。

「私はここで失礼するわ」とエミコが言った。「私は一旦家に帰るけど、今日また後ほど会いに来るわ。それまでに何かあったら、ここに電話してちょうだい」彼女は名刺を差し出してから、私に向かってお辞儀した。

私はお辞儀なんてそんな面倒くさいことはしなかった。ハグもしなかった。特にハグはこちらからお断り。「今度はもっと分厚いパンフレットを持ってきて欲しいな!」と私は元気よく言い放った。

「わかったわ!」彼女が運転手さん付きの車に再び乗り込むと、車は彼女を連れ去るように、さっと走り去った。

私はタワーを見上げる。夜明け前の空に向かって高く高く伸びる建物の、49階はどこだろうと見極めようとするが、曇がかかっていて上の方まで見えない。

私のお父さんが、あの雲の中のどこかにいるんだ。



チャプター 7


「なんでエレベーターに種類があるの? ねえ、なんでこの建物にはいくつもロビーがあるの?」私は3歳児に戻ったように、際限なくなんでと聞いてしまいそうになる。

マサおじさんと私は小さなロビーに立っている。目の前には、44階から49階行きというマークの付いたエレベーターがあり、カードをかざしてください、と書かれている。反対側を見ると、もう一つエレベーターがあって、36階から43階行きとマーク付けされ、日本語と英語が並ぶ表示板に、Tak-Luxxe Hotelのロビーは36階です、と書かれていた。

マサおじさんが言った。「タック・ラグゼは単なるホテルじゃないんだよ。住居用の部屋も貸していて、君のお父さんはその中でも一番広いペントハウスに住んでる」マサおじさんは、44階から49階行きのエレベーターの機械にカードをかざした。「こっちはタック・ラグゼの住人専用のエレベーターなんだ。そっちのエレベーターはホテルのゲスト用で、カードは要らない。乗れば、ホテルのロビーに連れてってくれる」

また新たなルールの登場だ。まったくもう。

「じゃ、1階から35階に行くにはどうしたらいいの? 1階から35階のロビーは?」

「1階から35階は〈タカハラ・インダストリー〉が所有してるオフィス・フロアになってる。このハーモニータワー自体のロビーは大通りに面した正面にあって、とても広いロビーなんだ。ここは脇道から入る裏口だからね」

やけに入り組んだ建物ね。そんな迷宮みたいな超高層ビルに誰かが住んでるなんてびっくりだわ。っていうか、私も住むの?

何人かのビジネスマン風の日本人がエレベーターロビーに入ってきて、Tak-Luxxe Hotelのロビー行きのボタンを押した。彼らはマサおじさんに頭を下げ、彼もお辞儀を返した。彼らはそのエレベーターに乗り込み、私たちはもう一つのエレベーターに乗り込んだ。

「私は絶対あんなことしないわ」と私はエレベーターの扉が閉まった後で言った。「お辞儀がなんでそんなに大事なの?」

「お辞儀は相手への敬意を表しているんだよ。どれくらい深く頭を下げるかによって、相手への尊敬度を示すこともできる」

「相手への尊敬度って?」

「年齢とか、その人の経済的状況、職業にもよるね」

「出会ったばかりの人について、この人はどのくらいお金を持ってるとかわかるわけないじゃない。それでお辞儀の仕方を決めるなら、いったいどうすればいいの?」

「子供の頃からそういう判断を積み重ねていると、わかってくるものなんだよ。直感っていうのかな、ピンと来る」

「なんか複雑ね」

「そう、実際複雑なんだ」とマサおじさんが言った。「だけど、君の場合、日本人と同じようにお辞儀をする必要はないよ。周りも、外人だからってわかってくれる」

「外人って?」

「外国人」

「でも、私のお父さんは日本人よ」

「それはわかってる。君と私にはわかってることだけど、他の日本人が君を見たら、君は純粋な日本人じゃないって思う。それが正しいのか、間違ってるのかはわからないけど、ここではそういうことになってるんだ」

まじ!? それって新入りの人には受け入れがたい酷な情報よね。だって、純粋な日本人に顔がどう見えるかによって、どういう人間かって判断されちゃうってことでしょ。一目見ただけで、彼らの仲間じゃないって見なされるのよね。

ここに来たこと自体が大きな間違いだったってこと?

エレベーターがどんどん上昇するにつれて、私の中のパニックも溢れんばかりに膨れ上がる。もうすぐケンジ・タカハラに会うんだ。私のお父さんに。私は可愛く見えるかしら? 彼に一目で嫌われたらどうしよう? 彼がやばいやつだったらどうしよう? お辞儀の仕方を間違えちゃったらどうしよう? 何か馬鹿なことを口走っちゃうかもしれない。

エレベーターの扉が開いた。

私はゴクリと唾を飲み込む。

もう後戻りはできない。

ウッドパネルの壁が目の前に現れ、シンプルながらもエレガントな廊下に足を踏み入れた。大理石のテーブルがあり、その中央には大きな蘭の生け花が飾ってある。上品なクルミ色したカーペットには傷一つない。小さな染みや綻びすらない。清潔感溢れる廊下だった。―壁や床を舐めても平気なんじゃないかと思うくらい、きれいだった。私が育った家は、一応きれいに整頓されてはいたけど、イケアで買った安い家具とか絨毯には、あちこちに猫の毛が付いていた。その後、里親の家を転々とするようになってからは、どの家も家具自体があまりないような家だった。社会福祉士さんが来ることになってる日だけは、それなりに「きれいな家」を取り繕ってはいたけれど。そんなだったから、私はすでに、ここは私の居場所じゃない、という感覚に襲われていた。まだ私の住む部屋を見ていないというのに。

まさに外人になった感覚だ。

緊張感が半端じゃなくて、呼吸困難になりそうだった。

廊下を進むと、穏やかな表情で佇む仏像があり、そこでマサおじさんが立ち止まった。仏像の周りには小さな陶製の花瓶がいくつか置かれていて、ヒスイのような淡い緑色をした植物が植えられていた。玄関らしきドアに備え付けのパネルに、彼がカードをかざそうとした。とっさに私は「待って」と言って、彼の手を遮るように、手を上げた。

彼が手を引っ込める。「どうした? 中で君の父親が待ってるんだぞ」

「わかってる」私は気持ちを落ち着けようと、一旦大きく息を吸って、オエッと吐きそうになった。これって夢じゃないでしょうね? 私は高熱にうなされて寝てるとか。「私の身だしなみ、ちゃんとしてる?」

「ばっちりだよ」そういうことを言ってほしいんじゃないの。私はゴミみたいに見えないか?って聞いてるのよ。マサおじさんは私の表情から何かを感じ取ったようで、こう付け加えた。「君はいつも通り、強く見えるよ」

マサおじさんがドアのパネルに〈パスキーカード〉をかざした。ピコンと音がして、ロックが解除され、彼がドアを押し開けた。私も彼に続いてペントハウスの中に入る。床が大理石でできた入り口に足を踏み入れた。ここがエミコが言っていた「玄関」ね。そして玄関の向こうに、いかにも上流階級って感じの瀟洒なリビングが広がっていた。背の高い東洋風の花瓶には艶やかな生け花が飾られていて、インテリア雑誌の表紙で見るような、必要最低限の家具しか置かれていない洗練された空間だった。誰も人が住んでいないモデルルームのようにも見えた。私はその空間に入っていくのが怖くなる。私はそこら中を触って壁を変色させたり、すぐに家具を壊しちゃう気がした。

「靴を脱いで」とマサおじさんに言われて、思い出した。彼は靴を脱ぎ、壁際にきちんと揃えて置かれていたスリッパに履き替えている。

なんでそんなに靴を邪魔者扱いするの? 私も彼を真似てスリッパに履き替えてみる。その柔らかいスリッパは、私が今までに足を入れたことがあるものの中で、最も履き心地抜群だった。すると突然、「靴を脱ぐ」というルールが完全に意味のあるものに思えた。こんなに快適なスリッパなら、靴よりはるかに良いわね。マサおじさんがこっちと手招きして、私は恐る恐るリビングルームに足を踏み入れる。部屋の角に一人の男性が立っているのに気づいた。

彼は背筋をピンと伸ばして、窓の外を見下ろしながら、背中で手を組んでいた。その佇まいは、49階の王室から自分の領土の様子を眺める王様然としている。マサおじさんが日本語で何か声をかけて、ケンジ・タカハラが振り向いた。

彼は思っていたより背が低く、私より少し大きいくらいだった。私のママは170センチあるから、ママより小さいわね。スーツの隙間から覗くシャツ越しに、彼の胸板が上下に動いているのがわかった。本物だ。彼も私と同様に緊張しているのかしら? 彼はエレガントなダークグレーのスーツを着ていた。彼の体型にぴったり合うように特注して仕立てたって感じで、かっこよく決まっている。黒いシルクのネクタイとシルバーのカフスボタンも相まって、落ち着いた雰囲気を醸し出していたけれど、彼の表情は、私の緊張を映す鏡のように、ぎこちなくこわばっていた。

「こんにちは」と私は言った。

「ようこそ」とケンジ・タカハラは言って、私に向かってお辞儀した。

私がお辞儀をしなかったのは、頭の下げ方を間違ってしまうかもしれないと恐れたのもあるけど、彼の顔から一瞬たりとも目を逸らしたくなかったからで、彼の顔が私とよく似ていることが信じられない気持ちだった。目と口の形もそっくりだし、尖った頬骨もそう。彼も同じことを考えながら私を見ているのかしら? DNAテストなんて必要なかった。こうして見つめ合っているだけで、親子である証拠を突き付けられている気分だ。

だけど、彼の見た目は父親って感じがしない。お金持ちのビジネスマンには見えるけど、それ以上に、笑っちゃうくらいハンサムなモデルみたいだった。東京の超高層ビルに煌めく電子広告で、男性用のヘアジェルを髪に塗り付けている姿が似合いそう。

それから、彼がニコッと笑って、―その笑顔に私はやられてしまった。ママが一瞬で恋に落ちた理由がわかった。きっと彼は今私にしたみたいに、ママにもニコッと笑顔を投げかけただけで、そんな安上がりな方法で、ママを落としたんだわ。

誰かが何かを言うべきだとは思ったけど、私は何を言ったらいいのかわからない。彼も同じ気持ちなのか、何も言わない。こんな状況では、私の神経質なお腹が悲鳴を上げるかも、と不安になったけれど、実際はそれ以上にひどいことになった。私はわっと泣き出してしまったのだ。刑務所の面会室でママに会った時は、なんとか涙が零れるのを抑えることができたのに。それなのに、なぜ今になって、涙の洪水がどっと押し寄せてきたのか。こんな最悪のタイミングで。こんなつやつやした、空高く聳える建物で、王様みたいな人と面と向かって、私はこんな陰キャみたいな、じめじめした姿を晒してしまった。本当はさりげなく振る舞って、つんつん尖った態度で接するつもりだったのに。

ケンジ・タカハラがマサおじさんの方を向いた。どうしたらいい? と彼に目で聞いている。

マサおじさんが私の背中をそっと、慰めるように叩いてくれた。「一度に受け入れるのは無理だよ」と彼は私を元気づけようとする。マサおじさんがそばに寄り添ってくれて、私はどうにか平静を取り戻した。涙の洪水もなんとか鎮まってくれたけど、鼻水が垂れてきて仕方なかった。見ればケンジ・タカハラの胸ポケットから、完璧な角度で折り畳まれたハンカチが顔を出していた。私はそれをひっつかんで、思いっきり鼻をかんでやりたかった。マサおじさんが日本語で私の父親に何か言った。

「君に会えて本当に嬉しいよ、エル」とケンジ・タカハラがついに口を開いた。私は気恥ずかしさから、涙を急いで拭う。彼の英語はマサおじさんよりも日本人訛りが強かったけれど、同時に自信に満ちた喋り方だった。「私はずっと君に会いたかったんだ。君のことを知りたかった。君のお母さんに似て、君は凄く綺麗だ」

うわっ、なにこれ、涙の洪水の第二弾がどっと来た。

まじかよ。

さっき笑顔で殺されかけたけど、彼の言葉で、私、本当に死んじゃう

私の髪は黒くてチリチリだし、眉毛は太すぎるし、緊張すると爪を噛む癖があるし、私を綺麗だなんて言う人は今まで一人もいなかったわ。このハンサムな父親だか王様だか知らないけど、この人はあれね、私が着てる高価なブランドものの服を見て、そういうことを言ってるのね、私がどうとかじゃなくて。

「君は疲れてるんだな」とケンジ・タカハラが言った。

いや、そうでもないけど。っていうか、今すぐ彼を座らせて、椅子に縛り付けて、どうやったらそんな魔法を使えるのか聞き出したかった。私のママをとりこにし、私までこんな死にそうな気持ちにさせるなんて、絶対あやしいわ。おとぎ話みたいに、末永く幸せに暮らしました、なんて現実にあるわけないじゃない。

「私は元気よ」と私は言った。言ってから、ちょっと素っ気なかったかな、と後悔した。これじゃ、まるで実のない父と娘の会話みたいじゃない。元気か? 元気よ。学校はどうだ? まあまあね。誕生日に突然人生が一変した気分はどうだ? 前もって知らせなかったから、あれだったんじゃないか? べつに

「なら良かった。マサがこのマンションを案内してくれる。きっと君が今まで住んでいたところより快適だぞ。苦労してきたって聞いてるからな。私はそろそろ仕事に出かける」

待って、それってどういう意味? 私はこんな立派な場所で育ったわけじゃないけど、スラム街で育ったわけでもないのよ。高層ビルの王様だか、スカイスクレイパー卿だか知らないけど、私のことを知った風な口を利くのはやめてちょうだい。

「まだ朝の5時でしょ? こんなに早くから仕事するの?」と私は聞いた。

「さっき大口の顧客がドバイから日本に到着したと連絡が入った。ハーモニータワーのオフィスフロアを5階分も使ってもらってるお客様だから、彼らに直接会って挨拶したい」

だけど、あなたは長い間会いたくて仕方なかった娘が到着したって聞いても、空港まで迎えに来るのは煩わしかったのよね?

ケンジ・タカハラは私に向かってお辞儀をした。お辞儀の深さが私への尊敬度を示すらしいけど、彼が私をどのランクに位置づけているのか、私には全然伝わってこない。そして彼は何も言わずに、くるっと後ろを向くと、部屋を出て行った。

これっていったいどういうこと? 彼が私を呼び寄せたんでしょ? はるばる遠くから飛行機に乗ってやって来た私を放っておいて、さっさとどっかに行っちゃうなんて。「彼って失礼ね」と、ペントハウスのドアが閉まるとすぐに私はマサおじさんに言った。「なんか私がゴミ捨て場で育ったみたいな言い方だったわ。なんか決めつけてた。彼は一度も会いに来なかったんだから、わかるわけないじゃない」

「彼は失礼じゃないよ」とマサおじさんが言った。「極度に個人的な状況っていうのは、その当人にとってはいつでも大変なものなんだ。特に彼の場合は」それはそうでしょうね。ケンジ・タカハラは日本に帰って来いって家族に命じられたら、妊娠中の私のママを置き去りにして、さっさと帰っちゃうんだから。彼はまるでわがままな赤ん坊ね。「君はだんだんと彼に慣れていくよ」

なんて言い草なの。私がちゃんと大人になるまで育て上げるのは、親である彼の務めでしょ。「私が彼に慣れていくんじゃなくて、彼が私に慣れていくべきよ」

私はリビングルームと、それに隣接するダイニングを歩いて、―というか、こそこそと忍び歩くようにして、見て回った。初めての場所を見て回るのは、それなりにドキドキしたけど、案内役を務めるはずの父親がいないのは残念だった。ソファ、ガラス製のコーヒーテーブル、肘掛け椅子、テレビとテレビの下のキャビネット、植物が飾られた花瓶、壁には美術館に飾ってあるような日本画、ダイニングテーブルに手を置いてみたら、こんなに滑らかなウッドテーブル初めてって感じの手触りで、その周りに椅子が6つあった。そして特筆すべきは、写真とか、本とか、普通ならスペースのあちこちに散らばっていて、そこに住んでる人の趣味が垣間見れるはずのものが、全く何もなかった。

「彼ってインスタントラーメンみたいね」と私は言った。

「どういう意味?」とマサおじさんが聞き返した。

「調理に1分、味わって食べようと思ったら1分で食べ終わっちゃって、もういない」

「彼はラーメンとは少しも似てないよ」

「お腹が空いちゃった」ラーメンという言葉を口にした瞬間、何も食べていないことを思い出した。最後に食べ物を口にしたのは、いつだったかすぐには思い出せないくらい遠い昔に思えた。私はキッチンに入っていった。染み一つない、ピカピカのキッチンカウンター。ステンレス製の電化製品。洒落たデザインのオーブンレンジは、まだ一度も使ったことがないように見える。私は冷蔵庫を開けた。調味料の類いは一応揃っていたけど、豆乳と、あとはテイクアウト用の容器に入ったサラダがあるだけだった。

マサおじさんが私に続いてキッチンに入ってきて、私の横から冷蔵庫の中を覗き込んだ。「エミコに言って、食料品を買ってきてもらうよ。食べたい物のリストを書いておいて。彼女に渡せば買ってきてくれるから。日本はラーメンの本場だからな、本場のラーメンを味わってみるか?」

「もうお腹ぺこぺこだから、インスタントラーメンでいいわ。お湯も入れなくていいから早くちょうだい。麵をかじって食べるから」

「10分くらい待てないか? そうすれば本物のラーメンが食べられるぞ」

「え!? こんなに朝早くから、ラーメンを食べられるお店がやってるわけないじゃない」メリーランド州のレストランは夜10時までにはどの店も閉まって、午前11時にならないと営業を再開しないわ。なんてったって私はシングルマザーに育てられたカギっ子だからね。しかもママは元ウェイトレスだから、その辺の事情には詳しいわ。

「ここは東京だよ。ニューヨークと同じで、何時だって誰かが起きて働いてるんだ」

「10分って、またまた冗談でしょ?」

「ルームサービスって知ってるか? 見てろ!」彼はキッチンの壁に備え付けの電話機に近づき、受話器を取って、日本語で話し始めた。いったいどこにつながって、誰と話しているのだろう? 会話の途中で、彼はこちらを振り向き、私に聞いた。「君はアメリカ人だし、あの暗い砂糖水を食事と一緒に飲むんだろ?」

一瞬、何のこと? と思ったけど、マサおじさんが昔、コーラのことを「黒い砂糖水」と呼んでいたことを思い出した。「もちろん飲むわ!」そういえば、私がまだ幼い頃、ママはコーラは健康に悪いからって飲ませてくれなかったけど、唯一コーラを飲めたのは、マサおじさんが外に食べに連れて行ってくれた時だった。

電話が終わると、マサおじさんは私に向かって片腕をクイッと動かして、廊下に出るように促した。「ついて来て。食事が到着するまでの間に、このマンションを一通り案内しておくから」私たちは廊下に出て、広い玄関に戻った。そこには3つのドアがあり、中を見ると3部屋ともベッドルームだった。―真ん中の部屋は広々としたスイートって感じのベッドルームで、その隣の部屋は狭いベッドルームでオフィスっぽい内装になっていた。最後に開けたドアは、中くらいの広さのベッドルームで、ツインベッド、洋服箪笥、収納ケース、それに机と椅子があった。それらの家具は一目見ただけで最高品質だとわかる高級品で、部屋はちり一つないくらいに清潔だったけれど、それ以外は取り立てて目を引くものはなかった。私は実際にホテルに泊まったことはないけど、テレビで見たことはあって、このマンションは広くて家具が立派ってだけで、テレビで見たホテルの客室と同じ感じに見えた。マサおじさんがツインベッドの部屋のドアの前に立ち、廊下から中を指差して言った。「ここが君の部屋だよ。今はまだ何も施してない素の部屋だから、君が好きなようにアレンジして飾り付ければいい」

私は思い切って中に入ってみた。彼が明かりをつけた。私のベッドルームはそんなに広くなかったけど、私が必要になりそうなものはすべて揃っていた。クローゼットを開けてみると、中は衣服でいっぱいだった。―ハンガーにジーンズとスカートがかかっていて、ブラウスにはまだタグが付いていた。壁に吊るされた棚には、きちんと折りたたまれたシャツとセーターが置かれていた。小さなロッカーみたいな整理棚には、靴類が並んでいた。―スニーカー、サンダル、スリッパもある。「前にこの部屋を使っていた誰かが、ここに洋服を置いていったの?」と私はマサおじさんに聞いた。

「いや、全部君のためにエミコが買い揃えたものだよ。気に入らないものがあったら、彼女に言えば返品してくれるし、サイズが合わなければ交換してくれる」私の頭は爆発しそうだった。これって現実なの? 彼は付け加えた。「新しいiPhoneが机の引き出しに入ってる。君のスマホだよ」

まじで?」私は机に駆け寄ると、引き出しを開けた。本当に、まだ箱に入ったままの新しいiPhoneがあった。私はそれを手に取ると、iPhoneにキスした。「ありがとう、嬉しいわ。ほんとにありがとう」

「君がここで新生活を始めるのに必要な物は、エミコがすべて揃えてくれたと思う。彼女が何か買い忘れてる物があったら、彼女に言えばいい」

彼女は私に言い忘れたことがあるわ。私のお父さんは、今まで16回もすっぽかしてきた私の誕生日プレゼントを一気に穴埋めしてくれるって、彼女は前もって言うべきだったわね。

マサおじさんが言った「10分待てば食べられる」というのは、冗談ではなかった。玄関のベルが鳴った時、秒単位できっかり10分計ったんじゃないかとさえ思えた。Tak-Luxxeの制服を着たウェイターが玄関でマサおじさんとお辞儀ゲームを繰り広げた後、カートを押して入ってきた。カートの上にはシルバーのボウルがいくつかと、ガラスの瓶に入ったコーラが2本置かれていた。マサおじさんが彼に言った。「このままでいいよ。後は自分たちで準備できるから」彼らは日本語で二言三言交わし、それが済むと、ウェイターは私に向かってお辞儀をして、なんだか得意げに英語で、「良い一日を!」と言った。それからマサおじさんにもお辞儀して、部屋を出ていった。

マサおじさんがダイニングテーブルにランチョンマットを敷いて、私はカートの食べ物を運んできて、その上に置いた。ボウルからスープを掬って、シルバーのお椀に移す。湯気がぶわっと舞い上がって、この上なく美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。他のボウルには、太くて新鮮そうな麺、やわらかいお肉、半熟卵と、卵の上にはねぎがこんもりと盛り合わせてあった。

私たちは席につくと、コーラの瓶を掲げて、軽くカチンと合わせた。「乾杯!」とマサおじさんが日本語で言った。

「どういう意味?」

「チアーズって感じ。喜びを分かち合おう、みたいな」

私はスプーンでラーメンの汁を掬って、最初の一掬いを口の中に入れてみた。まさに喜びを分かち合おうって感じだった。「オーマイガー!」と私は叫んだ。

マサおじさんは私の絶叫を誤解したようで、「君には辛すぎたか?」と聞いてきた。

「そうじゃないの! スープにこんなにいろんな味が詰まってるなんて信じられないのよ。待って。この麺も新鮮でモチモチしてて、こんなに美味しいヌードルがあったなんて、こんなの初めて食べたわ」私はごくごくとスープを飲んで、麺をずるずるとすすってから、続けた。「正直に言うと、本格的なラーメンも、どうせインスタントヌードルとそんなに変わらないんでしょって思ってたのよ。だけど、レベルが違いすぎる。これは私が人生で食べた中で最高に美味しい食事よ。あ、一つだけ例外があったわ。私たちのYMCAの水泳チームが地区大会で優勝した日に、コーチのヴィッカーズがみんなを〈レド・ピッツァ〉に連れていってくれたの。みんなで喜びを分かち合いながら食べたピザは、あれは最高に美味しかったな」

彼は笑った。「まだ水泳は続けてるのか? 覚えてるぞ、君はすごく泳ぎが上手だったよな」

「もうやめちゃった。ママが交通事故に遭って、引っ越さなくちゃならなかったし、久しぶりに泳いでみたら、体が付いて行かない感じで、もうみんなに追いつけないわ」

「ここでまた泳いでみるといい」彼が真剣な表情で力強く言った。私は一瞬感動しかけたけれど、マサおじさんのラーメンの食べ方を見て、噴き出すように笑ってしまった。このエレガントな男性は、オーダーメイドの埃一つない高級ビジネススーツを着ているくせに、世界中を飛び回り、外国語だって話せるっていうのに、3歳児みたいに麺をじゅるじゅると吸い、口の周りに、というか顔の下半分に、べちゃべちゃとスープの斑点をつけているから。

「信じられない! そんなに勢い良くじゅるじゅる吸い込まなくたって!」

「日本ではこうやってラーメンを食べるのが最適だと考えられているんだ。それに、こうするとすごく美味いんだよ...」彼は大きなボウルを持ち上げ、直接口に注ぎ入れるようにしてスープを飲んだ。私は目を丸くして見入ってしまう。次に彼はボウルをランチョンマットに戻すと、箸をお肉にグサッと突き刺した。箸がお肉の上にまっすぐに立つ。「これはやってはいけない事とされてる。それから、料理の横に醤油が入った小皿が置いてあった場合、食べ物を醬油に浸して食べるんだ。逆に醬油を食べ物にかけちゃだめ」

「かけちゃだめって冗談でしょ?」

「冗談じゃない」

エミコがエチケットノートを作ってくれたことに感謝しなくちゃと思った。どうやらあの分厚いノートをちゃんと読まないといけないみたいね。そして食べるわ。思う存分いっぱい食べるわ。

私は言った。「新しい学校のカフェテリアのメニューも、こんなに美味しいのかしら」

「明日になればわかるよ」

私の新しい父親も私に会ってから5分もしないうちに私を放置して出て行っちゃったけど、この人も次から次へと衝撃的なことを言って、私を戸惑わせるわね。「待って。そんなに急に学校に行くなんてあり得ないわ。もう少し時間が必要でしょ、ほら、新しい場所に慣れる時間っていうか」

「そんな悠長なこと言ってると、日本では怠けてるとみなされちゃうぞ。今日一日休んだら、明日から学校の勉強を再開させるんだ」

火曜日の夜にワシントンを出発して、フライトは14時間だったから、まだ水曜日のはずなのに、なぜかもう木曜日の朝で、明日は金曜日! 時間が速すぎて混乱しちゃうわ。それに、週終わりから新しい学校に入るなんて、なんか間抜けって感じ。でも、考えようによってはその方がいいかも。次の日はもう休みだから、新しい学校に馴染めるか(馴染めないか)、不安を抱えながら長い一週間を過ごさなくて済むし。急に飛び込みで入るのも悪くないわね。「ケンジ・タカハラが学校まで送ってくれるの?」

「たぶん無理なんじゃないかな。彼は明日も仕事だし、君の新しい学校は、ここから1時間くらいかかるから」

彼は私が生まれる前から私を拒絶した。だから、私が外国の学校に通う初日に、彼が時間を作ってくれなくても不思議じゃないはずなのに、こんなに胸が焼けるように苦しいのはなぜ?―1時間もかかるから私を送ってる場合じゃないってこと? なんかひどいわ。「じゃあ、あなたが送ってくれるの?」と私はマサおじさんに期待を込めて聞いた。

「すまない。私は明日の朝早くにジュネーブに戻るんだ。何週間かしたら、また君の様子を見に来るよ。それまではFaceTimeでいつでもビデオ通話できる」

何週間かしたら? ちょっと前にマサおじさんと再会したばかりなのに、もう彼とお別れってこと? 私は心のあちこちを踏みつけられたような、また彼を失う寂しさを感じた。「じゃあ、私一人で頑張れってこと?」

「そういうこと」

なんか、前の生活に逆戻りじゃない。

ここでは誰も、毎日シャワーを浴びることを禁止しないみたいだけど、それ以外で何か改善されたことってある?

私は窓の外に目を遣り、49階から東京の朝の街並みを眺めた。この高さからでも、近くにある他の高層住宅やオフィスビルの窓越しに、人の姿がちらほら見える。誰もがそれぞれの一日を始めようとしているようだ。建物がひしめくこの街には、何百万人いるのか知らないけど、たくさんの人がいて、そこには新たに見つけた父親も含まれていて、だけど、私は独りぼっち。前の世界に戻ったような気がする。そこで、ふとあることに思い至り、不思議と心が和んだ。

私はあの世界で生き残ったんだ。あっちでできて、こっちでできないはずがないじゃない。ここでも生き残る術を見つけてみせるわ。







藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

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