『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』3

『My Almost Flawless Tokyo Dream Life』 by レイチェル・コーン 訳 藍(2020年01月26日~)


「確かに」と彼は言った。「僕はデーブ・フラーハティ。僕はここで細々としたことを何でもやってるんだ。ボスが僕を必要とすれば、どこへでもすぐに駆けつけますよ」彼はケンジに向かって敬礼をし、それを見てケンジは笑った。

「あなたってアメリカ人?」と私はデーブに聞いた。

「そう。ボストン生まれのアメリカ人。アイリッシュ・インディアンの上質な血筋を受け継ぐ、先祖たちの代表だよ」

ケンジが彼に言った。「彼女は私の娘で、エル。最近こっちに来て、これからここで暮らすことになってる」

デーブの顔がパッと明るくなった。私も自分の顔が赤くなるのを感じた。確かに彼は、名前の通り、フラーッとなびいてしまいそうなキュートな顔をしていたけれど、私が赤面したのは、彼のせいではなく、ケンジが私を娘として紹介したからだった。

デーブは言った。「それはそれは、お嬢様にお目にかかれるとは。何でも必要な時にお声掛け下さい。私はあなたに仕える者ですから。内線で私を呼び付けてもらえば、すぐに伺いますよ。私は英語、日本語、ヒンディー語、スペイン語、フランス語を話せますので、何語でも、宿題が出て困った時とか、お手伝いします」それから彼はケンジに日本語で話し掛けた。二人で何やら日本語を交し合った後、デーブはコンシェルジュ・デスクの後ろの棚からギフトボックスを取り出し、ケンジに手渡した。ギフトボックスは花柄の包装紙に包まれていて、それとは別にギフト用の手提げ袋も手渡した。「グラシアス(ありがとう)」とケンジがデーブに言った。

ディナーダ(どういたしまして)」とデーブが答えた。

「ちょっと君のスペイン語をテストしてみたんだ」とケンジが笑いながら言った。

ケンジはギフトボックスを手提げ袋に入れると、それを私に手渡してきた。「さあ、行こう。すでに約束の時間を過ぎてるな。母は遅刻が大嫌いなんだ」

デーブがびっくりしたように目を細めたのを私は見逃さなかった。そして、私も同様に驚いてしまう。ケンジが明らかに慌てているからだ。普段は堂々としていて、落ち着き払っている男があたふたしているのを見ると、こっちまでまごついてしまう。

「これって何のための贈り物?」住人専用のプライベート・エレベーターに乗り込んだ後、私はケンジに聞いた。

ケンジは言った。「君が母に渡す贈り物だよ。マサに頼んで、空港でおみやげを買ってきてもらえばよかったな。日本では、誰かの家や職場を訪れる際、敬意の印として贈り物を持参するっていう伝統があるんだ」

「なんでさっきギフトボックスを手提げ袋に入れたの? ただ上の階に持っていくだけでしょ? すでに包装紙にくるんであったし」

「手提げ袋に入れたまま手渡すのが、礼儀なんだ」と彼は真剣な表情で言った。まるで中には貴重な宝石とか、とても高価で大切な物が入っていて、包装紙でくるんだ上に、さらに手提げ袋に入れなければ、傷でもついてしまうと言わんばかりの真剣さだ。

「そういうことなら、私、ギフト代わりに何か作れるわ」と私は提案した。「とっても美味しいチョコレートチップ・クッキーとか! 美味しさの秘訣はね、カルダモンをちょっと入れるの。〈ピンタレスト〉で誰かが作り方を投稿してるのを見たから、作れるわ」

「いい考えだが、遅すぎた。俺がもっと早く準備しておくべきだった。今すぐ渡さないとまずいんだ。コンシェルジュのデスクには、俺がお客さんに渡す用のギフトが常にストックしてあるから、これでいこう。君はこれを母に渡すんだ」

「これって何が入ってるの?」

「ダラスの空港で売ってるチョコレート。母も妹も、どうせ食べないんだけど。彼女たちはアメリカのチョコレートが好きじゃないから」

「え、食べないのに、なんであげるの?」

「それが日本の伝統だからさ。贈り物より、贈り物を贈る行為が重要なんだ」

「そんなの意味ないじゃない」

どうやら、ケンジには意味があるらしく、こう付け加えた。「両手で差し出すように手渡すんだ。でも、すぐに渡したらだめ。一旦席に着いて、その場の空気が落ち着いた頃合いを見計らって、つまらないものですけどって差し出すんだ」

「相手が好きでもない、つまらないチョコレートを手渡すのに、そんなに細かなルールがたくさんあるなんて、さすが伝統ね」

ケンジが微笑んだ。「さすが君は飲み込みが早い」

「アメリカのチョコレートは最高よ」と私は誇らしげに言った。実は今すぐにでも、〈ハーシー〉のチョコレートバーにかぶりつきたいくらいだった。

ケンジが意味深にくすくすと笑った。私たちはエレベーターに乗り込む。「それはあれだな、君はおそらくアメリカのチョコレート以外食べたことがないから、そう思うんだな。最高のチョコレートは、ベルギーか、スイスのチョコだな。イギリスのも美味いぞ。日本のチョコレートも確かに素晴らしいが、ベルギーとかスイスの最高のチョコレートメーカーから輸入して、それを日本で販売してることも多いんだ」

「あなた、自分の国のチョコレートを侮辱しちゃってるわ」

「アメリカのチョコレートよりはましだよ。君の国のチョコは、なんだかワックスみたいな味がするからな。彼女たちに挨拶したら、その後パティスリーに行ってチョコを食べよう。今言ったことを証明してあげるよ」

「ほんとに?(Really?) ケンジカナ」彼は教皇のような過密スケジュールを無視してでも、私と一緒にチョコを食べたりして、長い時間を過ごしたいってこと?

ほんとさ(Rilly)」と彼は、私のアメリカン・アクセントを真似て言った。彼って面白い。私も面白いから、また一つ、私たちの共通点が見つかったわ!

エレベーターのドアが48階で開き、私たちは外に出た。広間の両側に2つの部屋があり、ケンジは右の方へ歩いていった。彼はそっとため息をつき、諦めたように、ドアベルを鳴らした。貫禄のある日本人女性がドアを開けた。彼女は品のある洋服を着ていて、黒髪を後ろでお団子に束ねていた。そして前髪は、年配女性が好む感じで、額のところでふわりとカールさせている。彼女はいかめしい顔つきをしていた。眉毛を黒くはっきりと描き、干しぶどうみたいな紫掛かった口紅を塗っていた。なんだか、あの酸っぱくて甘い〈サワーパッチキッズ〉を食べた時の顔みたいだ。と思った瞬間に、彼女はアメリカのお菓子が嫌いだったんだ、と思い出した。「あなたたち、遅刻ですよ。もう10分も過ぎています」彼女は英語で、ケンジを叱りつけた。それから彼女は、どうせ私のせいだと言わんばかりに、私に一瞥をくれた。

「ごめんなさい」と私はぼそぼそと言った。私のママの両親は、どちらも私がまだ小さい頃に亡くなっちゃったから、母方の祖父母はいなかった。おばあちゃんがいるってどんな感じだろう? と想像したことはあった。もし私におばあちゃんがいたら、きっとロッキングチェアに座って、私に素敵なケープを編んでくれるんだわ。そのケープには、スーパーマンのマントみたいに、「おばあちゃんのお気に入りのスーパーガール」って刺繡されていたりして...まさか、初めて会った瞬間に、怒られるとは思ってもみなかった。

ケンジとおばあちゃんは日本語で二言三言、会話していた。それから、彼が英語で言った。「母さん、この子がエル。エル、こちらが私の母。彼女はミセス・タカハラと呼んでほしいと言ってる」

オーケー、おばあちゃん。ここまで来たら、何とでも呼んであげるわ。こんなに温かい歓迎を受けるなんて、逆にエネルギーを無駄に使わなくて済んで、感謝しちゃう。東京で新しい家族と対面して、感極まって抱き合うようだったら、さぞかし大変だったでしょうね。省エネに感謝。

私は、お辞儀をした方がいいのかなと感じ、少しだけ頭を下げた。その間、ミセス・タカハラが値踏みするように、私の顔をじっくりと見ているのを感じた。そして、あれ、と思った。彼女のこの表情って、私が初めてケンジに会った時の、私の表情と似てるかも。やっぱり血がつながっているんだわ。私は、私たちの反応の類似性を否定できなかった。彼女の不機嫌そうな表情からは、ぱっと見、孫に会えた喜びのようなものを見つけることはできなかったけれど。

ケンジと私は玄関に足を踏み入れた。靴を脱いで、床の端に並べられていたスリッパに履き替え、リビングに入っていった。室内のレイアウトは、ケンジのアパートメントと全く同じだったけど、家具類は、より格調が高い感じで和風だった。そしてリビングルームで私たちを出迎えてくれた女性は、目を見張るほど綺麗だった。彼女は、ケンジの妹よ、と言って挨拶してきた。見た感じ、ケンジよりも2、3歳若そうだ。彼女が私に手を差し出してくる。「ようこそ、日本へ。エルね。私はキミよ」彼女の言葉遣いは親しみやすく、本当に私を歓迎しているようだった。ミセス・タカハラとは違って、彼女は英語にも自信があるようで、日本人訛りもない。ただ、彼女の礼儀正しい立ち居振る舞いからは、姪に会えたという高揚感は全く伝わってこなかった。

「ハイ」と私は言った。「はじめまして」どうか私を好きになって、私の味方になって!

キミコ・ナカムラと比べてしまうと、エミコ・カツラのビジネススーツが古臭く思えてしまう。キミは淡いピンク色のスーツを着ていた。それは、彼女のすらりとした体の線をそのまま引き立てるように、完璧に仕立てられていた。下に目をやると、彼女の靴には金のロゴが付いている。あのロゴは確かフェラガモだ。彼女の長い黒髪は、さらさらと滑らかで光沢があった。ヘアーモデルが彼女の髪を見たら、羨んで、彼女の髪を引っ掴んで奪おうとするんじゃないかしら?

彼女はジェスチャーで、ソファーに座るように私を促した。私たちの訪問を待ち構えていたかのように、ティーセットがテーブルの上に用意されていた。「お茶は、あなたはどんな風に飲む?」とキミが私に聞いた。テーブルの反対側の椅子にミセス・タカハラが、すっと腰掛けた。

「コーラはありますか?」と私は聞いた。

「ないんじゃないかしら」とキミは答えた。「母はソーダ類を認めてないから」

私に向かって、ミセス・タカハラが言った。「今のあなたは痩せていて、可愛いわ。お茶を飲みなさい。ソーダはだめよ。そうすれば、あなたは今の体型を維持できるから」

「じゃあ、水は?」私はお茶を恐れていた。日本ではあらゆるものが儀式化されているようで、作法を間違えたくなかったし、間違えて彼女たちを怒らせたくもなかった。私の足が貧乏揺すりを始めた。指も神経質にピクピク動いてしまう。

「俺が君に水を持ってきてあげるよ」とケンジが言って、キッチンに向かって歩いていった。彼はコップ一杯の水を持って戻ってきて、私の隣に座った。キミは母の隣の椅子に座り、私たちは二人ずつ向かい合う形になった。

みんな座ったし、今が良い頃合いかなと思い、私は紙袋からギフトボックスを取り出し、両手でミセス・タカハラの前に差し出した。「つまらないものですけど、あなたへの贈り物です」と私は言った。しまった! 紙袋に入れたまま渡すんだった!

ミセス・タカハラは両手で裸の箱を受け取ったけれど、げせない表情をしていた。「アメリカのチョコレートかしら?」

私は頷いた。ミセス・タカハラが日本語で何やらぼやき始めた。たぶん、ふん! 何よ、こんなもの! みたいな言葉でしょう。それから彼女は、その箱を椅子の後ろの床の上に置いた。あらら、もう忘れられた過去の産物になっちゃった。「あなた、そんな恰好でディナーに行ってきたの?」とミセス・タカハラが私に聞いた。私は自分が着ている真新しいジーンズとブラウスを見下ろした。―これだって、私のママがレストランでウェイトレスをしていた時の、一週間分の給料よりもお金がかかってるわ。

「はい?」と私は言った。

ミセス・タカハラがケンジに言った。「あなた、ディスティニー・クラブにそんな服装で入ることを許したの? もっと服装に気を付けなさい。ディナーに自分の...」どうやら彼女は、「」という言葉をどうしても使う気にならないらしい。「お客さんをこんな格好でディナーに連れて行っちゃだめじゃない」

それからケンジとミセス・タカハラは、日本語で話し始めた。その間、ケンジはずっとイライラしている様子だった。会話の内容は理解できなかったけれど、「ハーフ」と「外人」という言葉は、すでに耳に馴染んできたのか、はっきりと聞こえてきた。

きっとケンジの妹さんを味方に引き込んだ方が、私にとって得策ね。私は彼女に言った。「あなたの髪の毛、私が今までに見た中で一番さらさらしてる感じ。何か特別なシャンプーを使ってるの?」

キミは言った。「特別なシャンプーは使ってないわ。大学に入学した年からずっと、日本式のヘアートリートメントを受けてるのよ。あなたより何歳か年上の頃から始めたことになるわね。どう? もしあなたも受けてみるなら、予約してあげるわ」

日本式のヘアートリートメントとはどんなものなのか、想像もつかなかったけれど、私は、「やってみたいわ! ありがとう!」と、なるべく礼儀正しく言った。

「あなたの髪はワイルドね」とミセス・タカハラが私に言った。「手直しが必要ね」

まったくもう! このレディーは何でもずけずけと言ってきて、礼儀ってものを知らないの?

ケンジが部屋を見回してから、キミに言った。「母さんはお茶と一緒にウィスキーを飲みたいんじゃない?」それから彼は、ちょっと微笑んで私に目配せした。ビヨンセ好きの私はピンときた。ビヨンセの『Daddy Lessons』の歌詞をもじった冗談だ! 一瞬高まりかけた私の心拍数がすっと鎮まり、私の口元から自然と笑みがこぼれる。

「ウィスキーはだめよ!」とミセス・タカハラがケンジに言って、それから、彼らは再び日本語で、口げんかを始めたようだった。

丁寧な口調で、キミが私に聞いた。「ICSでの初日はどうだった?」

「楽しかったわ。キャンパスが素晴らしいの」

キミは言った。「高等部の学部長はクロエ・レーラーでしょ? 私はハーバードの1年生の時から、クロエを知ってるのよ。私がケンジと彼女の間に入って、それであなたの入学がすぐに認められて、ケンジがあなたを呼び寄せたってわけ」

そういうことだったのか。私にとってはあまりに突然で、衝撃的な展開だったけど、マサおじさんが私を迎えに来るまでには、私の知らないところで、たくさんの交渉や根回しをしてくれていたってことね。そっか。ママが刑務所に入って、私が里親の家に行ってからずっと、たくさんの人が私にとって、より良い解決策は何なのかって考えて、行動してくれていたのか。私は色々なことに気づき始めた。私の両親が同じ部屋で一緒に過ごすことは、おそらく今後もないのでしょうけど、二人が別々の場所で私のことを思って、こんなに素敵な新しい人生を用意してくれたなんて。

「ありがとう」と私は、心から感謝を込めてキミに言った。

「朝の学校までの相乗りはどうだった?」キミが相乗りのことまで気にかけているとは思わなかった。というか彼女は、ケンジと母親の日本語の口喧嘩みたいな会話から、私の気を逸らそうとしているようでもあった。

「まさかベントレーに乗って通学するなんて、思ってもみなかったわ!」

「本当に?」キミが笑った。

ミセス・タカハラは、一通り息子を𠮟り終えたのか、今度は私の方に向き直った。「あなたの肌はどうして浅黒いの?」

私の肌は浅黒くないわ。ユリみたいに真っ白ってわけでもないけど、1から10の色合いで表すと、1が最も明るい白で、10が最も暗い茶色だとすると、私は白に近い方の、3といったところよ。「私のお母さんの父親の家系に、アメリカ先住民と、アフリカ系アメリカ人の先祖がいるから」と私は説明した。

ミセス・タカハラは不快感を隠そうともせず、ショックを受けたように言った。「黒人のようなものってことかしら?」

「母さん!」キミとケンジがミセス・タカハラに向かって大声を張り上げたが、彼女は動じる素振りを見せない。

ミセス・タカハラは言った。「六本木のナイジェリア人たちを知ってますか? 彼らは素行が悪いし、誠実ではないわ」

ケンジが私に説明してくれた。「六本木はここから近いんだけど、夜の繫華街なんだよ」それから彼は母親の方を向き、英語で言った。「六本木で怪しげなナイトクラブを経営してるナイジェリア人たちは、エルと何の関係もない。それに、ナイジェリア人だからといって、全員が六本木でクラブを運営してるわけでもないだろ」

彼が母親に向かって正論をぶつけてくれたことに感謝する一方で、私は彼女からのメッセージを受け止めた。彼女には黒人や外人に対する固定観念があり、自分たちとは違うと思っているんだ。だからママが妊娠した時、彼女はお金だけ送って、ケンジを日本に連れ戻したんだ。―孫娘の私が純粋な日本人ではないから。だけど皮肉なものね、おばあちゃん。遅ればせながら、私はこうしてあなたの元へやって来てしまいました!

私は捨て台詞を吐いて、ここを立ち去りたかった。でもケンジを見ると、私に向かって、我慢してくれ、と訴えかけるような表情をしていたから、私は深呼吸をして気持ちを抑えた。実際のところ、私はこの鉄の女に礼を尽くす義理はないんだけど、ケンジが明らかに私を守ろうとしてくれているから、彼の顔を立てて、なるべく行儀よくしていることにした。

私は言った。「せっかく日本に来たことだし、今から日本語を勉強したいと思ってるの」

ミセス・タカハラが、きっとした目で私を睨み付けた。「無理ね。言葉を学ぶって並大抵のことではないし、あなたはここにどれくらい長くいるのか、まだわからないのよ」

心臓がドクドクと高鳴った。凄まじい勢いで鼓動してるから、胸が内側から破裂するんじゃないかと怖くなるくらいだった。私は父親のことをもっと知りたかった。ここに住んで、ICSに通いたかった。そうすれば、素敵な人生になる予感がする。ただ、この意地悪なレディーに媚びを売って、好かれるように振る舞うだけの価値があるかしら? 私はもうすでに彼女が好きではなかった。

ケンジが私の顔色をうかがっている。私の気持ちをくみ取ろうとしている様子だ。やっぱり彼には基本的に父親の本能があるんだわ。彼はミセス・タカハラに向かって英語で言った。「エルが私たちの言葉を学びたいと言ってるんだから、尊重すべきだし、それは日本人としても喜ばしいことだろ」

柔らかい物言いで、キミが私に言った。「今のところ、日本語は学ばなくても大丈夫じゃないかしら。お母様の言う通り、言語を学ぶのは大変よ。タック・ラグゼとICSを往復してる限り、英語を話す外国人がたくさんいるから、英語だけで事足りるわ。あなたの学校はね、日本語を学ばなくても十分大変よ、課題もたくさん出るし」

そうして今、ミセス・タカハラはケンジとキミを二人まとめて、日本語で叱っている。たぶん𠮟っているんだと思う。

突然、私はこれまで以上に彼らの言語を学びたい衝動に駆られた。私が日本語を理解できれば、彼らは、私がここにいないみたいに、私の存在を無視して会話できなくなる。そうすれば、私は人種差別主義者の祖母に向かって、彼女の国の言葉でビシッと言い返せる。



チャプター 15


ようやく祖母のアパートメントを後にして、開口一番ケンジが言ってくれた言葉に、私は救われた気がした。殺伐としていた私の心が、まさに求めていた言葉だったのだ。「あんな時間を過ごした後は、チョコレートを食べるに限るな」

ディスティニー・クラブのパティスリーは、〈Delights〉(喜び)という名のお店だった。〈Delights〉は午後7時が閉店時間らしく、すでに閉まっていたが、ケンジが特権付きのキーカードをかざすと、閉店後にもかかわらず、私たちはすんなりとスイーツ・ショップに入店できた。〈Delights〉の店内は、ピンクと白の縞模様の壁紙に囲まれ、天井にもピンクと白のランタンがいくつも飾られ、棚やショーケースまでピンクと白だった。(それにしても、ディスティニークラブのお店の名前って、なんでこうも陳腐な名前ばかりなの? 私でも、もっとひねった名前を付けられるわ。まあ、これはケンジには言わないでおくけど。)ガラス張りのショーケースには、高級そうなティーケーキや、それぞれ個性溢れるチョコレートがずらりと並べられ、壁の棚にはぎっしりと、色とりどりの包装紙に包まれ、リボンが付いたお菓子の箱が置かれていた。お店は全体的に、『チャーリーとチョコレート工場』をモチーフにした若い女の子のベッドルームといった印象で、「かわいい」を過剰摂取ぎみにとことん詰め込んでいた。

おそらく今後も、私はあの祖母を「家族」だとは思えないでしょうが、こうしてスイーツ天国へ連れてきてくれるこの男性はどうかしら? 彼は忙しいスケジュールに縛られているとはいえ、私の父親だと見なせるだけのポテンシャルは十分にありそうね。ケンジは明らかに〈Delights〉の常連客のようで、手慣れた手つきでガラスケースのロックを解除して、ショーケースを開けると、トングを使って、チョコレートを一つずつ取り出し始めた。ガラスケースの横の引き出しには磁器製のプレートが入っていて、彼はそのプレートの上にチョコレートを一つずつ綺麗に並べていった。

私は言った。「あなたって甘い歯をしてるでしょ?」彼は面食らった様子で、自分の前歯を触り出した。「英語では甘党のことをそう表現するのよ。その手慣れた感じからすると、あなたは甘いものが大好きでしょ?」

彼が素敵に微笑んでくれたから、私は彼が感心することを言えたんだ、と思えた。「たしかに! 俺は甘党だな!」

「私も甘党よ。私のママは甘いものが好きじゃないから、きっとこの甘い歯は、あなた譲りね」

この特質を私が彼から受け継いだと聞いて、彼は喜んでいるように見えた。「〈Delights〉がオープンしてから体重が増えちゃってな。夜中にここに忍び込んでは、むさぼるように食ってるから」なかなか興味深いじゃない。ケンジのことをもっと知るには、彼のスケジュール表を眺めていてもだめね。スケジュールが終わった後のデザート事情を知る方が、彼の核心に近づけるわ。私はすでに彼がもっと好きになっていた。

「あなたは太ってるようには見えないわ」

「〈Delights〉がオープンする前、今から1年くらい前は、もっとスリムなズボンを穿いていたんだ」そう言うと彼は、プレートの中央に置いたミルクチョコレートっぽいケーキを指差した。「最初にこれを食べてみるといい。俺のお気に入り、プラリネのムースだ」

その聞き慣れない「プラリネ」と「ムース」という言葉には、Delights(喜び)をもたらしてくれそうな響きはなかったけれど、ケンジがそう言うのなら、と私はそれを食べてみた。すると、確かに彼のアドバイスは的を射ていた。ナッツっぽい旨味と、クリーミーで繊細な美味しさが同時に口の中に広がった。「ワオ! すごい!」

「ワックスの味はしないだろ」とケンジが言った。

「アメリカのチョコレートだって、ワックスの味なんかしないわ」と私は反論した。私はもう一つ別のチョコレートを口の中に入れた。ピスタチオが上に散りばめられ、中身はぎっしりと詰まった食感だった。その目を見張る味わいには、食べてはいけないものを食べた背徳感さえある。ケンジが祖母の部屋に行く前に言っていたことが、なんとなく腑に落ちてきた。これらのチョコレートは、次のレベルの美味しさなのね。ペントハウスに住む人たちの次元、といってもいいかもしれない。(それでも私は、〈ハーシー〉のチョコレートバーへの思いを断ち切ることはできない。特にアーモンド入りは格別。あれがUSAの味なのよ!)

「カプチーノはどう?」とケンジが聞いてきた。

私はカプチーノ味のチョコレートがあるのかと思った。「どのチョコ?」

彼は首を横に振った。「いや、カプチーノを飲むか?って聞いたんだよ。実は俺は深夜のバリスタ、コーヒー淹れの名手なんだ。内緒だけどな」彼が私に向かって微笑んだ。「くれぐれも従業員たちには、俺がコーヒーマシンの使い方を知ってるって言わないでくれよ。彼らはスケジュールの空き時間に次々と俺のところにやって来ては、『コーヒーを淹れましょうか?』ってしつこく言ってくるんだ」

「みんな親切ね」

「まあ親切ではあるんだが、俺が自分で機械をいじくると、また壊すんじゃないかって彼らは心配してるんだよ」

「壊したの?」

「一回だけな。今はエキスパートだぞ」

私は彼の腕前をテストすることにした。「じゃあ、カフェイン抜きの豆乳カプチーノをお願い。ドライでね」

「泡たっぷりにするか? 蒸気処理しないで生のミルクを使うっていう手もあるぞ。あまり乳製品を好まないようなら、アーモンドミルクっていう選択肢もある」

それも悪くないわね、高層ビルの王様。「でも豆乳ミルクでいいわ、ありがとう。あなたは何を飲むの?」

彼はエスプレッソマシンの方へ歩いて行くと、機械を操作して下準備をしてから、コーヒー豆を挽く作業に取りかかった。「俺は泡たっぷりの全乳カプチーノにするよ」

私は彼が二人分のカプチーノを淹れているところを観察した。彼は正真正銘のプロだった。迷いなくミルクを蒸気処理すると、一滴もこぼすことなく、薄い金属の棒を使ってマグカップの中に落とし込んだ。そして、泡の上部にコーヒー色のハートを描いてくれた。出来上がったカプチーノが私の前にすっと差し出される。私は一口飲んでみた。完璧な温度だった。ほどよい熱さで、熱すぎない。泡がいっぱいに膨れ上がっているけれど、ふんわりと舌に溶け、泡が邪魔にならない。私は彼に言った。「これならスターバックスで働けるかもよ、応募してみたら?」

「君は面白いな」

あなたも面白いわ」と言って、私はもう一口カプチーノを口に含んだ。ケンジはまだ父親になるコツはつかめていないみたいだけど、コーヒーを淹れるコツは熟知してるし、スイーツの王様でもあるし、私からすると素晴らしいの一言で、文句のつけようがないわね。と思ったら、一つだけあった。「気づいてるでしょうけど、あなたのお母さんって、人種差別主義者よね?」

彼はため息をついた。「それは申し訳ない。予め君に言っておくべきだったな。孫を前にすれば、彼女ももう少し礼儀正しく振る舞ってくれるかと期待したんだが。彼女は日本の北の方の小さな町で育ったんだ。40年以上前に大学に進学するために上京したんだけど、たぶんそれまでは、外国人なんて見たこともなかったんだろうな。ただ、俺は彼女が本当に人種差別主義者だとは思っていない。単に居心地が悪いだけなんだよ、自分とは違う人間と一緒にいるのが」

「違うって、日本人ではないってこと?」

「そう」

「彼女はスリザリンみたいね、純血主義者っていうか」

私の喩えにぴんと来るほど、彼がハリーポッターに詳しいとは期待していなかったんだけど、完全に通じたみたい。彼は言った。「スリザリンは必ずしも悪者ってわけじゃない。彼らは強い信念に突き動かされているんだ。自分たちの信念を固く信じているんだよ。彼女もそうだ。彼女のサポートがなかったら、親父はこのビジネスを立ち上げることができなかっただろうな。君に頼みがあるんだ」え、何でも言って、と私は思った。本心から、私はこの人に何かしてあげたかった。昨日会ったばかりだけど、私の注文通りにカプチーノを作ってくれて、ハートまで描いてくれて、彼の母親がスリザリンだって言ったら、完璧に話が通じたんですもの。私はうなずいた。「もう少し彼女を長い目で見てくれないか。すぐに彼女を、ああいう人だって決めつけないでほしいんだ」

「彼女がすぐに私を、こういう人だって決めつけたみたいに?」

「彼女は何十年もそうしてきたから、自分のやり方に慣れ切っているんだ。君は若くて、心も外に開いてる、そうだろ? そんな君と過ごしていれば、彼女の心もほぐれて、変わっていくと思うんだ。君と一緒にいることも、居心地よく感じるようになっていく。俺はそう信じてる」

「たぶん、あなたの考えは間違ってるわ」

「チョコレートに関する俺の考えは間違ってたか?」

さすが頭が切れるわね。確かにチョコレートについても間違ってる。


・・・


デザートでお口直しをしたら、祖母の家での嫌な気分もすっかり晴れて、ケンジと私は彼の―私の―アパートメントに戻った。すると彼が、「俺は仕事に戻らなきゃ」と言い出した。は? もう午後10時よ! この男は眠らないつもり? 「一人で大丈夫か?」と彼が聞いてきた。こういう親らしい質問が、ようやく彼の頭にも浮かぶようになったらしい。

本当は、彼と一緒に寝る前の時間を過ごしたかった。肩を寄せ合うようにして、テレビを見るの。きっと彼は『ゲーム・オブ・スローンズ』を見たいって言い出すわ。あのドラマは中毒性があるからね。でも私は彼に『ギルモア・ガールズ』を薦めて、一緒に見るの。一度見れば、きっと彼もあのドラマのとりこになるはず。

だけど、私は14歳の時から自分のことは自分でやってきたんだし、今さら甘えられる? しかも、一人で過ごすといっても、今までとはわけが違うのよ。何か必要なものがあれば、いつでもルームサービスを呼べるんだし、広々としたペントハウスで過ごすのは、里親の家の狭い寝室で一人縮こまっていた時より、はるかにましだわ。あるいは、もっと時間を遡って、ママがリビングルームのソファで野獣に溺れている間、寝室で五感をふさぐようにして怯えていた時とは、全然違うわ。「私は平気よ、ありがとう」と私は言った。「でもこんな夜中に仕事って、何するの?」

「デスティニークラブのプライベート・ゲームパーラーに行って、麻雀テーブルを一つずつ回って、お客さんに挨拶するんだよ。大金を落としてくれるお客さんと交流することは、これからのビジネスにも重要なんだ。彼らにとっても、ボスと、つまり俺と仲良くするのは気分がいいものだから。特に、彼らが大金をすってしまった夜にはな!」

「ディスティニークラブって、カジノもあるの?」その情報は初めて聞いた。エミコがこの建物内を案内してくれた時にも、そんな言葉は出なかった。私のママが好きな映画『グッドフェローズ』を思い出した。ママと一緒に何度も見たから、台詞まで覚えている。「これでギャングの仲間入りだな―」

「エミコが言っていたが、君は猫が欲しいのか?」とケンジが私の思考に割り込むように言った。「なんで猫なんだ?」

忘れていたけど、そういえば、そんなことをエミコに言ったわね。私が東京でも猫を飼いたいって言ったら、彼女は私をたしなめるように、タック・ラグゼでペットを飼うのは禁止されてるのよ、と言ったのだ。というか、そんな雑談で出た発言まで、彼女はわざわざケンジに報告してるなんてびっくりね。もしかして、私が発言した一字一句をすべて書き留めて、レポートにして提出してるとか? ケンジがカジノからペットに話題を変えようとしているのは、私も気付いていた。でも、ここでもう一度カジノの話を振るより、ペットで押した方が得策だと感じた。ケンジから猫の話を言い出したということは、ペット禁止のスタンスを柔軟に曲げてくれるかもしれない。私は会話の流れに乗って、言った。「子供の頃に猫を飼ってたのよ。すごく可愛くて、大好きだったわ。オスの猫だったんだけど、彼が私の一番の親友だったの」

「何て名前だったんだ?」

「ハッフルパフ」

「君は本当にハリー・ポッターが好きなんだな」私はうなずいた。ケンジは片手を握り締めると、それを彼の胸に当てた。心からの同志の証ね。「俺もなんだよ。〈組み分け帽子のハリーポッタークイズ〉をやったことあるか?」

え!? この人、まじ!「あるわ。あなたも?

「オンラインで見かけるたびにやってるよ」え、私も!「何度やっても俺は、レイブンクローに入寮することになるけどな」

「私もいつも同じ答えよ! 私はハッフルパフ」

「そっか。じゃあ、君はとても忠実なんだな」

「そして、あなたは賢いってことね」

「レイブンクローとハッフルパフはすごく相性がいいんだよな。ってことを知ってるくらいには俺は賢いぞ」

私は新しいスマホを取り出して、私のメールフォルダーにアクセスし、保存してあった写真を彼に見せた。私が8歳の時、私の膝の上で眠っているハッフルちゃんの写真。「この時のハッフルパフは、まだ1歳くらい。最高に可愛いでしょ」

「誰がこの写真を撮ったんだ?」ケンジの英語はとても上手だけど、マサおじさんと同じように、節々に変な音が挟み込まれている。

私は懸命に笑いをこらえながら、言った。「ママが撮ったのよ」

「いい写真だ。君はとても可愛い女の子だったんだな」彼は私が指差す猫じゃなくて、違う部分に焦点を合わせて、写真を見ている様子だ。彼の顔に悲しげな色が浮かんだ。「実はマサが君の写真を送ってくれていたんだ。それを見るたびに、俺は幸せな気持ちになったよ」

「そうなんだ」それしか言葉が出てこなかった。いわば、彼が私の人生の中に入ってきたかった、という告白だったけれど、写真を眺めているだけで実際には入ってこなかったわけだし、私は返す言葉が見つからない。マサおじさんが私の写真を、見ず知らずのこの人に送っていたと知って、私はくすぐったいような変な気持ちになった。ケンジは前にも、写真の私に手を伸ばす感じで、本気で私に会いたいと思ったことがあるのかしら? でも実際には一度も会いに来なかったわけだから、私の写真を見て、自分の罪悪感を慰めていたのね。こんな俺は会わない方がこの子のためだ、とか、わかった風なことを思いながら。「じゃあ、猫を飼ってもいい?」

「だめだ」

まだ娘の気持ちがわかってないみたいね。

今はまだ。



チャプター 16


東京での最初の夜は長旅で疲れきっていたので、ころっと眠り込んでしまった。でも二日目の今夜は、部屋に一人置き去りにされてしまったとはいえ、体も疲れを感じてはいるけれど、この二日で経験した様々な新しい出来事が私の内側でぐるぐると渦を巻いているようで、神経が高ぶって眠れそうもない。ICS! エックス・ブラッツ! 高原家! 眠れるわけないわ。私はリビングに行って、窓から東京の高層ビル群や、夜空を照らすビルボードの数々を眺めた。街のエネルギーがふわっと風に乗り、私が一人寂しく過ごす49階の止まり木まで立ち昇ってくるのを感じた。誰かと一緒にいたい。誰かがいれば楽しく過ごせるのに。

東京は午後11時だった。ということは、メリーランド州は今、金曜日の午前10時。そうだ! この時間レジーは、昼食前の自習時間で図書室か、コンピューター室にいるはず。彼が学校のコンピューターで私からのメッセージをチェックしてくれれば、Gチャットでやり取りできるわ。今ビデオチャットできる? あなたはきっと信じないでしょうけど、見せたいものがあるの!

彼からの返事を待つ間、何はともあれやってみたかった事をした。つまりルームサービスのことなんだけど、私は壁に付いてる受話器を上げると、0をダイヤルした。男性の声が応答し、まず日本語で、それから英語で話してくれた。「こんばんは。どんなご用でしょうか?」

「コンシェルジュ・デスクのデーブさんですか?」

「そうですよ。何をお持ちしますか?」

「日本にもアイスクリーム・サンデーはあるの?」

「もちろんありますよ。生け花カフェから、あなたの部屋に届けさせます。それでいいですか?」

「はい、お願いします!」

「何味にしますか?」

おまかせ!」と私は日本語で言った。「あなたが選んで」

彼が受話器の向こうで笑うのが聞こえた。それから彼は言った。「10分でお持ちします」このデーブという男は、異国の地に降り立った魔法使いかしら。

「ありがとう!」

私は寝室に入った。窓にカーテンが掛かっていない。これでは、どこかのビルからこの部屋の中が丸見えじゃない、と思ったところで、窓際のボタンが目に入り、押してみた。すると、天井から自動でブラインドが降りてきて、私はびっくりして、飛び退いてしまった。凄い仕掛けだわ! 私はさらに目が覚めてしまう。

私のスマホが着信音を発して、レジーからのビデオ通話を知らせた。私は通話ボタンを押す。「オーマイガー! レジー・コールマン!

レジーの顔が私のスマホ画面に映し出された。私たちはGチャットでメッセージのやり取りはしていたけれど、私が里親の家に行ってから、一度も彼の顔を見ていなかったから、久しぶりの対面だ。彼の上唇の上にはうっすらと口ひげが生えていて、若者から大人の男への階段をまた一段登った感が顔から滲み出ている。髪はレイザーカット風に短く切り揃えられていて、彼の深みのある茶色の瞳が、その髪型により、いっそう引き立っている。彼の普段は薄い茶色の肌は、最近日光をよく浴びているのか、前より濃い茶色に見えた。彼がたっぷりと水泳の時間を確保できている証ならいいな、と思った。泳いでいる時の彼が、一番幸せそうだから。

エル・ゾエルナー!」背景から、彼が学校のコンピューター室にいることがわかる。「いったいどんなクレイジーなことが起こって、日本に行くことになったんだ?」

「本当にクレイジーな話よね。私の担当の社会福祉士さんがやって来て、それから、マサおじさんと一緒に日本へ、―」

「その人って、俺たちがまだ子供で、同じチームで泳いでいた頃、たまにプールに来ていた人?」

「そう! その彼が、私の実の父親のいとこだったのよ。で、彼に勧められて、私は父親と暮らすことにしたの。ほら、ママはまだ当分の間、一緒に暮らせないから」

「君の言いたいことはわかるよ」

彼は私より2歳年上で、あと数ヶ月後には18歳の誕生日を迎える。それはメリーランド州にいた頃の私より大変な状況だともいえる。ほとんどの10代の若者にとって、18歳になるということは、大きな意味を持つから。法的に自由に自分で何でも決められるばかりでなく、責任も押し付けられる。彼は、今は身寄りのない子供のための「ホーム」で暮らしているけれど、18歳になったらそこを出て、独り立ちしなければならない。心の準備ができていようがいまいが、上手くやっていけるだけの器量があろうとなかろうと、ぽいっと世の中に放り出されてしまう。

「あなたもこっちに来て、東京で暮らしましょうよ」と私は提案した。

「は? 俺なんかがのこのこ行ったら、君の新しい父親は、さぞかし喜ぶだろうな。それより、カメラをぐるっと回して、君がどんなところに住んでるのか見せてくれよ」

「これを見て」と私は言って、窓際のボタンをもう一度押した。ブラインドが自動で上がるのをレジーに見せる。東京の摩天楼が徐々に、二人の目の前に広がっていく。

「おぉ、すげぇな。素晴らしい。ずっと眺めていたいけど、先生がもうすぐ戻ってくるんだ。この通話ができるのも、あと2、3分かな。他に何を手に入れた?」

次に向かうべき場所はちゃんと頭に浮かんでいた。「見て、私専用のバスルームよ!」と私は宣言して、スマホのカメラをバスルームのドアに向け、ドア横のスイッチに軽く触れて明かりをつけた。「私の部屋の中なのよ!

「マジかよ」

「マジなのよ!」私はスマホを持ったまま、バスルームに入っていった。まさか私の寝室に、こんなに贅沢な個人的空間を持てるなんて、生まれてから一度だって、夢にさえ思ったこともなかったわ。バスルームは、アリスが不思議の国に落ちていったウサギの穴みたいに思えたけれど、これはサンタクロースがくれた贈り物で、幻想世界には繋がっていない穴なんだから。シャワー室のガラス扉を開けると、小さな部屋がすっぽりと入りそうなくらい広い空間になっている。「水圧も完璧だし、いつでも好きな時に温かいシャワーを浴びられるの」

「羨まし過ぎるな」

私はシャワー室からバスルームの脱衣室に戻ると、大理石でできた洗面台をレジーに見せた。ピカピカの鏡が壁一面を覆っている。収納棚を開けて、中も見せた。タオルがぎっしりと詰まっている。その柔らかくて、贅沢な肌触りは、私がくすねてきたあのタオル以上だった。ダレス国際空港のファーストクラス・ラウンジの浴室にあったタオルが、あれだけ感動したっていうのに、今では二流のタオルに思えてしまう。別のクローゼットの引き戸も開けた。そこにあったのは...

乾燥機付き洗濯機?」とレジーが驚きの声を上げた。

そうよぉぉぉぉ!

男子は普通、洗濯機なんかにそんなに興奮しない。それくらい私も知ってる。ただ、私たちみたいに里親の家とか施設で生き延びてきた子供にとっては、洗濯は切実な問題なのだ。自分の服をいつ洗えるのか、そもそも洗うことが叶うのか、そんなことばかりを気にして生きてきたのだから。「レジー、ここを開けると、最大の見どころよ」

「まさかトイレは見せようっていうんじゃないだろうな」

「おお、その通り! 凄いんだから、ちゃんと見ててね」

私はまだ2日しか東京で暮らしていないけど、すでに日本のトイレのとりこになっていた。玄関ホールのように広々としたトイレの個室に入っていく。壁には操作パネルがあって、「TOTO」というロゴが刻まれ、ボタンがいくつもついている。ボタンにはそれぞれの機能を表すシンボルマークと、日本語の文字表示もある。私は最新のゲーム機を実演紹介するナビゲーターになったつもりで、操作パネルのボタンを解説していった。「このボタンを押すとね、お尻に水がプシューッと噴射されるのよ! ここを押すと、鳥のさえずりが聞こえるの。森林の中で癒されてるような、心地よい気分になるわ。あなたも一度経験してみるとわかるわ。このボタンを押すと、便座がお尻をじんわりと温めてくれる! さて、これは何のボタンでしょう?」

「ロボットが代わりにおしっこしてくれるとか? 薬物検査に引っ掛からないように」

「ほぉ、それもいいわね! でも残念、芳香剤が個室全体に噴霧されるのよ! ほら、うっとりするような、泡風呂の中みたいな香りがするでしょ、って匂いまでは伝わらないか」

私はスマホの向きを変えて、自分の顔が映るようにした。レジーの顔も見える。彼が呆れた顔で首を横に振りながら、「トイレ情報多すぎ」と言った。

「絶対、あなたも一度体験すれば、このトイレの素晴らしさがわかるわ」

「死ぬまでにやりたいことのリストに加えとくよ。1:歌手のリアーナと結婚。2:日本のトイレを体験」

玄関のインターフォンが鳴った。思わず私は、キャーと歓声を上げてしまう。「来たわ。見てて」

私はレジーも玄関の様子が見えるように、スマホのカメラをアウト側に切り替えてから、玄関に向かった。制服を着たウェイターが私に向かってお辞儀した。デーブではなかった。銀色のドーム型ボウルが上にのったカートを押して、玄関の中に入ってくる。「どちらまで運びましょうか?」と彼が私に聞いてきた。

「俺のお腹の中まで頼むよ!」とレジーがスマホ越しに叫んだ。

「ダイニングテーブルまでお願いします」と私はウェイターに言った。

彼は銀色のドーム型ボウルをダイニングテーブルの上に置くと、お辞儀をして、去っていった。

私はレジーに見えるようにスマホをかざしながら、銀色のドーム状のふたを持ち上げた。中には、綺麗な球状のバニラアイスクリームが3つ、ガラスの器にのっていた。アイスの側面から、とろりとチョコレートソースがしたたり落ちている。さらにホイップクリーム、刻んだナッツ、マラスキーノ・チェリーがアイスの上にのっていた。

レジーが言った。「いったい君は今どこに住んでいるんだ? もしかしてバッキンガム宮殿か?」

「お父さんがホテル事業の経営者だってわかったの。東京の高層ビルに住んでるのよ。49階!」

「もう一度見せてくれ!」

私はリビングルームに走り、レジーのリクエストに応えて、東京の摩天楼を見せた。さっきよりスマホを窓に近づけて、彼がよく見えるようにする。「俺が日本の沖縄に配属されたら、必ず君に会いに行くよ」とレジーが言った。

私は再びスマホを自分の顔に向けた。「それってどういう意味?」

「親父と同じ道をたどることにしたんだ。高校の卒業証書をもらったら、すぐに入隊する。軍の採用担当の人にも会って、もう話をつけてある。誕生日を過ぎたらすぐに、基本的な訓練に参加することになってる」

私はソファにドスンと座った。それは大きな告白だった。彼が人生の大きな決断を私に知らせようとしている時に、私はくだらない日本のトイレなんか披露してしまった。

「3年生の最後まで学校に通わないってこと?」

「12月の早期卒業を認められたんだ。身寄りのない子供の特権だよ、知ってるだろ」

それを特権といえるのかどうか、私にはわからない。軍隊に入るために高校を早めに卒業しても、もしレジーがすぐにアフガニスタンとか、イラクとか、戦争状態にある恐ろしい場所に送られちゃったら、どうなるの? 私は胸のうちで静かな祈りを捧げた。どうかレジーが日本に配属されますように。日本でなくても、どこか安全な場所に。彼はもう十分に大変な人生を歩んできたでしょ。

私は自分がどれほど幸運であるかを改めて実感した。

「それは凄いね」と私は言った。レジーは今いる施設を追い出されても、ちゃんと行く先を見つけたんだ。彼は自分の手で未来をつかんだ。でも、もしレジーが戦争をするために出陣したら、恐ろしい未来が彼を待っている。

「君のお父さんはどんな人?」とレジーが聞いた。

「1ヶ月後にまた聞いてちょうだい。今はまだ彼のことほとんどわかってないの。なんか、前はアルコール依存症だったって言ってた。だから父親にはなれないって思ってたんだって。彼はちょっとお堅い人って感じね。でも優しくて、面白いわ。四六時中働いてるけど」

「彼が金持ちなら、君はちゃんと面倒を見てもらえるな。何よりそれが一番重要なことだからな。先生が戻ってきちゃったから、切るぞ」

「ここにはプールもあるのよ、レジー」

彼が画面上でにっこりと微笑んだ。「なら絶対、君に会いに行くよ。じゃあな、シンデレラ」



チャプター 17


土曜日の早朝だった。私はぐっすりと深い眠りについていたのだが、どこからともなくガタガタと、私を揺り動かして起こそうとする音が聞こえてきた。眠っている私をそんな風に揺さぶるなんて酷いわ、と思いながらも、体は反応しなかった。目を開けようとしても、まぶたは閉じたまま開かない。私は眠りと目覚めの、世界のはざまに閉じ込められてしまった。そんな素敵な夢を見ていた。私が寝ているのは、グリーンベルトの家のベッドね。ママが野獣と出会う前に住んでいた家。居心地が良くて、快適で、ハッフルちゃんが私のそばでゴロゴロと喉を鳴らしている。そこに、貨物列車がガタゴトと近づいてくる音がした。その振動で私のベッドがぐらっと揺れる。列車はどんどん近づいてきて、音もどんどん大きくなる。私の目がぱっと開いて、がばっと上半身を起こした。何なのこれ? 部屋が実際に揺れていた。夢ではなかった!

私はベッドから飛び降りた。ナイトスタンドの上でグラスが揺れ、私の飲みかけの水が中でぐるぐると渦を巻いている。クローゼットの中に隠れなくちゃ、ベッドの下の方がいいかしら? 私の頭の中もぐるぐると渦を巻いていた。すると、揺れが和らぎ、ガタガタという音もやんでいき、やがて完全に止まった。

オーマイガー! これって...

怖がっている私に追い打ちをかけるように、女性の声がどこからともなく聞こえてきた。日本語で何かを言っているようだったが、大声で話しかけてくる幽霊みたいに聞こえ、びっくりしてしまう。私はすでに地震で心臓発作を起こしそうだったというのに、この謎のレディーはどこから私に話しかけて来るの? 声の出どころを探そうと視線を上げると、天井近くの片隅にインターホンのスピーカーが見えた。彼女はひとしきり日本語で話した後で、ようやく英語に切り替えてくれた。日本人訛りが強烈な英語だったが、彼女の声は心地よかった。「まだ小さな余震が続いていますが、パニックを起こさないでください。落ち着いて、今いる場所に待機していてください。現在、メンテナンスチェックを行っています。エレベーターが復旧しましたら、改めて放送します」

地震があったらしい。どこかから女性が私に、パニックを起こさないで、と言っている。あなたは誰? きっと、天井の中の透明人間ね。きっとそうよ。

私はリビングルームに急いで行き、大きな窓から外を眺めた。道路の状況を確認する。眼下を行き交う歩行者からも、車の流れからも、慌てた素振りやパニックは見受けられない。通常通りの生活が進んでいる感じだ。窓の外の街全体が、ああ、たしかにちょっとは揺れたけど、だから何? そんなのどうってことないわ、と言っているようだった。

ケンジがリビングにやって来た。青いパジャマを着ている。彼の髪は少し乱れていた。彼がスーツ以外のものを着ているのは、なんだか違和感がある。私はピーチ・ジョンのショートパンツを穿き、タンクトップを着ていた。急にその姿が恥ずかしくなり、上に何かを羽織りたくなった。一応家族なんだから、寝る時の格好で気兼ねなく一緒に過ごしたっていいはずなのに、私たちはまだ、実質的に他人ってことね。

彼が言った。「地震はどうだった? よく揺れただろ?」

「よく揺れたってどういう意味? びっくりして怖かったけど」

「地震は初めてか?」

「だったら何なのよ」

「顔が真っ青だぞ」

「そうよ、初めてよ。なるべくなら、今回で最後にしてほしいわね」

「これから『初めて』をいっぱい経験するぞ」とケンジは言うと、リビングルームの壁にあった取っ手を引いた。中は収納棚のようになっていた。壁にクローゼットが入り込んでいるなんて、私は気づきもしなかった。「この中に緊急時の備品が入ってる。そんなに大きな地震でなければ、真っ先にやることは、すぐにテーブルの下とかに隠れて、自分の腕で頭を覆うんだ。物が落ちてきて頭に当たらないようにな」

「パニックになった心臓はどうするの? 心臓に当てる救命道具とかあるの?」

彼は笑った。「地震でパニックになる必要はない。地震なんて年がら年中あるし、大抵はそんなに大きな地震じゃない。心の準備をしておけばいいだけだ。よく眠れたか?」

「そうね、数分前まではね」

「それは何よりだ」

そこで二人とも黙り込んでしまった。パジャマ姿の二人の他人が向かい合っている空間は、妙な感じで、こそばゆい。

いたたまれなくなって、「今日の予定は?」と私は聞いた。週末だった。私は今すぐにでも天国のような浴室でシャワーを浴びたい気持ちでいっぱいだった。シャワーを浴びたら、新品の高級なお洋服を着て、ケンジ・タカハラと一緒に街を歩くの。きっと彼は楽しすぎて、私が里親の家からこっちに来たばかりだとか、私の母親が刑務所に入ってるとか、そういうことは忘れちゃうわ。私はわくわくしていた。窓の外に広がる、太陽の日差しを反射してキラキラ煌めく街が、新しいカップルみたいな私たちを受け入れようと手招きしている。早く外に出かけたい。

彼が言った。「今日は建築士とビルの視察に行くんだ。その後、いくつか会議が入ってる」

週末なのに?

「俺の仕事は週末だからって休めないんだよ。雇われてる身じゃないからな。キミが君のために、今日の夕方にヘアーアレンジの予約を取ったそうだよ。その後、また一緒にディナーを食べよう。エミコがスケジュールをメールで送ってくれるはずだ」

内心残念で仕方なかったけれど、失望感を顔に出さないようにした。「じゃあ、私は夕方まで何をしてたらいいの?」まだ宿題も出てないわ。

「イモジェン・カトウにメールしてみたらどうだ? 街を案内してくれるかもしれないぞ」


・・・


ケンジが仕事に出かけた後、私は全身の勇気をかき集めて、イモジェンにメールした。なんていうか、彼女は私に携帯の番号を教えてくれて、いつでもメッセージを送っていいよ、と言ってくれたし、それは口先だけって感じでもなかったし。

こんにちは、イモジェンさん。土曜日っていつも何してるの? それって私も一緒にできるかな? ハグとキスを込めて エルより

5分待った。返信はない。汗をかくし、緊張するし、お腹も空いてきた。とりあえず私は朝食を食べに出かけることにした。せっかく東京の街に繰り出すんだから、スマホはここに置いて行こう。スマホを持ってると冒険の邪魔になるし、イモジェンからの返事をずっと待つ感じで、チラチラ見ちゃうから。それに、もし本当に彼女から返事が来て、内容が、なんであんたなんかが私にメールしてくんのよ? 負け犬のくせに、とかだったらどうしよう...

できることなら、美味しい日本食は一休みしたかった。タック・ラグゼのシェフではない人が作ったものを食べたかった。砂糖がたっぷり入っていて、含まれている栄養素に噓偽りのない、昔ながらのアメリカンシリアルを思う存分食べたかった。まあ、それはここでは無理かもしれないわね。エックス・ブラッツの子たちはみんな、コンビニ弁当を美味しそうに食べていた。そういえば、大通り沿いにセブンイレブンを見た気がする。このハーモニータワーの下の方の階には、いろんな会社のオフィスが入っていて、大通り沿いの1階の入り口からはたくさんの人が入って来るのよね。私はそっちの表側ではなく、タック・ラグゼ用の裏口から出て、脇道を歩いていった。角を曲がってオフィスビルの入り口まで来ると、私が一人でタック・ラグゼを離れるのって、これが初めてだと気づいた。英語を話せる人に付き添ってもらわずに、私は食べ物にありつけることができるかしら?

私はセブンイレブンに入っていった。セブンイレブンはアメリカにもあるから、店内の様子はそれなりに馴染みがあった。いくつかの通路に分かれていて、棚には手間のかからない食べ物がぎっしりと詰まっている。ただ、商品のパッケージはすべて日本語だった。生鮮食品のコーナーには、細かいことにこだわり過ぎって感じもしたけど、容器の中に綺麗に詰め込まれたお弁当と、麵類が並んでいた。というか、この店ってセブンイレブンなのに、おしゃれすぎない? もしかして、これが本来のセブンイレブンのあるべき姿で、アメリカ版のセブンイレブンが、ずさんでだらしないってこと? 私は瓶に入った豆乳と、バナナを一本と、それから、使い捨ての容器に入ったシリアルっぽい食べ物を選んだ。パッケージに書かれている日本語の文字もカラフルだから、きっと砂糖たっぷりのシリアルよね。私はそれらを抱えて、レジに向かった。若い店員さんがお辞儀をして、「ハロー!」と、明るい笑顔を私に向けた。

「こんにちは!」と私は日本語で返した。

するとその店員さんは、私が日本語を話せると思ったのか、日本語で話しかけてきた。私は全力で耳を傾けたけれど、聞き取れない。たぶん、君ってかなり日本人っぽい顔してるけど、アメリカ人なんだ! とか、君ってシリアル好きなんだね! みたいなことを言ったっぽい。

私は首を横に振って、申し訳なさそうな顔をしながら、「ノージャパニーズ」と言った。

その店員さんも首を横に振って、温かい笑顔で言った。「僕も英語はだめなんだ。ハローと、サンキューと、バスルームしか知らない」そう言いながら彼は、店の奥のレストルームっぽいドアを指差している。お風呂は付いてなさそうだけど。

彼は私が持ってきた商品に、ピッピッとバーコードを当てていった。私は新しいアメリカンエクスプレスカードを差し出した。いまだに、このプラスチックのカードが買い物の代金をお金の代わりに支払ってくれるとは信じられない。なぜか、彼がそれを受け取ろうとしないから、私は一瞬不安になってしまう。それから彼が、財布と同じくらいの大きさの小さなトレイを差し出してきた。そこで私は、エミコにもらったバインダーに載っていた規則を思い出した。日本で何かを買う時に、店員さんに直接お金を渡すことは失礼だと見なされるんだっけ。たしかトレイに置く必要があるのよね。私はアメックスカードをトレイに置き直した。彼は、今度はすんなりそれを手に取り、レジの機械にカードを通すと、商品を袋に入れ、ナプキンとプラスチック製のスプーンも一緒に入れ、クレジットカードをトレイに戻し、すっと差し出してきた。彼が私にお辞儀をし、私も彼にお辞儀を返す。なんだか可笑しくなってしまう。アメリカでずっと当たり前だと思ってきた小銭のやり取りをせずに、買い物をしてしまった。でもやっぱり、実際にお金を出してお釣りをもらった方が、実感が伴っていい気もする。だけど、これはこれで一つの大きな進歩よね。私は言葉も喋れない国で、右も左もよくわからない場所で、クレジットカードを使うのも人生で初めてだったけれど、ちゃんと買い物ができたのだ。

私はタック・ラグゼに戻り、55階の〈スカイガーデン〉までエレベーターで上がり、このタワーの最上階で朝食を食べることにした。エレベーターを降りると、目の前に絶景が広がり、ママにもここからの景色を見せたくなった。あなたが愛した男は、こんなに凄い宮殿を所有してるのよ! 絶対ママは感激して、泣いちゃうかもしれないわ。でもママのことは考えないようにしましょ、私がここで贅沢な暮らしをしているこの瞬間にも、ママがどこで何をしているのか、そういうことを考えだしたら、暗い気持ちになっちゃうし。〈スカイガーデン〉は緑に囲まれたガラス張りの空間で、森の中にいるような居心地だった。遊歩道もあって、歩いていると、世界中のいろんな植物が目を楽しませてくれた。小さなプラカードには、それぞれの植物の名前と説明が日本語と英語で書かれていた。天井もガラス張りになっていて、55階のフロアがまるで空に浮かんでいるかのように感じ、手を伸ばせば、ガラスを通り越して雲をつかめるんじゃないかと思うほど、空が近くにあった。

〈スカイガーデン〉の奥の方まで歩いて行くと、小さなテーブルがいくつか置かれていて、その一つにアケミが座っていた。数学の教科書を広げて勉強している。彼女は上品で露出の少ない白のワンピースを着ていた。長い袖にはフリルが付き、膝丈のスカートまでレース編みになっている。視線をさらに落とすと、靴はつや感のある黒のメアリージェーンで、床には学校指定のリュックサックが置かれていた。リュックには、「ICS-東京」というロゴマークだけでなく、パステルカラーの色とりどりのリボンや、レースのフリルがあしらわれている。もう一人、アケミの隣には、30代前半くらいの女性も座っていた。彼女は長身のすらっとした美女で、その美貌はこちらが身構えてしまうようでもあり、彼女の黒い目が発する鋭い眼光に、私は体を撃ち抜かれたような感覚に襲われた。

アケミが言った。「おはよう、エル」彼女は私を見ても、別段感激したそぶりを見せなかった。まあ、大げさに反応するアメリカ人の陽気さに私が慣れ切っているから、味気なく感じただけかもしれないけど。

「ハイ!」と私は返した。

アケミが言った。「こちらは私のお母さんよ」その女性が私に頭を下げてきたから、私も同じように頭を下げた。

「初めまして、ミセス・キノシタ」と私は言った。

ミセス・キノシタは何も言わなかった。「彼女は英語が話せないのよ」とアケミが説明してくれた。

アケミのママはニコリともせず、空いている椅子に手を伸ばして、私に座るように促した。私がそこに腰を下ろすと、アケミは母親に日本語で何かを言っていた。するとミセス・キノシタは立ち上がり、私たちを残して行ってしまった。

アケミが言った。「彼女は泳ぎに行ったわ」〈スカイガーデン〉に隣接するエリアにプールがあるのは私も知っていた。本格的にラップタイムを計って練習するには小さすぎるプールだけど、もしイモジェン・カトウから返事が来ないようなら、午後はヘアーアレンジの時間まで、私も泳ごうと思ってる。私ったら、いったい何を期待していたんだろう? イモジェンが休日に私とつるんで過ごすわけないじゃない。初日に校内を案内してくれたのは、学部長先生に言いつけられたから、仕方なくだったのね。アケミが付け加えた。「それから私の母親は、ミセス・キノシタじゃないわ。彼女は英語が理解できないから、あなたが間違った名前で呼んでも、問題はないけど」

「え、じゃあ、彼女は?」私は混乱して聞いた。

「ワタナベさん。本当のミセス・キノシタは大阪に住んでる。私の父親の正妻と一緒に、女同士で暮らしてる」アケミは何でもないことのように、込み入った事情を私に伝えた。「彼女はすごく年を取ってるから」

「そうなんだ! 彼女はあなたのこと知ってるの?」

「うん。そういうわけで、私たちは東京に住んでるの」

なんだか、私の家族は複雑なんだと思い込んでいたけど、世界って広いのね。



チャプター 18


イモジェンから返信が来ていた!

土曜日はいつも空手を習ってるんだけど、今日に限ってトレーナーがインフルエンザで休みなのよ。彼はつらそうだったけど、あなたにはラッキーだったわね。一緒に銀座に行きましょ!

イモジェンと私はタック・ラグゼの36階のロビーで待ち合わせた。彼女はヴィンテージなのか、擦れたデニムジーンズを穿き、Tシャツもかなり着込んでいるのか擦り切れ気味で、胸のところに「My Daughter Goes to Wellesley(私の娘はウェルズリー大学に通っている)」とプリントされている。彼女はTシャツの上にバイク用のレザージャケットを羽織っていて、ジャケットの両そでの部分には、片方にシャル、もう片方にはカトウの文字がグラフィティーアートっぽい字体で刺繡されている。顔を見ると、ラメ入りの鮮やかな紫色のアイシャドウが両目を縁どり、黒の口紅を塗っている。なんだか彼女の顔が、とてもスタイリッシュな傷み方をした果物みたいに見えた。彼女は〈生け花カフェ〉からの景色を見たがった。私は彼女が今ここにいることが信じられなかった。だって彼女には何の得るものもないのに、彼女が望んでここまで来てくれたんですもの。この世間知らずの私に会うためだけによ。私なんて東京に来るまで、an expat(海外居住者)がどんな人を指す言葉なのかさえ知らなかったんだから。

「ここの〈ディスティニークラブ〉だったら、素敵なパーティーが開けるわね」とイモジェンが言った。

「そうね」私はまだ、人生で一度もパーティーを開いたことがなかった。パーティーを主催するにはどうしたらいいんだろう? 見当もつかないわ。っていうか、ここでパーティーなんて、OKが出るかしら? 「それで、どこへ行きましょうか?」

「まずランチを食べましょ。お腹が空いてたら何も始まらないわ。PASMOカードは持った?」

「ちゃんと持ったわ」

「東京の地下鉄は? まだ乗ってない?」

「初めて」

「この辺りを回るなら、地下鉄が断然速いし便利よ。エックス・ブラッツの他の子たちは『地下鉄なんか』って言って使わないけど、耳を貸しちゃだめ。タクシーとかUberを使うのは邪道だし、体もなまって、精神の鍛錬にもならないわ」私にだけ、そんな本音っぽいことを言ってくれて、私は感激のあまり死ぬかと思った。それに、私もエックス・ブラッツのメンバーに入ってるみたいだし! 他の子たちは面倒くさがりで、精神がなってないらしいけど。

イモジェンにナビゲートされて、タック・ラグゼから数ブロックを歩いた。それから地下鉄の駅を目指して階段を下りていった。地下の通路は、果てしなく続くんじゃないかと思うくらい長かった。(しかも、他にも果てしなく続く通路が何本も枝分かれして繋がっている。)通路の両脇には、コンビニ、新聞とか雑誌が立て掛けてある売店、それに小さなレストランも並んでいた。地下通路にはたくさんの人が歩いていたけれど、人の流れは整然としていて、決まり切ったラインの上を歩いているようだ。左側通行らしく、右肩越しに人々が通り過ぎていく。なんか車みたいだ。制服を着た子供たちがたくさん歩いていることに気づいた。イモジェンに聞いてみる。「なんで土曜日なのに、みんな制服を着てるの?」

彼女は答えた。「日本には、土曜日も授業がある学校がたくさんあるのよ。学校によるけど、第2と第4土曜日は授業があるとか、大体そんな感じゃないかしら。もしかしたら、授業はないけど、学校の自習室でテスト勉強をするとか、修学旅行で東京に来てる子たちもいるんじゃない。それにね、日本人は制服が好きなのよ。着る必要はないけど、外出する時は制服を着るっていう子もたくさんいるわ。制服を着ていれば、『学生』だって示せるじゃない。―社会の中の立場みたいなのを周りの人に見せつけるっていうのかな、それが日本式なのよ。私は週末に制服なんか絶対着ないけどね」

「でも、あなたのお母さんがICS東京の制服をデザインしたんでしょ! 凄く格好いいって私も思ったわ、制服にしてはね」

彼女はくるりと両目を回した。「度が過ぎるのよね」

「度が過ぎるって何が?」

「さあね。主張が強すぎるっていうか、可愛すぎるっていうか、いかにもブランド物って感じがするのよ」そう言いつつも、彼女が着ているレザージャケットのそでには、彼女の母親のブランド名がこれ見よがしに燦然と輝いているから、ちょっと可笑しくなる。

私たちは地下鉄の改札口に着いた。イモジェンが先導するように、PASMOカードをかざして改札に入っていった。私も彼女を真似してカードをかざし、後に続いた。改札口になだれ込む人の波は、階段を上って、駅のホームまで途切れなく続いている。私は圧倒されてしまった。こんなにもたくさんの見知らぬ人たちに揉みくちゃにされて、何が何だかわからなくなり、気が動転しそうだった。そんな私とは対照的に、イモジェンは人の波に乗るプロなのか、私の手を取ると、すいすいと進んでいく。電光掲示板には日本語だけでなく、英語も書かれていて、ちょっと安心した。私はワシントンDCの地下鉄には実際に乗ったことがあったし、―他は話で聞いただけだけど、ニューヨークやロンドンみたいな大都市の地下鉄も、なんとなくどんな感じかは知っていた。しかし、東京の地下鉄は、ホームも車両も、清潔感が溢れていてびっくりした。地下鉄っていったら大体、なかなか来ないし、車両は薄汚れてるし、車内も病気になるんじゃないかと思うほど空気がよどんでいて、不快感の代名詞みたいな印象しかなかったんだけど、ここの地下鉄はまるで違った。除菌されているんじゃないかと思うほどきれいで、しかも乗客は乗車口の両脇にちゃんと並び、下りる人たちとかち合わないように待っている様子だ。ホームレスの人たちがホームで横になっていたり、悪臭がしたり、ゴミ箱がゴミで溢れていたり、なんてことが当たり前だと思っていたけど、ここではそれが見当たらない。我先にと押し合いへし合いしている様子もないし、みんな目に見えないレーンに沿って整然と電車の到着を待っている。ただ、これだけ多くの群衆を収めるには、乗り込み口が小さすぎるように見えたけど。

電車が停まり、人々がどっと降りてきて、それを両脇で乗り込む人たちが見守っている。イモジェンが私の後ろから、さあ今よ、と言って、そっと私の背中を押し、地下鉄に乗り込んだ。私たちはサンドイッチの具材になったんじゃないかと思うほど、強烈な勢いで中へと押し込まれてゆく。知らない人たちに密接しすぎて居心地が悪かったけど、全く動揺していない様子のイモジェンと離れないようにしながら、パニックになりそうな状況をやり過ごそうとした。もうこれ以上一人も、この車両に入り込む余地はないと思われた時、白い手袋をした駅員がドアの外に立ち、まだしっかり入り込めていない人たちを押し込んだ。彼らがぎゅっと中へ詰め込まれ、なんとかドアが閉まった。

私はイモジェンに言った。「もしワシントンDCの地下鉄で、あんな風に駅員が力任せに乗客を押したりしたら、きっと暴動が起こるわ」

大声で話しているつもりは全然なかったんだけど、イモジェンが人差し指を口に当てて、「シー、静かに」と声を潜めて言った。「地下鉄では小声で話さないとだめよ。それがエチケットなの。あと、電車の中では絶対に携帯電話で話しちゃだめ。日本にはやっちゃいけないことの暗黙のルールがあるのよ」そう言われても、こんなぺしゃんこの状態では、スマホを引っ張り出すことすらできないわ。

私の足に何かが当たってると思って、そちらを見ると、大きな買い物袋をいくつか提げた年配の女性が私の体にピタッと密着している。彼女の顔は私の目と鼻の先にあり、今にもくっつきそうだ。彼女の口は、耳の後ろからゴム紐でとめられたマスクで覆われていた。「どうしてこんなに多くの人が、手術中のお医者さんみたいにマスクをしているの?」私はイモジェンの耳元でささやいた。この女性だけではなかった。私が周りをざっと見た感じだと、地下鉄の乗客の少なくとも半数の人が、オペ中みたいなマスクで顔を覆っている。―老いも若きも、誰もがことさら具合が悪そうにも見えない。

イモジェンが言った。「彼らはばい菌から身を守るためだけじゃなくて、あなたのことも心配してるのよ。もし彼らが風邪を引いていたら、風邪の菌をまき散らしたくないわけ」

「すごく礼儀正しいのね」

「心配性を通り越して、不安障害レベルね!」

大勢の人たちに四方八方から押しつぶされていた。望まずして肉体が密着している状態から何とか気を逸らそうと、私は彼らの頭上に視線を上げた。地下鉄の天井付近の壁には、ちょうど目がそこに向いてしまう高さに、カラフルな電子広告があり、アニメの展示会や、レストランや、美容製品を宣伝していた。扉の上には電子的な路線図もあり、現在この電車がどの駅とどの駅の間を走っているのかがわかるようになっている。電子広告の一つが美術展らしき写真を連続で表示した時、イモジェンがうめくような声を上げた。それらはエロチックな彫刻の写真で、どの彫刻も鮮やかな色のペンキをかけられたみたいに、鮮烈な色を放っている。―お尻も胸も足の付け根も、派手なピンクや、ネオンイエローや、目を刺激するパープルのしぶきが渦を巻いている。イモジェンが言った。「パパはああいう芸術作品を偏愛してるのよ」

ちょっと意味がわからなかった。「ああいうクレイジーな彫刻が好きってこと?」

「あれはパパの彫刻なのよ」電子公告が展示会の名前を英語で表示した。アキラ・カトウ:官能の虹。

気まずさが私の全身を襲った。パジャマ姿のケンジ・タカハラを見た時の気まずさに似ていた。

女性の声で車内放送が流れ、次の停車駅を告げた。彼女は日本語に続いて英語でも繰り返した。「日本橋!」その声はとても快活で、まるで「ディズニーワールドに到着しましたよ」と言っているかのような口ぶりだ。イモジェンが言った。「降りるわよ。さあ、エル。行って!」

この駅では降りない人たちの間をかき分け、私はドアに向かって進んだ。何人かの足を踏んづけちゃったし、誰かのスーツケースにつまづいて転びそうになりながらも、なんとか外に出た。一旦人混みを避けて、ホームの壁際で呼吸を整える必要があった。「激しかったわ」と私は言った。

「こんなの何てことないわ。ラッシュアワーの混雑ぶりを見たらびっくりするわよ」

「じゃあ、私はUberを使おうかな」

「私もたまには使うわ」とイモジェンが打ち明けるように言った。「ただ、渋滞につかまるとイライラするのよね」

私たちは出口に向かって歩いて行った。ホームの端の方まで行ったところで、足元に日本語で目立つ文字が書かれているのに気付いた。日本語の下に英語で「WOMEN ONLY」と書かれている。

「女性専用?」と私は聞いた。

イモジェンが答えた。「今じゃなくて、夜遅くに、プラットフォームのこの位置に停車する車両が、女性専用なのよ。昼間は礼儀正しいサラリーマンでもね、仕事帰りに居酒屋とかに寄って、べろんべろんに酔っ払って地下鉄に乗り込むと、痴漢みたいに女性に絡み出す人もいるから」

ママがしょっちゅう愚痴をこぼしていたのを思い出した。レストランのシフトが遅番の時、帰りの地下鉄でママはいつも、酔っ払いにしつこく言い寄られていたらしい。こういう、女性が快適に乗れる車両がワシントンDCの地下鉄にもあったら、ママはさぞかし喜んだでしょうね。今頃ママは牢屋の中で何をしているのかしら? 私はこうして、ファッション雑誌に載っちゃうような女の子と、東京をぶらぶら歩き回っているっていうのに、なんだか胸がぎゅっと締め付けられた。

「あなた、大丈夫?」駅の構内を歩きながら、イモジェンが聞いてきた。彼女が立ち止まって、私の両腕をつかんだ。「東京は最初は、威圧的で怖いと思うけど、そのうち慣れるから大丈夫よ。どうしてそんな悲しい顔をしてるの? アメリカに彼氏を残してきたとか?」

「そうじゃない」と私は言った。私はまだ、男の子とキスさえほとんどしたことがなかった。でも、そんなことをこの子に、天真爛漫なまま俗世間にまみれちゃったような子に、言っても仕方ないわね。「地元に残してきたのは、親友の男の子よ。彼氏じゃなくて、お兄ちゃんって感じ」

「彼の写真あったら見せて」私はポケットからスマホを取り出し、レジーと私が一緒に写っている写真をイモジェンに見せた。2年くらい前に撮ったもので、水泳の練習の後、二人並んで飛び込み台の上に座っている。「この感じだと、彼氏になる可能性が十分あるわね」とイモジェンが、次の停車駅を告げるみたいに言った。

「せっかくいい思い出なのに、そうなったら、あの頃の友情が台無しになっちゃうようで、怖くて無理ね。あなたは彼氏いるの?」

「今週は、いないわ」

私たちは混雑した駅を通り抜け、大きなデパートに通じる扉が並んでいる方へ歩いて行った。店内に入ると、ファッショナブルな制服を着た女性たちが、地下鉄の駅から次々と入ってくる人たちにお辞儀をしていた。―彼女たちが着ている制服は、スカートもジャケットも帽子も、デザインがお洒落だった。デパートの案内係というよりは、飛行機の客室乗務員みたいだ。「あれってどういうこと?」と私はイモジェンに聞いた。

「この店に来てくれたお客さんに感謝を伝えているのよ。店内では、ああやってお辞儀してる姿をたくさん見かけるわ」

「いちいちお辞儀するなんて、なんか変な感じ」と私は正直に言った。

「そんなこと言わないで。日本人は何千年にもわたって、を守るための規律とか、作法を培ってきたのよ」

「和...って何?」

「和っていうのは、何て言えばいいかな、社会的な調和のシステムみたいなものかな。日本の文化には欠かせないものなの。あなた気付いた? 地下鉄に乗って、降りて、駅のプラットフォームからここまで、すんなり来れちゃったでしょ? あれだけ混んでいても、こんなにスムーズなのよ。和がなかったら、こうはいかないわ」

「なるほど」

「それが、和よ」

「和って凄いのね。ワンダフルのワ!」と私はジョークを飛ばした。

「いまいち笑えないダジャレね」とイモジェンに言われちゃった。私たちは地下から髙島屋に入っていった。地下の階は食品売り場になっていて、美しい屋台のような光景が目に飛び込んできた。通路を進むにつれて、めくるめくように次々と美味しそうな料理が現れ、私の目を喜ばせてくれる。「日本では、デパ地下って呼ばれてるのよ。―英語で言うと、フードホールね」

デパ地下は、色々な食品がずらっと並んでいるという意味では、〈生け花カフェ〉のようでもあったけれど、その数が一気に数億倍に膨れ上がったかのようで、私は目を見開いてしまう。お菓子売り場には、チョコレートや、ケーキや、ゼリーに果物が入ったスイーツなどが並んでいる。食品のコーナーには、シーフード、お肉、サラダ、キャンディー、ジュースなどが、まばゆいばかりに陳列されていた。フルーツ類のフロアもあって、傷一つないように見える高級な果物が、緩衝材と一緒にラップで包まれ、並べられていた。売り子さんたちは、お店ごとに別々の制服を着ていた。お揃いの帽子を被っている出店もある。それぞれが思い思いに、通りかかるお客さんに向かって、「いらっしゃいませ!」などと声をかけている。売り子さんが、サンドイッチとかチョコレート菓子といった購入品を懇切丁寧に包装して、まるで贈り物を手渡すかのようにお客さんに差し出している光景は、見ていて気持ちが良かった。それから、私はスイーツの陳列ケースを見て、驚愕してしまった。数々のチョコレート、ケーキ、キャンディー類がどれも絶品だと自己主張するように、私に訴えかけてくる。そんなよりどりみどりの状況だったから、イモジェンが話しかけてきても、一瞬反応が遅れてしまった。「日本の伝統的なスイーツはね、和菓子って呼ばれてるのよ。―お餅の中にあんことかを詰めた感じの食べ物なんだけど、見た目は食べ物っていうより、鑑賞用の芸術作品って感じで、ゼリーとか飴で綺麗に飾り付けてあるの。この華やかなクッキーみたいな和菓子は、実際食べてみると、そんなに甘くないんだけどね」

「このクッキー缶、すごく綺麗!」と私は陳列ケース越しに指差して言った。ブランド物のバッグの模様を数倍複雑にした感じの、入り組んだデザインが缶の表面にプリントされている。

「みんなおみやげとして、こういう缶に入ったクッキーを買っていくのよ。日本にはおみやげを渡す習慣があるんだけど、知ってる?」

私はうなずいた。「昨日、初めて日本の祖母に会ったんだけど、チョコレートのおみやげを渡したわ。彼女は気に入らなかったみたいで、なんかぐちぐち言ってたけど」

「なんて失礼な」とイモジェンが言った。

「彼女はあまり親切な人じゃないのよ」と私は認めた。

「ハーフを忌み嫌ってる感じ?」

「それ。人種差別主義者のビッチ」

イモジェンが笑った。「あらら、それはご愁傷様。今度はチョコじゃなくて、炭水化物たっぷりのおみやげにしなさい」私たちはベルギーのチョコレートや、ドイツのお菓子、それからフランスのペストリーを販売する売店が並ぶ通路を歩いていた。「ここは洋菓子のコーナーよ。ケーキとかペストリーとか、西洋のお菓子ね。フランスの〈ラデュレ〉とか、ベルギーの〈ヴィタメール〉とか、世界中の有名なビッグネームがこぞって、ここに出店してるのよ。ああ、デパ地下大好き。私はご馳走を目当てにデパ地下に来るの。週末にパリやブリュッセルにぶらっと地下鉄で行くようなものよ、ここだったら安上がりでしょ」

「エックス・ブラッツの他の子たちとここに来る時は、何を食べるの?」

「いつも同じ子と来るわけじゃないから、誰と来るかによるわね。クラスで5年以上ICS東京に通ってるのは、女子では私だけなのよ。みんな転校してきたと思ったら、しばらくすると、また海外に行っちゃうの。今のメンバーの中で言うと、ヌトンビとジャーンヴィは常にダイエット中だから、ここには連れてこないわ。ダイエットなんて今時、流行らないのにね。アラベラが東京にいた頃は、よく一緒に〈ディンタイフォン〉っていう台湾料理のレストランで食べてたわ、ここの1つ下の階にあるのよ。ホクホクの小籠包とか中華まんを食べられるわ。中に紫のヤマイモとか、赤いあんことかが入っていて、色合いは一瞬ウッてなるけど、めちゃくちゃ美味しいのよ」

ヤマイモと聞いて、ヤマイモが食べたいなと思ったところで、グリルしたヤマイモを売っているお店の横を通りかかった。私はこのお店でランチを買うことにして、そのヤマイモと、揚げた天ぷらをいくつか選んだ。イモジェンに通訳してもらう必要はなく、欲しい食べ物を指差すだけで、カウンター越しに店員さんはにっこりと微笑んで、それをパックに詰めてくれた。それから電卓を叩くと、それをひっくり返し、私に表示された金額を見せた。次にお金を入れるトレイを差し出され、私はその中にすっとアメックスカードを置く。今朝のセブンイレブンでの経験がさっそく活きたわ。イモジェンが見てる前で適切な支払いのエチケットを披露できた。彼女は綺麗な箱に入った卵サラダのサンドイッチを買った。ティファニーの宝石が入っているんじゃないかと思うくらい綺麗な箱で、側面には花柄がプリントされていた。透明なプラスチックのふた越しに、中のサンドイッチが見える。パンの耳は取り除かれていて、縦にして箱に詰められるように2つの長方形に切り分けられていた。サンドイッチの横には絶妙な形にカットされたフルーツも何切れか入っている。

「どこで食べるの?」と私はイモジェンに聞いた。辺りを見回してみても、座ってゆっくりランチを楽しめるようなテーブルは見当たらない。

イモジェンの後に付いて、エレベーターに向かった。彼女が言った。「東京で広いスペースが必要な時は、上に行けばいいのよ」私たちはエレベーターで最上階まで上ると、空が開けた屋上に出た。ここも屋上が公園のようになっていて、緑の芝生、小道、木々が目に飛び込んできた。ベンチに座ってテイクアウトの料理を食べている人や、芝生の上でピクニック感覚で食べている人もいる。

「私、東京が大好き。本気でこの街に恋しちゃった」と私は言った。いただきます! さあ、食べましょ!


・・・






藍's color

新宿ルミネの7階辺りに劇場ができたばかりの頃、レナちゃんと観に行った。次々と漫才師が繰り出すボケとツッコミに、二人してゲラゲラと笑っていた。by 藍 (懐かしい、美しいものばかり思い出されるのだから。by 太宰治)

0コメント

  • 1000 / 1000