『19曲のラブソング』1
『19 Love Songs』 by デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年01月26日~)
トラック 1
クイズボウル、キリストの裏切り者
僕は時々、ソン・キムが着ている学校のロゴ入りジャケットが無性に気になって、何も手につかなくなる。
彼はそれを着るために懸命に根回しをした。彼に才能があることを否定する者は誰もいなかった。―実際、彼は僕たちのチームのエースだった。でも先例がなかった。僕たちの学校から全米高校クイズ選手権、通称クイズボウルに出場した選手は今まで誰もいなかったのだ。僕らの顧問の先生は全面的に彼を支援したけれど、他の先生たちは、クイズボウルに出るという計画を聞いたとき、口にくわえた指導用の笛を飲み込みそうになった先生もいたくらい、みんな驚いた。僕たちは校長室まで出向いて直訴した。そして地区大会で僕らのチームが優勝したことにより、ソンの願いは聞き入れられ、クイズボウルへの参加を申し込んでもらえた。クイズボウルが行われるインディアナポリスに向けて出発する4週間前、高校のロゴ入りジャケットが彼に手渡された。彼は僕たちの高校の歴史上、初のクイズボウル出場者となったのだ。
僕は、個人的には、悔しかった。
僕の抱いた屈辱感は、チームへの完全なる裏切りだった。もしクイズボウルに出場するチームの内部から裏切り者が出るとすれば、それは僕になるだろう。僕は補欠選手だった。
チームのコーチがたまたま僕の物理の先生で、その先生に誘われて、僕はチームに入ることになった。チームの他の5人のメンバーは、2033年に太陽を周回する土星の軌道の円周の平方根なら全員答えられるんだけど、小説家のブロンテ姉妹は何人姉妹だったでしょう、みたいな問題になると誰一人答えられなくなるので、僕が駆り出されたわけだ。実際、彼らに馴染みのあるイギリスの作家といえば、コメディ作家のモンティ・パイソンだけだった。―そして、モンティ・パイソンに関する問題がクイズボウルに出題されることは滅多にない。つまり彼らの知識には、ぽっかり空いた大きな穴があったわけで、その穴を埋めるのに最適なコルク栓として、文学青年の僕に白羽の矢が立った。僕はいわゆる古典作品をそう多くは読んでこなかったけれど、古典に関する知識だけは、ずば抜けてあった。僕はいわば、歩く百科事典ならぬ、ネットで古典を閲覧できるサイト「クリフズノーツ」の、歩くバージョンだった。とはいえ、僕は『失われた時を求めて』とか、『叫べ、愛する国よ』とか、『ミドルマーチ』といった古典はどれも、実際の本に触れたことすらなかった。それでも、それぞれの作品が誰によって書かれ、何について書かれているのかは知っていた。ただ、化学の周期表のことになると、僕はせいぜい10個程度の元素しか名前が出てこない。まあ、それはべつに問題ない。―というのも僕のチームメイトたちが全員、周期表を丸ごと暗記しているから。彼らが口にするジョークは、「彼女のニュートリノになりたい!」といったものだった。
ソンは僕らのチームで群を抜く、無敵のリーダーだった。―普段の練習や校内の大会に限っては、まさに敵なしだった。ただ、彼からクイズを取っ払って見てみると、彼はどのクラスにもいるような、単なる数学オタクでしかない。存在感が薄いから、いじめがいもないし、普段の行動はぎこちなくて、腹を立てる気も失せる。そんな平凡な彼が、学校の代表ジャケットを身にまとった瞬間から、見違えてしまうほど印象が変わったのだ。疑いの余地なくもう二度と、彼が元の平々凡々とした存在に戻ることはないだろう。僕たちの学校の代表ジャケットは、表側はすべてが同じデザインだったので、真正面から見ると、どれも同じに見えた。―ワインレッドを基調としていて、両袖が白いのが特徴で、胸のところに白抜きで「R」とある。しかし、背中の絵柄はクラブによってさまざまだった。―たとえば、レスリング部のジャケットの背中には、二人の男が取っ組み合っている絵柄。アメフト部の背中には、アメフトのボール。水泳部の背中には、平泳ぎをしている競泳選手といった具合だ。そして、クイズボウル用に学校側が最初に提示したデザインは、顔の輪郭しか描かれていない白い少年が壇上に立っている絵柄だった。おそらく、「スピーチ・ディベート部」が全国大会に出場した時に使ったデザインのお下がりだと思われた。なんだか、男性用トイレの入り口に描かれたあのシンボルマークが、就任演説をしているみたいだった。ソンは、この絵柄だとクイズボウルの「チーム戦」という側面を伝えきれていないと言い、学校側に掛け合って、新たに4人の顔のない白い少年を付け足してもらった。そうして出来上がったジャケットの背中に描かれた5人のメンバー。どうやら、そのうちの一人が僕を表しているらしい。僕は補欠だったけれど、彼らはローテーションで僕も5人の中に入れてくれたから。
僕は次の4つの理由から、クイズボウルのチームに入らないかという誘いを受け入れた。
(1)僕の志望大学の入試の申請要件にクイズボウルも入っていて、出場すると有利になるから。
(2)僕の志望大学に出願するためには、クイズのコーチでもあるフィリップス先生の物理で、良い成績を取らなければならないのだが、普段の勉強だけでは良い成績を取れそうにないから。
(3)僕はジェーン・エアが小説の登場人物で、ジェーン・オースティンは小説家の名前だと知っていて、それを知っているのはチーム内で僕だけだということに、ひねくれた優越感のような喜びを見いだしたから。
(4)自分でもはっきりつかめない、もやもやとした感情なんだけど、どうやら僕はダミアン・ブルームのことが好きみたいだから。
形がはっきりと定まらない恋というのは、一方通行の恋とは大きく違う。片思いの恋なら、少なくとも自分のやっていることに自覚があるし、相手から恋心は返ってこないとしても、何を馬鹿なことやってるんだ、と自分を顧みることもできる。その点、もやもやとした恋というのは扱いが難しく、自分でも自分が恋をしている、とはなかなか認めないのだ。それでもロマンティックな見えない力に包囲されていて、―彼の姿を見たくなり、いつでもすぐに彼の存在に気づく。彼が言ったすべての言葉を聞き逃さず受け止め、まるで他の人の言葉より重みがあるみたいに、反芻する。でも理由は判然としない。自分のしていることがわからないのだ。無意識に近い状態で、自分の足が動いていることも認めることなく、地球の果てまで彼を追いかけてゆく。
メンバーの一人、ダミアンは野山を走るクロスカントリー走の花形選手でもある。彼はもっぱらクロスカントリー部の仲間とつるんでいることが多く、校内でも人気のある生徒だった。他の生徒たちは誰も、彼をクイズボウルに出るようなオタクだとは思っていないわけで、彼は勉強もできるから、単なる気まぐれでチームに入ったのだろう、くらいの認識だった。たぶんだからこそ、ダミアンは抵抗なく、ソンのチームの代表ジャケットを着ているのだ。一方で、どうやら僕は周りの目から見ても、オタク側に属しているらしい。他の4人のメンバーと同じ仲間というわけだ。ソンの他のメンバーは、フランシス・オー(SAT満点、悲劇的な肌荒れ)、ウェス・ワード(IQ250、体重も250ポンド(113キロ))、それから、ゴードン・ホワイト(計算機付きの腕時計をはめ、メガネがよく似合っている)だった。僕の校内での認知度は、廊下にある水飲み台と大差ないだろう。―用がない時は存在すら忘れられている。みんな必要な時だけ、僕が近くにいてくれればそれで十分満足みたいで、誰も必要以上に僕に話しかけてこない。僕はそれでも全然平気だと胸を張って言いたかった。僕に必要なものは、本と、食べ物と、薬と、クイズボウルと、それから他の水飲み台みたいな少年たち、それだけでいいじゃないかって言いたかったんだけど、そんな気持ちはすぐにもろく崩れ落ちた。僕は人気のある生徒たちに惹かれてしまう性格だから、盲目的に人気の側へとすり寄ってゆくのだ。同時にわかってもいた。僕の友人たちは負け組ばかりで、しかも、友達と呼べるのかどうかさえもあやしい。
州の大会で優勝したとき、ソン、ダミアン、フランシス、ウェス、ゴードンの5人は、あたかもMIT(マサチューセッツ工科大学)に奨学金で入学できる権利を獲得したかのような、はしゃぎようで、互いに喜び合っていた。フィリップス先生は涙を流しながら、奥さんに電話で優勝を報告していた。数日後、地元の新聞社からカメラマンがやって来て、僕たちの写真を撮った。僕はなるべく目立たないように、みんなの後ろに隠れるように位置取った。ソンは地区大会の時からすでに代表ジャケットを持っていて、白い袖がユニコーンの角でできているのではないかと思うほど艶やかに、キラキラと輝いて見えた。地元紙に記事が掲載されると、廊下とかで僕におめでとうを言ってくれる人もいるにはいたけれど、ほとんどの人は、すれ違いざまにクスクスと僕を見て笑ったり、あるいは無関心に通り過ぎていった。インディアナポリスへの旅費をまかなうために、僕たちは地下のホールに即席のお店を作って、お菓子を売ることになった。ただ、僕自身は両親の財布からお金をくすね、自分の貯金にも手を付けて、僕に割り当てられた分のお菓子を一気に買ってしまった。同級生たちにチョコレート菓子を押し売って、カンパの代わりにお金を集めるなんて、そんな回りくどいことしていられなかったから。
ソンは、当然のように、僕たちにも全国大会にふさわしい代表ジャケットを発注して手に入れ、着るように促してきた。ダミアンはすでにクロスカントリー部で作ったきり、一度も着ていない代表ジャケットを持っていたので、彼はそれで良いことになった。フランシス、ウェス、ゴードンの3人は、インディアナポリスへのチケット代とか、旅行に必要なものを買ってしまって、もうお金がない、と言った。僕は単純に、嫌だよ、と言った。僕の記憶が正確なら、僕はソンに向かって、「君がいくら言ったって、僕はそんなの着る気ないから」と強い口調で言い放った。みんなが一瞬黙りこくった。それでも、ソンはひるまなかった。彼は僕たち全員にジャケットを着させるために、次の作戦に打って出たのだ。
クイズボウルのチームに参加しようと決めた理由が4つあったように、そこで辞めずにチームに留まることにした理由も2つあった。
(1)まだはっきりつかめない、もやもやとした感情なんだけど、どうやら僕はダミアン・ブルームのことが好きみたいだから。
(こういう感情はなかなか変わるものではない。)
(2)僕は他の人たちを打ち負かすのが、本当に好きで仕方ないから。
断っておくと、僕は勝つことが本当に好きで仕方ない、と言っているわけではない。「勝つ」というのは、より抽象的な概念だし、クイズボウルにおいて「勝つ」と言えば、次のラウンドに進むことを意味する。すなわち勝ったら、もう一度同じことをするはめになる。そうではなくて、僕は他の人を打ち負かすのが好きで、その瞬間の対戦相手の表情を見るのが好きなのだ。彼らが答えられなかった問題に僕が答え、オタクな面々が悔しそうに、俺らはこのステージ止まりか、と身のほどを知るのを眺めるのが大好きだった。他の人の自信を失わせるために、僕は細かいトリビア的な問題を好んで使った。僕は文学の問題に関しては、答えられなかったことは一度もなかった。―僕は文学作品の著者や全集を知り尽くし、文学の鎧を着るように知識武装していたから。一方、数学、科学、歴史の問題に関しては、端から諦めて答えようとさえしなかったし、誰も僕に期待もしていなかった。ゆえに、僕は負け知らずで常に勝った。
一番やっかいなのは、チーム内での練習だった。3人ずつ2チームに分かれて、お互いに競い合うのだ。問題に正しく答えることには何ら支障はなかった。―僕が困ったのは正解を言った後で、思わずこぼれ出てしまいそうになる笑みを抑えなければならないのがつらかった。そうやって僕に表情まで常にチェックさせるのは、ダミアンの存在だった。彼の近くでは、僕はいい子でいたかった。
僕にインディアナポリスへ向かう情熱があるとすれば、それはダミアンと一緒の部屋に泊まれるかもしれないという淡い期待だった。一晩中二人で、知識の先端同士をくっつけ合いながら、会話しているところを夢想した。それぞれの学校の代表ジャケットを着て、いろんな州から集まった精鋭どものオタクっぷりを笑いの種にして、僕たちはゲラゲラと笑っていた。密かに持ち込んだビールで乾杯し、ろくでもない深夜番組を眺めながら、彼と肩を寄せ合うように過ごす時間を居心地いいと感じている。いつしか周りの世界全体が居心地いいものへと移り変わる。そう、これは遠くかけ離れた別々のベッドで寝ながらのファンタジー...遠くかけ離れた別の世界でのファンタジー。それが僕の望みだった。
インディアナポリス行きが近づけば近づくほど、僕の中でそれを楽しみにしている気持ちが膨らんでいった。そして、ソンはどんどん独裁的になっていった。前までは、彼は真剣にクイズボウルに向き合っているんだな、くらいの認識だったけれど、今は許容範囲を超えていた。彼は毎日放課後6時間、―ピザが持ち込まれたのは良かったけれど、―クイズの練習を僕たちに強いた。休み時間に廊下ですれ違った時も、彼は僕たちに向かってクイズの問題を投げかけてきた。最初は無視して通り過ぎていたけれど、だんだんと彼の声は大きくなり、めったやたらにはっきりとした声で叫んでくるようになった。僕たちの学校は4つの廊下がつながっているんだけど、今ではどの廊下を歩く生徒も、クイズボウルの代表ジャケットを着た男子生徒の叫び声を聞くことができた。「最も最近ノーベル文学賞を受賞したアメリカの作家は誰?」
それに対して僕は、はるかに小さな声で「ジェイムズ・パタースン」と答えた。
ソンは青ざめた表情を寄せてきて、「間違ってるよ」とささやいた。
「トニ・モリスン」と僕は訂正した。「ちょっと君をからかってみただけ」
「つまらない冗談はよせよ」と彼が言うのを尻目に、僕は教室へ駆け戻った。
少なくとも、そうしたソンの行動は、僕にダミアンとの話の種を提供してくれた。僕はお昼休みに食堂の列に彼が並ぶのを見計らいつつ、偶然を装って彼の後ろに並んだ。
「ソンは君にもグイグイ来る?」と僕は聞く。「即席のクイズで」
ダミアンは笑みを浮かべて言った。「ああ、ソンらしいというか、ソンはああいうやつなんだよ。尊重してやらないとな」
僕がソンのそういうところを尊重するようになった唯一の理由は、ダミアンが尊重しているから、ということだった。それ以外に僕には理由がわからなかったし、その時は、それで十分な理由といえた。
とはいえ、毎日午後の廊下で繰り出されるクイズ攻撃に、僕は辟易していた。僕はますます彼の質問に真正面から答えなくなっていったので、彼の方もますますイライラを募らせていった。
「ジェーン・オースティンが最後に書き上げた小説は何?」
「膣と処女性」
「『オセロ』でイアーゴーが最後に殺した登場人物は誰?」
「彼の召使のバスターディオだね。浄水ポットのフィルターを変え忘れて殺された!」
「ハンス・クリスチャン・アンデルセンの『リトル・マーメイド』はどんな終わり方?」
「彼女は魚になって、ニモと結婚する!」
「ファック! ふざけるのはよせよ」
ソンの口からそんな汚い言葉が出てくるとは思わなかったから、一瞬耳を疑った。
彼は続けた。
「君は僕たちを妨害しようとしてるのか? 君は負けたいのか?」
廊下を歩いていた生徒たちが立ち止まって、ニヤニヤしながら見物している。―クイズボウルに出る二人の本格的な仲違いが面白くて仕方ないらしい。
「君は僕と別れたいってこと?」と僕はジョークを飛ばした。
ソンの顔は赤くなり、みるみるうちに真っ赤になった。
「また練習の時に話そう!」と言って、彼はそそくさとその場を後にした。振り向いた彼のジャケットの背中には、5人のクイズボウラーが描かれていた。僕を睨み付けるようでもあるが、顔の輪郭しか描かれていないので、なんだか腑抜けだ。彼は嵐のごとく走り去った。
インディアナポリスへ発つ直前の最後の練習に、僕は10分遅れて練習室に入った。フィリップス先生が心配そうな表情で僕を見てきた。ダミアンは無関心な感じだった。ソンは慌てふためき、怒っていた。フランシスも慌てふためき、ゴードンも腹を立てている様子だ。ウェスはスマホで何やらゲームをやっているようで、そっちに気を取られていた。
「みんな、もっと真剣に受け止める必要がある」とフィリップス先生が檄を飛ばした。
「僕たちのチームが本番でベストフォーに残らないと、小さくて、無防備なコアラたちが殺されちゃうからね!」と僕は理由を補足するように言った。
「君はチームに残りたいのか?」とソンが聞いてきた。彼の頭のハードディスクドライブに僕が磁石をくっつけたみたいに、ショート寸前といった形相だ。「そんなことを言い出すってことは、そういうことなんだろ?」
「いや」と僕は冷静に言った。「単なるジョークだよ。クイズボウルってそういうものでしょ? ジョークっていうか、連想して答えを導き出すパントマイムっていうかさ」
「いい加減にしろ、アレック」とダミアンが言った。「ソンはただ、俺たちに勝ってほしいだけなんだ」
「違うよ」と僕は言い返す。「ソンは単に、僕たちに勝ってほしいだけなんだ。『ただ』と『単に』は違うんだよ」
ダミアンと他のメンバーがきょとんと僕を見ていた。そっか、と僕は思い出す。彼らは数字の人たちで、言葉の微妙な差異には興味ないのか。
それでも、ダミアンは僕に対してメッセージを押し付けるように、こう言った。「少し休んでろ」僕はその言葉に従って、練習の残り時間を休んで見ていた。僕は一問も間違えることなく、頭で答えていた。パール・S・バックが書いた『大地』以外の本を4冊挙げよ、という問題にも答えられた。―これは文学オタクにとって、かなり難易度の高い問題で、いわば理系オタクが原子爆弾の作り方を知っていることに相当する。まあ、どちらも知っていたからと言って、あまり褒められたものではないけど。
ただ、傍から黙って見ているだけでは、何の見返りも称賛も返ってこないから、しらけてしまう。最後の練習が終わり、みんなが練習室を出ようとすると、フィリップス先生がホテルの部屋割りを発表した。その場で適当に組み合わせを決めたといった感じだった。そして、ダミアンとの相部屋を勝ち取ったのは、ソンだった。僕はウェスと同じ部屋で泊まることになった。彼は決戦に向けて気合を入れると言って、『ロード・オブ・ザ・リング』の戦闘シーンを見るのが好きだった。
練習室を出て行くソンの表情を見て、僕はまたしても敗北感を味わった。ソンは確かにほくそ笑んでいたのだ。
もしソンが好きな部に応援を頼んでいいとなったら、僕たちは空港でチアリーディング・チームに見送られることになっていただろう。僕にはそれがわかる。彼は絶対チア好きなのだ:
トゥー、フォー、シックス、エイト、軟体動物の繁殖方法はどんなもの?
ワン、トゥー、スリー、フォー、デンマークの物理学者ニールス・ボーアが生まれた場所の地名を答えよ!
それから空港で出発する直前に、応援してくれたお返しと称して、ソンは彼女たちが手に持つポンポンの体積と質量を計算してあげるだろう。チアの女の子たちはソンを見送りながら、ポンポンをそれぞれの胸に当て、ソンが着ているジャケットが欲しいと夢見るのだろう。彼が帰ってきて、彼から選ばれ、ソンの名前入りのジャケットをもらえたら、その子は学校中で一番有名な女の子になれるのだから―
「アレック、搭乗するぞ」ダミアンに声をかけられ、僕のひねくれた白昼夢はそこで途絶えた。因果応報の神々は、今回は僕に幸運をもたらし、飛行機の中ではダミアンの隣に座ることができた。と思ったのも束の間、飛行機が離陸した瞬間、彼は眠り込んでしまったのだ。(なんてことだ。神々の気まぐれにはいつも振り回される。)飛行機が下降し始め、目的地が近づいてきた頃になって、ようやく彼は目を開き、僕の方を向いた。
「緊張してるのか?」と彼が聞いてきた。
「緊張なんて、僕には無縁だよ」と僕は正直に答えた。「要するに、大学に出す成績証明書の見栄えを良くすればいいわけで、優勝しなくたってそれは可能だよ。僕はすでに同情を誘うストーリーを考えてある。僕は肺結核のひどい症状に見舞われながら、両親の反対も振り切り、飛行機の中では過去に起こった悲惨な墜落事故の話におびえながら、24時間休まることなく咳き込んで口も利けない状態だったにもかかわらず、トーナメント戦に臨むんだ。そういう障害を乗り越えないと駄目なんだよ。ただ優勝したって誰も関心を持ってくれない。そこに逆境がないとね、実際のスポーツだってそうでしょ」
「おい、待てよ」と彼は言った。「お前は本を読みすぎだな」
「だけど、君は科学について知らなすぎだよ。僕は結核だって打ち明けたんだから、君はその通路を駆け足で逃げて行くべきなのに」
「まじか」と彼は言って、僕に少し顔を近づけてきた。「お前の隣に座ってしまったがために、俺も感染するのか」
「ほらまた」と僕は言って、体を反らすように距離を取る。「医学系の問題は君の担当分野なんだから、頼むよ。小説ではよくあるんだけど、たまたま隣りに座った人から、病気に限らず何かしらの感染が起こるんだよ。そうして大体、悲惨な運命をたどることになる。君も僕と出会った瞬間から、破滅へ向かって運命づけられているんだ」
「だろうな」
そんな会話をいつまでも続けられるほど、僕の頭の回転は速くないので、そこで彼との会話は途絶えてしまった。ダミアンはかがみ込むと、彼のバッグから雑誌『Men’s Health(男の健康)』を取り出した。彼は文字を読まずにパラパラとページをめくりながら、マッチョな男性の肉体美を鑑賞していた。
僕はフライトの残り10分間、ゴホゴホと苦しそうに咳が止まらないふりをした。周りの他の乗客は迷惑そうだったけれど、ダミアンが面白がっているのがわかって、僕は咳き込み続けた。今では僕たちの笑い話になっている。
インディアナポリスに到着すると、僕たちはウェスティンホテルに向かった。部屋に入ると、ウェスティンのトレードマークである〈ヘヴンリー〉のベッドやお風呂が待ち構えていた。
「どうしてヘヴンリーなんてトレードマークにしてるんだろう?」と僕はバッグから荷物をドサッとベッドの上に出しながら、ウェスに聞いた。僕たちは二泊しかしないのだから、気兼ねして、気になったことを後回しにする必要はないように思えた。
「さあ、わからん」と彼は答えた。
「ヘヴンリーなお風呂って一体どういうことだ? 天国の入口でシャワーを浴びなきゃならないってことか? 全部洗い流して、臭いまで消してから天国に入るのなら、わざわざ生きてるうちに善行を積もうなんて、する価値なくなっちゃうよ」
「知りようもないな」とウェスは言うと、彼が持ってきた漫画本を、ベッド脇のテーブルの上にきっちりそろえて積み重ねていった。
「どういうこと? 一度も死んだことないから?」
彼はため息をついた。
「そろそろミーティングの時間だな」と彼が言った。
僕たちが部屋を出る前に、彼は部屋のすべての電気が消えていることをいちいち確認した。
彼は備え付けの時計のコンセントまで抜いていた。
大会は翌朝からだったので、その夜は「クイズボウル参加者の社交場」といった感じの和やかな雰囲気に包まれていた。
「みんなクイズボウルのために集まった人たちだから、なんか、リブ肉食べ放題のバイキングみたいだね。しかも、焼き肉のバイキングなのにベジタリアンの集団を呼んじゃったみたいな」と僕はダミアンに言った。僕たちはホテルのロビーでチームメイトが全員集合するのを待っていた。あと、ソンとフィリップス先生がまだ来ていなかった。
「他の学校にも、きっとかっこいいやつがいるはずだ」とダミアンが言った。
「だろうね。そして彼らはこぞって部屋で過ごしてるんだよ、酒盛りでもしてるんじゃない?」
社交場にふさわしく、きっちりドレスアップしている人もいた。―女の子は華やかなドレスに身を包み、男の子はスーツにネクタイといった出で立ちだ。誰一人として、この場でジャンパージャケットを着ようなんて、勇気のある人はいないようだった。もちろん、クイズボウルのために作ったらしい代表ジャケットを着ている人はちらほらいた。僕がロビーを見回した限りでは、少なくとも5人は着ていた。
「ほら、ソン、君はもうそんなに個性的じゃないよ」と僕は周りを指差しながら、ようやくやって来た彼に言った。彼自身が着ているジャケットは、新たに光沢に磨きがかかったように見えた。
「べつに僕は個性的になろうなんてつもりはないよ」と彼は小ばかにするような口調で言った。「ただ優勝したいだけなんだ」
僕は小旗を振るしぐさをして見せた。「頑張れー、みんな」
「いいか、お前たち」とゴードンが言った。「けんかの覚悟はできてるか?」
彼は冗談を言っているのだろうと思ったけれど、確信も持てなかった。僕はチームメイトたちを一人ひとり見ていった。―ソンの髪はきっちり横分けで、ポマードでべったりとなでつけてあった。フランシスは化粧をしていた。ゴードンはなぜか真っ赤な靴下を履いていた。彼が着ている服装と色味的に全然合っていない。ダミアンはさりげなくハンサムだった。ウェスは早く部屋に戻りたい様子だった。ベッド脇に積み上げた『Y: 最後の男』を早く読みたいのだろう。
「よし、明日はけんかだ!」とフィリップス先生が割って入ってきた。11歳以上の生徒たち相手に、ちょっとテンション高すぎだな。
「一回戦はノースダコタのチームと対戦する」とソンがみんなにけしかけた。「彼らを見かけたら、よく観察して、彼らの知性を暴き出すんだ」
「ダンスフロアで見かけたら、ふらふらと彼らに近寄っていって、ヴァージニア・ウルフに関する問題を耳元でささやくよ」と僕は彼に断言した。「きっと彼らは恐れおののいて、震え上がるね」
懇親会はウェスティンホテルの大宴会場で行われた。中央にはやや広めのダンスフロアがあり、踊ってもいいみたいだったけれど、みんな照れ屋なのか、誰も中央には近づかなかった。髪の毛をつんつん立てている人もいなければ、会場も活気立っていない。照明は薄暗く、みんなの気恥ずかしさを隠しているようだ。
「うわー」と僕は大宴会場に入るなり、横にいたダミアンに言った。そして会場を見渡して、皮肉った。「すごい盛り上がってるね」
ダミアンは顔に、場違いなところに来てしまったという苦悶の表情を浮かべた。それを見て、僕は笑ってしまいそうになる。彼の地元の友達は誰一人として、こんなどんよりとしたパーティーに参加したことはないだろうから、彼は何事も経験だ、とか胸中で自分を納得させているのかもしれない。
「生徒たちより先生たちの方がやばいな」とウェスが僕の肩越しから会場を観察して言った。
「たしかに言えてる」と僕は返した。クイズボウラーの生徒たちは挙動もぎこちなく、センチメンタルを気取っていて鼻につく感じだけど、クイズ研究会顧問の先生たちの方が、あからさまに不気味だ。1980年代から着ているっぽい自分なりの一張羅に身を包み、高校時代はいないに等しいただの人だったのに、人生が大幅に改変され、一躍ヒーローに躍り出たような、やばいオーラを放っている。
この空気を残酷に皮肉るためか、あるいは適当に選曲したのか(おそらく前者だと思うけど)、DJはグウェン・ステファニーのパーティーソング『Hollaback Girl(尻軽な女の子)』を流し出した。クイズボウラーの多くは、この曲を初めて耳にしたといった様子だった。陽気なリズムが鳴り始め、誰が重い空気を振り払い、最初に踊り出すのか、というクエスチョンマークが会場全体を包み込む。モンタナ州からやって来たチームのキャプテンが、ブレイクダンスでも踊り始めるだろうか? それとも、コネチカット州から来たチームの女の子が口火を切って、髪の毛を振り回すように踊り始めるのだろうか?
最終的に、大人数の一団がフロア全体を導くように踊り始めた。彼らはチームとしてかなりまとまりがあるようで、ダンスの動きにも統率が取れている。―僕たちのチームはあんなに協調性はないな、と思った。彼らは踊りながら、どこか自分たちを冷めた目で客観視しているようでもあったけれど、その時間を楽しんでいるのは明らかだった。周りの他校の生徒たちも彼らに加わり出した。そして、ソン、フランシス、ゴードンもダンスの輪に突入していった。
「見ものだな」とウェスがつぶやいた。
ゴードンは家で練習してきたみたいな、気取ったステップで足を交互に上げ出した。彼のステップを見て、公衆の面前よりベッドルームの鏡の前の方が上手く踊れていたんだろうな、と確信した。フランシスは彼女の性格に体の動きを合わせるように、ゆるやかに体をゆすっていた。ソンは、―おやまあ、ソンは『Hollaback Girl』のリズムに無理に乗ろうとして、足をくじいたおじいちゃんみたいだった。
「ソンのダンスは、バナナを見せられたサルみたいだね」と僕はダミアンに言った。「サルの方が上手いか、ならバナナの方だ。ほら、代表ジャケットがバナナの皮みたいに脱げそう!」
「ジャケットはべつにいいじゃないか」とダミアンが返した。「好きなように楽しんでるみたいだし。彼もあれで実際、ストレスを抱え込んでるからな。俺は何か飲むよ。お前も飲むか?」
最初、彼はホテルの客室に置かれている冷蔵庫から、お酒の類を引っこ抜いて飲もうと僕を誘っているのかと思ったけれど、そうじゃなかった。彼はソフトドリンクしか置いていないドリンクバーに向かっただけだった。そこには、大きなガラス製のボウルに超甘そうな「パンチ」がなみなみ入っていた。―クールエイドにスプライトを混ぜたものらしい。―グラスに注いで2、3杯ごくごくと飲み干したら、なんだか妙にハイな気分になった。誰か咳止めシロップでも混ぜたのか?
「ノースダコタから来たっぽい人見かけた?」と僕は聞いた。「大きなとんがり帽子を被ってるとか、牛を連れてるとか。もし見かけたら、スパイをしかけよう。君が彼らの気を引きつけているすきに、僕が彼らのウエストポーチからSATのスコア表を抜き取るよ。あのラミネート紙を丸めて入れてるはずだから」
しかしダミアンはそれには興味を示さなかった。彼はさっきからしきりにスマホをいじっている。ちょっと覗くと、メールをチェックしているようだ。
「誰からのメール?」と僕は意を決して聞いた。
「ジュリーだよ」と彼は言った。「彼女から次々にメールが来るんだ。やめてほしいよ」
ジュリー? たしか、ジュリー・スウェインという女子がクロスカントリー部にいたな。一緒に野山を走ってる仲ってことか。でも、まだ付き合ってはいない気がした。たぶん彼女は付き合いたいんだろうけど、彼が乗り気じゃないのだ。だから彼はメールをチェックするだけで、返信しようとしないのだ、と僕は結論付けた。
とはいえ、ダミアンと僕も通じ合っていないのは明らかだった。彼からすると、僕たちは属している社会的な層が違うのかもしれない。こうしてそばにいても、彼は頭でいろんなことを考えている。一方、僕は彼のことしか考えていない。いつの間にか、ウェスを見失っていた。ダンスフロアの方を見れば、ソン、フランシス、ゴードンの三人はまだ踊っていた。ソンは最後まで仕事をやり遂げようとしている感じで、ゴードンはこじんまりとした自分の世界に浸って、それぞれに踊り続けている。中でも最も僕の興味を引きつけたのは、フランシスだった。
「なんか彼女、すごくハッピーに見える」と僕は言った。「あんなに幸せそうな彼女、見たことあったかな」
ダミアンが頷いて、パンチをさらに飲みながら同意した。「彼女はいつでも真面目だからな」
パンチを飲んだ僕とダミアンの唇は、桜みたいにほんのり色づいていた。
「部屋に行こうよ」と僕は言った。
「そうだな」
初めて来た街の見知らぬホテルで、僕たちは同じ時を過ごすことになった。ごく自然な成り行きだ。
僕たちは彼の部屋に行った。
そして、一緒にテレビを見た。
彼の部屋だったということもあり、チャンネルの選択権は彼にあった。彼がリモコンをしばし操作したのち、結局ディカプリオ主演の『ディパーテッド』を見ることになった。彼と二人きりでこんなに長い時間を過ごすのは、初めてだと気づく。彼は彼のベッドに寝転がって、画面を見ている。僕はソンのベッドに座った。腰をずらして角度を変え、テレビを見ながら、ディカプリオと同じくらいダミアンも見えるようにした。
画面が最初のコマーシャルに入ったところで、僕は聞いた。「何か不都合なことある?」
彼が怪しむような表情で僕を見た。「いや。不都合なことがあるように見えた?」
僕は首を横に振った。「いや。ただ聞いただけ」
画面が次のコマーシャルに入り、僕は聞いた。「ジュリーと付き合ってるの?」
彼は枕に頭を沈めて、目を閉じた。
「いや」と一言返ってきただけで、コマーシャルが流れ続ける。映画が再び始まる直前になって、彼は言った。「彼女とは何でもないよ、本当に」
3回目のコマーシャル中に、僕は聞いた。「彼女はそれを知ってるの?」
「何の話?」
「ジュリーは何でもないってこと知ってるの?」
「いや」と彼は言った。「彼女はわかってないみたいだね」
今がチャンスだ、と僕は確信した。―彼はきっと僕にアドバイスを求めてくる。そこで彼に有益なことを言ってあげれば、僕は彼にふさわしい、一緒にいて価値ある人間だって示せる。
しかし彼はそれっきり何も言ってこなかった。そのことは話したくない様子で、映画が始まると再び画面に向き直ってしまった。彼はこの映画が好きらしい。
そっか、彼は彼のペースで僕に対して自分自身をさらけ出していくんだな、と僕は思い至る。ここで急いで結論を求めたりしたら、すべてが水の泡だ。辛抱強く待たなくちゃ。僕はその後のコマーシャル中には彼女のことは聞かずに、即席で考えたノースダコタにまつわる冗談とかでお茶を濁した。いくつかのジョークに彼は笑ってくれたし、彼からもジョークをいくつか返してくれた。
あと15分ほどで映画が終わる頃、ソンが部屋に戻ってきた。彼のベッドに僕が座っているのを見ても、彼はゾクゾクしたり、感激している様子はまるでないから白けてしまう。僕はそのまま彼のベッドに座り続けた。
「ソン」と僕は彼に言った。「もし今回のクイズボールで君が思ってるような結果が出なかったとしても、君は将来、ディスコで大活躍できるよ」
「うるさい」と彼はぼやきながら、かの有名なジャケットを脱ぎ、クローゼットの中に掛けた。
それから僕たち三人は、黙って映画のラストシーンを見た。ソンはダミアンのベッドの端に腰を下ろしていた。画面にエンドロールが流れ出すと、すぐにソンが、もうそろそろ寝る時間だと告げた。
「でも君はどこで寝るの?」と僕は言うと、両手を広げてドサッと彼のベッドに横たわった。
「それは僕のベッドだよ」と彼が言う。
部屋を交換しないか? と喉元まで出かかった。―そうすれば、ソンがウェスと一晩中、数学の多項式について語り合えるし、僕はダミアンと一緒に寝れる。でも現実的じゃないな、とその提案をのみ込んだ。
ダミアンが部屋の入り口まで僕を見送りにきてくれた。
「部屋の冷蔵庫には手をつけるなよ」と彼が言った。「明日はしらふで決戦に挑むんだからな」
「なるべくやってみる」と僕は返した。「でも、あの小さなボトルってすごく可愛らしいじゃない。あたし、あのボトルを口に含んでお酒を飲むと、自分がお人形さんになった気分になれるの」
彼がクスクスと笑ってくれた。僕の肩を軽く叩く。
「我慢しろよ」と彼は念を押した。
僕はもう一度、なるべくやってみる、と言った。
自分の部屋に戻ってみると、電気はすでに消えていて、ウェスはベッドの中だった。僕は彼を起こさないように、静かにパジャマに着替えて歯を磨いた。
そっと自分のベッドに入って、うとうとしてきたところで、ウェスの声がした。「楽しかったか?」
「うん」と僕は言った。「ダミアンと一緒に彼の部屋に行って、『ディパーテッド』を見てたんだ。楽しい時間だったよ。彼の部屋に行く前に君を探したんだけど、見当たらなかった。部屋に戻ってたんだろ?」
「あんな懇親会、いるだけ時間の無駄だからな」
「まあ、それは言えてる」
僕は目を閉じた。
「おやすみ」と、ウェスが優しく言った。それはまるで、彼が本心から僕の安らかな眠りを願っているような、極上の響きだった。両親以外の誰からも、そんな風におやすみを言われたことはなかった。
「おやすみ」と、僕も優しく返した。それからベッドに備え付けの時計を見て、彼が再び電源を入れてくれたことにも安心して、眠りに落ちた。
・・・
翌日の午前中、僕たちは一回戦でノースダコタのチームを打ち負かした。それから、僕たちは勢いに乗って、メリーランドのチームをトーナメント表から消し、オクラホマのチームを泣かせた。
気持ちよかった。
「あまりいい気になるなよ」とソンが僕たちに釘を刺した。僕たちの中で一番いい気になっているソンからその言葉を聞けて、さらに前途が明るくなったように感じた。僕たちのチームが勝ち上がるたびに、気を良くしたソンが両手を上げて、『We Are the Champions』を歌い出すんじゃないかと気が気ではないくらいだったから。
3チームに勝って準々決勝まで来た。準決勝は翌日だから、その日最後の試合だった。相手はフロリダ州クリアウォーターの学校で、クイズの名門校だった。10年連続で2日目の決勝ラウンドまで進み、そのうちの4回も優勝しているという強者だ。ソンのようなクイズマニアの間では伝説的なチームらしく、ソンは、フィリップス先生がクリアウォーターのつてを頼って入手した地方大会のテープを繰り返し聞いて、彼らの戦略を分析していた。
その分析の結果、僕は交代要員だったにもかかわらず、いきなり最初から解答権のあるメンバーに名を連ねることになった。クリアウォーターは、相手チームを一気にぶっ潰すキャノン砲の使い手として有名なのだ。
「キャノン砲でも何でもかかってこい」と僕は言った。
相手チームの文学担当、すなわち僕の直接の敵は誰なのかがすぐに明らかになった。―茶色いまっすぐな髪をたなびかせた、あどけない感じの女の子だった。彼女の愛読書なのだろう、女流作家ミュリエル・スパークの本を、手放したくはないけどクイズが始まるから仕方ない、といった様子で下に置く。そして彼女が初めて口を開き、発した英語を聞いた瞬間、秘密武器の正体がつまびらかになった。
彼女はイギリス人だったのだ。
フランシスは一瞬うろたえたような表情をしたが、僕は、それしきのことなんてことない、と軽く受け流した。その少女がイギリスの詩人バイロンの知識を武器に、果敢なアタックを仕掛けてくれば、僕はアメリカの作家アシモフの知識を盾に、彼女の攻撃をひらりとかわした。彼女がバージェスの問題を射止めれば、僕はフィリップ・ロスの問題で逆襲した。どちらも一問も誤答することなく、一進一退の攻防が続いた。そうなると、とにかくブザーを早く押す、という度胸試しの様相を呈してきた。僕は自分がわかったと思うより、ほんのわずかに先にブザーを押し始めた。それでも次の瞬間に正答が浮かび、ノーミスは続いた。
僕が思いもよらぬことをしでかすまでは。
僕は科学の問題で先走ってしまったのだ。
ノーベル賞受賞者のうち、後に『二重らせん』と『人々を飽きさせない術』を書いたのは誰?
ソール・ベローでも大江健三郎でもないことはすぐにわかった。戸惑いを見せる僕に、審判員が「答えられますか?」と急かす。「二重らせん」という言葉にピンと来た。
「フランシス・クリック!」と僕は叫んだ。
審判員はもったいをつけるように僕をじっと見てから、手元のカードに視線を落とした。「不正解。それでは、クリアウォーター。ノーベル賞受賞者のうち、後に『二重らせん』と『人々を飽きさせない術』を書いたのは誰?」
ブザーを鳴らしたのは文学少女ではなかった。
「ジェームズ・D・ワトソン」と、あえて「D」まで入れて、小気味よく理系男子の一人が答えた。その「D」の強調の仕方が僕を小馬鹿にするようで、イラッと鼻につく。
「ごめん」と僕はチームメイトにささやいた。
「オーケー」とダミアンが言った。
「気にするな」とウェスも言った。
ソンはそんな風に許してくれないだろうな、と思った。
それから僕は一か八かのゲームをやめ、慎重にブザーを押すようになった。そのため、イギリス人の文学少女に、シェイクスピアの『テンペスト』に出てくる野蛮な奴隷の問題と、アメリカの詩人T. S. エリオットの最初の妻の問題でも、押し負けてしまった。僕はなんとか『百年の孤独』に関する問題で彼女に押し勝ち正解できたけれど、百年の孤独という長い年月に思いを馳せ、たかが本のことを知っていてもな、と虚しい気持ちに襲われた。
クリアウォーターの1問リードで、残り3問となった。最後の3問は数学、歴史、地理に関する問題だったので、僕は後ろに退いた。ひし形と円形の難解な二点間の距離を求める問題にソンが全身を揺らすようにして正解し、クリアウォーターに追いつくと、ウェスが軍司令官オマール・ブラッドレーに関する問題に、敬礼するような仕草をちょっと示しながら正解し、逆転した。最後はフランシスが「タシュケント!」と正答を叫んで、締めくくった。僕は初めて耳にした地名だったけれど、ウズベキスタンの首都で「石の村」を意味する地名らしい。
それまでの試合では、僕たちは勝った瞬間、解答席から飛び出し大喜びしたが、この試合では、僕たちは精魂疲れ果て、ほっと一安心して座り込んでしまった。それから対戦相手と握手した。―そのイギリス人の女の子の手を握ったら、紙でできているんじゃないかと思うくらいほっそりとしていて、僕は妙な気分になってしまった。
クリアウォーターが部屋を出て行った後、ソンが緊急チームミーティングを開くと言い出した。
「もう少しで負けていた」と彼は言った。おめでとう!とも、よくやった!とも言わなかった。
あからさまに、ソンは苛立っていた。
彼はブザーをもっと積極的に押す必要があると言ってから、もっと注意を払って押すように、と付け加えた。それぞれが自分の強みを生かして答えるべきだ。一人がぽかをすると、チーム全体の調和が乱れる。
「はいはい、そうだね」と僕は口を出した。
「そうだね、じゃない」とソンが言い返してきた、「君は全然わかってないだろ」
「ソン、やめろ」とフィリップス先生が注意した。
「彼にこれだけは言っておかないと」ソンは主張を推し進めた。「彼は今年の初め、チームに加わるのを一度断った。そして今日彼がしたことは、僕たちの目から見たら、反乱以外の何物でもない。彼は暗黙のルールを破ったんだ」
「彼とか回りくどい言い方しないで」と僕は指摘した。「言いたいことがあるなら、ここに立ってる僕を直接見て言えよ」
「君は科学の問題に答えちゃだめなんだよ!」 ソンが叫んだ。「いったい何を考えてるんだ?」
「おい―」とダミアンが割って入ろうとした。
僕は手を上げて遮った。「いや、いいんだ。ソンには彼なりの考えがあるんだろうから、この際全部吐き出してもらわないと」
「君は補欠なんだよ」とソンが続けた。
「僕が解答してるとき、君はそんなこと気にしてないみたいだったけど」
「その必要があるから仕方なく、君をチームに入れてるんだ」
「もういい」とフィリップス先生がぴしゃりと言った。
「全然よくない」と僕は言った。「君のそういうところに嫌気が差すんだ。文学オタクが数学科学オタクの晴れ舞台に水を差したとでも言いたいんだろ? 僕のチームへの貢献度は、他のみんなの貢献度より劣るって」
「本のタイトルなんか誰だって覚えられるんだよ!」とソンが叫んだ。
「おい、頼むよ。そういうことを言えば僕が傷つくとでも思ってるのか? キーツとバイロンの違いも知らないくせに」
「キーツとバイロンの違いなんてどうでもいいんだよ!」
「このクイズ自体がどうでもいいいんだよ!」僕は叫び返した。「ソン、わからないのか? こんなの全部どうでもいいいんだよ! たしかに君には知識があるよ。―でもそんな知識、何の役にも立たないじゃないか。覚えたことを口で言うだけで、君が手を動かしてガンを治すわけじゃない。―君はガンを治療しようと汗水流して頑張ってきた人たちの名前をリストにして暗記したってだけなんだ。こんなの、ただのジョークだろ。キャプテン、見てる世界が小さすぎるよ。だから、僕たちは学校中の笑い者なんだ」
「このチームの全員を馬鹿にしてるってことだな?」とソンが食ってかかる。
「違う」と僕は言った。「君のことを言ってるんだ。こんなクイズごときに取り憑かれたみたいに夢中になってる君のことだよ。他のみんなはクイズ以外にもやってるじゃないか。みんな健全な生活を送ってるよ」
「君はもうこのチームの一員じゃない! 君は裏切り者だ!」
「まあ、そうだとして、ソン、じゃあなんで、そのクソダサい代表ジャケットを着てるのは、君だけなんだ? それを着てる姿を見られたくないって思う理由は何だと思う? 僕だけじゃないよ、ソン。君以外みんな着てない」
「いい加減にしろ!」とフィリップス先生が怒鳴った。
ソンの目は僕を殺したいように見えた。同時に、彼の目にはもう二度と、そのうざったいジャケットが輝く栄光の証として映ることはないだろうな、と思った。
「よし、気分を変えて、みんなで夕食を食べに行こう」とフィリップス先生が続けた。「準決勝は明日の午前中だ。今夜8時に私の部屋に集合して、明日の予行練習をするってことでいいか? 対戦相手はまだわからない。でもどこが対戦相手になろうと、チーム一丸となって勝負できるようにしておかないとな」
それから僕たちが取った行動は、チーム一丸にはほど遠いものだった。フィリップス先生、落ち込んだ様子のソン、フランシス、ゴードンの4人は一緒にディナーに向かった。一方、ウェスとダミアンと僕の3人は別の方向へ足を向けた。
「何ブロックか先にバーガーショップ〈ステーキ&シェイク〉があるよ」とウェスが提案した。
「いいね」とダミアンが言った。
ソンと同様に落ち込んでいた僕も、二人の後に続いた。
「あの問題は本についてだったから」と僕はホテルを出て街を歩きながら言った。「科学の問題だとは思わなかった」
「もういいじゃないか。それに君が答えたフランシス・クリックは当たらずとも遠からずだったよ」とウェスが指摘した。
「そうなんだけど、まだなんかこの辺にくすぶってるっていうか」
「それでも俺たちは勝ったんだ」とダミアンが言った。
そうだね、僕たちは勝った。
だけど、まるで負けた気分だ。
ダミアンとウェスは僕を元気づけようとしてくれた。ハンバーガーとシェイクをおごってくれたばかりか、僕と向かい合わせで座って、仲の良い友達のように接してくれた。
「クイズボウルに出て、キリストの裏切り者になった今のご気分は?」と、ダミアンがスポーツキャスターの言い方を真似て、見えないマイクを僕の口の前に差し出した。
「まあ、僕はジェームズ・D・ワトソンが著書の中で書いている、やんごとなき王女に近い存在だね。僕はやばいやつなんだよ。他のチームのクイズボウラーは全員ひざまずいて、僕に敬意を示すべきだね。なんでかわかる?」
「どういうことだ?」とダミアンとウェスが同時に聞いた。
「近々僕は、とんでもないことをしでかして、クイズボウル史に残る伝説と化すよ」
「わかるよ」とウェスが言った。「準決勝で同じチームのキャプテンを殺し、後に回想録『退屈な人々の中で』を書くんだろ?」
ダミアンが首を横に振った。「面白くない冗談はよせ。今夜も明日も殺人は起きない」
「気づいてるか? もし優勝なんてしてしまったら、残りの人生ずっと、僕たちの記事がGoogle検索に引っかかってくるんだぞ」と僕は言った。
「写真撮影には仮面をかぶって臨もう」とウェスが提案した。
「俺はミケランジェロに扮する。お前はドナテッロだな」
しばらくの間、そんな感じで会話が続いた。ダミアンは話すのをやめ、僕とウェスが話すのを観察するように、二人の顔を交互に見ている。僕は話しながらも、彼の視線の動きに注目し、彼と目が合うと、じっと見つめ返した。彼のエメラルドグリーンの瞳に吸い込まれそうになる。彼の首元に目を遣る。彼のひたいの左端から、カールした髪が垂れ下がっている。彼のどこを見ても、注目に値するパーツばかりだ。
僕はたまらない気持ちになってしまった。抑えが利かない。僕の内側で何かが変化しつつある。今まで言葉にすることを拒み続けてきたあらゆることが、するすると勝手にこぼれ出してくる。知識ではなく、知識の下にある衝動から溢れ出してくる。彼と付き合いたい。その漠然とした気持ちに今、理由が加わり始めた。彼がいて、彼の目の前に僕がいる。そして僕の目の前に彼がいることこそが、重大な理由なんだ。
僕はウェスと話していたけれど、実際はウェスへの言葉を介して、ダミアンと話していた。僕はこんなに人を楽しませることが言えるんだよって彼にわかってほしかった。僕はこんなに面白いんだよって。僕は彼に僕という人間をわかってほしかった。
そんな間接的な彼との会話がずっと続けばいいな、という願いは儚く消え、ふと我に返ると、ウェスティンホテルに向かって、来た道を引き返していた。ホテルのロビーに入ると、奇跡的にウェスが8時の予行練習まで自分の部屋で過ごすと言って、去って行った。ダミアンと僕は二人きりになり、8時までの2時間、自由な時間を与えられた。
「また俺の部屋に来るか?」とダミアンが誘ってきた。心臓が高鳴り始めていた。―理由の定かでない緊張感に包まれる。一つの部屋で再び彼と2人きりになれる。取り立ててすべきことは何もない。昨夜は、―たしか彼はテレビを見ようと言った気がする。「俺の部屋でテレビでも見ないか?」と。今回は単に「部屋に来るか?」だ。
「また二人きりになれて嬉しいよ」と僕は勇気を出して言ってみた。
「ああ、俺もだよ」とダミアンが言った。
エレベーターの中は心臓の音を聞かれそうなほど静かだった。廊下も静まり返っていて、黙ったまま彼の後をついて行く。部屋の前まで来ると、彼はカードキーをロックに差し込み、さっと引いた。一発で緑のランプが点灯し、ドアが開いた。僕がやると、絶対そんな風に一発では開かない。
「先に入って」と彼が言って、片手でドアを抑えたまま、ジェスチャーで僕を中へと促した。
僕は足を踏み入れた。細い通路を歩いて、ベッドのある部屋へと向かう。その時、何かに気づいた。―部屋に誰かがいる気配がしたのだ。ソンだった。彼がベッドの上にいた。あのジャケットは着ていなかった。ワイシャツ一枚の背中が見え、彼は少しうめき声を発していた。
これは自慰の最中に出くわしてしまったぞ、と笑いがこみ上げてきて抑えきれず、―僕は吹き出すように笑い出した。彼はようやく僕たちが部屋にいることに気づき、飛び跳ねるように振り向いた。なんと、ベッドの上にはフランシスもいた。ソンの下で、シャツを脱ぎ、ブラジャーだけの姿で横たわっていた。
なんてめちゃくちゃな状況なんだ、と笑いが止まらなくなり、僕の目から涙まで溢れ出てくる始末。
「出ていけ!」とソンが叫んだ。
「フランシス、邪魔しちゃってごめん」僕は笑いをどうにか鎮めて、急いでシャツを羽織る彼女に向かって言った。「ほんとにごめん」
「早く出ていけ!」ソンが立ち上がって絶叫した。おお、よかった。僕はタイミングの神に感謝する。彼はまだズボンを穿いていた。ソンが叫び続ける。「お前は悪魔だ。悪魔め、早くここから出ていけ!」
「どちらかというと、キリストの裏切り者の方が好きだな」と僕は彼に言った。
「悪魔だよ!」
「悪魔だよ!」僕は彼の言い方を真似て叫び返した。
そこでダミアンの手が僕の肩に触れるのを感じた。「行こう」と彼がささやいた。
「哀れだね」と僕は言った。「ソン、お前は哀れすぎて見てられないよ」
ソンが僕に向かって突進してきた。そこへダミアンが割って入り、間一髪ソンを抑えた。
「行け」とダミアンが僕に言った。「今のうちに早く」
僕はまたしても笑い出しそうになりながら、フランシスにもう一度謝ってから、廊下に出た。
数秒遅れてダミアンも廊下に出てきて、バタンとドアを閉めた。
「まじか!」と僕は言った。
「よせ」とダミアンが言った。「もういい」
「もういい?」僕は笑った。「まだ何も言ってないけど」
ダミアンが首を横に振る。「お前は冷たい人間だな」と彼が言った。「よくもそんなに冷たくなれるな」
「どういうこと?」と僕は聞く。「あの状況を見て、可笑しくないの?」
「お前には心がない」
その言葉にさっと酔いが醒めたように僕は真顔に戻る。「どうしてそう言える?」と僕は聞いた。「どうして、これだけの人間がいる中で、そう言える?」
「これだけの人間がいる中で? どういう意味だ?」
彼は僕の肩を両手で握り締めた。
「アレック?」
「知らないよ!」と僕は叫んだ。「そんなこと聞かれたって、わからないよ」
真実味が溢れる感じで響いた気がしたけれど、少し芝居がかっていたかなと思い直した。僕は自分の嘘くささに気づき始めていた。
「僕にだって、ちゃんと心はあるよ」と僕は言った。けれど、そこで言葉が詰まった。
すべてがばらばらに飛び散るのを感じた。思い描いていた計画が、僕の内側で音を立てて崩れていく。そして意識の奥底から、今まで気づいていなかったうさんくさい僕の思考が姿を現す。
僕は走り出した。静かな廊下を彼から逃げるように、一目散に駆け出した。エレベーターなんて待っていられなかった。―僕は非常階段のドアを開け、クロスカントリー走のチームに入ったみたいに、息を切らして駆け下りていく。彼が僕の後を追いかけてくる足音が聞こえたけれど、立ち止まらなかった。
「来るな!」と僕は階段の上に向かって叫んだ。
僕の部屋の階まで下り、非常階段から廊下に戻ると、足音が消えた。部屋の前まで来て、カードキーを差し込む。やはり一度目では開かなかった。緊張しながら非常階段のドアの方へ視線を向ける。ダミアンがそこから姿を現すのではないかと、ちょっと待ってみたけれど、非常階段のドアも開かない。僕の「来るな」という言葉が届いたんだ。そして彼はその言葉に従ったってことか。もう一度カードキーを差し込むと、今度はドアが開いた。
ウェスがベッドに横になって、漫画を読んでいた。
「早かったじゃないか」と彼が、漫画に視線を落としたまま言った。
返す言葉が一言も出てこなかった。するとドアがノックされる音が室内に響いた。ダミアンが僕の名前を呼んでいる。
「答えないで」と僕はウェスに言った。「出なくていいから」
僕はバスルームに入り、鍵を閉めた。鏡に映る自分の顔を見つめる。
ウェスがドアを開けずにドア越しに、何かダミアンと話している声が聞こえた。それから、ウェスがバスルームのドアのところまで来た。
「アレック? 大丈夫か?」
「大丈夫」と僕は言ったが、喉をなんとか通って出てきた自分の声は、今にも泣き出しそうな震え声だった。
「開けてくれ」
僕は開けることができなかった。浴槽の縁に腰かけ、大きく息を吸って、吐き出した。僕はさっきのソンの表情を思い出し、笑い出した。それから、フランシスがソンとベッドに入っていたことを思い、悲しくなる。僕には本当に心がないのだろうか?
「アレック」ウェスが今度は優しい声で言った。「どうしちゃったんだよ」
彼がそこからいなくなるまで待ってから、僕はドアを開けた。ベッドのある部屋に行ってみると、彼は再び自分のベッドに戻っていた。でも漫画は手に持っていなかった。ベッドの端に座り、僕を待っていてくれた。
僕はウェスに何があったのかを話した。まずはダミアンとのことは置いておいて、ソンとフランシスについて話した。彼は笑わなかった。僕ももう笑えない。それから、僕の反応と、それに対してダミアンに言われたことを話した。深層でどう感じたかは言わずに、表面的に伝えた。
「君も僕のこと、冷たい人間だって思う?」と僕は聞いた。「僕って、―そんなに冷たいかな?」
「冷たくはないけど」と彼は言った。「君は怒りっぽいね」
怒りっぽい? 僕が? 僕は驚いた表情をしたに違いない。彼は続けた。
「アレック、君はげす野郎だよ。べつにそれは悪いことじゃない。―誰だってげす野郎みたいなものだ。オタクはろくでなしにはなれないって思いがちだけど、オタクだってろくでなしになれるし、げす野郎にもなりたくなる。だけど、大体の場合、冷たいからとか、意地悪な感情からそうなるんじゃない。何かに対して怒ったり、悲しくなったりした時に、そうなるんだ。僕の場合は、自分に似てる人を見ると、相手の心をズタズタに傷つけたくなる」
「でも、どうして僕はソンの心をズタズタに傷つけたいんだろう?」
「わからないけど、彼もげす野郎だからじゃないか。たぶん君はクイズボウルオタクの彼をやっつければ、誰も君のことをクイズボウルオタクだと思わなくなるって計算なんだろ」
「でも、僕は実際クイズボウルオタクなんかじゃない!」
「まだわからないのか?」ウェスが諭すように言った。「誰もクイズボウルオタクなんかじゃないんだよ。僕たちはみんなただの人間だ。そして、ある意味、君は正しいよ。―こんなことをしても、何の役にも立たない。社会的価値みたいなものは何も得られないだろうね。だけど、暇つぶしの方法としては、それなりに面白いじゃないか」
僕は自分のベッドに腰を下ろし、ウェスと面と向かって座った。僕たちの膝はほとんどくっつきそうだ。
「僕はそういう風に考えられるような、お気楽な人間じゃないんだ」と僕は彼に言った。「でも、たまには、自分をだまくらかして、そんな風に考えてみるよ」
「僕が聞いてもよければ、それとなくダミアンに聞いてみるよ。僕たちと一緒にいて、しっくり来てるかって」
僕は首を横に振った。「いや、いいんだ。自分でもよくわかってないし、今わかろうとしてるところだから」
「彼は女の子が好きだってわかってるだろ?」
「だから、今わかろうとしてるところなんだ」
「オーケー」
僕は一瞬、口ごもってしまう。ウェスに言われたことの意味に、遅れて気づいた。
「バレてた、のか?」と僕はウェスに聞いた。
「気づいてるのは僕だけだよ」と彼は言った。
それって、どういう? その意味を理解するのに3ヶ月くらいかかりそうだと思った。
「それはさておき」と彼が続けた。「ソンとフランシスのことだよ」
「やばい、よな?」
「やばすぎる。しかも君は見ちゃったんだろ?」
「この目で見ちゃったよ。あれ以上やばい光景を想像できないくらい」
「ゴードンがフランシスにぞっこんなんだよ」
「やめてくれ!」
「おっと時間だ。こんなことしてる場合じゃない。今夜の予行練習は是が非でも参加しなきゃ。これは全員が見ものだな」
・・・
予行練習には全員が参加した。フィリップス先生は室内に緊張感が漂っているのを感じ取ったみたいだけど、その理由まではわかるはずもなかった。
フランシスがソンの代表ジャケットを着ていた。それを見て、僕は代表ジャケットのことなんかどうでもよくなってしまった。
ゴードンがソンをにらみつけていた。
ソンは僕をにらみつけていた。
僕はダミアンの視線を避けていた。
僕がウェスを見た時、僕を見返す彼の表情が優しかったから、僕は救われてもいい人間なのかもしれないと思えた。
驚いたことに、練習中、全員が戦闘モードでクイズに集中していた。さっきの出来事が幻だったかのようだ。僕は自分が心の底から勝ちたいと思っていることを実感した。単に勝ちたいだけじゃない。僕はチームを勝たせたかった。他の何より、ウェス、フランシス、ゴードン、ダミアン、彼らのために戦おうと誓った。
練習が終わった後、ダミアンが少し話ができるかと言ってきた。他のみんなはそれぞれの部屋に戻り、僕たちはホテルのロビーに下りた。他のクイズボウラーたちがグループごとにたむろしていた。―準決勝に進めなかった人たちが、あらゆるプレッシャーや心配事から解放されて、明日からまた始まる高校生活の小休止として、今夜はとことん語り明かそうとしているのだろう。
「さっきは悪かったな」とダミアンが僕に言った。「完全に的外れなことを言ってしまった」
「いいよ、べつに。僕はソンとフランシスに意地悪しすぎたね。あの場はさっさと部屋を出るべきだった」
僕たちはライムグリーンのソファに並んで腰を下ろしていた。その方が気楽で良かった。向かい合っていないから彼は僕を見ていないし、僕も彼を見なくて済む。
「自分でもなんであんなにむきになったのかわからないんだ」と彼が言った。「あんな風に反応した自分がよくわからない」
彼はそれがわかるまでに4ヶ月くらいかかるだろう。それではちょっと間に合わないかもしれないけど、とにかく彼は気づくだろう。
・・・
僕たちのチームは準決勝でアイオワに負けてしまった。負けた後、ソンが僕をきつい眼差しで見ていた。その目を見て、彼は一生、この敗戦を僕のせいにするんだろうなとわかった。僕がクイズの問題に答えられなかったからではなく、―実際僕は2問間違えてしまったけれど、そうではなくて、彼自身も気づいていなかった彼の無意識の計画を僕が壊したから。
振り返ってみると、あの時の数週間ほど、洋服のたぐいを嫌っていた時期はなかった。それくらい僕はソンが着ている代表ジャケットが大嫌いだった。それはつまり、その時期、僕は僕自身が大嫌いだったということだ。そうではないと、他の何かをそんなに嫌うことはできない。洋服に限ったことではないけどね。
それを教えてくれたのは、たぶん、ウェスだった。その後、僕たちは地元に帰って、お互いのことをもっと知りたい、自分のことをもっと知ってほしいと会話を重ねる中で、彼に聞いてみた。なんでそんなに人生のあれこれを僕よりも知っているのか、と。
彼の答えはこうだった。「漫画を読んでるからに決まってるだろ」
僕たちは準決勝で負けてしまったが、それでも地元の新聞社が僕たちの写真を撮りに来た。ソンは真剣な眼差しながらも、ちょっとふくれっ面をして写っていた。ゴードンはぎこちなさそうに見える。フランシスは穏やかな表情で、ダミアンは無頓着といった感じだ。ウェスと僕?
僕たちは、二人だけにしかわからない冗談でも言い合っているように見える。
言い換えると、幸せそうだ。
了
〈メンバー紹介〉
①ソン・キム:無敵のリーダー
②フランシス・オー:SAT満点、悲劇的な肌荒れ、化粧
③ウェス・ワード:IQ250、体重も250ポンド(113キロ)、『ロード・オブ・ザ・リング』好き、几帳面、節約家、「気づいてるのは僕だけ」⇒アレックのことが好き?♡
④ゴードン・ホワイト:計算機付きの腕時計をはめ、メガネがよく似合っている、なぜか赤い靴下、フランシスのことが好き♡
⑤ダミアン・ブルーム:野山を走るクロスカントリー走の花形選手
⑥アレック(僕):補欠の文学青年、面倒くさいことを言い出す
☆彡『19曲のラブソング』は短編集だということが途中でわかったので、それぞれの短編ごとに感想を書いていきます。
「了」は短編が終わった印です。
〔感想〕(2020年3月12日)
ソンはこっち(陰キャ)側の人間なのに調子に乗ってスポットライトを浴びてるからむかつく、という理由で、アレック(僕)はチームに参加し、内側からソンの計画を壊そうとしたんだけど、結局、好きな人(陽キャの代表)に「冷たい人間」だと人格否定をされて、落ち込む...
そこに、救いの手を差し伸べたのがウェスだった♡
〈印象に残ったシーン〉
「おやすみ」と、ウェスが優しく言った。それはまるで、彼が本心から僕の安らかな眠りを願っているような、極上の響きだった。両親以外の誰からも、そんな風におやすみを言われたことはなかった。
「おやすみ」と、僕も優しく返した。それからベッドに備え付けの時計を見て、彼が再び電源を入れてくれたことにも安心して、眠りに落ちた。
〈解説〉
ダミアンが4ヶ月後に気持ちに気づいても間に合わない、と言っているのは、3ヶ月後には「僕」とウェスはラブラブになっているだろうから、という意味です!
途中まで、笑いっぱなしで訳していたんだけど、後半は結構シリアスで考えさせられ、ソンとアレックの言い合いとか、ウェスの発言とか、ぼくの胸の奥深くに突き刺さりました!
アレック(僕)のやばさっぷりがぼくにしっくり来て、一人称のシンクロ率がかなり高かったんだけど、一番親近感を覚えたのは、ゴードンでした。笑
ゴードンはステップの練習をして、赤い靴下を履き、フランシスにいいところを見せようとしたんでしょう。でも、隣で踊っていたソンに取られちゃった...泣
〈絵の募集〉
地元の新聞に載った6人のメンバーの絵を募集します!
ソン、フランシス、ゴードン、ダミアン、ウェスとアレック
並び順はこんな感じです。
hinataaienglish@gmail.com
こちらのメールアドレスまで最初に送ってくれた人の絵をここに貼り付けます↓
トラック 2
2934日目
ぼくは8歳。そして今日はバレンタインデー。しかも日曜日だから、眠い目をこすって無理に布団から出て、バスに乗り遅れないように急いで支度をする必要もないし、宿題はやってなくても大丈夫。眠りの世界がぼんやりと明るくなり、うっすらと目を開くと、いつものように今日が幕を開ける。
いきなり目に入ったのは、『スターウォーズ』のヨーダのポスターだった。ぼくの腕の下にオビ=ワン・ケノービが見えて一瞬焦る。よく見ると、シーツも毛布も『スターウォーズ』一色だった。ベッドの横にはライトセーバーの電灯まで置いてある。ぼくは『スターウォーズ』シリーズのどのエピソードも見たことがないので、とても奇妙な光景だ。半身を起こし、ベッドの上に置いてあったロボットのぬいぐるみに寄りかかる。そのロボットは「ドロイド」というらしいが、朝の時点ではまだ名前は知らない。部屋を見回しながら、いつものように朝のメンタル・ルーティーンを行う。ここはぼくの部屋で、「今日のぼく」の名前はジェイソン、よし。壁の向こうはぼくの母親の部屋だな。物音一つしないということは、彼女はまだ寝ているのだろう。
昨日はバレンタインデーの前日だったことは覚えているので、今日がバレンタインデーだというのはわかる。「昨日のぼく」のお姉ちゃんが、好きな人に渡すカードにメッセージを書いて、キラキラしたラメをふんだんに貼り付けてるのを見たから。そして義理チョコを渡す人たちへのカードには、ぼくにシールを貼らせた。「貼っていいよ」と言われたから、ぼくはそれぞれのカードにハート型のシールを適当に貼っていった。貼りながら、この人たちがこれを受け取って封筒を開ける姿を想像してみた。明日にはぼくは違う人の家にいるから、実際にお姉ちゃんがこれを渡すところは見られないんだと思って、少し悲しくなった。
そして今、ベッドから出て、鏡の前まで歩いていく。ぼくは自分の容姿には無頓着なんだけど、今日は結構長い時間、鏡に映る自分の姿を見つめてしまった。パジャマに無数のサルが描かれていたから。それから、『スターウォーズ』を見たことがないぼくでも、そういえば「ウーキー」とかいう、こんなキャラクターが踊ってるのをテレビで見たことがあるな、と思い出し、なんとか納得した。
ぼくの机の上には、白い封筒が置かれていた。トランプくらいの大きさの封筒が10通ほどあった。すでに封はされていて、すべての封筒に「ママへ」と書かれている。「MOM(ママへ)」の「O」の文字がハート型になっていた。
昨日は違う家にいたから、ジェイソンがこれを準備しているところは見ていない。ぼくはこれを渡す役ってことか。ジェイソンに任務を託された気分で、封筒の束を持って部屋を出る。
休日は、当時子供だったぼくには重要な日だった。起きてみて誰の体に入っていても、休日なら家で過ごせるから、戸惑いもそれほどなかった。学校ではそう簡単に事は進まない。いくら下準備をして学校に行っても、穏便に過ごしたいという期待は狂乱へと弾けてしまう。バレンタインデーに関しては、寒い時期を照らす一点の光といったところか。2月に入ると、世界が次第に赤やピンクめいてきて、どんどん世界が愛で満ちてくる。バレンタインデー当日が休日だったら最高で、もらったお菓子を食べて、愛について考えていれば事足りるわけだ。
だから、ぼくは休日が大好きだった。
ジェイソンの部屋は彼にとって拠点となる基地なのだろう。―宇宙の外側からやって来た敵を迎え撃つ道具がたくさん飾ってあったから。彼の部屋を出てみると基地的要素は一気に薄まった。マンション自体はそれほど広くない。寝室が二つ並び、他にキッチンと書斎っぽい部屋があるだけだ。でも二人暮らしなら、この広さで十分だろう。そこでぼくは、ひょっとしたら三人用のマンションかもしれないと感じた。
なるべく平穏に一日を過ごしたい。―これは長年にわたるぼくの一貫した姿勢なんだけど、その中で学んだのは、親は起こしてはいけないということ。本当に本当に重大な理由がある場合は仕方ないけど、それ以外に起こすと、経験上ろくなことがない。毎朝違う人生の中で目覚めるという自分の特質に気づく前は、起きるたびに怖くて、それが朝早い時間であっても、親の寝室に駆け込んでいた。すると、毎回違う親がびっくりした表情で、「何時だと思ってるの? 部屋に戻って大人しく寝てなさい」と怒り出すのだ。中には、「じゃあ、もうそろそろ起きましょうかね」と言って、ぼくと一緒に一日を始める親もいたけれど、大体は不機嫌にぼくをしかりつけたので、親は起こさない方がいいと学んだ。目覚めた直後に、今日の親は最悪だ、今日の人生はハズレか、とがっかりしたくないし。もう少しゆっくりと、わくわくしながら今日を見極めたい。
あまり音を立てないようにつま先で廊下を歩き、キッチンに入った。ぼくを待ち構えていたのは、バレンタイン・ワンダーランドともいえる空間だった。キッチンのあちこちにハートが飾られている。―天井からハートがぶら下がっていて、キャビネットにもハートが散りばめられ、調理台の上にもハートが咲いている。何百ものハートがあるに違いない。8歳のぼくの目には、何千ものハートに見えた。引き出しからハートが顔を覗かせ、冷蔵庫の表面にハートがくっつき、床を鼓笛隊さながらにジグザグに闊歩していた。ぼくが寝静まっている間に、母親がぼくのために飾り付けてくれたんだ。トースターからハートがポンと飛び出し、スプーンの合間を逃げ回り、ハートがナプキンの上を泳ぎ、ペーパータオルの上で「ケンケンパ」をしてるみたいに飛び跳ねていた。
ぼくは思わず、その一つを手に取ってみる。指の間に赤い紙が挟まった感触がある。手の中のハートは、すでにぼくの頭の中で人格を形成している。―このハート君はちょっとずんぐりしていて、体重が左側に少し偏っている。そのためか、動きも他のハートよりちょっとゆっくりだ。だけど、彼は面白いジョークを言ってみんなを笑わせてくれる。ぼくは彼をブルーノと名付けた。(名前の由来は自分でもよくわからない。―たぶん、今まで行ったあまたの家の一つで飼っていた犬か猫の名前だろう。そういう名前はすべて、ぼくの記憶に蓄積されているから。)すぐにブルーノは、サリーとルーシーという2人の女の子の友人を作ったようで、3人でバレンタイントークに花を咲かせている。幸い、ぼくは彼らの言葉を英語に翻訳できた。
あと1時間もしないうちに母がやって来て、こうして新しくできた友達と遊んでいるぼくを見つけるはず。―ぼくは調理台の上に、ハートたちがみんなで遊べるようにジャングルジムを作ってあげた。セロリで滑り台を作り、ブロッコリーを滑り台に登る階段にした。ニンジンを角度をつけて何本か立てて、砦を作った。ブルーノは今もみんなの中心にいて、彼を取り巻く人の輪は、少なくとも10人以上に増えている。その全員をぼくは前からよく知っている、と強く感じた。
「ハッピーバレンタインデー!」と母の声がした。
数年後、ぼくは彼女の声を思い出す。その言い方まで懐かしむように思い出されてくるのだ。鐘の音のような明快さで、今日が本当に特別な日だと母は告げている。ぼくはそれに見合ったことは何一つしていないというのに、ぼくがぼく自身であればそれだけでいいと言ってくれているようで、母の声に包まれて全身が嬉しくなる。
ぼくは魔法で作り上げたハートの世界にすっかり入り込んでいて、あやうくジェイソンに託された封筒を彼女に渡しそびれるところだった。ぼくはその封筒を、キッチンの角でブーンという音を常に発している冷蔵庫の横にしまっておいたのだ。―その音はきっと、小妖精が冷蔵庫の機械の中で悪さをしている音だろう。―ぼくは椅子から飛び下り、急いで封筒を取り戻しに行く。キッチンテーブルに大きなピンクの封筒が置かれていて、その封筒にはぼくの名前が書かれていることに気づいてはいたけれど、ママが起きてくるまで開けずに待っていた。
ママは食器棚の前まで行くと、手を伸ばして棚の高い段から何かを取り出した。ぼくもいつかあんな高い棚に手が届くようになるのか、今は想像もつかない。食器棚の扉が揺れて、貼ってあったハートがいくつか、ひらひらと舞うように落下して、床にそっと降り立った。彼女の手には、包装された赤い箱が2つ現れた。どのくらい前から棚の上にあったのだろうと思うと同時に、今この瞬間に彼女の手の中に現れたのだと簡単に信じることもできた。
ハート型の小人たちの世界で、巨人はぼくとママの二人だけだった。日曜日の朝、小さなキッチンで二人きりになったぼくたちは向かい合って立っていた。そして、二人だけの世界で、ぼくは12通の封筒を彼女に手渡した。彼女は赤い包装紙で包まれた2つの箱をぼくに手渡した。大きなピンクのカードも一緒にもらった。
それは純粋にぼくに宛てられたメッセージカードだと感じた。たとえそれが実際は、今日ぼくが乗り移っているジェイソンに宛てたものであっても、ぼくへの愛のメッセージだと捉えることにした。毎回そうしないと、日々の生活をやってられなくなって、どこかに落っこちてしまいそうだったから、ぼくはそう信じ込むことに決めたのだ。愛の言葉や、言葉の背後にある愛の感情はまっすぐにぼくに向けられたものだと。特に、カードを手渡しながらぼくを見つめる瞳の中に「愛」を見て取れた時には、それはまさしくぼくへの愛なのだと。
ぼくが手渡した封筒を母が開けた。中からスターウォーズのバレンタインカードが出てきた。ジェイソンは全12種類を集めて、母にプレゼントしたことがわかった。それぞれのカードには、それぞれのキャラクターの手の込んだサインが書かれていた。一方、母からもらったカードを開けてみると、氷盤の上にたくさんのセイウチが集まって、ハートの形を作っていた。(一瞬パジャマの模様と同じウーキーかと思ったけれど、カードに顔を近づけてよく見ると、セイウチだった。)それから、母がくれた1つ目の赤い箱の中には、赤のマフラーが入っていて、2つ目の赤い箱には、赤の手袋が入っていた。
年を取るにつれて、赤という色はさまざまな意味を帯びてくる。心がどんどん複雑になって、捉え方も変わってくるのだ。だけど、当時の世界では赤はまだ、血とか、怒りとか、気まずくなるようなこととは無縁で、赤には一つの意味しかなかった。愛という意味しか。キッチンで、ぼくは愛に身を包むように、マフラーを巻き、手袋をはめた。きっと母から見るぼくの笑顔は、手袋と同じくらい赤かっただろう。胸の奥の心も、マフラーと同じくらい赤くなっているのを感じた。
ぼくの母は、12枚のカードから1枚を手に取って掲げた。仮面をかぶった人物が写っていて、『スターウォーズ』の台詞なのか、「ハートのお尋ね者を探し出せよ」と書かれている。
「私はこれが一番気に入ったかな」と彼女がぼくに言う。「ボバ・フェットって、本当にロマンチストだと思わない?」
それが誰なのかぼくにはさっぱりわからなかったけれど、同意したように真摯に頷くと、彼女が満面の笑みで応えてくれた。
「それじゃ、バレンタインデーってことで何を作りましょうかね? バレンタインワッフルなんていいんじゃない?」
彼女は用意してあったハート型のクッキーカッターを取り出すと、〈エゴーワッフル〉の生地をハートの形に型抜いていった。まさに祝日に食べるものって感じだ。彼女はワッフルを作りながら、ぼくの知らない歌を口ずさんでいた。一緒に歌いたかったけれど、できなかった。ぼくが学校で習っていた歌は、星条旗よ永遠なれ、とか、琥珀色に輝く稲穂の波よ、とかそういう歌ばかりだったから、バレンタインデーには相応しくない気がして、歌うのはやめておいた。
ママはバターもハートの形にしようとしたけれど、バターが溶けてしまい、それはうまくいかなかった。でも、シロップはちゃんとハートを描くようにかけてくれて、とっても可愛らしいワッフルが出来上がった。ママの愛が溢れているようで、食べずにずっと見ていたかった。
ハート型のワッフルに名前をつけようと考えていると、それを悟られたようで、「ほら、早く食べなさい」と急かされた。ママは自分で食べる分をもう二つ作っている。「早く食べないと、冷めちゃうわよ」
彼女はラジオをつけた。セレナーデのような優しいBGMに乗って、コマーシャルが流れ、天気予報が告げられている。キッチンテーブルに座ってワッフルを頬張りながら、二人だけの家族について考えていた。家庭に降り注ぐ重力の種類が、大人数の家族とは違うということに思い当たった。二人しかいないから、ラジオとかの第三の雑音が必要になってくるのだ。そうでないと、どちらかが話し続けなければならないというプレッシャーが常に両者に降り注ぐことになる。だけど、そのプレッシャーは大した重荷でもないな、と思い至る。ぼくたちは二人だけのリズムに慣れきっているから、言葉をそんなに交わさなくても、お互いの存在を意識し合って自然に行動できる。空間の中で注意を引かれる対象は相手だけだから、常に意識はしているけれど、その引力は弾力性があり、多少のプレッシャーはなんてことなく、伸びやかな気分で過ごせるのだ。
ワッフルを食べ終えると、ぼくは自分の部屋に戻り、ハートの切り抜きでさっきの続きをして遊んだ。ハートたちを宇宙船「ミレニアムファルコン」に乗せたり、ジェイソンが描いた宇宙要塞「デス・スター」とかの絵の上をハートたちに探検させたりした。
ぼくがそうしている間、母がお皿を洗っている音がしていた。水の音が消え、足音がして、彼女の部屋のドアが開いて閉まる音がした。隣の部屋から物音は聞こえたけれど、彼女が何をしているのかはわからなかった。それから少しして、ぼくの部屋のドアを母が開けた。見ると、母は手にピンクの液体が入ったボトルを持っていた。
「ストロベリーのバブルバスに入らない?」と彼女が聞いてくる。
断る理由は何もなかったので、彼女についてお風呂場に行った。手に何枚かハートの切り抜きを持ったまま、ぼくは彼女が湯気の立つお風呂に手を入れて、お湯がぬるすぎないか、熱すぎないかを確かめるのを見ていた。蛇口から水を足し、ちょうどいい湯加減になったところで、母がピンクの液体をバスタブの中に注いだ。水面に泡がどんどん湧いてきて、ストロベリーの香りが立ち込めた。「じゃ、ゆっくり楽しんで」と言って、彼女は出て行った。ぼくは泡々のお湯に身を沈め、苺の香りを大きく吸った。すると、頭がぼんやりしてきて、思考が当て所もなくさまよい始めた。泡を手で掬って、山の形にしたり、空中に放って、雲に見立てたりした。体を洗おうなんて、ぼくの頭には浮かばなかった。まるでそうやって泡で遊んでいれば、ストロベリーの水蒸気が体まできれいにしてくれると思っているかのようだった。
浴槽から、母があちこち歩き回っている音が聞こえた。時々、「大丈夫?」という彼女の声がして、「大丈夫だよ」とぼくは声を張り上げた。そして長風呂すぎると感じたのか、ついに母が「もうそろそろ出なさい」と言ってきた。ぼくはだいぶ蛇口からお湯を足していたので、すでに泡は小さくなり、泡の数も減っていた。浴槽から出てみると、泡の竜巻に巻き込まれたみたいに泡だらけの体だった。シャワーで泡を流し、タオルで体を拭いてから、赤いシャツを着て、緑のジーンズを穿いた。赤い靴下と赤いスニーカーもあったらよかったのに。
ぼくはこの時のことをよく覚えている。とても鮮明に細かいことまで覚えている。
・・・
次に覚えているのは、二人で動物園を歩いている光景だ。お風呂から出た後、ぼくからだったか、母からだったか、動物園に行こうという話になって、車で出かけたはずだ。でも、そういう家での会話とか、車に乗ってる記憶というのは、あまりに日常的な行為なので、そうしている最中も軽く流れていく感じで記憶にも留まりにくい。しかし動物園のことは、はっきりと記憶に残っている。他の親とも行ったし、学校の遠足でも行った。ジェイソンもこの動物園に来たことがあったのだろう。彼の母は案内もほどほどに、慣れている感じで動物園を回っていたから。だけど、バレンタインの特別感は出してくれていた。彼女はピンクのマフラーを巻いていて、ぼくは赤の手袋をしていた。パンダ小屋の前まで行って、二人で熱心に母パンダと赤ちゃんパンダの様子を見た。母はぼくに、パンダがバレンタインデーをどのように過ごすのかを教えてくれた。お客さんがパンダ小屋の前からいなくなったらね、と母は言った。飼育員さんもキリンとかの様子を見に行かなくちゃだから、そのうちいなくなったらね、親子パンダは二人だけでパーティーを始めるのよ。竹のストローでピンクのレモネードをすすって、中国から直輸入したハート型のチョコレートを二人で分け合って食べるの。ぼくはうっとりした気持ちで彼女の話を聞いていた。ぼくはうなずきながら、不思議に思ったことを次々と質問した:パンダもパーティーしながら音楽をかけるの? メッセージカードは交換するの? そのチョコレートは中に何か詰め物が入ってるやつ? それとも、チョコしか入ってないチョコ? パンダもぼくと同じでピーナッツバターのチョコが一番好きなの? ぼくの母はすべての質問に、一つひとつ丁寧に答えてくれた。
ぼくはパンダを見ながら、笑みがこぼれた。パンダはササの葉を噛んでいて、ぼくたちの方には見向きもしなかったけれど、ぼくは親子パンダの密かな計画を知ってしまったから。パンダはクマの仲間だということも知っていた。森でクマに出くわしたらおっかないだろうけど、目の前のパンダは可愛くて、柔らかそうな体をしていた。パンダの親子にバレンタインカードを贈りたかった。今夜のパーティー用に赤いリコリス飴を買ってあげたかった。中国から直輸入は無理だから、CVSとかのスーパーで買うことになると思うけど。
・・・
8歳の時はまだ、ぼくは信じたいものを好き勝手に信じていた。信じた方が楽しいし、どんな話も大歓迎だった。もっと年を重ねていくと、だんだん論理的にどうとか考え出して、ストーリーは噓っぱちだと証明しなければいけないような気持ちになってくる。さらにもっと年を取れば、ストーリーを再評価して、どれほど自分の人生を生きるのに物語が役に立っているのかに気づく日も来るのかもしれないけど、とにかく一旦は噓っぱちのお話から身を引くことになる。8歳はちょうどその直前で、まだいろんなことを信じていた。もちろんぼくにはわからないこともいっぱいあって、ジェイソンのこと、ジェイソンの母親のこと、檻の中のパンダについても、全然何も知らなかった。だけど、彼の母親からぼくに向けられた愛が十分に強いものだったから、知らないことは全く気にならなかった。ただ目の前にあるストーリーの中に生きていたかった。
パンダには赤いリコリス飴を買ってあげられなかったけど、ぼくは買ってもらった。動物園を出て、ピンクのレモネードを飲める店を探し歩いた。そして見つけたお店に入り、棒状で穴が開いてるリコリス飴をストロー代わりにして、竹を吸うパンダみたいにピンクのレモネードをすすって飲んだ。味が混ざって美味しかった。ランチ時でお店は混んでいたけれど、ぼくは周りのカップルたちには目もくれなかった。周りと比べてどうこうとかはまだ考える歳でもなく、純粋に自分のバレンタインを楽しんでいた。時期が来ればぼくも、バレンタインデーをミルクチョコのように甘くとろけるロマンチックな日にしたいと、お金をかけてバラを買ったりするんだろう。でも最初からそういう日だったわけじゃないんだよね。誰でもそうだろうけど、最初のバレンタインは、付き合ってる人や付き合いたい人とは無縁の世界で、こうやって愛をもらったはずなんだ。
ぼくのママがウェイトレスに、ピザの上を赤くして、チーズを下に入れてほしいと頼んだ。そのウェイトレスはにこやかに引き受け、シェフに頼んでくれた。ぼくたちのテーブルに運ばれてきたピザの上には、レッドペッパーでハートが描かれていた。ぼくは感極まり、喜びで胸がいっぱいになった。(感極まるって、最高に素晴らしい言葉だね。まさにぼくの感情が極限って感じだ)
ぼくはしばらく興奮状態が続き、お店を出てからも浮かれながら歩いていた。けれど、家に着く頃には疲れてしまい、よく覚えてないけど昼寝をしたんだと思う。そして目覚めたところから、また記憶がある。まだ外は明るかったけど、それからすぐに暗くなったから夕方だと思う。ぼくはブルーノ、サリー、ルーシーと少し遊んでから、ハートの小人たちに、チューバッカ、ハンソロ、C-3POを紹介した。―ただ、このリアルなフィギュアたちの本当の名前をぼくは知らなかったので、それぞれレックス、ハリー、ゴールディーと呼ぶことにした。彼らはこれから、6人でバレンタインパーティーを開くつもりだ。レックス(チューバッカ)はサリーに少し恋心を抱いているけれど、サリーは気づいていない。それに対してブルーノが密かにやきもちを焼く。そんなブルーノをゴールディー(C-3PO)が慰めてあげる。
ぼくの集中力が許す限りそうやって遊んでいたけれど、そのうち演劇がぐだぐだになってきて、ぼくは寝室を出ることにした。静かに、なるべく足音を立てずにキッチンへ向かった。キッチンにはハートの仲間たちがたくさんいるので、ブルーノ、サリー、ルーシーを連れて、サプライズでみんなに会いに行こうとしたんだと思う。キッチンの入り口まで来ると、中にママがいるのが見えた。彼女はぼくに気づいていない。
ここで、この日の記憶の中心にたどり着いたことを確信する。ありきたりな一日だと最初の方で書いたかもしれないけど、そうではなかったと思い至る。長い年月を経て、今もこの日を覚えているのは、―バレンタインデーの思い出として、この女性のことだけを覚えているのは、このシーンが中心にあったからだ。彼女はキッチンテーブルに向かって座っていた。彼女の目の前にはピンクのフロストケーキが置かれている。ケーキが入っていた箱もテーブルの上にある。彼女はハート型のキャンディーの袋を開けると、それをケーキの上に一つずつ置いていった。そうしている間、ふと彼女の手が止まった。小さな緑のキャンディーが親指と人差し指に挟まれたまま、ケーキの上で止まっている。キャンディーの袋が、浮かんだままの彼女の手首のすぐ下にあったけど、彼女はキャンディーの袋を見ているわけではない。ケーキを見ているわけでも、廊下にいるぼくに気づいたわけでもない。彼女はそこにはないものを見ていた。彼女の視線は虚空に向けられ、心の目が何かを見ているようだった。彼女はキッチンにいながら、同時にキッチンとは別の場所にいた。彼女のプライベートな宇宙とでもいうべき広大な場所で、彼女はぽつんと一人座っているかのように、ぼくの目には映った。ぼくが小さなキッチンで一人座る彼女の姿から感じ取ったのは、悲しみではなかった。あの歳でも、悲しみは理解できただろう。ぼくが見て取ったのは、重力の鎖から解き放たれたかのような、大人の空虚な表情だった。重力がどんなものなのか忘れてしまったかのようにぽかんと、唯一彼女の個人的な宇宙にだけ包まれて、他の世界の存在を忘れてしまったかのようにふわふわと、彼女はそこに浮かんでいた。
この時のことをこれほどはっきりと覚えているのは、ぼくが大人になってから、そういえばあの時のあの女性はこんな気持ちだったのだと理解するに至ったからだろう。重要なのは、その時に気づいたことではなく、―漠然と認識していたことが、後になって鮮明に意味を帯びたことの方なのだ。彼女がぼくに気づき、こちらを向いた瞬間、重力が戻ってきた。再び同じ質量の重力が降り注ぎ、彼女のプライベートな宇宙がぼくの世界と合致した。彼女がこちらに戻ってきてくれた。そしてぼくは「愛」を感じる。その時は詳しい説明はできなかったけれど、ぼくは全身で感じていた。愛とは重力なのだ。
彼女がぼくに「ケーキの飾り付けを手伝って」と言ってくる。ぼくは「誰のためのケーキなの?」と聞く。「私たち二人のためよ...あ、もしボバ・フェットがうちに来たら、彼にも分けてあげましょ」
朝、彼女が気に入ったと言っていた仮面をかぶったキャラクターだ。ぼくはボバ・フェットが来ませんように、と願った。
ぼくたちはケーキを切り分けて食べた。ケーキの記憶が強いけど、夕食も食べたと思う。その後、ぼくは皿洗いを手伝って、残っているケーキから指でクリームの部分を掬って、こっそりなめた。ピンクのフロストクリームは、超甘い歯磨き粉のいとこみたいだと思った。だけどママに言ったら、ケーキで歯を磨いちゃだめよ、と言われた。
代わりに、美味しくない方のいとこでちゃんと歯を磨くように言われ、ぼくは歯を磨いてから、再びあの「ウーキーパジャマ」に着替え、ベッドに飛び込んだ。昼寝をしたからか、疲れてもいないし、全然眠くなかった。そしたら、ママがぼくのベッドに入ってきて、本を読み聞かせてくれた。何の本だったのか覚えていないけれど、重要なのはそこではない。―ママがぼくに寄り添って読み聞かせてくれたこと自体の五感へのセンセーションの方が、個々の本のストーリーよりも、はるかに強力なのだ。彼女の語る言葉に身をゆだねていると、彼女が部屋に入ったときはまるで眠くなかった覚醒状態から、だんだんと遠のいていく自分を感じた。彼女が読み終わったとき、ぼくはほとんど夢の中にいた。でも、まだかすかに起きていたようで、彼女が部屋の明かりを消し、R2-D2の形をしたナイトスタンドのほのかな光の中で、子守唄を歌ってくれたのを覚えている。
ぼくはパニックに陥っていた可能性もある。8歳の頃にはすでに、ぼくが毎日、同じ年齢の誰かに乗り移るという体質だと気づいていたから、眠りから覚めて朝起きたら、このママにはもう会えないのだと悟っていたはずだ。だから、嘆き悲しみ、涙さえ流していた可能性もある。
でも、ぼくはその可能性を選ばなかった。ぼくはくよくよしないことに決めたのだ。与えられたストーリーを楽しもう。
信じてしまえ、と決めたのだ。
・・・
ぼくたちはお互いに贈り物をした。赤いマフラー、赤い手袋、カード、それからリコリス飴、上下逆さまのピザ。なぜぼくたちはお互いにプレゼントを渡したのか、今になってわかった気がする。ぼくたちはその日の詳細をお互いの記憶に残そうとしていたのだ。毎日はどんどん過ぎ去ってゆく。祝日もあれば、普通の日もある。そして、かつていた日から遠く離れてしまったとき、その日の詳細を手繰り寄せる術は、そのようなプレゼントなのだ。あるいは、動物園に行ったことや、一緒にケーキのデコレーションをしたこと。ぼくたちはそういう特別なことを頼りにお互いを思い出す。そういったことがぼくたちを今もつなげているのだ。ベッドで聞いた子守唄。紙のハートで作った星座。それらを全部ひっくるめた形で、記憶の中に、ぼくは愛を見る。
了
〔感想〕(2020年3月21日)
母親が待ちわびている相手は誰だったのか? 宇宙の外からの侵略者と戦うボバ・フェットか、その中の人(俳優)が他の女性と会うのに忙しくてなかなか来てくれないのか、ひょっとしたら、もう死んでしまったのかもしれない...
365日×8=2920
タイトルの2934-2920=14日
よって、誕生日が2月1日くらいで、今日が2月14日のバレンタインデーということです。
つまり、この短編は生まれてから2934日目の日記というわけです。
そして、この短編は一風変わっていて、SFチックというか、カフカ的というか、(あるいは思い込みによる精神的な作用、いわゆる胡蝶(こちょう)の夢なのかもしれませんが、)
「主人公は毎日違う人の体で目覚める」という設定です!
つまり、寝覚めてみて、「今日はこいつの体か」と判明して、笑
一日を過ごすというわけです。
「朝のメンタル・ルーティーン」というのは、心の中を見つめて、「今日のぼく」がなんていう名前で、どんな家族構成で...と、ざっと把握する作業(精神作用)です。
重要なことだけを大雑把に確認するので、着ているパジャマの模様に驚いたりするわけです!笑
だけど、よくよく考えてみると、これってSFチックでもないな、と思えてきます。ぼくも自分を突き放して見る感じで、自分のことを「名前」で呼ぶことはあるし、ささいなこと、たとえば、昨日食べたものとか、着ていた服とか、「あれ、あれはどこに置いたっけ?(っていうか、あれって何だっけ?笑)」と置いた場所を忘れてしまうことはよくあります。笑
なので、一見奇抜に見えて、普通に「幼い頃のバレンタインデーの良き思い出」を回想している、と捉えることもできますね。
そこで、ぼくの「バレンタインデーの思い出」を、プレゼントとかを頼りに記憶を掘り返してみたんだけど、ない...Σ(゚Д゚)笑(思い出したら、ここに付け足して書きます)
あの時、あの子は悲しそうな顔をしていた。死んじゃうかも、とか極度に心配するほど、ぼくは青かったから...
一つだけ思い出した。「自分で焼いたから食べて」と言われて、マシュマロみたいな、シュークリームみたいな、中にチョコが入ったお菓子をもらって、でも底の部分が焦げてたから、今だったらそんなのへっちゃらで食べられるけど、当時のぼくはまだ青かったので、上の部分だけ食べて、残りを箱に戻したら、悲しそうな顔をしていた。
っていう、昨日の夢かも...
ちょうど「まだ青かった頃」のぼくの顔写真があった。(小さくてよく見えないかも)
ちなみに「タートル先生」というのは家庭教師派遣会社の名前で、家庭教師の登録に行ったら、クレジットカード一体型の登録証を作らされたのです。
2001年03月までのクレジットカードなので、1998年辺りに撮った写真で、当時ぼくは大学生だった。だから、たぶん夢ではないと思う!(本当にぼくはマシュマロをもらったんだ!!よっしゃー!)
トラック 3
グッド・ガールズ
高校時代、わたしは真面目な女の子たちに囲まれていた。
わたしの両親はどう捉えたらいいのかわからず、戸惑っていた。毎晩のように、息子に女の子たちから電話がかかってきたからだ。当時は携帯電話はなかったので、親が電話に出ることが多く、聞き馴染みのない女の子たちの声に戸惑いを隠せない様子で、わたしを呼んだ。なぜ息子に、毎晩違う声の女の子から電話がかかってくるのか、不思議で仕方ない顔をしていた。わたしは自分の部屋を抜け出して、あるいは部屋を閉め切って、彼女たちといろんなことを話した。友達のこと、宿題のこと、人間関係の悩みを聞いてあげることもあった(わたし自身の話はあまりしなかった)。時には、人生の意味みたいなことも話し合った。わたしにはそれほど多くの女の子の友達がいたわけだけど、声を聞けばすぐに誰だかわかった。でも本当は、一人も友達なんていなかったのかもしれない。
正直なところ、わたしの友達のほとんどは女の子だった。メイリング、エラナ、ジョアンナ、キャロリン、ローレン、マーシー、この6人は真面目な良い子たちだった。リンダ、ドボラ、レベッカ、スザンナ、ディナ、メグ、ジニー、この7人は、良い子ではあったけど、高校生になった途端、目の色を変えて男の子たちに擦り寄るようになった。イライザ、ジョディ、ジョーダナ、ジェニー、マリアム、この5人はわたしより1学年下で、やはり良い子たちだった。ジェニファー、サミ、トレーシー、この3人は、あまりわたしたちと束になって行動しなかったけど、やっぱり良い女の子たちだった。男の子の友達もいたことはいたけど...そんなに多くなかった。女の子たちが、わたしの交友関係の核を成していた。
わたしたちは愛については語り合ったけど、セックスの話はしなかった。わたしたちにとって「パーティー」といえば、和気あいあいとした座談会のようなもので、飲んで騒ぐ類いのものではなかった。ちょっとアルコールが入った混合酒をぎこちなく口につけたり、せいぜいワインクーラーに入っているワインを少しグラスに注いで飲むくらいで、ジョッキでビールを飲むことは、かなりハードルが高かった。違法薬物なんて考えもしなかった。わたしたちは家庭用ビデオデッキの恩恵を享受した世代だった。高校時代は1990年代の前半で、映画『恋人たちの予感(When Harry Met Sally…)』をビデオで何度も繰り返し見た。ニューヨークを舞台にした恋愛映画なのに、まるで古代アラム語を解読するかのように、そのストーリーの意味や教訓について思いを巡らせていた。その中心に位置する命題は、「男女間で友情は成立するのか?」という問題で、わたしは肯定側に立って考えるのが好きだった。というのも、たまに女の子の友達の一人を好きになってしまっても、結局はわたしの中で友情が勝利を収めたから。
男の子を好きになるという感情はまだ、わたしの中に芽生えていなかった。
わたしの周りの真面目な女の子たちは、機知に富んだ言い回しに憧れ、SAT用の暗記カードにドロシー・パーカーの気の利いた言葉を書き込んだりして、ランチテーブルをみんなで囲みながら、皮肉や風刺を言い合っていた。それがスマートで、いけてる時間の過ごし方だった。そんなの馬鹿らしいとも思っていたけれど、わたしたちはスマートさと馬鹿らしさを、両方とも隠すことなく、大っぴらにひけらかすことにした。そうやって、わたしたちのグループは学校の内外で知名度を上げていった。わたしたちはニュージャージー州のミルバーンという町で暮らしていた。アメリカンフットボールのチームは優勝経験のない弱小チームだし、小さな町だから、驚くほど簡単に知名度を上げることができた。
わたしの周りの女の子の多くは、「ミルバーネット」という女性コーラスグループに所属していた。誰かが男の子と付き合い始めたと聞けば、だいたい相手は男性コーラスグループ「ミルバーネア」の一人と相場が決まっていた。わたし自身も「ミルバーネア」のオーディションを受けたんだけど、落ちてしまった。というのも、わたしはすべての課題曲を、『レ・ミゼラブル』の劇中歌「Bring Him Home」みたいに、声を張り上げて熱唱してしまったから。後日、コーラスディレクターの気難しくて短気なディール氏から改めて電話があった。オーディションの審査員席に座っていた彼は、女性物の服装をしていた。一度目は呆気に取られてしまったけど、なかなか面白い声してたから、もう一度チャンスをやろう、と言われた。でも、わたしは断った。よくよく考えてみると、「ミネルバーネア」の、あの真っ青なポリエステル製の舞台衣装を着る気にはなれなかったから。
代わりに、わたしは「ミルバーネット」の公演に足繫く通い、見知った子たちの歌声を鑑賞した。そして、わたしは学校のミュージカルクラブに参加した。(印象に残っているのは『キス・ミー・ケイト』で、わたしは一言しか台詞のないドアマンを演じた。)それから、わたしはフェンシングチームにも入った。―わたしの志望大学はスポーツをやっていた方が合格しやすいというのもあったし、女の子の友達も何人かフェンシングチームに入ったので、練習中、剣を交えるよりも長い時間、その子たちと喋っていた。
高校時代は楽しかった、なんて言うのはやぼったいと、卒業から年を重ねるごとに思うようになってきた。―高校時代なんて大体みんな楽しく過ごすものだし、運悪くそうでもなかった人たちも、彼らが卑下して言うほど悪い時代じゃなかったはずだから。わたしの場合、素敵な女の子たちに囲まれていたから、わたしの高校生活も当然素敵なものになった...と言いたいところだけど、必ずしもそう簡単ではなく、いつも素敵だったとも言えない。だけど、高校時代を通して概ね幸せで、わたしは周りから受動的に幸福感を受け取っていた。たまに無性に自分から動きたくなって、それはいつも突発的に起き、自分でも予期できないんだけど、能動的に幸福感をつかみに行くこともあった。たとえば、メイリングが長い袖を引っ張って、それを鼻のところにつけて、「私は象さんよ!」と声高らかに宣言したのを覚えている。周りのわたしたちも彼女にならって同じように宣言した。これは受動的な幸福の場面ね。それから、校外学習で行ったメトロポリタン歌劇場でオペラを観ながら、わたしとリンダはお互いに手振りでサインを送り合っていた。席が隣だったら言葉を交わすこともできたんだけど、わたしはバルコニー席で、彼女はオーケストラ席だったから、ジェスチャーでやり取りしていた。オペラは長くて退屈だったけど、それで楽しい思い出になった。ジェニファーとの思い出は、早めに昼食を終えて、二人で立ち入り禁止のロープをくぐって講堂に通じる階段に座り、眼下の廊下を通り過ぎる生徒たちを眺めながら、一人ひとりについてコメントし合っていた。廊下にあまり人が通らない時は、本の話をした。胸がときめくような恋愛の恍惚感はなかったけれど、それに匹敵するくらい目がくらむような友情のときめきがあった。そうやって過ごしていた時間は、教室でわたしたちが受けなければならなかった学力テストに対して、心のバランスを取る行為だったのだろう。いわば廊下のテストで、お互いが着ているものや、お互いの発言、自分が何者であるかについて、わたしたちはテストしていたのだ。
それは姉妹関係であり、わたしはその中で唯一の男兄弟だったから、わたしだけ入れない女子同士の会話もあることはあった。―そんなに多くの女子に囲まれていたら、どうしても性的な目で見ちゃうだろうと、これを読んでいる人は思うかもしれない。でも、いくつかの例外はあったものの、それは滅多に起きなかった。代わりに、わたしは女の子の心のうちを垣間見ることが多く、女子の感情的な心象風景といったものを、わたし自身の内側に取り込むことができた。それが、のちの人生でわたしを形作る重要な要素になった。―わたしも含めて女子は、感情をオープンに表に出して過ごしていた。苛立ち、悩み、喜び、怒り、愛情など、色々な感情を隠すことなく、お互いにぶつけ合っていた。あの年代の男子からは、そういった何でも表に出すような態度は感じられなかった。10代のあの時期というのは、すべてが大きな出来事に思えてしまうものだ。のちにトラウマとなるような、あるいは...のちに笑い話となるような、いずれにせよ、メインイベントの連続なのだ。だけど、わたしは女子たちからその対処法を学んだ。喋って、喋って、喋りまくること。そうすれば、大体乗り切ることができた。それでもうまくいかない場合、まだわだかまりが残っている場合は、髪を切ったらいいよ、とリンダに教わった。彼女が言うには、人生を変えたかったら、髪を切るのが一番手っ取り早い方法で、髪を切ってみると、不思議と人生が変わり始めるんだとか。
みんな真面目な女の子だったから、あまり男の子とデートしたりはしなかった。同じ理由で、わたしも男の子とデートしなかった。もうちょっと早い段階で男の子への気持ちが芽生えても不思議ではなかったんだけど、目ぼしい男子がそんなにいなかった。わたしたちの高校はわりと小規模(生徒数は1学年160人かそこら)だったから、本好きで、はきはきとしていて、キュートで、分別があって、賢い、わたし好みの男子はそうそういなかった。今振り返ってみると、何人かそういう男子がいたことはいた。彼らはわたしとは接点のない遠い存在だったけど、わたしはそう決めつけることなく、淡い恋心を抱いていた。彼らは大抵わたしより1歳か2歳年上で、哲学者や作家について話していた。他の男子はスポーツとか、コンピューターについて話していたので、彼らの会話は私の気を引いた。べつに彼らとキスしたいとか、付き合いたいと夢見ていたわけではなくて、単に彼らに惹かれていた。大体は遠くから、たまに間近で彼らをチラチラ見る程度だったけど。
また、わたしは友達として誰かを好きになることはよくあった。―男女問わず、その人が何か、わたしの好きな要素を持っていれば好きになった。謎めいているから好きになるというのは、わたしにはなかった。わたしはボーイフレンドになりたいわけではなくて、お互いをよく知る親友になりたかった。わたしは早い段階で、実感としてわかっていた。好きな人よりも、好きな人のことを相談する相手の方が、重要な人物だということを。
わたしと周りの子たちは、デートをする代わりに、いろんなことをして高校時代を過ごした。みんながいたから、デート相手は要らなかったとも言える。〈ピクショナリー〉という絵を描いて単語を当てるゲームもたくさんした。しかも、しらふで大真面目にやっていた。それから、学校新聞や文芸誌も自分たちで編纂した。〈B.ダルトン書店〉というショッピングモール内の本屋がわたしたちのお気に入りの店だった。わたしたちは、〈ケイビートイズ〉の横の通路で踊っているような高校生ではなかった。週末にはニューヨークまで出て、半額チケットの列に並んでブロードウェイのショーを観たり、グリニッチ・ビレッジの古着屋で買い物をしたりした。美術館にも行った。食事は大体ファストフード店で、〈ベニガンズ〉、〈T.G.I. Fridays〉、〈チリーズ〉、それから地元のピザ屋〈ラ・ストラーダ〉にローテーションで通っていた。わたしたちが行っていた映画館はニュージャージーに二つあって、メジャーな映画を見る時は〈モリスタウン・マルチプレックス〉、芸術性の高いマイナーな映画を見る時は〈ロストピクチャーショー・ユニオン〉に行った。ただ、後者の映画館は古びていて、雨が降っている日は雨漏りした。わたしたちはマーガレット・アトウッドとか、J.D.サリンジャーとか、カート・ヴォネガットを好んで読んだ。(アイン・ランドを読んでいる子もいて、わたしもちょっと読んでみたけど、わたしには入り込めなかった。)わたしたちは芸術についても語り合った。もっとも自分たちが芸術を語っているなんていう高尚な意識はなかったけれど。卒業アルバムの寄せ書きに、ソンドハイムが作曲したミュージカルソングの歌詞を書く人も何人かいた。
同性愛に目覚める少年の多くは、―自分が同性愛者だとまだ気づいていない人も含めて、―高校時代を、自分は孤独な存在なんだと感じながら過ごすことになる。好きな人を見つけることができずに自分は普通じゃないんだと思い、周りに溶け込むことができずに自分は他の人とは違うんだと感じ、誰ともカップルになれずに孤独感にさいなまれることになるわけだ。わたしの周りには素敵な女の子たちがいたから、そういった思いに囚われることは少なかったけれど、たまに一人になると、わたしは孤独な男子だった。今から振り返ってみると、カップルになってもどうせ短い期間で別れるのだから、そんなつかの間の付き合いなんて馬鹿馬鹿しいとさえ思っていたふしがある。だけど、周りの女の子たちが同じボートに乗っているかのように思いを共有してくれたので、わたしの孤独感はすぐに消えた。長く暗い、魂が孤独にもだえるような夜を、高校時代に経験せずに済んだのは、良き仲間たちと魂の部分でつながっていたからだ。
女の子たちとわたしは、人目もはばからずに一緒にいて、はしゃぎ合っていた。それはとどまることを知らず、わたしたちは授業中でもメモを回して会話していた。その膨大なメモをすべてつなぎ合わせて、それを楽譜に見立てて演奏すれば、高校時代の壮大な交響曲を奏でることができそうだ。しかも、分刻みで細かく高校生活を再現できてしまう。絶え間なく続く観察と内省の、その瞬間瞬間を言葉に置き換えたきらめく詩(うた)だ。
すべてが平穏に流れていたのだが、卒業が間近になり、プロムというダンスパーティーが近づいてくると、ざわざわと波風が立ち始めた。わたしにとっては特に一大事というわけでもなく、―わたしはすでに2年生の時のプロムに、ある女の子に誘われて参加したことがあった。彼女はそんなに知らない子だったから、きっと彼女が作成した候補者リストを上から順番に誘っていって、一番下に書かれていたわたしにたどり着いたのだろう。わたしはその場で快諾した。彼女と一緒に踊って、楽しい夜を過ごしたけれど、わたしのその後の人生を永遠に変える一夜にはならなかった。そして最後のプロムが近づいてきて、わたしは(いつものように)空いていた。連れ添う相手が決まっていないわたしが、いったい誰を誘うのか、それはわたしが不在中の、女子たちのホットな話題だった。わたしが教室に戻ると、彼女たちが急に話題を変えるのがわかったけれど、わたしは素知らぬふりをした。
わたしはジョーダナをプロムに誘うことにした。彼女は同じミュージカルクラブのメンバーで、2年生の真面目な子だった。奇妙な反応だと思われるかもしれないけど、文化祭の舞台で上演した『サウンド・オブ・ミュージック』で、彼女が修道女を演じているのを見て、わたしは彼女を誘いたいと思ってしまった。修道服を着た彼女が「すべての山を登れ」を歌い上げながら、マリアの手を取り、逃げるように説得するシーンを見ながら、わたしは、ジョーダナと一緒にプロムに行ったら楽しいだろうな、と真剣に思った。付き合いたいというよりは、恋人の代わりになるような友人として仲良くなりたい、と。
わたしの知り合いにジョシュという男子がいて、彼もたぶんジョーダナをプロムに誘いたいんだろうな、とわかった。そこでまずはデートではなく、ジョーダナをファストフード店に誘って、彼女に選択肢を与える感じで会話しながら、彼女の気持ちを確かめることにした。わたしたちは〈ベニガンズ〉に行ったのだが、わたしはテンパってしまい、モッツァレラ・スティックを食べながら、実存的危機に陥りそうだった。ジョシュのことも頭をよぎり、彼女をプロムに誘うかどうか、懸命に考えていた。
その時突然、ロクセットの歌声が頭上から降ってきた。
そうでなければ、わたしはジョーダナをプロムに誘わなかったかもしれない。〈ベニガンズ〉の天井に備え付けられたスピーカーから、ロクセットの伸びやかな歌声が舞い降りてきて、「Listen to your heart」(自分の心に聞け)と訴えかけてくるものだから、それが引き金となった。わたしの心は「行け!」と言っていた。わたしはジョーダナに「プロムにジョシュと行きたいのなら、そう言ってくれて構わない」と、つい言ってしまったのだが、結果、彼女はわたしと行きたいと言ってくれた。
わたしはひと仕事を終えた気分で、とにかくほっとした。
しかし、事態は予想を上回る展開となった。わたしは常に喜悲劇混在の状態を望んでいたとはいえ、ここまで混在度が激しさを増すとは想像できなかった。いわば、わたしがプロムの相手を決めたことにより、椅子取りゲームの音楽が止まったのだ。わたしが誘ってくるかもしれないと待ち構えていたわたしの周りの女子たちが、一斉に近場の椅子に飛びつくように、近くの男子を誘い出した。プロム前の騒動、下品な言い方をすれば、狂乱の奪い合いを引き起こした原因はわたしだった。真面目ないい子たちが、なりふり構わず目ぼしい男子を誘っていった。みんな希望通りの相手をつかみたいようだったけれど、大体みんな、希望通りにはいかなかった。―わたしの場合も、どうやらジョーダナはジョシュと来たかったらしいということが、彼女の視線や仕草からわかり、プロムの間中、お互いにぎこちない感じになってしまった。それでも、プロムの時にみんなで撮った集合写真を見ると、わたしたちはみんな幸せそうな表情をしている。―前の列にグッドガールたちが並び、後ろの列には、女子たちをエスコートしようとタキシードでビシッと決めた男子たちが並んでいる。男女の組み合わせは、ほとんどランダムといった感じだ。男子も女子もみんなドレスアップしていて、わたしたちは、いっぱしの大人になったんだと思っていた。もちろん今から見れば、実際みんな若すぎて、目が潤んでしまう。わたしが年を取るごとに、写真の中のわたしたちはどんどん若くなってゆく。
わたしたちの友達付き合いは、異なる時代のちょうど過渡期に当たった。わたしたちのコミュニケーション方法や知識を得る方法は、今の高校生とはだいぶ違っていて、わたしたちの両親世代が高校時代に経験したことの方がはるかに近い。わたしたちが高校を卒業してから5年もしないうちに、何もかもが様変わりした。わたしたちの高校時代は、まだ電話にコードが付いていた。―子機はあったので、部屋で一人になって話すことはできたけれど、親機はコードで壁につながっていた。わたしたちが「チャットする」と言えば、タイピングを介さないものであり、テキストやページという言葉は、まだ本に関する会話で使う言葉だった。裸の写真を見たくなったら、町の本屋に行って、周りを気にしながらそういう雑誌を覗き見るか、『The Joy of Sex(セックスの喜び)』とかの本の挿絵を見るか、「ナショナルジオグラフィック」で未開の地に住む民族の裸を見るか、R指定映画のビデオで慎重に狙いを定めて一時停止しなければならなかった。知り合いはみんな同じ町に住む子たちで、唯一の例外はキャンプに行った時に知り合った子たちだった。音楽バンドも、ラジオかMTVで曲が流れたバンドしか知りようがなかった。わたしにとってあの時代は、今のわたしを形作っている細々としたポップカルチャーに出会う前、つまり大学に行く前の、まだ自分の色が定まっていない不安定な時代だったわけだけど、わたしは幸せだったから、わたしは誰なのだろう、とアイデンティティを自らに問うこともなかった。
わたしがゲイだということを、自分でも気づいていなかった時点で、周りの女の子たちが気づいていたのかどうかはわからない。もしかしたらパズルの色々なピースを組み合わせるみたいに、周りの子たちは薄々感づいていて、わたしが自分で気づくのを待っていたのかもしれない。少なくとも一人は、確実に気づいている子がいた。―というのも、大学1年の時にレベッカから手紙が来て、そこには大まかに、「もしゲイでも、それって素敵なことだから、もう隠す必要なんてないのよ」みたいなことが書かれていたから。わたしはそれを読んで傷ついてしまった。―わたしがゲイだと彼女が知っていたことに傷ついたわけではなく、わたしがそんなに大きなことを友達に隠していた、と彼女に思われていたのが辛かった。わたしはただ気づいていなかっただけなのに。わたしは彼女に返事を書いて、わたしがゲイだってことを堂々と周りに話すようにするよ、と断言した。―その時はまだ、自覚するまでにもう少し時間が必要だったけれど、その返事を書いている時点では、それは正しい判断だったと思う。それからしばらくして、自分がゲイだとはっきりわかると、わたしは実際にそれを隠そうとはしなかった。わたしを形作る他の要素と同じように、ゲイであることもまた自然なことのように感じた。だけど、高校時代に気づかなくて良かったと思う。もし自覚していたら、間違いなく経験することになっただろう不安や恐怖や自己否定を、わたしは幸運にも経験せずに済んだのだから。わたしはこういう人なんだからこれでオーケーとか、他のみんなもそれぞれでオーケー、そういうことは徐々にわかってくるもので、すぐに思えるものではない。それと、わたしが医学部に進学するつもりだということはあえて言わなかったんだけど、話していたら彼女たちは、わたしがゲイであること以上に驚いたに違いない。
わたしは大人になり、作家になった。取材などで多くの10代の若者と接する機会を持って実感するのは、当時と比べて今は、本当にたくさんの可能性が開かれているということ。わたしたちが経験できなかった楽しいトラブルが今はたくさんあるのがわかる。わたしがゲイだと自覚するのが遅かったのも、比較的情報の少ない時代のお陰だったんだなと思う。真面目ないい子でいたから、経験するチャンスを逃したこともあったことはあった。わたしの周りの子たちも、ある種のリスクや危険な冒険から自分の身を遠ざけるように生活していた。いわばシェルターで守られた生活だけど、今はそのシェルターに感謝している。わたしにはシェルターが必要だったのだ。それで開花が遅れた部分もあったけど、逆にシェルターのお陰で、綺麗に花をつけた部分もたくさんあったのだから。経験できなかった良い事もあったのはわかっているけど、経験せずに済んだ悪い事だってたくさんあったのだから。
わたしの周りにいた良い子たちのほとんどは、―高校から大学、そしてその後の人生を通じて、―良い男友達や良い女友達、すなわち良い仲間を見つけることができている。わたしも、自分に似通った高校時代を過ごした男友達、つまり真面目な女子たちに囲まれて過ごした男友達を見つけられた。わたしたちは男だけで集まって、今も高校時代の女子会のようなことをしている。秘密を打ち明け、相談に乗り、ペチャクチャと喋り、楽しい時間を過ごしているわけだ。高校時代にこんな将来を想像できた子はいなかったと思う。いつの日にかそれぞれが、自分と似通った人たちと、自分が好きな人たちと、高校時代と同じようなグループを形成することになるとは、あの頃は誰も思わなかったはずだ。
高校時代は今から振り返れば、はるか遠くに見える記憶である。しかしこれだけは言える。わたしはこれからも、わたしを育んでくれた真面目な女の子たちに感謝し続ける。彼女たちがいなければ、今のわたしとはかけ離れた大人になっていただろう。
了
〔感想〕(2020年4月4日)
ピンクの花が咲き誇る高校時代を回想した短編で、藍(ぼく)もピンクの色鉛筆を握っているイメージで訳しました。(実際握りながら訳した時間もあった。笑)
ただ、ところどころに「孤独の影」が見え隠れするというか、実際はこんなにピンクピンクしていなかったんじゃないか? と思わせる記述が挟み込まれていて、藍も記憶の色を変えちゃえ!と思え、勇気づけられました!!笑
それから世代的に共通要素が多く、ビデオやコミュニケーションツール関係にも、とても共感しました。
国は違っても、地球って丸いから、半日後には同じ地点で同じ太陽を浴びることになるし、そういう意味では同じ時代を思い返している感覚があって、ノスタルジックに藍の目も潤んでしまいました...涙
ただし、藍の高校時代はどんなに念を入れて記憶を捏造しても、藍色はピンクにはならず、せいぜいあの日あの時見上げた空の青さに近づくくらいだったけれど...泣
それにしても、アメリカの多くの小説に出てくるプロムって、なんだか羨ましい...💙
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