『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』2
『My Almost Flawless Tokyo Dream Life』 by レイチェル・コーン 訳 藍(2020年01月26日~)
チャプター 8
私は小さい頃から、身寄りのない子供が出てくるお話を読むのが大好きだった。まさか自分も小説の登場人物と似た、悲惨な境遇に陥るとは思ってもみなかった。里親の家で私は毎晩、この状況から魔法のようにパッと抜け出せたらいいのに、と祈っていた。実際にそんなことが起きるなんて思いもしなかったけど、それは実現した。
翌朝目覚めると、私は真新しい寝室にいた。49階のペントハウスの一室で、窓から東京を見下ろせる。私の寝室に付いている私専用のバスルームに入って、たっぷりと時間をかけて温かいシャワーを浴びた。二日連続で温かいシャワーを浴びられるなんて、それだけで魔法を浴びている気分だった。今日から新しい学校生活が始まる。私は身支度をして、エミコに渡された分厚いバインダーから、国際カレッジスクール(ICS)東京校のパンフレットを引き抜くと、パラパラとめくって校舎とかの写真をチェックした。ホグワーツ魔法魔術学校っぽくはなかった。どちらかというと、ディズニーランドに近い外観だった。私は時差ぼけのせいか、方向がつかめない感じで頭がぼんやりしていた。ここで私はどんな悲惨な末路を遂げるのか、今の時点では見当もつかないけれど、私は気にしないことにした。現状が快適すぎて、感謝しか湧いてこないし、この夢から早々と醒めるわけにはいかない。
ああ、さようなら、メリーランド州の公立学校へ向かう地獄のようなスクールバスに、私は別れを告げた。私の目の前には運転手付きのベントレーが待っていて、快適に初めての学校に連れて行ってくれる。さっき聞いた話によると、アケミ・キノシタ(木下明美)という、同じタック・ラグゼの46階に両親と住んでいる女の子が、学校まで一緒の車に乗せてくれるらしい。高級車で「相乗り通学」なんて、なんだかお洒落で気が利いてるし、そんな小粋な通学方法があるなんて今まで知らなかったわ。しかも、黒のスーツを着た運転手さんがナビゲートしてくれる。レジーに「ベントレーに乗って通学してるのよ」なんて話したら、彼は気絶するでしょうね。そういえば、私の新しい父親は初日の登校に私に連れ添ってくれないんだった。喜びのあまりすっかり忘れていたけど、相乗りの相手の子の父親が私に挨拶してきて、思い出した。
「君がエルかい?」とベントレーの横に立っている年配の男性が聞いてきた。私はうなずく。「私はアケミの父です。アケミは英語がまだ上手く話せないから、助けてやってくれるかな」彼自身の英語もつっかえつっかえで、日本人訛りが強かった。車内を見ると、私と同い年くらいの女の子がすでに座っている。私に挨拶してきた男性は、彼女の父親だと言ったけど、彼女のひいおじいちゃんでも不思議ではないほど年を取っていた。彼はエレガントなビジネススーツを着ていたけれど、顔にはしわが寄っていて、腰も曲がり、猫背で大変そうに立っている。
「わかりました!」と私は言った。「相乗りさせてくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして。良い一日を。ごきげんよう」彼は私にお辞儀すると、その場を後にした。運転手さんが後部座席のドアを開けてくれたので、私はベントレーに乗り込んだ。
「こんにちは」と私は日本語で、隣に座っている私立学校のお嬢様って感じの女の子に挨拶した。こんにちはは今のところ、私が知っている数少ない日本語の一つだった。後部座席は高級感に満ちた空間で、座席だけでなく天井まで革張りになっていた。相乗りの相手の子は、目の前のタブレットでアニメ映画を見ていた。折り畳み式のテーブルが座席に備え付けられていて、その上にタブレットが立っている。
「ねえ、アケミ」(アケミという名前は私が今までに聞いた名前の中で、最も美しい発音の一つで、アーケーミーと発声するだけで気持ちいいんだけど、)アケミは、私にあまり関心を持っていないようだった。彼女の意識は目の前の映画に集中している。エミコの話では、アケミは高校1年生ということだけど、もっとあどけない感じで、中学生になったばかりに見えた。髪の毛を後ろで結び、リボンを巻いている。パステルピンクのかわいいリボンで、私は東京の「かわいいスタイル」を初めて見た。髪の毛だけでなく、学校の制服にも、リュックカバンにもレースのリボンを付けている。
見た目からして清楚な女の子って感じだけど、アケミが実はワイルドな女の子だったらいいのに、と思った。家族の目から離れた瞬間に髪のリボンをほどき、胸元のボタンをざっくりと真ん中辺りまで外して豊満なボディーを見せびらかし、スカートを折って短くしてパーティーガールに大変身するのよ。それもそんなに悪くないでしょ。その方が、車で送迎される大人しい女の子より楽しそうじゃない。二言三言しか喋らない女の子なんてやってて、つまらなくないのかしら?
アケミの英語の手助けをしてあげてって言われたけど、彼女はぽつりぽつりと、一言ずつ返すだけだから、どうやって手助けをすればいいのか手掛かりがつかめない。
私、「アケミ、ICS東京校はどんな感じ?」
アケミ、「まあまあ」
私、「好きな科目は何?」
アケミ、「美術」
私、「どんな絵が好きなの?」
アケミ、「青」
私、「ずっと東京に住んでるの?」
アケミ、「いいえ」
私、「この学校の制服、そんなに悪くないわね。もっとダサいと思ってた」
アケミ、「そうね」
それは冗談ではなく本心だった。私は制服なんて着たくないと思っていたけど、実際に着てみると、デザインも素敵だし、気分もうきうきしてくる。プリーツスカートは膝までの長さで両サイドに切れ目が入っていて、深緑と藍色のチェック柄だった。両サイドの切れ目は、バックルではなく、黒の安全ピンみたいな掛け金で留めてある。オックスフォードスタイルの白いシャツの肩口には、グリーンとゴールドの文字でICS-Tokyoと綴られている。ネイビーブルーのニーハイソックスはスカートの色と合っていて、寒い季節になったら、タイツを穿いてもいいし、藍色のベストを着ることもできる。ベストはカシミアで編まれたもので、見た目も全然悪くない。極めつけは靴で、サドルシューズと、コンバットスタイルの上まで紐で結ぶブーツの二種類あって、好きな方を選べるのよ。どちらもいけてるんだけど、私は登校初日にブーツの方を選んだわ。
アケミはリュックカバンから日本のファッション雑誌を取り出し、特定のページを開くと、それを私に手渡した。そのページの写真には、イモジェン・カトウという名前の10代の女の子が写っていた。名前だけはアルファベットの明るいフォントで書かれていたので読めたけど、他の部分はすべて日本語の記事だった。そのため細かい情報はわからなかったけれど、彼女の顔が、私みたいに、ハーフの日本人だというのはわかった。彼女は髪の毛をいろんな色で奇抜に染めている。彼女の後ろにはベッドルームのクローゼットが写っていて、おびただしい数の色とりどりの洋服がかかっていた。アケミが言った。「彼女の母親がICSの制服をデザインしたのよ」
イモジェン・カトウの母親が大物であるかのような言い方だったから、私は聞いた。「彼女のママって誰?」
「シャル・カトウよ」
「えー! あり得ないわ! シャル・カトウがこの制服をデザインしたっていうの?」世界中を席巻するファッションブランドの超有名デザイナーが、なんでわざわざ学校の制服なんてデザインするっていうの?
アケミが言った。「シャル・カトウはICSの卒業生なのよ。ずっと学校の支援をしていて、今は、彼女の娘さんのイモジェンも、この学校に通ってるわ」
うわ! 私が通う学校って東京の学校よね? ハリウッドにあるセレブな学校じゃないよね?
「イモジェン・カトウっていい子?」と私は彼女に聞いた。
アケミは肩をすくめた。「イモジェンは2年生だから、私は彼女と一緒になる授業はないわ。それに、彼女は人気がある女の子たちの一人だから。彼女たちは私に話しかけてこないし」
「ああ」なるほど。わかったわ。そういうのは前の学校にもあったから。「ICS東京校にどのくらい通ってるの?」
「去年タック・ラグゼに引っ越してきてからよ。前は大阪に住んでいて、普通の日本の学校に通ってたの。東京に引っ越してきた時に、父がもっとしっかり英語を学んだ方がいいからって、父がICS東京校を選んだの」
「あなたの英語はかなりいい感じよ」彼女の話し方は慎重で、やや日本人訛りもあったけど、言葉と格闘している感じはなかった。
「ありがとう。英語を話すのは好きだし、楽しいわ。だけど私は、英文法とか読むのが苦手なのよ」
「私がなんとかその辺を手助けできるように、何か方法を考えてみるわ。ICSに通ってみてどう? 気に入った?」
「日本の学校の方が良かったな。ICSはアメリカの学校みたいに、人気があるか、スポーツができるか、その二つだけが重要なのよ」
突然、私の頭の中でキラッと輝きを放ち、ひらめくものがあった。こんにちは!と日本語で叫びたい気持ちだった。私はまったく新しい大陸、新しい国の新しい学校で、新生活を始めようとしている。かつて住んでいた私の出身地から何千マイルも飛んで、広大な太平洋を越えて来たのだ。つまり誰も、前の学校での私の地位とか、人気度の低さを知らない。私はここでまったく新しい人になれるんだ。まっさらな地点から、新しいキャラクターで再スタートできるんだわ。
アケミが言った。「たぶんイモジェンはあなたを好きになると思うわ。彼女もあなたみたいにハーフなのよ」
「ハーフって何?」日本へ飛び立つ前の空港のラウンジでも聞いたし、日本の空港でもその言葉が耳に入ってきた。どの人もこそこそと、まるで悪口を言っているように、ささやき声でその言葉を口にしていた。
「半分日本人で半分外国人ってことよ。イモジェンは2年生のクラスで唯一のハーフだったんだけど、今日からあなたが入るから、クラスで二人ね」私が通っていたメリーランド州の学校には、いろんな人種の子たちがいたから、アケミの発言に違和感があった。私がクラスで二人のハーフのうちの一人になることを、なぜアケミは私に話しておく必要があると思ったのかしら? 日本人特有の差別意識ってこと?
「この学校の勉強量って大変?」と私は聞いた。
「猫の手も借りたい」とアケミが日本語で言った。
「それってどういう意味?」
「忙しすぎる時に使う決まり文句よ。自分の手だけでは足りないから、猫の手でもいいから借りたい、手伝ってほしいってこと。ICSで宿題がどさっと出た時によく使うわ」
「猫の、手も、借りたい」と私はその日本語を真似て言ってみた。猫ちゃんが出てくるフレーズって素敵だわ。「あなたって猫のミャオね」と私はアケミに言った。
彼女は英語のフレーズに戸惑った様子で、顔をしわくちゃにした。「ちょっとよくわからないわ」
「あなたって素敵って意味よ」彼女の顔が満面の笑みに変わった。「そうだ。私たち、日本語と英語のことわざを交換できるんじゃない?」と私は提案した。「基本的な単語だけじゃなくて、お互いの言語の面白いフレーズとかをお互いに教え合っていきましょ」
「あ、良かった」と彼女が日本語で言った。今度は私が混乱して顔をしわくちゃにした。「お、いいねって意味よ」
「あ、良かった」と私は繰り返した。「スイッチを入れて頑張るわ」
「スイッチを入れて頑張るわ」と彼女が私を真似て、アメリカのアクセントで繰り返した。すると彼女はあくびをした。「私はいつも学校に行く途中、車の中で寝てるのよ。今から学校に着くまで、目を閉じててもいい?」
「どうぞ」と私は言った。
「どうぞ」と彼女が私を真似た。この分だと彼女の英語はリズミカルなアメリカンイングリッシュになるわね。それからアケミはタブレットの停止ボタンを押して映画を止め、残りの通学時間ずっと目を閉じていた。
学校まではかなりの距離があり、東京の中心部の港区から、学校のある郊外まで30キロくらいあった。車が進むにつれて、集合住宅や工場っぽい建物が多くなり、高層ビルは減っていった。(私の新しいiPhoneのGPS機能によると、)車は西に向かって進んでいた。東京って広いんだな、と東京の新たな一面を知った気がした。一つの大きな都市というよりは、小さな町の集合体って感じね。
空に浮かぶようなペントハウスに住むのも気分良かったけど、東京の高層ビル群の向こう側を初めて見ることができて、その景色を楽しめた。車の窓を少し開けてみたら、地上の風が吹き込んできて気持ちいい。49階ではこうして新鮮な空気を肌で感じることはできないし、通りを目的地に向かって急ぎ足で歩いている人たちを見ることもできない。窓の外を観察していると、いたるところに猫のシンボルがあって、胸がときめいた。店先の窓辺に飾られた猫の置物、猫のポスター、猫の広告。建設現場の標識にも猫ちゃんがいた。―ピンクと白のハローキティが看板にぶら下がっていて、歩行者が道路に開いた穴に誤って落ちないように注意を促している。ハッフルパフ、私の愛する猫ちゃんを失って、今でも心が痛むけど、毛むくじゃらのハッフルちゃんは、もしかしたらここの方が住み心地良かったかもしれないわね。
マサおじさんが言っていた通りだった。道路は結構混んでいて、ICSまでの通学時間は1時間近くかかった。唐草模様を描いたような鉄の門扉をベントレーが通り抜け、学校の敷地内に入ると、私はわくわくしてきて、胸の鼓動がスキップするように高鳴った。なんてこと! スマホでもICSを検索して、予め校舎の写真を見てあったけど、写真は正確に物事を伝えないのね。実際のキャンパスがこんなに大きくて、これほど綺麗だなんて! 敷地は壮大で豪華絢爛に飾り立てられていて、緑も豊かだった。キャンパスの最前部、真正面に見える石造りの建物は、物語に出てくるような、古い英国の大学みたいな趣きがあった。メリーランド州で私はいくつかの高校に通ったけど、どの学校も中央に現代的で巨大な校舎があって、そこから見栄えのしない施設が周囲にくっついている感じだった。生徒が便利に使えるように、という配慮なんでしょうけど、どの施設も混雑していて、教室はぼろぼろだったし、シャワー室もなんか臭くて気持ち悪かった。アメリカの高校には必ずフットボール場もあったわね。それと比べて、ICS東京校は魔法がかけられた学校に見え、私はうっとりしてしまう。
私はアケミの肩を軽くつついた。彼女は目を覚まし、周囲を見て私たちがどこにいるかを確認した後、目をくるりと回した。「ちくしょう」と彼女がつぶやいた。
「それってどういう意味?」
「ファックってことよ」と彼女がささやく。
私は新しい隣人、相乗りの相手の子がもう好きになった。
長い車の列ができていて、規則正しく一台の車から数人ずつ生徒が出て来る。みんな相乗り通学をしているみたいで、アメリカではサッカー少年を乗せてママさんが運転するようなミニバンが目立った。その間に挟まれるように、メルセデス、BMW、レクサスなどの高級SUV車も見える。テレビドラマでロリー・ギルモアが、元々彼女は裕福な家で生まれたわけじゃないから普通では通えないんだけど、セレブな学校〈チルトン〉に初めて登校した日みたいだと思った。少なくとも私の人生が暗転して地獄の日々を送るようになるまでは、私はずっと良い子だったから、きっとその報いが訪れたのね。ロリーは〈チルトン〉を足掛かりにして名門イェール大学に進学したから、私もここから名門大学へ飛び立つかも。孤児だって夢見てもいいでしょ? エル・ゾエルナー、一生懸命勉強するのよ。私は自分に言い聞かせる。このチャンスをしっかりつかむのよ。漂流していたあなたがここに上陸できたのは、奇跡みたいなものなんだから。せっかく巡って来たチャンスをふいにしちゃだめ。
車の列が進み、ベントレーが降車口にたどり着いた。運転手さんが車から降りる。後部座席のドアを開けてくれるみたいだけど、私はそこまで待てない。今すぐに車から飛び出して、走り出し、ICSのキラキラ輝く緑の芝生の上を飛び跳ねるように越えたい。私はドアに手をかけ、自分で開けようとした。そこでアケミが言った。「運転手さんが開けるまで待って。それがルールよ」
新しく生まれ変わったエルは、そんな古いルールなんか構ってられないの。私はさっさとドアを開けた。何かが、どん、とぶつかって来た衝撃があって、私は子犬みたいな声を上げてしまった。勢い余ってドアを壊してしまったのかと外に出てみると、私と同じくらいの年齢の男の子が地面に倒れていた。私がドアを開ける時はドアの前には誰もいなかったから、彼はこの縁石に沿って走ってきたに違いないわ。倒れていた少年は、さっき車の中でアケミが見ていた日本のアニメのキャラクターに似ていた。乱雑なモップみたいな黒髪に、氷のような青のメッシュが何本も入っている。焦げ茶色の目が私を睨み付けた。
「ちゃんと見てから開けろ」と彼は怒りをあらわにした。彼は立ち上がると、私が新顔だと思ったのか、十分に時間を取って、じっくり私を観察した。すると、彼の顔が変に赤くなった。「今回は大目に見てやる。もう練習始まってるから俺は行く。次にここで相乗りの車から出る時は、俺を殺そうとするなよ」彼は膝をはたいて砂利を落とすと、私が開けたドアを勢い良く閉め、遠くに見えるプール施設の方へ走って行った。(この学校にはプールがあるのよ! 1時間目のチャイムが鳴る前に、プールを見る時間はあるかしら? 待って、この学校にもチャイムってあるの?)
「はじめまして。いやみなやつ」と私はつぶやいた。
運転手さんが反対側のドアを開けて、アケミが出て来た。「彼のことは気にしないで」と彼女が私に言った。「リュウ・キムラ(木村竜)っていうの。彼を好きな人はもう誰もいないわ」
チャプター 9
私は高等部の学部長、クロエ・レーラーと面談するため、学部長室の椅子に座って彼女を待っていた。学校の敷地は緑豊かで手入れが行き届いていたけど、彼女の仕事部屋は、本や書類やファイルが所狭しとあちこちに積み重なっていた。アメリカでも転校するたびにこういう乱雑な校長室で面談したから見慣れてはいたけれど、忙しそうな乱雑っぷりに私はわくわくしてしまう。壁には、彼女の大学と大学院の学位が額縁に収まって飾られていた。写真や表彰状の類いも額に入っていて、彼女は東京校の前に、ICS香港校で学部長をしていたことがわかる。それから、コネチカット州のミスポーターズ女子校と、スイス国際科学高校のドバイ校でも働いていたらしい。彼女の机の上に目を向けると、写真立てがいくつか並べられていて、ハーバード大学のキャンパスで撮った彼女の学生時代の写真が収まっていた。
「こんにちは。ようこそ、エル」私は振り向いた。そこには、今写真でじっくり見たばかりの若い女子学生が、年を重ねて30代後半になった感じの女性が立っていた。―赤茶色の髪、象牙色の肌をしていて、厳格な教師って感じの顔だ。「はじめまして」
「はじめまして、レーラー先生」
「クロエって呼んで。この学校ではファーストネームで呼び合うことになってるのよ」
「わかりました...クロエ」と私はためらいながら言った。メリーランド州の学校で、目上の先生をファーストネームで呼んだりしたら、確実に罰として居残りさせられるわ。
クロエは机に向かって座ると、私のファイルに一通り目を通した。「あなたの記録を見ると、標準テストの点数は大体いつも上位5パーセントに入ってるし、あなたはあらゆる面で模範的な良い生徒だったみたいね。メリーランド州で育ったのね。去年まではずっと良い成績だったのに、急にどうしちゃったの?」
「人生がちょっとおかしくなって」と私は言った。私は新しい学校に転校するたびに、こういう尋問みたいな面談を受けていたので、また馬鹿みたいな話を一部始終繰り返す気にはなれなかった。
「あなたはメリーランド州内の学校を何校か転校してるわね」
「今言ったように、おかしくなっちゃって」彼女が見ているファイルの中に、メリーランド州の社会福祉士さんからの手紙も挟まっているのが目に入った。ということは、このクロエ先生は私が東京に来ることになった事情を知ってるに違いないわ。それなのに、私に何を言わせようとしてるの? 私のママは今刑務所の中で、ずっと行方知れずだった父親が魔法のランプから出てきたみたいに突然現れて、この学校に来ることになりました。ここではまた良い成績が取れるように頑張ります、とか言えってこと?
「あなたが前みたいに良い成績の軌道に乗るには、少し時間が必要だと思うわ。じっくりコツコツと勉強を続けるしかないわね。一生懸命勉強しないとなかなか追いつけないってことだけど、その気はある?」
「満ち溢れるくらいあります」と私は、自信に満ちたロリーのように言った。
「それを聞きたかったのよ」クロエは椅子を回して振り向くと、壁に飾られた立派な大学の学位の下にあるファイル棚のロックを外して、棚を開けた。彼女は新品のMacBookを取り出すと、まだ元々の箱に入っていて封も開けていないそれを私に手渡した。「これはあなたの学校用のパソコンよ」
「本当ですか?」新入生に真新しいMacBookを授けるなんて、どんな女神なの?
「授業料に含まれてるのよ」それにしても嬉しいわ。時期的にはちょっと早いけど、メリークリスマス、ハッピーハヌカー、ハッピークワンザって、私、エル・ゾエルナーの血に流れるいろんな民族のお祝いの言葉を叫びたい気持ちだった。「ここまでで何か質問ある?」
「誰でも学校のプールを使えますか?」と私は、大事なMacbookが入った箱を膝の上で慎重にバランスを取るように抑えながら聞いた。
「プールはこの学校の生徒だったら誰でも使えるわ。もちろんあなたもよ」彼女は微笑んだが、私はなんだか馬鹿な質問をしてしまったようで気恥ずかしかった。「メリーランド州の社会福祉士さんからの手紙に、あなたは優秀な水泳選手だったって書いてあったから、朝の運動のクラスは水泳に振り分けておいたわ」
「ありがとうございます。いいですね」と私はなるべく平静を装って言った。毎朝プールを使えるくらい、そんなの私は慣れっこよって雰囲気を醸し出す。禁止しかない世界では、そんなのあり得ない夢物語だったけれど。
「あなたは水泳チームに参加する気はある? ここの生徒は大体みんな、何かしらのスポーツクラブに入ってるわ」
私は肩をすくめた。「たぶん入ります」また水泳チームに入ることを考えると、わくわくもしたけれど、怖くもあった。あの悪魔のような獣が私の人生を襲ってきて、YMCAの水泳チームを辞めてから、私は競技として競い合う水泳からは遠ざかっていた。
一人の10代の女の子がノックもせずに、クロエの仕事部屋にずかずかと入ってきた。彼女はMacBookを差し出すと、「これ壊れちゃったから、新しいのと替えてください」と言った。
「何があったの?」とクロエが聞いた。
「昨日、校外学習で皇居に行って、千鳥ヶ淵のお堀でボートに乗ったんだけど、馬鹿な男子たちが立ち上がって、ボードを揺すったから」
「ノートパソコンをボートに乗せるべきではなかったわね」
「だって、宿題があり得ないくらい、馬鹿みたいにいっぱいあったから」
「汚い言葉は慎みなさい、イモジェン」とクロエが言った。
ちくしょう、と私は思った。この子があの有名なイモジェン・カトウか! 彼女は私を見てから、視線を落とし、さっきクロエを待っている間に私が見ていた雑誌をちらりと見た。ああ、神様、なんて恥ずかしい瞬間なの。開きっぱなしの雑誌には、彼女が写っているじゃない! 私は即座に雑誌を閉じた。目の前の女の子は、間違いなく雑誌の写真と同じ女の子だった。ただ、今の彼女の髪は、白に近いブロンドヘアーで、黒髪があちこちに透けて見える感じだ。雑誌の彼女の髪は、赤褐色に近いブロンドヘアーで、蜂蜜色と青リンゴ色の筋が縦に入っていた。彼女はチェック柄の制服のスカートの下に、濃い紫色と藍色と銀色が混在したタイツを履いていた。タイツには何頭もの疾走する灰色のユニコーンがプリントされている。ブラウスの上には、長い間着続けている感じの、大きめサイズでクリーム色のカーディガンを羽織っていた。制服のベルトは真ん中ではなく、横に結び目を持ってきている。どうやら、この学校の服装規定はそれほど厳しくないみたいね。
私が閉じたばかりの雑誌を彼女が見下ろしている。「なんてメタなの」と彼女が嘆くように言った。私には彼女が言ったことの意味がわからなかった。でも彼女は私に向かってにっこりと微笑んで、「こんにちは。私は...誰でしょう? そう、イモジェン・カトウよ」と言った。それから彼女は視線をクロエに戻した。「ごめんなさい。馬鹿な男子たちがふざけてボートを揺らしたから、水の中にパソコンを落としちゃって、すぐに拾い上げたんだけど、私のデータが全部消えちゃいました」
クロエは言った。「IT部門の職員に頼んで、あなたのデータを復元できるか調べてもらうから。その間は...」
学部長はファイル棚から、もう一台、新品のMacBookを取り出すと、それをイモジェンに手渡した。1,000ドル以上もする、私が自分で所有できるなんて夢にも思わなかった高価な機械なのに、彼女はまるで、飼い犬に食べられちゃったサンドイッチのお代わりを手渡すみたいに、気軽にそれを引き渡した。
「ゴザイマース」とイモジェンは言ったように聞こえた。「こんにちは」と「さようなら」以外にも、私は「ありがとうございます」という日本語もすでに知っていた。どうやら、くだけた会話で日本人が早口で話すとき、最初の部分が省略されることがしばしばあるらしい。私の日本語の知識も段々と広がっていくわね。ただ、このインターナショナルスクールはすべての教科を英語で教えているみたいだから、急激に広がることはなさそうだけど。
クロエが言った。「エル、イモジェンをあなたの案内役に指名するから、仲良くするのよ。あなたは来週から通常のスケジュールを始めることになるから、その前に、今日はイモジェンに付いて回りなさい」
イモジェンはクロエの仕事部屋のドアを開けると、私のためにドアを押さえたまま言った。「お先にどうぞ、新人さん」彼女は今日一日私の案内役を言いつけられたわけだけど、その声の感じからすると、面倒が降りかかってきて最悪、みたいには思っていないようだった。私はクロエに感謝を述べてから立ち上がり、イモジェンと一緒に学部長室を出た。それから彼女の後ろを歩いて、管理棟の外に出た。「まずは、学校の敷地内を簡単に案内するわね。登校初日の案内役が、私みたいな人気者なんて幸運、まずないわよ。あなたはラッキーだって思ってちょうだいね」
私は言い返した。「私みたいな凄い子を案内できるなんて幸運、まずないわよ。あなたもラッキーだって思ってちょうだいね」
あれ? 私っていったい何者? と自分でも思ってしまう。この自信は一体全体どこから来るの? エル、ついこの間まで平凡な公立高校の生徒だったじゃない。新しい川を泳ぎ始めて、急に私立学校の有名人と張り合おうなんて、日本の水が私にスーパーパワーを授けてくれたのかしら?
イモジェンが笑った。「あなたって勇気があるっていうか、豪快ね。気に入ったわ」
「私もあなたのカーディガンが気に入ったわ」と私は言った。彼女のカーディガンは高級感はなかったけれど、年季が入っていて、愛着があるように見えた。
「凄くリボウスキっぽいでしょ?」とイモジェンが言った。私はついうなずいてしまったけど、彼女が何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。「パパのなんだけど、内緒で着てるのよ」私たちは緑の茂みと色とりどりの花が両脇に植えられている小道を歩いていた。「それで、あなたはなんでここに来たの? ママが日本人で、パパがアメリカ人? で、ママがパパに飽きて、着古した服を捨てるみたいに置いて来ちゃったのね。東京という高度に文明化された世界に戻ってきて、ママは仕事を見つけてる最中ってとこかしら?」
「ちょっと違うかな。ママがアメリカ人で、私は生まれた時からずっと、ママと二人で暮らしてきたんだけど...」私はそこで止まってしまう。ママが刑務所にいることを、この雑誌に載ってる女の子に話していいのかどうか、私にはまだその心づもりはなかった。「ママはいくつか問題を抱え込んじゃって、今大変だから、私は日本人の父親と暮らすためにここに来たの」
「あなたのパパってどんな人?」
「私にもよくわからないの。昨日初めて会ったばかりだし。私は東京に来る前は、メリーランド州から一歩も出たことなかったのよ。あ、6年生の時の遠足でバージニア州のウィリアムズバーグに行ったことはあったけど」
私はメリーランド州からどれだけ遠くに来たんだろう? 自分が今立っている場所がうまく想像できなかった。距離的にだけではなく、実感として現実味がない。
イモジェンが笑った。それから彼女は笑いを止め、こちらを見た。私がもっと何か言うのを期待している感じだ。私が黙っていると、彼女は言った。「あなた、それマジで言ってる?」
「マジよ。先週の私は、父親が誰なのかさえ知らなかったんだから」
「わお」とイモジェンが言った。衝撃的な事実を突き付けられたみたいに驚いている。「じゃあ、もしあなたがその話をもっと詳しく話したくなったら、いつでも喜んで私が聞くわ。こうしてる間にも、あなたは私の一日の始まりを救ってくれたから」
「私が救ったってどういうこと?」
「あなたをこうして案内してるから、馬鹿らしいヨガの授業に出なくて済んだのよ」
「この学校にはヨガの授業なんてあるの?」
「朝の体育のクラスをヨガにしちゃったの。ヨガって寝転がってればいいんだと思ってたから、睡眠時間が増えるって期待したんだけど、全然違った。バランスを取ったり、立ち上がったり、わけのわからない反転のポーズをいろいろさせられるの。サバサナっていって仰向けになってリラックスするポーズもあるんだけど、それは授業の最後にちょこっとやるだけで、すぐにナマステって両手を合わせて挨拶して、急いでシャワーを浴びて、次のクラスへって感じ。まったく嫌になっちゃう!」
イモジェンは英語で話してくれたんだけど、私はヨガについて詳しくないから、よくわからない単語が含まれていて、彼女が日本語で喋っているんじゃないかと一瞬錯覚しそうになった。私たちは二つの校舎に挟まれた小道を歩いていた。爽やかな青空が建物の間に映えている。小道で生徒たちとすれ違い、みんながイモジェンを敬っているのがわかった。「やあ、イモジェン!」と声をかけたり、彼女の新しい髪色やファンキーなアクセサリーについて大袈裟に褒めちぎったり、彼女が通り過ぎるまで脇にどいて道を開ける子もいた。彼女はすれ違う一人ひとりに向かって、にこやかに挨拶していた。なるほどね、と私は思った。だから彼女は人気者なんだ。
私は言った。「あなたの英語はアメリカ人っぽいアクセントだけど、アメリカに住んでたの?」
「アメリカはほんの数ヶ月よ。パパがシリコンバレーで空間芸術のプロジェクトを手掛けていた頃、家族でサンフランシスコに住んでいたんだけど、それ以外はずっと、ママの実家があるロンドンで暮らしていて、数年前に日本に来たの。専制主義的なヨーロッパより日本の方が暮らしやすいってパパが」
政治的な言葉を入れ込まれてもよくわからないけど、そう言うのならそうなんでしょう。「じゃあ、あなたのアメリカ人っぽいアクセントはどこから?」
「それはここの誰もが抱えてる共通の悩み。インターナショナルスクールに通ってるとね、アメリカ人以外の子も大体みんなアメリカのアクセントで話すから、知らずにそうなっちゃうのよ。喋り方って周りからの影響で流動的にどんどん変わるからね。たとえば、私はママと話す時はイギリスのアクセントで話しちゃうし、パパとは日本語で話してる。ただ、パパは私の喋り方がオーストラリア人っぽいって言ってからかうわ。学校ではアメリカ人っぽく聞こえるみたいだけどね」
「日本語は子供の頃から話してるの?」と私は聞いた。ロンドンから東京に引っ越してきてから日本語を学んだのだとしたら、どのくらい大変だったのかを知りたかった。
「もちろん!」
「は?」
「Of course!って意味よ」
授業はもう始まっていたので、校舎の外でぶらぶらしているのは私たちくらいだった。遅刻した生徒がちらほらと校舎に駆け込むのが見えた。この緑豊かな、人里離れた豪華なリゾートみたいな学校が、大都市の真ん中にあるという考えに私は心を奪われていた。―しかも、私自身がここの生徒であるという事実が信じられない。私は怖くもあった。教室に入った瞬間、生徒たちが私を見て、手の平を返すように「匂い爆弾!」と一斉攻撃を仕掛けてきたらどうしよう。私は今朝、長めにシャワーを浴びて、その後すぐに良い香りがするローションを全身に塗ってきたから、クチナシの花の香りをまき散らす天使みたいな匂いがするんだけどな。
滑らかな曲線で縁取られた3階建ての建物にたどり着いた。銀色の壁が太陽の日差しを反射している。出入口の上の日よけの部分に「高等部」と書かれていて、その文字が日光により、黄色くキラキラと輝いていた。「この建物はなんか、学校の校舎っていうより、現代アートの美術館って感じね」と私は言った。
「たしかに! ICS東京校の生徒数がぐんと増えたからね、校舎を増設しなければならなくなって、高等部の校舎を新たに造ったのよ。学校の理事会は最初、フランク・ゲーリーにデザインを頼もうとしたんだけど、予算の関係でしょうね、形だけそれっぽい校舎を建てたってわけ」
「なるほど」と私は知ったかぶりをして言った。フランク・ゲーリーって有名な宇宙船のデザイナーかしら? この校舎が今にも宇宙空間に向けて地面から飛び立って行くような形をしているから。
イモジェンが言った。「高等部のほとんどの生徒は朝の体育の授業に行ってるから、空の教室をチェックできるわ」私たちは校舎に足を踏み入れた。建物の中は、よくある学校の廊下と同じように教室とロッカーが両側に並んでいた。ただ、すべてに光沢があり、真新しく、傷一つない清潔感あふれる空間だった。イモジェンが最初の教室の扉を開けた。「ここはテクノロジーとロボット工学の実験室よ」
その教室には天井にプロジェクターが取り付けられていて、それが指し示す方向の壁には大型のスクリーンが掲げられていた。反対側の壁一面は巨大なホワイトボードになっていて、ホワイトボードを埋め尽くすようにいくつもの数式が書かれていた。両側の壁にはキャビネットが並んでいて、その一つひとつにルーター、マザーボード、メモリーカード、グラフィックカードなどと、備品の名称がラベル付けされている。教室の真ん中には大きなテーブルがあり、その周りにいくつも椅子が置かれていた。教室というより、共有空間といった趣ね。壁の空いたスペースには、ロボットや通信機器のポスターや写真が何枚も貼られ、プロジェクトの作品とともに生徒たちも写っている。
「凄いわ!」と私は叫んだ。「あなたもここでロボットを作ったことあるの?」
「私はそっち系の人じゃないから。テクノロジーの授業は退屈で、あくびが出ちゃう。あなたは美術と音楽は好きな人?」
「理論的に言って、私はどっちも苦手」
「ちょうどよかったわ。じゃあ、その二つの教室は飛ばしましょ。美術も音楽もごまかしが利かないから、気分が悪くなるのよね」
その教室を出ると、彼女に導かれて廊下を歩いていった。建物の奥まで来ると、図書室があった。壁には横長で透明な窓が並んでいて、そこから図書室の中の様子がうかがえた。「図書室の中までは案内できないわ。中で大声で喋ってたら、二週間出入り禁止をくらっちゃったの。1階には自習用の個室があって、2階には誰も読まないような本がずらっと並んでる。そして、3階には〈日本センター〉があるわ。日本について知りたいことがあったら、大体どんなことでも調べられる。吐き気がするほど世話焼きな司書さんたちが、どんな研究プロジェクトでも相談に乗ってくれるわよ」
私たちは再び外に出て、フットボール場の横を歩いていると、イモジェンが言った。「このフィールドではね、アメリカンフットボールと、サッカー、それからオーストラリア式フットボール、いわゆるフッティーもやってるわ。南オーストラリアのルールに則った正式のフッティーよ。シドニーとかクイーンズランドの人たちがやってるインディアン・ラグビーはバッタ物ね」
「でしょうね」と私は相槌を打った。私の何も知らない脳が痛み始めていた。イモジェン・カトウとこうして歩きながら会話するまで、私の脳みそがこんなにもすっからかんだったなんて、思いもしなかったわ。
ランニング用のトラックがフットボール場の周りをぐるりと縁取っていた。生徒たちがトラックに置かれたハードルを飛び越えながら走っている。それを横で見守っている一人の先生が、大声で発破をかけていた。
「もっと速く走れ!」
「もっと高く飛べ!」
「昨日より2秒遅いぞ! お前は絶対もっと速くなる、俺が言うんだから間違いない」
「あの先生、なんか厳しそう」と私は言った。
「彼はトレーナーよ、学校の先生じゃないわ」
「この学校って、内部にトレーナーを入れてるの?」
「トレーナーは何人もいるわ。この陸上競技好きの、走るしか能がない子たちは、トライアスロンが専門のトレーナーに教わってるの。至れり尽くせりなのよ」
私たちと同い年くらいの二人の女の子がトラックから外れ、息を切らしながら、私たちのところに近寄ってきた。一人はインド人で、赤のメッシュが入った長い黒髪を、後頭部のところで大雑把に巻き上げている。もう一人は黒人で、コーンロウヘアーといって、髪の毛をビーズ状にして細く編み込んでいる。二人とも顔の色つやが完璧だった。彼女たちの綺麗で滑らかな肌を崇めるように見ているだけで、私の顔には条件反射でニキビが出てきそうなくらい、彼女たちは艶やかだった。イモジェンが私に言った。「エル、この子たちは、ジャンビ・カプールと、ヌトンビ・アマティラよ。二人ともEx-Brats(エックス・ブラッツ)のメンバーで、私たちは仲良しなのよね。で、こっちの子は私が今日から面倒を見てる、エル・ゾエルナーよ」
「ハイ」と二人の女の子が私を見て言った。
私は身構えてしまい、すぐには返事が出てこない。転校生が避けて通れない通過儀礼として、侮辱的な言葉を浴びせられるのではないかと予想したが、とげのある言葉が飛んでくる気配は全くない。私はなんとか「ハイ」と返した。私がどれほど話し上手な会話の達人かってことを示したかったんだけど...失敗した。
インド人の女の子、ジャンビがイモジェンに聞いた。「ラテン語の宿題やった?」
「サニークウィーデム」とイモジェンが答えた。
「それってどういう意味?」とヌトンビが聞く。
「Sane quidemは、もちろんって意味よ」とイモジェンは言ってから、私の混乱した顔を見て、「ラテン語よ」と付け加えた。
「5時間目の前にあなたの答えを写させてもらえる?」とジャンビが聞いた。
「もちろん」とイモジェンは言った。「あなたのロッカーに入れておくね」
ジャンビは言った。「ありがとう。昨夜は一晩中、微積分のテスト勉強をしてたから、ラテン語まで手が回らなかったのよ」
彼女たちの後方から、ピーッと笛の音が激しく鳴り響き、さっきのコーチが彼女たちに向かって怒鳴った。「おい、ジャンビとヌトンビ! 今は授業中だぞ、懇親会の時間じゃない。トラックに戻れ」
二人の女の子は目をくるっと回すと、私たちにさよならと言って、トラックに戻っていった。
イモジェンが私に言った。「あなたは今日、多くの先生とかスタッフ、生徒たちに会うでしょうけど、実際に重要なのは、〈エックス・ブラッツ〉のメンバーだけよ」
彼女の自信たっぷりに上からものを言う感じの態度は、怖くもあり、同時に刺激的で、私に力を与えてくれるようでもあった。
「エックス・ブラッツ? それって、つまり...あなたのグループの名前?」この学校にもステータスとか、カーストとか、派閥があって、人気のあるグループが自分たちをそう呼んでいるってことでしょう。ラテン語のグループ名もあるのかしら?
「そうよ。私のママも、今の私の年齢の時、この学校に通ってたの。ママの父親が外交官で、東京のイギリス大使館に勤めていたから。で、〈エックス・ブラッツ〉は、ママの父親が名付け親で、ICS東京校のママの友達を、『元やんちゃっ子』ってからかう感じで、そう呼んでいたんですって。それを聞いて、私のグループの名前にぴったりだと思って使ってるのよ」
「気が利いてるわね」
「でしょ?」
私たちはキャンパスの反対側まで来て、アスレチック専用の建物に入った。それぞれの部屋で体育の授業が行われていた。私たちは窓越しにそれぞれの室内を覗いていった。私がメリーランド州で通っていた学校はどこも、中央体育館が1つあるだけだったけど、この建物は、なんだか屋内フィットネスの総合施設みたい。ICS東京校はヨガ、ピラティス、ダンス、武道に熱心で、それぞれに専用のスタジオルームがあり、あらゆる設備が整ったジムまであった。ジムの中には、ウェイトリフティング、ランニングマシーン、エアロバイクなどが揃っている。さらにバスケットボールのコート、それからレスリングルームもあった。私たちは建物の反対側に出た。そこには8面のテニスコートがあり、中学生の男子たちがコートの半分を使ってテニスをしていて、もう半分で女子がプレーしていた。テニスコートの脇の歩道を歩いていたら、フェンスの内側で何人かの女の子が座って見学していて、私たちに気づいて振り向き、手を振ってきた。「ハイ、イモジェン!」と声を上げる。
「ハロー、私の可愛い後輩たち」と彼女は答え、彼女たちに向かってお辞儀をした。彼女たちもお辞儀を返した。
私たちの散策は、ようやく私の個人的な聖なる場所までたどり着いた。プールよ。私はすでにICS東京校が好きになりつつあったけれど、プールを見た瞬間、ライクがラブに変わった。もう愛おしいわ。プールは10レーンある競泳用の25メートルプールで、水面がキラキラときらめいている。懐かしい塩素の匂いを吸い込むと、全身がゾクゾクとふるえ立った。ほとんどの選手はプールサイドで、先生の前に集まって座っていた。先生が柔らかい浮き棒を手に持ち、それを足に見立てて、水面でのキックの仕方を指導している。一人だけ一番外側のレーンで泳いでいる男子がいた。彼はバタフライで泳いでいて、自信が満ち溢れるように水しぶきを上げながら、力強く水面を進んでいく。
私は今すぐプールに飛び込みたい衝動に駆られた。あちらこちらから顔を出す見知らぬ生徒たちから隠れてしまいたかった。ここの生徒は何でも知っているみたいで、私は何にも知らないから、水の中にダイブして、地上の世界から姿を消したい。
「この学校にはもっと日本人の生徒がたくさんいると思ったんだけど」と私は正直に言った。ICS東京校で今までに見かけた生徒たちの顔は、この学校の所在地がある国を反映していないという印象を受けた。
イモジェンが笑った。「そりゃそうよ! 両親がともに純粋な日本人だったら、普通は自分たちの子供を純粋な日本の学校に通わせるでしょうね」
「でも、あなたは日本人でしょ」私はかなり混乱していた。
「私のパパは日本人だけど、ママはイギリス人だからね。私はハーフなの、純粋な日本人じゃないわ。だけど、これだけは言わせて。ハーフにしろ、純粋な日本人にしろ、ICSに通ってる日本人っていうのは、両親が外国で育ったとかで、国際教育に熱心というか、世界に広く心を開いてる家庭の子供なのよ。まあ、中には両親がめちゃくちゃお金持ちで、子供に英語を学ばせたいからって通わせてる人もいるみたいだけどね」アケミがそれに当てはまるんでしょう。イモジェンはそこで話を一旦止めると、いわくありげに目を輝かせて、ここだけの話よ、みたいな感じで私の耳に顔を寄せてきた。「もしくは、両親がそっち系のこわい人っていう子もいるわ。普通の日本の学校より、ICSの方が社会的ステータスが上だと思って、子供を通わせてるみたいね」
正直に言って、ハーバードの大学院を出たエミコがまとめてくれた分厚いバインダーよりも、イモジェンとの1時間の会話の方が、日本について多くのことを学べたわ。それから、気になって仕方がなかった言葉について聞いた。「そっち系って?」
「ヤクザ」
「ヤクザって何?」
「何?じゃなくて、誰?ね。リッチな暮らしをしていて、豪華なオフィスを所有してるギャングよ」私はクスクスと笑ってしまった。イモジェンは本当におかしなことを言う人ね。それとも、聞いてる私の方が浮かれておかしくなってるのかしら? それから、彼女は言った。「冗談じゃないのよ。あの男子のパパも、そっち系だから」イモジェンはプールの一番向こう側のレーンで、一人バタフライで水を搔き分けている男子を指差した。彼がプールの端でターンをして、空中に顔を出したところで、あ、と私は思った。リュウ・キムラだった。さっき私が車から降りようとして、誤ってドアをぶつけてしまった男子だわ。
「彼って、凄くいい選手ね」と私は彼の泳ぎの感想を言った。
「あいつにはかかわらない方がいいわ。彼はウザイから」
「ウザイって何?」ウザイって、見事な上腕二頭筋を持つ、ギャングのたくましい息子って意味かしら?
「うっとうしくて、イラつくって意味よ。リュウはアラベラ・アコスタと付き合ってたのよ。アラベラは私の親友だったんだけど、彼に振られた後、精神的に滅入っちゃって、静養するためにボリビアに帰っちゃったの。可哀想に、彼に心を壊されちゃったのね。彼女があのむっつり野郎の中に何を見たのかまでは私にはわからない。だけど、アラベラが〈エックス・ブラッツ〉を抜けてからは、グループのメンバーはみんな彼を冷ややかな目で見て、かかわらないようにしてるわ」
「彼って激しい人なのかしらね」と私は言った。相乗りの降り口で私をにらみつけてきた彼の顔を思い出しながら、まっすぐな意志を持ったように水面を突き進む彼の泳ぎを眺めていた。
「リュウはおそらく社会病質者よ。将来、反社会的なことをしでかして、ニュースの見出しに名前が出るわ」
チャプター 10
Sane quidem(もちろん)、イモジェンがそれほどまでに忌み嫌っている、いわば宿敵が、彼女の科学実験のパートナーでもあると知って、私は目を丸くして驚いてしまう。
「もちろん、私が選んだわけじゃないのよ」とイモジェンが2時間目の環境科学のクラスへ向かいながら言った。私は今日は彼女のスケジュールに合わせて行動することになっている。彼女は成績優秀者向けの環境科学のクラスに入っているらしい。「ラボパートナーは自分では選べないことになってるの。なんて言うか、ほら、そういうのって政治的な選択でしょ」
「パートナーを替えてもらうことはできるの?」と私は聞いた。私は実験室の二人用のテーブルに一人ぽつんと座っているリュウ・キムラをじろじろ見てしまう。二人用のテーブルといっても、幅広の椅子が一つしかなく、二人で並んで座るらしい。1学期中ずっと毎日のように、軽蔑してる人と一つの椅子をシェアするなんて、私には信じられない。
イモジェンが言った。「彼は実際、賢いから役立つのよ。ラボパートナーとしては本当に有能よ。私たちは教室では休戦協定を結んでるの。ビジネスってことね。私としては、この科学の成績もAを取りたいわけよ。彼がラボパートナーだと、Aを取れる可能性がかなり高くなるから」
「なるほど」私は彼女の明快な論理を聞きながら、胸の高鳴りを覚えた。私が通っていたメリーランド州の学校では、私が真面目に勉強しようとすると、からかわれた。でもここでは、学生は真面目に学問に打ち込むもので、それを誇りに思っているみたいだ。
私たちは研究室のテーブルに近づき、イモジェンは折りたたみ式の椅子を持ってきて、テーブルの横に置いた。イモジェンはその椅子に腰を下ろすと、リュウ・キムラに言った。「ハイ、ラボパートナーくん、この子はエルっていって、私が案内役をやってるの。今日はエルが私の代わりに、あなたの隣に座るから、おならは我慢してちょうだい。彼女にちょっかい出しちゃだめよ」
リュウが言った。「今朝は大豆入りのブリトーを食ったからな、どんな匂いがするかな」彼は視線を落として、私との間にわずかしかない隙間を見遣ってから、視線を上げ、私を見つめてきた。「幸運を祈るよ」
彼の瞳は茶色味が強く、まつげは黒くて濃かった。モップみたいにもっさりした黒髪には青のメッシュが入っている。髪はまだ濡れていて、塩素の匂いが立ち込め、私は大好きな匂いにやられ、うっとりと気を失いそうになる。私はアラベラの心がなぜ壊れたのかわかった気がした。こんなにゴージャスで、影がある感じの男の子に振られたら、そうなっても不思議じゃないわ。
科学の先生が私たちのテーブルまでやって来た。背が高く、髪はブロンドヘアーの細身で、気取った感じの男性だった。その容姿は、アイオワのトウモロコシ畑ですくすくと伸びるトウモロコシを思わせた。「君がエルだね?」と彼は言うと、私に向かって手を差し出してきた。私は彼の手を握る。「私はジム。高等部で科学を教えてる。君の通常のスケジュールでは、このクラスには参加しないみたいだけど、来週から5時間目の海洋科学で、君に教えることになるよ。海洋科学はきっと君も気に入るぞ! 今はザトウクジラの繁殖行動について勉強してるんだ。授業中に水中カメラの映像を見せるけど、クジラは巨体を揺らして、オスとメスがかなり激しくじゃれ合ってる!」
私は自分の顔が恐ろしく真っ赤になるのを感じた。オスとメスが交わるとか、リュウ・キムラがすぐ隣にいる席で、クジラの交尾の話は聞きたくなかった。
「すごいですね」と、私は全く興味ない感じでつぶやいた。
ジムは私に一枚のプリントを手渡した。「これは、このアドバイス環境科学のシラバスだから、このクラスでどんなことをやっているのかが、ざっと書いてある。気に入ったら、次の学期で取るといい。ICS東京校へようこそ!」それからジムは授業を始めるために教室の前へ戻った。
リュウが私に言った。「今日は、気候変動によるバイオーム分析に取り組むんだ。地球上の環境によって生態系が違うからね。面白いよ、きっと君も好きになるんじゃないか」どういう風の吹き回し? 今朝、相乗りの降り口では私に嚙みついてきたくせに、急に優しくなっちゃって。
「彼女を口説こうとしないで」とイモジェンがリュウに警告口調で言った。(え? 彼は私を口説いてるの?)「エルは私の担当だし、個人的に親しい仲なんだから、手を引きなさい」
「俺は口説こうとなんかしてないよ」と彼は答えた。憤っている感じはなく、淡々と事実を述べただけといった様子で、イモジェンの発言に動じている素振りは全く見受けられない。彼はお尻をイモジェンが座っている即席の椅子の方へずらすと、彼女に向かってガスを放った。
おならは不快だったが、私は思わず笑ってしまう。
「あんたって最低ね」とイモジェンが彼に言った。
「ゴザイマース」とリュウは返した。
ジムが声を張り上げてみんなを黙らせ、授業が始まった。彼が講義をしている間、私は私自身のスケジュール表を初めて見た。今朝、クロエ・レーラーにもらったものよ。まず、選択の体育は水泳ね。それから、代数2(三角法)、スペイン語(私はメリーランド州の学校でも選択でスペイン語を取っていたから合わせてくれたのね)、海洋科学、英語11、自由研究の時間、そしてデザイン・アート。私のスケジュールには、成績優秀者向けのアドバイスクラスは一つもなかった。イモジェンが受けてる授業は、ほとんどがアドバイスクラスだった。私はこの国に来たばかりだから、あまり負担をかけないように、という配慮で易しめのスケジュールを組んでくれたんでしょうけど、いつまでも進度がゆっくりなクラスに留まってるつもりはないわ。ここでは猛烈に勉強を頑張るんだから。
それから私は、目の前で行われているアドバイス環境科学のシラバスをちらっと見て、一瞬でやる気がそがれてしまう。このクラスで課される作業量は、膨大だった! 専門用語みたいな難しい英単語が散りばめられていて、半分も意味がわからない。一瞬ラテン語か日本語で書かれているんじゃないかと思い、目を丸くした。私は教室をぐるりと見回して、生徒たちの様子を観察した。退屈そうな人は一人もいないし、スマホをいじってる人もいない。みんな真剣なまなざしで、ジムに注目している。ジムが話していることに心底興味があるみたいで、生徒たちの熱意が教室に充満している。私がメリーランド州で通ったどの学校にも、こんなにエネルギーが満ちた空気感はなかった。
まだ授業が始まって5分しか経っていないというのに、私はもう疲れてしまった。こんなところで、どうやって勉強に追いつけっていうの? いきなり打ちのめされたって感じ。それとも時差ボケかしら? きっと両方ね。
頭がぼんやりしてきて、体が重く、ぐったりと疲れがのしかかってくる。一瞬気持ち良くなって、まぶたが重くなり、ふっと意識が遠のく。気づくと体が横に傾いていて、危なかった、と頭を振る。しかし、眠気の襲来に抗えるだけのエネルギーは残されていなかった。
数分もしないうちに、私はリュウ・キムラの肩の上で眠り込んでいた。
チャプター 11
「噓じゃないのよ!」とイモジェンがランチを食べながら、〈エックス・ブラッツ〉のメンバーに向かってまくし立てた。「エルちゃんがリュウ・キムラの肩に寄りかかって寝ちゃったの、直接よ!」
ジャンビとヌトンビは可笑しくて仕方ない様子で笑い続けている。私には何がそんなに可笑しいのかわからない。私のことをあわれんでいるのか、それとも単にその状況が面白いのか、私には全然面白い状況だとは思えない。私はこれ以上ないってくらい恥ずかしい思いをしたから。
「それで彼はどうしたの?」とジャンビが聞いた。
「彼はそっと彼女を寝かせておいたわ!」とイモジェンが言った。「そのまま10分くらい彼に寄り添うように寝てたんだけど、ジムが気づいて近寄ってきて、軽くトントンって叩いて起こしたの」
「どうしてあなたは彼女を起こさなかったの?」とヌトンビがイモジェンに聞いた。(それ、私も思った!)
イモジェンが答える。「彼女の寝顔がとっても可愛かったから、すごく気持ち良さそうに寝てたのよ。それに、私はリュウの困った表情を見るのが大好きなの。彼はどうしたらいいかわからないって感じで、もじもじしてたわ」
「ああ、心外だわ。恥ずかしい」と私は言った。
「そんなに恥ずかしがらないで」とイモジェンが言った。「ここの生徒たちはみんな、どこかのタイミングで時差ボケに襲われるのよ。周りを見れば誰かしら、机に突っ伏して寝てるわ」
「ただ、リュウ・キムラの肩の上で寝てる子はそうそういないわね」と、ジャンビはまだ笑っている。その横でヌトンビがオエッと嫌悪感を表す表情をした。
私が可笑しいと思ったのは、中庭のテラス席で、人気の女子たちのグループに私が普通に溶け込んで座っていることだった。こんなのいつものことよ、みたいな雰囲気で馴染んでいる。たまたまイモジェンが案内役をしてくれたおかげで、新生エルは、即席の人気者になれた。数日前までのエルにはあり得ないことで、その奇跡を思うと、リュウ・キムラの肩で寝ちゃったことくらい、なんてことないと思えた。
ヌトンビは、さっきから気もそぞろといった感じで、イモジェンの話に半分耳を傾けながら、手元でスマホをいじっている。すると突然、彼女が甲高い声を上げた。「ルークの両親が今週末、東京に来るわ。彼も一緒よ。両親を説得して、OKが出たんですって!」彼女の手首にはジャラジャラといくつかのブレスレットが巻かれ、コーンロウヘアーの毛先にはたくさんのビーズもついていて、彼女が動くたびに、それらの金属が絶妙なコーラス音を鳴らし、彼女の周りに魅惑的な雰囲気を醸し出す。
イモジェンが説明してくれた。「ヌトンビのママはナミビアの大使として日本に住んでるの。前は韓国のナミビア大使館で働いてたのよ。その時に彼女はルークと知り合ったの。彼女のボーイフレンドで、ICSのソウル校に通ってる。ヌトンビも去年まではソウルにいたのよね」イモジェンはヌトンビの方を向いた。「あなたはボーイフレンドが同じ街に来たとたん、女子の友達のことは忘れちゃうような子たちの仲間入りをする気?」
「そりゃね、私もそうなっちゃうわ」とヌトンビは言って、楽しそうな笑顔でスマホに視線を落とし、指を動かす。
「今週末はフィールドホッケーの試合よ。対戦相手はブリティッシュ・インターナショナル・スクール、わかってるでしょ?」とジャンビがヌトンビに言った。「あなた、まさかすっぽかさないでしょうね?」
ヌトンビは肩をすくめた。「すっぽかすかもしれない!」
「ちょっと、冗談はやめてよ」とジャンビが言う。
「私はあなたみたいに、フィールドホッケーに情熱を燃やしてないの」とヌトンビが言い返す。
ジャンビは言った。「ああ、これじゃあ、サン・パオロの時と同じじゃない。私たちのチームはリーグ戦優勝に向けて順調に突き進んでいたのに、キャプテンのサン・パオロが、大して有名でもないサッカー選手と付き合い始めちゃって、それから負け続きよ」
「サンパウロは、彼氏のことで頭がいっぱいで、試合に集中できなかったの?」と私はジャンビに聞いた。
ジャンビは混乱したような表情を浮かべた。「サンパウロじゃなくて、サン・パオロよ。サンパウロは私が住んでた都市の名前」
「そうね」と私は、そんなこと知ってるわ、と言う感じで言った。「いつサンパウロに住んでたの?」
「リスボンに住む前ね、ベイルートの後よ」
「わお、あなたっていろんな場所で暮らしてきたのね! あなたの親って軍隊の人?」
ジャンビは鼻で笑い飛ばしたけど、私には、自分の親が軍隊で働いてるってほのめかされて気を悪くする人の気持ちがわからない。レジーのパパも軍人だったし、名誉ある立派な仕事なのに。「いいえ、私のパパはエンジニアよ。入隊はしてないわ。軍隊って志願して入るものでしょ。パパの場合、世界中の大企業がパパに依頼するの。パパは高層ビルの設計をしてるのよ。一つのビルが完成したら、次の都市に家族で引っ越すの。その繰り返しだけど、東京は今までで最高の都市だから、ずっとここにいたいわ。東京の新しいビルが完成しても、私はここに残ろうかしら」
「その時は私の家に住んでもいいわよ」とイモジェンが彼女に言った。
「ありがとう、ジョーシ」とジャンビが言った。「大好きよ。でも、あなたはフィールドホッケーのチームには入ってくれないけどね」
イモジェンが返した。「週末は空手のトレーナーに空手を習ってるのよ。それに、フィールドホッケーのスティックって、原始人がマンモスを倒す時に使うやつみたいなんだもん」
ヌトンビが言った。「アラベラがボリビアに帰っちゃったとき、センパイがアラベラのポジションに入ってくれれば良かったんだけどな。アラベラが抜けて、チームの攻撃力が一気に下がっちゃったから」
「ジョーシって誰?」と私は聞いた。私たちのテーブルに誰かが新しく加わったのかと思って、キョロキョロ辺りを見回してしまう。
ヌトンビはスマホのメッセージを見たまま顔を上げずに、イモジェンを指差した。「ジョーシ(上司)は日本語で、ボスとか、リーダーって意味よ」
「あなたはどこ出身なの?」とジャンビが私に聞いた。
「ワシントンDCよ」と私は答えた。メリーランド州って言うより、ワシントンDCの方が世界的に名前が通ってると思ったから。
「世界で最も退屈な都市ね」とジャンビが言った。「だけど、全米を制覇したフィールドホッケーチームは、メリーランド州の高校が多いのよね」そっちか、メリーランド州出身って言っておくべきだったわ。
「ICSのワシントン校に通ってたの?」とヌトンビが私に聞いた。
私は首を横に振った。
ジャンビが聞いてきた。「じゃあ、シドウェル高校? ジョージタウン寄宿学校? それとも、ホルトン・アームス女子校? サン・パオロの転校先だから、彼女経由でフィールドホッケーをしてる友達がいるのよ」
それらの学校に私のことを聞ける友達がいるのなら、話を合わせて嘘をついてもばれてしまう。私は言った。「テンプルパーク...寄宿学校」本当は公立のテンプルパーク高校なんだけど、ちょっと変えて寄宿学校って言った方が、私立の名門校っぽく聞こえると思った。
「聞いたことないわね。どうしてここに来たの?」とジャンビが聞く。
「父と一緒に暮らすために来たの。彼は東京のタック・ラグゼっていう建物のオーナーだから」
ついに...ついに...今までとんちんかんなことしか言えなかったけど、ついに、彼女たちの胸に響くことを言えた感があった。一目置かれるというか、私の株が急上昇したというか、彼女たちが一瞬きょとんとしたのがわかった。「なかなか悪くないじゃない」とジャンビが言った。「パパが、タック・ラグゼは東京で最も素晴らしい建物の一つだって言ってたわ」
「私、タック・ラグゼに入ってるレストランで食事したことがある」とヌトンビが言った。「あそこからの眺めは、めっちゃ良かった」
イモジェンが言った。「私たちはそのうち、タック・ラグゼで豪華なパーティーを開けるわね。エルちゃんを〈エックス・ブラッツ〉に入れようと思うんだけど、どうかしら? 私はもちろん賛成に票を投じるわ。みんなも賛成ね?」ヌトンビもジャンビも、答えなかった。「よし、可決! さあ、ランチを食べましょ」
そこは今まで見てきたICS東京校の他の施設と比べても、何の遜色もないほど立派な食堂で、素敵なレストランのビュッフェみたいだった。安っぽいハンバーガーや生ぬるいポテト類は一切なく、ビュッフェコーナーには、チキン、魚、豆腐、野菜などの健康的で、見るからに美味しそうなお惣菜が並んでいた。豪勢なサラダバーと、エスプレッソが出てくる機械もある。私の今日のランチは、昨日新たに大好物になったばかりの、ボウルに入った熱いラーメンにした。タック・ラグゼのルームサービスほどではなかったけれど、それでも満足できるくらい十分に美味しかった。私はずるずるとラーメンをすすり続けていたので、口の中はずっと麺でいっぱいの状態だった。喋ることもままならなかったけど、下手に喋るよりも、もぐもぐしていた方が、タック・ラグゼの新たな住人という一撃必殺のステータスをまとったまま、教養の無さをひけらかさずに済むかもしれない。
〈エックス・ブラッツ〉の女の子たちはみんな、お揃いの容器を持っていた。―チョコレートの箱と同じくらいの大きさの長方形の容器で、中にはプラスチックの赤い仕切りがあり、お寿司、天ぷら、ご飯、餃子などが綺麗に区分けされ入れてあった。普段のランチというより、華やかに飾り立てた贈り物みたいだった。このまま黙っていた方がいいと警告する自分もいたが、好奇心が勝った。私はどうしても知りたくて聞いた。「ねえ、みんなは何を食べてるの?」
「コンビニ弁当よ」とイモジェンが答えた。「コンビニエンスストアで買ったお弁当」
「ICSの食堂で買うより、コンビニ弁当の方が格段に安いのよ」とジャンビは言うと、お寿司と枝豆が隙間なく綺麗に詰められた容器から、箸でお寿司をつまんで口に運んだ。
「いただきます!」とイモジェンが言って、餃子を口に近づけたところで、その日本語を私のために説明してくれた。「フランス語だとbon appétitに当たる言葉よ。美味しく召し上がれってこと」
「それで、あなたのママはどこにいるの?」とヌトンビが私に聞いた。
「別れちゃった、とか?」とジャンビも聞いてきた。
「彼女は、更生施設にいる」と私は露骨な表現を避けて、無難な名称で答えた。その話はしたくなかったけれど、嘘をついても無駄だろうと感じた。この子たちはありとあらゆることを知ってるみたいだし、今隠しても、そのうち暴き出されてしまうでしょう。それなら最初から自分で本当のことを言っちゃった方が、人間関係も良くなると思った。
彼女たちは声を上げて笑い出した。
「またまた、エルちゃんったら、そんな子供じみた冗談言って」とイモジェンが言う。
「本当のことよ」と私は返した。彼女たちの顔にショックの色が浮かぶ。「っていっても殺人を犯したとかじゃないわ。ドラッグ」
「わお」と、〈エックス・ブラッツ〉のみんなが一斉に大声を上げた。そこで不思議な感覚があった。ヌトンビとジャンビの私に対する視線というか、私に向けられるエネルギーの質が変化したのだ。この二人は私にずっと素っ気ない感じだったのに、急に...私に恐れおののいたのが伝わってきた。
「それって辛いことだけど、凄くかっこいいわね」とイモジェンが言った。
「あのドラマみたいじゃない? ほら、女子刑務所を舞台にした『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』」とジャンビが言う。
「あのドラマ、超好き」とヌトンビが続く。
私は刑務所に母に会いに一度行っただけだけど、かっこいいなんて全然感じなかったわ、と言いそびれてしまった。テレビより100万倍簡素で味気ない感じだった。その時、二人の下級生が〈エックス・ブラッツ〉のテーブルに近づいてきた。―学年によって制服のチェック柄が微妙に異なっているので、その二人は中学1年生だとわかった。―彼女たちが差し出してきたランチボックスには、さまざまな種類のキットカットがいっぱい入っている。
「いらっしゃい。今日の交換は何にする?」とイモジェンが二人に聞いた。
片方の女の子が言った。「今日はジンジャーエール味と醤油味がありますよ」
イモジェンがランチボックスの中を探るように調べている。「面白いじゃない。ジンジャーエール味なんて珍しい」
「それにしましょう、ジョーシ」とジャンビが言った。
イモジェンが二人の女の子に言う。「じゃあ、そのジンジャーエール味と醤油味の2つと、私の小豆味を2つ交換しましょう。お互い2つずつね」
数は同じでも、味が2種類と1種類では不公平な取引に思えたけれど、その下級生は自ら進んで4つもキットカットをイモジェンに手渡した。イモジェンはリュックサックに手をつっこむと、底の方で潰れていた小豆味のキットカットを2つ引っ張り出して、お返しに差し出した。中学1年生の二人は、キャーと興奮した声を上げ、バラバラに砕けているはずのキットカットを持って走り去った。
「世話が焼ける子たちね」とイモジェンが言った。
「なんで彼女たちはこんな交換をするの?」と私は聞いた。
ヌトンビが、あんたってほんと馬鹿ね、みたいな視線を私に向けてくる。ジャンビが説明してくれた。「〈エックス・ブラッツ〉のメンバーからもらった物はね、みんなに自慢できるから、すごく貴重なのよ。特に中学1年生にとっては、私たちは憧れの的なの」
イモジェンは私たちに一つずつキットカットを配りながら言った。「私はまだ醤油味を食べたことがないから、超楽しみ」
ジャンビが言った。「先週、豆腐味を食べたけど、甘くて激ウマだったわ」
ヌトンビが続いた。「いい交換をしたわね、ジョーシ。小豆味は激マズだから」
イモジェンが私に聞いてくる。「私は醬油味にするけど、エルちゃんはどの味を食べたい?」名前の後ろに「ちゃん」をつけるのは、親しみを込めた愛称だと知っていた。そういえば、タック・ラグゼのスタッフが、マサおじさんのことを「アラキさん」と呼んでいた。「さん」は敬意を表すらしい。私はまだ日本に来て間もないけど、日本式の呼び方にも慣れないと。それから、このグループの気取った感じの言葉遣いにも。
私はどれを選んだらいいのかわからなかった。そもそも、キットカットにこれほど多くの興味をそそる味の種類があったなんて、想像もしていなかった。どれも、食べてみるのが怖い気もする。「ジンジャーエールにしようかな?」
イモジェンが私にジンジャーエール味のキットカットを手渡した。私はそれを開封して、かじってみる。すると、口の中で甘さと苦味が同時にスパーンと、破裂した。「どう?」とヌトンビが聞いてくる。
「びっくり、激ウマ」と私は嚙みながら言った。「ソーダ感より、ジンジャー感が強いわね」
「ちょっと席を詰めて」と、二人の男子が私たちのベンチの両端に座ってきた。二人ともスポーツをやってそうな見た目で、―細身でありながら筋肉もついてそうで、名門私立校のお坊ちゃんって感じの髪型をしていた。二人はコンビニで買ってきたらしいお弁当、いわゆるコンビニ弁当をテーブルに置いた。
「その新人さんは誰?」と、黒髪でオリーブ色の肌の男子が聞いた。清潔感のある髪型で、昔ながらのイケメンって感じだ。ラルフローレンの広告からそのまま出てきたみたい。
イモジェンが答えた。「エルちゃんよ。今日ICSに来たばかりだけど、彼女も仲間に入れることにしたの。だって私たちって寛大だし、人を見る目もあるじゃない。彼女のパパはタック・ラグゼのオーナーなのよ」
「いいじゃん」と彼は、慣れてる感じで言った。なんかしょっちゅう、きらびやかな高級ホテルのオーナーの娘に会ってるような物言いね。「俺はオスカー・アコスタ。よろしく」
「週末の遠征の時、あの子に会った? みんな心配してるんだから」とジャンビが彼に聞いた。
オスカーは言った。「いや、アラベラは試合を見に来なかったよ。まだ引きずってて、あいつのことが頭から離れないみたいだな」そう言うと、彼は頭の向きを変えた。視線の先には、リュウ・キムラが一人で中庭の木の下に腰を下ろし、食堂のビュッフェコーナーで売っていたおにぎりを食べながら、村上春樹の小説を読んでいた。―よく見ると、フランス語版みたいだ。〈エックス・ブラッツ〉の面々は、ニヤニヤしながら彼の様子を眺めている。彼はほんの少しの間、顔を上げ、辺りを見渡し、私たちの視線に気づいた。しかし何事もなかったかのように、彼は本に視線を戻してしまう。見られていても全然気にしていないみたいだ。私は、凄い、と思い、彼のその精神力に尊敬すら覚えた。
イモジェンが私に言った。「オスカーとアラベラは双子なのよ」
「じゃあ、週末にボリビアに帰ったの?」と私は彼に聞いた。そんなに世界を飛び回って、この人たちはいったい何者なの?
「もちろん帰ってないよ」とオスカーが答える。
もう一人の男子が私に説明してくれた。「俺たちはブエノスアイレスに行ったんだ。ポロの遠征試合でね。はじめまして、俺はニック」
「はじめまして、ニック」と私は言った。ニックは気取った感じのイケメンで、ハッとするような青い瞳をしていた。斜めにカットした黒髪を揺らし、ウェイトリフティングの選手みたいな筋肉隆々の体をしている。
「ねえ、エルさん」とニックは言って、色っぽい目つきで私に微笑みかけてきた。「君って可愛いね」
「まだ早いわよ、ニック」とイモジェンが言った。「彼女はまだ来たばっかりよ」他のみんなが笑い声を上げた。
「あなたたち、午前中どこにいたの?」とジャンビが二人の男子に聞いた。「国際関係の授業にいなかったじゃない」
オスカーは言った。「飛行機の到着が遅れたんだよ。嵐でブエノスアイレスからの出発が遅れたから」彼の英語のアクセントは、アメリカ寄りではあったけど、どことなくイギリス英語とスペイン語のアクセントも混じっているように聞こえた。
「民間の飛行機に乗ったの?」とヌトンビが二人に聞く。
「そうとも言える!」とニックが答える。「ズホノフ・エアー」
私以外の〈エックス・ブラッツ〉のメンバーが、また一斉に笑った。私は一人取り残されたように、混乱してしまう。今のところ、ちっとも会話についていけていない。もしかしたら彼らはずっと、私を抜け者にするために日本語で話していたのかしら?
イモジェンが、きょとんとしている私に助け舟を出してくれた。「ズホノフのプライベートジェットって意味よ。彼の家が所有している飛行機。彼のパパは、アレクセイ・ズホノフなの」
突然、シャル・カトウの娘さんと仲良くしていることが、ごく普通の日常に思えてきた。キットカットにあんなにたくさんの種類があるなんて知らなかったけど、全然洗練されてないポンコツの田舎娘のこの私でも、アレクセイ・ズホノフのことは聞いたことがあった。彼は世界中のほぼすべてのスマホとかの通信機器で使われているらしい、最新のマイクロチップを開発した人だ。そういえばついこの前、エミコ・カツラが空港のラウンジで、私にフライト中読ませようと差し出してきたハーバード・ビジネススクールの雑誌の表紙に、彼の顔写真が載っていた。
「あなたのボディーガードも世界中を飛び回って大変ね。あなたの周りの人たちはみんな、時差ぼけなんじゃない?」とヌトンビがニックをからかった。「もしかして学校にも黒衣たちを引き連れてきたとか? それとも彼らは、今日は久しぶりの休日かしら?」
「実に面白い考察だね、全然笑えないけど」とニックが返した。「俺は第三世界の発展途上国を旅行する時は別として、それ以外ではボディーガードを引き連れてないよ。ウクライナに行った時も、俺とママとパパが自家用ジェットから降りた後は、彼らは飛行機を降りずに待機していたくらいだし」それからニックは私を潤んだ瞳で見つめてきて、言った。「でも、俺はいつの日か、君のボディーガードになるよ、新人さん」
「黙れ、この女ったらしのキモい変態!」とイモジェンが言った。
「君のことも愛してるよ、ジョーシさん」とニックはイモジェンに言うと、彼女のすきをつくようにサッと、彼女の弁当箱から餃子を素手でつかんで口に入れた。イモジェンは「ちょっと」と言って、じゃれ合うように彼の手をはたく。
他のテーブルを見回してみると、近くのテーブルでアケミが熱心に勉強していた。彼女のテーブルに座っている他の子たちは、彼女に無関心といった様子だ。なんだか彼女が寂しそうに見え、今朝車の中で彼女が、「人気のある子たちは私に話しかけてこないし」と言っていたのを思い出した。「あそこにいるアケミっていう子は私の友達なの。私たちのテーブルに招いてあげましょうよ」と私は提案して、こう付け加えた。「彼女は私と同じところに住んでるの」彼女もタック・ラグゼに住んでるとわかれば、ブラッツのメンバーに入りやすくなるかもしれない。
ブラッツの子たちは、何を言ってくれちゃってるの? みたいな怪訝な視線を送り合っている。イモジェンが言った。「ここは第三世界じゃないんだから、人道主義の精神を発揮して行動しなくてもいいのよ、エルさん」
チャプター 12
私もママと同じように囚人として収監されたの? とはいえ、設備の充実度はかなり違うから、不思議な気分になってしまう。
放課後、新しいMacBookを使って、Gチャットに早くアクセスしたくて、うずうずしてくる。レジーはGチャットを開いているかしら? ICS東京校での初日を終え、新居のペントハウスに戻ると、エミコ・カツラが待っていた。私に話があるらしい。
ここがママと暮らしていた家だったら、と想像した。野獣に出会う前のママだったら、きっと仕事を休んで、私が初日を終えて校舎から出てくるのを待っていてくれただろう。そして、私を乗せて車で家に帰ったら、ホットココアと焼きたてのクッキーを出してくれる。私はそれを食べながら、新しい先生や、クラスの他の子たちや、どんなことを勉強するかについて話すんだ。私は今すぐ、ママに電話したい気持ちに駆られた。イモジェン・カトウのことや、ラップトップパソコンを自由に使えることも話したいし、それから、成績優秀者向けの環境科学の授業中に、隣の男子の肩の上で寝ちゃったことも、「彼って無愛想だけど、セクシーなの」と笑って言いたい。私はママができるだけ早く仮釈放されることを強く望んだ。今この瞬間にママが何をしているのかはわからないけれど、どんな作業をしているとしても、きっと彼女は模範的にこなしているはずだわ。本来はそういう人なんだから。
ケンジ・タカハラは私の一日について、親として一目散に知りたいという好奇心はないのだろうか、代わりに彼のアシスタントであるエミコが、ビジネス口調で話しかけてきた。「今からあなたにタック・ラグゼを案内します。さあ、行きましょう」
「今日はこれから自分のことをやりたいの」と私は言った。
エミコは首を横に振った。「自由時間は後で取れるから、今はスケジュール通りに行動してちょうだい。タカハラさんが、この建物の仕組みをあなたに教えてほしいと言ってるのよ」
「じゃあ、彼が自分で教えればいいじゃない」と私は言った。いったい何なの? 彼が私を招き入れたんでしょ。それなのに、なんてひどい、親なの。
「時間があれば、彼はきっとそうするわ」
「全然時間ないの?」
エミコの完璧に整った顔に、私の心を覗き込むような表情が浮かび上がった。「そうよ。やっと理解したようね」
私はレジーとチャットしたかったし、寝室の整理も始めたかったんだけど、ここで口論しても無意味だとわかった。それに、タック・ラグゼを探索して回るっていうのも、興味をそそられた。私は物分かりの良い模範囚のように、監視官の後についていった。人類史上類を見ない高級でおしゃれな刑務所巡りが始まる。
タック・ラグゼは空に浮かぶ独立した小さな街のようだった。私たちは50階からスタートした。制服を着た従業員、ビジネスマン、洗練された服装の旅行者や居住者たちがせわしなく行き来している。エミコの説明によると、下の方の階(36階〜45階)はホテルになっていて、上の方の階(46階〜49階)には、私が引っ越してきた部屋みたいな、居住者用のプライベート空間がいくつもあるそうだ。そして、タック・ラグゼの最上階(50階~55階)には、レストラン、クラブ、スパなどの施設が入っているらしい。
エミコが最初に案内してくれたのは、50階の〈生け花カフェ〉だった。そこは24時間営業のレストランで、中央には巨大な生け花が飾ってあり、窓の外には、鳥が街を見下ろしているかのような、東京の絶景が広がっていた。ビュッフェコーナーには、今まで見たことがないほどぜいたくを尽くした料理が並んでいた。保温トレイに、繊細で美味しそうな牛肉や魚の料理、野菜のソテー、餃子、ポテト、パスタなどがこんもりと盛ってある。麵類のコーナーを見れば、シェフがひたむきにラーメンとうどんのスープを作っている。お客さんの注文に合わせてスープの味を調整し、そこに、お肉や豆腐や野菜を盛り込んでいる。本格的なサラダバーもあって、瑞々しい生野菜を提供していた。果物コーナーには、刻んだフルーツと並んで、多種多様なチーズやクラッカーもきちんと揃えて置かれていた。極めつけは、デザートステーションでひときわ目を引くチョコレート・ファウンテンだった。噴水のようにとろとろのチョコレートが、見るからに甘そうな光沢を放ち、3段になっている滝から流れ落ちている。その横では、自家製のクッキーやペストリー類がずらりと並び、艶めき立つチョコレートに浸させるのを今か今かと待っているようだ。
レストランは、さまざまな年齢や国籍の人々で賑わっていた。広々とした空間では、ざっと耳にしただけで十以上の異なる言語が話されているようだった。大体みんな、エミコと同じようにビジネス風の洗練された服を着ていて、私だけ学校の制服姿だったから、なんだか場違いに感じた。言語に関しても一人だけ取り残されたようで、誰が何語を話しているのか、私の知識では区別がつかない。フランス語、日本語、韓国語、アラビア語、それから妖精語も飛び交ってるのかしら?
「あのエッフェル塔っぽいのは何?」私たちは〈生け花カフェ〉の最奥まで来ていた。私は窓の向こう側、近距離のところに建っている先の尖った赤と白の塔を指差した。私たちの目の前には遠くまで街が広がっている。せっかく隣にハーバードの大学院を出たアシスタントがいるのだから、この景色の素晴らしさを解説してもらった方がいいかもしれないわね。私はガラス瓶の内側に永遠に閉じ込められたように窓の外を眺めながら、思う。こんなに居心地いい場所、一旦入ったら、もう抜け出せなくなりそうだわ。誰だってそうなっちゃうでしょ?
エミコが言った。「あれは東京タワーよ。テレビ塔として建てられたんだけど、展望台もあって、観光名所にもなってるの」
「遠くに見えるあの山は見覚えがあるわ」
「あれが富士山。日本を最も象徴している場所の1つね。日本のアート作品には必ずと言っていいくらい富士山が描かれているから、見覚えあるわよね。日本で最も誇れるシンボル的な存在ね。今日は眺めがいいわ。曇ってたり、あっち側に雲がかかってたりすると、富士山は全く見えないのよ」
「あそこの明るい光が密集した場所は何?」遠くに緑の公園が見え、その向こうに、ネオンサインが集まったような場所があった。高い建物がいくつも建っていて、どの建物も横一面がホログラフィック広告になっているようだ。音声はないのかもしれないけど、カラフルな映像が絶えず流れている。
「あそこが渋谷で、その向こうが新宿よ。ニューヨークのタイムズスクエアって見たことある?」
「テレビでなら、あるわ」
「あの辺りは、タイムズスクエアっぽいわね。たくさんの明るいライトがキラキラ光っていて、凄くせわしい街よ。本当にせわしなく人々が行き交ってる。通りに人々が詰め込まれたみたいな混雑ぶりよ」
彼女は窓から振り返ると、部屋の中央に飾られている巨大な生け花の方へ歩き出した。
「タック・ラグゼって、建てられてから大体どのくらい?」と私は彼女の後を追いながら、聞いた。「何もかもがピカピカだし、真新しいビルって感じ」
「そうね、真新しいビルよ。この場所にこれが建ってから、まだ1年くらい。クアラルンプールと、シンガポールと、それから上海にもタック・ラグゼのビルはあるけど、ここがタカハラ家にとって、要となる本拠地ね」
「それはどうして?」
彼女は手首にはめているアップル・ウォッチを見た。私の知識不足にうんざりしている感じだ。彼女は言う。「タカハラさんのお父さんがここ東京で、このビジネスを始めたからよ。この街は一族にとって特別な場所なの。でも前は、東京のタック・ラグゼは古い建物だったのよ。こんなに大きなビルじゃなかったし、こんなに壮大な景色も、あそこからは見えなかったわ。今のタック・ラグゼのホテルは、大体いつも予約でいっぱいなのよ。このビルには〈ディスティニー・クラブ〉も入ってるから、そこを目当てにやって来るお客さんも多いわね」
「それって何? 運命のクラブって、なんか〈約束の地〉みたいな、聖地メッカっぽい名前だけど」
「たしかに、そうね。聖地メッカには、はるばる大地を横に渡って行くんだけど、ここは上に昇って行くのよ。東京っていう街は、建築基準からして上にスペースを広げるしか方法がないの。横には物理的に広げられない。アメリカにあるような、広大なカントリークラブはここには作れないの。それでタック・ラグゼが高層ビルを使って、東京で〈ディスティニー・クラブ〉を提供してるのよ。あなたは今その中にいるの!」彼女に付いて歩いて行くと、エレベーターの扉が並ぶロビーにたどり着いた。私たちのそばを従業員がせわしなく通り過ぎる。シェフ、ウェイター、接客係、他の係の人たちも、みんなタック・ラグゼと書かれた制服を着ている。
「よくわからないわ」私はエレベーターの表示を確認しながら、言った。「ディスティニー・クラブなんてどこにも書いてないじゃない」
エミコは「上」ボタンを押すと、言った。「50階から55階までのフロアが、ディスティニー・クラブよ。タック・ラグゼの宿泊客と住人が利用できて、それから、年会費を払ってメンバーになれば、泊まらなくても施設だけ使えるわ」
「待って。レストランで食事をするためだけに、年会費を払うの?」
「レストランはほんの一部に過ぎないわ。ディスティニー・クラブは体験型の総合施設なの」私は彼女に向かって、「もう勘弁して」みたいな表情をした。私のママに、その顔やめなさいってよく注意されたのを思い出した。エミコは続ける。「タック・ラグゼのパンフレットを読み上げてるみたいになっちゃって、ごめんなさいね。でも本当のことよ。ここは娯楽施設と社交の場を兼ね備えたクラブなの。世界的に有名なレストランも入ってるし、プライベートクラブ、ビジネスラウンジ、会議室、いろんなゲームを楽しめるスペース、スパ、それから、最先端のジムもあるわ」
「メンバーになるのにいくらかかるの?」
「ディスティニー・クラブの会費は、1年で約1,000万円よ」
ちょうどエレベーターのドアが開いたところで、私はびっくりして息が止まりそうになった。「は?」
「あ、1,000万ってドルじゃなくて円よ。1,000万円はドルに換算すると、たったの約10万ドル」
いやいや、それにしたって息が止まるわ。「それだって、十分馬鹿みたいな金額じゃない」
私たちはエレベーターに乗り込んだ。エミコが言う。「ここのお客さんクラスの層にとっては、それほど馬鹿みたいな金額ではないのよ」
私のママは、あと50ドル給料が高ければ、その50ドルを元手に一獲千金を当てられるってよくぼやいていた。世界には50ドルに苦慮している人がいっぱいいるっていうのに、10万ドルもの大金を贅沢な娯楽にぽんと出せる人たちがいるなんて、そんなの犯罪に思えてくる。だってそうでしょ、本当に苦しんでいる人たちが一方にいて、彼らには潤沢なお金があるなんて、どうしてそんな幸運が彼らの人生に訪れたのかしら? っていうか、この私がなんでそんな世界の一員になってるの?
私はディスティニー・クラブに感銘を受けたのと同じくらい、怖くなる。この場所が現実のものとは思えない。不当に裕福な人たちが、他の誰からも邪魔されずに優雅に過ごすための、現実離れした安息の場所に思えてきた。あらゆるものが秩序正しく整っていて、どこにも欠点が見受けられない。綺麗だけど、魂がない。
エミコはスマホを見て、メッセージを確認すると、「タカハラさんが今夜はあなたと食事できるそうよ、夜7時から」と言った。
私たちは55階でエレベーターを降りた。壁に〈スカイガーデン〉と書かれた看板が掲げられている。
「これからもずっとそんな感じなの?」と私は彼女に聞いた。「父親が娘にいつ会えるかを、そうやってあなたから知らされるわけ?」
私は苛立ちを込めて言ったつもりだったんだけど、彼女は私の不満なんかお構いなしって感じで、淡々と「そうなるでしょうね」と言った。
「私が今すぐ彼に会いたいって言ったらどうする?」
彼女はスマホでカレンダーを確認した。「無理ね。彼はこれからプライベート・メンズクラブで会合が入ってるから」
彼女の後について行くと、そこは文字通り...スカイガーデンだった。空に浮かぶ庭園だ。ガラス張りの空間に都会的な公園がすっぽりと収まっている。地上の公園ほど広くはないけど、青々とした植物が生い茂り、プライベートな会話を楽しめるように配置されたベンチがそこかしこにある。しかし、私はその空間の美しさにうっとり見とれてはいられなかった。私は言った。「プライベート・メンズクラブって? それはどこにあるの?」
「ラケットボールってわかる? 壁にボールを打ち付けるテニスね。そのコートを通り過ぎたところに隠し扉があって、そこから入るのよ」
「今から行ってもいい?」
「だめ。私だって扉の中には入ったことないんだから。私はここで2年働いてるのよ」
「誰がそこに入れるの?」
「ビジネス関係の男性よ」
「そんなところに隠れて、その人たちは中で何をやってるの?」
「タバコを吹かしたり、ビジネスの話とか」
「ここには、女性のためのそういうクラブもあるの?」
「女性はスパのロッカールームで内緒の話をするからいいのよ」
「いや、そういう意味じゃなくて、タバコを吸ったり、ビジネスの話をする専用のウーメンズクラブはあるの?」
「日本人の女性はそういうのを必要としてないわ」あれ? この女性ってハーバードを出てるんじゃなかったっけ?
「まあ、私はべつに構わないけど」私たちは庭園を突っ切るように歩いて行った。庭園の反対側まで来ると、ドアのついたガラス張りの壁があって、見れば、ガラス張りの屋根の下にプールがあるではないか! プールは可愛らしい感じで素敵だったけど、小さかった。隣には温水の浴槽もある。この時間帯だからか、その空間にはお客さんは一人もいない。もったいない。ガラスの壁越しに眺めているせいか、プールは一段と煌めくように目に映った。やっぱりICS東京校の、あの大きな競泳用プールで思いっきり泳ぎたいけど、あそこが使えない時に、ここで軽く泳ぐのもいいかも、と私は名案を思い付き、わくわくした。
エミコは、メンズクラブはあるのに、同種のウーメンズクラブがないということについて、どうとも思っていないようだった。それってフェミニストだったら怒るポイントじゃない? と思ったけれど、彼女はそういう議論には興味ないらしい。彼女は上辺は、過度に礼儀正しく振舞っているけど、私のフェミニズム的な質問をどぶに捨てるみたいに軽くあしらったということは、内面は大して洗練されていないみたいね。私は逆に自信をもらった気がした。彼女は手に提げていた書類かばんから、茶封筒を取り出すと、私に手渡してきた。「あなたがここで生活するのに必要な、カード類よ。これが、あなたの部屋やタック・ラグゼのいろんな施設に入る時にセンサーにかざすカード。これはPASMOっていって、タクシーとか地下鉄に乗る時に使うカードよ。それから、アメリカン・エクスプレス・カードね。洋服とか食べ物とか、何でもこれで支払いできるわ」
「私のクレジットカード? そんなの使っても、私には後から払うお金がないわ!」私はポケットに1ドル札が数枚入っていれば多い方で、それ以上持っていることは稀だった。そんな私がクレジットカードなんて持てるわけがない。
「タカハラさんの口座よ。あなたの...お父さんが支払うから大丈夫」彼女は、お父さんという言葉を使うのをためらった。まるで彼が私のお父さんであるはずがないと思っているかのようだ。
私には彼女のためらいが理解できた。私は父親に会うために日本にやって来たわけだけど、彼のアシスタントが世話係みたいに登場して、私には手に余るクレジットカードを渡されただけで、私自身も、彼が私の父親だなんて本当のことだとは思えない。あの男性は私にあまり注意を向けていないみたいだし、彼の実体がよくつかめないから、私はエミコに聞いた。「彼ってどんな人?」
「誰のこと?」
彼女につられて私まで、お父さんという言葉をすんなり言えなくなってしまった。「タカハラさん」
「とても仕事熱心よ。良い上司だし」
「そういうことじゃなくて、人として」
エミコは返答に困った様子で少し考え込んでから、言った。「彼は冗談が好きよ。面白いことを言ったりするし。彼は、ここでお客さんが楽しい時間を過ごしていることが、何より好きみたいね」私は彼が面白いことを言ったりするなんて全く想像していなかった。十分に素敵な人だとは思ったけど、ビジネスのことばかり考えている人だという印象だった。
「彼には恋人はいるの?」
「さあ、そこまで私は知らないわ」
「ここに彼の家族はいるの?」
「ええ、いるわ。あなたもすぐに会うことになるでしょうね。彼の母親と彼の妹が48階に住んでる、あなたの部屋の一つ下の階よ」
待って。私の祖母と叔母がここに住んでるの? なんで今まで誰も私にそう言ってくれなかったの? っていうか、彼女たちが今まで私に会いに来てないのは、なんで?
王家の人みたいな待遇で、ゴールドのアメックスカードまで手渡されたにもかかわらず、私は〈空に浮かぶ運命の場所〉で、家族の一員にはなれないのではないか、という疑念を振り払うことができずにいた。
チャプター 13
ディスティニー・クラブの52階にある〈リョウガ〉という名前の寿司バーに、どうにか私がたどり着いたのは、ちょうど午後7時だった。店内はこじんまりとしていた。―長めのカウンターが1つあるだけで、背もたれのない椅子が8つ並び、すべての席がお客さんで埋まっていた。カウンターの向こうでは、シェフがお寿司を握っている。男性客はスーツ、女性客はドレスといった出で立ちで、私だけジーンズにTシャツという軽装だったから、なんだか自分が浮浪者のように思えた。
お店の隅にプライベートブースがあって、クリーム色ののれんで中央のカウンターエリアから遮断されていたけど、のれんは完全には閉まっていなかったので、そっと中を覗いてみると、ケンジ・タカハラが座っていた。私は中に入っていくのを躊躇して、のれんの隙間から、「ハイ」と声を掛けた。「あなたが待ってるのは私?」
彼はテーブルにスマホを置くと、おもむろに立ち上がって、お辞儀をしてきた。「私たちがようやく会えるのを楽しみにしていたよ」
私たちがようやく会えるのを? もう私はあなたと一緒に住んでるんですけど、そんなことも忘れちゃったの?
じっと彼の顔を見つめているわけにはいかないと思いつつも、どうしても彼の顔から目が離せない。彼の顔は私にとって、馴染み深い感じでもあり、同時に全くの異国の人という印象も受けた。私はまだ、彼が目の前に存在していることが信じられず、彼が私を彼の世界に招き入れてくれたのは、何かの間違いではないかと思ってしまう。彼の人生ではなく、あえて彼の世界と言ったのは、やはり彼の顔には王様みたいな威厳があったから。
私たちは2人で、8人くらい座れそうな大きなテーブルに向かい合って座った。「どうしてメインのカウンター席じゃなくて、奥の個室で食べるの?」
「この店はシンプルな造りに見えるかもしれないが、実は非常に高級な店なんだ。座席は数ヶ月前に予約で埋まってしまう。この店のシェフはミシュランで星を獲得してるから」
「ミシュランで星を獲得した人って誰? 有名なシェフ? もしかして、『トップ・シェフ』とかの料理対決番組に出たことある人?」
彼は笑った。温かみのある笑い方だった。「いや。ミシュランっていう、とても重要な旅と料理のガイド本で評価されたシェフなんだ。彼の祖父の代から続いている寿司職人だよ」
「そんな凄い人を、よくここに引っ張ってこれたわね! あなたも凄いじゃない!」
彼はまた笑って、「ありがとう!」と言った。彼の困惑したようなハニカミを見て、私は一気に幸福感に包まれた。彼からそういう笑顔を引き出したのは、紛れもなく私だったから、私は喜びで死にそうなくらいだった。彼が私たちのテーブルを指差した。「このテーブルは特別なお客様専用なんだ。あるいは、私が特別なお客様と会食する時に使ってる」彼はそこで少し間を取ってから、続けた。「それに君のその服装は、メインのカウンター席には相応しくないからな」
私は特に何を着て行けとも言われなかったから、適当に過ごしやすそうな服を着て来ただけよ。少なくとも、ICS東京校の制服を着てディナーの席に現れるほど世間知らずではないわ。「それはすみませんね」と私は皮肉を込めて言った。
「謝る必要はない」
「すみませんね」
ウェイターが入ってきて、お辞儀をすると、私のお父さんに日本語で話しかけた。高級なゴブレットグラスに入った水を私たちの前に置く。「メニューはどこ?」と私は聞いた。
「この店にはメニューはないんだ。寿司の種類は何が好き?」お寿司は〈セイフウェイ〉とかのスーパーマーケットで、調理済み食品のコーナーに置いてあるのを見かけたことはあるけど、値段が高すぎて私は毎回手が出せなかった。小さなパックにいくつかお寿司が入っているだけで、値段が見合っていないと感じた。
「わかんない。食べたことないから」
「大丈夫。それなら〈リョウガ〉のおまかせにするといい」
「それってお寿司の一番美味しい種類?」
「シェフに任せるっていう意味だよ。シェフが君のためにネタを色々選んでくれる。最高の食材を使って、君に介入(intervention)してくれる」
「それって、創作(invention)してくれるってこと?」
「そうだな。さて、今日はどんな日だった?」
ついに、真っ当な父親っぽい質問が来た。
「楽しかった。同級生にイモジェン・カトウっていう女の子がいてね、校内を案内してもらったの。彼女のママが有名なデザイナーなのよ」
「シャル・カトウだろ!」彼はにっこりと笑って瞳を輝かせた。「彼女のお嬢さんだったら、君の友達としてぴったりだ。今、タック・ラグゼの従業員用の制服を一新しようと計画中なんだけど、シャル・カトウにデザインを頼もうと思ってる。ただ、彼女は忙しいからな。そうだ、君から彼女のお嬢さんに頼んでもらえないか?」彼が本気で言ってるのか、それとも冗談なのか、もはや私にはわからない。
「それで、あなたの一日はどんな日だったの?」と私は彼に聞いた。
「昨年、私の父が亡くなって、私が会社の経営を引き継いだんだ。私の人生はすっかり仕事一色になってしまったよ。四六時中仕事に追われてる。このままだと俺は...」そこで彼は戸惑ったように言い淀んだ。適切な英語が見つからないのかもしれない。「日本語では、過労死って言うんだ」
「それってどういう意味?」
「働きすぎで死ぬこと。大体は心臓発作で」
「それは大変。過労死しないで」ママも働きすぎだった。野獣に襲われる前の話だけど、彼女は忙しい合間を縫って、私のために時間を見つけては一緒に過ごしてくれた。「そんなに忙しかったら...私はいつあなたに会えばいいの?」
「今会ってるじゃないか! 毎晩一緒に夕食を食べよう。そうすれば、こうしてお互いを知っていける」まあ、それは確かに大事ね。彼は仕事と結婚しているようだった。でも、少なくとも私と一緒に過ごす時間を取ろうというつもりはあるみたいね。私たちは、いわゆる「普通の」家族にはなれないかもしれないけど、―というか、普通の家族ってどんな家族か知らないけど、―私はこの状況に感謝した方がいいみたいね。彼が私をここに招き入れてくれて、凄く素敵な学校に入れてくれて、それだけで十分に有り難いことだし、その上、本物の父親みたいになってって望んだら、罰が当たるわね。っていうか、本物の父親ってどんな父親か私にはわからないけど。―私は今まで父親という存在自体に縁がなかったんだから、わかるわけないでしょ? ケンジが言った。「君自身のことを聞かせてくれ。君は何が好きなんだ?」
「食べることね、何よりも大好きよ」お寿司が乗った最初のお皿が、私たちの間のテーブルに置かれた。
彼は私にお箸を手渡してくれた。「箸の使い方わかるか?」
「練習してるところよ」二つのお寿司のうち、一つを私がお箸で慎重につまむと、もう一つを彼がお箸ですんなりとつまみ上げた。
「一貫をこうして一口で食べるんだ」彼が私にアドバイスして、お寿司を丸ごと口に入れた。
「心配しないで。あのバインダーに書いてあった。お寿司の部分はちゃんと読んだから。他にも色々知ってるわ。お寿司は出された順に食べること、一皿をちゃんと食べ終えてから次に手をつけること、醤油は控えめに使用すること、お寿司をひっくり返して、ネタの部分を醬油に浸すこと、それから、食事の後にぐずぐず長居しないこと」
「優秀だな!」と彼が成績を発表するように言った。私はわけのわからないルールを小馬鹿にしたつもりだったんだけど、そこまでは伝わらなかった。
私は最初のお寿司を口に入れてみる。すると、天にも昇るような美味しさが、口の中いっぱいに広がった。いろんな味と食感が、天国でダンスを繰り広げているみたい。―塩味と甘さの芳醇な絡み合い。歯ごたえがありながら、絹のような柔らかさ。地上の食べ物だとは思えない。「これこそ、私が今まで食べた物の中で、最高に美味しいかも」と、私は口に含んだお寿司を咀嚼し終わってから言った。こんなに美味しい食べ物なら、あれだけ細かい食べ方のルールに縛られていても、致し方ないわね。それぞれの味が連続攻撃のように、私の舌の味覚受容細胞に大規模な錯乱状態を引き起こした感じ。ラーメンは受容限度ぎりぎりいっぱい最高の味だったけど、お寿司の爆撃にこっぱみじんに壊されちゃった。
「食べることは俺も大好きだよ」と彼が言った。「他に何が好き?」
「猫。水泳。ビヨンセ。あなたは?」
「犬。野球。ビヨンセ」
犬派か。でもビヨンセ好きなら、相性が全く合わないって悲観する必要はないわね。それより、もっと緊急を要する関心事があった。「ねえ、あなたこと何て呼んだらいい?」つい、うっかり恋人感覚で聞いてしまった。日本語には、こういう状況にぴったりの呼び名があるのかしら? つまり、会えただけで、まだ打ち解けていない間柄の父親の呼び名。
「君は何て呼びたい?」
「ケンジ、かな?」
彼は微笑んだ。そのカリスマ的な微笑みとハンサムな顔をもってすれば、J-Popのミュージックスターになれたのではないか、そっちの方が彼の天職だったのではないか、と真面目に思ってしまう。「じゃあ、『ケンジカナ』って呼んでくれ」
私はくすくす笑ってしまう。なかなか良いユーモアのセンスしてるじゃない。ユーモア合格! 新しいお皿がテーブルに運ばれてきた。さっき食べた物よりもさらに美味しそうに見える。「コカ・コーラも頼みたいな、ケンジカナ」と私は言った。
彼はウェイターに「コカ・コーラも」と言って、指で2本の合図をした。それから、彼はウェイターに日本語で何か、私にはわからないことを言った。ウェイターがいなくなってから、彼が説明してくれた。「シェフの史郎には、コカ・コーラを頼んだことを言わないでくれってウェイターに頼んだんだ。彼は一流の寿司職人だから」
「それもお寿司のルール? お寿司を食べながらコーラを飲んじゃだめなの?」
「いや。高級な食事全般のマナーかな。食材の絶妙な味をじっくり味わうっていうか。でも、俺はボスだからな。マナーを破っても問題ない」
いいじゃない! ケンジのそういう反抗的な側面も気に入ったわ。
私は彼に聞いた。「私くらいの年齢の時、あなたはどんな学生だったの? どこの学校に行ってたの?」
「アメリカに留学していた。マサチューセッツ州のアンドーバーっていう町の全寮制の学校で、私の姉も同じ学校だった。両親の指導方針っていうか、私たちに英語をマスターさせたかったみたいだね。姉はスター的な学生だったよ。それに対して、俺はまあ、そこそこだな。成績が最悪ってわけでもないけど、優秀でもないって感じ。俺はスポーツが好きだったし、友達とパーティーを開いて盛り上がるのも好きだったから。君は?」
「私は、前は良い学生だったわ。お母さんの状況が悪くなるまでは、私はほとんど全科目で、Aを取ってたのよ」私はそこで一旦間を置いた。彼が私と一緒に過ごす時間を作って、心を開いて話してくれていると気づき、感謝したくなった。「私をあんなに素敵な学校に通わせてくれてありがとう。私は本当にICS東京校が気に入ったわ」
「どういたしまして」と彼は満足そうに言った。それから彼は深呼吸をすると、重大事項を発表するように改まって、言った。「良い成績を取ることよりも重要なことがある。それは、私の母と仲良くすることだ」
「え、彼女って、仲良くするのが難しい人?」そういえば、彼の母親について、まだ何も聞いていなかった。気難しい人だから、彼が私に会わせないようにしていたの?...それとも逆に、彼女が?
「彼女は...いつも機嫌がいいわけじゃないんだよ」ケンジははぐらかすように言った。「彼女がタカハラ家の実質的な、真のボスなんだ。君のお母さんがどういう状況にいるかわかった時、私はすぐにエルをここに呼び寄せて、まず様子を見ようって言ったんだ。でも私の母は違う考えだった。君を全寮制の学校に入れて、お金を送ればいいって」
私は急に喉がカラカラになった。私の母だったら、この会話のこの時点で、「早く持って来てよ!」って叫んでいたでしょうね。私の母の場合、コカ・コーラよりも、もっと強いやつでしょうけど。
「じゃあ、なんで私はここにいるの?」と私は聞いた。さっきまで感じていた感謝のレベルが不安定に揺れ動いていた。緊張と不安がどんどん入り混じってくる。私はなんだか、また新たな里親の家に送られようとしている気分だった。
「ようやく母を説得できたんだ。一時的だけど、君をここに呼び寄せて、それでどうなるか様子を見るってことで、彼女はうなずいてくれた」
私はショックで、心臓がお腹の底まで落ちた気がした。一時的? 私はとりあえず様子見で、一時的に東京に来たの? そういうことは、私が飛行機に乗るって決める前に、言ってよね!
「そんなに心配そうな顔するなよ! きっと君と彼女は、仲良くやれる」
彼はあんまり確信があるような言い方ではなかった。でもいいわ。私がなんとかしてみせる。私は今ここにいるんだし、一時的ではなく、ずっとここにいられるようにしてみせる。少なくとも、高校を卒業して、大学の奨学金を得られるまでは、ここにしがみつくわ。そしたら、家に帰ろう。ママが出て来るのを待って、また二人で一緒に暮らそう。
「そうね。きっと仲良くやれるわ」と私は自信を込めて言った。新しい祖母がどんな人でも、私はどんなことをやってでも、私を好きにしてみせる。
チャプター 14
日本の料理を食べる時のエチケットに従って、私たちは食事の後、ぐずぐずと長居はしなかった。舌がとろけそうなお寿司の最後のお皿を二人で平らげると、ケンジが腕時計をちらっと見て、諦めたように言った。「まだ君が会っていない家族に、そろそろ会いに行く時間だな」
「その前に、何か食後のドリンクを飲んでからにしない?」と私は聞いた。彼があまりにも変に緊張した面持ちだったので、一旦先延ばしにした方が良いと思った。「あなたはお酒でも飲んだら?」
初めて、ケンジが手を伸ばしてきて、テーブルの上で私の手にそっと触れた。彼の感触が初めて脳まで伝わってきたと思ったら、彼はすぐに手を引っ込めてしまった。彼が真正面からじっと私の目を見つめてくる。「お酒は飲まない。アルコール依存症から、やっと回復しつつあるんだ」
マジか。
それは思いもよらない告白だった。ケンジは見るからに健康そうで、自信に満ちた男だったから、私のママがかつてそうであったように、お酒に溺れるような壊れやすい心の持ち主だとは思わなかった。超高層ビルの王様でしょ? いったいどうしちゃったのよ! 待って。アルコールが一時的に忘れさせてくれるストレスとか、麻痺させてくれる痛みってどんなものかしら? 彼はきっとそういう痛みに囲まれていたんだわ。
そうすると、私の両親は二人とも中毒患者ってことじゃない。遺伝的に言って、体質的に私もそうなる確率は、100%。シャレにならないわ。
彼は付け加えた。「そんなだったから、俺は君の父親になれなかったんだ。3年ほど前になんとかしらふに戻るまでは、ずっと具合が悪かったから」
それがまともな言い訳ではないことはわかっていたけれど、私の中にすっと入ってきた。彼が今まで私の人生の一部になれなかったのは、冷たい放置とかではなく、そういった事情があったのだ。
「お酒の悩みを順番に言っていくミーティングとか行ってるの? 私もあなたと一緒に行ってもいいわ...付き添いとして」ママが野獣と闘いながら、まともな状態に戻ろうともがいていた時、私は彼女のために何かできたかもしれない。同じような境遇の人に頼んで、ママをアルコール依存とか麻薬依存のサポート施設に一緒に連れて行ってもらうこともできたはず。その間、その人の子供の世話は、私がすればよかったわけだし、その子にクッキーを焼いてあげることもできたわ。
「そういうつもりで言ったんじゃないんだ」とケンジは言った。それから、おもむろに立ち上がって、続けた。「この件はこれでおしまい。ただ君に知っておいてもらいたかっただけだから」
私は彼がなぜ秘密を打ち明けようと思ったのか、その理由を考えた。心を開いて私の前では正直でいたかったのか、それとも、どこかのタイミングで、彼がついお酒に手を出しそうになったら、私に注意してほしいってことか、あるいは、その両方かもね。だけど、お酒の問題っていうのは、私から押し付けるみたいに言わない方がいい。知りたいことはたくさんあったけど、彼が言う必要があると感じた時に、彼から言ってくれるのを待とう。今の彼は明らかにしらふなんだし。そんなことを考えながら、私は彼の背中に付いて、ロビーをエレベーターの方へ歩いていった。
「彼女たちの名前は何て言うの?」と私は彼に聞いた。「あなたのママと妹さん」
「母親はノリコ(紀子)で、妹はキミコ(貴美子)。だけど英語で話す時は、キミって呼んでる。キミはタック・ラグゼで俺に次ぐ地位にある、いわばナンバー2だな」ノリとキミ!? キンバリー・カーダシアンの家族と同じじゃない! 私はテレビでパーソナリティをしているキンバリーに絡めてジョークを言いたい衝動を、なんとかこらえた。私たちはエレベーターに乗り込むと、タック・ラグゼ・ホテルのロビーがある36階で降りた。「コンシェルジュのデスクに立ち寄ってから行く。ちょっと忘れ物をした」
私はケンジに続いて、受付に向かって歩いていく。その空間を颯爽と歩く彼には、威厳に満ちたオーラがあった。彼が横を通り過ぎるたびに、従業員たちが次々に深々と頭を下げた。受付の前まで来ると、ハッとした。私はそのコンシェルジュに見覚えがあった。今日の午後だ。「あなた、〈生け花カフェ〉でもウェイターをしてなかった?」と私は彼に聞いた。彼は大学を卒業したばかりといった年頃で、薄茶色の肌、黒髪、深緑色の瞳をしていた。
0コメント